「Cross†Genocide」雑感

宮下珠洲 作

何となく書きたくなったので星空文庫の本来の趣旨とは異なる文章ではあるが書き留めておく。
普段は他の場所に書いておく内容だけれども何故かここで書かなければいけないような気がする。

昨日(2019/4/16)公開されたHyuN氏の楽曲「Cross†Genocide」を聴いた。
第一印象としては「軽い」というのが(多少語弊はあるが)当てはまると思う。
「軽い」という言葉に代わって語弊を無いように書くならば「軽快な」や「軽やかな」といった言葉がすぐに思い浮かぶものの、間違いなくそれら2つの言葉よりは「軽い」の方がより当てはまっているように感じる。
恐らく「軽い」に含まれて、かつ「軽快な」や「軽やかな」に含まれない負のイメージがそう思わせるのだろう。またそれは語弊を生む原因になっているのかもしれない。

イメージを「軽い」と言われて貴方はどう思うだろう。
恐らくあまり良い受け取り方をしないだろう。実際、私が他人に「あなたは軽い人だ」と言われたら私はその人に良くないイメージを持たれているように感じる。
そのような「軽い」の言葉に込められた、言外の負の意味、それがこの曲を「軽い」と印象付けた理由だと考える。
これを「軽快な」や「軽やかな」としては、負の意味が消えてしまう。

さて。
Genocide。大量殺戮、もしくは大量虐殺。

それは重たい物でなければならない。そんな捉え方が一般的にはされていると私は思っている。
歴史の教科書を振り返ってみても、中学校レベルですらいずれかは載っている。
私が大切に思う人が一人死んだだけで、それは身内、親族でなくても悲しいものなのに、大量殺戮となっては同じ感情を抱く人が相当に増えるだろう。数えることなど到底出来ないくらいの誰かが、悲しみを背負うことになる。
それ程の規模で負の心情を抱かせる物が「軽い」ことは決して許されない、そう考えられるだろう。

しかし、殺戮は軽い物であるべきだ。
そして実際、軽い物だろう。

考えてみて欲しい。ここまで述べた殺戮は、あくまで殺される側、もしかしたら殺される側ですらない第三者の考え方に過ぎない。
殺す側にとっての殺戮とは。

殺戮という行為が重いことを知っている者は、殺戮を行わない。
殺戮を行う者は、殺戮の軽重を知らない。もしくは、殺戮により得られる物よりも、殺戮の方が「軽い」。

そんな殺戮という行為の軽重に対する、殺す側の人、見ているだけの人、双方の認識の違い。
傍観者は殺戮を重く考える。そして「軽い」ことに非難を覚える。
けれど当事者である人こそが殺戮の軽さを知っている。

だから「Cross†Genocide」には「軽い」という言葉が似合う。
そんなことを考えた楽曲であった。

「Cross†Genocide」雑感

「Cross†Genocide」雑感

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-04-17

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