ミコとコンパス

周たまき

ミコは初めて手にしたコンパスというものを、上から見たり下から見たり、振ってみたり音が聞こえないかと耳をすませたりしていました。
こないだ、おじいちゃんが天国へと旅立ちました。これは「いひんせいり」に行ってきたお父さんが持って帰ってきたものです。それ以外に「かいちゅうどけい」と「ちきゅうぎ」も持って帰ってきました。全てくれるというから、ミコは少し元気になりました。
ミコはおじいちゃんが大好きでした。遠くに住んでいるから夏と冬にしか会うことができませんでしたが、会ったときにはニコニコ迎えてくれ、必ず肩車をしてくれました。そして近くの緑地公園まで連れていってくれます。遊歩道を歩き、川の向こうにある遊具のところに着くと、ブランコに乗せて背中を押してくれ、すべり台から勢いよくすべると、満面の笑顔で待ちかまえて抱きしめてくれました。
夏はアイスキャンデーを買ってくれました。冬はおじいちゃんと、三毛猫のミケと「こたつ」に入って一緒にミカンを食べました。夜、月の形が変わる理由を教えてくれたのはおじいちゃんです。星の数が夏と冬では違う理由を教えてくれたのも。ミコが生まれる前に死んでしまったおばあちゃんが天国にいることを教えてくれたのも。会えないけれど幸せな世界で俺を待っていると語ってくれました。そのおじいちゃんが天国へ行って、会ったことのないおばあちゃんと同じようにもう会えないと知った時の悲しみといったらありません。ミコは毎日悲しみの中にいました。でも、お父さんが持って帰ってきてくれた「かたみ」だという「ちきゅうぎ」を机に置いて、「かいちゅうどけい」を首から下げると、なんだかおじいちゃんが近くにいてくれるような気がしてほっとするのです。だからミコはいつもかいちゅうどけいを首から下げ、幼稚園から帰ってくるとちきゅうぎを回して遊びました。
さて、コンパス。ミコにはこれが何だかわかりません。ちきゅうぎはおじいちゃんとよく眺めたから知っています。ミコの住んでいるのは弓みたいな形の日本で、海の向こう側にはたくさんの国があると教えてくれました。日本は島国だけど、大陸というものがあって、日本なんかよりもっともっと大きい。なるほど、ちきゅうぎの中国やアメリカは大きい。いつか色んな国へ行ってごらんと言われたので、ミコは大人になったら色んな国へ行くと決めています。
ミコは最近、時計がよめるようになりましたから、かいちゅうどけいをみて、ははぁ、おやつの時間だなとか、もう寝る時間だとか、大好きなアニメの時間だということがわかります。
でも、コンパスは初めてみました。夏と冬、おじいちゃんの家に行っても見たことがありませんでした。
丸いガラスの中に小さな星がありその上で半分が赤で半分が銀色になっている棒がグラグラ揺れています。机に置くとぴたりと止まるのに、手にもつとグラグラ揺れます。ミコはしばらくそれを眺めていましたが、ついにお父さんのところへ行って聞きました。
「これはどうやってあそぶものなの?」
 仕事から帰ってきたお父さんはいつも不機嫌な顔をしています。疲れているんだから仕方がないと言われますが、ミコのみるお父さんはいつも不機嫌そうなので、あまり話しかけたくありません。お父さんはネクタイを緩めながら面倒くさい顔をして
「方位をみるものだ」
とだけ言ってお風呂に入ってしまいました。ミコには方位がわかりませんから、仕方なしにお母さんのところに行きました。台所にいるお母さんが包丁を使っていないことを確認してから、ミコはお母さんに尋ねました。
「ほういって、何?」
 お母さんはお玉で鍋の中をぐるぐるかき混ぜながらちらりとミコを見ました。料理をしているときのお母さんはピリピリしています。包丁は危ないから、決して近づいてはいけません。コンパスを見せると、お母さんは鍋の火を弱めて珍しく楽しそうな声で教えてくれました。
「あら、珍しい。私も子供のころ持っていた。針の位置で方角を調べるものよ。朝、太陽が昇るのは東。Wのこと。太陽が沈むのがEで、北がN、南はS。おじいちゃんの家はSの方向にある。銀色の針の向こうが常に南」
「こっちに行ったらおじいちゃんの家にいける?」
「いける、いける」
 そしてまたお母さんは鍋の中をぐるぐる混ぜだしました。今日はカレーだから服を着替えてきなさいと言われました。白いシャツはカレーがつくと取れないから。ミコは青いシャツを選んで着替えながら、コンパスの持つ力にわくわくしました。お父さんとお母さんがいなくたって、これがあれば一人でおじいちゃんの家に行けると知ってしまったからです。
 次の日の朝、ミコはさっそくコンパスを持って、首からかいちゅうどけいをぶら下げて、リュックにペットボトルのお水と大好きなビスケットとキャラメルとハンケチを詰めて旅立ちました。
 おじいちゃんはもう天国にいるから会えないけれど、おじいちゃんの家にはまだ可愛いミケがいるはずです。ミケはミコが生まれた一年後におじいちゃんが知り合いから貰ってきたもので、初孫のミコと一文字違いで、三毛猫だからとミケと名付けたのでした。これになぜか、お母さんはご立腹でしたけど、ミコはミケが大好きだし、ミケも遊びに行くと必ずミコの膝の上に乗っかって甘えてきましたからきっと自分のことが好きだったに違いありません。自分と同じで悲しい思いをしているだろうから、会いにいってやろうと思いました。
 コンパスを取り出して、銀色の針の示す先を確認します。それは右のほうでした。そこでミコは右へずんずん歩いていきました。右に行くと大きな通りがあって、横断歩道を渡ります。右手を上げてゆっくりしんちょうに。渡りきって、もう一度コンパスを確認すると、針はまっすぐ前のコンビニへ続く道を示していました。コンビニを通り過ぎてさらにまっすぐ、ミコは歩きました。やがて壁が立ちはだかりした。大前さんちの大きな塀です。大前さんちはとても大きくて、ミコの背なんかよりもっと高い塀があって、塀の向こうにとても狂暴な犬がいます。近くを通ると大きな声で吠えられるから、ミコは大前さんちが好きではありません。コンパスを取り出そうとするより早く、塀の向こうで犬が大きく吠え出しました。びっくりしてミコは後ずさりました。そしてつまずいて後ろに転び、ちょっと頭を打ちました。
 ミコはもう怖いし痛いしで泣きそうになりましたが、転んだときに投げ出されたコンパスを見つけて慌ててそれを取りに行きました。コンパスに傷がついていたらどうしよう。大切なおじいちゃんの「かたみ」なのに。でも、コンパスは無事でした。ほっと息をついて、ミコは勇気を取り戻しました。犬になんか負けていられない。おじいちゃんの家は南にあるのだから大前さんちを超えなければなりません。手で耳をふさいでちょっと駆け足で大前さんちを通りすぎ、花屋の前まで来てからやっとミコは胸をなでおろしました。一つの困難を乗り越えて喉が渇いたので、ペットボトルを取り出して水を飲みます。そしてコンパスで針の向きを確認しました。右を示していましたから、ミコはまたそれに従ってどんどん歩きました。
 やがて国道に出ました。ミコは一度、来た道を振り返りました。実はお母さんから、国道を一人で超えてはならないと厳しく教えられていましたから、一寸躊躇いました。お母さんとくれば良かったかしら。でもお母さんはあまりおじいちゃんと仲良くありませんでした。おじいちゃんはいつもミコに優しかったけど、お母さんにはそれが不満だったようで、よくおじいちゃんと喧嘩をしていました。おじいちゃんの家に行く時のお母さんはいつも不機嫌でした。だからきっと、一緒に行こうと言ったところでやめなさいと言われます。
 しばし悩んで、いいや、構わない。お母さんに怒られたっておじいちゃんの家に行きたいんだから。ミケを慰めてやらなくては。そう思い、国道の信号ボタンをえいやと押しました。青信号になって、今度は手も上げずに勢いよく走ります。ゼイゼイと息を切らしながら、そのままの勢いでどんどん南へ、南へと走りました。もう足が動かないというところで立ち止まり、ペットボトルの水を飲みます。そして、随分遠くへ来たものだとミコは額の汗をぬぐいました。
ところで一体、今何時だろう?かいちゅうどけいをのぞくと、10と11の間に短針がありましたから、まだまだ朝だということがわかりました。随分時間が経ったように思ったけども、まだいっぱい時間がある。ところでミコはだいぶ疲れたし、お腹も少し空いてきたので、ビスケットを食べようと公園を探すことにしました。初めての土地なものだからどこに何があるやらわからず、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩いていると、犬の散歩をしているおばさんに声をかけられました。
「お嬢ちゃん、一人で何しているの?」
「公園をさがしているの」
 答えてしまってから、はっと口をつぐみました。知らない人と話してはいけないとお母さんからもお父さんからも、幼稚園の先生からも言われていたのにうっかり喋ってしまったものだから、気まずくなって後ずさり。
「公園ならその通りの向こうにあるけど、お嬢ちゃんはどこの子?どこから来た?」
 ぶんぶんと首を横に振って、もう何も言わないことをアピールし、公園の場所を教えてくれたことのお礼にペコリと一礼するとミコは慌ててその場を去りました。おばさんが後ろから何か言っていたけれど、もう気にせず走りました。
 教えてもらった公園に行くと、誰もいません。あまり大きくない公園ですが、大きな木が三本と、ブランコと滑り台、それに鉄棒がありました。ブランコに座ろうと思ったけど、さっきのおばさんが追いかけてきていては大変です。見つかってまた話しかけられても困ると思い、大きな木の後ろに隠れるように座りました。そしてリュックからビスケットを取り出し、ざくざく食べました。そして今までの旅を振り返りました。走ってばかりで疲れたけど、もうだいぶ進んだ気がする。きっと昼を超えたころにはおじいちゃんの家に着くだろう。
ビスケットを食べきると、ぽかぽかいい天気なものだから少し眠たくなってきました。でもおじいちゃんの家に行くほうが大切です。コンパスで南を確認し、再び出発しました。
ずんずん、ずんずんと進みます。知らない道を歩くのはとても勇気がいりました。でも、自分は今冒険をしているのだと、ミコはぞくぞく、わくわくしました。これはきっとすごいことなのだ。もし、一人でおじいちゃんの家に行けたら、お母さんもお父さんも褒めてくれるかもしれない。なんてすごいんだ、頑張ったねと褒めて、オレンジジュースを褒美にくれる姿を想像して、ミコは愉快な気分になりました。鼻歌を歌いながらずんずん、ずんずん進みます。
が、また困難にぶつかりました。道が大きくT字に分かれていたのです。今までは分かれていても、少し歩けばすぐにまた南へ行けました。しかし、今度は首をどんなに伸ばして右と左をみても、その先に南へ曲がる道はありません。試しに右に行ってみました。やはり、歩いても歩いても南への道はありませんでした。仕方なしにまた戻って、今度は左へ進みましたが、やっぱり同じです。ミコは途方に暮れてしまいました。
南へ行かなければおじいちゃんの家にはたどりつけないのに。目の前にある困難は、実は中学校の壁だったのですが、そんなことはわかりませんから、ミコにはこの壁が世界を分断する大変な存在にみえました。やはり、おじいちゃんの家に行くにはお父さんの車でなければいけないのだろうか。車に乗っているときに、もっと外を見ておけばよかった。どういうルートで進むのかを見ておけばよかった。車の中でいつもお父さんの「たぶれっと」でアニメを観たあとに眠っていたものだから、ミコはコンパスの南を示す銀色の針以外におじいちゃんの家への行き方がわかりません。
とうとう泣き出してしまったミコ。よくよく考えたら一人で知らない場所にいるのです。さっきまでの愉快な気分はどこへやら、どんどん悲しくなって、怖くなって、えんえんと泣きました。
「嬢ちゃん、大丈夫かい?」
 肩をぽんと叩かれて、びっくりして振り返ると、優しい顔をしたおまわりさんと、その後ろに犬を連れたさっきのおばさんがいました。ミコが逃げてから、何か変だと思ったおばさんは交番に行ったのです。一人で歩いている子供がいるけれど、遊んでいるようには見えなかった。ここらへんで見ない子だったから、探してみたほうがいいとおまわりさんに言ったのです。だいぶ平和な町で特にやることが無かったおまわりさんは、珍しく仕事をもらったものだから張り切ってミコを探してくれたのです。
 もう大丈夫だからね、大丈夫、大丈夫と優しく声をかけられて、それからお名前は?と聞かれたので「ムナカタミコです」と答えました。そして、おまわりさんとおばさんと犬一緒に交番へ行きました。
 交番でおまわりさんは麦茶を入れてくれました。
「ミコちゃんが住んでいるのはD町3番かい?ええと、ここ」
 そう言って、おまわりさんはお父さんが持ってるのと同じようなたぶれっとで写真を見せてくれました。それはぐーぐるあーすでした。お父さんから何度か見せてもらったことがあるから知っています。たぶれっとには確かに、ミコの家の写真がありました。うん、と頷くと、おまわりさんはちょっとびっくりした顔をしてから
「ちょっと待っててね」
 と言って電話をかけました。隣に座ったおばさんが「まぁ、あのムナカタさん?」と言いました。なぜ知っているのだろうとミコは首を傾げました。この町で宗方という苗字がミコの家だけだっただけですが、子供のミコにはわかりません。
「お母さんがすぐ来るよ」
 電話を終えたおまわりさんがニコニコしながら戻ってきて、飴を食べるかいと聞いてきました。ミコはリュックにキャラメルがあるのを思い出したので、いらないと言って持ってきたキャラメルを取り出し、一粒なめました。甘い味が口いっぱいに広がって、ミコは元気を取り戻しました。それと同時に不安も少しよぎります。やっぱりお母さんに怒られるかもしれないと思って。
 すぐにお母さんがやってきました。そしてミコの顔を見た途端にしかめっ面をしました。
 おまわりさんとおばさんに何度もありがとう、迷惑かけてごめんなさいと頭を下げ、お母さんはやっぱりしかめっ面でミコの手を引いて家へ戻ります。
「国道の向こうへ行くなって言ったわよね?」
「ごめんなさい」
「なぜ一人できたの」
「おじいちゃんの家に行こうと思って」
 頑張ったのにやっぱり怒られてしまったものだから、情けないやらつまらないやら、ミコもしかめっ面をして、ぶっきらぼうにこうこう、こうだと理由を話しました。
 すっかり話をきいたお母さんは、なぜかアハハと大きな声で笑いだしました。怒っていたようなのに、今度は楽しそうに笑い、ひとしきり笑ってから
「私もそんな遊びしたわ。コンパス使ってもおじいちゃんの家には行けないわよ」
 と言いました。
「でも、南へ行ったらおじいちゃんの家でしょう」
「どれだけ遠いと思ってるのよ。県またぐのに。あんたの足で歩いたら三日歩いても辿りつかないわよ。それにここは家の東側よ」
「銀色の針の通りに進んだよ」
「ばかね」
 そして、せっかくだから公園で遊びましょうと言ってさっきビスケットを食べた公園に連れて行ってくれました。
 いつも公園で遊ぶときは汚れたくないからとお母さんは立っているだけですが、今日はなぜかご機嫌で、ブランコを押してくれたし、鉄棒で逆上がりまで披露してくれました。さらに帰り道にジュースを買ってくれました。
「ミケはもう、カヨコおばさんが引き取ったからあの家にはいないわよ」
「そうなの」
 ミケが一人でないのは安心したけど、カヨコおばさんはミコに良い顔をしませんから、きっともうミケに会うこともないのだなと思いがっかりしました。
 一人で歩いたときには随分時間がかかったはずなのに、お母さんと歩くとあっという間に家に着きました。夜、お母さんがお父さんにこの話を聞かせると、お父さんはちょっとだけ笑って、俺もその遊びやったと言いました。
 初めての冒険は失敗に終わりましたが、一つだけよかったことがあります。お母さんがコンパスを使う冒険を一緒にしてくれるようになったのです。今日は北に行こう、今日はいつも自転車で行っているあのスーパーまで行ってみようと言って、手をつないで冒険してくれます。そして公園を見つけるとブランコで背中を押してくれるのです。砂場は汚いから絶対に入ってはいけませんでしたが、ミコは十分楽しい気持ちになりました。
 それに、お父さんが海外旅行に連れていってくれました。ある日ちきゅうぎを回しながら、テレビで知ったロシアはどこだろうと探していたらお父さんがやってきて、どこに行きたいか聞いてきました。あめりかと答えたら、次の年の夏、いつもはおじいちゃんの家に行くお父さんの夏休みにアメリカのディズニーランドに連れて行ってくれたのです。
 小学校に上がり、いつしか冒険をやめてしまってコンパスとかいちゅうどけいを失くしてしまったけど、ちきゅうぎはお父さんの部屋にあります。
大人になったミコは墓参りにいくたびにおじいちゃんの笑顔を思い出します。それはぼんやりしてしまっているけど、太陽のように輝いています。

ミコとコンパス

ミコとコンパス

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
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