畢の話

 殤鬼(しょうき)とは、横死者の魂が邪精を吸い変貌した悪しき霊のことを指す。死体のままに徘徊し、害された生者は同じくその身を殤鬼に変じると云う。物の本にはこれを滅するに法士が畢(ひつ)を用いたとも記されるが、それが如何なる術であったかは詳しく残されていない。

 呉の赤烏四年の頃、一人の若者が楊州の山路に馬を急がせていた。時節は冬に近く、既に数十里を駆けた人馬は共に息を荒く煙らせ、やがて幾つめかの山稜を越えるや脚を緩めた。脇の斜面下には薄墨色の川筋が見え、若者はこの畔へ馬を寄せて鞍を下りる。
 膝を着き夢中になって水をすくう横で馬も鼻を浸し、辺りは鳥のさえずりもなく流水の音の響くばかりだったが、しばらくして顔を上げると、視界の隅の白いものに気が付いた。
 見れば、左に離れていつの間にか娘が一人、川面を向いて立っている。白く光る肌に、薄桃の長衣に朱帯を巻いた、およそ深山にふさわしからぬ姿にさては妖物かと怪しみ、若者は懐剣に手を添え立ち上がった。
 察したように娘の頭が動き、途端、若者の耳より一切の音が失せた。歳の頃十四、五と見られるその顔は、例えようもなく美しかった。
「何者……」
 動揺にかすれた男の声に、娘は瞼の隙を細めて、艶なる笑みを両袖で覆う。それは実に幼い仕草であったが、若者は何故か言い知れぬ妖しさを覚え、見据え来る瞳の光にどっと背を濡らし、思わず剣を抜きかける。
「怪しい者ではございません」
 声音は涼やかであったが、しかし気圧されるように下がった肩が馬にぶつかる。背後で低く鳴らされた愛馬の息に、若者は少しく我を取り戻した。
「……このような山奥に女一人、山怪の類でなければ何者か?」
「名は朱蘭と申します。故あって径州より嘉越へ、あれなる者と旅をしております」
 紅梅の刺繍に彩られた袖の先、指し示されたのは若者の辿って来た道だったが、今はそこに白馬を繋いだ小豆塗りの四輪馬車が置かれ、傍には影のような長身が見えていた。顎鬚を黒く垂らし、冠と墨染めの衣姿に道家の者と見るや、若者は顔色を変え、飛ぶように駆けてはその前に跪く。
「道士様にぜひとも助言願いたいことがあります。どうか、私の村まで来ては頂けませんでしょうか……」
 声には深い悲痛の色があり、応えた道士の面差しは穏やかであった。

 この頃、呉帝国創建より十二年、太子の急逝に端を発して呉王の采配に明らかな狂いが生じ始めていた。朝内には不振の声が日増しに高まり、これを王は酷吏を用い厳しく取り締まらせたが、重圧は臣下の反意を著しくしたばかりで、継承の派閥闘争と併せて疲弊の日々が続いていた。しかし国家衰亡の兆を嘆くのは朝臣だけに留まらない。
廃頽し行く国を象徴するかのように、領土を様々な災厄が席捲し始めたのである。変事は、西に旱魃の飢饉が生ずれば、東を長雨による出水が襲うという有様で、中でも人々の心を深く暗澹させたのは、悪鬼・幽怪のもたらしめる人知及ばぬ脅威の数々であった。
 さて若者に先導され、娘の操る馬車が麓の門を潜ったのは夕闇が落ちかけた頃である。
 活気なく、門戸を閉じた家々は暗然とした軒を連ね、これらの影を踏み行く車輪の響きにも顔を覗かせる者がない。やがて若者は簡素な屋舎の前で馬を下り、ここへ客人を招いた。
 屋内には村の代表達による円座の席が設けられており、報せを受け、古老は道士らを歓迎すると、静かに事情を語り始める。
「これより東方二百里にそびえます庸嶺山には、かつて都から戦へ向かうのに用いられた坑道がございました。しかしあるとき楊度(ようたく)なる将がここを抜けようとした際、同胞の裏切りに遭って出入口を塞がれてしまったのです」
 秦代の頃に活躍した武将の話である。将軍楊度は勇猛でその名を馳せていたが、一方ではその余りに傲然とした気質に眉をひそめる者も多く、ある戦へ出向く折、上臣を侮蔑するかのような言葉を吐いたのが災いしたらしい。勝戦に揚々引き上げる帰途、恥辱を受けた臣の姦計によって将軍以下五十余名の者が山中へ生き埋めにされた。それから数百年の経過した今になり、件の山膚が地鳴りに崩れるや、再び開いた洞穴から在り得ぬ事に、錆びた鎧に身固めた骸の兵が這い出てきたという。
「殤鬼と化していたか」
 憂いを含んだ道士の声に、老人は頷くと、
「天意離れれば国衰え、果ては鬼魅生ずると申しますれば、おそらく昨今の政乱に応じた怪異災象が地の気を乱し、屍兵をも呼び起こしたのでございましょう。魔性と化した楊将軍は、死者の軍勢を率いて人を襲うようになったのです。この手に掛かった者もまた殤鬼となり果てて、その数は今や千にも増す勢いと聞いております……」
 話者の声が静かになると、座の視線は客人に向けられた。長と名乗った壮年らしき道士は、豊かに伸びた顎鬚の前で腕を組み泰然と眼を伏せたままでいる。病でも抱えているのか、灯りに浮かんだ肌はどこか褪せて見えたが、しかし彫り深く強く締まった面構えは、壇前で儀文を読み上げるよりも、どちらかといえば馬上で檄を飛ばす武人の勇を忍ばせるものがある。
 その横の朱蘭なる娘は道家の弟子と見られた。雪の肌に眉目のはっきり黒映えした、仙女の如き鮮やかな美貌にはだれもが息を呑んだが、話の最中、娘は退屈を隠しもせず、長爪を気にしたり、牡丹の髪飾りをいじくったり、時折は欠伸をかみ殺してまでいたが、
「それで、頼みたい事ってなんでしょう?」
 黙したままの道士に焦れたらしく、先んじて口を切る。
 村は今二つに割れていた。殤鬼は庸嶺山より発して真っ直ぐ西へ向かっている。生前の意志が都へ還らせようとするのか、あるいは計略を受けた怨みによるものか、とにかく進む先に集落があれば人を襲い破壊を尽くして行く有様で、ひと月と経たずこの地へ現れるのは明らかであるらしい。
 あとは居を捨てて逃げるか、留まり策を講じるかのどちらかであったが、多くは村を出る事に賛同した。しかし、老親や病の者を抱えた家は容易に頷けず、道士を招いた若者もその一人で、されば消災度厄を司る道家の意見を訊き、その上で身の振りを決したいというのが頼みの旨であった。
 これを受けて道士は眼を開き、まず周辺の地理を尋ねると、次に西方にあるという村の事を聞いた。しかしその村は鬼の襲来を待たずして飢饉によって滅びたと、古老は空しく首を振る。こことても僅かな蓄えと狩猟によって食い繋いでいるのが現状で、今住む場所を奪われては後に生きる道が無いと嘆く。
「委細承知致しました。些か考えがあります故、明朝件の村へ出立することに致します。つきましては、先の決断はこの帰還を待ってより下して頂きたく」
 確たる誠意の声に、一同は深く道士に頭を下げた。
 しかしその横からは「わきまえて下さいましな、借りものの身で――」と、不服にささやく娘の言が聞こえて来ていた。

 翌朝早く、村より二十名程の丈夫を連れて馬車は西へ発つ。また残った者達には矢と剣の製作が命じられた。矢は桑の枝を削り矢羽を備え、剣は桃木を鋭くしただけの単純なものである。
 二日が経ち、この日は朝から雲が垂れ込め、鳥や犬も姿を現さない妙な静けさがあった。作業は変わらず進められ、矢数が千、剣が三百を超した頃、西へ出ていた内の数名が駆け戻って来る。青ざめた顔をしては急ぎ作業を中断させ、女子供を家へ入れると、何を見ても騒がぬよう周囲に伝える。
 遠く西門に娘の操る馬車が見えてきた。やがてその後へ続く人の列に気付き、これを目の前にした人々は皆一様に体を凍り付かせた。
 ガラガラと軋み行く車を、ぎこちなく歩み追う者等は骨のようであった。鉛色に萎んだ体へ朽ちた衣を纏い、皮膚のあちこちの穴からは無数の蛆や地虫を沸き出させ、腹部だけが臨月のごとく膨らんでいる。内には腐り落ちた臓腑が溜まっているらしく、悪臭が開け放しの口より洩れていたが、これが周囲をたまらぬ屠殺場の空気に変えていた。列は延々として切れず、これらの中にも老若男女の別が判ったが、破れ腹より腸を垂らして摺って行く小児の姿を認めたときには、多くの者がその場に呻き、こらえきれず嘔吐した。
 どこからか甲高い女の悲鳴が聞こえてくる。知らず水汲みより戻って行列と出くわし、目玉の抜けた眼窩と対面したらしい。しかし、先に戻って来た者らの言がなければ、男達とて声を上げこの場を逃げ去っていたに違いなかった。
 ……長く続いた行群の尾が、やがて東門に消えると、道家の車だけが返って来る。
集った人々に道士が言う。
「準備は整えました。あれら死者の後方へ里人は弓の陣を構え、先の原にて凶事を迎え討つ考えです」
 死したる殤鬼を死したる者の力にて撃つ――これが道士の出案であった。
 戻ってきた者らの話を聞けば、飢饉に潰えた村へ着くや道士は骸を集めるよう指示したという。当節柄、死体は見慣れていたもののさすがに難色を示した彼らの前で、道士は自ら家屋へ入り干からびた体を抱えて来た。これを見てはやむをえず、鼻口を手拭で覆い、うなる羽虫を払いつつ硬い遺体を運び出すと、同じく口元へ白布を巻いたあの道家の娘が、右に筆、左に墨壺を提げ待ち構えていた。娘は隠された口より何かぶつぶつ不満事を洩らしている様子だったが、筆持つ白い手が素早く走ると、死者の胸や腹には“火魄”の二字が朱墨にて書き記されていく。「火と赤には強く陽の気が含まれております故、これが法術の要となるのです」問うと娘は眠たげに答えた。
 腐敗や損壊の激しいものは省きながら、それでも日没の頃にはおよそ四百の屍が村道に敷き詰められた。男達は疲れきった体を空家へ横たえたが、道士と娘は火を焚いて遅くまで供養をしていたらしい。そして一夜が明けて眼にしたのは、まるで自らが冥府へ迷い込んだが如き、かの死者の並び立つ異景であったという次第――。
 居を棄てず村を護らんという道士の考えを受け、再び協議の場が設けられた。案には村を出んとしていた者は元より、残って対策を講ぜんとした内からも反発が起きる。しかし退いた所で望みはなし、ならば士の神術を頼み我らは弓を取らんかとの声も新しく出てきた。事実、あのように数多の屍を動かした力への畏敬の念は皆の心に強く根付いている。
 飛び交う賛否の声が静かになると、長たる古老は膝を打ち、村内より志願者を募ることを決めた。

 村を出て東にある荒原は、かつて湖で、秦代には人の腹より産まれし三匹の蛟が棲んでいたとも伝えられている。今では痩せた草が赤土の上にそよぐばかりだったが、この地に生えたように立ち尽くしているのはあの四百の死者達であった。各々手には桃木の剣が握らされ、方形に陣取る形で月光の下微動だにせず、石のような表情で東の闇を向いている。
 この後ろに離れて、原の縁ともいえる場所に火を起こし、村の男達は待機していた。最後の協議より二日が経っており、陣に加わらんと集ったのは三十三名。多くは血気ある偉丈夫や盛年の者であったが、中には頭白くした老夫の姿も幾つか見える。さすがにこれらは控えさせようという者もいたが、道士の口添えにより弓を持つことになった。
 馬走らせた者より日暮れ前には殤鬼が現われるだろうとの報せであったが、宵の口を過ぎても未だその気配はない。冷たく吹く夜風が女人の如く細く鳴き、待ち人達が寒さと緊張に襟を抱き黙っていると、傍のあばら家よりひょいと朱蘭が姿を現した。朽ちかけた小屋はもと湖の船守の居た所だが、この内に灯明や火炉などを運んで即席の霊壇を築き、四百もの死者を兵として成すために今は道士が篭っている。
「少量ですが……」
 娘は酒壺を傾け、暖のため少しの酒を振舞っていく。男達は立ったまま杯を回し、胃の腑に染み入る温かさと、焔に照らされた娘の美しさに束の間憂を忘れた。
 不思議な娘であった。さすがに道家の者とて凶事に慣れているのだろうが、余りに凛として落ち着いた様子は見目にそぐわぬ貫禄すら感じさせる。日中、壇を作るため馬車から祭具を下ろす際にも、道士に頼まれ布に包まれた重い物を持ち出そうとしたところ、これを娘が止めた。必要無いと言う。何事も備えと道士が言い含め、結局は折れたが、人の背程もあるそれを運ぶ横で、「叱られるのは私です」と唇を尖らせていた。
 酒に多少安らいだ一人が娘に旅のことを訊く。
 ――径州からの帰途というが、如何なる用事で?
 ――夜毎出没しては人を裂く、七足の怪犬を鎮めにゆきました。
 ――それで旨くいきなすったかね?
 ――思いの外難しく、一度嘉越まで返して畢を借り、この力を以て調伏した次第です。
 ――ヒツ……?
 ――ハイ、此度はその畢を返しに行く途次にございました。
 ふと思い当たった者が、ヒツとはあの布で巻かれていた棒のような物かと訊きかけたが、娘の様子にはたと口をつぐむ。険しくなった眼差しが、死者の居る方角へ鋭く向けられていた。しかし、すぐに笑みを戻すと、
「では」
 軽く一礼して小屋へと戻って行く。
 程なくして蹄の音が聴こえ、偵察の馬が駆けて来ると、馬上の者は高らかに鬼の襲来を叫んだのだった。

 広野の向こう側に黒波のような動きが生じている。厚く張った雲が月を消し、人眼の利かぬ闇に迫り来る影はたしかに人の形をしていた。数は最前だけで百は下らず、姿は待ち構える死人達より生者の面影が濃かったが、その相貌は虚ろなばかりで生気無く、衣は引き裂かれて血に濡れている。体を動かしているのは邪気に侵されて化した暴霊であり、これに支配された屍を指して殤鬼と呼ぶのである。
 応じるように四百の死者が一斉に動き出し、方形の陣が左右に割れた。ひたすら進み来る群れを挟み撃つような形にすると、殤鬼も敵意を剥き出し死者の陣を襲撃する。怪力の爪で肉を潰し、掻き散らし、あるいはしがみ付きになり歯を立てる、殤鬼らは群獣の攻めで押し来るが、しかし攻勢は、死者達が木剣を構えるや直ちに逆転した。餓死者の体が手練の剣客のように動いては、鬼の攻めをかわし、剣をその身深くへ突き通す。桃木に宿る浄力が暴霊を鎮め、殤鬼は一個の骸となり果てていった。
 左右に分かれた死者の陣は、後ろへ行くに従い徐々に隙間を狭くしている。前進する鬼の群を死者の壁で減らし、更に進み来くれば後方に控えた人の射が一掃する、所謂雁行の陣がここに敷かれていた。
「来たぞ!」
 前陣を抜け出た殤鬼らが、篝火の明るい領域へ姿を現すと、横並びになった男達は指馴染んだ猟弓を構える。しかしその多くの腕は震えていた。いかに魔性と知りつつも、鏃の先に人の形したものを狙うのと、日常に野で獣を追うのとでは余りに勝手が違い過ぎていたのである。
 迫る殤鬼を前にきっかけをつかめずにいるなか、ひょうと放たれた一矢が風を切り鬼の眉間を見事貫いた。
 射手は白髪を散らした小柄の老人で、続いて第二、第三の矢が飛んだが、これも別の老いたる手より撃たれたものであった。
「今ぞ放てい!」
 村に少なくなった、戦乱の頃を生き抜いた老夫の声である。躊躇う者がハッと弓を直し一斉に解き放つと、邪滅の桑矢が鬼の体を夥しく貫いた。
 千の殤鬼に対し数で劣るを陣にて制し、兵器を以て圧する形で戦いは進んだ。矢数は一晩では射尽くせぬ程こしらえてある。重く腕を張らせながらも一心に射を放ち、疲労すると下がって矢を供給する側に回る。この交代の繰り返しで弓撃は途切れず、次第に増えゆく鬼の骸の数に男達は手応えを感じ始める。
 戦況に変化が訪れたのは、雲間に十六夜の月が見えた頃――。互いに数を減らし合いながらも、素手の殤鬼に対し優勢にしていた死者達の首が、鉄の剣と戟により次々刎ねられていく。
 かの庸嶺山より出没した五十余名の兵士らが進撃して来たのである。古式の武具を魔象によって戻された土の体に帯び、その形こそ生前と同じく見えたが、黒面の表情には先の殤鬼より一層の激しい邪性に満ちている。鬼兵は方々より略奪せし兵器を振るって木剣を断ち、刻んだ死者の腐肉を戦場にばら撒いた。
 陣を突破した鬼兵は撃たれた矢を鎧で弾く。弓手は焦り、腹に冷たく込み上げるものを感じたが、しかし強い集中でこれを抑え付ける。汗に滑る指を拭いつ声を合わせ、これまで以上に狙いを一身へ集めて放つ。不遇の頃に寒地に住まい育まれた胆力と、死地立つ人の迸らせる極限の気迫とが、その弓を容易では揺らがせ無いものにしていた。横雨の矢を甲の隙に受け、力失くした鬼は崩れて土砂と化し、後には錆びた鎧が残されていった。

 やがて視界に来る鬼兵も僅かとなり、男達は胸中へ勝ち目を湧かせ、新たな影に矢を射かけた。しかし長身の標的は別の鬼を引っ掴んでこれを盾にし、続けて放った二の矢も剣により悉く防がれる。異質の動きに眼を見張ると、火の灯りに七尺はあろうかという巨躯を佇ませ、身には犀皮の鎧と将の切雲冠を帯びた威風の姿を認める。
 これこそが非業の武将・楊度であろうと誰もが悟ると、闇の向こうより数体の影が向かって来た。激戦に残った六体の死者であったが、楊度は振り向かず姿勢を下げ、この背へ躍りかかるや夜闇へ二条の光が走った。六つの首が宙に飛び、横断された胴部が虚しく落ちる。太い鬼の腕の先には平刃の扁茎剣が握られていたが、この二振りによる一瞬の絶技を眼に捉えた者はいなかった。
 鬼の口が黒く開き、大気震わす怒号が発せられる。途端正面より来た激しい突風を凌ぐと、男達は急ぎ矢羽へ指を掛けたが、弓の手応えの無さに愕然とする。各々が手にしている物ばかりか、予備に下げた腰の弓まで、あやかしの風を受けた全ての弦が断たれていたのである。
 残す一体の殤鬼を前に突然の無力と化し、茫と立ち尽くした傍より叫び声が上がった。声の主が朱蘭と気付くより早く、小屋から飛び出した黒い姿が人々の間を走り抜ける。現われて将軍に立ちはだかったのはかの道士であり、右手には長い得物を携えていたが、形状からしてあの布巻きにされていた物であると見えた。呪印を刻んだ長柄の先に、厚い刃を備えたその形は長兵器・春秋大刀であった。
 重い鉄の音が、二つの影を重ねる。真っ向に振り下ろされた楊度の剣を長柄が受けていたが、即弾き合うようにして離れると、先んじた道士が刺突を繰り出した。これを将軍の剣が横薙ぎに返し、続く突撃も払われて、打ち合いは次第に疾く激しくなっていく。魔人たる将軍のみならず、その動きは道士とても人の業と思えず、留まらぬ加速は最早見守る者らに追いきれるものではなかった。
 絡み合う鋼の響きの中、攻め手は間合いに長じる道士にあった。攻防の僅かな隙を狙い、腰を沈めて将軍の膝を斬り払い、跳躍でかわされたところを柄頭で打突する。見事鎧の胴を打ち砕くも、引き抜かんとした柄を将軍が掴み止め、着地するや鬼の拳が叩き込まれた。鈍い音がし、長柄の中央より折られる様が人々の眼にもはっきり見えた。
 攻めの利を失い、間を取らんとした道士の頭上へ稲妻の一閃が落ちた。かろうじて大刀の刃を合わせたが、剣はすでに右肩半ばまで喰い込んでいる。将軍の双肩が隆と盛り上がり、圧し掛かる巨岩の重さがついに道士に片膝を着かせた。
「道士様!」
 窮地と知り、男達が死者の木剣を手に駆け付けたが、蒼く光る鬼の双眸に射竦められ踏み入ることが出来ない。しかし将軍がこれらに気を向けた、その一瞬――道士の体が凄まじい勢いで跳ね上がった。
 必然、刃に咬まれていた右肩は断たれ、隻腕となって将軍の背後へ着地する。即座に折れた大刀を構えて振り向いたが、将軍は動かなかった。
鬼の手から剣が滑り落ち、巨躯は脳天から裂けて静かに土と還っていく。先の瞬間、片腕を捨てた道士の跳躍は、同時に対手の正中を深く斬り上げていたのである。
 凄絶なる決着に皆言葉を失っていると、落ちた右腕を拾い道士が歩み戻ってくる。汗もなく呼吸一つ乱していない様子に驚いたが、更に激戦にはだけた着物の下、その胸元が見えて「あっ」と声が上げられた。
 左の胸には、あの死者達と同じく“火魄”の二字が赤く刻まれていたのである。
 小屋へ入る黒衣の背を唖然として見送り、我に返って追いかけると、床の上で道士が仰向けになり眼を伏せている。その横では、憔悴し切った様子の娘がへたり込み、
「勝手に飛び出してこのような……あなたの様に主の言を聞かぬ畢は初めてです。ああ、老君に一体何と申し開きをすれば……」
 嘆き、汗に濡れた顔を袖へ伏すのだった。

 村へ戻ると幾つかの事を頼んで部屋を借り、娘はそのまま丸二日眼を覚まさなかった。言いつけ通り道士の体は馬車へと移されたが、その肌は冷たく、切断された右肩には出血の痕もなく、また豊かな髯に隠れていた首周りには縫い目のようなものも見えていた。
 起きると娘はまず空腹を満たし、これを待ってから人々は様々な疑問を投げかけた。まず、かの道士は果たして生者であったのか……これに娘は否と返し、ではやはり死人であったのかと訊くと、これにも首を振って、あれは畢というものだと説明した。
「死人は死人、魂魄を失った肉体はただの空人形です。畢とは、死して尚その魂を身へ留め置く術、またこれを施された者のことを言うのです。畢は死生の狭間に在って世の理に縛られず、法士のため力を揮う者……いわば道家自製の戦鬼といったところでしょうか」
 死者を一時的な傀儡となす術とは別に、畢とは道士の陽気によって目覚め、固有の意思にて動くものだという。かの者の正体に座はどよめいたが、しかしそれ以上に、畢なるものを扱い、更にあの四百もの死者を兵として動かした道士が眼前の少女であったと知って一層の驚嘆に打たれる。
「道家の衣を着せてはいますが、あれは生来武人の者、元は義に厚く情けに深い御仁として世に知られておりました。此度素性を隠し、道士としてあなた方を導いたのもあの者の仁心からによるもの。ま、私のような小娘ではどこへいっても信用されぬ故でしょうが、とにかくこれについては許してやってくださいまし」
 この言葉に、娘共々深く感謝こそすれ、あの者を怨む心はないと一同は改めて頭を垂れる。そして馬車へ横たわったままの身を案じて尋ねると、娘は顔ほころばせながらも、
「ホホ、ご心配には及びませぬ。然るべき時刻に白虎の方角にて気を施せば、また元の通り――……しかしまァ、当分はあのままにしておきましょう。ただでさえ借りものをあのように損ない、この上また旅を遅らせるような事をされては、どのようなお叱りを受けるか知れませぬ故……」
 翌日早くに馬車は発ち、村中の者がこれを見送った。
 死者と殤鬼の骸は、娘の残した指示に従い手厚く供養がなされ、更には将軍楊度を地神として立てるための廟と石碑とが後に築かれた。

  帯長剣兮挟秦弓   長剣を帯びて秦弓を挟み
  首身離兮心不悔   身首は離れても心悔やまず
  誠既勇兮又以武   誠に勇ましくまた武けく
  終剛強兮不可凌   終に剛強を凌ぐべからず
  身既死兮神以霊   身は死すとも神以て霊に
  魂魄毅兮為鬼雄   魂魄は毅然として鬼雄となる

 碑文はあくまでも楊度を勇武の士として讃え、その霊を慰撫する形で刻まれた。
 呉国土を襲った災厄はその後も長く続き、沈静には次代の到来まで待たねばならなかったが、件の霊廟の周辺地は災事にも大きな被害は免れ、また妖物の類も姿を現わさなくなったと伝えられている。

畢の話

最後の漢文は『楚辞』から引用しました。

畢の話

古代中国を舞台にした、ゾンビvs道士の物語です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
更新日
登録日
2011-03-20

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