みはみんなのみ

新井saki 作

  1. 第1章 自己紹介は苦手です
  2. 第2章 お昼休みは苦手です
  3. 第3章 体育は苦手です
  4. 第4章 ウサミミは苦手です
  5. 第5章 ジェットコースターは苦手です
  6. 第6章 中間試験がんばります
  7. 第7章 体育祭がんばります
  8. 第8章 期末試験がんばります(その1)
  9. 第9章 期末試験がんばります(その2)
  10. 第10章 新たなスタートです

第1章 自己紹介は苦手です

「ハァ……」
 相川美桜(みお)は新学期早々、およそ新入生にはふさわしくない深いため息をついた。美桜が入学した私立美樹本学園女子高等学校は、昨日入学式を終え、今日が初めての登校日である。美桜は1年5組と書かれた教室の右端にある1番前の席で、身じろぎもせず、授業が始まるのをじっと待っていた。
(また1番前か……。何で相川なんて名前に生まれたんだろう……)
 新しい学年になるたびに、美桜は自分の名字を呪わずにはいられなかった。いつから始まったのかは知らないが、1学期はいつも決まって座席は出席番号順というのが学校のしきたりらしく、それは高校に入学しても変わらなかった。そして、美桜は小学校1年生以来、この指定席を1度も外したことはない。
 引っ込み思案の美桜にとって、出席番号が1番というのは耐えがたい苦痛だった。音楽のテストでみんなの前で歌うときも、展覧会で作品が張り出されるときも、卒業証書を受け取るときも、いつも決まって自分が1番である。子供の頃は予防注射を最初に打たれるのも嫌だった。そして、今日これから行われであろう毎年恒例の儀式が美桜をなおいっそう憂鬱にさせた。
(どうしよう……。何を言えばいいのかしら……)
 教室の中は新入生特有の張りつめた空気が漂っていて、窒息しそうなくらい息苦しかった。生徒たちはこれから始まる高校生活に大きな不安とわずかな期待を抱きながら、担任の先生が来るのを息を潜めて待っていた。
 美桜はこのあと行われるはずの儀式で、自分が何を言えばいいのか、そのことで頭がいっぱいだった。大きな夢があるわけでもなく、これからの高校生活に何か期待しているわけでもなく、自分について特筆すべきこともない。では、自分はいったい何を言ったらいいのだろうか?
 間もなく新しい担任の先生が教室に姿を現すと、教室の空気はいっそう引き締まり、生徒たちはいよいよこれから高校生活が始まるんだという実感が湧いてきた。担任の先生は20代後半のとても美しい女性で、黒い瞳と真っすぐ肩まで伸びた髪が、生徒たちに完璧な大人の印象を与えた。入学式の紹介であらかじめ知ってはいたが、遠くで見るよりも間近で見る方が人当たりがよさそうで、生徒たちは心の底から安堵(あんど)した。
「おはようございます」
 教壇に立った先生は生徒たちに笑顔であいさつした。初めて聞く先生の声は思ったより幼く、見かけの年齢よりも若く聞こえた。張りつめた空気の中、先生のあいさつに答える生徒はいなかったが、先生は慣れたもので、「少し緊張しているのかな」と、生徒の反応がなくても意に介さず、くるっと生徒たちに背を向けると、黒板に気品のある端正な字で、自分の名前を書き始めた。
「初めまして。1年5組の担任をすることになりました片桐玲奈(れな)です。東京都の出身で年は28歳、先生になってから6年になります。1年生の担任はこれが2回目で、去年は3年生の担任をしていました。教科は古文です。好きな食べ物はカレーライスです。これから1年間よろしくお願いします」
 自己紹介を終えた片桐先生は、生徒たちに深々とお辞儀をした。背筋がピンと伸びて、お辞儀ひとつとっても育ちのよさを感じさせる。突然始まった先生の自己紹介に少し戸惑いながらも、生徒たちは温かい拍手で担任の先生を迎えた。
 片桐先生とカレーライスはおよそ似つかわしくないが、これは生徒たちの緊張をほぐすために、あらかじめ用意していたネタだったのかもしれない。事実、今まで重苦しかった教室の空気がほんの少し和らぎ、生徒たちからわずかながら笑みがこぼれた。
 いい先生に当たったと、生徒たちの誰しもがそう思った。楽しい高校生活を送るにあたって、誰が担任になるのかは生徒たちにとって大きな問題だ。その最初の難関をこれ以上ない形で突破できたことに対して、生徒たちはこの幸運を大いに感謝した。
 しかし、美桜だけは教室の片隅で1人深刻な顔をして、先生の自己紹介も耳に入らない様子だった。その時が刻一刻と近づいてくるのをひしひしと感じながら、もはや自分ではどうすることもできず、最後の審判が下るのをただじっと待っているしかなかった。
「それでは、今度はみなさんに自己紹介をしてもらいます」
 ついに来るべき時が来た。先生のその言葉を聞くと美桜の体がこわばって、けいれんのように反射的にピクッと反応した。もしかしたら、高校生になると自己紹介などというものはなくなるのではないかと、少しばかり期待していたのだが、そんな淡い期待はいとも簡単に打ち砕かれてしまった。
 人前で話すことが苦手な美桜にとって、自己紹介は苦痛以外の何物でもなかった。そして、それはきっと出席番号順に行われるはずだ。当然のことながら、最初の自己紹介が生徒たちから最も注目される。これが真ん中あたりだったらそれほど注目もされないし、誰かが言ったことまねしたとしても、そんなことを気にする人はいないだろう。だが、1番ではそういうわけにはいかない。自己紹介で何を言うかは自分で決めなければならない。(ああ……、出席番号が1番じゃなかったら……)
 美桜は再び自分の名字を呪った。しかし、今はそんなことより、早く自己紹介で何を言うか決めなくてはならない。今にも自分が指名されるかと思うと、緊張でのどが渇き、膝が震えきて、焦れば焦るほど考えがうまくまとまらなかった。
「相川さん。みんなの方を向いて立ってください」
 結局何も思いつかないうちに、ついにその時がやってきてしまった。美桜は震える足でなんとか立ち上がると、恐る恐るみんなの方に向き直った。クラス中の視線がいっせいに自分に集まり、美桜の緊張は極限にまで達した。心臓が破れそうになるくらいドキドキして、口の中はまるで砂漠の中をさまよったかのようにカラカラになった。
「では、お願いします」
 片桐先生は緊張している美桜を励ますように、努めて優しく自己紹介を促した。しかし、美桜は頭の中がまっ白で、もはや何も考えることができず、立っているだけで精いっぱいの状態だった。とにかくなんでもいいから何か言って、この状況を早く終わせなければ――。そう思えば思うほど、言葉が渇いたのどに引っかかってうまく声が出ない。生徒たちは美桜がどんな自己紹介をするのか、今か今かと待ち構えている。
「は、初めまして……。相川美桜です……。よ、よろしくお願いします……」
 美桜はやっとの思いでこれだけのことを言うと、小さな頭をペコリと下げた。そして、クラスメイトの反応を待つまでもなく、急いで自分の席に座ろうとしたとき、美桜にとって思いがけないことが起こった。クラスのみんなから美桜を歓迎する温かい拍手が送られたのである。美桜は自分の名前以外、素性を一切明らかにしなかったが、今の自己紹介で美桜がどのような人柄なのか、生徒たちは十分理解したようである。
 美桜はなぜクラスメイトから拍手が送られたのか理解できず、呆然(ぼうぜん)とその場に立ち尽くしていた。中学のときも自己紹介で同じような失敗をしてみんなから失笑を買い、そのせいでクラスメイトから「変わった子」というレッテルを貼られてしまった。
「相川さん、座ってください」
「あ、はい……」
 美桜は白昼夢を見ているような信じられない気持ちで、まるで糸が切れた操り人形のようにストンと自分の席に着いた。
「内田美智子です。隣の県の滝川中学から来ました。同じ中学の人はいないので、みんなと早く仲よくなりたいです。よろしくお願いします」
 自己紹介は次の人に移っていった。生徒たちは自己紹介から得られるわずかな情報と、話し方や容姿などからその人がどんな人なのかを想像して、誰を友達にするべきかその品定めに忙しかった。しかし、美桜はクラスメイトの自己紹介がほとんど耳に入らず、緊張から解放された安堵感と脱力感で、しばらく恍惚(こうこつ)としていた。
「佐藤希美(のぞみ)です。陽向台中学から来ました」
 「陽向台中学」という言葉を耳にした瞬間、美桜は急にわれに返り、驚いてその発言の主の方を振り返った。美桜が入学した美樹本学園は、自宅から歩いて通えるほどの地元なのだが、公立ではないので同じ中学出身の人がこのクラスにいるとは思わなかった。
 さらに美桜が驚いたのは、その佐藤希美と名乗った生徒が、美桜の知っている人だったことだ。もっとも、知っているといっても学校で話したことは1度もなく、クラスが違っていたので名前も知らなかったのだが。
 中学3年生のとき、希美は美桜のクラスに仲のいい友達がいたらしく、美桜は教室の中でよく彼女を見かけることがあった。そして、希美が美桜の教室に来るたびに、なぜか彼女とよく目が合った。
 最初は希美のことを意識していたわけではなく、なぜ目が合うのか不思議に思っていたくらいだったが、同じことが何度も起こると、どうしても意識せざるをえなくなる。しまいには彼女のことを意識しないようにすればするほど、余計に目が合ってしまった。
 教室の中だけではない。登校するときも、下校するときも、廊下ですれ違ったときも、朝礼で全校生徒が集まったときも、人ごみの中で彼女を見かけると、まるで吸い寄せられるように目が合ってしまう。そして、目が合うとお互いに決まり悪くなって慌てて目をそらす。
 この奇妙な関係を、美桜と希美は中学3年の1年間ずっとやってきたのである。そして、今度はその希美が同じクラスに――。
(これは単なる偶然かしら?)
 美桜は中学3年生のときの記憶をできるだけ手繰り寄せてみた。同じ中学で自分がこの美樹本学園に入学したことを知っているのは、先生のほかには2、3人しかいないはずである。友達らしい友達がいなかった美桜は、自分が美樹本学園を受験したことさえ、ほとんど誰にも話していなかった。ましてや違うクラスの希美が知っていた可能性はまったくないはずである。ではなぜ……?
「中学では陸上をやっていて、高校でも陸上部に入ろうと思います。もし、陸上に興味のある人がいたら一緒にやりましょう。よろしくお願いします」
 生徒たちの拍手の中、自己紹介を終えた希美が自分の席に着いたまさにその時だった。美桜と希美は中学のときと同じように再び目を合わせた。希美の目は獲物を見つけたネコ科の動物のように妖しく光っている。その目に魅入られるように、美桜は中学のときの記憶が鮮やかによみがえってきた――。

                  *     *     *

 休み時間になると、希美がいつものように美桜のいる教室に入ってきた。美桜は希美の姿を認めると、目を合わせないように慌てて目を伏せた。今日も希美はある決まった生徒の元へ行き、決まった場所に座っている。そこは美桜の右斜め前方で、希美からは美桜の姿が正面に見える。
 美桜は自分が見られているような気がして落ち着かなくなる。希美の話し声が聞こえてきた。ごく普通のたわいない会話なのに、希美の声が耳について離れない。やがて抗しがたい欲求が、美桜の思考を支配する。今、希美は自分を見ているのだろうか? どうしてもそれを確かめたいのだが、その勇気がない。
 やがて休み時間の終了を告げるチャイムが鳴ると、希美は友達と別れ教室から立ち去ろうとした。美桜は視界にわずかに入ってくる希美の動きに反応して、思わず顔を上げてしまった。希美と美桜の視線が激しくぶつかりあう。やはり希美は自分を見ていた。美桜はとっさに目をそらしたが、羞恥心と満足感の入り交じったえも言われぬ快感が、電気のように美桜の全身を駆け巡った。そして今も――。

                  *     *     *

 クラス全員の自己紹介が終わり、先生から学校生活や日常生活の心構え、これからの学校行事の予定などが簡単に説明された。学級委員や各クラス委員は来週決めるので、それまでに何をやりたいか決めておくように言っていた。そして最後に、明日の日直に出席番号1番の美桜と2番の内田美智子が指名され、登校初日はこれで終了となった。授業は明日からである。
 美桜は希美の視線から逃れるために、一刻も早くこの教室から立ち去りたかった。後ろは怖くて振り向けない。美桜は配布されたプリントを急いでカバンにしまい込み、自分の席から立ち上がろうとしたちょうどそのときだった。
「相川さん!」
 美桜は不意に後ろから呼び止められ、左肩をポンとたたかれた。
「ふぇっ!!」
 今まで聞いたことのない奇妙な叫び声が教室中に響き渡り、生徒たちは何事が起こったのかと、いっせいに声のした方へ振り向いた。肩をたたかれた美桜が驚いて振り返ると、そこにはすぐ後ろの席の内田美智子が、美桜のあまりにもとっぴな反応に驚いた顔をして立っていた。
(やってしまった……)
 美桜は恥ずかしさのあまり、顔から耳の先までみるみるうちに赤くなっていった。
「アッ、ハハハハハハ!! 『ふぇっ!!』ってなーに?」
 美智子の大きな笑い声に、何人かの生徒もつられてクスクスと笑い出した。「ふぇっ!!」は美桜が不意に話しかけられたり、何かに驚いたりしたときに発する子供の頃からの癖で、美桜はこのせいでこれまで数々の失敗を演じてきた。小学生のときは意地悪な男子がわざと美桜をびっくりさせておもしろがるという遊びがはやってしまい、誰にも相談できなかった美桜は、登校拒否の1歩手前まで追い詰められた。中学生のときもこの癖は直らず、元々ボーッとしていることが多かった美桜は、クラスメイトから格好の標的にされてしまった。
 美桜はこの癖を非常に気にしていて、高校に入ったらこれだけはやめようと心に誓っていた。その誓いが早くも登校初日から破られてしまうとは――。
「ごめんなさい。脅かすつもりはなかったのよ。フフッ」
 美桜の反応がよほどおかしかったのか、美智子は謝りながらもまだ笑っていた。美桜は消え入りそうになるくらい恥ずかしくて身の置きどころがなかったが、美智子の次の一言で美桜の羞恥心は消し飛んでしまった。
「ねぇ、よかったら一緒に帰らない?」
「えっ?」
 美桜は自分の耳を疑った。誰かから一緒に帰ろうと誘われるなんて何年ぶりのことだろうか? 中学生のときは授業が終わると友達同士がおしゃべりで盛り上がる中、誰に気づかれることもなく、足音を立てずにそっと教室から出ていくのが常だった。最初は寂しいと思ったが、1ヵ月もたつとそれが普通になり、いつしか何も感じなくなっていた。
「あの……、私と……?」
 美桜はおずおずと美智子に聞き返した。周りには自分と美智子以外誰もいなかったが、それでも本当に自分と帰りたいと言っているのか確かめずにはいられなかった。
「そう、あなたと。嫌ならいいんだけど」
 美智子は居丈高に命令口調で美桜に言った。「嫌ならいい」と言っておきながら、そこには嫌とは言わせない強い意志が透けて見えた。
「いえ……、そういうわけでは……」
 美智子の態度に圧倒された美桜に断るという選択肢はなかった。
「じゃあ、一緒に帰りましょう」
 美智子は初対面でまだ話したこともない美桜と、一緒に帰ることに決めてしまった。美桜は困った。他人は総じて苦手な美桜だが、その中でもこういう押しの強いタイプを美桜は最も苦手にしていた。有無を言わせない態度に美桜はますます萎縮して、そばにいるだけで息が詰まりそうになる。せめてもう少しおとなしい人ならよかったのだが……。
「ねぇ、明日日直って言われたでしょ? 日直って何やるのかしら?」
「さぁ……」
「きっと黒板消したりとか、プリント配ったりとか、そんなものよね。まさか授業始めるときの号令とかするのかしら?」
「号令……?」
「起立! 礼! とか言うじゃない」
「えっ……」
 美桜は美智子の言葉を聞いて胸が苦しくなってきた。もしそんなことになったらどうしよう。中学校でも日直のときに号令をやらされたが、緊張から声が小さすぎて誰にも聞こえず、先生もクラスメイトもみんなあきれていた。
 教室から短い廊下を通って、2人は下駄箱までたどり着いた。美桜は靴に履き替えながら、いったいどこまで美智子と一緒に帰らなければならないのか心配になってきた。
(まさか自分の家まで一緒に帰るのかしら……?)
 地元に住んでいる美桜は学校から家まで歩いて15分ぐらいだ。しかし、教室から下駄箱までの短い間でも今すぐ逃げ出したいくらいなのに、ましてや家まで一緒に帰るなんてとても耐えられそうにない。家までの15分はあまりにも長すぎる。
 美桜は気が進まずもたもたしていたので、すでに靴に履き替えていた美智子を待たせてしまった。
「すみません……」
 美智子はそれには答えないで少しほほ笑むと、ついておいでと言わんばかりにさっそうと歩いていった。美桜は仕方なくそのあとをトボトボついていく。
「ねぇ相川さん、明日からお昼休みあるでしょ? 相川さんはお弁当?」
「ええ……」
「じゃあ、明日のお昼休み、一緒に食べようよ」
「えっ……、は、はい……」
「お弁当はお母さんが作ってくれるの?」
「いえ……、自分で……」
「自分で作るの? すごいね! 料理得意なの?」
「いえ……、お母さんは働いていて朝早いので……、それで……」
「私、相川さんに料理教わろうかな?」
「い、いえ、そんな……」
 どうにか校門までたどり着いた。他の生徒たちも友達と手をつないだり、おしゃべりをしたりしながら、いっせいに校門から出てきた。美桜はその様子を横目で見ながら、自分もその中に混じって友達――まだそう呼べる状態ではないが――と一緒に帰っているのを不思議に思った。
 美智子が積極的に話しかけてくれたおかげで、お互いに沈黙するような気まずい空気にならなくてすんだが、いったいこの会話がどこまで続くのだろうか? いつ会話が途切れやしないか、美桜はそのことが気が気でなかった。
「相川さん、家どこ?」
「陽向台……」
「じゃあ、地元? 歩いて通うの?」
「ええ……」
「いいなー。私なんか電車で1時間もかかるんだよ」
「そう……」
「相川さん、帰りどっち?」
「左です……」
「私駅だから右だ。じゃあここでお別れね。さようなら。また明日」
「さようなら……」
 美智子は笑顔で軽く手を振ると、駅に向かって独りで歩き始めた。美桜はなんとなくこの場を立ち去りがたく、美智子の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
(終わった……)
 美桜はようやく美智子から解放され、ホッと一安心した。しかし、その一方で後悔もあった。美智子があれほど一生懸命話しかけてくれたのに、自分はまともな返事ひとつできなかった。
(きっと、つまんない人だと思ったろうな……)
 美桜は独りで家に帰りながら、さっきまで一緒だった美智子のことを思い返していた。なぜ美智子が下校の際に自分を誘ったのかはわからないが、もし自分と友達になりたくてそうしたのだとしたら、自分はその期待を裏切ってしまった。きっと今ごろはお昼休みに約束したことを後悔しているだろう。もう自分に愛想を尽かして二度と話しかけてくれないかもしれない。そう思うと孤独に慣れているはずの美桜も少し寂しかった。
 お昼ご飯に誘われたときは、自分にそんなことを言ってくれる人がいるのかと驚いたが、たとえそれが単に席が近い者同士の社交辞令だったとしても、やはりうれしいことに違いはなかった。だが、自分があんな態度を取ってしまったばかりに、明日の約束がどうなるかわからなくなった。
(もっとお話しできればよかったのに……)
 別れ際、美智子は笑顔で自分に手を振ってくれた。それがせめてもの救いだった。

第2章 お昼休みは苦手です

 次の日の朝、美桜は昨日より1時間早く起きて、お弁当の支度に取りかかった。材料は冷蔵庫にあるものを美桜が自由に使ってよいことになっている。美桜の母親は朝早く家を出るので、お弁当を作っている余裕はない。
 お弁当作りは高校生活に備えて、1ヵ月前から母親と一緒に練習してきた。おかずは卵焼きとソーセージとミニトマトとブロッコリーにして、空いたスペースに昨日の晩ご飯の残り物をつめる。あとはご飯を入れるだけだ。時間がないのであまり凝ったものは作れない。
 美桜はできあがったお弁当を見て、ちょっと地味すぎるかなと思った。しかし、自分からハードルを上げるとあとが大変なので、これで十分だろう。今日のお昼休みがどうなるかわからないが、美智子と食べるにしても独りで食べるにしてもお弁当は必要だ。
 美樹本学園には学食もあるが、お昼休みは非常に混雑するので、たいていの生徒、特に1年生はほとんどがお弁当だと、入学前のオリエンテーションで上級生が言っていた。それにそんなに混んでいる食堂で、知らない人に囲まれて独りで食事などとてもできそうにない。
 美桜は昨日より早めに家を出た。お弁当作りが思ったより早く終わったというのもあるが、それ以上に美智子よりも早く教室に着いて、美智子が登校してくるのを待っていたかった。そうすればきっと美智子の方からあいさつしてくれるだろうし、その気がなければ無視されるだろう。自分から美智子に声をかける勇気はない。できれば美智子の方から話しかけるように仕向けて、美智子の気持ちを確かめたい。
 しかし、美桜の打算はいとも簡単に破綻してしまった。美桜が教室に入ると美智子はすでに登校していて、美桜が来るのを待っていたのである。
「あっ、おはよう、相川さん」
「おはようございます……」
 美桜の心配はまったくの杞憂(きゆう)に終わった。美智子は昨日となんら変わらない態度で美桜に接してきた。結局、美智子より早く登校しようがしまいが、美智子が話しかけて美桜が答えることに違いはなかった。美桜は自分から話しかけられないから相手に話しかけてもらうと、朝からそんなことばかり考えている自分が恥ずかしくなった。
「相川さん、早いね」
「ええ……」
「今日から授業でしょう? やっぱり初日から遅刻できないから、私も早く来ちゃった」
「うん……」
「ねぇ、お弁当作ってきた?」
「ええ……」
「相川さんの作ったお弁当、早く見たいなー」
「そんな……、たいしたことないよ……」
「お昼になったら、おかずの取り替えっこしようよ」
「うん……」
「あーあ、1時間目から数学かー。予習やってきた?」
「いいえ……」
「そうよね、初日からやってくる人なんていないわよね」
「うん……」
「相川さん、数学得意?」
「いえ、全然……」
「私、授業についていけるか心配だよ」
「私も……」
「私、相川さんに教えてもらおうかなー」
「えっ、そんな……」
「冗談よ」
「……」
 昨日の下校のときと変わらない調子で美智子が一方的にしゃべり、美桜はただ相づちを打っていた。美桜も何かしゃべらなければいけないと思うのだが、他人がそばにいると頭が空っぽになって、言葉がまったく思い浮かばない。これでは本当に美智子に愛想を尽かされそうだ。せっかく友達になってくれそうな人が目の前にいるのに、どうすることもできない自分がもどかしい。
 結局、美智子の話に何も答えられないまま片桐先生が教室に入ってきて、朝のホームルームが始まった。
「今日からいよいよ授業が始まります。高校の勉強は中学よりさらに難しくなると思います。最初でつまずくと取り返すのが大変なので気をつけてください。中学とは違って高校は成績が悪いと留年することもあります。そうならないように授業はまじめに受けてください。まあ、宿題と試験勉強さえちゃんとやれば大丈夫ですけどね」
 最後は片桐先生の優しい笑顔で、ホームルームは締めくくられた。
 まだ授業開始初日ということもあり、午前中はほとんど授業は行われず、先生の自己紹介と生徒の名前の確認、そして、これからの授業の内容が簡単に説明されただけだった。
 お昼休みが近づくにつれて、美桜はそわそわして時計が気になり始めた。12時35分になれば、約束どおり美智子と一緒にお弁当を食べることになるだろう。2人きりで何を話せばいいかわからない美桜は、お昼休みが来てほしくないと思う一方で、早くお昼休みが来てほしいと思う気持ちもあった。やはり独りでお弁当を食べるより2人で食べた方が孤独を感じなくてすむ。それに、美智子なら自分が話さなくても、向こうからいろいろ話しかけてきてくれそうだ。
 これまでの美桜は、友達同士で何か話さなければならないような場面に出くわすことをできるだけ避けてきた。特に誰かと2人きりになるような状況は、絶対に避けなければならなかった。自分といてもおもしろくないだろうし、話すことがないので相手に気まずい思いをさせるだけだ。
 そんなことをしていたら、美桜はいつの間にかいつも独りでいるようになってしまった。朝、誰にも気づかれずに登校し、無言で給食を食べ、放課後に友達と寄り道することもなく独りで家に帰る。そのときはあまり感じなかったが、思えばつまらない中学生活だった。
 こんなこともあった。中学3年生のときの修学旅行で自由行動の班を決める際、友達のいなかった美桜は誰からも声をかけてもらえず、当然のようにあぶれてしまった。結局班は美桜と同じ境遇の余った者同士で組まされ、無言のまま1日中京都を歩き回った。最悪の思い出だ。
 高校に入っても中学3年間と同じことを繰り返そうというのだろうか? 美桜が自分の中学生活を振り返りながら自問していると、やがて4時間目の終業を告げるチャイムが鳴り、いよいよ昼休みになった。
「相川さん、私の机で食べようよ」
「うん……」
 美桜はカバンからお弁当を取り出すとドキドキしながら回れ右をして、美智子の机の上にお弁当を広げた。
「相川さんのお弁当かわいい。やっぱり自分で作ったの?」
「ええ……。内田さんのお弁当もおいしそうだよ……」
「うちの親、料理のセンスないからなー。私も料理得意じゃないから、やっぱ血筋かな?」
 美智子のお弁当も特に凝ったものではなく、どこにでもありそうなごく普通のお弁当だった。明らかに冷凍食品のものもあり、これなら今後もお弁当の内容で気を使うことはなさそうだ。
「何かおかず交換しようよ」
「うん……」
 美智子は美桜のお弁当から1番おいしそうなソーセージを遠慮なく頂戴した。
(これが友達同士がよくやるという、おかずの交換か……)
 美桜は自分のソーセージが美智子の口に運ばれていくのを見つめながら、テレビやマンガでよく見る光景が実際に自分の目の前で行われていることに、恥ずかしいようなくすぐったいような感じがした。
 美桜は1番おいしそうな卵焼きは本人が食べたいだろうから遠慮して、美智子が選んだソーセージと釣り合いが取れるように、2つあるうちの小さい方の唐揚げを選んだ。
「いただきます……」
 美智子の唐揚げが美桜の口に入り、おかずの交換が成立した。美桜はまさか高校に入ってこんなことをすることになるとは夢にも思わなかった。
 緊張してのどが渇いてきた。美桜が水筒のお茶を口に含んで飲み込もうとしたちょうどそのとき、
「ねぇ、私、相川さんのこと『美桜』って呼んでいい?」
「もごっ!!」
 唐突に美智子から「美桜」と呼ばれて驚いた美桜は、激しくせき込んで口に入れたお茶を全部吐き出してしまった。
「ゴホッ!! ゴホッ!! ゴホッ!!」
 お茶が気管に入ってしまった。美桜は慌ててハンカチを口に当てたが、せきが止まらない。
「ちょっと、大丈夫?」
「ゴホッ!! ゴホッ!! だ、大丈夫……ゴホッ! です……。ゴホッ!!」
 美桜は顔を真っ赤にしながら、息も絶え絶えに答えた。
「ククククッ……、ハハハハハ!!」
 その様子を見ていた美智子は美桜には悪いと思ったが、こらえきれずに笑い出してしまった。
「ほら、これ使って。クククッ……」
 美智子は自分のハンカチを美桜に差し出した。
「ゴホッ! すみません……、ゴホッ!」
 美桜は美智子から借りたハンカチで、こぼしたお茶でぬれてしまった制服をふいた。初日に続き、またしても人前でこのような失態を演じるとは。
「どう? 少し落ち着いた?」
「はい……、ゴホッ!」
 まだせきが止まらない。しかし、よりによってこんなときにお茶が気管に入るとはついてない。美桜はつくづく自分は不幸な星の元に生まれたんだなと思った。
「ところで、さっきの答えまだ聞いてなかったけど」
(答え? 何のことだっけ? ああ、そうだ、私のことを「美桜」って呼んでいいかって……)
 美桜は美智子に言われたことを思い出した。自分のことを名前で呼ぶなんて親以外誰もいないし、そもそも知り合ってまだ2日しかたっていない。美桜は非常に戸惑った。
「私のことを……、その……、ゴホッ!」
「そう。いいわよね」
 またしても美智子の命令的な口調に、美桜はうなずくしかなかった。しかし、下の名前で呼ばれても別に迷惑というわけではない。むしろうれしいぐらいだ。
「うん……。でも、そんな風に呼ばれるのは、生まれて初めて……」
「えーっ、そうなの? もったいないよ。美しい桜。すてきな名前だわ」
「ううん……、名前負けしてる……」
「そんなことないよ。美桜、かわいいからピッタリだよ。それに比べたら私なんて美智子よ。今どきありえないわ。昭和かっつーの」
「美智子もすてきな名前だと思うよ……」
「あーあ、私ももっとかわいい名前だったらよかったのになー」
 美智子は自分の名前が不満らしく、文句を言いながら再びお弁当を食べ始めた。ここで初めて会話が止まった。
(そうだ、今度は私が内田さんに話しかけてみよう。でも、内田さんのことをなんと呼べばいいんだろう? 私も名前で呼んだ方がいいのかな? でも「美智子」なんてとても呼べない。それに名前のこと気にしているみたいだし。じゃあ、美智子だから「みっちゃん」? いきなり言ったらなれなれしいな。さっきみたいに私も「みっちゃん」って呼んでいいか聞いてみようか……)
「ねぇ、美桜、部活決めた?」
「えっ? ううん、まだ何も……」
 美桜が話しかけるのをためらっているうちに、先に美智子に話しかけられてしまった。
「美桜、スポーツ得意?」
「全然……」
「じゃあ、文化部?」
「うーん……」
 美桜は美智子がせっかく聞いてくれたので迷っているふりをしてみたが、本当は部活に入るつもりなどまったくなかった。同じクラスの生徒でさえうまく話すことができないのに、ほかのクラスの生徒や、ましてや上級生に交じって何か活動するなど、想像しただけで気がめいってくる。
(そうだ、内田さんは何の部活をやるのか、それを聞いてみよう)
 美桜は美智子に話しかける前に、頭の中で予行演習をした。
「みっちゃんは何の部活に入るの?」
 特に問題はないように思える。内田さんのことを何と呼ぶのかが問題だが、しれっと「みっちゃん」と言ってしまおう。
(大丈夫。今みたいに言えばいいんだ)
 美桜は決心を固めた。
「あ、あの……」
「ん?」
 いざ話しかけてはみたものの、美智子に待ち構えられると急に恥ずかしさがこみ上げてきた。顔が赤くなって心拍数がどんどん上がっていく。
(どうしよう「みっちゃん」なんていきなり呼べるわけがない。なんでそんなことしようと思ったんだろう? こんなことなら話しかけなければよかった……)
 しかし、一度話しかけてしまった以上、もうあと戻りはできない。美智子も美桜が話しかけてくるのを待っている。
「あ、あの……、内田さんは何の部活に……?」
「私はパスね。部活に興味ないし」
 美桜は自分に失望した。「みっちゃん」と呼ぶつもりが、自分の意志とは裏腹に出てきた言葉は「内田さん」だった。土壇場で気弱な自分が顔を出して、自分自身を制止してしまった。
「早く食べちゃおう、お昼休み終わっちゃう」
「あ、うん……」
 2人は急いで残りのお弁当を食べ始めた。他の生徒たちはみんなお昼ご飯を食べ終わって、読書したり音楽を聴いたりして、高校生活最初のお昼休みを思い思いに過ごしている。
 周りを見渡すと、もうすでに仲よしグループがいくつかできあがっているようだ。美桜はお弁当を食べながら、ふと教室の1番後ろの席にいる1人の生徒に目がとまった。
(また目が合ってしまった……)
 視線の先は佐藤希美だった。目を合わせまいとしても、少しでも油断するとすぐ目が合ってしまう。中学生のときとまったく同じだ。美桜は慌てて目を伏せたが、その後も希美に終始見られているような気がして落ち着けなかった。
 昼休みが終わり、午後の授業が始まった。5時間目の地理の先生は自己紹介もそこそこにすぐに授業を始め、今日は授業をやらないと思っていた生徒たちは大いに面食らった。どうやら雑談などはあまり好まない先生のようだ。
 授業は始まったが、午後になると生徒たちの緊張もほぐれ、お昼休みでお腹が一杯になったせいもあって、教室は午前中のような張りつめた空気はなくなり、どこかのどかな雰囲気になった。美桜もその空気を察知してか、授業も上の空で今日の昼休みのことをいつまでも気にしていた。
(内田さん、私のことどう思ったろう? あまりお話もできなかったし、みんなみたいにおもしろいことも言えない。私とお弁当食べてもつまんないよね。今度こそ本当に見限られたかな。あーあ、みんなは友達とどんな話をしてるんだろう)
「では相川さん、ここから読んでください」
 出席番号1番というのは、こういうときに真っ先に指されることがあるので油断できないのだが、美桜はお昼休みのことに気を取られて、先生の話を聞いていなかった。
「相川さん!」
 先生が呼びかけても美桜はまだ気づかない。たまりかねた美智子が小声で後ろから声をかけて、美桜の背中をシャープペンシルで突っついた。
「美桜っ!」
「ふぇっ!!」
 しんとしていた教室に、美桜のなんとも形容しがたい奇妙な叫び声が響き渡った。
「クスクスクス……」
 クラス中から失笑が漏れ、美桜はようやく自分の置かれている状況を理解した。
(またやってしまった……)
 高校に入ったらこれだけは絶対にやらないと堅く心に決めていたのに、クラス全員の前で1度ならず2度までもこのような失態を演じるとは……。美桜は恥ずかしさのあまりこのまま消えてしまいたいと思った。
(もーっ、美桜ったら……)
 美智子はまるで自分が笑われているような気がして恥ずかしくなった。そして、自分のせいで友達に恥をかかせてしまったことを申し訳なく思った。知り合ってから間もない美智子は、まだ美桜の特性をよく理解していなかった。これからは不意に後ろから声をかけるのは控えようと思う。
「相川さん、ちゃんと先生の話を聞くように」
「すみません……」
 その後、美桜はしどろもどろになりながら、なんとか教科書を読み上げたが、何をどう読んだかは覚えていない。とにかく今は授業が終わって、いち早くこの場から逃げ出したかった。
 中学のときはまったく目立たない存在で、高校に入ってもそれは変わらないと思っていたのに、昨日といい今日といい、図らずもこんな形でみんなから注目を集めてしまった。
 美桜にとってこの2日間は、みんなから笑いものにされ、散々な目にあったかもしれないが、「相川美桜」という存在をクラスメイトに印象づけることには成功した。この2日間は間違いなくクラスで1番目立っていたし、本人の意思には反するものの、この「相川美桜」というちょっと変わった子に、みんなが少なからず興味を持った。
 引っ込み思案の美桜にとって、それはクラスに溶け込む大きなきっかけになりそうだったが、そのことに気づいていない美桜は、独りで頭を抱えてしまった。
(最悪だ……)

                  *     *     *

(ハァ……、学校に行きたくない……)
 高校生活が始まって3日目の朝、美桜は初日にもまして気が重かった。
(みんな私のこと、どう思ってるのかな? きっと変な人だと思ったろうな……。内田さんはなんて思ったろう? 私と友達になろうとしたこと、後悔してるかも……)
 美桜は昨日と同様にお弁当を作って家を出たが、足取りは重かった。昨日のことを思い出すと、今でも恥ずかしくて穴があったら入りたい気分だ。きっと今ごろは自分を笑いの種にして、クラスで盛り上がっているに違いない。そして、その輪の中に内田さんも……。
(学校に行きたくない……)
 美桜はなるべく教室にいたくなかったので、わざと遅刻ギリギリに登校した。高校が始まって3日目ともなると、始業前のクラスは非常ににぎわっていて、生徒たちの笑い声が教室の外まで聞こえてくる。もしかして、自分のことを笑っているのだろうか? 自意識過剰なのはわかっているが、それでも教室の扉を開けるのが怖い。
 小学生のとき、美桜を後ろから驚かせておもしろがるという遊びがはやったせいで、美桜は常に後ろを警戒しなければならず、心の休まる暇がなかった。思えばこの頃から周りに対して過敏になり、周囲との接触を避けるようになった気がする。嫌な思い出だ。
(もし、私のことでみんなが笑っていたら、このまま帰ろう……)
 美桜は誰にも気づかれないようにそっと教室の扉を開けて、中の様子をうかがった。生徒たちが何を話しているのか聞きたかったが、生徒1人1人のしゃべっている内容まで聞き分けるのは難しい。美桜は仕方なく諦めて、少し開けた扉の隙間から体を滑りこませるように教室に入り、素早く目の前にある自分の席に着いた。
「おはよう、美桜。今日は遅かったわね」
「あ、おはよう……」
 昨日までと変わらない調子で、美智子が話しかけてきた。美智子はまだ美桜を見捨ててはいなかった。美桜は恐る恐る教室を見回してみたが、みんな友達とのおしゃべりに夢中で、美桜が教室に入ってきたことさえ誰も気づいていなかった。
(よかった。誰も私のこと話していないみたいだし、内田さんも昨日と同じだ)
 昨日あれだけの失態を演じて、愛想を尽かされても仕方ないのに、まだ自分に話しかけてくれる。なんて心の広い人なんだろう。最初はちょっと怖かったけど、本当はいい人に違いない。美桜は美智子に感謝せずにはいられなかった。
「内田さん、ありがとう……」
「……? いえ、どういたしまして……」
 美智子はなぜ美桜からお礼を言われたのかわからなかった。特に感謝されるようなことをした覚えはないが、きっと何かいいことがあったのだろう。その証拠に、はにかみながらほんのわずかではあるが、美桜が知り合ってから初めての笑顔を見せてくれたのだから。

第3章 体育は苦手です

 高校が始まってから1週間が過ぎた。初めは緊張していた新入生たちも、ようやく新しい学校に慣れてきて、今では誰に遠慮することもなく、わが物顔で校内を闊歩(かっぽ)している。あとひと月もしたら、もはや上級生と見分けがつかなくなるだろう。
 美桜は高校が始まった最初の2日間、美智子やクラスメイトの前で様々な失態を演じたが、その後は何事もなく高校生活を平穏無事に過ごすことができた。もしかしたら、そのことでみんなから馬鹿にされたり、冷やかされたりするのではないかと心配していたが、幸いこのクラスには美桜のことを笑いものにする人もいなければ、からかうような人もいなかった。
 それどころか、美桜はこの1週間でクラスのちょっとした人気者になっていた。自己紹介でしどろもどろになったり、授業中に驚いて叫び声を上げたりして、中学生のときにはクラスで浮いてしまったことが、ここではかわいいと思われたらしく、美桜は美智子以外の生徒からも、よく声をかけられるようになった。
「美桜ちゃん、おはよう」
「あ、おはようございます……」
「フフッ、美桜ちゃんってかわいいよね」
 今までクラスで注目されるなんてことはなかったし、ほかの生徒からかわいいなどと言われたこともなかった。いったい何をどう間違えたらこうなるのだろうか? 美桜は今の状況に困惑するばかりだった。
「ふーん、美桜って結構モテるのね」
 その様子を見ていた美智子の発した何気ない一言に、美桜は何か不穏なものを感じ取った。周りに人一倍敏感な美桜は、人が隠そうとしても隠しきれない不平や不満を瞬時に察知することができた。
「そ、そんなことないよ。全然モテないよ」
 美桜は慌てて否定してみたが、美智子はあくまで無関心を装って、美桜の弁解には答えようとしなかった。
「美桜もみんなと友達になったらいいよ」
 その声はいつもの美智子らしくない、どこかよそよそしく冷めた感じだった。今のところ美桜にとって美智子は友達のすべてで、その美智子にほかの生徒と友達になれと言われるのは、美智子に見捨てられたような気がして辛かった。
 一方、美智子は美桜を故意に傷つけるつもりはなかったのだが、すっかりしょげてしまった美桜を見て、自分が何を言ってどんな感情を抱いていたのか、はっきりと自覚した。美智子さすがにはこれはまずいと思い、すぐに話題を変えた。
「そういえば今日の体育、100メートルのタイム計るのよね」
「うん……」
「すぐ着替えて、校庭に行こうよ」
 こういうところは美桜と違い、美智子は機転がきく。1時間目から体育とはかったるいことこの上ないが、今日に限っては助かった。授業中に自分のせいで、美桜に悶々(もんもん)とされてはたまらない。そんな状態では、いつまた例の「ふぇっ!!」が出てくるやもしれない。
 体育で体を動かせば、少しは気分が晴れてくるのではないか? 美智子は体操着に着替えながら、美桜が気を取り直してくれることを期待した。
 それにしても、教室で堂々と体操着に着替えられるのはありがたい。美智子のいた中学校は、男女共学にもかかわらず更衣室がなかったので、男子にのぞかれないように注意しながら、コソコソ着替えたものである。しかし、女子校ならそんな気を使う必要もない。もしかしたらこれが女子校に入った1番の利点かもしれないと美智子は思った。
「ハァ……」
 体操着に着替え終わった美桜は、登校初日以来の大きなため息をついた。
「どうしたの? ため息なんかついて」
 美智子は美桜がまださっきのことを気にしていると思い、自分はもう忘れたと言わんばかりに、努めて明るく尋ねた。
「私、運動苦手で……。走り方もおかしいから……」
(なんだ、そっちか)
 美智子は安心した。どうやら美桜の関心は、さっきのことよりも体育の授業に移っているようである。
「大丈夫よ、そんなの。私もスポーツ得意な方じゃないから」
 校庭に出ると4月の朝はまだ少し肌寒かったが、空には青空が広がり、春らしく気持ちのいい天気だった。校庭は全天候型の1周300メートルのトラックがあり、その内側は天然芝になっている。それ以外にもテニスコートが2面あり、私立の高校としては特別広くもなければ狭くもない感じだ。
 授業が始まるまでに校庭を走ってウォーミングアップを済ませておくのが、体育の授業の決まりだった。美智子は美桜と一緒にトラックを走りながら、朝の出来事を思い出していた。
(あの程度のことで嫉妬するなんて、どうかしてるわ)
 美桜がほかの生徒からチヤホヤされるのを見ると、なぜかイライラしていい気分はしなかった。美智子が美桜と出会ってから、まだ1週間しかたっていない。その間も美智子は美桜と四六時中一緒にいたわけではなく、ほかにも気の合いそうな友達が何人かできていた。その友達が他の生徒と仲よくしたところで、別になんとも思わないのだが、美桜に対してだけ、どうしてそんな気持ちになるのだろうか?
(私って、そんなに独占欲の強い女だったっけ?)
 確かに美桜は高校で初めてできた友達だ。そういう意味では美智子にとって、美桜は特別な位置を占めているといっていい。今もほかの友達を差し置いて、美桜と一緒にいるのが何よりの証拠だ。
 出会った頃はあからさまに嫌がっていた美桜を強引に誘っていたが、1週間もたつと2人でいるのが当たり前になってきた。美桜も最近は嫌がるそぶりを見せなくなったし、それどころか、今では自分と一緒にいるとうれしそうにしている。まだ口は重たいが、それでも以前と比べたら少しはしゃべってくれるようになった。
 それは美桜が美智子に対してだけ見せる特別な感情だ。けれど、みんなと友達になってしまうと、それがもはや特別ではなくなってしまう。美智子は内気な美桜がほかの生徒と仲よくなること自体は、素晴らしいことだと思っている。それはわかっているのだが――。
「ねぇ、美桜……って、あれ?」
 美智子の隣にいるはずの美桜が、いつの間にかいなくなっていた。
「ま、待ってー……」
 気がつくと、美桜は美智子のはるか後ろを息も絶え絶えに走っていた。美智子は美桜が追いつくまでしばらく待って、また一緒に走り始めたが、軽いランニングのはずが、トラックを1周走り終わったときには、美桜は膝に手をついて、苦しそうに肩で息をしていた。結局、他の生徒がトラックを2周する間、美桜は1周しかできなかった。
「美桜、まだウォーミングアップだよ」
「ハァ、ハァ、そ、そんなこと言っても……」
「美桜、体力なさすぎ!」
 運動が苦手というのは、謙遜でもなんでもなかった。美桜のあきれるほどの運動音痴が明らかになり、美智子は美桜の深いため息の理由を理解した。
 生徒たちがウォーミングアップを終えると、体育の先生がやってきて、美桜は息をつく暇もなく、2人1組の柔軟体操が始まった。体育ではこのような状況がしばしば現れるが、美桜はこの2人1組が大の苦手だった。
 中学生のとき、先生が2人1組になるように号令をかけても、美桜は誰にも声をかけることができず、また、声をかけてくれる人もいなかった。したがって、最終的には余った人同士で組まされるのだが、相手はあからさまに仕方ないといった顔をするので、非常に気まずい思いをした。
 しかし、今は美智子がいてくれる。友達と2人1組になって、友達が自分の背中を押してくれる。こんな幸せなことがあるだろうか? 美智子の手の感触が背中から伝わってくるのを感じながら、美桜は友達のありがたさをしみじみと感じた。
「美桜、体固っ!」
 美智子がいくら背中を押しても、美桜の体はまるで棒のように少しも前に傾かなかった。
「痛い……」
「どうなってんの? 美桜の体」
 これは想像以上にひどい。これで本当に100メートルも走れるのだろうか? 走るどころか完走もおぼつかないのではないか? さすがに美智子も不安になってきた。
「美桜、もうちょっと体動かさなきゃダメだよ」
「うん……。子供の頃から運動苦手で……」
 しかし、これは苦手という範疇(はんちゅう)を超えている。どうやったらこんなに運動音痴になれるのだろうか? 子供の頃から大事に育てられて、あまり運動をしてこなかったのではないか?
 美智子は美桜の生い立ちをあれこれ想像してみた。確かに美桜はおっとりしていて、競争とは無縁の生活をしてきたようにも見える。もしかして、美桜ってものすごいお嬢様なのだろうか? いや、本当にそうなのかもしれない。きっと鬼ごっこや缶蹴りなど、子供がやるような遊びをしたことがないのではないか? そうでなければ、普通ここまで運動音痴にはならないだろう。
 柔軟体操のあと、100メートルを軽く2本走って、いよいよ本番である。この100メートル走は体力測定はもとより、6月に行われる体育祭のリレーメンバーを決めるためでもあることが、先生から説明された。出席番号順に2人ずつ走るので、美桜と美智子が最初に走ることになった。
「よし、美桜、がんばろう」
「うん……」
 とは言ったものの、美智子は美桜が無事に100メートルを走りきれるのか心配だった。
(この子、途中で倒れたりしないわよね)
 美智子が心配そうに美桜の表情をうかがうと、美桜はいつになく真剣な顔をして、真っすぐコールの方を見つめていた。
(何やる気になってるのかしら?)
 美智子は嫌な予感がした。こういうドジっ子がたまにやる気になると、何かよくないことが起こりそうな気がする。ああ「がんばろう」なんて言わなければよかった。そんなことを言ってしまったばかりに、美桜はそれを真に受けて、本当にがんばるつもりなのだろう。それはそれでうれしいのだが、しかしこの場合、これまで見てきた美桜の体力と運動神経を考えると、100メートルを全力で走るのは危険な気がする。「一緒に楽しく走りましょう」ぐらいにしておけばよかった。
「あ、あの……」
 このまま走り始めると美桜が危ないと思い、美智子は慌てて美桜に声をかけようとしたが、スターター役の生徒の「位置について!」の声がかかってしまった。美桜は美智子の心配をよそに、周囲の雑音が耳に入らないくらい真剣なまなざしでスタート位置についた。
(どうしよう。美桜が死ななきゃいいけど)
「よーい、ドン!」
 スターターのかけ声とともに、ピストルの代わりに白い旗が振り下ろされ、2人はいっせいに走り出した。美智子もスポーツは得意ではなく、足もそれほど速いわけではないが、それでもスタート直後から美桜をどんどん引き離していった。
 美桜の走り方はいわゆるベタ足で、膝が上がっておらず、どんなにもがいてもまったく前に進んでいなかった。あれだけ一生懸命走っているのに、どうやったらあんなに遅く走れるのだろうか? 美桜の走りはクラス中のみんなを唖然(あぜん)とさせ、これから走る運動の苦手な生徒には、大きな希望を与えた。
 美智子が高校1年女子の平均よりも少し遅いタイムでゴールしたあと、美桜はさらに遅れて、顔を紅潮させながら、最後は必死の形相でなんとかゴールした。
「大丈夫? 美桜」
「ハァ、ハァ、大丈夫……。タイムは、ハァ、ハァ、遅かったけど……、ハァ、ハァ、内田さんが……、ハァ、ハァ、がんばろうって……、ハァ、ハァ、言ってくれたから……、ハァ、ハァ、一生懸命……、ハァ、ハァ、がんばったよ……、ハァ、ハァ」
 苦しい息の下、美桜は膝に手をついてこれだけのことを言うと、美智子の方を見て、まるで消えかかったろうそくのように、力なくほほ笑んだ。
(ああ、やっぱり……)
 美智子は余計なことを言ったと後悔した。確かに「がんばろう」とは言ったが、それはいわば社交辞令みたいなもので、本気で言ったわけではない。何もそこまでやらなくてもいいのだが、自分の言葉で美桜が苦手な体育をがんばってくれたことはうれしかった。
「もう、がんばりすぎよ」
 美智子はあきれたように言ったものの、美桜が不格好ながらも一生懸命走っている姿を想像したら、急におかしさがこみ上げてきた。
(フフッ。まったくこの子は。私が「がんばろう」って言ったからがんばったって、あまりに単純すぎるわ)
 美智子はまるで出来の悪い子供を持った母親にでもなったような気がした。その出来の悪い子は、美智子が少し目を離している間に、さっきから膝に手をついて、うつむいたまま動かなくなってしまった。美智子が美桜の顔をのぞき込むと、目はうつろで、顔がすっかり青ざめていた。
「どうしたの? 美桜!」
「気持ちが悪い……」
「えっ! ちょっと、大丈夫? トイレ行く?」
「横になりたい……」
 激しい運動のせいで美桜は貧血になったらしく、顔面蒼白(そうはく)で今にも倒れそうだ。
「先生! 相川さんの具合が悪いので、保健室に連れていきます!」
 美智子が大声で先生に呼びかけると、タイムを計っていた先生が慌てて駆けつけてきた。先生は美桜の具合を確かめると、先生と美智子で両脇を抱えて、美桜を保健室に連れていった。スタート地点では、これから走る生徒たちが、何事が起こったのかとざわざわめいていたが、美桜が両脇を抱えられながら校舎の方へ向かうのを見て、おおよその察しがついた。
 美智子の嫌な予感は、見事に的中した。

「少し落ち着いたか?」
 養護教諭の先生が目を覚ました美桜に声をかけた。ショートヘアでメガネをかけたちょっと男勝りの先生で、口の利き方が少し乱暴なところがあった。
「はい……」
「寝ている間に、友達が様子見に来てたぞ」
 美桜はだるそうに保健室のベッドから起き上がった。寝ていたおかげで、吐き気とめまいはどうにか治まった。ここ1週間は鳴りを潜めていたつもりだったが、貧血で保健室に担ぎ込まれて、またみんなから注目を集めてしまっただろうか。
 時計を見たら12時30分を回っていた。ちょうど4時間目が終わったところだ。結局、美桜は1時間目の体育を途中で抜けたあと、4時間目まで休んでしまった。今はもう昼休みである。体が回復したらお腹が減ってきた。
(様子を見に来てくれたのは、きっと内田さんだ。もしかしたら、私が戻るまでお弁当を食べずに待っているのかもしれない)
 美桜はこの場にいても立ってもいられなかった。急いで教室に戻らなければ。
「教室に戻るのか?」
「はい、ありがとうございました」
「あんまり無理するなよ」
「はい、失礼します」
 保健室を出て1年5組の自分の教室に向かう間、美智子が教室で待っていると思うと、美桜の足取りも自然に軽くなった。
(早く戻って、元気になったところを内田さんに見せてあげなきゃ)
 美桜は美智子とのおよそ3時間ぶりの再会を想像したら、思わず涙ぐみそうになった。
(心配してくれる友達がいるのって、やっぱりいい)
 美桜はうれしい気持ちでいっぱいになって、美智子に心配してもらえるなら、むしろ倒れてよかったとさえ思った。
(内田さん待ってて、今行くから)
 美智子との感動的な再会を期待しながら、美桜は1年5組の教室に勢いよく駆け込んだ。しかし、そこにいるはずの美智子の姿はなく、席は空っぽだった。
(あれ? いない……)
 美桜の期待に反して美智子はいなかった。空っぽになった美智子の席を見つめながら、美桜はなぜ美智子がいないのか理由を考えてみた。
(トイレにでも行っているのかな?)
 きっとそうだろう、そうに違いないと自分に言い聞かせながら、美桜はお弁当をカバンから出して、この1週間してきたことと同じように、美智子の机にお弁当を広げ始めた。
(戻ってくるよね……)
 美桜の胸にだんだん不安が募ってきた。わずか1週間ではあるが、学校が始まって以来、2人は毎日一緒にお弁当を食べてきた。美桜が独りでお弁当を広げるのは今日が初めてである。
 独りで食べるお昼ご飯は、中学生のときの給食を思い出させる。6人1組で机を並べて、みんながおしゃべりで盛り上がる中、独りで黙々と給食を食べていた。自分と話をする人は誰もいない。そのときは寂しいと思わなかったが、今思い出すと胸が張り裂けそうになるくらい悲しくなる。
「あっ、美桜―! こっち、こっち!」
 教室の後ろの方から聞き覚えのある声がした。美智子とはたった数時間会わなかっただけなのに、1週間ぶりに声を聞くような、そんな懐かしさを感じた。
(何だ、そんなところにいたのか)
 美桜が声のする方を見ると、こっちへ来るように美智子が手招きしている。しかし、美桜は懐かしい友達の再会よりも、美智子の向かい側に座っている1人の生徒に目がくぎ付けなった。
「えっ?」
 美智子の向かい側に座っていたのは、こともあろうに佐藤希美だった。驚きと戸惑いで、美桜の体は一瞬にして硬直した。
(何で内田さんがあの人と一緒にいるの? いつから友達に?)
 美桜は今まで2人が会話をしているところを見たことはなかった。それがどういうわけか、急に仲よくなって一緒にお弁当を食べ始めている。自分が保健室で寝ている間に、いったい何が起こったのだろうか? 様々な疑問が美桜の頭の中を駆け巡った。
「美桜、お弁当持ってこっちおいでよ」
 美智子は希美も入れて、3人でお弁当を食べるつもりらしい。美桜は困った。同じ中学校だったとはいえ、希美とは今まで話したことはない。それにしばしば目が合ったりして、かなり気まずい感じがする。できれば行きたくないのだが、美智子が自分を呼んでいるのに、それを無視するわけにはいかない。仕方なく美桜はお弁当を持って、2人のいる席に近づいていった。
 希美との距離が1歩ずつ近づくにつれて、美桜の緊張が高まっていく。その間も美桜は希美の方をなるべく見ずに行きたかったのだが、意識すればするほど、どうしても目がそっちへいってしまう。一方で希美も美桜を意識せずにはいられないらしく、初めは美桜の方をチラチラ見ていたが、美桜が間近まで来ると、恥ずかしさを抑えきれないのか、顔を真っ赤にして、最後にはうつむいてしまった。
「ほら、ここに座って」
「はい……」
 美智子は希美と向かい合って座っている机に、もう1ついすを用意して美桜を座らせた。1つの机に3人でお弁当を広げたので、非常に距離感が近い。美桜と希美との間は、わずか数10センチしか離れていない。
 中学生のときは廊下ですれ違うことはあったにしても、それ以外で希美とこれほど接近するのは初めてだ。机が狭いので、美桜は希美の膝が触れそうになり、そのたびに慌てて引っ込めた。シャンプーの匂いだろうか、お弁当の匂いに混じって、希美から今まで嗅いだことのない匂いが、わずかに漂ってくる。美桜はその匂いを嗅いでいたら、熱に浮かされたように頭がクラクラしてきた。
(ど、どうしよう……。何を話せば……)
 美桜が緊張しているのは、人見知りが激しいのも大きな原因だが、それ以上に美桜は、希美の視線を何よりも恐れていた。中学生のとき、希美の瞳の奥に何か訴えかけるようなものを感じていたが、その正体を知るのが怖くて、美桜はいつも希美の視線を避けてきた。そして、それは高校生になっても変わっていない。一方、希美は美桜以上に緊張しているらしく、お茶を飲もうとした手が震えているのが、はた目からもはっきりとわかった。
(何、この2人?)
 顔を赤らめてうつむいたままの2人を前にして、美智子は怪訝(けげん)そうに2人を見比べた。
(美桜はともかく、佐藤さんのこの態度は何だろう? さっきまであんなに明るかったのに。同じ中学って聞いたけど、2人の間に何かあったの?)
 2人はなおもうつむいたまま、緊張して食事ものどを通らないのか、お弁当に手をつけようともしない。
(このまま放っておくのもおもしろそうだけど、そういうわけにはいかないか……)
 美智子はこの状況を打開しようと、美桜に話しかけた。
「美桜、もう大丈夫なの? さっきも佐藤さんと美桜のこと話してたんだよ」
 美桜の体がピクッと反応した。
(私のことって何だろう? 佐藤さん、私のことなんて言ったんだろう?)
 美桜は美智子に返事をするのも忘れて、自分のいない間にどんな会話がなされていたのか、そのことばかりが気になった。
「あ、あの……」
 返事をしてくれない美桜に、さすがの美智子も困ってしまった。それでも美智子はなおも懸命な努力を続ける。
「佐藤さんに聞いたけど、美桜、佐藤さんと同じ中学だったんでしょ?」
「え、ええ……」
「あの……、こんにちは、相川さん。私のこと知ってるかな?」
 中学生のとき、あれほど目を合わせながら、ただの1度も話したことがなかった希美と、ついに話すことになった。希美は緊張のせいで声が震えて上ずっているが、思っていたより温和で優しそうな声だった。中学生のときの希美は髪の毛を短く刈り上げていて、まるで少年のようで少し怖かった。だが、今こうして希美を間近で見ると、髪の毛が少し長くなり、当時の印象よりもずっときれいで、女の子らしくなっている。
「ええ……、あの……、名前は知らなかったけど……、顔は……」
「……」
「……」
 また2人とも黙ってしまった。これではらちが明かないと思った美智子は、思い切ってストレートに聞いてみた。
「2人の間に何かあったの?」
 今度は2人の体がいっせいにピクッと反応した。
「いや! 何もないよ! 本当に!」
 希美は慌てて否定した。
「本当に何もないのよ……。よく教室で見かけただけで……」
 美桜もそのことについてははっきり否定した。実際、美桜の言うとおり、希美のことを教室でよく見かけただけで、2人の間に何かあったわけではない。
「そう、そうだよ。ハハハハハ……」
 夏でもないのに希美は大汗をかいて、ハンカチで額のあたりをふき始めた。
「ふーん……」
 美智子はまったく()に落ちなかったが、これ以上追求するのはやめておいた。希美とはまだそこまで親しくないし、どこまで踏みこんでいいのかわからない。あとでゆっくり美桜に聞いてみよう。
 その後は女子高生の昼休みにふさわしい、当たり障りのない会話に終始した。美智子の一言が功を奏したのか、緊張が解けた希美はひたすら明るく、さっきの沈黙は何だったのかと思うくらい饒舌(じょうぜつ)だった。美桜はいつものように聞き役に回り、2人の会話を静かに聞いていた。
 希美は自分の感情に非常に素直で、よくしゃべり、よく笑った。美智子とはこれまで面識はなかったはずだが、そんな風にはとても思えないほどよくしゃべる。
 美桜はこれまでお昼休みは、美智子との2人だけの世界で、ほかの人が入り込む余地などないと思っていた。でも、そう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。美智子は希美と気が合うようだし、現に自分と2人でいるときよりも楽しそうにしている。美智子は自分とは違い、これからもどんどん友達が増えていくだろう。そうなったら、自分はどうなってしまうのだろうか?
(早くお昼休みが終わればいいのに……)
 美桜は時間がたてばたつほど、美智子と希美の距離が縮まって、自分との距離が遠ざかっていくような気がした。このわずか数十分の間に、希美は自分と美智子との1週間分以上の会話をしたはずだ。それはとりもなおさず、すでに希美は自分より美智子と親密になったことを意味する。美桜にはそれがこたえた。
 食べ始めるのが遅かったせいで、お弁当を食べ終わったのは、お昼休みギリギリだった。お弁当を片づけている最中、希美は少しためらいながら、おずおずと2人に尋ねた。
「あの……、もしよかったら、明日も3人でお弁当食べてもいいかな?」
 美智子は美桜の方をちらっと見た。一応、美桜の意向を聞いてからということらしい。
「私は……、別にかまわないわよ……」
 美桜は美智子との2人だけのお昼休みに、誰にも入ってきてほしくなかったが、自分にそんなことを言う権利はないので、こう言うしかなかった。
「ま、私も別にいいけど」
 美智子も美桜に気を遣ってか、控えめに同意した。
「本当、ありがとう」
 2人ともあまり積極的な同意は得られなかったが、明日の約束を取りつけたことだけでも希美は満足だった。

「ねぇ、明日の昼休み、本当によかった?」
 その日の放課後、美智子は廊下を歩きながら、美桜に明日のことを尋ねた。希美は部活に行って今はいない。
「よかったって?」
 美桜はさも意外そうに装ったが、お昼休みからそのことがずっと気にかかっていた。
「嫌だったら言っていいのよ。私、佐藤さんに断るから」
 美桜は美智子の気遣いはうれしかったが、自分のために美智子が我慢しているとしたら心苦しい。
「内田さんは、どう……?」
 自分では嫌だとはっきり言えないので、美桜は美智子に決めさせようした。そんな自分がずるいと思う。
「そうねぇ、悪い人じゃないとは思うんだけど……」
 美智子は考えるふりをして、例の質問をぶつける間合いを計った。
「ただ、中学のとき、美桜と何かあったのかなぁーと思って」
 美智子は美桜を横目で見ながら反応をうかがった。きっとあたふたしてうろたえるだろうと思ったが、美智子の予想に反して、美桜は以外にも落ち着いて答えた。
「本当になんでもないのよ。ただ、佐藤さんは違うクラスだったんだけど、よく私のクラスに遊びに来て……」
「遊びに来て?」
「その……、友達としゃべっていくんだけど、私とよく目が合うっていうか……。これは私の思い過ごしだと思うんだけど、気がついたら佐藤さんが私の方を見ていることがよくあって、それで私も意識してしまうっていうか……」
(どういう意味?)
 美智子は美桜の真意を測りかねた。何か下手な恋愛小説を読んでいるような気分だ。
「それは、つまり、佐藤さんが美桜のことを好きってこと?」
「そ、そうじゃないよ! そういうんじゃなくって!」
 美桜は顔を真っ赤にして否定した。美桜がこんなに大きな声を出すのを美智子は初めて聞いた。
「じゃあ、自分のクラスに友達がいなかったとか?」
「わからないけど、ほぼ毎日来てたから」
「毎日?」
「ええ」
 いくらほかのクラスに仲のいい友達がいたとしても、毎日は多すぎる。自分のクラスでいじめでも受けていたのだろうか? しかし、今日話した感じではとてもそんな風には見えない。
「あの……、佐藤さんとは、その……、どういうきっかけで、お昼ご飯を……」
 美桜も自分の質問を恐る恐る美智子にぶつけてみた。
「ああ、私が独りでお弁当食べようとしたら、佐藤さんがやってきて、一緒に食べないって誘われて。ちょっとびっくりしたけど、あっちも独りだったし、断る理由もなかったから」
 美智子の回答はごく自然なものだった。希美の行動は少し唐突な感もあるが、不自然というほどでもない。
「それより、明日どうする?」
「私はかまわないわ……」
 美桜が無理をしているのは、美智子にも十分わかっていた。きっと自分に気を遣っているのだろう。本当は佐藤さんと一緒にお昼ご飯を食べたくないのかもしれない。しかし、一方的に佐藤さんをのけ者にするのはフェアじゃない気がするし、後味も悪い。もう少し様子を見てもいいと思う。もしかしたら、美桜だって佐藤さんと友達になれるかもしれない。
「じゃあ、明日も3人でお昼を食べるということで」
「うん……」
 明日の作戦会議はこれで終わり、2人はいつもどおり校門で別れた。

第4章 ウサミミは苦手です

「今度の日曜日、3人で遊園地に行こうよ!」
 金曜日のお昼休みに、希美は何の前触れもなく、突然自分の計画を発表した。それは3人で一緒にお昼を食べるようになってから、まだ3日目のことだった。
 確かにこの3日間は一応仲がよさそうにしていたし、希美に対する美桜の警戒心もだいぶ薄らいできた。しかし、お互いにまだ知らない部分もあるし、腹の探り合いみたいなところもある。それがいきなり遊園地である。そもそも美桜と美智子でさえ、休日に一緒に出かけたことは1度もない。この希美のあまりに唐突な提案に、2人は二の句が継げなかった。
「何か予定ある?」
 希美は空気が読めないのか、それともあえて無視しているのか、2人が戸惑っていることなど気にする様子はなく、どんどん話を進めていく。
「いや……、特にないけど……」
 美智子は美桜にそっと目配せした。普段はハキハキしている美智子もさすがに歯切れが悪い。
「私も特にないわ……」
 本音は行きたくないのだが、気の弱い美桜に、相手の要求を断るという選択肢はない。
「よかった。じゃあ、朝7時に陽向台の駅前に集合ね」
「早っ!」
「当然だよ。開門前に行って並ばなきゃ。こういうのはスタートダッシュが肝心なんだよ」
 人気のアトラクションは当然混むので、最初にお目当てのアトラクションにすぐ乗っていしまうのが、この場合の常套(じょうとう)手段だ。
「私ムリ。ここまで1時間かかるもん。ていうか、まずどこの遊園地に行くのよ」
「どこって、稲城山(いなぎやま)に決まってるじゃん」
 稲城山とは、稲城山ファミリーランドという、学校の最寄り駅である陽向台駅から、電車に乗って30分ほどで行ける、地元に人気のローカルな遊園地である。ローカルと言っても、ジェットコースターや観覧車やお化け屋敷など、定番のアトラクションは一通りそろっている。さらに、サリーとルーシーというウサギのマスコットがいて、入り口でみんなを出迎えてくれるサービスまである。
 集合時間は美智子の抗議で8時に改められた。希美は不満そうだったが、その代わり集合までに朝ご飯を済ませてくるように2人に厳命した。希美が言うには、外で朝ご飯を悠長に食べている余裕はないそうだ。それから希美は、事前に用意していた園内マップを机の上に広げて、アトラクションの乗る順番から、お昼を食べるレストランまで事細かに指定した。よほど前から準備していたのだろう。希美はお弁当を食べるのも忘れて、2人にはお弁当を食べる暇さえ与えず、自分の計画を披露し続け、2人を唖然(あぜん)とさせた。
「あ、そうだ、土曜日にフリーパス買っておいて。私の分も」
「えーっ、佐藤さんは行かないの?」
「私、土曜日、部活だから。お金は日曜日に渡すね」
「あの……、もうお昼休みが……」
「わっ、もうこんな時間だよ」
 気がつけば昼休み終了5分前である。3人は慌ててお弁当をかきこんだ。

「それにしても、いきなり遊園地とはね」
 今日の放課後も、美桜と美智子が一緒に帰り、陸上部の希美は校庭のトラックを飽きもせずぐるぐる走り回っている。こんな単調な練習の何がおもしろいのだろうか? スポーツの経験がない2人には理解不能だった。
「美桜は本当に大丈夫なの?」
 美智子は美桜が無理をして希美に付き合わされているのはわかっていた。もっとも、今回に関しては自分自身もそうなのだが。
「私は大丈夫よ。でも、ジェットコースターとかはちょっと……」
 確かに美桜がジェットコースターでテンションが上がるタイプには見えない。それに希美の立てた計画は、稲城山ファミリーランドの中でも過激なアトラクションばかりで、さすがにこれでは身が持たない。
「私、稲城山のこと調べて、もうちょっと考えてみるよ。美桜も乗りたいものがあったら言って。日曜日、3人で決めようよ」
 すべて希美の趣味で決められてはたまらない。どうも希美は夢中になると周りが見えなくなるきらいがある。今日も美桜と美智子はまだ遊園地に行くとは一言も言っていないのに、勝手に話を進められてしまった。そんな希美が自分たちの意見に耳を貸すだろうか?
 いつものように校門のところで美智子と別れたあと、美桜は独りで下校しながら日曜日のことを考えていた。
(稲城山か……。いつ以来だろう。小学1年生のときに親と行ったっけ。友達と行くなんて初めてだな。何着ていけばいいんだろう。駅前に8時か。日曜日は時間ギリギリに行こう)
 集合時間ギリギリに行くのは、美桜がよく使う手だ。集合場所で誰かと2人きりにならないようにするための、美桜の処世術である。美智子にはだいぶ慣れてきたのでまだいいのだが、希美と2人きりになる状況だけは、なんとしても避けなければならない。
(日曜日はどうなるんだろう? まったく想像がつかない……)

                  *     *     *

「あっ、美桜ちゃーん!」
 日曜日の朝、ついに遊園地に行く日がやって来た。美桜はあまり気が進まないまま、陽向台駅の改札の前に8時ちょうどに着いた。計算どおりだ。そして、計算外だったのは、そこにいたのは希美1人で、美智子の姿がどこにも見えなかったことである。
「おはよう、美桜ちゃん」
 希美ははにかみながら、美桜に目いっぱいの笑顔であいさつした。中学生のときと比べたら女の子らしくなったとはいえ、私服でスカートをはいていない希美は、まるで男の子のように見える。その姿に美桜は一瞬ドキッとした。もし男の子とデートの待ち合わせをしたら、きっとこんな感じなのかもしれない。
「お、おはようございます。お待たせしてすみません……」
「ううん、私も今来たところだから」
 困ったことになった。希美と2人きりの状況だけは絶対に避けたかったのに、1番恐れていたことが現実になってしまった。美桜はもう1度辺りを見回してみたが、やはり美智子は来ていない。簡単にスルーしてしまったが、さっき希美に「美桜ちゃん」って言われたような……。
「あの……、内田さんは、まだ来てないんですか?」
 美桜は思い切って希美に話しかけてみた。美桜としてはかなり大胆な行動だ。
「うん、ウッチーのやつ遅刻だな」
(ウッチー?)
 「ウッチー」とは、どうやら美智子のことらしい。自分のことも美智子のことも、いつの間にかあだ名で呼んでいる。美桜は希美との距離感がわからなくなってきた。
 自分は希美のことを何と呼べばいいのだろうか? 早速会話に詰まってしまった。こういうときはスマホを見るに限る。美桜は自分のバッグからスマホを取り出すと、美智子からメールが来ていた。10分遅れるとある。
「内田さん、10分遅れるって」
「わかった」
 会話が続かない。何かにせき立てられるような焦燥感と、2人の間に流れる微妙な空気に、美桜はいたたまれなくなった。希美は自分と2人きりの状況をどう感じているのだろうか?
 それにしても、見れば見るほど希美は男の子にしか見えない。背も自分より10センチは高い。きっと男子だったら相当にモテるだろう。美桜は思わず見とれてしまった。
(内田さん、早く来ないかなぁ……)
 時計ばかりが気になる。8時を5分過ぎた。あと5分の辛抱だ。1秒1秒が異様に長く感じられる。
「美桜ちゃん、その服かわいいね」
「あ、ありがとう……」
 あまりファッションに自信のない美桜は、服を褒められると照れてしまう。みんながどんな服を着てくるのかわからないので、1番お気に入りの服を選んでしまった。希美に見透かされているような気がして恥ずかしい。
 希美はパーカーとジーパンのラフな格好で、特に着飾っているわけではないのに、背が高くてスタイルもいいので、見栄えよく映る。背が低くてパッとしない自分とは大違いだ。
 自己紹介で部活は陸上と言っていた。同じ中学校だったのに知らなかったが、きっとそのときからやっているのだろう。無駄なぜい肉がなく、鍛えられているのが服の上からでもわかる。適度に日焼けした顔と、しなやかに伸びた手足は、俊敏なネコ科の動物を思わせた。
(佐藤さんって、こんなにきれいな人だったんだ)
 希美は美智子が来るのを待っている間、道路と歩道を隔てるブロックを平均台に見立てて、バランスを取りながら右へ左へとウロウロしている。じっとしているのが苦手なのだろうか? それとも、自分といるのが気まずいので、あてもなくその辺をぶらついているのだろうか?
 やがて約束の時間に10分遅れて、美智子が改札の向こうに現れた。
「美桜ちゃん、行こう」
「うん」
 3人は改札で合流して、すぐに来た遊園地行きの電車に飛び乗った。
「ゴメン、遅れて」
「あーあ、今ごろみんな並んでるな。計画が台無し」
「そのことなんだけど、佐藤さんの乗りたいやつだけじゃなくて、私たちの乗りたいやつも入れてほしいんだけど」
「何に乗りたいの?」
 希美は学校で見せた園内マップを広げた。
「私は『サリーのウェルカムハウス』で一緒に写真を撮って、そのあとステージショーを見て、お昼のあとはパレードを見たいわ」
「あー……」
 美智子の提案は希美に何の興味も抱かせなかった。すべて子供向けだし、そもそも乗り物ですらない。
「じゃ、じゃあ、美桜ちゃんは?」
 美智子の意見を聞いていたら、アトラクションに乗る回数が大幅に減ってしまう。希美はわらにもすがる思いで美桜に尋ねた。
「私は観覧車とメリーゴーランドとティーカップかな」
 希美は失望した。美桜ちゃんっておとなしい顔してるけど、実はジェットコースター好きというのを期待したのだが、そんなことはなかった。美桜と一緒にメリーゴーランドに乗るのも楽しいかもしれないが、もっと刺激が欲しいのだ。
「やっぱ、定番よね」
 美智子は美桜の提案に賛成した。その後、遊園地に着くまで、3人は電車の中で計画を練り直した。
 状況は2対1で、美桜と美智子の意見が大幅に取り入れられ、希美は泣く泣く譲歩せざるをえなかった。しかし、稲城山ファミリーランド最大の売りであるジェットコースターだけは、希美は頑として譲らなかった。
 そこで、午前中は美智子の行きたいところに行き、お昼を食べたあとジェットコースターに乗り、その後は美桜の行きたいところに行くことに決まった。希美が乗りたかったアトラクションは、待ち時間が長すぎるという理由で、ジェットコースター以外は美智子にすべて却下された。稲城山ファミリーランドはローカルな遊園地なので、ファストパスのような便利なものはない。
 そうと決まれば、あとは遊園地に着いてからのお楽しみだ。話題は自然、希美の部活の話に移っていった。希美は中学3年生のとき、200メートルで県大会3位の実績があった。
「すごいじゃん。全国とかいったの?」
「いやー、全国はなかなか厳しいですわ」
 希美が言うには、全国大会に出場するためには標準記録というものがあり、そのタイムを突破しない限り、いくら県大会の順位がよくても全国大会には出られないそうだ。
「陸上で推薦とかもらえなかったの?」
「もらえたよ」
「じゃあ、何で美樹本にしたの?」
「えーと……、それは……、何でだろう……、近いから? そう、近いからだよ」
 希美はなぜか煮え切らない返事をした。美樹本学園は吹奏楽部が少し有名なくらいで、スポーツとは無縁の学校だ。陸上がやりたいのなら、推薦でなくてもほかの選択肢はいくらでもあったはずだ。ただ近いというだけで美樹本学園を選んだというのは不可解だ。
 美桜は同じ中学校にいながら、希美が県大会で3位に入るほどのすごい選手だとは知らなかった。背が高くて、かっこよくて、足も速い。すべて自分とは別次元である。美桜は希美を見る目が明らかに違ってきた。
「インターハイとか目指してるわけ?」
「いや、うちの部、そこまで熱心じゃないから。顧問の先生も素人だし、まずは県大会かな」
 美樹本学園の陸上部は、その存在意義が疑われるほど弱体で、ほぼ大会に参加することだけが目的の部だ。顧問の先生は形だけでコーチなどは存在しないし、OBが指導に来ることもない。もっとも、これは陸上部に限ったことではなく、ほかの運動部も似たりよったりで、美樹本学園は伝統的に文化部の方が活発で、わざわざ美樹本学園に来て運動部に入ろうと思う人はまれである。
「ウッチーは何かやらないの?」
「(ウッチー? 私のこと?)私はパス。面倒くさいし」
「美桜ちゃんは?」
「私、運動苦手だし、そういうのはちょっと……」
「ふーん、そっか」
 少し会話が止まった。美智子はこの好機を捉えて放さなかった。
「そういえば、2人って同じ中学なのよね?」
 急に思い出したようなふりをして、美智子は2人に尋ねた。
「そ、そうだけど……」
 希美はなるべく自然に答えたつもりだったが、どこかぎこちない。
「ほかに同じ中学の人っているの?」
「さ、さぁ、どうだろう? 気にしたことないなー、ハハハハハッ」
 希美の日焼けした顔が、心なしかうっすらと赤くなる。車内はそれほど熱くもないのに、希美はしきりに額の汗をぬぐっている。
 美智子には希美のこの反応が気になる。どうして美桜のことになると、こうも恥ずかしがるのだろうか? それに、美桜と同じ中学校だったことを妙に気にしている。実はほかの人には内緒で、2人は示し合わせてこの学校に入ったとか? ありえない話ではないが、美桜の話では希美のことを顔は知っていたけど、名前は知らなかったと言っていた。うそをついている可能性もあるが、美桜がそんな器用なうそがつけるとは思えない。となると……。
(そうか、そういうことか。確かにこれなら希美が私に近づいてきた理由もわかる。フフッ、これは楽しくなってきたかも)
 美智子は希美を見て、含みのある笑みを浮かべた。それは「あなたのことはなんでも知っているのよ」と言わんばかりだった。希美は背筋に寒いものを感じた。
「そ、そうだ、美桜ちゃんって、勉強得意だよね」
 希美はこれ以上、美智子に深入りされないように話題を変えた。美智子も今はこれ以上追求するつもりはないので、適当に希美に合わせておいた。
 さぁ、楽しい遊園地はもう目の前だ。美智子は胸がワクワクして、興奮が抑えきれなくなってきた。遊園地に着いたらまずグッズショップに行って、|ア《・》|レ《・》をゲットしなければ。|ア《・》|レ《・》がなければ始まらない。遊園地にはあまり気乗りしないような態度を取っていた美智子だが、実は去年まで、稲城山ファミリーランドに2ヵ月に1回は通うほど、サリーとルーシーのファンだった。
 遊園地前の駅から10分歩いて、美桜たちが稲城山ファミリーランドに着いたときには、遊園地はすでに開園しており、大勢の客が人気アトラクションを目指して走っていったあとだった。どうやら混雑により、開園時間を30分早めたらしい。
「まあ、私たちはのんびり回りましょう」
 サリーのウェルカムハウスは、この時間ならすいているはずだ。慌てなくても並ぶことはない。
「じゃあ、早く写真撮ってこようよ」
 希美は美智子の行きたいところをさっさと終わらせて、少しでも早くジェットコースターに乗るつもりだ。
「その前にグッズショップに寄らなきゃ」
「えーっ!? そんなの帰りでいいじゃん」
「ダメよ。|ア《・》|レ《・》を買わなきゃ始まらないでしょ」
「|ア《・》|レ《・》?」
 「|ア《・》|レ《・》」の意味がわからないまま、美智子は入り口近くのグッズショップに、2人をぐいぐい引っ張っていった。もはや主導権は希美ではなく美智子が握っている。「ラビットハッチ」と書かれた建物が、そのグッズショップだ。まだ開園したばかりなので、客はそれほど多くない。美智子はキャラクターグッズなどには目もくれず、目立つところに山積みにされている、あるグッズへ一目散に向かった。
「これよ! これ!」
 美智子が言っていた「|ア《・》|レ《・》」とは、頭の上につけるウサミミのカチューシャだった。マスコットキャラクターがウサギである稲城山ファミリーランドでは、ウサミミをつけてアトラクションを回るのが定番なのである。
「どう美桜、似合う?」
 美智子は両耳がピンと立ったカチューシャをつけて、得意げに美桜に尋ねた。
「とても似合うわ……」
 美智子の趣味があまりにも意外すぎて、美桜はどう反応していいかわからなかった。
「えーと、美桜はこれね」
「えっ! 私も?」
 美智子が取り出したのは、ロップイヤーと呼ばれるタレミミのカチューシャだった。美智子は嫌がる美桜を無視して、強引に頭に取りつけた。
「プッ、美桜、似合いすぎ……」
 美桜の顔がみるみるうちに赤くなっていった。高校生にもなってロップイヤーは恥ずかしすぎる。元々背も低く童顔の美桜は、ロップイヤーをつけたら小学生にしか見えない。
「か、かわいいーっ!」
 美桜のウサミミを見た希美が思わず叫んでしまったので、中にいた客がいっせいに美桜の方を振り向いた。
「ちょ、ちょっと……」
 知らない人に注目されて、美桜の顔がさらに赤くなった。「あの子かわいい」とほかの客からも言われてしまった。
「美桜、こっち向いて」
 美智子は恥ずかしがる美桜をスマホで写真に収めた。恥ずかしそうにしている仕草が余計かわいらしい。
「よーし、私も1つ買うよ!」
「あ、あの……」
 美桜は希美を止めようとしたが無駄だった。希美は左耳が折れているウサミミをつけてみた。
「どう?」
「おっ、いいんじゃない」
 美智子と希美はウサミミですっかり意気投合してしまった。こうなると美桜はどうすることもできない。
「あ、あの……、このウサミミ、ずっとつけてないといけないのかしら?」
「大丈夫よ。ほら、3人でつけてれば、そんなに恥ずかしくないでしょ?」
 確かに美智子の言うとおり、みんなでつけていれば、そこまで恥ずかしくないかもしれない。それによく見ると、グッズショップの中にも、ウサミミをつけている人が何人かいる。
「わかったわ……」
「じゃあ、早くウサミミ買って、サリーとルーシーと写真を撮りに行こう!」
「オー!」
「オー……」
 3人は「サリーのウェルカムハウス」へと向かった。その途中、すれ違う人という人が、みんな美桜のウサミミを見て、笑ったりほほ笑んだりした。美桜のロップイヤーがあまりにも似合いすぎて、みんなの注目の的になってしまった。美智子と希美は話に夢中で、そのことにまったく気づいていない。
(ものすごく見られてるんですけど……。やっぱり、恥ずかしい……)

 サリーとルーシーと一緒に写真を撮り、さらにステージショーを堪能した美智子はすっかり上機嫌だった。
「お腹すいたからご飯にしよう」
 まだ午前11時だ。今ならレストランはすいているだろう。3人は希美のおすすめのレストラン「サニーデイ」へ向かった。思ったとおりお客はまばらで、これならすぐお昼ご飯にありつけそうだ。
「ここのオムライスは絶品だよ」
「やっぱり稲城山といったら『サニーデイ』のオムライスよね」
 美智子と希美がいつの間にかすっかり打ち解けている。美桜は自分の知らないことで2人が盛り上がっているのを見て、ちょっと寂しい気がした。
 「サニーデイ」は街中でよく見かけるファミリーレストランと同じで、メニューもどこかで見たことのあるものばかりだ。2人は当然のようにオムライスを注文するので、美桜もオムライスを注文した。
 出てきたのは、見た目はごく普通のオムライスで、ケチャップライスを卵で包み、その上からさらにケチャップがたっぷりかけてある。今風というより昔からよくあるオムライスだ。
「相変わらずケチャップたっぷりね」
「美桜ちゃんも一口食べてみてよ」
 美桜がオムライスをスプーンですくうと、ケチャップで赤く染まったチキンライスが姿を現した。確かに美智子の言うとおり、ケチャップがふんだんに使われているようだ。美桜はおもむろに口に入れてみた。
「おいしい」
「でしょ? やっぱりオムライスはこうでなくっちゃ」
 希美はまるでオムライスを自分が作ったかのように自慢げに語った。
(うん、確かにおいしい。チキンライスはケチャップ多めの分、しっかり味がついていて、でも決してしつこくない)
 美桜はもう一口食べてみた。
(卵は中がトロトロで、火加減も完璧だ)
 希美はオムライスに思い入れがあるのか、今どきのオムライスに不満があるらしく、さっきからしきりに熱弁を振るっている。
「ホワイトソースとかデミグラスソースのかかったやつなんて、オムライスとは言えないね。オムライスはケチャップに限るのです。ね、美桜ちゃんもそう思うでしょ?」
「へっ?」
 ただ1人黙々とオムライスを食べていた美桜は、急に希美に話を振られてわれに返った。
「プッ、美桜、ウサミミとオムライス、似合いすぎ」
「フフフッ、美桜ちゃんもオムライス好きなんだね」
「いえ、そういうわけじゃ」
「口の周りにケチャップついてるよ」
「うわーっ!」
 ロップイヤーをつけたまま、わき目も振らずにオムライスをほおばる姿は、誰がどう見ても小学生そのものだった。確かにオムライスはおいしかったが、2人の会話が耳に入らないほど夢中になっていたとは――。
(また笑われてしまった……。しかも今度は佐藤さんにまで……)
 お昼を食べ終わった3人は、レストラン「サニーデイ」をあとにした。
「さぁ、お腹も膨れたし、ジェットコースターに並ぼう!」
 いよいよ自分の出番が回ってきた。希美のテンションはいやが上にも上がってくる。
「あ、そのことなんだけど、私、パレード見たいから、ジェットコースターは2人で行ってきてよ」
「えっ?」
 美桜にとって美智子の言葉は、青天の霹靂(へきれき)、まさかの裏切りである。
「えーっ、ウッチー乗らないのー?」
「はい。なので、ジェットコースターは2人で行ってきてください」
「な、な、何で、内田さんは行かないの?」
 美桜は慌てふためいて、美智子に詰め寄った。よりによって、ジェットコースターで希美と2人きりにするとは、どういう了見だろうか? 美桜には美智子の意図がまったくわからなかった。
「まあまあ、2人で楽しんできてよ」
 何か含みのある言い方だ。美智子の意地の悪い視線が、美桜と希美の間を行ったり来たりする。
「もう、しょうがないなー。じゃあ、美桜ちゃん、2人で行こう」
 言葉とは裏腹に、希美はむしろうれしそうだった。
「いや……、私もどちらかというと、パレードの方が……」
「さぁ、行こう、行こう」
 美桜の言うことが聞こえないのか、それとも聞こえないふりをしているのか、希美は美桜の手をつかんで、引っ張るようにジェットコースター乗り場へ向かった。
 突然希美に手を握られて、美桜は心臓がドキドキした。希美の手の感触が美桜の手のひらを通して直に伝わってくる。希美の手は汗でしっとりぬれていた。自然な風を装ってはいるが、もしかしたら希美も緊張しているのかもしれない。
 希美があまりに早く引っ張っていくので、運動が苦手な美桜は息が切れて苦しくなってきた。希美は後ろを振り向きもせず、真っすぐ前を向いたまま、美桜の手を引いてどんどん進んでいった。美桜からは希美の表情をうかがうことができない。希美は今、どんな顔をしているのだろうか?

「行ってらっしゃーい」
 美智子は手を振って、2人の姿が見えなくなるまで見送った。
(さて、邪魔者は消えたし、ジェットコースターで美桜と希美の2人きり。何が起こるのやら。フフッ)
 美智子はジェットコースターに乗る2人の姿を想像して、意地悪な笑みを浮かべた。
(美桜、今ごろ困ってるだろうなー。まあ、これもあの子にとってはいい経験よ。さっ、パレードが始まる)
 すでにパレードの通る道には、幾重にも人だかりができていた。パレードといっても、それほど大掛かりなものではなく、ローカルな遊園地のこぢんまりとしたパレードだ。
 美智子はパレードを見たかったのも事実だが、それ以上に美桜と希美を2人きりにしたらどうなるか、それを試してみたかった。希美もそれを望んでいたはずだ。事実、希美はうれしそうに美桜の手を引いて、あっという間にいなくなった。2人の間にきっと何かが起こるに違いない。帰ってきたら美桜にたっぷり話を聞いてみよう。楽しい話が聞けるはずだ。
(私がジェットコースターに行かないって言ったら、美桜、泣きそうな顔してた。フフッ)
 美智子は美桜の困った顔を思い出すと、もっと意地悪したくなる衝動に駆られた。
(私って、ちょっとサディスティックなのかしら)

第5章 ジェットコースターは苦手です

「こ、これに乗るの……?」
 ジェットコースター乗り場に着いた美桜は、空高くそびえるレールと、時折聞こえてくる乗客の絶叫で足がすくんだ。稲城山ファミリーランドがローカルな遊園地といっても、このジェットコースターだけは別格だ。地形の高低差を生かした独特のレイアウトは、マニアの間でも評価が高く、かつては日本最高速度を誇っていた由緒あるジェットコースターである。
「大丈夫だよ。あっという間だから。それに私がついてるし」
 美桜を励まそうと希美は少し背伸びをして、まるで美桜のお姉さんにでもなったような口ぶりで、思わず「私がついている」なんて言ってしまった。
 かわいくて頼りない美桜を見ていると、希美に母性本能のようなものが働いたとしても不思議ではない。希美は男の子のような出で立ちをしているが、その外見に反して意外と女性的な面も併せ持っている。部活をやっているにもかかわらず、胸も美桜や美智子よりも発達しているし、性格は温和な上におしゃべり好きで、ちょっとがさつなところもあるが、内面は女の子そのものだ。
「美桜ちゃん、ジェットコースター乗るのいつ以来?」
「私、こういうの乗ったことないので……」
「えっ? ジェットコースター初めてなの?」
「ええ……」
「ジェットコースターってね、真っ逆さまに落ちたり、天地がひっくり返ったりして、普段体験できないことが体験できて、胸がスカッとするんだ」
「ハァ……」
 確かに普通では体験できないスリルを味わうことはできるだろう。しかし、最後の「胸がスカッとする」というのはどうも信じがたい。
「美桜ちゃん、今日はありがとね」
「えっ?」
 急に改まってお礼を言われて、美桜は何のことかわからずキョトンとしていた。
「無理やり誘ったのに付き合ってくれて。びっくりしたでしょ? いきなり遊園地だなんて。自分でもちょっと強引かなーって。ハハハッ」
 希美は照れ隠しに無理に笑った。美桜にはその表情がなんとなく寂しそうに映った。
「本当はもし断られたらどうしようって、すごく怖かったんだ。だから、美桜ちゃんとウッチーがしぶしぶでも一緒に来てくれて、とてもうれしかった。だから、ありがとう」
「いえ、そんなことは……」
 希美は何か思うところがあるらしく、感情を悟られたくないのか、美桜に背を向けてしばらく黙ってしまった。
(どうしたんだろう? 急に……)
 会話が苦手な美桜でも、希美にそんな風にされると不安になる。何か声をかけた方がいいのだろうか? しかし、希美の背中は美桜に話しかけるなと言っているような気がする。
「美桜ちゃん……、私ね……」
 そう言って美桜の方へ振り向いた希美の目は、心なしか潤んでいるように見えた。希美に見つめられて、美桜はいつもならすぐにそらしてしまう視線を、今はそらすことができなかった。
「中学のときからずっと……」
(ずっと?)
 美桜は夢見心地で希美の言うことをまるで他人事のように聞いていた。熱に浮かされたように頭がボーっとして何も考えられない。
 希美はうつむいて何かをためらっている。
「美桜ちゃんと……」
(私と……?)
「一緒にジェットコースターに乗るのが夢だったんだよ!」
「…………は?」
 今、なんて言ったのかしら? 一緒にジェットコースターに乗るのが夢? 確かにそう言われたような気がするけど、もしかしたら聞き間違えたのかもしれない。もう1度聞いてみようか?
「美桜ちゃんとね、いつか一緒にジェットコースターに乗れたらなーって、中学のときからずっと思ってたんだよねー」
 希美はさっきまでの思いつめたような表情はすっかり影を潜め、いつもの調子に戻っていた。
「あ、あの……、それ、どういう意味かしら?」
 美桜は寝ている途中で起こされて、今までのことがすべて夢だったのだと悟ったときのような味気なさを感じた。
「美桜ちゃんって、ほら、小さくてかわいいから、こんなかわいい子とジェットコースターに乗ったら楽しそうだなーって」
「……それだけ?」
「はい」
 美桜は全身の力が抜けて、どっと疲れが出た。自分は希美に対して何を期待しているのだろうか? こうなることを最も恐れていたはずなのに、いざなってみると、嫌どころか希美の言葉を待ち望んでさえいた。もしあのとき、希美が自分の期待するような言葉を発していたら、いったいどうなっていたのだろうか? 考えるだけでも顔から火が出そうだ。自分では希美に対してそんな感情を抱いているとは思っていなかったが、今となっては自分が何を考えているのかわからなくなってきた。
「あと、もうちょっとだね」
「何が?」
「何がって、ジェットコースターが」
「えっ?」
 美桜が気づかないうちに、列はジェットコースター乗り場の入り口まで順調に進んでいた。建物の中は狭いので、一度入ったらあと戻りはできない。やめるなら今しかないが、希美は自分とジェットコースターに乗るのが夢だと言っていた。いまさらここでやめるとは言えない。あっという間に終わるという希美の言葉を今は信じよう。
 ジェットコースターが乗り場に着くたびに、列がどんどん前に進んでいく。それとともに乗客の絶叫や、レールのきしむ音がどんどん大きくなり、美桜の緊張は次第に増していった。
「佐藤さん、どうしよう……。トイレに行きたい……」
「我慢、我慢。あ、それと、私のこと希美でいいよ。私も美桜ちゃんって呼んじゃってるし」
「今、ここで言いますか? 生きて帰って来れたらそう呼びます」
 ジェットコースターが到着して、乗客たちが降りてきた。すれ違う乗客はみんな一様に興奮して、満足げな表情を浮かべている。係の人が人数を数えながら並んでいる人をジェットコースターに誘導する。ジェットコースターは28人乗りだ。美桜の手前でちょうと満員になった。
「やったー! 美桜ちゃん、1番前に乗れるよ!」
「1番前!!」
 人の気も知らないで、希美は無邪気に喜んでいる。係の人が美桜にウサミミのカチューシャを取るように注意した。そんなものをつけていることさえ忘れていた。ジェットコースターって脱線したりしないのだろうか。もし1番高いところで止まったりしたら……。美桜にありとあらゆる不安が押し寄せた。
「わ、私、やっぱり、ムリ……」
 膝が震えて力が入らず、何かに捕まっていなければ立っていられないほど緊張して、気が遠くなりそうだ。
「大丈夫だって。ほら」
 希美は美桜の震える手をギュッと握りしめた。美桜の小さな手が包みこまれるように、希美の手は大きくて暖かかった。
「ね、私がついてるって言ったでしょ」
 今までの表情とは明らかに違い、美桜を見つめる希美の目は真剣で、美桜を捉えて離さなかった。
「それは……、どういう意味……?」
 美桜の問いに希美は答えなかった。やがてジェットコースターが戻ってくると、希美は美桜の手を引いてジェットコースターの1番前の席に乗りこんだ。発車の合図とともに、ジェットコースターはゆっくりと確実に頂上まで昇っていく。希美は興奮を抑えきれないようで、心から今の状況を楽しんでいた。美桜の震えはいつの間にか止まっていた。
(私、希美ちゃんと一緒なら怖くないかも……)
 ジェットコースターから見える青い空は、どこまでも澄んでいて気持ちがよかった。このまま希美と2人で天国まで昇っていけそうな、そんな気がした。
 ジェットコースターが不意に止まった。
「行くよ! 美桜ちゃん!」
「はい?」
 頂点に到達したジェットコースターは、ゆっくりと下に向きを変え、美桜の視界から青空が消えた。そして、そのまま一気にスピードを上げて、ジェットコースターは地面に向かって、真っ逆さまに落ちていった――。

 ジェットコースターを乗り終えた美桜が、希美に肩を抱きかかえられながら出口に現れた。
「美桜、大丈夫?」
 出口で待っていた美智子が半分心配そうに、半分おもしろそうに声をかけた。美桜はこの前の100メートル走のときと同じように、顔から血の気が引き、まるで魂を抜かれたように顔面蒼白(そうはく)だった。
「ちょっと、座らせて……」
 手近なベンチが空いていたので、3人はそこに腰を下ろした。
「美桜、何か飲み物買ってこようか?」
「いや……、いい……」
 ジェットコースターは美桜には過激すぎたようだ。美桜はまだ頭がグラグラして、しばらく立ち上がれそうにない。
「あとは美桜ちゃんの乗りたいやつに乗るだけだね」
「確か観覧車とメリーゴーランドとコーヒーカップよね」
「いや……、回るやつは……、もういい……」
 美桜はぐったりとして、希美の肩にもたれかかっている。迷惑なのはわかっているが、体が言うことを聞かないのでどうしようもない。触れ合う肩を通して、服の上からでも希美の体温が伝わってくる。暖かくて気持ちがいい。ずっとこのままでいたい気がする。希美も美桜の肩にそっと手を置いて、2人は寄り添うように座っている。
 この様子を見た美智子は驚いた。
(な、何、この2人だけの世界。入る余地がない。美桜と希美の距離感ってこんなに近かったっけ? 2人の間にいったい何が? ま、まさか……)

                  *     *     *

「美桜ちゃん、大丈夫?」
「佐藤さん、私もうダメ……。歩けないわ……」
「仕方ないな、こっちへおいで」
「ダメよ……、いけないわ、佐藤さん……」
「希美って呼んで」
「希美……」
「美桜……」

                  *     *     *

「ダメーー!!」
 美智子は立ち上がって、思わず叫んだ。
「ど、どうしたの? ウッチー」
「あ、いや……、なんでも……」
 われに返った美智子はベンチに座り直した。
(ものすごい妄想をしてしまった。自分でもびっくり。まさかそんなことないと思うけど……)
 美智子は自分で希美をけしかけておいて無責任な気もしたが、まさか2人の間がここまで急速に接近するとは思わなかった。
(どうしよう……。ちょっと悪ふざけが過ぎたかも……)
 美桜はまだぐったりして、希美に頼り切っている。希美は希美で今の状況に満足しているのか、しばらくこのままでいたいらしい。別に嫉妬しているわけではないが、自分だけが蚊帳の外に置かれたみたいで、美智子はおもしろくなかった。
 しばらくして、ようやく美桜の体調も回復してきたので、3人は観覧車に乗ることにした。観覧車なら美桜も体を休めながら楽しむことができる。
 ここで美智子は自分の疑念を確かめるために、ある実験を思いついた。観覧車のゴンドラは4人乗りで、座席は2人ずつ向かい合って座るようになっている。そこで観覧車に乗るときに、自分と希美が先に乗って向かい合うように座り、美桜がどちらの方に座るのか決めさせるのである。
 今までであれば、美桜は美智子の隣に座るはずである。美智子も当然そのことを期待していた。しかし、今は自信が揺らいでいる。さっき美桜と希美が親密に見えたのは、単に美桜の具合が悪かったから、そう思いたかった。友達を試すようなまねはしたくないが、美智子は美桜の気持ちを確かめずにはいられなかった。
 美桜はいつも2人のあとからついてくるので、実験は難なくできるだろう。まず希美がゴンドラに乗り、そのあとに美智子が希美と向き合うように座った。これでお膳立ては整った。最後にゴンドラに乗った美桜は、この状況を見て一瞬足を止めた。どちらに座ればよいのか少し考えたようだ。それから美桜は、特に躊躇(ちゅうちょ)することなく、ごく自然に美智子の隣に腰を下ろした。
(美桜っ! やっぱり私を選んでくれたのね。それでこそ親友よ!)
 美智子は美桜をまぶしそうに見つめた。希美に対する優越感で、いけないと思いつつもニヤニヤが止まらない。
(私、また何か変なことを?)
 美桜は自分が笑われているのかと思って、自分の身なりを確認した。
(そうよ、あれは私の思い過ごし。だいたいそんなことあるはずないじゃない。あれは具合の悪い美桜を希美が介抱してただけ。そうに決まってるわ。フフン)
 安心したらのどが渇いてきた。美智子はカバンからペットボトルを取り出すと、水を口に含んだ。
「あの……、希美ちゃん……」
「ブゴッ! ゴホッ! ゴホッ!」
 美智子は飲みかけた水を吐き出してしまった。
「大丈夫? 内田さん」
「ウッチー、慌てるから」
 水が気管に入ってしまった。しかし、そんなことは問題ではない。
(今、佐藤さんのこと「希美ちゃん」って呼んだよね)
 美智子は口をパクパクさせながら、のどまで出かかった言葉を飲みこんだ。そんなことを言ったら希美に敗北を認めるようなものだし、それ以上に器が小さすぎる。
(いつからそんなに親密になったの? やっぱり、2人は……)
「ウッチー、大丈夫? 乗り物酔い?」
 さっきから挙動のおかしい美智子に、希美が心配そうに尋ねた。
「な、なんでもないわ。大丈夫よ、これくらい。フフフッ……」
 その後も美智子は、何か独り言をブツブツ言いながら、薄ら笑いを浮かべていた。その様子を見た美桜と希美は、わけがわからず顔を見合わせた。
 観覧車は1周するのに13分かかる。希美は上機嫌で人が聞いていようがいまいが、独りでしゃべり続けている。美智子は気乗りがしないのか、希美に適当な返事をして、心ここにあらずといった感じだ。美桜は希美のおしゃべりに付き合って、笑ったりうなずいたりしている。
「あれ、もう終わり?」
 3人は外の景色を見ることもなく、観覧車はあっという間に1周してしまった。
 美桜と美智子はもう乗りたいアトラクションはないということなので、少し早いが3人は帰ることにした。
「まだ、3時だよ。もったいないなー」
 日が暮れるまで1日中遊園地にいるつもりだった希美は、少しがっかりした。
「明日学校でしょ。佐藤さんは宿題やったの?」
「いや、やってないけど」
「それに私の家、遠いし」
「しょうがないなー」
 希美は文句を言いながら、遊園地のゲートをあとにした。
「また来ればいいでしょ」
「じゃあ、今度いつにする?」
「早すぎるわよ」
「フフフッ」
 美桜も2人の会話を聞いて、思わず笑ってしまった。ジェットコースターは大変だったが、今日は楽しかった。また3人で来られたらいいなと思う。
「美桜ちゃん、楽しかった?」
「ええ、ジェットコースター以外は」
「ああ……、そうですか……」
「どうする? もうジェットコースターには一緒に乗らないって」
「いいもん別に。独りで乗るから」
「美桜が隣にいないと寂しいんじゃない?」
 美智子は冗談めかして、希美に鎌をかけてみた。
「別に寂しくありません」
 希美は少し怒ったように言った。
「ごめんなさい。私がジェットコースターに乗れればいいんだけど」
 美桜は自分のせいで、希美が不機嫌になったのかと心配になった。
「ああ、いいんだよ。今日はあんまりアトラクションに乗れなかったから、今度来たときはもっとおとなしいやつにいっぱい乗ろうよ」
「うん」
 美桜は控えめに少し照れたような笑顔で答えた。その様子を横目で見ていた美智子は、希美の顔が少し赤くなったのを見逃さなかった。美桜も希美と話すとうれしそうにしている。ジェットコースターに乗ったのを境に、希美に対する美桜の態度が明らかに変わった。
 それに観覧車で美桜が希美のことを「希美ちゃん」と言ったのも気になる。美智子もさっき勢いで「希美」と言いかけたが、結局恥ずかしくて言えなかった。しかし、美桜は何のためらいもなく「希美ちゃん」と呼んでいた。あれほど人見知りする美桜が、急に希美と打ち解けるなんて、ちょっと考えられない。やはり自分がいない間に、2人に何かあったのだろうか? 美智子はますます疑念を深めた。
「ところで、美桜。そのウサミミ気に入った?」
「えっ? 何で?」
 美桜は美智子が何でそんなことを急に聞くのかわからなかった。
「美桜ちゃん、ウサミミつけて、そのまま電車に乗るつもり?」
「へっ!?」
 気がつけば、美智子も希美もいつの間にかウサミミのカチューシャを外していた。遊園地を出てもウサミミをつけているのは、周りを見渡しても美桜だけである。
「うわーっ!」
 美桜は慌ててカチューシャを外した。最初は恥ずかしかったウサミミが、自分でもつけているのに気がつかないくらい頭になじんでいた。
「2人とも気づいてたの?」
「いつ気づくかなーと思って」
「ウッチーって、結構、性格悪いよね」
「あんただって、気づいてたくせに」
「2人とも、意地悪……」
「ハハハハハ」
「ハハハハハ」

 陽向台駅に着くと、美智子を残して美桜と希美は電車を降りた。そして、改札で美桜と希美も別れて、それぞれの家路についた。
(今日は楽しかったなー。行く前は不安だったけど、行ってよかった。それに2人と前よりもっと仲よくなれたような気がする)
 美桜はバッグに大事にしまってあったウサミミのカチューシャを確かめた。
(また今度行くときのためにとっておこう)
 家に着くまであとわずかのところで、不意に美桜のスマートフォンが鳴った。バッグから慌てて取り出すと、電話してきたのは美智子だった。
「もしもし」
「美桜、今、時間ある?」
「ええ、大丈夫だけど」
「じゃあ、陽向台駅の改札の前で待っててよ。すぐそっち行くから」
「えっ? 帰ったんじゃなかったの?」
「次の駅で降りたの。あ、電車来たから。じゃあね」
 電話は一方的に切られてしまった。それにしても、今になっていったい何の用があるというのだろうか? 話があるのなら、こんな手の込んだことをしなくても、電車の中で直接話せばいいと思うのだが。
(2人きりでってことだろうか? 希美ちゃんに聞かれたくない話でもあるのかな?)
 美桜はまったく見当がつかなかったが、とにかく行ってみることにした。美桜が陽向台駅の改札に引き返すと、美智子はすでに改札の外で美桜を待っていた。
「ちょっとお茶に付き合ってよ」
「う、うん……」
 2人は駅前のファストフード店に入った。飲み物を買ってくるからと言って、美桜をおいて美智子はレジの前に並んだ。独り残された美桜は、だんだん不安になってきた。明日になれば学校で会えるというのに、わざわざ今呼び出すということは、よほどのことではないだろうか?
(何の話があるんだろう?)
 やがて美智子が飲み物を2人分持って戻ってきた。
「ゴメンね、こんなのしかおごれなくて。遊園地でお小遣い使い果たしちゃったから」
「私、払うよ」
「いいから、いいから」
 美智子は美桜にイチゴシェイクを渡すと、美桜と向かい合うように反対側のいすに座った。そして、謎の笑みを浮かべながら、しばらく黙ったまま美桜のことを観察していた。
(な、何だろう? いつもなら、一方的にしゃべってくるのに)
 美桜は美智子の真意を探ろうと、上目遣いに美智子の表情をうかがってみたが、美智子はただほほ笑んでいるだけで、結局何もわからなかった。
「で、何があったわけ?」
「――はい?」
 美桜は美智子の質問の意図がわからなかった。
「ジェットコースターで並んでる間に、佐藤さんと何かあったんでしょ?」
 イチゴシェイクを飲もうとカップを持ち上げた美桜の手が、ピタッと止まった。
「な、何のことかしら?」
「美桜、とぼけても無駄よ。何かあったことはわかってるの」
 美智子の口調は穏やかだが、目は笑っていない。
「いや、別に何もないけど……」
「美桜、私たち友達よね。隠し事はよくないわ」
 こんなときに友情を持ち出すのは卑怯(ひきょう)だと思うが、手段を選んでいる場合ではない。美智子はなおも畳みかけた。
「さぁ、白状なさい」
「あ、あの……」
 美桜が希美とジェットコースターに乗るまでの一部始終を白状するまで、さして時間はかからなかった。
「それだけ?」
 話を聞き終えた美智子は、拍子抜けしたように美桜に尋ねた。
「うん」
 美桜はジェットコースターに並んでいる間にあった希美との出来事を、恥ずかしい部分は適当にはしょりながら、美智子にかいつまんで話して聞かせた。ただし、ジェットコースターに乗る寸前のことは、美智子には伏せておいた。あのシーンはあまりにも生々しすぎて、今思い出してもドキドキする。美智子にいらぬ誤解を与えそうだ。
「美桜とジェットコースターに乗るのが夢?」
「うん、そう言ってた」
「変わった人ね」
「そうだね……」
 美智子は何か()に落ちないような気がした。しかし、美桜の話がうそとは思えない。美桜の話は具体的だったし、とっさに作り話をするような器用なまねができる子ではない。
(何かあったと踏んだんだけど、やっぱり、私の思い過ごしなのかしら。私はてっきり佐藤さんが……)
 美智子が独りで考えことをしている間、美桜は今話したことが美智子に信じてもらえたかどうか不安だった。伏せておいた部分はあったにせよ、うそを言ったつもりはないが、確かに自分とジェットコースターに乗るのが夢というのは、自分で言っていても違和感がある。
「あ、あの、佐藤さんのこと『希美ちゃん』って呼んでたけど」
 美智子はちょっと聞きにくいと思ったが、美桜に思い切って聞いてみた。
「えっ!? いや、あれは……、希美ちゃんがそう言えっていうから、言っただけで……、その……」
 その話はさっき出てこなかった。やはり何か隠しているのだろうか? 美智子の疑念が再び頭をもたげた。
「あの……、もしかして、気になってた……?」
 美智子は美桜に核心を突かれて、顔がサッと赤くなった。もしや美桜に自分の嫉妬を見透かされたのでは……。やはりそんなことを聞くべきではなかった。しかし、美智子はそうせずにはいられなかった。希美に対しては「希美ちゃん」、自分に対しては「内田さん」。気にならないはずがない。
「ごめんなさい。私も気にはしてたんだけど……」
「な、何で美桜が謝るのよ。私、全然気にしてないから」
 美智子は言ったそばから後悔した。動揺を悟られまいと平静を装ったつもりだったが、これでは気にしていますと言っているようなものだ。きっと美桜には、希美との仲に嫉妬した自分が、わざわざ美桜を呼び出して尋問しているように写っているだろう。なんとかこの誤解を晴らさなければ。
「あの、内田さん……、私、お願いがあるの……」
 美桜は美智子に対して言いにくいのか、恥ずかしそうにもじもじしている。美桜が美智子に何か要求してくるは、これが初めてのことである。
(まさか、希美との仲を認めてほしいとか? それとも、これ以上邪魔するなとか?)
 美智子はいつになく弱気になっていた。美桜との関係はいつも自分がリードしてきたつもりだったが、希美の登場で、美桜の関心がいつの間にか希美に移ってしまったような気がした。こんなことなら希美と2人でジェットコースターに行かせるんじゃなかった……。
 美桜は美智子に言うべきかどうか、なかなか決心がつかなかったが、やがて意を決したように切り出した。
「私、内田さんのこと『みっちゃん』って呼んでいい?」
「へっ?」
 美桜の思いがけない一言に、美智子は呆気(あっけ)にとられた。「みっちゃん」とはなんとも懐かしい響きだ。そういえば子供の頃、そんな風に言われていたことを思い出す。「みっちゃん」なんて呼ばれるのは、いつ以来だろうか? そんなことを面と向かってわざわざお願いするとは、いかにもまじめな美桜らしい。
「そっか……」
「何が?」
「ううん、なんでもない」
 美智子は肩からすっと力が抜けていくのを感じた。自分は何をこんなに焦っているんだろう。美桜との間に希美が突然入ってきて、美桜が離れていってしまいそうな気がしたけど、美桜は自分と出会ってから何ひとつ変わっていなかった。内気で、恥ずかしがりやで、運動が苦手で、ウサミミがとても似合う私の友達だ。
「あの……、さっきの答えなんだけど……」
 美桜は美智子がさっきのお願いを忘れてしまったのかと、心配になって尋ねた。
「もちろん、いいに決まってるじゃない。大歓迎よ」
 美桜と希美がお互いにどんな感情を抱いているのか、それはわからない。だけど、たとえ2人の関係がどんなことになっても、美桜はきっとこれからも自分と友達でいてくれる。なぜかそんな確信が持てた。
「美桜、また一緒に遊園地に行きましょう」
「うん。あの……、希美ちゃんも一緒でいい?」
「もちろんよ」
 美智子は屈託のない笑顔で答えた。

第6章 中間試験がんばります

「美桜ちゃん、おはよう」
「あ、おはようございます」
「フフッ、美桜ちゃん、かわいいね」
「??」
 遊園地に行った翌週の月曜日、美桜は今まで話したことがなかったクラスメイトから3回も声をかけられた。しかも、その3回ともみんな同じセリフである。「おはよう」だけならまだしも、「かわいい」とはどういうことだろうか? 急にそんなことを言われる理由はないし、思い当たる節もない。トイレに行って鏡で身なりを確認したが、特におかしなところもなかった。
「美桜ちゃん、かわいかったよ」
 まただ。何があったのだろうか? 美桜はきっと自分の知らないところで、何かが行われたに違いないと思った。嫌な予感がする。
「美桜、おはよう」
 美智子が登校してきた。美桜は美智子が何か隠しているのではないかと思い、じっと観察してみたが、特に普段と変わった様子はなかった。
「あ、あの、みっちゃん」
「何?」
「あ、あのね……、私の顔に何かついてる?」
「いや、何もついてないけど」
 何か知っているに違いない。美桜は美智子に何をしたのか聞いてみたいのだが、みんなに「かわいい」と言われるとは少し聞きづらい。美智子に何をうぬぼれているのかと言われそうだ。
「あ、あの……、その……」
「どうしたのよ」
 このままではらちが明かない。美桜は思い切って美智子に聞いてみることにした。
「あ、あの……、今まで話したことがなかった人が、急に『おはよう』って……」
「は? いいじゃない別に。何か迷惑なの?」
「じゃなくて、その……、みんなが『かわいい』って……」
「プッ、ハハハハハハハッ!!」
 美智子の甲高い笑い声が教室中に響き渡たり、みんながいっせいにこちらを振り向いた。
「そんな大っきな声で笑わないで!」
「クククククッ、美桜がかわいいのは十分わかったから。クククッ」
「そういう意味じゃなくて、みっちゃん、何かやったでしょ!?」
「え? 私、何もしてないわよ。クククッ」
(とぼけたって、無駄よ)
 美桜はあらん限りの力を込めて美智子をにらみつけてみたが、何の効果もなかった。みんなから急に「かわいい」と言われるなんて普通考えられないし、美智子が何かやったとしか思えないのだが。
「美桜ちゃん、美桜ちゃん、これ見てよ、これ!」
 登校してきたばかりの希美が、手にスマートフォンを握りしめながら、2人のところへ駆け寄ってきた。美樹本学園ではスマートフォンは授業中の使用は禁止されているが、持ち込みは自由である。希美は興奮して、手にしているスマートフォンを美桜に見せた。
 希美のスマートフォンに写っていたのは、昨日遊園地に行ったときに、美智子がお土産屋さんで撮ったウサミミをつけた美桜の写真だった。
「あ、あの……、これは……?」
 改めてウサミミをつけた自分の写真を見ると、あまりの子供っぽさに顔から火が出る思いがする。こんなロップイヤーのカチューシャをつけているのは小学生しかいないし、実際、希美のスマートフォンに写っている写真は、どう見ても小学生にしか見えない。
「かわいいよねー。だからさー、私、みんなにこの写真送っておいたよ」
「えっ!?」
 美桜は驚きのあまり気が遠くなりそうになった。なんてことをしてくれたのか。
「な、な、な、何でそんなことしたの!?」
「何でって? だって、かわいいから」
「ク、クラス全員に送っちゃったの?」
「全員のわけないじゃん。5人だけだよ」
「でも、あの写真って、みっちゃんが撮ったんじゃなかったっけ?」
「昨日、ウッチーに送ってもらったんだ」
 希美は能天気に答えた。希美にしてみれば、美桜のかわいさをみんなにも知ってもらいたかっただけなのだろう。
「やっぱり、みっちゃんの仕業だったのね!」
「えっ、私は希美が美桜の写真が欲しいって言うから送っただけよ」
 ようやく事の顛末(てんまつ)が見えてきた。つまり、こういうわけだ。初めに美智子が美桜の写真を希美に送り、それを希美が5人に送り、そして、その5人がほかの誰かに――。
 いったいどこまでこの写真が拡散されたのだろうか? この様子ではすでにクラスの大部分の生徒に行き渡っているのだろう。いや、もしかするとほかのクラスにも広まっているのかもしれない。それどころか学校中にも――。美桜はこれ以上考えるのをやめた。一度拡散してしまったものはどうすることもできない。こうなっては自分の恥ずかしいウサミミ姿を、早くみんなが忘れてくれることを祈るだけだ。
「美桜ちゃん、写真かわいかったよ」
「あ、はい……」

 ゴールデンウィークが終わって2週間が過ぎた。新入生もすっかり学校になじんで、勉強や部活動も軌道に乗ってきた頃、息つく暇もなく、1週間後には高校に入学して最初の中間試験がやってくる。高校の中間試験がどんなものなのか、今クラスではその話題で持ちきりである。
「さて、授業も終わったし、一緒に帰ろう」
「うん」
 3人で遊園地に行って以来、美桜の表情から緊張や警戒の色が消えた。相変わらず美智子が話しかけることが多いものの、美桜の方から話しかけることも徐々にではあるが増えてきた。希美に対しても変に意識することなく、今は友達として普通に接している。希美の提案は多少強引だったかもしれないが、結果として3人の友情は深まり、今ではどんなときでも、この3人でいるのが当たり前になった。
「希美も帰るでしょ?」
 帰り支度を終えてカバンを持った希美が、美桜たちのところにやってきた。希美は月曜日から土曜日まで毎日部活があるので、今まで美桜たちと一緒に下校したことはなかった。
 一方、美桜と美智子は結局どの部活にも入らなかった。美桜はクラスの中ではだいぶ溶け込んできたが、それはあくまでも自分のクラスの中での話であって、ほかのクラスや、ましてや先輩ともなるとまだハードルが高かった。美智子は部活動そのものに関心がなく、クラスメイトから誘われてもまったく興味を示さなかった。
「ゴメン、私、今日も部活なんだ」
「だって、試験1週間前だよ。部活動禁止でしょ?」
 美智子が驚いて尋ねた。美樹本学園では試験1週間前から試験期間中まで、部活動は禁止のはずである。
「私、今週の土日が県大会だから、5時まで特別にやらせてもらってるんだ」
「それじゃ、試験勉強はどうするの?」
「大丈夫。大会前はそんなにきつい練習しないから。部活が終わってからでも勉強する体力はあります」
「ふーん、ならいいけど」
「陸上部の人、大変ね」
 美桜は希美に同情した。美桜は試験前なのに、希美が強制的に練習させられていると思ったようだ。
「陸上部っていっても、練習するのは私1人だけど」
「えっ?」
 希美が言うには、陸上は県大会の前に地区予選があり、その地区予選を通ったのは、美樹本学園では希美1人だけということだ。したがって、練習する必要があるのは希美だけで、それ以外の部員はほかの生徒と同様にさっさと帰ってしまうのだそうだ。
「そんなのひどいわ」
 美桜は希美にたった独りで練習させるなんて、あまりにひどすぎると思った。もっとも、これは美桜の勘違いで、希美は学校に特別な許可をもらって自主的に練習しているだけで、誰かに強制されているわけではない。
「しょうがないよ。試験前にほかの人を付き合わせるわけにはいかないし、第一、部活動を認められているのは私1人なんだから」
「でも……」
 美桜は納得いかなかったが、希美がそう言うのなら仕方がない。
「じゃあ、私行くから」
 希美は短い時間で少しでも多く練習したいらしく、急いで部室のある校舎へ消えていった。美桜はたった独りで練習に向かう希美の後ろ姿を心配そうに見送った。
「しょうがない、今日も2人で帰ろう」
「うん」
 2人で一緒に下校する間は、たとえ短い時間であっても、お互いの友情を確認する大切な時間だ。といっても特別なことをするわけではなく、たわいない日常的な会話が繰り返されるだけだが、それが2人にとってはことの外重要なのだ。
「みっちゃんは毎日勉強してるから、試験大丈夫だよね」
「そんなことないよ。美桜こそ余裕でしょ」
「私、数学がちょっと心配」
 美桜は試験の点数にあまり執着する方ではないので、試験前でも特に勉強時間を増やしたりはしない。宿題は毎日きちんとやっているし、試験前でもさらっと復習するぐらいで済ませてしまう。逆に美智子は試験の点数にとことんこだわるタイプで、夢の全教科満点に向かって試験前は猛烈に勉強する。毎回惜しいところまでいくのだが、残念ながらまだ実現したことはない。今回も表向きは勉強していないふりをしておいて、実は密かに全教科満点を狙っている。
「希美ちゃん大丈夫かな? 普段、あまり勉強してるように見えないんだけど」
「確かにね。いつも美桜の宿題写してるし。でも、さすがに試験前はやるでしょ」
「だといいんだけど」
 美桜は希美の学業が心配だった。美智子は試験前は勉強するのが当たり前だと思っているみたいだが、そう思っていない人もいる。美桜もその1人で、試験前は宿題がない分、普段よりむしろ勉強時間が少なかったりする。高校入試でさえ、美桜はほとんど受験勉強をしなかった。特別な勉強をしなくても志望していた美樹本学園の合格ラインには達していたし、さらにその上を目指すこともしなかったので、受験勉強の必要性を感じなかったのだ。
 それでも普段からコツコツやっている美桜は、そこそこの点が取れるのだが、希美はどうだろうか? 宿題もほとんどやってこないし、部活で疲れているのか、たまに授業中に寝ているときもある。あの様子ではとても普段勉強しているようには見えない。美智子の言うとおり、せめて試験前だけでも勉強してくれればいいのだが。
「じゃあね、美桜」
「さようなら」
 試験前なので寄り道はせず、校門を出たところで2人は別れた。美桜は自宅に歩きかけたところで足を止めて、ふと校舎を振り返った。今日は部活がないので、いつもより多くの生徒がいっせいに下校している。それにもかかわらず、今ごろ希美はたった独りで部活を続けているはずだ。美桜の小さな胸に不安がよぎる。
(私に何かしてあげられることがあればいいんだけど)
 しかし、陸上部員でもない美桜にできることは何もないし、希美の決めたことに対して一々介入するわけにもいかない。あとは中間試験も土日に行われる陸上の県大会も、希美の健闘を祈るばかりだ。
(でも、本当に大丈夫なのかしら?)
 美桜は希美を残して自分だけ帰宅することに、後ろめたさともどかしさを感じながら学校をあとにした。

                  *     *     *

 高校生になって初めての中間試験は瞬く間に終わり、今日の数学の授業で全教科のテスト結果が返ってきた。
「みっちゃん、すごい」
 美智子の答案用紙を見せてもらった美桜は、その点数を見て感嘆の声を上げた。美智子は数学で100点を取っていた。
「まあ、今回は範囲も狭かったし、たいしたことないわよ」
 美智子は全教科満点の野望は持ち越しとなったものの、そのほかのいくつかの教科でも満点を取り、まずまず満足できる結果となった。美桜も大して試験勉強をやらなかった割にはそれなりの点数が取れ、高校最初の中間試験を無事に乗り切ったことにホッと一安心した。他の生徒も同様だったらしく、友達同士でテストの感想や点数を見せあったりして、教室はどこか華やいだ雰囲気になった。
 授業は試験後ということもあり、先生も生徒たちもいつもよりリラックスしたムードに終始したが、授業が終わったあとの先生の一言で、クラス中に緊張が走った。
「佐藤さん、あとで職員室に来てください」
「はい……」
 先生が教室から出ていくと、今まですっかりくつろいでいた生徒たちがにわかにざわついて、うつむいたままの希美に注目が集まった。
 何があったのだろうか? 美桜は胸騒ぎがした。やがて希美はフラフラと立ち上がると、いつになく深刻な顔をして教室から出ていった。
「希美ちゃん、どうしたのかしら?」
 美桜は心配になって、希美に声をかけようとしたが、希美は美桜たちを避けるように教室の後ろのドアから出ていってしまったので、声をかけることができなかった。
「さぁ? カンニングでもバレたんじゃないの?」
「えっ! それじゃ、退学になっちゃうよ」
「冗談よ。ま、だいたい想像はつくけど。さぁ、お昼にしましょう」
 美桜の心配をよそに、美智子はカバンからお弁当箱を取り出して、先ほど教室から出ていった希美の席へ移動した。美桜と美智子の席は出入り口に近いので、お昼はいつも希美の席に集まって食べることにしている。
「もう……」
 美桜は美智子の冷たい態度に少しがっかりした。もうちょっと希美のことを心配してあげてもいいと思うのだが、むやみに同情したりしないのが美智子のやり方なのだろう。
「そのうち帰ってくるから先に食べましょう」
「うん……」
 美桜は希美が職員室から帰ってくるまで待っていてあげたかったが、美智子にそのつもりはなく、机の上にお弁当を広げると、さっさと1人で食べ始めてしまった。仕方なく美桜もお弁当を食べ始めた。
 お昼休みも10分が過ぎた頃、希美がようやく職員室から戻ってきた。目はうつろ、足元もおぼつかない様子で、美桜たちのいる自分の席に着くと、大きなため息をついてそのまま机に突っ伏してしまった。
「希美ちゃん、大丈夫?」
 元々楽天的な希美がこれほど落ちこむとは、職員室で先生に何を言われたのだろうか? まさか本当にカンニングを……。
「で、赤点だったんでしょ?」
 美智子は希美に冷たく言い放った。どうせそうに決まっているとでもいうような口ぶりだ。
「何で知ってんの!?」
「あんたの態度見てればそれくらいわかるわよ。それで何点だったの?」
 美智子は希美にまったく同情するつもりはないらしい。矢継ぎ早に厳しい質問を浴びせる。
「28点……」
 美樹本学園の規定では30点以下が赤点である。100点を取った美智子にしてみれば、少しでも勉強すればあの程度の問題で赤点などありえないのだが、それで赤点ということは要するに普段から何も勉強していないわけで、単なる自業自得である。
「まったく、中間試験でこれじゃ先が思いやられるわ」
「大丈夫よ。1科目ぐらい赤点とっても、すぐ取り戻せるわ」
 美桜は美智子に一方的に責められている希美が気の毒になって、優しくフォローした。
「物理も……」
「へっ?」
 美桜は耳を疑った。物理は確か3日前には答案が返ってきたはずである。希美からそんな話は聞いていなかったが――。
「はーっ!? あんた2科目も赤点取ったの!?」
 美智子も2科目の赤点は予想していなかった。1科目だけならどうとでもなると思ったが、2科目となると話が違う。
「そんな大きな声出さないで!」
 希美は慌てて美智子を制止したが、美智子の叫び声は教室中に響き渡り、希美が2科目で赤点を取ったことは、すぐにクラス全員に知れ渡ることになった。
「クスクスクス……」
 クラスのあちらこちらから笑い声が漏れ、それを聞いた希美は顔が真っ赤になった。一応希美にも世間体というものがあるらしい。
「希美、テストの結果全部教えなさい!」
「ほかは大丈夫だよ。赤点じゃないから……」
「いいから!!」
 希美は美智子の迫力に圧倒されて、全教科の点数を白状した。国語総合58点、数学I28点、数学A32点、物理27点、化学38点、地理A55点、現代社会61点、コミュニケーション英語I47点、英語表現I48点……。
「理系が壊滅的ね。それに1科目も平均点に達してないわ」
 美桜も希美の点数を知って言葉を失った。まさかここまでひどいとは思わなかった。
「希美、これからどんどん難しくなっていくし、初めからこれじゃまずいよ。このままじゃ、本当に留年しちゃうよ」
「でも、私、ウッチーや美桜ちゃんほど頭よくないし……」
「あのねー! 高校の勉強なんて、頭のよさなんか関係ないわよ! 要はやったか、やらないか、それだけの違いよ! あんた、何にもやってないんでしょ!!」
 自分が勉強していないことを棚に上げて、自分の頭の悪さを言い訳にしたので、美智子は怒ってしまった。
「落ち着いて、みっちゃん」
 美桜はなんとか美智子をなだめながら、希美に尋ねた。
「希美ちゃん、本当に何にも勉強してなかったの?」
「うん。前の日に教科書をちょっと読んだだけ……」
「それじゃ、この成績でも仕方ないわね」
「希美だってこの学校受かったんでしょ。学力は私たちと違わないはずよ」
 確かにそれは美智子の言うとおりである。美樹本学園は有名な進学校というわけではないが、それでも進学率は90パーセントを超えているし、それなりの学力がなければ合格できないはずだ。
「私、補欠合格で、受かったのは奇跡というか……」
「補欠でもなんでも入っちゃえば一緒よ。いい、希美! これからは宿題はきちんとやる! 写すのは禁止! 数学と物理は予習復習する! いいわね!」
「はい……」
「美桜もわかったわね!」
「は、はい!」
 美桜は今まで希美に請われるがままに宿題を写させていたことを反省した。まだ知り合ったばかりだったので、遠慮もあって悪いと知りつつ希美の頼みを断ることができなかった。責任の一端は自分にもある。
「ごめんなさい、私のせいで……。もっと希美ちゃんのことを考えるべきだった……」
「美桜ちゃんが悪いんじゃないよ。悪いのは全部私なんだから」
「当たり前じゃないの」
 美智子はまだ怒りが収まらないのか、ツンツンして教室を出ていってしまった。
「ハァ……」
 美智子の説教がようやく終わり、希美はお弁当を広げ始めた。
「みっちゃん、あれで希美ちゃんのこと本気で心配してるんだと思うわ。ちょっと厳しかったけど」
「ちょとどころじゃないよ」
「だからね、私も鬼になろうと思うの。もうこれから宿題は見せないよ」
 美桜は美智子のように精いっぱい怖い顔をしてみせた。
「フフッ……、フフフフ……、ハハハハハ!」
 希美は美桜の怒っているつもりの顔を見て、こらえきれず笑い出した。
「何で笑うの? 私、本気なんだから!」
「ゴメン、ゴメン。でも美桜ちゃん、その顔どう考えても鬼じゃないよ」
「じゃあ、何よ?」
「ウサギ?」
「また、それを言うー!」
「ハハハハハ」

 トイレで用を済ませて手を洗った美智子は、ようやく落ち着きを取り戻して、鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。
(少し言い過ぎたかしら。希美のやつ、だいぶへこんでたけど……。でもあれくらい言わないと希美も本気出さないだろうし、期末試験もあの点数じゃ本当に留年するかも……)
 希美の今後の勉強をどう見ていくか、美智子はあれこれ思案した。きっと部活でヘトヘトになって、家に帰っても勉強する気力がないのだろう。それは想像に難くない。予習復習は無理でも、せめて宿題だけもやらせなければ……。あとは試験前の1週間でなんとかするしかない。
 この前は試験前だというのに大会前だとかで部活をしていた。あれがよくなかった。期末試験は大会前だろうがなんだろうが、部活は禁止にしてもらおう。大会でいい成績を収めても、留年したら元も子もない。
 トイレから帰ってきた美智子は、教室のドアから美桜と希美が笑いあっている様子を見つけた。さっきまで落ちこんだ様子はどこへやら、希美はすっかりいつもどおりの調子に戻っていた。
(ちょっと言い過ぎたと思ったけど、大丈夫みたいね。もっとも、あれでこたえてないんじゃ、それはそれで問題なんだけど)
 美智子は半ばあきれたように希美を見つめながら、たとえ逆境に陥っても明るさを失わないのが希美のいいところだと思った。
「何、もう立ち直ったわけ?」
 美智子は何事もなかったかのように自分の席に戻った。
「はい、美桜ちゃんのおかげです」
「私、何もしてないよ」
「よーし、中間試験の失敗は体育祭で取り返すぞ!」
「何、バカなこと言ってんのよ」
 美智子は急いでお弁当を食べ始めた。希美に説教していたせいで、お昼休みの時間があとわずかしか残っていない。
「希美ちゃん、その前に期末試験でしょ」
 体育祭は2学期の秋に行われるので、当然その前に1学期の期末試験があるはずだ。
「美桜、体育祭は再来週よ」
「いやだなー、みっちゃん。体育祭は秋でしょ? その手には乗らないから」
 地元に住んでいる美桜は、美樹本学園の体育祭が毎年秋に行われていることをちゃんと知っていた。
「うちの学校の体育祭、今年から春になったんだよ。美桜ちゃん、知らなかったの?」
「えっ!? 秋じゃないの!?」
 学校行事の日程は1度目を通したつもりだったが、体育祭にはまったく関心がなかったので見落としたらしい。それに中間試験でみんな忙しく、体育祭のことはクラスで話題にさえなっていなかったので、今までまったく気がつかなかった。そういえば、入学早々に行った100メートル走のタイム計測は、体育祭のリレーメンバーを決めるためでもあった。秋に行われるのにずいぶん早いなと思ったが、そういうことだったのか……。
 美桜の脳裏にあの100メートル走の悪夢がよみがえる。あの醜態を今度は全校生徒の前でさらすのか――。美桜は校舎から見える真っ青な空を見上げながら、なにかよからぬことを考えていた。
(もうすぐ梅雨だし、雨降らないかな。そうだ、うちに帰ったらてるてる坊主逆さにつるしておこう)

第7章 体育祭がんばります

 6月中旬、すでに気象庁の梅雨入りの発表もあり、体育祭当日の天気はどんよりとした曇り空だった。
「体育祭やるにはちょうどいいわね。降っても小雨程度だって言うし」
 体育着に着替えて校庭に出てきた美智子は、空を見上げて一安心した。ただでさえ乗り気ではない体育祭で、もし炎天下での開催にでもなったら、とても耐えられるものではない。このまま日差しも出ず、雨も降らなかったら最高なんだが。
 美樹本学園の体育祭は、平日に一般には非公開で行われる。高校になると体育祭を見に来る親も少なく、平日の開催ともなれば、なおさら見に来る人は少ない。
 プログラムは100メートル走、綱引き、ムカデ競争、棒倒し、クラス対抗リレーなど、どこにでもあるような無難な競技が続く。創作ダンスなど時間をかけて練習するようなものは一切ない。学校としては体育祭のために、あまり時間を割きたくないのだろう。休日に大々的に行われる文化祭とは天と地ほどの差がある。この辺りは運動系より文化系を重んじる美樹本学園の校風がよく出ている。
「えーっ、もっとスカッと晴れてくれなきゃ」
 希美にとって体育祭は、高校生活1番の見せ場だ。陸上部の、それも県大会で上位に入るほどの実力を持つ希美にしてみれば相手は素人同然だが、それでもクラスのみんなにはいいところを見せたい。
「希美ちゃん、私、がんばるよ」
 美桜が今日の体育祭にかける意気込みを語った。
「おお! 美桜ちゃん、やる気だね。あんなに体育祭、嫌がってたのに」
「うん」
 美桜は力強くうなずいた。
(何で美桜のやる気スイッチが入ってるの?)
 美智子の脳裏に、4月に行った100メートル走の光景がよみがえる。美桜もまさかあのときのことを忘れたわけではあるまい。
「あの……、美桜、あまり無理しなくていいのよ」
 100メートル走で美桜にまた倒れられても困るので、美智子はなんとか美桜をなだめようとした。
「大丈夫。私、がんばるから」
「あ、そう……」
 美智子もこれ以上は何も言えなかった。希美が言っていたように、あれほど体育祭を嫌がっていた美桜がなぜ急にやる気になったのか、美智子にも思い当たる節がなかった。本当は倒れないように適当に力を抜いて走ってほしいのだが、本人がせっかく意気込んでいるのに、わざわざやる気をそぐのもどうかと思う。不安はあるが、もうなるようになるしかない。
 体育祭最初の競技が1年生による100メートル走だ。3コーナーからホームストレッチまで、1周300メートルのトラックを3分の1走る。4月の体力測定でタイムの遅かった順番に各クラス1人ずつ走るので、美桜は1番初めに走ることになる。
(希美ちゃん、見てて)
 美桜がこれほどやる気になっているのには理由があった。美桜は苦手なスポーツでがんばる姿を希美に見せて、希美にも勉強をがんばってもらいたかったのだ。そのために美桜はこの2週間、学校から帰ると公園の周りを内緒で走っていた。公園の周囲は1キロ程度だが、陽向台は坂の多い街なので公園の周りもそれなりにアップダウンがあり、美桜が1周走り切るのは大変だ。走り始めた頃は途中で歩いてしまったが、2週間も続けるとなんとか走り切ることができるようになった。美桜にとっては大きな進歩である。その練習の成果を今日見せるときが来た。
 100メートル走のスタート地点に1年生全員がレーンごとに1列に並んだ。美樹本学園の体育祭は紅白に分かれるのではなく、すべての競技がクラス対抗で行われ、クラスごとに得点を競いあう。したがって、個人の得点の比率が高く責任もより大きくなる。
 いよいよ100メートル走のスタート時間が近づいてきた。各々が自分のレーンのスタート位置につき、他の生徒たちは少し離れたところに腰を下ろした。美智子は列の真ん中あたりから、希美は1番後ろから美桜の様子を見守っている。背中越しでは美桜の表情をうかがい知ることはできない。他の生徒と比べて一回り小さい美桜の背中を見ていると、美智子は大きな不安に襲われた。
(あー、頼むから、心臓発作とかだけはやめてよ。シャレにならないから)

 100メートル走を走り終えた美智子が、美桜のそばにやってきた。美桜が走り終わってからもう5分以上たっているはずだが、美桜はまだ息を切らしていた。
「一応、がんばったんだけど……」
 美桜の100メートル走の結果は7着。僅差ではあったが、残念ながらビリだった。
「でも、惜しかったじゃない。それに完走できただけでも立派よ」
 100メートルを完走しただけで褒められても仕方がないが、確かに体力測定のときと比べれば見違えるような走りだった。少なくともちゃんと勝負にはなっていたし、それに今のところ倒れそうな気配もない。
「みっちゃんは何着だったの?」
「5着よ。ま、こんなもんでしょ」
 美智子は本気で走って肉離れやアキレス腱が切れたら大変と思い、クラスのみんなにはわからないように少し手を抜いて走った。
「私、希美ちゃんに苦手なことでもがんばってるところを見せたかった……」
「それであんなに気合いが入ってたのね。大丈夫、希美にもちゃんと通じたよ」
 美智子はそう言ったものの、能天気な希美に美桜の真意が伝わったかどうか、かなりあやしいと思った。
「あ、希美が走るよ」
 1年生の100メートル走も最後の組になった。これが1年生の1番を決めるレースだ。今までとは打って変わって、走る方にも見る方にも緊張が走る。スタート地点にいる希美の表情は、美桜たちのいるゴール地点からはっきりとはわからないが、すらっとした身長と体操着から長く伸びた手足は、美桜たちだけでなく見ている生徒たち全員を魅了した。
 希美の顔は真剣そのもので、体育祭とはいえ美智子とは違い手を抜くつもりはないらしい。最終組ともなると希美以外の生徒もみんな速そうな感じがするが、それでもこのレースは走る前からきっと希美が勝つだろうと誰もが予想した。
 希美に全校生徒の注目が集まる中、スタートが切られた。希美はスタート直後から飛び出すと、あっという間にほかの生徒たちを引き離し、ホームストレッチに入ったときにはすでに大差がついていた。希美はそのまま後続をぐんぐん引き離し、ゴールしたときには2位以下に1秒以上の差をつけていた。全校生徒から「オー!」というどよめきが起きる。
「すごい……」
 美桜は確かに希美が勝つだろうとは思っていたが、ここまで希美の足が速いとは思っていなかった。これが同じ高校1年生だろうか? 100メートルを完走するだけで精いっぱいの自分と比べると、まるで大人と子供である。
 ゴールした希美のもとにクラス中のみんなが集まってきて、各々が希美に賞賛の言葉を贈り、希美はもみくちゃになっている。
「すごい人気ね」
「うん」
 美桜は希美の周りにできた人だかりを遠巻きに眺めながら、希美の活躍をうれしいと思いつつも、少し寂しい感じがした。希美は立派な大人に成長しているのに、自分はウサミミの似合う子供のまま。何だか取り残されたような気がする。
(背が高くて、明るくて、足が速くて、かっこいい。私とは住んでる世界が違うのかな……)
「やったよ! 美桜ちゃん! ウッチー!」
 美智子は美桜と美智子を見つけるとすぐに駆け寄ってきた。まるで子供のように100メートル走に勝って無邪気に喜んでいる。大人びた体つきと性格のギャップが激しい。でも、そんな希美の姿を見ると、美桜は少し安心した。希美にはまだ大人になってほしくないと思う。
「希美ちゃん。すごかったよ」
「ま、確かにすごかったけど、相手は素人でしょ?」
 素人と言っても実際には希美以外の陸上部員や、ほかの運動部の生徒も同じ組で走っていたので、まったく素人相手というわけではない。しかし、その運動部の生徒たちが素人に見えてしまうほど、希美の走りは他を圧倒していた。
 美智子は心の中では希美を賞賛しながらも、美桜ほど素直には言葉に出さない。特に希美に対して美智子は素直になれない面があり、気安さもあってつい憎まれ口をたたいてしまう。
「別にいいんですー」
 希美は美智子にケチをつけられても幸せな気分だった。美桜はもとよりクラス中のみんなが1番になったことを喜んでくれた。それだけで満足である。
 体育祭はつつがなく進行し、午前中のプログラムが終わるとお昼休みになった。普段は3人で食べるお弁当だが、今日はクラス全員が1ヵ所に集まってにぎやかに食べた。話題は希美の100メートル走のことで持ちきりだ。
「希美、すごいね」
「マジ、感動したよ」
 午前中の100メートル走で、希美の評価は一気に高まった。これまでの希美はおもしろい子だけど勉強では落ちこぼれで、クラスのみんなからやや低く見られがちだった。だが、体育祭でたった1回走っただけで、希美を取り巻く状況は一変した。ある生徒は希美に対して崇拝の念を抱くようになり、また、ある生徒は希美のことを頬を赤らめながら見つめていた。
「いやー、たいしたことないですよ。ハハハハ!」
 希美の笑い声が校庭に高らかに響き渡る。まさに希美が思い描いていた至福の瞬間だ。
 美桜と美智子は希美たちから少し離れたところに陣取っていた。希美を知っている2人は、いまさらあの輪の中には入りづらい。
「ったく、調子に乗って」
 美智子は横目で希美のことを見やりながら冷ややかに言った。今までどちらかといえば希美の面倒をみてきたつもりだったが、それが一躍クラスのヒロインである。美智子としてはあまりおもしろくないのかもしれない。
「まあ、まあ。ソーセージ食べる?」
 美桜は美智子に自分のお弁当を差し出した。
「ありがとう」
 美智子は遠慮なく美桜のお弁当からソーセージを取り、その代わりに美桜は美智子のお弁当から卵焼きをもらった。
「ま、どうせ今だけよ。体育祭が終わったら誰からも相手にされなくなるんだから」
「フフッ」
 美桜は美智子の言葉に思わず笑ってしまった。
「何がおかしいのよ」
「みっちゃんがそんなに怒る理由なんてないんじゃない?」
「別に怒ってないわよ」
「今日は希美ちゃんの晴れ舞台だから、好きなようにさせてあげようよ」
「わかってるわよ」
 そう言いながら美智子は気づかれないように希美の様子をそっとうかがった。どうしても希美のことが気になるらしい。
「美桜ちゃん、惜しかったね」
 ある生徒が美桜に声をかけてきた。彼女は塚本早紀でこのクラスの学級委員長だ。1年の1学期で誰もが尻込みしてしまうこの大役をたった1人立候補し、みんなから勇者と呼ばれた。
「すみません、お役に立てず」
 100メートル走は1着が10点で、2着から7着までは6点から1点が入る。ビリでも1点は入る仕組みだ。棄権では1点も入らないので少しは役に立っている。
「でも、倒れなかっただけよかったかも」
 美桜が体育の授業で倒れてしまったことは、まだ生徒たちの記憶に新しい。
「そうそう、美桜ちゃん、よくがんばったよ」
 美桜と早紀のやり取りを聞いていた生徒たちは、みんな大きくうなずいた。
「みんな、がんばってるわね」
 担任の片桐先生が生徒たちの様子を見にやってきた。初めて見るジャージ姿だ。しかし、片桐先生は気品がありすぎて、ジャージはどうも似合わない。
「先生、こっち来て一緒に食べようよ」
 美人で優しい片桐先生は、生徒たちから人気がある。みんなの憧れの的だ。
「相川さん、体は大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
 美桜は片桐先生と話すと緊張してしまう。年上が苦手な上に、ほのかな香水の香りとあまりにも大人っぽい雰囲気に気後れしてしまうのだ。
「佐藤さん、速かったわね。その調子で勉強もがんばってね」
「はい……」
 片桐先生の冗談にクラス中がどっと湧いた。
「じゃあ、私は忙しいから行くね」
 片桐先生が去っていく後ろ姿をクラス中のみんなが名残惜しそうに見送った。
「希美、勉強はやった方がいいよ。クラスで落ちこぼれは出したくないからさ」
 早紀は美桜たちと同様、希美のことを心配していた。1学期早々に赤点を取ったのは希美だけだ。このままでは本当に落ちこぼれになってしまうかもしれない。
「美智子、希美を頼むね」
 合唱部に所属している早紀は、低くよく通る声で少し離れたところにいた美智子に呼びかけた。
「任せておいて。期末試験までビシバシ鍛えますから」
 早紀は成績もよく、常に周りに気を配りながらも決し押しつけがましいところがなく、クラスの人望も厚い。リーダーたるにふさわしい人物だ。美智子も早紀には一目置いている。
 その後も生徒たちの話は尽きなかった。クラスがこうして1つになるのは、入学してから初めてのことだ。幸いこのクラスにはいじめもなければ、陰口をたたくような生徒もいない。教室は常に笑い声で満ちていて、学級委員を中心によくまとまっている。いいクラスに入ったなと美桜は思った。
「今日美桜ちゃんたちと話せてよかったよ。ほら、3人って結束が固そうで少し話しかけにくかったから」
 そろそろ昼休みも終わりに近づき、みんながお弁当を片づけ始めた頃、ある生徒が言った。
「いかにも仲よし3人組って感じだよね」
 別の生徒も口をそろえて言った。そんな風に言われると美桜はくすぐったい気がした。中学生のときは友達が1人もいなかったのに、今では親友とさえ呼べる人がいる。まるで夢でも見ているような信じられない気持ちだ。
 午後の競技も粛々と進み、毎年恒例の1年生による借り人競走が始まった。借り人競争はリレーの選手に選ばれなかった人だけが出場する競技で、お題に書いてある人を連れてきて一緒にゴールするだけの競技だが、これがなかなかの曲者で普通のお題はまず出ない。「学校で1番かわいい人」や「結婚したいと思う人」ならまだいい方で、中には「彼氏が絶対いないと思う人」や「この人よりは自分の方がきれいだと思う人」など無茶なお題もある。しかも、借りてくる人は上級生でなければいけない決まりで、1年生にとっては一種の通過儀礼となっている。
(どうか、簡単なものが当たりますように)
 スタートラインに立った美桜は祈るような気持ちだった。もし変なお題に当たったら借りてくる自信はない。しかし、制限時間内にゴールできなければ0点である。これ以上、クラスに迷惑はかけたくない。
「位置について! よーい!」
 スターターのピストルが鳴るとみんないっせいに走り出し、自分のレーンに落ちている封筒を拾った。その中に借り人競争のお題が入っている。美桜も封筒を開けて中の紙を取り出した。もちろんどんなお題に当たるか誰にもわからないようになっているはずだが……。
(ナニコレ?)
 お題を読んだ美桜は、最初そのお題が何を意味しているのかわからなかった。お題にはこう書かれてある。
『ウサギちゃんと一緒に遊んでくれる人』
(どういうこと? 意味が全然わからない)
「美桜ちゃん! こっち! こっち!」
 どうしていいかわからず美桜がその場に立ち尽くしていると、美智子をはじめクラスのみんなが、大声で自分を呼んでいるのに気がついた。美桜が声のする方へ行ってみると、美智子の手にはなぜか遊園地に行ったときにつけていたのと同じ、ロップイヤーのカチューシャが握られていた。
(ハ、ハメられた……)
 美桜は借り人競争のお題の意味と、今この場で何が行われようとしているのかようやく理解した。これは自分にウサギの格好をさせるために、美智子とおそらく自分のクラスの体育祭実行委員が共謀して、美桜がこのお題を選ぶように細工したのである。
「ひどいよ、みっちゃん!」
「それより、早くウサミミつけて。あとこれぶら下げて、先輩のとこ行って!」
 美智子は美桜に無理やりウサミミをつけさせ、その他数人の生徒が何か書かれたボードを美桜の首にぶら下げた。ボードにはこう書かれている。
『誰かいっしょに遊んでください』
 これを見たクラスのみんなは全員大笑いした。美桜のウサミミ姿は何の違和感もなく、あまりにも似合いすぎている。
「な、な、な、何でこんなのつけるの?」
「美桜! 恥ずかしがってる場合じゃないよ。早く行って!」
 今は借り人競争の真っ最中だった。美智子にはまだ言いたいことがあったが、美桜は仕方なく2年生のいる方へ向かった。今度は写真ではなく生のウサミミ姿を全校生徒の前にさらすことになるとは……。
(みっちゃんめ、あとでとっちめてやる)
 2年生のいるところへ走っていく間も、美桜に対する声援と笑い声は絶えなかった。美桜のクラスである1年5組と2年1組はそれほど離れていない。とにかく今は自分と一緒に遊んでくれる人を捕まえて、早くゴールしなければ。
「あ、あの……」
「キャー! かわいいー!」
 やっとの思いで2年生のところまでたどり着いた美桜に黄色い歓声が飛んだ。美桜のウサミミは2年生の間でも大人気で、美桜のウサミミ姿をひと目見ようと、ほかのクラスの2年生も美桜の元に集まってきてしまった。
(ど、どうなってるの?)
 まったく面識のない2年生になぜこんなに注目されるのか、美桜にはまったくわからなかった。実は美桜の知らない間に、希美が拡散した美桜の写真はすでに全校生徒にまで広まっていて、美桜のウサミミは校内で知らない人はいないくらい有名になっていたのである。
「ウサギちゃーん、遊んであげる!」
「こっち来てー!」
 美桜の周りはもはや収拾のつかない状態になっていた。このままではどんどん時間だけが過ぎていってしまう。もうすでに何人かはゴールしているようだ。とにかく誰でもいいからゴールまで引っ張っていかなければ。
「だ、誰か一緒に来てください!」
 美桜は恥ずかしさをこらえながら懸命に叫んだが、美桜の声は2年生の歓声にかき消されてしまった。
(どうしよう、このままじゃ本当にゴールできない)
 美桜はどうしていいかわからず途方に暮れた。100メートル走ではビリでもゴールできたけど、借り人競争はゴールすらできそうにない。もうゴールは無理だと諦めかけたとき、1人の生徒が美桜の元に小走りでやってきた。
「さ、行こう。私でよかったら」
 2年生のある生徒が困っている美桜を見るに見かねて、手を差し伸べてくれた。
「は、はい!」
 美桜はその生徒に手を引かれて、なんとかゴールすることができた。全校生徒から温かい拍手が沸き起こる。厳密に言えばゴールしたときにはすでにタイムオーバーだったのだが、審判の生徒が大目に見てくれた。
「お題は何でしたか?」
 マイクを持った生徒が美桜に駆け寄って、美桜の持っているお題を尋ねた。借り人競争はゴールしたあと、自分のお題をみんなの前で発表しなければならない。
「えっ、あ、あの……、ウサギちゃんと一緒に遊んでくれる人……」
 美桜は消え入るような小さな声で、手に持っていた自分のお題を読み上げた。校内は大きな笑い声と歓声に包まれ、美桜は耳の先まで真っ赤になった。

「ハァー……」
 次の組がスタートして、ようやく全校生徒の注目から解放された美桜は、思わずため息をついた。
「お疲れさま。大変だったね」
 美桜と一緒にゴールしてくれた2年生の生徒が声をかけてくれた。
「あ、いえ……」
 高校生になってから友達もできて、入学当初に比べればいくらかしゃべるようにはなったが、それでも美桜の人見知りは根本的には変わっておらず、知らない人と話をするのは今でも苦手だ。でも、この先輩は優しそうで話しやすい気がする。
「先ほどはありがとうございました。おかげで助かりました」
「こちらこそありがとう。ウサギちゃんと遊べて楽しかったわ」
 その生徒は人のよさそうな笑顔を見せた。決して美人というわけではないが、何か人を安心させるような笑顔だ。
「あ、あの……、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「2年1組の塚田梨絵よ」
「私は……」
「知ってるよ。相川美桜さんでしょ?」
「どうしてご存知なんですか?」
「フフッ、だって相川さん有名人だもん」
 自分のウサミミ姿の写真が学校中に拡散していることを知らない美桜は、梨絵の言っていることが理解できずにキョトンとしていた。
「相川さん、みんなに注目されるのは苦手?」
「あ、はい……」
「私はうらやましいな。みんなにチヤホヤされて。少し憧れちゃう」
 おとなしそうな人だと思っていたので、梨絵の言葉は意外だった。
「そうですか」
 またありきたりな返答をしてしまった。自分のコミュニケーション能力の低さが恨めしい。美智子や希美だったらこんなとき何と言うのだろうか?
「相川さんは何か部活やってるの?」
「いえ、何も……」
「もったいないなー。相川さんも何かやったら?」
「あ、はい……」
 人づき合いが苦手な美桜は部活をやるつもりはなかったが、こんな優しい先輩ばかりだったらやってみてもいいかなと思う。
「先輩は何か部活をなさっているんですか?」
「吹奏楽部よ」
 美樹本学園の吹奏楽部は県内でも強豪校として知られ、吹奏楽部に入るために美樹本学園に入学する生徒もいるくらいだ。当然入部希望者も多く、部員数は70人を超える大所帯だ。
(吹奏楽部か……。考えたこともなかったけど、私にもできるんだろうか? 自分のクラスに吹奏楽部の人いたっけ?)
「もしかして興味ある?」
 美桜がじっと考えこんでいるのを見て、梨絵は美桜の顔をのぞき込むように尋ねた。
「あ、いえ……。私、ピアノしかやったことがないので」
「未経験の人もいっぱいいるから大丈夫よ」
「はあ……」
 その後も梨絵は吹奏楽部についていろいろ教えてくれた。現在部員数は70人位だが、最盛期には100人以上いたこともあったらしい。通常はどうしても経験者が優先されるため、未経験の人は選べる楽器が少ないのだが、今年は新入部員が例年より少なかったので、楽器が余っているそうだ。今はコンクールに向けて毎日7時から朝練、さらに日曜日も練習していると言っていた。
「でもコンクールに出られるのは55人なの。先生はコンクールメンバーにつきっきりだから、私たちは自主練って感じ」
 コンクールメンバーではない梨絵は、少し自嘲気味に語った。メンバーに選ばれなかった部員は、朝練と日曜日の練習は強制されないのだが、梨絵を含めほとんどの部員が毎日練習に参加しているという。
「来年は最後のチャンスだし、絶対に選ばれたいから」
 梨絵の言葉にはある決意と覚悟がこもっていた。そんな話を聞くと美桜は悪い癖でつい尻込みしてしまう。美桜は梨絵のように何か1つのことに打ちこんだ経験はない。ピアノもこれといった理由もなく中学でやめてしまった。
(自分は先輩みたいに、そんなに一生懸命になれるのだろうか?)
 美桜はまたじっと考え込んでいた。その様子を見ていた梨絵は、美桜が少しは吹奏楽に興味を持ってくれたのかなと思った。もしこんなにまじめでかわいい後輩が入ってくれたらうれしいのだが。
「よかったらだけど、相川さんと一緒に練習できたら楽しそうだな」
 さすがに面と向かってそんな風に言われると、美桜は恥ずかしくなってうつむいてしまった。梨絵も少し言い過ぎたかなと思ったが、かわいい後輩を指導する自分を想像してつい力が入ってしまった。
「これも何かの縁だから、興味があったら考えてみてよ」
 部活の話を聞いていたら、いつの間にか借り人競争が終わっていた。自分のクラスに戻ってきた美桜は、クラスメイトから拍手で迎えられた。
「美桜ちゃん、最高だったよ」
「今日1番の盛り上がり」
 そう言ってくれるのはうれしいのだが、100メートル走に続き借り人競争もビリだったので、美桜はみんなに申し訳ないと思った。
「美桜、お疲れさん」
 美智子が満面の笑みで美桜のところにやってきた。自分の仕掛けた演出がうまくいって至極ご満悦なのだろう。部活のことですっかり忘れていたが、美桜は美智子の顔を見て、借り人競争の仕組まれた罠を思い出した。
「あーっ! どうせみっちゃんの仕業でしょ?」
「えっ? 何のこと?」
「とぼけたって無駄よ。みんなわかってるんだから!」
 美桜はちょっと怒ってみせた。本当はそこまで怒っていないのだが、少し態度で示しておかないと、今後も何をされるかわからない。
「まあまあ。でも、みんな楽しんだからよかったじゃない」
「もう勝手なこと言って」
「美桜だってそのウサミミ、結構気に入ってるんでしょ?」
「そんなわけないでしょ」
「借り人競争、もうとっくに終わったから取っていいのよ」
「えっ!?」
 美桜はそっと頭の上に手をやった。
「うわーっ!」
 美桜は慌てて頭の上に乗っていたウサミミを取り外した。さらに『誰かいっしょに遊んでください』と書かれたボードも首にぶら下げたままだった。ということは先輩と話している間も、ずっとこの格好だったということか……。
「みっちゃんの意地悪!」
「教えてあげたじゃない」
 クラス中が笑いに包まれて、クラスの士気は最高潮に達した。
 美樹本学園体育祭はいよいよクライマックスを迎え、最後の種目であるクラス対抗リレーを残すのみとなった。美桜たちのいる1年5組は現在3位で、1位の3組との差は23点ある。リレーなどの団体競技は、個人競技の得点の5倍なので、1位50点、2位30点、以下25点、20点……、5点となる。つまり自分たちが優勝して、かつ、3組が3位以下なら逆転だ。
「希美、頼んだよ」
「絶対、優勝よ」
 クラスのみんながそう言って、リレーメンバーを送り出した。始まった当初はあまり乗り気ではなかった生徒たちも、今ではクラス全員が優勝を望んでいる。リレーメンバーは10人。1周300メートルのトラックを半周ずつ走る。頼みはやはり希美だ。100メートル走でのあの走りを目の当たりにしたら、誰でも期待せずにはいられない。もちろんアンカーは希美だ。多少の差なら最後は希美がなんとかしてくれるとみんなが思っている。
「希美、やけに静かだったわね。大丈夫かな?」
 美智子が少し心配そうに言った。リレーメンバーを送り出したとき、希美は少しほほ笑んだだけで、特に声援に応えることなくトラックに向かっていった。希美の性格ならここで調子に乗ってもおかしくないはずだ。
「きっと集中してるんだと思うわ。大丈夫よ」
 希美の今まで見せたことがない真剣なまなざしに、美桜は声をかけることができなかった。希美はクラスの優勝がかかっている勝負を前にして、美桜でさえ眼中に入っていない様子だった。もちろんここでも手を抜くつもりはないらしい。
 クラス対抗リレーは第1走者だけがセパレートコースで、それ以降はすべてオープンコースになる。1組から7組まで7人がいっせいに走るため混乱も予想される。そこで1年5組がとった作戦は、第1走者から第9走者までを希美以外の早い順に並べ、なるべく前の方でレースを進めて混乱を避けようというものだった。そして、最後は希美にすべてを託す。
 レースは希美たちの思惑どおりに進んだ。1年5組は第1走者から快調に飛ばすと、しばらくは先頭を走り続け、バトンの受け渡しも特に問題は起きなかった。しかし、だんだん遅くなる中盤以降は、徐々に差が詰まってきて、ついに第8走者で逆転されると、第9走者ではさらに差がついてしまった。希美にバトンが渡されたときには、1位から2秒ぐらいの差がついていた。
 通常では絶望的とも言える差でも、クラス全員が諦めていなかった。希美ならなんとかしてくれる。クラスの誰もがそう思っていた。普段は冷静な美智子でさえ、希美なら逆転してくれるのではないかと思った。希美はバックストレッチでバトンを受け取ると、1位の走者を猛然と追いかけた。第3コーナーから第4コーナーへかけて、差はみるみる縮まっていき、ホームストレッチに入るとさらに差は詰まっていく。スピードの差は歴然だ。クラス全員が身を乗り出して、希美に声援を送った。1位との差は2メートル、1メートル、50センチ。希美はゴールに向かって体を前に投げ出した――。

 美樹本学園女子高等学校の体育祭は、例年以上の盛り上がりを見せ、無事に幕を閉じた。体育祭終了後、1年5組の生徒たちは記念撮影のために全員集まっていた。
「あっ、先生!」
 生徒の1人が、片桐先生がこちらに向かってくるのに気づいて声をかけた。
「みんな、お疲れさま。よくがんばったわね」
 生徒たちから自然に拍手が起こり、それぞれがみんな体育祭を精いっぱいやりきった満足感に満ちていた。
「ねぇ、あれ絶対おかしいよね」
 体育祭の結果に納得していなかった美智子が、ただ1人結果に異議を唱えていた。ほかの生徒たちからは「まーだ言ってるよ」と笑い声が起きた。
「ウッチー、もういいよ」
 希美もあきれたように言った。
「よくないわよ。先生だって最後、逆転したと思ったでしょ?」
「そうねぇ、ほとんど同時だったかしら」
「えーっ!?」
 最後の競技であるクラス対抗リレーで、希美がゴールに体を投げ出した瞬間、1年5組の生徒たちは全員逆転したと思った。しかし、長い協議が行われたあとに体育祭実行委員が下した裁定は、1年5組は2着とういう結果だった。確かにどちらが勝ったかわからないほど際どい差だったが、高校の体育祭で写真判定やビデオ判定があるわけではない。生徒たちは裁定を受け入れるしかなかった。希美で逆転できなかったのなら仕方ないし、そもそも希美でなければ、ここまで際どい差にもならなかった。
 クラス最大の功労者である希美の手に、体育祭の最終結果である2位の表彰状が握られていた。その希美を取り囲むようにクラス全員と片桐先生がひしめき合って、学級委員長の早紀が手にしているカメラのファインダーの中に収まっていた。
「はい、美桜はこれ」
 美智子は手に持っていたウサミミのカチューシャを美桜の頭に取りつけた。
「何で、私だけつけるの!?」
 クラス中から笑い声が起きる。
「美桜ちゃん、かわいいからお願ーい」
 クラスのみんなからそう言われては美桜も断れない。仕方なくそのまま記念撮影に臨んだ。
「みんな、動かないでねー」
 早紀は通りすがりの生徒にカメラを託すと、自分もクラスメイトの中に加わった。
「それじゃ、いきまーす」
 カメラを託された生徒は手慣れた感じで声をかけた。
「はい、チーズ」
 この日撮られた記念写真は、クラス全員がはじけるような笑顔で収められた奇跡のような1枚だった。

第8章 期末試験がんばります(その1)

「来週は期末試験です。勉強も大事ですが、あまり夜更かしして本番前に体調を崩さないように気をつけてください」
 期末試験を1週間後に控えた月曜日、帰りのホームルームでの片桐先生の話が終わると、掃除当番以外の生徒は速やかに下校し始めた。体育祭が終わって2週間も過ぎると、あの熱気と興奮はもうすっかり冷めて、生徒たちは何事もなかったかのように元の学校生活に戻っていった。そして間髪を入れず、7月の1週目からいよいよ期末試験が始まる。
「さて、私たちも帰りますか」
 帰り支度を終えた美智子は、いつもそうしているように美桜に言った。
「美智子、ちょっと」
 美智子を呼び止めたのは、学級委員長の早紀だった。早紀は美智子を教室の隅に連れていくと、2人で何か言葉を交わし始めた。ひそひそ話という感じではなかったが、あまり大っぴらにはしたくないらしい。その間に希美が美桜のところにやって来た。
「希美ちゃん、今日から部活休みでしょ?」
「うん、だから一緒に帰ろう」
 美桜は希美のことが心配だった。期末試験で赤点を取っても即留年というわけではないが、2学期、3学期の成績いかんでは単位を落としかねない。追試でも単位が取れなければ本当に留年である。中間試験以降、希美は自分で宿題をやるようにはなったが、それでも練習がきついときは宿題をやってこないこともある。
「とか言って、こっそり練習するんじゃないでしょうね」
 早紀との秘密の会談が終わり、自分の席に戻ってきた美智子が希美にくぎを刺した。
「大丈夫です。そんなことしませんから」
 希美はそう言うものの、美桜はやはり不安だった。
(本当にちゃんと勉強するのかしら?)
 ついマンガやテレビを見てしまう希美の姿は容易に想像できるたが、希美が机に向かって集中して勉強する姿を美桜はどうしても想像できなかった。
「あの、希美ちゃん、もしよかったら、家で一緒に勉強しない? うちの親、帰り遅いから大丈夫よ」
「えっ? 美桜ちゃんちで2人っきりで?」
「あ、いえ、みっちゃんも入れて3人でやろうかなって……」
「なんだ、そうか。ハハハ……」
「私が行っちゃいけないの?」
「別にそんなこと言ってないよ!」
 希美は慌てて否定した。
「希美ちゃん、大丈夫?」
「も、もちろん」
「みっちゃんは大丈夫?」
「しょうがないわね。希美が落第したんじゃ目覚めが悪いから、行ってあげるわ」
「じゃあ、このあと私の家に集合ね」
「私、このまま行っていいかな。家まで帰るの面倒くさいし」
 美智子は美桜の家に急に押しかけるのは迷惑かと思ったが、家まで往復2時間はかかるのでやむをえない。
「うん。希美ちゃんはどうする?」
「私は勉強道具取ってくるから一度家に帰るよ」
「まさかサボる気じゃないでしょうね?」
「ちゃんと行きますよ」

 希美は自分の家の鍵を開けて中に入った。家の中は薄暗く、両親は共働きで家には誰もいない。弟は学校から家に帰ったあと、どこかへ行ってしまったようだ。希美は家に誰もいないことを確認すると、自分の部屋から着替えを出して脱衣所へ向かった。
 制服を脱いだ希美は洗面所の鏡に映った自分の姿をまじまじと見つめた。短く切った男の子のような髪、日焼けして少し浅黒い顔と長くて細い手足、そして、その容姿と不釣り合いにやや大きく張り出した胸。希美はほかの生徒たちより胸が大きいことを密かに気にしていた。陸上のユニフォームや体操着に着替えると、どうしても目立ってしまう。
 希美は脱ぎ捨てた制服を拾って、そっとにおいを嗅いでみた。梅雨はまだ明けておらず湿度が高かったので、今日は半袖でも少し蒸し暑く、汗をかいてしまった。部活ならほとんど気にならないのだが、女の子の部屋だとそうはいかない。ましてやこれから行くのは美桜の部屋だ。汗臭いなんて思われて、美桜に嫌われたらどうしよう。
 希美はすぐにシャワーを浴びると、私服に着替えて美桜に家に向かった。

 美桜の家に着いた希美がチャイムを鳴らすと、美桜が玄関で出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
「どうも、おじゃまします」
「上がって。2階よ」
 美桜の家はどこにでもあるごく普通の一戸建てだ。美桜の言うとおり両親は仕事に行っているのか、家の人は誰もいない。玄関からすぐ右手に2階に伸びる階段がある。美桜のあとに続いて、希美も階段を上っていった。
(うわっ!)
 希美が下から見上げると、美桜のスカートの中が危うく見えそうになる。希美は真っ赤になって慌てて目を伏せた。2階に上がっただけなのに、息が上がってもう汗が噴き出してきた。
「さぁ、入って」
 美桜の部屋を目の前にすると、希美は中に入るのを躊躇(ちゅうちょ)した。そこにはいまだ自分の知らない美桜のプライベートな空間が広がっていて、希美にはそこが神聖な場所のように思われた。足を踏み入れるのがためらわれる。
「どうしたの?」
「あ、いや……」
 希美が意を決して美桜の部屋に入ると、部屋の真ん中に置いてあるテーブルで、すでに美智子は勉強を始めていた。もちろん美智子がいることは最初からわかっていたが、希美は美智子がいてくれたことに救われた気がした。
「ずいぶん遅かったわね。わざわざ着替えてきたの?」
「ま、まあ、一応……」
 美桜の部屋は極めて簡素で物が少なく、女の子らしいところは微塵(みじん)もなかった。かわいらしいぬいぐるみが飾ってあるわけでもなく、本棚にファッション雑誌が並んでいるわけでもない。壁や絨毯(じゅうたん)やカーテンの落ち着いた色合いは、むしろ落ち着きすぎていて、女の子の部屋としては違和感さえ覚える。しいて言えば、壁際にあるアップライトピアノが、この部屋の唯一女の子らしいといえば女の子らしい物だが、それもかえって、この部屋の無機的な印象を際立たせている。
 希美は美桜のイメージからもっとかわいい部屋を想像していたので、この何もない部屋は意外だった。急に押しかけたのにもかかわらず、部屋はきれいすぎるぐらい片づいている。
(美桜ちゃんって、本当にここで生活してるのかな?)
 希美はそんな疑問さえ感じた。テレビやステレオやマンガもないこの部屋からは、まったく生活感が感じられない。足の踏み場もないほど雑然としている自分の部屋とは大違いだ。
「テーブルが狭くてごめんなさい」
 教科書とノートを広げると、部屋の真ん中に据えられたローテーブルは、2人で勉強するのがやっとである。美桜は美智子に自分の机で勉強するように勧めたが、美智子は希美に勉強を教えるからここでいいと言った。結局、美智子と希美がテーブルに向かい合って座り、美桜は自分の机で勉強することになった。
「わからないことがあったらなんでも質問してよ」
「ありがとう」
 希美は美桜が離れたところに行ってしまったのは残念に思ったが、美桜の部屋に遊びに来たわけではない。今は勉強に集中するときだ。また赤点を取って、これ以上美桜の前で恥ずかしい思いはしたくない。
 しばらく3人は黙々と勉強を続けた。時折、希美は美智子にわからないことを質問し、美智子は希美にもわかるように懇切丁寧に教えていた。美智子はなんだかんだと言いながら、こういうところは面倒見がいい。
 勉強を始めて1時間余りが経過し、そろそろ疲れてきた希美がふと顔を上げると、机に向かって勉強している美桜の背中が見えた。希美はその姿を見ていると、中学生の頃の記憶がよみがえってきた。
 教室の片隅でいつも頬づえをついて、退屈そうにぼんやりしている1人の女の子。希美はなぜその子がそんなにつまらなさそうにしているのか理解できなかった。自分にはやりたいことがたくさんあって、毎日がこんなに楽しいのに。その子のことが気になって、何かと理由をつけて、その子のいる教室に足しげく通った。そのたびにその子の笑った顔や泣いた顔や怒った顔を想像して、もし自分が友達だったらそうしてあげられるのにと勝手にうぬぼれていた。
「希美……、希美!」
「えっ!」
「えっ、じゃないわよ。何ボーっとしてんのよ」
「あ、いや……」
 希美は美智子に呼ばれて、中学時代の記憶から現実に引き戻された。確かに中学生のときに思い描いていた夢は、今こうして現実になった。だけど……。
「疲れたわね。ちょっと休憩にしましょうか。私、おやつ持ってくるね」
 美桜はおやつを取りに下へ降りていった。
「美桜、変わったわね」
 美桜が階段を下りていく足音を確認してから、美智子がしみじみと言った。
「うん。中学のとき、美桜ちゃんの笑った顔、見たことなかったから」
「中学のときの美桜って、どんな感じだったの?」
「うーん、いつも教室で独りぼっちだったなー。寂しそうというか、退屈そうにしてた」
「ふーん。でも、美桜と違うクラスだったんでしょ?」
「うん。でも、私、美桜ちゃんのクラスにしょっちゅう顔出してたから」
「フフッ、その話聞いたわ。美桜、不思議がってたわよー」
「あー……、美桜ちゃん、何か言ってた?」
 自分が美桜に会うために教室に通っていたことは、美桜も薄々感づいていただろう。美桜に変な人と思われていたのではないだろうか?
「ん? 別に、何も言ってなかったよ」
 美智子は一応希美のことを気遣って、余計なことは言わなかった。これは2人の問題だ。第三者は黙っていよう。遊園地で出しゃばりすぎた反省もある。
「私ね、本当は早紀から希美の勉強を見るように頼まれてたのよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。でも、私が希美を誘う前に美桜が誘ってた。だから、私、全然必要なかったわね」
「そんなことないよ。たぶんウッチーがいなかったら、美桜ちゃん、私のこと誘ってないと思うよ」
「なんで?」
「ウッチーも一緒に勉強するって思ってたから、私を誘ったんだよ」
「私、一緒に勉強するなんて、一言も言ってなかったけど」
「美桜ちゃんはウッチーが断るはずがないって、そう思ってるんだよ」
「何よそれ?」
 美桜が飲み物とお菓子を持って戻ってきた。
「何も用意してなかったから、たいしたものはないけど」
「ねー、美桜って部屋の中に何も置かない派?」
「そうね、特に気にしてなかったけど、ちょっと殺風景かしら?」
 改まって美智子にそう言われると、確かにこの部屋はがらんとしていて、つまらないかもしれない。美桜は美智子や希美に自分の内面を見られているような気がして、急に恥ずかしくなってきた。
「今度、ぬいぐるみでも買ってこようかな」
「うん、それがいいよ」
 高校に入学して以来、美桜は美智子や希美やクラスメイトたちと出会って大きく変わった。もう独りぼっちの退屈な女の子じゃない。しかし、この部屋は中学生のときのままで、今の美桜にはふさわしくない。
「試験が終わったら、一緒に買いに行こう」
「うん」
(やったー!)
 希美はごく自然に美桜と買い物に行く約束ができて、顔がにやけてくるのを必死でこらえた。試験が終わるのが今から待ち遠しい。
「マンガや雑誌が1冊もないし」
 美智子が本棚に目をやると、このご時世にほとんど使用されないと思われる立派な百科事典や、よく図書館で見かけるような世界文学全集などが整然と並んでいる。
(はー、ほとんど骨董品(こっとうひん)だわ。ん?)
 美智子はあまりに堅苦しい本棚の隅に窮屈そうに収まっている、ほかの本とは明らかに異質な、ある1冊の本に目がとまった。
「何、これ?」
 美智子が本棚からその本を取り出した瞬間、美桜は急何かを思い出したようにハッとなって、美智子に向かって大声で叫んだ。
「それダメーーー!!」
 美桜は慌てて美智子を制止しようとしたが、間に合わなかった。その本の表紙にはこう書かれてあった。

『他人と上手に話す方法』

 一瞬、部屋の中が凍りついて、時が止まったような気がした。美智子は見てはいけないものを見てしまったと思ったが、もう手遅れだ。
「プッ……」
「クックックックッ……」
「ハハハハハハハハ!!」
「ハハハハハハハハ!!」
 美桜には悪いと思ったが、2人はどうしても笑いをこらえることができなかった。まさか、美桜がこんな本を読んでいたとは思わなかった。美桜は頭のてっぺんからつま先まで真っ赤になった。これほど恥ずかしい思いをしたのは生まれて初めてだ。例の「ふぇっ!」どころではない。
「でも美桜、十分効果あったわよ。クックックッ……」
「美桜ちゃん、結構、悩んでたんだね。ハハハハ!」
「ち、違う!」
 美桜が美智子と知り合った頃、本屋でこの本をたまたま見つけて衝動買いしてしまったが、1度も読まずに本棚に放り込んであったのをすっかり忘れていた。美桜はそのことを2人に話したが、もちろん2人は信じてくれなかった。
「わかった、わかった。クックッ」
「信じてないでしょ!」
「いや、信じたよ、ホント。フフフッ」
「もうーっ!」
「ほら、休憩は終わり。勉強しましょう。プッ」

(なんか暑いな)
 勉強を再開してから1時間が経過した頃、希美は部屋の中が蒸し暑く感じられた。今日は湿度が高い上に窓も閉め切っていたので、部屋に3人もいると熱気がこもってくる。
(まずい……)
 勉強に集中していて気づかない間に、希美は胸や脇の下に汗をかいてしまった。こうなることを希美は1番恐れていた。通気性のいい服を着てきたつもりだが、それでもどうしてもこうなってしまう。
 暑いけどにおいが気になるので、下敷きであおぐこともできない。部屋にはエアコンが備えつけられているので、できればつけてもらいたいのだが、美桜と美智子はそれほど暑くないらしく、2人とも平気な顔で勉強を続けている。
「美桜ちゃん、おトイレ借りてもいいかな」
「ええ、案内するわ」
「い、いや、いいよ。自分でわかるから」
 希美は美桜から逃げるように部屋から出ていった。
「ちょっと暑くない?」
「そうね。エアコン入れようかしら」
 美桜はエアコンのスイッチを入れた。ピピッという音がしてエアコンのモーターが静かに動き始めると、部屋は間もなく快適な温度と湿度に保たれた。

「こんなに汗かいちゃった……」
 トイレに逃げ込んだ希美は、ハンカチで胸や脇の下の汗を拭き取った。慌てて来たので、カバンにしまってあるボディシートを置いてきてしまった。自分の着ている服をチェックする。汗をかいても目立たない服を着てきたが、間近で見ると脇の下がぬれているのがわかる。自分の服のにおいを嗅いでみた。特ににおわないと思うが、他人がどう思うかはわからない。希美は部屋に戻るのが怖くなった。
 2人には絶対に知られたくない。特に美桜には。しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。希美はなるべく気を落ち着かせて、部屋に戻っていった。
 部屋に戻ると、さっきよりも部屋の中が涼しくなっていた。誰かがエアコンのスイッチを入れたらしい。
(どうしよう……。やっぱり、目立つのかな……)
 もしかして2人に気を遣われたのかと思うと、希美は恥ずかしかった。自分のいなかった間に、美桜と美智子がどんな会話をしていたのか非常に気になる。2人は黙々と勉強をしていて、自分のことを気にするそぶりはないが……。
 気にしすぎだということは、自分でもわかっている。たとえ2人に知られたとしても、きっと笑っておしまいになるだけだろう。しかし、それがわかっていてもなお、希美はこのことだけは隠しておきたかった。
 しかし、エアコンを入れてくれたこと自体は、希美にとってありがたかった。おかげで希美は自分の汗を気にする必要がなくなり、勉強もはかどった。その後は2時間もの間、集中して勉強に取り組むことができた。時々飽きそうになっても、美桜と美智子が勉強している姿を見ると、自分もやらなければいけないという気持ちになってくる。これが自分の家だったら、とっくに寝そべってマンガでも読んでいるはずだ。
「おっと、こんな時間だ。私、もう帰るわ」
 時計は間もなく6時を指すところだ。美智子は慌てて勉強道具を片づけ始めた。
「あー、疲れた」
 希美も勉強道具を片づけ始める。
「もし、2人がよければ、今週はみんなで一緒に勉強したいんだけど。どうかしら?」
 美桜が2人に尋ねた。
「私はいいわよ」
「みなさん、よろしくお願いします」
「じゃあ、明日も私の家で」
「美桜の家ばっかりじゃわるいから、ちょっと遠いけど、明日は私の家でやろうよ」
「いいの? みっちゃん」
「いいわよ、別に」
「じゃあ、その次、私の家で」
 結局、美桜、美智子、希美の順番で月曜日から土曜日まで一緒に勉強して、期末試験前日の日曜日は、各自で勉強することになった。
「ヤバ、こんな時間だ。私、帰るね」
 美智子は慌ただしく部屋から出ていった。期せずして、美桜と希美は誰もいない部屋で2人きりになってしまった。美桜は希美に背を向けて、机の上を片づけている。今そんなことをする必要はないのだが、誰もいない部屋で2人きりだと思うと、美桜は急に希美を意識し始めた。
(希美ちゃんは帰らないのかしら?)
 美桜は今自分が振り向くと、またあの頃のように希美と視線が合いそうな気がして怖かった。ここで振り向いて、希美と視線が合ってしまっても、今までのように友達のままでいられるのだろうか?
「私、帰るね……」
 美桜は希美の声にハッとなって、思わず振り向いた。希美と視線が合いそうになり、避けるように慌てて目をそらしてしまった。ほんの一瞬見えた希美の瞳が寂しそうに見えた。
「見送りはいいから」
 希美は部屋を出ていった。美桜はその場に立ち尽くしたまま、希美のあとを追えなかった。やがて玄関が静かに閉まる音が聞こえ、希美がこの家から出ていったのがわかった。
 美智子と希美がいなくなると、美桜の部屋は元の何もないがらんとした部屋に戻った。さっきまで3人で一緒に勉強していたのがうそのように、部屋は静まり返っている。カーテンの影からこっそり窓の外をのぞいてみると、走っていく希美の後ろ姿が見えた。その希美の姿もあっという間に見えなくなった。
 日が傾いて西日の差し込む部屋の中で、美桜はベッドに仰向けになって、天井をじっと見つめていた。一瞬だけ見えた希美の寂しそうな瞳が頭から離れず、後悔と自己嫌悪が美桜の小さな胸を(さいな)んだ。
(私って、最低……)

 翌日の放課後は、約束どおり美智子の家で勉強することになった。美桜は勉強道具を用意してきたので、美智子の家に直接行くことにしたが、希美は昨日と同様、一度自宅に戻ると言って聞かなかった。
「勉強道具ぐらい最初から持ってきなさいよ。時間がもったいないでしょ」
「すぐ行くから大丈夫!」
 希美は校門で2人と別れると、走って自宅へ向かった。
「走らずにはいられないのかしら。まるで子供ね」
 確かに自宅へ走っていく希美の姿は、ランドセルを担いで走っていく小学生に似ていた。
「昨日も希美ちゃん、走って帰っていったから」
 美桜は昨日、窓からのぞいた希美の後ろ姿を思い出した。あのときも希美はまるで子供のように走っていた。
 たまに学校の帰りが遅くなるときに、校舎から希美の練習風景を見ることがある。ピストルが鳴らされると、希美は低い姿勢から勢いよく飛び出して、ほかの生徒たちをどんどん引き離していく。ゴールすると歩いてスタート地点に戻り、またピストルの合図でスタートする。それを何度も何度も繰り返していた。希美の走る姿は美しく、美桜はいつまでも希美の練習を見ていたい気分になる。
「私、希美ちゃんの走ってる姿、好きだな」
 特に深い意味はなかったが、美桜は自分の「好き」という言葉に胸がドキッとした。「好き」なんて言って、美智子に変な風に思われたりしていないだろうか? 美智子にはなんでも見透かされているような気がする。美桜は横目でちらっと美智子を見てみたが、特に変わった様子はないので安心した。
(希美ちゃんはただの友達。何も意識する必要なんてないじゃない)
 昨日、美智子が帰ったあと、誰もいない部屋で希美と2人きりになったら、急に胸がドキドキしてきて、自分ではどうすることもできなかった。たとえ希美が自分のことをどう思っていようとも、希美とは友達として普通に接したいのに、部屋で2人きりになると変に意識してしまった。今日はそんなことにならないように、希美とはいつも通りに接しよう。もう希美にあんな顔はさせたくない。
 2人が駅に向かって歩いている間、美桜は希美のことで独り思い悩んでいた。そして、その様子を美智子はじっとそばで見ていた。
(美桜が何か思いつめている……。そういえば、昨日2人を残して先に帰ってしまった。あのあと何かあったのかしら? 希美もいつもより元気がなかった。希美のやつ、早まったことをしてなければいいけど……)
 美智子は2人の間のことには口出ししないと決めていたので何も言わなかったが、試験前だというのにあまりよろしくない兆候だ。今は勉強に集中すべき時である。
 駅に着いて間もなく、希美は昨日と同様、私服に着替えて自転車で現れた。
「てっきりまた走ってくるのかと思ったわ」
「時間がもったいないって言うから、自転車で来たの」
 希美は今日も遊園地に行ったときと同じパンツスタイルだ。普段から男の子のような希美がスカートをはいていないと、本当に男の子そのものに見える。制服のときの希美とは別人のように思えて、美桜は恥ずかしさのあまり希美の顔をまともに見ることができない。昨日も部屋で2人きりになったとき、どうしても後ろを振り向けなかった。
 希美も美桜に対して腫れ物に触るような接し方で、まるで初めて3人でお昼ご飯を食べたときのようにぎこちなかった。
 明らかに様子のおかしい2人を見て、美智子はこう結論づけた。
(やっぱり何かあったな……)

「おじゃまします」
「遠慮しないで。カバンはソファーの上にでも置いておいて」
 美桜と希美は美智子の家のリビングに通された。よく手入れされたフローリングの上に居心地のよさそうなソファーが並び、高そうなテーブルの向こうには大型テレビが堂々と据えてある。
「はー……」
 自分の家とはあまりにかけ離れた豪華なリビングに2人はそわそわしてしまい、辺りをキョロキョロ見回した。
 美智子の部屋は狭い――この立派な家で部屋が狭いとは考えにくいのだが――というので、3人はダイニングルームで勉強することにした。ダイニングルームには、一家で食事をするには大きすぎる立派な無垢材のテーブルがあり、これだけ広ければ今日は3人で一緒に勉強ができそうだ。
 美桜は小学生以来、友達の部屋に遊びに行ったことがなかったので、美智子の部屋に行ってみて同世代の女の子の部屋がどうなっているのか知りたかった。あとで見せてくれるように美智子に頼んでみよう。
「希美の面倒は私が見るから、美桜は自分の勉強してていいよ」
「でも、それじゃ悪いよ」
「大丈夫だって」
 早紀との約束もあるので、美智子は希美の面倒はあくまでも自分が見るつもりでいるらしい。テーブルには美智子の隣に希美が座り、美桜は美智子と向かい合うように座った。美智子は席を外してキッチンでお茶を入れ始めた。
 今このテーブルには美桜と希美の2人しかいない。美桜は目のやり場に困った。ここ最近は希美に対してこんなに意識することはなかったのに、今はなぜか希美のことが気になってしまう。私服姿の希美がそうさせるのだろうか? 私服の希美は妙に大人っぽく、高校3年生ぐらいに見える。
 希美にかける言葉が見つからず、気まずい雰囲気を希美はどう感じているのかと思い、美桜は希美の様子をちらっとうかがった。
「ねぇ、ねぇ、美桜ちゃん……」
「は、はい……」
 希美が美桜に顔を近づけて、声を潜めて美桜に話しかけた。美桜はそれだけでドキッとしてしまう。
「ウッチーの家って、お金持ちなのかな?」
「……」
 何を言い出すのかと思えば、希美はこんな子供みたいなことを真顔で聞いてきた。確かにフローリングもソファーもテーブルもみんな高そうだったが、美桜は思っても口に出さなかった。
「そうね……、きっとそうなんじゃないかしら」
 美桜は戸惑いながら希美の質問に一応答えておいた。私服姿の希美がいくら年上に見えても、中身は学校にいるときとなんら変わりなく、見た目と性格のギャップが甚だしい。希美は美桜の答えに満足したのかニコニコ笑っている。この希美の天然というか能天気なところに、美桜は救われる思いがした。
 美智子が紅茶を入れて戻ってきた。美桜がティーカップを口に近づけると、紅茶から花のような香りが漂ってくる。一口飲むとすっきりした軽い味がして、紅茶というより日本茶に近い感じだ。
「これなんていうお茶?」
 希美が無邪気に尋ねた。
「ダージリンよ」
「ふーん」
 それがどういう意味なのか知らないまま、希美はダージリンを一気に飲み干した。おいしかったが、どちらかと言えば日本茶の方が好きだなと思った。そんな希美でも、この紅茶がさぞかし高級なものなのだろうということは理解できた。
「さ、始めるわよ」
 3人は教科書やノートを広げて、勉強を始めた。幸い今日の天気は昨日ほど蒸し暑くなく、ダイニングルームも広いせいか、美桜の部屋より快適だ。希美は少し安心した。

「あー、疲れた。ねぇ、おやつまだ?」
 2時間もの間、3人は集中して勉強したが、ここらで希美の集中力も限界に達したようだ。
「はぁ? 何、贅沢(ぜいたく)言ってんのよ」
「えーっ、休憩にしようよ」
「そうね、少し休憩にしましょうか」
 美桜も希美に賛成した。
「しょうがないわね」
 美智子もしぶしぶ同意した。
「ねぇ、ウッチーの部屋見せてよ」
 美桜が頼みたかったことを希美が先に聞いてくれてた。やはり、希美も友達の部屋は気になるのだろう。
「別に何もないけど」
「いいから、いいから」
 希美は美智子を後ろからせっついて、部屋に案内させた。美智子の部屋は2階の1番日当たりのいい場所にあった。
「みっちゃんって兄弟いるの?」
「いいえ、独りっ子よ」
 1番いい部屋を独占できるのは、独りっ子の特権だ。
「どうぞ」
 美智子がドアを開けるなり目に飛びこんできたのは、部屋の棚や床にまであふれかえった大量のキャラクターグッズやぬいぐるみたちだった。
「ゲッ、なんだこの部屋は」
「何、引いてんのよ」
「あ、いや……、なんか意外だなと思って」
 美桜も美智子の部屋に呆気に取られている。キャラクターグッズやぬいぐるみだけではない。カーテンも壁紙も絨毯も何もかも女の子の趣味で満たされいて、本棚には雑誌や少女マンガや小説が所狭しと並んでいる。部屋が狭いと言った理由がわかった。
「これじゃ、落ち着けないなー」
 部屋の中を見回しながら、希美は半ばあきれながら言った。
「私はこれが落ち着くの」
「みっちゃんの部屋って、もっとこう落ち着いた感じだと思ってた」
「そう? 女の子の部屋って、こんなもんでしょ」
 本当にそうなのだろうか? 同年代の女の子の部屋ってどうなっているのだろうか? 美智子の言うとおりこれが普通だとしたら、自分の部屋はあまりにも殺風景すぎる。美桜は昨日、2人に自分の部屋を見せたのが恥ずかしくなってきた。あさっては自分の家で勉強することになっている。それまでにぬいぐるみの1つでも飾っておかなくては――。
「ちょっと、おやつ持ってくるわね」
 2人とも部屋から動きそうにないので、美智子は自分の部屋におやつを持ち込むことにした。
「あー、これ読みたかったんだ」
 希美は本棚に収まっている少女マンガを勝手にあさり始めた。読みたかったマンガがいくつもある。1冊借りていきたいところだが、試験が終わるまでの辛抱だ。
「あっ、卒業アルバムだ」
 希美は本棚の隅に置かれた中学校の卒業アルバムを取り出した。
「ちょっと、勝手に見たらまずいんじゃない?」
「大丈夫だよ。ただの卒業アルバムだもん」
 希美は美桜の忠告も聞かずに、美智子の卒業アルバムをめくり始めた。
「ウッチーはどこかなー?」
 1度は制止した美桜だったが、中学時代の美智子も見てみたい気がする。結局好奇心に負けて希美と一緒に美智子の卒業アルバムを見始めた。やがて、階段を上る音が聞こえてくると、美智子が3人分のケーキを持って部屋に戻ってきた。
「ほら、ケーキ持ってきたわよ」
「サンキュー。あ、ウッチー、卒業アルバム見させてもらってるよ」
 ガシャーン!!
 突然、美桜と希美の後ろで食器がぶつかる大きな音がした。2人が驚いて振り向くと、美智子がケーキを載せたトレーを自分の机の上にたたきつけたところだった。そして、美智子が鬼のような形相で猛然と希美のそばに近寄ると、希美の持っていた卒業アルバムをひったくるように取り上げてしまった。美智子の唐突な行動に2人はただ唖然(あぜん)とするしかなかった。
「何、勝手に見てんのよ……」
 美智子は2人を見下ろしながら努めて冷静に振る舞おうとしたが、怒りを抑えきれずに唇がわなわな震えていた。普段は理性的な美智子が、これほど感情的になるのは見たことがない。
「ご、ごめん……」
 希美はなぜ美智子がこんなに怒っているのかわからず、驚きと戸惑いを隠せなかった。確かに断りもせず勝手に本棚をあさったのは事実だが、だからといってそこまで怒る理由はないと思うのだが……。美桜にいたっては本気で怒っている美智子が怖くて、おびえるばかりだった。
 美智子は希美の謝罪には応えず、取り上げた卒業アルバムを持って無言で部屋を出ていった。部屋の中はしんと静まり返り、残された2人はなぜこんなことになったのか訳がわからず呆然(ぼうぜん)としていた。
 まさかこんなことで美智子との友情が終わってしまうのだろうか? 美桜は美智子が出ていったドアを眺めながら、美智子と初めて出会ったときのことが、古い映画の1コマのようによみがえってきた。
 あのときは美智子に突然話しかけられて、どうしていいかわからなかった。お弁当を一緒に食べたときは、ソーセージと唐揚げを交換したっけ。あれから3ヵ月しかたっていないのに、遠い昔のことのような懐かしい感じがする。なぜ美智子は自分に話しかけてきたのか、いつか聞こうと思っていたけど、まだ聞けていなかった。もしかして、もう聞けないのかな……。
 美桜の目から大粒の涙がポロポロ落ちてきた。美智子が去ってしまった寂しさと不安で、美桜の小さな胸は押しつぶされそうになった。独りぼっちには慣れていたはずなのに、これから独りになるのは耐えられそうにない。
 希美は泣き出してしまった美桜にかける言葉がなかった。美智子の机の上にはみんなで食べるはずだったショートケーキが3つ並んでいる。美智子が乱暴に置いたので、3つのケーキのうちの1つが横に倒れていた。美桜はしばらく泣き止みそうにないし、美智子も部屋から出ていったきり戻ってこない。とても勉強を続ける感じではなくなった。
「美桜ちゃん、今日は帰ろう」
 希美の言葉が耳に入らないのか、美桜はなおもその場で泣き続けていた。希美は美桜の肩をそっと抱いて帰るように促すと、美桜はようやく立ち上がって、希美に抱きかかえられるように美智子の部屋を出た。階段を下りてさっきまで勉強していたダイニングルームに戻っても、美智子の姿はどこにもない。仕方なく希美は自分と美桜の荷物をまとめると、2人は玄関に向かった。
「ウッチー、今日は帰るね。さっきは本当にごめん」
 美智子がどこにいるのかわからないまま、希美は帰る前に声をかけたが、美智子の返事はなかった。家の中はひっそりとして、希美の声が家の中にむなしく響いた。聞こえているのか聞こえていないのかわからなかったが、2人は玄関を出ると、そっと扉を閉めた。
 帰り道では2人とも無言のままだった。電車に乗る頃には美桜もようやく泣き止んだが、希美と会話をする気にはなれないらしく、うつむいたまま一点をじっと見つめていた。
 希美は電車が揺れるたびに美桜の肩が軽く触れるのを感じながら、もしけんかしたのが美智子ではなく自分だったら、美桜はこんなに悲しんでくれるだろうかと思った。昨日から美桜によそよそしくされて、せっかく縮まった距離がまた元に戻ってしまった気がする。自分だって美桜を支えることぐらいはできると思うのだが、美智子に比べたら今の自分は存在しないに等しい。それがつらい。
 希美は美桜を家まで送り届けると、自転車を取りに再び駅へ戻っていった。
「明日、もう1度ウッチーに謝ってみるよ。きっと許してくれると思うよ。だから元気出して」
 別れ際に美桜を少しでも元気づけようとして、そんなことを言ってみたが、言っている自分でも空々しく聞こえるほど、その言葉には何の意味もなかった。それでも美桜は小さくうなずいて「ありがとう」と言ってくれた。
 明日学校でどうなるかそれはわからない。美智子とはもう永遠にわかり合えないかもしれないし、何事もなかったかのように、また3人でお弁当を食べているのかもしれない。とにかく、明日もう1度美智子と話し合ってみよう。それで駄目なら仕方がない。なるようになれだ。希美はそう心に決めると、いくらか気持ちが楽になった。予定どおりなら明日の勉強会は自分の家で行うはずだ。希美は自転車の駐輪場まで走っていった。早く帰って部屋を大急ぎで片づけなければ。

 美智子は薄暗い父親の書斎の壁にもたれかかって、隠れるようにじっとしていた。やがて美桜と希美が階段を下りてくる音が聞こえてきた。誰かが泣いているのか、かすかに鼻をすする音が聞こえる。きっと美桜だろう。友達を泣かせてしまった。激しい後悔と後ろめたさで、いても立ってもいられなくなる。今すぐにここから美桜の元に駆けつけて、なんでもなかったと言ってあげたい。
 希美の声が聞こえてくる。今日は早紀との約束を守れなかった。希美にもすまないと思う。これまで3人で築き上げてきたものを、子供が積み木を崩すように自分で壊してしまった。しばらくすると、玄関の扉が閉まる音が聞こえ、美桜と希美が帰っていったのがわかった。2人が帰ると家の中は物音ひとつせず、しんと静まり返った。もう二度と元に戻らないのだろうか? 2人が自分の前から永遠に去ってしまったような気がして、急に怖くなった。
(また独りぼっちに戻ってしまった)
 美智子は希美から取り上げた卒業アルバムを広げた。数ページめくると、自分のクラスの顔写真が並んでいる。美智子はその中にある自分の顔をじっと見つめた。薄暗い中、自分の顔がぼんやりと浮かび上がってくる。
「たいしたことじゃないわ」
 美智子は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。そして、卒業アルバムをそっと閉じた。
「私は変わったんだから」

 その日の夜、誰もいない美桜の部屋でスマートフォンが鳴り、メールが1通届いたことを知らせた。

 翌日の朝、美桜はいつもより遅い時間に家を出た。3人で遊園地に行って以来、あんなに学校に行くのが楽しかったのに、今日はどうしても学校へ行きたくない気分だ。足取りも自然重くなり、さっきからぼんやりしてため息ばかりついている。美桜はカバンからスマートフォンを取り出して、昨日届いていたメールをもう1度読んでみた。
「ゴメン、美桜。明日、謝りたい」
 メールにはこう書かれている。返信しようかと思ったが、何を書いていいのかわからないまま時間だけが過ぎていき、結局返信できなかった。学校についたら美智子にどう接すればいいのだろうか? お弁当は一応作ってきたが、いつものように3人で食べることができるのかわからない。希美とはどうなっているのだろうか? 希美にも同じメールが送られて、今ごろは美智子と仲直りしているのだろうか? 希美のことだから、美智子が謝ればきっと笑って許すだろう。自分もそうすればいいと思うのだが、何事もなかったかのように振る舞うような器用なまねが自分にできるとは思えない。美智子と仲直りできる日が本当にやって来るのだろうか?
 美桜は遅刻ギリギリに学校に着いた。玄関で上履きに履き替えて、廊下を真っすぐ進むと、教室はすぐそこだ。教室に近づくにつれて緊張感が高まってきて、高校に入学した頃と同じ感覚を味わった。美桜はなるべく廊下をゆっくり歩いた。この廊下がどこまでも続いていて、永遠に教室に着かなければいいのにと思った。
 しかし、どんなにゆっくり歩いても、教室の前まであっという間に着いてしまった。美桜はそこで足を止めた。教室に入るのが怖くて、足がすくんで前に進めない。おそらく美智子は席について、自分が来るのを待っているのだろう。いや、もしかしたらほかの友達のところにいて、自分のことなんかなんとも思っていないのかもしれない。壁ひとつ隔てた向こう側で何が行われているのか不安が募る。
「美桜」
「ふぇっ!!」
 突然後ろから話しかけられて、驚いて振り向くと、そこには同じく驚いた表情をした美智子が立っていた。
「あ……」
 気をつけていたのに、不意を突かれてまたやってしまった。この癖は一生治らないのかもしれない。美桜は恥ずかしさのあまり、顔がみるみる赤くなっていった。
「クッ、クククククッ……」
 美智子は久しぶりに見た美桜の「ふぇっ!!」がおかしくて、こらえきれずに笑い出してしまった。
「ごめんなさい。脅かすつもりはなかったのよ」
 そう言って笑いながら、美智子の目から涙がこぼれていた。それが果たして美桜の「ふぇっ!!」がおかしくて泣いたのか、それとも別の意味で泣いたのか、美桜にはわからなかったが、重苦しかった美桜の心が、羽が生えたように軽くなった。
「もう……、そんなに笑わないで……」
「ごめん……」
「どうしたの? 2人とも」
 廊下に立っている2人に片桐先生が声をかけた。美智子が泣いていたので、ちょっと不思議そうな顔をしている。
「もうすぐホームルームが始まるわよ」
「はい!」
 2人は並んで教室に入っていった。

第9章 期末試験がんばります(その2)

 今日の勉強会は希美の家で行うことになっていた。希美の家は学校から歩いて15分ほどの坂道を上ったところにある。学校が終わると3人はそのまま希美の家に直行した。
「ここだよ」
 希美の家は大通りから離れた閑静な住宅街の一角にあった。どこにでもあるごく普通の一軒家だ。
「狭いけど入って」
 希美が鍵を開けて3人を家の中に招き入れると、1人の男の子がちょうど外出するところだった。背は希美と同じぐらいで、人なつっこい大きな目と端正な顔立ちを見ると、この男の子が希美の弟であることが一目でわかった。
「こんにちは」
「あ、こんにちは……」
 美智子が希美の弟にあいさつすると、その端正な顔立ちに似ず、思ったより太く低い声で、この時期の男の子に特有のぶっきらぼうな返事が帰ってきた。年上の知らない女子に話しかけられて、少し照れているのかもしれない。
「悪いね」
「別に」
 希美は友達と家で勉強する予定だったので、弟に外に出てもらう約束をしていた。
「ごめんなさいね。家にいてもいいのよ」
「あ、いや……。大丈夫です……」
 美桜が話しかけると、希美の弟は顔を赤らめてうつむいてしまった。その様子を見ておもしろがっている希美をにらみつけて、弟は逃げるように出ていった。
「弟さん怒ってたかしら」
 美桜が心配そうに希美に尋ねた。
「いや、違うと思うよ」
「私のときと態度が全然違うんだけど」
 美智子は希美の弟の反応があからさまに違っていたので、かなり不満そうだ。
「まあまあ、ウッチーのよさは付き合ってみて初めてわかるから」
「何よそれ」
 希美は2階にある自分の部屋に2人を案内した。女の子らしい装飾はほとんどなく、こぢんまりとしているが、きれいに片づいた部屋だ。
「すごい片づいてるね」
「そう?」
 美桜に自分の部屋を見られるのは少し恥ずかしい。昨日家に帰ったあと、懸命に掃除した甲斐があった。それまではマンガや雑誌が床に散乱していて、足の踏み場もないほどだった。さすがにこの部屋を美桜に見せるわけにはいかないので、本棚に入りきらないマンガや雑誌は、お小遣いと引き換えに弟に預かってもらい、部屋の隅々まで片っ端から掃除して、なんとかこの状況を作り上げた。
「どうせ昨日、必死に掃除したんでしょうけど」
「違いますー」
 とは言ったものの、美智子の言ったことは図星だったので、あまり強く反論はできない。しかし、これを機に部屋が片づいたのは、希美にとってはよかった。部屋が散らかっていると勉強する気にならないのは確かで、床にマンガが転がっているとつい拾って読んでしまう。そうやって時間を無駄にして中間試験は失敗した。これからは週に1度くらいは掃除しようと希美は決心した。
 希美は下からテーブルを持ってきて、部屋の真ん中に据えた。美桜の部屋でもそうしたように、美智子と希美が真ん中のテーブルで勉強して、美桜は希美の勉強机を使うことになった。美桜が美智子に机を譲ろうとしても、美智子はかたくなに拒否した。希美に勉強を教えるのが自分の役目と言っていたが、美桜と一緒では希美が勉強に集中できないという美智子の配慮もあった。
 勉強会も3回目となるとだいぶ雰囲気にも慣れてきて、3人とも集中して勉強することができた。特に希美は自分の家ということもあり、余計な気を回さなくてすんだ。3人は2時間たっぷり勉強して、疲れてきたところで休憩することにした。
「私、おやつ取ってくる」
 希美は部屋を出て1階に下りていった。希美がいなくなったので、美智子は改めて部屋の中を見回してみた。本棚には「陸上競技ファン」というまず関係者しか読まないと思われる雑誌が並んでいて、本棚の1番の比重を占めている。バックナンバーまで捨てずに取ってあるようだ。その中の1冊に付箋が貼ってあるのが目についた。美智子はそのバックナンバーに手を伸ばした。
「あ、あの……」
 慌てて美桜が美智子を呼び止めた。
「何?」
「あの……、勝手に見るのはまずいんじゃ……」
「どうして?」
(どうして!?)
 美桜は自分の耳を疑った。確か昨日は私たちに卒業アルバムを勝手に見られて、あんなに怒ったんじゃなかったっけ? 他人に見られるのは嫌でも、自分が見る分にはかまわないのだろうか? しかし、美智子は美桜の心配をよそに、本棚から付箋の貼ってある雑誌を取り出すと、そのページを開いた。
(ど、どうしよう、勝手に読み始めちゃった。こんなところを希美ちゃんが見たら……)

「へー、自分は昨日あんなに怒ったくせに、私のものは勝手に見てもいいんだ!」
「はあ? これくらいいいでしょ! 昨日の仕返しのつもり?」
「あ、あの……、2人ともけんかは……」

「ガチャッ」
 部屋のドアが不意に開いて、希美がおやつを持ってきた。美桜はハッとしてわれに返った。今の状況はまさに昨日と同じで、せっかく仲直りしたのにこのままでは元の木阿弥になってしまう。
「あ、あの……、これは……」
 美桜は断りもなしに勝手に希美の雑誌を見ている美智子をなんとかフォローしようとしたが、美桜の乏しいボキャブラリーでは適当な言葉が見つからない。
「ねぇ、これ希美だよね」
 美智子は付箋の貼ってあるページにマーカーが塗ってある箇所を指して言った。そこには中学陸上競技県大会女子200メートル決勝の結果が小さく載っていた。
『第3位 佐藤希美(陽向台中学3年)25.87』
「そうだよ」
 希美は美智子が勝手に雑誌を読んでいても、まったく気にしていなかった。希美のおおらかな性格に助けられて美桜は一安心したが、昨日のことがあっても人の本棚をあさって勝手に雑誌を読み始める美智子と、それを当然のように受け入れる希美。美桜は2人がどうして平気でいられるのかわからなかった。
(やっぱり、友達ってこういうものなのだろうか?)
 美桜からすれば、2人とも単に無神経なだけに思えるのだが、2人の様子を見ていると自分の方が神経質すぎて、むしろこれが普通のような気もしてくる。友達というものは少しぐらい遠慮がない方がいいのだろうか? 自分もずいぶん打ち解けてきたつもりだったが、2人に比べるとまだまだ遠慮している部分が多いのかもしれない。
「私も見ていいかしら」
 美桜は希美が怒ってないことを確認してから、一応許可をもらった。とても美智子のようなまねはできない。
「いいよー。最新号は世界陸上の展望が載ってるよ」
 希美のせっかくの情報だが、そこに興味はない。美桜が美智子の持っている雑誌を後ろからのぞき込むと、確かにそこには希美の名前があった。
「県大会で3位なんてすごいよね」
「うん」
 美桜は大きくうなずいた。県大会に何人の人が出場したのかわからないが、きっと相当な数だろう。そんなすごい人が自分の友達だなんて少し鼻が高い。
「美桜、同じ中学だったんでしょ? 知ってたんじゃないの?」
「えっ? あ、いや、それは……」
「一応、全校生徒の前で表彰されたんだけどなー」
「ごめんなさい、覚えてなくて」
 全校生徒の前で表彰されたのなら、美桜もきっとその場にいたはずだが、あの頃の美桜は何事にも無関心だったので、残念ながら美桜の記憶にはまったく残っていない。
「それよりケーキ食べようよ」
 希美はテーブルの上にショートケーキとモンブランとレアチーズケーキを並べた。
「美桜ちゃん、どれにする?」
「えーと……」
 美桜は悩んでいる振りをしてみたが、テーブルの上にケーキが並べられた瞬間から、ショートケーキが食べたいと思った。しかし、自分がショートケーキを選んでしまっていいのか迷ってしまう。みんなも当然、ショートケーキが食べたいのではないだろうか? きっとみんな好きだろうし、見た目も1番おいしそうだ。でも、こんなところで遠慮するのは、友達としてどうかとも思う。いつも遠慮ばかりしているから、美智子と希美のような打ち解けた会話ができないのではないか? 自分がショートケーキを選んだとしても、誰も文句は言わないだろう。
(希美ちゃんがああ言っているんだから、私が好きなものを選んでもいいはずだ。よし!)
 美桜は意を決してショートケーキに手を伸ばそうとしたちょうどそのとき――。
「私、ショートケーキもらうね」
 美桜がまごまごしているうちに、美智子が美桜の目の前にあったショートケーキを横からかっさらってしまった。
「あっ……」
 美桜は一瞬の出来事に思わず声が出て、出そうとした手を慌てて引っ込めた。
「ごめん、ショートケーキがよかった?」
「えっ? ううん、私レアチーズケーキが食べたかったから」
 美桜はその場を取り繕って、とっさにうそをついてしまった。
「そう? じゃあ私これね」
「意地汚いなー。美桜ちゃんに最初に選んでもらおうと思ったのに」
「えっー。っていうか、全部同じもの買ってくればいいでしょ」
「バラバラの方がいろんな味を楽しめていいの」
「みんなからもらうつもり? どっちが意地汚いのよ」
 美桜は美智子と希美のやり取りを聞いていると、いつもうらやましくなる。自分も2人の会話に参加したいと思うのだが、美智子と希美がしゃべっている間は、会話に参加するよりも話を聞いていることが多い。2人の会話は聞いているだけで楽しいのだが、ふと、自分が何のためにここにいるのかわからなくなるときがある。もし自分がいなかったとしても、2人はきっと楽しくおしゃべりをしているだろうし、自分がいなくても特に問題はなさそうだ。確かに知り合った頃よりは、2人と話せるようになったと思うのだが、美智子と希美の会話に比べると、言いたいことを話すというより、お互いに気を遣っている感じがする。
(自分が欲しいものぐらいちゃんと言えればいいのに……)
 もし自分がショートケーキを選んだらどうなったか、美桜はその場を想像してみた。

「私、ショートケーキもらうね」
「あっ! それ私が食べようと思ったのに!」
「ダメ、早いもん勝ちですから」
「ずるーい!」

「美桜ちゃん……、美桜ちゃん!」
「ふぇっ!」
 美桜は希美に声をかけられて、われに返った。
「どうしたの? ボーっとして」
「あ、いえ、なんでも……」
「ケーキ、一口もらっていい?」
 早速、希美がケーキを一口もらいにきた。確か今「ふぇっ!」って言ったような気がしたが、誰にも聞かれなかったのだろうか?
「どうぞ、どうぞ」
「いただきまーす」
 希美は美桜のレアチーズケーキを、美桜がすでに口をつけていたところから一口取って、そのまま躊躇(ちゅうちょ)することなく口に入れた。
(私の食べかけのところ、食べちゃった……)
 美桜は少し胸がドキドキした。もし希美が、自分が口をつけていたところからあえて一口取ったしたらどうしよう。そんなことを想像しただけでも顔が赤くなる。そして、今度は自分のケーキに希美が口をつけたところが残っている。このケーキをどうすれば……。それとも、希美はそんなことはまったく気にしない性分で、単に自分が食べやすいところから取っただけかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。事実、希美にそんなあやしい様子はなく、さっきから無邪気にニコニコ笑っている。
「美桜ちゃんも私のケーキ食べていいよ」
「それじゃあ、いただきます」
 美桜は希美のケーキを、希美がまだ口をつけていないところからフォークで一口すくった。モンブランは円いので、こうするのが自然だろう。しかし、今度は希美のケーキに自分が口をつけたところが残ってしまった。
「美桜、私も食べていい?」
「なんだ、結局ウッチーも食べるんじゃない」
「いいじゃないの別に。そんなこと言うんなら、あんたにはあげないわよ」
「あー、ウソウソ。一口ちょうだい」
「ちょっと、イチゴのとこ持っていかないで!」
「ケチだなー! ウッチーは!」
 みんながそれぞれのケーキを一口ずつもらって、会話も大いに弾んでいるさなか、美智子がいかにも自然な風を装いながらこう言った。
「ねぇ、中学の卒業アルバムないの?」
 ケーキを食べていた美桜と希美の手がピタッと止まった。今まで和やかだった部屋の空気が一変して、沈黙と緊張が部屋の中を支配した。もちろん美智子が昨日のことを忘れているはずがない。せっかく3人が仲直りして、また元のように楽しく盛り上がっていたのに、美智子はなぜこんなタイミングで昨日のことを蒸し返すのだろうか? 2人は美智子の真意を測りかねた。
「いや、あるけど……」
「みんなで見ようよ」
 戸惑っている美桜と希美をよそに、美智子はまるで昨日のことはなかったかのように振る舞っている。明らかに意識的にそうしているとしか思えないのだが、どういう意図があるのかはわからない。美桜は頭のいい美智子のことだから、きっと何か考えがあるのだろうと思った。どうすればいいか困っている希美に、美桜は目配せして、大丈夫だからと少しうなずいてみせた。
「わかった……。じゃあ、持ってくるよ」
 希美にも美桜の考えが伝わったらしく、希美は卒業アルバムを取りに部屋を出ていった。しばしの間、沈黙が続く。美桜は美智子の様子を横目でうかがってみた。美智子は平然としているように見えるが、自分と目を合わせないのは、やはりある種の気まずさを感じているのかもしれない。
(希美ちゃん、早く戻らないかな……)
 美智子が何もしゃべらないので、美桜は落ち着かなくなり、そわそわし始めた。最近では美智子と2人きりになっても、こんなことはなかった。こんな時にどんなことを話せばいいのだろうか? またしても自分のコミュニケーション能力の低さを思い知らされて、いやな気分になる。
 幸い希美は弟の部屋に預けてあった卒業アルバムを持って、すぐに戻ってきた。美桜と希美が通っていた陽向台中学校の卒業アルバムを、3人で取り囲むようにテーブルの真ん中に置いた。
「じゃあ……、見るよ」
 昨日のこともあるので、希美は緊張した面持ちで卒業アルバムをゆっくり開いた。1ページ目に空から写した卒業生の人文字があり、さらに数ページめくると、希美のいた3年1組の集合写真と1人1人の顔写真が並んでいる。
「ほら、これが私だよ」
 希美が指し示した写真の下に、確かに「佐藤希美」と書いてある。
「髪、短っ!」
 希美は今でもショートヘアで男子のような顔立ちだが、当時の希美は今以上に髪が短く、写真の希美はどう見ても男にしか見えない。
「どう見たって男じゃん、これ」
「はい、はい」
 希美はこれまで幾度となく同じセリフを聞かされてきたので、そう言われるのは慣れている。
「確かにこんなのにつきまとわれたら、美桜も引くわ」
「はあ!?」
 希美は焦った。いったい美智子は中学時代のことをどこまで知っているのだろうか? おそらく話は美桜から聞いているのだろう。問題はその話が美智子にどう伝わっているかだ。つきまとっていたと言われるのは心外だが、もしかしたら美桜にはそう思われていたのかもしれない。
(美桜ちゃん、ウッチーになんて言ったの?)
 希美は恨めしそうに美桜を見つめた。
(へっ? い、いや、私は、そんなつもりで言ったんじゃ……)
 美桜は首を振って身振りで懸命に否定した。しかし、あんな風に言われたのでは、自分が美智子に余計なことを吹きこんだと思われても仕方がない。
「じゃあ、次、美桜ね」
 希美はまだ何か言いたそうだったが、美智子はそれを無視して卒業アルバムのページをめくり始めた。この話にはこれ以上興味がないと言わんばかりの態度だ。
「美桜、何組?」
「5組よ」
 美桜は卒業アルバムの写真を本当は誰にも見られたくなかった。しかし、この状況で自分だけが見せないというわけにはいかないので、観念するしかなかった。美智子は3年5組のページをめくって、3人の前に広げた。「相川美桜」は1番前だからすぐに見つかった。
「変わってないわね……」
「うん。美桜ちゃんは中学のときと、あんまり変わってないね」
 確かに美桜は中学のときと比べて、外見はそれほど変わってないが、卒業アルバムに写っている美桜は、無表情で生気がなく、どことなく投げやりな感じがする。美桜はこれまで自分の卒業アルバムをほとんど見ていなかった。卒業式の日に1度だけ開いてみたが、自分の写真をちょっと見ただけで、すぐに閉じてしまった。それ以来、卒業アルバムは1度も見ていない。したがって、美桜は卒業アルバムに写っている自分をじっくり見るのはこれが初めてである。
 改めてそこに写っている自分を見ると、何事にも無関心、無感動だった自分が思い返されて、これが自分かと思うと目を背けたくなる。それに比べたら、希美は中学のときからやる気に満ちていて、当時も今も輝いている。
 希美がさっき言ったように、自分は中学のときと本質的にあまり変わっていない気がする。もし美智子が強引にでも話しかけてくれなかったら、自分は中学のときと同じように、今ごろは退屈で色あせた高校生活を送っていただろう。美智子と希美に出会えたのはただ幸運だっただけで、自分から何かをしたわけではない。それどころか、これまでの人生で、自分の意志で何かをしたことがあっただろうか?
 ケーキも食べ終わり、卒業アルバムも一通り見たので、そろそろ勉強を再開しなければならない。美桜と希美がそう思った矢先、美智子がカバンから1冊の本を取り出して、2人の前に差し出した。
「ほら、見たいんでしょ……。見ていいから……」
 美智子が取り出したのは、昨日、希美の手から無理やり取り上げた自分の卒業アルバムだった。
(えっ!?)
(……!!)
 美桜と希美はお互いに顔を見合わせた。見てもいいと言われても、昨日のことがあるので、おいそれと見ることはできない。2人は美智子がなぜ希美の卒業アルバムを見たがったのか不思議に思ったが、要は自分の卒業アルバムを見せるきっかけが欲しかったのだろう。ここで自分の卒業アルバムを2人に見せて、昨日の出来事を清算するつもりらしい。
「い、いや、いいよ」
 普段は細かいことを気にしない希美でも、昨日のことを考えると、さすがに遠慮して断った。
「いいから、見なさいよ。せっかく持ってきたんだから……」
「で、でも……」
「その代わり、絶対笑わないでよ……」
 美智子は恥ずかしそうして、誰からも目線を合わせないように横を向いた。美智子がこういう表情を見せるのは珍しい。美智子にそこまで言われては、見ないわけにはいかない。
「じゃ、じゃあ、見よう……かな……」
 そこにはいったい何が写っているのだろうか? 美智子がそこまで隠そうとした写真とはなんだろうか? 希美は腫れ物を扱うように、慎重に卒業アルバムをめくった。初めに3年1組の写真が並ぶ。「内田美智子」の名前はない。2人は少しホッとした。見つけたいような見つけたくないような複雑な心境だ。希美はさらにページをめくっていった。3年2組、3年3組、3年4組……。とうとう「内田美智子」の名前を見つけた。そこに写っていた写真は――。
「えーっ!! これがウッチーっ!! うぐっ……」
 希美は思わず大声をあげたあと、慌てて自分の口をふさいだ。
「これが、みっちゃん……?」
 美桜も美智子の写真を見て、驚きを隠せなかった。そこに写っていた美智子は、髪の毛はボサボサで、分厚いメガネをかけた痩せすぎの、今の美智子とは似ても似つかない姿だった。
 美桜は今の美智子と卒業アルバムの写真とを見比べてみた。髪の毛はきちんと整っているし、メガネもかけていない。きっとコンタクトレンズにしたのだろう。頬もふっくらとしていて、血色もよく健康的だ。それに何よりも、今の美智子はいつも自信に満ちあふれている。それに比べたら、写真の中の美智子は死んだ魚も同然だ。
「もしかして、これって、同姓同名の別人かな?」
 もちろんそんなことはありえないのだが、希美は冗談でも言わなければ、この場が持たなかった。
「それは、私よ……」
 美智子は横を向いたまま、ボソッと低い声で言った。そして、いつものハキハキした話し方とはまるで反対の、ほとんど聞き取れないような小さな声で話し始めた。
「私、中学のとき、そんなだったから誰にも相手にされなくて、友達も1人もいなかった……。せめて勉強だけはと思ったけど、受験にも失敗して、しばらく自分の部屋に引きこもってて……。でも、このままじゃいけないと思って、高校に入ったら自分を変えようって……。入学式で美桜を初めて見たとき、大人しそうだったから、この人なら私と友達になってくれるかもしれないと思って……」
「でも、みっちゃん、初めて会ったときから、私にあんなに話しかけてくれたわ」
「あれは美桜と友達になりたくて必死だったから……。話すことを前の日に全部考えてきて、それをただしゃべってただけ。本当は足が震えてどうしようもなかった。美桜が迷惑がっていたのはわかってたけど、それでも自分の話を聞いてくれただけでうれしくて……」
 美智子の目から一筋の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
(えっ!?)
 美智子は自分でも驚いて、慌てて涙をぬぐった。そして、恥ずかしそうにトイレに行くと言って、逃げるように1階に下りていった。部屋に残った美桜と希美は、お互いに目を合わせると、ハーッと大きく息をついて、少しほほ笑んだ。いつも強気でみんなを引っ張っていた美智子にそんな過去があったとは驚きだが、それだけに美智子のことをほほ笑ましく思った。
 希美は卒業アルバムを再び手にとって、数ページめくってみた。その中に3年生のときの修学旅行の集合写真があった。希美は1人1人の顔を確認しながら、この中から美智子を探し出そうとしたが、うっかりすると通り過ぎてしまうほど、美智子は地味で目立たなかった。「誰にも相手にされなかった」と美智子は言っていたが、恐らく中学のときの美智子は、そばにいても誰も気に留めない空気のような存在だったのだろう。
「初めてみっちゃんに話しかけられたときは、そんな感じしなかったけどなー」
「ウッチーは意地っ張りだから」
 要領がよく頭もよくて友人も多い美智子は、昔からそういう人なんだと勝手に思い込んでいたが、実はそうではなかった。今の美智子は自分がそうなろうと望んだ結果であって、初めからそうであったわけではない。
「みっちゃん、表には出さないからわからなかったけど、すごくがんばってるのね」
「私もイメチェンしようかなー。髪の毛伸ばしてみたり」
「希美ちゃんは今のままがいいと思うわ」
「そ、そうかな……」
 美桜にそう言われて、希美は本気で照れてしまった。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて!」
 美桜は慌てて否定した。

 美智子はトイレを口実に希美の部屋を出て、1階へ下りていった。慣れない家の中をウロウロしながら洗面所を見つけ、鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。泣いたばかりで目が腫れぼったく充血している。ひどい顔だ。
(あー、恥ずかし。あんなこと言うつもりなかったのに、なんであんなこと言ったのかしら? 2人の前で泣くとか、ありえないわ)
 美智子はメイクを、次に髪型を確認した。そばにティッシュペーパーが置いてあったので、1枚借りて鼻をかんだ。時間がたったら少し落ち着いてきた。もう1度、鏡で身なりを確認する。特に見苦しいところはない。
 これが今の自分だ。昔の私はもういない。中学を卒業したあと、メガネをコンタクトレンズに変え、メイクを覚え、髪型も変えた。はやっているドラマをチェックして、ファッション雑誌で自分の気に入ったモデルが着ている服をまねしてみた。今の自分を保つためには、多少気が張ることもある。
 美桜といるときが1番落ち着ける。美桜はドラマも見なければ、ファッションにも興味がなさそうだ。美桜には身内といるときのような気楽さがある。もし妹がいたら、きっとこんな感じなのだろう。実際、こんなにかわいい妹なら本当に欲しいと思う。だから、美桜の前ではついお姉さんぶってしまう。
 希美のことは少し妬ましい。たいした努力もしてないくせに、自分よりスタイルがよくて、胸も大きい。本人は気にしているようだが、贅沢な悩みだ。それにルックスもいい。メイクをしたら相当な美人になるはずだ。とても勝てそうにない。だから、希美には弱みを見せたくなかった。
(さて、戻るか)
 これで(みそ)ぎは済んだ。あんなところで泣いたのは想定外だったが、それも済んだことだ。自分の過去を知られたことは、たいした問題じゃない。大事なのは今だ。そして、今は勉強に集中するときだ。期末試験まであと1週間もない。少し寄り道してしまったが、今からならなんとか取り戻せるだろう。
 美智子は晴れ晴れとした顔をして、希美の部屋に戻っていった。

第10章 新たなスタートです

 夏休みに向けて最大の難関である期末試験は、最後の教科である地理を残すのみとなった。多くの生徒はわずかな休憩時間を利用して、最後の最後まで教科書を読んだりノートを広げたりして、1点でも多く得点を取ろうともがいている。今日は地理の前に英語の試験があったので、みんなそちらを優先した結果、ほとんどの生徒が地理まで手が回らないのが実情だ。美智子もその1人で、英語はそれなりの手応えがあったが、地理は前日にノートを見返したぐらいである。
「希美ちゃんはやらなくていいの?」
 取り込み中の美智子は話しかけられる状態ではなかったので、美桜は希美の席に来ていた。
「もういいでしょ。中間試験は勉強しなくても50点取れたし。美桜ちゃんもいいの?」
「私もいいわ。いまさらやってもね。みっちゃんは最後までがんばるみたいだけど」
 美智子は脇目も振らず、一心不乱に教科書に没頭している。
「よくやるなー、ウッチーは」
「希美ちゃん、今日は部活あるの?」
「ううん、今日は休み。練習は明日からだよ」
「今日暇かしら? 試験も終わりだし、放課後3人でゆっくりお茶したいんだけど」
「美桜ちゃんから誘うなんて珍しい」
「フフフッ」
 希美には笑ってごまかしたが、美桜はどうしても2人に話しておきたいことがあった。それも明日では遅く、今日でなければならない。
「相川さん、ちょっといい? 例の件で先輩が来てるんだけど」
 同じクラスの瀬川友香が美桜に話しかけてきた。周囲に人を寄せつけない雰囲気のあるちょっと冷めた感じの生徒で、多くを語りたがらないタイプだ。席は希美のすぐ後ろなのだが、希美は用事がるとき以外に友香と話したことはない。
 教室の入り口では、友香が先輩と呼んだ生徒が美桜を待っていた。美桜はその先輩の姿を認めると、ペコリと頭を下げて会釈した。先輩と呼ばれた生徒も、美桜に手を振ってうれしそうにしている。希美はまったく面識がなかったが、2人はお互いのことを知っているらしい。友香が美桜に話しかけてきただけでも驚きだが、美桜に自分の知らない2年生の知り合いがいることはもっと驚きだった。
 美桜とあの先輩と友香とはどういう関係なのだろうか? 友香は「例の件」と言っていたが、希美にはまったく思い当たる節がなかった。
 3人は廊下に出ると、希美の視界から消えていった。もうすぐ試験が始まるというのに、3人はどこへ行ったのだろうか? 気にはなるが、まさか3人を追いかけていくわけにもいかず、希美がやきもきしていると、美桜と友香はすぐに教室に戻ってきた。先輩の姿が見えないが、きっとそのまま自分の教室に戻ったのだろう。
「ごめんね、途中で」
 美桜は特に隠し事をするという様子もなく、ごく普通に戻ってきた。希美はあの先輩と何の話をしたのか聞いてみようとしたが、ちょうど始業のチャイムが鳴ってしまった。
「じゃあ、最後の試験がんばろうね」
「うん」
 美桜は自分の席に戻っていった。希美は美桜の背中を見ながら、美桜に会えてうれしそうに手を振っていた先輩のことがどうしても気になった。希美は胸の中がモヤモヤして、言いようのない不安を覚えた。

 試験監督の先生が、試験終了まであと5分であることを告げた。美桜は自分の名前が書かれていることを確認すると、満足したように答案用紙を裏返しにして、フーっとため息をついた。他のほとんどの生徒もすでに答案を書き終えて、試験が終わるのを今か今かと待ちわびている。試験終了が待ち切れない生徒たちがざわめき始めて、先生が静かにするように注意しなければならないほどだった。
 美桜は机に頬づえをついて、これからのことを考えていた。これで本当によかったのか自分でもわからない。期待と不安が美桜の小さな胸に去来して、ここ数日は落ち着かなかった。特に美智子と離れて行動するのは大きな不安だ。思えば学校ではずっと美智子と一緒で、授業中も休み時間も下校するときも、いつもそばに美智子がいて、それが当たり前になっていた。こうしてみると、自分は美智子に頼ってばかりいて、ずっと美智子に守られていたことに気づかされる。体育祭の一件にしても、美桜は美智子の悪ふざけのように思っていたが、よくよく考えてみると、自分がクラスの中に溶け込めるように美智子があえて仕組んだと言えなくもない。現にそのおかげで、美桜は美智子や希美以外のいろんな人と仲よくなれた。
 希美の部屋で美智子の卒業アルバムを見た日、美桜の中で何かが変わった。それは卵の中のひなが、自分の周りが卵の殻で覆われていることに初めて気づいて、くちばしで殻をつつき始めるのに似ていた。美智子はかけがえのない友達だ。だからこそ美智子と友達でいるために、今度のことは誰にも相談せず1人で決めた。
(きっとこれでよかったんだわ)

 期末試験がようやく終わり、生徒たちは緊張から解放された喜びを爆発させて、教室はお祭り騒ぎになっていた。そんな中、美智子は最後の教科で精も根も尽き果てたのか、机に突っ伏してしばらく動けない様子だった。
「終わった……」
「大丈夫? みっちゃん」
「これでゆっくり寝られるわ」
「今日このあと3人でお茶しようと思ったけど、無理かな?」
 その言葉を聞いて、美智子はむくっと顔を上げた。寝不足のせいで目の下にクマができてひどい顔をしている。
「珍しいわね、美桜の方から誘ってくるなんて」
「希美ちゃんにも同じこと言われちゃった」
「別にいいわよ。特に用もないし」
 本当は家に帰ってすぐ仮眠をとるつもりだったが、ほかならぬ美桜の誘いだ、断るわけにはいかない。それに美桜の方から誘ってくるとは、よほどのことなのだろう。そして、それはさっき廊下で、3人でコソコソ話していたことと無関係ではあるまい。
 彼女は瀬川友香。クラスの中ではいつも孤立している感じで、自分も話したことは1度もない。そして、あの2年生は体育祭の借り人競争で、美桜と一緒だった人だ。その後も交流があったとは知らなかった。美桜が隠し事をしていたとはちょっと意外だが、きっと何か理由があるのだろう。
 3人が廊下で何を話しているのか、勉強するふりをして聞き耳を立てていたが、残念ながらよく聞き取れなかった。話はごく手短に終わったようだ。その間に何が話されたのだろうか? そのことについて、きっと美桜から発表があるのだろう。それまで待つしかない。
 帰りのホームルームが終わると、生徒たちは学校が終わるのが待ちきれないように、掃除当番を残して、みんな足早に教室から出ていった。掃除当番以外で残っているのは、美桜たち3人だけだ。
「どうしたの? 希美」
「えっ? いや、なんでもないけど」
 希美は先ほどから浮かない顔をしていた。本来なら試験が終わって1番喜んでいるはずだが、どういうわけかやけにおとなしい。
「希美ちゃん、疲れてるの?」
「うん、まあ、そんなとこ」
 希美の作り笑いがちょっと痛々しい。
「なーに? 希美も何か言いたいことがあるんじゃないの?」
 美智子の意地悪そうな視線が、容赦なく希美の上に注がれる。
(うっ、相変わらず勘のいいやつ)
「希美ちゃん、何か心配事でもあるの?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
 美桜は美智子と違い、こういうところは鈍感だ。希美としてはホッとする反面、もどかしさを感じる。
(どうせあの2年生のことが気になってるんだろうけど、美桜がなんて言うのやら。これは楽しめそう)
 美智子は2人に気づかれないように笑みを漏らした。
 3人が行くところといえば、駅前のファストフードが定番だ。周りに気兼ねなくおしゃべりできるし、少し長居しても問題はない。それより何より値段が安いので、お小遣いの少ない高校生には大いに助かる。
「ハァー、やっと終わったわ」
 美智子は席に着くなり大きなため息をついて、いすの背もたれに寄りかかってぐったりした。美智子が試験に費やしたエネルギーは、美桜や希美とは比べものにならない。
「希美ちゃんは試験どうだった?」
 美桜は希美に余計なプレッシャーを与えないように、試験期間中は試験のことを話題にしなかった。中間試験で赤点を取ってしまった希美は、もし期末試験でも赤点なら、夏休みの補習と追試は必至だ。
「まあ、さすがに赤点はないと思うけど」
「当然よ。私がマンツーマンであれだけ教えたんだから。美桜はどうだったの?」
「そこそこかな」
 満点はないが、最小限の努力でそれなりの結果を出すのが美桜のやり方だった。だが、今回の期末試験はいろいろなことがあり、勉強に集中することが難しかった。試験の結果が心配だ。
「あ、あの、実は2人にお話ししたいことがあるんです」
 美桜はどう話を切り出そうか迷ったが、あと回しにすると余計に切り出しにくくなると思い、唐突だと思ったが、今言うことにした。
「で、なんの重大発表? あの先輩と婚約したとか?」
 美智子が希美に当てこするように尋ねた。
(ぐっ、こいつ……!)
 美智子にからかわれているのはわかっているが、こうまではっきり言われると、希美も黙ってはいられない。
「コンヤク? いえ、そうじゃなくて、たいしたことじゃないんだけど……」
 美智子の言った意味はよくわからなかったが、美桜はかまわず話を続けた。
「実は私……、吹奏楽部に入部したんです!」
「……」
「……」
(あ、あれ? 反応がない……)
「おー、吹奏楽部にね」
「美桜ちゃんにピッタリだよ」
 2人の間が抜けた微妙な反応に、美桜は少しがっかりした。自分では本当に重大発表のつもりで、もっと驚いてくれるのかと思ったのだが……。美桜の期待していた反応とは違っていたことに気づいた美智子は、美桜に慌てて質問した。
「なんで吹奏楽部に入ろうって思ったの?」
「ちょっと前に塚田先輩から吹奏学部に入らないかって誘われたことがあって、まだ入れるか聞いてみたら大丈夫だっていうから」
「塚田先輩って、今日美桜と話してた2年生のこと? となると瀬川さんは?」
「私も知らなかったんだけど、瀬川さんも吹奏楽部で、今日塚田先輩に紹介してもらったの」
(なるほど、そういうことか)
 一応話は筋が通っている。それにしても、自分の知らない間にそんな話が進んでいたとは意外だし、美桜にそんな行動力があったとはもっと意外だ。初めて会った頃では考えられなかったことだ。
 一方、希美も美桜の話を聞いて少しホッとした。先輩に誘われて部活を始めるというだけのことで、拍子抜けするくらいなんでもないことだ。少なくとも婚約発表ではなかった。ただ、あの塚田先輩とかいう2年生のうれしそうな笑顔だけが気になるのだが……。
「でも、どうして急に思い立ったの?」
「それは……、フフッ、ナイショ」
 その瞬間、希美の顔色がサッと変わった。なぜ部活を始めた理由を内緒にする必要があるのだろうか? 何か言えない事情があるとでも。まさか、あの先輩との間に何か……。
(アホなやつ)
 美智子は動揺してうろたえている希美のことは放っておいて、話を続けた。
「部活はいつから始めるの?」
「明日からよ」
「そっか。じゃあ、明日から一緒に帰れなくなるね」
「ごめんね、みっちゃん」
「あー、いいって。どうせ校門までだし」
 校門までのほんの短い間でも、美桜と帰れなくなるのは寂しいが、美智子は美桜に悟られないように強がってみせた。
「みっちゃんも何か部活やればいいのに」
「私はパス」
「じゃあ、明日みんなの前で自己紹介だね」
「えっ?」
 希美の何気ない一言が、これまでやる気に満ちていた美桜の表情を一変させた。
「普通するでしょ? 新入部員って。自己紹介」
 美桜は吹奏楽部に入部することと、それを2人にどう告げるかそのことばかり考えていて、自己紹介のことはまったく頭になかった。
「吹奏楽部って、結構大所帯よね」
 美智子がさらに追い打ちをかける。美桜の記憶では、体育祭のとき塚田先輩が部員数は70人ぐらいと言っていた。1クラスよりもはるかに多い人数だ。そんな大勢の人を前にして、自分が自己紹介をする姿を想像するだけで気が遠くなりそうだ。
「ど、どうしよう……」
 美桜はすがるような目で美智子を見つめた。

 次の日の放課後、美桜はそわそわしながら帰り支度を始めた。今日は朝から一日中落ち着きがなく、何をやっても上の空だった。いよいよ来るべき時が来たというよりは、来てしまったと言った方が正確かもしれない。しかし、すべては自分が決めたことだ。いまさらあと戻りはできない。
「お待たせ」
 同じ吹奏楽部の友香が美桜のところにやって来た。友香は昨日、塚田先輩から美桜を部活に連れてくるように頼まれていた。
「はい」
 美桜はいすから立ち上がったが、緊張のあまりバランスを崩して少しよろけてしまった。
「大丈夫? 美桜」
 美智子がたまらず声をかけた。
「だ、大丈夫よ」
「美桜ちゃん、顔が青ざめてるけど」
 希美も心配そうに声をかけた。
「そ、そんなことないわよ。フフッ……」
 美桜は引きつったような顔で無理にほほ笑んだ。
「じゃあ、行きましょう」
 友香は美桜と連れ立って、3階にある音楽室に向かった。そして、そのあとから美智子と希美がついてくる。
「美桜、自己紹介なんてたいしたことないわ。何か一言いって頭下げればいいのよ」
「そうだよ。緊張したら目の前にいる人は、みんなカボチャだと思えばいいって」
(なんでぞろぞろついてくるの?)
 友香は2人のことを無視することにした。
「美桜、音楽室までついて行ってあげるから」
「なんなら私が美桜ちゃんの代わりに……」
 美桜は不意に立ち止まった。
「みんな、ありがとう。でも、ここからは独りで行くわ」
「で、でも……」
 美智子はなおも食い下がろうとしたが、美桜の態度はこれ以上ついてくるなと言っていた。
「じゃあ、行ってきます」
 美桜はくるりと向きを変えると、音楽室に向かって友香と2人で長い廊下を歩いていった。
「行っちゃった……」
 いつも2人のあとをついてくることが多かった美桜が、自分たちを置いてどんどん遠ざかっていく。希美は美桜の後ろ姿を見送りながら、つぶやくように言った。
「美桜ちゃんが私たちから離れていくのって、初めて見た気がする」

(やっと、いなくなったか……)
 友香は美桜が2人の付き添いを断ってくれて一安心した。音楽室に着くまでに美桜と話したいこともあったので、このまま2人について来られてはたまらない。
「瀬川さん、音楽室には吹奏楽部の人、全員いるのかしら?」
「そうね。コンクールメンバーもそうじゃない人も、一度音楽室に集まるから」
「やっぱり、自己紹介ってするのよね……」
「緊張してる?」
「少し……」
「相川さん、塚田先輩と知り合いなんでしょ?」
「知り合いというか、メールで少しやり取りを……」
「この間初めてしゃべったけど、優しそうな先輩だね」
「うん。いろいろと相談に乗ってくれて」
「楽器は何やるか決めたの?」
「先輩と同じホルンを」
「そっか」
 友香は少し残念に思った。美桜さえよければ、自分と同じアルトサックスでもいいと思っていたのだが、塚田先輩と話がついているのなら仕方がない。
「瀬川さんはコンクールメンバーなんでしょ。1年なのにすごいね」
「私、小学生のときからやってるから」
「練習、大変?」
「ふーん」
「何?」
「相川さんって、もっとおとなしい人かと思ってたけど、普通にしゃべるんだね」
「そうかな。あ、私のこと、美桜でいいよ」
「えっ? あ、そう? じゃあ、私も……、友香でいいよ……」
「うん、ともちゃん」
(ともちゃん!?)
 友香は顔が赤くなった。自分のことを「ともちゃん」と呼ぶ人は、他人はもとより家族でさえいない。さすがに「ともちゃん」は恥ずかしいので、普通に名前で呼ぶように言おうとしたが、美桜のうれしそうな顔を見ると、何も言えなくなってしまった。こういうのは苦手なのだが……。
(ま、いっか……)
 美桜がうれしそうにしているのを見ると、「ともちゃん」と呼ばれても悪い気はしない。自分のキャラとは合わない気もするが、とりあえずこのまま「ともちゃん」と呼ばせておくことにしよう。

 翌朝、美智子はいつもより早めに学校に着いた。そして、美桜がまだ登校していないことを確認すると、美智子はその足ですぐに音楽室へ向かった。音楽室からは、吹奏楽部が始業前や放課後によく演奏している曲が聞こえてくる。おそらくコンクールの課題曲か何かなのだろう。美智子は朝練が終わるまで、音楽室の前で待つことにした。
 昨日、美桜に初めての部活がどうだったかメールで聞いてみたが、一向に返事が来なかった。美智子は非常に気をもんで、いつまでもメールの返事を待っていた。直接美桜に電話しようかとも思ったが、そっとしておいた方がいい場合もあると思い、あえて電話もしなかった。おかげで、昨日は英語の予習をしそびれてしまった。
(昨日、やっぱり自己紹介に失敗して、みんなに笑われたんじゃ……)
 美智子はポケットからスマホを取り出した。美桜からメールは来ていない。始業10分前だ。いつもなら美桜が登校してくる時間だが、今日は来るのだろうか? まさか、これがきっかけで不登校になったりしないだろうか? 美智子が音楽室の前でやきもきしていると、部員たちが楽器を片づける音が聞こえてきた。ようやく朝練が終わったらしい。やがて顧問の先生が音楽室から出てくると、そのあとから生徒たちがぞろぞろと出てきた。
「あ、あの、瀬川さん」
 美智子は音楽室から出てきた友香を呼び止めた。友香は私に何の用と言わんばかりに、怪訝(けげん)そうな表情を浮かべた。
「相川さんなら朝練には出てないけど」
「知ってるわ。それより聞きたいことがあるの」
「はぁ……」
「昨日の美桜の自己紹介、どうだった?」
「は?」
「『は?』じゃないわよ。美桜の自己紹介がどうだったか聞いてるの」
 友香は美智子の質問の意味がわからなかった。美桜の自己紹介が何だというのだろうか?
「何言ってるかわからないけど、普通だったよ」
「普通って?」
「普通は普通よ。普通に自己紹介したってこと」
「そう……」
 美智子は拍子抜けした。てっきり美桜が緊張して、自己紹介でしどろもどろになり、後ろから肩をたたかれて「ふぇっ!!」とか言ったのではないかと思ったのだが。しかし、そうでないならなぜメールの返事が来ないのだろうか?
「これで満足?」
 友香は美智子を置いて、さっさと教室に戻っていった。
(まったく、なんだっていうの?)
 教室に戻った友香が自分の席に着くと、待ってましたとばかりに、すぐ前の席の希美が小声で話しかけてきた。
「ねぇ、ねぇ、昨日どうだった?」
「は?」
「美桜ちゃんの自己紹介だよ。ちゃんとうまく言えた?」
(またかよ)
 友香はあからさまにうんざりしたような顔をした。昨日といい今日といい、美桜ちゃん、美桜ちゃんと保護者じゃあるまいし、何がそんなに心配なのか。
「そんなの本人に聞きなよ」
「聞けないから聞いてんじゃんか」
「自己紹介中に泣き出して、音楽室から出ていったわよ」
「えーーーーっ!!」
 希美が急に叫んだので、教室は静まり返り、みんながいっせいに希美と友香の方を振り返った。
「何、大声出してんのよ。うそに決まってんでしょ」
「じゃあ、本当はどうだったの!?」
「普通に自己紹介してたよ。それがなんなの?」
「そう……」
 希美の反応は美智子とまったく同じものだった。何か拍子抜けしたような、悪く言うと少し物足りないような感じだった。友香はそれが気に入らなかった。
「相川さんが普通に自己紹介しちゃいけないわけ?」
「いや、そうじゃないけど、私てっきり……。美桜ちゃんをなんて言って慰めればいいかなって思ってたから」
「あんたら、もうちょっと友達、信頼したら?」
「そうだね。ん? あんたら?」
「さっき、音楽室の前で内田さんにも同じこと聞かれたけど」
「ウッチーのやつ、抜け駆けして」
 昨日、希美もメールで部活の様子を尋ねたのだが、美桜からの返事はなかった。それで希美は心配になったのだが、美桜はいつの間にか独り立ちして、自分の知らないところでうまくやっていた。今、美桜は音楽室から戻ってきた美智子と何か談笑して、すっかりクラスの中に溶け込んでいる。中学のとき、教室でいつも独りだった美桜を知っている希美にとって、あんな風に美桜が友達と話す姿を見るのは、感慨深いものがある。
「美桜ちゃん、変わったなー」

 その日の昼休み、いつものように3人でお弁当を食べていると、話は自然と昨日の美桜の部活のことになった。自己紹介は少し緊張したが、無事に終えることができたこと、昨日は塚田先輩にバズィングと呼吸法を教わったことなど。美桜はいつになく饒舌(じょうぜつ)で、部活のことを語り出したら止まらない感じだった。
「なーんだ、心配して損した。メールの返事が来ないから、てっきり何かあったのかと思ったわ」
「ごめんね、メールに気づかなくて。私、バズィングの練習で夢中になってて」
「バズィングってなーに?」
「唇を震わせて音を出すのよ。こんな風に」
 美桜は2人の前で実際にバズィングをやってみせた。美桜の唇から「ブー」という音が発せられる。その様子をすぐ後ろの席の友香が、3人に気づかれないようにそっとうかがっていた。
(ふーん、ちゃんとできてるじゃない)
「ねぇ、瀬川さん、今のであってるの?」
 希美が突然振り向いて、友香に尋ねた。
「えっ!? し、知らないわよ。いいんじゃない。それに、私、金管じゃないし」
「瀬川さんってなんの楽器やってるの?」
「アルトサックスよ」
「それって金管楽器じゃないの?」
「違うわよ。サックスは木管楽器」
「えっ、あれって木でできてるんだっけ?」
(えーい、面倒くさい)
 返答に困っている友香を美桜は助けてあげた。
「金属でできていても、サックスは木管楽器なのよ。ねぇ、ともちゃん」
 クラス全員の会話が止まり、教室がしんと静まり返った。珍しく他人と話している友香にクラス中の関心が集まっていた最中だった。
「クスクスクス……」
「『ともちゃん』だって……」
 友香はクラスの注目が自分に集まっているのを知って、顔が赤くなった。
「ちょ、ちょっと! ここでその呼び方やめてよ」
「なんで?」
「なんでって、恥ずかしいからよ」
「そう?」
 「ともちゃん」と呼ばれてなぜ恥ずかしいのか、美桜には理解できなかった。
「プッ、フフフフフ」
「ハハハハハハ!」
 友香のイメージとはおよそ似つかわしくない呼び方に、美智子と希美は笑い出した。それを聞いた友香はますます顔が赤くなった。
「笑うな!」
「ねぇ、ともちゃん。私も『ともちゃん』って呼んでいい?」
「ハハハハハハ!!」
 希美は美桜の口調をまねて友香をからかった。美智子は希美のものまねにお腹を抱えて笑い転げた。
「やめろ、マジで……」
 普段笑われることに慣れていない友香は、ここら辺で羞恥心の限界に達した。
(ちょっと取っつきにくいと思ってたけど、案外根はいいやつなのかもね)
 美智子は少し安心した。美桜と同じ部活の友達として、瀬川友香はどうかと思ったが、意外と美桜と合ってるのかもしれない。みんなの前だから迷惑そうにしているが、「ともちゃん」と呼ばれて、本人もまんざらではなさそうだ。それにしても、誰とも接点を持たなかった友香をこうもあっさり攻略するとは、美桜もなかなか隅に置けない。もしかしたら、自分も美桜に話しかけるように最初から仕組まれていたんじゃないかと思えるほどだ。

「今日は1学期最後の日です。みなさんお疲れさまでした。慣れない高校生活で最初は不安だったと思います。でも、今のみなさんはすっかりたくましくなって、入学したときよりも少し大人になった気がします。夏休みは体に気をつけて、たった1度しかない高校1年生の夏休みを有意義に過ごしてください。またこの教室でみなさんとお会いすることを楽しみにしています」
 終業式のあと、1学期最後のホームルームが終わり、美樹本学園女子高等学校は待望の夏休みに入った。高校に入学して最初の通知表を受け取った生徒たちは、お互いに成績を見せ合ったり、友達や片桐先生とのしばしの別れを惜しんだりして、普段なら学校が引けると早々にがらんとする教室も、今日はなんとなく教室にいたいのか、誰も帰ろうとしなかった。
 美智子や希美もそれぞれの友達と、成績のことや夏休みの計画を打ち明けたりして、これから始まる夏休みに胸を弾ませていた。美桜も何人かの生徒に夏休みの予定を聞かれたり、体育祭の思い出話を聞かされたりした。体育祭は大変な思いをしたが、それも今ではいい思い出だ。早紀はクラスメイト1人1人に声をかけて回って、1学期最後の日も学級委員長としての職務をまっとうしていた。
「ありがとう、ウッチー。希美もなんとか赤点取らずに済んだみたいだし」
 早紀は期末試験で約束どおり希美の勉強を見てくれた美智子に礼を言った。
「どういたしまして。でも、ずいぶん希美にこだわるのね」
「そういうわけじゃないけど。だだね、私、このクラスから1人の落ちこぼれも出したくないの。みんなそろって卒業したいし」
「落第なんてそうそうないでしょ。それにどうせ2年になったらクラス替えよ」
「わかってるよ。それでもそうしたいの」
「ふーん」
「この裏切り者!」
 教室の後ろの方、ちょうど希美のいる辺りから急に大きな声が飛んできた。驚いてみんなが声のする方へ振り向くと、1人の生徒が希美に絡んでいるところだった。田口紗枝(さえ)は背こそ低いが、れっきとしたバレーボール部員で、クラスでは希美とともに数少ない体育会系の1人だ。希美のことを勝手にライバル視して、部活や勉強などあらゆる面で希美と張り合っていた。紗枝の手にはなぜか希美の通知表が握られていた。
「あんだだけは私の仲間だと思ってたのに。いつの間に勉強したの!?」
「私がいつ仲間になったのよ? それより紗枝ちゃん、もしかして、赤点でも取ったのー?」
「うるさーい!」
 クラス中から笑い声が起こった。期末試験で赤点を取った生徒は、夏休み最初の1週間、補習が義務づけられる。部活こそが命の紗枝にとってはかなりの痛手だ。
「えーっ、紗栄のやつ赤点だったの? まったく……」
 早紀は頭を抱えた。希美が赤点でなければ全員大丈夫だと思っていたが、どうやら認識が甘かったようだ。

「今日どうする?」
 帰り支度を済ませた友香が美桜のところへやって来て、いかにも関心がなさそうにぶっきら棒に言った。
「私は午後から行くわ」
「そっ、じゃあ、先行ってるわ」
 吹奏楽部は夏休みに入ると、コンクールに向けて練習漬けの毎日だ。メンバーである友香はコンクールが終わるまで遊んでいる暇はない。少し名残惜しそうに友香は1人で音楽室に向かった。
「もうすっかり友達ね」
 美智子が少しからかうように言った。
「うん。結構いい人よ。ちょっと照れ屋さんだから、あんな感じだけど」
 片桐先生が職員室に戻ると、生徒たちも1ヵ月後の再会を約束して、1人また1人と教室から去っていった。希美も数人の生徒と別れのあいさつをすると、美桜と美智子のいる席にやって来た。
「希美、今日も部活?」
「本当はそうなんだけど、今日はみんなと一緒にいたいな」
「サボり? 珍しいわね」
「ウッチー、何か予定ある?」
「別にないけど」
「美桜ちゃんは?」
「午前中なら空いてるわよ」
「じゃあ、3人でどっか行こうよ」
 3人は駅前のいつものファストフード店へ向かった。どこの学校も今日が終業式だったらしく、午前中にもかかわらず、街の中は学生の姿が多い。気のせいか、すれ違う生徒たちはみんな晴れやかな顔をしていて、いつもと違う街の様子を見ていると、ついに夏休みがやってきたのだと実感する。
 店は午前中から学生で賑わっていた。1つ空いていた4人がけのテーブルを見つけて、素早く荷物を置くと、レジに注文に向かった。お昼にはまだ早いので、それぞれがドリンクを注文して、ポテトはみんなで分け合うことにした。
「お疲れさーん!」
 3人は1学期でのお互いの健闘をたたえて、ジュースで乾杯した。
「はーっ、やっと1学期が終わったわ」
 ようやく緊張から解放された美智子は、長いため息をついた。
「そんなに疲れたの?」
 希美はなぜそんなに美智子が疲れているのかわからず、不思議そうに尋ねた。
「もうヘトヘトよ。予習復習に試験勉強はあんたの面倒まで見なきゃいけなかったんだから」
「ありがとう、ウッチー。期末試験で赤点を取らずに済んだのはみんなのおかげ。私1人じゃ絶対無理だった。私、この学校に合格したのも補欠だったし、1学期早々に赤点取って、やっぱり勉強についていけないんじゃないかって、すごく不安だったから」
 希美は照れながら2人に感謝の言葉を述べた。
「何、急にまじめになってるのよ。前にも言ったけど、高校なんて入っちゃえばみんな一緒よ。それに勉強会を企画したのは美桜なんだから、美桜に感謝しなよ」
「ありがとう、美桜ちゃん」
「ううん、がんばったのは希美ちゃん自身よ」
「さぁ、これで夏休みは心置きなく遊べるわ」
「どうしたの?」
 美智子の意外な発言に、希美は驚いて尋ねた。
「もう来年になったら受験勉強で、そんな暇なくなるわ。夏休みに遊べるのは今だけ。だから今年の夏は目いっぱい遊ぶわ。もちろん宿題はやりますけど」
「えっ? 来年から受験勉強?」
「当たり前じゃない。高3の1年間だけで間に合うわけないでしょ。浪人で貴重な1年間を棒に振るようなまねなんかするつもりはないわ」
「そんなもんかな……。美桜ちゃんは夏休み部活?」
「うん。でも、コンクールメンバー以外は土日は自由なの。だから、土日なら空いてるわ」
「希美も日曜ぐらい休めるんでしょ?」
「いつでも休めるよ。うちの部活、吹奏楽部ほど熱心じゃないから」
「じゃあ、結構遊べそうね」
 3人は夏休みに行きたいところを思い思いに挙げていった。海水浴、プール、お祭り、花火大会、遊園地、動物園、水族館……。
「こんなに行けるかしら」
「大丈夫、なんとかなるって」
 3人で夏休みの計画を話し合いながら、美桜は高校に入学してから今までのことを思い返していた。1学期の初日、緊張して失敗した自己紹介、美智子に突然話しかけられて、びっくりしたこと。希美と一緒に乗ったジェットコースター。大変な目にあった体育祭の借り人競争。そして、期末試験の勉強会。どれもこれも楽しい思い出ばかりで、この3ヵ月間はまるで夢のような日々だった。
 美桜はどうしてこの3人が友達になったのだろうと考えてみた。普通は似た者同士が友達になると思うのだが、自分たちは性格もバラバラだし、趣味も違う。それなのに、この3人でいるときが1番楽しいのはなぜだろう? ちょうどジグソーパズルのピースがピッタリはまったように、私たちはお互いに足りない部分を補い合ってこれまでやってきた。3人が出会ったのはただの偶然かもしれないが、きっとそれは奇跡と呼んでいいくらいの偶然だったんだと思う。
「美桜」
「えっ!?」
「どうしたの? ボーっとして」
 美桜は美智子に呼ばれて、われに返った。そばには美智子と希美がいてくれる。これが奇跡でなくて何だろう。
「あのね、私、2人に会えて本当によかった」
「何よ、突然」
 美智子はあくまでも冷静を装っていたが、美桜にそんな風に言われると少しうれしい。
「私も美桜ちゃんと友達になって、本当によかったって思うよ」
 希美は無邪気に言った。
「希美、前から聞きたかったんだけど」
 美智子はジュースを一口飲むと、いかにも無関心そうな態度で、しかし、実は1番関心のある質問を希美にぶつけた。
「希美って、美桜がこの学校に入ったから自分も入ったんでしょ?」
 希美の動きが一瞬止まった。
「な、なんのことかな……? ハハハ……」
 希美は無理に笑おうとしたが、顔が引きつってうまく笑えなかった。
「私も……、そのことを聞きたい……」
「……!!」
 美桜は頬を赤らめながら、上目遣いに希美のことを真っすぐ見つめた。希美をこのクラスで初めて見たときからの、解けない大きな疑問。単なる偶然とは思えない。自分が美樹本学園を受験したことを希美がどうやって知ったのかわからないが、もし、希美が自分のためにこの学校に入ったとしたら……。
「い、いや……、それは……」
 希美としては美桜と同じ高校に入ったのは、あくまでも偶然ということにしたかった。しかし、美桜の真剣なまなざしが、これ以上の言い逃れを許さなかった。
「そうです……」
 希美はとうとう白状した。
「ごめんね、美桜ちゃん……。こんなの気持ち悪いよね、迷惑だよね……」
 希美の目に涙が浮かんだ。美桜のあとを追って同じ高校に入ったことだけは、誰にも知られたくなかった。
「いっそのこと、2人で付き合っちゃえば?」
「バ、バカなこと言うんじゃない!!」
 普段は温和な希美が思わず立ち上がって、ひと目もはばからず大声を上げた。客の視線がいっせいにこちらに集まる。
「冗談よ。マジにならないで」
「言っていい冗談と悪い冗談が……」
 希美は今までも自分の想いを美桜に伝えそうになったことが何度かあった。しかし、そのたびに、希美は自分の気持ちより、美桜との友情を優先してきたし、そのせいで美桜との関係が壊れてしまうことを何よりも恐れていた。それがまさかこういう形で、自分の想いを美桜に知られることになるとは思わなかった――。
「あ、あの……、希美ちゃん……」
 美桜は顔を赤くして、恥ずかしさのあまりうつむいている。
「あ……、いや……、その……」
 どうすればいいのだろうか? 今のは美智子のたわ言ということにして、すべてを冗談にしてしまおうか? しかし、冗談にするにはもう手遅れのような気がする。いっそのこと、この場ではっきり言ってしまおうか? 希美は極度の緊張に襲われた。心臓が大きく高鳴り、のどがカラカラになって声が引っかかる。
「わ、私……」
 希美は唇を震わせながら何かを言いかけたとき、美桜は顔を上げて希美を見つめた。美桜の瞳が少し潤んでいる。
「私……、希美ちゃんなら……、いいかも……」
 言い終えたあと、美桜は再び顔を伏せた。
「えっ!?」
 さすがに美智子もこの展開は予想していなかった。希美はともかく、美桜にその気はないものとばかり思っていたが……。そうなると話が違ってくる。冗談が冗談ではなくなってきた。
 一方の希美は美桜の言葉にすっかり有頂天になった。天にも昇るような心地がして、今、世界中で自分ほど幸せな人間はいないとさえ思った。
「わ、私も……」
「ちょ、ちょっと待って! こら、2人とも落ち着きなさい!」
 美智子は慌てて希美の言葉を遮った。自分がけしかけたこととはいえ、放課後に何気なく立ち寄ったファストフード店でこんなことになるとは――。
 そのとき、美桜がほとんど聞き取れないような小さな声で言った。
「……冗談……」
「へっ?」
 美智子と希美はお互いに顔を見合わせた。今なんて……?
「今のは……、冗談……」
 美桜は顔を赤くして、再びうつむいた。
「アッ、ハハハハハハ!! 美桜も冗談言うんだ!」
 美智子はおかしくて仕方なかった。冗談そのものよりも、美桜が冗談を言ったことがおかしかった。
「もうー! 2人ともからかわないで!」
「さぁ、行きましょう。今日はまだまだ、時間がたっぷりあるわ」
 美智子は勢いよく席を立った。
「私、午後から部活なんだけど」
「そんなのサボっちゃいなさいよ」
「えーっ!」
 お店を出たとたん太陽がまぶしくて、3人は思わず目を細めた。季節はもうすっかり夏である。
「このあと、どこに行く?」
「映画!」
「ショッピング!」
「遊園地!」
 今年の夏は、楽しい夏になりそうです。

 完

みはみんなのみ

みはみんなのみ

ちょっと内気な女の子、相川美桜の物語

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-04-16

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