あいた口

Koji 作

あいた口
  1. 一、
  2. 二、
  3. 三、
  4. 四、
  5. 五、
  6. 六、
  7. 7

現時点で公開しているのは、第5節までとなります。毎週水曜日と土曜日に更新していきます。(次回:4/24(水)最終回)
本作品には間接的な性的表現、暴力的な発言等が見られることがありますので、苦手な方はお控え下さい。

一、


その絵を見た途端、胸のあたりからざわざわとしたお喋りみたいな音が聞こえてきた。
初めて聞いた体の「音」は、ときどき聞こえる耳鳴りみたいに貴重な感じがして、隣で喋り続ける母親に適当な相槌を打ちながら、私は小さな振動みたいなその音を、飴玉のように舐め続けていた。

私が家庭教師をすることになった子供の部屋は、むうっとした垢の臭いに包まれていた。床にはクレヨンや色鉛筆、絵の具などが落ち葉のように散らばっており、まだ新築だというのに、壁は画材によって修復ができないほどに傷つけられていた。

当の本人である少年は、女の子みたいに肩まで髪が伸びていた。
よれよれになったTシャツの袖で何度も顔を拭いながら、その子は部屋の中央で床に座り込んで、ただ黙々と一枚の絵を描いていた。

口をあんぐりとあけた人の顔。
その口の中の渦を巻いているような不思議な空洞に、私は魅せられるように、飲み込まれるように、見入っていた。

「赤羽さん?」
「…あ、はい」

気づくと、隣の母親が不思議そうな表情で私の顔を覗き込んでいた。

「どうかしたのかしら?」
「いえ、何も」

私がそう返事をすると、母親は「そう」とだけ言い、またお喋りを再開した。
この部屋に案内されてから、母親は自分の子供の自慢話ばかりを続けていた。幼稚園生のときは園内で一番足が速かった、とか、お返事が上手で先生にいつも褒められていた、とか、お受験のための勉強にすごく熱心に取り組んでいた、とか。どれもありきたりなものばかりで、正直、退屈だった。
そんなよくある話を二十分も三十分もするのであれば、この少年が部屋に閉じこもって絵を描いているわけを一言で教えてほしかった。けれど母親は、今の少年の状態にも、その絵についても、一切触れることはなかった。話の内容は、少年が引きこもりになる以前の時間に悉く限られていた。


家庭教師の誘いが来たのは、ちょうど二週間前のことだった。
近くの専門学校に通うバイト先の先輩から、母の知り合いで家庭教師を探している人がいると聞いたのがきっかけだった。

「うちのお母さんによると、その子六年生に進級した途端急に引きこもりになっちゃったみたいでさ。それで母親が心配して、せめて最低限の教養はと思って、家庭教師を探しているみたいなんだよね。私も一回誘われたんだけど、専門学生だし、その上卒業制作も忙しいしで断ったの。ほかに誰かいないかなって考えてたんだけど、そういえばソノちゃん大学生だし、もっとアルバイト増やしたいって言ってたから、どうかなと思って」

「家庭教師」と聞いて最初は気が引けたけど、子供が小学生だということと、なぜか「引きこもり」という点にぴんと来て、お話だけでも伺いたいと、気づけば私は返事をしていた。
別に引きこもりの子をどうにかしてあげたいとか、話を聞いてあげたいとか、そういうことがしたいわけではなかった。本当にただ、直感的にやってみたいと思っただけであって、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。

でも、今考えてみると、私はただ「見たかっただけ」だったのだなと思う。
引きこもりの子がどのような表情をしていて、どんな毎日を送っていて、どんな風に喋るのか。私はただそれだけに興味があって、なんとなく足を運んだに過ぎなかったのだ。
けれどその結果、私はおもしろい光景と出会うことができた。「いらないもの」のレッテルを貼られた物たちが集められるゴミ捨て場のように、ここにもいろんなものが捨てられているような気がした。


母親のつまらない話がようやく終わった頃には、少年の描いていた絵も完成していた。
クレヨンを力ずくでこすり続けた画用紙はべこべこにへこみ、表面にはおびただしい量のかすがびっしりと付着していた。
少年は描き終わった絵を両手で押さえると、ふうっと息を吹きかけた。すると、いろんな色のかすがふわりと宙を舞い、灰のように床の上を滑っていった。何度も何度も少年はその行為を繰り返し、かすが完全に吹き飛ばされると、画用紙上には人の顔と、どこまでも渦巻いているその空洞のみが残った。

その瞬間、ざわざわざわと、私の体の中で鳴り続けていた音が、より一層大きくなったように感じた。
まるで目の前の絵とお喋りをしているみたいで、とにかく不思議な心地だった。

「翔ちゃん。今日からお勉強を教えに来てくれる、赤羽ソノさんです。毎週火曜と金曜に来てくれるから、しっかり教えてもらうんですよ」

ようやく少年に話しかけたかと思うと、母親はくるりと向きをかえ、一瞬のうちに部屋を出ていってしまった。慌ててその背中を追いかけ、私も部屋を出たけれど、廊下からもう一度振り返ると、少年は私たちのことなんてちっとも見ておらず、その幼い瞳の中には、あの不思議な空洞だけが静かに映り込んでいた。

二、

二、


母親と明日の打ち合わせを軽くした後、私は少年の家を後にした。
あの後も母親は、少年の過去にすがるばかりで、一向に「今」の話をしようとしなかった。
出されたコーヒーをちびちびと飲みながら、リビングのありとあらゆるところに飾られた少年の写真を、私は一つ一つ舐めるようにして眺めていた。生まれて間もない頃の写真。どこかの公園で歩く練習をしている写真。七五三のときの家族写真。幼稚園の運動会で、手作りの金メダルを首に下げている写真。

どれも笑っている。笑っていることが、今だからこそ気味悪かった。

近くの停留所から大学前までバスで戻り、少し尿意を感じたため、大学の図書館の女子トイレに立ち寄った。
用を足し、洗面台で手を洗っていると、地味な顔の自分が鏡に映っていた。真っ黒な髪はぎしぎしと傷み、すっぴんの肌は、まるで障子紙みたいにざらざらとしている。

もし私が、リビングに自分の写真を飾るとするならば、一体いつの写真を飾るのだろう。
ふとそんなことを思いながら、私は鏡の中に、なんとなく大学入学時の自分の姿を映し出していた。

地元の国立大学にかろうじで合格したことはよかったものの、これといってやりたいことがなかった私は、とりあえず様々なサークルを見学し、いろんな環境でいろんな人にお酒を飲まされた。
体育会系のサークルでは、顔を真っ赤にした男の先輩たちが声を張り上げたり、肩を組みながらじゃれ合ったりしていてとても騒がしかったけれど、文学系のサークルの、あの自分に酔いしれている感じに付き合うのも、なかなか堪えるものがあった。

一ヶ月間そんなことを繰り返し、結局路頭に迷ってしまった私は、もうすべてがどうでもよくなっていて、同じ学科の女友達に付き合わされたダンスサークルの見学会で、たいして見学することもなく入部届を提出してしまった。
だからダンスサークルの新入生歓迎会で自己紹介をしなければならないと知ったときには、程よくまわっていたアルコールが体から静かに引いていくのを感じた。自己紹介をしろと言われても、私は自分の名前と学科くらいしか自信を持って言えるものがなく、趣味であったり、特技であったり、そういった「自分こういう人ですよ」とアピールするためのネタなんて、これっぽっちも持っていなかったのだ。
無論、ダンスサークルに入ろうと思った理由なんか、論外だった。

ダンスサークルの新入生たちは、入学式に金髪で出席していたり、ストリートダンサーみたいなだぼだぼの服装を着ていたりと、とにかく「俺こういう人だから」と、自分自身を表現する能力に長けている人が多く、その事実が、ただふわふわとその場にいるだけの私の存在を、さらに情けないものにしていた。
なんとなくその場にいて、本当に入部しているのかどうかもはっきりしないような存在だと自覚していたからか、返って「辞めます」と言うことの方が変に思えてきて、結局私は自分の番が来るまで、はらはらしながらカシスオレンジを飲んでいることしかできなかった。

私の自己紹介ときたら、散々だった。

名前と学科を言った時点で話が尽きてしまい、その後数十秒間の沈黙が続いた後、見兼ねた仕切り役の先輩が、気を利かせていろいろと質問をしてきてくれたにも関わらず、そのほとんどに「たぶん」とか「そうかもしれません」という曖昧な返答をするだけで終わってしまった。
おかげで私についたダンサーネームは「Maybe(メイビー)」。はっきりとした答えを出すことができず、いつも曖昧に「たぶん」と言っていたことが、見事に祟った名前だった。

それからの時間は、あっという間に過ぎていった。
なんとかダンスサークルの雰囲気に馴染もうと努力することを誓った私は、同期と同じだぼだぼの服を着て、髪をブリーチし、先輩方のようにだらだらと、ときどきリズムに乗るような感じで歩いた。そうしているうちに私の存在はだんだんと雰囲気に馴染んでゆき、一年経った頃にはダンサーネーム「Maybe」の由来はすっかり忘れられているくらいの主要メンバーとなっていた。
朝方までメンバーと酒を飲み、昼間の授業はすべて欠席し、夕方くらいに大学に足を運んだとしても授業を受ける気にはなれず、結局は喫煙所でタバコを吸った。ステージでは最前列でヒップホップを踊り、腹の底まで響くクラブのBGMを聞いていないと夜は眠れなくなり、結局は深夜のクラブへと自転車を漕いでいく日々が何日も続いた。
何回か彼氏もできたりした。最初に付き合ったのが同期の「Ryohey(リョーヘイ)」、次が二つ上の先輩である「KanaP(カナピー)」、そのまた次の人がクラブで知り合った、近所でバーを営む「Matsu(マツ)」さん。彼は十歳年上だった。
どの人も一緒にいて悪い気はしなかった。けれど、私も相手も誠実さに欠けていて、みんな半年たらずで別れてしまった。

疲れ果てるくらいに遊ぶ毎日を送っていた私は、四年間弱も在籍していたにも関わらず、相変わらず二年生止まりだった。
そしてとうとう二回目の留年が確定した頃、突然盲腸になって入院することになった。
病室のベッドの背もたれをリクライニングシートのようにあげて、私はただただ熱い緑茶を飲み続けた。たくさんお茶を飲み続けて、膀胱がぱんぱんになったらトイレへ急行し、ベッドに戻ると、また急須で熱いお茶を淹れて飲み続けた。

ふと、病室の窓から桜の木が見えた。もうじき花開く季節だというのに、一本だけぽつんと立っているその木は、どこか寂しげに見えた。
まるで、時間だけが刻一刻と過ぎていってしまう、私のようだった。

「やめよう」

そう思った私は、朝方まで遊びふける毎日も、お酒も、タバコも、もちろんダンスサークルもすべてやめることにした。
しかし、絶対にやめると固く決意したのはよかったものの、狂いに狂った体内時計も、アルコールやタバコに対する依存心も、自分が思っていたほど重症化しておらず、生活リズムも、盲腸も、入院期間を含めたったの二週間で完治した。
とんでもなくあっさりだった。

本当は何一つ変わっていなかったのだ。

頭の上までどっぷりと浸かって、お酒がなきゃ、タバコがなきゃ、何よりダンスがなきゃ私は生きていけません!と泣き叫ぶ自分になっていたつもりでいたけれど、もとの生活に戻ろうと思えば、本当はいつでも戻れたのだ。

結局のところ私は、あの新入生歓迎会のときと変わらず、ふわふわとその場に居続けていただけだったのだ。
「雰囲気」という樹の枝に、ほんの一瞬だけ絡みついた、小さな綿ぼこりだったのだ。

私はそれから授業の単位を取ることに専念した。クラブ街とは正反対の方向にあるひっそりとした居酒屋でアルバイトを始め、友達と遊ぶこともなく、遠くに出かけることもなく、大学とバイト先とアパートの間を行き来するだけの平凡な生活を送り続けた。

どんなに黒染めをしてもすぐに色落ちしてしまう髪や、ピアスの穴が塞がり硬い芯が残る耳たぶは、ときどき私にダンスサークルでの日々を思い出させた。
でも、それで名残惜しい気持ちになることは一切なく、ただ思い出すだけで、それ以外に何の感情も生まれないのは、やっぱり私がふわふわゆらゆらと生き続ける「Maybe」だからかもしれない。

あの金髪の時代の写真をリビングに飾ったとしても、私はたいして何も思わないのだろう。
それだけではない。高校時代だって、中学時代だって、小学時代だって、きっといくら飾っても、私は何とも思わないのだ。

私が壁に貼っておきたくなる「過去」は、果たしてあるのだろうか。
おそらく、そんなものなんて、ないのだ。


*

トイレから出ると、私はまっすぐ自分のアパートへと向かった。
明日から早速、あの家での授業が始まる。母親が渡してきた教材は割と難しいもののように感じたけれど、今日は居酒屋のアルバイトも大学の授業もないから、予習をする時間はたっぷりとある。

途中、大学内の道端で、大きなキャンパスに絵を描いている男子学生を見つけた。おそらく美術科の子だろう。
その子はどうやら風景画を描いているようだった。昨年改装したばかりのきれいな図書館を背景に、その前に広がる芝生の上で寝そべったり会話を楽しむ大学生たちを緻密に描き出している。

ふと、少年が描いていたあの絵が脳裏に蘇ってきた。
どこまでもどこまでも渦巻き、けれど、ずっと昔に忘れられてしまったかのような、あの空洞。
あの、表情。

ざわざわざわ。また私の体が「音」を鳴らし始めた。
私はせっかく生まれたその「音」を、大事に大事に舐めて少しずつ体の中に溶かしていきながら、帰り道を急いだ。

三、

三、


たしかに予想していたことではあった。
私が何を教えても、話しても、少年は絵を描き続けるのをやめなかったのだ。

緊張した面持ちの中、二階へと続く階段を上がり、ドアを二回ノックしてから少年の部屋の扉を押し開けた。そこには昨日とちっとも様子の変わらない少年が床に座り込んでいた。私は相変わらず手に汗を握っていたけれど、少年の、その私に対する無関心さが、返って緊張をほぐしてくれているようにも感じた。

昨日、あんなに夢中で絵を描いていた少年が、今日に限って勉強机に座っていたりしたら、それこそ恐怖だ。人間にはたくさんの引き出しがあって、いくらでも被れる仮面がある。その可能性ばかりをいつも警戒してしまう私にとって、少年の変わりようのなさは、静止画みたいな安心感があった。

少年の前にゆっくり腰掛けると、まずあいさつをしてみた。返事はもちろん、ない。

「素敵な絵だね」
「絵を描くのが好きなんだね」

私はそれから、少年の気を引くためにとやかく絵を褒め続けた。事実、私は少年の描いている絵をとても気に入っていたし、絵のことについて触れてもらえれば、ちょっとは心を開く気にもなってくれるのではないかと考えたのだ。

けれど、そんな甘い期待はことごとく裏切られてしまうもので、絵のことをいくら褒めても、一緒に勉強しないかと唆しても、少年は一ミリたりとも顔を上げてくれないのだった。

結局その日は、隣に座って国語の教科書を音読するだけで終わってしまった。母親に報告することにはものすごく抵抗を感じたけれど、あとあと問題になったら困るため、勇気を振り絞って話すことにした。

私が話している間、母親は一つも頷くことなく、終始黙って聞いていた。

「すみませんでした」

そう言って最後に頭を下げると、機嫌を損ねてしまったのか、母親は黙ってリビングの方へと向かってしまった。
家庭教師失格だ。そう思って俯いていると、スリッパの音が軽やかに戻ってきて、気づけば母親が、私に給料の入った封筒を差し出していた。

「ありがとう」

母親は笑っていた。ほうれい線の影が、筆でなぞったように、濃く濃く浮かび上がっていた。

「次もよろしくね」

その後も私は通い続けたけれど、五回来ても、十回来ても、十五回来ても、少年がその手を止めてくれることは一度もなかった。念のため、母親には授業の様子を毎回報告し続けた。けれど、彼女は困った顔一つせずに「そう」とだけ言い、給料の入った封筒を渡し続けてきた。

「ありがとう。次もよろしくね」

少年に一つも勉強を教えられていなのにというのに、頂いてしまっていいのだろうか。そう思いながら帰りのバスの中で。毎回のように給料の入った封筒を見つめた。最初こそラッキーという気持ちはあったものの、さすがにここまで続いてしまうと、申し訳なさの方が勝っていた。

けれどある日、私は母親のある行動を目の当たりにし、彼女が私を雇い続ける理由を、思いがけず知ってしまったのだった。それは、私が少年の家にいつもより10分ほどはやく着いたときのことだった。

給料分の労働をするべく、どうすれば少年が勉強をしてくれるのかと悩みながら歩いていると、ちょうど家の前で近所の奥様たちと会話をしている母親の姿が目に入った。

「そういえば、翔くんは元気?ちょっとはよくなった?」

一人の奥様が母親にそう訊ねるのを聞いて、思わずはっとしてしまった。部屋に引きこもって、風呂にも入らずに延々と絵を描き続ける少年は、元気になっているどころか、ますます痩せ、臭いもきつくなってきていた。

けれど、母親は苦い顔一つせず、むしろ、はちきれそうなほどの満面の笑みで、奥様にこう答えたのだった。

「それが少し笑うようになってきたのよ!家庭教師のお姉さんが来てくれてから!」

お世辞でも言えないほどの、真っ赤な嘘だった。

「あ、来たわ来たわ!」

私の姿を見つけると、母親は、いつもだと決してありえない、親しげな様子で話しかけてきた。

「翔ちゃんが待ってるわ!」

思わず首を傾げそうになったけれど、そのとき母親の、あのくっきりとしたほうれん線が見えた。その瞬間、私は彼女が見栄を張っていることにすぐさま気づいた。

私が雇われている理由。それは、「子供が引きこもり」というある種のコンプレックスをコンプレックスとして匂わせない確かな証拠を、世間に見せつけるためだった。

考えてみれば、すぐに分かることだった。
最初の顔合わせ以来、母親が少年の部屋まで来ることは一度もなかったし、授業の様子を聞いてくることもなかった。その無干渉な様子には前から違和感を覚えていたけれど、あの給料が入った白い封筒によって、私はうまくごまかされていたのだろう、母親の態度を「問題」として捉えたことは一度もなかった。「金に目が眩む」というのは、まさにこのことなのだな、と、しみじみ思ってしまった。

「どうしたの?ソノちゃ〜ん?」

ひそ、ひそ、ひそ。

ふと、母親のほうれい線から、小さな振動みたいな「音」が聞こえてくるような気がした。耳元で囁く悪魔のような真っ黒な生き物が、そこに寄生しているのではないかと思った。

けれど、それはどうやら違うみたいだった。それは、悪魔でもなく、寄生虫でもなく、ちゃんと「母親」という人間の中から生まれているものだった。

ひそひそ、ききき、あはあはあは、かっかっか。

形を手に入れておらず、まだ柔らかい母親の「音」たちが、じわじわとほうれい線の間から滲み出てきているのだった。たくさんのたくさんの人間の「音」たちが、踠いているのだった。


「___わかりました!」

私はいつの間にか、私らしくない明るい返事をしていた。
そうして、あたかも毎回そうしているかのように、玄関へと走り出し、勝手に扉を開け、中へと入っていった。

「もう!ソノちゃんたら、いつもそうやってすぐ翔ちゃんのところに行っちゃうんだから!嬉しいけど、お母さん寂しいわ!」

母親が興奮したように、鼻にかかった上ずり声でそう言っているのが背後から聞こえた。気持ち悪い声だと思いながら、けれど、

「授業が終わったらたくさんおしゃべりしましょ!お母さん!」

私は、まるで少年の友達のように、母親の娘のように、振る舞い続けた。

そのときの対応が気に入られたのか、その後も母親は私を雇い続けた。最初は受け取りづらかった給料も、口止め料だと考えれば、そう気にもとめなくなっていった。

母親の作った舞台の上で、私は自ら踊らされ続けた。
どこに行ってもふわふわと生きることしかできず、心から楽しむことができない自分の生き方に、本当は呆れていたのだ。

「Maybe」には、こうしていいように使われる生き方が一番合っている。

見え隠れする月のような、あるのかどうかも分からない架空の「答え」に身を委ねることによって、私は酷く安心し、そして、何も考えなくなっていった。

四、

四、


今日も家庭教師の日だった。私はもう既に何の教材も持っていかなくなっていた。時間が近づくと、手提げ袋にスマートフォンと財布だけを入れ、大学前からバスに乗り、少年の家へと向かった。

家に入る前に庭掃除をする近所の奥様と目が合い、軽くあいさつを交わした。

「今日も家庭教師なのね。翔くんはもともと頭が良かったから、きっと覚えも速いでしょう?」
「そうですね!私なんか、すぐ追い越されちゃいますよ!」

こうやって嘘をつくことに、私は何の抵抗も感じなくなっていた。
母親の舞台は、今日も問題なく進行されている。

家の中に入ると、リビングの方からテレビの音が聞こえてきた。
母親が、ソファに寝そべりながら観ているのだ。

私は靴を脱ぐと、何も言わずに二階へと上っていった。勝手に上がることは、暗黙の了解で、既に許されているようだった。

少年は相変わらず絵を描いていた。先日描いていた「金髪の女の人」が描き終わったのか、今日は「サラリーマン」らしき人物を描いていた。少年はどうやら、様々な容姿の「口をあけた人」を描くようで、赤ん坊からお年寄りまではもちろん、国境や性別を越えて、あらゆる人物の顔を描いていた。

アメリカの大統領を描いていたときもあったし、馬に乗った西洋人を描いていたときもあった。しかし、それで「これはト○ンプさんでしょ」などと私が訊ねても、相変わらず少年は答えてくれないのだった。


今日も私は少年の、もう何日も使われていないまっさらなベッドにどすんと横たわり、手提げ袋からスマートフォンを出して、だらだらといじっていた。

何を教えたとしても興味を持ってくれないため、近頃私はこうして約束の二時間を過ごしているのだった。変に邪魔をしても、お互いのためにならないから。そんな言い訳を考えながら、スマートフォンの画面をスクロールしていく。どれもこれも興味が持てなくて、正直退屈だった。


『翔ちゃんが待ってるわ!』


ふと、少年がかつての私みたいな金髪になったらどうなるのだろう、と思った。酒に溺れて、タバコを吸って、朝方までクラブで遊んで、内臓が揺れるほど大きい音の振動を感じていないと眠れなくなって。そう考えると、徐々に徐々に気分が高揚してきて、私の体の「音」が、ざわざわざわと大きくなってくるのを感じた。

私は少年の方を見た。
この子がとんでもなくぐれた人間になって、他人に迷惑ばかりをかけるようになったら、自分の世間体を保つことしか考えていないあの母親は、一体どんな顔をするだろうか。

慌てるだろうか。泣くだろうか。それとも、死ぬだろうか。

「音」が大きくなってくる。それと共に、今まで感じたことのないほどの高揚感が、私を包んでいく。

いてもたってもいられず、私はベッドから起き上がると、少年の前に座り込み、その動き続ける手を掴んだ。そして指の間に挟み込んだクレヨンを奪いとると、汚れて鉛色になったその指で、無理やり私の耳たぶを握らせた。

「ここ、ちょっと前まで穴だらけだったんだよ。硬い芯みたいなものが、いくつも残っているでしょ」

右腕を奪われても、少年は下を向いて黙り込んでいた。私の高揚感はさらに高まり、「音」が大きくなっていくのと同時に、腹の底から言葉がどんどん溢れ出てきた。

「この髪も、全部色素を抜いて金髪にしていたの。鼻の脇にあるこの穴も、ピアスが入ってたんだよ。化粧もすごく濃くて、おかげで肌は今よりもぼろぼろで、ニキビがたくさんできていた。それに、毎晩朝方までお酒を飲んで、ずっとずっと踊っていた。タバコだってたくさん吸った。もう私の肺は、救いようのないくらい真っ黒だよ」

少年はまだ黙っている。私の左耳に触れている指は、しなびた野菜のようにくたりとしたままだ。

「ねぇ、君もやってみない?私みたいに、ピアスを開けたり金髪にしたりして、酒を飲んでタバコを吸って、朝方まで家に帰らないで、もっと迷惑をかけてみない?そうやって___」

そうやって。

「___お母さんに、仕返しをしない?」


まったく動かなかった少年の指が、一瞬、ぴくりと動いたような気がした。

私はそれが嬉しくて、もっと少年に近寄り、顔を覗き込んだ。

「嫌なんでしょ、あんな自分のことしか考えていない親のことが。だったら思いっきりぐれて、あいつの面目丸潰れにしてやろうよ。きっと楽しいって」

ざわざわざわと、私の体の「音」が、さらに大きくなっていく。大きくなって、形を手に入れて、「言葉」になっていく。

ぼろぼろと、口からこぼれ出ていく___。

「あんなやつ、さっさとやっつけちゃおうよ!死にたくなるくらいに、恥をかかせてやろうよ!大丈夫、君ならできるって!私も手伝うからさ!」

ねぇ、やろうよ。やろうよ。やろうよ。

一緒に、お母さんを、殺そうよ。

少年は勢いよく私の手を振り払うと、そのまま体を突き飛ばしてきた。背中から倒れた私は、何が起こったのかも分からないまま、とりあえず首から上をあげて少年の姿をとらえようとした。

少年は床に散らばったクレヨンの中から黒色のものを探し出し、それを握ると「サラリーマン」の口の中を勢いよく塗り始めた。ぐるぐると、円を描くように。あくびをしているようだった「サラリーマン」の表情が、だんだと深い闇に包まれていった。

私はその様子を、黙って見つめていた。力強くクレヨンを擦り付ける少年の右手は、ねっとりと汗ばみ、そして、微かに震えていた。

五、

五、


小さい頃から、私はずる賢い人間だった。

おもちゃ屋に行った時、同い年くらいの女の子が「これが欲しいの!!」と親の前で泣きじゃくるのを見て、「いくら泣いても親は買ってくれないよ、馬鹿じゃん」と、心の底から呆れていたのを覚えている。

その子のすぐ隣に来て、私は手本を見せるようにお人形を手に取ると、欲しくて欲しくてたまらなそうな、けれど、我慢しようと心に決めてもいるような複雑な表情を、巧妙に作り上げた。

「ソノ、どうしたの?」

ちょうど、母が背後から近寄ってきた。しめしめ、という表情をなるべく出さないようにしながら、私は手に持っていた人形を商品棚に戻して、「ううん、なんでもない!」と、はきはきした声で言った。

「それが欲しいの?」
「ううん、いいの!」

手を後ろに組んで、背筋を伸ばして、目をうるうると、少し涙ぐんでいるように見せて。

「この前お母さん、ユウちゃんにクマのお人形プレゼントしてたでしょ?あれで私じゅーぶんなんだ!だって、ユウちゃんは私の大事な妹だし、それだけで私も嬉しかったから!それに、あんまりおもちゃを買っちゃったら、お母さんが好きなものを買えなくなっちゃうでしょ!」
「ソノ……」

お母さんは、私の「母を思いやる態度」に感銘を受けているようだった。待ってました、その表情。

「お母さんも、ちゃんと自分の好きなもの買わなきゃだめだからね!」

トドメの言葉を、ずぶりと刺した。すると、お母さんはにっこりと笑って「ありがとう、ソノ」と、私の頭を撫でた。

「その気持ち、本当に嬉しい。けれどね、私はソノのお母さんだから、ソノがそんなに無理して気を使うことはないんだよ。お母さんは、ソノとユウが幸せになってくれれば、それだけでいいの。欲しいのは、これでいいんだよね?」

商品棚に置いてある女の子の人形を手に取ると、お母さんはそれを買い物カゴの中に入れた。

そして、綺麗にネイルが施されているその手を、私に差し出してきた。

「お母さん……」
「はい、レジに行きましょうね」

私はさらに目をうるうるさせながら、今にも泣きそうな声で「うん」と返事をすると、お母さんの手を握って、一緒にレジへと歩き出した。


さきほどまで駄々をこねていた女の子が、口をぽっかりと開けて私のことを見ていた。私は女の子を一瞥すると、「ほらみろ」という感じで、いかにも意地悪っぽく口角を上げてやった。


大人はどうしても子供より「上」でいたがる。だから私がいい子でいればいるほど、正論を言えば言うほど、その上の立場になろうと背伸びをし、結局無理をする。その結果、誕生日でもクリスマスでもないのに娘に人形を買ってしまうという、思いがけない失態をおかしてしまうのだ。

誰かに教えられたというわけでもなく、私は小さい頃からそのことになんとなく気づいていて、納得のいかないことや欲しいものがあったりすると、迷うことなくこの手を使った。あまりにも上手くいっていたものだから、世界は私を中心に回っているのだと、本気で思うこともあった。


「プライド」という餌があちらこちらに散らばっていることを、そして、

「お母さん、私を産んでくれてありがとう!」

大人を弱らせる言葉が、泉のように私の口から湧いてくることを、私は本当に、心から、誇りに思っていた。

あの一件があってからも、私は少年を誘惑し続けた。

「キミならできる」「私も一緒にやる」「絶対に楽しいよ」

そんな言葉を何十回も何百回も繰り返したけれど、やはり少年は唇を固く結んで絵を描くことを止めなかった。


一度、タバコを持ってきたこともあった。突然思いついて、少年の家に向かう途中、駅のコンビニに駆け込み買ったのだ。これを見せたらどんな顔をするだろうとわくわくしながら家に向かったけれど、やっぱり少年は期待に応えてくれないようで、どんなに見せても、押し付けても、興味を示すことはなかった。

私はそれから、缶ビールやピアスなど、遊びふけった夜のエキスをたっぷりと吸った、ありとあらゆるものを手提げ袋に忍ばせて、少年の家へと向かった。けれど、私が持ってきたものに少年が反応することは、一切なかった。

少年を誘惑し続ける日々はとても愉快だったけれど、それに比例するようにして、体の中の「音」も、ますます膨らんでいった。

最初は気にもとめなかったけれど、何日も何日も気分が高揚し続けていると、自分でも制御できないほどにそれは大きくなり、そうなると、とにかく苦しかった。

私は爪を立てて身体中を掻いた。

どんなに掻いても消すことができないその「音」は、どれだけ踏み潰されても死なないゴキブリのように、ねちっこく身体中を這いずり回った。

それでも「音」がなくならないときは、スーパーで大量の食料を購入し、それを無理やり胃の中に押し込み、なんとか押し潰そうとした。けれど、それで圧迫されるのは内臓ばかりで、「音」が小さくなることはなかった。

食べて、吐いて、目から鼻から水を流しながら、私はさらに食べ続けた。

落ち着きたい。安心したい。たったそれだけの願望も、「音」が膨らんでしまうと、満たせなくなるのだった。

「音」が膨らむ時間は、日に日に増えていった。私の体重も、いつのまにか七キロ近く増えていた。


もうほとんど母親と顔を合わせることもなくなっていた私は、手ぶらで少年の部屋へ行き、一日中ベッドの上で蹲っていた。まるで、私もこの部屋で引きこもりになってしまったかのようだった。

ぶくぶくと脂肪がついていく体に反して、どんどんやつれていく私の顔を、少年はちっとも見なかった。一瞥もすることなく、ただただ、絵を描き続けているだけ。

今日の少年は、女の人を描いているようだった。ばさばさの頑固そうな黒髪で、片方の目だけをぱっくりとこじ開けた、女の人の顔だった。まるで今の私みたいで、少し可笑しくなった。


「……ねぇ」

なんとなく、少年に話しかけてみた。

何も答えてくれないことは承知の上だった。


「どうしてキミは、あいた口を描くの?」


突然、少年の手が止まった。あまりにも自然に止まったため、私はしばらくそれに気づくことができなかった。


「……くぃ………い」


少年の唇がミミズのように動き始め、その隙間から、金属を擦り合わせたような奇妙な音が漏れていた。驚いた私は少年の口元に釘付けになり、その開きそうで開かない唇の動きを黙って観察した。


「きぁ……ぇた………んい……きぁあ…ぇた……ぬぁい……」


少年は、何かを言おうとしていた。耳を澄ませ続けた。


「きぁ……ぇた………んい……きぁあ…ぇた……ぬぁい……」


……あ。

少年の言おうとしている言葉がようやく分かった途端、全身の血が引いていくのを感じた。指先がしびれて感覚がなくなり、頭の中が真っ白になっていく。

すると、遠くの方から、じくじくとうごめく真っ黒な塊が、ゆっくりと私に近づいてくるのが見えた。それが何なのか最初こそ分からなかったけれど、そこから僅かに響いてくる甲高い泣き声に、私はどこか懐かしさを覚えていた。

ああ、それは、ずっとずっと昔に、私が体の奥深くに置いてきた音だった。私の、声だった。少年に出会ったときではなかったのだ。私が初めて自分の「音」を聞いたのは___。


「きぁ……ぇた………んい……きぁあ…ぇた……ぁい………」


少年の声が、私の体の周りを回り続けている。硬い芯が残った耳や鼻を撫で、ざらざらとした肌の上を滑っていく。

私は、私が初めて「失敗」したときのことを思い出していた。

六、

六、

母は家にいる間、まだ一歳にも満たない私の妹ユウちゃんを、朝から晩まで抱っこしていた。

ユウちゃんが生まれたばかりの頃は仕方がないと許していたけれど、最近になって「まだ抱っこしているの?」と、私は苛立ちを感じ始めていた。

どうすればお母さんはユウちゃんじゃなくて、私を抱っこしてくれるのだろう。

出されたオレンジジュースをストローで吸い上げながら、私はそればかりを考えていた。

いつの間にか、ストローの先がぼろぼろに潰れていた。


正直、ユウちゃんのことがあまり好きではなかった。

まだ赤ちゃんだからといって、何をしても許されているところが気に食わなかったのだ。

私は毎回頭を使って大人を納得させる方法を考えているというのに、まるでそれが無駄じゃない。

ユウちゃんの、あのあどけない表情が、すべすべの肌が、芋虫みたいな指が、私は大嫌いだった。


___あ、そうだ。

そうしている間に、いい案を思いついた。
私が母に抱っこしてもらえる方法。それと同時にユウちゃんが、二度と抱っこをされない方法。

母がユウちゃんから目を離した隙に実行すると決めると、途端に気分が晴れ、鼻歌が止まらなくなった。

「ご機嫌ね、ソノ」
「だって、お母さんとユウちゃんのこと見てたら、なんだか幸せになってきて〜」

幸せなのは、本当だった。
もう少し経てば、あなたは私のものになる。


夕食を食べ終えた後、ようやくその時は来た。母が廊下に出た隙を見て、私はユウちゃんに近づき、その重たい体を持ち上げて、無理やりキッチンまで引きずり運んだ。幸運にもユウちゃんは一声も上げず、むしろ、これから何が起きるのかとわくわくしているようだった。

キッチンまで辿り着くと、私はシンク下の戸棚を開き、刃を下に向けて並べられている包丁のうち、一番小さなフルーツナイフを抜き出した。そして、自分の人差し指の腹に、その刃を強く押し付けた。

ビリリ、と、まるで指が破けていくような痛みが走った。そうして間もないうちに、傷口から赤黒い血がにじみ出てきた。

この血が何よりも大きな証拠になるのだと考えると、痛みなんて平気だった。むしろ、もっと流れろ、もっと流れろと、私は興奮しながらもう片方の手で指の腹の傷をさらに圧迫していた。


ダイニングに近づいてくる足音が廊下の方から聞こえてくると、私は急いでフルーツナイフの柄の部分をユウちゃんに握らせた。そして、

「いやぁああああぁあああぁああ!!」

腹の底から、痛烈な叫び声を上げた。

母は慌てて形相でダイニングに入ってきた。私たち二人の姿を見ると目を丸くし、両手で口を覆った。

「痛いぃぃぃいいいい!!!ユウちゃんがぁぁああ!!」

血まみれになった人差し指を立てながら、私は滝のように涙を流し、大事件が起きてしまったのだということを、猛烈にアピールし続けた。戸棚から間違ってナイフを取り出してしまった妹に、怪我を負わされた姉。なんて、悲劇的なんだろう。

ユウちゃんが私を傷つければ、母は絶対に私を抱きしめるに違いない。そう確信した上での作戦だった。あまりにも上手くいきすぎていて、思わず笑ってしまいそうだった。

「痛いよぉぉおおおぉぉおお!!」

さあ、はやく私を抱きしめて。お母さん。


母は咄嗟にユウちゃんからフルーツナイフを取り上げると、真っ先に私の方に近づいてきた。そして___勢いよく私の頬を叩いた。

「……え?」
「いい加減にしなさい!!!」

母は目を充血させながら、私のことを鋭く睨みつけていた。

しばらく、理解することができなかった。傷つけたのはユウちゃんだというのに、どうして私が叩かれたのだろう。

「前から前から、どうしてあなたは私を騙そうとするの!?
変よ!おかしいわよ!なんでそうな風に育っちゃったのよ!!」

母のその言葉を聞いた瞬間、どきり、と心臓が大きく波打った。言い訳が全く思い浮かばず、死にかけの魚みたいに、口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。

「ねぇどうしてよ!!どうしてなのよ!!
私があの人と別れたから!?何が原因なのよ!!
教えてよ!!はっきり言ってよ!!!」

母はヒステリックになっていた。こんなに取り乱している母の姿を見るのは初めてで、私はさらに何も言えなくなった。


母は全部知っていたのだ。
私の言葉や態度が演技で、全て作戦のうちだということを。


血塗れになった人差し指の先端が、どく、どく、と脈打っていた。まるで、身体中の脈をそこに集めてしまったかのようだった。ぽたぽたと、赤黒い血が一滴ずつ床に吸い込まれていく。私はその血を目で追いながら、今度こそ本当に、心から叫びたくなっていた。助けを求めたかった。

「どうしてよ!!どうしてよぉぉ!!」

母の大きな声が、私の小さな鼓膜を粉々に砕いていく。怒りに満ちた涙が、上からつららのように降ってきて、私の頭皮をぐさぐさと刺してくる。

私はパニックになりながらも、血塗れになった人差指を、ただひたすら見つめていた。それしかできることが思い浮かばなかった。

それからも母は、しばらく私に向かって「どうしてよ!!」と叫び続けた。フルーツナイフで床をがりがりと傷つけながら、悔しそうに叫び、ぜいぜいと喘いだ。

あまりにも母が苦しそうで、私はとても怯えていた。もしかすると、母はこのまま死んでしまうのではないか。そう思うと、私まで死んでしまいそうだった。

死なないで、お母さん。

置き場のない罪悪感に戸惑い続けた末、咄嗟に出た言葉は「ごめんなさい」だった。それがたった今唯一言える言葉なのだと思うと、私はその六文字に全身ですがり、呪文のように繰り返し続けた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

どれだけ言ったか分からない。気づけば母はよろよろと立ち上がると、「分かってくれたなら、いいの」とだけ残して、暗い廊下へと出て行ってしまった。

しんと静まり返った、まるで牢屋みたいなほろ暗い四角形の中で、私の中には、小さな小さな「音」だけが残っていた。

ざわざわざわざわざわざわ___。


気づけば、ユウちゃんが私の血でできた小さな水溜りを楽しそうに見つめていた。ケラケラと笑っていたけれど、それに対して私は、もう何も思わなくなっていた。



「きぁ……ぇた……んい……」

苦しまぎれに声を出す少年に向かって、私は静かに呟いた。

「嫌われたくない」

うつむいていた少年が、驚いたように顔を上げた。伸びた前髪の隙間から私のことを見つめている。子供の目だった。

「嫌われたく、ないんだよね」

少年の顎ががくがくと震え始めた。あが、うが、とわけのわからない声を発しながら、随分と溜まっていたのだろう、大粒の涙を流し始めた。


あのときの私も、そうだった。
泣きわめく母の姿を見て、咄嗟に思ったことは「嫌われたくない」だった。

『どうしてよ!!』

その叫び声に対する答えは、本当はちゃんと分かっていたのだ。けれど、言えなかった。言わなかった。世界でたった一人の母親に嫌われてしまうことの方が、絶望の淵に近づくような気がしたから。だから、私は心を殺してまでも、母に嫌われない道を、選んだ。

『私の気持ちも分かってよ』

そんなこと、言えるわけがなかった。
愛されたかった。もっと見て欲しかった。ソノはいい子ね、優しい子ね。永遠に、そういう甘い言葉を言われ続けたかった。母と二人だけの世界で、その愛に、いつまでも酔いしれていたかった。

母に愛してもらえるのであれば、私はどんなにずるい人間になってもよかった。どれだけ血を流してもよかったし、誰かを犠牲にしてもよかった。母の中で、母だけの温もりを感じていることだけが、私の求めている全てだった。


きっと、この少年も今、あの時の私と同じ崖に立っている。
どんなに酷い仕打ちを受けても、気持ちを汲んでもらえなくても、崖の下を見下ろしても、少年にとって、母は母なのだ。

だから、どうしても嫌われたくなくて、口の中で言葉が煮詰まり、毒として蓄積されてゆく。少年は、そんな自分の苦しい現状を訴えたくて、訴えたくて、訴えたくて、寝る間も惜しんで「あいた口」を描いていたのだと思う。

まだ、諦めていないのだ。
少年は、失ったものをずっとずっと、取り戻そうとしていたのだ。


私はベッドから立ち上がると、涙と塗料で顔がぐちゃぐちゃに汚れた少年の前に立った。

そして、これでもかというくらいに大きな口を開けて、腹の底から、叫んだ。


「このクソばばああああああ!!!!!なんで私の気持ちを分かってくれなかったんだよぉ!!!どうしてって愛して欲しいからに決まってるだろぉ!!!親なのにそんなことも分からないのかよ!!!ふざけるなぁぁぁ!!!」


部屋の隅々まで、私の声が響き渡る。「怒り」が、ぶつかっていく。


全てを発散すると、驚くほど体が軽くなっていた。しかし、心だけは錘のように重くなっていた。これでもう、どこかに飛んでいくことはなさそうだ。
私はもう「maybe」ではなかった。
愛する母の娘であり、ユウちゃんの姉である「赤羽ソノ」だった。


少年は、目を丸くして私のことを見上げていた。濡れた瞳は、照明の光を取り込んで、今にも輝こうとしている。

母親が階段を駆け上がってくる音が聞こえてきた。久々に聞いた音だった。


私は少年を見た。「大丈夫」と、目で訴えた。
すると、少年の顔は決意に満ちたように逞しくなり、戸惑い続けていた口が、大きく、大きく、大きく、大きく、大きく、開かれた。



足音が止まった。
少年が息を吸う。
綿ぼこりが、高く高く舞い上がり、空に消えていく。



まだ、取り戻せる。
この「怒り」こそが、取り戻す一歩なのだと、私は確信した。


〈完〉

あいた口

最後までお読みいただきありがとうございました。
この痛みが、少しでも皆さまに寄り添いますように。
                                                            Koji

あいた口

家庭教師をすることになった少年は「あいた口」を描き続けていた___。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-04-14

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