没個性

翔優

  1. 春 桜の下
  2. 天秤
  3. いにしえ
  4. レコード
  5. 不安
  6. 花火
  7. 激動
  8. 再会
  9. 歩み

春 桜の下

「個性出さな埋没してしまうわ」
焦りを隠すことなく、裕樹は呟いた。
大学の入学式が行われている体育館の外には桜並木がある。ちょうど満開になったところだろうか。賑やかなキャンパス内部で、美しさを際立たせているようにも見える。体育館では大勢の新入生がパイプ椅子に座り、緊張の面持ちで並んでいる。裕樹はキョロキョロと周りを見渡してみた。高校時代の同級生は見当たらない。しかも、茶髪の子や紋付袴姿の人もいる。彼らは黒髪のスーツ姿が多い中にあって、よく目立っている。学長の話す式辞もほぼ聞かずに、裕樹はまじまじと目立つ学生の姿を見つめた。
入学式を終えて、外に出てくると、サークルの勧誘が襲いかかってきた。彼らは一様に獣の目をして、獲物を狩るかのようにサークル案内のビラを配布している。あっという間に、両手に持ちきれないほどのビラが裕樹の元に渡った。裕樹はそれらをガイダンスの入った紙袋に放り込み、なお目をキョロキョロさせている。新入生の様子を観察しているのだ。

案内によると、裕樹の入ることになっている基礎ゼミは、キャンパスの端にある小学校の校舎のような建物に集まるようになっていた。
「こんにちは、皆さん。入学おめでとう」
基礎ゼミの恐らく初老であろう先生がそう言うと、裕樹を始めとした新入生たちは
「こんにちは」
とバラバラに言った。少々長い挨拶だったので、タイミングがずれたのだろう。そして、先生が自己紹介を行った。ホワイトボードに「田村恭一」と書き、
「趣味は酒場巡りです。誰か一緒に巡ってくれる人を募集してます。おっと、未成年が多いやろうからハタチになってからやったね」
と言うと軽く笑いが起こった。田村先生はうっかりではなく、全て計算して喋っているに違いないだろう。一方、裕樹は相変わらず、辺りを見回している。その後、新入生も自己紹介をすることになり、名前と趣味をそれぞれ言っていくというルールが決められた。先生の右隣から次々と自己紹介をしていく。徐々に裕樹の順番が近づいてくるが、皆の自己紹介は無難なものばかりで、目立とうとしている新入生は今のところいない。とうとう裕樹の順番になった。個性は出したいが、悪目立ちはしたくない。
「高田裕樹です。三重県の出身です。趣味は強いて言うなら本を読むことです。よろしくお願いします」
結局、無難にまとめてみた。自己紹介してみて、個性を発揮することの難しさを感じた。どうも自分にはこれといって目立つところがない。
そう思っていると、最後に自己紹介した男子学生が妙にウケていた。
「成宮航平です。趣味はこれと言ってないですが、大学生になったから合コンしまくりたいです」
そんなことをぶっちゃけて大丈夫かなと思いつつも、クスッと笑いが起こる。裕樹もその一人だった。
「今時にしては珍しいアグレッシブな学生やな。最近は合コンするのもめんどいっちゅう、草食系の学生が多いもんやから、つまらんくてな」
と呆れるフリをして、褒める田村先生。草食系という言い回しに、埃が被った表現だと裕樹は思ってしまった。
一通りの業務連絡が終わった後、田村先生は
「今週の金曜にキャンパスの広場で、3、4回生のゼミと合同で花見をします。時間は18時から。1人1000円集めますので、もし都合よければ来てみてください。みんなで飲んで、親睦を深めましょう」
と笑みを浮かべながら言った。どうやら、飲み会とかそういうノリが好きなのだろう。

裕樹は3日前に引っ越ししてきたアパートに帰ってきた。鍵を回して、ドアを開けても誰もいない。薄暗い部屋の中は散らかっている。実家から持ってきた荷物は、まだ全部整理できたわけではない。服など急を要しない物はまだダンボールに入ったままだ。
「片付けなきゃだけど、とりあえず疲れたから、一休みしようか」
裕樹がそう呟いても、反応する相手がいない。部屋はワンルームだが広々と感じられた。スーツを脱ぎ、ハンガーにかける。ネクタイを取って、ワイシャツのボタンを外そうとした時、鏡の中の自分と目が合った。そこに映った自分はいかにも平凡で、まるで大量生産されて、量販店で売られているシャツみたいだ。
「俺は一点物になりたいんや」
またしても一人呟いた。このままでは彼の独り言が増えそうな気がする。

忙しくバタバタとしているうちに、金曜日になった。入学式の時に満開に近かった桜は、少しずつ散り始めている。裕樹は特に何も考えずに、単に「楽しそうだから」という理由で、基礎ゼミの花見に参加しようと思っていた。自宅から通っている人は最寄りの南草津駅に17時半に集合だが、彼は駅よりキャンパスの方が近いので、現地に18時にいるように計画した。午前中は履修科目の用紙を提出すれば、あとは暇なのでサークル見学をしようと思った。そうすれば、暇が潰せるだろう。
サークルをいろいろと見ているうちに、あっという間に夕方になった。音楽系、スポーツ系、文化系、遊びみたいなサークル。でも、今のところピンとくるサークルは見当たらない。音楽も好きなアーティストのを聴くくらいだし、運動も人並み、文化系もいまいち興味が持てない。どこのサークルへ見学に行っても、
「…また考えます。ありがとうございました」
そんな感じで、事実上のお断りを入れてしまう。終いにはサークル自体に入るのを止めようかと思ってしまうくらいだ。

18時が近づいてきたので、花見の会場に向かうことにした。キャンパスの桜並木の横に芝生広場があって、そこに大きなビニールシートが敷かれていて、既に大勢の人が集まっている。
「こんばんは、お名前は?」
「高田です」
というと、上級生とおぼしき女性がリストを見つめた。「高田」の名前を見つけたのだろうか、ボールペンでチェックを入れた。
「それじゃ、今日の会費1000円を頂戴するわ」
胸元に野村美奈と書かれた名札を付けた女性が言う。裕樹は会費を渡すと、その代わりに野村美奈からサインペンと小さく切った画用紙、ネームプレートを渡された。名前を書いて、上着に付けるということのようである。周りを見渡すと、女子はカラフルにネームプレートを彩り、男子はシンプルに黒ペンで名前と学年だけ書いている。裕樹もそれに倣って
「1年生 高田裕樹」
と書いて、ネームプレートの中に入れた。
野村美奈に役割を果たしたサインペンを返す。
「どこでもええから、自由に座ってな。食べ放題、飲み放題やから、遠慮せんといてね。あと、未成年かな?」
「はい、18歳です」
「そうやんね、若く見えるわ。だから、お酒は飲まないこと。最近、厳しいから」
野村美奈がそういうと、横から成宮航平がすかさず会話に入ってきて、
「おぉ、新入生こっち来て一緒に飲もうや」
と誘った。というよりかは、成宮が強引に腕を引っ張って、裕樹を連れていった。
野村美奈は髪を明るい茶色に染めていて、着ている服もおしゃれで、裕樹たち新入生にはない大人の雰囲気を持ち合わせていた。そして、凛としていて、確固とした自分を持ち合わせているように感じられた。
後ろ髪を引かれるように、成宮に腕を引っ張っられた裕樹は、新入生と上級生が混合で集まっているところに連れてこられた。
「高田くん…だっけ、連れてきたでー」
成宮がそう言うと、その場は盛り上がった。男女が4人ずつ、合計8人いて、既に飲み物が紙コップ半分くらいまでなくなっていた。裕樹もその輪に加わった。早速、男の先輩が紙コップにビールを注ごうとするが、
「あっ、僕まだ飲めないんです」
と断る。先輩はすぐに缶を引っ込め、
「ごめん、ごめん」
と言いながら、ペットボトル入りのコーラに持ち替えた。その状況を見て、成宮はすぐに
「先輩、それってアルハラじゃないっすか?」
と冗談交じりに話した。先輩たちは口々に
「そうやねん、こいつ気がきかんからな」
「先に歳を聞けっちゅうねん、ワハハ」
「タナちゃんらしいな」
などと笑いが起こる。裕樹たち1年生もつられて苦笑いを浮かべた。タナちゃんと呼ばれた先輩もニコニコ笑っている。成宮を見ていると、裕樹はハラハラして仕方がない。
「先輩に向かって、いきなり『アルハラ』って言葉を使うって度胸あるなぁ。絶対に悪目立ちするわ」
と、どうしても思ってしまう。

18時を10分程過ぎたくらいで、田村先生がどっこいしょと言いながら立ち上がった。
「そしたら、みんな集まったところで、花見を始めましょうか。今日は新入生も来てくれてありがたい限りです。最近は飲みニケーションという言葉が死語に近くなっていますが、私は不要だとは思いません。もちろん、一気飲みとか飲酒の強要はもっての外ですが、お酒がコミュニケーションを促進させる効果があるということは否定のしようがありません。ですから…」
そこまで話をすると、
「先生、話長いわ。悪い癖やで」
「早く食べさせてくださいよー」
などと3、4年のゼミ生が笑い混じりで野次を飛ばす。
成宮はというと、先生の話そっちのけで野村美奈と話をしている。
「そしたら、乾杯しようか。やっぱ夜なったら寒いな」
と田村先生が言うと、ゼミ生から笑いが起こった。そして、
「乾杯!」
の一言で皆、「乾杯」と言い、宴が始まった。

桜の下で飲み食いして、田村先生や3、4年生は楽しそうにしている。その一方で、新入生はなかなか、その輪の中に加われない。新入生同士でつるんで話したり、スマホをいじったりしている。裕樹はというと、やはり野村美奈のことが気になって、会話の輪に加われないでいた。ちらっと彼女のことを見てみると、幹事の仕事が忙しいのか、あちこち動き回っている。
「誰かに話しかけようかな…。でも皆、輪の中に入れないようにしてるみたいやし…」
そう思いながら、野村美奈のことをチラ見していると、誰かが裕樹の肩を叩いた。
「おう、ひとりぼっち。しけた顔して、何してんねん。もっと楽しもうや」
成宮だった。手にはビールの入った紙コップを持っていたが、酔っ払っている感じではなかった。
「そんなしけた顔してた?」
「しけたも何も、この世の憂いを全部背負ったような顔してたで」
「周りを見てたら、話しかける勇気がなくて。せやもんで、ここでじっとしとるんやに」
初めて話しかけてくれた相手に、そこまでぶっちゃける必要があったのか、裕樹には分からなかった。とりあえず何か爪痕を残せそうな気がしたのだろう。ふと成宮の方を見ると、大きな目を細めていた。
「高田君やったね。自分喋り方、可愛らしいな。どこの出身やったっけ?」
「三重県の津出身やに。伊勢弁ってこんな感じやけど、ここに来てから喋り方がおもろいってよく言われる。成宮君はどこの出身?」
「俺は大阪の八尾や。河内のど真ん中やから、喋り方が可愛らしくないわ。だから、高田君の喋りを聞いてたら、新鮮やわ」
成宮は心底羨ましい感じを出さずに言った。明らかに営業トークのようにすらすらと話していく。
「さっ、行くで!」
成宮に再び腕を掴まれる。座っていた場所に根を張っていたのに、それを引っこ抜かれた感じで裕樹は戸惑っていた。
「俺はいいよ。一人でチビチビ飲むのが性に合ってるし」
「何しょうもないこと言うてんねんや。こんな機会逃したら、出会いなんて一生来うへんで」
一生なんて大袈裟だと思いつつも、思わずうなづいてしまう裕樹。
「そう言えば、成宮君は合コン行きたいって言ってたな。もしかして、もう行ってきたのか?」
そんなことを想像していたら、
「自分、野村さんのこと、気になってるやろ?それなら、話しかけるなりなんなりしてみたらどうや?」
成宮がそう言ってきた。
「そんなことあらへん」
裕樹が次の言葉をかけようとした途端に
「自分、嘘つくん下手すぎ。顔に書いてあるわ」
と成宮は全て見透かしたように言い放った。
「美奈さん、高田君連れてきました」
野村美奈の前に連れ出された裕樹は突然のことに、何を話していいか迷うばかりだ。美奈は
「どうしたん?気分悪くなった?」
と気を遣ってくれた。
「いえ、そうじゃないんですけど、成宮君に連れてこられたというか…」
裕樹が緊張の面持ちで言うと、成宮は彼の背中を軽く小突いた。
「違うんすよ。こいつがウジウジしてて、なかなか周りと溶け込めてないから、美奈さんの笑顔に癒されてもらおうと思って連れてきたんすよ。何か美奈さんに気がありそうだったから」
裕樹は成宮を軽く睨みつけた。初対面で振り回された挙句、特段親しくもないのに"こいつ"呼ばわりでは裕樹がそのような態度に出るのも仕方がないことだろう。
「気があるって、おもろ。でも、わたしはそういうの嫌いじゃないな。一目でビビッとくるとかってよくあることやん。初々しくてかわいいって思うけど」
美奈は2人を前に笑顔を振りまきながら言った。
「でしょ、かわいいでしょ。ほら見ろ、積極的に行ったらいいことあるやろ?」
成宮は自分の手柄のように言う。さらに続けて成宮が何か言おうとした時、
「美奈、こっちビールが足りなくなってんけど。田村先生がご立腹やわ」
と田村先生の周りに集まった集団の女子が言った。
「はいはい、今持っていくわ。ちょっと待って」
缶ビールを持っていこうとした美奈を制したのは、成宮だった。
「先輩、任せてや。こういうのは、男の仕事や」
そう言うと、裕樹に缶ビールを2本持たせて、自身も2本持って田村先生のグループに入っていった。

桜がライトに照らされて、燃えるように咲いている。その散り際の美しさと、桜の下での宴会の様子が聖と俗をイメージさせた。田村先生の話は自身の経験談を交えた面白いものだったが、裕樹はその話を上の空で聞いていた。やはり、野村美奈のことが気になって、つい、ちらっと見てしまう。そんな裕樹を尻目に成宮は飲み物のなくなった先輩に飲み物を注いだり、酔いの回った田村先生の話に合いの手を打ったりと忙しい。2人の様子は正反対に映った。
「そろそろ時間だし、片付け始めようか?」
の掛け声で、撤収が始まった。食べ残し、飲み残しを片付け、ビニールシートを畳む。成宮は美奈たち幹事の上級生から
「私たちが片付けるから、手伝わんでも大丈夫やで」
と気を遣ってくれているのも構わない。
「いやいや、手伝わせてくださいよ」
懐に入るように言うと、裕樹の方に向き直り、
「高田も手伝うやろ?」
と打って変わって、低い声で囁いた。一度頼まれると断れない性格なので、裕樹も花見の後片付けを手伝った。2人は先輩に混じり、黙々とビニールシートを折り畳んでいく。酔いどれの田村先生はその様子を見て、
「この1年生は感心やな。将来伸びるで」
と感嘆の声を上げていた。
それから裕樹と成宮は余った缶ビールやジュースを先生の研究室に運んだり、ビニールシートを先輩の車に入れたりした。その様子は何かに取り憑かれたかのようになストイックささえ感じさせるものだった。片付けが終わり、上級生から
「今日はありがとな」
などと労いの言葉をかけてもらう。野村美奈からも
「ありがとう、助かったわ。またよろしくね」
と声をかけられた。その言葉だけで裕樹は満足だった。改めて美奈の顔を眺めてみる。肩まで伸びた髪にぱっちりとした二重まぶた、鼻筋が通っていて、ぷっくりとした唇。映画女優がそのまま目の前に現れたかのようである。
「高田君、どうしたの?」
「いえ、何でもないです」
そんな些細な会話さえ愛おしく思えた。
「やっぱり、こいつフォーリンラブしとるわ。わかりやすすぎやろ」
成宮が囃し立てると、
「違うに、成宮君が茶々入れるもんやで、ヒヤヒヤするわ」
そう言って、裕樹はたじろいだ。美奈も会話に入ってきた。
「高田君喋り方可愛らしいなぁ。どこの出身なん?」
「あっ、三重です」
「そうなんや、三重弁って女の子が喋ってたら、かわいいやんな」
裕樹は美奈が三重弁に食いついてくれることに驚くばかりだった。ちょっとだけでも繋がりが持てたことが嬉しくもあった。

しばらくすると、美奈の携帯に着信があった。離れた場所に行ったので、内容は分からなかったが、電話を終えると
「迎えが来たから、帰るね。お疲れさまでした」
と言い残し、急いで花見会場を後にした。
「そしたら、僕らも帰ろうか?な、高田」
意外にも成宮が早く帰ろうと言い出したので、裕樹が不思議そうにしていると、
「ほら、行くぞ」
とまた背中を小突かれた。そして、成宮に腕を引っ張られて、駐輪場に向かおうとしている時だった。不意に成宮が立ち止まった。
「おい、見ろよ」
彼らの視線の先には、美奈の姿があった。だが、美奈だけではない。ヘルメットを手に持ち、ライダースーツを身に纏った男の姿があった。近くにバイクが停まっていたので、それに乗ってきたのだろう。
「あちゃー、えらいところに出くわしたな」
成宮が呟くのを尻目に、男と美奈はヘルメットを被り、1台のバイクにまたがって、あっという間に見えなくなってしまった。
「男いたな」
「あぁ」
裕樹はそうとしか言えなかった。一目見て、美人だと思っただけで、失恋した訳ではない。成宮に引っ掻き回されただけだと言い訳を重ねても、何か喪失した感じを取り繕うのは不可能だった。途端に、4月の夜風が肌寒く感じられた。もう時刻は10時に近かった。
「どうした、しっかりしろよ。飲みに行くか?」
「俺は未成年やもんで、飲めんよ。成宮君もそうだろ?」
「何言うてんねん。俺、一浪して、しかも4月4日生まれやから、20歳やねん」
このやり取りさえ、裕樹には虚しく思えてきた。もうどうでもいいやというノリで2人は飲みに行くことにした。この時間だと駅前まで行かないと店は開いていない。ゲートを出て歩いていく、裕樹と成宮。その後ろ姿はどことなく寂しげだった。

天秤

キャンパスに植えてある桜は新緑に覆われるようになった。花はあの宴会の後に、雨が降って、全て散って流れてしまい、満開の頃の繁栄は跡形もなくなってしまった。この4月に大学に入った新入生たちも前期の講義が始まってからは、少しずつ日常の生活を形作るようになっていった。それは裕樹も例外ではない。
一人暮らしに戸惑いながらも慣れ、洗濯や掃除といった家事もこなしていけるようになった。とは言え、やはり実家に住む母よりは手際が悪く、洗濯物を床に落として汚したり、皺だらけにしてしまうことも日常茶飯事だった。洗濯や掃除は日頃からやっておかないと生活が回らないことなので、仕方なくやっている面が大きい。しかし、これら以上に問題なのは食事だった。裕樹は一人暮らしを始めてから、毎食を外食かコンビニ弁当で済ませてきた。
「外食とか弁当ばかりやと栄養が偏るもんで、野菜は意識して摂りな」
母は裕樹が一人暮らしをする際に、大量の野菜を持たせてくれた。そう言ってはくれたものの、自炊するには疲れてしまって、せっかくの野菜が無駄になる。トマトもキャベツも冷蔵庫の中で皺が寄って新鮮味がなくなり、じゃがいもからは芽が生えてきている。それらを冷蔵庫を開けるたびに見ることになるのだが、いつも辟易してしまう。どうするかを思案し、結局食べる気も起きず、野菜を見ないふりしてドアポケットにあるペットボトルのお茶に手を伸ばすのである。

日常生活を曲がりなりにも順調に送ってきている裕樹だが、大学生活は果たして順調なのだろうか?ある日の様子を見てみたいと思う。この日は9時から1講目の講義があり、彼は朝から自転車に乗ってキャンパスに向かう。行き道は大学へ行く自転車やバイクで混雑している。しかも、キャンパスが山を切り開いた場所にあるために、そこへ行くまでに坂道を超えなければならない。したがって、坂道に来ると自転車を押して歩く学生が多いために、さらに混雑した印象を与えた。そして、それを傍目に見て通っていく大学行きバスも芋を洗うかのようにぎゅうぎゅう詰めであった。裕樹はそんな光景を目にするたびに、疲れを感じずにはいられなかった。
キャンパスに着くと、真っ直ぐ教養科目の教室へは行かず、学内のコンビニに駆け込む。朝食代わりに、高栄養のゼリー飲料を買って飲むのである。実家を出てから、朝に食事をする習慣は薄れていった。週の内、2、3度は朝食を抜いてしまう。親から電話がかかってきたら何て言おうかと常々思っているようだが、一度崩れた習慣はなかなか直せない。コンビニを出ると、今度こそは教室に向かう。
「おう、松浦。今日は早いな」
「高田こそ、ギリやんか。ここの講師は遅刻に厳しいからな」
松浦と呼ばれた背の低い男は、花見で裕樹を引っ張り回した成宮の友だちで、基礎ゼミは違っていたが、成宮と講義を受けた時に知り合った。どうやって、成宮が松浦と知り合ったかまでは何故か教えてもらえていない。とにかく、松浦とは知り合いになったので、ひとりぼっちになることは少なかった。
「成宮は?」
「まだ来てないけどな。今日もサボるんとちゃうか?」
成宮は講義を休みがちであった。しかも、出席カードを余分にもらうように松浦に頼んでいたようである。確かに松浦は講義の時に、出席カードを2枚もらっていた。
「おう、2人とも元気か?今日は久しぶりにキャンパスに来たで」
テンションの高い声が聞こえた。そこにいたのは赤ら顔をした成宮であった。
「どうしたんや?顔赤いし、うわっ、酒臭え」
松浦が顔をしかめると
「合コンだよ、合コン。いやー、本当に大学は楽しいなあ、講義とか単位さえ気にしなければな。ハハハ」
と成宮は得意気に言ってみせた。裕樹はこの状況に呆れながらも、どこかに「個性」という物を見いだしていた。自分が持っていないおもちゃをねだる子どものように。

この日は2講までだったので、午後からは時間が空いていた。そのまま帰っても良かったのだが、松浦が午後からも講義があると言うので、裕樹は昼食を一緒に食べることになった。成宮は1講を終えるとそそくさとどこかへ行ってしまった。松浦は京都の実家から滋賀のキャンパスに通っている。何故この大学を選んだのかを聞いたら、実家から通える範囲のところで選んだのだと言う。
「冒険してへんなぁ、一人暮らししようと思わへんだん?」
と裕樹が一度冗談で言ったことがあった。すると、
「これでも冒険した方や。高校は徒歩で通ってたくらいやから」
松浦は語気を強めた。
「ここも京都にキャンパスがあると思っていたら、社会学部は滋賀にキャンパスがあるって、受験前まで知らなかった」
「えー、そんなことってあるん?」
思わず裕樹は声を上げて笑った。
「ヤバい、腹筋崩壊するわ。絶対、鉄板トークにしろよ。合コンで目立つからな」
「合コンって、成宮ちゃうねんから止めてや。俺は今から資格取って、ええとこに就職できるように備えるんや。大学は遊園地と違う」
2人とも昼食を食べながら、会話が弾んだ。
「それにしても、松浦はしっかりと考えとるな。俺なんか、何したいかとか考えてないわ。あさって、ささってのことも分からへんのに」
「ささってって何?」
松浦が不思議な表情を浮かべたので、
「ささってって言うのは、三重弁であさっての翌日のことやに」
と多少のドヤ顔で説明した。そんなことでドヤ顔をされてもと言いたげな表情を浮かべる松浦を見て、裕樹はまた別のたわいもない会話に切り替えた。

松浦と別れた裕樹はこれからどういう行動を取ろうかと考えた。時間があるから、図書館で暇を潰そうと思い、足を運ぼうとしたその時、目の前に誰かがが立ちはだかった。成宮だった。
「おう、暇か?」
「うん、暇やけど。それより、体調大丈夫?」
「ああ、ぐっすり眠れたから大丈夫や。それより、今からええとこに行かへんか?」
裕樹は困惑の表情を隠さなかった。松浦の堅実ぶりを聞かされたから、なおさらだ。それでも、成宮は一向に気にする気配なく
「何しけた顔してんねん。よし、行くぞ」
とまたもや裕樹の腕を引っ張って、バス停まで連れて行った。バス停には最寄り駅まで行く路線バスの他に、観光用のような大型バスが停まっている。
「これはどこへ行くの?」
裕樹は不安になって聞いた。
「京都のキャンパスや」
裕樹たちの通う大学は滋賀と京都の2か所にキャンパスがあり、お互いを行き来するバスが存在している。それを使って、京都のサークルに通う学生が多い。バス待ちの列に並んでいる間に成宮は説明した。バスに乗って約1時間、高速道路と一般道を乗り継いで京都キャンパスに到着した。その間、成宮は鼾をかきながら寝ていたが、バスが停まったのと同時に起きて、眠い目を擦りながら席を立ち、バスから降りていった。
滋賀のキャンパスにも新しい建物があって目立っているが、京都のキャンパスはそれにも増して近未来的な建物が並んでいる。何でも最近、建て替え計画が完了し、ガラス張りの建物が並ぶようになったのだと成宮に聞かされた。
「こっちのキャンパスは凄いやろ。いろいろ新しくて」
成宮に聞かれて、うんと答えるしかなかった。
「そしたら、行こか」
これまた成宮の言われるがままに付いていった。裕樹にちょっとした恐れが芽生えた。どこに連れて行かれるんだろうという不安だ。だが、それ以上に好奇心が彼を支配していた。ところが歩いたのは一分くらいのものであった。
「学内にスタバがあるん?びっくりやわ!」
裕樹は素っ頓狂な声を上げて、驚いた。さらに裕樹をびっくりさせたのは、そこに座っている人物だった。
「野村先輩、どうしたんですか?」
裕樹が野村美奈の存在にあたふたしているのを尻目に
「今日、成宮君が紹介したいって言ってた子って高田君やったんやね。もう、勿体ぶって」
「どうしても、美奈さんを驚かせたくて。こいつにもいい刺激になりますからね」
野村美奈と成宮が親しげに話しているのを見て訳が分からなくなる裕樹であった。
「成宮、どういうことか説明しろよ。訳分からんわ」
成宮に詰め寄る裕樹に美奈がことの顛末を説明した。
「高田君、驚かせてごめんね。実はこっちで『京都観光サークル』っていうサークルに入ってるの。大学公認のサークルやなくてインカレサークルって言って、京都中の大学から学生が参加しているわ。私はその代表やねん」
サークルの代表って凄いなぁと裕樹は思った。そして、勘付いた。
「もしかして、新入生の勧誘とかですか?」
「ぶっちゃけ言えば、そうね。新入生の勧誘ってあちこちでやってるでしょ?うちもビラを配ったり、新歓イベントを開いたりして、躍起になってる。成宮君はわざわざビラに書いてあるメールアドレスに連絡をくれたの。入学して早々にサークルに入ってくれたわ」
成宮は合コンに精を出していただけではないようである。そのことが分かっただけでもよかったと、なぜか裕樹は感じていた。と同時に、彼はサークル活動に対してある種の不信感を持っていたから、この勧誘を懐疑的に見ていた。
「新歓も大変なんですね。でも、期待に応えられないかもしれませんよ。勉強とか忙しくなりそうやから」
「高田、このサークルは楽しいで。他の大学にいる女の子とも出会いたい放題…」
成宮が茶々を入れると、横から男の人がコーヒーを持って、裕樹たちのいるテーブルに座った。
「こいつはやらしいことばっか考えとるな。じゃけん、女の子に逃げられるんじゃ。あれ、この子は?」
広島訛りのある男は裕樹の顔を見回して、疑問をぶつけた。
「彼は成宮君の友達で、高田君っていうの。うちのサークルに興味あるらしくて、わざわざ滋賀から来てくれたんよ」
美奈の説明に続けて、裕樹が話す。
「どうも、高田と言います。よろしくお願いします」
「久保です。よろしくお願いします。京都大学に通っています。サークルでは副代表をしてるんやけどね」
「京大ですか!?すごいですね」
久保と名乗った男は裕樹が言ったような、ストレートな褒め言葉には慣れているのか、顔を少しも変えない。そこに久保とは対照的に、成宮が
「久保さんはすごいモテるねんで。しかも、法学部やから将来は官僚か弁護士になること間違いなしや」
となぜか興奮気味に話し出した。その表情は我が事のように誇らしげだ。
「成宮は大袈裟に言い過ぎじゃ。今頃、ぶらぶらしてるようじゃ、官僚や弁護士にはなれんし、なる気もないわ」
相変わらず、久保は表情を変えずに言った。次々と話を振ってくる成宮を制するように、
「このサークルは一体、どんな活動をしてるんですか?」
と裕樹は少し声のトーンを上げて言った。
「『京都観光』っていうくらいじゃからね。京都を観光する。京都通になってもらおうっていうのが、カッコよく言うとコンセプトかな」
久保が説明するが、裕樹はいまいち内容が掴めないようである。見かねた美奈が
「実際に参加してみないと分からんね。今度の5月3日
に嵐山に行こうって計画してるんやけど、一緒に行かへん?」
とフォローした。裕樹には今のところ、ゴールデンウィークの予定はない。強いて言うなら、三重の実家に帰ろうとおぼろげに思っていたくらいだ。
「そうですね、考えておきます」
そう無難に返答することにした。美奈も
「分かったわ。返事は急がへんから、じっくり考えておいてね」
と無難に応えた。

野村美奈と久保はサークルのミーティングがあるからと、しばらくするとスタバから立ち去り、裕樹と成宮が残された。
「何であそこで『行きますっ』って言わんかったんや?」
何故か裕樹は成宮に責められた。
「何でって、何か予定入るかもしれんやん」
「アホやな、そこで行かんでどこで行くんや。予定なんか後でいくらでもキャンセルできるやろ。そうでなかったら、愛しの野村先輩とお近づきになれへんわ」
「別に野村さんは"愛しの"じゃないし」
裕樹は鼻をひくつかせて反論したが、
「そうかなぁ、失恋から立ち直ってない感がありありなんやけどな」
成宮も一歩も引かなかった。

その日は夕方の滋賀キャンパス行きのバスに乗って、草津まで帰ることになった。成宮は用事があるからと言って、京都のキャンパスで別れたので、一人でバスに乗った。夕方の名神高速は混雑していて、ノロノロとしか動かない。考え事をするにはちょうどいい時間になった。
「松浦みたいに将来のことを考えて、今から資格の勉強をしたり、インターンしたりしようかな。でも、勉強ばかりはしんどいしな。成宮みたいにちゃらんぽらんに生きるのも後が大変になりそうやからな…」
裕樹は松浦や成宮みたいに自分の生きる軸を持てずにいた。どっちつかずで中途半端に生きるのが恥ずかしいとも思っていた。結局、バスに乗っている間には大学生活をどのように送るのか、結論は出せずじまいだった。
自宅へ帰ると、近所のコンビニで買った弁当をテーブルに置き、冷蔵庫を開けた。すると、野菜室に置いてあったトマトが変色していて、汁が野菜室のそこに垂れていた。裕樹は仕方なく、腐ったトマトをレジ袋に入れ、ゴミ箱に捨てた。ついでに胡瓜も萎びていたので、食べられそうな部分だけ折って、残りは捨てた。
「そういえば、ゴミもそろそろ出したいな」
と思って、ゴミの収集日を確認すると、次回は明後日であった。しばらく待たねばならない、そんなことを思いつつ、彼は弁当を温め、胡瓜にマヨネーズをつけて食べた。萎びた胡瓜のパサパサ感が妙に口に残っていた。

数日後、その日の3講目は基礎ゼミだった。ゼミのメンバーが「今、興味のあること」を掘り下げて発表するというのが現在の課題だ。何しろ、裕樹が所属している社会学部社会学科というのが、学問としてとても理系の学部や大学は違えど久保がいる法学部とは違って、抽象的な感じがあるので、ゼミ生たちは手探りで発表をするという状況にあった。そのせいかは分からないが、ゼミの出席率は低く、少ない時は20人のうち5、6人しか出席していない時もあった。裕樹も毎回出席していたが、あまりに参加者が少ない時は
「これから行くのやめようかな」
と思う時もある。成宮は初回は来ていたが、それ以降は全く来ていない。成宮らしいと言えば、そうなのだが。ゼミを仕切るはずの田村先生に至ってはふと見ると居眠りしているように見える始末である。そのくせ、発表の内容は全てを把握しているようで、その後に行われる講評は至極的確なのである。やる気があるのかないのかいまいち判然としない。今日のゼミも2人が発表し、田村先生が講評するというスタイルで進んでいった。つつがなく3講目が終わると、裕樹は田村先生を捕まえた。いろいろ聞きたいことがあったからだ。
「田村先生、お時間ありますか?相談したいことがあるんですけど」
「ああ、4時までならええけど」
「ありがとうございます」
田村先生は裕樹を研究室に案内してくれた。裕樹がそこに入るのは、花見の片付けを手伝った時以来だ。
「で、相談って何や?」
「あのう、これからの学生生活について悩んでいます。明確に何かをしたいっていうのがないんです」
「そんなことか、うーん、こればかりはこっちで決められないことだからなあ」
田村先生は「そんなこと」と自分の思いを軽く受け止めている。そう思うと、裕樹はガッカリした。しかし、
「でも、強いて言うなら、今すぐに明確にする必要はないんちゃうんかな。中には『俺は夢があって、真っ直ぐにそこに向かっています』ってな奴もいるけど、そんなのは極少数派やよ。まあ最近は就活もシビアになってるから、焦るのも無理ないけどな。ただこれだけは忘れんといてほしい。自由に時間が使えるのは今だけやからな。その間に目標が定まればいいんじゃないかと思うけどな」
と田村先生はしみじみと語った。それは自身の経験が背景にあるような感じであった。
「田村先生はどうして、大学教授になったんですか?」
続けて裕樹が聞いた。
「はは、まだ准教授だよ」
田村准教授が軽いタッチで指摘すると、裕樹は恐縮した表情を浮かべて、頭を下げた。
「まあ、それはええとして、俺は学生時代はパチンコと競馬に明け暮れてたなあ。で、金がなくなったら親に無心してっな感じで暮らしてたわ」
それから、田村先生は学生時代のギャンブルに明け暮れた話、借金がかさんで夜逃げした話などをしてくれた。そこまで来ると、先生の思い出話になってしまい、裕樹にはそれらの話が過去の遺物のように思えた。散々、自分の話をした挙句、
「結論から言うと経験してきたことに無駄はないってことや。おっもうすぐ4時やな、そろそろ用事があるから。悪いな」
と言う訳で研究室を追い出されてしまった。
裕樹は今の話を参考にするかどうか迷っていた。
「あの先生の話しぶりやと、参加する方がいいのかな。せやけど、先生のような生き方はできやんし…」
家に帰っても悩んだ。そして、その日の晩に裕樹は「京都観光サークル」のビラに書かれていたアドレスにメールを送った。

「こんばんは、夜分遅くに失礼します。この前の新歓行事の件ですが、ぜひ参加したいと思います。必要事項は以下の通りです…」

もう彼に迷いはなくなっていた。全ての経験が自分の糧になるならと、野村美奈にメールを送った。

いにしえ

その日、裕樹は朝から上機嫌だった。なぜかと聞かれると理由を挙げるには、それかいささか曖昧なのだ。理由を聞く方が野暮だと言われそうである。
大学は今週末からゴールデンウィークの3連休に入っていて、それが終わって5月に入ると、憲法記念日、みどりの日、こどもの日、振替休日と4連休が待っている。4月30日から5月2日までは講義があるのだが、自主的に休みを取って、帰省や旅行に行く学生が多い。サークルの合宿なども連休を利用して行われる。裕樹が参加しようとしている「京都観光サークル」もゴールデンウィーク中にイベントを行う。それが4月29日である。

裕樹はパンを頬張りながら、鼻唄を歌っている。家で朝食を食べるのは珍しいことであった。それから、丹念に歯を磨き、顔を洗うと、今日着ていく服を選び始めた。その間も鼻唄は鳴り止まない。大差がないにもかかわらず、こだわって服を選んでいたら、待ち合わせの時間が近づいてきた。慌てて自転車に乗って南草津駅へ向かう。その最中、信号待ちで大きく息を吸う。緑の多い公園の近くだったので、爽やかに感じられる。

駅に着くと、駅前の駐輪場に自転車を停めた。南草津の駅前は商業ビルが何棟も建ち、スーパーやドラッグストアがテナントとして入っている。反対側の出口に面しているのは築数年のタワーマンションが2棟並んでいる。学生が多いせいか、この駅の前後にある駅より栄えているようである。さて、裕樹は駅で今日、「京都観光サークル」のイベントに行く人と待ち合わせをしている。そのうちの二人は成宮と野村美奈だ。あと何人か参加するらしいのだが、裕樹は初めて会う人である。
裕樹が駅の改札前に来たときには、美奈と男女1人ずつが出発の時間を待っていた。
「おはようございます」
と挨拶をすると、美奈は慣れた調子で
「おはよう」
と返してくれた。初めて会う2人は、ぎこちない感じで挨拶をした。その2人も初対面らしく、会話が弾んでいる感じでもなかった。
「これで全員ですか?」
と男が聞いた。男は肩幅が広く、スポーツを経験していたように感じられた。
「あともう1人来てないみたいやから、もう少しまとうか」
美奈がさっきの男の質問に答えた。
「もう1人って、成宮ですよね?」
裕樹が聞くと、
「そうね、成宮君だけど」
と微笑しながら美奈が答えた。待っている間、美奈を通して、ちょっとした自己紹介をした。
「高田って言います。よろしく」
と言うと、男がまず自己紹介をした。
「大橋と言います」
続いて、おとなしげな女が言った
「三輪悠里と言います」
3人とも似たような挨拶だった。三輪悠里と自己紹介した女はショートヘアで、見た感じはおとなしく、自己主張しなさそうな印象を受けた。それから
3人で話すこともなく、ちょっとした沈黙があった。美奈が見兼ねて、
「大学はどこ通ってるんかな?」
と尋ねてみた。裕樹と大橋は学部は違うが同じ大学であることが分かった。三輪悠里は違う滋賀にキャンパスのある大学に通っているということだった。そうやって、自己紹介しているうちに成宮が慌てて走ってきた。
「遅いわ、もう電車着いちゃうやん」
裕樹の言葉に成宮は
「ごめん、10分前まで寝てた」
となぜか笑みを浮かべて、謝る。
「これで全員揃ったね。じゃあ、行きましょう」
野村美奈の合図で5人は改札を抜け、ホームへと降りていく。

これから、集合場所になっている三条大橋の下まで向かう。まずはJR琵琶湖線に乗って、山科まで行き、地下鉄に乗り換えて三条京阪まで行く。地上に昇って徒歩で鴨川に向かう。その間、成宮は新しく知り合った大橋や三輪悠里を巻き込んで、話をしている。相変わらずの明るい調子でよくしゃべっている成宮を見て、裕樹は嫉妬を感じていた。どうしたら、ああいう風におしゃべりできるかが分からなかったのである。

三条京阪駅を地上に上がると、集合場所の鴨川の河原までは徒歩で移動する。裕樹にとって、初めて行く京都の繁華街だったが、ゴールデンウィーク真っ最中であるせいか、人が多い。多くは観光客なのだろうか、外国人も多々見かけた。裕樹は逸れないようにするので、精一杯だ。三条大橋を渡りきると鴨川の河原に到着する。すると既に学生の集団があった。30人くらいいるだろうか?よく見てみると、「京都観光サークル」の幟を持った京大生の久保の姿も見えた。
「久保さん、おはようございます」
「やあ、おはよう。これで全員揃ったんかな?」
と言うと、リストと照合して点呼をした。全員が揃ったところで、ネームプレートが配られた。名前が既に印刷されていて、どのような名前なのかが分かりやすい。それが終わると、いよいよ出発だ。三条京阪駅に戻ってから地下鉄東西線に乗り込み、太秦天神川駅まで行く。そこから通称「嵐電」と呼ばれる路面電車に乗り換えて、嵐山駅へ。駅には足湯もあって、観光客に人気のようだ。

改札を出ると、周りは観光客でごった返していた。ここで少人数のグループに分かれて行動する。少人数と言っても、裕樹のグループは6人いたので、顔見知りになる人数も多くなるだろう。成宮とも別れ、大橋も三輪悠里も違うグループに入っている。更に言うと、美奈とも別のグループに入った。ただ同じ班に久保がいるので、会話に困ったら話しかけられる。裕樹は少しホッとした。サークル代表の美奈が
「ここから、4時まで自由行動です。またここに集合してください。それじゃ、解散」
と宣言すると、それぞれの班がバラバラに行動を開始した。

久保をリーダーとしたグループは、まずどこを目指そうかを考えた。裕樹は京都の地理に詳しくないので、皆の意見に賛同するようにした。すると、
「渡月橋に行きたいです」
と中西という男が発言した。裕樹はすぐさま賛成し、他のメンバーからも異論はなかった。
「それじゃ、渡月橋を渡ろうか」
と久保の一声で最初の目的地は決まった。
観光客の多さに辟易しながら、自分もその一人何だと思うと、自業自得だと思えた。歩いていると、中西に話しかけられた。中西は今時の若者らしく、お洒落な格好に身を包み、眉を細く整えている。
「高田君やんな、俺中西言うねん」
「あぁ、よろしく高田です」
最初はこのような形式的な挨拶で始まった。お互いにはらの探り合いをしながら、会話をしていく。
「高田君は大学どこなん?」
「僕は〇〇大学やに、中西君はどこなん?」
「俺は△△大学やわ。ところで、自分喋り方面白いな。出身は?」
裕樹にとっては、自分の武器を披露できる絶好の機会だとほくそ笑んだ。
「三重県やに。喋り方がかわいいって言われることが多いわ。中西君はどこ出身?」
中西は頭を掻きながら、
「俺は和歌山や。と言っても、潮岬の辺りやけどな」
とぶっきらぼうに答えた。自分のことよりも他人のことを聞きたい様子であった。男2人は残り2人の1年生にも声をかけたかったのだが、いかんせん女子2人で盛り上がっていたために、なかなか声をかけ辛かった。裕樹としては時間があるし、そのうち話しかければいいかと思っていた。

そうこうしているうちに、渡月橋にたどり着いた。橋を渡る前にメンバー全員で写真を撮ることにした。もちろん渡月橋をバックにしてである。久保がカメラを構え、残りの5人が思い思いのポーズを取る。皆、ピースサインをして、写真を撮った。裕樹はその時に横に並んだ女に声をかけてみることにした。
「あの、佐野さんやったっけ。どこの大学かな?」
奥手さが災いして、たどたどしい質問になる。
「私は◻︎◻︎女子大学やで。えっと、高田君やね、どこの大学なん」
「〇〇大学やに」
と言った瞬間に、
「高田君の喋り方かわいいって言われない?」
と佐野に聞かれた。さらに続けて、
「方言女子って羨ましいなぁって思うわ。私は地元の人間やから、京都の言葉には慣れちゃって」
と言葉とは裏腹に、さして羨ましくもなさそうに言った。これが俗に言う京女の性質なのだろうか。
「京都出身なんや。じゃあ、この辺は庭みたいなもんなんかな?」
「全然、そんなことないよ。伏見稲荷の近くやから、嵐山はほとんど行かないかな。それに世界遺産が多いとか言うけど、あまりピンと来なくて…」
この部分は本当に思っていることなのだろうと裕樹は感じた。薄化粧した佐野の顔はどこかぎこちなくて、初々しさがあった。そこにもう1人の女が声をかけてきた。
「のぞみちゃん、あの子の喋り方、超ヤバい。可愛くてキュン死にしそう」
佐野のぞみに声をかけてきたのは、比嘉葵とネームプレートに書かれた女だった。髪を明るい茶髪にして、半袖ニットにスキニーパンツを履いた、一言で言うとギャルっぽい感じであった。
「私、比嘉葵って言うの、よろしくね。あんたの喋り方、鬼ヤバいんだけど、どこから来たの?あっ、ちなみに私は沖縄ってよく言われるけど、東京だからね」
裕樹は周りに標準語で話す人がいないので、違和感を感じずにいられなかった。

6人でぺちゃくちゃ喋っていると、時間の経つのも早く、1時を回っていた。食事処はどこもまだ混んでいるが、昼食を摂ることにした。このグループのもう1人の上級生である井納早希が食事処や土産物屋を調べているようで、資料を見ながら案内してくれた。
「早希ちゃん、いつも助かるわ。俺、そこまでリサーチしてなかったよ」
久保がそこまで言うくらいだから、彼女のリサーチ力はきっと高いのだろう。一旦、嵐山駅まで戻ると、食事処までは近かった。ただし、混んでいたので、食べるまでには30分くらいかかるようである。待つ間、皆いろいろなことを話し合った。特に話題になったのは言葉のことだった。特に久保の広島弁が格好いいと言う話になり、比嘉葵が
「広島弁で男らしく告白して」
などとムチャブリをするので、久保が照れながら告白の真似事をするという異様な展開になった。それを聞いた女性陣は惚れ惚れしてしまう有様であった。広島弁はなんて格好いいのだろうと、裕樹と中西は羨ましい思いをしていた。

昼食を済ませると、今度は嵯峨野の竹林を見に行こうということになった。そこの竹林は時代劇に登場するような場所らしい。しかも、近くに野宮神社という神社もあって、何でも「亀石」というのが有名なようである。裕樹たち一行はゆったりと歩き出した。10分くらい歩いただろうか、竹林の広がる地帯に到着した。そこはまるで、古にタイムスリップしたかのような場所で、文明の利器を不要としているように思えた。1年生はそこで映えるからと写真を撮っていた。日光を遮るほどの竹林を通っていく。観光客もいたが、喧騒ではなく、涼しささえ感じるようであった。それから野宮神社へ行った。良縁、学問の神様として知られていて、「亀石」に触れるといい出会いがあるのだと言う。皆、参拝をした後に「亀石」に触り、ご利益にあやかろうとした。

そこまですると、集合時間の4時にあと15分という時間になってきた。
「そろそろ時間じゃから、集合場所に行こうか」
との久保の声で、裕樹たちは嵐山駅に戻ることにした。途中の道は観光客で相変わらずごった返していた。裕樹は
「皆、京都が好きなんやなぁ」
と感じずにはいられなかった。半ば呆れたような感情だった。駅に着くと、既にほぼ皆集まっていて、そのまま全員の所在を確認する為の点呼が行われた。全員いることが分かると、ここで一旦解散となった。ただし、二次会があって、カラオケやボーリングなどいくつかに別れて行動するようである。裕樹たちもこれで解散となってしまう。佐野のぞみが
「せっかくやから、LINE交換しよう」
と提案したので、班のメンバーでLINEを交換し合った。裕樹にはこれらのLINEを今後使うことがあるだろうかと少しだけ懐疑的になっていた。それでも、「友だち」が多くなることにある種の快感を覚えないこともなかった。これからどういう行動を取るか聞いたら、中西と比嘉葵は二次会に参加し、佐野のぞみは帰宅するのだと言う。佐野は
「門限が厳しくて、早く帰らんとあかんのよ」
と事情を説明した。自宅生の大変さを思わぬ形で知ることとなった裕樹たちは
「また遊ぼうな」
と声をかけた。

京都の繁華街である四条河原町に戻ってくる頃には、人数は少し減っていて、20人くらいになった。ここでボーリング組とカラオケ組に分かれて行動することになった。裕樹はボーリングが苦手なので、カラオケ組に付いていこうと思った。
「おう、高田はどっちに行くんや?」
成宮が声をかけてきた。今日はいろいろとあったので、裕樹にはどこか懐かしく思えた。成宮にも出会いはあったに違いないが、裕樹と話している時に特に落ち着いている印象を受けた。
「俺はカラオケに行こうと思っとるけど」
「そうか、俺はボーリングや。こう見えてもベストスコアが280やからな」
成宮が鼻息を荒くして言うのを軽く受け流し、
「じゃあ、行くわ」
と言い残して、裕樹はカラオケ組に付いていった。カラオケに行くグループは女性が5人と多く、男性は3人だった。裕樹が知っている顔はというと、上級生の野村美奈、新入生の大橋と三輪悠里くらいで、後は知らない顔ばかりだ。なかなか声をかけるきっかけは掴めそうにない。そんな時に成宮の存在は危うい面もあるが、ありがたいと思えた裕樹だった。

河原町通りを北上していくとすぐのところにカラオケ屋はあった。しかし、ゴールデンウィークの夕方である。部屋は満室でしばらく待つ必要があった。30分くらい経った頃、パーティールームが空いたらしく、そこに案内された。暑かったのでエアコンを効かせて、カラオケ大会が始まった。まずは上級生からということで、野村美奈がマイクを握ることになった。彼女はあいみょんの「マリーゴールド」を歌い始めた。それを口火に皆こぞって曲を入れて、歌った。裕樹も歌には自信がなかったが、米津玄師の「LEMON 」くらいなら歌えたので、恥をかくつもりで歌った。
ふと周りを見ると、三輪悠里がポツンと1人ジュースを飲んだり、曲を選んだりしていたが、歌っていなかった。
「カラオケ嫌い?」
野村美奈が尋ねてみる。
「そんなことはないんです。ただ私は80年代の歌が好きなんで、最近の歌はあまり詳しくないんです」
三輪悠里はそう言うと、どこか疎外感のようなものを滲ませた。裕樹は
「好きな歌を歌ったらええんちゃうかな?どうせ、みんなそこまで聞いてへんって」
と言い、ステージを見てみた。すると、大橋が星野源の「恋」を歌いながら、恋ダンスを踊っている。2人の女子も一緒になってダンスをしていた。裕樹と美奈は顔を見合わせて、三輪悠里の気持ちを察した。彼女も個性を出せずに困っているのだ。裕樹は自分の思いと重ね合わせ、彼女の側にいようと決めた。

結局、悠里は1曲も歌わないまま、カラオケを終えることになってしまった。盛り上がっている雰囲気を察してか、他のメンバーが三次会と称して居酒屋に行く中、裕樹と悠里は早々に帰ることにした。美奈も
「ごめんね、早く気づいてあげればよかった」
と言い、後から追いついてきた。裕樹たちはカラオケ屋から歩いて、三条京阪駅まで来た。駅のホームまで下りてくると、悠里は顔を手で覆い、ひっくひっくと泣き出してしまった。
「ごめんなさい、せっかく楽しいとこやのに泣いたりして」
「いいの、こっちこそ、1人ほったらかしにして、ごめんなさい」
美奈がそう申し訳なさそうに言うと、悠里は美奈の体に顔を埋め、声を上げて泣いた。異様な様子に、周りの客がじろっと、悠里や美奈のことを見ていく。裕樹はこの状況に所在のなさを感じながら、ただ立ち尽くすしかなかった。電車を数本見送ったが、もうそれはどうでもよく思えた。

結局、1時間くらいした頃に悠里はようやく落ち着いた。3人とも最寄り駅が同じだったから、一緒に帰ることになった。電車の中で、昼から何も食べてないことを思い出して、美奈の知っているレストランで食べようと言うことになった。美奈が店に電話すると客はいるけど、混雑しているほどではないという。南草津の駅に降り立ち、裕樹は自転車を取りに行き、美奈と悠里は先にレストランに向かうことにした。裕樹が自転車に乗って彼女らに追いつくのは簡単だった。そこから、歩いて数分くらいのところにレストランはあった。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、バイトらしき店員が挨拶した。3名ですと美奈が言うと、奥に通された。レストランと言うよりかはバルに近い雰囲気だった。店内にはビアサーバーがあり、大画面テレビがあって、サッカーの試合を映している。裕樹も悠里も空腹だったので、メニューを考えるよりも、店のことをよく知っている美奈に注文を任せることにした。
美奈が注文を頼むと、店の奥から主人と思われる男が現れた。そして、その若い男は美奈と親しげに話し、奥へと引っ込んでいった。悠里は不思議に思ったのか
「お店の人と仲良いんですか?」
と美奈に尋ねた。
「うん、仲は良いかな。ってか、ここだけの話やけど、さっきの人は彼氏やねん」
「そうなんですね、それは仲良いって言うレベルじゃないですね」
美奈の回答に悠里は納得した様子だ。一方の裕樹は、マスターの顔をよく見ておかなかったことを後悔していた。「あの人が花見のときに、美奈さんを迎えに来た人か」心の中でそう呟いた。

店を出ると、夜の10時を回っていた。悠里の家がこの近くにあるので、裕樹と美奈とで送っていくことにした。アパートの玄関まで送っていくと、別れ際に
「LINE交換したいんですけど」
と悠里に頼まれた。2人は悠里とLINEを交換してから、別れた。そこからは、裕樹と美奈とは帰る方角が逆なので、別れることになる。
「ありがとうございました。今日は楽しかったです」
「こちらこそありがとう。またサークルに遊びにきてな」
2人は挨拶を交わして、別れた。裕樹は自転車を全力で漕いで、気を紛らせていた。それでも、あの店のマスターのことを意識しない訳にはいかなかった。美奈とは何の感情もないはずなのに。

レコード

風薫る季節になってきた。キャンパスの中にも木が多く、しかも周りを森に囲まれているようなところなので、自然を感じることも多い。大学は前期の授業が終わり、試験期間に入っている。レポートの提出もひと段落し、裕樹は講義を休んだ分のノートを松浦に頼んで、コピーさせてもらっていた。
「松浦、ありがとう。助かったわ。やっぱり持つべきものは友やな」
「何の何の、その代わり今度の昼飯はお前の奢りな」
「分かったわて。今はバイトしとるから、ある程度余裕があるしな。それにしても、成宮は最近、姿を見せんな」
裕樹は成宮のことを気にするそぶりを見せた。すると、松浦は顔を歪ませて言った。
「あっ、あいつなら昨日、俺のところ来て、ノート貸してくれって言ってきたんや。しゃあないから、全部コピーさせてやったけど、すごい量のコピーをしてたで。お前みたいに昼飯奢ってもらおうと思ったんやけど、さっとその場からいなくなったからな」
どうやら生きていたようである。何しろ、最近はサークルにも顔を出さなかったから、裕樹は多少気にしていたのだ。とにかく生きている、それだけで良かったと思える自分がいることに裕樹自体が驚いていた。

裕樹はゴールデンウィーク明けから、バイトを始めた。親の仕送りもあったが、それだけでは家賃や生活費を賄うだけで精一杯だったからである。求人誌を見たり、学内での家庭教師の斡旋も見たりした。しかし、そのことを野村美奈に相談する機会があったときに、意外なバイト先を紹介してもらった。
「それなら、ブルズでバイトせーへん?」
「ブルズってどこでしたっけ?」
一瞬、どこか分からなかったが、次の瞬間には全てを理解していた。それと同時に求人のチラシを見せられた。
「もしかして、美奈さんの彼氏さんのお店ですか?」
「そうなの、3月で4年生のバイトが辞めちゃって、少ない人数で回してたんやけど、どうしても人手が必要らしくて。急いでいるみたいだから、どうかなと思って」
この美奈の提案に戸惑っている裕樹の姿があった。
「ちょっと、待ってください。確かにバイトはしたいですけど、考えさせてもらっていいですか?」
「分かった。でも、早くしないと他の子にも頼むから、取られちゃうで」
美奈は急かすように言う。その様子はまるで誰かに意地悪をしているようでもあった。
その晩、彼はわだかまりのある気持ちを整理してみた。バイトの内容としては悪くないし、時給も900円とまあまあの値だ。しかも、シフトはある程度融通をきかせてくれると言う。こんなバイトは滅多にない。だが、彼にはこんな申し分のないバイトを躊躇う理由があった。やはり、美奈のことが気になって仕方がないのである。その美奈の彼氏の店で働くなんて、どのようなショックを受けるか分からない。素直に言うと、そんな不安が大きかった。
「でも、逆を言えば、これが吹っ切るキッカケになるかもしれない」
裕樹は思いもかけないことを呟いていた。これで叶わぬ片思いからも解放される。彼はブルズでバイトしようと決めた。

美奈は閉店後のブルズに来ていた。裏口から入って、マスターである門脇晴輝一人となった店内に佇んだ。
「バイトの件だけど、目星つけてた子に声かけてきたで」
晴輝は最後の片付けを済ませて、カウンター越しに美奈を見遣る。
「目星つけた子ってこの前、食べに来てくれた子やろ?で、バイト引き受けてくれそう?」
晴輝の表情は営業中のそれよりも幾分柔和になっていた。
「うーん、その場では返事しなかったけど、多分引き受けてくれるんとちゃうんかな」
「何で、そんなことが分かるん?」
晴輝が着替えながら聞いた。
「何やろな、彼分かりやすいから。いいことがあれば、ニコニコするみたいなね」
ふーんと気のない返事をすると、
「帰るぞ」
と晴輝は言って、裏口の方へ向かった。美奈もそこから出て、先にバイクの停めてあるところへ向かった。そこに戸締りをした晴輝が現れて、美奈にヘルメットを渡した。2人はバイクにまたがると、そのまま店を後にした。その時の2人はとても幸せそうに映った。

キャンパスを後にして、裕樹はバイトまで時間があったので、一旦家に帰ることにした。荷物を置くと、少し昼寝をした。
ブルブルと携帯のバイブレーションが鳴っている。ちょうど良い時間に起きた。裕樹は制服としている黒のTシャツを鞄に入れ、バイト先へと自転車を漕ぎだした。
ブルズに到着したのは、それから15分後のことだった。裏口から店の中に入ると、マスターの門脇晴輝が見えたので、
「おはようございます」
と挨拶した。晴輝はカウンター越しに
「おはようっす」
と言い返すと、仕込みに没頭していった。裕樹は黒のTシャツに着替えて、手を洗った。Tシャツはオリジナルのデザインで、胸元にbullsのロゴが入っている。このTシャツを着て2か月くらいになる裕樹は、密かに格好いいと思っている。
裕樹の仕事は皿洗いがほとんどで、営業中はほとんどシンクの前に立っていると言っても過言ではない。とは言え、店も忙しい日と暇な日の差が大きく、大学のサークルなどが団体予約を取っている日は洗い物が多くなるが、普段などは数組来ればいい方で、洗い物をこなすと、晴輝や他のバイトとおしゃべりする時間もあるくらいだ。たまに知り合いが来店すると、おしゃべりすることもある。そんな緩い空気感が心地よく、裕樹はこのバイトを受けてよかったと思っている。

この日は何組か客が来ただけで、後片付けが少なかった。皿やコップを洗い終わって、カウンターやテーブル、椅子を拭いても時間が余るくらいだった。11時になると、ガランとした店内には晴輝とバイトの先輩の赤松雅弘、裕樹の3人だけになった。
「よし、11時なったし、高田は上がっていいで。賄い食っていけよ」
晴輝が言うと、
「ありがとうございます。すみませんが、早速食べちゃいます」
と裕樹は返した。今日の賄いは親子丼だ。
「美味いっす。マスターの作る賄いはホンマに美味いっす」
裕樹が感嘆の声を上げると、赤松も
「俺もあんな賄い作りたいっすよ。うちでも真似して作るけど、ああはいかないっすよ」
と羨望の表情を見せた。
「お前、料理するの?そんな風に見えへんけどな」
「マスター、俺こう見えてもずっと自炊してるんですよ。今度、賄い作りましょうか?」
「自信がありそうやから、いっぺん頼むわ。美味いの頼むな」
赤松は「はい」と一言言うと、肩をぐるっと回した。その後、不意に言った。
「最近、彼女さんとは仲良くしてます?」
裕樹は賄いを吹き出しそうになり、むせ込んだ。「大丈夫か?」と晴輝の尋ねる声に「大丈夫です」と答える。一方、晴輝は
「何で急にそんなん聞くんや?」
と笑いながらもちょっと驚いた表情を浮かべて言った。
「何でって、最近彼女さん見ないなって思ったからですよ」
「ハハハ、アホやなぁ。ちゃんとしてるよ。向こうが事件期間やし、公務員試験の勉強を始めたから忙しいんや」
「へぇ、公務員。堅い仕事選ぶんですね、彼女さん。俺も秋になったら、就活始めやんとな」
"就活"という響きに、裕樹はどこかリアリティが持てずにいた。近い将来、自分も通る道なのに。そんな自分にいささかの不安を覚えた裕樹は、不安を搔き消すように
「あっ、それじゃあ美奈さんとはどうやって付き合ったんですか?随分、歳が離れてますけど」
と晴輝に聞いてみた。話をしてみたかったけども、今まで触れられなかった話題だ。
「何やねん、2人とも。今日はやたら恋バナに食いついてくるなあ。恥ずかしいから、また今度にしな」
「いいじゃないですか、今日くらい。聞きたいですよねー、赤松さん」
裕樹は赤松の方に視線を向けた。
「そうですよ、今日はぶっちゃけちゃいましょうよ。お客さんいないし」
赤松がそう言うと、
「お客さんが来ないのは困るけどな」
と晴輝は赤松を軽く睨んで言い、それに続けて話し始めた。
「そうやな、一言で言うと合コンやな。そこで出会ってん」
そう話し始める晴輝の表情は真剣であった。裕樹も赤松も何故そこまで真顔になるのかが分からなかった。
「その合コンに出た時のあいつの表情がどこか暗くて、何かに怯えているような感じやったから、ちょっと気にはなっていたんや。そんで、LINE交換して連絡を取って、一度会おうってことになったんや。それで会って話を聞いてみたら、元カレから暴力を振るわれたっていうねんや」
晴輝がそこまで話したところで、ドアを開く音がした。来客のようである。
「いらっしゃいませ」
と慌てて、晴輝と赤松が声を上げる。客は男女2人組で、奥のテーブル席に座った。その様子を見ながら、裕樹は賄いを食べ終えた。そして、皿を洗い、裏口から外へ出ていった。

梅雨明けしたばかりの街を裕樹は自転車で駆け抜けた。どこか蒸し暑く、汗を身体中に感じた。ただ、汗をかいていたのは暑いからだけではなく、晴輝の話を聞いて動揺しているからということもある。動揺を打ち消すように自転車を一心不乱に漕いだ。それでも、美奈が元カレから暴力を受けていたという事実は彼に大きくのしかかった。
アパートに着いた裕樹は鞄を床に置くと、その場にへたり込んだ。そして、何故か分からないが、涙が出てきた。涙は止まることなく、溢れ出ている。その涙は恐怖心と嫉妬心と無力感とその他説明しきれない感情が一気にひっくり返されて、溢れてきたのかもしれない。
しばらく泣いただろうか、LINEの着信があった。誰だろうと携帯を見てみると、三輪悠里からのものだった。
「久しぶり、ちょっと相談したいことがあって、会えないかな?」

「で、今日はどうしたん?」
ファミレスでメニューを頼んだ裕樹は尋ねた。目の前には三輪悠里がいる。彼女とは初めて会ってから、たまにLINEのやり取りをするくらいで、サークルにも悠里が参加しなくなったので、お互いに会う機会はなかったのである。
「あの、とても頼みづらいんやけど、彼氏のふりをしてほしいねん」
「彼氏のふり・・・ってどういうこと?」
確かに至極失礼な話だ。しかし、裕樹は彼女の話をもう少し聞くことにした。
「実は、最近男の人に付きまとわれてるんよ。同じ大学の学生なんやけど、 向こうからナンパみたいに声をかけられて、あんまりにしつこいから1回だけお茶したのね。そしたら、キャンパスで出会う度に付きまとわれるようになっちゃって・・・」
ここまで静かに言ったところで、涙声になった。くすんと鼻をすする悠里を見て、裕樹は何もできない無力感に苛まれていた。ハンカチを渡すのが精一杯で、後は泣き止むのを待つしかなかった。頼んだ料理を運んできたバイトのウェイターが怪訝そうに2人のことを見ているように裕樹には思えた。

しばらく、悠里のすすり泣く声が聞こえた。ようやく泣き止んだくらいに、裕樹は尋ねた。
「分かった、ただちょっと聞きたいことがあるんやけど、学生課とか警察には相談した?」
「当たり前やないの!学生課に相談したし、あまり酷くなるようなら、警察にも通報するって。でも、それだけじゃ足りへんの。安心できる助けが必要なん」
「その助けが俺か」と言いたくなった。単純に寂しいだけかとも思った。一方で、美奈のことを思い出していた。かつて、彼氏に肉体的なものか、精神的なものかは分からないが、暴力を振るわれていた美奈。きっと悩み、苦しんできたに違いない。その時に現れたのがマスターなのだろう。最後の部分は裕樹の想像に過ぎないが、彼を動かすには事実かそうでないかは、どうでもいいことだった。
「分かった、彼氏のふりをしばらくするわ。で、何をしたらいい?そのストーカーみたいな奴に俺の存在を見せつければええんか?」
悠里はホッとしたような、安堵したような表情を見せた。
「うーん、しばらく一緒に行動してくれると助かるわ。とりあえず明日一日だけでもいいから」
明日はちょうど何も予定がなかったので、裕樹は「いいよ」と伝えた。悠里は明日、1科目だけ試験があるのだと言う。それに付き添えば良いのだ。

テーブルに運ばれてきた料理はすっかり冷めてしまったが、一連の話を終えると、空腹だったので裕樹はあっという間に平らげてしまった。一方の悠里はゆっくりマイペースで食べているので、その間にドリンクバーでコーラを飲んでいた。裕樹は悠里の変化に気づいた。ちょっとの間に、化粧っ気が増しているような気がした。ゴールデンウィークに会ったときはまだすっぴんに近い感じだったのが、今はチークもアイシャドウもバッチリとしている。
「それにしても、何で俺に頼んだん?こんなこと聞くの何やねんけど、もっと他に適任者がいそうなもんやけどな」
何となく化粧のことは聞きにくいので、とても遠回しに尋ねてみた。何の飾り気もない自分と釣り合うのかと。
「ううん、今は違うサークルに入ってるけど、一番繋がってるなって感じるのが、高田君って感じたから。他の男の人は割と逃げ腰なんよね」
他の男にはストーカー紛いの男のことを話したのだろうかと疑問に思った。それでも、「一番繋がってる」という言葉に悪い気はしなかった。釣り合いとかどうでもいいことのように思えてきた。
「そうなんや」
と一言呟いたっきり黙り込んでしまった。悠里はそんな裕樹の様子を見て、困惑の度を深めた。
「もしかしたら、変に捉えちゃったかな?」
悠里の胸に黒い雲がのしかかるように思えて、不安になった。

ファミレスを出てから、裕樹は悠里を家まで送っていくことにした。付きまとっている男は自宅生らしいので、この時間は付きまといようがないとは思うが何が起こるか分からない。ちょうど日が長くなっている時期だったので、7時過ぎでもまだ真っ暗と言った感じではなかった。5分くらい歩くと、悠里の住む学生マンションに着いた。
「今日はありがとう、とっても助かったわ」
「こちらこそ、大変なとこやけど、出てきてくれてありがとう。じゃ、また明日」
裕樹は自転車に乗って帰ろうとした。すると、
「ちょっと待って、うち寄っていかへん?」
と悠里が誘ってきた。それを聞いた瞬間に、裕樹は何とも言えない胸の高鳴りを感じた。今までになかったシチュエーションに彼は確実に動揺した。それと同時に、控えめに見えた悠里の見せる積極的な姿にギャップを感じ、戸惑いも感じた。
「あぁ、これから予定ないし、寄っていこうか」
裕樹は努めて冷静を装った。2人はお互いに胸の高鳴りを抑えながら、マンションの中に入っていく。悠里としても、裕樹を家に入れることは想定外だった。そんな自分の思いつきに彼女は身震いすら感じる程だった。
悠里が部屋のドアを開ける。きちんと整理されたワンルームの部屋には背丈程の本棚があり、小説やエッセイの類の本がびっしりと並んでいて、その一角がまるで図書館のようになっていた。そこ以外は全く飾り気のない部屋で、必要最低限の生活必需品が置いてあるだけだ。ある意味ではシンプル、取り方によっては殺風景と言ってもいい。
「どうぞ、座って。飲み物入れるから」
と言うと、
「大丈夫、食べたばっかりやし」
と遠慮しようとした裕樹を遮るように、悠里はペットボトルのお茶をコップに移してテーブルの上に置いた。
「三輪さんの部屋って、綺麗にしてて、すごいなって思うに。うちなんて、いきなり人を上げるなんて無理やもん」
裕樹は会話のネタを探していた。上手く会話に繋げられただろうかとヒヤヒヤしていた。
「そうかな、ありがとう。出来るだけ整理整頓はしっかりしようって思ってるから」
「すごいなぁ、毎日コロコロしてるみたいな感じかな?」
裕樹は部屋の片隅に置いてある粘着テープ式のクリーナーを指差して言った。悠里は少し顔を赤らめて
「毎日じゃないけど、コロコロしてる」
と言った。悠里からしたら、あまり見られたくないものだったかもしれない。そんなことはつゆ知らず、裕樹は次の会話のネタを目線で追いながら探した。すると、本棚の横にレコードのプレーヤーを見つけた。シンプルな部屋と図書館のような本棚に挟まれて、異質な存在感を放っていた。
「あれ、レコードのプレーヤーがある。珍しいね」
「うん、昭和歌謡をレコードで聴くのが好きやねん。やっぱり珍しい?」
悠里が先程より話に食いついてきたので、この話を広げていこうと思った。
「うーん、最近はレコードで音楽聴く人も増えてきてるみたいやけどね。昭和歌謡が好きな若者もある程度おるから、激レアな感じではないな」
「そうね、趣味の合う人はなかなか見つからへんね。付きまとってきてる男は昭和歌謡に食いついてきたから、しゃあなし1回だけお茶する羽目になってん」
「そうか、どこで聞きつけたんやろうな。謎やに。ところで、レコード聴いてみたい」
裕樹がそう言うと、悠里はゆっくり立ち上がり、レコードプレーヤーの置いてある台の下にあるレコードをガサゴソと取り出した。
「何がいい?山下達郎が多いけど、拓郎とかTHE ALFEEならあるよ」
「そうやね、山下達郎にしようかな」
「じゃあ、Ride on timeは知ってる?」
「うん、それなら知ってる。聞いてみたい」
お互いに前のめりになりながら、レコードプレーヤーに向かう。プレーヤーにレコードをセットし、回転させてから、針を落とす。悠里はここまでの作業を慣れた手付きで行っていった。一方の裕樹はレコードプレーヤーを触ったことがない。全ての過程を物珍しく眺めた。

部屋中に山下達郎の歌声が流れる。
「このレコードプレーヤーはどうしたん?買ったん?」
「これは大学に入るときにおじいちゃんに買ってもらってん。親はこんなん部屋が狭くなるだけやって言ったんやけど、一緒にレコードを聴いてたから。おじいちゃんは古い洋楽ばかり聴いてたから、洋楽もちょっとは聴くかな」
裕樹は感心しきりで悠里の話を聴いていた。最近の音楽を広く浅く聴くだけの彼にとって、悠里が話す音楽の話は新鮮に聞こえた。
「達郎終わったね、次はカーペンターズにしてもいい?」
ちょうど山下達郎の歌が終わった。針を上げて、レコードを入れ替える。今度はカレン・カーペンターの澄んだ歌声によって部屋が満たされた。
それからも、裕樹と悠里は長く語り合った。いや、正確には悠里の話を裕樹が聞くと言った方がいいかもしれない。気が付いたら、日付が変わっていた。裕樹はそのことに気づくと、
「長居してごめんね、そろそろ帰った方がいいよね」
と申し訳無さげに言った。悠里は残念そうに
「こっちのことは何も気にしなくてよかったのに」
と返した。心から言っているように思えた。
「じゃあ、また明日。9時に家に行けばいいんだよね」
と言って、裕樹は部屋を後にした。

裕樹は少し胸がドキドキしているように感じた。あくまで三輪悠里の彼氏のふりをするだけだ。そう割り切って、マンションから自転車を全速力で漕いでいった。それでも、胸のドキドキは消えなかった。自転車を漕いでいたからだけではなさそうだった。

不安

晩のうちに雨がざっと降ったのだろうか、外も部屋も蒸し暑い。窓から見える路面は一部が乾いていて、まだらに濡れている。日陰には水溜りが残っていそうだ。
裕樹は目を覚ますと、冷蔵庫を開け、お茶を飲んだ。それから着替えて、悠里の元へ行く。途中でコンビニに寄って、パンとコーヒーを買った。それらを飲んだり食べたりしながら、昨日のこと、正確には今日の午前0時過ぎのことを思い返していた。帰り道になぜ心臓がバクバクと高鳴ったのだろうかと振り返っても、上手く説明ができない。しかも、胸の高鳴りはあの時だけで、今日は何も起こっていない。少なくとも彼にはそう感じられた。悠里とは昨日、夜遅くまで一緒にいたというだけで、彼女に対して恋とか愛とかは感じられずにいた。

マンションの一室では、悠里が化粧を終えて裕樹が来るのを待っていた。彼女もまた昨日の晩のことを思っていた。
「彼氏のフリをしてほしい」
そう裕樹に頼んでしまったことを失礼に感じていた。それなのに、彼は自分の家まで送ってくれた。さらに言うと、自分の趣味にも強引に付き合わせてしまった。「レコードを聴きたい」と言ってきたのは裕樹だったが、あれもきっと合わせてくれたのだろう。試験の準備をしながら、そう考えていると玄関チャイムが鳴った。モニターを覗くと裕樹だった。どんな顔をして会えばいいのだろう、でもそういう風に迷っている間はなかった。

裕樹はチャイムを押してから、少し緊張してマンションの廊下で待った。しばらくするとドアが開いた。
「おはよう」
「おはよう、そしたら行こうか」
悠里はキチンと化粧をして、既に行く準備を万端にしていた。半袖のブラウスにジーンズ生地のロングスカートを着た彼女は白い肌を日光から守るためか、レースのカーディガンを手に持っていた。マンションから出ると、そのカーディガンを羽織って、自転車にまたがった。裕樹も自転車に乗って、2人一緒に悠里の通う大学のキャンパスへ向かっていった。

キャンパスに到着すると、2人は小走りで教室に向かった。と言っても、裕樹はこのキャンパスに初めて足を踏み入れるから、どこへ向かって走っているのか分からない。ひたすら悠里についていった。彼女は奥の方にある建物に入っていこうとした。
「ありがとう、ここまででええよ。教室入ったら友だちいるから」
「分かった、試験頑張ってな」
そう裕樹が言うと、悠里は手を振りながら、建物の中に吸い込まれるように入っていった。
1人になった裕樹はあてもなく、キャンパス内をぶらぶらと歩きまわった。辺りを見回すと、試験を受けてきたらしい学生がチラホラと見られた。その中で1人裕樹の方を睨むように見ている男がいることに気づいた。その男は身長が180センチくらいで、細身の体型をしている。短い髪に、細縁の眼鏡をかけている。さらに不思議なことに白いシャツに白いズボンを履いていた。見た感じは気弱そうで、奥手な感じを醸し出している。
「もしかして、ストーカーってあいつか?」
それを思い始めた瞬間、男から離れるべく歩き出していた。できるだけ、不自然にならないように振舞わなければならない。裕樹は必死に逃げ出したい衝動を抑えて、なるべく早く歩きだした。何度か振り返って、男がいなくなっていることを願ったが、相変わらず白ずくめの男は裕樹の視野に入ってきた。人の多いところへ行かなくては、と思った裕樹は人の多くいそうな学生生協を目指した。そうは言っても、初めて行くキャンパスなので迷子になりそうだった。徐々に心拍が速くなっていくのを感じた。10分ぐらい歩き回って、ようやく生協に辿り着いた。その頃には、額に汗が滲み出るくらいだった。
「あいつ撒けたかな?」
そう裕樹は呟いてみたが、白ずくめの男は先程と同じ距離でじっと彼の方を凝視していた。

「試験終わったよ」
悠里からLINEが来たのは昼前になった頃のことだった。急いで、試験会場になっている校舎を目指した。キャンパス内を歩き回ったおかげで、真っ直ぐに校舎に行くことができた。
悠里は女友だち数人と話をしていたが、裕樹の存在に気づくと、何かを話し、手を振りながら裕樹の方に向かっていった。
「ごめんね、気づくの遅くなっちゃって」
「ええねん、あの子らとは一緒にいなくて大丈夫?」
「うん、事情は説明してあるから」
それでも、女友だちに済まなそうな顔は隠しきれないようであった。
「そうか、ところで俺さっきからつけられてるみたいやねん」
そう言って、裕樹が指差す方向には先程まで白ずくめの男がいた。もうどこかに行ってしまって、姿は見えない。
「付きまとってきてるの、あいつやねん。ホンマに怖いんやけど」
悠里も分かっていたらしい。そして、悠里は裕樹の手を強く握った。裕樹もそれに呼応するように手を握り返した。

それから、2人は昼食を摂りに南草津駅まで向かった。2人とも用事がなければ、キャンパスからは離れたかった。
「どっか、この辺で美味しい店知っとる?」
「高田君、この辺に住んでるんとちゃうん?」
悠里は驚くような声を上げた。
「うん、けど飯は出来合いのものを買って食べるか、バイトの賄い飯で済ませるし。外食も京都で食べることが多いかな」
裕樹は本当にキャンパスの周りや駅前ににどんな店があるのかを知らなかった。当然、美味しい食べ物屋も知らない。せいぜい、入学直後にサークルの新歓コンパで駅前の安い居酒屋に行ったぐらいだ。こんな時にバイト先がランチなどしているといいのだが、生憎夕方からの営業しかしていない。
一方、悠里は駅前の店に割と詳しく、逆に京都の地理には詳しくないといった感じである。結局、悠里が女友だちとよく行くと言う駅前のカフェに入ることにした。
「ここのカレー、めっちゃおいしいから食べてみて。私は野菜カレーをよく食べるけどな」
悠里が勧めてくる。確かに店先のウェルカムボードには今日のおススメとして、野菜カレーが書かれていた。オープンテラスもあり、そこに3つばかり円形のテーブルが置かれていたが、どの席も埋まっていた。店の中も満席で、ほとんどが女子大生と思われる人ばかりだ。裕樹は場違いな感じもして居心地が悪く感じた。10分ぐらい待つと、テーブルが空き、裕樹と悠里は座ることができた。裕樹は勧められるままに野菜カレーを、悠里はパスタランチを頼んだ。
「今日は付き合ってくれてありがとう。何てお礼言っていいか…」
悠里が口を開いた。
「いや、ええんやに。でも、あいつがいつまた付きまとうか分からへんよな」
「うーん、そこなんよね」
と言ったっきり悠里は黙り込んでしまった。沈黙が続く間、裕樹は野菜カレーを食べ進めていた。具が大きくて、ブロッコリーや皮付きのままのジャガイモなどが沢山入っている。
「このカレー美味しいね、スパイスが程よく効いてて、いいね」
と話しかけても悠里は難しい顔をして、返事もない。何か怒らせたかなと不安になり、裕樹は次の会話のネタを探した。すると、いきなり
「ねえ、彼氏のフリなんやけど、もう少し続けてくれない?」
と悠里が言い出した。
「えっ、もう少しって、こっちは三輪さんの危機が去るまでなら、いつまででも。何なら危機が去っても、彼氏のフリをし続けるわ」
裕樹はあまりにもさらりと言ってしまった。
「危機が去っても、ってもしかして・・・」
悠里の瞳が潤むのが分かった。それを見て、裕樹は初めて気が付いた。
「えっ、何で泣きそうになってるん?もしかして、さっき『危機が去っても』って言ったもんでかな」
確かに可愛らしくて好感が持てる子だとは思っていたが、付き合うとかそういった気持ちはまだ持てずにいた。しかし、後には引き返せない。意識を悠里の顔に向けると、頬に伝うものがあった。
「ありがとう、不躾なことを軽く頼んじゃってごめんね。本当に嬉しい、ありがとう」
彼女にそう言われても、裕樹には実感が湧かない。まるで、全てが白昼夢のようだ。
「お、おう。ちゃんと付き合おうか?」
ドギマギしながら、そう言うのが関の山だった。
「うん、そうしよう」
悠里は喜びというよりは安堵に近い表情になった。そうかと思うと、パスタランチを嬉しそうに口にし始めた。

裕樹は夕方からバイトが入っていた。なので、カフェでゆっくりとした後は、それぞれ別行動をとることにした。自分の部屋に帰ってきて、改めて自分がさっきまでやってきたことを思い返してみた。
「何であんなことを言ってしまったんだろう」
彼自身でも驚くべきことだった。今まで、異性と付き合った経験はない。年相応の恋愛に関する憧れは裕樹も持ち合わせていたが、性急にそれを叶えたいとは思っていなかった。それなのに意に反して、悠里を過度に期待させてしまった。それは彼にとって大いなる恐怖であり、背徳であるような気がした。
昼食の後、裕樹と悠里は流れのままに初デートをどこにしようか話をした。悠里がスマホを片手に、
「そういえば、琵琶湖の花火大会があるなぁ。ちょっと先やけど、試験も終わってるし、行ってみようか?」
と機嫌良く話した。
「初めて行くからどんな感じか分からへんけど、きっと混むんやろうな」
と裕樹が言うと、
「この時期の花火大会はどこも混むよ。ねえ、行こうよー」
と悠里は猫なで声で言った。そうなると、裕樹は断れない。
「分かった。バイトのシフトはマスターに話しつけてみるわ」
そう言って、裕樹は水を飲んだ。その後、悠里は人目を憚らずにまた涙を流して喜んだ。
そこまで思い返すと、裕樹は気が重くなった。このまま、悠里を半ば騙すような状態でいいのかと考えてしまう。しかし、バイトの時間は迫っている。結局、結論らしきものを出せないままに、バイトへ向かうことになった。

バイトを終えて、家に帰ってきたのは日付が変わった午前1時のことだった。この日はサークルイベントの打ち上げで予約していた団体があって、とても忙しかった。マスターの門脇晴輝や赤松などもフル回転で対応していたが、とても追いつかない。裕樹も皿洗いだけでなく、ホールに回らないといけないくらいだった。ホール経験の浅い裕樹はミスも犯してしまい、色んな意味で疲れていたのだった。もうそのまま寝てしまおうと思い、携帯を最後にチェックしたところ、成宮からLINEが入っていた。
「明日、合コンなんやけど、メンバーが足りへんから、よかったら来てくれへん?」
送られた時間が22時38分だったから、恐らく今日の晩のことなのだろう。即座に断りを入れようとしたが、妙に成宮のことが懐かしく感じられ、起きていたらもう少しメッセージを送ってみようと思った。
「合コン行ってもええけど、こっちの相談に乗ってからやな」
多少偉そうではあるけど、こういう言い方にしないと悠里とか色んな方面に申し訳ないと思ったからだ。返信は割とすぐに返ってきた。
「相談って何や?手短にしてや」
時間が時間だからか、苛立っているように短い文面から伺えた。
「手短にできんかもしれん。俺は好きでもない女の子に告白してしまって、付き合うところまで来てる。でも、ちゃんと彼女のことを守ってあげられるか不安やもんで、付き合うのをやめようと思っとる。でも、告った以上は責任持たなあかんとも思ってる。どうしたらいい?」
裕樹はスマホから目を話すと、歯を磨いて電気を消して寝ようとした。すると、着信音が鳴った。
「おいおい、自慢かよ?笑。好きでもない女に声掛けることくらい男ならよくあるわ。好きと思ってから、アプローチしてたらいつま経っても付き合えねえよ。付き合い出してから、魅力を見つけるってこともあるんとちゃうか?せっかく付き合うってなったんやったら、女を泣かせるのは最低のことや。付き合うのやめようって言うのはやめとけ。きっと後悔する」
成宮からのメッセージを読み、裕樹は意外に思った。「女を泣かせるのは最低のことや」この一言をあの男に言われるとは思わなかった。成宮の性格上、女遊びをしまくって、泣かせまくっているイメージがあったから、面食らう感じになった。
「夜中に重い相談を受けてくれてありがとう。ありがたく、合コン行かせてもらうわ」
そう返事をした。あまり間を置かずに返信が来た。
「バーカ、彼女のことを気にする奴がいたら、空気が悪なるわ。合コンのことはいいから、彼女のことを気にしろ笑笑」
裕樹の気持ちが固まっていくのが、自分自身でも分かった。
「サンキュー、おかげで気持ちが楽になった。それじゃ、おやすみ」
裕樹はベッドに入り、そう返事を送ると、眠りに就いた。着信音が鳴ったが、無視して朝まで休むことができた。

翌朝、裕樹が起きて、LINEをチェックしていると、悠里からメッセージが届いていた。
「ごめん、お父さんがケガして入院しちゃって、今から実家に帰るね。花火大会までには戻ってくるから」
メッセージを読んでいて、裕樹は気が付いた。悠里の実家ってどこなんだろう?そういえば、今までお互いの実家の話はしてこなかったし、裕樹の方は喋り方が独特だったから、何となく三重出身というのは話していたが、悠里からはそんな話を聞いたことがない。メッセージが届いたのが早朝だったから、今はもう電車の中かもしれない。裕樹はメッセージを送った。
「おはよう、それは大変やに。花火大会のことは気にせずに、気を付けて帰ってな。お父さんのことが心配です」
裕樹は今日昼からの試験を終えると夏休みに入ることを思い出した。夏休みなのに、悠里がいない。心にぽっかりと穴が空いたみたいに思えた。

悠里が戻ってきたのは、花火大会前日の夕方のことだった。5日間実家に滞在していたことになる。帰ってきて、早々に裕樹にLINEを送った。すると、すぐに
「おかえり、無事帰ってこれてよかった。今から、そっち行っていい?疲れてたら、無理しなくていいけど」
と返事があった。
「いいよ、ちょうど夕ご飯どうしようと思ってたところだから、一緒に食べない?」
悠里もすぐに返事を送った。部屋は8月の暑さにむせ返りそうだったが、エアコンのスイッチを付けるのを忘れていた。気が付くと汗をじんわりとかいていた。
裕樹がやってきたのは、最後にLINEを送ってから30分くらい経ってからのことだった。玄関先に立つ裕樹もまた玉のような汗をかいていた。
「おかえり、お父さんの様子どうやった?」
「うん、ちょっと家で転んで、右腕を骨折したってだけ。全治2週間って言ってたから、しばらくしたらよくなると思うけど」
裕樹は部屋に通された。悠里は疲労している様子も見せず、冷たい麦茶を裕樹に出した。
「これお土産なんやけど、甘いもの大丈夫かな?」
「あぁ、大丈夫やけど」
玉椿という和菓子の箱が紙袋から出されて、裕樹の前に置かれた。箱の裏に書いてある産地を見てみると兵庫県姫路市の住所が書かれていた。箱を開けると、小さい菓子が敷き詰められていた。
「うわー、こんな上品なお菓子、あんまり食べたことないな」
裕樹は畏まって、紙に包まれた和菓子を食べた。
「うん、美味しいね」
裕樹がそう言うと、悠里はホッとした様子で
「よかった、合わなかったらどうしようと思ってたけど、よかった」
と言った。
「そう言うたら、悠里ちゃんの実家って姫路やったんやね」
裕樹はさりげなく話題を変えてみた。そして、さりげなく「悠里ちゃん」の下の名前で呼んでみた。悠里は気づくだろうか。
「うん、今はね。うちのお父さん、転勤が多かったから、あちこち行っててん。関西が多かったけど、九州にも行ったり、関東も行ってたわ」
自分とは違う世界に住んでいるのだなと思った。裕樹の家は親がどちらも地方公務員だから、転勤には縁がない。なので、悠里の話は新鮮に感じられた。
「それじゃ、そろそろ食べに行く?」
しばらく話をしてから、悠里が提案した。裕樹も同意し、いつものファミレスに食べに行った。しかし、悠里は裕樹が彼女を下の名前で呼んだことに触れなかった。そのことが彼には多少気がかりだった。

翌日、悠里の住むマンションに到着した裕樹は自転車を駐輪場に停め、インターホンを押した。部屋のドアが開くと、藍色の浴衣を着た悠里の姿があった。メイクも既に施されていて、今まで子どもが背伸びして化粧をしていたという感じはなく、佇まいは大人の女性になっていた。
「お待たせ、さっきまで化粧をしてたんやけど、おかしくないかな?」
悠里が最後まで言い切らないうちに
「いや、全然おかしくない。正直言って、とてもきれいやに」
と裕樹は言った。一方、裕樹は白くて、胸元に赤いロゴの入ったTシャツとジーンズだ。浴衣姿の悠里が予想以上に美しかったので、釣り合うかどうか不安になった。
「逆に俺の格好が浴衣に釣り合うかどうか、不安やわ」
と正直に言うと、悠里は
「裕樹君は、裕樹君らしくて格好いいよ。自信持ちなよ」
と言ってくれた。ここで自分を下の名前で呼んでくれたことが裕樹にとっては嬉しかった。そして、一刻も早く花火を一緒に見たいと思った。腕時計は午後5時5分を指していた。
「準備できたんやったら、行こうか?」
「うん、ちょっと待ってて、バッグ取ってくるから」
悠里は再び部屋に入っていき、しばらくすると、ブランド物のカバンを持って部屋から出てきた。鍵をかけると、駅へ向けて歩いていった。同じ歩幅で歩いていく2人はどちらからともなく、自然に手を繋いでいる。裕樹は胸が高鳴っているのを感じ、これが恋するということなのかなと感じた。悠里も顔を赤らめている。きっと、夕焼けのせいだけではないに違いない。

花火

手を繋いだまま駅まで歩いた2人は、券売機まで来てようやく手を離すことになった。悠里はICカードを持っていたが、裕樹は持っていなかったので、切符を買うことになったのだ。
「俺も電車に乗ることが多くなってきたから、カード要るかもな」
「うちの今日使ったら、貸してあげるわ」
悠里がそう言うと、
「いや、自分で買った方がええよ。悪いわ」
と裕樹は申し訳なさそうに言った。しかし、悠里はそんな裕樹の言葉を遮るように
「そんな時は甘えたらいいからね。どうせ、実家に帰る時くらいしか使わんし」
と言い、今すぐにでも渡したいように、カードを取り出した。
「うん、分かった。受け取るわ」
2人は改札に向かった。

改札からホームへ降りていく階段で、2人の手は再び繋がれることになった。時刻は5時半くらいだったが、夕方というには相応しくないくらい太陽が眩しい。ホームに立っている人は皆と言っていいくらい、手で目の辺りを隠している。この駅のホームにいるのは大体が花火大会に行く人らしく、浴衣姿の人もちらほら見かけた。2人と同じくらいの歳格好の人が多い。
やがて、駅に各駅停車が停まった。車内は明らかに花火大会に行くであろう乗客でごった返している。裕樹と悠里は離れないように、今までより強くお互いの手を握った。混雑した電車に慣れない2人にとって、決して居心地のいいものではなかった。それでも、一緒にいるだけで幸せに感じられた。

瀬田、石山と駅に停まるたびに乗客はさらに増えていく。膳所に着く頃には電車内はぎゅうぎゅう詰めの状態になった。膳所駅に到着し、ドアが開くと、一気に乗客が降りていく。まるで、水が溢れ出るようだった。2人も膳所駅のホームに人の流れのままに押し出されていった。裕樹はその時に足を踏まれてしまい、痛そうにしていた。悠里が心配そうに
「大丈夫?裕樹君」
と声をかけると、2人ともホームのベンチに座り込んだ。ホームから人が少なくなるまで待つことにしたのだ。
「足を踏まれたのが、悠里ちゃんやなくてよかったよ。下駄履いてて、足踏まれたら最悪やからね」
そんなことを言えるのも裕樹の気持ちに余裕ができてきたからである。靴と靴下を脱ぐと足の甲が赤くなっていた。ただ腫れてはいないから大したことはないだろう。ホームから人が捌けると、改札に向けて歩き出した。裕樹もしっかり歩いている。京都方面からの電車が止まって乗客が降りてくるのが見えた。やはり大勢降りてきた。2人は巻き込まれないように、急いで改札を出た。目指すのは、なぎさ公園。そこまでは少し歩かなくてはならない。悠里が下駄を履いていたので、自然と足取りがゆっくりとなる。
「なあ、何て悠里ちゃんのこと呼んだらいい?」
「『三輪さん』はちゃうよね。ちゃん付けも不自然な気がするし、もう悠里でいいよ。逆にこっちは高田君のこと何て呼んだらいい?」
「せやな、そういえば、下の名前で呼ばれたことないよな。せやもんで、下の名前で呼んでもいいよ」
裕樹はちょっと気取った感じで言った。
「下の名前何やったっけ?」
悠里が惚けて言うと、少しだけ怒った振りをして
「もう、裕樹やに、ゆうき!」
と語気を強めた。
「ごめんごめん。下の名前で呼ぶわ、裕樹君。話変わるけど、たまに出る三重弁がかわいいな。何かおっとりとしてると言うか」
急に話題を変えられて、裕樹は一瞬戸惑ったが、すぐに対応した。
「三重弁かわいいって、悠里に初めて言われた気がするけど。初対面の人は結構、喋るとかわいいと言われることが多いんやけどなぁ」
「最近、関西弁に矯正されてきてたんやけどなぁ。たまに出ると可愛く感じんねん」

そんな話をしながら、大津西武前の大通りまで来た。この辺りに来ると露店も多く出ていて、人通りも一際多くなった。そこからなぎさ通りに入っていく。繁華街らしく、大型のショッピングモールがあり、その敷地内にはスターバックスやFMラジオ局のサテライトスタジオが建っている。
「ちょっとお腹空いてきたね」
悠里が言うと、ちょうどいいタイミングで、裕樹の腹の虫が鳴った。
「ちょ、タイミング良すぎ」
悠里はそう言いながら、腹を抱えて笑った。釣られて裕樹も笑みを浮かべた。恥ずかしそうに、顔を赤らめながら。適当に店を選んで、列に並んだ。10分くらい待っただろうか、ようやくたこ焼きを買うことができた。
「8つあるから、半分ずつにしようか?」
と裕樹が提案すると、
「うち、そんなに食べれやんから、3つでええわ。5つ食べて」
そう悠里は返した。通りは人でごった返していたので、立ちながらたこ焼きを食べた。ソースにマヨネーズ、青のり、かつお節がかかったオーソドックスなたこ焼きはシンプルで美味しく感じられた。
「美味しい」
「うん、美味いな」
悠里も裕樹も口の中を熱さでハフハフさせながら、食べる。身長160センチくらいの悠里と175センチの裕樹が並んで立つと、身長差がよく分かる。裕樹が少し身を屈めて、たこ焼きを食べている。その姿が側から見ると、可愛らしくもあり、微笑ましくもあった。

なぎさ公園に近づくにつれて、人はますます多くなっていった。歩くのも難しくなるくらいだ。そんな中でも2人は手を繋いでいる。琵琶湖ホールを通り過ぎた時だった。悠里が
「ねえ、何か誰かに見られてるような気がするんやけど」
と言い出した。裕樹は辺りを見回すが、人がごちゃごちゃしていて、悠里をじっと見ている人物は見えない。
「うーん、こっちを見とる人はいやへんけどな」
「うそ、さっきから視線感じてるんよ。じっと見られるような視線を」
裕樹は悠里が付きまといに遭っているからだろうと思った。
「大丈夫!俺がおるから。何かあったら、また言うてや。今は花火を楽しもうや」
「ありがとう、何もないとええねんけど」
悠里の表情はどこか不安げだった。キョロキョロと視線が落ち着かず、時々立ち止まったり、後ろを振り返ったりした。裕樹はそのような悠里の姿を不安に思いながら、楽しい時間が脅かされることに苛立ちを感じていた。もちろん、悠里を守るという使命感が彼の心で優っていたので、苛立ちを前面に出すことはしなかったが。

花火の打ち上がる時間が近づいてきた。2人はいつの間にか、距離を縮め、悠里の腰のあたりに裕樹の手が回っていた。彼女を守る気持ちが強かったから、包み込んでしまいたかった。
やがて、琵琶湖の湖面から花火が打ち上がった。空いっぱいに花火が広がっていく。何発も何発も打ち上がっていく花火を眺めている間に、彼らの空間には他の誰も立ち入れないバリアができたように思えた。あっと言う間に散っていく花火と、2人の時間の永遠性、その対比は哲学書の1行に載るように裕樹には感じられた。
しかし、悠里は
「ごめん、早くここから出えへん?」
と言い出した。
「また視線を感じるん?」
「うん、裕樹君には申し訳ないけど、混んで混乱しないうちに、帰った方がいいと思うねん」
そう言う悠里は尋常ではない汗をかいていた。暑さや混雑のせいだけではなさそうだ。
「そうか、分かった。花火大会はいつでも行けるからな、駅へ戻ろう」
裕樹の顔にも無数の汗が浮かんでいた。2人は花火見物で混み合う中、人を掻き分けて、膳所駅の方へ戻っていった。人通りが少なくなってくると少し急ぎ足になり、駅近くに来ると悠里は小走りみたいな歩き方になった。駅には人が少なくて、行きの人の多さが嘘のようであった。悠里の様子を見てみると、息を荒くし、少しパニックになっているようだった。
「裕樹君、どうしよう。また追ってくるかもしれへん。どうしよう、どうしよう・・・」
その瞬間、裕樹の腕が自然と悠里の体を抱きしめていた。
「心配いらん。追ってくる奴がおったら、俺が守ったる。だから、心配せんでもええねん」
人目も憚らず、彼らは抱き合った。
「あ、ありがとう・・・。うち、何で言っていいか。せっかくの初デートやのに、ごめんね」
そう言うと、悠里は大粒の涙を零した。裕樹の腕に包まれた悠里が流した心からの涙だった。

南草津駅に戻った2人は、悠里の家でしばらく休んでいくことにした。悠里はもう落ち着いたのか、立ち止まることも、振り返って辺りを見回すこともしない。家までは歩いて数分なのだが、彼らにはとても長い時間に思えた。ようやく、マンションに到着し、悠里が部屋の鍵を開けると、ムッとした暑さが部屋中を覆っていた。悠里は
「うわぁ、暑いわ」
と言いながら、エアコンのリモコンでスイッチを入れようとした。その時、裕樹が彼女の腕を掴み、グッと彼の方へ体を引き寄せた。
「何してんの?暑いやん」
悠里はそういいつつも、嫌がる素振りを見せなかった。そのまま、2人は抱き合った。そうしていくうちに、悠里の足は力を失い、その場にへたり込んでいった。裕樹も悠里に付いて、床に座った。彼にとって、そのような体験は初めてだった。ドラマや漫画の中の世界が目の前に広がっているようだった。その世界に一歩ずつ足を踏み入れていった彼は、そっと彼女の唇に自分の唇を重ね合わせた。そして、悠里を力強く抱きしめた。もう二度と離さない決意を持って。悠里も彼をしっかりと抱き、唇を更に強く押し付けた。その時間はものの3分くらいだっただろうか。だが、彼らにはそれが1時間にも、2時間にも長く感じられた。

先に我に返ったのは悠里の方だった。体中に汗をかいていて、浴衣も少し濡れているくらいだ。唇を離すと、慌ててエアコンを探し、スイッチを入れた。
「何か暑いわ。ずっとエアコンかけてなかったから、汗書いてしもた。ちょっとシャワー浴びてくるわ。うちはもう大丈夫やから、適当に帰っていいよ」
そう言われると、裕樹は余計に帰りたくなくなっていった。ただちょっとコンビニには行っておきたい。彼は家を出て、コンビニに向かった。外の風は湿気ていて、ぬるかった。1人になるのは、どれくらいぶりだろうか?そう思えるくらい、濃厚な夕方から夜を過ごしてきた。
コンビニに着くと、2人分のスイーツとコーラをカゴの中に入れた。そして、売り場をウロウロしながら、コンドームもカゴに入れた。
悠里の家に戻ると、彼女はまだシャワーを浴びていた。買ってきたスイーツとコーラをテーブルの上に乗せ、コンドームは座布団の下に隠しておいた。そのうちに、悠里がシャワーを終えて、浴室から出てきた。上下グレーのシャツにハーフパンツを着ている。コンタクトを取ったのか、眼鏡姿だ。そんな彼女の姿を見たのは初めてだった。
「あれ、もしかして買ってきてくれたん?」
悠里の表情は意外と驚いたものではなかった。
「おお、腹減ったから、一緒に食べようと思って。お金なら別にええよ。こっちが勝手に買ってきたもんやし」
「そんなこと言わんの。一緒に食べんねんから、お金くらい出させて」
悠里は財布を持ってきて、
「レシート見せて」
と言った。裕樹がズボンのポケットからくしゃくしゃになったレシートを取り出す。「しまった、コンドーム買ったのがばれてしまう」そう思ったときには、もう遅かった。
「いやらし!」
悠里の表情が曇った。それきり、悠里は裕樹との会話を拒絶するかのように黙ってスイーツを食べ、コーラを飲んだ。裕樹も黙ったまま、同様にケーキを食べた。
「これ食べたら、帰るわ。長いこといて悪かったな」
裕樹が言い、玄関まで行くと、悠里は呟くように
「意気地なし」
と返した。「えっ」と驚くような表情をして裕樹は玄関に立ち尽くした。
「だから、うちに全部言わせる気?したいんでしょ?しようよ」
悠里は玄関に行くと、裕樹の腕を引っ張って、ベッドまで連れていった。そして、レコードの置いてある棚から何やら取り出し、プレーヤーに乗せて、針を落とした。裕樹の知らないジャズの曲だった。悠里はその後、裕樹の元へ向かうとベッドの中に潜り込んだ。それから2人は長い夜を空が白んでくるまで楽しんだのである。裕樹は勿論、悠里にとっても初めてのことだった。

彼らが目を覚ましたのは朝10時になってからのことだった。産まれたままの2人は互いに顔を見合わせて、口づけをした。2人とも服を着て、部屋を出た。
「ありがとうな、とっても楽しかった」
「こっちこそ、気持ちよかったわ」
悠里はそう言い、マンションの駐輪場まで見送りに来てくれた。
「じゃあな」
とだけ言って、裕樹は自転車を漕いでいった。彼の中で一層、悠里の存在が大きなものになっていった。朝だというのに、とても日差しがきついと感じた。

激動

10月を迎えて、キャンパスには賑わいが戻ってきていた。大学の夏休みは長い。恐らくはこの期間に大学教授は研究に没頭し、学生は旅行したり、勉強したりするのだろう。
裕樹はと言うと、こちらも忙しく夏休みを過ごしていたようである。と言っても、研究でも旅行でもなく、バイトと帰省とでスケジュールが埋まってしまった。あの花火デートの後、数日は浮遊感の中で過ごしていた。バイトも上の空みたいな感じで、だらしがないとマスターに叱られた。お盆を迎えると、久しぶりに実家に帰省した。帰省先で、高校時代の友達と会って遊んだり、ちょっとした同窓会があったので出席したりした。それでも、心の片隅には常に悠里のことがあった。懐かしい同級生と会っているときでも、胸をときめかすこともなく、時間は過ぎていく。
「彼女できた?」
と聞かれたら、冷静に
「一応な」
と答えるくらいだった。その様子を見て、周囲がからかう。裕樹にとっては、多少気になっていたが、大抵はどうでもよく思えた。

後期の授業が始まると、裕樹と悠里が会う機会は自然と減っていった。始まる前は、お互いの家に入り浸ったり、デートを重ねたりしていた。裕樹はサークルの旅行をお金が出せないからと、断ったくらいだった。しかし、お互いに講義には真面目に出席すると約束したので、お互いの家を行き来するのは週末くらいになっていった。
「付きまとっていたあの男はどうなってんの?」
悠里に聞くと、
「最近、すっかり見なくなっちゃって。学生課の人に聞いたら、厳重注意をして、次に付きまといをしたら、警察に通報するって脅したんやって。それから休学届を出したって言ってたわ」
と意気揚々とした言い方で応えた。軽くガッツポーズをしながら。

ある日曜日のことだった。悠里は必修科目である英語の予習をしていた。
「今日も授業の予習か?熱心やな」
裕樹は横槍を入れる訳ではなかったが、気になって言った。
「決めてん。うち、大学院に行って、研究者になりたい」
「何、急に張り切ってるん?」
「基礎ゼミの先生が素敵な人でいろいろ教えてもらってんの。だから、いい成績でうちの院に入るねん」
悠里も目標を持って頑張っている。その事実に裕樹は打ちのめされそうになった。今までそんなことは一言も口に出していなかったのだから。
「国際コミュニケーション学部やと、英語とか勉強するん?」
動揺を隠すように裕樹が言うと、
「英語は必修やし当たり前かな、あと中国語も選択必修やから勉強してる」
悠里は涼しい顔で返した。
「すごいなぁ、留学したことあるん?」
「うん、高二の夏休みにホームステイしたことはあるけど、コミュニケーションを取るのが大変やったわ」
「ふーん、ホームステイなんて考えたことなかったわ。やっぱり日本がいいよ、安全やし、平和やし」
ちょっと前にレコードプレーヤーから音が聞こえなくなったことに気づいた。裕樹はレコードの針を上げて、ドーナツ盤をジャケットの中にしまった。そして、それを棚に仕舞うと、新しいレコードを取り出した。サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」が出てきた。
「ねぇ、これ掛けていい?」
テーブルで勉強していた悠里はすぐに立ち上がって
「ちょっと、勝手に触らないでよ。掛けてあげるから、座ってて」
と言い、レコードに針を落とした。再び、テーブルに戻り、講義の予習に勤しむ悠里の姿を見て、裕樹も何かを見つけたいと思った。サザンの曲が流れ、それに合わせて口ずさむ裕樹の姿を見て、悠里は「呑気やな」と思わずにはいられなかった。

その晩、バイトを終えた裕樹は自分のこれからについて考えていた。
「俺は将来何がしたいんやろうか?」
そこに思いを馳せると、眠れなくなると思ったが、まあいいやと思い直し、幼い頃の夢を思い出そうとしていた。
「そういえば、小さい頃は電車の運転士になりたかったんやったな」
電車が身近にあった訳ではなかったが、幼い頃よく電車の図鑑を見ていたことを思い返す。いつの間に、そんな思いを忘れてしまったのだろうか?きっと学年が上がるに連れて少しずつ情熱が薄らいでいったのだろう。事実、高校に上がる頃には鉄道の「て」の字も言わなくなっていた。高校は電車通学だったが、楽しみを見出すことはなかったのである。
「じゃあ、今情熱を燃やせるものは何なんやろうか?」
裕樹の次に浮かんだ問いに対する答えはすぐには出てこなかった。大学での勉強も明確な目的があってやっているわけではない。ただ「大卒」という肩書きを得る為だけに勉強をしているようなものだ。その先の就活にしたって、いわゆる「意識高い系」みたいにインターンシップを考えている訳ではない。それにアナウンサーになろうと思えば、今からそれなりのアナウンサースクールに入っても、決して遅くはないらしい。いずれにしても、早く進路を決めなくては、この先の人生が不本意なものになりかねない。裕樹はそう思いながらもウトウトしてしまい、気が付けば朝を迎えていた。

朝方、涼しくなってきて、半袖では寒くなっていた。裕樹は長袖の上着を羽織って、キャンパスに向かった。この日は2講目からだったので、朝ものんびりとしたものだ。教室に入ると松浦の姿があった。
「おはよう」
裕樹が言うと、松浦も
「おはよう」
と返した。松浦は少し顔色が悪いように見えた。
「どうした?顔色悪いで」
単刀直入に聞いてみると、
「おぉ、試験が近いから、遅くまで勉強してて、寝不足」
そう多少の自負心を交えながら答えた。それこそ、徹夜で仕事した後のような自慢も含まれているように思えた。
「何の試験を受けるん?そんなに必死こいて」
「TOEICやで。英語できるようにならなきゃ、話にならんからね」
また英語、裕樹の頭は英語で埋め尽くされそうだった。
「英語ってそんなに大事やねんな。ところで、留学したことあるん?」
「何?急に。留学はしたことないけど、資格の必要性だけは感じてる。就活するんやったら、TOEICでいい点取ってるだけで、ある程度有利やからな」
就活、やはりそのキーワードが大学生活に横たわるのだ。裕樹は頭の中が真っ白になるように感じた。自分の頭の中には、将来的なビジョンなんてない。
「そうか、やっぱり皆、考えてるんやな」
裕樹がそう言った途端に、講師が入ってきたので、2人はお喋りを止めた。

講義は単調なものだった。本当にこの講義が人生の役に立つのだろうかと考えると、疑わしいものがあった。その時、ふと成宮の顔が頭に浮かんだ。裕樹も本当に意外な奴の顔が思い出されたと自分で驚いた。最近は講義にもほとんど顔を出さず、あまり連絡も取っていない。せいぜい、ノート貸してとかそのくらいだ。サークルで久保に会った時に聞いた話では、週3回くらいのペースで成宮主催の合コンを開いているのだという。久保もその合コンに誘われたらしいが、何となくきな臭さを感じたから断ったと笑いながら話していた。それにしても、成宮の生き方は悠里や松浦のそれとは正反対だ。後先何も考えず、その日の享楽の為に生きている。あのようになりたいとは思わないが、一方である種の憧れみたいなものを感じない訳ではなかった。それは筋が通っているというのだろうか、あるいはブレない生き方をしていると言い換えた方がいいのかもしれない。悠里もそう、松浦もそう、成宮でさえそう、何か自分の信念みたいなものを持ち合わせていて、その価値観に何の疑いもなく従って生きているのだ。
翻って自分を振り返ると、自分の信念はどこにあるのだろうか。全て流れやその場の空気に合わせて生きてきたような気がする。今まではそれに従って生きていれば、それで良かったのだろう。だが、これからはそうもいくまい。周りは自分の人生を自ら設計するべく動き出している。そうでなければ、生きていけない世の中になってしまっているのだから。
気が付いたら、2講の終わりを告げるチャイムが鳴り、学生たちが教室を出るところだった。松浦がキョトンとした顔で裕樹の方を見ている。
「どうしてん、ボーっとして。何かあったんやろ?」
いつの間にか、裕樹が心配される側に回っていたのであった。

松浦と別れて、裕樹は京都のキャンパスに向かうことにした。サークルの企画を手伝うことになっていたからだ。1人バスに乗ると、考えることに疲れたのか、すぐさま眠ってしまった。気が付いた頃には京都のキャンパスに着いていた。そこから市営バスを駆使して京大の吉田キャンパスに行く。もう慣れたものだ。毎回、京大に行く度にこの空間の独特な雰囲気に圧倒される。立て看板の多さや思想の主張の激しさは京大ならではのものだろう。
久保とは正門前で待ち合わせをしていた。
「お疲れさまです。あれ、スーツ着てるんですか?」
裕樹は久保が珍しくスーツを着ていることに驚いた。そして、彼は髪を黒く染めていた。
「ああ、就活に向けて、イベントに参加してきたんじゃ」
「そうですね、もうそんな時期なんですね。早いなぁ」
裕樹の嘆いている姿を見て、久保は
「時間の経つのは早いけん、お前も今のうちに準備しといた方がええぞ」
と返した。もしかしたら、裕樹の様子に自らの過去を見たのかもしれない。
「皆、そう言うんですね。僕の周りも、もう将来設計を固めてる奴が多くて、どうしようか悩んでるんです」
「どうしようか悩んでるって言うと・・・」
久保が言い淀んでいると、
「将来、何をしたいかが決まってないんですよ。今まで、何となくこうした方が楽に生きられるんじゃないかっていう基準で過ごしてきたので、自分で主体的に生きるってことがなかったんですよ」
と裕樹が付け加える。正門前は帰宅する学生でごった返していた。その学生の流れに杭となって抵抗しながら、立ち話をしている。
「うーん、そこまで気に病む必要はないんじゃないか?そりゃ、準備が早いに越したことはない。じゃけど、必要以上に情報に踊らされて、自分を見失うのは最も避けないかん。じゃけん、慌てず自分を見つめ直したらどうじゃ?」
「自分を見つめ直すって、どういうことをすればいいんですか?」
前のめりになって、聞き返した裕樹に久保は多少困惑気味だ。
「例えば、自分の好きなこととか嫌いなこと、将来したいこと、あとこれは向いてないと思うこと、それらを分析するんじゃ。これを自己分析と言って、就活前にキャリアセンターからやるように言われてるんじゃ」
裕樹は納得したように、頷いた。
「そうなんですか?それだけ大変なんですね、自己分析って。早速、やってみます。いろいろ相談を聞いてくれて、ありがとうございます」
「何じゃ、急に丁寧な物の言い方して。気持ち悪いのお」
久保は一瞬、裕樹から離れると、その視界に野村美奈が入ってきたのを見て、
「お疲れ、説明会どうじゃった?」
と助けを求めるように声をかけた。美奈もスーツを着ていて、髪も黒く染められていた。
「うん、さすがに疲れたわ。パンプスでずっと移動するのは大変やわ。これから面接とかずっとこんな感じかと思うとゾッとしちゃう」
2人は同じ合同就職説明会に参加していたようである。そして、美奈は裕樹の様子を見て、不思議そうな顔をしていた。

久保にアドバイスを受けて以来、裕樹は「自己分析ノート」なるものをつけ始めた。いろんな物事の好き嫌いをまとめてみようとしたものだが、始めてしばらくのうちは英語が苦手とか、人と話するのは苦ではないとか、そう言った分析を嬉々として行っていた。しかし、3日も経つとこんなことに意味があるのかと感じるようになってきた。ただ自分の嗜好を書き連ねているだけじゃないかと思うとノートを見返すのも馬鹿らしく、最後に見返しても、好きなものの項目はとても少なかった。これでは意味がないと思うと、
「まあ、どうにかなるか」
と呟いて、強引に不安な気持ちを振り払おうとした。
しばらくすると、悠里からLINEが送られてきた。悠里とのLINEのやり取りが最近減ってきたように感じていたので、今日はメッセージを楽しもうと思っていた。アプリを開くと
「今度の土日やけど、基礎ゼミの合宿があるから遊びに行けへんくなったわ(泣)ごめん」
とメッセージがあった。奈落の底に突き落とされた気分だった。自分が悩んでいる時に傍らに悠里がいない。寂しくて、
「熱心なゼミなんやな。俺よりゼミが大事か?」
と感情のままにメッセージを打ち、何も考えず送ってしまった。送った瞬間に我に返り、慌ててメッセージを消去しようとしたが、既読が付いてしまった。フォローのメッセージを送ろうとしたが、悠里からのメッセージが先に届いた。
「それってどういうことなん?ゼミより裕樹のことを優先しろってこと?」
その返信をする前に、
「そう考えてるんやったら、それはできへん。だって、今のうちの夢やから。自分の方を優先させたいんやったら、これ以上恋人としては付き合えへん。友だちに戻ろうよ」
そこまで言われると、最早裕樹に悠里を翻意させる切り札は残されていなかった。ただし、正直な気持ちはこの際吐露してしまいたい。
「正直言うと、最近悠里と自分の立場の違いに悩んでたんや。悠里にはやりたいことがあって、それにまっしぐらになっている。でも、俺にはそれがなくて、ふわふわ生きてる。その差が許せへんくて、悠里に追い付きたくて、焦ってあんなメールを送ってしまったんや。悠里の気持ちも考えやんとごめん」
とメッセージを作り、送った。また続けて、
「この先どうするかは会って話し合おうよ」
とのメッセージを送った。しかし、しばらく待ったが返事は来ない。既読にもならない。結局、その日のうちにメッセージの来ないまま、バイトに行き、帰ってきて、眠りにつくことになった。

メッセージが返ってきたのは、翌朝になってであった。
「会うなら今度の水曜はどう?」
裕樹は即座に返事を送りたかったが、待っていたと思われるのが嫌だったので、しばらく置いておくことにした。こんなちっちゃな心を持つ自分がしょうも無い存在に思えた。
一連の作業を終えると、テレビをつけた。朝のニュースショーを何気なく見ていると、京都を舞台にした特殊詐欺のことを報じていた。そこに映った名前に裕樹は目を釘付けにさせられた。
「成宮航平」
しかも、その後ろには
「容疑者」
という肩書きがついている。顔はパーカーに隠されて分からなかったが、体型からあの成宮なのだろうということが容易に想像できた。その後の報道によると、成宮は特殊詐欺の受け子として、コンビニのATMで金を下ろそうとしていたところを不審に思った店員に通報され、現行犯で逮捕されたということだった。成宮が合コンをほぼ毎日のように繰り返していくには資金が必要だ。その資金が詐欺で騙し取った金で賄われていたとは!裕樹はショックを隠すことができず、泣き崩れた。叱られた子どものように声を上げて泣いたのは、久しぶりだった。

再会

新年になって初めての講義は、窓の外で雪がちらつく中、行われた。大講堂での講義だったが、チラホラと空席が目立っている。裕樹の感覚からすると、おもしろい講義なのだが、雪の降る中、わざわざ森に囲まれたキャンパスまで行って講義を受ける義理はないと多くの学生が考えているようである。

チャイムが鳴って、講義が終わると、2講目は空いていたので裕樹は図書館に行くことにした。図書館に行けば、何かしらの本があるし、最悪眠ることもできる。彼は図書館の蔵書のコーナーで、本を探し始めた。メディア論の本に目が行き、何気なく数ページ読んでみる。裕樹はその本を手に椅子に座った。じっくり、メディア論の小難しい本を読み始めると、裕樹は頻りに後ろを気にした。
「あいつが急に声をかけてくれるかもしれない」
淡い期待は現実に押し潰された。成宮航平は特殊詐欺の片棒を担いで逮捕され、有罪判決を言い渡されたのだった。大学を退学処分となり、その消息は不明となってしまった。成宮の強引さによって、裕樹の学生生活が作り上げられたと言っても過言ではない。サークルに入ったのも、野村美奈と話できる仲になったのも、成宮の引き起こしたことだ。さらには三輪悠里と付き合うことができたのも、成宮がいたからなし得たことなのだ。それなのに、奴は裕樹の目の前から最悪の形で姿を消した。もう成宮に声をかけることすら、許されないのである。もう一度、あいつと話がしたい。
「成宮・・・なりみや」
気が付かない内に裕樹はそう呟いていた。図書館の司書に
「お静かに願えますか?」
と注意を受けて、ふっと我に返ることができた。周囲の刺すような視線を感じ、裕樹は図書館を出て、当てもなく歩き出した。歩くとは言っても、どこにいけばいいのか分からない。とりあえず学食に行くことにした。腹ごしらえをすれば、暇は潰せるかもしれない。

彼はカレーを頼んだ。すると、学食のおばちゃんはプラスチック製の皿にご飯をよそい、その上からカレーをこともなくかけた。極めて機械的な作業だった。そうして供給されたカレーをトレーに乗せ、レジに並ぶ。と言っても、11時半にもなっていないくらいなので、レジ待ちは1人しかいない。レジを済ませると、空いている席に座った。普段、2講が終わってからだと、満席で入れない時もあるくらいだが、今は半分くらいしか席が埋まっていないので、余裕を持って座席を確保することができた。
カレーを食べる。なんてことはない一般的なレトルトのカレーの味がする。強いて言うなら、もっとスパイスが効いていても良いのかもしれない。裕樹はカレーを食べながら思い出す。そういえば、三輪悠里と付き合い始めた日に食べた昼食もカレーだったことを。確か、カフェのおすすめの野菜カレーだったと思う。彼女とも別れて、いや友だちの状態に戻ってからはあまりメッセージを送らなくなっていた。また、向こうからもたまに
「元気?」
のような現状確認のメッセージが寄せられるくらいで、自分のことを話してはくれていない。

去年の10月末、裕樹と悠里はファミレスで話し合いをしていた。悠里がつきまといに遭っていたときに、恋人のフリをするよう、裕樹に持ちかけたあのファミレスである。夕方にやってきた2人はドリンクバーを頼んだ。注文してからしばらくは沈黙が続いた。それを破ったのは裕樹だった。
「飲み物何にする?俺入れてくるわ」
「いいの?じゃあ、ホットコーヒーにして。砂糖とミルクを付けてね」
「分かった」
短い会話であったが、微妙なぎこちなさの残る会話だ。お互いに遠慮しているような感じが滲み出ていた。悠里はコーヒーを待つ間、何とも落ち着かない様子で窓の外を眺めたり、指遊びをしたりしていた。そこにホットコーヒーを持った裕樹がやってきた。コーヒーとミルク、砂糖を置くと、今度は自分の飲み物を取りに行った。裕樹もコーヒーを飲みたかったようで、アイスコーヒーのブラックを持ってきた。
それから話すきっかけを探して、しばらく沈黙が続いた。水曜夕方のファミレスは徐々に家族連れの客で席が埋まっていった。不意に裕樹が
「最近何しとるん?相変わらず、授業の予習か?」
と先に尋ねた。
「最近って、ここ何日かのことやん。そうやね、授業の予習と留学を考えてるから、それに向けたちょっとした準備やね」
「留学か、俺にとっては夢のような話やな。それは夢を追いたいよな」
裕樹はそう前置きをして、
「自分の夢を俺の欲望と比べるような、身勝手なことをして、ごめん。とても、反省してる」
と謝罪を入れた。彼としては誤解を解きたいという思いがあったのであるが、悠里は納得しなかった。
「今更謝られても、普段高田君がいつでも構ってほしいっていうことが明らかになったんやから、これ以上付き合っても、ずっとそれに煩わされることになるやん。そんなん嫌」
そう言うと、不機嫌な表情を浮かべた。裕樹としては、機嫌を損ねてしまったことを悔いるよりも、「高田君」と友だち一般の呼び名で呼ばれたことのショックの方が大きかった。もう割り切っているのかと驚きが前に出てきそうであった。
「高田君は今日話し合いたいって言ってたけど、それはよりを戻せると思ってそう言うたん?」
なかなか話が続かない中、痺れを切らして悠里が言った。イライラした様子は見せなかったが、どこか早く話を終わらせてしまいたい意図が見て取れた。
「元どおりの関係に戻せるかどうかは自信がなかってん。ただ言ってしまったことを謝りたい、それだけやねん。よりを戻すかどうかは二の次やった」
裕樹が話をしているうちに、悠里の不機嫌さが増していくように思えた。
「そんなんで、よりが戻ると思ってんの?さっきから聞いてたら、自分のミスのリカバリーばっかりやん。私はよりを戻すつもりはないけど、あんたの態度見てたら全然煮え切らないからイライラしてくるんよね。どうしたいの?どうなりたいの?訳がわからへんねんけど」
悠里に詰め寄られた裕樹は困った様子で下を向く。しばらく考えて
「どうなりたいとか、そんなの分からへんよ。俺が原因なんやから、俺がどうしたいとか言うのはおこがましいような気がするんよな。せやもんで、君がしたいようにすれば良いよ」
と言った。悠里は怒りが沸点に達したらしく、顔を赤くした。そして、下を向いた。その前に見た彼女は瞳が潤んでいた。
「本当に無責任。自分でどうにかせなあかんのに、何なんその態度。そんなんやったら、元に戻るものも戻らんわ。別れよう、それで正解やわ」
涙声で話す悠里はやはり、下を向いたままだ。残ったコーヒーが徐々に冷めていくのが、ビジュアルで分かるようだった。
「うん、こうなった以上は恋人関係は続けられへん。ごめんな、こんなことしか言えなくて」
裕樹は絞り出すように声を出す。慎重に言葉を選んでいる様子だ。日はとっくに暮れて、窓の外は真っ暗になっている。そんな外の様子をチラ見した時だった。悠里はテーブルを叩いて、立ち上がった。
「もういい、そんな気持ちでいるんやったら、話し合いは終わりやね。さようなら」
そう言うと、財布から1000円札を出して、テーブルに叩きつけた。裕樹は追いかけることもできず、頭を抱えた。
「ああ、これで終わったんやな」
実感も湧かない中、彼はそう呟くしかなかった。もしかしたら、裕樹には三輪悠里という女性と付き合っていたという事実すら、今でも幻のことのように思っているのかもしれない。

学食を出て、裕樹は再びあてもなく歩き出した。それまで降っていた雪は止み、風が強く吹いていた。3講まで1時間近くあったが、どこでこの強風を凌ごうかと思案しているうちにあっという間に3講の時間になった。
3講目は基礎ゼミだった。成宮が捕まった当初はゼミ内にも動揺が広がっていたが、1か月もすると見た感じは穏やかさを取り戻していった。今日も基礎ゼミの行われる教室は無邪気な喋り声が響いている。チャイムが鳴ると、しばらくして田村先生がやってきて、学生による発表が始まった。相変わらず、このゼミは退屈だった。レジメに基づいて学生が発表し、先生がそれに対する論評を行う。それが1回につき2件行われるのである。何のための時間なんだろうと思って、裕樹は発表を聞いていた。
ゼミが終わると、裕樹は久しぶりに田村先生と話をしようと思った。田村先生とじっくり話するのは、春の花見以来だろうか。ゼミ生同士の仲が良いという訳でもないので、コンパを開くという訳でもない。ゼミが終わると田村先生を捕まえた。
「お疲れさまです。少し話を聞いていただきたいんですけど、今からお時間ありますか?」
田村先生は少し困ったような表情を見せた。
「うーん、15分くらいなら時間が取れるけど。これから出張に行かなきゃいかんから、すぐ済む用事ならええで」
「分かりました。10分程度で済むので、お願いします」
裕樹が懇願すると、田村先生は教授室まで案内してくれた。
「まあ、時間はないけど、これでも飲みな」
と言われると、田村先生から缶コーヒーを渡された。彼はひどくそわそわしている。きっと出張の準備をしなければならないのだろう。裕樹は急いで話を始めた。
「先生、成宮のことなんですが、僕はどうしてもあいつのことを忘れられないでいます。早く前に進みたいと思っているのですが、どうしたらいいですか?」
田村先生は再び困った表情になり、脚を組んだ。
「うーん、この話はもっと時間のある時にしてもらいたかったなあ。何せ、この場で語るには時間がなさすぎる」
そう言うと、缶コーヒーのタブを引き上げ、コーヒーを飲み出した。迷惑そうな口ぶりとは裏腹に困った様子は見せていない。
「一言だけ言えるのは、忘れてしまうには惜しいと言うことや。まだアドレスとか携帯番号を消した訳やないんやろ?」
「はい、まだ残っています」
「連絡はしたか?」
「いえ、逮捕されてから一度も」
「本気で忘れる気なら、一度コンタクトを取って、話をしてからの方がええ。そうしないと、きっと後悔する。ただ向こうがまだ携帯を持ってたらの話やけどな」
本気で連絡が取れると思っているのか、裕樹はあまりに非現実的な提案に言葉を失った。
「分かりました。一度、連絡を取ってみます」
そう絞り出すのが精一杯だった。田村先生からの「そろそろ出て行ってくれないか」というような視線を感じ、裕樹は教授室を出ることにした。手に缶コーヒーを持って。

裕樹は家に帰ると、田村先生の言ったことの裏を勘繰ろうとした。今までこちらから成宮に連絡を取るなどとは考えたこともなかったし、到底不可能だと自分で思い込んだ節がある。そこを敢えて突くということは、何かの突破口があるかもしれない。そう考えると裕樹は素直に成宮にLINEでも送ろうかという気持ちになった。その一方で、彼は有罪判決も受けていて、もしかしたら成宮に対する甘えになってしまうのではないかとも考えた。裕樹は初恋の人にそうするように、成宮にLINEを送るかどうか悩んで、迷った。そうしているうちに日を跨ぎ、いつの間にか裕樹はベッドにも入らず眠ってしまった。

結局、裕樹が成宮にメッセージを送ることはなかった。送らなかったというよりは送れなかったと言う方が相応しい。というのも、田村先生の話を聞いてから3日間、裕樹は悩んだ。結論としては、メッセージをとりあえず送ろうということにしたのである。そして、いざ送ろうとしたところ、
「このメンバーはいません」
とのメッセージが成宮のアイコンが置かれていたところにあった。
「LINEを退会したんや」
思わず声に出してしまった。
「確か、メールアドレスも交換したはず」
また独り言を発すると、携帯にショートメールを送ってみた。裕樹は今からいくらでも待とうと覚悟を決めた。まるで、いつまでも帰らない親を待つ子どものように。だが、すぐにメールが返ってきたかと思い、メールボックスを開くと、英文が書いてあった。英語は苦手だが、要するに
「この電話番号は使われていません」
ということが書かれていた。もう裕樹には成宮と繋がる手段は残されていない。その事実に直面し、いつでも繋がれるということは幻想に過ぎないと分かると、彼は全身の力が抜けたかのように床に仰向けになった。この日はバイトがあるので、いつまでもウダウダしていられない。裕樹は時間になると、バイトに向かっていった。

バイトが終わると、日付が変わっていた。そして、雨が降り出していた。バイト先では、明るく振る舞うことができた。こうして、自分の気持ちを押し殺して、感情を出さないようになれたのは、ここ半年くらいのことだ。だから、バイトという大義名分が失われると後はもぬけの殻みたいになってしまう。帰り道を押し黙りながら、アパートまでたどり着いた。玄関の鍵を開けようとすると、
「よお、久しぶりやな」
と声がした。裕樹はハッとさせられた。その声に聞き覚えがあったからだ。だが、それは一瞬のことで、その声を無視して家に入ろうとした。
「待ってくれ、俺や」
声の主は尚も自身の存在を認めてもらおうと必死になる。ドアのノブを持って、閉めるのを阻止しようとする。
「俺や、成宮や」
ドアを閉めようとする力が一気に弱まった。
「嘘だろ、成宮か?」
裕樹は玄関から外へ出て、驚いた。そこには傘もささず、濡れた成宮の姿があった。冬に不似合いな冷たい雨は一層、強く降り始めていた。

歩み

目の前に成宮がいる。その事実は裕樹にとってはあまりにも急で、未確認生物に遭遇するくらい信じられないことだった。雨はより一層強さを増している。地面に叩きつける音がそこら中に響きわたる。
「今更、何の用やねん?詐欺なんかに手を染めやがって、もうお前のことは信じんからな」
「やろうな。今会ったところで、罵詈雑言を言われるのがオチやと思うわ」
成宮は不敵な笑みを浮かべながら話した。裕樹にとっては、その言葉も自分を傷つけるように感じられたので、
「何で会いに来てん?そもそも、どうしてここの住所を知ったんや?」
と尋ねること以外に自分を守る術を持てなかった。
「何で知ったかは、この際どうでもええねん。俺はどうしても、お前に伝えたいことがあるんや」
伝えたいこと、それを持ち合わせているのは裕樹も同じである。だが、裕樹はそれを言うのを躊躇った。というよりかは、成宮の雰囲気に圧倒されて、言えなかったという方が正確かもしれない。成宮は頭を丸め、服のセンスも地味なものになっていたが、有無を言わせぬオーラを纏っていた。
「何なん。伝えるなら、早くしてくれ」
「そう急かすなよ。せっかく久しぶりに再会したのに、ゆっくり話くらいさせてくれよ」
どういうつもりなのだろうか。裕樹の中に情が湧いてくるのを感じた。情は抑えなければ。そう思えば思うほど、彼は成宮を許してしまいそうになる。
「悪いけど、明日も用事あるんや。さっさと言うこと言うてくれ」
そう言うとさっきまで笑顔だった成宮の顔が硬くなった。
「そうか、じゃあ手短に済ませようか」
「ああ、そうしてくれ」
裕樹も表情を一層厳しくする。
「別れを言いに来た」
深夜なのに、成宮が雨音でかき消せないくらいの大きな声で言った。
「アホか、近所迷惑やねん」
慌てて、成宮の口を押さえた裕樹の目は潤んでいた。
「悪い、でも高田にはどうしても別れることを伝えたくてな。実は、九州に行くことになったんや」
「九州・・・」
唐突なような気もしたが、犯罪の片棒を担いだ男だから、別の土地でやり直すのも考えられると裕樹は感じていた。それにしても、遠い場所だ。
「熊本に親戚がいて、そこで人生をやり直すことになった。もう合コンはできへんけど、ちょうど良かったわ。そろそろ飽きてきた頃やったからな」
悪びれる様子なく成宮は言った。合コンに飽きたというのも、単なる強がりではなく心から言ってるような口調だった。
「成宮、もう分かったわ、反省しろ。それだけや。こっちもちょうどお前とオサラバしようと思ってたところやったからな」
「そうやな、詐欺に手を貸したから、その点は反省してる。親戚の仕事手伝って、頭を冷やしてくるわ」
真夜中に2人の男の小声が響く。成宮は極めて落ち着いて、裕樹は強がりを込めて話をしている。
「罪の反省は当たり前やろ。俺らの前から、何も言わずに消えたことを反省しろよ」
と言うと裕樹は言葉を選ぶように黙り込んだ。そして、
「寂しかったんやで」
と一言呟いた。その一言を最後に、裕樹は何も言わず、成宮も黙り込んでしまった。きっとその沈黙の間が、お互いにとって、世界一むず痒くて、じれったい時間だったのだろう。成宮も裕樹も落ち着かなくなり、視線をあちこちに向けていた。
「すまんかった。本当にすまなかった、本当に・・・」
成宮はそう言うと、言葉を詰まらせた。彼の瞳は蛍光灯の光に照らされて、潤みを増していた。そして、頭を下げ、その額を地面に擦り付けた。
「もういい、分かったから。早く目の前から消えてくれ」
裕樹は土下座までして謝る成宮に戸惑いながらも、我に返って言い放った。それでも、成宮は土下座を止めない。そんな彼を切って捨てるしかない。そう判断した裕樹は部屋の中へ消えていった。しばらく、玄関のドアに耳を当て、成宮が去ってくれるのを待った。ドアの冷たさが耳から全身まで染み渡ってくるようだ。しばらく、不気味な程に雨音以外、何も物音がしなかった。30分くらい経っただろうか、雨音に紛れて足音が聞こえた。そして、その足音は遠ざかっていく。車のドアを開く音がして、続けてエンジンの音、車を発進させるときのタイヤの音が耳に入ってきた。
成宮が遠くに行くのを確認した裕樹はばたりと床に崩れ落ちた。泣きたくなる気持ちを抑え込み、立ち上がろうとするが、上手く起立することができない。
「もう、ホンマに成宮には会えへんねんな」
そう呟くと、抑圧していた感情がどっと溢れ出た。成宮の裏切りだけではない、三輪悠里との別れ、明確な目標を持つ周囲に対する羨望・・・それらが複雑に絡み合って、裕樹の中でぐるぐると渦巻き、一気に吐き出された。その晩はずっと止まずに雨が降り続いた。まるで、涙雨のようだった。

成宮との別れからしばらく経ち、桜の木に蕾がたくさん見られるようになってきた。たまに訪れるキャンパスは新入生を迎えるような雰囲気に包まれている。
この頃の裕樹はというと、バイトとサークル活動に忙しかった。サークル活動の方は新入生を迎え入れるための準備に追われていた。宣伝ビラの制作、新歓イベントの打ち合わせなど、やることは山ほどある。それに追われて、成宮のことも、三輪悠里との別れも思い出す余裕がない。それが裕樹にとって一番の薬かもしれない。

サークルの新歓準備の合間を縫って、裕樹はバイトにも行っていた。この頃は卒業生の送迎会が多く行われていて、こちらも目も回るような忙しさだった。そんな日が何日も続くと、雑談などする余裕もなくなってくる。だが、4月が近づいてくると、徐々に送迎会が少なくなってくる。マスターの門脇晴輝やバイト仲間たちと雑談をする機会も増えてきた。
「マスター、最近面接行ってるんですけど、なかなか上の段階まで行けないんすよね。いろいろ工夫してるんですけどねー」
就活中の赤松がこぼした。彼は就活に専念するためか、シフトに入るのも週一ペースくらいになっていた。
「アカも大変だな。インターンも行って、頑張ってたんやけどな・・・。現実は厳しいよな。まあ、俺は就活みたいなことはしてたけど、そこまでまともに本気出してやってはなかったから、あんまりいいアドバイスはできへんな」
「マスターはいいですよね、自分の城構えてるんやから。尊敬しますよ、ホント。俺みたいな才能も能力もない奴は、就職するにも頭下げて、面接受けて、面接官に媚び売らなきゃいけないんですよ」
店の片付けしながら、赤松が自分を卑下して言った。話を聞いていると、どうやら面接で落とされることが多く、かなりの会社を受けているのだという。
「裕樹、お前も今のうちにインターン受けたり、資格取ったりしとけよ。会社は意識高い系が好きやからな」
赤松は皮肉混じりに裕樹に向けて話す。今度はマスターが興味津々に尋ねる
「裕樹は何かしたいこととかあるんか?あるんやったら、早いうちに準備しておくに越したことはない」
裕樹は少し返答に困りながら、
「そうっすね、今は何したいかっていうのが特にないんですよ。将来のことを考えろとは言われるんですけど、今を生きるので精一杯って感じなんで」
と返した。裕樹は皿を洗いながら、自分の将来に思いを馳せた。そして、自分の思いをぶちまけようと決意した。
「自分の周りの人がみんな明確な目標を持って、自分の道を進んでいってるんですよ。1年のうちから、就活のことを考えて、資格取るのに必死になって勉強してる奴もいます。元カノは海外に留学して、大学院に行くんやって言ってます。それやのに、俺は夢もなりたい物もなくて、情けないなぁって思います」
「うーん、俺も今の裕樹くらいの頃は、何も考えやんとフラッと生きてたわ。それでも、何とか生きていけてるから、慌ててこうなりたいって見つけることもないんちゃうかな?」
マスターがカウンターから声をかける。閉店準備もひと段落ついたようだった。
「でも、さっき『準備は早くしておいた方がいい』って言ってたじゃないっすか。あんまりのんびりとしてられないなあって思って・・・」

「いや、でもな」
そうマスターが言いかけた時、シャッターを閉めようとしていた入り口から、美奈の姿が見えた。そのまま、店に入ってきてくれた。
「お疲れ、何か手伝うことない?」
と美奈が言うと、
「ああ、もう閉店の準備は一通り終わったし、大丈夫。それよりも就活で疲れてるやろう。ちょっと休んでいきな」
マスターがペットボトル入りのコーラを美奈に差し出した。すると、すかさず赤松が
「いいなぁ、仲が良くて。ところで、美奈ちゃん、就活どう?」
と茶々を入れつつ、尋ねた。
「面接?苦戦してるよ。この間なんか、面接官に『将来子どもを産みたいと思ってますか』って聞かれたんよ。そんなのこっちの勝手やろって感じ。あんな会社はこっちから願い下げやわ」
美奈は怒りを込めて話した。その話を聞いていた裕樹は会社に入るのも一苦労なんだと思った。営業を終了し、シャッターを閉めた店のカウンターに美奈が座り、それ越しにマスターと裕樹、それに赤松が立っている。
「ふうん、いろいろ大変やな。でも、美奈ちゃんは就活に失敗しても、ここって言う堅い就職先があるもんなぁ」
そう赤松が言うと、美奈は笑いながら
「赤松君、それってセクハラとちゃう?私たち、まだ結婚するっていう感じちゃうし」
と返した。笑ってはいたが、美奈の目の奥には軽い怒りのようなものが見えていた。
「アカ、こいつにもやりたいことがあるからな、今のところは、店を一緒にやろうとは考えてへんねん」
マスターが少し真面目に美奈の言葉を付け足したので、赤松は
「ごめん、言い過ぎた」
と返すのが精一杯になってしまった。しばらく沈黙が続いた後、裕樹が
「どうして、マスターは店を開こうと思ったんすか?さっきも就活をまともにしなかったって言ってましたよね?」
と言った。
「うーん、そうやな。一言で言うと、組織に縛られて生きるのが嫌やったっていうのが大きいかな。だから就活はまともにしなかったし、親の手前、一応はしたけど、就職する気はさらさらなかったわ」
「そうなんですか。マスターも自分の意思を持ってたんすね。でも、今の自分にはこれっていうやりたいことがなくて、さっきも言ったんですけど、結構焦ってて。どうしたらいいんだろうって」
さっきの真面目な返しを引きずってか、マスターは裕樹に対して真剣に返答をした。
「周りのことなんか気にすんなよ。まあ、身近にそういう人がいたら、どうしても気になってしまうんやろうけど。それでも、自分の生き方を決めるのは自分やからな。自分の中のブレない軸は自分のペースで作っていくしかない」
いつになく真剣に裕樹に対していたので、少し怖さも感じていた。美奈もマスターに加勢した。
「私もやりたいことを見つけられへんくて、悩んでた時期もあったわ。でも、今のサークルに入ってたから、観光とか旅行に興味が出て、今に至ってるってわけ。高田君も焦らなくてもいいよ。ただ、細かいことにも気をつけて見てほしいねん。どこに興味が転がってるから分からんで」
2人にそう言われると、裕樹の中に何か余裕のような物が生まれてきたような気がした。今まで焦ってばかりで何もできていないのかもしれない。
「マスターや美奈さんの言うことはよく分かりました。僕が入学してきた時に自分の個性が分からなくて、悩んでたんですよね。だから、それにも似ているのかなって思ったんですよ」
「個性?」
一堂に首を傾げた。
「そうなんです。そんな時に、凄く個性的な生き方をする友だちと出会って。そいつは『学生になったら、合コンするんだ』って言ってて、講義にも出ないで、ずっと遊んでたんですよね。僕は不思議とそんな生き方に憧れみたいなものを感じたんです。何かこう、何物にも縛られずに自由を謳歌している感じが個性を発揮しているなと思ったんです」
マスターは意外だという顔をした。
「ずっと裕樹は真面目な奴やと思ってたけど、そう思っていたとはな。ただ、俺はその友だちの生き方が特別個性的だとは思えへんな」
「どうしてですか?あんな破天荒な学生は他にはいませんよ。みんなやたらと真面目腐ってて、面白くないんですよ」
裕樹は自分の胸の中に溜まっていた思いを全て話し、疑問をぶつけた。すると、マスターは
「直接会った訳とちゃうから、何とも言われへんけど、その友だちも個性的になりたいと思って、合コン三昧の生活をしていたんじゃないと思うねん。自分らしい生き方をしているから、個性的に見えるんとちゃうんかな」
そう言うとカウンター越しに、優しい眼差しを向けた。裕樹の厳しかった顔の表情も幾分と和らいでいった。
「みんな真面目腐ってるって言ってるけど、それを選んでいるのは最終的には自分の意思やと思うよ。それを面白くないって決め付けるのは、他の人への冒瀆やと思う。せやったら、自分は面白い生き方をしてるんかって聞かれたらどうや?」
マスターにそのように言われると、裕樹は何も言い返せず、
「それは大して面白い生き方してないですけど」
と呟くのが精一杯だった。
「せやったら、面白い生き方を目指すのが個性的な生き方っていうことに繋がってくるんとちゃうんかな?個性っていうのは見せびらかすものじゃなくて、常に自分に付いてくるもんとちゃうかと思ってるけど」
マスターのダメ押しに完全に裕樹は骨抜きになった。マスターは付け加えて
「あかんわ、人間年取ったら説教臭くなってしまうわ。裕樹、ごめんな。さあ、店閉めるぞ」
と言った。
「ありがとうございます」
そうマスターと残って話を聞いてくれた美奈、赤松に礼を言うと、火の元の確認をマスターと一緒に行った。そうして、戸締りされた店を自転車で後にした。

4月に入った。大学は新しい学生を受け入れ、キャンパスには初々しい顔が溢れた。裕樹は大学2年生として、新歓活動に余念がない。今日は入学式を終えた新入生にビラを配布している。
「SNS全盛の時代にビラかよ」
と愚痴をこぼしつつ、その顔は懸命さで溢れていた。個性をどうしたら発揮できるかを考えることもなくなった。
周りに近況を聞くと、松浦は資格取得の為に予備校に通うことにしたと言う。三輪悠里は2年の夏からオーストラリアへの留学が決まり、休学することになったと聞いた。でも、裕樹はもう焦らない。自分らしい生き方を求め、やりたいことはできる限りやりたい。今、そんな気持ちでサークルのビラを必死になって配っている。

没個性

お読みいただきありがとうございました。

没個性

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更新日
登録日 2019-04-08

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