水泳部の人魚姫
人魚姫だ、と思った。
夏休みも半ばの学校。部活動に勤しむ生徒たちの気配も遠い、プール横の道。洗ったばかりの画材を抱えて、頭上から刺すような日光とにじむ汗に辟易としながら美術室へと向かっていた私は、あ、と立ち止まった。たっぷりの透明な水を湛えたプールの奥にあるドアから一人の女の子が出てくるのが見えたからだった。全体的に色素の薄い、華奢な女の子。
人魚姫だ、と思った。もちろん彼女は人魚ではなく人間だ。ただ、周囲がそう囁く。水泳部の人魚姫。誰が呼び出したのか定かではないその名称は、けれど誰もが頷くほどに彼女によく合っていた。水の中を悠々と泳ぐ姿と、俗世からわずかに浮いたような花のかんばせ。おまけに水泳部の全国大会出場記念の懸垂幕に堂々と名前が記されているほどの実力者だし、校内では割と有名だ。外でも割と有名かもしれない。
重たい画材を抱えたまま、私は彼女を見つめた。じりじりと突き刺し焼き焦がすような日光にも構わず、彼女は涼しい顔で飛び込み台へと歩いて行く。なんだかおかしいなと思った。水泳部なのだから、プールにいるのは別におかしいことではない。けど、その格好はいつもの制服――青いリボンが胸元を飾っているセーラー服と紺色のプリーツスカート――で、色素の薄いわずかに波がかった髪もまとめることなく背中に流したままだ。普通なら、制服のままプールに立ち入ることさえ許可されないのに。どうしたんだろう、と思う私に気づくことなく、彼女は真っ白な両足を飛び込み台の上で揃えた。
風が髪を撫でるように揺らす。
その体が、傾ぐ。
「あ」
と思わず声を漏らした私の目の前で、人魚姫は盛大な水音とともに水底へ沈んだ。
ソーダのようにいっせいに水が泡立っては弾けて、きらきらときらめく水面に大きな波紋が広がって揺れる。
そして、――静寂。
一つ、二つ、三つ。
――浮き上がってこない。
息を殺して水面を窺って、それでもなお彼女が浮き上がってこないことを確認すると、私はプールの入口へと走った。
結論から言うと、彼女は無事だった。人魚姫が溺れるはずもない。
プールサイドに頬杖をついて、髪とプリーツスカートを水の中で泳がせたまま何事か考えているような様子の彼女を見つけた私は、息を切らしたままほっと息を吐いた。がちゃがちゃと鳴る画材の騒々しい音で彼女がこちらに気づく。一つ瞬いて、麗しの人魚姫は首を傾げた。
「見てたの?」
頷く。困ったように微笑んで、心配させたみたい、ごめんね、と彼女は言った。私はまた頷いた。
「ねえ、時間があるならちょっと涼んでいかない?」
そういって手招きをされる。私は少し迷って、結局彼女のそばへ寄って行った。今は休憩時間だし、しばらく戻らなくても大丈夫だろう。歩くたびにはだしのかかとから骨に足音が響くような感覚がする。香る塩素の匂い。
そばへ立った私の足にぱしゃりと水をかけて、人魚姫はまた笑みを浮かべた。
「いつから見てたの?」
「ドアから出てきたところから」
「つまり最初からってこと? 恥ずかしいなあ。先生には内緒にしてね」
「いいよ」
「ありがと!」
想像よりもずいぶんと明るい笑顔だった。
けど、私が内緒にしたところですぐにばれそうな気もする。あんなに派手な水音を立てていたし、私以外に誰かが見ていないとも限らない。そう言うと、人魚姫は「そのときはそのとき」と白い足で水面をぱしゃんと叩いた。それからまた私の足に水をかけた。心地いい。こうなると私までプールに飛び込みたくなる。
「あのさ」
「なあに?」
「どうして制服のまま飛び込んだりしたの?」
「失恋したから」
――って、言ったらどうする? と人魚姫は悪戯っぽく目をきらめかせた。私は答えに詰まった。失恋したから? ますます「人魚姫」だ。別に彼女は泡になってなんかいないけど。
「冗談だよ。失う恋すら持ってないもの」
「そっか」
「ただ、たまにああやって思いっきり飛び込みたくなるの。水に飛び込んだあの瞬間が好きだから」
彼女の目が夢見るように細められた。その横顔を眺めながら、私は想像する。
彼女が水に飛び込んだその瞬間。たくさんの泡が立ち上り、身を包み、髪に触れては弾ける。青く透明な水に揺れる長い髪とプリーツスカート。伏せた長い睫毛、投げ出された白い手足。見上げた水面には陽光が散らばって反射してきらめいている。
そんな情景を、脳裏に描く。
「あのさ」
「なあに?」
「描いていいかな。あなたのこと」
きょとんとした顔で私の目を見返して、それから、「とびきりきれいに描いてくれるなら」と水泳部の人魚姫は微笑んだ。
水泳部の人魚姫