『暁蕣華の咲く処』(ある子竜の物語)第1章〈2〉 ~フラットアース物語②

〈2〉

翌朝、父に身体を持ち上げられた、ふわりと浮かぶ感覚で目を覚ました。浮き上がる感覚に思わず身を縮めて、それから、夢を見ていたのだと気がついた。
急ぎ足で廊下を歩く父の腕の中で背伸びをしながら、通り過ぎる窓から外を眺めた。父は随分と早い時間に起きたようで、窓から見える空はまだ真っ暗だった。母の腕に抱かれたまま、父が(あわ)ただしく支度を済ませるのを見ていた。

「今日は黒の祭だから遅くなる。」
そう言って父が出かけて行った頃、ようやく(そう)刻の六点鐘が鳴り始めた。
朝の早い時刻にもかかわらず、街の中はなんだかざわめいているようだった。
声はまだ窓際で呼んでいたが、やはり何者の存在も、そこには感じられなかった。
(隠れているのかな……? だけど、完全に波動を隠すなんて、どうやったらできるのだろう?)

意識を広げて部屋の中を見回せば、椅子や机の硬い木の波動、(かご)の中に収められた衣服の発する波動などを感じることができた。さらに意識を伸ばせば、部屋を仕切る石壁と、それを越えた廊下の冷たい空気、さらにその向こう側の調理場の土間の感触、(かまど)の埋み火の熱、鉄鍋、並べられた陶器、積み上げられた野菜や果実、屋根裏を走る小さな生物、と家中のモノの存在を感じることが出来た。
それらは見えていなくても、隠れているのではなかった。だから、波動を隠す方法など一つも思いつかなかった。

困惑して、もう一度意識を、呼ぶ声の方に戻した時だった。
カッ、と硬い物が触れ合ったような音が聞こえた。それはごく(かす)かな音だったので、その時、音に意識を向けていなければ、聞き逃していたかもしれなかった。
少し間があって、また同じ音がした。間をあけてカッン、カッと、今度は二度、硬い音が響いた。音が聞こえる度に、何かが解けていく感覚がした。

カッ、……カッ。音は同じ調子を繰り返しているようだった。……カッン、カッ。
その音と同時に、天空に張り巡らされた(あみ)の縦糸が切れて、はらはらと風に(なび)き、次々と横糸が(ゆる)んで、(かすみ)となって散って行くのが見えた、気がした。
見えた気がした、というのが変なのは分かっている。けれど、空を見上げてもそんなものは見えなかったし、大体、天空全体を(おお)う網なんてあり得ないし……。でも、音と一緒に、そんな光景が滑り込んで来たのだ。音が聞こえたのは、それほど長い時間ではなかった。

母の腕の中から見上げた窓の外は、ようやく白み始めたばかりで、空は一面、灰色の雲に(おお)われていた。
不意に、耳元で声が聞こえた。いつの間にか、呼ぶ声が近くに迫っていたのだ。
驚いて声のした方を振り返ったが、そこには何も、(わず)かの影さえも見当たらなかった。声の聞こえた方向には、隠れられるものはなかった。第一、こんなに近い距離で声がしたのに、母は気が付いてもいない様子だった。
(やっぱり変だ。呼ぶ声は〈声〉ではないのかもしれない。)

それなら何なのか、さっぱり分からなかった。けれど、それよりも、浮き立つ気分に気を取られて、それを考えるどころではなくなっていた。
(行きたい、行かなくちゃ。……待っている。待っているのだもの。)
何が待つのか、という疑問が浮かんだけれど、それはすぐに、誘う声にかき消されてしまった。体の奥底に沈み眠っていた力が蠢動(しゅんどう)するのが感じられた。

夜が明けて、(ちょう)刻の六点鐘が鳴ると、街のざわめきが一段と大きくなった。それがまた一層、心を騒がせた。
(行きたい。……行かせて。)
もがいてみても、母がしっかりと抱きしめている所為(せい)で、それは叶わなかった。
(どうして、どうして行かせてくれないの。)
気持ちは(はや)るばかりだった。もはや、呼ぶ声に応えてそこへ行くこと以外に、何も考えられなくなっていた。母のことも、見張るように取り囲んでいる家中のモノも、今は(うら)めしく思われるだけだった。
(ほんの少しだけでも手を離してくれたら、その間にどこか、隙間を探して……。)
それだけを考えて、母の腕の中で機会を(うかが)っていた。そうやって過ごす時の歩みは、じりじりとして、とても遅く感じられた。

(ちゅう)刻、街のざわめきは、期待に満ちていた。徐々に高まって行く街のざわめきに、ここに(しば)り付けられていることが、どうしようもなく苦痛だった。
今や声は、自身の中から呼んでいた。呼ぶ声と応える声とが同時に誘い、その度に、体の奥に(ひそ)む力が、ゆっくりと頭をもたげた。
()刻、正刻を告げる鐘の音とともに、街の中のさわめきは一点に集まり始めた。後から後からと集まるさわめきは、やがて一つの波動を生み出した。
(もうすぐ。)
生まれた波動は不安定で、()き上がっては拡散し、また沸き上がるといった具合だったが、時が過ぎるにつれ、集まって来たざわめきの分だけ、確実に大きくなって行った。

夕の刻の始まり、つまり黒刻の正刻を告げる鐘が鳴り終わると、街の中心から、ターンと鼓の音が聞こえた。それに遅れること数拍、一点に集まっていたざわめきが、一つの波動となって噴出(ふんしゅつ)した。
(歓喜!)
あるいはそれは、希望と呼ぶのかもしれなかった。
ターン、ターンと響く鼓音は、辺りの大気を揺らし、出て来いと誘っていた。街のざわめきも更に寄り集まって、大きなうねりを作り出していた。

ターン、ターン、タンタッタン、と鼓音の調子が変わり、それに、ダン、ダダンと重い鼓音が加わった。重い鼓音は、突き上げるような波動を送り込んで来た。
(出て来い、出て行け。)
二つの鼓音と、集まったざわめきの作り出す波動が、街に満ちた波動を大きく揺さぶって、上昇気流を作り出していた。
鼓の波動が響くと、体の底から大きな波が起こった。
(行きたい、行こう。)
その波に乗って、体の奥底に潜む力が、立ち上がろうと頭をもたげるのだが、途中で何かに(はば)まれでもしたように、また沈み込んで行った。

行きたくても出て行けないもどかしさに、(いら)々が(つの)っていた。
(何とかして抜け出す機会を作らないと、閉ざされてしまう。)
焦る気持ちに、もうどうにも我慢できなくて、破れかぶれになって、母の腕の中で力一杯にもがいた。
(下ろして。……お願い、下ろして。お願いだから!)
何回か母の腕の中から落ちそうになったが、その度に、母はしっかりと抱きとめた。それでも(あきら)めずに、もがき続けた。

それに根負けしたのかどうか分からないけれど、ともかく母は、夕食の支度を始めようとしていた手を休めて、隣の居室へ連れて行ってくれた。
長椅子の上の寝籠に下ろされた、ちょうどその時、トントンと扉を軽く叩く音がして、外から声が聞こえた。母が出て行って玄関の扉を開けた。
「おばちゃま、こんばんは。」
幼い子供の声がして、ぱたぱたと居室に走り込んで来る軽い足音が聞こえた。続いてそれを(たしな)める声が玄関を入って来た。近所に住む父の従弟の妻が、娘を連れて訪ねて来たのだった。

「夕食をこしらえて来たのよ。」
そう言ってから、父の義従妹は、鍋と荷物を持って調理場へと入って行った。小さな娘も、その後を追いかけて調理場へ行ったのを見送って、母は長椅子の側に戻って来た。
その時、突然、ガシャンと大きな音が響き、次いで、女の子が泣き出す声が聞こえた。
見ると、調理場の入り口から、白い煙が廊下に湧き出していた。それを目にした母は、大(あわ)てで調理場へと走って行ってしまい、辺りには誰もいなくなった。
今しかない、そう思った。

(行こう。)
誘う声がして、体の底に(ひそ)んでいた力が、ぐっと頭を上げた。先程までとは違って、今度は簡単に壁が破れて、体の内外がくるりと入れ替わった。と、思った瞬間、体が軽くなって、ふわりと宙に浮かび上がった。体を包んでいた衣服が滑り落ちて、長椅子の上にわだかまるのが見えた。

自由になって、浮き立つ気分に誘われるまま、空中をすべって調理場へと入って行った。
もうもうと白煙の立ち込める室内は、(かまど)にかけられていた大きな鉄瓶がひっくり返り、すっかり水浸しになった床に、陶皿の破片が四散していた。父の従弟の小さな娘は、母親の腕の中でまだぐすっていたが、母達は顔を見合わせて笑っていた。
煙を追い出そうと、母が立ち上がって窓を開けると、さぁっと冷たい強風が室内に吹き込んできて、白い煙と一緒に窓の外へと運び出された。

そのまま家の屋根を見下ろす高さまで上って、ふわふわと風に運ばれながら辺りを見渡した。近くの畑は、昨日の雪がまだ残っていて、白と黒のまだら模様になっていた。同じく雪の残る玄関脇の木の枝の先には、金色の実が二つ三つ、見え隠れしていた。
ターンターンと、また、街の方から鼓声が響いて来たので、さらに上って、そちらの方を見た。雲の切れ間から(のぞ)(あお)い空を背景に、積み重なるように続く家々、更にその向こうに、たくさんの人が集まっている広場が見えた。広場に(つな)がる街路も、大勢の人で(あふ)れかえっていた。鼓の音は、広場の奥から聞こえて来るようだった。

(何をしているのだろう?)
家の方を振り返って見ると、母達は、まだ後片付けに忙しくしていた。
(ちょっとくらいなら、大丈夫だよね。……父さんもあっちにいることだし。)
広場の方向からは、(かす)かだけれど父さんの気配も感じられた。どんなに多くの人がいたって、大好きな父さんの波動を見間違えたりしない。

(……うん、行っちゃおう。)
ぐいっと身をくねらせると、体は軽々と風に乗って(はし)り出した。畑の上を越えて、家々の密集する街の上へ、そして人々の集まる広場へと、ぐんぐん近づいて行った。
(なんだ、街へ行くのがこんなに簡単なら、大きくなるまで待つことないじゃないか。)
一人で街まで来られたと言ったら、父は()めてくれるだろうか、それとも驚くだろうか。そんなことを考えていたら、あっという間に広場の前まで来ていた。

広場を幾重にも取り囲む人垣の奥には、一段高くなった台が設けられていて、その上で十数人の人が舞を舞っているのが見えた。その傍らには、幾つもの楽器を演奏する人々が並んでいて、二つの鼓音は、この楽の音だと分かった。
広場のさらに奥、舞台の後ろには、美しい緑の屋根の大きな建物が見えた。
では、あれが父の話してくれた王の宮殿なのだ、と思って(うれ)しくなった。
(こんなに近いのなら、いつでも父さんに会いに来られる。)
王宮の建物の一角に父の波動を見つけて、集まる人々の頭上を、王宮へと向かって進んで行った。一人でここまで来られたことを、父に自慢したかったのだ。

ところが、宮殿に少し近づいた所で、何だか嫌な感触がして足を止めた。
(見られている?)
辺りを見回してみても、誰一人こちらを見ている者などいなかった。
気のせいかと思い直して進もうとすると、また嫌な感触が体に走った。今度は気をつけていたので、それを見つけられた。
宮殿の背後にある小高い丘の上、両脇に幾つもの建物を従えるようにして建つ、一つの塔、それが(にら)みつけるようにして、こちらを見下ろしていた。

(境界を形成する防御壁〈結界(バリア)〉だ。)
頭の片隅にそんな言葉が浮かんだ。
結界の最も外側に張られた〈警戒線(アラーム)〉に触れたのだ、とは分かったが、それよりも、次々と頭に浮かんでくる耳慣れない言葉に戸惑った。
ともかく、そのまま真っ直ぐ王宮に近付くのは危険だと感じたので、広場をぐるりと回り込んで行くことにした。家に帰るという選択肢もあったけれど、どうしても父に会いたかったのだ。行けばきっと喜んでくれる、そう思っていた。

結界に触れないように広場を横切ることにして、大勢の人々の頭上を越え、舞台の方へと近づいて行った。
舞台の上では、長い柄の先に鋭い刃のついた武器を持った舞い手達が、楽の音に合わせて舞っていた。舞い手が手にした武器を振るうと、西に傾いた陽光を反射して、刃がきらきらと輝いた。
それを見て、嫌な感じだと思った。別に刃物が怖かったわけではなく、ビィーンと(とが)った耳障りな波動が、その刃から聞こえていたからだ。

不快なその音から早く逃れたくて、足を早めて舞台の上を通り過ぎようとした。
けれども、舞台上に差し掛かるやいなや、ブワァンと不快な波動が高まり、舞い手の持つ刃達が一斉に叫び出した。
『奴だ。敵、敵だ! 近い、近くに……。喰おう、喰うぞ!』
同時に、体中の感覚器も大声を上げた。
(きけん、危険。脱出せよ!)
何が起こったのか分からないまま、とにかく全力でその場から逃げ出した。

そのまま走って、走って、走り続けて、ふと我に返って足を(ゆる)めた。
見れば、もう街の外だった。辺りには闇が忍び込み始めていて、飛ぶように流れて行く雲の切れ間からは、今まさに沈む太陽の最後の一片が見えた。
(早く帰らないと。きっと母さんも心配している……。)
振り返ると、街を貫いて流れる川の対岸に、暮れる空の色を切り抜いて黒々とそびえる丘が見えた。随分と離れているのにもかかわらず、その丘からは、依然として、こちらを見つめるような波動が感じられた。

(家とは、反対方向に来たみたい……。)
家から広場までの景色を思い出しながら、丘の方向へと足を向けた。塔の視線は気味が悪かったけれど、あそこまで戻れば、少なくとも、王宮にいるはずの父を探すことが出来ると考えたのだ。
空は急速に闇の色を濃くしていたから、足は自然と速くなった。
『ここへ、此処へ。』
呼ぶ声が聞こえた。本当のことを言えば、ずっと聞こえ続けていた。聞かぬふりをしていただけだ。

呼ぶ声は身体の中から聞こえていた。けれど、それは自分のものではなくて、誰かが呼んでいるのだと今は分かっていた。漠然(ばくぜん)とだが、声の主がいる方向も分かっていた。その情報も声に含まれていたからだ。
同調音話(シンクロフォーン)〉または〈遠話(テレフォーン)〉とか〈念話(テレパス)〉とか呼ばれる一般的な会話の方法だ。
(一般的な……?)
そんなはずはない、と否定する一方で、それが正しいと告げるものがあった。
(何かが変わってしまった。)
何が変わったのかは分からなかったが、そう思ったら急に怖くなった。怖くて全速力で走り出した。辺りはすっかり暗くなっていたが、うっすらと夜空に浮かぶ丘の影だけを目指して走った。

(帰らなきゃ。……家に帰る。帰れば、きっと……。)
安心だと考えていたのか、それとも、元に戻れると考えていたのだろうか。ともかく無我夢中で走った。
()()へ。』
相変わらず声は呼んでいたが、構わずに走り続けた。息が切れて、それ以上は走れなくなるまで走った。疲れ果てて足を止め、目印にしていた丘から目を移して、街の灯りを確かめた。あれだけ走り続けたのにもかかわらず、街は少しも近くなっていなかった。

いや、それどころか、灯りはどんどん遠ざかっていた。
それに気がついて、(あわ)ててまた走り出した。でも、とうに力は使い果たしていて、思ったように速度は上がらなかった。走っても走っても、街の灯火は、離れて行く一方だった。
(おとうさん、おかあさん!)
声を限りに呼んでみたが、父にも母にも届くはずはないことぐらい分かっていた。

走り続けてくたくたに疲れきった足は、もう一歩も前へ動いてくれなかった。目を開けていることさえ(つら)くなって、その場に身を丸めた。すでに街の灯りは見えなくなっていたが、それでも方向を見失わないように、塔の波動を頼りにそちらへ頭を向けておいた。
雲はものすごい速さで後ろから前へ、つまり街の方向へと流れていた。
(風に流されているわけではないようだ。)
ぼんやりそんなことを考えていたら、途中で眠ってしまったらしかった。


(父さん、ここだよ。ここにいるよ!)
父に名前を呼ばれた気がして、思わず声を上げた。
目を開くと、丁度、顔の前を何かがふわふわ漂って行くところだった。それは目を凝らしてみても、輪郭さえはっきりしない生物だった。生物と言ったのは、微弱ながらも変移する波動を持っていたからだ。
気が付けば、あちらこちらに似たような生物が浮かんでいた。正確に言えば、一緒に流されていたのだけれど、不思議と景色さえ見なければ、動いているという感じはしなかった。

顔を上げて、街の方向を探してみたけれど、もう何の手がかりも得ることは出来なかった。だから、流れる景色だけを頼りに、それに逆らう方向へ走った。
けれど、走っても、走っても、何の感触もなかった。手も足もむなしく宙を()くばかりで、流れる景色は少しも(ゆる)まなかった。それでも力の続く限りに走り、疲れ果てて休み、また走った。

(どうにかしてこの場所から出ないと、このままじゃ街から遠くなるばかりだ。)
手だてを求めて辺りを見渡した時、視界の(すみ)に灯りが見えた。灯りは見る間に足下へと近付いて来た。ふと思いついて、その灯りの方向へ、つまり地面に向かって走ってみることにした。
これは上手く行きそうだった。流されながらも、少しずつ地面に近づいて行くことが出来たからだ。けれど、ある所まで行くと、急に風が強く吹きつけて来て、足をさらわれた。足下の灯りがくるりと頭の上に移動したかと思うと、そのまま風に(なぶ)られ、上下左右も分からないほど振り回された。
ようやく元の風のない場所に戻れた時は、もうぐったりとしていた。灯りはとうに見失ってしまっていた。しばらくの間、目は回っているし疲れているしで、顔を上げることも出来なかった。
そのまま少しの間、眠っていたのかもしれない。気がつくと空が明るくなって来ていた。

流れは日の出と反対方向、つまり西の方角へと向かっていた。
『此処へ、ここへ。』
呼ぶ声が大きくなっていた。声もまた、西の方向から呼んでいた。
意識を凝らしてみても、声の聞こえる方向に何かがいるというような、はっきりした波動は感じられなかった。とは言え、何もない訳ではなかった。その方向の大気が、もやもやと揺れているのが感じられたからだ。それは丁度、あの祭りが始まる前の街の波動によく似ていた。

さらに空が明るくなってくると、西の地平線に、垣根のような黒い山並みが続いているのが見えた。
ふと、その景色が、玻璃(はり)を透かし見たようにぼやけて(にじ)み、また元に戻った。
よくよく見れば、ほとんど色のない大きな布みたいなものが、目の前を横切って行くところだった。
辺りには先程よりも、多くの生物が集まって浮かんでいた。それらは大きさも形も様々で、中には生物なのか物質なのか、分からないようなものもあったが、共通しているのはどれも透明で、みな弱々しい波動しか持っていない、ということだった。

(内蔵する〈気力(エネルギー)〉が微弱で、まだ実体を形成することができないもの〈原体(プラズマ)〉だ。)
そんな言葉が、頭の中に浮かんで来た。
(どうして、原体がこんなに集まっているのだろう?)
それには答えが得られなかった。けれど、呼ぶ声に、集まっていた原体たちが共鳴するのが感じられたから、原体たちも声に呼ばれたのだろうと思った。
実際に、呼ぶ声がすると、原体の数が増えて行った。もしかしたら、呼ぶ声に共振した原体たちの波動が、より多くの原体を呼び寄せているのかもしれなかった。今は集まった原体のせいで、西から東へ帯状の道が続いているのが、うっすらと見えていた。

呼ぶ声がする度に変わったのは、原体の数だけではなかった。西へと運ばれる速度も速くなっていったのだ。呼ぶ声に原体が共鳴して、それに誘われた原体が、どこからともなく流れに飛び込んで来ると、その分だけ、流れの幅が広くなった。流れの幅が広がるのに比例して、速度も増した。
もう近くの景色は、線となって飛び去って行くようにしか見えなかった。代わりに遠くに見えていた山々が、ぐんぐん近くに迫って来ていた。山は、地平に立ちはだかる壁のように見えた。
呼ぶ声はその山脈の中でも、ひと際高い山の方向から聞こえた。山に近づくにつれて、声もまた大きくなった。

『此処へ、早く、速く。』
それに呼応して、原体たちも鳴いた。
(はやく、ここへ。)
応える声は他からも聞こえた。見れば、別の方向から山に近づいて来る光の帯のようなものが見て取れた。あれも原体の集まったもののようだった。
一段と流れる景色の速度が増して高度も上がった、と思う間に、先程まで目の前にあった山の一つを越えていた。見渡す限り枯れ色だった山の向こう側とは打って代わって、そこには一面真っ白の大地が広がっていた。西に続く山並みの一角が開けて、そこに、(まぶ)しいばかりに陽光を跳ね返す大きな鏡のようなものが見えた。

けれど、景色に見()れていられたのは、ほんの短い時間だった。
別の方向から来ていた流れと合流して、幅が一気に倍に広がると、辺りの気が激しく揺れだした。同時に呼ぶ声も、体の中をかき乱すような激しさで響いてきた。
『速く、早く、閉じてしまう!』
加えて、その声に共鳴する原体たちの叫びで、大気はさらに激しく揺れた。

叫び声は一ヶ所から聞こえただけではなかった。あちらからもこちらからも、こだまのように声が返って来た。それらと合流を繰り返して、流れは幅を増し、さらに速さを増した。
きらきらと空の色を映して輝く鏡は、あっという間に小さくなり、代わりに大きな壁のような白い山肌が迫って来た。しかしその頃にはもう、景色を判別している余裕など全くなかった。勢いを増した流れは、(ゆる)むことなく、ひたすら山の斜面を駆け登って行った。

どこまでも続くかに思われたその白い壁が、突然に途切れて広い空が見えた、と思った瞬間、ぴたりと流れが止まった。
そして、次の瞬間には、何の前触れもなく、真下に向かって突き落とされた。
一面の白い景色の中に、ぽっかりと開いた黒い口が見え、それがみるみるうちに大きくなった。流れは最早留まることなく、一点を目指して流れ落ちて行った。
あまりにも早い流れに、何も考えられなくなった頭の中に、ただ、呼ぶ声だけが響いていた。
『世界の端へ、果てへ。出口へ、外界へ!』

一気に流れの速度が増したと思う間もなく、視界が暗転して、激しい衝撃を体に感じた。何かに叩き付けられて体が跳ね上がり、また、流れに(から)めとられて下へと押し流された。
さすがに二度目は、体を包んでいる結界の外縁に力を集めて、激突する衝撃を吸収した。けれど、後から後からと押し寄せて来る流れの勢いが強くて、行く手を遮る壁のようなものに、身体を押し付けられる格好になった。

流れはまるで、遮る壁などそこに存在していないかのように、いささかも勢いを緩めることなく流れ落ちていた。ただ、体にのしかかってくる流れだけが乱れて跳ねた。
体を包む結界の表面では、流れに乗って次々と落ちて来た原体たちが、接触した衝撃で弾けて、小さな飛沫となって散って行く波動が感じられた。何とか壁から離れようと力を振り絞ってみても、流れの強さに、指一本持ち上げることさえ出来ない。

しかも、呼ぶ声と原体達の上げる叫び声で、大気の揺れは(ます)々激しくなっていた。流れが激しさを増すとともに、体をかかる圧力も増して行き、その圧力に抗しきれずに、身体を守っている結界が、少しずつ(たわ)んで行くのが感じられた。一方で、壁の方もみしみしと(きし)みをあげ、身体と接している部分の壁は、引き延ばされて深い(くぼ)みになっていた。

このまま行けば壁が壊れるのが先か、体が弾けるのが先か、どちらかだと思った。どうにかして少しでも体にかかる圧力を減らそうと、出来る限り体を縮めてみたが、それはほんの一時しのぎにしかならなかった。
更に圧力が強まると、結界が領域を保ちきれなくなって、壁にぎゅっと押し付けられた。体が平たく引き延ばされて、耐えられなくなって声を上げた。
「助けて! 裂ける。痛いよ、痛い!」

だが、壁に向かって押し付ける力はどんどん強まり、すぐに声を出すことはおろか、息をすることさえも出来なくなった。体中の力を結界に集めて、その厚みを広げようと足掻(あが)いてみたが、外からの圧力に抵抗する力はとうになく、身体を凝縮することもすでに限界だった。ただ、引き裂かれる痛みだけが、朦朧(もうろう)とする意識を何とか現状に引き止めていた。

(……う、お前を守ってくれるように。)
名を呼ぶ父と母の声が聞こえた気がした。その時、バチッと何かが弾ける音がしたかと思うと、目の前の壁が壊れて黒い闇が見えた。
直後、ブォオンと巨大な音が襲いかかって来た。その激しい波動を受けて、体を包んでいた防御の結界が四散し、次いで、体を構成する波動が引き裂かれるのを感じた。
とっさに残る力を〈核心(コア)〉に集中させたが、襲い来る波動は容赦(ようしゃ)なく〈核心〉をも引き裂き、体がばらばらに弾けて、散って行くのが見えた。
(せめて〈記憶(メモリー)〉だけでも……残せれ……ば。)
暗い闇の中を落ちて行きながら、気力を振り絞って、散って行く〈核心〉をかき集めた。
そして、かろうじて最後の一片に手を伸ばしたところで、意識が途切れた。

『暁蕣華の咲く処』(ある子竜の物語)第1章〈2〉 ~フラットアース物語②

『暁蕣華の咲く処』(ある子竜の物語)第1章〈2〉 ~フラットアース物語②

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted