快活の哀しみ(3)

尾川喜三太 作

第三章 さざれしの投擲

 庄内地方では油蝉が卓越している。それは平成初葉のこの夏も同じことで、梵鐘の厚い余韻のような蝉の声は、小さな校庭のそこここに燠のごとくくすぶつていた。午后のプール授業に集まつて来た下級生たちは不便(もやもやもあら)ず、日(くた)(なへ)に三階建の矮い校舎はずんぐりとした片蔭を横たえていた。あかねに舂いた西の空は、みるみる地平を暮色に犯され、朱を奪える紫のすゑに暮れ行かんとしている。
 四人はここで忠実々々しい野球をしていた。
 校庭の砂地は猫の額ほどしかなく、奥へゆくほどに丈高い夏草が茂つていた。一球しかないボールを、しかも縢り目がまるでない軟式ボールが惜しさに、校舎の壁と体育倉庫と、クスノキの巨木に三方を囲ませた妙なアングルで、せせこましい野球を娯しんでいた。
「―――でもまさかトーヨーが知らないなんて、思わなかった。道理でなんか、様子が変だと思ってたんだ」
 三抱えに余るクスノキを立ちんぼのキャッチャーに据えた京臣が、バットを構えながら、云つた。
「それで、その話は誰から聴いたの?」
「誰って、それはもちろん、凪本人からだけど」
「うん」東洋は幹の中央を目がけてボールを抛つた。京臣が見逃したので、ボールはちょうど真ん中に当たって撥ね返つて来る。
「じゃあどうして、あの祖父母の家から引っ越したんだろ?」
「お母さんが離婚したからだって聴いたよ。なんでもその時、お母さんとお祖父さんが大喧嘩したんだって。お祖父さんがしきりにお父さんの肩ばかり持つから」
「あすこの祖父さんと母親の仲が険悪なのは昔ッからだよ。よく怒鳴り声とか、皿小鉢の砕ける音が聴こえるって、近所で評判になるくらいな―――でも、おかしいじゃないか。凪の母親は子育てなんか全然親任せで、そのまま凪をうっちゃって自分だけ東京の父親のもとに奔ろうくらいの遁構えだったのに、どうして一緒に伴れて出たんだ?」
「それは……うーん、そこまでは僕の親経由でも伝わってこないんだけど、なんか旦那さんと別れてから、凪を手放さなくなったんだって」
「勝手だなあ」
 東洋はかれこれ二年前、まだあの祖父母の家にいた頃の凪の母親のタブローを、憎さげに心に喚び返した。甘ッたるい南国風の体臭を持つたふくよかな肉置きで、愬えるような充血した唇、童顔で髪は剰多で瞳は大きく、その野趣あふれる顔立ちは淡彩な田舎の花圃においては、どぎつい舶来種の色彩を際立たせていた。体臭はある種の男どもを絶えず惹きつけ、凪の薄幸な存在感とは肖ても似つかない。凪はおそらく、東洋がまだ見ぬ父親似である。
「どしたんトーヨー?早よ投げれや。せっかく凪ちゃんと仲直りできるチャンスだったのに、まだギクシャクしとる」
「昔のベッタリぶりが恥ずかしいからって、俺らに遠慮するこたないぜ。二人がそんなだと、教室の空気が吸いづらくて仕方がねえ」
 東洋のバックで浅く守つていたアンディーとキョンシーが、こう事もなげに野次を飛ばした。
「別に……俺はフツーにしてるよ」
 好きな子には決まつて邪慳な態度をするあの反射運動を、老成な彼とてこの時ばかりは無意識になぞつていた。
「てか、俺は最初からフツーにしてる。ただアイツが勝手に俺のことを、さ。まるで―――」
「まるで?」
「まるで『好きでもないのにしつこく絡んで来る勘違い野郎』みたいな目で見るからさ」
「いやあ……そんなことは、さすがにないと、思うけど」
 恐らく、自分が落第したと思い込んでいるのは、東洋だけだと京臣は思つた。
「もとはと云えば、凪の方から仕掛けて来て、俺はそれに応えてただけなのに、これじゃまるで俺の片たあ…」
 とそこまで云うと、東洋は急にモーションを起して、京臣に速いボールを抛つた。今思えば、最初から最後まで受け身であつた自分を恥じる気持が、彼の口を噤ませた。
 ボールは際どいところへ行つた。反応し兼ねた京臣が見送ると、幹側面で角度がついたボールは鉄棒の並びを越えて、遠くウサギ小屋の裏手まで一散に転がっていつた。
「いや、打てよコンちゃん」
「無茶いわないでよ」
 東洋は仕方なし、ボールの在処へと小走りに駈けた。
 小屋の裏手は背面のその上、雑木と校舎の翳を重ねて、黄昏時の暗さがひとしお深い。東洋の姿は一時、このくらがりに紛れて黒白も分かず、ボールを探すこともそこのけの物思いに、身体もろとも沈んで行つた。
『なぜ凪はあんなあからさまな悪意に対して、受難者の面持で甘受しようとしてたんだ?』
『いい加減、この意味不明な音信不通を断ち切るべきだ。俺はもっと存気な足取りで、凪に踏み込んで行かなくっちゃならない―――でないととても、彼女は理解できない』
 紫気葱曨たる中庭には、ヘチマの棚が途方に暮れたように佇んでいる。病的な蔓は絲より細く、打ち上げられた女の溺死体のように、緑のネットに繊手を縋つていた。ドクダミの葉は野も狭にはびこり、中庭をよこぎる渡り廊下のむこうでは、ザクロがひともと、立ち枯れたまま、血の余熱のような残んの晩照をうけている、今しその前を二つの人影がかすめた―――先なるは『おいでおいで』と手招きしており、もう一人は『なあに?』と云つた調子で格別渋る様子もない。嚮導をしている男の、あの茄子の蔕をちょんぼり載せたような後頭部の隆起と、鳩のように首を振る癖は氏原で間違いない。では後から来る女は―――三段にフリルのついたチュニックにレギンスを穿いた姿の姸さ、肩口の優しさ、ばッさり切り揃えた髪型の直截は、云わずと知れた凪だつた。
 さしもの哄笑も行き場を失なつて、殆うく自嘲に転化しかけた時、足許にボールが仄白く見えた。
『俺とはひと言も口を利かないくせに、氏原とは仲睦まじく追いかけっこをする…なんて茶番だ!』
 二階を上がつて、理科室とおぼしき角教室に二人が入ってゆくのを見送ると、東洋はすごすごとみんなのところへ戻つた。
「トーヨーはまるで心ここにあらずだ」
 一番背の低い京臣は、東洋が抛つたボールをバントして前に転がすと、恁う聞けよがしな、パセティックな調子で詠嘆した。アンディーとキョンシーがこれを合図に、黙々と守備から引き揚げて来る。東洋はひとり解せない顔をした。
「ねェアンディー、それにキョンシー、略して安藤虚子。長短を鞘に戻すためにここは一肌袒ごうじゃないの」
「オッケ。着替えてからチャンチーん宅の喫茶に集合な」
「安心しろトーヨー。作戦ならもう五通りばかし考えてある」
と、これは東洋不在の間に温習われたらしい割台詞で、彼を煙に巻く。
「おいチョ、なに言ってるの。俺は、だから、この通りフツーだって」
 京臣は先にバントしたボールを徐ろに拾い上げて、
「お前さん。このモンドコロが目に入らぬか」
と、三代目に引き継がれたばかりの助三郎の假聲を遣つた。東洋はしょうことなしに目をしばたたいて、何の変哲もないボールに見入つた。
「そのボールがどうした?」
「これはお前、A級ボールだ」

 四人が家路に就くと、門を出てすぐの見附の角から、狐狸か、変化か―――とにかく異形の影法師が、縺れ合いながら躍り出た。泥に酔うたる鮒のような不鮮明な足取りで、正門を我は顔で入つて来たこの三体の侏儒は、先日のドッジボール大会でアボリジニの巨躯を杖よ柱と憑んでいた『青空倶楽部』の六年生である。四人は急遽、校訓の碑の周囲にイチイを配した岩組の陰に身を隠した。東洋はひとり身を斜に開いて、尊徳像の影になつた。
「先住民がいない。これはチャンスかもしれん」声を潜めて、アンディーが云つた。
 たしかにあの先住民を抜きにしては、無頼な三人組は、密かに白雪姫に懸想していた矮人が飛鳥のごとき王子の登場にグレて、舞台裏で非行に走つて、俄か仕立ての武装を凝らしたくらいにしか見えない。あたかも今年の学芸会の演目は『白雪姫』と決まっていたので、
「小人役が男子四人じゃカッコつかないからさ。なんならあいつらにゲスト出演して貰えば、人員補充ができて、よくね?」と、東洋が気の利いたちゃらっぽこを云つたが、三人は矮人らの向背と、その行く手に新たに現れた人影のために、釘づけにされている。
 中庭の渡り廊下で『おいでおいで』をやつているのは、またしてもあの憎ッくき茄子の蔕である。
「ん?なんだ、斥候がいたのか」
「この距離じゃ顔は見えんね」
「まさか俺等の教室をつきとめて、机にいたずらとかするんじゃないだろうな」
 五年間通い詰めて食傷していたはずの狭い校舎に、三人は急に愛着を感じたらしかつた。
「今日のところは可いだろう。明日先公にちくってもいいし、それも含めてこれから会議すりゃあ」
 これが鶴の一聲で、気色ばんでいた三人をまんまと賺し果せた東洋は、
「C級ボールみつけてから、追いつくわ」
 とだけ言い残して、とぱくさ来た道を取つて返した。

 気がかりなのは氏原の加担である。これあるがために、先日のドッジボール大会における出来事の真偽さえ疑わしくなる。凪は本統に苛められていたのか、それとも双方合意の上で、東洋たちを欺くために故意と仕組まれた・些と過激な・侠客めかした狂言に過ぎなかつたのか―――もし狂言なら、東洋の掣肘はまつたく余計なお世話だつたわけだ。
『要はあの氏原みたいに、賢いやつはそうやって、中学にあがる前から他校の連中と渡りをつけて、俺ら井の中の蛙と匆々に手を分かとう算段なのだろうか?』
 その傳ならば凪もまた、東洋たちを嘴の黄色いひよッこにして一緒に嘲笑つていることになつたが、強ち間違っているとも云えない。
 足音を偸んで二階に上がると、彼の邪推を見透かしたような忍び笑いが、理科室の方角から聴こえて来た。或いは噦り上げるように、エッジを塞いだリコーダのような擦れた悲鳴で、或いは囁くように、或いは抜き身で凄むようにと、一つとして同じものはない。
 壁を伝わつて理科室の手前の、準備室の引き戸に手をかけると、戸は音なしく横に辷つた。僥倖可しと、身を側めて室内に入ると、縦長の部屋には大きすぎる薬品棚が、観音開きを呀と開いて、半間に満たない通路を人もなげに壓している。偏執的な細字が列んでいる広口遮光壜のラベルを横目に、ずッと行き当たると、奥の戸を静かに開けた。扉と理科室はじかに隣つている。
 窓外はやゝに宵闇を催して来る。入るさの名残もの舊りぬ哉、絪縕たる夜の地平線にふかぶかと湛えられたこの一泓の紅葉は、下臥に水底に映えるかと見えた。あるほどは紅くしたへるなか、一本の柳腰に影が三つ、蝙蝠のごとくうるさく飛びまつわつている。一人がこの優しい処女を羽交い締めにしているが、そいつが背中に畳んだ皺は、一種淫蕩なエネルギーを撓めた蛇腹のように蠢動した。
 氏原の姿が見えない。
 いずれ溝瀆の藻草のように、そこらぢゅうに垂れ流された取るに足りない悪徳を、無批判にからめ取つて来た蕪雑な臭いが、彼等にはした。皮膚は水垢のような被膜を泛べ、露出しの踝には干割れた垢膩が、鱗のようにびッしりとこびりついている。東洋からは、凪を後ろ手に捻じ上げた一人が、しきりに下半身をこすりつけ、露骨な手つきで彼女の胸や尻をまさぐるさまがつぶさに見えたが、それが偶然の接触でないと気付かないほど、凪は眼前に示された脅威に目を奪われているらしい。
「ダメだぜ、今日は逃がしてやらねえ。早いとこお前も予防接種して、楽になっちまえよ。今日ならうどん粉病菌で勘弁してやる」
 最初に口を利いたのは、せせこましい道具立てに動物的な大きな耳、いちじるしく傾斜した釣り目が顔半分を額にして了つている悪童の親玉みたいな奴である。
「白村にしたこと、忘れてねェだろうな。あいつ、お前に切開されたただむきから上んとこ、蚕の繭みたいな膿が残っちまったんだとよ」
 受け口で猫背の、ちょっと気の弱そうな奴が語を継いだ。
「可哀想にな。ちゃんと落とし前つけろよ、自分の身体で」
 これは助平野郎の台詞である。
 東洋は無意識に、目に付いた棚から三角フラスコの柄をつかみ出した。
「だって、あれは……」
 銀鈴のような可憐な聲である。久しく聴かなかつたこの声音に、東洋はもだ〳〵と上気した。
「ん、あれが、なんだって?」
「―――あれはあなたたちが、態だけで可いからって、ペーパーナイフだから大丈夫って、私を騙したのがいけないんじゃない。乃江ちゃんだって、そこらへんは理解してくれてるわ」
「バカ言え、お前。そんなの肌膚に辷らせる前に、拇指の腹んとこで、手応えを確かめるのが常識だろうが。人のせいにしてんじゃねェよ。それに―――」
 悪童の親玉が、どこからともなく取り出した果物ナイフを、凪の目の前に誇示した。
「こんな刀身の太ってェナイフが、ペーパーナイフなわけねェだろ」
 云いさま、悪童は鞘を晃りと払つて、凪のその、烏夜にも著き小腕を掻いつかみ、事務的な所作で
『切りつけやがった!』
「あッ」
と、虫も殺さぬ悲鳴のあとには、水を流し込んだ蟻垤に俯いて、浮かんで来る死骸を凝視するあの粘着的な沈黙があり、疵口からじわじわ滲んで来る鮮血を悦ばしげに眺めている。
「浅かったか?」
「いや。皮下組織さえ見えてりゃ充分よ。」
 受け口は、シャーレの上になにやら涎みたいに溜まつている液体を取り出し、スポイトの尖に啣ませ、吸い上げながら、
「自家の畑から採って培養したうどん粉病菌。この一滴に十万匹はいるぜ」
と云うと、凪のその疵口に宛がおうとする―――
―――東洋の義憤は、この刹那、抑えがたい哄笑へと豹変し、酒蔵のような薄暗さと相俟つて彼に異常な渇きを強いた。硝子戸の向こうで服毒を催し顔の飴細工のような容器の中身が、彼には無性に美味しそうに見えた。
 フラスコは飛んで、引き戸のわずかな隙間を縫つて、廊下の硝子窓をこなごなに粉砕した。ただならぬ物音に二三歩ふらふらと曳かされた連中の隙をついて、脱兎のごとく闖入した東洋は、衣嚢から疾ッくに出して握りッぱなしの『右ストレート』を、あのその助平野郎の顔面にお見舞いした。
「ん―――」と呼吸を引いて、助平は尻居に摚乎と僵れた。いつたい何が起こつたのかと縡問いたげな顔して、それからやッと痛がりはじめた。
「んだ、こいつ?」
「誰だが知らんが、いま患者たっての希望で注射してるところだ。引ッ込んでろ」
 小学生と云うやつは、やたら特撮的台詞を日常会話に挿入してはばからない。こいつら、早くも学芸会の下稽古をはじめる気か、と東洋は思つた。おまけに凪を前後に擁して、喉もとに切ッ尖を突きつけている。
「カタハライタいわッ三下ども。そんなに刃物ふりまわして、チャンバラがやりたけりゃ内輪でやっとれ、このドアホ!関係ねェやつまで巻き込んでるんじゃねェ」
 このべらんめえの円転滑脱には驚くべきものがある。東洋は我ながら舌の滑りがよすぎるのを怪しんだ。
「オメーの方こそ、何も知らんくせに。こいつはそれだけのことを仕出かしたんだ。だから報いを受けてるところだ」
 東洋は凪の眼の中をまともにのぞき込んだ。しかしそこに認められるのは、恐怖にむかつて一目散に墜落してゆく依怙地な喪失であり、感謝の目注せも、欣喜のひとかけらも掬いとれない。気の遠くなるような仰角一五度の上目遣いで、東洋の背後霊と目で交信しているかのようである。

 ここに矢種も竭いたころ、廊下に通ずる戸の蔭から、京臣の首から上だけが、キノコのごとく生えているのを見つけた。随分とそこでそうしていたらしく、団栗眼をぐるぐると回して、またしても彼の背後霊にしか分からない合図を送っている。それから反対側の非常階段を指さして、
「Over」
 と軽く手を振ると、スッといなくなつた。
 なにがなんだかさッぱりわからない。が、間もなく、
「せんせえ―――」と云う京臣の装わしげな声が、遠方にあるごとき巧みなクレッシェンドで廊下にこだました(実のところ、京臣は本統に先生を呼びに行っていた)。
「先生こっちです。理科室の方からです。さっき第三小の六年生たちが、勝手に入ってくのを見ました」
「ヤベっ」
 受け口と、そこにのびていた助平野郎とは咄嗟に狼狽の色を作して、非常階段の方へ駈けだした。なるほど、分厚い防火扉をぐいぐい推して、心太のように身を逸つて二人が外へ飛び出すと、同時に
「ぎゃあああ!」
 と云う叫喚が響いた。それからドタドタと足を薙がれて、声の主が階段下になだれ落ちる気勢がした。京臣が指さしたのはこれであつた。
 悪童は、京臣の鎌かけには怯まなかつたが、同胞の惨たる悲鳴を聴いて思わずそなたを顧みた―――東洋はこの機を逸さない。傍見と同時に突進して、その少し出ッ歯な口許めがけて拳を矯めた。が、突き出した拳の苛高な節はその出ッ歯に遮られて致命打にはならない。凪の衿許を扱いていた腕が弛むと、慌てた悪童は盲ら滅法にナイフを振り回した。その刀身に、女の髪が二三条しがらんでいるのが瞥見されたが、深く考える前に東洋の二発目は、そいつの横側方を張り曲げていた。

 随分と可い気な達成感に浸つていたことは否めない。梟雄は卻けられ、あとは涙ぐましい抱擁の、悲喜相半ばした会心の―――凪もそれを望んでいた筈の、和解が待つばかりだつた。呼吸を整えるべく東洋がそうして長いこと、純一無雑な正義の成就を噛みしめるように佇んでいたとて、誰が彼を咎められよう?―――左様、凪を措いて他には誰も、彼を咎めることはできない。
 何て声をかけようか知ら、とそんなちゃちな逡巡さへ少し極まりが悪くなるほど、凪はその場にへたり込み、やわらかく膝を内股に折つて、投げ首の體である。安堵のあまり腰を抜かしたのか知ら、などと云う推察はこの際、楽観てふも疎かである。
「おい……なあ、大丈夫か?」
 大丈夫なことが前提でたずねる同語反覆の心算で東洋は云つたが、その声は不穏な顫えを帯びた。凪は依然、右手に頭重げな顱を支えたまま、緑髪の柳の下蔭に月の面影を隠している。
 南風の隨意に櫛られた髪はまだほんのりと温かく、夏の残香を薫じていた。さし入れられたその手を秉ると、紅葉の手は真ッ赤に染まつていて―――東洋は戦慄した―――あらわな肱をすうと伝わつた血の滴りが、モザイク張りの床の上で王冠と摧けて四散した。そのとばしりたるや、東洋がドッジボール大会で青い砂地にばらまいた静脈血とは比べものにならないくらい、夜目にも鮮やかな唐紅ゐである―――要するに危険な色だ。ぞッとしてその手を離すと、凪は力なくぐたりと垂れた。
『又だ』東洋の独白はほとんど悲鳴の域に達していた。『凪はまるで俺に援けられる気がないみたいだ。この沈黙は徹底的な拒絶……結局、あれ以来、落第した俺は凪のために正義を捧げる端を失い、誠意を示す機会は二度と与えられないのかも知れない』
 棒立ちになつて、東洋は目頭に熱いものを感じた。
 非常階段の方からは未だに、
「おいこら、どうだ」
「思い知ったか」
と云うアンディーとキョンシーが連中と角力つている力聲が絶えない。実験台の脚を枕にして、蟾蜍の轢死体のようにそこへ長くなつていた悪童の影が、いまさらむくむくと動き出した。くぐもつた声でこう云つた。
「お前……よく見りゃ…ドッジボール大会の時の『鼻血ブー太郎』じゃねェか?」
 東洋は小さく洟を啜つて、快活さを取り戻そうと努めた。
「妙なあだ名つけてんじゃねェよ」
 影は、うつぶせの背に波を拍たせて、へへへ、としぶとく嘲笑つている。
「可哀想にな、お前。なんもわかっちゃない。そんな必死に庇ったところで、そいつが感謝するとでも思ってるのか?」
「どういう意味だ?」
「……そいつは懺悔したがってるんだよ。見てわからねェか?―――白村にしたことも含めて、誰かに罰してもらいたいんだよ。だから俺等が望み通りに、罰の執行を請け負ってやったってのに、お前と云うやつは……ッたくお目出度いな」
 そのよくしゃべる蠐螬を足蹴にしようとした、その時である。背後の人の気配に東洋は仕舞まで気付かなかつた。吐嗟と頭振る間もなく、目八分に振り下ろされた方な箱椅子に彼はしたたか頭の顱を割られた。釣鐘のようにすとんと落ちても梟首はなお鳴り已まない。立つことと横たわることとが殆ど同義の倦怠感が彼の全身を錨のごとく無感覚の海に汨沒せしめた。脳震盪である。
 昏倒する間際、たまたま見上げる形になつた凪の顔の上に、東洋は無遠慮にうつろな視線を這わせることができた―――その蒼白い顔は苦痛以上に、一顆の真珠母を掌にのせて転がすような掬すべき苦悶の―――逆説的に快楽の表情を浮かべていた。苦痛を忘れるほどの安堵を手にしながら、おそらく身体がそれを裏切つていた。出血のショックで硬直していた訳ではないと分かつただけでも、東洋は心安らかに気を失うことができた。
「越賀くん、越賀くんッ!」
 東洋の身体に覆いかぶさつた凪の、哀切な叫びが遠くの方で聴こえる。
「越賀くんには手を出さないでって、わたし、言ったわよね」
「ああ。だから私も一部始終、こうして手を撫して、傍観していたともさ―――しかしまあ、彼の方から予告もなく実力行使に出たんだ。飛塚たちがやられてるのに、見て見ぬふりはできないだろ?」
「この……卑怯者ッ」
「ハハハ。卑怯者で結構、大いに結構―――だが分かってるだろうね。もし私がやったなどと誰かに密告しようものなら、その時は―――」
 東洋は気を喪つた。
 それにしろ、鈍器が振り下ろされた角度からして、ドッジボールを丁ど放つあの先住民の美事なフォームを、東洋は重ねて思い浮かべた。だから自分の背後を襲い、凪と話しているのはそいつだと思つた。実は準備室に潜んでいたそいつが、見兼ねて姿をあらわしたと、こう考える以上の真実がいまの彼には閉ざされている。

快活の哀しみ(3)

快活の哀しみ(3)

草いきれの盛んな首夏。プール授業のあとに居残って、日が暮れるまで野球をして遊んでいた東洋たちは、慣れ親しんだ学校の門を我は顔に闖入して来る矮人どもの夕影をみとめ――― ドッジボール大会の借りを返して有頂天になる彼等だったが、東洋たちの世代を線蟲病のごとく犯しはじめた思想的洗脳のけはいには、とんと頓着しないまま、あたら見通しの少数学級は中学と云う名の池塘が決するとみる間に、春草を捥がれ、逝湍に溺れて、二度と巡り合うことはない,,,,,,

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-04-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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