君の声は僕の声 第七章 4 ─薄氷─
「あいつが帰ってきたんだ」
「あいつ?」
「お父さんだよ」
炎をぼんやりと見つめたまま杏樹は応えた。
「僕は嬉しかった。誰もいない暗い家でひとりになるのが怖くて、酒を飲んで暴力をふるうような父親でもいないよりはずっと嬉しかった。僕が笑って言う事を聞いていれば機嫌が良かったし。気分が良ければ遊びに連れて行ってもくれたんだ。僕はお父さんに出て行かれないように、お父さんが怒らないように、いつもあいつの顔色をうかがってた。酒に酔っていても、あいつが怒鳴っても、いつも笑って機嫌をとってた」
杏樹は炎から瞳をそらすと、怯えるように肩をすぼめた。
「そして……」
杏樹の体が小刻みに震えだした。
「杏樹? 大丈夫?」
聡が杏樹の顔をのぞき込むと、杏樹の顔は真っ青だった。聡は震える杏樹の手からカップを取った。
「もうやめようよ」
秀蓮に向かって言ったが、秀蓮は返事をしなかった。少しの間、考える風に杏樹を見つめ、それから杏樹の手を握り、優しく言った。
「大丈夫だよ。ここに『あいつ』はいない。杏樹には僕たちがついているよ。──そして? どうしたの?」
杏樹が秀蓮へとゆっくり顔を向ける。目が合うと、秀蓮はゆっくりうなずいた。聡は、このまま杏樹に話しを続けさせていいものか迷っていたが、杏樹はまた、ポツリポツリと話し始めた。
「あいつは、何をしても僕が笑っているのをいいことに、家の仕事以外にも僕に強要するようになった。ある日、僕に笑いかけて酒臭い息で『おいで』って。僕は何でかわからないけど、怖くなって逃げた。それであいつは怒ったんだ。急に態度を変えて、あいつは嫌がる僕を無理やり抱きかかえると、僕を寝台へ連れて行った」
聡は顔をそむけた。
杏樹が話そうとしていることは……。いや、まさか。父親がそんなことを……。違う。聡にはわかった。体が震えた。これ以上聞きたくはなかった。
「もう、もういいよ! なあ秀蓮。もう、聞かなくてもわかるだろう」
立ち上がろうとする聡を秀蓮は手で止めた。
「秀蓮……」
秀蓮はなおも杏樹の肩に手を置いて、杏樹の話を聞こうとしていた。
「嫌がる僕を、あいつは──僕の両手を抑え込んで、僕を……僕は怖くて、叫ぼうとすると、今度は口をふさいで『声を出すな』って。口をふさがれて、息が出来なくて──殺されると思った。僕は怖くて。あとは、わからない……気がつくとあいつは気味が悪いほど優しくなってた。でも、それからも、あいつは僕を──」
杏樹は声を荒げた。悲鳴のような声で泣きさけび頭を抱えて震えた。聡は椅子が倒れる勢いで立ち上がると杏樹を抱きしめた。
「もういい。もういいよ。杏樹……。もう、わかったよ……。わかったから」
聡は杏樹の細い体を力いっぱい抱きしめた。聡の目から涙が零れていた。杏樹は放心したように焦点の合わない目で炎を見つめていた。
聡はきつく目を閉じた。そのまぶたは迷いに震えている。しばらくして、聡は口にすることをためらっていた言葉を吐き出した。
「酷いよ……。杏樹に、ここまで言わせるなんて……」
秀蓮は下を向いたまま、何も言わなかった。やがて力なく立ち上がると、玄関へと向かった。もう一度杏樹を抱きしめた聡の耳に扉を閉める音が届いた。
聡は切り株に腰掛け、薄っすらと雪の積もった庭をぼんやりと眺めていた。
杏樹の悲鳴のような声が頭から離れない。杏樹が受けた痛みを思うと、胸が張り裂けそうだった。今すぐにでも父親の所へ行って、めちゃくちゃになるほどぶん殴ってやりたかった。どれだけ怖かっただろうか。寮に来るまでのあいだ、杏樹は母親に話すこともできず、ひとりで耐えなければならなかったんだ……。耐えられるはずがない。
──だから杏樹は分裂してまで自分で自分を守ったんだ。
あれから杏樹は眠ってしまった。玲が眠らせたのか、自分から眠ってしまったのか、聡にはわからなかった。そのあとは心が出てきて泣きじゃくった。聡は心を寝台に連れていき、手を握り、肩を抱くようにして寝かしつけた。
玄関の扉が開く音がして、聡は力なく振り向いた。秀蓮が、聡とは顔を合わせずに家の裏へと歩いて行く。
あれから秀蓮と口を利いていない。秀蓮と喧嘩をしたのは初めてだった。夕べは、秀蓮と同じ寝台で寝るわけにもいかず、聡は寒い中、居間で上着を被って寝ていた。夜中に目が覚めると毛布が掛けられていた。きっと秀蓮だと思ったけど何も言わなかった。杏樹はずっと眠っているのか、純が出てきて秀蓮の家事を手伝っていた。陽大も玲もマリアも出てこなかった。
聡は深いため息をはき、足元に目を落とした。切り株の横に置かれた空っぽの鉢。その中に溜まった水が薄く凍っていた。氷の上では雪の結晶が固まっていた。聡は小石を拾い、鉢に中に軽く投げた。薄氷はバリンと音を立て、割れ目から水に覆われていった。結晶の塊が水を吸って透明になり、水の泡を吸い上げて沈んでいく。その様子をぼんやり見ていると、杏樹がやってきて、聡の隣に腰掛けた。
「聡のここ、痛いね」
──心だ。心は自分の胸に手を当てている。聡が返事をせずに視線を足もとへ落とすと、心が続けて言った。
「聡のここも痛いけど、秀蓮のここはもっと痛いよ」
聡ははっとして顔を上げた。心は首をかしげて聡に何か言いたげにじっと見ていた。聡は「わかってる。わかってるんだ」と、足元の雪を手ですくいながらつぶやいた。
──わかってる。秀蓮が杏樹の話を平気で聞いていたわけじゃないことなんか
聡は手の中の冷たい雪を握りしめた。
自分はいつも自分の感情で頭がいっぱいになってしまう……。秀蓮はそうじゃない。自分の感情より他人のことを考えている。秀蓮が杏樹の話を聞いて心を痛めていないわけはない。秀蓮だって聞いているのは辛かったはずだ。辛い気持ちを抑えて、杏樹に自分の記憶を呼び起こさせ、逃げている自分と向き合わせようとしたんだ。
わかってる。
握りしめた手から水が滴り落ちていた。
それでも、秀蓮がしたことが正しいのか、やっぱりわからない。秀蓮はやり過ぎだとも思う。だけど──
「聡……聞いて」
隣でそう言ったのはマリアだった。
「私たち、みんなで杏樹の話を聞いていたの。杏樹も逃げないで眠らずに話した。今は眠ってしまったけど……杏樹は少し強くなった。おかげで私たち、それぞれに考えてるの」
「杏樹が強くなった?」
「そう。今までの杏樹だったら最後まで話さないで逃げていたでしょう?──聡と秀蓮のおかげ。ふたりが傍で聞いていてくれたから、話すことができたんだと思うの。秀蓮にもありがとうって伝えたんだけど……秀蓮は笑ってくれたけど……駄目なの」
マリアは小さく首を横に振った。
「聡に否定されたのがこたえてるの。秀蓮のところへ行ってあげて。お願い」
マリアが寂しそうに笑った。
聡が家の裏にまわると、秀蓮は薪割りをしていた。近寄ってきた聡に気を取られた秀蓮は、薪を倒した。その拍子に指を切ったのか、思わず指を口にくわえた。
「代わるよ」
聡がきまり悪そうに秀蓮の手から斧をとり、薪を割り始めた。秀蓮はその場に立ち尽くしていた。聡も何を言っていいのかわからず、そのまま黙って薪を割っていた。
気まずい沈黙の中、薪を割る音だけが響く。
やがて、秀蓮が踵を返し、家に戻ろうとした。聡は何か声をかけようとしたが、結局何も言葉は出てこなかった。秀蓮を追うことも出来ず、しばらく薪割りを続けた。
「痛っ……」
薪を倒し指を切った。薪き割りにすら集中できない。薪が割れずにイライラしているのではない。何も言えずにいる自分に腹が立つ。聡は斧を置くと、何を言いたいのかもわからぬまま家に向かい玄関を開けた。
秀蓮はいない。振り返ると、森へと続く足跡が薄い雪の上に残されいた。
それは聡がまだ入ったことのない場所だった。
君の声は僕の声 第七章 4 ─薄氷─