最終急行

草片文庫(くさびらぶんこ) 作

最終急行

幻想系短編小説です。縦書きでお読みください。


 夜の十二時になろうとしている。
 始発駅に最終急行がホームに入っている。昔ならホームの上に煙草の吸殻や新聞紙が散乱していたものであるが、近年、乗り物はほとんど禁煙、マナーもずい分向上して、塵は塵箱にきちんと入れられている。
 それでも駅員が塵取りと箒を持って、そこそこ落ちている塵を拾っている。
 二人の酔っ払いが肩を組むようにして電車に乗り込んだ。電車にはすでに何人かの客が椅子に腰かけ、目を閉じていた。
 その時、発車のベルがなった。
 二十八歳に昨日なったばかりの車掌が手を上げて「出発進行」のかけ声とともにドアを閉める鍵を回した。ドアの上の赤いランプが消えた。
 運転席では四十一歳の運転手が、今日最後の責任に神経を張りつめ、ドアランプを確認してスイッチを押した。
 電車はスムースに走りだし、駅の柱が後に流れていく。
 がたんがたん、音の間隔が狭まっていく。
 乗客たちは揺りかごのような気分で、シートにからだをあずけている。
 町中を離れるまでは、踏み切りのかんかんかんという音が絶え間なく聞こえてくる。窓の外には明かりの消えた家々の屋根が後ろに流れていく。
 最初の駅までは単調な単一な振動しか伝わってこない。速度が落とされた。駅が間じかである。
 何人かの乗客は目を開け、早めに戸口近くに行く人、棚から荷物を下ろす人、いつもの光景が展開される。
 ホームが迫り、駅の明かりが電車の中に差し込む。乗ろうと待っている人はちらほらしかいない。がたんという横揺れとともに電車が停車する。
 ドアが開くと、乗客が降りていき、新たに何人かが乗り込んだ。かなりの数の乗客が降り、空いた席が目立つようになる。
 電車が動き出した。一人の男があわてて立ち上がると、締まっているドアの前に立った。赤い目で悲しげに離れていくホームを見送り、席に戻ると目を閉じて鼻を鳴らし始めた。
 駅の明かりが小さくなり、電車は快調に滑っていく。踏み切りのちんちんちんという音の間隔が長くなってきたのは、町からかなり遠くに来たことを感じさせる。
 帽子をちょっと斜めにかぶり、紺の制服のよく似あう車掌は、次の駅の到着時刻をアナウンスすると、自分の腕時計を見た。一時十一分過ぎ。後五十分ほどで仕事が終わる。
 何を想像したのか分からないが、ちょっと目じりに皺を寄せた。これから嬉しいことが待っているのだろうか。
 (そろそろ身を固めるか、家庭を持ったら子どもは一人か二人、親もいるし、今日あたりそう言うか)
 青い信号が彼の後にすーっと流れた。
 計器類に目をやる。全く正常だ。
 彼はまた時計を見た。一時十五分。
 彼は大きく口を開けた。
 「アーアー、はあーー」
 私はその時生まれた。

 電車が直線コースに入ると、車掌室から一番前の車両まで見通すことができる。左右から出される足の列だ。車窓からは暗い中に時々、街灯や常夜灯の明かりがちらちらと流れる。
 車掌室のすぐ脇の席に腰掛けている少年が私を必要としているようだ。小学校一、二年生だろうか。茶色のズボンに青いシャツを着て、脇には緑色のズックのリュックを置いている。こんなに遅い電車でどこに帰るのだろう。少年は車掌室のメーターを覗き込んでいる。
 私は少年に乗り移った。
 少年が小さく口をあけた「はあーー」
 少年はメーター類から目を離すと、少しの間、窓に時々流れる光を追っていたが、やがて軽く目を閉じた。少年はちょっと寂しかった。真っ暗な外、たまにしか見ることのできない窓の光、それもすぐ流れていってしまう。
 (なぜかな、お父ちゃんと、おかあちゃんは僕に一人でおばあちゃんのところに行けなんて急に言い出して、ああいうときに「さよなら」なんていうのかな、「いってらっしゃいなんじゃないかな」、あと二つ目の駅におばあちゃんが待っているはずだけど、お腹空いたな、眠いや)
 少年は目を強く閉じた。しかし、緊張のためか眠りにはつけなかった。
 小さな子どもにとって、この夜の旅行はあまりにも寂しかった。不可解なことでもあった。少年の心の中に渦巻く疑問。私にはこの疑問に答えることは出来ない。一時、少なくとも、肺に綺麗な空気を送り込むことしかできない。それでもそれが、心の隅に小さくてもちょっと遊べる空間をかもし出すことがある。少年にとってそうであったなら嬉しいが。少年のまぶたがピクッと動いた。
 少し涼しい風が天井の広告をはためかした。
 私は少年の向かいに腰掛けている眼鏡をかけた痩せた男に飛び移った。学生だった。
 あまり開いたことがなさそうな教科書と、美しい花文字でノートと書かれたノートを膝の上に載せ目を閉じている。
 (あのとき、ウーピンを捨てりゃ良かったんだ、そうしていたら、プラマイ0でおちついたのに)
 彼は大きく口を開けた。「あー、あー」
 教科書とノートが床に滑り落ち、あわてて床に手を伸ばした。それらを再び膝の上に載せると、また目を閉じた。
 目の前にはマージャンパイがちらついている。講義をサボって一日中マージャンをしていたのだ。私はこの青年のつまらなさに、私自身が大きな口を開けて、きれいな空気を吸い込みたくなった。
 電車は赤信号にぶつかることなく、気持ちよく走り続けている。
 少し離れた席の小太りの婦人が私を必要としている。
 五十半ばだろうか、円みのある眼鏡をかけて、編み物の雑誌を熱心に見ている。
(女の子だったらやっぱりピンクかな、でも、白いのもいいわね、形はこっちのほうがいいわ、男の子でも似合うものね)
 喜びが目じりから溢れている。
 (この形なら簡単に編めそう、今からでも間に合うわね、あー、あー)
 下をむきながら、小さく息をはいた。
 孫が出来るらしい、手作りの靴下と思い、入りなれてない本屋で本を買って、入院している娘の病院に行ったのだ。逆子の調整だということだが、直ればいいがとちょっと心配している。しかし、孫の出来る嬉しさが勝っている。娘が自分をもっと頼ってくれるだろうという期待もある。歳をとるということなのだろう。私には歳が無い。
 ちょっと離れた席には酒の匂いが漂う中年の男が二人して話している。首まで赤く染めた男達は同じような黒いカバンを膝の上に載せている。そういえば、白いシャツ、紺のネクタイ、ねずみ色のズボン、黒い革靴、着ているものは双子だ。生活も双子のようなものなのだろう。朝のラッシュ時には双子どころか、車両全部が兄弟のようになってしまう。
二人は呂律が回らない舌を一生懸命動かし、子どもの話をしている。
 「うちのぼうずが小学校にはいるのですよ、これから金がかかるから、小遣いも減るなあと、ちょっとねえ、お宅のお嬢さんは二年生でしたな、大変でしょ」
 「ハハハ、小遣いなんて無いも等しいですよ、あいつはだめですよ」
 相手の男は自分の頭を指差して、くるくると回して、ぱっと手を開いた。くるくるパーということだろう。様になっている、娘じゃなくて彼そのものでぴったりだ。
 「でも、音楽が好きでしてな、ピアノをさせています」
 結局娘自慢だ。
 「それはいい、そういう才能がうちの坊主には無い、ただやんちゃで、小学校に入ったらどうなるやら、そうだ、下のぼっちゃんはいくつになられたのかな」
 「五つです、幼稚園です、ガキ大将にもなれんですよ、ははは」
 「あーあーあー はあ」
 私が彼に取り付いた。彼は大きな口を開けた。その後、もう一人の彼にとりついた。
 「はー、あー」
 彼らは気持ちよく最終電車の空気を吸い込んだ。
 差しさわりの無い話が続く、寂しい限りだ。彼らの心の中では自分の生活を同僚に知られないようにとバリアーを張り、相手はどの程度かと、探りを入れている。現代の探りあいが、小さくここでも行われている。
 彼らの前の席にがっしりした男が座っていた。日に焼けた顔に太い皺、太い眉毛、いかにも肉体を駆使して社会に挑んでいることを物語っている。地下足袋を掃き、膝の上にはヘルメットがあり、かすかないびきをかいている。地上数十メートルの高い建物を作り出している一人かもしれない。地下の帝国を広げる一人かもしれない。今はいたるところで工事をしている。
 私はなんとか彼に乗り移れないかと、胸をときめかせたが、彼の眠りは深かった。ともかくこの二人の中年から離れたかった。
 電車が急に速度を落とした。前のほうの信号が黄色のままだったからだ。彼のからだがぐらっと揺れた。私は急いで彼に乗り移った。
 彼は大きな口を開けた。頑丈そうな大きな歯が電車の蛍光灯の光で光った。
 「あーーーーーーー、あーーーーーー」
 彼は沢山の空気を吸い込んだ。すがすがしかった。私も気持ちよく働くことができた。
 彼は小さなアパートに住むことが夢だった。彼には大きな夢だ。楽しいほど。私が酔ってしまいそうだ。
 彼はまた、大きな口を開けて大量の空気を吸い込んだ。
 「あーふぁー」
 止まりそうになっていた電車がまたスピードを上げた。きっと、青信号になったのだ。
 「がー」彼の吐き出した空気は、私を弾き飛ばして、次の車両に飛んできてしまった。
 若い女の子が、目を瞑って今日の映画を思い出していた。大きな赤いトンボ眼鏡をかけ、白いブラウス、ピンクのミニスカートを白い太いベルトでしめている。ミニスカートから小太りの足がやっと電車の床に届いている。
 「あーあ」遠慮なく大きな口を開けた。
 今日の映画つまんない、子どもをだしに使って泣かせようって魂胆、くだんない、だけど何であいつあんなの選んだんだ、出てきた女が着ていたのはダサいな、見た後、行った安宿、何よしかも帰るって」
 取り付いた私がいやになる。
 電車は静かな音を規則正しく流して走っていく。たまにちんちんちんと踏み切りの警報機がその単調さを壊してくれる。車内の蛍光灯のぼんやりした光は、乗客たちに眠気を誘う。私が忙しくなる。
 つぎつぎに乗客に乗り移り、先の車両まで来てしまった。
 アベックが座っている。どちらも学生だろうか。子どもっぽい二人だが絵になっている。男は少し派手な青っぽいスーツに白い開襟シャツ、痩せていて頬がこけているくらいだ。女は橙色のワンピースを着て、首の辺りの青いアクセントが目立つ。美人ではないが、丸顔で可愛らしい。ちょっとおめかしして、映画の後にいつもより高いレストランで食事をしてきたといった感じだ。信頼しきった様子で彼にもたれ掛かっている。男のほうは当たり前といった顔で夢を見ている。私は隙間を探した。
 電車ががたっと揺れたとき、女が身を起こすと、彼の寝顔を見た。私はここぞとばかりに彼女に移った。彼女は可愛らしい口元から白い歯をのぞかせた。
 「あーあーーー」
 橙色の紅を引いた唇が閉じられた。彼女はまた彼の肩に寄りかかった。今度は彼が眼を開けた。私は移った。
 「あーー」
 彼が彼女の顔を覗き込んだ。「疲れたか」
 彼女は目をつむったまま「ううん」とちょっと首を横に振った。二人はまた夢の中に入っていった。
 二人の前の席に、子どもをつれた若い女の人が眠い目を一生懸命に開けている。
 脇には生まれてほどない乳飲み子が気持ち良さそうに寝ている。ときどき、子供の顔を見ると、前に座っている二人の様子に眼をやった。昔のことを思い出している。白いワンピースのその女性は、赤子に目を向けると現実に戻され、前の二人に目が行くと、昔に思いを馳せていた。この痩せ身の女性にとって、子育ては大変なのだ。しかし、すやすやと寝息を立てる子どもを見ると、ほっと暖かい気持ちになる。
 『この子は私に似ているのかしら、あの人かしら、どんな子になるのだろう。大きくなったら何になるのだろう、私の赤ちゃん、柔らかい赤ちゃん、私の物なんだわ』
 彼女の目は子どもの寝顔を撫で回した。前の二人を見た。二人はまた夢の中にいるようだ。
 『二十歳になっているのかしら、ついこの間、あんな若いころがあったはずなのね、ずい分立ったように思えるけど、二十歳の頃はあのヒトとはただのクラスメートだったんだわ、今のヒトたちは素直ね、あの頃あの人、勉強に夢中だったわ、それともそんなふうに見えただけかしら。今の彼は違うわ、今のほうがいいかもしれないわね、遊ぶことを覚えたから、それともそう見えるのは私が変わったのかな』
 上りの回送電車がすれ違った。電車が揺れ、何かとてつもなく大きなものがかすめていったように感じた。
 前の二人がちょっと目を覚まし、二言三言、言葉を交わすとまた目を瞑った。
 すれ違った電車の音が遠く響くだけになった。
 『すてきね、幸せそう、私達は回りの人にはあんなふうに見えたとは思えないわ、彼によりかかって居眠りをしたことなどないもの、私も固かったけど、あの人不器用だったから、前の男の子みたいにスマートな身のこなしは出来なかったわ、でもそれが良かったのかな』
 女性は前の二人から眼を離すと、今度は赤子に眼をやることはなく、目を閉じて、首を下に向けた。彼女の目の前には湖が現れた。
 『キャンプに行ったときが最初ね、あの人一人で飯ごうでご飯炊いてたわ、まじめすぎるのね、一度話を交わしただけだったのにね、でもあの人私のほうをよく見ていた』
 彼女は思い出に微笑んだ。
 『あの人の友達も、私のこと気にしていたみたい』
 『それから喫茶店に誘われたわ、なんという喫茶店だったかしら、それからどうしてかしら、いつも一緒だった』
 警報器がちんちんちんと鳴って過ぎていく。だが、彼女の耳には届いていていない。
 『和歌山に行ったときがはじめての二人での旅行だった、家には内緒で、素敵な冒険だったわ、白浜、勝浦、瀞八丁、行き当たりに泊まったわ、今の子たちにはどうってことなにのにね、悪いことをしたみたいに小さくなってた』
 『どこでも、新婚って思われたわね、あの時あの人本当にしっかりと見えた、あのときが一番幸せだったかな』
 前の二人は彼女に昔を思い出させていた。隣の赤子は何事もないように、すやすやと寝ている。彼女の目はもう赤子にはいかない。深く閉じられ夢の中である。
 電車のスピードが落ち、やがて止まった。ドアが開いた。駅に着いたのだ。前の車両から一人降りただけであった。
 関係のない乗客は深い眠りについていた。私が出て行く場がない。
 車掌の笛がピット鳴ろうとしたとき、彼女ははっとなって、半開きのドアから駅に降りた。私は彼女についたままそのまま降りてしまった。
 最初に降りた客はすでに改札口を出てしまっている。彼女はホームの上を、夢を見ながら早足で歩いていく。昔の自分を思い出しながら。
 夢遊病者のように階段を上り、改札口で切符をわたすと、うつむいたまま歩き続けた。
 駅員が不審そうな顔で彼女の後姿を見送った。
 私はちょっと寄り道をして、その駅員に移った。
 「アー、アー、声で仕事は終り、アーアー」彼は大きく伸びをした。
 私は宙を飛んだ。彼女はだいぶ先の住宅地に入るところだった。女性は彼に家まで送ってもらった時のことを思い出していた。
 通りなれた道を無意識に自分の家の前まで来た。やっと新築した近代的な建物の入口。彼女は入口を開けた。
 玄関に入る。靴を脱いで上に上がったとき、突き当りの部屋から夫が顔を出した。
 「お帰り」
 彼女は急に現実に引き戻された。昔より太って貫禄の出た夫であった。それでも彼は彼である。
 夫は少しやつれた顔の彼女を見た。
 「疲れたようだな、少し目が赤いぞ、皆さん元気だったか」
 「ええ、あなた」
 よろける彼女を夫が支えた。居間に連れて行くとソファーに座らせ、夫は玄関に戻って鍵をかけた。
 「お前、何も食べなくていいのかい」
 「ええ」
 私は夫に移った。夫が大きく口を開けた「ふぁ、ふぁ、ふぁ」
 「もう、やすもう」
 二人は寝室に入り、パジャマに着替えるとベッドに入った。
 彼女が電気消そうと枕もとのスイッチに手をやると、ベッドの脇にある揺りかごを見た。
 彼女の目が大きく見開いた。顔から血の気がなくなると、いきなり飛び起きて、洋服に着替えた。夫もそれを見て思い出した。
 「おまえ、秋雄はどうした」
 夫は怒鳴った。赤ちゃんの揺りかごの中に子どもはいなかった。
 彼女は震えた。
 「電車、電車の中よ、あなた」
 「電話しろ、電話」
 夫も洋服に着替えた。彼女は泣き顔になって、ただおろおろして、あたりを歩き回った。夫が、電話のところに行くと、電話帳を調べ駅の電話番号をメモした。
 そばで彼女が泣き出した。
 「私親の資格なんてない、秋雄を座席に忘れてきた」
 「疲れているんだよ、今電話するから、大丈夫だよ」
 夫は妻に責任を押し付けるような失敗はしなかった。
 夫もあせったため電話番号を間違え、もう一度ダイヤルをまわした。
 駅の電話が鳴った。
 ホームの掃除が終わった駅員が駅舎に戻ったときだった。
 「はい、え、子どもを座席に忘れたのですか、最終電車ですか、まだ途中を走っています。連絡を入れておきますから、途中の駅で降ろすように手配します。電話番号を教えてください、確保し次第電話します」
 夫がお礼を言っている。

 私はその場を抜け出し、最終電車の中に戻った。
 あれから、子どもを乗せた電車は変わりなく走っていた。赤子も親に置き忘れられたことなど知る由もなく、すやすやと蒼白い蛍光との光を浴びていた。
 私はやっと一番前の車両の、女の子に移ることができた。桃色の半そでセーターに赤い超ミニスカートをはいている。太目の足がむしろ健康そうに見える。周りの者は皆いい気持ちで寝ていて、私などを必要としない。
 女の子はこれから帰って言う言い訳の文句を考えていた。
 『彼のアパートに言っていたとはいえないし、女友達とおしゃべりしていたと言うと、女の子だけでこんな遅くまでとかえって怒られる、その子に電話でもかけられたら大変だ。9時半頃まで女の子と喫茶店でしゃべっていて、10時ごろ乗った電車が、踏み切りで、トラックが立ち往生して、それがなかなか動かなくて、ずーっと電車の中にいたと言う事にしよう、そのくらいのことなら、ニュースには流れないだろう』
 彼女は遠慮なく大きな口を開けた「アー、ア」。
 私は用事がすんだので、彼女から出たかったのだが、どこに行っていいのか分からなかった。
 踏み切りの音が近くなった。
 運転手が私を必要としていながら、我慢をしているのに気がついた。こういうときには私はどうしたらいいか、分からなくなる。しかし、私が「必要」なのだ。
 私は運転手に移った。
 運転手は一気に大きな口を開けた。
 『これで、今日は終りだ』
 ちんちんちん、私は彼の視力をいくらか邪魔した。遮断機はもう半分ほど折りかけていた。
 「アー、アー、アー」
 運転手から大きな声が洩れた。
 私は踏み切り前で停止しようとしていたダンプカーの運転手に移った。仕事が終わって帰るところのようだ。私は彼の視覚と右足、左足の力を弱めてしまった。彼は大きな口を開けた。
 「アー、アー、アーア」
 「ファー、ファー」
 電車の運転手もまた大きな口を開けた。
 チンチンチンチン
 彼らは私を必要としていたのだ。必要とされればすぐに飛んで行く。必要としているにもかかわらず、拒絶されることがある。なぜだろう、緊張を我慢しているのだろうか。ともかく、「必要」ならば我々はそこに行く。

 最終急行を待つ次の駅では、当番の駅員がうつらうつらしていたのを電話で起され、私を必要とした。私は移った。
 口に手を当てながら駅員は「ふぁー」と口を開けて、受話器をとった。
 「もしもし、え!」
 急に直立不動に近い姿勢になった。
 「はい、えーえ、最終急行がタンプと衝突、隣の駅との間辺りですね、ああ、国道からのわき道ですね、はい、すぐ連絡します」
 彼はすでに家にいる、おそらく寝ているだろう駅長に電話を入れた。駅長はしぶしぶ電話に出て、私を必要とした。
 「えー、なに、すぐ必要なところに連絡してくれ、駅のほうにすぐに行く」
 必要としていたはずが、拒絶されてしまった。彼はすぐに副社長に電話をかけた。
 ベッドでいびきをかいていた副社長は、奥さんに起された。「あなた事故ですよ」
 私は副社長に移った。大きな口を開けて「ふぁー」っと伸びをしてベッドから下りた副社長は、社長と連絡を取り本部に向かった。
 私は急に忙しくなり、あちこちに飛び回った。
 パトカーに同乗している警察官に移った。彼は大きな口を開けた。運転をしている警察官には拒否された。私は事故の踏み切り近くの民家を飛びまわった。人々は大きな口を開けて、寝室から出ると、パジャマのまま、サイレンのなる踏み切り近くに集まった。
 「まただ」
 人々はひしゃげた電車と、引きずられたダンプを見た。

 一番前の車両は曲がり、電車としての形はなくなっていた。運転手の帽子が首と共にころがっている。緑色のセーターが女の足らしきものをくるんで落ちている。赤いミニスカートだけが横になった割れた窓ガラスに引っかかっている。一番後ろの車両を見ると、片腕をブランとさせた車掌が、救助がすぐ来るむねの車内放送をしている。鼻を擦りむいた少年がいる。学生は足を折り床に転がって、広がった教科書に顔を伏せている。こんな時しか勉強をしないのだろう。編み物の雑誌が女の人の顔に覆いかぶさっている。
 トンボ眼鏡が割れて椅子の上に転がっている。アベックがおれ重なるようにして失神している。
 救急車の人が忙しく動き回り、乗客の日焼けした男が、ぴんぴんして乗客の救出を手伝っていた。左手首を捻挫しているのにも気がついていないようだ。女性の警察官が女性を救出している。
 運ばれたものを見て、指揮者がどなった。
「この子の親を探せ」
 運ばれてきたのは頭のない赤ちゃんだった。
 電車の中から返事がかえって来た。
 「アベックと、この子しかいません」
 アベックの二人が、救助人に担がれて車両から出てきた。そのまま救急車に連れて行かれた。
 「アベックの子どもじゃないのか」
 「違いそうです」
 「親は放り出されたかも知れない、回りを探せ」
 遠くから何台もの救急車の音が聞こえてくる。消防車も到着している。
 この場で働く人々には私は必要とされていない。

 上り最終電車もとっくに終り、最終急行の到着を待っていた終着駅でも、事故の知らせがいって大騒ぎだった。
 「はい、衝突事故ですね,最終急行がダンプと、はい、すぐに緊急網に連絡しておきます」
 私は駅員に乗り移った。彼は大きな口を開けた。
 「さて、忙しくなる」
 駅員は二つある電話を遣って、いろいろなところに電話をしていた。
 そこに、一台の電話が鳴った。
 「はい、え、子どもを忘れた、どこに、え、前から二両目、はい、到着次第、保護します」
 彼はメモをして、また、連絡を始めた。
 私はまた、彼に移った。彼は大きな口を開けた「ファ^、ファ」
 眼はまぶたの裏を見ている。
 
 中枢性疲労、または中枢異常に伴っておこる、一種の不随意運動。全身の伸筋の収縮を伴った一種の呼吸運動としてあらわれる。と、平凡社世界大百科事典には私のことが書いてある。
 わたし

最終急行

最終急行

最終急行に赤子を残して降りてしまったお母さん、最終急行の行方は

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-04-12

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