君の声は僕の声 第七章 2 ─透馬─
透馬
「透馬は?」
夕食のテーブルにトレーを置いた櫂が、先に食べ始めていた流芳と麻柊に訊ねる。
「まだ来てないよ」
「部屋にいなかったの?」
麻柊がそう言って櫂に椅子を引いた。
「ノックしても返事がないからドアを開けようとしたら、カギがかかってたんだ」
櫂は椅子に座り、麻柊に「ありがとう」と小さく言った。
「カギ?」
ふたりの声がハモる。
寮の少年たちがカギを掛けるのは、寮から外出するときだけた。食事の時や入浴の時に部屋にカギを掛ける者はいない。
「そういえば……」
流芳が上目使いに思い出しながらポツリと言った。
「昼過ぎに管理人室に呼ばれてたよ、透馬」
「誰に?」
「アリサワさん、だったと思う」
「アリサワ?」
櫂が目を細めた。流芳はこくりとうなずく。
「タツヒコは?」
流芳は首を横に振った。「アリサワさん、ひとりだったよ」
アリサワが透馬に何の用だ。それもひとりで……? 櫂はあごに手を当てて考えこんだ。
「お帰り」
透馬が玄関の扉を閉めると、ホールの奥、階段から声がした。踊り場の手すりに寄り掛かかり、窓の外を眺めて煙草を吹かしていた櫂だった。
「ああ、櫂」
透馬の声は弾んでいて、笑顔を向けられた櫂は一瞬言葉を詰まらせた。
「どこ行ってたんだ」
「ああ、ちょっとね」
手すりから体を離し、透馬を見下ろすように声を落とした櫂に、透馬は笑って答えた。
こんなに嬉しそうな透馬は珍しい。
「アリサワと一緒だったんじゃないのか?」
問いただすような口調にも、透馬は「着替えたら部屋に行くよ」と笑顔を向け、階段を跳ねるように上って行った。
「明日から仕事には行けなくなるから」
櫂の部屋。ソファに深く腰掛けながら透馬が口にした。
「どういう事だ?」
櫂が目を細める。
「大丈夫だよ」
櫂が何を心配しているのかわかっている透馬は、口元に微笑を浮かべた。
「何が大丈夫なんだ。おまえ、アリサワと出かけていたのか? 明日から何をするつもりだ」
ベッドの上で前屈みに立膝をついていた櫂は背筋を伸ばした。
「今日出かけていたのは、そう、アリサワさんとだよ」
透馬は顔色を変えずに話し続けた。
「頼まれたんだ」
「何を」
「アリサワさんの上司の娘さんにピアノを教えて欲しいとね」
「ピアノ?」
「そう」
透馬の頬が染まる。
「そのお宅にはグランドピアノが置いてあってね。レッスンの後には好きなだけ弾いていいと言うんだ」
透馬は両方の手のひらを見つめた。その表情は柔らかだ。
「久しぶりだったな。鍵盤の感触。──ピアノという楽器はね、本来グランドピアノのことを指すんだ。鍵盤へのタッチがそのまま音に表現される……。でもね、アップライトピアノはコンパクトな分、表現がどうしても限られてしまうんだよ」
「…………」
嬉しそうに話す透馬とは対照的に櫂の顔は曇っていく。
「そんな話俺にされても、ピアノのことなんかわからねぇよ」
櫂は机の上に置いてある煙草に手を伸ばし、火をつけた。
そうは言っても、透馬のピアノへの情熱がどれほどのものかはわかっていた。
子供の頃から王立大学を目指していたことは知っている。そして親友である、聡の兄貴と一緒に目指していたことも……。それがこんな所にいるばかりか、その親友の弟と「一緒」になってしまったのだ。その親友は王立大学へ行ってしまった。そして宮廷医の瑛仁とは、聡への手紙を渡すほどの親密さだ。透馬は何も言わないが、櫂にはわかっていた。
ここへ来た頃から、夜中にひとり、ピアノを弾いていることはあった。だが、聡が現れてから、その頻度は高くなった。曲も激しい曲を弾くようになった。
透馬の父親は地方官で、ここへ来た少年たちの中では珍しく育ちが良い。ここへは、運転手付きの車で両親と共にやって来た。特別にひとり部屋を与えられ、透馬と離れがたい母親はひと晩泊まり、翌日泣きながら帰って行った。虐めにでもあうのでは心配していたが、透馬の立ち振る舞いの優雅さや、優しく丁寧な言葉遣いに、虐めどころか、気の荒い少年たちともトラブルを起こしたことは無かった。
その後も定期的に家族から手紙が送られてくるし、面会にも来る。寮生とはいえ、家族にも愛され、透馬は穏やかに見える。だが、もともと音楽を愛する情熱家だ。その胸の内は他の少年たちよりも激しいのではないかと櫂は思う。
それをピアノにぶつけている。ピアノを弾くことでバランスを取っている。音楽など興味のない櫂にも、それはわかっていた。だが──
「アリサワは危険だ」
そう言ってから櫂は透馬の顔を見つめた。
透馬がうつむく。
「わかってるよ。櫂の言いたいことは……。大丈夫。ピアノを教えるだけだよ。それ以上のことは何もない。何も話さないし、──ピアノを弾いたらすぐに帰るよ」
顔を上げた透馬の目を見て、櫂は何も言えなくなった。はにかむような、泣きそうな、それでいておもちゃを前にした子供のように嬉しそうな顔。
翌朝、透馬を迎えに来たのは、アリサワではなく運転手だった。KMCの運転手なのか、透馬がピアノを教えに行く家の運転手なのかわからなかったが、嬉しそうに楽譜を抱え寮から出ていく透馬を、櫂は自室の窓から見送った。
君の声は僕の声 第七章 2 ─透馬─