花を摘む

珀依 愁 作

 呼び鈴を軽く一回鳴らすと、帰宅したばかりの野花は紺色のコート姿で玄関から顔を出した。「水鏡、」驚きに満ちた声で名前を呼ぶ。
 口元に当てていた手を離し水鏡は少しだけ口角を上げる。「来ちゃった、」
 「ご飯食べに行こうよ、」
 編まれた黒髪を両手で掴み野花はちら、と家の中を不安そうに伺い見る。じ、っと待っている水鏡に目を向けると野花はおもむろに両手を離し「用意してくる、」といって家の中へと戻っていった。
 
 りりりりり、り。電子的な目覚ましの音で目を覚ました。机に向かったまま眠ってしまったらしく水鏡の白い頬には消しゴムの跡が付いている。のろのろと手を伸ばし携帯の画面をつけると充電が切れていた。机の引き出しから充電器を取り出して携帯と繋げる。それから昨日の朝と同じように書きかけの便箋と床に放り出された小説を片付け欠伸を漏らした。

 うどんとそばを別々に頼んだ。フードコートの窓際を陣取り、小説を片手に水鏡はうどんをすする。退屈そうに野花はそばを口に押し込んだ。「潰れそうだね、」
 顔を上げずに水鏡は何が、と尋ねる。気を引けなかったことに野花はいらいらとしながら「ここ、」と短く答えた。
 「潰れたら困るな、」
 やっと顔を上げた水鏡に向かって野花は箸を突きつける。「本ばかり読まないで、」「あと少しなんだよ、」小説のページを見せて弁解すると水鏡は直ぐにまた小説の世界へ戻ってしまう。野花は溜息を吐いてそばをずるずるとすすった。

 携帯の電源を付けた。爪をいじりながら起動するのを待つ。大きな欠伸を一つ漏らした。
 壁紙に設定した猫の目が現れる。水鏡は直ぐに通知を確認した。
 「あ……、」野花からの着信履歴が何件も溜まっている。
 直ぐに電話を掛け直した。けれど眠ってしまっているのか呼び出し音が鳴るばかりで、野花の声は一向に聞こえてこない。
 微かな希望を託してメールボックスを開く。
 セールのお知らせに紛れて、お願いだから出て、と短く打たれた野花からのメールが一通だけ届いていた。
 
 大きな窓硝子越しに夕日が見える。野花は橙色の空を眺めてぼんやりとしていた。小説を静かに閉じて水鏡も真似するように空を眺める。じんわりと温かいような切ないような気持ちがした。
 寂しげに目を細める野花の横顔を凝視めて水鏡は野花の心を想像する。そこには眠れない夜と眠れない夜を想う夕方がぎゅうぎゅうと詰まっていて、今にも、割れそう。
 隈のある目元をこすり視線に気づいた野花は恥ずかしそうに、「あんまりじ、っと見ないで、」軽く笑う。
  そっと包み込むようにして水鏡は野花の手を握った。なに、と野花が戸惑った様子で尋ねる。手の平には汗が滲んでいた。
 「今日は帰りたくない、」
 「怒られてしまうよ、」
 「それでもいい。今日は一緒に居よう、」
 「でも、」野花の声を遮って水鏡は否定されないよう必死に言葉を続ける。「野花を家に帰したくないんだ。今日だけは、」
 「今日、だけは、」そっと手に手を重ねて野花は呟いた。うん、と水鏡は力強く頷き、それから、柔らかく微笑む。「最初からそのつもりだった、」
 
 階段下に野花の姿を見つけた。声を掛けようとして近づくと誰かと話している事に気付いて、足を止める。中途半端に上げた腕を下ろすともやもやとした気持ちが残った。
 教室に戻る気分にもなれず野花をじ、っと凝視めているとその様子に気付いた野花が水鏡に向かって手を振る。足早に階段下までゆくと、階段を上ってゆく男子生徒の後ろ姿が見えた。「恋人?」と何気なく水鏡が尋ねると野花は階段を見上げながらゆっくりと首を振った。階段を上る音が聞こえなくなると野花は静かに口を開き「斜陽兄さん、」と呟いて自嘲気味に笑う。
 口をきゅっと結んで水鏡は軽率な自分の問い掛けを恥じた。柔らかく微笑んでいた斜陽の姿を思い出し寒気がした水鏡は、話を変えようと野花に向き直り笑みを浮かべた。
 「次は体育の合同授業だね、良かったら、一緒に組まない、」
 「キャッチボールだっけ。そっか、いいね、組もう、」
 初めて目にした斜陽の姿は透明な水鏡の目には、穏やかでとても優しそうに見えた。そうして、自分の兄に少しだけ似ている、と感じた自分を水鏡は酷く悔やんだ。

 夜は既に始まっていた。訪れた夜に野花は不安そうな表情を浮かべている。野花の不安をかき消すように水鏡はアスファルトを強く叩いて歩いた。人気のない道に音がぼんやり響いて夜の空気に馴染む。安心させようと水鏡はぎこちない笑みを浮かべた。
 「もしも怒られたら私の所為にすればいいよ、」
 唐突な言葉に夜空を見上げていた野花は目を見開いて水鏡をじ、っ、と凝視める。水鏡が口角を上げてに、っと八重歯を覗かせると野花は訝しげに眉根を寄せた。
 思い出したように夜空を見上げる野花に釣られて水鏡も視線を上空へと移す。雲の姿は見当たらない。それどころか月の姿も見当たらなくて、星だけがちかちかと光っている。
 「そんな中途半端さじゃ、また後悔をする、」
 横目で街灯に照らされ青白くなっている野花の横顔を盗み見た。真っ直ぐ夜空に向けられた目から発光している淡い光の原動力は、終わらない希望と慣れてしまう絶望のどっちなんだろう。出来ることなら、どちらでもなくあってほしい。「いこっか、」
 「あ、ああ、うん。そうだね、行こう、」
 不意に投げられた言葉に水鏡は驚いて歯切れの悪い返事をした。軽快にアスファルトを叩いて歩く野花の半歩後ろを水鏡は黙って付いてゆく。暫くして水鏡の様子に気付くと野花は満足げな笑みを浮かべ水鏡の隣に並んで歩いた。
 
 真夜中に電話が鳴って目を覚ました水鏡は眠い目を擦りながら着信ボタンを押す。「もしもし、」
 「もしもし、」
 野花の声だった。野花から夜に電話がかかってくるのは確かこれで三回目だ。仲が特別良い訳でもないのに、野花はまるで親しい友人と話すように弾んだ声で区切りなく話し続ける。ほとんど水鏡は一方的な日常会話を聞いているだけだった。
 「水鏡って本が好きなんだよね。子供向けの本は読む?私はさ、平凡かもしれないけど不思議の国のアリスが好きだな、」
 「鏡の国のアリスの方が私は好み、」
 「ああ、どっちもいいよね。ルイス・キャロルが好きなのかも、」
 「野花も本が好きなの、」
 「え?滅多に読まないよ。……でも好きなのかも。銀河鉄道の夜とか十五少年漂流記とか、それから、」
 ぼんやりとした頭で水鏡は題名を次々と上げてゆく野花の声を聞いていた。思うにこれは、野花が話し続けることに意味があるんじゃないだろうか。
 「あ、っ、」
 不意に野花が大きな声を上げた。流すように聞いていた水鏡は思わず体をびくりと震わせる。なに、と尋ねる前に野花が快活な声で続けた。「そうだ、幸福の王子を忘れていた、」
 「もしかしてそっちは、朝だったりするの、」
 冗談交じりに水鏡が尋ねると、野花は恥ずかしそうに声を潜めて、ごめんなさい、と謝る。「斜陽兄さんの足音が、聞こえたから、」

 ここから落ちたら、と野花は思う。橋の上から見下ろす大きな川は真っ暗で何も見えず、想像だけが膨らんでゆく。死んじゃうだろうか。口を開けて星を数える水鏡を横目でちらりと盗み見る。死ねるだろうか。
 身を乗り出して川を覗こうとする野花の様子に気付いて水鏡は焦った声で、危ないよ、と腕を引っ張った。うん、と夢見心地な声で返事をする野花の視線は、尚も川面のある真下へと向けられている。野花の気を逸らそうと水鏡はあ、っ、と声を上げた。
 しゃがみこんで地面に落ちた髪留めを拾い上げる。「不思議じゃない?」蝶々の形をした髪留めを野花の前に突き出して水鏡はわざとらしく笑った。「落ちたんじゃない、」
 ひんやりとした言葉に水鏡は困って、微笑を浮かべる。髪留めを元の場所に戻すと微かに地面と髪留めのぶつかり合う音がした。
 「どうして優しくするの。友達ですらないのに、」
 「そうだね。友達と呼ぶには知らなすぎる、」
 何時もなら耐え切れない沈黙を耐えたくて水鏡は夜にぼんやりと浮かぶ野花の横顔をじっと凝視めていた。「先のない優しさなんて暴力と変わらない、」
 「これから知ってゆきたい、」
 慰める言葉を知らずに、希望だけを口にする。反射的に顔を上げると、困ったように微笑を浮かべる水鏡と目が合った。冷えてゆく体を温めるように野花は腕を撫でる。
 暗い川面に視線を戻しながら心の中で静かに、今ここで求めたら、と野花は呟く。痛みに慣れた体が優しさを拒絶していた。死んじゃうだろうか。果てのない暗闇だけが何もかもを消し去れる。一緒に死んでくれるだろうか。

 薄暗い部屋の中で野花の服を脱がせた。ひんやりとした手で野花は水鏡が着ているワイシャツのボタンを一つ一つ外してゆく。背中に腕をまわして、野花の淡いピンク色の下着を外した。露になる女性の性器は、更衣室や銭湯で見るものとは全く違って見えた。とても柔らかそうで、甘そうで。
 ワイシャツを床に放って下着のホックが外される。冷たい空気に肌が触れて水鏡はじわじわと鳥肌を立てた。ゆっくりと野花のスカートを脱がせたら、男性がするのと同じようにベッドに優しく押し倒す。それから水鏡は自分の手でスカートと下着を脱いだ。
 一度だけ深いキスをする。唇を離しながら瞼を開くと、野花の目が涙で滲んでいた。恐れているのに気が付いて水鏡は幼子をあやすように野花の頭をそっと撫でる。
 落ち着くのを待っている水鏡の首元に腕をまわし唇を重ねると野花は口に舌を忍び込ませた。薄く目を開いていた水鏡は野花の目元を拭うと強引に体を離した。細い腕で野花は自分の目元を隠す。荒い呼吸の合間に嗚咽が混じっていた。
 「ごめんなさい、」
 震える声で野花はいった。「ごめんなさい、」その言葉に水鏡は唇を噛んで俯く。「ごめんなさい、」「謝らないで、」
 体を交わらせようと決めたのは野花の為だったから、謝られると自分のしたことの意味が分からなくなる。その恐ろしさを水鏡は知っていたから、どうしても、謝らないでほしかった。
 「いいんだよ。私は気にしてない、」
 震える腕に触れて水鏡は優しい声でいった。野花の足元で丸まっているタオルケットを引き寄せ、体に掛けてあげると、ほんの少しだけ野花の荒い呼吸が穏やかになる。
 「これじゃあ兄さんと、何も、変わらない、」
 泣きじゃくる野花を水鏡は抱きしめた。許せるかもしれない、行為の全てを恨んでしまった野花がそういった時、水鏡は兄さんに捧げそこなった純白を失っても構わないと思った。それで野花が少しでも眠れるのなら、伝染した悲しみすら放てるだろうと。安易に思っていた。余計に苦しめてしまった野花の手を握る。これは野花の為じゃなく自分がただ、手放したかっただけなんじゃないかと、水鏡は鳴き声の響く自室で静かに考えていた。

 もう十二時を回っただろうか。何も付いていない腕を凝視める。家に置いてきた腕時計の事を水鏡は思い出していた。紺色のベルトに、光の下で煌く金色の縁と針。愛らしい時計だった。でも本当はもっとシンプルな時計が好きだった。愛らしくない、時計が。
 それでもあの時計を付けない日は一度もなかった。針が一秒一秒動くのを見る度に背を押されているような気がして。外したら歩いてゆけない気がして。あの時計は。水鏡が中学生に上がる時、遠くに住む兄が送ってくれた時計だ。大切な。本当は一瞬だって外したくはなかった。けれど兄に寄り掛かってばかりいる自分には野花の傍に居る資格がない。
 本当は不安だった。一人で立つのは。「夜は長いね、」
 眠れない辛さを。夜の長さを。水鏡は知らない。だから、知りたい。野花の孤独も痛みも今夜だけは手放して。ただ安心して眠らせたい。それが夜でも朝でも構わないから。眠らせたいのだ。「そうだよ。夜は長い、」

 血の滲む指先を庇いながら保健室の扉を開ける。忘れていたことを思い出して後から扉をこんこんと叩く。返事は返ってこなかった。失礼します、と部屋に投げかけて入ると閉まっていたカーテンが揺れる。「先生ならいないよ、」白い布の隙間から顔を出した野花が笑う。
 「体調が悪いのなら職員室に行った方がいいよ、」
 「体育で指を怪我しただけ。直ぐに戻るよ、」
 慣れた手つきで水鏡は救急箱を棚から下ろし治療用の硬い長椅子の上に載せた。その横に上履きの踵を踏み潰した野花が腰を下ろして踵を正す。目元には隈があった。「眠れないの、」救急箱の蓋をあけながら水鏡はそっと尋ねる。
 「手は洗った?」開いた救急箱から絆創膏と消毒液を取り出して野花は伸ばしかけていた水鏡の手を掴む。「来る途中に、」
 指先に染みる消毒液と睫毛の際を視界に映して黙っている。独特の匂いが二人の間に漂っていた。ティッシュペーパーが消毒液と血を吸い上げる。「昼間でさえ、」覚束ない手つきで野花は絆創膏の袋を開けると水鏡の指先に巻いた。「思い出せないの、」傷口に被せた絆創膏のガーゼが血で滲む。包まれた指先が窮屈だった。
 「何、」使い終わった道具をしまう野花に水鏡は何処かそわそわとした様子で尋ねる。伸びた髪の隙間から隈のある野花の目元が薄く見えていた。「眠り方、」
 
 肩を揺すられて目が覚めた。はっとして水鏡は眠気を振り払うように首を振る。隣を見ると服を掴み懇願するような表情で野花が水鏡をじっと見ていた。「眠らないで、」その泣きそうな声はドーム状の遊具の中で良く響き何重にもなって水鏡の耳に届く。
 夜は更け既に住宅地は静まり返っている。何時もなら寝台で眠っているか手紙を書きながら眠ってしまっている時刻だろう。野花からの電話が無い日以外は。
 気を抜くと瞼が閉じてしまう。眠ってはいけない。上手く働かない頭で水鏡は自分に言い聞かせる。
 くらくらとする眠気の中で水鏡が再び瞼を閉じると泣きそうな野花の声が遊具の中で響く。「眠らないで。お願い、」
 「一人にしないで、」肩を強く揺する手に触れて水鏡は困ったように微笑を浮かべる。俯いた野花の目から涙が垂れていた。
 「都合がいいだけじゃ、なかったの、」
 眠気を孕んだ重たい声で水鏡が尋ねると野花は肩を掴む手を強めて首を振った。「分からない、」
 分からない、と野花は泣き濡れた声で繰り返す。「ただ、怖い……」そう口にすると野花は水鏡の胸に頭を埋めて何もいわなくなった。
 
 白い煙のような息を吐きながら静けさに満ちた住宅地を歩く。手紙が書き終わるのは決まって深夜だった。コートの中に潜ませた手紙に触れる。どんなに眠くても手紙が書き終わると投函するまでどきどきとして眠れない。だから二週間に一度はこうして手紙を出す為に真っ暗な外へ出る。
 道路に面した道に出ても車の通りは全くといっていいほどなかった。人だって誰も歩いていない。まるで世界に自分一人だけのようだと水鏡は思った。
 赤色の信号機に足を止める。どうせ車など通らないけれど水鏡は信号機の色が変わるのを癖のように待った。車道側の信号機が黄色に変わる。そして直ぐに歩道側の信号機が青く光った。
 引かれた白線を意識しながら渡る。子供の頃にした遊びを思い出していた。
 
 アスファルトに触れたら死んでしまう。あの黒色はとてつもなく熱いのだ。人間の体なんて簡単に、溶けてしまう。私は、死んでしまう。
 けれど白線は正しく安全だ。適度にひんやりとして私を殺さない。決して。殺さない。

 「早くしないと、」
 背後から投げられた言葉に驚いて水鏡は振り返った。見覚えのある少女だけれど、思い出すに至らない。「赤くなりそう、」一瞬、何のことだか分からなかった。
 しかし次の瞬間には明滅する青い光に気付いて駆け出す。これは癖。子供の頃に染み付いた社会の決まりという、癖だ。
 歩道に達した二人は明滅する信号機を黙って見守る。数十秒としない内に明滅は収まり赤い光を放った。「私、逃げてきたの、」
 再び少女の言葉に驚いて水鏡は赤色を凝視める少女の横顔を見た。覚えのある輪郭。覚えのある口元。
 記憶は喉までやって来ている。それでも、思い出せない。「もう夜更けだよ、」
 脈絡なく少女はそう呟くと尋ねるような視線を水鏡に向けた。どうして此処に居るのか。どうして此処に居なければいけないのか。「何から、」
 尋ね返された事に少女は苦笑して答える。「兄さんから、」
 水鏡は思わず手紙の潜んでいる箇所へ手を当てた。生地の上からでも有無が分かる。「どうして、」聞くべきではないと分かっていた。「どうしてだろう、」少女の目元が苦しげに歪む。「貴方はどうして?」
 「手紙を。手紙を出しに来ただけ、」
 「一体、誰に出すの?」
 尋ねられるに決まっていた。こんな夜更けにわざわざ手紙なんて。「従妹に、」
 「遠くに、住んでいるんだ、」
 少女の目がとても柔らかいものに変わる。ああ、そうだ。「好きなんだね、」
 応えるように水鏡は笑う。心の中で野花、と少女の名前を呼んだ。これだけは嘘にしたくないから。二つを同時に守りたいから。ごめんね、と思う。「うん。世界で一等、」
 
 「都合が良かった、」当てもなく歩いていた。どうしようもなく暗い街を。「汚い人間でしょう、」信じていた。歩いていれば何処かへ辿り着けると、信じていた。
 ぽつぽつと落ちる野花の声に合わせて水鏡はゆっくりと歩いていた。腕の関節あたりを軽く撫でる。「体が汚い奴は心も汚いの、」返事を待たれていると知りながらわざと無関心なふりをした。「そして一生、汚いまま生きてゆくの、」
 強く掴んでしまった腕の痛みを手放すように水鏡はふっと息を吐く。此処には、言葉しかない。でも、何の役にも立たない。「罪のようだって、罰のようだって、」感情を揺るがしても変えられない。生き方を指南しても分からない。「心から野花は思うの、」慰めているつもりで傷つけている。救うつもりで突き落としている。「罪人のようだって?」明日からの人生が塗り替えられたりしない。辛いことは辛いままだ。「当たり前だ、」
 「汚い人間は善人なんかにはなれないもの、」
 「それは自分で作り上げてしまったのじゃないかな、」
 野花の足が止まる。不可解そうな顔が水鏡を凝視めていた。「どういう意味、」
 「嘘を吐いた。それに野花は罪人じゃない、」
 「どういう意味、」
 きゅっ、と口を結んで水鏡は目を伏せる。脳裏には野花、それから、斜陽と兄。鏡に映った自分の顔が、ごちゃ混ぜになって浮かんでいた。斜陽と、自分の兄は、似ていない。「私の方だった、」ゆっくりと目を開く。「どうして気づかなかったんだろう、」戸惑いながら不安を滲ませる野花の目が、何処となく兄に似ているようだ、と水鏡は思った。

 体育館へと続く渡り廊下で斜陽とすれ違った。ぐっと息を飲み込んで数秒経ってから水鏡は振り返り斜陽の背中をぼんやりと眺める。「水鏡?」
 級友に呼び掛けられると水鏡は曖昧に頷き、何でもない、と呟いた。
 斜陽の姿を見ると心臓がとても痛む。それは恋の甘い痛みではなくもっと、暴力に近い痛みだ。
 襟から覗く首筋の線や、笑うと顔がくしゃりと歪むところが、兄と似ている。
 お世辞でも斜陽と自分の兄が似ているなんていいたくない。けれど、斜陽を見る度に兄を思い出すのも本当で、だから、痛むのだろうか。
 既に半数の生徒が集まる体育館の敷居を跨ぐ。合同授業という事もあって耳へ入り込んでくる音の数が多く、少し、騒がしい。
 軽く手を上げ一緒に来ていた級友達に別れを告げると水鏡は体育教師の元へと向かった。
 「体操着を忘れてしまいました、」
 申し訳なさそうに告げると体育教師は持っていたボードにペンを走らせる。「見学者は向こう、」投げられた視線を辿ると丸まって座っている女子生徒を見つけた。
 「野花、」
 駆け足で近寄り水鏡は声を掛ける。「体が悪いの、」ぴくり、と肩を揺らして、顔も上げずに野花は、うん、と呟く。「休んじゃえばよかったのに、」
 伏せていた頭の角度をずらして野花は目だけを覗かせた。疲れ切った隈のある目が何もいわずに水鏡をじ、っと凝視めている。「兄さんが学校へゆけって、」
 「昨日は。眠れなかったの、」
 心の何処かで期待をしながら尋ねた。丸まった野花の体が小さくなる。始業の鐘がなった。顔を上げる。視界の端で体育教師が生徒を呼び集めていた。「保健室行く?」
 指先が微かに震えている。堪えるような沈黙だった。
 震える手を掴み寄り添うように目を伏せる。
 じんわりと汗ばんだ温かな手は、体は、斜陽にゆっくりと殺された。
 体に刻まれた斜陽の体温が、噎せ返るような吐き気を伴い、常に野花を蝕んでいる。
 眩暈がするような無力さを覚え水鏡は唇を噛んだ。此処に必要なのは優しさじゃない。昨日と同じことが今日は起こらないという安心と約束だけが必要で、それ以外は無意味なのだ。

 夜の色が薄くなりつつあった。さっきまで道を照らしていた外灯の光が弱まったように感じる。本当は何一つ変わってはいないのに。「嘘を吐いたの、」
 話を再開するように水鏡は重たい口を開いた。背後で野花が頷く気配がする。「私は兄さんが好き、」振り返って微笑むと野花がまた頷いた。「家族としても、人としても、」
 「愛している、」
 それが兄を困らせている事を、遠ざける原因になった事を、水鏡は分かっているし、覚えている。「逆だね、」困ったように野花が苦笑した。
 好きでなくなれば兄も自分も真っ当に生きてゆけると水鏡は信じていた。「私にとっても野花は都合が良かったんだ、」一年前の事を水鏡は思い出す。兄と一緒に眠った日、まだ兄が起きている事を知りながら、好きだといった。兄は睫毛一本動かさず眠ったふりをして。それから一ヶ月もしない内に家を出ていった。それが妹の為になると信じて。「兄という存在自体を嫌いになれればと思ったんだ、」
 「兄さんを嫌いになんてなれないから、」
 ごめんね、と囁くように小さな声で水鏡は謝った。「どうして謝るの、」野花は泣きそうな水鏡の手を取って笑う。「それでもいいのに、」なんだって良かったのに、と野花は囁く。
 「苦しめた。悔いさせた。叱責させた。兄さんは何も悪くないのに、」
 「斜陽兄さんと同じだと思うの、」
 手を握り返して水鏡は頷く。同じだと思った。本当に悪いのは、自分や斜陽であったのに、兄さんも野花も、自分が全て間違っていたと信じている。だから、同じだと、水鏡は思った。それが直接的でないだけで。「嫌いじゃないよ、」
 「斜陽兄さんが好きだった頃の私が忘れられないから嫌いじゃないの、」
 後悔を滲ませた目で水鏡は野花を凝視める。「ねえ、水鏡、」ふっと、眠たそうな目を柔らかく緩めて野花が笑う。「もういいじゃない。今日は。一緒にいてくれるんでしょ、」
 力強く水鏡は頷いて微笑を浮かべる。「ならもういいよ、」
 「なんだっていいよ、」感情を押し込めるように野花は目を伏せた。
 今日だけは。苦しさにも悲しさにも目を瞑って一緒に眠ろうと決めていたから。「気づかなかったふりをしよう、」と水鏡は柔らかな笑みを浮かべた。
 
 頭部の重さを肩に感じながら水鏡は地面を蹴った。朝の空気が漂い始めている。「今日は昨日よりも楽しかったよ、」ずっと起きていた所為で目元の隈は濃くなっていた。
 「明日も友達で居てくれる?」
 勿論だよ、と水鏡は目元を擦りながら笑う。そっか。掠れた笑い声が朝の空気に溶けてゆく。
 「駄目だなあ、」
 泣きそうな声だった。わざと目線は下に落としておいた。ぐずぐずと鼻を鳴らす音が隣から聞こえる。「やっぱり思い出してしまう、」
 心の何処かでは分かっていた。こんなにも兄の声や記憶が薄れてしまっている自分でさえ思い出さない日はないのに。「変だなあ。楽しかったのに、」
 「嬉しかったのに、」一瞬だって、忘れられる筈はないのに。
 涙がはらはらと落ちていた。少しでも支えようと水鏡は足に力を入れる。さっきよりも頭部が重たくなったような気がしていた。「何だか疲れちゃった、」
 ごしごしと目元を拭う。「眠ってもいい、」甘えるような声で野花がいった。
 「いいよ、」水鏡と目が合うと野花は笑って目を伏せる。「隣にいるから、」今日を覚えていようと思った。この気持ちを忘れないように。「おやすみ、野花、」

花を摘む

花を摘む

ねむりたいあの子とねむらせたいこの子 軽い性的描写有り

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-04-16

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著作権法内での利用のみを許可します。

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