ものづくり共和国10年戦争

 2020年、金融・経済のグローバル化こそが誰にでも平等にチャンスが与えられる最も公正なルールであるという宣伝に成功した「世界の1パーセント」たちは、虚無的な数字が無常に流れるだけのウォール街を支配し、ワシントンDCから世界中を屈服させたかに見えたが、貧しいながらも愚直に「ものづくりの喜び」を大切に守り続ける辺境の人々の心まではまだ支配できていなかった。
 この頃、日本国は度重なる政変により、無数の少数政党が離散集合を繰り返していたが、ウォール街の支援によりIT長者となった男が与党「世界ともだち党」の党首となり、彼の信念である「金融至上主義」のもと、農業の完全自由化を含め、日本を急速に完全グローバルスタンダードの支配下に置こうとしていた。
 彼の信念は、日本が世界で生き残るのには、世界のルールに従う他なく、このため国家は、国民皆教育よりもエリート教育に力を注ぐべきであり、ものづくり教育よりもモノの値段をコントロールする金融教育に力を注ぐべきであるというもので、その国家像は必然的に、一部の金融エリート層がものづくり層や小規模農家、非正規雇用労働者を支配するという構図であった。
 このため政府は、「ものづくり教育」を死守する勢力や地産地消生産者、非正規雇用組合などの勢力と対立し、各地でデモ隊と激しく衝突する事件を起こしていたが、有力な「ものづくり主義」指導者を思想犯として次々に逮捕し、国家の維持に躍起になっていた。
 ところが、「世界ともだち党」は、豊富な資金力を背景に主要メディアを次々と買収したにも関わらず衆議院選挙で大敗し、対立する「日本再近代化党」などと連合を組むことを余儀なくされた。
 「日本再近代化党」は、中小工場の事業主や小規模農家、非正規雇用者組合などの指示を得て急速に議席を伸ばした党であったが、その理想は「日本をもう一度近代化しよう」というものであった。これまでの「近代化」が国家が主導的に西欧の背中を追いかける国家間競争的な動機であったのに対し、「再近代化」とは、世界中の市民同志が互いに助け合って、不正な国家権力や巨大資本に抗しようというものであり、互いの多様性を尊重しながら、「本当の豊かさとは何か」を追及する新しい近代化を「世界の99パーセント」とともにつくり上げていこうとするものであった。
 「日本再近代化党」の党首は若く、ハンサムでユーモアもあるが、何より愚直な人情家で国民に絶大な人気があった。座右の銘はと聞かれるといつも「ひょっこりひょうたん島」と答えた。彼が最も好きな唄が「ひょっこりひょうたん島のテーマ・ソング」で、選挙演説の終わりには、必ず皆で「だけど僕らは挫けない、泣くのは嫌だ、笑っちゃおう」と大合唱をし、大喝采を浴びていた。
 彼は組閣において通産省ポストを希望したが、与党内の政略によりもっとも不得手な財務大臣に任命された。
 副大臣2名は「世界ともだち党」から任命され、財務大臣は与党の人気を上げるための「お飾り」だった。そして、その財務大臣に課せられた大きな仕事が消費税を20%に引き上げることと、緊縮財政を断行し、財政バランスを世界水準に戻すことであった。
 政府与党内には、彼が財務大臣職をすぐに辞するという見方が強かったが、彼は耐えた。彼は増税法案を巧みに先送りにしつつ、地域通貨法の成立など彼の長年の夢だったグローカル的政策を次々に断行していった。
 この与党内のグローカルな動きに敏感に反応したのが、連立与党の「世界ともだち党」の幹部たちであり、その「世界ともだち党」を設立当時から見守ってきたウォール街であった。
 間もなくして、財務大臣のスキャンダルが各紙朝刊の一面を飾った。財務大臣の政治資金管理団体が外国人から献金を受けているというものだった。主要メディアは「世界ともだち党」党首の母体企業にことごとく買収されており、弁護するメディアは一つもなかったが、「日本再近代化党」を支持する若者たちがネット上で、この外国人の行方を追い、彼がウォール街の大手証券会社出身で、入国記録に不正が点があり、政府が特別に彼の入国を認めたことを告発した。
 政治不振が高まる中で、再び解散総選挙の機運が高まったが、財務大臣自ら「そんな暇はない」と政府与党の維持を図った。
 彼がそんな暇はないと言ったのは、急激に進む円高のことだった。毎日じりじりと円高が進み、製造業者からは彼のもとに悲鳴の声が全国から上がっていた。大企業はあっさりと海外移転を進め、寮を追い出された非正規雇用者たちは、次第に公園に集まるようになっていた。
 間もなくして、各地の都市公園は、失業者であふれかえるようになり、先の見えない学生たちも呼応するようにボランティアにかけずりまわっていた。
 そして、ある日、興奮した学生が号外をもって公園内に飛び込んできた。財務大臣が歴史的な大規模為替介入を断行したのだった。政府与党内には調整された形跡もなく、ほぼ、財務大臣と日銀のテロとも思える行動であった。
 官邸に呼び出された税務大臣は、首相から厳しい詰問を受けたが、財務大臣はあっさりと答えた。「いえ、総理からは事前に介入の了解は受けていました。規模とタイミングは真珠湾的な手違いでご報告が遅れました。でも、こういうことは事前に知らないほうが効果が大きいでしょう?総理近辺にお知らせしたらウォール街まで筒抜けになりますからね。失礼します。」といって、憤慨する首相をしり目に彼は官邸を後にした。
 国民は歓喜した。もちろん為替介入は一時的な是正措置でしかないことは解っていたが、長く「世界の1パーセント」達に人生を振り回されてきた人々にとって、ウォール街の金融マンたちが慌てる姿を映像で見ることは胸がすく思いだった。
 そして、数週間後、財務大臣は東北での地方遊説のためクルマで移動中に何者かによって銃で暗殺された。その移動ルートは一部の関係者にしか知らされていないものであり、すぐに「日本再近代化党」は国家的陰謀と訴えたが、逆に政府は「国家維持法」を強化させ、公然とグローバル化に反対する勢力を次々に逮捕拘束していった。
 ネットでは、彼の生前最後の演説となった映像が繰り返しダウンロードされていた。
 「みなさんは、経済、経済と略して仰いますが、元は中国の『経世済民』という四文字熟語から生まれた言葉でありまして、世を経(おさ)め民を済(すく)うという意味であります。そうです、民を救うのが経済なんです。あれ?なんか変ですね。民を苦しめるのが経済だと思っている人のほうが多いかもしれませんね。なぜか、主語を忘れているからです。では誰が世を経(おさ)め民を済(すく)うべきなのでしょうか。遠くの国の金融ルールでしょうか?いいえ、その国の血の通った為政者の仕事なんです本来は。一番大事な仕事を他国に預けているんですこの国は。世界中に投資して、世界中からお金を回収できる巨大な金融機関だけに有利なルールに対して門を開けっぱなしにしているだけなんです。この無慈悲なルールのために極東の棚田は荒野になってしまいました。怖いですね。人生は一度きりです。あの大震災から皆で立ち上がったように、自分たちの故郷を守るために自分たちで新しいルールを作りましょう。世界中の同じ境遇の人たちがきっと共感してくれます。私たちは決して孤独ではないはずです・・・。」
 その夜は、政府の外出禁止令にも関わらず、公園にはたくさんの市民が集まり、「日本再近代化党」党首の死を弔った。そして、誰とはなしに、「丸い地球の水平線に、いつも何かが待っている」とひょっこりひょうたん島の歌を唄いだした。すぐに公園内での大合唱となり、その映像がネットに公開されると、瞬く間に「ひょっこりひょうたん島」を唄う反政府デモが全国に広がった。やがて、この運動は、政府に不満を持っていた全国の職人や技術者、小規模農家たちが加わり、再近代化主義に基づく「ものづくり国家」独立運動に発展していった。
 政府は、この運動を厳しく弾圧したが、犠牲者が増えれば増えるほど反政府運動は高まり、福島の原発跡地に陣を置いた反政府勢力と政府側がにらみ合う形となった。政府に対する国際的な非難も高まったことから、政府は国連に仲裁を要請し、白河の関以北の東北の地域を「ものづくり自治区」とする仲裁案を受け入れた。
 自治区における「新しい国づくり」が始まると、日本全国から次々と新国家建設の希望を抱いた職人・技術者・失業者達が集まり、それぞれ自治政府が用意した開拓地に散って行った。各家庭には借地と木材と小さな菜園が与えられた。人々は協力して家を建て、畑を耕し、自分たちが働く工場を建設した。先輩技術者の下、失業者や元引き籠りだった者も毎日朝から日暮れまで働いたが、自治区内の集落から笑い声が絶える日はなかった。
 なお、自治政府内には、再近代化主義に感化された職人や技術者たちが数多く入植していたが、特に日本一と称される職人・技術者たちも続々集まっていた。
 ある技術者は、女性ながら日本一の土木技術者として知られていた。彼女は国家建設大臣の要職を任され、自治区の電力を賄うダムを北上川に建設すると、鉄道網を次々に建設し、インフラ整備に貢献した。ダムの名は「豊満ダム」と言い、彼女の曾祖父が満州国に建設した巨大ダムの名前からとったものだった。
 また、ある職人は、下町の工場で精密部品を長年扱ってきた一級技能士だったが、自治区の新たな基幹産業として位置づけられた航空宇宙産業の品質管理部門の統括責任者となり、かつ、ものづくり学校の教官となって若手の人材育成に貢献した。
 一方で、ユニークな研究者も入植していた。彼の研究対象は鉱物であり、東北地方がもともと鉱物資源の豊かな地域であることをしきりに訴え、「レアメタルの輸入に頼らない工業国家建設計画」を自治政府内で発表し、科学技術庁長官となった。
 この他、新たな地産地消文化を開花させたいと一流のシェフなどもやってきた。宮沢賢治にインスピレーションを得たという一風変わった音楽家も入植した。アフリカの小国から技術研修のために日本に訪れていた黒人青年達も加わった。
 新国家はまさに「ひょっこりひょうたん島」状態となっていった。
 建設ラッシュとベビーブームが重なって、自治政府内のGDPは毎年高い成長を記録した。
 自治政府は独自に通貨「ギルド」を発行し経済の自治を強めるとともに、資産インフレ率目標を3%程度に設定した。
 これは、「国土開発計画」で成長を巧みにコントロールするものであったが、がんばって若いうちに取得した資産が、20年後には、2倍程度の価値になることを意味しており、自治区内の土地の取得願望と勤労意欲を高める結果となった。また、資産の順調な成長により先行きへの安定感が醸成され、積極的な消費が促されるなどの効果もあった。
 この現象は、デフレに苦しんだ90年代~10年代の日本国の状態と対照的であるが、その日本政府からは国土開発計画による地価及び成長コントロールについて、「護送船団方式あるいは社会主義国的である」と厳しく非難された。
 数年後、自治区内の2つのプロジェクトが成功に近づこうとしていた。一つはロケット・プロジェクトである。噴射試験など、全てのパーツの試験は終了し、いよいよ全体の組立開始が議会で決定した。
 もうひとつは金山開発プロジェクトである。東北内には金山跡が少なくないが、いずれも長く廃坑になっていた。これは、鉱脈がなくなったのではなく、採掘の採算に合わなくなったためで、新たな採掘方法が考案されれば、或いは、適当な密度の鉱脈が新たに発見されれば、再び採掘が可能になるというのが科学技術庁長官の考えであった。
 そこへ国家建設大臣がダム建設のために発破した山から新たな鉱脈が見つかり、自治区内は一気にゴールドラッシュとなっていた。プロジェクトでは、この金鉱脈から安価に金を精錬する方法がいくつか試され、完成に近づいていた。
 なお、このゴールドラッシュのきっかけをつくった国家建設大臣は、これ以降、「ムカデ姫」と呼ばれることが多くなった。
 ムカデ姫とは、幕藩時代に盛岡南部藩に嫁いできたおたけの方のことであり、彼女が輿入れの際に先祖が大ムカデ退治に使ったとされる矢の根を持参したことから、そう呼ばれているが、一方で、ムカデは金山の象徴とも言われ、南部藩のゴールドラッシュをもたらしたとも考えられている。無論、国家建設大臣は、この新たな呼称をひどく嫌った。
 こうして、このものづくり自治区の平和が永く続くものと思われたが、皮肉にも、この順調さが、自治区の寿命を縮めることとなった。
 世界的な不況が続く中で、自治政府が「国土開発計画」なる計画経済的な経済運営で成長を続けていることに、世界中の小さな国々でこれに追随する動きが強まり、アメリカ議会が警戒感を露わにした。
 また、国民の流出が止まらない日本政府も打開に向けた対応をアメリカと進めるようになり、自治区との国境付近である白河の関は日に日に緊張感を増していた。
 国境には、日本国側に高い壁が建設されていた。通過の際には、いくつかのゲートで証明書を確認することになっていたが、山林付近になると3重の有刺鉄線のみとなり、これまで幾人かがここから自治区内への不法入国を試み、その多くが日本政府に拘束されていた。
 国境付近の山林に人家はなかったが鉄道が敷設されていた。自治区では、若手技術者の教育のためにさまざまなメイド・イン・ジャパンの産業遺産を動態保存していたが、この線路の上を疾走する蒸気機関車「C57」もその一つであった。
 ある日、機関士が旧ブレーキをかけた。線路の上に母子が倒れていたためだった。若い助手が駆け下りて母子を線路外に引きづりだして、事なきを得たが、親子は気を失ったままだった。
 機関士はこの親子を貨物車両に乗せ、近くの車両基地から自治区内の中央駅である「銀河セントラル・ステーション」付属病院に連絡した。すぐに病院列車が高速モーター車でこちらに向かうとの返事があり、ひと安心した彼は、親子の看病を助手に任せると、愛馬にまたがり先ほどの現場まで引き返した。このような舗装されていない地形を縦横に走り回るには最適な交通手段であった。
 愛馬は南部馬の復元種であった。南部馬とは源平の合戦の頃より名馬と謳われた在来種であったが、純血種は昭和初期に絶えてしまっていた。自治区では寒立馬と他の在来種との交配により南部馬の復元を進め、文献などに残る南部馬の特徴に近づきつつあった。
 その大きな特徴は、急斜面の上り下りが可能な点である。源義経が一ノ谷の合戦に用いた馬も南部馬と伝えられている。外来馬がロードレース用のオートバイなら、南部馬はまさにモトクロス用のオートバイであった。
 道なき道を駆け抜け、先ほどの現場に機関士が近づくと、複数の軍服を着た男たちがものものしい雰囲気で周辺を捜索しているのが見えた。無線からは英語らしい言語も聞こえてきた。日本政府の軍隊だとしたら明らかな協定違反である。
 彼らもまた馬を利用していた。
 彼は自治区警察に電話をしようと携帯を取り出したが「圏外」であった。彼は仕方なく2キロ程戻ったところにある無人駅を目指すこととした。
 ところが彼が鐙で愛馬の横腹を蹴った瞬間、遠くから犬の吠える声が聞こえ、当たりは一瞬で笛の音の喧噪に包まれた。
 機関士ははじめ線路に沿って逃げたが、一人の制服姿の男が馬に乗って徐々に迫って来るのが見えると、愛馬の手綱を返して崖地を下った。制服姿の男は崖の上で悔しそうに機関士の行方を見つめるしかなかった。政府軍の馬は俊足ではあったが急斜面は降りられない外来馬であった。
 間もなく犬が追いかけてきたが、岩の上に登り、吠えては振り返り、吠えては振り返りを繰り返して、飼い主が見なくなるのが心細い様子で、だんだんと小さくなっていった。
 機関士が無人駅に到着すると、鉄道専用電話ではすぐに居場所が知られてしまうと考え、彼はバックアップ用の短波帯無線機を持ち出し、近くの崖の上に登ると、木と木の間にアンテナ用のワイヤーを掛け、無線機に繋いで電源を入れ、自治区警察に電信で素早く緊急事態を打電し、木の陰で援軍を待った。
 彼が無線通信モードに電信つまりモールス符号を選んだのは、プロの通信業務ではモールスは2000年代に世界的に廃止され、若いプロの通信士の多くは電波を傍受できてもモールスは理解できないと判断したためであった。
 しばらくして、轟音と共に上空に白い機影が現れた。自治区警察の領空保安隊が誇る産業遺産「YS-11」の機影である。
 機関士はしばらく洞窟で隠れていたが、「YS-11」が上空を通過してからは政府軍が追いかけてくる気配は全くなくなっていた。
 このとき「YS-11」は、政府軍の無許可侵入の証拠写真を撮影していた。その後の調べで、救助された母子は「世界ともだち党」の元党首の子息で同党で政務委員を務める男の元嫁とその子供であることがわかった。
 親子は夫の暴力に悩まされ、数年前に離婚したが、ストーカーされ、何処へ逃げてもSP風の男女に常に監視されるようになったため、隠れるような生活をしていたら、気が付くと両親の実家のある福島に向かっていたというものだった。
 間もなくして、自治区協議会議長と日本政府の外務大臣との非公式協議が東京で開かれた。
 日本政府の弁明によると侵入者は政府関係者ではないというものだったが、彼らの要求は逃亡親子の即時返還ともう一つ、ロケット基地の無条件査察であった。
 親子の返還については、自治区内ですでに方針が固まっており、身の危険があることを承知で返還はできないと要求を跳ね返した。一方、ロケット基地の査察についてはやや意外であった。なぜなら、ロケット事業の営業活動の一環として世界各国の航空産業エージェントに公開してきた経緯があるからだった。
 しかし、日本政府の基地査察要求は強い口調で繰り返し、最後に最も驚くべき言葉が添えられた。「自治区領内のロケット基地には重大な核疑惑がある」というものだった。
 自治区内の参加者全員が苦笑するほど馬鹿げた言いがかりだったが、先のイラク戦争開戦の経緯を思い出して、ことの重大さがやっと承知できた。つまり、「アメリカは戦争を始めたい枢軸国のリストにものづくり自治区を入れてきた」という理解である。
 自治区側の参加者が全員静まりかえると、外務大臣が席を立って優越感たっぷりにしゃべり出した。
 「お互いに敵か味方か、どちらかを選ばなくてはならない時代に生きているんだ。これが世界の現実なんだよ。あまり、あの人たちを怒らせないでくれよ。もっとも戦ともなれば、国境より南側には特需が舞い込むだろうけどね。」
 金融エリートらしい世界観だったが、そこへ自治区関係者に緊急連絡が入った。逃亡親子の元夫、つまり与党政務委員の男が自治区内に無断で進入し、自治区警察に拘束されたというものだった。
 自治区協議会議長は身の危険を感じ、この情報が日本政府に察知される以前に国境まで逃げることを計画し、非公式協議を切り上げ、用意された送迎車を「ラーメンを食べて帰りますから」と辞退して、一般のタクシーで東京駅を目指した。
 間もなく渋滞につかまり、渋滞の先には臨時の検問が見えていた。議長らはクルマをおり、携帯の電源を切ってから、徒歩で江戸川を目指した。
 下町の町工場地帯は、議長の故郷であった。子供の頃から工場で遊び、工場に育てられた男だった。夜学に通い、機械工学の学士を取得後、働きながら論文を書き続け、40歳までに「町工場の拡大均衡的発展のための発展途上国との互恵協定について」という研究課題で社会計画学の博士号を取得した。
 彼の理想とする社会は、先進国と発展途上国の製造業における為替上の対立を互恵関係の構築により、互いのマイナス面を減らし、プラス面を伸ばしていくことにあった。
 実際に彼が先代から引き継いだ町工場は、円高により廃業の危機にあったが、彼は板橋区の産業振興委員として、区長を説得し、ミャンマーの新興工業団地の村と板橋区との互恵関係を結ぶことによって、無税かつ簡易な手続きで工業団地内に組み立て工場を持つことができ、現地の工員の研修を板橋区の宿泊施設を活用しながらできるようになった。
 一方、日本側の熟練工員を現地に派遣する際には、現地に日本村を建設してもらったことで、日本の10分の1の生活費で高級リゾート並みの住環境が持てると評判になり、厚生年金の乏しかった熟練工の間でミャンマー行きが殺到しただけではなく、若手技術者たちの将来目標となって発展していった。
 そのような国と国の条約によらない地方と地方の連携は、瞬く間にアジア全体に広がり、各地に「○○県友好村」が建設されるようになった。そしてこのような国際的展開を支えたのが、他でもなく今は亡き「日本再近代化党」の初代党首だった。
 これらの国際的な実績が認められ、彼は自治区の初代議長となったが、彼が目指す国家像は、労働者の蓄財がローカルな金融市場をとおして地域の発展と起業を支える仕組みであった。このためには計画的なインフレ政策が欠かせなかったが、このことが今、彼の身を危険にさらしていた。「世界の1パーセント」が支配するこの世界では、彼の考えは余りにも異端過ぎていた。
(つづく)

ものづくり共和国10年戦争

ものづくり共和国10年戦争

「世界の1%」と「世界の99%」の攻防。 ウォール街が支配する世界で、ものづくりにこだわり続けた職人・技術者たちが反乱を起こし、東北地域に新国家を樹立。 この国家には、デフレがなく、少子化もなく、将来に希望があり、働き甲斐のある仕事がある・・・。 しかし、このような社会の世界的拡大を恐れたウォール街はアメリカ政府を使って、日本政府に圧力をかけ、軍事的制圧 により新国家を滅亡させようとするが、ものづくりの魂をかけたものたちの戦いにより、新国家は滅んでも、その熱い 思いは世界中に広がることとなった。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-14

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