零れ桜 

加賀谷樹里

零れ桜 

 僕の通っている小学校への通学路には一本の大きな桜の木がある。地面をがっちりと掴むように張っていった桜の根は、アスファルトを盛り上げ、明らかに通行の邪魔であった。

 今日の図工は写生。学校を出て、自分の描きたい場所を決める。
 僕は涼ちゃんと一緒にその桜の木を描くことにした。花はとっくに散ってしまい、すっかり葉桜になった桜の木を見上げながら、木の周りをぐるぐると回り、アングルを決めた僕たちは、桜の木からちょっと離れた場所に腰を降ろした。桜を描いていると何人もの人が通りかかる。そのうちの数人が、アスファルトのひびに躓いて転びそうになっていた。

「この桜の木、邪魔だよね。伐っちゃえばいいのに」

 僕がそう口を尖らせると、涼ちゃんは声を落とした。

「お前知らないの?この桜の木は伐っちゃいけないんだよ。伐ろうとすると必ず何か良くないことが起こるんだ。──それだけじゃない。この桜が満開になって花が散り始める頃になると、出るんだって」
「アメリカシロヒトリ……って言いたいンだろ」
「違うよ!出るっていったら決まってンだろ。アレだよアレ」
 
 そう言って涼ちゃんは恨めしや~という恰好をして白目をむいた。

「それも軍服を着た兵隊の幽霊だってさ。怖いよなあ」

 涼ちゃんが首をすくめると、「こらっ」と担任の小野先生が涼ちゃんの頭を軽く小突いた。

「この桜の木はね。ただの木じゃないのよ。この桜の木には、ある人の大切な想いがこもっているの。先生がこの小学校の生徒だったときにね、校長先生から聞いた話──」

 そう言って小野先生はこの桜の木にまつわる話を、僕たちに話し始めた。


      ※ ※ ※ ※ ※
 



 校庭に散った桜の花びらが風に舞うその日、私は、懐かしい顔を見た。

 期待と緊張の面持ちで校長の横に立つ彼は、真新しい白いシャツに頬を染め、当時の面影を残しながらも、誇らしく、大人の顔をしていた。

 ──立花健一郎

 彼は、この国民学校がまだ尋常小学校だった頃、私が初めて受け持った生徒だった。

 新米の教師で、体が小さく、足の悪かった私に、子供たちは容赦なかった。子供は見たままを口にする。だが、彼は違った。
 小さな頃から投げかれられていた言葉に、今更傷ついたりしなかったが、彼は、私をからかう子供たちを捕まえては、拳骨を食らわせ泣かせていた。

「私なら気にしていないのだから」

 そう言っても、彼は「先生を悪く言う奴は許さない」と正義感を露わにした。六年生の彼は、すでに私と同じくらいの身長で、体格もよく、彼に逆らえる子供はいなかった。彼はガキ大将だった。

 少し足を引き摺るようにして歩く私を見かねたのか、彼はよく、私の手伝いをしてくれた。「大丈夫」と、私が言っても「いいよ」と、濁りのない綺麗な瞳で無邪気に微笑んで見せた。だが、彼は時々、その瞳の奥に、同時に子供らしからぬ鬱屈した何かを覗かせる事があった。それは、体の大きな彼を、他の少年たちよりもいっそう大人に見せた。

 私が「ありがとう」と、首を傾けると、彼は耳まで赤く染めた。大人びて見えても、まだまだ子供。そんな不均衡な危うさが彼にはあった。

「俺、大人になったら先生になりたいんだ。だから、先生のすること覚えたいだけだよ」

 赤くなった顔を隠すように顔を背け、付け足すようにそう言った。
 照れ隠しと、私に気を使わせないための口実だとわかっていたが、本当に教師になるとは、その時の私も、おそらくは彼自身も、思っていなかっただろう。彼の家は、上の学校へ行けるほど裕福ではなかったし、彼の父親は酒癖の悪い男で、酒が入ると妻や子供に暴力を振うことは、学校中の誰もが知っていた。彼は真っ直ぐで利発だったが、父親への不満と、そんな自分を持て余していたのか、高等小学校の生徒とも問題を起こすことが度々あった。

 そんな事が父親の耳に入れば、彼が暴力を受けることは必至で、私は彼の家に足を運び、よく父親と話をしたものだった。
 小柄である私が首を伸ばして見上げるほどの父親は、意外にも、酒が入らなければ話のわかる、むしろ人の良い男だった。
 自分は弱い人間ですぐ酒に逃げるが、健一郎は違う。あいつは、自分の息子とは思えないほど出来がいいと、胡坐をかいた自分の足を見つめるように俯いていた父親は、顔を上げて私を遠慮がちに見つめると「先生、健一郎をよろしく頼みます」と、大きな図体で、私に深々と頭を下げた。

 だが、酒癖は治ることはなく、とうとうその年の夏。彼の母親は、下の子供たちを連れて家から出て行った。彼は何も言わなかったが、おそらく、自分から父親のもとに残ったのだろうと、私は思った。
 夏休みが終わっても彼は学校へ来なかった。家の手伝いがあるのだろうと思い、学校が終わってから、私は彼の家を訪ねた。

 思った通り、忙しそうに動き回る彼を遠目に見ていた私が、「立花君」と、笑いかけると、ばつが悪そうに、彼は顔を赤らめてぺこりと頭を下げた。
 酔い潰れた父親の寝ている横で、私は勉強を見てやった。父親の鼾など聞こえないかのように、彼は勉強に集中していた。教科書に落とした彼の真剣な眼差しを見つめていると、私の耳にも、父親の鼾はいつしか届かなくなっていた。

 それからも、彼が学校へ来られない日には彼の家で勉強する日々が続いた。時に父親が酒に酔い暴れた日には、父親から逃げるように、私の家へ連れてきた。

 夏も終わったというのに、その日は蒸し暑かった。私は家に入ると、茶の間の障子を二枚とも開けたまま、廊下で項垂れている彼を部屋に入れた。彼は小さく頭を下げると、また俯いてしまった。
 彼の中では、自分でも理解し難い、父親への複雑な想いが廻っていたのだろう。彼は酒に酔った父親に顰蹙(ひんしゅく)することはあっても、決して憎しみの目を向けることは無かった。
 立ったまま畳を睨みつけている彼の肩に手を置き、ちゃぶ台に座らせて、灯りをつけてやった。もう一度廊下に出て、縁側の窓を開け放す。茶の間を通り過ぎ、台所へ降りると、流し台の窓を開けた。風が流れ、涼しいとまではいかないが、籠った空気を追い払うことは出来た。

「桜の木?」

 庭に立つまだ若い木を見て彼が訊ねた。

「私が生まれた時に父親が植えたらしい」と、頷きながら私が言うと、何かを考えているようにもう一度桜の木を眺め。それから私を振り返り「それじゃあ、この木は、先生の木だね」と、笑顔になった。

 両親は幼少の頃に他界していた。父親の実家へ帰省した際、家族で乗っていた列車が事故を起こした。この引き摺る足は、その時の事故のせいだった。
 彼はその事を知っていたのだろう。それ以上何も言わなかった。

「先生、明日も来ていい?」

 帰り際、彼が言った。「親父が寝たらここに来る。先生の家の方が静かに勉強出来るから」
 それからは、彼が私の家に来るようになった。
 暑くもないのに、時々窓を開け放しては、花をつけてもいない桜の木を、ぼんやりと彼は見つめていた。
 そんな毎日が続いていた秋の終わり、彼の父親が死んだ。酔っぱらって足を滑らせ、川に落ちて死んだのだった。
 そんな死に方をして呆気なく逝ってしまった父親の葬儀、彼は立派に喪主を努めた。
 葬儀の間、ひと粒の涙も見せず、弔問客に丁寧に頭を下げ、気丈に振る舞っていた。


 その日の夜、私は微かな物音に目を開けた。外は小雨が降っていた。目を閉じながらも、私は雨の音に気配を聞き逃すまいと、耳をそばだてていた。
 寝室を出て、うす暗い廊下を行く。床下の冷気が直に伝わる板張りの廊下を素足で歩くと、温まっていた体の芯がひやりとした。廊下が大きく軋む音を立てると、外から砂利を踏んだ音が聞こえてきた。縁側の窓を開けると、桜の木の下に彼が立っていた。

「入りなさい」

 私が縁側の踏み石に降りて手を差し出すと、彼は私の手を取った。彼の手は雨に濡れて冷たかった。茶の間の灯りをつけて私は驚いた。彼は長い時間庭に立っていたのか、それとも真っ直ぐここへは来なかったのか、彼は濡れた服に身を縮めて震えていた。私は彼に濡れた服を脱ぐように言い、すぐに着替えを持ってきて、彼の濡れた髪を手ぬぐいで拭いた。だが、彼は心をどこかに忘れてきてしまったかのように、突っ立ったまま、濡れたシャツに透けた肌を、ただ震わせていた。
 項垂れている彼の服を脱がせ、濡れた体を拭こうとして、私は一瞬躊躇した。まだ子供の柔らかな肌には不釣り合いの引き締まった肉体に、子供の頃から思うように運動が出来ず貧弱だった私は、嫉妬と同時に憧れのような感覚を覚えた。彼の震える息に、私はすぐに気を取り直し、急いで全身を拭いてやり、私の浴衣を着せてやった。彼の体には、私の浴衣は少し丈が短いようだった。

 私の布団に寝かせ、掛布団をかけてやっても、彼の震えは止まらなかった。私はそっと布団に入ると、彼の冷たい手足を摩ってやった。夜中に目を覚ますと、体の震えは止まっていたが、頭まで被った布団が、小刻みに動いている。時々忍び泣きに耐える喉元から、苦しそうな嗚咽が漏れてきた。
 私は彼を抱きしめてやりたい衝動を押さえ、眠ったふりをしていた。
 朝、目が覚めると、彼の姿はなかった。

 ──そのまま彼はいなくなった。


「ご無沙汰いたしました。先生」

 そう言った僕を見上げた先生は、あの頃と少しも変わってはいなかった。相変わらずの白い肌。「立派になって」と僕の腕に触れた先生の細くて長い指。涼しげな笑顔。遠目に見れば、先生はまるで少女のようだった。

 教師となった初日は、知らず知らずに気が張っていたのか、体は疲れ切っていたが、僕は酒を持って先生の家を訪ねた。

 十年でこんなに育つものなのか。

 少し不揃い気味に枝の伸びたイヌツゲの垣根越しに、僕はあの頃より、枝ぶりの立派になった桜の木を見上げた。門が軋むと、玄関に小さな明かりが灯された。
 ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、浴衣姿の先生が、上がり框に立っていた。先生は微笑みを浮かべながら「お帰り」と言ってくれた。

 浴衣を着ている先生はゆったりと寛ぎ、学校で見る先生とは様子が違う。綿一枚の浴衣は、先生の小さくて細い体をいっそう華奢に見せた。
 先生は何も言わずに僕を茶の間に導くと、そのまま台所へと降りていき、つまみの皿を僕に渡した。
 僕を客扱いしない振る舞いと「お帰り」という言葉。そして十年ぶりの先生の家の懐かしい匂いが、故郷に帰ってきたのだと、相変わらず傷だらけの小さな古いちゃぶ台に腰を降ろして思った。

 あの日、先生に別れも言わずに僕はこの家を出た。
 何度もここへ帰りたいと思った。でも、ここへ帰るのは、先生と酒を酌み交わせるようになってから、と心に決めていた。先生に涙を見せたくなかった。
 あの日、先生はおそらく僕が泣いていたのに気付いていた。気付いていながら気付かないふりをしてくれた。その先生の気持ちが嬉しかった。先生のことだから、挫けそうな僕の背中を押してくれただろう。だからこそ、志半ばで帰るような事はしたくなかった。先生に追いつく。僕はそれだけを支えにしてきた。

 酒に酔っぱらっていた親父の醜態を見ていたから、僕は日頃から酒の量を抑えていた。少し酔った僕は風に当たろうと、廊下に出て窓を開けた。そしてそのまま窓に寄りかかるようにして縁側に腰を降ろした。

「間に合わなかったな」

 僕がぽつりとそうこぼすと、

「桜……」

 酒器を静かに置きながら先生が応えた。
 桜はとうに散ってしまい、枝には赤い桜蕊(さくらしべ)だけが残っていた。

「先生知ってますか?」

 踏み石に張りついた桜の花びらを手に取ながら、僕は口にした。それから踏み石に揃えてある下駄を履き、花びらで埋まった庭に降りて桜を見上げた。桜の木の上には、高い月が、薄雲にぼんやりと霞んでいた。

「桜色の蕾は開きながら花弁を淡く染めて、花弁が開ききると、その赤い色は花の中心に戻ってくるんです」僕は花びらを見つめながら続けた。「そして雄蕊が赤く染まると花弁は散る。だから桜は満開を過ぎた散り際が、一番美しいんですよ。──そして桜の木には、真っ赤に染まった雄蕊と雌蕊が残るんです。花びらが散ってもなお、雄蕊と雌蕊は一緒なんですね」

 僕は足もとの飛び石の上に落ちていた桜蕊を拾った。「でも、ソメイヨシノは自家受粉が出来ないので、実をつけることなく落ちてしまうんです」

 そう言って僕が振り返ると、縁側に立った先生は、腕を組んで穏やかに微笑んでいた。

「来年……」
「えっ」
「来年からは一緒に酒を飲みながら花見をしよう」

 先生が首を傾げ、軒下から桜の木を見上げた。 
 霞みの取れた月の光が、先生の酒に上気した顔に差し込み、少し乱れた浴衣の衿からのぞかせた、薄っすらと赤く染まった首筋から胸もとを青白く映した。

「いいですね」

 僕は酔いの抜けきらぬ息を抑えて言った。



 けれど、先生と共に桜を見ることはなかった。

 その年の秋、僕は飛行科予備学生として海軍に入隊したのだった。

 国の為に命を捨てるなど愚かなことだと、酒を飲みながら先生は僕に言ったことがある。蒼い顔をした僕に先生は目を伏せた。

「教育というのは恐ろしいものだよ」

 そう言ったまま酒器をゆっくり回して黙ってしまった。
 僕は先生の言った言葉の意味が分からなかった。

 その夜、先生と最後の酒を酌み交わした。もともと酒に対して良い印象を持っていなかった僕は、旨いと思って酒を飲んでいた訳ではない。親父のようにはなりたくなかったし、ほんの少し酔いの回ったところで、酔った感覚を味うだけだった。だから、こんな時に飲む酒など不味いものと思っていた。だが、不思議な事に、今夜、初めて酒が旨いと感じられた。酒の香りが鼻孔を抜け、軽い麻痺を覚える。体の中に灯った小さな炎が体を熱くすると、えも言われぬ快感が全身を廻る。酒の香りだけではない。先生の匂い。この家に沁みついた匂い。先生の口から語られる言葉の一つ一つ。ちゃぶ台の傷、そして風が揺らす雨樋の音まで、一切を記憶しようと、その晩の僕の五感は研ぎ澄まされていた。

「国の為、君の為、一身を捧げて参ります」
  
 そう先生に告げ、僕は戦地へと赴いて行った。


   
 その日、私は縁側に立って満開の桜を見ていた。
 立花が行ってから、私は毎日こうして桜の咲く季節になると、ひとり、桜を眺めていた。桜の散る前に立花が帰って来ることを祈って。だが、そんな祈りも虚しく、嫌なニュースが飛び込んできた。いよいよ米軍が沖縄に上陸したという。立花からの連絡は途絶えていた。
 
 すっかり日も暮れて私は諦めて家の中に入る。そんな毎日が続いていた。床へはいっても私はすぐに寝付くことは出来なかった。毎晩うとうとしながら、明け方に目を覚ます。そんな毎日だった。
 私はいつものように目を覚ます。外は薄っすらと明るくなっていた。いつもなら眠れずとも、そのまま布団の中で朝まで過ごすのだが、その日はなぜか桜が気になった。私は布団から出ると、雨戸の閉まった暗い廊下を歩き、雨戸を一枚だけそっと開けた。

 立花!?

 満開の桜の下に軍服姿の男が立っていた。

「立花」

 私が小さく口にすると、男は振り返った。それは紛れもない立花だった。
 
「先生」

 立花が笑った。
 私は慌てて庭に降りようとして、踏み石に下駄がないのに気づいた。私が玄関に走ろうとすると、

「先生。僕は…………」

 立花が私を遮るように言った。振り返った私に、もう一度笑いかけると、

「──行ってきます」

 そう、ひと言だけ言うと、立花はそのまま垣根に消えるように行ってしまった。
 立花の笑顔は、それまで見せたことのない笑顔だった。穏やかで、落ち着き払った笑顔。それなのに、なぜか私には、その笑顔が、少年の頃の彼のように幼く見えたのだ。


 風が雨戸を叩く音に私は目を覚ました。
 一枚だけ開けた雨戸に寄りかかって、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。冷えた体で立ち上がり、私は思い出す。立花が桜の下に立っていたことを……。私は踏み石に揃えてある下駄を履き、庭に降りて、立花の立っていた場所に立った。
 ──あれは夢ではない。間違いなく、立花はここに立っていた。
 春を告げる一陣の風が吹きつけた。見上げると、桜の花びらが、乱れながら青い空に散った。
 そして、私の手のひらに、花びらを失い、赤く染まった桜蕊が舞い落ちた。
 
 
 
 
 桜の葉が散り始め、校庭が紅朽葉色に染まる頃、立花の戦死を知らされた。戦死といっても、遺骨も遺品も何もなかった。

 人ひとり死んだというのに、日常は動いていく。昨日と変わらず授業は行われる。私は子供たちを前に、黒く塗りつぶされた教科書を広げ、いつものように読み上げていった。不思議と涙は出なかった。

 縁側の窓を開けて、私は満開の桜を見つめていた。
 立花の戦死が知らされてから二度目の春。
 立花はこの桜が咲くのを楽しみにしていた。子供の頃から、ここへ来ては桜の木を見上げていた。それは、この桜の木が、私の亡くなった父が植えた木だったからなのだろうと感じていた。彼にとって、この木は、ただの桜の木ではなかった。自分の父親でもなく、かと言って私の父親でもなく、『父親』というものを、この木に見ていたのだろう。


 桜に気を取られていた私は、垣根の向こうに立っている若い男に気付かなかった。
 軍服に身を包んだその男は、私と目が合うと、深々と頭を下げた。

「島津薫さんのお宅でしょうか」

 私が頷くと「薫さんはご在宅でしょうか」と男が言った。

「薫は私ですが」と答えると、男は少し驚いた顔をした。
「あっ……」気を取り直したように肩から下げた鞄の中から一冊の本を取り出した。
「これを」そう言って私に差し出した。

 それは立花の遺した物だった。

「立花とは同じ隊でした」

 立花がいつも座っていた座布団に正座して男は言った。そして、ぽつりぽつりと彼の事を話し始めた。
 男は立花と出撃の二日前に別れの杯を交わしたという。そして立花は、四月六日の午前八時四十五分。沖縄に向けて飛び立ったのだと。

 四月六日

 そう聞いて私ははっと顔を上げ、庭の桜に目をやった。
 あの日。私が立花を見た日だ。立花はあの日、私に別れを告げ、片道だけの燃料を積み、帰らぬ覚悟で空へと飛び立っていったのだ。あの時の立花の笑顔は、その覚悟の笑顔だった。
 やはり、あれは夢ではなかった。

 男は、戦闘機の故障でひとり、基地に残ったのだという。男はそれ以上語らなかった。男がどんな思いで仲間を見送ったのか、私には解らない。正座した膝の上で、男は拳を震わせていた。
 男の話を聞きながら、私は男の様子を見つめた。薄汚た軍服。破れた袖から覗く腕は日焼けと垢で真っ黒だった。

「あなたは……家族のもとへは帰られたのですか?」

 聞かずとも分かっていたが、私は口に出して男に訊ねた。男は首を振った。

 特攻で散った仲間の家を一軒一軒訪ね、こうして遺品を手渡して回っているのだろう。そして戦友たちの最期を語って聞かせる。それが終わらなければ、生き残ったこの男は、自分の家に帰れないのだ。

「見事ですね」

 男はそう言って、窓の外に顔を向けて目を細めた。
 桜は花びらを薄桃色に染め、風に散り始めていた。

 男を見送った私は、縁側に座り、立花の残した本を手に取った。それは掌のひらに収まる和紙を綴じた小さな歌集。表紙を開くと、ある一頁が自然と開いた。和紙は土に汚れていて、幾つもの薄く小さな丸い染みの跡がついている。立花はその頁を幾度となく読んだのだろう。

 そこには一編の歌が記されていた。

『花に染む 心のいかで残りけむ 捨て果ててきと思ふわが身に』

──この世への執着を全て捨てた私なのに、なぜこんなにも桜の花に心奪われるのだろう


「それじゃあ、この木は、先生の木だね」

 そう笑っていた少年の頃の立花の顔が思い浮かび、私は思わず桜を見上げた。嗚咽が漏れ、奥歯をぐっと噛みしめた。きつく閉じた瞼から堪えきれずに涙が零れた。開かれた歌集に落ちた涙は、薄っすらと残る染みの上に、新たな染みを滲ませた。




      ※ ※ ※ ※ ※



 小野先生の話が終わって、僕たちは何も言えなくなった。チラッと涼ちゃんを見たら、涼ちゃんの目に涙が光っていたように見えた。
 小野先生はそれから桜の木の下に行き、何かを拾った。

「ソメイヨシノはね。自家受粉ができないの。理科で雄蕊と雌蕊の役割は教わったわね?」

 僕たちは揃って頷いた。

「だから普通、ソメイヨシノには実がならないの。たまに見かけるけど、それは稀なの。なのに、このソメイヨシノの木は、毎年沢山の実をつけるのよ。不思議ね」

 小野先生はそう言って手のひらを広げ、僕たちに見せてくれた。それは仲良くふたつくっついた、さくらんぼよりも小さな赤い実だった。

零れ桜 

零れ桜 

項垂れている彼の服を脱がせ、濡れた体を拭こうとして、私は一瞬躊躇した。まだ子供の柔らかな肌には不釣り合いの引き締まった肉体に、子供の頃から思うように運動が出来ず貧弱だった私は、嫉妬と同時に憧れのような感覚を覚えた。

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