ストレイ・エンタテイナーズ番外編 Underdogs Fightback

鈴久育

ストレイ・エンタテイナーズ番外編 Underdogs Fightback
  1. 序.
  2. 一.
  3. 二.
  4. 三.
  5. 四.

序.

 その少年の記憶は、手から始まる。恐らく少年を育てたであろう人間の手。男のものとも女のものともつかないそれは、何の躊躇いも無く少年の背を押す。
 次の記憶は水だ。冷たく濁った水中で、必死に水面を目指している。思えばそれが、少年にとって初めて水に潜った経験であったかもしれない。
 息が出来ないという初めての体験、その混乱から逃れようと、微かな光を頼りに本能のまま水を掻く。しかし、重く纏わり付く衣服と生臭い水流は容赦なく少年の努力を阻む。段々と息が苦しくなって、腕や足が重さを増していく。このまま死ぬのだろうかと思った瞬間、脳天から身体中を駆け抜けたそれは、紛れもない恐怖だった。
 ──死にたくない。
 ただその一心で、ひたすらに身体を動かした。
 それからどれだけの時間が経つのか。少年の持つ次の記憶は、河岸で大量の水を吐き戻しながら、全身をがたがたと震わせ、荒く息をしている己自身に気付いた瞬間のことだった。
 生きている。まだ、生きている。そのことに心底安堵した少年は、泣きそうな顔で、それを誰かに伝えようとして。
 そこで、自分には何もないことに気がついた。
 最初の記憶は手。それより前のことは何も思い出せない。何処で暮らしていたのか、何をしていたのか、誰といたのか、何一つ。いや、誰といたのかだけは分かる。あの手の主だ。自分の背中を押した、あの手。少年はあの瞬間より前からあの手を知っていた。ずっと、よく、知っていた。それなのに、知っていたということしか思い出せない。そして、仮に思い出せたとしても、あの手の元には帰れないことだけは確かだ。
 だってあれは、事故ではなかった。
 迷いなく、明確に。悪意をもって突き落とされたのだ。
 今の少年には何もない。持っていたのは自分の名前と、得体の知れない絶望感だけだった。足元から冷たいものが、炎のようにせり上がってくる感覚。全身をがたがたと震わせる寒気は、物理的な理由だけによるものでは決してなかった。
 その絶望の正体を、翌日には思い知る事になる。何も持たない子供が一人で生きて行けるほど、グレイフォートは温い街ではなかった。
 それ以来、少年は生きる為に何でもした。最初にものを盗んだのはいつだっただろうか。最初に身体を売ったのは。最初に人を殺したのは。それしか方法を知らなかった少年に、罪悪感を覚える余裕など無かった。死なない為なら何でもした。死にたくはなかった。けれど生きている理由なんて、少年には何一つ分からなかった。死なない為に生きていた筈なのに、自分が生きているのかどうかさえ曖昧だった。
 そんな事を暫く続けた、ある日の事。少年は突然、自分は必要無い人間なのだと悟ってしまった。切欠らしいものも何も無く、それは本当に唐突に訪れた。けれど、一度気付いてしまえばそれは疑いようのない事実だった。
 そうして、どうせ要らないのなら死んでも構わないだろう、と少年は思った。引き金を引くだけで簡単に死ねるのなら、いっそ死んでしまおうかと思った。いつからか持っていた盗品の銃、その銃口をこめかみに当て、引き金に指を掛けた。
 死んだ方が楽になると思った。あんなに怖くて嫌だった死ぬ事でも、今のこの状態よりはマシなように思えた。
 けれど結局、撃鉄が落ちる事はなかった。
 このまま自分が無かった事になる、そのことが少年には耐えられなかった。少年が死んでも顧みてくれるひとが居ないのは明白だった。そうなれば、いよいよ自分は本当に必要なかったのだと認めざるを得なくなりそうで、怖かった。怖くて怖くて、誰かに縋りたくて仕方が無いのに、呼べる誰かの名前なんて、一つも持っていなかった。死ぬ事への恐怖と生きていく事への恐怖に押し潰されそうで、ぐちゃぐちゃになって。そんな少年の思考が出した結論は、やっぱり死んだ方が楽だということで。
 それでも、どうしても、引き金が引けなかった。
 その日から、少年は考えるのを止めた。ただ身体を動かして、必要な事だけを淡々とこなした。死なない為に、死んだように生きていた。
 ──そう。あの日、あのひとを殺そうとするまでは。

一.

 朝は嫌いだ、と、クライヴは思う。朝になればまた一日が、否応なしに始まってしまう。また一日、生きて行かなくてはならない。死にたいのではない以上、それは朝でも昼でも夜でも同じことではあるのだが、朝は一際酷薄に、生きることを強いてくる。それはまだ幼かったクライヴ少年が背中を押されたあの日から、絶えず胸中に残り続けているものにも似ていた。
 それは薄氷のような、漠然とした絶望感。
 大気以上に薄ら寒いものを感じながら、いつもクライヴの朝は始まった。
 昨晩は気が乗らなかったので、客は取らずに野宿をした。幸い天候も穏やかで、クライヴは街の中心部に位置する公園の隅の茂みの影で、一枚きりの毛布にくるまって眠っていた。朝露で湿った毛布を気休め程度にばたばたと乾かし、小さく畳んで鞄に入れる。収納性の高い大きな肩掛け鞄は宿無しの生活においては大変重宝していた。
 所謂ホームレス、あるいはストリートチルドレンというのが今のクライヴの身分で、となると何処を寝床にしようにも、他人に見咎められる前に起きねばならない。だから殆ど日の出と同時に目覚めるのが、彼の身に染み付いた習慣だった。
 とはいえ街が動き出すまでは行くあてもない。クライヴは朝の散歩の最中ですよと言わんばかりの何食わぬ顔で、そのまま公園のベンチに居座った。よく見れば、その身に纏うモッズコートは薄汚れている。布団代わりとして着たまま横になっていたためだ。その下のパーカーもカーゴパンツも布を持て余しているのは、彼が華奢だというよりは、元は誰のものとも知れないそれらの大きさによるものだった。
 日が昇るにつれ、ジョギングをする者や犬の散歩をする者などが、ぽつりぽつりと往来を始める。やがて公園の前の道が各々の職場や学校に向かう通行人、早朝パトロールの警官などで賑わうようになる頃には、公園のベンチにひとり座り続ける薄汚れた格好の少年は否が応でも目についた。
 頃合いを見計らって、クライヴはベンチから立ち上がる。まるで辺りを行く人々同様、当たり前に目的地があるような顔をして、行くあてもないままに公園を後にした。
 通りに出てすぐに張り付いた下手糞な尾行には当初から気付いていた。ここの所引っ切り無しに人の後ろをつけてくる連中がいて、いい加減に嫌気が差していたのだ。だから自ら人気の無い路地に誘導したし、腕を掴まれた瞬間に酷く怯えた表情を作って見せることが出来た。
「お前がクライヴだな。ハーギンの事務所を壊滅させやがった狂犬野郎」
 不躾に言い放った男は、まあ典型的な不良だった。口と鼻にピアスを空けて、黒髪を縮れさせた二十歳そこそこの若者。浅黒い肌はヒスパニック系だろうか。
 対するクライヴは声を震わせ、あまつさえ涙目まで作りながら答える。自分を一晩いくらで買う下衆が居る程度には自分の顔が良いことを、クライヴは十二分に自覚していた。
「だ、誰のこと? 俺は、」
「惚けんじゃねぇ。報告は上がってんだ、その手にゃ乗らねぇよクソガキが」
 渾身の演技はしかし、ありきたりな恫喝によって一蹴された。むしろ強まる腕の拘束に、クライヴは一つ舌打ちをする。うっすら涙さえ湛えていた双眸に、途端に冷えた色が滲んだ。癖の強い黒髪の下、剣呑な様子ですっと細められたスモークブルーの瞳が無遠慮に男を射抜く。
「……だったら何だよ」
「来い」
 端的な男の指示に従う気は、当然ながらクライヴには無い。反抗的な視線を投げつつ、こちらも簡素に食い下がる。
「何処に。なんで。」
「うるっせえなクソガキがぁ!」
 途端に声を荒げる男。クライヴに摑みかかると、その胸倉を乱暴に締め上げた。
「来いつったら黙って来るんだよアァ⁈ ごちゃごちゃ抜かしてんじゃねぇよぶっ飛ばすぞ!」
 片腕で襟元を捻り上げられ、額の接する距離で凄まれて尚、クライヴの視線は冷ややかだ。
 ──うるさいのはそっちだろ。
 そんな所感は流石に胸中に留め、クライヴは対応を考える。今目の前に姿を見せているのはこの男だけだが、察するに彼等は複数犯のはずだった。尾行の手際を鑑みれば、最低でも三人から。今ここに居ない連中の動きは気掛かりだが、比較的穏便に逃走するなら相手が単独の今だろう。
 そう判断するや否や、クライヴは胸倉を掴む男の内肘めがけて肘鉄を食らわせる。勢いで縮まる間合いのままに、男の腕に外側から自身の腕を絡ませ、喉元を打つようにして押し倒す。
「──がっ⁈」 
 果たして驚きにか痛みにか、ようやく声をあげる男。肘の関節を極められた上に気道への打撃をまともに食らい、男は為す術もなく尻餅をついた。
 男が立ち上がるまでの隙をついて、クライヴは淀みない手付きで鞄から拳銃を取り出す。大口径の自動式は、いつだったか取った客に襲われそうになった時、返り討ちにして得た戦利品だった。その銃の持ち手ではなく銃身を握ると、クライヴは立ち上がりかけの男のこめかみを狙って横薙ぎに銃をスイングした。グリップの先に、ガツッという鈍い手応え。そのまま勢い任せに振り抜けば、男はあっさりと地面に倒れた。
 構えを解かずに警戒すること数拍、しかし男は起き上がるどころか指先一つ動かす気配が無い。
「……は?」
 あまりの呆気なさに、クライヴは思わず気の抜けた声を上げる。
「何こいつ。今までのがよっぽどマシだったんだけど」
 今まで複数人で掛かってきた追手を、クライヴは悉く撃退してきた。病院送りは勿論のこと、直行便で地獄まで送ってやった相手だって一人ではない。そんな彼に対し、ここへ及んでわざわざ単独で挑んで来たのだ。ある程度の手応えを覚悟していただけに、困惑したクライヴはほんの一時、事が済んだら即時離脱のポリシーを忘れて考え込んでしまう。
 それこそが敵の思惑だと気付いたのは、鷹揚な声が響いてからだった。
「誰がそいつ一人だと言った?」
 はっとして振り返った先から、一人の男が悠然と歩いて来た。細身のスーツにサイケデリックな色の開襟のシャツを合わせている。それに合わせて周囲の小道からわらわらと、大小の銃を構えた男達が八人ほど。
 ならばと来た道、大通りの方に身を翻すと、丁度男が二人こちらに曲がって来た所だった。彼等は路地の影に入るとすぐに、懐から大口径の拳銃を取り出しクライヴに向ける。
 舌打ちをするクライヴに、スーツの男は粘着質な笑みを浮かべて語りかけた。
「いい朝だなぁ、狂犬」
「さあ? 筋者が揃って浮かれて朝の散歩をする程とは思えないけど」
 挑発的な台詞とは裏腹に、手元の拳銃は銃口を上げるタイミングを逃したままきつく握られている。そんなクライヴの様子を知ってか、男は「そう粋がるなよ」と鼻で笑うと、周辺の男達に向けて軽く手を上げて合図した。
「おい、下げろ」
 男の指示を受け、クライヴに向けられていた銃口がゆっくりと下げられる。下手な事をすれば撃つという緊張感は変わらず漂わせながら、しかしすぐに全ての銃がその照準からクライヴを外した。
「……何のつもりだよ? あんたらあの女狐の手先だろ」
 至極真っ当な疑問に、スーツの男は大仰な身振りで応える。
「その通り、俺らのボスはヴォルピーノだ。だがテメェをどうこうする気はねぇ、今日は交渉に来たんだよ。テメェもそろそろ追いかけっこには飽き飽きだろ? 俺らもテメェにばっか構ってはいられねぇ。ここらでお互い示談と行こうや」
「……ふうん?」
 男の話を受け、クライヴは一つ息をつく。銃を握る手に込められた力が少し緩んだ。
「悪い話じゃなさそうだな? その話が本当なら、だけど」
「嘘じゃねぇさ、俺が直々にルチア・ヴォルピーノに掛け合ってやったんだからな。元々テメェが潰したハーギンの組は借金だらけだったんだ。それを手っ取り早くリストラしてくれたってのに、総出で追い回すなんて酷い話じゃねぇかってよ」
「はっ、手勢が減るからの間違いじゃないのか?」
 この期に及んで鼻で笑ってみせるクライヴに、流石に男の顔から笑みが消えた。
「……人の話は黙って聞くもんだぜ、ガキが」
 しかしドスの効いた声も一瞬の事で、男の顔にはすぐにニヤついた笑いが復活する。いやに神経を逆撫でするその笑い顔に阻まれ、クライヴは男の腹の底を測りかねていた。
「まあそんな訳でだ。俺はボスに言ってやったんだよ。これ以上は拉致があかねぇ、腕前は保証されてる『狂犬』にもっと面倒な奴を狩らせて、それで手打ちにしたらどうですかってな」
「もっと面倒な奴?」
 突然の第三者の登場に、思わずクライヴは訊き返した。男達から見た自分の立場は十分理解しているつもりだ。それより面倒な存在と言われると、街の裏事情にはそこそこ明るいはずのクライヴにも思い当たる節が無い。
「そっから先は事務所で話す。俺達と一緒に来い」
 相変わらずの笑みと共に放られた男の誘いを、クライヴは脳裏で吟味する。
 確かにこの半月の間、少し大きな通りを歩こうものなら端から追手がやって来て、鬱陶しいことこの上かった。お陰でどの稼業でも満足に客が取れず、正直限界を感じつつもあった。たかが暗殺依頼一つでその煩わしさが無くなるのなら、クライヴとしてはむしろ乗らない理由が無い。
 ──万一嵌められたところで、まあ倒せない敵じゃないし。
 そう結論付けて、クライヴは一つ頷いたのだった。
 
   ◇◇◇

 クライヴは十年近く以前から、グレイフォートの路地裏をたった一人で生き抜いて来た。謂わばその筋のプロと言って差し支えない。
 そんな彼だがつい先日、有り体に言えば自棄を起こした事があった。その時に勢いで、あるいは私怨で、ハーギンという男の仕切る組織の事務所にたった一人で乗り込んだのだ。
 そして自棄っぱちであったはずのその襲撃は、クライヴ自身の持つ才能と、組にとってはまるで予想だにしない方面からの奇襲であったことにより、あっけなく成功してしまった。ハーギン側は幹部の大半を含めた十三人が犠牲になり、事務所に火まで放たれて、組織としてはほぼ壊滅状態。対するクライヴ少年は五体満足でその場を逃げおおせた。
 これに黙っていなかったのが、ハーギンの上役だったヴォルピーノ・ファミリーだ。
 ヴォルピーノは長らくこの街を仕切っていたリベラトーレ・ファミリーを追いやってその後釜に収まった、比較的新興のマフィアだった。その本質は、三人の不良を見たら一人はヴォルピーノと繋がっていると噂される程の数の暴力。ボスのルチア・ヴォルピーノは今や『グレイフォートの女帝』とまで謳われる権力者で、美貌と富と名声とを思うままにしていた。
 飛ぶ鳥を落とす勢いのヴォルピーノにとって、ハーギン襲撃の一件はボスの顔に真っ向から泥を塗る所業だった。女帝に牙を剥いた狂犬を狩ろうと、数多の追手がかけられた。
 しかしクライヴは、それらをこの半月ほど退け続けている。所詮質より量の追手では、生粋のアウトローには太刀打ち出来なかったのだ。そんな折、件のスーツの男が『示談』を持ちかけてきた。
 つまり今回の接触は、面目が潰され続けていることに業を煮やして妥協に走った結果──そうクライヴは考えていた。
 路地裏で男達の車に乗ったクライヴは、目隠しをされて小一時間ほど街中をドライブさせられた。グレイフォートはそもそもそう大きな街ではない、車なら三十分もあれば端から端まで横断できる。迂遠に過ぎる遠回りはあからさまな事務所の場所の撹乱だった。
 車に乗る際、目隠しを巡って多少なりとも揉めはした。だが結局は、目隠しに同意する代わりに武器を所持したままでいる事を許可された。その落とし所からしても、男達がクライヴを嵌めようとしているとは考え難い。
 結局、男の言う事務所なる場所に着いたのは昼前のことだ。目隠しをしたまま車を降り、腕を引かれるまま建物の中を進んで行く。ドアが開いて何処かの部屋に通されたところで、ようやく目隠しを外す許可が下りた。
 久方ぶりのクライヴの視界に飛び込んで来たのは、想像していたより手狭な一室だった。部屋は薄暗く、大きくもない窓から差し込む光で塵が舞っているのが見える。調度品は値こそそれなりに張りそうだが、高級さよりは年季の方が主張が強かった。
「さて、それじゃあ契約内容の確認だ」
 デスクに腰掛けていた男は、向かいに立つクライヴに向けて言い放つ。
「今から俺が、テメェにある人間の情報を渡す。テメェがそいつの首を取れたら、ハーギンの件は無かったことにしてやる」
「無かったこと、ね」
 クライヴの呟きに、男は鷹揚に頷いた。
「ああ。ヴォルピーノとお前の因縁は綺麗さっぱりチャラ、追いかけっこは終わりにしてやるってこった。上手く行ったらついでに駄賃もくれてやる」
「……気になってたんだけど。それさ、ホントにアンタみたいな下っ端が決められんの?」
 挑発半分本音半分のクライヴの疑問を、しかし早くも順応したのか、男は鼻で笑い飛ばす。
「口の利き方に気を付けな、クソガキ。俺とヴォルピーノは直で繋がってる。でもって、現にテメェは俺に捕まってんだぜ。狂犬だか何だか呼ばれていい気になってんのか知らねぇが、今ここでテメェをどうするかも、仕事の後でテメェをどう転がすかも俺次第だ」
「何、常連客にでもなってくれるって?」
 クライヴとしては荒事周りへの依頼を意図した台詞だったが、それを聞いた男の表情はより下卑た笑みへと変わる。
「そんなに囲って欲しいんなら構わねぇぜ? 態度はともかく、テメェ面だけは一級品だからな。あぁ、ツラだけじゃなくソッチの具合もか? 牝犬(ビッチ)野郎」
「……趣味わっる。」
 クライヴは苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「もういいよ、用件聞いてさっさと済ませて、そしたらアンタらともおさらばだ」
 反抗的な態度に一つ笑って、男はクライヴの眼前に一枚の写真を突き付けた。
「こいつだ」
 クライヴは写真を受け取る。そこにはダークスーツを着た若い男の姿があった。写っているのは腰までだが、一緒に写り込んでいるパトカーと比較して、身長はまあ平均程度だろう。細身だが締まっているという印象で、貧弱そうには見えない。どう見ても盗撮のアングルで撮られた写真だが、顔もしっかりと写っていた。
 ──随分と小綺麗な顔をしている、とクライヴは思う。それこそ路地裏で身売りでもしていれば、いい商売敵になっただろう。
 写真を眺めるクライヴをよそに、男は標的の説明を続ける。
「そいつは三ヶ月前から港湾分署に飛ばされて来た刑事でな。ウチの派閥の連中を手当たり次第にパクってる。中央の連中が番犬なんて呼んでるのを聞いちゃいたが、よりによってこっちで組対に回されたらしい。名前は──おい、聞いてんのか?」
 調子よく喋っていた男が、ふとクライヴの様子に気付く。クライヴは男の話などまるで耳に入っていない様子で、穴でも開くのではないかというほど写真を見つめていた。男の問いかけに、クライヴは視線を上げないままボソリと答える。
「……聞いてない。」
「ああ?」
「御託は良いよ。とにかく」
 言葉を切って、クライヴは男の眼前に写真を突き付け返す。
「殺せば良いんでしょ、これ。」
「……話が早ぇな、育ちの悪い野犬はよ」
 にやりと、男は初めて見せる類の笑みを浮かべる。その歪んだ顔に滲んでいるのは、紛れも無い悪意だった。
「期限は今日から一週間、その間追っ手は外してやる。万が一逃げようとなんてしてみろ、八つ裂きにして魚の餌にしてやるからな」
 ありがちな脅しに、クライヴは肩を竦めて頷いた。
 契約は成立だ。
 何事もなく解放されるにあたり、クライヴは再度目隠しをされた。そのまま腕を引かれて、来た時同様車に乗せられる。
 再びの長距離ドライブの道中、視界を塞がれたクライヴは改めて状況を整理していた。
 期限は一週間、この程度情報が揃っているならまあ妥当な期間設定だ。そして対象は警察官。ここまで目の敵にされているという事は、よく現場に顔を見せるのだろう。
 不幸にしてクライヴ自身はこの警官を目撃したことはなかったが、それも揉め事の現場を手当たり次第当たればすぐに見つかるはずだった──否。
 先程聞き流した男の話と写真が撮られた場所を考えれば、標的の活動範囲は自ずと一定に絞られる。揉め事を探して歩くより、揉め事を作ってしまった方が手っ取り早い。
 クライヴは初めて、この街の治安の悪さに感謝した。

   ◇◇◇

 案の定、クライヴがその標的を見つけるまで、それから三日と経たなかった。
 一応普通に情報筋も洗ってみたが、流石に居所は割り出せなかった。そこで、少々派手に港湾分署の所轄を荒らした。何も自身で暴力沙汰を起こした訳ではない。自分が捕まっては元も子もないし、後々を考えればそも表沙汰にならないのが望ましい。
 故にクライヴは、目に付く火種に積極的に油を注いでいった。恨み辛みを抱えている連中に相手の居所を流したり、スリの類を被害者にそれとなく指摘したり。ついでに見かけた深夜の酔っ払いの揉め事は、喧嘩になるまで煽っておいた。
 果たして地道な努力のお陰か、男の事務所に拉致された翌々日の昼には、増員されたパトロールの警察官の中に探し人の姿を発見した。
 標的がかかったのは、初日に万引きを指摘した露天商だった。例の妙に整った顔立ちは初日から頭に叩き込んでおいたので、遠目で見てもすぐに分かる。世間話でもしているのか、当の本人は店の主人とにこやかに言葉を交わしていた。
 その様子を向かいの通りの陰から確認したクライヴは、予想より高いその声に軽く目を見開く。
「女、だったのか」
 中性的な顔立ちとスーツ姿からてっきり男かと思い込んでいた。写真では短髪に見えたその髪も、後ろで一つに括っていただけのようだ。
 ──じゃ、思ったより楽かもな。
 クライヴは胸中で嘯く。標的が女なら男よりは楽、子供ならもっと楽に済む。それ以上の思考は生きて行くのには邪魔だった。
 ましてや所謂ストリートチルドレンの身の上であるクライヴにとって、当たり前だが警官にはいい思い出が無い。番犬だか何だか知らないが、またとない憂さ晴らしの機会だった。恨むならヴォルピーノ相手に喧嘩を売った己を恨んで貰おう。
「ま、精々楽しませてよね、役立たずのおまわりさん?」
 薄暗い決意を固めたクライヴは、通りの向こうへ向けて小さく呟いた。
 

二.

 セント・グレイフォートは昔から、境界の曖昧な街だった。昼と夜、秩序と混沌、そして善と悪。それらに線引きをしないまま、灰色のままで包括しているのが享楽というこの街の存在意義だ。観光街であるグレイフォートにおいては娯楽こそが大義の天秤であり、そのためなら政治も司法も便宜を図った。
 だが、しかし。その天秤がここに来て、軋みをあげて揺らいでいる。
 その元凶の名は、アイリーン・G・フライアーズ。この二年間で急速かつ大規模に機能した警察の自浄作用の立役者にして、そのわずかな間にヒラ巡査から警部補にまで上り詰めた鬼才である。
 そしてその鬼才はといえば現在、果物売りの主人の世間話にほとほと疲弊していた。
 もっとも、その様子を表に出すようなヘマは流石にしない。あくまで穏やかに、店主の言葉一つ一つに丁寧に応じていく。その反応が今回ばかりは災いしてか、世間話が始まってからそろそろ十五分が経とうとしていた。
 流石にここらで直接的に切り上げようかと迷い始めたところで、ようやく店主の気が済んだらしい。
「そんじゃリンさん、お勤めご苦労様! 引き留めて悪かったな!」
 これはお詫びだと、露店の主人は店先から赤々とした林檎を一つ取り、アイリーン──リンに手渡す。店主が彼女と特別親しい訳ではない。他ならぬリン自身が、自分のことをそう呼ぶようにと、基本的に誰に対しても伝えていた。
「……いや、とんでもない。ご主人も気をつけて」
 リンは一瞬躊躇して、しかし笑顔で林檎を受け取る。林檎一つ程度なら何が出来る訳でもなし、賄賂問題にはならないだろう。
 一つ手を振って、リンは通りを歩き出した。何があるわけでもない和やかなコミュニケーションは、彼女が不得手とする数少ないうちの一つだ。解放された安堵から、ふう、と小さく息を吐く。
 ただ、何も酔狂や良心だけで話に付き合っていた訳ではない。自らの足と耳で稼ぐ、これは情報収集の一環である。たかだか一般人の世間話と侮ると後に痛い目を見ることは、この数年で身に染みて理解していた。
 とはいえ、とリンは手にした林檎を軽く放る。にこやかにお土産まで持たされては邪険にも出来ない。おそらく次も彼の話を時間の許す限り聞いてしまうのだろう、と自身に苦笑する。例え、情報面での収穫がゼロだとしても。
 ──いい人、なんだろう。多分。
 ──生憎いい人という人種には詳しくないが。
 静かな自嘲につられて口の端を少し吊り上げたところで、背後から突然、スーツの肘の辺りを引かれた。
「あ、あのっ!」
「ん?」
 上ずった声に驚いて振り向く。袖を引いた犯人はティーンエイジャーの少年だった。女性としては背の高いリンよりも頭半個分ほど小柄だ。背格好と顔立ちからしてハイティーンではないだろう。精悍さよりまだ可愛らしさの勝る顔立ちを不安げに歪めている。
「どうした少年」
「あっ、アンタ警察の人だろ? あ、あそこの道に! アンタのこと、呼んで来いって、その、俺っ!」
 慌てた様子の少年が指し示す先を見遣れば、立ち並ぶ建物の間隙、暗く影を落とす細い路地があった。
「あー……大体分かった、まあ落ち着けよ」
 ひとまず少年を安心させてやろうと、リンは軽くその背を叩く。
「要するに、私を呼んで来いって言われたんだな? 来なかったら酷い目に遭わせるって?」
 自らも路地を指差しながら問えば、少年はこくこくと頷いた。
 こういう手口には覚えがあった。自身は物陰に潜んで待ち構え、無害な通りすがりを脅して目当ての人間まで使いに遣るのだ。相手や場所がどうであれ、奇襲からの初手の優位性はそれなりに大きい。入り組んだ路地裏なら尚更だ。
 が、しかし。
 路地と少年を交互に見て、リンは軽く溜息を吐く。
 ──残念ながら、こういうのには詳しいんだよなぁ。
「分かった、行こう」
 リンは少年を伴って通りを越える。
「路地に入るだけでいいのか?」
「ううん、もっと奥。俺が連れて来いって」
 そんな問答の間に、路地の入り口に着いてしまう。
「こっちだよ」
 少年はリンの袖口を引いて、薄暗い路地へと入って行く。リンは無言のまま、少年の後をついて行った。
 細い道を少し進んで、右へ。そのまま更に奥へ進むと、少年はある地点で足を止めた。その数メートル先に、今度は左へ曲がる道がある。
「あの先、だって」
 左への道を指し、少年がリンを振り返る。
「お前はそこにいろ。動くなよ」
「う、うん」
 少年に念を押してから、顔だけでそっと路地を覗きこむ。見える範囲に人影はない。
 リンはスーツの腰元に隠し持った銃に右手を伸ばし、添える。抜くタイミングは今ではないと判断した。ついでに持ったままだった林檎に視線を落とし、どうしたものかと考えて、結局は左手に携えたまま、ゆっくりと路地に踏み入った。
 リンは足音を消し、ごく慎重に歩みを進めていく。相変わらず路地に人の気配はなかった。比較的には見通しが良く、隠れられそうな場所もそう多くない。リンの知識にある通りの路地である。
 ──ああうん、やっぱりか。
 得心した瞬間、背後で唐突に膨らむ殺気。予測通りのそれと同時に、リンは最小限の動きで身を翻す。
 
 背後から迫る少年の細いナイフは、リンの持つ真っ赤な林檎に受け止められた。
 
「なっ、」
 少年が息を飲む。これ以上ないほど見開かれたスモークブルーの瞳に逡巡が過ぎる。
 だがそれも一瞬のこと、少年の判断は迅速だった。ナイフが抜けないと見るや得物を放棄して、即座にリンから距離を取る。
「やれやれ、堪え性のない奴。折角の差し入れが台無しだ」
 ナイフの刺さったままの林檎をわざとらしく放って見せつつ、リンは思わず苦笑する。その対象は目の前の少年ではなく、先程の自分自身の思考だ。
 ──林檎一つで何が出来る訳でなし、だなんて思って悪かった、露店のご主人。
「だがまあ、その小賢しさと思い切りは褒めてやろう」
 言いながら、リンはあくまで自然な動きで構えを取る。右脚を引いて、懐からセーフティをかけたままの愛銃を抜いた。
「ご褒美だ。遊んでやるよ、少年。」 
「……舐めんな官憲」
 少年は、地を這うような声でそう絞り出した。先程までとはうってかわったその声には、疑いようの無い殺意が滲んでいる。
「アンタは俺が殺す」
 言うが早いか少年はコートの下から新たな得物を取り出す。銀の軌跡を描いて構えられたそれは、先程手放したものよりふた回りは大振りなアーミーナイフだった。
「ほう、官憲と来たか。思ったより学はあるらしいな。その調子で口の利き方も覚えて行けよ」
「るっせぇ、死ね!」
 一喝、少年が地面を蹴った。跳ぶような三歩で一気に距離を詰め、逆手に持ったナイフでリンの肩口を目掛けて斬りつける。
 リンは振り下ろされる少年の腕の内側に左手を添え、円を描くように上から下、更に右へと軌道を逸らす。そうしてガラ空きになった頭部を狙い、右手に収めた銃の銃床で殴りつける。
 容赦のない一撃を、少年は上体を反らして紙一重で避けた。だがその無理な重心移動で、少年の体勢が大きく崩れる。そこに踏み込もうとしたリンはしかし、唐突にバックステップで距離を取る。
 少年は後ろに崩れた体勢のまま、バク転の要領で蹴りを放っていた。数瞬前にリンの顎があった空間を、少年の爪先が切り裂く。
 両者の間に数メートルの距離が空く。興味深そうに少年を眺めるリンとは対照的に、少年の視線は依然鋭い。
 再び少年が仕掛ける。距離を詰める一瞬でナイフを順手に持ち替えると、一撃で仕留める事は諦めたのか、今度は二の腕辺りを狙って斬りつける。
 リンは少年の腕を今度は左腕で受けると、右手を握った銃ごと少年の腕に絡める。左腕と銃身で少年の腕を下から右へと受け流したその勢いで背後に回ると、自らの左腕を少年の首に巻き付けようとする。
 背後を取られたた少年は咄嗟に右腕を引き戻す。銃身に引っかけられていただけの右腕は簡単に拘束から外れた。自由になったナイフが狙うのは、首に巻き付きつつあるリンの左腕だ。
 しかし少年の反撃を見越していたリンは、拘束もそこそこに少年の首から左腕を解く。そうして軽く肩を押すと、左脚で少年の背中を蹴り飛ばした。
 前方に大きくつんのめりながらも少年は振り返る。しかしそれはリンにとっては十分な隙だった。しなやかに伸びた長い右脚が、少年の細い胴を捉える。溝尾に確かな手応えの一撃が決まった。
「がっはっ……!」
 勢い脚を縺れさせて倒れた少年を見下ろして、しかしリンの口から零れたのは、甲高い口笛と賞賛の台詞だ。
「やるなぁ少年。何処の遣いだ? 警察(こっち)に鞍替えする気は?」
 本音だった。ここまでしても少年は武器を手放していないし、即座に身を起こして片膝をついている。そこらのヤンキーはおろか、署のド新人共より余程技術も度胸もあった。なんなら申し訳程度に存在する市警機動隊員にも引けを取らないかも知れない。
「クソっ……!」
 少年は悪態と共にリンを睨みつける。流石に三度目ともなれば、不用意には飛びかかっては来なかった。
 少年は片膝立ちの姿勢から、ゆっくりと立ち上がる。リンはとりたてて制止もせずにそれを眺めている。
 ゆらり、と。
 身を起こし切るとほぼ同時に、少年は踵を返して走り出す。おそらく全速力だろう、こちらを振り返りもしない背中はみるみる遠ざかっていく。
 それは鮮やかな戦略的撤退だった。
「……ふむ。」
 リンは少しばかり思案する。遊んでやると言った手前、ここで大人げなく発砲するのは気が引ける。かと言って、みすみす取り逃がすには惜しい人材だ。
 にやりと意地の悪い笑みを浮かべると、リンは軽やかに路地裏を駆け出した。 
 
   ◇◇◇
 
 ──ヤバい。
 ──ヤバいヤバいヤバいしくじった、アレは喧嘩売っちゃダメな部類だろ……!
 コンディションが良いとはお世辞にも言えない細い道を、クライヴ少年は全力で駆ける。その表情にはつい数分前までの余裕は無い。
 刺客と標的が入れ替わっての追いかけっこを続けること約十分、舞台は既に市街地と呼べるエリアを過ぎて、遮蔽物の多い倉庫街へと至っていた。
 戦闘に際して、彼我の実力差を見極めるだけの能力はある。そうでなければ、長年裏の世界を渡り歩いたクライヴは今頃、五体満足で生きてはいまい。その鑑識眼から言って、今回の標的は余程の奇跡でも起きない限り、到底勝てる相手ではなかった。
 だからクライヴは早々に逃げ出した。ヴォルピーノとの契約を反故にするとかしないとか、そういう些末事は放り捨て、後先考えずに本気で逃げた。
 階段を三段飛ばしで駆け上り、フェンスを飛び越える。コンテナの側面を駆け上がるようにして登ると、並んだそれらの間を飛び移る。ギリギリの縁を走って飛び降りた先は、貨物の間のごく僅かな隙間。
 それはさながら、実戦で鍛えられたフリーランニング。市街の中で道無き道を見出す術を、クライヴは誰に教わるともなく身に付けていた。勿論、路上暮らしのクライヴがフリーランニングという概念を知っていた訳ではない。上下左右、無軌道に逃げれば追って来られる者はまずいないというだけの、単純な経験則の話だった。
 そう、これまでの敵なら、問題なく撒けたのだ。
 ──それなのに。
 ダンッ、と鈍い音が響く。
 それを耳にしたクライヴは、足を止めずに背後を窺う。そこにはつい数秒前の自分と同じく、狭い足場に難なく着地したスーツ姿があった。
 一瞥でその意味を理解して、クライヴは逃走に集中する。そこから先は見るまでもない。ここ数分の経験から言えば、どうせ自分と殆ど変わらぬ速度で走り出すに違いなかった。
 ──つーかあんなヤバい奴だなんて聞いてねぇよ何なんだよアイツ!
 クライヴの知る『警察官』は、追跡劇になれば五分ともたずに諦める。番犬とか言う通り名は話半分に聞いていたが、あの機動力と執念は番犬というよりは猟犬のそれだ。おまけにちょっと攻勢を仕掛けようものなら三倍になって返ってくる。あんな戦力が警察だなんて真っ当な組織の所属だとは俄かに信じ難かった。
 ──まだ打てる手があっただろうか。
 クライヴは考える。ナイフを投げれば多少意表を衝けるかも知れないが、こちらの武器が無くなってしまう。徒手空拳で勝てる相手ではない。重いし使えばアシが付くからと、銃を置いてきたのはつくづく失策だった。
 攻め筋を考えあぐねるクライヴの耳朶を、不意に乾いた衝撃音が打った。
 ──発砲音。
 銃を持ちながら頑なに撃たなかった相手が、ついにトリガーを引いたらしい。認識した瞬間、身を屈めて飛び込むように前転する。咄嗟の回避行動だったが、しかしそれが間違っていた。
 相手の狙いはクライヴではなく、その先の角材だった。乱雑に立て掛けられていた細い金属製の角材達は、長さにして二メートルほど。着弾の衝撃でそれらが散り散りに倒れて来るのを目の当たりにしたクライヴは、一瞬怯んで足を止めた。
 その隙にも背後から迫る足音は止まない。どうしたものかと僅かに逡巡した後、クライヴは背後の足音へと向き直った。
 それは最早闘志などではなく、半ば観念に近かった。実力の差は充分に知れたし、このまま逃げ回っても逃げ切れる気はしない。ただ素直に投降するのは癪に触るから、だったら余力のある内にどうにか一矢報いてやろうというだけの、幼稚な意地だ。
 それをよくよく自覚して、その上でクライヴは追っ手の彼女と──自身の標的と相対したのだった。
 互いに睨み合うほどの時間はなかった。かなりの速度で追いかけて来ていた相手が、そのまま足を止めなかったからだ。ならばとクライヴはナイフを順手に構え、相手の顔を真っ直ぐに狙った。
 フェイクも何もない見え透いた軌道。案の定、相手は最小限の動きで──首を傾けるだけで避けようとした。
 刹那、クライヴは獲物を手中でくるりと回し、順手から逆手に持ち替える。可動範囲の変わったナイフが、本来の狙いを取り戻す。
 果たして。
 クライヴのナイフの切っ先は、標的の頬を捉えた。軽く見開かれた切れ長の目の下に、じわりと赤色が滲む。
 だが、それだけだ。
 伸ばしっぱなしの腕をあっという間に取られて、後ろ手に関節を極められる。そのまま背中を押されるように、コンテナの側面に押さえつけられた。
「動くな。」
 ごり、と背中に固い感触。振り返るまでもなく銃口だろう。
 クライヴは大きく息を吐いた。それはわざとらしい溜息でもあり、切らした息を整えるためでもあった。固められた右手からナイフを離し、空いた左手をゆっくり上げた。その手は壁につけて無抵抗を示しながらも、クライヴは視線だけを背後に送る。
 彼女は息こそ軽く乱していたものの、涼しい顔でこちらの様子を窺っていた。右手や身体の拘束も、ちょっとやそっとの抵抗では緩む気配がない。
 余裕ぶったその表情を苛立ちと共に睨みつければ、ヒュウ、と軽薄な口笛が返って来た。
「凄い眼だな。そこまでの眼をする奴はこの街じゃ初めてだ」
「アンタこそ。能無しの警官の癖に」
「能無しとは随分な言い様だな」
 心外そうな表情を作る相手に、クライヴの苛立ちは募る一方だ。ぎり、と歯を食いしばる。
「……うるせぇんだよ、どいつもこいつもスカしたツラして善人ぶりやがって。俺みたいな小物にばっか構ってないで仕事しろよ、クズ共が」
 勢いに任せた恨み節は、しかし一瞬、彼女の顔から笑みを奪ってみせた。作るべき顔を決めかねているような一瞬の無表情。終始余裕のあった彼女の意外な反応にクライヴが言葉を返す前に、彼女の方が溜息を吐く。
「……ホントに堪え性ってもんがないな、お前」
 呆れたように肩を竦める彼女は、既に以前の調子を取り戻していた。
「減らず口は署で聞いてやる、来い」
 ぐい、と腕を引かれる。クライヴは反抗的な視線を投げつつも、促されるままに歩を進める。それはなにも、背中に当たる銃口のせいだけではない。
 完敗だった。言い逃れのしようもなく、完膚なきまでに、完敗だった。
 だから、切り替える事にしたのだ(・・・・・・・・・・・)
「──クソッタレ。ブチ犯して殺してやる」
 それは、何も持たない少年の、精一杯の捨て台詞だった。

三.

 取り調べ室には、これ以上ないほどの倦怠感が漂っていた。
 室内の人口は三人だ。部屋中央に置かれた机に陣取っている二人と、その傍らに立つ一人。
 机の一片を占領しているクライヴは、部屋に入ってから一言も発していなかった。もう小一時間ほど、体ごと斜に構えて完全に対話を放棄した状態だ。右手首だけに嵌められた手錠の先は、部屋に固定された机に繋がれている。やる気なく垂らした右腕が退屈そうに揺れるたび、長めの鎖が床と耳障りな音を立てていた。
 件の女刑事とは、あの後すぐに別れることになった。彼女はクライヴを同僚に引き渡すと、すぐにその場を後にしてしまった。その後はパトカーに乗せられ、港湾分署ではなく何故か中央の警察本部まで連れられて、取り調べ室に迎え入れられた。不貞腐れたクライヴが監視役の警官に割と気合いの入ったガンを飛ばしながら待つこと数分、怯えた監視役と入れ違いに現れたのが目の前の二人だった。
「頼むからさっさと喋ってくれよ。俺達だって暇じゃないんだ」
 年配の方の刑事が怠そうに言う。風貌からしてそこそこのベテランらしいが、それ故にクライヴが黙秘を続ける事を察しているのだろう、その声音には色濃い諦めが滲んでいた。
 その傍らには状況におろおろするばかりの若手が一人。見たところクライヴを負かした彼女と同年代だろうに、その風格は雲泥の差だ。
 ──まあ、警察官があんなのばっかりでも、それはそれで困るけど。
 とはいえ、黙秘の効果もそろそろ限界だろう。一筋縄ではいかないということは存分に伝わっただろうが、そこまでだ。その先の目的を持つクライヴは、ゆっくりと口を開く。ここから先は交渉の時間だ。
「……大体さぁ」
「ああ?」
 気怠さを隠しもしない声に答えたのは、年嵩の方の刑事だ。警察官にしては柄の悪い応答に舌打ちを零しつつ、クライヴは嘯く。
「何でぽっと出のアンタらがごちゃごちゃ言ってんの? 俺が負けたのはあの女なんだけど。アンタらに何か話す義理ある? 俺に喋らせたいんなら、せめてさっきのアイツ出せよ」
 クライヴが沈黙を貫いていた大きな理由がそれだった。自分が負けを認めたのはあの標的だった女刑事であって、警察組織や目の前の冴えない刑事ではないという矜持。おまけにあれだけの死闘を繰り広げておきながら、勾留された名目が「軽微な公務執行妨害」での「補導」ときている。黙秘くらい決め込まないとやっていられなかったのだ。
「お前なぁ。お前が襲おうとした人間に、お前を会わせられる訳ないだろ」
 年月が顔に刻んだ皺を更に深くして、ベテランが答える。詳細をどこまで知っているのかはさておき、予想通りのつまらない答えではあった。
「あっそ。じゃあいい。」
 吐き捨ててふいと視線を逸らしてやれば、若手刑事が目に見えて焦り出す。
「なっ! ちょっと君‼︎」
「おいおい、良くねぇよ。俺達にだって仕事がある」
 ベテランはしかめ面で頭をガシガシと掻いている。流石に嫌気がさしてきたのか、溜息交じりで譲歩を見せてきた。
「まあ俺がこんな事言うのもなんだがな。容疑がこの程度で前科も一応見当たらない、素直に喋りゃあ厳重注意ですぐに出られるんだぞ、こんな所」
 ──前科はアンタらが知らないだけだろ、とは、流石に言わない。クライヴの素行を何一つ把握していない警察の無能具合には割と日頃から感謝しているのだ。増して「一応」とかいう引っかかる物言いをしたベテランとは、何処かで鉢合わせていたのかも知れない。蛇がいるかもしれない藪は突かないに限る。
 代わりにベテランの台詞を鼻で笑って、クライヴは一言だけ告げた。
「あの人となら喋ってもいい」
「駄目だ」
 食い気味の即答だった。どうやらこの男はあの女刑事に会わせるつもりだけは断じてないらしい。頑なな態度に、クライヴは項垂れ大袈裟に溜息を吐いてみせる。
「……大人気無いから黙ってようと思ったんだけどさぁ」
 顔を上げ、睨め付けるように刑事達を視線で射抜く。うっすらと殺気さえ纏ったクライヴは、殊更ゆっくりと言葉を紡いだ。
「アンタら雑魚なんかと話すことなんてねぇんだよ。アンタら、俺を殺せないだろ?」
 物騒な台詞に若手刑事が息をのんで身を竦ませる。ベテランの方は流石にこの程度では動じない。ただ、クライヴへ向ける視線が、それまでの諦めの色からより剣呑なものへと変わった。渋面を浮かべた彼は、硬い声でクライヴの問いに答える。
「当然だ。その必要がない」
「あっは。必要があれば出来るみたいな言い方はやめろよ。アンタらには無理。だってアンタら普通だもん。普通の、常識的な、正義の味方気取りの警察官殿ってやつ」
 言葉に混ぜた笑いは嘲笑で、それを吐き出すクライヴの顔にも暗い笑みが浮かんでいる。
「でもさ。さっきの奴はそうじゃないだろ。アイツは殺せたぜ、俺のこと」
「お前!」
 机を叩いてベテランが激昂する。急に立ち上がった反動で、椅子が大きな音を立てた。慌てる若手をよそに睨みつけて来るベテランを、クライヴが冷たい視線で迎え撃つ。
 互いに無言。緊迫した空気がその場を包む。
 膠着状態を破ったのは、ノックもなく開け放たれたドアの音だった。ガチャリと響いた無遠慮な音に、室内の三人が一斉にドアを見る。
「──おいおい、アイツ呼ばわりは聞き捨てならんな。敗者の礼って奴に欠けるんじゃないのか? 少年」
 愉しげな中音を奏でたのは、渦中のアイリーン・G・フライアーズその人だった。
 ジャケットを脱いだワイシャツ姿で、緩めたネクタイの端は丸めて胸ポケットに突っ込まれている。先程よりはいくらかラフな格好だ。その手には紙製の手提げ袋が携えられている。
「リン!」
「どうしてこちらに? 港湾分署に戻ったのでは」
 言いながら、彼女に駆け寄る刑事達。どうやら互いに面識があるらしい。若手の方は少しかしこまっているからやはり地位が低いのか。
 一時的にこちらを意識から外した彼等を、クライヴは抜け目なく観察する。
「いやまあ何だ、ちょっと気になる事があってな」
 男性刑事達を宥めるように言ったリンは、ちらりとクライヴに視線を投げる。ばっちり目が合ったクライヴが、バツが悪そうに視線を逸らした。
「なあリン。言っとくがコイツは……」
 何事かを口にしようとしたベテラン刑事を、リンは片手で制する。クライヴの座らされている机に近づくと、荷物を置き、正面から相対した。
「なあ少年」
 リンはぐっと顔だけを近付けて来る。ロマンチックな距離に反して、感じる圧はメンチ切りのそれだ。美人の真顔は怖いという定説を、クライヴは改めて実感した。
「私になら喋ると言ってたな。本気か?」
 カメラかマイクでも仕込まれていたのか、直前のクライヴの発言を問い質す。じっと見つめてくる目がこちらを測っていることは言うまでもない。
「……ん、良いよ? アンタとなら喋っても。少なくともそこの雑魚共よりはマシ」
 挑戦的に笑って見せれば、こちらもニヤリと笑みを返したリンが身を起こす。
「良いだろう。代わってやる」
 あっけらかんと言い放ったリンに、慌てたのは同僚達の方だ。
「おいリン!」
 食ってかかるベテラン刑事の肩を、リンは宥めるように叩く。
「大丈夫、どうせ君らには喋らんよ、コイツは。上にも話は通してある、元からそのつもりで来たんだ。適材適所、後は任せてくれ」
 な? と同僚に笑いかけるリンはあくまでにこやかだ。
「……は、はぁ……」
 困惑しきった様子で若手が気の抜けた返事をする。ベテランはといえば何かを悟っているのか、諦めたように溜息を吐いていた。ジロリとリンを見ると、一言だけ釘を刺す。
「……くれぐれも気を付けてくれよ」
「勿論だ、心配感謝するよジェフ」
 そう答えながらもリンは既に二人を出口へエスコートする態勢だ。そのまま流れるように二人を追い出すと、ドアを閉めて向き直る。その手際を感心しながら眺めていたクライヴと目が合うと、悪戯っぽく笑ってみせた。
「待たせたな。楽しい聴取の時間だぜ、仔犬君」

   ◇◇◇

「さて、と」
 前任者を見送ったリンは、クライヴの向かいに腰を下ろす。彼女が持参した紙袋から書類とペンを出し終えるより早く、クライヴがリンに問いかけた。
「ねえ。アンタさ、名前は?」
 唐突な馴れ馴れしさにか、それとも敵意が無いことそのものにか、リンの眉が怪訝そうに跳ねる。
「取調べしてるのはこっちなんだがなぁ。仕事受けた時に聞いてないのか?」
「聞かなくて良いと思った」
「で、今になって聞きたいと」
 茶化すようなリンの台詞にあからさまに不貞腐れて見せれば、ああはいはいと苦笑をこぼされる。肩を一つ竦めると、彼女は漸く正式に名乗りを上げた。
「アイリーン・G・フライアーズ。リンで良い。階級は警部補、所属は港湾分署だ」
「リン? アイラじゃなくて?」
 アイリーンの短縮形ならアイラやエイラ辺りが一般的だ。そう指摘すると、リンは何故か渋い顔をする。
「……昔、同じ名前の友人が居てな。アイラは彼女のニックネームだ」
 しかし言い淀んだのも束の間のこと、リンから即座にカウンターが飛んで来た。
「で、お前は?」
「え?」
「名前だよ名前、ったく見事に黙秘通してくれやがって。それくらいは喋れよ、私『と』喋るってんならな」
 これには流石のクライヴも少し返答を口籠もる。この刑事がやり手なのは良く分かっている。直接警察の世話になったことはないとは言えど、名前から余罪でも割り出されたら堪ったものではない。
「無いよ、そんなの。俺孤児だし、親の顔だって知らないし」
 迷ったが、結局無難な嘘を告げることにした。しかしリンはその主張を即座に斬って捨てる。
「それはない」
「何で」
 あまりの即答にムッとするクライヴ。しかしそれに構うことなくリンは理由を語り始める。
「お前が私を狙って襲った、それは間違いない。それなのに今はこうして、敵意も無く普通に会話をしてる。まあ多少反抗的ではあるがな」
「だから何」
 苦笑を零したリンに苛ついて先を促せば、まあそう逸るなと手だけで諭される。
「さっきの二人にだって、ダレてただけで殴りかかったりする気配はなかったろ。という事は、私や警察への個人的な恨みじゃなく雇われの可能性が高い。これはさっきのお前の『仕事を受けた時には名前を聞かなかった』って発言で裏が取れてる」
 その言葉に、クライヴは思わずぎくりと身を強張らせる。指摘された点は完全に意識の外だった。言われなければ情報を渡したことにさえ未だ気付いていなかっただろう。その反応にしてやったりと笑みを深くし、リンはさらに先を続ける。
「ということは、じゃあ雇い主の目的は何か。捨て駒による何らかのフェイクか、あるいは自分達では出来ないから誰かに頼んだか。お前の場合は間違いなく後者だろう? であれば、事前に選考があったはず──お前は誰かに選ばれたんだ。名が売れているから選ばれた。少なくとも、そいつの仕事を特定できる通称がある筈だ」
 そうだろ? と問うてくる視線は既に疑問ではなく確認の域だ。
「……さあ。身内で飼われてたかも知れないぜ?」
「だったら尚更呼び名はあるだろ」
 苦し紛れの言い訳もばっさり切られ、クライヴは暫し閉口する。こうなると選択は二つに一つ、素直に吐くか、何も喋らないかだ。クライヴが選んだのは後者だった。
「……どうでも良いだろ、名前なんて」
 この相手に名前を押さえられるのはどうにもまずいと、クライヴの直感が告げている。とにかく何も教えなければ良いとタカを括って、クライヴは黙秘を貫くことにした。
「どうでも良いなら適当に呼ぶぞ?」
「勝手にすれば。どうせ当たりっこない」
 吐き捨てて、ふいと視線を逸らす。しかしリンはそんな態度にはお構いなしだ。
「どうかな。ジェーン、サム、エイベル、サディアス、スミス、あとはそうだな」
 名前を列挙する声を止め、リンは少しだけ思案する。そうして目の前の少年の全身を眺めてから、彼女はその名を口にした。決してよくある名前などではないそれを、的確に。
「──クライヴ。」
 果たして反応を抑え切れたかどうか。ちらりとリンの方を窺ったクライヴは、その意外そうな表情に失敗を悟った。
「……驚いた。まさかとは思ったがお前、本当にクライヴか」
「違う」
「どうして?」
「どうして、って」
 どういう意味だと問い質す寸前、その質問の意図を理解する。
 呼び名なんてどうでも良いなら、どうして否定するのか。
 つまり、クライヴという名を敢えて否定した時点で、向こうの誘導尋問にまんまと引っかかってしまった訳だ。
 初歩的に過ぎるミスに、クライヴは思わず額に手を当て天を仰ぐ。声にならない吐息を漏らすその様子に、リンがくつくつと喉を鳴らした。ひとしきり笑うと、リンは改めて問いかける。
「さて、じゃあクライヴ。ファミリーネームは?」
「無い。今度は本当だ」
「なるほど。歳は?」
 今度は素直に引き下がったリンは、どうにも何らかの基準で事の真偽を見極めているようだった。与えている手掛かりに心当たりの無いクライヴは、一つ舌打ちを零して告げる。
「十六くらい。多分ね」
「住んでる場所は?」
「色々。もしくは無い」
「ホームレスって奴か」
 敢えて捻った返答をしてみても、すぐに答えに辿り着かれてしまった。何でもない顔でサラサラとメモを取るその表情は、むしろ楽しそうですらある。
「後はそうだな………お前、荷物はどうした? 捕まってた時に持ってたので全部って事はないだろ」
 その質問に、クライヴは苦い顔をする。それは今回の件で最大の失策であり、だから意図的に考えないようにしていた事だった。
「……アンタを襲った通りの物陰に隠してあったんだよ。さっさと片して持って帰るつもりだったのに」
 銃もなけなしの手持ちも入った鞄は、今もまだあの路地裏にあるはずだった。一応ぱっと目に付かないようにはしてきたが、二、三日そのままに出来るほど念入りには隠していない。今頃は捨てられているか、誰かに持って行かれていてもおかしくなかった。
「そうか。後でこっちで回収しておこう」
「まだあれば、の話だけど。つーか回収したら返せよな、泥棒」
「それは中身次第だな」
 軽口のように言うリンだが、ならば上手く回収されたところで手元に返って来るかどうか。望み薄の希望に賭けられる程バカではないと自負するクライヴは、盛大に溜息を吐き出した。
「さて、それじゃあもう一つ。これは私の個人的な興味なんだが」
 奇妙な前置きをして、リンが改めてクライヴを見据える。真っ向から、その真意を測るように。
「お前、どうして私を呼んだ?」
 これまでとは毛色の違う質問に、クライヴは戸惑う。理由ならある。それも、沢山。どれを告げるべきかと思案して、結局最も素直なものを口にした。
「……アンタが、初めてだったから」
「何が?」
「俺を見たのが」
 流石にこの返答は予想外だったのか、興味深そうに耳を傾けるリン。先を促すような沈黙を受け、クライヴは言葉を選びながら先を続けた。
「最初からそうだ。舐めた態度を取ってはいるけど、実際アンタは俺に隙なんて一瞬も見せてない。どころか、挑発に乗って俺が何か漏らすのを虎視眈々と狙ってる。今だってこっちの思惑を量ろうと、視線から指先から、くまなく目を光らせてる」
 そうだろ、と言うように顔を上げれば、件の視線と目が合った。それはクライヴが、彼女と刃を交えた時から今まで意図的に意識の外に置いていたものだった。一挙手一投足を観測されている。その癖、無機質という訳でもない。言葉尻、身振り、空気感──感じ取れうるあらゆる要素からこちらを測ろうとする鉄色の瞳。
 そうと認識してしまえば感じずにはいられない怖気をどうにかやり込め、クライヴは迎え撃つようにリンを見つめる。
「大抵の連中は俺をガキだと思って見縊ってる。それこそ眼中にないくらいに。舐めた上で本気を出したのは、アンタが初めてだ」
 両者の視線が真っ向から絡み合う。
 先に目を逸らしたのは、意外にもリンの方だった。溜息と共に小さく言葉を零す。
「まあ、仕事柄な」
「それに」
 その態度を見て勢い付いたのか、更に言い募るクライヴは、今回一番の不満をリンにぶつける。
「俺の減らず口を聞くって言ったのはアンタだろ。何丸投げしてんだよ」
 その瞬間の呆気に取られたリンの顔は、してやられてばかりだったクライヴには見ものだった。切れ長の目が大きく見開かれれば、終始老獪だった表情が幾分か若者のそれになる。意外とそう歳は離れていないのでは、などとどうでも良い思考が一瞬クライヴの脳裏をよぎる。
 ぽかんとしたのも束の間、リンは我に返ると声をあげて笑い出した。
「っははは! いやそうだな、その通りだ! 良いだろう、聞いてやるから洗いざらい、心行くまでぶち撒けて行け? 何、遠慮はいらんぞ、時間だけはたっぷりある」
 言い終えてもまだ衝動が収まらないのか、くつくつと喉の奥の方で笑い続けるリン。クライヴ自身何らかの反応を期待してはいたものの、勿論ここまでの大爆笑は望んでいない。予想を超えた過剰反応に抗議するように、唇を尖らせてクライヴが答える。
「洗いざらいも何も、アンタを狙った件なら知らないよ、何にも。言ったろ、あの時は聞かなくていいと思ったんだ。アンタの事も、相手の事も。どうせアンタは殺すだけの、アイツは金を寄越すだけの人だと思ったから」
 むしろ意図的に聞かなかった節さえある。余計な情報は知らなくて良い。それは正にこういう場合のための保険だ。知らなければ話しようがないのだから、余計な恨みを買わずに済む。
 もっとも相手によっては知る知らないに関わらず手酷く扱われる訳で、今回は比較的相手が良かったと言えるだろう。
 何も知らない、などというある種投げ遣りな答えを受けたリンは、しかしあっさりと首を横に振った。
「それは別に訊く気はない。訊くまでもないしな」
「へえ?」
 リンに試すような視線を投げかけたクライヴはふと、彼女の妙な様子に気付く。
 リンはおもむろにポケットから何かを取り出してみせた。ペンにしては太いそれは、リン自身が赤いRECランプを示したことでボイスレコーダーだと知れる。
「私の名前が挙がってて、お前の名前が出るのなら、相手はあの女狐、ルチア・ヴォルピーノしかないだろ」
 何事も無いかのように語りながら、リンはボイスレコーダーを示し、人差し指で机──否、この部屋を指し示し、そしてそこ指を口の前に立てる。
 ──録音されてるから喋るなってことか?
 クライヴが自身の口元に指でバツを作って見せれば、リンは満足そうに頷く。その間も、彼女の語りは流暢に続けられている。
「何せヴォルピーノが私を目の敵にしてるのは周知の事実だしな。女狐の狙う獲物を横から掻っ攫おうって奴はそう居ない。最近じゃ私を直接狙って来る手合いはほぼあの女狐周りだ」
 やれやれ、とリンはパイプ椅子の背もたれに身体を預けた。程よく伸びた上半身からは、疲れたような声が発される。
「まあ奴絡みなら仕方がないかぁ。ちょっと喧嘩が強いだけで何の後ろ盾もないストリートチルドレンじゃ、連中に脅されたらひとたまりもないもんな」
 なるほどこれは指示がなければ反論していたことだろう。何故か向こうは今回の件を徹底して軽犯罪に仕立てたいらしいが、こちらとしてもお咎め無しで済むならその方が都合が良い。
 采配に素直に感心していると、リンがちらりとこちらを窺ってくる。促すような気配を察して、クライヴは一つ笑って見せると殊勝な顔と震えた声を整える。
「……そう、です。俺、脅されて……俺、良くケンカとかしてたから、目ぇ付けられたみたいで。あいつら、万が一何か喋ったらお前も殺してやるって」
 どうだとばかりにリンの方を見れば、笑みを深くした彼女は更に調子付いたらしい。
「そいつは災難だったなぁ。よく喋ってくれた。あとはこちらに任せてくれれば大丈夫だ」
 声だけは心底同情したように取り繕っている癖に、薄ら笑いでわざとらしく頷く様はいっそ滑稽だ。こちらまで口の端が緩みそうになるクライヴの目の前で、リンはそれじゃあ、と持って来た紙袋を机の上に乗せる。
 そこから取り出されたのは、一回り小さなデリの紙袋。そして、携帯電話大の何かのリモコンだった。そのうちデリの紙袋の方が、クライヴの前へと押し出される。
「捕まった時間が時間だっただろ? 腹空かしてるかと思って。やるよ、差し入れだ」
「えっ、いいの?」
 確かに中央本部に連行されたのは昼過ぎだが、何よりクライヴ自身が朝から碌に食べていない。食い気に負けて思わず素で返した少年を、リンは微笑ましそうに眺める。
「ああ、ちゃんと喋れたご褒美だ。ちょっと遅いが飯の時間と行こうぜ」
 やけに朗らかに笑ったリンは、手にしたリモコンを宙に向けると、そのスイッチを静かに押した。
 
   ◇◇◇
 
「えっ、美味そう……」
 クライヴがポツリと呟いたそれは紛れも無い本音であり、セント・グレイフォート市警中央本部に着いて初めての、心からの賞賛だった。
 リンの用意した差し入れはサンドイッチとスープのセットだった。
 サンドイッチは食パンではなくコッペパン大のバゲットに具を挟んだもので、みっしりとつまったローストビーフと色鮮やかなサニーレタスに、飴色のオニオンソースがかかっている。テイクアウトのスープ容器に入っていたのはクラムチャウダーで、多少冷めてはいるものの、ミルクとアサリの香りと共にうっすらと湯気が漂っていた。
 期待以上のクオリティに目を輝かせるクライヴに向け、リンが得意げに言う。
「こちとら身銭切ってんだ、感謝しろよ」
「はーいありがとうございまーす」
 冗談半分ながら、クライヴはごく素直に礼を言う。ここで下手に反発してお預けを食らうのだけは避けたい。腹を空かせた成長期の少年にとって、食い気はプライドよりも強かった。
 クライヴはいそいそとサンドイッチの包装紙を捲り、その端にかぶりつく。途端に香ばしいオニオンソースの香りが口いっぱいに広がった。噛めばほろほろと崩れる柔らかなローストビーフは、肉と言えばジャーキーかサラミ、良くてファストフードのハンバーガーが精々のクライヴにとってはかなり上物の部類に入る。
 思いがけないご馳走に、夢中になって二口目を口にした時だった。
「……食ったな?」
「ふぁ?」
 不意に響いた不穏な呟きに、サンドイッチを頬張ったまま気の抜けた声を上げるクライヴ。弛緩していた空気が、リンの悪どい笑みを見てぴしりと凍る。
 ──まさか、何か仕込まれていた? 毒、いや自白剤か?
 途端に真顔になるクライヴに、しかしリンは思わずといった体で吹き出した。
「安心しろ、毒物の類じゃない。そいつはな、交渉料だ。部屋のマイクはさっき切った。それを食ってる間、今度はこっちの話を聞いて貰う」
 そう言って手にしたリモコンを掲げる。どうやら用途不明だったそれは部屋の録音機器のスイッチだったらしい。
 リンの不意打ちに一瞬肝を冷やしたクライヴだが、動転は口の中のサンドイッチと共にのみ下し、余裕ぶってにやりと笑う。
「ふぅん? やり口としては気が利いてるじゃん。良いよ、聞いてあげる」
 上から目線で応じつつ、クラムチャウダーに手を伸ばす。それをちょうど口に含んだ瞬間、リンから次の手札が飛んで来た。
「こないだの、ハーギンの事務所の件。アレの犯人はお前だな」
「ごふっ⁉︎」
 えげつない隠し球に思わずむせるクライヴ。何を、と言い返そうとする言葉を先んじてリンが制する。
「おっと、今更しらばっくれるなよ、面倒だ。あの件は組織同士の抗争って事でウチの上が畳んじまってる、お前が何か言ったところでそれをどうこうする余地はない。ただ実行犯が『クライヴ』だって話はその筋には随分流れてたし、現場の痕跡からそれが恐らくお前くらいの背格好だろうって目星も付けてた」
 言われてみれば、取り調べを始める時にも仔犬と呼ばれた覚えがある。単に舐められているのだと思ったが、女狐に楯突いた狂犬と巷で揶揄されているのを知っていての事だった訳だ。
「だから、ヴォルピーノの一派がお前を追い回してたのも知ってる。上手いこと逃げおおせてたみたいだが、流石に単騎じゃそろそろ苦しい頃合いだ。大方あの件をチャラにする話でも吹っかけられたんだろ」
 確信をもって投げられた問いをどう誤魔化すか。一瞬思案しかけたクライヴは、すぐに思考を放棄する。別ルートで押さえた情報なら何を言っても無駄だろう。
「別に苦しかった訳じゃない、いい加減鬱陶しかっただけだ」
 せめてもの負け惜しみも、「まあその辺は何でもいい」と一蹴されてしまう。
「そういう訳で取引だ、少年」
 おもむろに長い脚を組んで、市警の番犬は至極端的にその要求を口にした。

「お前、女狐じゃなくこちらに付け」
 
「……正気?」
 半開きになった唇から、知らず、乾いた笑いが零れる。
 対するリンはと言えば、ああ、と、特に気負うでもなく頷いて見せた。
「お前が依頼主について知らないってんなら、向こうに来てもらうしかない。お前には明日、私と一緒に街に出てもらう。ヴォルピーノの情報網ならそれだけで宣伝としては充分だろう。その日のうちに向こうから接触があればそれで良し、そうでなければ一度お前を釈放してやるから、警察には上手いこと取り入ったって言って連中と交渉を続けろ。まあ二重スパイって奴だな」
「そういう事言ってんじゃねぇんだよ!」
 バン! と机を叩くクライヴ。突如響いた騒音を、しかしリンは僅かに眉を顰めるだけで受け止めた。
「いくら警察ったって、あれに真っ向から喧嘩売ろうっての? しかもそれに俺が乗るって? 頭大丈夫かよ」
 嘲笑混じりの言葉にも、リンは腕を組み淡々と応じる。底の知れない無表情の真意は、少なくともクライヴには窺えない。
「最終的には連中を豚箱にぶち込むのが我々の仕事だ」
「無茶だ」
「そう思うか? 事務所を一つ潰したお前が?」
 挑発じみた指摘に、クライヴは思わず言葉を詰まらせる。その様子に、リンは大きく一つ頷いた。
「そうだ。奇襲とは言え、末端とは言え、たった一人で潰せたろ? 連中は言ってしまえば数が多いだけの寄せ集めだ、一人一人の熟練度はそう大したものじゃない。逃がさないよう周到に網を張って、訓練を積んだ兵隊をそこそこ用意すれば潰せるさ。物理的にな」
「兵隊って」
「五十。」
 組んだ腕の前で、リンが右手を広げて見せる。
「私とお前と、二人掛かりでだ。装備と状況さえ整えば、組織規模で五十人クラスなら潰して見せる。──何も単なる無謀で交渉を吹っかけてる訳じゃない。ハーギンの件とさっきの交戦で、お前の腕を見込んで言ってる。でなきゃこんな回りくどい真似せず、お前を牢屋にぶち込んで話は終わりだ」
 じっとクライヴの瞳を覗き込んでくる視線には、ふざけている様子もハッタリを効かせて ている気配も無い。五十人規模という数字は純粋な計算の上の事実──少なくとも、彼女の中ではそうであるらしい。
「その上で、こっちはもう何人か警察の戦闘要員を用意出来る。ヴォルピーノは他組織を取り込んでデカくなった組織だからな、構造上そこまで大規模な『部分』はそう無い。百人弱までなら充分対応圏内だ」
 断言したリンを、クライヴは暫し無言で見つめる。この女刑事の実力は身をもって理解している。洞察力や頭の回転にした所で凡人とは桁違いだ。自分の腕については当然自分が知る通りだ、それを鑑みた上で勝算がゼロという事は無いだろう。ただし、そこからどこまで上がるかは全く保証が無い。何せ相手の底が未知数すぎる。
 そこまで思案し、クライヴは慎重に口を開いた。
「──俺のメリットは?」
「このまま豚箱にぶち込まれたくはないだろ?」
 予想に反して呆気なく告げられたそれは、しかしクライヴの思考を一度立ち止まらせた。刑務所に入りたくないか否か。改まってそう問われてみれば、クライヴの答えは一つだった。
「……別に」
「あ?」
 ぽつりと呟かれた答えに、リンが訝しげな声を上げる。それに応えて、という訳ではないが、クライヴは溜息交じりで続けた。
「刑務所の中だろうが外だろうが、クソッタレの巣窟ってことは変わんないだろ」
「……なるほど。まあ一理ある」
「ていうかむしろ、三食飯付きで仕事もまとも、その上屋根のある所で寝られるんだったら今より全然マシなくらいなんだけど?」
 ここぞとばかり皮肉を叩きつけてやれば、リンはしれっとした顔でそれに同意する。
「まあそうだな、このまま釈放されればヴォルピーノからの和解条件をしくじったってレッテルが付くからな。その可愛いツラで凶悪犯だらけのムショに入る方がまだマシってもんか」
「……アンタ性格悪いでしょ」
 指摘を受けて初めて人を食ったような笑みを見せる辺り、この女は本当にタチが悪い。否、純粋に性格が悪いのかもしれないが。
「ま、万が一そこまで上手く行かなくとも、サツにコネがあるって事になりゃヴォルピーノもそう簡単には手出し出来ないだろ。その間にお前は高飛びでも何でもすればいい、何ならそこまで手配してやるぞ?」
 あっけらかんと言い放ったリンは、既に最初の飄々とした雰囲気に戻っていた。自分の告げるべき事は告げた、とでも言うかようだ。
 後は、クライヴ自身の選択になる。
 ──暫し沈黙を守ったクライヴは、やがて盛大に溜息を吐いた。
「……高飛びじゃなくてホテル代とかにして欲しいんだけど。そしたらほとぼり冷めるまで籠るからさ」
「お? 何だ、存外この街に思い入れでもあるクチか?」
「そんなもん無いし、高飛びするあても無いよ。そこそこ勝手知ってるここでも何とかやってける程度なのに、余所の、しかももっと治安の良い所なんかに行って何が出来るんだってだけ」
 如何にクライヴが路地裏育ちと言えど、中でも碌でもない部類の『仕事』で食べて来た自覚くらいはある。靴磨きやらゴミの換金やら、そういった比較的真っ当かつささやかな収入で暮らす方法など、今更身に付けられる気がしなかった。
「なるほど、賢明だ。アメリカンドリームに惑わされないタイプだな」
「女狐に楯突こうって方がよっぽど夢物語だけどね。まあ正直、俺も好きで路地裏の隅っこに身を潜めてる訳じゃないしさ。我が物顔のああいう連中、一回ボコボコにしてみたかったんだ。──ああ、それともう一つ」
 クライヴは言葉を切ると、リンに向けてびしっと人差し指を突き立てる。
「協力するんだったらアンタがエスコートして。他の連中じゃ話になんない」
 口を尖らせてそう告げれば、一瞬鼻白んだリンが声を上げて笑う。
「っはは! ホント口が減らないな、お前。良いぜ、気に入った。明日にしろ釈放後にしろ、お前に関わる時は私が直接出向く。それで良いんだろ」
 最終確認に、合意の意味を込めて肩を竦めて見せるクライヴ。
「じゃ、そういう事で」
「ああ、交渉成立だな」
 満足げに頷いたリンの拳が、クライヴの前に差し出された。それを素直に受けようとしたクライヴだったが、瞬間、これまでの処遇が脳裏を駆け巡る。
 一瞬の逡巡の後、クライヴはリンの拳を自らのそれで思い切り小突いてやった。


  ◇◇◇

 結論から言えば、リンは留置場での食事を知っていたに違いない。
 そう思う程度には留置場で出された食事は簡素で味気なく食感も悪く、勿論温度など望むべくもなく、質を問う以前の問題を抱えているように思えた。
 とは言いつつも、クライヴは食の限界を攻めたようなその飯を残さず食べ切った。どれだけ不味かろうがタダ飯はタダ飯、ありつける時に食べておくのがストリートチルドレンの流儀だ。クライヴ自身の食の限界から言えば、食べ物の色と匂いがするだけマシだった。
 留置場とは言いながら、クライヴが通されたのはそこに併設される所謂保護室だった。本来は暴れる容疑者を隔離する為のもので、留置場とは違い一人一室で収監される。とは言えクライヴの通された区画は比較的綺麗で、両隣に収監されている者も居ないようだ。両隣どころか、同じセクションには人の気配がそもそも無かった。
 恐らく協力者故の特別待遇であると同時に、他のゴロツキ共に接触させない為でもあろう。心変わりの意味でも、クライヴの身の安全を守る為にも。今留置場にいる連中のうち何人がヴォルピーノの派閥かなど、考えたくもなかった。
 留置場の規定によれば、食事の下膳が十九時頃で、就寝時間が二十一時。特に何の問題も起こす事なく檻に入ったクライヴだったが、娯楽の差し入れも無い身ではいかんせん暇過ぎる。昼間に追い回された疲れもあって二十時過ぎにはうとうとし始めたクライヴは、途中何度か号令的なもので意識が浮かぶことはあったものの、完全に目を覚ましたのはとっくに消灯された二十三時前だった。
 消灯とはいえ真っ暗になる訳ではなく、通路には橙色の灯りがそこそこの明度で点っている。それをぼんやりと眺めながら、クライヴは起き抜けの頭をゆっくりと動かし始める。
 今からすぐにまた寝付ける気はあまりしない。かと言って他にやれる事も勿論無い。仕方なしにクライヴは、とりあえずベッドの上で身を起こした。重い頭を振って、大きく一つ伸びをする。
 不意に、部屋のドアが開く音がした。檻ではなく、セクションそのものの扉が開く音。続いてこつこつと、こちらへ向かう足音も。反射的に担当の監督官かと思ったが、クライヴの前に姿を見せたのは残念ながら違う人物だった。
「よう。」
「……何で?」
 檻の向こうに問いかければ、相手は──リンは可笑しそうに笑う。
「何でって、何がだよ」
「何で居るの。今何時だと思ってんの、帰らないの?」
 畳み掛けるクライヴに、リンは肩を竦めて答える。
「生憎そんな暇は無い。これでもそれなりに多忙でな。ここに来たのは、そうだな、単なる気晴らしだ」
「気晴らしぃ? こんな所で?」
 思わず声が裏返る。仕事の気晴らしを、こんな深夜に、よりによって留置場なんかにしに来たとか言ったかこの女は。
「何て言うか、思ってたより趣味悪いんだね、アンタ」
 割と本気で顔をしかめれば、リンは再び小さく笑う。
「本当口の減らないガキだな、お前。まあいい、その調子でどんどん喋れよ」
「何を。なんで」
 つっけんどんに返したクライヴだったが、今回ばかりは致し方ない。少なくともクライヴはそう思う。
 ──だって意味が分からない。
 話さなければならない事は全て昼間の内に話した。向こうもそれに納得したからこそ昼間の聴取は切り上げられたのだと思っていたのだが、まだ聞き出したい事でもあるのだろうか。正直、これ以上の情報は本当に無いのだが。
 クライヴが分かりやすく警戒しているのを見て取ったのか、リンは諸手を上げて(ハンズアップして)自らの行為を釈明する。
「そう緊張しなくていい。喋れって言ってもただの雑談だ、お前が聞き足りないって顔してたのが気になっただけだよ。今ならある程度は答えてやる。何せ今は鬱陶しい録音もないしな」
 聞き足りない顔などしただろうか。クライヴは寝起きの頭に無理矢理昼間の聴取を思い起こさせる。
 自問自答するまでも無い、した。何なら実際「もう終わり?」とまで口にした。リンによる聴取は、時間管理に限っては実に適切かつ適法で、話すべき事を話したクライヴはすぐに取調べ室から解放されたのだ。お陰様で、こちらが訊きたかった事は全く訊けていなかった。
 わざわざその為に牢を訪ねて来るほどお人好しには見えなかったが、そこはそれ、向こうにとっては『気晴らし』程度の気まぐれなのだろう。いずれにしろこれ以上直接話せる情報は無い。ならば暇潰しに雑談くらいはしても良いかと、ベッドに腰掛ける体勢になった。深夜の訪問者と檻を挟んで正対したクライヴは、じゃあ、と口を開く。
「昼間、路地裏の時。いつから気付いてた?」
「アレか」
 リンは顎に手を当てて小首を傾げる。あからさまなジェスチャーに、これまでのリンの態度を思い出して一瞬身構えるクライヴ。しかし今回は何のアピールという訳でもなかったらしい、リンの口からは素直に言葉が紡がれた。
「確実にそうだと分かった訳じゃない、ただお前のことは最初から警戒してた。声のかけ方が妙だったからな」
「は?」
 ごく普通に声をかけたつもりだったが。思わず間抜けな声を上げたクライヴに、リンは笑ってネタばらしを始める。
「お前、迷わず私に声をかけた割に『警察の人』って呼んだろ。私はスーツ姿だしお前とは初対面、でもって実はあの時、少し先に部下がいたんだ。バッチリ制服着込んだヤツがな。警察官がお望みなら先にそっちに目が行くだろ、普通。店主との話を立ち聞きしてたにしては焦り過ぎだしな。それに」
 そこで言葉を切ったリンは、何故かふっと遠くを見る。
「これは経験則だが、初見で警察官として頼られることはあまり無いんだ。なんでも目が怖いとかでな」
「ああ……」
 それはそうだろう。目付き自体は悪くはないのだろうが、あの見透かすような視線は滅茶苦茶に怖い。何度も修羅場を潜り抜けたクライヴでさえそうなのだから、一般人なら言わずもがなだ。
「自分で言っといてなんだが何納得してんだ、失礼な奴」
 拗ねたような口調は初めて聞く声音だ。もしや気にでもしていたのだろうか。そんな繊細な人間には見えないが。
 反応を窺うクライヴの視線の先で、リンは懐から煙草を取り出す。同じく出したジッポライターで火を灯すと、ふぅ、と溜息がてら大きく紫煙を吐き出した。
「まあ後は、最初の路地はすんなり入ったのに目当ての路地ではかなり手前で止まったとか、そもそもあの路地は見通しが良いから待ち伏せには向いてないとか、挙げればキリがないけどな」
 ついでの調子で付け加えられた更なる根拠に、クライヴは内心で舌を巻く。それなりに考えて動いた策だったが、向こうから見ればボロだらけだった訳だ。
 そう改めて実感すると、自信満々だった己が途端に恥ずかしくなってくる。ばつが悪くなったクライヴは、八つ当たりのようにリンに問うた。
「アンタいつもそんな警戒してんのかよ?」
「まあ職業病でな」
 さらりと首肯して、再び紫煙を吸い込むリン。その様を見て、あ、違うな、とクライヴは悟る。
 ──職業病とかそんなのではなく。
 ──これ、この人がおかしいんだ。
 生粋の路地裏育ちであるクライヴは、常軌を逸した所謂「ヤバい奴」もこれまで何度か目にしている。今のリンから一瞬だけ漂ったのは、間違いなくその類の空気感だった。
「……アンタ、何なの?」
 思わず零した問いは、ふっと鼻で笑われる。
「また哲学的な質問だな」
「茶化すなよ。俺が知ってる警察はみんな揃って無能だった、アンタみたいなのが居るなんて聞いたことない」
「そうか。良かったな、見識が広まって」
 あくまで混ぜっ返すリンに、クライヴはじとりとした目を向ける。じっと抗議の視線を送るクライヴに、リンは堪らず肩を竦めて見せた。
「そう睨むなって。私はただの官憲だ。本当に、嘘偽りなく」
「『番犬』なんて呼ばれてる癖に?」
「ああ、あの仇名。独り歩きして困ってるよ。ちょっと通りが良いとすぐこれだ、大袈裟な」
 やれやれと首を振るリンに、クライヴは重ねて問いかける。
「何で、番犬」
「呼び始めた奴に聞いて欲しいんだが? いや、これは本気で」
 非難される前に弁明を挟むリンだが、これに関しては妥当だろう。とはいえ心当たりはあるようで、仇名への自説を語って見せる。
「まあ察するに、一つは単純に警察の手先だから。もう一つには、文字通りこの街の番をしてるようなものだからかな」
「番?」
「お陰様で色々顔が広くてね。大抵の事は私の耳に入るようになってる。勿論、お前の事も例外でなくな」
 ニヤリと笑って告げられたそれが揶揄なのか非難なのか、判断に困ったクライヴが何とも言えない顔をする。困惑するクライヴをよそに、リンは感慨深げに先を続けた。
「噂はちょくちょく聞いていたが、まさか実物と会うとはな。道理で腕が立つわけだ、『狂犬』」
 その台詞にいよいよ含みを感じたクライヴが、「だったら何だよ」と喧嘩腰の言葉を投げる。しかしリンの返答は意外にも淡白だった。
「あ? 別に。路地裏仕込みにしちゃ腕が立つなあって」
「それだけ?」
「ああ。何だよ、マジで生活保護がわりに逮捕して欲しいクチじゃないだろうな」
「いやして欲しくはないけど。……その、何か、ないのかよ。警察だろ?」
 これだけ自分の遡行を握られて尚糾弾されない事に、流石のクライヴも戸惑いを見せる。首を傾げる不良少年を横目に、リンは何故か不服そうな溜息を吐いた。
「ああ警察だ、つまり役所仕事だよ。一口に事件ったって色々ある、証拠を揃えて立証できなきゃ逮捕のしようが無いさ。でもって生憎お前の潰した事務所の件は、組同士の抗争ってことでウチのお偉方が握り潰しちまった。大方、下手に触って自分達のボロを出したくなかったんだろ。ほんっと、使えやしねぇったら」
 やれやれ、とリンは前髪を搔き上げる。
「まあ仰る通り、こちとら無能なケーサツカンなので? そんな必死に悪ぶらなくても、取って喰ったりしないっての」
 煙草を指先に挟んだままひらひらと手を振って、リンは話をそう締めくくった。揺れる煙がその周りをゆらゆらと巡る。
「……アンタ、変なひとだね」
 ぽつりと呟いたのは、挑発ではなく本心だ。
「良く言われる」
 そう言って自嘲のような笑みを浮かべたリンは、今までで一番穏やかに見えた。
 だからだろうか、クライヴが確認する気の無かった疑問を投げかけてみる気になったのは。
「ねえ。もう一つ、聞いていい?」
 聞く必要はないし、聞いてどうするという訳でもない。そもそも答えてくれるかも分からない。はぐらかされるか、嘘を吐かれるか。質問の内容を考えれば、その可能性の方が高いだろう。
 それでも、聞いてみたいと思った。す
 腰掛けたベッドから身を乗り出すようにして、クライヴはリンに問う。
「アンタ、人を殺した事あるでしょ。仕事じゃなくて、偶然じゃなくて。ただ自分の為だけに、殺そうっていう意志を持って、誰かを殺す。アンタはそういうの、やった事ある人だよね」
 それはクライヴの勘であり、直観だった。その一線を超えた者にしか分からない同族意識が、彼女を同類だと告げている。
 じっと、リンの鉄色の瞳を見つめる。長い沈黙は逡巡か、警戒か。うっすらと、物言いたげに開かれた薄い唇からは、しかし咥えた煙草の煙が細く漏れるだけだ。
 どのくらいそうしていただろうか。やがてリンは大きく一つ紫煙を吐き出すと、クライヴの問いを小さく肯定した。
「…………ああ。あるよ。」
 その返答に、やっぱり、とそっと零したクライヴは、ベッドに大きく身を投げ出した。後ろ手に手をつき、大きく上体を反らせたまま、リンから視線を逸らしたままで、クライヴはもう一度問いかける。
「アンタさ。何でケーサツなんかにいるの」
 非難がましい口調になったのは否めない。しかしそれは、人殺しが何故警察官に、という真っ当な憤りなどではなかった。
 それは、人殺しが何故警察なんかに居られるのかという嫉妬。自分と同じ外れ者が、何故真っ当に生きているのかという、羨望。
 しかし、それを受けたリンの反応は、クライヴにとっては意外なものだった。
「何で。何で、かぁ……」
 あくまで真面目な表情で呟くと、それきり顎に手を当てて考え込むリン。誤魔化すなよ、と起き上がって喉まで出かけたクライヴの文句は、彼女の徐々に深くなる眉間の皺に霧消する。
 やがて、まあ何だ、と口を開いたリンは、それでも腑に落ちないような顔をしていた。
「誘われたから、ってのが大きいかもな。曰く、『正義の味方にならないか』ってさ」
「正義の味方ぁ?」
 突拍子も無い単語に、クライヴの声が裏返る。
「何それ、うっさんくさ……」
 盛大に顔をしかめるクライヴの反応を予想していたのか、リンは特にそれを咎めるでもなく頷いた。
「ま、そうだな。実際体の良い生け贄だった訳だし」
「生け贄?」
 不穏な単語をおうむ返しにしたクライヴに向け、リンは意味ありげに人差し指を立てる。
「おっと、ここから先は重要機密だ。良い子はお休みの時間だぜ、仔犬君」
「良い子がこんな所で寝るかよ」
「はっ、正論だな」
 クライヴの屁理屈を鼻で笑ったリンは、気付けば随分と短くなっていた煙草を、懐から取り出した携帯灰皿に押し付けた。
「まあ、檻の中は不自由だろうが危険も少ない。今夜は安心して休むといい、安全性だけは折り紙つきだ」
 ぱちん、と携帯灰皿を閉じて、リンはクライヴに笑顔を向ける。
「それじゃおやすみ、狂犬君。──また明日な」
 にっと唇の端をつり上げたその顔には、揶揄いじみた含みこそあれ裏はなさそうだ。ヒラリと一つ手を振って、クライヴの檻の前から踵を返す。
 その背中に向けて開きかけたクライヴの口は、しかし途中で逡巡するようにすぼまっていく。結局無言のままにリンの後ろ姿を見送って、クライヴはベッドに身体を投げ出した。少年の体重をそのまま受け止めた簡易ベッドが、嫌な音を立てて軋みを上げる。
 ──アンタこそ、ちゃんと寝ろよな。
 そんな義理もないしと飲み込んだ台詞は、クライヴが再び意識を手放すまでの間、喉の奥の方にわだかまり続けていた。

四.

 ──ビリ、と肌を刺すような殺気で目が覚めた。
 心地良い微睡みをかなぐり捨てて飛び起きたクライヴは、一瞬で膝を立てて周囲を窺う。索敵を最優先にしたクライヴには、自分が素足だとか、足元が妙に柔らかいだとか、そういう些細な認識はまだ届いていない。
「流石だな」
 投げかけられた中音に勢いよく顔を上げる。そこには、昨晩のように柵の向こうに立つリンの姿があった。
「……アンタ」
 ぽつりと零したクライヴに、徐々に記憶が戻ってくる。ここは拘置所で、目の前の女とは昨日協力関係になった、はずだ。一方的に殺気を向けられる謂われはない。
 リンは敵意の無さを示すためか、空の両手を上げて見せる。
「そう警戒するなよ」
「は?」
 簡素極まりないクライヴの返答には、明らかな怒りが込められていた。朝一番で殺気をぶつけられて警戒するなとは何事だ。不服の意図を込めたひと睨みを、リンは苦笑一つで受け流す。
「大声出すよりこっちの方が手っ取り早かっただけだ。お前なら起きるだろうと思ってな」
 そう言って自らの腕時計を示した。見れば六を少し過ぎたところで長針と短針が重なっている。普段よりは熟睡していたらしいが、それでもわざわざ起こされるには早すぎる時間だ。留置場の起床時刻は朝七時だと説明されていた。
 そう抗議すれば、規定上はな、と底意地悪く笑うリン。
「お伺いなら昨日立てただろう? おはよう少年。お勤めだぜ」

   ◇◇◇

 人もまばらな市警本部庁舎を抜け、腰紐と手錠を付けられたクライヴが連れられて来たのは、昨日と似たような取り調べ室だった。違うのは、今日は入った時から机の上に紙袋が置かれていたことだ。昨日リンが差し入れと書類を入れて持っていたものより、更にふた回りほど大きい。
「着替えろ」
 部屋の鍵を閉め、クライヴの拘束を外したリンが、端的な指示と共に紙袋を指し示す。怪訝な顔でクライヴが袋の中身を引っ張り出せば、それは一揃いの洋服だった。洗い晒しのジーンズに白いシャツ、コートはクライヴの着ていたものより厚手で、形も少しだけフォーマルだ。
「いや、何この服」
「お前が着てたのよりかは多少マシな服だ。警察官(わたし)が連れ歩く以上、一般人が不審がらない程度の格好してもらうからな」
 嫌味っぽいが妥当と言えば妥当な言い分だろう。自前の服装が清潔感に欠けているのは、クライヴ自身自覚するところだ。溜息と共に、クライヴは一つ頷いた。
「分かったよ。じゃあ着替えるから、アンタはさっさと出てって」
「あ? お前一人にして何かあったらマズいだろ」
「……は?」
 当たり前のように応じられて、一瞬言葉の意味を見失うクライヴ。リンの台詞を咀嚼して飲み込んで、漸く声を上げる。
「いや、じゃあ何、アンタの目の前で着替えろっての⁉︎」
「何だよその反応、生娘じゃあるまいし。こっちだって見たくて見てる訳じゃない、下着まで脱げって訳じゃないんだからさっさとしろよ」
 そう言い放つと、リンは手近な壁に身を預けた。冗談などではなく本気で居座るつもりらしい。
 クライヴは暫く複雑な表情でリンと服を交互に眺めていたが、やがて観念したようにVネックのシャツを脱いだ。筋肉こそ薄くついてはいるが、全体的に肉付きの悪い身体をひやりとした外気が包む。ちらりとリンの方を窺えば、ばっちり視線がかち合った。気まずくなったクライヴは、剥き出しの上半身を急いでシャツで覆う。
 シャツのボタンを閉めていると、新品の布の香りがクライヴの鼻腔をくすぐった。リンの視線は勿論だが、こんなに小綺麗な格好自体初めてで落ち着かない。
 次は、とカーゴパンツに指を伸ばしかけて、手を止める。当たり前だがリンの視線が痛かった。本人に邪な感情がない分、むしろ観察眼としての圧が増しているような気さえする。
 暫く抗議の視線を送ってみるも、リンはたじろぎもせずこちらを見つめ返している。むしろ何をもたついているのかと文句の一つでも言いたげだ。デリカシーとかないのかよこの女、とクライヴは眉をひそめる。
 逡巡するクライヴの視界に、天啓が映り込んだのはその時だった。
 クライヴは机の上に置きっぱなしだったコートを羽織り、リンに背を向けた。ロングのコートはクライヴの太腿まで余裕で覆い隠すくらいの着丈がある。これなら無様に下着姿を晒さなくて済むだろう。第一自分の半裸はそんなに安くない。
 肩越しにどうだと笑って見せると、リンは興味なさげに肩を竦めた。早くしろ(hurry)、と唇が動く。その態度に苛立ったクライヴは、一気にカーゴパンツを下ろしてジーンズに履き替えると、着ていたものを丸めて紙袋に突っ込んでやった。
「出来たよ」
 仏頂面で報告すると、ようやく壁から背中を離したリンに手招きされる。怪訝に思いつつも近付けば、懐から二つ折りの携帯用(コーム)を取り出したリンに手荒く髪を梳かれた。わっ、だの痛っ、だのという時折上がる声を無視して、リンはこれまた何処からか取り出したヘアワックスで、手早く髪型を整えていく。
「ほう、見違えたな」
 やがて整髪の手を止めたリンが、一言そう呟いた。髪型ごときで本当に見違えたかどうかは分からないが、満足気な声音から察するにリンとしては及第のラインなのだろう。
「……それはどーも。ていうかさぁ」
 気の無い礼を一つ返して、クライヴは自分のシャツの胸元を引っ張って見せる。
「これ。サイズ合ってんの怖いんだけど」
「そりゃお前、身長体重は昨日測ったろうが」
「測ったけど。それから調達したのかよ……」 
 当たり前のように言うリンだが、身体測定をしたのは拘置所に入れられる時の話だ。昼過ぎと甘めに見積もったとしても、その後取り調べを終えて衣料店の類が閉まるまで、一体どれだけ時間があったというのか。
 ──多忙とか言うだけ言って、実際暇なんじゃなかろうか。
 疑念を抱き始めたクライヴをよそに、リンは仕上げだ、と胸ポケットから小物を取り出すと、有無を言わせずクライヴへと装着した。
「……何この眼鏡」
「伊達だよ。お前、界隈じゃ顔でバレるだろ? 有名人」
 確かに自分の顔が割れていそうな連中なら、ヴォルピーノの派閥以外にも幾らか心当たりがある。だが今回刺激するのは市警の番犬と路地裏の狂犬を同時に、かつ強く警戒している層だけで良いのだ。有象無象に絡まれて余計なトラブルを抱え込まない為の撹乱、ということか。
「それはそうだけど……こんなんで大丈夫なの?」
「ひとまずは、だな。目元の印象ってのは顔の認識に結構影響あるんだぜ? 今回はパッと見で分からなければそれで良い訳だし、コストパフォーマンスとしても一番効果的だ」
 そこで言葉を切ったリンは、改めてクライヴの全身を眺める。その出で立ちに納得がいったのか、ご満悦といった調子で数度頷いた。
「よしよし、悪くない。どこぞの優等生のお坊ちゃんみたいだぜ? こういう時顔が良いのは得だな」
 ぽんとクライヴの肩を叩くと、リンは身を翻す。そして手錠も腰縄も付けていないクライヴの前で、取調室の扉を開けた。
「じゃ、いざ出陣と行こうか。付いて来い」

   ◇◇◇

 コツコツと革靴の踵を鳴らし、肩で風を切りながら、アイリーン・G・フライアーズは我が物顔で庁舎の廊下を突き進んで行く。その後を、クライヴは素直に付いて歩いていた。時刻は七時過ぎ、時間の経過に従って着替える前よりは制服警官も私服警官も増えている。警察の中心部、謂わば敵の本陣を歩いているのだと思うと落ち着かなかった。
「良いのかよ、こんな事して」
 リンの数歩後ろからクライヴが問う。一切の拘束が無いこの状況なら逃走を試みることも出来るのだろうが、流石にここから庁舎の外まで取り押さえられずに逃げ切れるとは思っていない。
 クライヴの今更と言えば今更な疑問に、リンは当然のように頷く。
「ああ、良くないぜ?」
「おい不良警官」
「良くないが、それで女狐の尻尾が捕まえられるならやる価値はある。その為の権限、あるいは権力ってやつだ。警察の基本は『疑わしきは被告人の利益に』、白黒付かなきゃセーフなんだぜ」
 妙に得意げに言うリンの後頭部で、束ねられた後ろ髪が歩調に合わせてゆらゆらと揺れる。尻尾みたいだと頭の片隅で思いながら、クライヴは問いを重ねた。
「何でそこまでしてヴォルピーノをどうにかしたいわけ? あんだけ勢力ある連中をどうこうしようなんてさ、不毛じゃない?」
 意地の悪い質問にも、リンは一切動揺を見せない。振り返りもせずに即答
「それが警察(我々)の仕事だからな」
「……アンタのはそれだけで出来るレベルじゃないんですけど」
 相変わらず微妙に的の外れた答えにクライヴは嘆息する。やはり人として何処かズレているのではないだろうか、この女は。
「実際さぁ、俺みたいのにこうして報復食らって怖くないの? アンタはともかく、家族とかさ」
 本人が駄目ならそれより弱い周囲の人間人に魔の手を伸ばす、良くある話だ。卑劣だなどという罵倒が通じるならば、連中ももう少しまともな生き方をしていることだろう。
 さして珍しくも無い想定──即ち彼女ほどの切れ者ならば想定していて然るべき問いに、何故かリンは言葉を濁す。
「あー、いや。家族……は」
 並べられる単語は言葉を選ぶようでいて、その実それすらも投げ出したいような。そんな気まずい雰囲気を隠しもしないというのもまた、これまでの切れ者っぷりに反する態度だ。
「あれ、家族の話は地雷?」
 珍しい反応に、クライヴはぐるりとリンの正面に回り込んでその顔を覗き込む。しけた顔を拝んでやろうと思ったのだが、意外にも表情自体はそう暗くはなかった。どちらかと言えば困ったような、むしろクライヴを気遣うような曖昧な表情のまま、リンは呟くように問いに応える。
「地雷っつーかまあ、無い袖は振れない(Nothing comes from nothing)よな、金に限らず」
「──え、それ」
 意味深な台詞をクライヴが問いただそうとした時だ。
「おい! 随分と仲良さげだなぁ番犬さんよぉ!」
 背後から唐突に飛んできた明け透けな言葉には、あからさまな敵意が滲んでいた。それに反応してか、リンがぴたりと歩みを止める。ゆっくりと振り返るリンの顔には、既に温度のない無表情が貼り付いていた。いつになく硬い表情を目にしたクライヴも、驚いて背後に向き直る。
「……ホワイト」
 リンの視線の先には、一人の制服警官が立っていた。年の頃にしてリンと同じくらいの、筋肉質な白人男性。刈り上げた短髪は金に近いほど明るい茶色で、攻撃の意図を隠そうともしないその口元は笑みの形に歪んでいる。
「そいつが例の仔犬か? 『同胞狩り』のお前が子守りたぁ笑わせるぜ。潔癖そうなツラしてそういうシュミかよ、何なら纏めて俺がお相手してやろうか?」
「あ?」
「クライヴ」
 投げかけられた嘲笑に脊髄反射で威嚇するクライヴを制し、リンは一歩前に出る。
「私に不満があるのは分かるがな。その場に居合わせただけの奴まで一緒くたに貶すのはどうかと思うぞ、コーディ・ホワイト」
「ケッ、上の飼い犬風情が偉そうに」
 ホワイトと呼ばれた警官は、軽蔑を込めて吐き捨てる。きつい三白眼で睨みつけると、突き刺さんばかりの勢いで人差し指をリンに向けた。
「俺は、ノーリッシュさんを殺したお前を許さねぇ」
 物騒な台詞にクライヴはぎょっとする。確かに昨晩そんな話もしたにはしたが、まさかそんなに大っぴらに動いているのだろうか。
 思わず顔色を窺った先、リンの口から零れ出たのはごく軽い溜息だった。聞き分けの悪い子供でも窘めるような調子で、リンは言葉を続ける。
「殺してないし、マイルズ・ノーリッシュは汚職に手を染めていた」
「あの人はそんな人じゃねえ、脅されてたんだ! だから罷免になってすぐ、あんな……」
 そこから先は声にならず、ホワイトは言葉を失って目を伏せる。急に消沈するホワイトに向け、リンが投げかけたのは容赦の無い言葉だった。
「ノーリッシュ元警部補が殺されたのはこちらにとっても痛手だがな。利用価値が無くなったら口封じ、そういうのは連中の十八番だろう。リスク覚悟で反社会勢力と関係を持ったんだ、同情の余地は無い」
「ふざけんな!」
 ダン! とホワイトが壁を殴りつけた。大きく鈍い音に、通りすがりの警官達が何事かと視線を寄越してくる。
 衆目に晒されている事にも気付かない様子のホワイトは、リンの襟首を掴むと、地を這うような声で糾弾した。
「お前が殺した。お前が殺したんだ、フライアーズ」
 言い募るホワイトの目には燃えるような憎悪が滾っている。その熱量に反するように、リンの視線は底冷えしそうなほど冷たいままだ。
「私は職務に則って汚職を摘発しただけだ。それが理由で寝首を掻かれたんだとしたら、端から汚職なんかする器じゃなかったんだよ」
 ひゅ、と音がしそうな程に息を呑むホワイト。その一瞬をついて、リンは彼の手を振り払った。そのままホワイトの脇をすり抜けて何事も無かったかのように歩き出す。慌ててその背を追いかけるクライヴがちらりと背後を振り返ると、ホワイトはこちらを向いて立ち尽くしたまま、しかし呪い殺せそうな程にリンを睨め付けていた。
「──地獄に堕ちろ、雌犬め」
 真っ直ぐな背に投げかけられる、低く静かなホワイトの怨嗟の声。それでも、彼女の歩みが止まることはなかった。

   ◇◇◇

「……何で、あんな」
 ホワイトの姿が見えなくなったのを確認して、クライヴがぽつりと呟く。誰に問うでもなかった不服げなそれを、しかしリンは耳聡く拾い上げた。
「お前に手を出されると流石に困るんだよ。あれでも一応警官で、ここは路地裏じゃなく市警本部だ」
「そうじゃない」
 リンの寄越した回答に、クライヴは首を横に振る。彼女は何故か、『何であんなのへの反撃を止めたのか』という意味合いでクライヴの呟きを解釈したようだ。確かにそれも不服ではあったが、流石のクライヴも市警本部で事を起こす程やんちゃでは、もとい、無謀ではない。
 どうにも感性のズレているらしいリンだが、それを補って余りある頭の回転で即座に「ああ、話の中身か?」と軌道を修正する。
「前に居たのが内部監査の部署だったんだ。ノーリッシュみたいな裏切り者を炙り出して何人か処分したからな。そこそこ恨み買ってんだよ」
「同士討ちって事? なんだ、どっちが裏切り者か分かんないじゃん」
「ま、そういう事──」
 だな、とあっさり肯定しかけたリンの言葉は、しかし言い終わらぬうちに途切れた。同時にその歩みも再び止まる。またか、とクライヴがその顔を覗き込めば、リンは今度こそ本気で驚いた顔をしていた。眉をひそめて目を見張るその表情は、驚愕──否。
 ──これはむしろ、戦慄か?
 らしくない反応をまじまじと観察するクライヴには目もくれず、リンの口元が、ハマー、と小さく動く。それを見て取ったクライヴは、咄嗟にリンの視線を辿った。
 恐らく彼女の視界に居るだろう人間は、朝から軽口を叩き合う若手の制服警官達、気怠げなスーツ姿の中年刑事、そして。
「おはようございます、フライアーズ警部補」
 自らそうリンに声をかけてきたのは、私服の男性刑事だった。柔和そうな顔立ちに、仕立ての良さそうなライトグレーのスーツ。雰囲気は若いがリンよりは明らかに年嵩だ。三十代の前半から半ばといった所だろうか。
「どうしてここに? ハマー巡査部長」
 そう応じた時には既に、リンは普段通りの笑顔を取り繕っている。処世術で済ませるには不穏なほどの変わり身の早さだった。
 対するハマーもにこやかな笑顔でリンの問いに答える。
「昨日に引き続き本日もこちらだと、アオヤマ巡査に伺ったので」
 ああ、と答えるリンの語尾が揺れる。歯切れの悪い返事から分かりやすく唸って見せた後、リンは恐縮そうにハマーに告げた。
「悪いが今日一日は外に出る。貴方はここで例の件を洗っておいてくれ」
「そうですか……」
 リンの指示に、目に見えて意気消沈するハマー。しかしすぐに気を取り直したらしい、ぐっと拳を握ると自らリンに進言しようとする。
「あの、良ければ私も」
「いや、一人で良い」
 しかしその申し出を遮るように、リンが言葉を被せた。有無を言わせず「じゃあ任せた」とだけ告げると、脇をすり抜けるようにしてその場を後にする。
 終始無言のままそれに続いたクライヴが再び背後を窺えば、ハマーは意外にもあっさりとこちらに背を向けて歩き去った。
「チッ、アオヤマめ……」
 響いた舌打ちに顔を戻せば、リンが苦々しげに同僚に苦言を呈している。アオヤマとかいう巡査がリンの予定を勝手に漏らした行為が余程癪に触ったらしい。
「今のは?」
 クライヴのシンプルな問いに、リンは珍しく言い淀んだ。
「あー……まあ、同僚だよ。港湾署での私付きの補佐みたいなもんだ」
「ふーん? じゃあ相棒じゃん。あんな冷たくして良いの?」
「色々あんだよ、事情って奴が」
 面倒臭そうに言うとヒラヒラと手を振る。適当にはぐらかしたリンの分かりやすく雑な態度に、衝動的に苛立ったクライヴは一計を案じる事にした。
「何それ。ああ、もしかして惚れてるとか? 素直になれないーみたいな?」
「は?」
 唐突に始まった恋愛トークに、リンが間の抜けた声を上げた。ざまあみろ、とクライヴは内心でほくそ笑む。この手の話題は苦手だろうと踏んだ読みは、どうやら正解だったらしい。
 とは言え本気でキレられたら面倒だと、クライヴは一応話題を畳みに入る。
「まーそんな訳ないか。アンタの顔なら、その気になればあのくらいすぐ落とせそうだし?」
 そう言ってリンの反応を見れば、彼女は筆舌に尽くし難い微妙な表情をしていた。苦いとも渋いとも、はたまたしょっぱいとも付かないその表情を読み解きかねて、クライヴは純粋に困惑する。
「……何、図星? まさか経験無いとか言わないよね?」
 たっぷり数秒沈黙してから返ってきた返答は、溜息交じりの呆れ声だった。
「──意外と歳相応だな、お前。」
 醒めた視線を返されて、クライヴはぐっと言葉に詰まる。
「……バカにしてんだろ」
「いいや? 微笑ましくて大変結構だ、羨ましい」
 やれやれと軽く肩を竦めると、リンは再び歩を進めだす。
「ちょっと! 絶対馬鹿にしてるだろ!」
 そう食い下がるクライヴは気付いていないが、市警本部の通用口はもう目の前だ。そこを過ぎればリンの行為は、バレれば言い逃れの余地なく違法、という事になる。
 ──まあ、今更か。
 ほんの一瞬脳裏を過った、逡巡ですらない再認識。それを静かに吞み下すと、リンは躊躇うことなく屋外への一歩を踏み出した。

ストレイ・エンタテイナーズ番外編 Underdogs Fightback

ストレイ・エンタテイナーズ番外編 Underdogs Fightback

ストレイ・エンタテイナーズの一部キャラに焦点を当てた前日譚。 同作のネタバレを一部含みますが向こうの更新が遅いのであんまり気にしないで頂ければ。

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