もう本当の愛なんていらない

もう本当の愛なんていらない

1

新居は、すごくいい匂いがした。午後に飲むホットミルクみたいな、あるいは赤ちゃんのほっぺたみたいな。入居日の3日前に部屋全体をオゾンで殺菌しますねみたいな話を大家さんが言ってたけど、オゾンがこんな匂いなのかな。

部屋はすごくシンプルな1DK。トイレ風呂別、家具なし。これから洗濯機や電子レンジに冷蔵庫と色々買わないといけない。
この部屋のお気に入りは洗濯物を干すためだけの狭いベランダ。ここに綺麗な造花を飾ったり、やったことないけどなにかを栽培したりしたい。
大家さんからは、もしも煙草を吸うならベランダか、1階の喫煙所で吸ってくださいと言われた。
何人の入居者がそれを守っているんだろう。

2

「いやぁ…3万にしては安いね」
玄関に立っている彼が言った。まだ寒いのに柄物の大きい半ズボンに、サンタデザインの薄いセーターを着て立っている。
「でしょ。いいとこ見つけた」
私がそう言って笑うと、彼も微笑んでくれた。
「これから、頑張るんだよ」
そう言って手を広げた彼だったが、私は彼の目を見つめながらゆっくりと首を横に振った。
少しだけ悲しげな笑顔になった彼も、ゆっくりと手を下におろして私に聞こえないように小さくため息を吐いた。

3

私たちは4月1日に別れた。

4

4月1日はエイプリルフール。いろんな話があるけど、私が知っているのは午前中に嘘をついて、午後にその種明かしをするという日だ。
ついた嘘は永遠に訪れることはなく、種明かしは生きている間に必ず実現する。そんな素敵な日。
目が覚めるといつものように彼が私の頭を撫でていた。
「おはよう〇〇」
彼は私のことをあだ名で呼ぶ。付き合って半年ぐらいからあだ名で呼び始めた。
「おはよう」
眠り眼をこすりながら彼にそっと抱きついた。彼は嬉しそうに優しく抱きしめ返してくれた。
「じゃ、俺は仕事行ってくれるね」
そう言ってまた頭を撫でて、彼は出て行った。

彼と同棲して1年。彼の私に対する愛は今だにあの頃と変わらない。女の影もない。そんな人に会えるとは思っていなかった。そんな事を考えながらまた目を閉じた。

5

数年前。忘れっぽい私が今だに記憶している恋がある。
高校を中退して、バイトに明け暮れていた頃、私はこの日常に退屈していた。
こんなはずじゃないのになとは考えていなかった。元から私はなるようになるだろうとしか考えてなかったから。
私は男女問わずたくさんの友達がいた。バイト先の人だったり、その友達の友達だったり、割と自由にできたから、関われる人とは積極的に関わっていた。
そんな日常を攫ったのは夜の仕事をしている年上の彼だった。

6

彼はすごく自由な人だった。何も知らなかった私を、いろんな所に連れて行ってくれた。惹かれたのは言うまでもない。私は彼に猛アタックをして、1年半の時を経て付き合うことができた。
今思い返せば彼はすごく冷たい人だったけど、そう言うところも全部好きだった。自分とは違う“大人”な彼に無我夢中だった。
お金も時間も遊びも彼も、全てを手にしていたあの頃の私は、はっきり言って最強だった。何も怖くないし、これ以上も以下もないし、毎日が新しい事まみれだった。

そんなある日、夜の仕事の手伝いをしてくれないか?と彼に言われた。

7

彼のためならなんでもする覚悟はあった。でもそれだけは出来なかった。正直ありえない。彼女をほかの男に抱かせようなんて。
だから、私も彼と同じ経営側として夜の仕事の手伝いをした。

8

夜の仕事っていうのは、ホストとか、キャバ嬢とかではなく、風俗の話。
夜の世界にそういう仕事があるのは知っていたし、それをやってる人への偏見とかは一切なかった。人が生きていく中でお金は必要だし、稼げるうちに稼いどかないといけない。その手段がそれだっただけ。人の自由だ。
私はお金に困っている子や、出会い系をやってる人たちをスカウトして、自分のお店で働いてもらっていた。今思えば貴重な経験だったと思う。
そしていろんな問題と向き合った。
その中で1番辛かったのは彼の手の速さだった。
彼はオーナーだったし、夜の仕事だからそういう研修もしないといけなかったから、女の子に手を出すっていうのは仕方がないと思っていた。男ってそういう生き物だろうって割り切っていた。
けど、量が多かった。女の子から相談を受けて5人目。カラオケに一緒に行って、犯されそうになったって言う話を聞いた時に私の頭で何かがちぎれる音がした。

9

私たちが付き合っていることは内緒だった。夜の世界ではあまりあからさまにしないほうがいいと言う暗黙の了解があった。
だから女の子たちは一応経営者である私に、彼の話をしてきた。
帰りの車の中、普段とは違う機嫌の悪い私にしびれを切らせた彼が言った。
「お前今日何」「おかしいよ?」「なんでそんなに機嫌悪いんだよ」
こんなもんじゃなかったけど、ほぼ喧嘩腰の言葉が私に飛んできた。
だから私も言ってやった。女の子たちから聞いたこと全部。言葉にならない言葉と、ありえない量の涙を彼にぶつけた。
すると彼は、優しく肩を抱いてくれた。
「なんだ、そんなことか」と言いたげな顔で。
たったそれだけで、私はただただ涙を流して彼に抱きつく以外の行動が取れなかった。あの頃はそれだけで良かった。そうしてくれるだけで心が満たされた。好きと言う感情に歯向かえなかった。

10

それから私達はゆっくりと壊れていった。正確には私が1人で壊れていった。
彼に振り向いてもらいたい一心でやった行動が、彼の怒りに触れて、私は縁を切られた。

11

それからしばらくいろんな男と恋をした。
好き嫌いではなかった。寄ってきた男を適当にさばいていただけだったかもしれないの。だから恋とは呼ばないかもしれない。でも、愛を貰っている気はした。私が返したことも何度かあった。
でも、もう私の中ではあの時以外の恋は考えられなかった。

12

目を覚ますと、すでにお昼を超えていた。ぼーっと時間が流れている気がして、また目を閉じて考えた。
今の彼は本当に真剣に私の事を考えてくれているし、結婚の挨拶も行ったし、私自身も、彼の事は今までの男と全然違うし、楽しさや愛を感じていると実感できてる。
ただ、胸の内で燻るもう1人の自分と、向き合わざるを経なかった。

13

話は戻るけど、私と今の彼の愛は4月1日で終わった。
私から振った。すごく悩んだ結果だった。
私は“愛”よりも、“20代の可能性”を取ったんだ。今の彼の事は本当に好きだし、愛してるし、愛されてる。
それは分かってる。分かってるけど、歯向かえなかった。
少なからずも私は、今だにあの頃の愛を心の隅っこに置いてるし、お金も自由も時間もあったあの頃が忘れられない。
彼には本気で悪いけど、今でも私は、あの頃に帰りたいと思う夜がある。

14

今日は新しいスタートにもってこいの夜だった。
綺麗な満月が闇夜に浮かんでいる。まだ肌寒かったけど、薄着でベランダに出た。
煙草を吸うのは1年ぶりだった。

右目からだけ流れる涙。呼吸も脈拍も乱れはない。ただ心に空いた穴がズキズキ痛むだけだ。
大きく深呼吸をしてから、煙を吸い込んで吐いた。
部屋の明かりに照らされた煙が夜に吸い込まれて消えていった。

もう本当の愛なんていらない

もう本当の愛なんていらない

私は絶対に後悔しない。これからもずっと。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-13

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