猫になって歩けば棒に当たる?

「ごめんなさい。私今は『あの猫』のことが頭からどうしても離れないの……」
 そんな一言で僕の恋は終わった。



 始まりは高校2年の春。
 自慢じゃないけれど成績は赤点とはいかないまでもいつもテストが返ってくると親の顔が赤色に染まる。部活は運動部でそれなりに動けるって自信はあるけれどなにかで一番を獲ったことはない。世の中に蟻の数ほどいるであろう平凡な高校生の一人だと思う。 
 そして周りのクラスメイトがはしゃいでいるようには女の子と話なんてできないけれどそれでも気になる子は僕にだっている。
 
 虎子望(こねもち) ありささん。
 彼女は窓際の前から2番目の席で外を眺めているか、本を読んでいる所をよく見かける。
 髪は長くて僕の好みド真ん中だ。風に吹かれるとふわり舞うところが美しい。顔も美術館に飾られている高そうな陶器のように精彩で、背筋が曲がっているところなど見たことがなく凛々しい姿だ。
 容姿端麗、勉強もテストでは学年でいつも一桁台という成績。運動は少し苦手みたいだけどそれはむしろ周りの男子達の守ってあげたい欲求が駆り立てられて人気が上がる要因になっている。彼女は月に一通位の頻度でラブレターをもらったり、告白されたりしている。男でなくとも憧れる存在だと思う。
 でもその愛の告白は全て「ある理由」で断らているらしい。その理由を聞いてもみんな首を横に振るばかりで実際に告白した者にしか知りえない秘密になっている。
 そんな彼女に僕がアタックしても粉々になる未来像しか想像できず、同じ列の一番後ろの席で彼女のことを眺めていることしかできなかった。

 いつもと変わらず淡々と毎日を過ごしている僕に今日は少しだけ変化があった。部活の帰り道、同じクラスではないけれど部活内では親しくしている友人、仲峰宏が情報を持ってきたというのだ。
「な、錫木好きな子いたじゃん? 同じクラスのさ、あの子だよ。虎子望(こねもち)さんだっけ?」
「うーん、まあ好きっていうか少し気になるくらいだよ。別に好きなわけじゃないって」
 夕焼けの朱ではない赤が僕の頬に熱となって広がっていくのを意識しても止められなかった。それでも友人の手前強がって見たがニヤニヤと顔を緩める彼を見ればバレバレであることは明白だ。
「ふーん、どうせ好きなんだろ。その子の情報を持ってきてやったんだよ。聞くだろ? 噂のアイドルの秘密だぞ」
「どうせデマだろう。今までだって口を割った奴いなかったんだから」
「いやいやこれは本当に信頼できる仲峰ルートから仕入れた情報だから信頼できるって。それがさー、彼女……」
 ここで焦らすのかこいつ。
 常日頃からYKK製の優れたチャックを口につけてやりたいと思ってる位こいつはよくしゃべる。話好きな奴は流石に話術も巧みだ。
「猫が好きらしいんだよ」
「は? 猫? がどうしたって?」
 いや、やっぱり話したくて仕方なかったらしい。こっちが考えてる途中に話かけてきたからよく聞き取れなかったじゃないか。
「だから、猫に夢中だから人間様の男にゃ興味がないんだってよ。うけるよなー。お前どうすんの?」
「いやいやそんなバカみたいな理由なわけないだろ」
「でもさ必死こいて猫のことめっちゃ調べて話し合わせようとしたやつもいたらしいけど 、相手にもされなかったらしいよ。そんな浅薄な知識で私と猫の話をしようなど考えないでくださいってさ。流石は深窓のご令嬢。ガードが固い。とういより、おまえ話聞いてんのかよ! なあ、これじゃ俺一人でしゃべっててバカみたいじゃんかよ」
「うるせ、一人でしゃべってるのはいつものことだろうが」
「んな、バカとか言うなよ。お前も赤点ギリの落ちこぼれだろーが」
「今はそういう頭の悪さの話じゃねえ。日ごろのくだらない話しかできない仲峰君の頭の悪さの話をしてるの」
「おいおいおい。俺の話はつまらないところなんて一文字もないぞ。だからお前人の話聞いてる?」
「あー、あ。聞いてるよ。お前の話はいつもオチがつまらないって話だろ」
 最後の方の無駄な会話は三割程しか頭に入っていないがもちろん意識して入らないようにシャットアウトしている。隣で早口になにかをまくしたてている友人を適当にあしらいつつ、早くこの隣のおしゃべりな奴から離れたいと大股で忙しく歩いていく。

 昨日はうるさい友人が一緒だったが今日は一人で家路についていた。やはりまわりに誰もいない方が安心する。
 夕暮れ時で茜色に染まり始めた空を見上げながらぼーっと歩いていた。
 別に空が綺麗だとか思っているわけではなく、なんとなく上を向いて歩いていたかっただけだ。
 こんな都会の空がきれいだと思うわけがない。
 空気は淀み、人間は溢れかえって頭痛がしてきそうなほど醜悪だ。
 夜になれば煌々と灯りをともし、車は我が物顔で道路に爆音を響かせる。
 ほら今だって遠くのほうなのに聞こえてくる。大型のトラックだろうか、鼓膜を震わせるどころでなく大地を震わせながら近づいてきている。
 僕は先の歩行者用の信号が赤なので少し歩くスピードを落とし、歩みを止めた。
 が、僕の視界の下をゆく小さな影は立ち止ることなく車道を横断していった。最初はなんだか分からなかったが歩くたびに細かく揺れる細い尻尾で猫だということに気がついた。
 猫は信号なんて理解出来やしない、けどすぐそこまで来ているトラックに気がつかないのだろうか。三車線あるうちの三分の一位渡ってしまっている。
 僕らがいる方ではない歩行者信号の青が点滅した。
 よし。これなら赤になる。早く黄色に変われ! 僕の願いは叶い信号は黄色に変わったのだが、予想に反してトラックの唸り声は心なしか激しくなったように感じた。僕は恐ろしい未来を思い浮かべて心臓が激しく締め付けられるような苦しさに襲われた。
 良いのだろうかこのままで。目の前で命が易々と失われていく様を眺めているだけで。また自分から動かずに流れに身を任せているだけで本当にこの後後悔しないだろうか。いや、しないはずはない。。何のために日ごろから鍛錬して心体を鍛えているのか、こういう時こそ身体を張って助けに走らずには男として胸を張ることはできないだろう。
 すでに大型トラックはすぐそこに来ているが僕は歯を食いしばり飛び出した。鼓膜を貫くかの如く高いクラクションの音と車体が横滑りする音を耳にし、全身の肌が死を予感して泡立った。
 それでも僕は走る。あの小さな命の灯火を守りたいという衝動を力にして。
 何とか温もりをつかみ上げた頃には圧倒的な重量と破壊の力を持ったトラックが僕の真横に迫りきて僕らを押しつぶそうとうなりをあげる。自分の境遇が未だにつかめていないのか腕の中の猫はぽかんとした顔をしているように見えた。その愛くるしい表情に危機的状況であるのに自然と表情筋が緩んでいく。猫の顔を眺めつつも、すでに避けられる距離ではない位置までトラックは滑ってきていた。僕の肩に死神の手がかかったような気がした。
「無様な最後よのう」
 そんなあざ笑うような声が聞こえてきそうだ。
 生きてこの道を渡りきることはできないと覚悟した僕は自分を諦めた。けれどせめて、せめてこの温もりだけは渡りきらせてあげたい。自分でも驚く程速く、そっと、腕の中の温もりを放り投げた。迫りくる死神の鎌から解放してあげるために。
 その直後僕は何トンかも想像もつかない鉄の塊と衝突し、自分のどこだかわからない骨が粉々になっていくなと認識しただけで痛みを感じる時すら与えられずコンセントが乱暴に引き抜かれたかのように意識が唐突に切れてしまった。

 あの猫はどうなってしまったんだろう。
 あの後、猫が助かったのかどうか確認したくてもできない。僕はもちろん死んでいるんだろう。だけどあの猫は助かったと信じたい。一緒にひかれてしまったのなら僕は何もできなかったことになる。最後の最後までなにも出来なくて終わる人生だったと今更ながら涙が出てきそうだった。しかし生きていてももう会うことはないだろうな……
「それがあるんだニャ~」
「!!」
 突如として僕以外のなにかが割り込んできて反射的に頭をかきむしった。
 さっきの声、今音としてじゃなくてもっと変な感じ……直に頭で理解したのだろうか?
 というより……ここどこだ? ただの僕の思考じゃなかったのか?
「頭にハテナマークばっかり浮かべて混乱しすぎニャ。戸惑う気持ちもわかるが鬱陶しいニャ。でもまあ命の恩人だし強くは怒れないニャ」
「命の……恩人?」
「またハテナかニャ。もう気にしない気にしない。。そうそう命の恩人だニャ。わしはおぬしに救われた猫だニャ」
 ゆらりと闇の奥から現れたのは一匹の猫。
「あの時の猫? で、でもあの時助けたのはたしか詳しく見る暇がなかったけど三毛だったはず……君のようにその……金色ではなかった」
 その猫は毛が艶やかな光沢を放つ金の毛を持つ猫だった。
「カカカ。そうだニャ。あの時は仮の姿、三毛猫として生活してる状態ニャ。でもただの三毛猫じゃないニャ。オスの三毛猫ニャ。すごくないかニャ?」
 愉快そうに僕に理解を求めてきたがこれっぽっちもすごいとは思わない。なにがすごいのだろう化けられるからか?
「む、これはわからんって顔だニャ。まったく無知だニャ。三毛のオスは遺伝的に……って話すと長くなりそうだからやめておくけど、それよりもっとわしがすごいのはニャ――わしが猫の神、猫神様であることニャ! 敬意をこめて猫神様と呼ぶことを許してやるニャ」
 得意げに胸を張る猫。二本足で立ってるよその方がすごいよ。
「何か反応しろよ!――って興奮しすぎてうっかり|ニャ《設定》を忘れてしまったニャ」
 僕が黙っているとその猫はぷりぷりと怒りだした。仕方ないので思ったことそのままに言ってみることにした。
「へー。なんか金色で偉そうな態度だし、僕の頭に勝手に入り込んできてるから、そんな感じなんだろうなと思ったからさ」
「――なんて面白みのない奴だニャ」
「すんません」
「ま、気を取り直せわし。うん。こんな若造になめられちゃいかん」
 自分を応援している神様ってなんだか斬新だなあ。
「それでわしは神だニャ。猫のだけど」
「神様なのになんで車なんかにひかれそうになってるんですか」
「わしも考え事をする時だってあるんだニャ。あの時も今日のおやつは……」
「あー。それで僕に何か用があっていらしたんじゃないんですか。あ、もしかして死んじゃったから生き返らせてくれるとかですか?」
 その後の言葉を聞くとさらに神様であることが信じられなくなりそうだったので途中で話を捻じ曲げて言った。もちろん本気で言ったわけじゃない冗談である。
「んニャ、死んではないニャ」
「死んでないんですか」
「――意識不明の重体、わしの見立てでは目立覚めるまでに半年以上はかかるニャ」
「半年……」
 呟いてはみたものの正直実感はない。一度は死神が迎えに来たと覚悟していた。けど実際来たのは自称猫神様。何が目的かわからないので尋ねてみることにした。
「それでこんな頭の中にまで何しに来たんですか? お礼とか? 別にいらないですよあんなの僕の自己満足でしかないし」
「お礼か。そんなののためにわざわざわしが腰を上げるわけないニャ。面倒なのは嫌いなんだニャ。単刀直入に言おうかニャ。目が覚めるまででもいい。おぬし、猫として生活してみないかニャ?」
 猫への転生。誰もが一度は憧れたことがあるのではないだろうか。好きな時に起きて、ご飯も飼い主がいれば特に努力しなくても与えられる。勝手に家を出ていっても文句は言われないし、かまってほしい時だけ甘えた態度をとればあわよくばおやつなんかも出てくる。悠悠自適に生活できる素晴らしい生き物である。と僕は勝手に想像している。
 一度死んだと思っていた身だ。特に人間にこだわりや未練とかあるわけじゃない。むしろ猫っていいなーと屋根の上を見上げていた自分を思い起こした。なにより覚醒するかどうかもわからない意識のない身体に居たってつまらないだけだろう。あの子の長く綺麗な髪が記憶の影としてちらついたがそれも一瞬のことだ。
 僕は決意した。
「よし。それじゃあ僕を猫にしてください」
 想像していたより早い返答で逆に提案してきた猫の方が呆気にとられた顔をしていた。
「ほ、本当に良いのかニャ? 時間は余裕があるからもっと考えて良いんだけどニャ。その元に戻れるのかとかうまい飯食わせてくれるのかとかおやつは何回までとか毛糸の玉はいくつ与えてもらえるのかとか気にならんのかニャ?」
「うーん、別に。後半の疑問は思い浮かびもしなかったけど」
「そ、そうか。まあおぬしが良いというならわしも恩返しができたと喜べるしニャ」
 トラックにひかれたそうになった猫を助けた僕は、助けた猫に猫にしてもらうことになった。

 僕は人間が嫌いだ。だから、自分だって嫌いだった。
 何かになりたいという夢なんて持っていないし、ただ漠然と流れに身を任せて生きてきただけだと思う。
 もし死んだら何になって何がしたい、なんて考える事が多かった僕。
 むろんその中に別また人間になりたいと思ったことなどただの一回もなかった。

「それで、おぬしはどんな猫になりたいとか要望はあるのかニャ?」
「そうだなー、毛は長いほうがいいなその方が可愛いし、夏は暑いだろうけど我慢できるだろう。ほら、だってあの短毛っていうかもう肌がむき出しで気持ち悪い猫いるじゃん? あれは流石に嫌だよな」
「スフィンクスだニャ。あいつらだって立派な純血種だニャ。――しかし人間にそんな風に思われていたのかニャ。哀れニャ……」
「あと、ブチャ鼻の奴も勘弁な。あれじゃ息しにくそうだし……」
「おぬし結構わがままな奴なんだニャ……」
「あと毛色は真っ白な! あの白い猫っていうのはたまらなく可愛い。フフフ……」
「わかった、わかったニャ。白で毛が長い奴でいいんだニャ?」
「うん。――人間をやめるのか、少しわくわくしてきたな」
「んじゃ、行くかニャ。人の思考に入り込むのは結構重労働なんだニャ。基本猫はめんどくさがりなんだから、こんなことは普通したがらないんだニャ。感謝せいニャ」
「それは猫神様だけの話じゃないのか。というより行くってどこに行くんだよ? 僕の身体は動けないだろう」
「そんな人間の身体など置いていくに決まってるニャ。あの時の余裕はどこへ行ったのやら。おぬしが行くのは――猫の世界だニャ」
「猫……」
「そう、猫、すぐ意識が覚める。その時はもうおぬしは猫だニャ」
 そう言って金の猫は来た時と同じように、ふらりと姿を消した。そして僕の思考も眠るように、より深い闇へと沈んでいった。


「みゃ~」
 かすかな猫の鳴き声のようなものに無理やり反応させられぼくは目を見開いた。
 一部雲に隠れてしまって形がおぼろげな三日月が空を、大地をぼんやりと照らしている。
「ここはどこ? ぼくはだれ?」
「べたな目覚め方はしないでほしいニャ」
「おい! そのべたな目覚め方をさせてくれよ!」
「だっておぬしのおバカに付き合ってたら時間かかりそうだし、さっきも言った通り猫はめんどくさがりなんだニャ」
「そんなこと言うなよ。一生に一度あるかないか位貴重な一瞬だぞ。それをよくも……はー、なんかもうどうでもよくなってきた」
「カカカ。おめでとう。これでわかったろ? おぬしも猫の仲間入りニャ」
「な、なんか、あっさりしすぎというか拍子抜けするな」
「ま、自分を見てみれば実感するんじゃないかニャ? そしてわしの偉大さも……」
「おー。ほんとだ、すげー。ほんとに猫の身体だ。ふわふわ真っ白、想像通りだ」
「そうじゃろう? だ、だからわしの偉大さに……」
「頬ずりしたい位ふわふわだよこれ。でも自分の身体だからできないか。あ! でもこの尻尾がある。うおーふわふわ」
「――完全わし無視。うっ、うっ」
「あ、ありがとな。お前見かけだけじゃなくてすごいのな!」
「い、いきなり思い出したように褒められても、ウ、うれしくなんてないミャ~」
「あんまりくねくねするな気持ち悪い」
 興奮して周りを見ていなかったが、ここは白を基調とした殺風景な部屋簡単にいってしまえば病室だ。ベットが一つということは個室のようだ。その部屋の窓際にあるベッドに僕は横たわっていた。
 今のぼくのように身体は真っ白で、顔の一部と布団で隠れているところ以外包帯で覆われている。
「あの日から一週間は過ぎてるニャ。安定はしているけど回復の進展はないニャ」
「ここの僕が死んだら、今の猫のぼくはどうなるんだ?」
「別に、今のおぬしとあの身体は全くつながってないニャ。死んでも猫のおぬしは変わらず猫として生きていけるニャ。だがあの身体が意識を取り戻すことができる状態になっても、おぬしが猫として生きていっている間は動くことは無いニャ」
「――そうか」
 これといって人としての生に未練は無い。無いはずなのだが頭の片隅に、染みついて拭いきることができない不安、恐怖があることを身震いと共に実感する。
 ふとあの流れるような髪を思い出した。
 僕はあの髪が好きだったみたいだ。自分を捨ててから気がつくとはいかに自分が適当に生きていたかを実感する。だからこそこれから始める生ではおもいっきり生きていこう。 

「よし。それでこれからどうする? 猫なんてどんなふうに生きていけばいいかわかんないんだけど」
「まずはわしの住んでいる家にくるニャ。でっかいからおぬし一匹増えたところで変わらんと……思うミャ」
「なんで最後自信なさげなんだよ。神様なら威厳持てよ。しかも動揺すると設定間違えんのな」
「そうわしは神、大丈夫、大丈夫ミャもん」
「ったく大丈夫かよ」
 全く神様らしくなく最初は敬語で恐る恐る話していたがだんだん呆れてきてため口になってきているが、相手も何も言わないのでそのままでいくことにしよう。
 先に猫神様が部屋の窓から外に飛び降りてしまい若干びくびくしながらも思いきって飛んでみたけれど、想像していた足の痺れなどはなく無事に着地できた。
 猫の身体の使い方は勝手にできるみたいだ。たしかに三日月の頼りない微光でも夜の街も見通せるし、体が軽いので動きがスムーズだ。四足歩行もなめちゃいけないな。
 病院は僕の家の近くのだったようで表に出てもなじみのある風景ではある。あるのだが、やたらと視点が高い。そりゃ人様の家の屋根の上を歩いてりゃ目の位置も高くなる。
「さっきから、なにをぶつぶついってるニャー。気持ち悪いニャ」
「んぐ。気持ち悪いとか言うな、つかお前もっとまともなとこ歩けないのか?」
「まともなとこ? こんなに高くて清々しいとこ歩いてるのになにが不満なんだニャ?」
「屋根の上が清々しい気分になれるか……ん? あ、なんか気分爽快楽しくなってきた」
「そうだろニャ。おぬしも猫なんだニャ。人間の時の常識なんて無意味なんだニャ」
「そうか、ん? でもおまえなんで人間の時の俺の……」
「っし、静かに!」
 突然鋭い叱責と共に、静止がかけられた。
「伏せて動くでないぞ」
 今まで聞いたことのない猫神様の声色に多少ビビりつつ屋根に身を伏せた。ピンと立たせた耳をあちらこちらへと揺らしながら、鋭い目で辺りを油断なく窺っている。その後ろでぼくは伏せていたのだが、猫神様のある部分に気を取られて仕方なかった。
 意外とたまたまちっこいな……神様だからもっと立派なのかと思ったけど、哀れ。
 そんな不謹慎事を考えていることも露知らず猫神様は真剣な顔つきで、鋭い刺に覆われた茨の道を歩くかのように用心深く進んでいた。
 そして隣の家の屋根に飛び移った、先の正面にもう一匹猫が座っていた。
 唐突に姿を見せたその猫は元々そこに存在していたかのような錯覚をぼくに植えつけていた。
 身体はぼくと対象で真っ黒。闇色とでも表現した方がしっくりきそうである。。その中にくっきりと浮かぶ満月のような金色に輝く瞳。これほど夜という印象をもたせる猫はいないだろう。
「やあ。ご機嫌いかがかニャ? 夜猫(やねこ)族の頭殿」
「おうおう。いつ見ても小っさい玉やな。こっちは上機嫌だよ。夜だしな」
「三毛のオスは生殖機能がないんだからしょうがないんだニャ。しかもこの体は仮のものだと何回言ったらわかるんだニャ」
「あーあー、何回も聞いてっから耳にたんこぶできてるよ。ったく」
「それをいうなら、たこ焼きニャ」
 どっちも惜しいが、余計なのが付いてるぞ。しかもたこ焼きって食べもののことしか頭にないのだろうかあの神様は。
「それで? この辺にはいつもは来ないのに今日はどうしたのニャ?」
「あん? ただの散歩、と言いたいがどうせわかってるんだろ? 神様にゃかなわんよ。おい、猫神様にご挨拶しろ」
 黒猫に呼ばれて、さらに奥の家の屋根から猫が飛び乗ってきた。そして何度も黒猫の目を窺いながら彼の一歩後ろに座りこんだ。
 その猫は神様というよりすぐそこにいる黒猫の方に、おずおずとしているように見えた。
「こいつは今日俺のとこの仲間になったもんだ。ま、新人だからよろしく頼むぜ」
「やはりおぬし、また……」
「あん? 説教とかやめてくれよな。一応新人の手前だぜ。かっこつけさせてくれよ」
「ふー、わしも今日は忙しい。とりあえずこのことはまた今度にしよう」
「へへ。ありがとさんよ。おい、行くぞ!」
 そういうと、二匹の猫は闇の中へ溶けるように飛び去って行った。
「もう動いても大丈夫ニャ。こっちに来るニャ」
「わかりにくい語尾だな……」
 ぼやきながら猫神様のところへ飛び移った。
「んで? あいつら何なのさ?」
「今説明しても、頭がついていけないと思うからまた、機会が来たら詳しく説明するニャ。ただ……」
「ただ?」
「奴と会ったら全力で逃げるニャ」
「――だから語尾がわかりにくいって、それ設定ならやめろよ」
「関わりを持たないようにするニャ」
「無視しやがった……」
「危険な奴だニャ。わしとも敵対関係のような立場にあるニャ」
「ふーん、そうなんだー」
「真面目に聞けニャ!」
 後ろ足で蹴られた。
「いたいなあ、真面目に聞かせてくれないのはお前が原因なのに」
「フン、行くぞ、ニャ」
「思い出したように付け足すな……」
 少々機嫌を損ねてしまったようだ。
 先程の慎重な歩き方とはうって変わって大地に八当たるかのように踏みしめて歩いていた。それにぼくはひょこひょこついて行った。

「ココ、ニャ」
 そう言って立ち止ったのは、見上げるほど大きな門がある屋敷の前だった。猫だから見上げるというわけでなく、人間の大きさでも見上げる大きさである。
「でっかいなー」
「ま、わしを祀る位の家柄だから大きくて当然ニャ。古くからお世話になってるニャ」
「お、おまえ祀られてるのか!?」
「神様だからニャー。ほれ行くニャ」
「あ、ああ」
 いまさらこいつの神様性を実感しつつ後について敷地を跨いだ。

 門をぬけてからどれだけの年月が流れただろうか……と思ってしまうくらいこの屋敷の庭は広かった。林を抜け、川を渡り、湿地帯を走り抜け、湖のような規模を持つ池を眺め
「ここにはうまい魚がいっぱいいるんだニャ。でも時々一メートル位の体躯で鋭い歯がいっぱい並んでる魚もいるから気をつけるニャ」
 という猫神様の言葉をスル―して、やっと、やっとの思いで家の輪郭が見えてきたのは、霞がかった朝日が上半分程を見せ始めた頃だった。
「お、屋敷が見えてきたニャ。うちの庭の案内は大体これくらいにしておこうかニャ。この庭に無いのは山と海くらいじゃないかニャ」
「な、なんで直接屋敷に行ってくれなかったのさ」
「うーん、おぬしを猫の身体に慣れさせるためと、散歩ニャ」
「ち、ちなみに門から最短で屋敷までどれくらいかかるの?」
「まー、三分も歩けば着くニャ」
 その軽い調子に一層疲れ、弱った体を引きずり建物へと向かった。

「これが猫専用の出入り口ニャ」
 本当に猫が一匹入れるくらいの大きさの穴があり、そこにドアが付いている。友人の家でも見たことがある。
「うちの猫しか通れないような仕掛けがしてあるから今のおぬしだと入れないニャ」
「そうなのか……っておい。ここまで来させて放り投げる気か」
「そんなわけないニャ、ちょっと待ってるニャ」
 そう言って猫神様は穴の中へと姿をくらませていった。
「ふにゃー」
 そんな声が自然と出てしまったぼくはだらしなくお腹をさらして倒れこんだ。
 話がいろいろと急スピードで進みすぎて、頭からスパークが飛び散っているのではないかと思う位頭が熱い。猫になって、変な黒ネコに会って、馬鹿でかい屋敷の庭を無駄に案内されて……
 ダメだ、頭だけじゃなく全身が疲れいてまともに思考が働いてくれない。いっそこのまま寝てしまおうか。朝日がポカポカして快適な環境だ。
――リンッ。
 澄んだ空気を震わせる優しげな音色が聞こえてきた。音と共に猫神様が穴から姿を現した。ある香りを周囲に発散しながら……
「お、待たせニャ。ちょっと探すのに手間取ったニャ。すまんすまん」
「探すのじゃなくて、ツナ食うのに時間かかったんだろ」
「! なぜそれを!?」
「匂いがぷんぷんするわ! ってか口の周りべたべたじゃねーかよ!」
「おっと……」
 前足で顔をクシクシ掃除し始めた。今更やっても遅いと思いますけど、まあそのままにしておくのもおかしいか。
「ま、いいや。それで、その首輪をすればいいのか?」
「あ、そうニャ。これを首に巻くニャ」
 口に食わえていたその首輪をぼくに寄こしてきたのだが
「汚ねーよこれ!」
 汚れた口で咥えていたため首輪にはツナがベッチョリ付着。正直言ってつけたくない。
「文句を言ってもそれしか屋敷に入る方法はないんだから、さっさとつけろニャ」
 まだ気になるところがあるのか一生懸命顔を掃除しながら言ってくる。まったく誰のせいだよ、誰の。渋々、首輪をつけようとするのだが
「む、おっお、おいこれつけられないぞ」
 猫の手ってこんなに物を掴みにくいのか。首輪をつけることなんて自力でできないだろ! 猫の手も借りたいとか言うけど、こんなの役に立たないよ!
「なーにやってるニャ。首輪もまともにつけられんのかニャ。だらしないのぉ」
「て、手伝ってくれ
「だーれに物を言ってるのかニャ? 聞こえないニャ」
「っく。て、手伝ってください、猫神様……」
「よしよし、最初からそう言えばいいのニャ。ほれ貸してみい。まったくこの程度の首輪ができんとは情けないニャ」
「あ、お、おい。ぞんなに、びっばる――ゴフ」
「あ、ごめんニャ。意外と難しいニャ。ここをこうして……んで、これはどこに接続するんだニャ?」
 一本のひもに鈴が付いた簡素なものなのに、なんでそんなにいろんな部分が出てくるんだ!端っこのフックを掛けて止めるだけだろうが!!
「あ、ここにこう通せばいいのかニャ。それで……」
「ダー、おまえどこに何を通してるんだよ!」
「だから、これをここに……」
「グエッ」
「あ、ごめんニャ」
――結局この作業はお日様が一日の半分の仕事を終えるまで続いた。
 
 薄暗いトンネルを抜けると、そこは異世界だった。
――別に次元を超えたとか、平行世界に飛んだわけではない。
 ただただ現実離れした屋敷の雰囲気に飲まれ、そう錯覚しただけである。
 本やアニメに出てくるヨーロッパの貴族が住んでるような屋敷の和風版とでも言えばいいだろうか。玄関の扉の横の猫通用口から出てきたようなのだが玄関からして違う。玄関前に人間でも見上げてしまうほどの木彫りの像があった。魚をくわえているから鮭をくわえた熊の像かなと思ったが、鯛っぽい魚をくわえた猫だった。こっからもう猫様様なのね、なんて少し呆れていると
「どうしたのニャ? ただでさえ阿呆な面をさらに阿ッ呆な面にして」
「う、うるさい。阿呆とかいうな」
「そんなにむきになるニャ。ちょっとからかっただけだニャ。この家はわしがご利益をもたらしてやってる家系の本家の屋敷ニャ」
「ご利益?」
「わしが成功させてやった商談は数知れず、いくら優秀でもわしがいなかったらここまでは大きくならなかっただろうニャ」
「……」
 本当に神様なのか疑問に思うことが多いのに、時々やっぱり神様だったんだと再認識させられる。
「ま、自分の家だと思ってくつろぐといいニャ」
「お、おう……」
「まずは、わしのご主人に挨拶でもしようかニャ」
「ご、ご主人ですか……いきなりボスからかよ。な、なあ、もし受け入れてくれなかったらどうするんだよ。野良生活?」
「うーん、ご主人は大の猫好きだし、飼うスペースがないわけじゃないし大丈夫だろうニャ。ただ、奥様の方は純血種は大好きなんだけど、その分雑種を見下してるところがあるからちょっと気をつけるニャ」
 そう言いながらぼくらは、立派な盆栽がいくつもそそり立つ中庭の眺められる縁側を歩き、いくつもの襖を横目にし一番奥の部屋の前にやってきた。
「なんでこの扉だけ重々しい黒檀の扉なんだ? 和風の屋敷にこれは……」
「そりゃ、ここがご主人の部屋だから特別製なのニャ」
「へー、ここまで大きな屋敷の主ともなると違うものだな。で、この重そうな扉どうやって開けるんだ?」
 白銀に輝く取っ手は丸型で、こんな短い可愛い手で開けられると思えなかった。
「どっちを見てるニャ。猫用はこっちニャ」
 言われて視線を下に移すと、そこにはわざわざ猫の肉球のマークが描いてある小さな取っ手が猫神様によって握られていた。
「猫に優しいキャットフリーな屋敷設定になってるニャ」
 すごいというより呆れを感じさせる屋敷構造。なんて猫バカだろう。しかし猫神様は自分が入れるほどの隙間を必死に作っていた。取っ手を回すのは楽なようだが、やはり見かけ通り扉自体は重いようだった。小さく区切られているが黒檀自体が重いのだろう。
「眺めてないで手伝うニャ。こ、これが意外と重くて……」
「ったく、なにがキャットフリーだよ。全然優しくないな」
「ぐちぐち言ってないでもっと強く押すニャ!」
「わかってるよ! っと、おお!?」
 全身の筋肉を軋むほど力をふりしぼりドアにぶつかりにいったのだが突然内側から全ての扉が開いたため、ぶつけるはずのエネルギーを空回りさせ床を転がってしまった。
「たた。なんなんだよもう」
 転がって行った部屋はひっくり返って眺めているとはいえ珍妙だった。イグサの香ばしい匂いを発するのは背中に感じる畳だろう。扉は洋風なのに部屋は和室。さらに普通フローリングの部屋で使うであろう重厚な机と椅子は窓からの薄い橙色の西日を受けて部屋の雰囲気に溶け込もうとしているのだが露骨に浮いていた。
「統一感の無い部屋だな」
 いつまでもだらしない姿でひっくり返っているのは忍びないので起き上がる。そして世界を正しい視点で捉え直してから、部屋の様子を再度見渡した。
 扉の方には呆れ顔で部屋に入ってくる猫神様。何をしてるんだかおぬしは、とでも言いたげだ。
 さらに窓の方に目をやると一人の人間と、一匹の猫がこちらに注目していた。さらに扉を開いた張本人であろう人がもう一人。扉側の一人はアイロンのきいた背広を着こなした壮年の紳士。こちらがここの主人だろう。そしてもう一人は猫を腕に抱きかかえ、二重まぶたの下のくりくりした瞳を一等星のごとく輝かせた少女。
 その少女を見たとたんぼくの心臓は自分の意思で制御できない程の鼓動を奏で始めた。
 その少女とはかつての僕が恋したあの虎子望さんだったのだ。

 虎子望さんは腕に抱いているいかにも高そうな美しい灰色の猫をそっとソファにおろし、ぼくに近づいてきた。下ろされた猫はよわよわしく鳴いた。が、その声も耳に入らないのかぼくに興味津々だった。瞳の輝きが直視できない程だ。
「ま、真っ白。あふ~可愛すぎ!!」
 とぼくを優しく抱きあげ、頬をすりすりしてきた。
――お、おい! まずいって! そんなに急にスキンシップとられても……ぼく女子耐性そんなに高くないっての! というか学校の時とテンション違いすぎだろ! 
 助けを求めるように猫神様のほうを見たが、あいつは目を細めて……笑ってるよ! あいつこうなることわかってやがったな。くそう。あ、やばい。この肌ざわり気持ちいいんだけど、そろそろ恥ずかしくて死にそう……
「ありさ。そろそろおろしてあげなさいにゃんこが怯えているぞ」
「む~、わかりました」
 天国でのジェットコースターは終わったようだ。先程の猫と同じようにぼくをソファにそっとおろしてくれた。ぼくは一応また急に恥ずかしい思いをしなくていいように猫神様のいる扉付近まで避難した。
 その逃げるような動作を見て少し残念そうな顔になってしまった彼女。別に嫌いになったわけじゃないんだ。ただあの無邪気なスキンシップにはぼくの小さな心臓は耐えられないのです。胸の内で謝っておいた。
 喜劇、十分楽しませてもらった、とでも言いたいのか猫神様はこちらににやけ面を向けてきた。心底噛み付いてやりたかったが二人の人間の手前流石にこいつをしめるのは、状況を悪くするだけだったのでぐっと大人の対応をする。
「それで猫神様、このにゃんこ殿は新入りですかな?」
「ニャ」
「ほうほう。ずいぶん珍しい綺麗な白の毛並みのにゃんこですな。全身真っ白とは珍しい……ミックスの子ですかな?」
「ニャ」
「うんうん……わかりました。すでに首輪も付けていることだし、ありさもかなり気に入ったように見える。ただあいつは少し文句をたれそうですが、大丈夫でしょう」
「ニャ~」
 あの~、この光景傍から見ると頭おかしい人が猫に語りかけているようにしか見えないのですが……
「なあ、これってちゃんと意思疎通できてるのか?」
「当たり前だニャ。わしは人間の言葉など何ヵ国後でも理解できるニャ、おぬしにもできるだろニャ?」
「い、いやぁまぁぼくも理解できるっていうのも不思議なんだけど、あちらのかたは理解できてるのかなぁと……」
「ま、なんとなくはわかってるんじゃないかニャ。わしがあわせて鳴いてるからニャ。ご主人もわしが神様だとわかってるし」
「さ、左様ですか……」
 呆れるほど何でもありな感じだけど、このもやもやした感じは押し潰して無かったことにしてしまおう。
「ね、ねっ、この猫(こ)家で飼うの?」
「ああ、猫神様直々に連れてきたにゃんこだからさぞかし徳のあるにゃんこ様なのだろう」
 なんだか変なふうに解釈が進んでいるな……この状態じゃ正すのは無理があるから放っておくしかないのだけど、後々どうなるのかが怖い。
「それじゃ名前決めなきゃね! う~んシロじゃありきたりすぎてつまらないし」
 あぁ、虎子望さんがぼくを見つめている。人間の時の僕ではまったく叶うことの許されなかった至福が、夢が今ここに……
「あっ!」
 夢心地なぼくのまどろみを一気に現実に連れ戻しながらぼくの首元にある首輪の鈴をほっそりとした白い美しい指でつまみあげる。
「鈴のついた首輪をしてるからスズがいいかしら。ん? そういえば男の子かな? 女の子かな?」
 確認するためかまたぼくを素早く、だが丁寧に抱きあげた。あまりの滑らかさで洗練された動きにあっさりと捕まってしまった。彼女猫を捕まえ慣れているなぁ。
 なすすべなく抱きあげられたぼくは間近で彼女の美貌を確認させられた。そしてなにがなんだかわからないうちにさらに顔が接近してきて……
 ――くちを奪われた。
「ん~かわい~、どれどれあそこはあるから男の子か、スズじゃ少し凛々しい感じが出ないかな?」
「いや、スズ。父さんはぴったりだと思うぞ」
「そ、そうだよね! それじゃスズこれからよろしくね!」
 もう一度強い力で抱きしめられた後、座った彼女の膝の上にのせられたのだが、ぼくは大きな二度のショックにより四肢をピンと硬直させたまま動くことができずにいた。
「あらら? どうしたのかしら? 足がうまく動かせないのかな?」
 好きな女の子に猫の姿とはいえ初キスと大事な部分を直視された恥ずかしさ、初心な元男子高校生には刺激が強すぎです。しかもその後に彼女のマシュマロのようにすべすべでふわふわな膝でリラックスなんてできるわけないじゃないか!
 体が極度の緊張により震えだし逃げ出そうとしたところでバランスを崩した。彼女の膝の上から横転して無様に背中から絨毯に落ちてしまった。ただ絨毯はふかふかで痛くはなかった。畳にこんな絨毯を敷く家もなかなかなかないだろう。
 逃げ方は無様で第三者が見たら笑い転げている位滑稽だっただろうが、今のぼくはガクガクする足を一心不乱に動かしその部屋から脱出することしか頭に無かった。今の彼女の無垢さはぼくの小さすぎる器では受け切れない。

「あぁ、行っちゃった……私なにか痛いことしたのかしら?」
「んー、あのにゃんこスズにはありさの急なスキンシップには耐えられなかったのだろう。私にはまだ人間に触られ慣れていないように見えたよ。急ぎすぎたのかもしれんな。ゆっくり仲良くなればいいさ」
「はい、お父様。あれ? 猫神様は? さっきまでそこにいたのに」
「あぁ、おまえとスズのじゃれつきを満足そうに眺めていたが、さっきスズが出て行くのを追いかけるように出ていったよ。世話のかかるやつだニャなんて言っていそうだったね」
「あはは」
 夕暮れが夜の闇に飲みこまれ、薄暗くなり始めたこの部屋で新しい猫を迎えこれから楽しくなる予感に胸をいっぱいにしながら私は笑った。

 未だにバクバクと鳴りやまない心臓を抑えようと一度壁にもたれかかり足を止める。激しい運動のせいだけではなく後から押し寄せる羞恥、興奮、歓喜も心拍数をあげている。
 猫の体とはいえ、あの虎子望さんとキ、キスを。顔の筋肉がだらしなく緩むのを止められない。
 猫の体とはいえ、あの虎子望さんにあそこを見られた。恥ずかしくて顔が赤くなるのを止められない。
 怪人二十面相のごとくころころと顔の色、形を変えながらじたばたしてみた。
 猫になってから虎子望さんとお近づきになれるなんて夢にも思わなかった。一気に距離を埋められすぎて完全にパニックになったけどなんて幸運! これが運命ってものなのだろうか。
 と一人でテンションが上がってしまったが、冷静に考えると所詮猫と人間の関係。なにか起こるわけでもなし、遠い世界から想いを胸にしまいこんでいる、それは昔と変わらないだろう。
 気分が沈み心が落ち着きを取り戻したからか、心臓もかなり落ち着いてきたので再び歩みを再開した。
「やぁやぁ、予期せぬご主人親子との初顔合わせだったニャ。しっかり笑わせていただきました。ごちそうさまだニャ」
 俺に併走するように猫神様がぴょこっと姿を現した。
「お前のうちの主人って虎子望さんだったんだな」
「ほぉ、ご主人知ってたんだニャ?」
「娘さんが元同じクラスだったってだけだよ」
 恋心を抱いていたなんてひげを引っ張られても胸にしまっておこう。
「へー、ただのクラスメイトにしては不審なところがいっぱいだったようだけどニャ」
「いやいや、そりゃ人だったら急に年頃の女の子にキ、キスとかされたり、大事な部分見られたらあせるって!」
「ふーん。ま、おぬしはもう人間じゃないけどニャ」
「まだ猫になってから一日もたってないじゃん! 人間の頃の感じがまだ抜けないんだって!」
「そんなもんかニャ。人間なんてなったことないから知らないニャ。まぁ顔見知りならまったく知らない所よりは馴染みやすいんじゃないかニャ。よかったニャ~」
 ぼくの心を見透かしていたのかと思いきやたいして興味なかったのかよ、あせって損した。
「それじゃご主人からオッケーもらったし晴れて虎子望家の猫になったおぬしを他の猫に紹介しないといかんニャ。いきなり飛び出して行ってしかも反対方向に行くとか勘弁してほしいニャ。遠回りは嫌いなんだニャ、わしは」
「す、すいません」
 おまえ朝方庭ですげー遠回りしてたじゃねーか!
 結局お昼に入ってきた玄関まできたところで最初は気がつかなかった階段を発見。中庭を囲むようにぐるりと一周できるような家の構造のようだ。
 確かにあの部屋を反対に飛び出さずに元の道に戻ったならこちらからくるより早く戻ってこれただろう。ぼくにとってはこれから住む屋敷の観察ができてよかったのだけど。
「この階段を登って……」
――うんしょ、こらしょ。
「行くと……」
――よっこらしょ、どっこらしょ。
「猫専用の二階スペースがあるのニャ……」
「なーんでこんなに一段一段おっさんみたいな掛け声あげなきゃいけない程高くなってるんだよ! しかも頭上の高さがないから跳べないし全然キャットフリーじゃないじゃんか」
「こ、こればかりはわしも……ぜぇぜぇ……知らないのニャ」
 全十三段を登り終わったときにはぼくらはフルマラソン完走後のランナーのようにへばっていた。
 汗がにじんで霞む目で二階の様子に目を凝らすと、猫専用だとは思えない程突き抜けた空間が目に飛び込んできた。
 高いところを好むといわれてる猫のためだろう縦の空間を大いにとり、さらにその空間を有効に活用するためにキャットタワーがいくつも屹立している。
 天井はガラス張りになっていて、磨かれたガラスは外の星空の煌めきを屈折させず、直接ぼくの目に飛び込んでくるようだ。
 本日何度目かの意識を違う世界とばしていたら猫神様が復活してきて自慢げに言う。
「どうだニャ? すごいだろう? わしが作った部屋ではないがわしに対する主人の愛情の結晶ともいえる空間だニャ。ここには人間は入れない、むろんご主人でもニャ。猫のプライバシースペースが屋敷にあるのニャ。これぞキャットフリーだニャ」
 猫神様は決め顔を作っていたが、ただただ気持ち悪いだけだった。
 まったくお金持ちってのは我ら庶民には思いもしない事にお金を費やしているんだな。こんなことにお金を使うなんてもったいないという人は多いと思う。けどぼくは素敵なことだと思う。
 自分のためだけど他者のため。
 自分の家だけれど自分のためじゃなく愛する者のため。特にそれが人間でないところがぼくは気に入った。ただの猫バカと言われれば違いないけど。
「オイオイオイオイ、華麗にスルー決めてくれてんじゃねーよ!」
「設定設定……」
「ん、んぅん……無視しないでほしいニャ~」
「へー、だからあの階段的なものがあんなに狭かったわけね」
「そそ、これぞキャトフリーだニャ」
「何度も言わなくてもうまいと思ってないから」
「ウニャー、ひどいニャ。大事なことだから二回言ったのに」
「ワカッタ、ワカッタ」
「扱いがぞんざいだニャ」
 そこへぼくと猫神様のつまらない漫才に興味をもってきたってわけではないだろうが、部屋にいたと思われる猫が集まってきた。
「お、みんな良いところに来たニャ、今日は新入りを連れてきたから仲良くしてやってほしいニャ。えーと名前はスズ君だニャ」
 集まってきたのは四匹。種類は違うようだけれどみな毛艶が良く毎日欠かさず手入れされているのがうかがえる。血統も良いのだろう。
 よくよく観察してみるとぼくに興味があるようなのは二匹だけのようだ。
 一匹は結構有名な猫でぼくでも知っているアメリカンショートヘアー。瞳をきらきらさせてぼくを隅から隅まで観察しようと意気込んでいるように見える。
 あとその二つ隣の子。猫のくせしてやたら足が短い。ぼくの知らない種類だ。こちらはなんだか包み込むようなお母さんオーラを放っているのを感じるのだが、いかんせん足が短いのと座り方がテディベア座りなことにより癒し系だ。
 そして興味がないというかなんというか。とりあえずボーっとしているようにしか見えない子がさっきの二匹の間に。
 そして端に先程あの部屋で見かけたロシアンブルーの子いた。なぜだか分からないが強烈な憎悪をぼくに向けてくる気がする。この恨みのこもった感情を興味といえれば最初のセリフは三匹になるのだけれど……
「ではおぬしのほうにも紹介しておこうか。まずこいつがアメショーのロイ。面倒見がいいから基本はこのロイにお世話になるといいニャ」
「オッス、よろしくなスズ! わかんないことがあったら俺に聞くがいい」
「んでもってその隣がノルウェージャンフォレストのシャルトー。基本ボーっとしてるから和みたいときにはこいつと一緒にボーっとするのがおすすめニャ」
「んー? なんか言った?」
「いいや何も言ってニャ。こいつと会話し始めると地球の自転が半周程してしまうからニャ。それでその隣がマンチカンのセンプス。なんでも知ってるからわからないことがあったら、彼女に聞くニャ」
「ミケさまったら何でも知ってるのはあなたでしょう? 比べられたら私なんて大したことはありませんよ」
「んでもって最後に……」
 猫神様の顔が向けられた途端その子は猫神様のセリフをを斬って捨てるかのように言う。
「ミケ様別にあたしは紹介とかしてもらわなくたっていいわ。ただそいつの間抜けな面を見に来ただけ。ミケ様ったらなんで下劣な雑種なんて連れてきたんだか、高貴な屋敷が穢れるわ」
 そう言ってその子は背を向け歩み去ってしまった。
「ぼくなんかした?」
 やはり嫌われているのは間違いないようだった。
「いいや、おぬしは悪くないと思うニャ。純血種こそが優れていると思っているちょっと困った子でニャ。根はとってもいい子なんだけどニャ~。しかもおぬしのありさお嬢様からの気に入られようが少々癪にさわったようだニャ」
「そ、そうなのか……」
「あの子はロシアンブルー。誇り高く優雅なのだけれど嫉妬深いところもあるから……でもミケさまがおっしゃった通り根はいい子だから仲良くしてあげてね」
「は、はい」
「お、めんどくさい自己紹介は終わりかい? んじゃさっそくあそぼーぜ! ほらボケっとしてんなって!」
「あ、おい尻尾噛むな! ぼくの綺麗な白い毛が!」
「きーにすんなってほら早く!」
「あ、だから引っ張るなって!」
 顔をあわせて三分もたっていないのに、ここの先住猫にもう慣れてしまっているぼくは複雑な思いを抱く。人間だった頃の僕は他人に馴染むのに長い歳月を費やした。あの時の僕は将来に不安を抱き、未来に希望を見出せず、外界との繋がりをできる限り抑え、漫然と毎日を歩んでいただけだった。変わり映えのない毎日。何らかの変化を欲してはいたが足は地に張り付いたまま。一歩踏み出すことなんて考えもしなかった。
 結局頭では変化を求めてはいても実際に変わることが怖かったのだ。平穏が崩れてしまうことは恐ろしいことだと錯覚していたのだ。周りの目、社会の目に怯えていたのだった。
 けど神様を名乗る頭のネジが五本は外れているような猫の常識外れの誘いを受け、こうして新しい世界に飛び込んできたことによってぼくにも変化が生まれたのだと思う。もちろんこの先どうなるのか不安でいっぱいだ。でもそれ以上に期待が胸の中で渦巻いて溢れ出そうだ。。だからこの先の未来、なにが起きても怖くないんだと思えた。
 あの時の僕は自分が嫌いだったから人間が嫌いだったのかもしれない。
 ちょっとだけでもいい。猫という新鮮な世界で自分をもっと変えることができたのなら、もっと自分を好きになれるんじゃないかななんて思った。

 ぼくが虎子望さんの家に住むことになった長い一日が終わろうとしていた。ガラス張りの天井には目が覚めた時と同じように痩せた月が淡い光を放っている。
 ただ人間にとっての一日の終わりはぼくら猫にとっては一日の始まりであるのだが
「流石に眠いな~」
 猫になって覚醒したのも夜だったから丸一日起きていることになる。時差ボケに似たなんとも言えない怠惰な気持ちになっていた。
「なんだよ~、でかい欠伸なんてしちゃってさ。まだまだ遊ぼうぜ~」
「うーん昨日から肉体的にも精神的にも疲れることが続いたから疲れてるんだよ。少し休ませてくれ」
「そんなぁ、もっと遊ぼうよ~夜は始まったばっかじゃん」
 せがむように足や尻尾に軽く噛み付いてくるロイを軽く振り払う。飴をせがむ小さい子供を相手にしているみたいだ。
「だぁー! あっちでシャルト―と遊んでくればいいだろ!」
「だってシャルトー動くの遅いんだもん。遊んでても全然おもしろくないよ」
 そのシャルトーは天井のガラスに一番近い、最も高いタワーの上でぼーとなにかを見ている、と思う。
「た、たまにはシャルトーみたいにさ、こう月をだな、じっくり観察して感慨にふけるっていうのはどうだ?」
「はぁ? 月を見てて何が楽しいのさ。わかった。もういいよ外出て遊んでくるから」
「あ、あぁ」
 そういってロイは前足で転がっていたおもちゃを蹴り部屋の外へと姿をくらませていった。
 少し拗ねてしまったようだが他人のことまで思いやっている余裕がぼくにはなかった。まぶたが重力以上の力で下に引かれる。疲労が眠気を誘い、眠気がぼくを夢へと誘う前に、近くにあった暖かそうな毛布の揃った寝床を見つけそこにもぐりこんだ。
「そこは……の……こよ!」
 という叫び声もぼくの鼓膜には届いたが脳には届いて来なかった。

 ひげをくすぐられているようなむずがゆさを感じてぼくはぼんやりと視界を開いていった。
「おーい、こんなところで寝ていたら風邪になっちゃうんだよー」
「ぁ、へ?」
 ぼくのひげをいじっていたのはシャルトーだったみたいだ。
「あ、れ? 君がなんでここに? というよりなんでぼくはここに?」
 寝る前の意識はあいまいだったけど確かぼくは寝床のようなところまで行ったはずなのに、なぜかこんな固くて冷たい大理石の床で寝ている? 酒に酔った覚えはないんだけど。
「まー、起きたならいーや。それじゃおいらはねるよー、ふにゃーぁ」
「あ、おい。マイペースな奴だな。なんでここにいるのか聞こうと思ったのに」
 おぼろげな記憶だがぼくの寝ていた所はもぐりこんだと思われる寝床からそこまで離れていない。こんなに寝ぞう悪かったけなぁ。しかも右の頬がなぜだかズキズキ痛む。頭を悩ませて唸っているとセンプスさんがちょこちょこと歩み寄ってきた。
「あら? やっとお目覚め?」
「あ、センプスさんおはようございます」
「おはよう? わたしはお散歩を終えてこれから寝るのよ。夜なのに寝ちゃうなんておもしろい猫ねぇ」
「あ、はは。ちょっと昨日はいろいろありまして」
「あらら、それは大変。ミケさまと一緒なら確かにいろいろあって疲れそうね」
「ま、まあ。ハハハ……」
 やっぱりあいつは神様だからだけではないめんどくささがあるんだ。センプスさんの言葉からはそれが明確に窺えた。
「それじゃあね。朝型猫ちゃん」
 そういってまたちょこちょこ歩いて行きそうになるセンプスさんをひき止める。
「あのすいません。ぼくがなんでここで寝ていたのか知りませんか?」
「あら? さっそく質問? ま、いいんだけど。というよりスズ君のほうは覚えていないの?」
「それが寝床に入って寝ていたつもりだったんですが……」
「あら、そこから記憶がないのね。フフフ……」
 口元を尻尾で隠しおかしそうに笑いながら彼女は座った。なぜテディベアのように座る? そこも聞きたかったけど今聞くべきではないとぐっと堪えた。
「あの、知っているんですか?」
「ええ、私が食事をしている時だったけど、ミルーが大きな声をあげるものですからびっくりしてね。あ、ミルーっていうのはロシアンブルーのあの子ね」
 ほう、あの子はミルーというのか。頭に入れておこう。
「それでミルーが『そこは私の寝床よ! 勝手に入るんじゃないわよ、豚やろう!』なんていうものですからはっきり覚えてますよ。基本ミルーはおとなしい子だから」
「ほ、ほんとにそう言ってたんですか?」
 あのプライドが高そうな子が大声をはってまでそんな罵声を吐くなんて。豚やろうって。どんだけ嫌われてるんだぼく……
「ま、豚やろうっていうのは嘘だけど。フフ」
「ちょ、ちょっとしゃれになってないですよ」
「フフフ。スズ君からかいがいがあって面白いわ。とまあそんな感じで怒鳴ってるのに聞こえてないみたいで君がぐうすか寝ちゃうものだから、ミルーもぷんぷんでね。頭から湯気まで立ち昇ってたわよ」
「は、はぁ」
 最後のは流石に冗談だとしても、疲れていたとはいえ女の子の寝床で寝てしまうなんてすごい失礼だったなぁ。後できちんと謝ろう。
「それで君をすぐに寝床から蹴って出してたわね。その右の頬が少し赤いのはそのせいかしらね。かなり手荒な出し方だったわぁ。というかそれで起きない君もどうかと思うけど」
 それで右の頬が痛かったのか。なるほどなるほど、人間の女子でいうほっぺにびんた状態だな。
「まぁ、そんな感じでスズ君はここに叩きだされたってわけ。それじゃ私もう眠いからいくね~」
「あ、すいません。ありがとうございました」
 センプスさんはまたちょこちょこ歩いて去って行った。
「んー、それじゃあミルーさんに謝まらないとな。でもその寝床にいないし」
 昨日ぼくが誘蛾灯に誘われるようにして入って行った寝床に彼女の姿はなかった。
 厚い灰色の雲で覆われた空では太陽を見ることができないけれど、流石にこのお腹の減り具合は朝の九時くらいと予想。腹が減っては戦はできぬということで見つけにくそうな彼女ではなくて先に食事を見つけることにした。

「ふいー、食った食った~」
 幸いにも食べ物はこの部屋の中にあった。たいして探すこともなく食べ物にありつけた。
 昔人間のころに食べた猫缶のツナは味が薄くて食べられるものじゃなかったと記憶していたので、最初は不安だったけれどいつもの食事よりむしろおいしく、お腹八分目で我慢することができずこうしてお腹を抱えている。
 うまい食事で忘れかけていたけれどミルーさんを探しに行かねばならないんだ。
 あの日のことは人間で例えると本人が見ている前で女子のベッドに顔をうずめるというシチュエーションだろう。しかも会って間もない全然知らない子のである。改めて思い起こしてみると今更ながら恥ずかしく思え、顔が熱くなってきた。
 外に出て顔を冷やそうと思い部屋を出る。見る人のやる気を奪うようなどんよりとした雲が空を覆ってはいるが、初夏の香りを漂わせる中庭を歩く。
 この中庭は枝がだらしなくたれさがっている木を多く見ることができる。しだれ桜だろうか。このやる気のなさそうな感じはぼくの好みに合致している。春は過ぎ花を拝むことはできないけれど青々とした濃い匂いが辺りを夏色に変えている。
 木の間を縫うように歩いているとひときわ高い木の上で、屋敷の窓を凝視しているシャルトーを見つけた。なにやら昨日とは異なる神妙な雰囲気を漂わせて窓を見ているので声をかけるのを躊躇したのだが、ぼくの気配に気がついたのか一転昨日と変わらぬのんきな声であちらのほうから声をかけてきた。
「おーい、こんなところでなにしてるの、っさ」
「ああ、実はミルーさんを探していてね」
 腐っても猫である。ぼーとしていても軽々と木から降りてた。最近はメタボ猫なんてのもいるけど適度な運動はしていそうだ。
「ミルー? 今日はまだ見てないなぁ」
「そうか残念。そういえばシャルトーはさっき寝るとか言ってなかったけ? こんなとこで寝ていたのか?」
「ふぇ? ぼく寝るなんていつ言ったっけ? 言ってないよー、今日は朝七時くらいまで寝ていたんだもの、眠くなんかないよ~」
「あ、え? そうなのか? 寝起きで聞き間違えたかなぁ」
「大丈夫? もうボケているのかい? 見かけによらずお年寄り?」
 こいつにはボケているとか言われたくなかったが、ボケはともかくここの猫たちと比べて年季が入っているのは間違いない。ぼくは一七だから猫年齢だとかなりのお年寄りに分類されるはずだ。
「あー、まいっか。ぼくが寝起きでボケていたんだろう。それじゃあね」
「あ、ま、まって」
「ん? まだなんか用なのか?」
「う、うん。実はお願いしたいことがあって……」
 シャルトーはさっきぼくが来たときに見ていた、丸い窓を見上げて真剣な顔をつくった。
「えっとね、ある部屋に置いてるクッションを取り返したいんだ」
「はあ? そんなの自分でとってくればいいじゃないか」
「そ、それができないから君にお願いしてるんだよぉ」
 二言目で先程までのキリリとした顔が一変、ぼくのつれない態度に顔のしわが深くなった。
「シャルトーにできなくてぼくにできるとは思えないけど……」
 年季が入ったおじいちゃんだからではない。猫歴たった二日目なぼくにシャルトーができないことを頼まれても困る。実は未だに高いところから飛んで降りるのが少し怖い。恥ずかしながら心の中で掛け声を出してからでないとうまく足が動かないときもあるのだ。着地の瞬間は自然に受ける体制になってはいるのだけれど。
「だ、大丈夫だよ。ぼくは臆病だけど、スズ木君だっけ? スズ木君なら勇気あるしできると思う」
「あ、一応ぼくはスズっす……」
 昔の名前が出てきて、うんとか言っちゃうところだったけど。
「でもぼく自慢じゃないけど勇気とは縁のない奴だと思うけど
「えっ、そんなことないよ! だって昨日の夜さ、初日からミルーの寝床を奪っちゃおうとするなんてすごいよ! ぼくなんてあの目で見られただけでおしっこちびっちゃいそうだもん……」
「は、はぁ」
 やっぱりミルーさんは怖い方なのね。面と向かって謝るのが怖くなってきた。手紙とかじゃダメかな。あぁでも猫じゃ手紙とか書けないか。
「でもぼく今ミルーさんを探している途中だし……」
 なんだか面倒なことになりそうな予感がしたので逃げ腰の体制をつくる。昔から面倒事には首を突っ込まない主義が体に染み付いているのだ。
「そ、そんなぁ、うっ、うっ。ぼくスズ君に置いていかれたらどうしていいかわかん……」
「あ、おい。泣くことないだろ」
 数秒でマジ泣きモードに入ったので流石にびっくりした。まだまだ子供なんだろう。
「だ、だって」
「わ、わかったって、取ってきてやるから泣くなって。ほら、これで涙を……」
 っていつも常備しているハンカチがない。って当たり前か猫だし。
 ――ぶびー。
 なんだ拭くもん持ってたのか、って
「おい! なにひとの尻尾で鼻かんでんだよ!」
 人一倍尻尾は気に入ってるのに! 今日の朝だって歩きながら手入れしたっていうのに。
「え? だってこれでって尻尾向けてきたからそうなのかと」
 ハンカチとる仕草で後ろを向いたことでシャルトーのほうに尻尾うを向けてしまっていたのか。
「それで、ほんとに手伝ってくれるの? ほんとにほんと?」
 ぼくの落胆の様子をよそに目とかんだばかりの鼻をキラキラさせて尋ねてきた。
「あーもー、しょうがないな。やってやるって」
 と、こんなわけでシャルトーの手伝いをさせられる羽目になった。そうぼくは昔からお人よしな性格が染み付いているのだ。それが原因で重傷を負ったというのに。
 
「それでこの部屋なのか?」
「そ、そう……」
 中庭から移動してきて現在屋敷のある部屋の前にいるs。ぼくはどうしてもシャルトーのお願いを振り切ることができずにここにいた。
 扉は虎子望さんのお父さんの書斎ほど立派なものではなかったが、猫神様ご自慢のキャットフリーな猫専用扉はここでも存在感を際立たせていた。
 部屋まで案内してくれるとは言ってくれたのだが、ここに近づくほどにシャルトーは絞首刑台に連れてこられる囚人のように身震いを大きくさせていた。その原因は中にいるとある人物のせいであるらしい。
 ここに来るまでにシャルトーから事情は聞いておいた。
「談話室にあった僕がずっとお気に入りだったクッション、純君が自分の部屋に持って行っちゃったんだ」
「ふんふん。で? 自分で取りには行ったのか?」
「そ、それが純君がいるときは入りたくないし、いないときもこの扉からはクッションが大きすぎて持って出ていくことはできないんだ」
「ふむふむ、なるほど。で、純君とは誰?」
「あぁ、純君知らないのかい? ありさお嬢様は知ってる?」
「う、うん。ご主人に挨拶に行ったときに、一緒にいた女の子がそうだって猫神様が言ってたよ」
 流石に元同級生とか言ってもわからないだろうからめんどうな説明はしないでおこう。というより元人間だということは話していいものなのだろうか、いや話しても通じる相手じゃなさそうだ。
「それで純君ていうのは?」
「純君はありさ嬢様の弟さんで今ヨーチエンセイだって、センプスが言ってた」
 虎子望さんには弟がいたのか。知らなかった。
「そうか弟さんがいるんだね。それでなんで純君がいるときに部屋に入れないの? 入ったら怒られるとか猫が嫌いとか?」
「ううん、別に怒ったりはしないよ、ただ……」
「ただ?」
 ここでシャルトーはのどをごろごろいわせるばかりでなかなか次の言葉が出てこないようだった。
「――怖い。他に言葉なんて思い浮かばない。ただ、怖いんだ」
 そう言うと身体の毛を逆立ててなにか怨念でも振り払うかのように身震いをした。ここまで怖がるとはよほど不良な子なのだろうか。いやいや幼稚園児で不良とかこんなにいい家庭で暮らしているのにあり得ないだろう。でもそれならどんな理由だろうか。という具合で自問自答しながら部屋に近づいて来たのだった。
 今純君は部屋にいるはずだからぼくはここで待ってるねと言われ渋々一人で猫専用扉から純君の部屋の中へと入っていった。
「お、お邪魔しま~す」
 我ながら意味のないことを、と思いつつも口から自然に出てしまう。さらにそーと抜き足差し足で部屋の中へ侵入していった。
 部屋はとても幼稚園児一人で使う部屋ではないだろうと思う程広く、あちこちにおもちゃが散っている。しかしいつもは手に収まるほどの大きさだったものが急にぼくより大きくなったものだからまるでおもちゃたちがぼくを見張っているような錯覚を受けた。すぐ目の前でぼくを見下ろすゴリラの人形も今にもぼくの尻尾を引っ張ってきそうな迫力だ。さらに山積みにされたぬいぐるみの中の犬はチワワなのにぼくの四倍はあり、今はドーベルマンより恐ろしく見えた。。ただそのチワワはうるうると愛嬌をふり撒まているだけなのだが。
 しかし周りを眺めてみても意外にも最近流行のゲーム類は見当らなかった。ぼくの近所の幼稚園児はみなDSとかをなぜか玄関先でやっている風景を多々見たものだが。
 教育としてまだ早いと持たせてもらえないのだろうか? それだったらやはり良い親だな、なんて上から目線な思考を展開していると、急に目の前に影ができた。
 いた! 
 と認識した時にはぼくはもうすでに彼の手によって宙に浮いていた。ここの人間には会うたび持ち上げられるな。それがぼくの最初の感想だった。
 純君は、虎子望さんにはあまり似ていなかった。ただ、彼の父親であるご主人にはそっくりだった。ご主人のひげを無くし髪をワックスで固めていなければ、純君の出来上がりだ。きりりと釣り上った目尻、鼻は少し高めで高貴な印象を持たせる。ただまだ幼いなりにふっくらと肉付きがいい頬である。
「うわー、みたことない猫いるー。こんなぬいぐるみはもってなかったから本物だ」
 なぜかぼくを持ってぐるぐると回りポヨンポヨン跳ねる。虎子望さんの時とは違い扱い方がひどく雑だ。持たれている脇が遠心力と相まってずきずき痛む。
「尻尾もふさふさだね~」
 ぼくをさらに持ち上げ顔に尻尾が当たる位置でぼくの尻尾をいじりまわしている。どうだ自慢の尻尾だぞと誇らしく胸を張りたかったが脇が痛い。
 そろそろ下ろしてくれと抗議の鳴き声をあげてみたらすんなりおろされた。やけにあっさりしていたので今度は何をする気だと身構えたが純君はぼくを見ながらあごに手を当てうんうん唸っている。
「なにか足りないんだよね……。あ、わかった! ちょっとまってろよ~」
 と言ってなにやら押入れの中身を物色し始めた。ぼくには待ってる義理はないので、早々と目的の物を探すことにした。
「えんじ色のクッション、えんじ色のクッションはと……ていうかえんじ色ってなんだよ。わかりにくい色指定すんなよな。赤っぽい茶色って言ってたけど……」
 おもちゃの山のほうにそれらしき色彩を発見したぼくは山の方へと接近。
「やっと、みつけた~」
 純君はなにかを見つけたらしい。こちらもシャルトーの言っていたであろうえんじ色のクッションを発見。これ咥えて出口で鳴けば純君が出してくれるだろうなんて思ったのが間違いだった。
「こら~、まっててって言ったんだから動いちゃダメだよ~」
 乱暴にお腹を持たれたぼくは肋骨が数本軋む音を聞いた。そして純君の前に下ろされる。
「勝手に……」
「動いたら……」
「ダメなんだからね!」
 こいつ思いっきりヒゲ引っ張りやがった。なんて凶悪な野郎だ。数本抜けたかもしれない。シャルトーが怯えるのもわかってきた気がする。
 それから純君はおもむろに顔を崩して、横にあるなにかのセットを取り出し始めた。
「やっぱり真っ白じゃつまんないよね! なに色がいいかな~、うーん決めた! オレンジ好きだからオレンジ色にしよーと」
 あ、え? おい、ぼくのお気に入りの白毛に何しようとしてやがる。その絵具でべたべたになった手でぼくをつ、つかむのか。うわぁやめろぉ。
「これで、こうして。なかなかうまくつかないな~」
「フミャ――――」
「あ、あばれるなって! へっへーん、爪が届かない捕まえ方おねーちゃんに教えてもらってるから無駄だよー」
「ウニャ―――――――」
「おっとと、よーし足はぬれなかったけど、かんせー。あっ、イタッ! かみつきやがったなこいつ、うぁ、ち、血が出てきたよー、うわぁーん」
「フシャ―――――」
 ぼくのお気に入りの真っ白な毛は無残にも安っぽい絵具で彩られ、鮮やかなオレンジが所々乱雑にちりばめられてしまった。
 流石に最初は引っかいたりしたらまずいかな、生意気なりにも屋敷の息子だしなとも考えたけど我慢の限界。ぼくの誇りをあんな安っぽいもので塗り変えられるなんてごめんだ。
 大音響で鳴き喚く純を心配したのだろう。女中さんらしき人と虎子望さんが慌ただしく部屋に入ってきた。
「まあ、ぼっちゃんどうしたんですか」
「あ、あの猫がぼくの指をかんだの」
「あら、見たことない猫。野良猫は入れないはずなのにどうして……」
「野村さんこの子は野良猫じゃないわ。昨日新しく猫神様が連れてきた子なの。ほらうちの首輪をつけているでしょう。それにしても……」
 オレンジで汚れたぼくを抱きあげた虎子望さん。ああ、やっぱり純の奴と違って慈愛に満ち溢れた抱擁だ。
「純、猫はおもちゃじゃないと前にも言ったでしょう。お父様からも言われているでしょう猫は人間と同じ生命だって、あなたはお姉ちゃんにも絵具をぬるの?」
「う、ううん。ぬらない」
「お嬢様、ぼっちゃんも怪我をなされています。これくらいで……」
「わかったわ。野村さんは純の手当てをお願い。私はこの子を洗ってくるわ。早くしないと綺麗な毛が傷んでしまうわ」
「かしこまりました」
 そう言ってぼくを抱え直し虎子望さんは純の部屋を出ようとしたのだがぼくはこのままでは引き下がれない。シャルトーのクッションを奪還するためにここに来たのだから。一心不乱にあのクッションのある所めがけて飛びだそうと懸命に手足を伸ばした。
「あら、そんなに動いたら落ちちゃうじゃない、ダメよ」
 優しくなだめられ、痛くはないのだががっちりガードされてしまい動きが取れなくなってしまった。
「ミャ~」
 名残惜しくえんじ色を見送っていると神のご加護か虎子望さんがそちらに目線を移し
「あ、談話室のクッションじゃない! なくなったと思ったらこんなところにあったのね。もう勝手に持っていかないでよね」
 とぼくを抱えている方とは反対の手でクッションをとり純の部屋を出た。おー、シャルトーよぼくはやってやったぞ! 実際にとってあげたのはぼくじゃないけど。
 部屋の前ではシャルトーが不安と期待が入り混じった姿で待っていた。オレンジ色に変わり果てたぼくの姿を見てそれから虎子望さんの持つえんじ色のクッションを確認すると口元に薄い笑いを浮かべながらも目的の品を虎子望さんの細い指から奪い取り全力で逃げて行った。
「あ、シャルトーこら! もう! 今度はシャルトーがクッション持って行っちゃったじゃないの。でも先に君を洗ってあげなきゃだしね。もう今度見つけたらただじゃおかないんだから!」
 今度は純よりも怖い相手を敵に回したようですよ、シャルト―君。
「あー、もう乾いてきてパサついちゃってる! 早くシャワーしなきゃね」
 はい、早くこのファンシーな色を落としてくださいと願った。

 家のお風呂を想像していたぼくはあまりの大きさに度肝を抜かれた。木目がくっきり確認できるいかにも高価そうな木の浴槽が大小二つ並んでいる。磨き抜かれ光沢を放つ床は油断していると滑って転びやすそうだ。それと十はあるシャワー。大パノラマで眺められる庭の湖。しかも入口には『使用人用』の札が置いてあった。ここの家族専用のものは見たこともないような珍しい功績とかでできているんではないだろうか。
「さー、早くしないと毛が傷んじゃうからねー」
 虎子望さんは俺を下ろし『猫の道具』と書かれた棚から一通りの用具を出してきて、ゴトゴトとぼくの周りに置いていく。
――おいおい、猫の毛洗うのにそんなにいっぱいシャンプー的なものを使うのか。しかも使用人用と猫は風呂一緒なのかよ。ぼくの想像のグラフを1次関数曲線で上に行く屋敷である。
「あーあー。こんなにカチカチになっちゃった。落とすの大変かも」
 適度な温度でぼくの身体に湯がかけられ全身が濡れていく。薄いオレンジ色のお湯が輝く床に染みを作って流れていく。
 今度はシャンプーを身体の隅々までぬりこまれた。それから軽くこするだけでふわっと泡がたつ。ちょっと女の子チックな香りと絶妙な愛撫にぼくの思考と体は麻痺したのか、憧れの子に身体を洗ってもらっているというのに最初ほど体が硬直しなかった。むしろ情けないことに全身の力が入らなくなってきて、後ろ脚が誰かにそっと前に押し出された錯覚を受け、お尻を床につけてしまっていた。
「あ、もう! 座っちゃダメだよ。せっかくお尻も洗ったのに汚れちゃう!」
 ぼくは虎子望さんに叱られたからではなく、気が付かない内にお尻を洗われていたことに驚いて覚醒した。
「よーし。シャンプー終わりー」
 いつの間にか終っていたようだ。恐るべし猫が癒される猫癒しパワー。湯をかけられオレンジ色の泡とお湯がぼくの身体を滑り落ちては消えていく。
「次はリンスね。あ、このリンスじゃなかった。ちょっと待っててね」
 終わりかと思ったら、まだあるのね。だいぶすっきりしたからもういいんだけど。
「あ!」
 ツルン。ゴチン……
 安っぽい効果音が聞こえてきた。軽い振動と鈍く痛そうな音のした方向に目を向けると、案の定虎子望さんが足を滑らせていた。のだがぼくの視線は薄い水色のワンピースの中から覗いている水色の三角の布に集中してしまった。
 いや! これは不可抗力だ! 見たくて見たんじゃない! 今更遅いことはわかっていたが前足で目を隠すそぶりをした。
「いったーすべっちゃった。スズなにしてるの? 目にシャンプー入っちゃたかな。おっとリンスリンス。どれどれ見せてみなさい……」
 ぼくがアワアワと目の周りをかいていたのを勘違いして虎子望さんが心配そうな顔を向けている。。心配なのはあなたの後頭部なんですけど。というか学校ではあんなにしっかりしてて隙が一ミリもないと思っていたのに私生活ではこんな一面も持っていたのか……。可愛いなあ。
 さらに近づいてきて気がついたのだがワンピースもびしょ濡れで上の下着の方もくっきり浮き出ている。ちょっと自己主張の乏しい胸を包む、可愛い花がいっぱいあしらわれた……ってなに冷静に分析してんだ。猫になったことをいいことに最低だぼく……
「ん? どうしたの? 見つめちゃって、可愛いなもう!」
 いえいえ可愛いのはあなたの方です! 猫に照れて頬を赤くしないでください。
「それじゃリンスとトリートメントもちゃちゃっと終らせちゃおー」
 トリートメントもあるんですか……。まだまだ先の長そうなシャンプーにげんなりした気分になってきた。
 その後も上機嫌な虎子望さんに身体を洗ってもらっている間ぼくは興奮していた気持ちがだんだん冷めていくのを感じていた。
 結局虎子望さんがこんなに笑顔をむけてくれているのはぼくが猫だからであって人間の僕であれば絶対にそれをむけてはくれないだろう。だがそれでもあの笑顔が見られるのは猫になったからでそこは忘れてはいけない所だ。他の男どもには見ることのできない猫になったぼくだけの特権なのだ。そう自分に言い聞かせ大きな期待をしないように自分を諌め、とりあえずもっと猫生活を満喫しようと冷めていた気持ちをもう一度沸騰させた。

 ドライヤーで乾かしたりブラシで毛を整えてもらい美しい被毛が戻ってきたところで長かった夢の時間も終った。しかしあまりに丁寧なトリミングにより虎子望さんに解放されたのは太陽が地平線のという布団をかぶり始めたころだった。
 気持ちいいのはよかったのだが流石にシャンプーだのリンスだのトリートメントだのいっぱいやりすぎてかなり体力を持っていかれた。面倒な時は頭だけ洗って身体はシャワーで流すだけなんてこともあるぼくにはかなり重労働だった。
 心地良いけだるさを抱えぼんやり今日は何かしよーとしてた気がしたなと考えながら歩く。脳がこんにゃくになったかのようにふにゃふにゃとしか働かず全然思い出せないのだ。
 ふらふらと足の赴くままに歩いていたのがたどり着いたのは結局猫部屋だった。キャットフリースペースなんて長ったらしい名前は面倒だ。猫部屋で十分だと勝手に命名した。
 ドタバタした日中を過ごしたため、昼飯を食べていないことに今気がついた。認識したとたん急にお腹がよじれるような空腹感が襲ってきた。
 急いで食事にありつこうと食べ物のあるところへ速足で向かう。しかし向かった先では優雅に食事をしている先客がいた。
 そこにいる先客で今日の目的をやっと思い出した。謝罪をするために目の前にいるミルーを探していたんだった。

「あのー、お食事中失礼します」
 なぜか気弱な営業マンみたいな口調になってしまう。
「……あんたの言う通りこっちは食事中。忙しいんだから話しかけないで」
「それじゃあ、聞いてくれるだけでもいいので」
「うるさい、近寄らないでうっとおしいから」
「いや、でも、その……」
「邪魔だって、いってるで、しょ!」
 まさかここで蹴りが飛んでくるとは想像できるはずもなくぼくは不意打ちの蹴りを空腹で弱った横腹にくらい、変なうめき声をあげてうずくまってしまった。
「ふん!」
 ぼくがうめいてる間に皿ごとミルーはどこかへと去ってしまった。謝ろうとしてるのにこの仕打ちはなんなのだろう。少し涙目になっているぼくのそばにちょこちょこ歩いてくる短い足が見えた。
「あら? スズ君なにをしてるの」
「ミルーさんのキックをくらってうめいているところです」
「なにをしているのだか……。今日のミルーはいつも以上に不機嫌ですからね」
「なにかあったんですか?」
 ぼくのこの質問にセンプスさんは怪しげな笑みを浮かべて言った。
「あらあら、ご自身がミルーの大好きお嬢様を日中ずっと一人占めなされてたんじゃなくて? あの子がプンプンするのは仕方のないことじゃないかしらね」
 あっちゃー、またもやぼくは気が付かない内に彼女の機嫌を損ねていたようだった。成り行きだから仕方ないことだと思うけどそんなのミルーにとっては関係ないことだしなあ。
「あ、はは」
「フフフ」
 ごまかすような苦笑いを浮かべてみたが、豆腐に箸を通すような手ごたえのない笑顔が返ってきただけだった。
「まあ、私はどちらが勝ってもいいんですけど。フフフ」
 謎な言葉を残しセンプスさんはちょこちょこ去って行った。本当に見かけはあんなに愛嬌たっぷりなのに思惑が全く表面に現れなくって考えが読めない猫である。
 とりあえず、痛みによる腹痛ではなく空腹による腹痛がぼくのお腹を締め付けるのでお腹を満足させようと食事にすることにした。
 謝るのはまた明日にしようと決めた。

 夕食をお腹一杯になるまで堪能して膨れ上がったお腹を抱えながら、のどをごろごろ震わせるのどかな食後の時間。ぼくの頭の中では先程のトロの味に似た魚は何だったのであろうという疑問とミルー
のことがぐるぐると駆けめぐっている。
 女の子って本当に難しい生き物だな。
 人間の頃は同性である男にもよくなじめなかったぼくは女の子とこれっぽちも話すことはなかったからよく知らなかっただけなのかもしれない。というより知ろうとも思わなかったんだろうな。
「全くもって乙女の気持ちはわかりませんなぁ」
「へー、スズっちは女の子に興味無さそうだったけどそうでもないんだ」
「のわ! いつのまの隣に座ってたのさ。しかもスズっちって……」
「いいでしょ? それよりさー、今日は外行って遊ぼうぜー。今日の月はきれいだぜ。散歩だけでもいいからさー」
 昨日は月なんかみてもおもしろくないとか言っていたくせに。でも今日は昨日みたいに特別疲れているってわけでもないし、猫型生活に慣れてきているのか深夜近くになっても眠気を感じず、むしろ目が冴えて身体も起きていた。
「いいよ。散歩でもしようか」
「おっ、今日はノリいいじゃん。スズっちはこの辺は詳しい? いろいろ案内してもいいけど」
「うーん、あまり詳しくはないかなー」
 実際この辺はというより夜に出歩いたりしなかったから、夜の街ってどんなものかわからないからな。前に怖そうな猫に鉢当たりしたし、猫のルールやテリトリーとか決まり事とかありそうだ。最初は一人で出歩くのは危険だろうからロイと一緒に行こうと決めた。
「それじゃ、行こうか。やっぱり月が綺麗な日は外に出るに限るぜ」
 張りきるロイの後を追ってぼくは久々にこの屋敷から出ることにした。

――ニャー
――ニャオーン
――シャー!
 ロイの後に続いて歩く。路地にはたくさんの猫たちが思い思いにうごめいている。街灯りの中心から少し離れるだけでこれほどの猫が集まっていることに驚く。まだ十七年しか生きていないのだからぼくの知らないことがたくさんあって当たり前か。
 いや、あの頃は自分から他のことに対して分厚い壁を張り巡らせていただけ。知ろうと思わない情報がそう都合よく手に入るものではないんだな。
 昔の自分に自己嫌悪しながら歩いていると、なぜか皆同じような恰好をしてぼくの方を向いていることに気がついた。みんな伸びの姿勢、お尻をこちらに向けて振っている。人間で言うとこのポーズはかなり際どいのでは? 
 みんな雌猫だし! 七割方予想はできてしまうがロイに尋ねようと振りかえると今日の散歩の友は姿をくらませていた。
 慌てているうちに何匹かの積極的な雌猫がぼくを包囲し始めた。それぞれがなんとも魅惑的な香りを放っていてとたんに頭に靄がかかったようにぼうっとなっていく。
 いや! ぼくは初体験は好きな子とって決めているんだ!
 甘い痺れを振り切って塀の上に脱出。迷子になったロイを見つけようと目を凝らす。全く世話の焼ける奴だ。
 ロイは早々に見つけることができた。ぼくが包囲されていた路地の塀の向こう側で包囲されていたようだ。ただ、ぼくと違って普通に雌猫達相手に腰を振っていた……
 そこに割って入っていき盛る友の尻尾を引っ張り、雌猫を蹴散らした。
「獣(けだもの)め」
「もう痛いなあ。かわいこちゃんたちが俺を求めてきたから応えていただけだぜ。やっぱり月の綺麗な夜はこれに限るぜ」
「それで? どれくらい相手したの?」
「うーん、たぶん八くらいは俺の……、った。なにすんだよ!」
「あまりに聞き捨てならない数が聞こえた気がしたので頭をひっぱたいて差し上げただけだ」
「えー、そんなの普通でしょー。スズっちはどうなのさ? もしかしてやってないとか言わないよね? そんなに小心者じゃないよね」
「そのもしかしてですがなにか?」
 それを聞いてロイは額に手をやりうめいた。商店街の八百屋のとっつぁんみたいだ。
「かー、なんてこった。散歩って言ったらこれをするために出てきてるのに何しに来たんだよスズっちは」
「なにしにって散歩……」
「くー、君は干からびたおじいさんかい」
「はいはい、ぼくはおじいさんですよー。それより他に面白いところとかないのか?」
「これより有意義なことなんてあるわけないじゃ……って置いてくなよー」
 チャラ雄(オ)君は置いて公園かどこかに行こう。

「ねーねー、どこ行くのさー」
「目的無き散策」
「なんだよそれー、つまんないじゃん」
 ロイの言うことは至極もっともである。これじゃ最初の日の猫神様と同じ意味ない庭めぐりと変わらないじゃないか。流石にロイが可哀想になってきた。
 そろそろ引き返して屋敷に帰ろうかと提案しようとしたとき、前方からなにやら怒声が響いてきた。
「なんか喧嘩してるみたいだね」
「うんうん。面白そうだし見に行ってみようよ」
 ロイの野次馬魂に丸めこまれて喧嘩現場へと向かうことにした。
 なにやら言い合いの響いている空き地の前に着いたぼくらの前には一匹のお高くとまった雌猫とにやけた面を張り付けた大柄なトラ猫、それを囲むように群れているたくさんの薄汚れた猫がいた。
「だからあんたたちみたいな野蛮で汚らしい野良猫になんて触られたくもないって言ってるでしょ!」
「嬢ちゃんそういうなって、数秒で終わるんだからよ」
「いやったらいや!」
「あの灰色の雌猫……」
「うん。ミルーちんだね……」
 ロイは深くため息をつきながら言う。虎子望家のツンツンお嬢様、ロシアンブルーのミルーだった。
「あいつらはなにを言い合ってるんだ?」
「うーん、あの野良のトラ猫の方がなにかしたがっているのをミルーちんが嫌がってるみたいだね」
「さっきロイがやってた行為みたいだな」
「……そうみたい。でも俺は無理やりやったわけじゃないからな! あっちがしてほしいって来たから……」
 そんなことはわかってる。ロイとあいつらを一緒にするわけじゃない。
「それはいいんだけど、なんであんなに強気なんだ? いくらなんでも多勢に無勢だろうに。強気でいられる理由があるのか?」
「うーん、たぶんないんじゃないかな。虚勢張ってるの遠くから見てもわかるよ。ほら後ろ足がガクガクで今にもお尻ついちゃいそうだし。でも最初から強気だったなら今更引くわけにはいかないんじゃないかな。ミルーちんのあの性格上」
「どうせ最初はあのトラ猫だけだったんだろ。それで騒いでいるうちにあの野次馬が飢えたカラスみたいに群がってきたんだろうさ」
 ぼくとロイがのんびり観察している最中、言い合いはエスカレートしていて、ついにはトラ猫がミルーを突き飛ばした。
「あ」「うお!」
 ここまで来るともう流石に放ってはおけないと行動を開始した。

「キャ、っつう。なにすんのよ! 」
「ほら! だから尻をこっちに向けろって言ってんだろ? それともそんなお嬢様ぶってるくせして言ってることがわからないんでちゅか? ギャハギャハ」
 トラ猫の下品な笑い声に周りの野蛮な奴達も一緒になって笑う。
 悔しい!
 無様に汚い空き地にうずくまってるなんて……
 でも、でも怖い。やっぱり怖いの。
 内心じゃもう大泣きしたいほど怯えているのが自分でもわかる。あいつの方も虚勢を張っているだけだってわかってしまっているんだろう。猫神様からもきつく言われていたのに……
『ミルー。最近野良猫達の動きが活発になってきてるニャ。決して喧嘩を売ったり馬鹿にするようなことは言っちゃいけないよ。いや、なるべく近づかない方にした方がいい』
『わかってるわ。あんな汚い連中なんてこっちから近づきたくなんてないし』
 あの時の猫神様はいつになく真剣な様子で言ってたっけ。語尾にニャがついてなかったし……
「ほら、早くしろって」
 乱暴な手が私の腰をとらえた。私の純情はこんな低俗なデブ猫に奪われてしまうのか。瞳から流れてきた一筋の液体が口元を湿らせた。
「ちょっと待ってもらおう」
「!」「!」
 突如として響き渡った声に完全に流れを乱されたトラ猫は舌打ちしそうなほど不快さを露わにした。
「だーれーだー。せっかくの楽しみを邪魔してくれた奴は。ああん? 前出てこいや!」
 私も一時的に魔手から逃れられたことで落ち着いた思考に浮かび上がる疑問。ここにいるだれもが私の敵だと思っていたのに、誰? 
 すると周りにいた汚れた猫の中からひときわ目立つ純白の毛を持つ猫がへこへこしながら輪の形を乱しながら姿を現した。
 あ、あいつは最近家に住みついたいけすかない雑種猫じゃない! なんでこんなところに。
「あーすいませんねぇ。はいはい、道開けてくれてありがとう。あ、どうもこんばんわ。うわー間近見ると迫力ありますねぇ。片目つぶれちゃってますし」
「それでおまえ、こんな邪魔してただで済むと思ってないよな」
「いやー、ぼくのお尻じゃだめですかね。なんて嘘ですけど」
「お、おまえ俺をなめてんのか、こら!」
「いやー、あんたみたいな汚らしい奴なめるわけないじゃないですか。自分から汚物をなめるやつなんていないでしょ? ってあ、でも猫だと舐めるやつもいるのか。でもぼくは違いますからね」
「なにをわけのわからないことを!」
 トラ猫はすでに私から離れ、さらに周りの注目はあの白猫へと移っていた。そこへこそっと近寄る見慣れた姿を見つけた。
「おーい、ミルーちん。大丈夫か?」
「ロイ! なんであんたまで!?」
「たまたま通りがかったんだ。それより注意がスズちんに向いてる間にミルーちんは安全な所に」
「あ、うん」
 ロイに支えられながら私は空き地を出て近くの家の屋根の上で伏せて様子を窺った。
「あんなにいっぱいいるけどあいつ大丈夫なの?」
「えー、あんなにいっぱいにしたのはミルーちんのせいなんだけどね。大丈夫かどうかはわかんないなー。とりあえずぼくが気を引くからミルーを連れて逃げてって言われただけだし」
「え! なにか考えがあって飛び込んだんじゃないの?」
「うーん、わかんないなー。でもさ……」
「なによ」
 ロイの横顔は真剣そのものだった。
「例えぼくが傷ついても、無様に散ったとしてもミルーは助かるだろ。それで充分だって、あいつはそう言ってたよ」

 ロイとミルーが何とか無事にどこかへ去っていくのを目だけで追う。これでよし。さてこれからどうしようかね。
「さて俺をあれだけ侮辱したんだ。覚悟はできてるんだろうな」
「覚悟か。特にしてないけど……君今いくつ?」
「はぁ? なんで今そんなこと答えてやる義務がある?」
「ぼくは一七年生きてる」
 その発言にトラ猫だけでなく周りの猫たちも一斉にふきだした。
――まじかよー、じじいじゃん。
――そんなのでドラさんとやるつもりなのか。命知らずにも程があるだろ。
「ギャギャギャギャハ。そんなヨボヨボでおれと張り合うつもりなのか? 命知らずというかそこまでいくとボケちゃってるのか?」
「一七歳をなめちゃいけないよ。ぼくは一七歳こそ人生で一番悩み苦しみ、そして希望に満ち溢れた歳だと思う」
「なにをわけの分かんないことをいってるんだ、じいさん!」
 奴は真正面から鈍く光る爪を閃かせ、ぼく押しつぶそうと間合いを詰めてきた。能ある鷹は爪を隠すっていうのに相手に爪見せちゃだめでしょ。あ、猫だからそんなこと知らないのか。
 お腹が大分だぶついている割には俊敏な動きをする奴に心の中で称賛の拍手を送りながら、空中にいる奴の腹下にくぐり醜くだぶついた腹を両足で蹴りあげた。
――ゲェェェェェェブ
 あたりに吐しゃ物をまきちらしながら派手に野次馬の輪に飛んでいくトラ猫。まあ、お腹の脂肪が厚いから内臓にそこまでダメージは通らないだろう。
 汚らしい胃の内容物と泡を吐いているトラ猫に周りが気を取られているうちにぼくはその空き地から撤退した。別にここの猫たちを全部相手しに来たわけではないのだ。第一目標はミルーさんを逃がすことだからぼくもさっさと逃げることにした。

 なんとか虎子望家の敷地内、庭までたどり着いたぼくは一息ついた。
 ロイには強がってみたものの結構緊張して声が震えるところだった。あのトラ猫が頭に血が上りやすくて助かった。
 まずは相手を油断させる。ぼくが一七歳だと言って年寄りを演じることで相手はぼくを下に見て油断する。特に嘘をついていたわけじゃないし、ただあの出だしはなんの脈絡がなさすぎで我ながら脇の汗が止まらない思いだった。それからバカ正直に突っ込んでくるあいつのお腹に一撃を入れることなど赤子をひねるように簡単なことだ。なにしろぼくは熱心にやっていたわけではないが元空手部である。空手であのような技無いけれど片足で蹴りあげるより両足を使った方がバランスが良かったから両方使っただけだ。しかも人間のころよりはるかに視力、動体視力があがっているし、しかも筋肉がない分体が軽いので自分の思った以上の動きができて逆に気持ちいい位だった。今日は良い運動ができたと思えば有意義な夜だったなあ。
 そういえばロイ達の方はまだ帰っていないのかな? また捕まってたりしてないだろうな……
 東の空が赤みを帯びて朝の雰囲気が漂う頃、ロイは門をくぐって姿を現した。
「おーい、もう帰ってたのか。少し探したけどいないから先帰ってるのかと思ったらほんとにいたよ」
「おー、すまんすまん。自分のことで精一杯だったんだよ」
 しかしロイはいるが肝心のミルーの姿がなかった。
「あれ? ミルーさんはどこいったの? まさかまた変な奴にからまれたとかじゃないよね?」
「なによ! 人をやっかい者扱いするの? ここにいるわよ……」
「なんだ隠れてないで出てきてくださいよ。心配しました」
 屋敷の門の影からするりとぼくの前に姿を現した彼女を見て長く息を吐いた。
「ベ、別に隠れてなんかいないわ。ただ少し出てきにくかっただけ……」
「ん? 最後の方が良く聞こえなかったんですが、もう一度言ってくれませんか?」
「だー、聞こえなかったならいいの! ロイはちょっと先帰ってて! 私はスズさんに用があるから!」
「へーい、んじゃ俺は先に帰って寝てるぜ。ふぁーぁ」
 大きく欠伸をしながらロイの影が去って行った。太陽が明るくなってきたようだ。
「ぼくに用ってのは? あ、そういえばぼくの方も用があるんでした」
 まだ初日の失態を謝っていなかった。
「ベ、別にあの日のベッドの件はもういいわ。初めてだしわからないことだらけだったのでしょうしね。あの時の私も大人気なかったわ。ごめんなさい」
「あ、う、そんな謝るのはこっちなのに頭を下げないでください」
 先に謝られるし急に態度が変わってなんだかやりにくいなぁ。
「それと! 今日のことなんですけれど……」
「あ、はい」
「助けてくれてありがとうございました。私本当に怖くてあの時あなたが来てくれなかったと思うと……」
 あのプライドの高いミルーさんがぼくの前で涙を流していた。やっぱり女の子ならあんなに多くの敵意をむけられて怖くないわけないよな。ぼくだって内心怖かったし。
「まぁ、まだ来たばかりだけど、それでも同じ屋根の下住んでいるんだ。ぼくは君のことを家族だと思っているから守ってあげなきゃってね。ちょっとくさいかな、はは」
「いいえ、くさいだなんて……。とても優しいお方なんですね」
 ミルーさんのぼくを見る目が最初の日と全く違っていた。朝日の光は関係なく輝いて見えた。そして頬もちょっと赤みが差しているような……
「あ、あの! 今日はもう寝られますか?」
「あ、うん。もう眠いから。休もうと思うけど」
「な、なら! 私のベッドで一緒に寝てくださいませんか!!」
「? ? え――――――――――――――」
「今日確信いたしました。あなた様が私の純白のナイト様だと。私の初めてを貰ってはいただけませんか?」
 錫木一郎。十七歳。彼女いない歴も十七年。
 しかし今日今ここで告白プラスベッドに誘われるとういう夢のような展開が。
 相手が猫でなければ……

 現在猫神様は屋敷のご主人達によって治療されている。傷の状態など詳しくはわからないけれどここの人たちなら絶対に直してくれると信じて今は待つしかないのだがやはり猫神様の言っていたことが気になって仕方ない。早く復活してくれないものだろうか。
 他のみんなもこの猫部屋に集まっていた。誰もが顔を伏せうなだれた様子で厚い雲に覆われたような陰鬱な日が続いた。
「あの、センプスさんは何か知っていたりしないんですか? 猫神様がああなった理由とか最後の言葉の意味とか」
 彼女も元気のない様子だったがこのままではいけないと思いこの中で唯一何か知っていそうなセンプスさんにすがってみた。
「そうねぇ。なんとなくだけどミケ様が最近頭を痛めていたことは知っているわ。ただそれが今回のことかどうかはわからないのだけど……」
「いえ、何でもいいんです! ぼくは今なにが起ころうとしているのか全く分からないんです。どんな情報でもいいから欲しいんです」
 ぼくの勢いに必死さを感じてくれたのか、彼女は佇まいを直した。いつものテディベア座りだ。
「わかったわ。結構長い話になるかもしれないから座って頂戴。あと他のみんなもこれから巻き込まれるかもしれないから聞いて頂戴な」
 こうしてみんなテディベア座りで円を作ってはなしを聞くこととなった。

「まずみんなミケ様からなるべく野良猫たちと接触しないように言われていると思うけれどそうよね?」
「う、うん。みんな目つきが怖くて自分から近づきたくもないよ」
「気丈なお嬢様はこの前喧嘩売ってたけどな」
「う、うるさいわね! 襲われそうになったから抵抗しただけよ!」
「まあまあ。それで? そのこととなにか関係があるんですか?」
「そうね。特に全身真っ黒で他の野良猫とは異質な雰囲気を持ってる猫は見たことあるかしら?」
「うーん、ぼくはないなー」
「私も」
「俺もないな」
「ん? ぼくはもしかしたら見たことがあるかもしれない。なんだか深い闇を連想させる猫だった」
 ぼくはここにくる最初の日に病院を出てから出会ったあの黒い猫を想起していた。確かにあいつは他の猫とは大きく異なった雰囲気を持っていた。
「私も見たことはないのだけれどミケ様が言っていたのはたぶんその猫なのでしょう」
「それでその怖そうな猫にミケ様は襲われちゃったの?」
 シャルトーは言った。まるで自分が襲われているかのように足は震えていた。
「確証はないわ。最近は特に気をつけるように言われていたからそうではないかなと私は考えているってだけね」
 仮にも神なのだから余程のことでないとああまでズタボロになるとは考えにくい。前見たく考え事してて道でトラックに轢かれたとかだったら、あの時ぼくらに気をつけろと言うはずがない。シャルトーを除いてみんなはそんな心配をされるほどぼーとしていない。
――奴と会ったら全力で逃げるニャ
 あの時あいつはそう言った。詳しくは話してくれなかったが鬼気迫る顔は冗談にはとれなかった。
「ぼくがその猫を見た時猫神様はあの黒い猫と敵対関係にあると言っていました。だからぼくも今回のこともそれに関係あると見た方がいいと思います」
「あら、スズさんなにも知らないとか言ってたくせに結構知ってらしたんですのね。私から情報を引っ張りだす必要なんてなかったんじゃありませんこと? 私よりよく知っているというのにスズさん結構意地悪な方なんですのね」
 そういうとセンプスさんはしずしずと泣く真似をした。
「だー。ベ、別にそんなつもりじゃないですってば! しかもその話してくれなかったらぼくたぶんこのこと思い出さなかったですし!」
 嘘泣きと分かっていてもぼくは結構慌てて下手な弁明しかできなかった。
「あー、スズっちが泣かせたー。ひでー」
「スズ君自慢はよくないよ」
「私はどんなスズさんでも大好きです!」
「あなたはもう少し空気を読んでください。そしてお友達でお願いします」
「三対二でスズ君はいじめっ子のSに決定ね」
「えぇ! 急になんですかそれ。そんなくだらない話してる場合じゃないでしょ!」
「私はどんなスズさんでも受け入れます! だ、だから、一緒にねて……」
「だ、か、らーそんな話してる時じゃ。そしてあなたは最初のキャラが崩れすぎています、自重してください」
 いつの間にかセンプスさんはクスクス笑ってるし、二人もニヤニコしてるし今までの重い雰囲気はどこに行ってしまったんだ。
 猫神様が見たらなんて言うか……
 きっと、人が深刻な時だってのにみんなしてなに笑ってるのニャーとか怒りそうだな。
「なになに? コイバナ? わしも混ぜて混ぜて」
「……」
「ぬあ!? 猫神様! いつの間に!?」
「さっきの間に。いやーみんななんか楽しそうな雰囲気でわしだけ仲間はずれとかずるいニャ」
 ぼくも含めて五匹全員突然の猫神様出現に水槽の金魚のように口をアグアグさせるだけで、誰も次の言葉が出せないでいた。

「みんなどうしたのニャ? そんなに口あけてたら口の中渇いて声がカラカラになっちゃうニャ?」
 とまどう猫神様の姿は先日のぼろぼろの身体が嘘のようで艶やかな毛並みと引き締まった筋肉、健康そのものである。
「あ、あの。もう大丈夫なのミケ様? 結構痛々しい身体だったけど……」
「ぼくには大丈夫なようにしか見えないんだけど」
「綺麗に見えても実は大丈夫じゃないんだニャ。外傷なんてのはすぐに治せるんだニャ。なにせわし神だし」
――あ、そっか。
 五匹全員が同じことを思っただろう。猫神様だのミケ様だの呼んでいるが実際の所このアホみたいな猫が神であることをいつも意識することは無理だと思う。
「見た目は健康そのものなんだけどニャ。実は結構衰弱してるし気持ちはへこんでるのニャ。とんでもないことに気がついてしまって……」
「とんでもない? 奴が来るとかいってたなそのことか?」
「まーそれも。惜しいけど、実は……」
 みなが猫神様の次の言葉に注目する。シャルトーがごくりと生唾を飲み込む音が聞こえてきた。敵が来るよりもとんでもないことってなんだ?
「実はわしほんとは雌だったみたい。今まで生きてきて初めて知った衝撃の事実ニャ」
「――――――――――うぇ?」
 あまりの脈絡の無さに制御できずに口から変な音が吐き出されてしまった。このタイミングでそんなどうでもいいことをカミングアウトする猫神様は本当にどんな脳を持っているのか頭を切り開いて覗いてみたい衝動に駆られる。
 強大な敵が迫って来て、結構深刻な状態なのだろうかと心配していたぼくらのこの不安な気持ちをどう静めてくれるものか。
「本当に衝撃の事実ですけど、今はもうちょっと別に大変なことが起きているのではなくて? ミケ様?」
 真っ先に立ち直ったのはセンプスさんだった。やはり頼れる姉御肌は違うなあと関心。いつもはおっとりした目元も今ばかりは液体窒素顔負けの冷たい視線だ。
「あ、うむ。でも本当に衝撃だったんだニャ……」
 怯みながらもまだ抵抗する猫神様。その頑張りをもうちょっと神らしいところで使ってほしいと願うのはぼくだけではないだろう。
「うにゃー、わかったニャ余計なこと言ってすまないニャ。実は今神様要素を大きく失っちゃって途方にくれてるのニャ」
 みんなの空気読め視線に耐えかねてようやく猫神様が話し始めた。
「神様要素を失う? でも傷の手当てとかはできたんでしょう?」
「怪我を治すのなんて初歩の初歩のことで朝飯前だニャ。ただこれから起こるであろう闘争で足手まといになるだろうニャ」
「やっぱり敵が攻めてくるんだ。うぅ、怖いよぉ」
「たぶんこの辺りの野良猫達の大群がこの屋敷にやってくるだろうニャ。わしを捕まえに」
「ミケ様を? どうして?」
「わしが奴の力を封印したからなんだけど。そうだニャあ、どうせだし最初から話しておこうかニャ。最近皆に野良猫になるべくちょっかいを出さないようにと注意していたわけから話していこうかニャ」
 やっと根本からの話をすることにした猫神様を取り囲むようにしてみんな座りなおした。今度はセンプスさんを除いて思い思いの座り方である。
「そうじゃのぉ。これはとおーい昔の深ーい因縁から始まったのじゃ……」
「さびれた村の長老的な話し方は求めてないから。普通にいこう普通に」
「む。そうかニャ」
 調子に乗らせると変な方向にすぐ脱線して危険だ。しっかり釘をさしておこう。
「今回わしが力を大きく失ったのはある一匹の猫を止めるためなんだニャ。その猫はオオグロという名で、名前通り真っ黒な奴なんだニャ。これで見た目に反して心は美しい奴だったらよかったのだがニャ。世の中そううまくはまわらないものだニャ。そいつはひんまがった性格でわしもずっと手を焼いていたんだニャ」
「ひんまがった性格?」
「そうそう。さらに神はなんでそんな奴に力を与えたのかわからんが奴は人間をむりやり猫に転生させる力を持っていたのニャ」
 おい、ここはしっかり突っ込んでおくべきところなのか? だがここで突っ込むと奴の思いのまま。いちいちボケに突っ込んでいたらいつになっても話が前に進まないからな。
「えー、でも神様ってミケ様のことでしょー」
 うわー、空気読もうよシャルトー君。
「あー、そうだったうっかりしてたニャ。わしも神か!」
 え! まじで忘れてたのかよ! わざとボケじゃなく年季の入ったボケだったのか……
「失礼なこと考えてるバカがいるがこれはわざとボケたんだニャ。他の子はわかってるみたいだけど」
「うるせー。それで? なんでおまえはそんな変な力を与えたのさ?」
「いやそれがのぉ、わしの知らないところで別の神があやつに力を与えていたようなんだニャ。いまいちはっきりした理由がわからんが、ここ日本にはたくさんの神が存在しているからニャあ」
「それでその力というのと今回ミケ様が弱って帰って来たのと何か関係があるんですか?」
「そう、わしはその力は人間にあまりに大きく影響する力だから多用することを禁じたのだがあやつは知らんぷり。見境なく人間を猫へと転生させているのだニャ。特に情が深い人間が奴の罠にかかってしまうのだニャ。あやつはわざと危険な所で立ち止まったりしてあやつを救おうとした人間は事故に会ってしまう。そして死んだあとに無理やり猫に転生さて自分の手下や奴隷として使う。なんとも卑劣な力だニャ」
「ってことはぼくの相手がその猫だったらぼくは今頃あいつの……」
「そうなっていた可能性もあるニャ」
 ぼくは選択肢が用意されていて望んでこの世界にきたが、あいつのやり方は嫌がる人も問答無用ってわけか恐ろしい奴だ。
「まあその話は置いておいて。それでわしもついに耐えかねて奴を完全に止める気で会いに行ったんだニャ。その力を封印しにね。だが奴の力は予想以上に大きかった……」
 そう言うと顔を上げ目を閉じた。
「奴の力の源は奴自身のとてつもない深い憎しみと周りの不安、恐れ、嫉妬、憤怒などの負のオーラが糧になって強力になるようなんだニャ」
「負のオーラですか。そのオオグロさんの周りにいるのは無理やり猫にさせられた方や普段人間から理不尽な扱いを受けていることの多い野良猫達。強大な力が集まるのが目に見えるようですわ」
「そう。だがわしはその力の大きさを見誤り、封印することには成功したのだがわしの方もかなり消耗してあんなざまで帰ってきたというわけだニャ」
 少し長く語るだけで大分消耗したのか、身体をミルーにもたれさせて一息ついた。見た目よりずっと衰弱しているらしい。
「ミケ様大丈夫ですの?」
「ああ、すまんの。また少し休めば何とかなると思うニャ。わしも年をとりすぎたみたいだニャ」
「それでそのオオグロってのは今どこにいるんだ? それこそ今まさにこっちに向かって来てるんじゃないのか。その封印を解けるのはお前しかいないんだろ?」
「わしを殺しても封印は解けない。そのことを奴は知っているだろうからすでに多くの刺客をこの屋敷へと放ってわしを捕らえようと動き始めているだろうニャ。オオグロ自身も出てくると思うニャ」
「そうか、でも屋敷内には入らせたらまずいよな。虎子望さんたちに迷惑かかるだろうし。何とか庭あたりで迎撃したいとこだが……なにかいい案とかあるのか?」
「とりあえずわしが微弱なバリアを屋敷の敷地内に張っているが、ちと心もとない強さでしかなくてニャ。雑魚どもは入ってこられんがやり手だと突破されてしまうだろうニャ」
「一応厳選はされるってわけか。ふむふむ」
 数で押し切られたらひとたまりもないだろうと考えていたぼくはこの言葉でとりあえず安堵した。
「それじゃあ、できるだけ庭で敵を片付けられるのがベストなんだな。うおーなんか燃えてきたっす」
「おお、ロイ結構戦えたりするのか?」
「おうよ! 遊びに行く時に時々奴らと場所の取り合いでもめたりで喧嘩するからな。まあまあ慣れてるぜ」
 早くも闘志を漲らせ叫んでいるロイは熱くなりすぎているので放置しておいてミルーの方に視線を投げた。
「わ、私に戦えっていうの? そんな、乙女に鞭を打つなんてスズさんやっぱりSなのね!」
「い、いやそんなつもりはなかったんだよ。無理に参加なんてさせないさ」
「いいえ、たとえ役に立たなくったって邪魔になったってスズさんと一緒に行くわ!」
「いや、邪魔になるのは困るかな」
「あのう、僕も戦うよ。みけ様いなくなっちゃったらヤダもん。怖いけど僕もできることやるよ」
「そっか。ありがとな。一緒に猫神様守ろうな」
 まだ五年も生きてないだろうにこんなにも強くなれるものなんだな。それと比べるのと人間ってのは五歳じゃ誰かを守ろうなんて考えることもできないんだ。人間の脆弱さと猫という生き物に尊敬の念を抱いた瞬間だった。
「私は猫神様と一緒に部屋にいるわ。とりあえず休ませてあげないと」
「そうですか。ではぼくら四匹は外に出て敵の動向を探ってきますね」
「気をつけてね。無理だけはしないで」
「はい。センプスさんも気を付けてください」
 そしてぼくらは屋敷の外の様子を見るためにセンプスさんと別れ階下へ降りて行った。

 外に出ると早朝特有の霞がかった太陽がぼくらを出迎えてくれた。ぼくの心もこれからのことが不安で靄がかかったようで気持ち悪い。しかも出たとたんにぼくの感じれる範囲でもすでに五匹以上の敵意がこの屋敷へと向かってきているようだ。
 人間と猫というのは全然違った感覚で生き物を感じ取れるものだと今更ながらに感心した。今は目を閉じるだけで物音がするわけでもない相手の生きている存在感というかオーラというかそこにいると感じ取れる。これじゃ人間が野良猫を捕まえるのが難しいわけだ。
「なんか物騒な雰囲気を持ってるのが近づいて来てるな」
「お、スズっちわかるのか。流石だな~。だいたい十匹位かな?」
「う~ん、ぼくは五匹しか感じられなかったけど」
「十一匹ですわスズさん」
 会話に身体ごと割って入ってきたミルー。本当に強引な奴だ。
「十一匹か……場所のおおよその目安とかはわかる?」
「あちらは三つのグループで行動しているようです。三、四、四かしら」
「よくわかるねぇ。ミルーさんすごいよぉ」
「愛のなせる技ですわ」
 こちらを見つめられても……。ここはスル―しておこう。
「それじゃ、ぼくらも二手に分かれようか。あっちは三つに分かれているけど仕方ないよね。とりあえず四対十一になるより四匹なところを潰していった方がよさそうだ」
「そうだな、んじゃどう分かれよう……」
「もちろん私とスズさんに決まってるでしょ。他の組み方なんてミジンコほどにも可能性はありませんわ」
 ぼくを含めた他三匹の中にはものすごい眼力による圧力に反対してまでも他の組み方にしようと言い出す奴はいなかった。

 ロイ達と別れてミルーと二人きりになる。
 ぼくは相手に先に気が付かれないようにそっと歩いているのだが、連れがやたらと身体を寄せてきて歩きにくくてしかたがない。電車で肩をもたれかけてくる人をうまく戻すように追い返すのだが、するりとかわされて埒があかない。もうめんどうになったのでふと疑問に思ったことを聞いてみた。
「ミルーさんはなんで敵が十一匹だとわかったんですか?」
「え?なにが十一匹ですって?」
「いや、だから敵が十一匹だって言ったじゃないか。それはなんでわかったの? 敵の気配とか読むの上手なのかなと思ってさ」
「いいえ、私敵の数なんて全然わかりませんわ。十一匹なんて適当。スズさんにいいところ見せたかったから適当に言ってみただけです」
「……」
 そんな、きゃっ。みたいな反応されても。
「まじですか。適当ってことは敵がもっといる可能性もあるじゃないですか。安易に二つのチームに分かれるとか言ったの失敗だったなぁ」
「あら、あれはスズさんが私のこと誘ってくれたのかとばかり……」
「いや、ないない」
 この非常時にまで色ボケに付き合わされるとは思っていなかった。これからどうしようかとまた頭を悩ませる羽目になってしまった。

「おい、足元とか気をつけろよ。いつもぼーとしてて危なっかしいんだから」
「うん。大丈夫だよ。今はしっかり起きてるし」
「そうかならいいんだけど」
 僕はスズさんたちと別れて庭を湖の方に向かいます。ロイ君があっちの方から気配がすると言っていて怖いけどついてきています。
 いつも僕のことをどんくさいからかまってもくれないロイ君ですが、今日はなんだか僕のことを心配してくれているような気がしてうれしくなりました。でも喜んでばかりはいられません。きちんと僕も戦わなくちゃと思っています。
 湖の湿った匂いが近くなるとともに僕たちの声ではない猫の声が聞こえてきました。前を行くロイ君が後ろを振り返り僕に目で合図をします。静かにと。
 湖畔では十匹どころではない数の猫が水際できらきら光るなにかと戯れていました。
「おい、新鮮な魚だぜ! こんなでかくてうまい魚は食ったことないぜ!」
「まじうめー。飼い猫ってものはこんなにいい物食ってるのか。羨ましすぎるぜ」
 彼らは外からやってきた野良猫のようです。つまりは敵です。かごに入っている魚と傍に転がっている釣り竿を見ると家の漁師さんを襲って魚を奪ってしまったようです。やっぱり外の猫さんたちは乱暴者で怖いです。
「しっかしミルーの奴が言っていた十一匹ってのは間違いだったのか。ここにいるだけで十五匹以上はいるぜ」
 ひげをぽりぽりとかきながらロイ君は呟きます。確かにさっきミルーさんが言っていたのは十一匹だったと僕も記憶しています。
「さて、ここに全員集結しているってわけでもなさそうだし、実際敷地内に入って来てる猫ってのはどんだけいるんだか。俺ら四匹で何とかなるものかねぇ」
「で、でもみけ様は弱ってて戦えないから守ってあげないと。いつも僕らの面倒を見てもらってるんだし、こういう時しか恩返しできないんじゃないかな」
「そりゃごもっともだな。神様って言ったって俺らは一緒に暮らしてるからご利益があってもそれを普通だと感じてるとことかあるしな。きちんと恩返ししなきゃな」
 ロイ君はあの数に気圧されることなく瞳の輝きを一層増したように見えました。
「とりあえずあの数全部相手にしてたら無駄に時間がたって本命がみけ様のとこに行っちまうからな。まずは頭っぽいのを探して不意打ちをかます。シャルトーも偉そうにしている奴を探してくれ」
「うん、わかったよ」
 未だ魚にむしゃぶりついている猫達を茂みの中からこっそりと観察しながら別れた二人にもみけ様の加護があることを祈りつつ時期を窺い続ける僕らだった。

 みんなが外に出て行った後ミケ様は弱々しく寝床に横たわって寝息をたて始めた。最近のミケ様はそのオオグロという猫のために屋敷に全く帰ってくることがなかった。かなり無理をしてまで彼を止めようと奮闘していたのに違いないでしょう。いくら悪いことをしようとオオグロも立派な猫の一員、ミケ様は猫の神。どんな神が彼を見捨てようとミケ様は絶対に彼を見捨てようとはしないでしょう。
「それがなぜあなたにはわからないのですか? オオグロ様」
「ほお、俺の存在を悟るとは姉ちゃんなかなかやるね」
「あなたの存在は全く感じられませんでした。ただなにもない空間というのでしょうか、異質な空間がこの部屋にできたことがあなたの来訪だと思ったまでですわ」
「そういうことね。まあ俺はまわりと同化することは不可能だから、いくら隠れようとしてもそういう感じ方をする姉ちゃんからは隠れきれないみたいだな」
「それで勝手に私達の御屋敷に入ってきて何か用でしょうか? 誰もあなたのことを歓迎致しませんわよ」
「まあまあ、そんなにきつい目で見ないでくれよ。こっちの狙いはわかってんだろ。素直にそこの汚い毛玉の塊をこっちに渡せばあんたにはなにもしないって」
 彼の視線の先にはまだ眠ったミケ様がいる。この非常時だというのにのんきなこと。そこが私達のミケ様らしいんですけど。
「残念ながらミケ様はお休み中ですので一緒には行けませんわ」
「クク、そんなわけないだろ。こんなに近くに俺がいるってのにぐうすか寝てるわけない。そんなんでも一応神なんだろ。俺の存在を無視できるはずなんてないんだ
「たぶんしっかりお休みになってると思いますけど……。この方は神ですけどミケ様ですからねぇ。ミケ様お客様がいらっしゃいましたよ」
 そっと寝床に近づいて汚い毛玉……じゃなくてミケ様を揺する。
「んあぁ? もうご飯かニャ? わし今日はコンビニのおにぎりのツナマヨのツナ以外は受け付けないニャ」
 目をすりすり場違いな寝起き発言をする。こちらの期待を裏切らない方だ。
「ミケ様ご飯はまだですよ。お客様です。招いてないんですがあちらの方が強引に迎えにきたみたいですよ」
「おお~、オオグロか~。やっぱりおぬし影が濃すぎて気が付かないニャ。というか影しかないのかニャ? あれ自分でもなにいってるのかわからないニャ」
 当のオオグロ様は目を真っ赤にさせ、数本の血管が切れそうなほど膨張している。先程見た身体より二倍は大きく見える。もちろん怒っていた。
「シャアアアアアアアアアアアアアアアア! 貴様みたいなのが神だからこの猫の社会は腐っていくんだよ! テメ―がぐうすか寝てるうちに何匹の俺ら野良猫の命が失われているのか知ってんのかおい! 人間から食いもんもらえる奴はそりゃいいよな。なにもしなくたって時間がくれば飯が食える。食って寝てゴロゴロしてても生きていけるんだからな!」
 叫びながら彼の瞳孔はさらに広がり、完全な円形を描きまるで紅い満月がそこにあるような錯覚すら覚えた。彼の怒気はさらに膨れ上がる。
「だがそんなのは一握りの野郎だけだ! その日一日だけじゃねえ、何日も腹になにも入れられなくて死んでいく奴の気持ちがお前にはわからないだろう。人間のものを必死で奪い殺されそうになりながらでも食いもんを手に入れなければならない奴の苦労がわからないだろう。なぜお前はそんな猫を助けてやらねえんだよ! 神だろ! 何でもできんだろうがよ!」
「おぬしはなにか勘違いをしているようだニャ。わしは神だが全知全能ではないニャ。この世界を作ったのもわしじゃない。わしはただこの猫の世界を守っていくという使命を与えられているにすぎない中間管理職のようなものだよ」
「守る? 貴様がなにを守ってるっていうんだ!」
「世界の秩序かの……。この世界がうまく回るように守っているのだよ」
「うまく回る? 差別され疎まれ踏みにじられて暮らしている俺たちがいるのにうまく回しているつもりか? これが秩序だっていうのか?」
「そうだ」
 二匹の猫が真っ正面から視線をぶつける。ミケ様の目も燃えるような強い意志がこもっている。とても寝起きとは思えない。オオグロ様が姿を見せてから本当はもう起きていたのだろう。
「そんな不平等な秩序は俺がぶっ壊す! だから俺の力を返してもらう」
「それはできない。この力はこの世界にあってはならないもの。だがなぜこんなものをおぬしが持っているのだ? わしにはそこがわからないのだ……」
「シャハハ。貴様にもわからないことがあるか。笑えるな」
「だからわしも全知全能ではないといっただろうが」
「そういやそうだっけな。んじゃ神様に俺が教えてやるよ。その俺のためにあるような素晴らしい力を与えてくださった、お前じゃない神様のことをね!」
 得意げに裂けた口を歪ませて笑うオオグロ様。考えていたことではあったのだけれどあまり好ましくない展開だったことはミケ様のつらそうな顔で一目瞭然だった。
「この力をくれた主のことを話すには俺の昔話から付き合ってもらう必要がある」
 そう言うとオオグロ様は器用にあぐらをかいて座って話し始めた。

 俺はもともと人間に飼い猫と呼ばれる猫だった。が、それはほんの数日のことだけで生まれて間もなく俺は捨て猫になった。もともとそんなに裕福な家ではなく猫も本当は増えてほしいと願ってなどいなかったのだろう。俺は三匹の兄弟とともに安っぽい輸入物のクッキーの缶に入れられて捨てられた。
 それは缶が凍りつく程寒い冬のことだ。コンクリートの方がましなほど缶は余計に冷えやがる。人間がわざと俺らがさっさと死ぬように仕向けたものなのかは分からないが、とてもじゃないがそこには居られなかった。俺ら四匹は生きるために暖かい所を探してさまよった。数回飲んだ母親の温まるミルクの味などすぐに忘れてしまった。俺らが飲めたのは口が水とくっついてしまうかと思うほど冷えた川の水くらいだったが飲めるものがあるだけまだましだった。
 食べ物なんてまともなものなど食べることは叶わないから俺らはみんな気持ち悪いほどがりがりで一匹は数日程で死んじまった。
 後に残った俺ら三匹ももうほとんど動けなくなってどっかの住宅街に捨ててあった段ボールで三匹身を寄せ合って互いを温めか細い命を必死につなぎ合わせようとしていた。あの頃の記憶は今も苦痛としてはっきりと思い出せる。苦行の日々だった。
 だがある時そこに通りかかった人間がいた。俺達にとってはただの人間じゃなかった。
 まだ幼さの残る顔立ちをした少女だ。彼女は俺ら三匹を見てすぐに鞄をごそごそと漁ってなにかを取り出したかと思うと、目に眩しい程の赤いフラーを俺らにかぶせてくれた。
「こんなに痩せちゃって、しかも寒そうで見てるこっちが凍えてきちゃうよ。このマフラー私には合わないから君らにあげようね。あと……」
 マフラーを俺らにしっかり巻いた後、また鞄をごそごそさせていた。
「今はこんなものしかないや。猫ってパンでも食べれるよね? って聞くまでもないか」
 俺らは食いものの匂いが目の前に置かれるやいなやみんな飛びかかってかぶりついていた。仲が悪いわけじゃないが俺らは三匹とも必死で自分がより多く生きるためにパンを確保しようとした。そんな様子を見かねた少女は争う俺らをひきはがしパンを取り上げてしまった。
「こらこら、喧嘩はダメよ。これをこうしてちゃんと三個にわけないとダメだったみたいだね」
 三つに分けられたパンをそれぞれの目の前に置き、よしっと呟く少女の前で俺らはまた互いのパンを食おうと争った。
「コラー! なんで君らは仲良く食べられんのかね。そんな悪い子たちはみんなあげませ~ん」
 もみくちゃにされた三つのパンをまた取り上げながら少女は言う。食べ物を取り上げられた俺らはしゅんと身体を丸めてはいたが皆パンに熱い視線を向けていた。
「まったく仲がいいんだか悪いんだか。とりあえずみんなお腹すいてるんでしょ? だったら最初はみんなで分け合って食べなきゃダメだよ」
 みんな彼女が言っていることがわからず、いいからそのパンをよこせとニャアニャアと鳴いていた。それに何と勘違いしたのかうんうんとうなずいて少女は一匹ずつにパンを与えていった。
 それを他の奴は黙って見ているはずもなく横取りしようとしたが、少女が一匹ずつ抱いて丁寧にパンを分け与えていたので結局少女が与えてくれた分しかパンを腹に入れることは叶わなかった。
「あっと、もうこんな時間だ! それじゃあね、また来るから寒さになんて負けちゃダメだよ!」
 少女は腕の光るものをちらりと見るとそう言ってこの場を離れていった。俺らはどうにか食事ができたことに満足し、新たに得た温もりとともに眠りに落ちていった。

「めでたしめでたし」
「……なに勝手に終わらせようとしてんだよ! これじゃただのいい話で終わりじゃねーか」
「え? 違うのかニャ。いい子に出会ってよかったよかった。で終わりでいいじゃないかその方がおぬしも幸せだろう?」
「これで終ったら今の俺が出来上がらないだろうが! まだ肝心の混沌神が出てこないだろうがよ!」
「混沌神? それがおぬしに変な力をあたえた神か」
「おっと口が滑っちまった。お前がくだらない茶々入れるから話の順序がぐちゃぐちゃになっちまっただろうがよ」
「えー,だってすんごく長くなりそうでわしそろそろ飽きたからもうオチでいいんだけど――って、なにするんだニャ、センプス」
「だってあまりにも空気を読めなさ過ぎて、こっちがイライラしてきましたのでつい手が出てしまいましたわ。申し訳ありません、ミケ様」
「ぜんっぜん申し訳なさそうじゃないんだけど……」
「あらあら、わかってしまわれましたか。とりあえず黙ってきいててくださいましねー」
 にこやかな顔をしているが顔の裏ではなにか燃えるような怒気が発せっれているように見えたからここは黙って聞いていた方が良さそうだ。
「ではすいませんが続きをお願いしてもよろしいでしょうか、オオグロ様」
「お、おお」
 いつのまにかこの場を支配しているのはセンプスになっていたがわしもオオグロも口を出せないまま話は続く。

 少女はその後も何回か俺らの元を訪れ、食べ物を持ってきたりじゃれあいに来た。他にもこの段ボールの中にいると多くの人間たちと目を合わせる機会があった。好奇の目、同情の目、嘲笑の目、軽蔑の目。さまざまな人間にいろいろな目を向けられた。俺はその目に耐えられなかった。特に侮蔑や軽蔑の目、汚いものを見る目が俺は大嫌いだった。
 だから俺はその段ボールを出てもっと自由に生きる道を進むことに決めた。
 だが後の二匹はその段ボールの中でニャアニャア鳴いて、待つ道を選んだようだ。兄弟たちと別れることにまったく寂しさを感じることのなかった俺は、結局孤独でいた方が性に合っていたようだ。
 その後彼らとまた再開するんだがそれはもう少し待て。
 俺は一人でがむしゃらに生きていくことにした。居心地のいいところを探すのは苦労した。最初にいいドラム缶を見つけて落ち着けたかと思うと、でかくておっかない猫が何匹も現れて「おまえどこのもんじゃい、誰の許可得てこの場所住みついとんねん」なんてわけもわからず尻をけっとばされて追い出された。ある時は人間の店でほうほうの体でかっぱらってきた魚を待ちかまえていたように他の奴らに横取りされたこともある。何日も機会を窺っていたのにもかかわらずだ。何日もの忍耐がほんの数秒で無駄になるなんてしょっちゅうだった。
 俺が進みだした道はそんな厳しいものだった。弱い者は奪われ、強いものが至福を肥やす。そんな世界だったよ。最初は泣く泣く奪われていたものだが、俺はよほど生に執着があったのか一年程でその生活で奪われることなく生きる術、また争いに勝つ力を手にしていった。何度も血反吐を吐きながらだ。だがその暮らしにやっと慣れたころあるものを俺は見てしまった。
 あんなに汚らしくてがりがりだったはずのかつての兄弟の一匹を。
 奴はあの後、運よく拾われ飼い主ができたらしい。きらきら光る陳腐だが手入れされた首輪をつけ、飼い猫独特のなに一つ不自由のなさそうな面をしてどすどすと歩いていた。
 同じ兄弟であのときまでは一緒の境遇だった俺たちは、あの日を境にこんなにも違う道を歩んでいる。片や日々何一つとして不自由なくだらだらしていても食べるものに困らぬ生活。片や生きていくために毎日命をかけて食べ物を奪い奪われ、その日生きていくことに精一杯のつらい目ばかりに会う生活。
 なぜ? 
 あの時俺があそこを出たのは必死に生きようとしたからだ。生きていたかったからなのに、なぜ自ら動き生きようとした俺が、だれかにたかることでしか生きていけなかったあいつより苦労しなければならないのだ? 
 なぜ? 俺のなにが悪かったのだ?
 なんでこんな理不尽なんだ! 
 かつての兄弟の姿を、あのまるまると肥えた姿を眼にして以来俺は飼い猫を、奴らを拾って幸せにした人間どもに憤怒の感情を抱くようになった。
 そんな感情が湧きでてから一週間ほどたったある日俺に神が接触してきた。
 我は混沌の神。負の感情を糧に存在しているもの。
 奴は言った。
「貴様、よほど人間が憎いと見える。わしの力をやるから貴様の憎しみを恨みをもっとこの世界に訴えるのだ」
 俺は言われたことをすぐには理解できなかった。急に視界がぼんやりと霞んだかと思うと、頭の中でピーピー喚いてきやがったからな。しかも俺が憎いのは飼い猫だ。人間はその付属物でしかない。
「そうか、それでもよし。我にとってその差は些細なものだ。それで貴様もっと力が欲しくはないか?」
 問いかける口調だったが、実質ほぼ欲しいだろ。と言っているようにしか聞こえなかった。
 そりゃ欲しいさ。誰だって力があった方が生きていくに不自由なく暮らせる。
「では我から貴様へ贈り物を届けてやろう。不幸を運ぶ猫。黒猫の貴様にはぴったりな力だ」
 そう、それから俺は不幸を運ぶ。人間を不幸にし猫にしてやる力を手に入れたってわけだ。
 それから俺は野良猫の中でも特別な存在になり、夜猫族という名前を付けて野良猫のグループの頭にまでなった。.

「と、いうわけだ」
「……」
「おい、テメ―もしや寝てるわけないよな!?」
「あ、ちゃんと起きてますよ? んで太った兄弟が出てきて何だって?」
「ミケ様それはもうとっくに話し終えた後ですわ」
 当のオオグロ様はイライラし疲れたのか肩を落とし憔悴していた。
「テメーと話しても会話になりゃしねえ。本当にお前神なのか?」
「神じゃよ?」
 私の方にも目でふってきたので、一応うなずいておいた。こんな方でも一応神ですからと。
「もーいーや、とりあえず俺の力を返してくれ」
 オオグロ様はそう言いながら私達の方ににじりよってきます。
「く、くるな! わしを食ってもうまくないぞ!」
「別に食いはしねーよ。ちょっと胃の中身がすっからかんになるまで腹を殴らしてもらうだけだ」
「うげ――」
 自分が殴られるさまを想像したのか気持ち悪そうにお腹を抑え始めたミケ様。
「まだ殴られてませんよミケ様。気持ちを強く持ってくださいまし」
「い、いや。本当にお腹痛くなってきた。今日のコンビニのおにぎりは日に当たりすぎて危なそうな感じだったんだ――。やっぱりコンビニのおにぎり食べたいからってゴミ漁るのは冬じゃないときついかな」
 屋敷でもっといいものが出ているというのにこの神様はなにをやってるんだか。私とおそらく同じであろうオオグロ様も珍妙な物を見る目でミケ様を見ていた。

「ねえ、いつになったら出ていくの? もう大分魚食べて満足してるよ? チャンスじゃないかな」
「いや、待てまだ早い」
「早いってあんなお腹出して寝っ転がってる時以外のチャンスってあるの?」
 観察を続けて十分位たったころでしょうか。彼らはたくさん魚を食べて満足したのか、大胆にもお腹を上に向け寝そべっているのです。これは隙を突くチャンスではないでしょうか? 僕はそう思うのですがロイ君は首を縦に振ろうとしません。
「ねー、もうほとんど寝てるじゃないかな。今ならやっつけることできるんじゃないかな」
「あぁ、そろそろ俺の覚悟が決まったから良い頃合いだな。よっし攻めるぜ。先陣はお前に譲ろう。突っ込んでこい」
「え? 僕が先に行くの? ロイ君が先に行ってよ。ぼく怖いよ」
「なんだ、おまえ急かしてたからよほど行きたいのかと思ったのに」
「そ、そんなわけないじゃない。ただ僕はチャンスじゃないかなと思ったから」
「うん。チャンスだな今なら大丈夫だ。だからお前先行け」
「う、ひどいよぉ。ぼくそんなに戦えるわけじゃないよ。引っかいたりすればいいの?」
「ああ、そうだ。お前の強いとこ見せてやるんだ。」
 ここまで言われて行かないのは男が廃るってものです。僕は覚悟を決めて奴ら集団の方へにじり寄って行きました。
「よし、日々邪魔なだけだと思ってたこの砥ぎ磨いてきた爪を使う時が来た」
 爪の具合を確認して僕は猫の集団の中に飛び込んでいった。
「うおおおおお」
 自分でも驚くくらい大きな叫び声をあげて敵の方に飛びかかりました。僕こんなに大きな声出せたんだ。まずは一番近くにいた油断しきっている猫の鼻っ面に爪を立ててやりました。今までにない奇妙な感覚でした。ですがこの時は無我夢中で目の前の敵のことしか考えられませんでした。
 この猫たちはみけ様をさらいにきた悪い奴なんだ。一匹たりともみけ様に近づかせてなるもんか!
 余程僕の声がへんてこだったのかそれともまだ覚醒しきっていない頭で辺りを見回そうとしているようで周りの猫たちは寝ぼけなまこのままあっちへフラフラこっちへフラフラとして状況を把握しかねているようでした。そのうちにまた数匹の足に爪を立てて思いっきり踏みつけてやりました。
「おい、痛てえ。だれだよ俺の足に爪立てた奴」
「俺じゃねえよ。俺もさっきうしろ足踏まれたんだ」
 大体一〇匹位の集まりでそのあいだを僕は駆け回りながら、自慢の爪で奴らに痛手を与えてやりました。奇襲大成功です。
「おい、みんな落ち着け! なんだかぐるぐる回りなが俺らに爪立ててくる奴がいるぞ。とりあえずみんな起きろ」
 おっとそろそろばれてしまったようです。僕は後一匹のお尻をひっかいてやろうと忍び足で背後にまわりました。
「こいつか!」
「フギャ」
 鼻っ面にパンチが飛んできました。純君のお遊びの攻撃とは全く違う。僕の顔の骨がどうなろうとかまわない、『潰れろ!』といった意志のこめられたパンチでした。
 今まで味わったことのない痛みが鼻先に集中して、僕は地面を転がってもだえてしまいました。。
「こいつか。なんだパンチ一つでひっくり返るようなアマちゃんかよ。ここの家の猫か?」
 僕の二倍はありそうな体躯をもったこの中で一番偉そうな猫が転がった僕の方にやってきました。いや彼だけじゃありませんさっき寝そべっていた猫みんながぼくを取り囲むようにして近寄ってきます。作戦は失敗に終わったようです。たくさんの猫に囲まれては貧弱な僕にはどうしようもありません。
 そういえば僕が駆けまわっていたころロイ君はなにをしていたのでしょうか。先に行けっていうからあとからついてみんなやっつけてくれるとばかり思っていたのですが、ちらりとも影を見かけませんでした。僕が頑張っていたのになにをしていたのでしょう。
「おい、おまえここの猫だろ。猫神がいるっていう城はどこだ?」
「ふがふが」
 鼻の周りから血が吹き出てうまく話すことができません。
「なに言ってるかわかんねえぞ」
「フニャン」
 また鼻っ面にパンチが飛んできました。さっきよりはましですがそれでも容赦ないパンチです。傷ができて敏感になってる所にまたパンチするなんてなんて残虐な奴らでしょう。
「おまえら……ふがふが…・・お前らなんかにおしりやるもんか!」
「……お前の汚いおしりなんかいるか」
 二、三匹僕から離れた猫がいます。本当にそういう意味じゃないのに。
「ち、ちがぅ。教えてやるもんかって言おうとしたんだ」
「いいから吐けや。ゴタゴタぬかしてるとお前の腹の中身全部吐かせるぞ」
「ギュフ」
 今度は僕の柔い腹に蹴りが飛び込んできました。あまりの衝撃に本当に今朝のご飯のカスがちょっ口から吐きだされ飛び散りました。生々しくどろりとした液に包まれた魚の骨のようなそれはとても自分の口から出てきたものとは思えないほど非現実過ぎて直視できませんでした。
「おい、吐く気になったか」
 鼻からたれ続ける血は僕の思考をどんどん鈍らせ、お腹の痛みはみけ様を守るという決意をじわじわと侵して弱らせてきます。僕にしては頑張ったよね。ちょっとは時間稼ぎになったよね。そう自分に言い聞かせて口を開こうとしたその瞬間
「コラー」
 猫の輪に突如として波ができぼくを取り囲んでいた輪が崩れ去りました。
 僕はやっとロイ君が助けに来てくれたのかと感激で目に薄く涙の膜を張ったものですが現実はもっと大きなものでした。
「家の魚に手を出すなんて百万年早いわ―。貴様らとっちめてやっからなー」
 騒々しく現れたのはなんてことはないうちの漁師さんでした。そういえば魚を食い散らかされているのに近くに人がいないのはおかしいなーと思っていたのですが近くに置いてあったのを取りに行っていたのでしょう漁の網と銛を持っていました。
「ほとんど食い散らかしおって。貴様らただじゃ済まさんぞ!」
 網によってほとんどの猫が逃げ場を失い、あたふたしていました。銛でお尻をはたかれたりしています。ぼくのお尻じゃなくて自分らのお尻がおじさんにやられていていい気味でした。
 期待していたロイ君ではありませんでしたがなんとか窮地を脱した僕は安堵で腰と気持ちが折れて、だらしなく地面にお腹をつけた状態で伸びてしまいました。まだ朝特有の冷たい空気を宿していた土が僕のお腹を優しく抱いてくれます。立ち上がる気力も失い、僕の意識もだんだんと保つことが難しくなってきました。心身ともに大分無茶を続けてきたからでしょうか。もう眠くなってきました。
「おい……シャル坊……どうしてこんな……」
 漁師のおじさんの声が遠くから聞こえてきますが、よく聞き取れません。とにかく僕はここで眠るんだ。最後に意識の片隅に出てきたロイ君はなぜか青冷めた顔で僕の方を覗きこんできたような気がしましたが、とりあえず今は寝かせてください。

  二人きりになってから相手の気配が読めず、広い庭をうろうろしていたぼくら。なんだか楽しそうな彼女はほっといて索敵に集中……したいのだけど全然集中できない。何とかひきはがそうとするのだが、ダニのようにぼくの身体に密着してはなれない。
「ゴロニャン」
 のどまで震わせてご満悦なようだ。
 先程から辺りを見回っているのだがさっきから同じ道を行ったり来たりしているような気がしている。基本庭の中を散策したりしなかったのでまるで道がわからない。はっきり言って母屋の方角もわかっているか怪しい。ロイは都会というか街の騒々しさが好きだったみたいでそれについていくぼくの方も必然的に街の方に詳しくなっていったのは道理であろう。
 たまにはこうして自然の中で歩くのも癒されていいものだが人間時代と違い猫の生活はストレスなく日々を送れていたので癒しが必要なのかは微妙なところだ。
 誰とも鉢合わせないのでもう屋敷に侵入されてしまっているのではないかと最悪の予感を振り払いながら慎重に歩みを進めるぼく。となりで緊張感全くなしの完全に女モードに入ってる猫が一匹。
「あの、そろそろ真面目に探してくれませんかね?」
「いやん、私の目に映るのはスズさんのみ。こんな間近で見られる機会はそうそう逃せません」
「いやいつも一緒にいるし、隙あらばぼくの尻尾を狙って来てるじゃないか」
「いやいや、これはデートです。いつもとは一味違うんです」
「いやいや、いつも隙あらばぼくをさらって連れまわしてるよね。デートと称して」
「いやいやいや……森林浴って素敵ですねー。近くにこんな場所があるなんて」
 直にぼくの目を見て話すことができなくなったミルーは急に森の話を始める。
「この前も滝が見たいって大分遠くの森まで連れて行かれた気がするんですが……」
 小声だがきっぱり言ってやったつもりがなんと耳をピタッと伏せて音声を遮断している。都合のいい女ってのはこういう奴のことを言うのだろう。
 とりあえずなんだかんだでミルーとの距離が離れたのでほっと一息。
 しようとしたその時、前方から数匹の動物の息遣いが感じられた。全身の毛という毛を逆立てて、尻尾も後ろの様子を探るために動く。
 後ろからの気配はなし。これなら前方の集団に集中できる。
 こちらは警戒心バリバリで緊張しているというのに前の集団は時折下品な笑い声をあげながら近づいてくる。不用心なこと極まりない。
「ねえ、ミルーさん敵が来たみたいだから本気モードでお願いね」
「本気モードって何のことかしら? 私はいつだってスズさんに本気ですよ」
「だからそういうのをやめてくれってことですよ」
 尻尾で軽くビンタ。感覚としたたらススキの穂を頬にあてるような感じだ。
「んニャ、スズさんの愛の鞭ですわね。なんだか私やる気出てきました」
 相手は五匹で移動しているようだ。身体がやたらと長いのに痩せたトラ猫。あと三匹はみな汚らしい色がゴチャゴチャになった毛色である。でも先頭のトラ猫よりも恰幅が良く、相手にするのに苦労しそうだ。あと1匹は他の四匹とは雰囲気がガラッと異なっていた。猫特有のあのぱっちりとした丸い目ではなく、きつい三白眼をしている。これだけでも周りのオーラが凍てつくのに身のこなしがしなやかで足音が全く耳に入ってこない。身体も無駄なものを削ぎ落とした風でむしろ美しくもある。その凍てつく視線がなければ……
「おい、そこに隠れてる二匹でてこいよ」
「うぐ」
 ばっちり視線があってしまったので今更逃げることができない。もう少し機会を窺っていようと思ったのだが。しぶしぶ奴らの前に出ていく。
「なんだ。変な奴がいたみたいだな」
「気が付かなかったんですか? ま、大声でバカみたいに話してれば当たり前ですかね」
「なんだと、てめえ新参者のくせに調子こいてんじゃねえぞ」
「この世は所詮弱肉強食でしょ。あんたより強い俺が調子こいてようがなにも言われる筋合いはない」
「っく」
 なんだか分からないけどあちらもあまり仲がよろしくなさそうな雰囲気だ。
「それでお前らが猫の神っていう奴の下僕なわけ?」
「下僕じゃない! ……? なんていうのかなただの同居人?」
「うーん、それはちょっと寂しくありません? せめて家族だとか言ってあげましょうよ」
[いやー。神様と家族ってのもなんだか……嫌じゃね?」
「う~ん、普通の神様だったら堅苦しくて嫌かもしれませんけど、なにせあの方ですからね~」
「だから嫌なんじゃないか」
「そうと言われればそうかもしれないけど……」
「おいおい、そんな細かいこと聞いてんじゃねえ。とりあえずお前らは俺らの邪魔しようって奴らだろ?」
 ぼくとミルーがあーだこーだ言ってるのが苛立ったのか彼は話を簡単にまとめてくれた。
「たぶんそうなりますかね」
「それじゃ消えろ――」
 そう言った彼はぼくらの前から姿を眩ませた。もちろん忍術とかそういう類のものではない。ただ移動速度が並はずれて速いのだ。だがぼくの感覚も人間の頃の比ではない。かすかな木岐の擦れる音響や時々視界に映る彼の姿を追う。
「まずは一匹」
 後ろのミルーさんの真後ろ。彼はそこに屈んでいた。
 だがぼくの反応も負けちゃいない。彼がそこから後ろ脚飛び蹴りを放つ前にミルーさんの身体を押しのけ、彼の足を握り止める。もちろん片手じゃ止められないから両手だ。今まさにぼくは四足歩行から二足で立って彼の足を止めている。元々二本の足で立っていたぼくにならちょっとコツさえつかめば難しいことじゃないこと最近気が付いた。気が付いててよかった。この身体の芯まで貫く、錐のように鋭い蹴りを受け止めるのはこれを出すしか止められなかったと思う。
「お、おまえなかなか……」
 自分の蹴りが止められるとは夢にも思わなかったのだろう、逆立ちの状態で彼は悔しそうにしている。
「女の子に乱暴はいけないよ。まずはぼくと遊んでくれ」
 口元を釣り上げ笑みを浮かべながらぼくは彼の足を離してやる。どっちが悪役だかわからないなこりゃ。
「すいません。こいつの相手してるい間そっちの四匹任せていいですか? すぐに……は終わらないかと思いますけど」
「え、ちょっとそんな今女の子には優しくしなきゃって自分で言っといてそりゃなくない?」
「いえいえ、ぼくは女の子に乱暴はよくないと言っただけです。ぼくは乱暴してませんので大丈夫です」
「全然大丈夫じゃないわよ。助けてよ」
「すいませんがもう手が離せません。お願いします」
 こちらが隙が生まれたのを好機とまた彼が獲物を狙う獅子のように襲いかかってきたので、そう答えるのが精一杯だった。
「はん、大丈夫だすぐ終わらせて嬢ちゃんも喰ってやるから。それまでそこの雑魚と遊んでな。図体だけでかくて特に強いわけじゃないから大丈夫だろ」
「てんめー、あとで覚えとけよ。オオグロさんに言いつけたる」
「はー、そうやって他の誰かの威光にしかすがれないから弱いって言われるんすよ」
 ぼくと組み合っていた手を離し、深くため息をつく彼。なんだか彼を見てるとところどころ人間臭いと思える動作があるのは気のせいだろうか? 
「少し場所を移そうか。でかい奴らがいると集中できないからな」
「いや、ぼくはあまり離れられると彼女を助けに行くまでに時間がかかる。だからついてはいけない」
「だ―いじょうぶだって。俺が君を仕留めるのにそんなに時間はかからないし、彼女はたぶんそう簡単にやられやしないよ。相手が相手だからね」
 例の四匹に視線を移して軽く嘲笑。彼は結構な自信家らしい。余程戦闘に自信があるのだろう。よし、その天狗鼻ぼくがへし折ってやろう。
「わかった。移動してさっさと終わらせようか。ただ勝つのはぼくの方だけど」
「ほう、言うねえ。お手並み拝見させていただこうか。さっき通った所でなかなか広いところがあった。そこに移動しよう」
「わかった」
 彼の後に追従しながらミルーさんの方に目くばせする。
『すぐ戻ってきます。頑張って凌いでてください!』
 するとミルーさんは半分泣きながらうんうんうなずいていた。ちょっと罪悪感があったがその気持ちを断ち切り、前の存在に集中することにした。

 彼との距離は約一メートル程。これだけ離れていると迂闊に相手の間合いに入ることはできない。様子を窺いながら右方に移動し攻撃のタイミングを計る。
 が、もともと堪え性の無い彼はぼくが反撃できる体勢にあるというのにバカ正直に突っ込んできた。軽くいなし頬に拳を入れる。硬い骨の感触が直に伝わり、拳が痛む。人の頃と違って握りこぶしを作ることのできない手はそのまま打撃をするには不向きだということが今分かった。裏の肉球のところで叩くかもしくは爪でひっかくようなイメージでの攻撃が一番有効なのだろう。
 彼は運良く骨に当たったことで大したダメージを感じさせずにぼくの方へとまたぶつかってきた。今度は拳の痛みに意識がいっていたので気が付くのが遅れた。猛烈な突進を受け身体のバランスを崩し倒れてしまった。それをチャンスと組み伏せられやたらめったら引っかきまわされ、殴られる。鼻に一撃をもらったときは意識が飛びかけた。が、口の中で粘膜を噛みちぎり痛みで脳がブラックアウトしてしまうのを何とか食い止めた。だがなかなか彼のマウントポジションが崩せず、防御に徹するしかできない。彼も自分の優位を疑わず、調子に乗って何度も何度もぼくの顔を殴る。
「どうしたどうした。早く俺を倒さないとあのお嬢ちゃんが危ないんじゃないか?」
「わかってるならそこをどいてくれ」
「こんな有利なポジションをはいそうですかなんて譲れるかよ。自分で取り返してみろ。できるもんならな」
 彼の言うように本当に早くしないとミルーさんが危ない。相手は四匹だ。とてもじゃないが太刀打ちできないだろう。彼女はぼくが助けに来ると信じているに違いない。その期待に応えたい。
 下半身に力を凝縮させる。こうしてるうちにも乱雑なパンチが鈍い痛みを伝えてくる。その痛みに耐えながら貯めた力を思いっきり身体をひねる動きに変換する。
「あ、くそ」
 彼が悪態をつき少しよろめいた。その隙にうつぶせの姿勢から彼の身体を蹴りつける。蹴りが彼のお腹の肉を抉るような感触が足裏に伝わる。うん、良いところにはいったな。
 だいぶ離れたところまで飛んでいった彼はげほげほと苦しそうに咳をしながら険しい顔でぼくをにらんでいた。彼が動けない今がチャンス。今までは慎重に相手の様子を窺ってから攻めると決めていたぼくだけど今は空手の試合ではない。誰かを守らなくてはならない戦いなのだ。
 先程のぼくと同じようにうずくまっている彼にさらに体当たりをする。そうしてもっと無防備になった相手を組み伏せ、顔めがけて腕を振る。
 ひとつぼくの打撃が彼の顔をとらえるたび肉を抉り取る、血管を破裂させる、骨を軋ませる嫌な感触が伝わる。空手の時はもっと激しく蹴りつけたりしていたものだが、あれは人を傷つけたいわけじゃなくただ勝つために人を殴ったり蹴ったりしていたのだ。けど今は違う。殺意があるわけではないが純粋に相手を傷つけるためだけの行為だ。
 なんて不快なのだろう。この行為を楽しんでやっている人を昔腐るほど見てきた。学校でも路地でもゲームセンターの暗がりでも。
「なんて顔して俺の顔を殴ってやがる。むしろお前が殴られてるような顔だぞ」
「君はなぜこんな無意味な暴力を平気でふるえる? ぼくにはこんな顔をしながらじゃないと殴れないんだよ」
「暴力? こんなことは日常当たり前のことだろ。人間でも、俺ら野良猫ならもっと普通のことだ」
 そう言われてぼくは心臓を握りつぶされたかのようなショックを覚えた。なんて不覚だったんだろう。そうなのだぼくは人に飼われ不自由もなく家というものに守られている。それに比べ彼らは野良猫は自分の力だけで生きていかなくてはならない。争いや暴力が生活の基盤になっているだろうことは容易に予想できたはずなのに。
 愕然としていたぼくは彼の存在を見失ってしまったかのように放心していた。気がついたのはすでにぼくが倒され彼が殴りつけてきてからであった。
「なんでそんなショックそうな顔してる? そうかお前は今飼いネコちゃんだもんな。暴力が生活の八割を占めるなんて想像もできないか。けどこれで」
 またも彼のパンチがぼくの頬を突き刺す。
「目を覚ませ! 所詮この世は弱肉強食だ。力の強いものしか生きてはいけない。特にこの暴力という力が大きければ大きいほど生きることに不自由しないんだ」
「……そんなの悲しすぎるよ」
「ん? なんだって? 聞こえないぞ」
 絞り出すようなぼくの声はかすれて自分でも情けない程の音にしかならなかった。しかし今も怖い思いをしているであろうミルーさんのことを思うとこうして彼に組み伏せられている場合ではない。
「力だけでこの世が回っているなんて思いたくない。でも今は守るべきもののために君を倒さなくてはいけないんだ」
 萎えていた気持ちを奮い立たせ、彼と身体の上下関係を逆転させてぼくは言う。
「だからさっきからやってみろって言ってるだろ。口ばかりじゃなくてな」
 こうして何度もマウントポジションの取り合いをしているうちに緩やかな丘の坂をゴロンゴロンと転がっていく。
 途中で木の根にぶつかろうと大きな石が肩を傷つけようとぼくは彼を屈服させるまで諦めない。ミルーさんを助けるまでは。いや、猫神様を助ける戦いだ。忘れかけていた。
 まずは目の前の仲間を助ける。
 体中が傷だらけで悲鳴をあげているけどまだ動く。動く限り彼の暴力を止めてやる。
「いい加減諦めろ! 右目潰れてるぞ」
 確かに何回にも渡って殴りつけられたため半分もあけることができない。
「君の方こそ左手が痙攣してるぞ。そんな手でぼくは倒せないぞ」
 立ち上がって蹴りあげてきた足を右腕で受け、バランスの良くない身体に思い切り体当たりした。
 勢いのついたぼくは彼と一緒に鋭い刺を持った草の藪に突っ込みぼろぼろに削られながら、貫通し少し開けた場所へと放りだされた。
「うお、なんだ? ってテメーか。おいおい、そのボロボロなざまはなんだ」
「まあ、スズさん。今か今かと待ってましたのよ。って、どうしてこんなにも傷だらけになってるんですか!」
 藪を突き抜けた先には目を丸くした五匹の猫がいた。
 どうやらぼくらは元の場所へと戻ってきたみたいだった。

猫になって歩けば棒に当たる?

処女作になります。支離死滅なところが多々ありますが適当に読み流していただければ嬉しいです。

猫になって歩けば棒に当たる?

僕はあるときトラックに轢かれてしまった。 ある猫を助けようとして…… んでもって意識不明の重体らしいぼくのもとに現れたのは 金色の猫だった。 「お主猫として生活してみないか?」 「――それじゃお願いしようかな」 そんないきさつで猫になったぼくのほのぼのした物語。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-15

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著作権法内での利用のみを許可します。

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