君の声は僕の声 第七章 3 ─薪ストーブ─
薪ストーブ
「今夜は冷えるね」
ストーブの前で濡れた髪を拭きながら聡が震えて言った。
「そうだなあ」
ベンチに座っていた秀蓮が本から顔を上げる。
「ここからけっこう歩くけど、暖かい泉があるよ。行ってみるかい?」
「本当? 行く。歩いてでも行くよ!」
聡が嬉しそう秀蓮に振り返った。
「あっ……。でも──」
秀蓮は杏樹の身体のことを知らない。三人で一緒に行くわけにはいかない。聡は秀蓮から視線を逸らして考え込んだ。秀蓮は本を閉じテーブルの上に置いた。
「杏樹と僕たちと、交代で入ればいい。──近くを探せば別々に入る場所もあるかもしれないし」
まるで心を読まれたような言葉に聡は目を剥いた。
「どっ……!?」
聡が言葉を詰まらせていると、秀蓮が目を細めた。
「杏樹は女の子だろう?」
「えっ、あの……」
動揺を隠しきれない聡に、秀蓮は微笑んだ。
「聡は寮にいた時には、もう知っていたんだね?」
「あ、ごめん。でも隠そうとしたんじゃないんだ」
「別に責めているわけじゃないよ」
秀蓮が笑いながら言った。聡は頭を拭きながら、秀蓮の隣りに腰かけた。
「女の子……っていうか──」
聡は顔を上られずに口ごもる。
「男の子の特徴もあるんだろう?」
聡がびっくりして顔を上げた。
「何でわかるの!? 見……たの?」
聡がおずおずと聞く。その顔は真っ赤だ。
「こんな狭い家で一緒に暮らしてたら気づくって」
「そうか、なんだ……知ってたんだ──」
聡は大きくため息をつくと、ぐったりと背もたれに倒れた。
「もしかしたら、と思ってただけだよ。今の聡の反応で確信した」
聡が苦笑いした。
「驚かないんだね」
やはり秀蓮は自分とは違って大人なのだろうか。聡は、当たり前のことのように話す秀蓮を不思議に思った。
「僕は、杏樹がひとりで泉に入っていたのを……のぞき見しちゃったんだ──。もちろん何も知らないで……。それで、杏樹に見つかって、杏樹の体を見て、とても驚いたよ。杏樹を傷つけたと思う。だけど、杏樹の気持ちを思う余裕なんてなかったんだ」
聡はうつむいた。
「それは自然な反応だよ」
「えっ?」
秀蓮の意外な言葉に聡はぽかんとした。秀蓮は立ち上がるとストーブの扉を開き、ストーブの横に積んである薪を足しながら話した。
「人間は常識と思い込んでいるものから少しでも違うものを見ると驚き、恐れを抱く。でもそれは人間の防衛本能だよ。きっと、生きていくために必要なものなんだろうな。初めて遭遇したものか危険ではないか。自分に危害を加えるものなら攻撃もする。人間はそうやって自分たちを守って進化してきたんだ」
納得のいかないような顔をしている聡に、ストーブの扉を閉めてベンチに腰を下ろし、秀蓮は続けた。
「父のところには色々な患者が来たよ。──中には熊に憑りつかれたとかね。でも父は冷静に見ていた。何か必ず科学的な原因があるとね。常識では考えられないことは、常識が間違っていると父はいつも言っていたよ」
「…………」
じっと自分を見つめたままの聡に秀蓮は笑いかけた。
「僕たちだってそうだろう?」
聡ははっとした。
そうだ。自分たちは常識から外れている。でも現に僕たちは存在している。見方を変えれば、僕たちが存在していることのほうが常識なのだ。
冬の間、玲は解読を続けた。少しでも新しい情報を引き出そうとしているようだった。玲がなぜそこまでするのか、聡にはわかりかねた。
解読に数時間費やすと、玲は引っ込んでしまい、そのあとには杏樹が出てくる。
玲が杏樹のことも考えてくれているのか、杏樹が使う時間が増えていった。
「杏樹の気持ちが安定しているのかもしれない」
彼らの様子に秀蓮がそう言った。
初めはほとんど喋らず、聡と秀蓮の会話を聞いているだけだった杏樹も、ふたりの会話に入ってくるようになった。そして、自分のことを、少しずつ話すようになった。
──準備が整った
雪が解け、森の木々が芽吹く頃、呼鷹から連絡があった。そしてその日、夕食の片付けを終え、薪ストーブを囲むように、秀蓮の入れたお茶を飲みながら、三人は取り留めのないお喋りをしていた。それは、聡が母親の話へと話題を変えたときだった。聡と秀蓮の間に座り、聡の横顔をじっと見つめていた杏樹が、聡の話に興味を示し、初めて、母親の話を自分から口にしたのだった。
「僕のお母さんもね、優しかったよ……僕を『杏樹──私の天使(アンジュ)』って……いつもそう言って抱きしめてくれたんだ……」
杏樹は伏し目がちに笑った。
「天使?」
「そう。天使。──神の使いを異国では「天使」って言うんだって、僕に言って聞かせてくれたんだ。歌を歌いながら、そう言って僕を寝かしつけてくれた」
母親を思い出していた杏樹の顔が暗く沈んだ。
「素敵なお母さんだね」
励ますように聡が笑いかけると、杏樹は口を固く結んだ。杏樹の向こうで秀蓮も顔を曇らせた。杏樹は両手で持ったカップに目を落とし、お茶の揺れをぼんやり見つめていた。
「でも、ときどき急に怒り出すんだ。覚えているのは僕が五歳くらいのとき。僕がお母さんの鏡の前で、置いてあった口紅を塗って遊んでいたんだ。──それを見たお母さんは顔色を変えて、僕から口紅を取り上げた。そして、僕をひっぱたいた。僕の肩を揺さぶりながら、『お前は男の子なの! こんなもので遊ぶんじゃない』て。何度も……叩かれた」
聡と秀蓮の眉間にしわが寄せられ、心配そうな目が杏樹を見つめた。杏樹はふたりの不安を払うように少し笑ってみせた。
「──だけど、僕が目を瞑ると、お母さんは優しくなるんだよ」
聡は眉を寄せた。どういうことだろう。すると秀蓮が杏樹に繰り返した。
「杏樹が目を瞑るとお母さんが優しくなるの?」
杏樹は頷く。
「そう。怒り出すと叩くから、僕は怖くなって、目をきつく結んで『逃げたい』って思うんだ──そして目を開けたら、僕は自分の部屋にいて、お母さんは優しくなっているんだ……」
聡ははっとして杏樹の横顔に目をやった。同時に顔を上げた秀蓮と目が合った。秀蓮も同じことを思ったに違いない。
「僕は、──お母さんが優しいのか、よく、わからない……」
聡は飲み終えたカップをテーブルの上に置くと、頭を垂れた杏樹の肩に手を添えた。
「僕のお母さんだって、いつも優しかったわけじゃないよ。怒ると怖かったよ。えっと、そう、森へ行ったのがばれると、よく物置に閉じ込められたよ。鍵をかけられてね。出してって大声で叫んでも、扉を叩いても出してくれなくて、そのうち真っ暗になって、怖かったよ」
杏樹が顔を上げて小さく笑うと、聡はできるだけ優しく訊ねた。
「その後は……。その後も、そんな事があったの?」
杏樹はストーブの炎に目を移して、また話しはじめた。
「お母さんは機嫌がいいときは僕を抱いて撫でてくれた。──でも、よくイライラしていて……その頃、僕のお父さんは、仕事に行かなくなってたんだ。毎日家で酒を飲むか、勝手に家を出て行っては何日も帰って来なくなった。そして、お母さんに暴力をふるうようになっていったんだ。お母さんは僕をかばってくれた。──でも、泣きながら僕をぶった。──それから、僕はお母さんに怒られるたびに、逃げたいと強く思った。そうすれば、いつも気がつくと違う場所にいて、お母さんはもう怒っていなかったから」
聡と目の合った秀蓮は、目を伏せてうなずいた。
聡の心は沈んだ。
──そうやって杏樹は分裂していったんだ……。おそらくそのあいだ、罰を受けていたのは『心』なのだろう。
『心』は杏樹が痛みから逃れるために分裂した人格なんだ。
杏樹の母親は、呼鷹の言うように本当は優しい人だったのかもしれない。息子に天使と名づけて愛そうとしたのだろう。
杏樹を男の子として育てようとしたけど、それは、杏樹にとっては自然なことではなかったのかもしれない。母親は……、母親にも悩みはあったのかもしれない……。でも、杏樹は? 杏樹はぶたれるようなことは何もしていない。
聡が見つめるストーブの中の薪が崩れた。薪はパチパチと優しい音をたてながら形を変えて燃え続けた。
「その頃からだ。僕の記憶が飛ぶようになったのは。気がつくと知らない所にいたり、まだ食事をしていないのに「もう済んだでしょう」と言われたり、目の前で物が壊されていたり、散らかっていたり……僕がやったんじゃないって言うと、決まって嘘をつくなとぶたれた。家の中で、僕の知らないことが何度も起こって、そのたびに怒られるようになった。お母さんは僕を信じなくなったんだ」
杏樹がぼんやりとしていた。
「それから?」
杏樹が眠ってしまうのを心配した秀蓮が促した。
「それでもお母さんは優しかったよ。でもお父さんに代わって働きに出るようになって──家に帰れない日が続いた……。僕は家にひとりで、食べる物も無くなって──」
杏樹はそこまで話すと口を閉ざした。しばらく見つめていた炎が大きな音を立てると、はっと顔を上げ、また話し始めた。
「あいつが帰ってきたんだ」
君の声は僕の声 第七章 3 ─薪ストーブ─