エスの研究(紹介文)

フランシス・ローレライ 作

 俺は国谷イサム。札幌生まれの27歳。揉み上げの長い、少し圧縮されたエルヴィス・プレスリーを想像して欲しい。   
 東京の大学でドイツ語を専攻していたが、卒業間際、陽子にプロポーズして不覚にも断られた過去がある。彼女は横浜の大学からヴァイオリニストとして俺の大学のオケに入った女性で、心通じているし首尾よく運ぶに違いない、と踏んで求婚したら見事に却下されたのだ。そして希望した会社から内定が出ない事もあり、卒業式では落ち込み、まるで葬儀に参列する気分だった。
 そこで深く傷ついた心を癒すため、楽しかった研修旅行の思い出のウィーンへ逃避行を試み、日本人相手の観光ガイドしながら華やかな建築デザインについて研究していた。
 ここは言わば「ヴィエンナ・ランド」だった。要するに観光客がみな、19世紀のオーストリア・ハンガリー帝国時代の音楽や栄光に酔いしれ、現実を忘れてしまう。時計がほとんど止まっていて、まるでセピア色の写真のように第一次大戦以前の世界へトリップさせてくれる。
 鳥瞰図が欲しいなら、アルプス山脈の始まる周囲の丘、例えばカーレンベルグから見下ろすのが良いだろう。大河ドナウが流れ、限りなく平たい土地が河を挟んで地平線まで広がる。河の右側に町の中心部、そして教会の尖塔や鐘楼が見える。それぞれ天を目指すかの様に高いが、少しでも神に近づくためだろうか。それに加えて、パステル調の淡い緑のドーム屋根。また大小の玉ねぎを重ね合わせた様な帽子をかぶった塔……。
 その昔、平野の向こうからオスマン・トルコが迫ることもあり、町の周囲に城壁があったらしい。ところが19世紀後半に取り壊されて環状道路「リンクシュトラッセ」にすり替わり、その周りに国会議事堂、市庁舎、劇場等がクラシック、ゴチック、バロックなどキリスト教圏の伝統様式で次々と建てられた。
 かたや城壁の内側にあった古い町並みや狭い路地、そして貴族たちの館や宮殿など帝国時代の遺物が至る所に保存されている。この辺はウィーン歴史地区として世界遺産に登録され、モダンな高層建築がないのも第一次大戦以前の雰囲気に寄与しているに違いない。
 オーストリアはドイツ語圏としては南国で、昔から豊かで安定し、その「素敵な雰囲気」を背景に男女のよしなしごとにも寛容な面があり、それが音楽のみならず絵画や文学、演劇等の芸術に反映されている。
 住民たちを見ていると、ウィーンを一種の劇場と見做し、貴族的な立ち居振る舞いを気取る様だ。社交行事には男女ペアで出席し、騎士道精神に根ざす昔ながらのレディー・ファーストに従う。
 そしてそれを見にやって来る、たくさんの観光客。この界隈では名物の二頭立て馬車「フィアカー」が彼らを乗せ、パッコロ、パッコロとゆっくり走り、まるで19世紀にタイムスリップしたかの様にのどかな雰囲気を醸し出す。
 そんな「ヴィエンナ・ランド」でブラブラしていたら、査証免除期間中に身を寄せるよう「ピカ忠」に勧誘されたんだ。ここは日系の商社で、オーストリアのワインや生ハム、ハンガリーのサラミ、北イタリアの白トリュフやオリーブ油など食材の輸出入を手がけている。こうして現地雇いとなった俺の夢は、正社員になることだった。給料も増え、今度こそ結婚できるに違いないと思うのである。

 萩谷オサムは、小学校の同窓生だった。卒業から約15年経てここの特派員になったので「イサム、オサムの漫才コンビ」の復活だ。
 ある晩、ナッシュマルクト地区の俺のアパートで、この間の華やかな舞踏会の思い出に浸りながら二人で白ワインを酌み交わしていた。俺がフルート奏者として所属する合奏団が、円舞曲を演奏したのだ。
「それにしてもアルテドナウ合奏団、本当に御苦労様! 御蔭様で楽しかったよ」と黒ぶち眼鏡の萩谷が言ってくれて、土産に持ってきた燻製生ハム「シンケンシュペック」を皿からつまんだ。
「そりゃどうも。しかし演奏するより、踊る方が賢いね」と答える俺も生ハムをさらう。
「我々はお客で無責任だからな……あんさんも、ヴァイオリンの彼女誘ってワルツしたら良かったね」
「ウーン……」
「いや、実は最近、面白い記事を見つけてさ……」と言いながら、彼はカバンから何やらクシャクシャッとした書類を取り出した。そして、
「この町で精神分析を始めたフロイト知っているだろう?」と問題提起する。
「ジーグムント・フロイトね」と答え、俺はグラスのワインを飲み干す。
そこで彼は、
「フロイトのいたウィーン総合病院に、チャンドラセカールとか言うインド人の先生がいて、お母さんが日本人。これは職場の訳で少し稚拙かも知れないけど……」と前置きし、声に出して読み始めた。
「人間の精神には常に自我とエスの双方が宿るが、思春期に起きる画期的な出来事は、全てエスの登場と深く関係している。子供が男性・女性として発達を遂げていく頃、頭の中では生殖本能を司るエスが突然、存在感を高めるのである。例えば、声変わり。エスは喉の奥の迷走神経を操る様になり、声が一時的に不安定化して声変わりが起きる。その後エスは時々、自我からマイクを借りるように声を出して歌を歌い、求愛する様になるのである。そのエスの活躍できる都が、何を隠そう、ウィーンではないか!」

 その後、俺はこの話に興味を持つ様になり、チャンドラセカールの書いた「エスの研究」を入手するところとなった。結構、奇想天外で面白く、洞察力を感じたので、ここに御紹介する次第である。

エスの研究(紹介文)

エスの研究(紹介文)

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-04-11

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