it's sexual world それは性にあふれた世界

塚田遼

  1. 一、男性 三十二歳 会社員
  2. 二、女性 二十九歳 元モデル
  3. 三、男性 四十六歳 大学教授
  4. 四、女性 十七歳 高校生
  5. 五、男性 四十一歳 舞台俳優
  6. 六、女性 二十二歳 大学生
  7. 七、男性 六十二歳 高等学校校長
  8. 八、女性 十四歳 無職
  9. 九、男性 二十歳 医学生
  10. 十、女性 二十一歳 AV女優 あるいは 男性 自称 七十八歳 無職

現代社会の性にまつわる物語を描いた10章からなる連作短編です。それぞれの作品間のつながりや、全体を通して語られていることがありますので、続けてお読みいただけたら嬉しいです。また、作品の性質上、性的な描写や暴力的な描写も登場しますがご容赦ください。

一、男性 三十二歳 会社員

  男は見知らぬ街に降り立った。時計を見ると取引先との待ち合わせまでにはまだ時間があった。寂れかけた商店街を彷徨い、そこから少し外れたところにあった喫茶店に入った。チェーン展開をしているような店ではなく、ゆったりとしたスペースがとられ、ソファの席があり、間接照明になっており、棚には何か分からない洋書が並んでいて、お洒落で落ち着いた雰囲気だった。男は店の隅の席に座ってコーヒーを頼み、スマートフォンで動画を見始めた。電車で途中まで見ていたものだった。しばらくはそれに熱中し、コーヒーを持ってきた店員に会釈さえしないほどだった。
 やがて動画を見終わり、男は顔を上げた。いつの間にか店の中はブランドが下げられていて、入ったときよりも薄暗くなっていた。店内を見渡すと、驚いたことに、ソファの席には全裸の男女がもつれ合い、今まさに女が男のペニスを咥えようとしているところだった。そして、店の床ではまた別の男女がいて、女が男の体に馬乗りになって、激しく腰を上下に動かしている。何だ、この店は。男は思わず立ち上がって後ずさりをした。そういう店だったのか。自分はそんなつもりで来たわけではないし、そんな趣味もない。こんな場所、一刻も早く立ち去らなければ。全身に冷や汗をかくのを感じながら、男は出口に向かおうとした。すると、それに先ほどまで男の隣の席にいた初老の男が気がついて、男の前に立ちふさがった。その男も全裸だった。男はその初老の男の目を見て震え上がった。とてもこちらが何を言っても通じるとは思えない、見たこともないほどに欲望に燃えた恐ろしい目だった。初老の男に服に手をかけられた。
「違う、ただ、間違えて入っただけで」
 男が何を言っても相手は聞いている様子はなかった。ズボンの太腿に相手の勃起したペニスが当たるのを感じた。
「やめろ!」

 目が覚めると、布団の中だった。夢だった。夢を見ること自体が久しぶりだった。しかも恐ろしい夢だった。起き上がっても体の芯にまだ恐怖感が残っているように感じた。ただ、しばらくぼんやりしていると、随分馬鹿馬鹿しい夢を見たものだと自分でも可笑しくなってきた。テレビを付けると医学生たちサークルが女性を集団暴行したというニュースが流れていた。最近性犯罪のニュースがやけに多いなと思った。テレビがこんなものばかり報道しているから自分もあんな夢を見てしまったのかも知れない。
 男はいつものように昨日の夜にコンビニで買ったパンを食べながら、それにしても何か性犯罪が増える理由があるのだろうかと考えた。性犯罪が増えるのは社会が病んでいるということなのか。あるいは、増えたのではなく、これまでも同様の犯罪は沢山あったが、発覚しなかったというだけなのだろうか。ただ、すぐに平日の朝から考える話題にしてはディープすぎると思い、それ以上考えるのをやめた。スマートホンを見ると、彼女から今夜予定よりも早くそちらに行けそうだというメールが来ていた。男はその返信を打ち始めた。
 朝一番に考えたことが影響しているのか、家の近くのコンビニに入ると、妙にエロ本コーナーが多いと感じた。昔から、こんなに多かっただろうか。以前からヌードグラビアが載っている週刊誌は沢山置いてあったが、完全なエロ本はあまり置いていなかったような気がした。しかし、それも曖昧な記憶で、前からこのくらいあったけれど、注目をしていなかっただけなのかもしれない。
  男が住んでいるのは都内の昔ながらの商店街のある町だった。家から最寄りの駅まで十分弱の道を歩いていく。ふと、男は町に風俗の看板が増えているように感じた。小さな町であり、駅前のはずれに一、二軒風俗があるとは思っていたが、この朝気がついてみると、一、二軒どころではなく、何軒もそれらしい看板が並んでいた。夜には煌々と明かりがついているのだろうが、朝方はどこも電気が消えてくすんで見えて、男はしぼんだペニスのようだと思う。性犯罪、コンビニのエロ本、駅前の風俗店。気がつくと身の回りに性にまつわるものが増えている。やはりこれまであまり気にしてなかっただけかもしれない。
 改札を抜けてホームに入る。いつものように電車を待っていると、ベンチに座っている女子高生に目が留まった。彼女はスクールカバンからクリームのチューブを取り出すと、自分の足に塗り始めた。特に美人というわけでもない、どちらかというと小太りの地味な見た目の子だった。男は彼女がクリームを塗りこむたびにその肉付きのいい脹脛が揺れ動くのを、妙に生々しいと感じた。この子は処女なのだろうか、そんな疑問が頭に浮かんだ。この子の肉付きのいい太腿や臀部を力強く掴んだらどんな感触がするのだろう。ペニスを突き上げられたら、この子はどんな顔をしてどんな声を上げるのだろう。男は頭を振った。今朝は調子がおかしい。どうかしている。あんな夢を見たせいだろうか。
  その日も電車の中は混んでいた。中吊り広告を見上げると、誰が不倫していた、誰がセクハラをしたなど、性にまつわるニュースばかりが書かれていた。そのとき、ふと右横を見ると、サラリーマン風の男が目の前の女の胸を鷲掴みにしていた。初め自分の目を疑った。これまで電車の中で痴漢を見かけたことはなかった。そのサラリーマン風の男は周りの目など何も気にしていないかのように大胆に女の胸を揉み回していた。女はこわばった顔で固まっていた。あまり若そうな女ではなかった。四十前後だろうか。化粧のりの悪い疲れた顔をしていた。触っている男の方はというと、まったく平然とした顔をしていた。じっと見てはいけないと思った。注意をする勇気もなかった。目を背けようとすると、その痴漢はさらに驚くべき行動をした。自分のズボンのチャックを下ろして硬く勃起したペニスを露出させたのである。見ていた男は何か普通ではない出来事が起こっているのだと感じた。痴漢は女性に先端から粘液をたらした赤黒いペニスを押し付け、それだけでは飽き足らず、女性の腕を掴むと触らせようとした。このとき、やっと女性に声が出た。調子の外れたぎこちない叫び声であった。それを見て男はほっとしたように感じた。おかしいことをおかしいと言ってもらえたような気がした。周囲からもざわめきが起こっていた。痴漢は次の駅で他の客の何人かに下ろされていった。奇妙なことに最後までその男はペニスを仕舞わないままだった。ペニスはずっと勃起したままであった。引っ張られてホームに下ろされるとき、その痴漢のペニスが他の客の服に当たっていき、電車が動き出した後、先ほどホームにいた女子高生が痴漢のペニスが服にあたったらしく狂ったようにハンカチで自分の服を擦って拭いていた。
 朝の出来事は何だったのだろうかと思うまもなく、職場に着くと仕事に追われた。仲のよい同僚でもいれば、今朝こんなことがあったと話したいところだったが、今の職場にはそうした人がいなかった。昨日の夜に遣り残した事務作業を終わらせ、すぐに外回りに出かけなければならない。夜は彼女と約束をしているため、この日は残業しなくていいように早く仕事をこなさなければならない。今朝のことはとりあえず忘れようと思った。
 せっかく外回りに出かけたが、この日は得意先の担当者が出張中で会えなかった。アポイントは取っていたはずだが、先方がスケジュールのミスをしたようだった。おかげで早く帰社することは出来たが、何か歯車がかみ合っていないような不全感があった。職場で書類を片付けようとパソコンを開くと、隣で後輩の女性社員が得意先に電話をしていた。その言葉遣いがまるで友達と話すような不躾な調子に感じられた。おまけに話の内容を聞くと、男の感覚では、どう考えてもこちらが先方に出向かなければならない話だったが、相手を呼びつけようとしているようだった。この後輩には前から何度も社会人としての自覚が足りないと注意をしていた。まだこいつはこんなことをしているのかと腹立たしくなった。頭の中にはこの後輩を注意する言葉が次々と浮かび上がってぐるぐると回った。その中でも一番穏健な言葉を選んだつもりだった。しかも、最初にこんな注意ばかりをして申し訳ないのだけれどと枕詞も付け加えた。そして、いかに親しくなった間であっても、得意先は得意先であり友達ではなく、最低限のマナーを守った話し方をするべきだということ、こちらの事情で会う必要が出来たのであれば、当然こちらが先方に出向くのが筋であることを説明した。男としては、それで向こうが分かりました、すませんと言って終わりのつもりだった。しかし、後輩の女は強張った顔で聞いていたかと思うと、「はい」と言って頷いて、その後でトイレに行ったかと思うと、帰ってきて席に着くと、
「この際だから言わせてもらいますけれど、何かにつけて文句を言ってきますが、自分だって全然出来てないことがいっぱいあるじゃないですか、それなのになんで私にばっかりそんな言ってくるんですか」
 とこちらに噛み付いてきた。男は血管が沸き立つのを感じた。この女は自分が注意されたのを棚に上げて、何を言い出すのだ。そのとき、こちらを睨み付けてくる女のスカートの裾がめくれ上がってストッキングをはいた太腿が露出しているのが目に付いた。怒りのあまりスカートだということを気にせず乱暴に座ったのかもしれない。それを見た男は女の股間に顔をうずめたくなった。急なことで自分がなぜそう感じたのか分からず、女の言葉に何も返せなくなった。
「上司面しないでください、あなた何様だと思っているんですか」
 女は畳み掛けてきた。男の頭に性的な妄想が広がった。この生意気な薄い唇の中にペニスを突っ込んでやりたい。今朝の痴漢のように硬く勃起したペニスを突っ込んで黙らせてやりたい。
「聞いてるんですか、偉そうに」
 フロアには、まばらにしか社員がいなかった。他の社員たちは見て見ぬふりを決め込んでいるようであった。男の頭の中にはこの女社員が、先ほどの得意先の男と寝ている空想まで浮かんだ。犯すぞこの淫乱が、という言葉が喉元まで出掛かった。そして、これ以上言われたら、実際に自分がこの女を押し倒しかねないように感じた。男は、
「もういい」
 と言って立ち上がって部屋を出た。後ろから、
「何、結局、逃げるんですか、それなら最初から余計なこといわないで下さい」
 と言う女の声がした。
 気持ちはなかなかおさまりそうもなかった。ビルを出て、職場の前の建物にある喫茶店に入ってコーヒーを頼んだ。あの女の態度に対する怒りもそうだったが、自分はどうしてこんなに性的な空想に支配されているのだろうという疑問で頭がいっぱいだった。なぜあんな腹が立つ女に対して性欲を感じているのだろう。男の席の後ろで大学生風の男二人が話しているのが耳に入ってきた。
「やっぱりさぁ、セックスって、愛とか相互理解とかそんな優しい気持ちじゃないよね」
 男は最初昼間からこいつらは何の話をしているんだと思った。学生たちは大きな声で話し続けていた。
「俺はさぁ、結局、男が起つには女に対してのサディスティックな気持ちが必要だって思うぜ、女を追い詰めてガンガン攻め立ててやるっていう気持ちがさ。そりゃ、女に対する怒りかもしれないし復讐心かもしれないし、征服欲かもしれなし、ともかく、女に性欲を感じるためには相手に攻撃性を向けないといけないんだな」
 聞きながら、お前はいくつなんだ、何を偉そうにセックス評論家になっているんだと呆れた気持ちになる一方で、こいつらの話は一理あるかもしれないとも感じ始める。
「だから、仲良くなりすぎちゃった男女って、大抵セックスレスだろ。男は基本的に逃げる女をとっ捕まえてやっちゃうっていうふうに出来てるんだな。だから、極端に言えばレイプがデフォルトなわけ。ほら、お前も前に、ちょっと馬鹿にしてるくらいの女とやるときの方が燃えるって言ってただろ。深く愛し合って尊敬しあっている二人セックスなんて、嘘嘘。結局、どんなセックスもレイプの亜系なんだって」
 心を落ち着かせるために入った喫茶店だったが、気持ちは少しも休まらなくなった。あの生意気な後輩を攻め立てるイメージが頭の中から離れなくなった。男は残りのコーヒーを一気に飲み干して店の外を出た。
 少し歩き回ってから職場に帰ると、外に出ていた他の同僚たちが帰ってきていて、職場は賑やかになっていた。男は何事もなかったように席に着いた。隣の女は全くこちらを無視していた。男はやりかけていた作業を再び始めた。しかし、気持ちが落ち着かないせいではかどらなかった。今夜、恋人と会うことを思い出した。あと何時間かすれば、自分はセックスをすることが出来るのだ。いつしか、男はその恋人との様々なセックスを思い出し始めた。男のマンションの狭いユニットバスの中でお互いに体を洗いあいながら、そのまま興奮してしたセックス。旅行中に閑散とした夜のサービスエリアの駐車場で誰かに見られていないかとドキドキしながらフェラチオをしてもらったこと。貸切り出来る露天風呂で声が漏れないように相手にタオルを銜えさせてしたこと。男が射精した後、彼女がなかなかペニスを抜かせずに男を抱きしめ続けて、ずっと一緒にいよう、一生一緒にいようと何度も言っていたこと。セックスのことを考えていると、時間が過ぎていってくれるように感じた。性欲は色々なことを忘れさせてくれる。
 ぼんやりと性的な夢想をしながら作業していたため、仕事の能率は悪かった。おまけに途中で喫茶店に行くなどの長い休憩をいれてしまったことも影響して気がつくと、退社する予定だった時間を大幅に過ぎていた。隣の後輩の女は定時に涼しい顔をして帰っていった。何とか二時間の残業で今日中に終わらなければならない仕事を済ませて職場を出た。
 もちろん、彼女には遅れるというメールをしていた。待ち合わせは外ではなく、男の家だったため、中に入って待っていてくれと伝えていた。しかし家に帰ると彼女は不機嫌だった。自分がせっかく早く帰れるように仕事の調整をしたのにそっちが遅くなるのでは、何のために苦労したのか分からないと言ってきた。男はそれはメールでも謝っただろうと思った。それでももう一度悪かったと謝った。しかし、彼女は何度も繰り返し、おまけに男をいつも自分勝手だと言い、まだ付き合いたての頃にスケジュールをダブルブッキングさせてしまって彼女との予定の方をキャンセルしたときのことを蒸し返した。それでも普段であれば、彼女の気がすむまで謝ったのかもしれなかった。この日は何か違っていた。早くセックスがしたいと思った。よけいなことはいいからただ早くセックスしたいと思った。男が謝りながら彼女に近づいてキスをしようとすると、彼女はそれを拒み、
「ちゃんと聞いてくれていない」
 と立ち上がって、
「今日は帰る」
 と宣言するように言った。この女はセックスをさせずに帰ろうとしている。この女はセックスをさせないことでこの俺に罰を与えようとしている。
 男は女を無理やり捕まえてベッドに押し倒していた。暴れる女を押さえつけて犯していた。男は自分がいつになく興奮しているのに気がついた。こんなに興奮したのはいつ以来だろうか。男は我を忘れたように女の尻を痕がつくほどに強く掴んで、腰を突き上げ続けた。
 気がつくと女が泣いていた。怒りをかみ締めるような、震えるような泣き声だった。男は自分がゴムをつけていなかったことに気がついた。ごめん、今日は大丈夫な日かなと、恐る恐る言うと、女は恐ろしい形相で男を睨んだ。その顔は涙と鼻水にまみれていた。決して男のことを許すことはないだろうという顔であった。女は立ち上がって男を突き飛ばすと、まだ膣の中に精液が入った状態のまま、部屋を飛び出していった。
 残された男は、何でこんなことになってしまったんだろうかと思った。こんなはずじゃなかった。こんなことしたいんじゃなかったはずなのに。女のように力強くは泣けなかった。自分がどんな気持ちなのかも分からなかった。ただ、涙が静かに頬を伝って流れていった。

二、女性 二十九歳 元モデル

 集まった四人の男たちはみんな背が高く端正な顔立ちをしていた。一番高い男は百九十センチ近くあるかもしれない。女は幹事をした後輩の脇腹をつつき、小声で、
「いい仕事するじゃん」
 と言った。幹事の子は恐縮したような顔で笑った。
 女たちは皆、その女のモデル時代の後輩だった。男たちもモデルや役者の卵たちらしかった。その中では女が一番年上だった。一番名が知られているのも彼女だった。自然とその場の話題は彼女が中心となった。後輩のモデルたちは、現役時代に彼女がいかにセンスがよかったかを誉めそやした。また、ある子は彼女のブログの写真がいかに可愛いかということを、ある子は彼女が今度出すことになっているエッセイが楽しみだということを語った。そんな話は言われ慣れていて特に嬉しくはなかったが、いつもの通りに、自分はそんな大したものじゃないんだからと返していた。男たちは女たちの話に乗って、次々とわざとらしいくらいに彼女のことを誉めた。女はそれを笑って聞いてお気に入りのイタリアの赤ワインを飲みながら、この男たちの誰が一番ペニスが大きいんだろうと考えていた。背が高い人はやっぱりそれだけペニスも大きいんだろうか。四人を裸で並べて、一人ずつ長さとか重さを計ってみることを想像したりした。この中の誰かが私をお持ち帰ってくれるのだろうか?
 昨年結婚して以来、数ヶ月は合コンなどに行くことはなかった。しかし、新しい生活の新鮮さがなくなってくると、女は再び派手に飲み会に出かけるようになった。独身時代と何かが変わったようにも思わなかった。夫がそれをどう感じていたのかは分からないが、夫の方でも付き合いだと言って、しばしば飲んで遅く帰ってきたし、女は自分たちはお互いに束縛しあわない関係なのだと思っていた。実際、彼女のモデル時代の友人たちの中でも結婚後もこれまでと何も変わらない様子でクラブなどで遊んでいる子が多かったし、夫以外の男と関係を持ったことをあけすけに笑って話してくる子もいた。自分が結婚して気がついてみたら周りは不倫だらけだった。前からそうだったが気がついていなかっただけなのかもしれない。
 その日の男たちは場を盛り上げるのが上手かった。いじられる役、クールな役、リーダー的な役、みんな何か役割が決まっているかのようであり、それに嘘くささも感じたが、その雰囲気に身を任せてしまえば、心地よかった。女はいつも以上に飲んでいた。男たちは好きなタイプの異性のことを話題にしていた。女たち一人ずつに聞いていった。女の番が来た。その場の注目が集まった。女は、
「私のこと好きな人なら誰でもいいの」
 と言った。周りの後輩からはずるいと言われたが、男たちは、「俺好き」、「俺も好き」、「俺は何でもする」と次々と手を上げてくれた。女は調子に乗って、
「じゃあ、どれにしようかな、神様の言うとおり」
 と次々に男たちを指さしていった。みんな大声で笑っていた。芸能ニュースでも報道されていたので、皆彼女が結婚しているのは知っているはずだった。しかし、そのことを口にする者はいなかった。触れてはいけないことというよりも、それはどうでもいいことのようであった。女は男の一人の、ぴったりとしたシャツからうかがえる二の腕から肩のラインがいいと思った。この男が一番好きだと思った。背も高い。彼なら軽い自分を簡単に抱き上げてベッドまで運んでくれるだろう。あの腕で本気で力強く抱きしめられたら、私の背骨が折れてしまうかもしれない。男たちが彼女のスタイルがいいという話を誇張して言うのを心地よく聞きながら、女は酔った目で、男の体を眺めていた。
 二次会はクラブに行こうという話になった。幹事の男がVIPルームを抑えられたと言った。もう一人の男が、こっちは超有名人の彼女がいるから、VIPルームは当り前だと言った。
  タクシーを捕まえるために、バラバラと移動しているとき、女は目をつけていた男の横に行き、
「私、本当はクラブじゃなくてもうちょっと飲みたいなぁ」
 と言った。最初、普通の顔で聞いていた男は、女の言ったことの意味を悟ると、急に目を見開いて鼻を膨らませながら、
「じゃあ、二人でどこかに行こうか」
 と言ってきた。こういうときの、自分とやるために必死になってくる男たちの表情が好きだった。女はそっと脇道に入った。男は慌ててついてきた。
「逃げろ、やつらを撒け!」
 女はそう叫ぶと走り出した。男は必死で追いかけてきた。しばらく走ると男が
「もう駄目だ」
 と言ってしゃがんでしまった。女も立ち止まって、二人は顔を見合わせて笑った。
 携帯に女の後輩から、
(どこにいます?)
 というメールが来ていた。それを無視して、タクシーを捕まえた。女が運転手に住所を告げると、男の方はそれがどこなのかを聞いてきた。女が自分の家だと答えると、男は慌てた様子になった。女が笑って、
「誰もいないわよ、体おっきいのに気は小さいのね」
 と言うと、男は心外だという顔をした。女は反応が分かりやすくて可愛らしいと思った。女は男の手を握った。男は強く握り返してきた。大きな手だった。この手だ、この力強い大きな手が後で私の体を思う存分まさぐってくるのだと思った。
 女の家はタクシーに乗ったところからそう遠くなかった。都心部にあるその高層マンションには彼女以外にも何人も芸能人が住んでいた。部屋の中に入ると、男はそのマンションの広さや豪華さに驚いて見せていた。女はそんなことどうでもいいと言って、男に抱きついた。男はよろけて倒れた。立ち上がろうとするところを上から抑え込んでキスをした。「ちょっと待てって、すごい肉食系だなぁ」
 女は笑った。
「待てって言ったって、ここは待てって言ってないじゃん」
 そう言って、女は男の股間を掴んだ。予想通り硬く膨らんでいた。悪い女だなぁ。男はシャワーを浴びてくると言った。女は男のくせに妙に神経質だなと思ったが、シャワーの場所を教えた。ベッドルームで待っている間、女は男が風呂場で夫のシャンプーやシェーバーを見てどう感じるんだろうかと想像した。それもまた女の気分を高揚させた。
 男は腰にバスタオルを巻いて戻ってきた。タオルは巻いていたが、股間が勃起したままなのはすぐに分かった。彼女は男を見るなり、そのバスタオルを引っぺがした。
「当たり! でっかい!」
 女がそう言うと、男は照れたような馬鹿な顔になった。女は本当は普通より少し大きいくらいだと思ったが、
「こんな大きいの初めて」
 と大袈裟に褒めた。男はそこまでデカくないってと言った。女はデカいデカいと言い続けて、男のペニスをいじくった。片手に持って頬にあて、
「もしもーし、聞こえますかぁ」
 と言った。返事がなかったので、
「おかしいなぁ、聴こえないなぁ」
 と何度ももしもしを繰り返すと、今度は男が仕方なそうに、
「もしもし、聞こえます」
 と答えてくれた。女は大爆笑して、つながったつながったと騒いだ。女はさらにはしゃいで、
「わ、やだ、この電話、先っちょから何かねばねばしたのが出てる、これじゃ使いづらいじゃん」
 と言ったり、
「ねぇ、これ名前ないの、なかったら私つけていい?」
 と言ったりした。男が名前をつけていいと許可をしてくれると、女は「染之助染太郎」にしようと言って、自分でまた爆笑をした。だって、
「それ二人の名前だろ、これ一本しかないし、変だろ」
「ポン? ポン? これってやっぱポンって数えるの?」
「知らねぇよ、大体、何本あるとかって、数える機会ねぇし」
「でも、南方にはチンポが三本も生えてる妖怪がいるって水木先生が言ってたよ」
「何だよ、その妙な知識は」
 女があまり変な絡み方をするため、男は少し不機嫌になってきた。それに合わせて「染之助染太郎」もしぼんできてしまう。
「うそ、小っちゃくなってきちゃった、やだやだ、私わけわかんないことばっか言ってごめん」
 女は男をベッドの上に押し倒すと、「染之助染太郎」にしゃぶりついた。それはすぐに元気を取り戻した。
 女には、男のセックスは思ったよりも淡白に感じられた。これなら夫の方がましだと思った。わざわざ他の男を捕まえたのに、損をした気がした。あの場にいた残りの三人はどうだったのだろうかと考えたりした。男は二回の射精の後で大きな鼾をかいて寝てしまった。この男は後で自分と寝たことを周り中に自慢をするのだろうか。何か悔しいような気がした。そうして自慢をされるのに見合っただけの快感をもらえなかったと思った。女は寝ている男の体をつついた。どうせならもう一回くらいやってほしい。せっかく家まで連れてきたのだから、ちゃんと働いてほしい。しかし、男は起きる気配はなかった。勝手な名前をつけたペニスをいじってみるが、そこも男同様に反応はなかった。女は何か虚しい気持ちになってきた。男が起きたらすぐに帰ってもらおうと思った。考えてみたら、この男とは酔いが醒めてしまったら、男のペニスがしぼんでしまったら、共通の話題は何もありそうもない。ひょっとしたら、幹事をやっていた男の方がノリもいいし、楽しませてくれたかもしれない。他の女たちも今頃誰かと寝ていのだろうか。途中でどこにいるのかと連絡をくれた後輩にメールの返事をしてみることにした。
(返事遅れてごめん。ちょっと用事があって抜けちゃった。今そっちはどうしてる?)
 しばらく待っても返事は来なかった。ひょっとしたら、あの子もあのうちの誰かと真っ最中で、思いっきり股を開いて声を上げているかもしれないと思った。体がほてってきた。あぁ、やりたりない。そう声を出して呟いてから、自分で笑ってしまった。仕方ないので、寝ることにした。朝起きて、気が向いたら、もう一回だけやってもらおうと思った。
 女は玄関の方の物音で目を覚ました。酔いは冷めていたが、体にはアルコールが残っているようで、全身が怠かった。部屋の時計を見ると、七時過ぎだった。そのとき、横に男が寝ているのに気が付いた。ここに男が寝ているのに、なぜ玄関に音がするのだろう。最初それが何を意味するのか分からなかった。冷静に考えてみれば答えは明白だった。女は慌てて起き上がって、隣の男をゆすって起そうとした。男は寝ぼけた声を上げた。そのとき、ベッドルームのドアが開いた。夫が現れた。全身から血の気が引いた。誰だ、お前は。夫はコートを着たままだった。玄関の男物の靴やリビングに放り出してある見慣れぬ鞄を見て、すぐに怪しいと思ってベッドルームに来たらしかった。
「あ、いや、彼はただの友達、モデル時代のみんなで飲んでて、彼だけ終電なくなっちゃって、家に泊めてあげたの、ホントにそれだけ」
 夫の顔はこれまで見たことがない程に冷たく表情がなかった。
「ただの友達が、何で裸で寝てるんだ」
「いや、酔ってたから、別に何かしてたわけじゃないの。それより、随分早かったんだね、帰るの今夜って言ってなかった?」
 夫は近づいてきた。
「おい、お前、誰だ」
 夫は殴るのだろうか、これまで夫が暴力を振るうところは見たことがなかった。夫は男が被っていた布団を鷲掴みにすると、それを力強く引きはがした。そのとき、急に勢いよく男が立ち上がったかと思うと、夫に飛びかかり、ひるんだ夫の顔を殴りつけ、その勢いで部屋を飛び出していった。男は全裸のままだった。気のせいか女には、そのとき男の「染之助染太郎」が硬く勃起しているように見えた。男がドアを乱暴に閉めて立ち去る音がした。女は彼がちゃんと服や鞄を持っていったのだろうかと思った。後には女が夫と二人で残された。
「痛てぇなぁ、何だよ、逆ギレしやがって」
 殴られて倒れていた夫が立ち上がった。女の方を見た。夫は黙り込んだ。何を言ったらいいか分からないのかもしれなかった。女はどうにでもなれという気持ちだった。むしろ、黙っていないで、早く何かしら言ってほしかった。
「何でだよ」
 夫はそう呟いた。女は答えなかった。また沈黙が流れた。
「もういい」
 夫はそう言って部屋を出ていった。追いかけて行って言い訳をするべきだろうか。しかし、言い訳の言葉も思いつかなかった。女はゆっくりと起き上がって、とりあえず、ベッドの下に脱ぎっぱなしにしてあった服を片づけ、シャワーを浴びることにした。
 女がシャワーを浴びている間に、夫は家から出て行った。ノートパソコンや着替えや、仕事で使うものなどを海外旅行用のキャリーバックに詰め込んで出て行ったようだった。女は、普通は女が家から出ていくもんだろ、と思った。どこかのビジネスホテルにでも泊まるのだろうか。女は頭がぐちゃぐちゃになったように感じて、何もかも忘れてしまいたいと思った。携帯が鳴ったので取ってみると、後輩からの返事だった。あの後でクラブに行くと、知り合いのビジュアル系バンドの人たちが来ていて、一緒に飲んで盛り上がったのだと書かれていた。今の自分とはまったく別世界のことのように思えた。返事をする気にもなれなかった。
 その日は一日中何かしていないといられない気がして、美容院に行ってみたり、ジュエリーショップに行ってみたり、街中を歩き回ったが、何をしていても落ち着かなかった。スマートフォンが震えるたびに、怯えるように内容を確認したが、夫からの連絡は来なかった。
 夕方になって、女の母親から電話が来た。始めは何事もなかったようにごまかそうと思っていたが、母親の方から、昼間夫から電話があって話を聞いたと言ってきた。直接自分に言ってくることをせず、よりによって母親を通して話して来た夫の卑劣さが恨めしかった。夫は自分が一番母親にそういうことを知られたくないのを知っていてそうしたに違いない。母親は、夫が一度それぞれの両親が揃ったところであって話し合いをして、それで納得できなければ離婚したいと言っているのだと話していた。夫は実家に帰っているらしかった。女は、あのくらいのことで、何で私がそんなに恥をかかなければいけないんだろうと思った。夫も、あの男も、憎らしかった。これが男が浮気をしたのなら、ここまで恥をかかされずに済むのではないか。母親は、何があったのかよく知らないけれど、お前の側にも色んな言い訳があるかもしれないけれど、今はよけいなことは言わずにただ謝ったらいいと言った。母親にそう言われると、初めて涙がこぼれた。
 夫があのとき言った、何でだよ、という言葉が女の耳の奥に残っていた。夫は女に浮気の理由を聞いてきた。女は答えられなかった。男が女と寝たいことも、女が男と寝たいことも、どうしてという理由なんてないんじゃないかと思った。これこれこういう理由があるから浮気しましたなんて、その方がむしろ、わざとらしい作り話な気がした。それでも何でだよって聞いてくるんなら、私が女だから、相手が男だったからって答えるより他にないじゃない。

三、男性 四十六歳 大学教授

  その年の春、教職員委員会の後で、倫理担当の大学職員から、セクシャルハラスメントのパンフレットが配られた。その倫理担当職員から事務的にであったが、ここ最近、大学職員による生徒へのセクシャルハラスメントの案件が多いこと、当大学ではまだ発生していないが十分に注意して学生と接することなどの説明があった。他の職員たちはあくびをしたり、隣の人と雑談をしたりしながら聞いていた。その職員は半ば冗談めかした調子で、今問題になっているのは、昔ながらのセクハラ親父ではなく、むしろ若い頃にモテて今でもダンディな人で、自分の魅力に自信があるだけに、女子大生に教師として慕われているのを勘違いして性的関係を求めてしまうケースだと言い、数年前にマスコミで騒がれた男前の元オリンピック選手が大学で指導していた女子選手に強姦で訴えられた事件の例を挙げた。それを聞いて、男は自分には関係ないと思った。これまで女性にモテたことなどないし、自分の性的な魅力に自信などない。男の隣の若い教員たちは、
「先生はイケメンだから危ないんじゃないですか」
「何言ってるんですか、先生こそ若い頃は」
 などと緊張感のない顔で話していた。
 その女学生は三年から彼の中世文学のゼミに入ってきた。その学年の女学生たちは派手な格好の子が多かったため、最初に見たときにはあまり印象に残らなかった。彼女が男の記憶に残ったのは初めて二人きりで話したときだった。その日、課題の提出が遅れた彼女は放課後に男の研究室に来てレポートを出しいくつか質問をしていった。他のゼミ生の中にいるときには無口でどちらかというと暗い印象だったが、二人きりになると、とても明るくよく喋ることに男は驚いた。彼女はゼミ中には見たことがないような満面の笑顔で話してきた。そしてデスクに座る男の横に立つ距離がとても近かった。男は、彼女のテンションの高さと距離の近さ、そしてほんのりと漂ってくる若い女の匂いにひるみつつ、レポートを受け取って、いくつかの指導をした。そのとき偶然彼女が持っていた現代文学の本についての話になり、そのテーマの良い参考文献がないのだと言うため、いくつかのごく有名な評論家の本を教えた。すると、彼女はわざとらしいくらいに大きな声で、
「すごい、先生って何でも知ってるんですね」
 と目を輝かせながら男の顔を覗き込んできた。何でも知っていると言われて、嬉しくないことはなかった。一方で、日本文学の研究者なら自分の専門分野ではなくても誰でも知っているような本を上げただけであり、そのくらいで褒められて喜んでも仕方ないとも思った。その学生はまた何かあったら先生のところに聞きに来ますねと言って、研究室を出て行った。男は自分の心の中に久しく感じていなかったような華やいだ気持ちが生じているのに気が付いて、馬鹿馬鹿しいとそれを否定した。
 男は結婚してもう十五年だった。大学院に入り、博士論文が出せないまま卒業をしようとしていたとき、現在の妻と結婚した。妻も同じ大学院の一つ下の学生だった。大人しい女だった。二人ともよく院生室に残って研究をしていることが多く一緒に帰ることが増えていつの間にか親しくなった。男も自分の気持ちをあまり人に話さない方であったが、妻も同様の性格であり、二人の暮しはとても淡々としたものだった。それぞれが、それぞれのやりたいことをして、互いにあまり干渉もしなかった。それが男にはよけいな感情を揺さぶられないために、居心地がよいと感じられた。妻もきっとそう思っているだろうと男は考えていた。研究者としては、むしろ妻の方が男よりも優秀なくらいだった。自分には合っている女なのだろうと思っていた。子どもは出来なかった。
 口だけだと思っていたが、一ヶ月ほどして、その女学生は本当に男のところに、他の授業の分からないところを聞きに来た。夏が近づいていた。暑い日だった。前回同様に彼女はとても近くに立ち、男が机の上に開いた資料を一緒に覗き込もうとするため、男には女の体から発する熱気まで感じられた。男は思わず唾を飲んだ。ただ、今度は男にもすぐには分からないテーマだった。仕方なく、その場でパソコンで検索し、大学の図書館の開架の棚に関連する論文の載ったジャーナルがあることを確認し、男は図書館までその女を案内した。彼女は一緒に歩くときも距離が近かった。男はそのことを意識しないために、道すがら学術論文の検索の仕方などを説明した。図書館に着いて、そのジャーナルの棚まで案内すると、彼女は喜んで、
「こんなに丁寧に教えてもらったのは初めて、他の教授もみんな先生みたいだったらいいのに」
 と言った。男はゼミの指導教授が図書館で学生と二人でいることに何の疾しさもないと思いながらも、彼女と二人で立ち話をしていることに気恥しさを感じ、誰にも見られていなければいいがと思った。研究室に戻って一人になると、女のことが頭から離れなかった。
 それから女はたびたび男の研究室を訪れた。男には彼女が何をしたいのか分からなかった。たまに他の教員との話の中で彼女のことが話題になると、なぜか冷や汗が出るような思いがした。大抵が無口で何を考えているか分からないというものだった。ただ、何かとても不幸な境遇に育ったらしいという話を他の学生から聞いたと言っていた教員もいて、その話は男の記憶に残った。女は自分に父親のような存在を求めているのだろうか。これまでも懐いてくるような態度の学生がまったくいないというわけではなかった。ただ、それは複数の女学生が同時に半ばからかうような形で話しかけてくることが多かったし、彼女とは対峙したときの空気の濃密さやプレッシャーと言ったものが全く違っていた。男は、本当なら、この女にはこれ以上関わらない方がいいんだろうと思った。もし十年前だったらそうしたかもしれなかった。しかし、このときの男にはそれが出来なかった。何か得体の知れないものに突き動かされて自分ではどうにも出来ないように感じていた。
 女が三年の冬のクリスマス前だった。もう帰ろうと思っていると、男の携帯に彼女からメールが入り、今から研究室に行ってもいいかと言ってきた。この頃にはもうメールアドレスを交換し合っていた。男がかまわないと返事をすると、女はほどなくして目を真っ赤に腫らして現れた。男が驚いてどうしたのかを尋ねると、彼氏に浮気をされたので別れてきたのだと言った。男は彼女が付きあっている男性がいたことを知らなかった。あんなに自分に子猫のように懐いてきていたのに、他に普通に付き合っている男がいたのかと一瞬腹立たしくなったが、女は自分と付き合っているわけではなく、ゼミの生徒なのだと、自分に言い聞かせた。相手の男は、男のゼミ生ではなかったが、同じ国文学科の学生だった。いつも気取った格好をしている軽薄そうな男だと思った。あんなやつのどこがいいのだと言いたくなったが、男はまだ二十歳くらいの頃、先輩から別れ話で泣いている女を慰めてものにするためには、相手の男をあまりけなしてはいけないというルールを聞いたことを思い出して、言葉を飲んだ。女は涙を流し始めた。多くは語らなかったが、もうどうすればいいのか分からないの、誰も信じられないの、と繰り返し言った。そんな女を前にして男もどうしてあげたらよいか分からなくなった。論文の調べ方ならすぐに教えてあげられたが、恋愛相談など、まったく男の専門分野ではなかった。しかし、強張った顔で涙を流す女の顔を見て、男は美しいと思っていた。そして、何て豊かに誰かに対して自分の感情を表現出来るのだろうと思った。こんなに強く人に気持ちを表現が来る女性を、その男子学生はなぜ振ったのだろう。気が付くと、涙を流す女を抱きたいと強く感じていた。そんな自分を不謹慎だと思った。女はしばらく泣いていた。男は女が落ち着くのを待って、一緒に駅まで送り、ラーメンをご馳走してあげて別れた。
 その話はその後、特にそれ以上話題にはならなかったため、男には女がその学生と本当に別れたのか、よりを戻したのかは分からなかった。ただ、男はその男子学生を教室で見かけると、それだけで腹立たしい気分になった。この男が彼女の体をいいようにもてあそんだのかと思うと平静ではいられなくなりそうだった。しかし、男は彼女と自分の親密さが増したように感じた。女は相変わらず度々研究室に訪れて、色々な話をしていった。
 女が四年に上がったばかりの頃、男の研究室にまだ三十代の現代文学が専門の男性講師が入ってきた。その男性講師は最初どうでもいい世間話をした。しかし、そんな世間話をするような仲ではなかったため、男は何か言いにくい話があるのだろうかと思った。その通りだった。男性講師は、昨年度にゼミ生の追いコンをやったときに、男の研究室に毎日のように一人の女学生が通いつめていて愛人関係になっているということが、学生の間で噂になっているという話を聞いたのだと言った。男は、そんな噂をされるのはまったく心外で、確かに熱心な学生でよく研究室に質問に来る者はいるが、毎日ではないし、愛人関係などではないと説明した。男性講師は、もちろんそうだと思いましたけれど、一応先生にお伝えしておこうと思っただけだったのでと言って、その話題のまま退席することが躊躇われたのか、また他愛のない世間話をしてから部屋を出て行った。女が毎日研究室に来ているわけではないのも、愛人関係ではないということも事実だった。しかし、男はどこか後ろめたさを感じた。自分は何もしていないはずだったが、背中には冷や汗が流れていた。
 一つだけ嘘をついた。その女は、決して熱心な生徒ではなかった。男は最初はそのことに気が付かなかったが、女はその都度色々なことを聞いてきて男が説明するととても感心するのだが、しばらくすると、また同じようなところを聞いてくるのだった。男が前に教えたじゃないかと指摘すると、女はそうだったっけと舌を出して可愛らしく笑った。それを見ると男は、女が教えたことを覚えていないということへの不満よりも、もう一度この女に教えてあげることが出来るということの喜びを感じてしまうのだった。
 次の日に女が研究室に来たとき、男が男性講師から聞いた噂を伝えると、女はとても落ち込んだ顔をして、先生に迷惑を掛けちゃうと言って、目を真っ赤にした。それを見ると男は、まったく迷惑じゃないし、そういう噂を立てる方が悪いので、彼女には何も悪いところはないのだと伝えた。慰められると女はよけいに涙を流し始めた。男は前のゼミ生たちが卒業のときに買ってくれた小さな冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出して女に渡した。これでも飲んで落ち着こう、嫌なことを言ってしまって、僕も悪かったよ、これまで通りにここに来てくれていいから。でも、先生、迷惑でしょ。迷惑じゃないから。いや、迷惑だ。そんなことない。じゃ、私に来てほしいの? そう言われて、男は一瞬息を飲んだ。そして、来てほしいよ、と答えた。言ってしまったと思った。女はその言葉には答えずに、ペットボトルを強く握りしめていた。
 それから後も、二人の関係に変化はなかった。女は変わらず研究室にしばしば訪れたし、かといって、体の関係に発展するわけでもなかった。しかし、気が付くと、例年になく男のゼミの空気が悪くなっていた。男が彼女だけを特別扱いしていると他の女学生たちが感じたせいかもしれなかった。男はそうなってしまったら、もうどうすることも出来ない、このまま卒業まで我慢するしかないと思った。それに、女はもともと同級生の女学生たちと仲が良くないようだった。
 女は就職がなかなか決まらないと男の研究室でたびたび嘆いていたが、四年の秋に大きな会社ではなかったが無事に内定した。ただ彼女の卒業論文はとてもひどいものだった。書き上がるまでも、男がたびたび細かな指導をしたり、参考にしたらいい文献を詳しく教えたりしたが、実際に書き上がってきたものを読むと、とても論文とは言えない出来だった。しかも、女がようやく書き終えたのが提出日の朝であった。男は何でもっと早く仕上げて自分のところに持ってこなかったのかと思いながらも、その日の夜に研究室に女を呼んで、締め切り後の差し替えは本当はいけないのだけれどと断ってから、大幅に添削して修正させ、ようやく読める文章にして、出し直しておいた。女は次の日にお礼だと言って可愛らしく包装されたチョコレートを持ってきてくれた。それを恥ずかしそうに鞄から出す女の姿を見ると、多少冷や汗をかいたがこれでよかったのだと思えた。
 ただ、事態はそれだけでは終わらなかった。卒論だけではなく、女は卒業に必要な単位を落としていた。あの現代文学の若い講師の講義だった。単位が足りない何人かの学生のために追試が実施されることになった。女はせっかく就職が決まって卒論も出せたのに卒業出来なかったらどうしようと不安がった。男はもう卒業になる四年生に厳しく採点するあの講師が憎らしかった。
 追試が実施される日、男は自分の研究室で気が気ではない気持ちでいた。夕方に、女が蒼白な表情で現れた。予想していたところが外れて全然書けなかったのだと言う。男は彼女が全然書けないというのだから、本当に全然出来ていないのだろうと思った。一瞬、もう一年、彼女との時間を過ごせるのかもしれないという空想が頭をよぎったが、目の前で女が泣き始めると、自分がどうにかしてあげないといけないという気持ちになった。しかし、どうしたらいい。時計を見ると、もうすぐ六時だった。男は六時から教職員会議があることを思い出した。あの男性講師はまだ採点をしていないかもしれない。そして、彼も会議には出席することになっている。自分が教職員会議をさぼって、講師室に忍び込み、彼女の答案を盗み出して改ざんすることが出来れば。今日やる会議は例年長引いて二時間くらいかかることもある。自分が手を貸してあげれば、ものの三十分もあれば、彼女に少なくとも及第点の解答を書かせてあげられるのではないか。そう思いつくと、さすがに背筋が寒くなった。本当にそんなことが出来るのだろうか。女は男の表情が急に強張って硬くなったのに気が付いた。何? 先生、何考えてるの。いや、心配することはない、どうにかしてあげるから。本当に? そんなこと出来るの? 先生、私のために無茶なことしないで。男は立ち上がって、彼女を彼の椅子に座らせた。そしてまた冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを出して彼女に与えた。彼女はそれをまた強く握ると、私、つらいときはいつも先生に慰めてもらってる、と言った。その言葉を聞いて、男ははっきりと実行することに決めた。電話を取ると学部長に連絡し、体調が悪いので教職員会議に出られないかもしれないという旨を伝えた。重要な会議だから困ると言われたがお腹を下したので座り続けていられるか分からないと言い訳をした。そして、六時十分過ぎくらいに、彼女に待っているように強く言って、自分の研究室を出た。講師たちは何人かまとめて一つの部屋を使っている。そのため、講師室には普段は鍵がかかっていない。男がドアをノックしてみると返事はない。ドアを開けると真っ暗で誰もいない。男は電気をつけて、急いであの現代文学講師の机を探し始めた。心臓の鼓動が自分で聞こえるのではないかと言うくらいに高鳴っていた。本棚の一番脇に大学の封筒に入れられている解答用紙を見つけたときには思わず叫びそうだった。十人分ほどしかなかったため、女の答案はすぐに見つかった。取り出すと、三分の一も書けていなかった。これを自分の研究室に持って行って、女と二人で書き直せばいい。万事上手くいく。急にドアが開いた。立っていたのは、あの現代文学講師だった。目を丸く見開いていた。先生、何やっているんですか。男はまったくその通りだと思った。自分は一体、何のために何をやってるのだろうか。

四、女性 十七歳 高校生

 その日の朝は全く最悪だった。少女がいつものように満員電車に乗り込むと、すぐ隣の男が前にいたOL風の女性の体を触り始めるのが目に入ってきた。うんざりした気分になり、次の駅で人の流れが動いたら出来るだけこの場所から離れようと思った。すると、驚いたことに男はズボンのチャックを降ろして赤黒く腫れ上がったペニスを露出したのだった。明るい場所で勃起したペニスを見るのは初めてだった。男のペニスはまるでそれ自体が毒を持った生き物のように見えた。その小さな生物は口から粘り気のある透明な液体を吐きながらうねっていて、男はそれを前の女に触らせようとしていた。そのとき、女が裏返った奇妙な叫び声をあげた。少女にはとてもみっともない声に聞こえた。痴漢男も女の方もどちらもひどく汚らしいように感じた。女の声で車内が騒ぎ始め、次の駅で男は周囲の客たちに引きずり出されていった。引きずられながらも男は最後までペニスをしまわなかった。男のいきり立ったペニスが少女の制服の袖にぶつかり、透明で粘り気のある液体が糸を引いた。少女は慌ててティッシュでそれを擦り落とした。しかし、擦っても擦っても取れていないような気がして、何度も何度も擦り続けた。
 スマートフォンが震えた。鞄から取り出してみると、彼氏からのメッセージだった。
(おはよ~起きてる~)
 気の抜けた調子のメッセージに少女は少しほっとした。
  (とっくに起きてるよ!)
  (まだ寝てたら遅刻じゃん!)
  (それより聞いてよ、今電車の中で痴漢に出くわしちゃった!)
(えっ、マジで?)
(お前が痴漢されたの?)
  (私じゃなくて、他の女の人が触られてたみたいなんだけど)
  (そいつがさぁ、聞いてよ、ビックリしちゃった。アソコ丸出しにしてたの!)
(丸出しって、本当に全部? お前、すげえの見たなぁ)
(どんな状態だった?)
  (すげえのって、ちっとも嬉しくない…)
  (どんな状態って、痴漢して興奮してんだから、そんな状態だよ)
(う~わ、マジで。ねぇ、そいつのチンポ、俺のとどっちがおっきい?)
  (ちょっと、やめてよ、そんなこと聞かないで)
  (こっちはまだ変なもん見たショックを受けた状態から立ち直ってないんだからぁ)
 電車が乗り換え駅に着きスマートフォンを鞄に戻した。全く男っていうのはどうしてこう発想が馬鹿なんだろうと思った。ただ、痴漢を見た直後に彼氏と話が出来たおかげで気持ちが落ち着いた。駅の中を歩きながら、さっきの痴漢男と彼のペニスはどちらが大きいだろうかと本当に想像してみた。痴漢男のものはそこまでじっくりと見たわけではないのではっきりは分からないが、恐らく彼のものよりもずっと大きいように思われた。でもきっとそれを正直に言ったら彼は傷つくのだろう。もししつこく聞かれたら、彼氏の方が大きかったと嘘をついてあげた方がいいかもしれないと思った。そういう嘘はついていい嘘なのだろう。痴漢男のペニスの触れた左手の袖が、まだ何か汚いような、嫌な臭いを放っているような気がしていた。
 彼と付き合い始めたのは一カ月くらい前だった。その男子生徒は少女と同じ高校に通っていた。高校一年では同じクラスだったが、二年になってからは別々になった。彼は背が高く顔立ちが整っていて、スポーツも勉強も得意で、少しだけ不良がかったところもあって、同学年の女子からはとても人気があった。クラスメイトの女子の何人かは密かにファンクラブを作っているほどであった。しかし、少女自身は地味でどちらかというとオタクっぽい自分と彼が釣り合うとは思っておらず、周りの女子たちが騒ぐのを聞いても、自分とは関係のないことのように思っていた。好きな男子を聞かれても、ゲームに詳しいオタクの中では幾分マシな見た目の男子の名前を上げたりしていた。
 しかし、一カ月前にあるインディーズバンドを観にライヴハウスに行ったとき、偶然に会場で彼と出会った。学生服を脱いだ彼はとてもお洒落で大人っぽく見えた。どうやって年齢確認を逃れたのか分からないけれども、アルコールの入ったカクテルを彼女の分も持ってきた。少女は初めてアルコールを飲んだ。それまで二人きりで話したことはほとんどなかったが、そのときの彼はいつになく親しげだった。少女は一人で来ていたが彼には男の連れがいるようだった。しかし、「あいつらはいいんだ」と言ってずっと少女の側にいた。アルコールのせいもあってか、あるいは彼が隣にいたからかライヴはとても素晴らしいものに感じた。彼に「一緒に帰ろう」と誘われ、「友達と帰らなくていいの」と聞き返すと、彼は「後で連絡をしておけばかまわない」と答えた。二人は一緒に帰った。彼も音楽が好きなようだった。ただ恐らく少女は自分はそれ以上に沢山音楽を聴いているのだろうと思った。正直に言って彼女には彼の趣味は通俗的に聞こえた。それでも少女は自分の好きな音楽の話を目を輝かせて語る彼の美しい横顔に夢中になった。彼女は、やっぱり自分もイケ面が好きなんだ、と実感した。最寄駅からの徒歩の道のりで彼は先輩から借りたという何かの身分証明書を使ってロング缶のカクテルを一本買って二人で回し飲みをしながら帰った。別れ際に彼は少女を抱き寄せて、
「今日分かった。俺たち絶対合うと思う」
 と言った。そして二人は付き合い始めた。それから今までの間に三回セックスをした。少女にとっては初めての経験だった。いずれも気持ちがよくはなかった。ただ彼は喜んでくれたようだった。
 自分からは誰にも言わなかったが、いつの間にか彼らが付き合っていることは学年中に知れ渡った。照れ臭かったが心地よかった。親しい女子からそのことを言われると、少女は満更でもない顔で白状をした。幸せだった。つい数カ月前まで自分にそんな幸せな恋愛が待っているなど思いもよらなかった。ましてや学年中の女子がみんなが羨むような、レベルの高い男子から好かれるなんて想像も出来なかった。
 ただ、付き合いだしてみると、遠くからは大人っぽく見えていた彼の随分幼い子どものようなところが目についてきた。それに誰もいない場所に来るとやたらに胸を触りたがったり、すぐにフェラチオしてくれと言って来たりするのには閉口した。しかし、大して可愛いわけでもない自分が愛されるためにはそのくらい応じなければならないと思い、求めるものを提供していた。男はみんなそんなものだろうとも思っていた。
 痴漢を見かけた日の朝、学校に着いてクラスメイトの女子たちにその話をすると、みんな大喜びで集まってきて騒いだ。おどけた性格の女生徒からは、どんな形だったか黒板に書いてくれとまでせがまれた。「アソコ」「勃ってる」「痴漢」などの単語を女子たちが話しているのを聞きつけた男子たちも混ざってきて、クラスは朝から猥談大会のようになった。少女は男も女も人間はみんなこんな話が大好きなのだろうと思った。
 担任がやって来て、朝のホームルームが始まった。女子バレー部の部室のロッカーの上から小型のデジタルカメラが発見されたという話があった。忘れ物なのか盗撮なのか詳しい状況は分からないが、もし学内に不審者がいるのを見かけたら、すぐに教員まで言ってくるようにということであった。そこでもまた教室は盛り上がった。ある男子生徒の一人は、学内の人の犯行じゃないですか、と言った。それに便乗した他の生徒たちが「誰かエロ教師がいるんだ」「エロ教師だ」と囃し立てた。担任はまだ何も分からないので余計な憶測で話をしないようにと憮然として言った。少女は、今日はどこに行ってもこんな話だと思った。
 学校の帰り道に彼と待ち合わせた。彼との話題も朝の痴漢と学校の盗撮事件の話になった。彼は変態野郎には制裁を加えてやる必要があると嬉しそうな顔をして言っていた。少女はふとその変態野郎たちとどこででもすぐにフェラチオをしてくれと言ってくるこの男はどこが違うのだろうと思った。しかし、すぐに私たちは付き合っている恋人同士なのだとその考えを否定した。
 その日、彼は母親がアルバイトで夕方まで帰ってこないのだと言って少女を自分の家に引き入れた。そして当然のように抱きしめてきた。少女は親に何も言ってきていないのであまり遅くなれないと言った。それなら口でいかせてくれと言い、ズボンを脱いで椅子に座り、少女を自分の前に跪かせた。すでに彼のペニスは硬く勃起していた。彼のペニスを明るいところで見たのは初めてだった。じっくりと眺めると、やはり朝の痴漢男のものの方が大きいようだった。
「何そんな真剣な顔して見てんだよ、お前、チンポコが好きだなぁ。ほら、早くしゃぶってくれよ」
 顔を近づけるとツンとするような臭いがした。銜えさせるなら洗ってからにしてほしいと思ったが言えなかった。少女は彼のペニスを頬張った。彼は小さな呻き声をあげた。これで彼が喜んでくれるならそれでいい。何も取り柄のない私だから、誰からも愛される彼にしてあげられることは、これくらいしかない。
 彼はフェラチオをされながら彼女の胸を制服越しに乱暴に揉んでいたが、そのうち少女の制服を無理矢理にめくり上げて、直に触ろうとした。「ちょっと待って、痛いし、皴になるから」少女は口を離して制服の上半身を脱ぐとブラジャーを外した。少女の大きな乳房が空気に触れた。彼は満足げに彼女を自分の前に立たせるとその胸に吸い付いた。
 付き合い始めて少し経った頃、「私のどこが好き?」と聞いたことがあった。彼は少し考えてから、笑って「おっぱいおっきいところ」と答えた。少女が「もぉ、そんなことばっかり」と言って怒ると、彼は「うそうそ、冗談だって」と言って逃げ回った。少女は時々あれは冗談ではなくて本当なのかもしれないと思うことがあった。
 彼は気が済むまでひとしきり彼女の胸を弄んでから、再び少女を床に座らせると、フェラチオの続きをさせた。そして今度は直接に彼女のふくよかな胸を揉んでいたが、急にその手を放して、「こっち向いてよ」と言った。少女がペニスを銜えたまま上を向くと、シャッター音が鳴った。スマートフォンで写真を撮っていた。少女が驚いてスマートフォンを取り上げようとすると、彼は長い手を伸ばしてそれを遠ざけた。
「ちょっと、やめてよ、それどうするの」
「気にすんな気にすんな。お前の銜えてる顔が可愛かったから撮りたくなっただけだから」
「いきなりひどい、消してよ、すぐ消してよ」
「消す消す、後で消す。誰にも見せないって。ほら、早く続けろよ、まだいってないぞ。生殺しにすんな」
「絶対誰にも見せないでよ、約束だからね」
「見せるわけねぇだろ、大体俺のポコチンも映ってんだぜ、人に見せたら恥ずかしいのはむしろ俺の方だって」
 彼は彼女の頭を抑えてペニスに押し付けた。少女は仕方なく再びそれを銜えた。
 彼は射精し終わると少し態度が冷たくなって、早く帰らなきゃいけないんだろと言い、半ば追い返すように少女を帰した。少女は自分が娼婦にでもなったような気がして、惨めな気持ちで帰路に着いた。やはり自分と彼とでは合わないんだろうかと思ったりした。

 それから一週間ほど経った頃だった。校内では不法侵入をした男を体育教師が柔道技で投げ倒して捕まえたという話が話題になっていた。以前に発見されたビデオカメラを回収しに来たらしかった。犯人の男はテレビにも出たことがある俳優だったらしく尚更に生徒たちの間では盛り上がっていた。
 少女は彼との間の距離が広がっているように感じていた。会ってもセックスを求められるだけで楽しくなかった。音楽の話をしても底の浅さが見えてしまうようでつまらなかった。そう遠くないうちに別れることになるだろうと感じていた。

あるとき、学校に行くと、教室で他の生徒たちの自分を見る目がどこかいつもと違っているような気がした。クラスで最も女子から嫌われている気持ちの悪い男子生徒がなぜか少女の方をじっと見つめていた。他の男子もどこかにやついているような気がした。女子たちは彼女に近づいてこなかった。何が起きたか分からなかった。何かすべてが薄気味悪く感じた。
 休み時間に女子たちが集まって話しているところに少女が混ざろうとすると、何名かの女子は苦笑しながら、私たち用事があるからとその場を去っていった。少女は、
「変なの、何あれ?」
 と言った。隣にいたその中では一番仲の良い女生徒が、少女の袖を引っ張った。少女は彼女に引っ張られるままに廊下の隅についていった。
「ちょっと、何、何があるの」
 彼女は少女の方を見て顔をしかめた。
「ねぇ、ホントに何も知らないの? かなりまずいことになってんだけど」
「何のこと言ってるの? 全然分かんない」
 彼女はスマートフォンを取り出すとある画像を開いた。
「これが学年中に回っちゃってるよ。あんた何でこんなことしちゃったの?」
 そこには大きな乳房を露わにしてペニスを頬張っている少女の写真が鮮明に映し出されていた。すぐには何がどうなっているのか判断がつかなかった。写真の少女は不意を突かれた驚きで目が半開きになり、自分が見ても間の抜けた表情をしている。あの嫌らしい目でこちらを見てきた男子生徒はきっとこの写真を見たのだろう。クラス中、いや学年中の男子がこの写真を見てマスターベーションをするのだろうか。私が何をしたっていうのだろう、何で私がこんな目に合わなければいけないのだろう。

五、男性 四十一歳 舞台俳優

「お疲れさまです」
 稽古を終えた役者たちがスタジオを後にしていく。男も挨拶をされると愛想笑いを浮かべて「今日もきつかったなぁ」などと返す。他の役者たちはこの後一緒に食事に行く話をしているが、いつものことながら男は誘われない。どうせ誰も俺なんか誘わないだろうと思いながら、一方で誘われたらどう反応していいか分からないという不安も感じて、足早に荷物をまとめて建物の外に出た。本番は来週である。みんな疲れが溜まってきている。それでも、この劇団は社交的な人たちが多く、男からすれば疲れているのだから早く帰ればいいものを毎日のように飲みに行ったりしている。稽古が終わるとすぐに、今日はどこに行こうかという雰囲気になる。男は下を向いて出来るだけ早く帰り支度をする。もちろん、この劇団に客演に来た当初は何度か誘われた。しかし、立て続けに断ると誰も誘って来なくなった。誘われても行きたくはないが、皆が楽しそうに何を食べようかと話している中を自分だけ声をかけられないのはそれはそれで不愉快にも思うのだった。男は家路を急いだ。
 三十に手が届く頃、男はある大きな演劇賞で助演賞を取った。予想していたわけではなかった。最初自分のような人間が賞を取るなんて裏があるのではないかと思ったほどだった。ただ、色々な人から祝われ、授賞式にも参加すると、これまでの自分の苦労が報われたのだという気持ちになってきた。その直後には信じられないほど仕事が降ってきた。それまで他の劇団の仕事を取るためには、自分でオーディションに行くか、知り合いのコネに頼るかしかなかったが、向こうから声をかけてくるようになった。男の劇団の演出家は「今が大事だからよく仕事を選ぶように」と言ってきた。男はいわゆる「ブレイク」をした人がよく言われるアドバイスだと思った。これまでずっと目立たない人生を送ってきたが、自分にも番が回ってきた。これから人生は変わる。次々に重要な仕事が来て有名になっていく。男は新たな自分の人生を夢想した。実際、何度かテレビで観たことがあるような俳優が彼に近づいてきて、彼の仕事を褒めたり、連絡先を交換したりしてくれて、これで有名人の仲間入りをするのだと思った。
 しかし、そうした目まぐるしい時期は長くは続かなかった。それ以上には何も起こらなかった。次第に仕事は減っていき、気が付けば受賞前と大して変わらなくなっていた。結局、何もかも同じで、人生は変わらなかった。自分はチャンスを逃したのだろうかと思った。ただ、どうすればチャンスを掴めたのかと考えると、他に出来ることなどなかったようにも思う。もともとこういう運命で受賞が何かの間違えだったような気もした。
四十を過ぎても、相変わらず演劇だけでは食べられず、アルバイトを続けながら生活をしていた。二十代半ばの頃、同じような生活をしながらも、心のどこかでは、いつかよりよい未来が来るかもしれないと思っていた。今はこんな生活をしているが、日の目を見る時が来るかもしれないと心の隅では信じていた。しかし、今となっては結局自分の人生は大して変わらないだろうと確信に近く感じていた。なぜ演劇を続けているのかと問われたなら、自分に他の人生が送れるとも思えないからという答えしか見つからなかった。もちろん演じること自体は好きだった。ただ、社交的で華やかで、大胆な行動が出来る俳優たちと接すると、自分がこの仕事に向いていたとはとても思えなかった。
 アパートに帰ると、玄関のドアが開けっ放しになっていた。男は腹立たしい気持ちになった。
「おい、何度言ったら分かるんだよ、何でいつもいつも玄関を開けっ放しにしておくんだよ」
 大声を出しながら部屋の中に入っていくと、母親はだらしなく床で寝ていた。男が足でゆすり起こすと、母親は言葉にならないうめき声をあげた。
「寝ぼけるな、おい、聞いてんだろ」
 母親はようやく目を覚まして驚いたような顔をする。起き上がらせようとすると、あたりに異臭が漂った。
「勘弁してくれよ、お前、また糞垂れたのか? 冗談じゃねぇよ」
 男は母親をそのまま風呂場に連れて行った。母親は男に怒られてしょげた顔をして風呂場に入り、男がまだその場にいることをまったく気にせずに、ズボンと下着を降ろした。
「着替え持ってくるから、ちゃんとケツ洗っとけよ」
 そう言って男は母親の服を取りに行った。今夜はまた母親の汚した下着を洗わなければならない。ただ血がつながっているというだけの理由で、なぜ世話になった記憶もないこの老婆の面倒を見なければならないのだろうと思いながら、男は母親のタンスを開けた。

 次の日は稽古が休みだった。本番前の最後の休日だった。朝早くに目を覚ましたが、布団から起きる気になれずに横になったままでスマートフォンを見ながらだらだらと過ごした。昼頃に起きて自分と母親の昼食を作った。母親は昨日叱りつけたせいか大人しかった。食事を終えて、少しだけ稽古の台本を見直し、夕方から作業着に着替えて、アパートの前に止めてある軽トラックに乗り込んだ。トラックは十五年前に死んだ父親が残したものだった。かなり古くなっていたが、あまり運転をする機会もなかったため、今でも現役で動いている。男は生前に父親がしてくれた唯一のよいことが、このトラックを残したことだろうと思っていた。父親の顔など思い出したくもなかったが、このトラックだけは役に立っていた。
 男はアパートから車で一時間ほどの私立高校へ向かった。その高校に入るのは二度目だった。私立のわりには警備が手薄なことは分っていた。裏門の近くにトラックを横付けして、何気ない顔をして校舎に入った。作業着を着ていれば、生徒や教師とすれ違っても、会釈をされるくらいで、何事も起こらないことも分かっていた。警備員に見つかって話しかけられることが最も厄介だったが、前に来たときには警備員は見かけなかった。

 学校に忍び込むことを覚えたのはほんの偶然だった。二十代後半の頃、学校公演に呼ばれたときだった。題目は「走れメロス」だった。男はメロスの親友のセリヌンティウスを演じた。体育館の狭い舞台で、照明などもちゃんとしたものはなく、運べる大道具も限られていて、決して満足のいく舞台ではなかったが、もともと生徒たちには何の期待もされていないようだったので、こんなものだろうと惰性で演じていた。特に大きな問題はなく終演し後片付けをして学校を出るとき、男は自分が携帯電話を忘れたのに気が付いた。他の劇団員たちに車で待っていてもらうように頼み、一人だけ着替えをした体育準備室に引き返した。しかし、携帯はなかなか見つからず、落ちて転がってはいないかと、跳び箱の裏など部屋の隅々を探していた。そのとき、廊下に華やいだ女生徒たちの声がした。男は自分に特に疚しいことがあるわけではないと知りながらも、思わず腰をかがめて跳び箱の影に隠れた。すると、その部屋に四、五人の少女たちが笑い声をあげながら入ってきた。彼女たちはメロス役の人の走り方がわざとらしかったということを馬鹿にしたように話していた。男は一度隠れてしまったためどうしたらよいか分からなくなった。困った男が跳び箱の隙間から彼女たちの方を覗くと、彼女たちはその場で着替えをしていた。これから体育館で部活の練習をするらしかった。メロスを小馬鹿にして笑いながら、無造作に下着姿になり、体操服に着替えていった。気が付くと男は固く勃起していた。少女たちはセリヌンティウスが卑屈な顔の男で、あんな男に命を懸ける価値はないんじゃないかとも言った。演劇も文学も何も分からない小娘たちに馬鹿にされているということが、より一層に男を興奮させた。半ば無意識のうちに自分の股間をつかんで擦っていた。そして、男はずっと忘れていた中学の修学旅行を思い出した。

 中学の頃、男はクラス中からいじめられていた。もともと集団に溶け込めない性格だったし、その頃から親の生活がそれまで以上に荒れていき、母親に衣服の洗濯をしてもらえず、毎日襟の黒くなったワイシャツを着て登校していた。風呂にもろくに入っていなかったため、頭にはフケがわき、体は臭気を放っていた。たまに教師からもちゃんと風呂にはいれと言われるほどだった。大人になった男から振り返れば、いじめられて当然の少年だった。始めは不良の男子からのいじめだったが、男の容姿が不潔になっていくにつれて、女子からのいじめもひどくなった。すべての女子が、彼の体のみならず、彼の触った物にさえ触ることを嫌がった。あるとき、彼が隣の女生徒の落とした消しゴムを拾ってやると、その女生徒は大きな声をあげて、「信じられない、黴菌がついて二度と使えないじゃない」
と言って彼の目の前でその消しゴムをゴミ箱の捨てられたこともあった。また彼の前の席になったある女生徒は彼に直接プリントを渡すのを嫌がり、プリントが回ってきたとき、彼の分は床に落として「拾え」と言うのだった。休み時間に他の男子生徒に足をかけられて教室の床に転んだ彼に対して、ある女子生徒は直接だと汚くなるからといって、コンビニのビニール袋の中に自分の足を突っ込んで、ビニール袋越しに彼の腹を蹴飛ばした。演劇を知る前の彼の人生はほとんどが屈辱の記憶しか残っていない。
 彼は始めは修学旅行に行けないだろうと思っていた。親が積立金を滞納しているという話を聞いていたからであった。ただ、直前に父親が競馬でかなりの額を稼ぎ、上機嫌になって不足分を一括で払ってくれた。けれども、男はそもそも修学旅行になど行きたくなかった。男は父親の余計なお節介を恨みながら、いやいやに旅行に参加した。夜は案の定、枕投げの集中砲火にあった。風呂に行こうとすると、着替えを取り上げられて窓の外に投げ捨てられた。男は修学旅行など来なければよかったと思いながら自分の服を探しに行った。暗がりの中であったが旅館の庭でズボンとシャツはすぐに見つかった。しかし、下着がなかなか見当たらなかった。部屋の窓の明かりが届かない茂みは真っ暗で小さなパンツなど見つかりそうもなかった。辺りを歩き回っては見たが、どうせ見つかりそうもないのでえ明日も今日と同じパンツを履くしかないと思いかけたとき、ふと甘い香りとともに女生徒たちの笑い声を聞いた。その声の方へと引き寄せられていくと、換気のために少しだけ空けられた窓から匂いが漂って来ているようであった。その窓は男の身長からは覗くには高すぎた。まさか見えるわけがないだろうと思いながらも軽い気持ちで近くにあった空の石油のポリタンクを置いてその上をよじ登り中を覗いてみた。すると信じられないことに、普段一緒に授業を受けている女生徒たちが皆あられもない姿で入浴をしているのであった。男は息をするのも忘れて食い入るように見つめていた。彼の触った消しゴムを捨てた女生徒の生い茂った陰毛を、彼をビニール袋越しに蹴り飛ばした女生徒の大きな胸や肉好きのいい尻を、クラスで一番可愛いと言われている女生徒の案外に小さな乳房を、彼は睨みつけるかのように見続けた。男は正直そのとき自分が性的に興奮していたかどうか覚えていない。ただすべてを網膜に焼きつけてやろうと窓の中を凝視していた。何か自分の人生に特別なことが起こったように感じた。結局、女生徒たちには気が付かれないまま、その場で三十分ほど彼女たちの裸に見入っていた。
 男は風呂場を覗いたことを誰にも言わなかった。心の中だけに留めておいた。それから後も男の中学生活は変わらなかった。相変わらず無視されて馬鹿にされ蔑まれた。しかし、変わったことがあった。女生徒から見下されたとき、汚い物を見るような目で見られたとき、男はその女生徒の裸を思い出すのだった。すると何か力が湧いてきた。お前はそんな顔で俺を見ているが、俺はお前の身体をすべて見たことがあるのだぞ、心の中のそんな優越感が男を励ましていた。

 二十代後半の頃、偶然に体育準備室で女子生徒の着替えに出くわしたことは、男を暗い過去の記憶へと呼び戻した。最初は彼女たちの下着姿を思い浮かべてマスターベーションをするくらいのことで、自分でもそのくらいはおかしいとは思わなかった。しかし、そのうちまたあそこに行けば、女生徒たちの裸の姿を見られるのだろうかということを考え始めた。あるいは、あそこに小型のビデオカメラを仕掛けたら彼女たちの着替え姿が撮れるのだろうか、と男の空想は膨らんでいった。そして、期待していたオーディションに落ちたと分かったある日、男は再び学校演劇で行ったあの高校に忍び込んだ。そのときには忍び込むこと自体に心臓が張り裂けそうなほどに緊張して快楽を覚え、殆んど何もせずにそのまま戻ってきた。しかし、そこで誰にも気づかれずに戻ってこられたということが、男の中である種の成功体験として残った。
その後、男は様々な学校に忍び込むようになった。時には制服や体操服を盗み、時にはトイレや更衣室にビデオカメラを仕掛けた。不思議なくらいに見つからなかった。いつしか学校に忍び込むことは男の生活の一部のようになっていた。

 その日、忍び込んだ私立高校には小型のデジタルカメラを仕掛けていた。もし上手くいっていたらそのカメラには女生徒たちが着替える姿が映っているかも知れないと空想した。仕掛けたのは女子バレー部のものと思われる部室だった。一度忍び込んだ場所なので、その部室までは間違えなく最短距離で行くことが出来た。幸いなことに誰ともすれ違わなかった。遠くからまだ残っているらしい生徒たちの声が微かに聞こえたが、たとえ偶然出くわしたとしても業者のような顔をして会釈をすれば、これまでも問題なくやり過ごせてきた。
 簡単に自分がカメラを仕掛けた部室を見つけ出すことが出来た。部室は薄暗く誰もいないようであった。中に入って電気をつけ、ロッカーの上の段ボールと段ボールの間に紙袋に入れて仕掛けたビデオを探した。しかし、置いたはずの場所に見つからなかった。嫌な予感がした。すぐにこの場を立ち去るべきかもしれないと思った。そのとき、ドアの後ろから声がした。
「お前、そこで何してるんだ」
 振り向くと、ジャージを着た体育教師らしい人物が立っていた。男は卑屈な笑顔を浮かべて会釈をした。
「お疲れさまです。あのエアコンの具合がおかしいっていうのは、この部屋でよかったでしょうか」
 教師は怪訝な表情を浮かべた。
「お前、何言ってる。そんな話聞いてないぞ」
 男は今が自分の人生で最大の芝居の見せどころなのだ、今こそこれまでの役者人生で培ってきた力のすべてを発揮するときが来たのだと思った。
「あれ、おかしいですねぇ。それじゃ、何かの間違えかな。確かそういう依頼を受けたのに」
「おい、いい加減なことを言うな、お前は何者だ」
 男はまったくその通りだと思った。この俺は、一体何者だったんだろう。

六、女性 二十二歳 大学生

 彼女は父親が高齢になってから生まれた子どもだった。父親は高校教師だったが、彼女が大学に入る頃にはすでに定年退職をしていた。母親はその教え子だったと言う。
父親は昔学生運動をしていたらしいが、当時の話は詳しく聞いたことがないし、彼女自身も関心がなかった。父親はむしろ自分が政治運動に参加をしていたことを娘に知られたくないのではないかと思われるときもあった。普段は大人しい初老の男であり、同年代の友人の親と比べて、多くのことに寛容で、むしろ何事にも無関心に見える父親だった。しかし、まれに学生運動時代の仲間が訪れたとき、驚くほどの敬意を受けているのを見ることがあった。また、テレビを見ているときなどに、不正事件や人権問題について、恐いくらい強い調子で批判することがあった。そんなとき、彼女は昔父親が仲間を指揮して政治運動をしているところを密かに思い描いてみるのだった。
 彼女自身は大学四年まで政治や社会問題に興味などなかったし、正直なところなぜそんなことに関心を持つ人たちがいるのかもよく分からなかった。高校を卒業して私立大学の文学部に入学して、アルバイトに明け暮れるようなごく普通の大学生活を送った。入学当初はサークルにも入ろうと考えていたのだが、最初に見学をしたフットサルサークルのコンパのあまりの馬鹿騒ぎに嫌気がさして、これならアルバイトの方がマシだと思った。そして、このときに始めたファーストフードのアルバイトにやりがいを感じて、それが彼女の大学生活の中心となった。そこで気の合う仲間が出来て、また同い年の大学生の彼氏も出来た。彼女は自分が店でアルバイトの時給以上の働きをしていると思っていた。それが彼女のプライドだった。
 彼氏とは大学一年の夏から付き合い始めた。付き合いだして半年後に彼のアパートで初めてのセックスをした。彼からは付き合いだしてすぐに誘われていたが、経験がなかった彼女は怖くてなかなかその気になれなかった。彼はセックスをしたい気持ちと彼女を大切にしたい気持ちの中で悶々と悩んでいるようであり、そんな彼の様子がいじらしく、彼の望む通りにしてあげたいとも思ったが、踏み切るまでにはかなりの決心が必要だった。
正直、最初のときは痛いだけで少しも気持ちよくなかった。ただ友達から聞いていたので予想通りではあった。しかし、彼の方は彼女がそこまで痛がるとは思っていなかったようで、すっかり動揺してしまった。不安そうな顔で何度も彼女に大丈夫かと尋ねてくる彼を、彼女は愛しくてたまらないと思った。動揺した彼はそのまま萎えて勃たなくなってしまい、結局最初の日はそこまでになった。彼は勃なくなってしまったことも何度も頭を下げて謝った。彼女はそのとき笑って「少しも謝ることじゃないの、そんな君が大好きなの」と言って彼を何度も抱きしめた。
 その後、二、三週間に一回くらい彼の部屋に行って、お互いに少しずつセックスに慣れていった。充実したアルバイト生活を送ることが出来て、優しい彼氏もいて、学校の授業もそれなりに真面目に出席していた。抜群ではないかも知れないけれど、順調な人生だという気がした。大学を卒業したら就職をして、何年か後に大好きな彼と結婚をして、このまま順調な人生を歩んでいきたいと思っていた。

 就職活動が本格化した大学四年の春、久しぶりに登校をすると、文学部の教授がクビになったという噂が流れていた。彼女も授業を取ったことがあった。辞めたのは事実らしいが、なぜ辞めたのかは不確かな情報ばかりだった。ただ、どうやら女性のゼミ生との関係が原因らしかった。
「ほら、見かけたことない? 痩せてて髪の毛が長くてちょっと暗い感じの先輩。一時期さ、噂になってたじゃない、研究室に毎晩のように入り浸ってるって」
 カフェテラスで会った語学のクラスメイトの友人が、嬉しそうに彼女に説明をしてくれた。
「何か、その人が卒業の単位が足りないらしくって、あの教授が彼女のために解答を改ざんしようとしたか、テスト問題を盗もうとしたかしたらしいの。すごくない? 卒業できないのなんて本人のせいなんだから、そこまでするかって感じじゃない」
「え、じゃ、先生はやっぱりその先輩と付き合ってたってこと?」
「そんなの当たり前じゃん、付き合ってなかったら、わざわざ自分の身を危険にしてそんなことするわけないじゃん。でも、その先輩、周りからかなり評判悪かったらしいの。人によって態度を変えるっていうか、狙った男を見るとすんごい距離が近くなって甘えてすりよってくっていうか。その先輩に彼氏を寝取られた子がいっぱいいるんだって」
 彼女は一年前に古典文学の授業を受けたときのその教授の様子を思い浮かべてみた。取り立てて強い印象はなかった。男性として魅力的と思ったことはなかったが、特に嫌な感じのする人でもなかった。同い年の大学生の彼氏と付き合っている彼女にとっては、倍以上も年の離れた大学教授と付き合うということは想像もつかなかった。どうしてその子はそんなことをしようと思ったのだろうか。その教授も下手をすれば自分の子どもくらいの年齢の女の子とどうして関係を持とうと思ったのだろうか。ただいずれにしても自分とは関係のない世界のような気がした。

 ファーストフード店でのアルバイトに生きがいを感じていた彼女は外食産業を中心に就職活動をした。アルバイト先からも正社員にならないかと言われた。それも悪くはない気がしたが、ただそこで働いたのでは、自分が全くそこ以外の社会を知らないような気がして、もう少し新しい空気が吸いたいと思い、折角の誘いだったが断った。しかし、正直なところ、もしどこにも受からなかったら、今のアルバイト先にやっぱり雇ってくださいとお願いしようかと密かに思ってもいた。
 ある大企業の一次面接でグループディスカッションをしたときのことだった。会場から駅までの帰り道に同じグループだった女の一人と話していると、お互いの就職活動の愚痴から話が盛り上がり、折角だからお茶でもしようと誘われた。アルバイトまでまだかなり時間があったし、どうせ向こうで制服に着替えるので、このまま家に帰らずにリクルートスーツで出勤してもいいと思い、付き合うことにした。たまにリクルートスーツで出勤して、バイトの仲間に冷やかされてみるのも楽しい気がした。
 その女はとても痩せていて極端なほど短髪だった。喫茶店で話していくうちに、その女は二浪と一留しているために彼女よりも三つ年上の二十五歳だということが分かった。最初はお互いの就職活動の情報交換という感じであったが、次第にこれまで大学でやってきたことの話となった。彼女にはファーストフードでのアルバイトくらいしか話せることがなかったが、その短髪の女はアルバイトもサークルもいくつかを掛け持ちして、それだけではなくボランティアやNPOなどの様々な人脈があるようであり、話を聞いていて圧倒された。自分は本当に狭い範囲でしか生きてこなかったと感じ、就職活動でこういう人たちと戦わなければならないと思うと勝ち目がないような気がしてくるのだった。
 その短髪の女の話の中に、ある危険地帯に派遣されて手足を失った元自衛官の男性が登場した。彼女もテレビのニュースで何度も見たことがあった。後方支援という目的で派遣されたにもかかわらず、彼のいた部隊が戦闘に巻き込まれ、彼は手榴弾の爆風をもろに受けて瀕死の重傷を負い、命だけはとりとめたが両手足を切断しなければならなかった。しかし、日本に帰って来てからは、自衛隊を除隊して逆に反戦運動に加わり、自分の経験をもとにして戦争の悲劇を世に訴えているのだった。短髪の女はNPOの活動を通して彼と知り合い、社会を変えたいという強い情熱に打たれて、今でも彼の参加する集会や講演会などに参加して、手伝ったりしているのだと語った。それを聞きながら彼女は自分とまるで違う広い世界で生きてきたその短髪の女を羨ましく感じた。短髪の女は来月にまた彼の講演会があるので、よかったら来ないか、その後で直接彼に会わせてあげてもいいと誘ってきた。テレビに出るような有名な人に会わせてもらうのは気が引けたが、講演を聞くだけなら、日程がアルバイトや就職活動とかち合わなければ行ってもいいと思い、その場は連絡先を交換して別れた。
 その後、気になってインターネットなどでその男性のことを調べた。当然いつも車椅子姿であり、右の手はかなり短いが左の手は肘くらいまでは残っているように見えた。ただ、顔だけ見ると、障害のある人だと思えないくらいに自信に満ちていて、まるで俳優のような端正な顔立ちをしていた。もう四十近いはずだったが、それよりずっと若々しい顔をしていた。演説もとても巧みで、逆にその雄弁さが少し胡散臭い気もしてしまうくらいだった。ただ、彼の語る戦争の悲惨さや、関連諸国の経済的な利害関係によって戦争が起こり一般の人々が巻き添えとなることへの憤り、そして彼自身が手足を失った悲しみや、自分の人生は何のためにあったのだろうかと苦悩した日々の話にはとても感銘を受けた。その話を自分の彼氏にしてみると、一生懸命に聞いてはくれたけれど、中東でどことどこが争っているかということや、なぜ自衛隊が中東に行かなければならないかということなど、基本的なところが全く分かっていないようであり、この人はそういうことを本当に何も知らずに暢気に生きてきたのだなと思うと、そこが可愛らしくもあるし頼りなくも感じるのだった。
 誘われた講演会の日までの間に、彼女は無事に希望する企業のひとつから内定を貰うことが出来た。安心すると気が大きくなり、卒業までにこれまで出来なかった色々なことに挑戦してみようと思った。そこで迷っていた講演会に行ってみることにした。
 彼女の家からそう遠くない市民ホールで行われたその講演には高校生から大学生、さらに近隣の住民らしい初老の夫婦まで様々な人たちが来ていた。彼の話はネットで見ても感動的であったが、実際に手足がない彼の身体を眼にして、声を震わせて高揚して語る様子を直接に見ていると、これまでに彼女が味わったことがないような、この不幸な社会のために自分に何か出来ることはないだろうかという心の奥から湧き起こる衝動を感じた。このまま外食業者で働くことが世の中のためになるのだろうかという気持ちにもなってきた。講演を聞き終わって高ぶった気持ちになっていると、短髪の女がやってきて、彼女の手を強く引っ張り、市民ホールの楽屋裏に連れていった。そこに講演を終えた彼が仲間たちに囲まれて、大きな声で笑っていた。彼に短髪の女から紹介されると、彼女は普段ならそんなこと恥ずかしくて言えないが、高ぶった気持ちに後押しをされて、自分の人生が変わるくらいに感動しましたと熱っぽく伝えた。彼はその端正な顔をにっこりと微笑ませて「君にそう言ってもらえて、僕は今日すごくここに来てよかったと思っている、僕はやはり今日ここに来るべきだったんだ」と答えてくれた。彼女はテレビで見たことがある有名な彼にそう言ってもらえたことでまるで夢見心地だった。その後、ボランティアのメンバーで簡単な打ち上げをするから一緒に来ないかと誘われて中華料理屋についていった。その場には十人くらいの若い男女が来ていた。いつも彼の活動の手伝いをしている仲間らしく、誰もが仲良さそうに見えた。彼から気に入られた彼女はすぐ隣の席に座らせてもらい、彼と色々な話をした。最初は反対側の隣に座った女が彼に食事を食べさせていたが、最後の方は彼女がそれを引き継いだ。彼女は大の大人の口元に箸で食事を運んであげるのは、何かとてもエロティックな気持ちにさせると思ったが、そんなことは考えてはいけないとすぐにその考えを頭から振り払った。彼女は講演を聞いたときに感じた、自分が普通に企業に就職して、会社員として働くことが正しいのか分からなくなってきたという疑問を投げかけてみた。彼は、君は何て真っ直ぐな心を持った人なんだろうと大袈裟なくらいに驚いた顔をしてからこう言った。一緒に反戦運動の同志になって戦ってくれる人が増えるのはとても嬉しいし心強いんだ、でもそういう人たちだけじゃ、世の中は変わらない、本当に世の中が変わっていくのには、君のように普通に企業で働いたり、普通に子育てをしたりしている人たちの心の奥にも、しっかりと反戦の火が燈ってくれることが大切なんだ、だから君が企業に就職することで、平和のための役に立ってないなんて思うことはない、君は普通に会社で働きながら、なおかつこの世界のことを考えて生きるんだ、そういう君が僕らにはとっても必要なんだ。彼は真っ直ぐに彼女の瞳を見ながら語った。だから君は間違っていないよ、そうやって君が悩んでいることも含めて君は正しい道を歩んでいると僕は今すごく強く思っているよ。彼女は誰かにこんなに長時間真っ直ぐに目を見つめられたのは初めての経験だった。彼は就職するまでの残りの学生生活で、彼らの活動の手伝いに来てはどうかと言った。断る理由は何も思いつかなかった。
 彼女はそれから何度か彼らの活動に参加した。時には最初のときのような講演会だったり、もう少し大規模な反戦のための集会だったりした。その会の規模に合わせて何人かのボランティアが彼に付き添っていくというシステムのようだった。そうした講演の合間に彼から色々な話を聞いた。彼の話はいつもとても魅力的で勇気づけられるものだった。短髪の女はその後あまり見かけなくなった。メールで連絡してみると、就職活動が忙しいという返事が来るだけだった。
 そんなあるときだった。その日のボランティアは彼女を含めて三人と少なめだった。他の二人は男性で彼を車に乗せて会場まで連れて行く運転手の役も担っていた。小さな市民ホールでの講演会だった。講演を終えて楽屋のような場所に戻ると、彼女は彼の顔の汗をハンドタオルで拭いて、そしてスポーツドリンクを飲ませてあげた。そのとき、彼が他の二人に目配せをしたように見えた。すると二人は車に用事があるからと部屋を出て行った。彼女は彼らが小声で話しているのを聞いた。
「また悪い癖だよな」
「そろそろ洗礼だよ、洗礼」
 彼女には意味が分からなかった。しかし、あまり気にも留めず、彼女は彼と最近ヨーロッパで起きたテロの話を続けた。しばらくして、彼がトイレに行きたくなってきたと言った。「あいつらまだ帰ってこないなぁ」と彼は顔をしかめて言い、「お願い、ちょっとトイレに連れて行ってくれるかな」と彼女に頼んできた。彼女はどうしたらいいのか戸惑いながらも、彼の車椅子を押して障害者用のトイレまで運び入れた。彼女が出て行こうとすると、彼が驚いた声を上げた。
「え、待ってよ、僕が一人で出来るわけないじゃないか」
 彼女は戸惑って、
「でも、私、どうしたらいいか分からないです」
と言った。
「いや、別に難しいことじゃないから。後ろのカバンの中に尿瓶が入ってるから、それで取って捨ててくれたらいいだけだから」
 彼は平然とした口調で言った。
「でも、それって」
 それでも彼女が躊躇していると、彼は急に鋭く責めるような口調になった。
「何だ、君はそんなふうに偏見を持った人だったのか、これは僕にとっては普通のことなんだ、当たり前の日常なんだよ。でも、君はそれがおかしいと差別するのか」
「いや、差別だなんて、そんなわけじゃ」
 彼女は急に彼の口調が変わったことが恐ろしかった。そしてそのときは彼の言っていることの方が正しい気がした。
「ほら、早くしてくれないと。僕は君が手伝ってくれないととっても困るんだよ。だって、もし服を汚してしまったらどうするんだ」
 彼女は震えながら車椅子に吊るしてあった鞄からプラスチック製の尿瓶を取り出した。彼女が尿瓶を取ると彼の口調はまた優しく柔らかなものに戻っていた。
「そう、それ。早く脱がせて。単なる生理現象だから、ほら普通のことなんだ」
 恐る恐る彼のズボンのベルトを外してチャックを下ろしかけると、彼女は彼のペニスが硬く勃起しているのに気が付いた。少しチャックが下がっただけで、ブリーフの前の穴から彼のいきり立ったペニスが顔を上げているのが見えた。彼女がそれに気が付いたのを見た彼はあっけらかんとした笑い声をあげた。
「あぁ、ごめん、君が変に意識するからいけないんだよ、普段だったら、ごく自然にしてもらっているんだけど、君がそんな様子だから、こっちも変に意識してこんなになっちゃっていたね。そういう気じゃないんだ、本当にすまない」
 彼女はどうしたらいいか分からずすぐにでもその場を立ち去りたい気持ちだった。彼は彼女の顔をじっと見つめて言った。
「しかし、これは困ったな。だって、この後で呼んでくれた主催者の人と会合があるんだぜ。こんな状態じゃとてもいけないし、こんなになっているのを悟られたら、向こうにも恥をかかせてしまうよな。君、これ、手で処理してくれるかな」
 まさかそんなことを頼まれるとは思わなかった。自分の耳を疑った。
「大したことだと思うことはないよ、これも生理現象だからさ。ほら、もとはと言えば君のせいでこんなになっちゃったんだから。君のせいなんだ。早くしないと次の約束の時間になっちゃうだろ」
 後で思い返せばそんなことをする必要はなかった。急いでその場から去って男のボランティアを呼んで来ればよい話だった。しかし、そのときにはそんなこと全く思い浮かばなくなっていた。
「僕らの活動にとってとっても大事な会合なんだ。まさか、それを君のつまらない偏見のせいで台無しにする気なのか?」
絶対的に正しいのは彼で、もし彼の言う通りに出来なかったら、自分の考えの方が偏見を持っていて間違っているからだという気がした。従うしかなかった。
 彼女は半ば朦朧としたような意識の中で、彼の股間に手を伸ばした。彼のペニスはとても太くそして熱かった。彼女がそれを握って上下させると、彼はにっこりとテレビで見たことのある笑顔を浮かべた。
「そう、それでいいんだ」
 彼女は自分は一体何のためにここにいるんだろうと思った。彼はじっと彼女の方を見つめていた。
「それにしても、君は何て綺麗な手をしているんだろう」
 彼女の目から涙が流れていった。

七、男性 六十二歳 高等学校校長

 校長室のドアを叩き、慌ただしく教頭が入って来た。眉をひそめている顔から明らかに厄介な話を持ち込んできたようであった。
「どうしたんですが、朝からそんなに慌てて」
 男が声を掛けると、教頭は持っていたタブレット端末を手渡した。教頭は五十代半ばで常に不機嫌そうな女性教師だった。もし男がこの私立高校に引き抜かれて来なければ、彼女が校長になるはずであったらしい。
「校長、この画像が生徒に広まっているらしいんです。まだ写っている本人には確認を取っていないんですが」
 教頭から渡された端末には、若い女性が上半身裸で口いっぱいにペニスを頬張って白目をむいている画像が映し出されている。見たことがある顔だった。
「まさか、うちの生徒だっていうわけじゃないでしょうね」
 教頭は頷く。男は全校生徒すべてを覚えているわけではなかったが、次第に写っている生徒のことが頭に浮かんでくる。あまり目立つ生徒ではなかった。特に優秀なわけではないが、特に問題があるわけではない生徒だった。
「なんでまたこんなものを。男の方もうちの生徒なんですか」
「はっきりとした情報が入っているわけではないのですが、クラスメイトの男子だという噂もあるようです」
 男は女生徒の胸が制服姿から想像していたよりもずっと大きいと思った。もともと小太りでふくよかな体形であったが、ここまで大きな胸をしているとは思わなかった。少し乳輪が大きめであることが、妙に男を刺激した。男はいつの間にかこの女生徒は金を払えば自分のペニスも咥えるのだろうかと想像していた。
「校長、どういたしましょうか」
 教頭の言葉で我に返り、少しわざとらしく困った表情を作ってみせる。このおよそ色気というものを感じさせないこの教頭も十五、六の頃には瑞々しい肉体をしていたと考えると不思議な気持ちになる。
「弱りましたね。ついこの間、変質者がうちの学校に入ったばっかりだっていうのに。こう問題続きではPTAに何を言われるやら。それにうちの生徒だとマスコミに報道されてしまったら大問題ですね」
 教頭は苛立った顔をする。
「それで、どうしたらよいでしょうか」
 男はそんなにすぐに答えが出せるわけがないと思いながら、とりあえず問題の生徒の担任と学年主任を含めて会議を行い、情報の共有をすることを指示した。教頭は頭を下げて出て行こうとしたが、男はその画像が他に拡散されていないか、あるいは本当は別のところから出たものではないか調べたいと言って、タブレット端末から画像データをコピーしてほしいと頼んだ。実際は単にその画像が欲しかったのだった。
 教頭が出て行くと、男は何気なく壁にかけられた歴代の校長の写真を眺めた。学校としてはまださほど長い歴史があるわけではなく四人の写真しか並んでいない。みな真面目腐った神妙な顔をしている。自分も何の問題も起こらなければ、やがてあの一番左に並ぶのであろう。そう考えても特に嬉しいわけではなかった。与えられた仕事をごく普通にやって来たというだけだった。大きな使命感があったわけでもなく、嫌々やって来たというわけでもなかった。ふと、この歴代の校長の中で、生徒と寝たことがある者はいるのだろうかと思った。男自身は自分の学校の生徒と関係を持ったことはなかった。
その日の午前中には生徒の担任、学年主任、生徒指導主事、そして教頭と男で会議が開かれた。担任からの報告によると、生徒たち同士のSNSのグループの中でこの写真が共有されたということであった。そのことを担任に報告した生徒の話では、グループ内のみで一般には公開されていないが、それを見た誰かが他に公開していないかどうかは分からないということであった。グループにその動画をアップした生徒にも確認したが、他の生徒からもらったというだけであり、いくらたどっていってもきりがなく、生徒たちが本当のことを言っているのかどうかも分からないということだった。学年主任の四十男は憤ったようにネット上のリスクについてはしっかりと指導をしているはずなのにと声を荒げた。男にはそれが担任の若い女教師を責めているかのように聞こえた。教頭はただ、最近のネットに慣れた世代の風紀の乱れについてあまり生産性のない不満を漏らしていた。担任の二十代の女は生徒たちが退学になるのを恐れているのか、ただ「いい子なんです」と繰り返していた。
 話を聞いていて、男には少しずつ状況が整理出来てきたように思えた。起ってしまったこと自体はどうにもならない。ただ、このまま普通に対処をしたら、女生徒は退学にせざるをえない。担任の言うようにいい子かどうかは分からないが、こんな理由で退学になってしまったとしたら、もう一度人生を立て直すのには大きな苦難があるであろう。一方で、こんな写真がばら撒かれて、この学校に留まり続けること自体もつら過ぎるのではないかという気がする。それならいっそのこと早めに退学にしてあげた方がよいのだろうか。女生徒にとって、残るも地獄、出るも地獄のように思えた。男はそれなら本人が選べるのがよいかもしれないと考えた。どちらの選択肢も本人に残すには、どんな方法があるのだろうか。男は頭を巡らせた。一つしか思い浮かばなかった。女生徒に写真が自分ではないと否定をし続けてもらい、この件を単なる噂話として不問にすることであった。そのためにはよけいなことを言わないようにしっかりと女生徒には口止めしておかなければならない。男はそれぞれの教師たちの話をひと通り聞いた後で、自分が直接明日生徒と話をするということを伝えた。また、担任には女生徒にはこの件はとても繊細な問題であるため、決して明日の面談までの間に、誰かに話してはいけないということを伝えてもらうように頼んだ。男にとって心配は女生徒が親に相談し、親が警察に連絡をしてしまうことであった。警察沙汰になって話が公になれば退学にせざるをえないだろう。担任には親御さんにはもし必要があるならば明日の話し合いの後で学校の方から伝えると生徒に言ってもらうことにした。担任はすぐに退学させようという雰囲気ではないと感じて安心したような表情になった。目にうっすら涙が浮かんでいた。学年主任と教頭はうやむやな解決になりそうだと不満げな表情であった。そんな彼らをそのままに男は会議室を出た。
 校長室に戻り、教頭からコピーさせてもらった生徒の画像を眺めていると、むくむくと欲望が湧いて来た。今日はそのまま家に帰る予定であったが、それでは気持ちがおさまりそうもなかった。男は大きな肘掛け椅子に座ったままスマートフォンを取り出して、いつも使っているSNSの裏アカウントで今夜会えそうな少女を探した。当日に急いで見つけようとするとろくな子と会えないと経験上分かってはいたが、今夜はどうしても少女を抱きたかった。出来れば、写真の生徒のような、小太りの娘がいい。あの写真と同じように自分のペニスを咥えさせてやりたい。何人かにメッセージを送るが返事が来ず、二、三度使ったことのある出会い系サイトを探したり、連絡先を交換したこれまでに援助交際をしたことのある女子高生にメールを送ったりしてると、しばらくして知らないアカウントから連絡が来た。
(痩せててスタイルよくないけどかまわないですか。ホテル別で20000、前払いでお願いします)
 出来れば写真の生徒のようなむっちりと太って胸の大きい子がよかったが、今から他を探すのも難しいと思い、男はそのメッセージに返信をした。

 男が十代の少女を買うようになったのは、もう二十年も前のことだった。当時はブルセラ・ブームと呼ばれ、女子高生が自分の下着を売ったり売春をしたりといったことが社会問題となっていた。援助交際という言葉が使われるようになったのも、その頃からだった。男は当時四十代前半で、見合いをして四つ下の同職の女性と結婚をしたばかりであった。結婚をしたことと買春を始めたことの間に男自身はつながりを感じていたわけではなかったが、振り返ってみると結婚に伴うある種の息苦しさからの解放を求めていたかもしれないとも思えた。初めてテレクラで知り合った少女を買ったとき、なんだ、こんなに簡単に買えてしまうのかと唖然とした。こんなに簡単に女子高生が買えるなら、なぜみんなもっと買わないのだろうと不思議な気がした。しばらくは学校でクラスの女生徒を見ると、この子も放課後にはどこかの中年に体を売っているのだろうかという空想が頭を離れなかった。それから、毎週のように少女を買うようになった。
テレクラ、ダイヤルQ2、出会い系サイト、SNSと少女と知り合うツールは次々に変わっていた。白のルーズソックスから、紺のハイソックス、そして白のショートソックスと彼女たちの靴下も変わっていった。しかし、男は毎週変わらずに少女を買い続けた。
生徒にはいつも「継続は力なり」と教えていた。男が家に帰ってからつけている抱いた少女の記録は、気が付くと二十年で千人を超えていた。自分でもそんな数になるとは思っていなかった。しかし、千人目のナンバリングをしたときには密かな充実感を覚え、今後も生徒たちに「継続は力なり」と教え続けようと思った。

 待ち合わせ場所に行くと、待っていたのは確かに痩せ気味の少女だった。しかし、男が心配していたような骸骨のように痩せた体形ではなく、どちらかというと身体が未発達だという印象であった。二人はそのまま男の車に乗り、昭和の雰囲気の漂う古びた汚いラブホテルに入った。無口な娘だった。メールでは十八歳だと言っていたが、仕事でも個人的にも膨大な十代の少女と話してきている男には、彼女がもっとずっと若いことがすぐに分かった。ホテルのベッドに腰かけて、有線放送のチャンネルをバロックに合わせながら、男は尋ねた。
「君、十八歳じゃないですよね。別に何歳だってかまわないんだけど、本当は何歳なの?」
 少女は立ったままこちらをじっと見ている。
「別に若いからお金払わないなんてことはないから。本当のことを言いなさい」
 少女は下を向きながらしばらく考えていた。男がもう返事は来ないものと思いシャワーを浴びるために服を脱ごうとしていたとき、
「十四」
 と少女は急に呟いた。あまりに間があったので、それが先ほどの年齢の話だと男が気づくまでに時間がかかった。
「十四歳か」
 少女が年齢を上に嘘をついていたことを奇妙に思った。むしろ若ければ若いほど高く売れるのではないか。陰気で何を考えているか分からない子だと思った。
 そんな年齢から体を売っているのだから、きっとひどく面倒な事情があるのだろうと思い、それ以上は聞いてはいけない気がした。
 陰気で大人しい少女であったが、いざセックスを始めると、これが中学生かと思うほどに激しかった。舌を噛み千切られるのではないかと思うくらいに激しくキスをし、男が下着に手を入れて触ると最初からぐっしょりと濡れており、指で少しかき回しただけで、すぐに何度も潮を吹いた。挿入するとラブホテルとはいえ周りに迷惑なのではと心配になるほどに、大きな声を上げて悶えた。我を忘れるような恍惚の表情で大口を開けて絶叫した。どうやって育てば中学生でこんなに淫乱になるのだろうかと不思議だった。
 この少女には関わらない方がいいかもしれない。男の経験がそう告げていた。少し恐くもなっていた。射精するとすぐに服を着て帰ろうとした。少女は今夜帰るところがないと言って男の下半身にしがみついてペニスをまさぐってきた。男はそれを優しく払いのけてから、それなら自分は帰るがこのホテルは休憩ではなく宿泊にするから泊まっていけばいいと伝えた。やはり関わらない方がいい。少女は再び陰気で無口な様子に戻っており、ただ下を向いたまま頷いた。

 家に帰ると妻はすでに寝ていた。男はいつものように書斎に入り、パソコンの電源をつけた。今日の少女の記録をつけるためだった。名乗っていた名前や語っていた年齢、身体的な特徴を簡単にメモし、そのデータに密かにスマートフォンで撮っていた動画を貼り付けた。ただ、こうしてひそかに撮った動画はアングルが決まっており映りもよくないため、実際には見返すことはほとんどなかった。
 男は何気なくこれまでにまとめたデータを見返してみた。当初は単にワープロソフトで打ち込んでいるだけであったが、途中からデータを管理するソフトを手に入れ、日時や特徴、画像や動画の有無からすぐに検索が出来るようにした。もっとも後から調べるのはごく僅かの印象的な子たちだけで、大抵の少女はその存在さえ忘れてしまっている。
男は記憶に残る少女たちを思い返した。中には驚くほどスタイルがよく美しい子もいた。そのうちの一人は数年後にモデルとして雑誌に載るようになっていた。学校で教え子たちがファッション雑誌に載った彼女を見ながら感嘆の声を上げているのを見て「先生は君たちが尊敬するこの子と寝たことがあるんだよ」と言いたくて仕方がなくなったものだった。ただ、彼が抱いたときと比べて明らかに胸が大きくなり、鼻筋もすっきりしたように見えた。そのモデルは後に俳優と結婚したが、最近不倫をきっかけに離婚になったとワイドショーで騒がれていた。
 もちろんひたすら無愛想な子もいたし、態度の悪い子もいた。思い出すだけで不愉快なくらいに自分勝手で不機嫌な子もいた。そうした地雷のような子は援助交際全盛期の方が多かった印象があった。最近は売春をする高校生の総数は二十年前と比べて少ないが、それだけに遊び半分でふざけて話を持ちかけてきて、こちらの顔を見て適当にけちをつけて帰ろうとするような子も減っているように思われた。
 ときには女子高生だと偽って明らかに年をとった女が来ることもあった。実は男にとっては厳密に女子高生ではなくても、若い肉体であればかまわなかったが、それでも騙されるのは不愉快なことであり、あまりひどい嘘に対してはその場で契約を破棄して金を払わないこともあった。普段女子高生と接していない中年男であれば騙せるかもしれないが、毎日のように多くの高校生と関わっている男にとっては、よく十代だと言えたものだと呆れるような女が来ることもあった。
 長年色々な学校で教師を続けていると、ある程度話すと、年齢だけでなく、その少女の知的レベルや家庭の経済状態といったものが推測がつくようになる。明らかに偏差値が四十に届かないだろう子もいれば、ごく稀にだが七十近くあると思われる子もいた。政治家や大学教授の娘が父親に反抗して売春をする、という男にはあまりにもステレオタイプに思える物語を語る子もいた。一方で、世の中のこともセックスのことも何も知らない、学校で何を習ってきたんだと言いたくなるような頭の悪い子もいた。
 ある少女は、男がその場の勢いでコンドームをつけずに挿入したとき、「子どもが出来ちゃう」と叫んだ。男は思いつきで「大丈夫だよ、愛し合ってないと子どもは出来ないんだ」と返した。すると彼女は「そうなんだ」と言って納得してしまい、最後には膣の中に射精までさせてくれた。色の白い卵型の顔をした背の小さな子だった。微妙に下腹がぷっくりとしており、中年になったら太るのだろうと思われた。シャワーを浴びて出てくるとき、その少女がにこにことしているため、男が何を考えているのか尋ねると、「パパとママが愛し合っていたって分かったから」と答えた。男には何の話か分からなかった。
「だって、愛し合ってないと子どもは生まれないんでしょ。私が生まれたってことはパパとママが愛し合ってたってことだよね。昔、ママはいつもパパに騙されて捨てられたって泣いてたけど、でもパパはちゃんとママのことを愛してたんだ」
男はセックスの最中に自分がついた適当な嘘を少女がこんなにも真に受けていることに、ある種の感銘を受けた。男は嬉しそうに笑っている少女が無性にかわいらしく思えてきて頭を撫でて、「そうだよ、君がパパとママの愛を証明しているんだよ」と言ってあげた。少女はますます幸せそうに微笑んで、「いいことを教えてくれてありがとう」と答えた。
 その少女も今では三十代半ばになっているはずだった。予想した通りに中年太りをしているのだろうかと想像した。
 男は少女たちの記録のファイルを閉じて、来週までに完成させなければならない教育関係の学会の基調講演の原稿を書き始めた。現代における倫理に関することを話してくれと言われていた。頭にあのフェラチオをする女生徒の大きな乳房が思い浮かび、タイトルは「ネット時代のモラル―教育現場からの提言」とすることにした。
 もう寝ようと思い、最後にパソコンのメールをチェックすると、長い間会っていなかった以前の職場の同僚からメールが来ていた。男より年長のその同僚は学生運動に挫折して教員になったという経歴を持っていた。そのためか出世にはまったく無頓着で、学内の運営に関することには極力関わらないようにしていた。その点なれるものなら偉くなろうと考えていた男とは対照的だったが、そのために気軽に話せる相手であった。またその同僚の物事に対する距離を取った見方は、どことなく自分と似ているところがあるとも感じていた。その後、互いに学校長となり情報交換という意味もあって何かにつけて連絡を取り合っていた。しかし、彼は二年前に定年退職し、それ以来はあまり連絡していなかった。
 メールを開くと、簡単な定年退職後の近況についての挨拶とともに、自分の娘が車椅子の反戦活動家の団体にはまってしまっているということが書かれていた。そして、学生時代の経験から社会運動のよくない側面も見てきているため心配になっているが、自分は退職し交友範囲も広くないため、その団体がどのような種類のものなのか調べる手立てがなく、男に何か噂話があったら教えてくれないかと尋ねてきていた。
 男もその車椅子の元自衛官のことは知っていた。積極的に学校や公民館などでも講演をしているため、直接に話したことがある知り合いの教育関係者もいるはずであった。男は調べてみるが少し時間がほしいという返信をした。ネットで調べると、案の定男の知り合いのいる大学で講演会が開かれていた。男はその知り合いに自分もその元自衛官を呼んで講演会を開きたいのだけれど、どんな人物だったかを教えてほしいとメールを書いた。
 ひと通りメールを出し終わると、自分に娘がいるというのはどのような気持ちなのだろうかと思った。男と妻の間には子どもができなかった。男も妻も忙しく働いていたため、時間はあっという間に過ぎていき、そのことについて妻と時間を取って話してはこなかった。あるいはその種の話題を避けてきたのかもしれなかった。
 もし結婚後数年で子どもが生まれていたなら、もう高校生か大学生になっているはずだった。男が買う少女たちと変わらない年齢だった。自分の娘が見ず知らずの中年男に体を売ることを想像してみた。一瞬、不愉快な感覚が体を走り、もしそんなことがあれば相手の中年男を決して許せないだろうという気持ちになったが、すぐにありえないと思い直した。自分というよりも、妻が厳しい倫理観を持っているためだった。きっと、自分に娘がいたなら、妻に似て真面目で性に関しても保守的で、むしろ頭が堅いくらいの少女に違いないだろうと思った。顔を思い描こうとしたが、うまく形にならなかった。
 次の日の朝、目覚めてリビングに降りると、妻が食パンを焼いていた。妻は今日は早めに出勤するので、食べ終わったら皿を片付けておいてくれと言った。男は快く応じ、最近大変なようだけれど、あまり無理をしないようにと伝えた。妻はおそらく男よりも優秀な教師であった。男と結婚後しばらくしてから、教育委員会に引き抜かれ、その後は教育行政に関わっていくことになった。公立校を定年退職した男にすぐ再就職先の私立校が見つかったのも、妻の県内の学校への顔の広さがものを言ったのであろう。男は夫として自分は十分に役割を果たしていると思っていた。第一に、妻に迷惑をかけなかった。男は適切な自己管理によってほとんど体調を崩さなかった。実際にはこの二十年で何度か毛じらみなどの性病に感染したが、それも妻に気がつかれないように密かに完治させていた。妻は妻で仕事が忙しく、家に帰るのが男よりも遅いときもあった。それぞれが自分の仕事に邁進をしており、お互いに干渉をしなかった。家事については多くの部分を妻に任せてはいたが、仕事で滞ったとしても、少しも文句を言ったことはなかったし、妻から頼まれたことは嫌がらずに何でもした。妻を愛しているかと聞かれたら、愛しているかどうかは分からないが、もし妻を愛していないとしたら、おそらく自分は自分以外の誰も愛していないと答えただろう。
妻を玄関まで見送り、リビングに戻ると、スマートフォンにメールの着信が来ていた。開くと数日前に会う約束をした女子高生からの今夜の待ち合わせ場所の確認だった。男は真面目な子だなと思った。きっとしっかりした大人になるのだろう。朝食を済ませると男も家を後にした。

 その日の午前中、男は担任と二人で写真が出回ってしまった女生徒と面談をした。授業は抜けさせた。よけいなことをされる前に会いたかったからだった。女生徒は担任に連れられて校長室に現れた。顔中の筋肉をこわばらせた緊張しきった表情であった。方針はもう決まっていた。男はわざと冷淡な口調で言った。
「そこに座りなさい」
応接セットのソファに腰掛けた女生徒の肉づきのいい足が緊張で震えているのが分かった。男はよい傾向だと思った。
「大丈夫よ、ゆっくり考えていいから、聞かれたことは正直に答えるのよ」
 横から担任の女教師が言った。男は少し間を置いて生徒の様子を眺めてから、おもむろにしゃべり始めた。
「呼ばれた理由は分かっていますね」
 女生徒はただ頷いた。すでに目が真っ赤で今にも泣きそうであった。
「あなたによく似た写真が出回っているそうじゃないですか。私はまさかあなただとは思わないですが、もしあの写真があなただったとしたら、それはもう到底この学校の生徒として認められないとんでもないことです」
 そう言って、再び生徒をゆっくりと眺めた。どう答えてよいか分からず当惑の表情をしている。
「まさか、あの写真はあなたではないんですよね。あの写真があなただったら、どうなるか分かっていますよね」
 女生徒は涙を流し始めた。言葉にならない嗚咽をもらした。男は畳み掛けるように言った。
「どうなんですか、あなたじゃないでしょう」
 担任が何か言いそうになったが、男は手を上げてそれを制した。担任に優しい言葉をかけられて私ですと懺悔をされたら退学にせざるをえない。少女は髪の毛を前にたらして下を向いた。そして嗚咽しながらかろうじて、
「わたしじゃないです」
 とつぶやいた。男は担任にもう慰めてもいいというように頷いた。
「それはよかった。ただ、そんなデマが流れてしまうのも、あなたの日頃の行いに隙があるからでしょう。これからは身を引き締めなさい。他の生徒たちも写真のことで動揺しているようですので、自分ではないという姿勢を貫くことが必要でしょう。今後のことは担任と相談しなさい」
 男がそう言うと担任は女生徒の肩に手を置き、
「大丈夫、大丈夫よ」
 と声をかけた。担任は今にも泣き崩れそうな少女を抱えるようにして校長室を出て行った。男は校長室の天井を見ながら、これから起こってくるかもしれない事態をシュミュレートした。いくつかの可能性に対しては大きな問題なく対処できそうだったが、いくつかの可能性については収拾の予測が困難であった。ただそれだけ考えると、後はもう起こってから対策を立てるしかないと割り切ることが出来た。それから今夜会う予定の少女の肉体を想像した。メールのやり取りからの情報では背はあまり高くなく、ややぽっちゃりとした体型ということであり、昨日の少女よりも自分の好みに違いないと思った。男は乳首の色や、大陰唇の形、クリトリスの大きさ、体臭、掴んだときの臀部の手触りなどを想像した。メールは生真面目な印象であったため、性的に無反応な「マグロ」である可能性もあると思った。そのとき校長室のドアが叩かれ、先程の担任が部屋に入ってきた。面談前と違い、明らかに安心した顔をしていた。
「ありがとうございます」
 その担任の明るい顔を見ると、男は自分自身も無事に予定通りにことが運んでほっとしているのを感じた。
「これですっかり済むかどうかは分かりません。本人も周りもしばらくは不安定な時期が続くでしょうから。あの子をしっかりと見ていてあげてください」
 女教師は「はい」とまるで生徒のように従順な声を上げた。

 待ち合わせ場所の駅前広場に行くと、それらしき少女は見当たらなかった。男は当日の朝に確認のメールをしてくるような真面目な少女がすっぽかすことはないだろうと思い辺りを見回した。すぐに近くのコンビニから男の方に小走りにやってくる黒いキャップをかぶった背の低い姿が目に入ってきた。その人物は一直線に男の前まで来て、聞き取りづらいくらいの小声で男がネット上で使った偽名を言った。男が頷くと自分のハンドルネームを名乗った。だぼついたシャツを着ていて体型ははっきりとは分からなかったが、太っているというほどではないようだった。キャップの下に見える顔はどこかで見たような気がした。
「ひょっとして前に会ったことあるかな」
 少女は少しこちらを見てから、強張った小さな声で、
「初めてです」
 と言った。男もどこで会ったのか思い出せなかったため、それ以上聞かなかった。その駅周辺のホテルは何軒か使ったことがあり、男が先導すると少女は黙ってついてきた。天気のことや学校のことなど軽く世間話を持ちかけても、帰ってくる返事は最小限のものであった。男には緊張して喋れないというだけではなく、こちらとの関わりを拒む冷たい意志の強さのようなものがあるように感じられた。
 その界隈では比較的綺麗なラブホテルを選び入室すると、少女はキャップを取った。色の白い少女だった。顔の全体が見えると、やはりどこかで会ったことがあるような気がしてならなかった。少女は外にいるときよりも幾分大きな声で、
「約束して下さい。絶対に生ではしないで下さい。必ずゴムをして下さい。そうじゃないと帰ります」
 と言った。男は取り立てて「生」ですることにこだわりを感じる方ではなかったし、何度か性病をうつされた経験から、コンドームを付けることにはむしろ賛成であったが、最初からそれを念押しされることには少し抵抗を感じた。神経質な子だと思った。
 いざ性行為を始めると、危惧していたとおり、ほとんど反応しない「マグロ」状態だった。体質的に感じにくいというよりも、やはり意志を持ってこちらを拒んでいる感じがした。前日の獣のような淫乱な少女とは対極だった。死体のようにベッドに寝そべる小柄な少女の体を弄りながら男は次第につまらなくなってきた。男が股を広げて挿入をしようとすると、少女は「ゴムをしてください」と再び念を押してきた。男の心にあるいたずらが思い浮かんだ。男はその場では少女にコンドームを付けてみせた。あまり濡れていなかったために、自分の唾液で少女の股間を湿らせて、ペニスを挿入した。何度か突き上げていると少女は少しずつこらえるような声を上げるようになった。男はいい頃合いだと思い、体勢を変えようとする隙に、さっと膣からペニスを引き抜き、それと同時にコンドームも外し、そのまま何食わぬ顔で再び挿入した。少女は「え」とだけ声を出した。感触の違いを感じたのかもしれない。ただ、男はそのまま構わずに腰を振り続け射精した。
「ごめんなさい、途中でゴムが取れちゃったみたいです」
 男はペニスを抜きながら白々しく言った。すると、少女は急に強い力で男を突き飛ばし、飛び上がるように起きると、「何で」と大声を上げて男を蹴り、そのままシャワー室に駆け込んだ。おそらく膣を洗っているのだろう。男は蹴られた脇腹をこすりながら立ち上がった。少しいたずらが過ぎてしまったかもしれないと思った。バスタオルを腰に巻き、少女に渡そうと鞄から以前生徒から没収したアフターピルを取り出した。少女は五分ほどしてシャワー室から出てきたと思うと、いきなりものすごい形相で睨みながら男を突き飛ばそうとしてきた。男は最初不意をつかれて倒れそうになった。体勢を立て直すと少女がまた掴みかかってきたため、男は仕方なく逆に少女をベッドの上に突き飛ばした。体の小さな少女は男が本気で力を入れるとすぐに倒れてベッドの上につっぷした。
「本当に悪かったですね。これを使いなさい。今から飲んでも妊娠しないから」
 男はアフターピルを少女の前に放り出した。しかし、少女はベッドに顔を伏せたままだった。嗚咽していた。
「ほら、心配しないでください。それで子どもは出来ないし、私は性病にもかかってないから」
 少女は男の話など聞いていないように泣き続けていた。男が肩に手を置くと、少女は最初それを払いのけた。しかし、もう一度今度は背中をなでるとされるがままになっていた。
「ごめんなさいね。あなたにとても酷いことをしてしまったね」
 少女は泣き続けていた。ただ男は手に触れる肩から背中の感触で、少女がもう怒ってはいないことを悟った。
「でも、驚いてしまいました。大人しそうなあなたがあんなに怒るから。ひょっとしたら何か中で出されるのを嫌がる理由があるんでしょうか?」
 少女は静かに顔をあげた。目が真っ赤に腫れていた。
「わたしはねぇ、母親が知らないおっさんに体を売ったときに、騙されて中で出されて出来たの」
 援助交際で生まれた子どもがまた援助交際をしている。男はそれを恐ろしい世代を超えて繰り返される因果応報だと思った。少女は男からピルの箱を受け取ると硬く握り締めた。そしてまた嗚咽するような声を上げた。
「私の馬鹿な母親は、そのおっさんに、愛し合っていなければ妊娠なんてしないんなんて、いい加減な嘘を信じ込まされたの。どうしようもない馬鹿女だったの」
 男は急に全身が凍りつくような気がした。まさかそんなはずはない、そんなことありえない。少女は独白のように喋り続けた。
「死ぬほど馬鹿な母親は、私を産んだ後でも、自分はその援交相手のおっさんを本当は愛していたんじゃないかなんて馬鹿なこと言って。私は殺してやりたいよ。そいつがそんなことをしなければ、わたしはこんなみじめな人生を送らなくてすんだのに、体なんて売らないでもすんだのに。そんなやつ、父親でもなんでもない、ただ殺してやりたい」
 男はゆっくりと少女の背中をさすっていた。そんなはずはない。そんなありきたりな嘘をつく男など、きっとどこにでもいるに違いない。少女は泣きながら母親を、そしてまだ見ぬ父親をののしり続けていた。

八、女性 十四歳 無職

 待ち合わせ場所で待っていた男は、メールで言っていた六十歳よりももう少し若く見えた。頭髪が薄くなってはいるものの、体が筋肉質なせいか少女には祖父と同年代には見えなかった。妙に丁寧な喋り方をする男で、それが少し事務的に感じた。男はホテルに入ると、
「君、十八歳じゃないよね。別に何歳だって私はかまわないんだけれど、本当は何歳なの?」
 と聞いてきた。少女はどう答えたらいいか分からなかった。以前、実際の年齢を言うと恐れをなして、関係を持つのをやめた客がいた。それ以来、少女は十八歳だと名乗っていた。何で嘘をついていることがばれたのだろう。
「何、別に若いからお金払わないなんてことはないから。本当のことを言いなさい」
 妙に上からな、まるで教師みたいな言い方だと思った。そう言えば、これまでお金を払って彼女を抱いた男の中には少なからぬ人数の教師が含まれていた。少女が迷っていると男は服を脱ぎ始めた。
「十四」
 そう答えると、男は少し沈黙してこちらを見てから、
「十四歳か」
 とつぶやいた。ただそれだけでだからどうだとは言わなかった。男がシャワーを浴びている間、少女は男の鞄の中をのぞいてみた。金目のものはなかった。財布は着替えのかごの中に入れてシャワー室のすぐ前に置いてあるようだった。学校の名前の入っている封筒を見つけた。やはり教師だった。少女はもう六十歳なら校長先生かもしれないと思った。少女には他にも校長をしている客がいた。彼女はその校長先生のことを思い出した。その校長先生は少女のことをいつもとても心配してくれていた。お金も他の客よりも多めにくれた。そして、肛門に唾液を垂らして指を入れたり、尻を平手で思い切り叩いたりすると喜ぶ人だった。
 その日の事務的な男はいざセックスを始めると、とても巧みだった。もともと感じやすい体質の少女は我を忘れて声を上げ、何度も潮を吹いた。少女はこのまま永遠にセックスをし続けてほしいと思った。しかし、男は射精してしまうとすぐに服を着替え、シャワーも浴びずに帰ろうとした。少女は置き去りにされる気がして悲しくなった。
「それじゃ帰りましょう。着替えてください」
 裸のままの少女を見て、男が言った。少女はサービスが足りなかったので冷たくされているのではないかと思い、男の下半身に飛びついて、ズボン越しにペニスをつかんだ。しかし、ペニスは柔らかくしぼんでいて、少女が触っても大きくならなかった。
「もう十分ですよ。私は帰らなくては」
 男は少女を払いのけた。
「私、帰るところがない」
 少女がそう言うと、男は少し考えてから、
「それなら、このホテルは休憩ではなく宿泊にするから、一晩ここで泊まっていけばいい。それでいいでしょう」
 と言った。それでいい気もしたが、それでは心細い気もした。しかし、男は金を置いて去っていった。少女は取り残された。自分は幾度こうして誰かに置き去りにされてきたのだろうと思った。誰かと一緒にいたいと思った。誰かに抱いてほしいと思った。スマートフォンを取り出して、新たな相手を探そうとしたが、気がつくといつの間にか眠っていた。

 朝、すぐにはどこにいるのか分からなかった。少女にとってそれは日常的なことだった。立ち上がって辺りを見回し、ベッドから降りた頃には、冷たい感じの校長らしき男と一緒にこのホテルに来たことを思い出した。時計を見ると十時を過ぎていた。ここは何時までいられるんだろうと思った。とりあえずシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びて髪を乾かしていると、電話が鳴った。取るとフロントからで、男の声で「チェックアウトは十一時なのでよろしくお願いします」と言ってきた。あと三十分以上もあるじゃないかと思いながら少女は服を着た。このホテルを出たところで行くあてはなかった。スマートフォンを充電していないのを思い出し、ホテルのコンセントで充電を始めた。十一時の時間いっぱいまで充電をすることにした。
 十一時になると、ドアを誰かがノックしてきた。開くと四十くらいの男が立っていた。
「チェックアウトの時間です。何か問題はないでしょうか?」
 少女は頷いて、
「今出るところ」
 と言った。男は少しわざとらしいような笑みを浮かべ、
「それなからよかった。ほら、女の子一人が残ったからさ、事件とかあったらやばいから気になってたんだよね」
 と急に砕けた口調になった。そして、少女のことを上から下まで見回した。少女はこの男は私と寝たいのだろうかと思った。この男と寝たら、また今夜もこのホテルに泊めてくれるだろうか。
「それじゃ、もう時間だから、なるべく急いでね」
 男は笑顔でそう言うと去っていってしまった。その気軽な口の聞き方が、昨日の事務的な男と比べて、とても優しい気がして、もう少しその男と話していたかったと思った。

 ホテルの外に出ると、陽射しが強かった。昼間のホテル街はいつも何だか間が抜けた感じがした。少女は暑いなと思いながら、ぼんやりと通りを眺めていた。これからどこに行こうか。こんな時間に会ってくれる知り合いはいない。行くところなんてない。そう思うと悲しくなってくる。いつもそう。いつも自分は取り残されて行くところがない。
「なんだ、お前行くところがないのか」
 振り返るとさっきのホテルの従業員だった。少女が頷くと男は近づいてきた。
「お前、いくつなんだ?」
 少女はどう答えたらいいか迷ってから、
「十八歳」
 と答えた。男は少女の顔を眺めまわした。
「ふーん。まぁ、いいや。可哀想だなぁ。部屋の掃除とか手伝うんなら、二、三日いさせてやってもいいぞ」
 男はにっこりと笑った。少女は何でだろうと思った。何でこの人はこんな私を可哀想って思うんだろう。こんな私を拾ってくれるんだろう。
「何だよ、なんか返事しろよ」
 少女は体が欲しいのかと思った。それで男に抱きついた。
「馬鹿、やめろやめろ、何なんだお前は。このクソ暑いのにくっついてくるな」
 男は笑って少女を引き離した。
「お前は変わったやつだなぁ」
 男は少女をホテルの中に連れて行った。

 初めて性関係を持ったのは十一歳のときだった。家の近くをよくうろついていた大学生に誘われてアパートに行き、そこでレイプされた。それまでは少女は他の同級生と比べても性の知識がない方だった。何をされているのか分からなかった。今まで優しい笑顔でアニメのことを教えてくれていた「お兄さん」が急に深刻な顔になって顔を近づけてきた。そして見たことがないような大きく腫れ上がった「おちんちん」をズボンから出して少女に触らせようとした。最後には少女は裸にされて、股の間に無理やりその「おちんちん」を突っ込まれた。ただひたすら痛かった。なんでそんなことをするのか分からなかった。
 そのとき少女には学んだことがあった。男は「おちんちん」をいじってあげると喜ぶということだった。少女はクラスメイトの男子に大学生にさせられたのと同じように「おちんちん」を触ってこすってあげた。その男子の「おちんちん」は最初は大学生のものとは比べようもないほど縮こまっていて形も違っているように見えたが、次第に面白いくらいに大きくなった。形が違って見えるのは皮をかぶっているからだと気がついて、無理やり皮を剥いたら、その男子は痛がって怒ってどこかに行ってしまった。けれども、二、三日すると「この間のをもう一回やってくれ」と向こうから言ってきた。その男子から伝わって、他の男子も少女に「あいつにやってあげたやつをやってくれ」と言ってくるようになった。いきなり本題に入ってくる子もいたし、明らかにそのことを話したいのにもかかわらず、なかなか言い出せなくて関係のない話をぐるぐるとして、少女がもう帰ろうとしたときようやく言い出す子もいた。少女はやってあげるかわりに、といって条件をつけるようになった。男子たちは驚くほど言うことを聞いてくれた。お菓子を奢ってくれたり、一緒にゲームセンターに行ってくれたり、少女の好きなマンガを万引きしてきてくれたりした。誰かからこんなに言うことを聞いてもらえたのは初めてだった。少女はこんなことでみんなが言うことを聞いてくれるんだったら、もっと早くからやっていればよかったと思った。
 ただ、少女が男子の「おちんちん」を触ってあげているという噂はあっという間に広まった。もともと少女はほとんど友達はいなかったが、クラスの女子たちはそれまで以上に口をきいてくれなくなった。少女には「おちんちん」を触ってあげることの何がいけないのか分からなかった。
 小学校六年生になったとき、あるクラスメイトの女子がその噂を担任に相談し、少女の父親が学校に呼ばれた。父親は家から帰ってくると、少女のことをいきなり殴りつけた。
「そんなに男が好きなら体でも何でも売ってしまえ」
 そう怒鳴ると、父親はそのまま出て行った。また飲み屋にでも行ったようだった。少女は家出した。もともと授業はまったく分からなかったし、学校に行くのもやめにした。父親に言われたとおりに体を売ることにした。

 ホテルの男は少女を管理室に案内した。そして、そこに二人の外国人を呼んだ。どちらも年配の女で中国系のようだった。男は彼女たちに少女に仕事を手伝わせろと言った。彼女たちは少しだけ面倒くさそうな顔をしたが「分かりました」とぎこちない発音の日本語で答えた。少女には中国人の女たちは怒ったようなしゃべり方に感じたが、シーツのたたみ方を教えてくれた。一緒に仕事をしながら話を聞くと、男はこのラブホテルのマネージャーであり、男の妻が経営者だということが分かった。中国人の女たちは「気をつけなさい、あの人、若い子、すぐに手出すよ」と口々に言った。少女は手を出されても別にかまわないと思った。

 少女は家出をしてからインターネットで知り合った様々な男たちの中を渡り歩いた。最初は家から持ち出したスマートフォンを使っていたが、やがてそれが使えなくなったので、マンガ喫茶のパソコンを使ったり、プリペイド式のスマートフォンを買ったりして相手を探した。優しい人もいたし、乱暴な人もいた。最初は痛くて嫌だったセックスも、嫌ではなくなっていった。むしろ、男たちから攻められていると何かとても大きなものに包まれて高みに上っていける気がした。セックスはすればするほどに気持ちがよくなっていった。何日も相手の男が見つからないと不安になった。お金がなくなるというだけではなく、どんどん自分の体自体がなくなっていってしまってしまうような気がした。誰でもいいから自分を買ってほしいと思った。気持ちよくさせてほしいと思った。ホテル、ファミリーレストラン、マンガ喫茶、そして見知らぬ男の家を渡り歩いて、気がつけばもう二年近くが経っていた。

 ホテルの廊下をシーツを抱えて歩いていると、エレベーターから男が現れた。
「お、頑張ってるね」
 男は少女を見て笑みを浮かべた。少女が会釈して通り過ぎようとすると、男はすれ違いざまに少女の胸をつついた。男に触られた部分が熱くなるように感じた。少女が振り返ると、男はそのままわざとらしく口笛を吹いて立ち去っていった。あの人はどんな「おちんちん」をしているだろう。

 少女の予想に反して、男は夕方にホテルから去り、その日は何もなかった。少女にはどうして男が自分に何もしてこないのか分からなかった。ただ管理室の仮眠ベッドで寝ることを許された。狭いベッドだったし、時折夜勤としてやってきた中国人の男がスマートフォンでテレビを見て大声で笑う声に起こされたが、どこにも行くところがないよりははるかによかった。

 次の日、男よりも先に男の妻がホテルに現れた。派手な化粧をしてひどく太って、男よりもずっと年上に見えた。その女は少女を見るといぶかしげな顔をした。
「あんた誰? 何でここにいるの。またあの男がどこの馬の骨だか分からない小娘を引っ張り込んできたの?」
 少女が何も答えられずにうつむいてしまうと、見かねた中国人の女が味方をしてくれた。
「社長、この子新しいバイトだよ、ちゃんと働いてくれるよ」
 女は面倒くさそうな顔をして、
「分かったわよ、それじゃあの男に会ったら、聞いておくから、とりあえずもうあっちに行ってなさい」
 と少女を追い払った。少女は男はどうしてあんな女と結婚したのだろうと思った。あの女よりも自分の方がずっといいのにと思った。そして、自分が男を好きになっていることに気がついた。
 男の妻に会いたくなかったため、その日は管理室には行かず、清掃の作業がないときはずっとリネン室で過ごした。夕方にふらっと男が現れた。
「ここにいたのか。昼間は社長に怒鳴られたんだって? 嫌な思いをさせちゃったなぁ。あいつはいつもあんな感じなんだよ。気にする必要はないからな」
 少女が顔を上げると、男はにっこりと微笑んだ。
「どうしてそんなに優しいの」
「え、なんて言った?」
「どうしてそんなに優しいの」
「何言ってんだよ、やっぱりお前は変なやつだなぁ」
 男はしゃがんでいた少女を立たせた。
「どうしても何もないだろ、こんなお前を見捨てておけないだろ」
 少女は男に抱きついた。
「大丈夫だよ、心配するな、ほら、別にセックスさせてくれなくったって、ちゃんとお前のことを放りだしたりしないから。もしお前がしたければしてやるけど、ここにいるために無理に俺としようとなんてするなよ」
 少女はさらに強く男にしがみついた。離しちゃいけない。この人を離しちゃいけない。
「したいの。私がしたいの」
 男は少女の顎を持って顔を上げさせ、正面から顔を覗き込んだ。
「本当にいいんだな」
 少女が頷くと、男は驚くほど繊細なキスをした。もっと強く、もっと強くと思った。男にもっともっと強く唇に食いついてきてほしかった。気がつくと男の手が少女のスカートの下から忍び込んで下着に触れていた。
「何だ、お前、もうパンツの上からだって分かるくらいに濡れてるじゃないか」
 今度は少女の方から男の唇に飛びついた。
「待て待て、焦るな焦るな」
 そのまま二人は置いてあった毛布の上に倒れこんだ。

 男とのセックスはこれまでに経験したことがないような快感だった。単に技術が巧みだというだけではなく、男に包み込まれながら自分のすべてを曝け出せた気持ちになった。
「すごい気持ちよかった。信じらんないくらい気持ちよかった」
 男は少女に肘枕をしながら、
「初めて笑ったな。笑うとこんなに可愛いじゃないか」
 と言った。少女が恥ずかしくなって両手で顔を隠すと、男はその手をどかせた。
「何だよ、隠すなよ。もっと俺に笑った顔を見せろよ。お前の笑った顔をみると、俺まで幸せな気持ちになれそうだ」
 そんな男の顔を見ると、少女はまたどうしようもなく抱いてほしくなってきて、男の「おちんちん」にしゃぶりついた。
「おい、俺はそんなに若くないんだから、そうすぐには無理だぜ。しょうがないなぁ」
 男は自分のペニスを食いつくように嘗め回す少女の頭を撫でた。

 そうこうしているうちに、シーツ交換のために部屋に現れた中国人の女に見つかった。中国人の女は呆れた顔をして、
「またそんなことして。社長怒るよ! シーツまた洗わなきゃいけないよ!」
 と言った。男は立ち上がって服を着た。少女が離れたくないとその場に座り込んでいると、男は耳もとで「場所を変えよう」と言った。男は少女を車に乗せてホテルを出た。「どこ行くの?」と少女が尋ねると、男は「お前と一緒なら、俺はどこでもいい」と言った。

 着いた先は隣町のラブホテルだった。受付の人は男を知っているようであり、「あ、どうも」と会釈をしてきた。男のホテルよりも新しく綺麗な建物だった。そこで二人は再び愛し合った。少女は激しく何度も男を求め、男もそれに応えて優しく諭すように彼女を愛撫した。一度セックスが終わると男はビールを飲んだ。しかし、すぐにまた少女は抱いてほしくなり、飲んでいる男のペニスをいじり始め、男は「仕方ないなぁ、また勃つようになるまで待ってろって」と笑った。ただセックスをして、お腹が空いたらルームサービスを頼み、眠くなったら寝た。たまにホテルのフロントから電話がかかってきたが、その日のお金を払うとそのまま放って置いてくれた。気がつくと、数日が過ぎていた。少女には時間の感覚もなくなっていた。

 ある朝、男がお金がなくなったと言った。カードを忘れたから、これ以上はいられないと言った。男は服を着始めた。少女は離れたくないといって男に抱きついた。「仕方ないだろ、金がないんだから。また来よう」男が少女の頭を撫でた。
「帰ったら、奥さんと会うんだ。奥さんと私にしたみたいなセックスするんだ」
「何だお前、ヤキモチやいてるのか。あいつとセックスなんてするわけないだろ。あの女はなぁ、ずっと前に他に男を作って出てったことがあるんだよ。でも、子どもが可愛いからってよりを戻す気になって帰ってきて。俺もそんなことされてあいつに愛情なんて持てないけど、あのホテルはあいつの親父のものだし、仕方なくまだ一緒にいるだけなんだぜ。それにお前のことは最初に見たときから好きだったんだよ」
 少女は「私だって好きだった」と言って再び強く男を抱きしめた。
「お前とここで一生暮らすわけには行かないだろ。そのうちお前のためにアパートを借りてやるよ。そうしたらいつでも会えるからな」
 少女にはそれが信じられなかった。今出て行かれたら、もう男は自分のことを忘れてしまうような気がした。少女は男のズボンを脱がせた。「何だ、もう一回か」男はそう言って少女にキスをしようとしたが、少女は飛びのいて立ち上がった。「やだ、離れたくない。まだ一緒にいる。だって、一度出て行ったら、もう帰って来てくれない気がする。もう私のものじゃなくなっちゃう気がする」少女は男のズボンを持ったまま部屋を出て行こうとした。男がどこに行くのかと尋ねると少女は「私がお金を作ってくる。ここから出ないで」と答えた。

 一人でホテルから出たが、お金を作るあてがあるわけではなかった。プリペイドの携帯の電源を久しぶりに入れると、しばらく返事が来ていなかった優しい方の校長先生からの連絡が入っていた。ここ数日は忙しくしていたために返信が出来なかったのだと書いていた。少女は困っているから会いたいと書いて送信した。返事はすぐに来た。夕方なら会えると言ってくれた。その校長先生とよく会っていた街の喫茶店で待ち合わせた。校長先生は時間通りにやってきた。少女は付き合った男に脅されて金を払えと言われているのだと言った。校長先生はコーヒーを飲みながら聞いていた。信じたかどうかは分からなかった。聞き終わると、「今、娘が大変なことになっていてね。ある名の知れた男に性的な暴行を受けてね。裁判になるかもしれないんだ」と言った。「何だかね、娘にあんなことがあったのは、私が君にちゃんとした人生を送りなさいと言いながら、自分も君にお金を払っていいようにしていた罰が当たったんじゃないかって気がしているよ」少女は首を振った。「先生は悪くないよ」実際、少女には意味が分からなかった。校長は少女を抱きたかった、少女はお金が欲しかったし、校長に抱かれるのは嫌ではなかった。何がいけないんだろう。どうして罰が当たるのだろう。校長先生は財布を取り出した。「お金のことだろうとは思っていたよ。今日は忙しいしこのまま帰ろう。ただここに五万あるから、これをあげるよ。詳しい話はまた近いうちに会って聞くよ」そして校長は少女になぜ男物のズボンを握っているのかを聞いてきた。少女は上手く答えられずに俯いた。「君にも色々あるんだろうね。でもまっとうに生きなきゃいけないよ。これからの人生のことを考えないといけないよ」少女は校長先生のそういうところがつまらないと思った。そして、また会う約束をして、喫茶店の前で別れた。

 泊まっているホテルへの帰り道、少女は男がもういなくなってしまっているのではないかと不安になった。そう考えると心臓がどきどきして胸が詰まって息苦しくなってきた。握っていた男のズボンの匂いを嗅ぐと、微かに男の匂いがした。きっと待ってくれる。待っていてくれるに違いない。その日も暑い夜だった。ホテルのある小さな郊外の駅の改札を降りると、果物屋が大きな声を上げてスイカを売っていた。少女は男に果物を食べさせてあげたいと思った。お金をもらったばかりなので何か買いたくなっていた。スイカを半切れを買った。歩きながらホテルでは切るものがないことに気がついて、途中のスーパーに入り果物ナイフを探した。スーパーを彷徨っているとお腹が減ってきて、ゆで卵とサラダチキンも買った。
 ホテルに着くと、男はテレビをつけっぱなしで寝ていた。床にはビールの缶が転がっていた。ゆすり起こすと、笑顔で抱き寄せてきた。「いなくなっちゃってるかと思った」少女がそう言うと、男は少女の頬をつまみ、「何でこの子は俺のことを信じられないんでしょうねぇ」と笑いながら言った。スイカを買ってきたと言うと男は喜んだ。二人でスイカを食べた。男は種ごと食べた方が栄養にいいんだと言った。少女がそうすると、「何だ、お前信じちゃったのか、スイカの種を喰うと臍からスイカがなって大変なことになるぞ」と驚いた声で言った。少女が慌てると、男は「嘘だよ嘘」と笑った。少女が男を叩くと、男はさらに大きな声を上げて笑った。それから男は「愛し合っている同士は、一度あそこを通してから食べ物を食べるんだって」と言って、殻を剥いたゆで卵を少女の膣の中に突っ込んだ。卵は吸い込まれるようにするっと性器に入っていった。ただ、少女にはいったん入ってしまったら、どうやって出したらいいか分からなかった。「え、これどうすればいいの、どうやって出すの?」少女が不安がると、男は笑い転げた。「取れないよ、取れなかったらどうなっちゃうの?」少女が泣きそうになると、男は少女に「うんこ座りをしろ」と言い、そして下腹を気張らせた。すると、卵はころんと転がり落ちた。男はすかさずそれを拾うとかぶりついた。男はにやにやとしながら「何だろこの味は」と言った。少女は怒って男をベッドに押し倒し、スイカを切った果物ナイフを取ると、男のペニスに当てて、「やい、あそこを切り落としちゃうぞ」と言った。男は「おいおい、切り落としたら、お前だって楽しめなくなるんだぞ」と言った。少女は果物ナイフを放り出して男の唇に食いつき、「だめ、そんなのだめ、もっと楽しむ」と言った。

 それからまた何日か過ぎた。男は何回か、そろそろ帰ろうと言ったが、少女が許さなかった。男のスマートフォンは何度も鳴っていたが、少女はそれを取り上げてバッテリーを抜いてしまった。男は「お前と一緒にいたら、いつか俺は骸骨になっちまうな」と言った。しかし、少女にはそれが嫌そうには見えなかった。このまま一生ここにいることは出来ないということはもちろん少女にも分かっていた。ただだからと言って今のこの味わったことがないような満たされた時間を手放すわけにはいかなかった。
「首を絞めてやると気持ちいいって聞いたことある」と男が言った。少女が「それじゃ締めてよ」と言うと、男は挿入しながら少女の首を締めてきた。ただ、すぐに男は手を離して「お前が可哀想だからやっぱり嫌だ」と言った。少女は「それなら私が締める」と言って、騎乗位の姿勢になって男の首を絞めた。男は笑って、「くすぐったいからよせよ」と言った。少女は「それならこれでどうだ」と言ってズボンのベルトで男の首を締め上げた。すると、その瞬間、男のお腹が出てペニスがビクンビクンと動き、気持ちが良かった。それを男に話すと「少し苦しいけど、お前がいいんだったら、少しくらい我慢するよ」と言った。しばらく首を絞めながらのセックスを続けると、男はさすがにへとへとに疲れたようであった。「嫌なの、私に首を絞められるのが嫌なの」と少女が言うと、男は「嫌じゃないよ、お前がやりたいだけやれよ」と言った。さらにベルトを締めたり緩めたりして関係を続けていたが、気がつくと男のペニスがしぼんでいた。少女がベルトを外すと、男は少女の胸に泣きついた。少女は男の背中をさすってあげた。男は涙を流していた。「何だかおかしい、何だか首が熱いんだよ」少女が見ると、確かに首が赤く腫れ上がっていた。それに眼も充血しているようだった。少女は男を風呂場に連れて行き、水に濡らしたタオルで首を冷やしたりした。男は鏡に映った自分の腫れた首を眺めながら、「ひでえことしやがったなぁ」と呟いたが、怒っているようではなかった。
 男が痛がるために、少女はホテルを出て薬局で鎮痛剤を買ってきた。男はそれを飲みながらやつれた顔で少女の方を眺めた。少女にはそれがいっそう色っぽく見えた。男は力なく笑った。「何だ、その顔は。別に気にするな」少女は男に抱きついた。男は少女の足を撫でながら、「しかしなぁ、本当にそろそろ帰らないといけないな」と言った。少女の頭に男を殺そうかという考えが浮かんだ。このまま帰してしまったら、もう会えなくなる。男は少女と逃げてくれたりはしないのだ。どうせ別れなければならないなら、この場で男を殺してしまった方がいい。ただ、その考えは一瞬浮かんだだけですぐに消えていった。その代わりに再び男に抱いてほしくなった。少女が男のペニスを弄ぶと最初はなかなか大きくならなかったが次第に少しずつ大きくなってきた。
「仕方ねぇなぁ、それじゃ出来るかどうか分からないけど、またしてやるよ」
 少女は男の上に跨った。
「お前は本当に変わった女だよ」
 男のペニスはまだ十分な硬さにはなっていなかった。男は目を細めた。
「何だか眠たくなってきた」
 少女には男の顔が胸が張り裂けそうなほど愛しく感じられた。
「また首を絞めるのか?」
「うん」
「締めるなら、途中で手を離すなよ。後で苦しいから」
 男はそのまま目を瞑った。少女はベルトを取って男の首を締め上げた。男は目を広げて何かを言いかけたが少女はそのまま男に覆いかかるようにして首を絞め続けた。男は一度だけ唸り声を上げた。やがて男の手足が少しだけ痙攣し動かなくなった。少女は手を離した。

 少女はしばらく呆然としていたが、やがて立ち上がって、男が飲みかけていたビールを飲んだ。気持ちはむしろ晴れやかだった。これで何もかも終わったと思った。そのまま男の横に添い寝をしたり、キスをしたり、男のペニスをしゃぶったり頬ずりをしたりした。ペニスはもう大きくはならなかった。
 男を殺してしまったから、自分も死ななければならないと思った。死は少しも恐いとは思わなかった。ただ、男の死体をあの偉そうな男の妻が引き取るのだろうかと思うと、許せない気がした。私のものにしたい。私がずっと持っていたい。少女は床に落ちていた果物ナイフを取り上げると、男のペニスを切り落とした。思っていた以上に血が流れたため、途中からバスタオルで抑えながらやった。ペニスを切り終わると、睾丸の方も惜しくなり、それも一緒に切り落とした。どうやって持ち運ぼうかと辺りを見回すと、スイカが入っていた果物屋のビニール袋があったためホテルのタオルに包んでからその中に入れた。そして、二人の愛を示すにはまだ何か足りない気がして、男の太腿にナイフで自分の名前を刻んだ。
 それから血塗れになった体をシャワーで洗って、男の着ていたTシャツとトランクスを履いて、その上に自分の服を着て、ペニスと睾丸の入ったビニール袋を握り締めて部屋を出た。ホテルのフロントには男はまだ寝ているので起こさないようにと言った。朝の八時だった。

 行くあてはなかった。すぐに死のうかとも思った。ただ校長先生には会わなければならない気がした。スマートフォンを取り出してどうしても会いたいと連絡した。すぐには返事は返って来なかった。少女はそのまま街を歩き回った。時々人気のない公園のベンチに座って、こっそりと男の「おちんちん」を取り出して眺めたり、キスしたり、舐めたり、しゃぶったりしてみた。生臭い臭いがしたが、男の匂いだと思うと安心した。
 午後に校長先生から返事が来た。夜に会ってくれるということだった。少女はそれまで我慢できるだろうかと思った。しかし、待つしかなかった。一人で久しぶりにゲームセンターに行くことにした。
 校長先生とは前と同じ喫茶店の前で待ち合わせた。校長先生の顔を見ると、少女は自分でも驚いたことに、急に涙が溢れてきた。校長は前に話した脅されている件で少女が泣いているのだと思ったらしく、「どうした、その男にひどいことをされたのか」と聞いてきた。少女はただ首を振った。どうして涙が出てくるのか分からなかった。校長先生は少女の肩を抱き寄せた。「もう心配するな、君の力になってあげよう。何でも相談してくれ」少女の涙は止まらなかった。「校長先生」と少女が呼ぶと、校長先生は少し気まずそうに、「あのなぁ、もう二年前に学校を辞めているんだ。だからもう校長先生じゃないんだよ」と言った。そんなことは少女にはどうでもよかった。ただ、校長先生が自分が人殺しだということを知らずに優しい言葉をかけてくれることが悲しく感じられた。
 校長先生は少女をホテルに連れて行った。
「変な話だけれど、君は少し臭いな」
 少女は男の「おちんちん」を持ち歩いているせいだと思った。校長先生に気が付かれないように、「おちんちん」の入ったビニールを部屋の隅に置いて、「シャワーを浴びてくる」と言って、バスルームの前に行き、男物の下着を着ていることを悟られないように素早く脱いだ。裸になると自分でも少し変な臭いがする気がした。
 その後、校長先生は久しぶりに少女を抱いた。ただ、少女は少しも気持ちがよくなかった。校長先生に抱かれながら、部屋の隅に置いてある男の「おちんちん」のことを考えた。そして、少女は自分の人生の一番の時間はもう過ぎてしまったのだろうと思った。

九、男性 二十歳 医学生

 若い女の甲高い笑い声がした。彼のサークルの先輩たちが実家の自慢話をしている。一人は親が地方の総合病院の院長だと言い、もう一人は親が国会議員だと言った。それを聞いて彼は確か一人の実家はクリニックであり、もう一人の親は地方議員のはずじゃないかと思う。しかし、そんな彼自身は先輩たちのように感心されるそれらしい嘘をつくことも出来ない。黙り気味の彼に気を使った女の一人が「実家は何しているんですか」と聞かれて、そのまま「うちは普通の会社員なんで」と答えてしまう。「それじゃ医学部の学費を払うのは大変でしょう」と女は自分が医学生なわけでもないのに、同情したようなことを言う。それを見たサークルの部長が、「だから、こいつ滅茶苦茶頭いいんだぜ。他の俺らみんな金積んで医学部入ったんだけど、こいつだけは本物の天才」とふざけたような喋り方で言う。女たちから驚きの声が上がる。「うっそ? 本当にお金積んで入れたりするんですか!」部長は大声を上げて笑い、「出来る出来る、何ならお前のことも親父に頼んで医学部に入れてもらっちゃうよぉ」と言う。また笑い声が広がる。「私? 私が医学部に? 無理無理無理、きっと、入れてもらっても一個も単位取れないよぉ」
 そこはいかにも合コンなどで使われるような個室の創作居酒屋だった。男女合わせて十人が集まっていた。男が六人で女が四人だった。男たちはみな同じ大学の医学部の非公認サークルのメンバーであり、女たちはSNSなどを通して集められた近隣の大学生や専門学校生であった。
彼は二浪して医学部に入った一年生であり、このサークルで三度目のコンパだった。しかし、高校時代にもまったく合コンに出たことがない彼には、そうした場でどのようにふるまったらよいかよく分からず、ただ曖昧な笑みを浮かべているだけだった。先輩たちは少しも臆せずに女たちと話していた。彼にはどうしたらそう出来るのか分からなかった。
「ねぇ、今気づいたけど、胸すっごいでかくない?」
 先輩の一人が近隣の大学の二年生だという女の胸を指差す。女は恥ずかしそうな嬉しそうな顔をする。
「え、Gカップ? すげぇ、Gカップなの? はい、部長、Gカップの子がいます!」 
 部長も身を乗り出す。
「何だと、それは緊急事態だ。ほら、ちょっと胸を張ってみて、ぐっとこうさぁ」
 女は最初嫌がるが、結局その場の雰囲気に負けたのかぐっと胸を突き出す。すると、隣にいた男の一人がそれに合わせて指を突き出して、女の胸をつついた。
「わ、お前、何やってんだよ、そういうのはセクハラって言うんだ、何てことをするんだ、俺だってやりたいのを我慢してるのに」
 女が何か言う前から部長がそう言って、つついた男の手を叩いてつっ込みを入れると、胸を触られた女はそれ以上怒れない雰囲気になる。
「ほら、彼女に謝りなさい」
「ごめんなさい、つい欲望に逆らえなくて」
「まったくお前は欲望に弱い男なんだから」
「でも一生の思い出にします。この手をもう洗わない」
「何言ってんだ、ぜんぜん反省してないじゃないか」
 部長は大声を上げて笑う。
「っていうか、こいつがつついたせいで、肝心の胸を張ったところがよく見れなかったじゃねぇか。本当にごめん、もう一回だけ。だって、さっきのこいつのせいで分かんなかったんだもん。頼むから、もう一回だけ胸張ってみて」
 また別の先輩が部長につっ込みを入れる。
「ちょっと、部長、必死すぎじゃないですか。ホントどうも、すいませんねぇ、こんな部長で。すごい優秀な将来有望な人なんですよ、将来の教授候補くらいの。ただ残念なことにおっぱい星人なんで」
「じゃあ、俺が教授になったら、お前は医局長にしてやる。って言うか、おい、誰がおっぱい星人だ」
「いやいや、もう遅いですよ、この場のみんなにばれてますから」
「じゃ、そういうことで、お願い、もう一回だけ胸を張ってみて」
 女は嬉しそうに笑いながら、「もう一回だけですよ、しょうがないなぁ」と言って、胸を張る。すると、今度は部長が指を出してその胸をつつく。
「あ、何てことするんですか、人にはセクハラだとか言っておいて、本当にもうこの人は」
 すかさず、先ほどつついた先輩の一人がつっ込みを入れる。あたりは再び笑いに包まれる。
 彼はまったくそうした話題に入っていけない。しかし、女のニットのセーター越しに大きく膨らんだ胸や、それが先輩たちにつつかれて揺れる様子を見て、彼の下半身は硬く勃起していた。あの胸を触ったらどんな感触がするのだろうか。

 彼がその非公認サークルに入ったのは同じ一年生の知り合いに誘われたからだった。あまり社交的とは言いがたい彼は入学当初、どこの部活やサークルに入ったらよいか分からずにためらっていた。大学に入ったら女の子と遊びたいとずっと思っていた。しかし、何の躊躇もなく女学生たちと楽しそうに談笑する男たちを横目にしながらキャンパスを歩いていると、たとえ医学生になったところで、それだけでは自分は少しも女の子と遊べるようにはならないということに気づかされた。時折、語学のクラスメイトと会話をすることがあったが、ごく当たり前の日常会話だけであり、そこから何かが発展する気配は何も感じられなかった。
 そんなとき、いくつか同じ授業を取っている知り合いから、SNS上で案内がきた非公認サークルに一緒に行ってみないかと誘われた。そこはホリスティック医学研究会と名づけられていたが、実際の活動内容は特に何かを研究しているわけではなく、他大の女の子たちと飲み会をするのが中心のようだった。「ここに入ったら、絶対に女の子と仲良くなれるって話だぜ」知り合いは大真面目な顔でそう言ってきた。「絶対に女の子と仲良くなれる」その言葉に彼は逆らえなかった。

 実際に入ってみると、本当にまったく研究はしていなかった。ただ、毎日のようにSNSで女学生を誘い、コンパを開いていた。全体で十人くらいの集団であり、普段はよく大学内のカフェでたむろしていた。新人の役目は店を取ることとSNS上でコンパイベントの勧誘のメッセージを撒くことだった。最初の何回かは女の子があまり集まらなかったため、男ばかりが多くても困るからと言われ、一年は参加させてもらえなかった。何度目かの機会でやっと女の子も集まるコンパに参加した。彼をサークルに誘った知り合いはそのときの先輩たちの振る舞いに胡散臭いものを感じたようであり、「あの人たち、信用できない」と言って、サークルをやめた。彼は先輩たちが信用できると思ったわけではなかったが、むしろそんな先輩たちのように女たちと何の躊躇もなく話せるようになりたいと思い、サークルに留まり続けた。

 宴席では初体験の話で盛り上がっていた。
「俺、学校の校舎ですよ、放課後の」
「ホント? 本当にそんなことってあるんだぁ。校舎のどこだよ?」
「放送部なんですけど、放送室の床の上。彼女も放送部で、最初二人でふざけていちゃつき合ってたんですけど、だんだん我慢出来なくなって」
「床の上って、お前はいいかもしれないけど、相手の子はそれでよかったのか?」
「いや、向こうはもう慣れたもんで、しょうがないわねぇ、させてあげるわよ、ガパッ、みたいなノリだったですよ」
「あ、でも、それっていいよなぁ。俺のときはお互いに初めてで、ぶっちゃけどうやってらいいかどっちも分かんなくて、あれこれでいいのかなみたいな。そしたら、相手はやたら痛がるし、ひょっとして、間違ったやり方なんじゃないのって、すげぇ不安になった」
「間違ったやり方って、部長、ひょっとしてケツに入れちゃったりしたんじゃないですか」
「いやいや、いくら俺でも、それは気がつくだろ、おい」
 先輩たちは相変わらず品のない笑い声を上げている。ただ、女たちもそれに合わせて笑っているのが彼には不思議だった。
「お前はどうなんだ?」
 急に彼は先輩の一人に指をさされた。彼には性体験がなかった。どう答えたらいいのか分からなかった。彼は何も答えられずに黙り込んだ。
「あれ、もしもーし。電池切れちゃった?」
 尋ねてきた先輩がからかってくる。
「おい、やめとけ、こいつはピュアなんだ」
 部長がそう言うが、彼の味方になっているというよりも、むしろさらにけしかけているように聞こえる。
「ピュアって、あれ、え、何、まさか、童貞? こいつ童貞? ねぇ、こいつ童貞だってよ」
 その先輩は隣の女に嬉しそうに話しかける。
「やめなさいよ、可哀想じゃない。いいじゃない、童貞だって、ねぇ。ほら、赤くなってる。可愛い」
「あ、可愛いだって。おい、お前、チャンスだぞ、チェリーを脱するチャンス到来だぞ。きっと今の『可愛い』だけで、こいつすげぇ興奮してギン勃ちだぞ」
 彼はこの時間が早く過ぎないかとひたすら思う。こんなことを言われるために自分はこのサークルにいるわけではない。ただ、実際にその先輩が言ったように女の「可愛い」という言葉が抗いがたい甘美さで彼の欲望を刺激したのも事実だった。

 彼はこれまでずっと女と縁のない生活を送ってきた。もちろん中学高校ではクラスメイトがいたし、二浪した予備校時代も同じ教室には沢山の女たちがいた。ただ彼女たちと親しく話すことはほとんどなかった。彼にはどうやって女たちと話したらよいか分からなかった。また、女たちも彼のことを気味悪がっているように感じられた。それでも予備校時代には気になった子がいた。背の低い少しだけぽっちゃりした地味な子だった。彼と同様にいつも一人でいることが多かった。彼は毎日のようにその子の斜め後ろあたりの席に座り、一日中その子のことを眺めて過ごすようになった。あるとき、たまたま二人とも近くの書店で参考書を探していて、その子と出くわした。初めて話をした。よく教室で見かけますねということや、その参考書は自分も使っていますといったことくらいで、それほど長い会話ではなかったが、彼にとっては無上の喜びだった。お互いの会話を何度も何度も思い返して反芻した。自分のことを覚えてくれていたことで、彼女も彼を意識していたのではないかと考えるようになった。その後、予備校で会うたびに挨拶をした。会話まで発展することは少なかったが、その子は会釈をしたり、「おはよう」と言って応えてくれた。一ヵ月後、我慢できなくなった彼は彼女にラブレターを書いた。普段、文章を書くことなどほとんどない彼が初めて誰かに宛てて書いた手紙だった。次の日、彼女は予備校に来なかった。その次の日も、その次の日も来なかった。予備校を退学したようだった。彼には理解出来なかった。自分の気持ちを受け入れられないというだけなら仕方ないが、なぜ一言も言わず、しかも予備校までやめてしまうのか。それほど自分は彼女にとって恐ろしい気持ちの悪い存在だったと言うことであろうか。どうして自分はそれほどまでに嫌がられなければならないのか。彼は彼女に強い恨みの気持ちを抱いた。たまたま夜道で出会い、そのままつけて行って公園でレイプをする空想をした。お前がひどい拒絶をしたから悪いんだ、お前がまったくこちらの気持ちを無視したから悪いんだ。もちろん、夜道でどころか、二度と彼女と会うことはなかったし、レイプも実行されることはなかった。

 注文した料理が来るのが遅く、店員に言ってこいと言われ、彼は部屋を出て従業員に声をかけた。従業員はひたすら低姿勢で、すぐにお持ちしますのでしばらくお待ち下さいと言っていた。彼はこんなに頭を下げなければならない仕事はしたくないなと思った。ふと見ると、店の前に部長が立っていた。どうしたのだろうと、彼も外に出た。
「そうだよねぇ。ホントにごめん。明日までの課題があってさぁ、それが全然終わってなくて、厳しい感じなんだよねぇ。明後日じゃダメかな? ホントに悪いねぇ。いつも気にしてくれてありがとう。すっごい、感謝してるから。絶対にこの埋め合わせはするね。おうっ、そっちも頑張れよ。うん、また電話するからね」
 電話をしていたようだった。先ほどのコンパの中での様子とは異なって、驚くほど低姿勢な喋り方であり、謝るときにはスマホを片手に頭まで下げていた。部長は彼に気がつくと、少し気まずそうに笑った。
「あぁ、彼女だよ。会う約束してたのすっかり忘れて。まったく、めんどくせぇなぁ」
 そして部長は彼の顔を見ると自信満々の顔を取り戻して言った。
「お前もな、女にはなぁ、二種類あるって考えろ。ひとつは彼女にしたり、結婚したりする女。これは頭がよくて親が金持ちなのを探せ。もうひとつがセックスするための女で、今日いるようなやつらだよ。その二種類を同じ扱いにする必要はないし、むしろきっちり使い分けるのが上手くやるコツなんだよ」
 部長は彼の肩を叩いて店の中に戻っていった。

 飲み放題コースの三時間が過ぎて店を出ることになった。先輩は女たちに二次会に行こうぜと誘っていた。結局、四人中二人が二次会に行くと言った。
「でも、次はどこに行くんですか?」
 女の一人にそう聞かれて部長は笑って言う。
「こいつのマンションがここから近いんだよな。今から店を探して知らないところに入るよりも、すげえ綺麗なマンションだからそこにしようぜ」
 部長は先輩の一人の肩を組む。
「よし、未来の医局長、お前の家に行くぞ」
「やっぱ、自分、医局長なんですか?」
「うん、何かこう、そういう中間管理職っぽい雰囲気があるから」
「何すかそれは。部長がうちの大学の教授になるなら、俺はもっといい大学の教授選に出馬しようっと」
「言ってろ、言ってろ。おい、お前、タクシー捕まえろ」
 結局、部長と「医局長」ともう一人の先輩、そして女が二人、医局長のマンションに行くことになったようだった。部長に命令されて彼は道で手を上げてタクシーを止めた。部長は女一人と医局長とその車に乗り込んだ。ドアを閉めるとき、部長は彼に、
「お前も来るだろ、後のやつらともう一台タクシー捕まえて来い」
 と言った。彼は自分も行くとは思っていなかったために驚いた。残った先輩の一人の方を振り向いて、「俺も行っていいんすかね」と尋ねると、その先輩ではなく、横にいた女が「いいに決まってるじゃん、行こうよ行こうよ」と言った。Gカップの女だった。女はかなり酔っているようで声は少し呂律が回らなくなっていた。女が嬉しそうに何かを言うたびにGカップの胸が揺れて彼の心を動揺させた。
「部長が来いって言ってんだから、いいんだろ。それよりも早く車止めろよ」

 タクシーの中で、先輩は女と後ろの座席に座り何かひそひそ声でいちゃいちゃと話していた。聞こえてくる会話から、どうもその先輩とGカップの女はもともと知り合いのようだった。彼は助手席で部長が珍しく自分を二次会に誘ったのは、さっき彼女と電話して頭を下げているところを見られたからなのだろうかと想像したりしていた。スマートフォンが振るえた。見ると「医局長」からだった。

(多分、酒が足りなくなる。俺のアパートの斜め向かいにコンビニがあるから、そこでビールと強めのチューハイとワインを買って来い。あと、乾き物系のつまみも適当に。それと、腹が減ったから俺の分のカップラーメンも)

 彼は部長が誘ってきたのは、残るメンバーの中に使いっぱしりにしやすいものがいないからに違いないと思った。むしろそうして理由が分かった方が気持ちは楽だった。

 医局長のマンションの前で降りて、先輩と女は先に部屋に向かい、彼は一人でコンビニで買い物をした。ビールを何本も買い込むと値段も重さもかなりになった。彼は一人で買出しをさせられたことに不満に感じながらマンションに入っていった。入口で部屋番号を押してドアを開けてもらうタイプのマンションであり、こういう高級そうなところは家賃は一体いくらするのだろうかと思った。エレベーターを三階で降りて、三〇一号のチャイムを押すと、医局長が現れた。
「遅いぞ、お前。もううちにあった酒を全部飲みきって、お代わりを待ってたところだ」
 大学生の一人暮らしにしてはかなり広いその部屋に入っていくと、リビングに集まって床に座ってみんなで飲んでいた。誰もが妙に砕けた雰囲気を出しており、彼は自分がそこに入っていっていいのかと躊躇を感じた。ミニスカートを履いた女も床に胡坐をかいて座っており、その太腿の白さが目についた。部長が手を上げた。
「おぉ、酒のお代わり来たか。よし、これで続けられるぞ」
「えぇ? まだ続きやるのぉ。もう無理だよぉ」
 彼もその輪の中に加わった。部長はコンビニのビニールから酒を取り出した。彼は何が続くのだろうかと思った。もう無理だと言ったGカップの女はよく見ると大して暑くもないのになぜかキャミソール姿になっていた。大きな胸がよけいに際立って見えた。医局長が手を上げた。
「はい、山手線ゲーム。元素記号!」
「うっそー、何それ、全然分からない!」
 横にいた部長が手を叩いた。
「はい、パンパン、水素のH」
 医局長もそれに続く。
「パンパン、ヘリウム、He」
 その横に座っていた彼は慌てて、手を叩き、「パンパン、酸素のO」
 と言った。部長は彼を指差して、「あ、順番じゃねぇな」と言って笑う。その隣の先輩は落ち着いた様子で、
「パンパン、リチウム、Li」
 と言う。次がGカップの女だった。女は慌てた様子で、
「えぇ、ちょっと待ってよ待ってよ、そんなの分からないぃ。パンパン、二酸化炭素?」
 と言う。部長は大笑いして、
「二酸化炭素は元素じゃねぇじゃん。それじゃ、罰ゲーム! 一杯飲んでから、一枚脱ぐ!」
 女は頭を抑える。
「えぇー、もう無理だってば」
 部長は彼が買ってきたアルコール濃度の高いストロング系の缶チューハイをコップに開けて、女の前に突き出す。女はいやいやながらそれを受け取る。
「ほら、ゲームなんだから、しょうがないだろぉ。ぐいっといっちゃえ、ぐいっと」
「これ飲むから、脱ぐのは無理」
「いいから、早く飲んじゃえ」
 女はやけくそのようにチューハイを飲み干して、「あぁ、もう無理」と頭を振る。
「さ、じゃ、そのキャミソール脱ごっか」
 部長は反撃を緩めない。
 Gカップの女の隣にいたミニスカートの女は顔をしかめて、隣の部長に言う。
「これ、ちょっとやりすぎじゃないの。あんたたち、いつもこんなことしてるの? 問題になったらどうすんのよ」
 その言い方からは、ミニスカートの女は部長の知り合いのようだった。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと後でこいつがフォローするから。何なら、もうお前は帰ってもいいぞ」
 部長は彼と一緒にタクシーで来た先輩を指差す。
「ほら、お前ら、彼女が酔ってて脱ぎづらいって言ってんだろ、気を利かせて、お手伝いしてあげないと」
 そう言われて、医局長ともう一人の先輩が、
「失礼しましたぁ。でわでわ、お手伝い」
 と芸人のような調子で言うと、Gカップの女の後ろに回り、キャミソールに手をかけた。
「ちょっと、ホントに勘弁、無理だからぁ」
 二人の先輩は勢いに任せてキャミソールをめくり上げた。ぶるんと大きな胸が揺れて服が脱がされた。女は慌ててブラジャーの胸を押さえて隠した。部長は上機嫌な笑い声を上げた。彼はどうしたらよいか分からなかった。ただ女の手の隙間から見える大きな乳房の谷間から目を背けることは出来なかった。
「お前、ちょっと、おっぱい、見すぎじゃん」
 医局長に肩を叩かれた。部長はさらに上機嫌に笑った。
「こいつ童貞だからなぁ。童貞には刺激強すぎだよなぁ」
 そのとき彼にはブラジャー姿にさせられた女が怒って出て行かないことが不思議だった。それどころか嫌がってはいるがどこか半笑いであり、真剣さが感じられなかった。女も内心は喜んでいるのだろうかとさえ思えた。
「さて、それじゃ、もう一回」
「もう絶対無理。これ以上は無理。それに、元素記号なんて、そっちは理系の医学部で絶対文系の私が分かんないの分かっててずるいんだから」
 女は胸を押さえながら言う。
「ほら、そうだよ、お前ら、俺たち理系なんだから、俺たちばっかりが分かるテーマじゃ、卑怯じゃないか、反省しろ」
 そう相変わらずふざけたテンションで部長が言うと、また部長は手を叩いた。
「それじゃ、俺たち理系が不利で文系の君が圧倒的に有利なテーマ。徳川将軍! パンパン、家康」
 席に戻っていた医局長が続く。
「パンパン、秀忠」
 彼はまた慌てながら、
「パンパン、家光」
 と言う。
「パンパン、家綱」
 また女の番になり、女は必死な顔をしながら、胸を押さえているために拍手は出来ずに、
「吉宗!」
 と叫ぶように言う。先輩たちが軽い歓声を上げる。その隣にいたミニスカートの女は露骨に嫌そうな顔をしながら、
「パンパン、慶喜」
 と言う。一週回って部長が再び、
「パンパン、綱吉」
 とさも簡単そうに言う。彼は自分にまた回ってくる可能性があるとは思わずに焦り始める。医局長も平然とした口調で言う。
「パンパン、家宣」
 彼の頭はパニック状態になる。冷静なときであれば、まだ何人かの将軍を知っていたはずだが、少しも頭に浮かんでこない。
「パンパン」
 と手を叩きながら言ってそのまま固まってしまう。数秒間の沈黙が訪れた後、隣の医局長から頭を叩かれる。
「お前が失敗してどうするんだよ」
 それをきっかけに部長もまた笑い始める。
「アホだこいつ、おい空気読めよ、何でお前がここで失敗してんだ。本当はお前、脱ぎたいんじゃねぇのか」
 彼の前にストレートのウィスキーを入れたグラスが突き出された。
「ほら、飲め、ルールだ、飲めよ」
 ウィスキーは飲んだことがなかった。しかし、飲むしかないと思った。一気に流し込むと、想像していた以上に酒臭く、喉が焼けるようだった。頭もぼやけて来た。
「さ、それじゃ、お前にも脱いでもらわなきゃな」
 部長がそう言うと先輩二人が立ち上がった。彼はシャツくらい脱いでいいと思っていた。
「やっぱ、ここはズボンだろ」
 部長がそう言うとすぐに二人の先輩は彼を取り押さえてベルトをはずしてズボンを無理やり脱がそうとしてきた。彼は最初抵抗して軽く暴れるが、体に力が入らずに、そのまま脱がされてしまう。
「ホント、やめなよ、何やってんのあんたたち。私、帰るからね、馬鹿馬鹿しい」
 ミニスカートの女がそう言って立ちあがった。
「あんたも早く帰りなよ」
 彼女はそうGカップの女に吐き捨てるように言うと、ドタドタと音を立てて部屋を出て行った。先輩二人が部長の方を見ると、部長は首を振って、
「大丈夫、大丈夫。あいつは大丈夫だから」
 とニヤニヤしながら言った。彼は部長が何か弱みを握っているために彼女がこの場のことを他に言う心配はないということだろうかと思った。次第に恐怖を感じ始めた。一方で、トランクス一枚の情けない姿になりながら、彼はこれが現実のことではないかというような気にもなっていた。こんなことが自分の日常の中で起こるはずがない。
「さ、続きやるぞ。今度はお前からやれ、テーマはスカンジナビア半島の国だ」
 部長は医局長の肩を叩いた。医局長は少し考えてからにやっと笑って、手を叩き始めた。
「いきまーす。パンパン、フィンランド」
 彼も必死で答えた。
「パンパン、ノルウェー」
 もう一人の先輩も余裕で答えた。
「パンパン、デンマーク」
 Gカップの女は頭を抱え込んだ。
「そんなの分かんない!」
 部長は嬉しそうにグラスに酒を注いだ。
「そっかぁ、残念だなぁ。文系教科の地理からの出題だったんだけどなぁ。じゃあ、とりあえず、これ飲もっか」
 彼はそのときやっとスカンジナビア半島には三つの国しかないため、どうやってもあの女が負けるように部長が仕組んでいたということに気が付いた。女が一人だけになって、先輩たちの振る舞いはさらに乱暴さを増していったようだった。一人が後ろから女を押さえ込み、一人がグラスを持って口に流し込んだ。女は最初首を振ったが、そのまま流し込まれてしまい、むせ吐き出した。
「あぁあ、汚ねぇなぁ。ほら、ブラジャーも濡れちゃったじゃん。ま、いっか、どうせ脱ぐんだから」
 部長のその言葉に合わせて後ろに回っていた医局長が女のブラジャーのホックを外してすばやく胸を露出させた。彼にとって生で女の胸を見たのは思春期を過ぎてから初めてのことだった。女が慌てて隠して、体を前に倒して丸くなったため、乳首は一瞬しか見えなかった。よく見るといつの間にか泣いていた。彼は女がさっきまでニコニコと笑っていたのに変だなと思った。
「もう、帰らせて、お願いだから、もう帰っていいでしょ」
 そう言う女を見て、部長は笑った。
「いやいや、その格好で帰るのは不味いでしょう。電車の中とかで注目の的になっちゃうよ。サラリーマンのエロ親父たちが興奮しすぎて社内が大混乱になっちゃうよ」
 女は次第に大声を上げてまるで子どものように顔をくしゃくしゃにして泣き始めていた。
「しかし、何だな、おい。上が裸で、下だけ着てるっていうのも、ちょっとバランス悪くないか」
「そうっすね。何かちょっと、中途半端っていうか、気持ち悪い感じですね。自分、中途半端が一番嫌いなんですよ」
 彼の隣で先輩が言う。
「おい、下も取っちゃえ」
 部長に言われて先輩が立ち上がる。いつの間にか医局長がいなくなっていたため、彼も手伝わされてうつ伏せに倒れるようにしている女の腹に手を回してボタンを外し、引っ張って女のスラックスを無理矢理脱がせた。彼は一緒にパンティも掴んでしまっていて白い尻が露になった。それを見て、先輩はパンティも一緒に力任せに脱がせた。
「おい、お前ら、パンツまで脱がしてんじゃねぇか。ひっどいやつだなぁ。ちょっとそのパンツ俺によこせ。シミとかないかチェックするから」
 スラックスとパンティを脱がされた女は一度潰れた蛙のようにべたんと床に足を広げてしまったが、それから泣きながら足を縮めてアルマジロのように丸くなった。
「お尻出てるよぉ、お尻」
 部長が女の尻をふざけて叩いた。
「お、いい音するじゃん」
 そのとき、医局長が戻って来た。
「あれ、何、もう全部脱がしちゃったんですか、くっそ、肝心なときに見逃したかな」
 医局長の手には先ほど彼がコンビニで買ったカップラーメンがあった。お湯を入れていたらしい。
「お、何だお前、ラーメン食うのか。そうだ、それじゃ食いづらいだろ、ちょうどいい、ここに手頃なテーブルがあるぞ」
 部長は丸まった女の裸の背中を叩いて言った。
「あ、さすが部長、優しいですね。それじゃ、使わせていただきまぁす」
 医局長はそのままカップラーメンを手に女のすぐ横に行き、裸の背中の上に置いた。女が何か声にならない叫び声を上げた。
「すげえなぁ、このテーブル叫ぶじゃん」
 医局長は平然と、蓋を開けて、その中に液体スープを入れて混ぜ始める。あたりにラーメンの匂いが立ち込める。その様子を部長やもう一人の先輩がスマートフォンで写真に撮っている。
「いいねぇ、いいねぇ、鬼畜だねぇ」
 写真を撮った二人はお互いの写真を見せ合って笑っている。医局長はずるずるとラーメンをすすり始める。
「あ、これうめえじゃん。お前、ナイスチョイス」
 医局長が笑顔で彼に親指を立ててグッドサインを送る。その間もずっとBGMのように女のすすり泣く声が響いている。「助けて」彼にはそう女が言ったようにも聞こえた。
「何味なんだ?」
「しょう油豚骨ですよ。どっかの名店のシリーズじゃないですか」
 医局長は一度放り出したカップラーメンの蓋をもう一度取り上げて見ている。
「部長も一口食べます?」
 部長は医局長から割り箸を受け取る。すると、部長は何を思ったのか、その割り箸を女の尻の穴に突っ込んだ。女の悲鳴が聞こえて、肌色のテーブルが大きく揺れ、半分以上の残っていたラーメンが倒れて、中の麺やスープが女の背中に流れ出す。
「熱い、熱い!」
 女が今度は絶叫に近いような声を出してのたうつ。
「おい、暴れんな暴れんな、尻の中で割り箸割れたら、取るの一苦労だぞ」
 部長は冷めた口調でそう言う。医局長は慌てた様子で言う。
「待て、お前、カーペットにラーメンの汁こぼしちゃったじゃねぇか、ひっでぇなぁ、こういう臭いなかなか取れないんだぜ」
 女は熱いスープのこぼれた背中を手で必死にぬぐっている。そのため、これまで隠されていた大きな胸がすべて露わになる。胸の大きさのわりに小さな桜色の乳首がついていた。彼は女の乳房が揺れるのに魅入った。形のよい乳房だった。女の白い肌はラーメンの汁が垂れたところだけ赤くなって、紅白のまだら模様だった。
「部長、一大事です! こいつ、めちゃくちゃ勃起してます!」
 先輩の一人が手を上げて大きな声で言った。彼は堅く勃起していた。トランクス一枚にされたためそれは一目瞭然だった。
「あぁ! ホントだ、それは確かに一大事だ。おい、隠すなお前。これは大変なことになったぞ、うちの若いもんをこんなに勃起させちゃって、おいラーメン巨乳女、どう責任を取ってくれるんだ」
 部長は女の尻を叩いた。医局長は自分の部屋のことが気になるらしく、一生懸命にカーペットを拭いたり、こぼれた麺をビニール袋に捨てたりしている。
「もう、これさせちゃうしかないんじゃない?」
 部長がもう一人の先輩に言う。
「マジっすか、自分以外の男が童貞捨てるの見るのなんて初めてなんだけど」
 先輩は笑いながら答える。部長は彼に話しかける。
「おい、この女が初めてでいいだろ。まぁ、でも実はこいつのお古だけどな」
「部長、それは言わない約束でしょ」
「一年、こっち着てパンツ下ろせ。やっちゃえ」
 それを聞いた女はまた叫び声を上げてアルマジロのように丸まる。
「へぇ、バックが好きってことか。おい、バックがリクエストだぞ」
 彼は先輩二人に押されて女の前まで連れていかれる。先輩に手をつかまれて、女の体を触らされる。柔らかくしっとりとした女の肌の手触りがある。女はバタバタと暴れたため先輩二人が押さえ込んだ。
「お前はなぁ。きっとこれまで陰気な人生を生きてきたんだろ。ずっと女に縁がない人生を生きてきたんだろ。それは全部、お前のせいなんだよ。お前自身が何もせずに周りの文句ばっかり言ってるからなんだよ。そのままじゃ、ずっとそのままだぜ。やってやれ、ほしいもんは自分でつかみ取れよ、他の誰かなんて気にすんなよ。今日でお前は変わるんだよ、この女をやって新しいお前になるんだよ」
 部長の声が聞こえた。先輩二人は暴れる女を仰向けにして股を開かせていた。部長が彼のトランクスをずり下げた。硬くなったペニスに冷たい空気が感じられた。やってやれ、やってやれ、やってやれ。彼の頭に部長の言葉が反芻された。彼は無我夢中で女の股間にペニスを突き刺した。

 それから後のことはあまり覚えていなかった。気がついたら朝で、医局長のマンションの床に倒れるように寝ていた。先輩たちも同様に寝ていたが、部長と女はいなかった。彼が起き上がると、医局長も気がついた。
医局長は二日酔いで気持ち悪いと言いながら、台所に行って水を飲み、彼にもグラスに水を入れてくれた。時計を見ると十時だった。午後から授業がある。しかし、まだ酒が残っているのか現実感のないふわふわとした感覚があった。
「すいません、授業あるんで、先帰ります」
 彼はそう言った。医局長は彼の顔を見ずに「了解」とだけ言ってまた横になった。マンションを出ると日の光がやたらに眩しく感じられた。一人になって歩き始めると昨日の女とのことが思い浮かんできた。あれは本当にあったことだったのだろうかという気がした。あれから女はどうしたのだろうか。スマートフォンを見ると、親から帰宅しなかったことを心配するメールが来ていた。彼は立ち止まって、サークルの飲み会で終電をなくしたので先輩の家に泊まって今から帰るところだと返事をした。何度か迷いながら駅に着き、電車に乗ったものの、途中で寝てしまい、最寄り駅に着くまでには何度も行ったり来たりをしなければならなかった。もう今日は授業は無理だと思った。一刻も早く自宅のベッドで眠りたかった。

 ようやく最寄り駅に着いたときには正午を回っていた。歩き始めたとき、スマートフォンが震えた。取ると部長だった。

 お前か。不味いことになった。

 いつものふざけた口調ではなかった。
「おはようございます。不味いことって何ですか」

 女が警察に駆け込んだ。こんなはずじゃなかったんだが、酔っ払いすぎて、最後に脅しつけるのが足りなかったかもしれない。

 そう聞いても最初彼にはピンと来なかった。
「どういうことです」

 医局長のマンションに警察が来たらしい。俺やお前のところにもすぐに行くと思う。あの馬鹿女がレイプされたと泣きついたみたいだ。

「それで、どうなるんですか」

 分からねぇよ。俺は早めに弁護士を立てるつもりだ。それと、被害を最小限にするために、山手線ゲームはみんな喜んでやっていると思った、お前と女がセックスしたのは盛り上がったお前たちが勝手にやったってことにするから、俺たちはそう答えるから、お前もその通りに言えよ。分かったな。

 彼はただ曖昧に頷いた。先輩は弁護士と連絡を取るからと電話を切った。
 初夏の暑い陽射しが照り付けていて、子どもの頃から何度も歩いた住宅街の道が目の前に広がっていた。何もいつもと違わないような気がして、昨日の夜のことや先輩の電話が嘘のように感じた。彼の脇を小学生が走り抜けた。低学年は授業が午前中だけの日らしかった。何人かの小学生が集団で笑いながら走っていった。男の子も女の子もいた。彼も小学校の頃、同じようにこの通学路で家に帰っていた。そのときふと帰り道のある光景が思い出された。放課後、まだ低学年だった彼はたまたまクラスメイトの女の子と二人きりで帰ることになった。そのときまで女の子と二人だけで家に帰ったことなどなかった。その女の子は噂では彼のことが好きだということだった。ただ彼にはまだ異性のことが好きだという感覚が分からなかった。女の子は満面の笑みを浮かべて彼に話しかけてきた。彼はなんて楽しそうなんだろうと思った。その子の笑顔がとても可愛いと思った。そして、その子のことが可愛いと思うことが、いてもたってもいられないくらいに恥ずかしく感じられた。人が誰かを好きになるということは、どういうことなんだろう。この子が自分のことを好きだということはどういうことなんだろう。さっぱり分からないけれど、とても恥ずかしくて、でもとても嬉しくて、このままだとどうにかなってしまいそうだと思った。そのとき彼は走り出した。女の子は彼を追いかけた。「何で急に走るの!」彼は走って逃げたけれども、残された女の子に気の毒なような気がした。だから両手を下に下ろして極端にガニ股の走り方をした。前の日学校の理科の時間に話題になったエリマキトカゲの真似だった。後ろから女の子の笑い声が聞こえた。「あ、エリマキトカゲだ、エリマキトカゲ待てぇ!」
 それだけの思い出だった。その子とはその後何かあったわけではないし、今は何をしているかも分からない。
 ただ、彼はそのまま通学路に立ち止まって、しばらく小学校の頃の思い出に浸っていた。

十、女性 二十一歳 AV女優 あるいは 男性 自称 七十八歳 無職

その日、女は大学のキャンパス内のカフェテラスで友人二人と話していた。一人が土曜の夜に他大のサークルとコンパをしないかという話をしきりに持ちかけてくる。
「だから、全員、医学生なんだよ。こっちは全くお金払わなくていいかもよ。行こうよぉ。その私の知り合いは見た目もカッコいいし、親は何と議員なんだって、すごくない?」
 女は首を振る。そうしたコンパの類に出る気はまったくなかった。もう一人の友人も首を振る。
「ごめん、私、土曜日はボランティアがあるから」
「えぇ、またボランティア? 例の車椅子の元自衛隊の人? ボランティアも大事だけど、私たちにはもっと大事なことがあるでしょ」
 その友人は笑って答える。
「それが合コン? もっと将来のこととか考えた方がいいんじゃないの?」
「将来のことを考えるから、行くんじゃないの! 今の彼、全然見込みなさそうなんだもん」
「でも私は土曜日は無理なの」
「そっかぁ、残念。そうそう、あたし、もうすぐ卒業のおばちゃんだと思われたくなくって、二年生って嘘ついちゃったんだよねぇ、バレないかなぁ」
「知らないわよ、そんなの。何でそんな面倒な嘘をついてるの」
 コンパの話を持ちかけてきた友人は大きな胸を揺さぶりながら嬉しそうに笑った。なぜかいつも笑顔の子だった。女は用事があろうがなかろうが絶対行きたくなかった。以前、誘われて仕方なく行った合コンで自分がAVに出ていることがばれた。その場では自分ではないと否定し、一緒にいた友人たちは信じてくれたが、男たちは「へぇ、別人なんだ」と言いながらも確信に満ちた顔をしていた。驚いたことに、一人の男が女優名を口にするとそこにいた男子学生の半分以上が知っていた。普通の男の子たちがこんなにAV女優に詳しいとは思っていなかった。スカウトマンもマネージャーも「身バレ」は絶対しないと言っていた。AVに出たことがある女性は何万人もいてそのうちの一人なのだから、街を歩いて知り合いに出会うよりも確率は低いのだと言っていた。全くその通りだと納得したわけではなかったが、そう信じるしかないと思った。しかし、その合コンで簡単にバレてしまったとき、そしてAV女優だと分かったときの男たちの軽蔑したようなにやついた表情を見たときや、その後で急に気安く下ネタを言ってきたり、直接的にホテル行こうと誘ってきたりするようになったとき、女は改めて自分が戻れないところに来ていると感じざるを得なかった。恥ずかしかったし、悔しかった。安い女だと見下されたと感じた。それから、見知らぬ男たちが集まるところには決して行かなくなった。いや、行けなくなったという方が正しいかもしれない。
「で、そっちは何で無理なの?」
「いや、私、あんまりそういうの好きじゃなくって」
「何言ってんのよ、そんなことでどうするの、用事がないなら、行って克服しないと、いい男見つけられないよ」
「用事もあるの、アルバイトが入ってて」
「そっかぁ、みんな冷たいよぉ。いいもん、私が未来の院長婦人とかになって、そのとき羨ましがっても遅いんだもん」
 そのとき女は友人がごく普通に結婚して家庭を築いていく未来を想像していることに、眩暈がするくらいに羨ましさを感じた。自分はどうせ男と仲良くなればすぐにAVに出ていたことがばれて、男は急に私を安物のように思うのだろう。日本中に自分のセックスをさらした私と結婚しようなんて誰も思ってくれないのだろう。自分にはこの先、普通の未来なんて待っているはずがない。
「ん、どうした? 最近、ぼぉっとしてること多いけど大丈夫?」
 胸の大きな友人がにっこりと笑いながら聞いてきた。この子はきっと私と違い幸せになるのだろうと女は思った。

 週末に予定があるのは本当だった。友人たちと別れて電車の中でスマートフォンを開くと、マネージャーから連絡が入っていた。そこには土曜日の撮影の入りの時間などが書かれていた。そしてツイッターのファンからのコメントに対する返事が滞っているのできちんと返しておくようにと釘を刺された。重苦しい気持ちが広がった。撮影のときだけではなく、つねに自分がAV女優だということを思い出さなければならない。忘れていたいのに忘れさせてもらえない。女は前の席に座る男が自分の顔をまじまじと見てきたように感じた。ごく普通のサラリーマン風の三十くらいの男だった。ただ次第にその口元にはあの合コンのときの男と同じにやついた微笑が浮かび始めたような気がした。またバレた。女は恐くなった。どこに行ってもバレてしまう。自分に安心できる場所なんてない。まだ最寄り駅ではなかったが、女は次の駅で電車を降りた。

 土曜日の朝、女のマンションの前までマネージャーが車で迎えに来た。髪の毛がぼさぼさで酒の匂いがする女に対して、マネージャーは「また飲んでたんですか」と言った。女は毎晩のように自分の部屋で酒を飲むようになっていた。特に撮影の前の晩は飲まずにいられなかった。「いいじゃないの、飲んだって」女はマネージャーの肩を叩いていった。女は普段はあまり人に不機嫌な顔をすることができなかったが、このマネージャーだけは別だった。「悪いとは言わないですけどね、最近肌が荒れてないですか。内臓が傷んでるからですね。大事な商売道具なんだから美容と健康には気をつけないと」マネージャーは慇懃な敬語で話してくるが、実際の口調は逆に高圧的で、結局は女は黙らされてしまう。女は拗ねたように「はぁい」とだけ答えて車に乗り込んだ。

 その日の撮影は「脚フェチ」のための作品ということらしかった。午前中は目玉のでかい太った中年のAV男優に足の指先から太腿の付け根まで嘗め回された。そして、その男優をペニスを脚で踏みつけてこする「脚コキ」をやらされた。午後は三人の男優を相手にやはり脚を嘗め回された。女には「脚コキ」の何がいいのかさっぱり分からなかった。見た目も不恰好だし動きもぎこちないし、なぜこんなことをさせたいのか分からない。分かりたくもなかった。撮影が嫌で仕方ない時期もあったが、最近では何も感じなくなった。体が何も感じないというだけではなく、喜怒哀楽すべての感情を感じなくなった。初めてそうなったときは驚いた。まるで自分に起こっていることなのに自分のことではないかのようだった。人間には、嫌なことをまったく感じないようなモードを作動させる、そんな機能もついていたのかと思った。それ以来、撮影のときにはそのモードを使うことにした。もちろん、上手くいかないこともあった。ただ、前の晩に酔いつぶれておくとかなりの確率で何も感じなくなるということにも気がついた。

 現場ではまるでお姫様のような扱いを受けた。最初はそんな経験がこれまでになかったために心地よいと感じないわけではなかったが、しばらくすると実は結局なにも重要なことを教えてもらわないままに利用されているだけだと気がついた。お姫様というよりも駕籠の鳥だった。撮影中はつねにプロダクションのマネージャーが張りついていて、よけいなことをしないように見張っているかのようだった。

 「絡み」の撮影を終えて、最後にインタビューを撮り、その日は終了だった。帰りもマネージャーが車で家まで送ってくれることになっている。十二時に近くなった帰りの車の中でマネージャーは「疲れているなら、今日は私がツイッターの更新をしておきましょう」と言ってきた。女は自分でやると断った。たとえ女優名でも自分の名前で他の人が何かを言うことが気持ち悪いというのもあったが、こういうときにマネージャーは「今日も撮影で興奮しちゃって、まだ身体が火照ってむらむらしてます」とか「お風呂でオナニーしちゃおうかな」など、とても女自身が書きそうもないような卑猥な内容を書き込むことが多く、それに対するファンからのコメントに、今度は女自身が返事をしなければならないという事態になることが嫌なのだった。
「あ、そうだ。これ渡しておきます。ファンレター。今どき手書きの手紙だし、何か気持ち悪い感じだったですけど、一応。もちろん返事しないでいいですよ」
 信号で車が止まったときに、マネージャーが封筒を手渡してきた。女は「気持ち悪いならいらない」と言ったが、マネージャーはその言葉をまったく気にせずにそのまま女の膝元に置いた。

 女がAVの仕事をするようになったのは大学三年の頃にスカウトをされたのがきっかけだった。
 女は高い建物が何もないような地方の町から都会の大学に進学した。当初は何もかもが真新しく感じた。ここでは何でも出来る気がした。大好きだったがこれまで二回しかいったことがなかったディズニーランドにこれからは毎月でも行けるのだと思った。そして自分も新しい自分になれるのだろうと思った。ただ時間が経つといつの間にか当初の高揚感はなくなり、自分は都会の中にいてもこの大きな街と本当には関われていないような気がし始めた。結局、ディズニーランドにもこちらに来てから一度も行っていなかった。
 スカウトされたのはそんなときだった。繁華街を歩いていて背の高い端正な顔立ちの男性に「モデルの仕事とか興味ないですか」と話しかけられた。街で声をかけられるのは初めてではなかったし、これまではきっぱりと断ってきた。それなのにどうしてそのときは立ち止まってしまったのだろうと後になって振り返ると何度も後悔をした。おそらくただ何となく日常がつまらなく感じていて、その男性が少しだけ自分の好みのタイプだった、そのくらいの理由しかないのだろう。女が何気なく足を止めると男は矢継ぎ早に話してきた。彼女は面倒なことになったと思ったが、男に大袈裟なくらいに容姿を誉められて気分がよくなったのも事実だった。また、これまで自分はモデルや芸能界などにまったく関心を持っていないと思っていたが、なぜかそのとき「君ならすぐに有名なモデルさんになれるよ」と言われたとき、嬉しくなっていた。自分はそうした仕事に関心がなかったのではなく、どうせ自分なんてなれるわけないと思っていただけなのかもしれないと思った。ちょっと話だけ聞いて断るつもりで、男と一緒にすぐ近くにある喫茶店に入ったのだった。

 マンションに入ると鞄を放り出して、床に倒れた。疲れていた。ただ、ビールは飲みたかった。冷蔵庫を開けると一本だけ残っていた缶ビールを取り出して、女は床に座ったまま飲み始めた。床の上に投げ出されるように置かれた昔ディズニーランドで買ったミッキーマウスのぬいぐるみがうつろな顔でこちらを見ている気がした。女は何気なくマネージャーに手渡された手紙を開いてみた。手書きだった。思いのほか達筆で、便箋にびっしりと文章が書かれていた。


 突然、御手紙をさせていただく非礼をお許しください。今の世の中は何でも電子メールなどを使うのかもしれませんが、私のような古い世代の人間は手紙ではないと気持ちが伝わらないような気がしてしまいます。
 私は今年七十八歳になる貴女のフアンです。そんな歳になってもポルノビデオを見ているなんてと貴女はお笑いになるかもしれません。ただ、私の人生は今、貴女のためだけにあると言ってもいいかもしれないのです。
 貴女のことを最初に知ったときのことからお話しさせて下さい。あれは私の家の近くのビデオ屋のポルノコーナーでした。いつもそういうところに行くというわけではありません。その日何となく好奇心からと言ってもいいかもしれない。新作のある場所の目立つところに貴女のDVDが置かれていました。私はその華奢な長い髪の少女の表紙に魅入ってしまいました。他にあった無数のDVDなど全く目に留まらず、ただ貴女の姿だけが私を捕まえて離さなかったのです。
 しかし、残念ながらそのDVDは貸出中でした。でも、私は早く貴女の姿が見たいという一心で、隣の駅のビデオ屋に向かい、同じ作品を探したんです。そんな経験初めてでした。ただの表紙の写真がどうしてこうまで私を惹きつけたのか。
 それから私は貴女の作品を見るようになりました。毎日のように貴女のDVDで自慰をしました。哀れな老人だと思って下さい。けれども身寄りもなく普段誰とも話すことのない私にとってその時間が一日の中で最も大事なものだったんです。
 その時に最初に私が見つけた貴女のDVDは三作目のセーラー服物でした。それから私は過去の貴女の作品を探し、新しい作品が出るたびに購入しています。何度も繰り返し見ています。貴女の、角度によっては少年のように見える少し肩幅のある痩せた上半身や、すらりとまっすぐに伸びた脚、絹のような長い黒髪、澄んだ大きな瞳といたずらっぽそうに見える八重歯のある口、こうして目を閉じると瞼の裏に貴女の全てを再現することが出来るくらいです。
 こんなことを言うと尚更に気味悪がられてしまいそうですが、私は貴女が他の男性に抱かれるのを見て、どうしてその男性が私ではないのだと泣きたいような気持ちになって毎日自慰をするのです。私がもう五十年遅く、そして貴女のそばに生まれてくることが出来たなら。こんな老人になってからではなく、若々しかった時代に貴女に会うことが出来ていたらと思うと、苦しくて堪らなくなります。
 何故そんなに貴女に魅せられてしまうのか、ずっと理由が分かりませんでした。もちろん、貴女は私が会ったことがないくらいに素晴らしい女性だと思います。それにしても、こんなにも私が囚われてしまうのには、何か理由があるのではないかと。
 でも、その理由が分かったのです。最近、私は身辺の整理を始めました。身寄りのない私ですから、せめて死んだとき、出来る限り人様の迷惑にならないように、色々と片づけをしておきたいと思ったからです。そして昔のものを片付けている中で鉛筆が一本出てきたのです。とても古い鉛筆です。戦中のもので、戦中はHBや2Bという言葉が横文字のために不謹慎だと言われ、「中庸」「2軟」などと漢字で表記されていたのですが、その見つかった鉛筆にも「中庸」と書かれていました。
 何故一本だけそんな昔の鉛筆を取っていたのか。その鉛筆を握ると、私の遥か昔の子どもの頃の記憶が甦ってきました。疎開時代でした。戦争が進んでいき、当時国民学校初等科だった私は一人だけで疎開をすることになりました。親戚がいるこれまで一度も行ったことがない田舎の村でした。都会から来て、言葉遣いも違い、体力もなく、虫や魚の捕り方もよく知らない私は、当然のように地元の子達に苛められました。今でも思い出したくないつらい記憶です。下駄で頭を殴られたときは実に痛かった。肥溜めに突き落とされたり、川の水に顔をつけられたり、それは酷いものでした。もういっそのこと自分で死んでやりたいとさえ思ったものでした。
 しかし、私がそれでも生き残れたのは、同じ学校のある女の子のためでした。背の高い子でした。その子も東京から疎開をしてきたのですが、私と違ってすぐに皆から尊敬をされるようになりました。彼女は苛められっ子の私を気遣って優しい言葉をかけてくれました。私は彼女に慰めの言葉をかけてもらうと、もうそれだけで嬉しくて、苛めなんかに負けないで頑張ろうと思ったのでした。苛めなんかに負けてしまったら、あの子に対して格好がつかないと思ったのでした。
 その一本だけ取ってあった鉛筆は彼女に貰ったものだったんです。私が筆箱ごと窓の外に放り投げられてしまって、どうしたらいいか途方にくれていた時に、彼女は後で一緒に探しに行ってあげるから、今はこれを使ってと自分の鉛筆を一本くれたのです。
 もうお分かりだと思います。私が貴女に惹かれたのは、貴女がその時の彼女に驚くほどによく似ているからなのでした。もちろん、当時の彼女は国民学校初等科の五年生か六年生だったので、十一歳か十二歳。二十歳くらいの現在の貴女とは違います。ただその雰囲気や表情が、区別が出来なくなってしまうくらいに似ているのです。
 戦後すぐに、私も彼女もその村を去り、その後どこに行ったか分かりません。今彼女が何をしているのか、もう亡くなったのか、私には何も分かりません。ただ、これは殆んど老人の妄言と笑って下さって構わないのですが、私には貴女は彼女の孫娘なのではないかと思えてならないんです。そして、貴女が彼女の孫娘ではないとしたら、それこそもっと酷い妄言なのですが、貴女は彼女の生まれ変わりなんじゃないかとさえ思うんです。
 おかしな話ばかりして申し訳ありません。ただ、疎開先の少年だった私が孤独の中で彼女のことだけを心の支えに生きていたように、今身寄りのない私が孤独な毎日の中で貴女だけを心の支えに生きているという事実を、貴女には知っていて欲しかったのです。


 女は手紙を読み終わると床の上に放り投げた。何だこれは。マネージャーが気持ちが悪いというのも無理もない。AV女優は頭のおかしな男たちの妄想の餌食にならなければいけない仕事なのだろうとも思った。七十八歳になってもAVでマスターベーションをすることを生きがいにして生きている。この人の人生は何なんだろう。長い人生の終わりに何をしているんだろう。女はこの仕事を始めるまで、老人がマスターベーションをするなど思っても見なかった。それどころかAVは若い男のためのものだと思っていた。しかし、働き始めると実際は小学生から死に掛けた老人まで男は誰も彼もAVが好きなのだと思うようになった。実際、サイン会に彼女の祖父よりも年上だと思われるような老人がやってくることもあった。
 一瞬だけ自分の祖母は疎開をしたのだろうかと頭を巡らせた。ただ、すぐに父も母もどちらも地元出身で、祖父母が東京にいたことはないということを思い出した。一瞬でも手紙の老人の言葉を信じようとした自分を馬鹿みたいだと思った。

 スカウトに声をかけられた日、そのときは結局、喫茶店で話して連絡先を交換しただけで別れた。それから毎日のようにそのスカウトマンから連絡があった。話だけでもしようよ、いいお店を知っているんだ、などその度に女を呼び出そうとしてきた。実際、女はそのスカウトマンに異性として惹かれている面があった。やがて、二、三回に一度は出て行くようになった。顔を合わせるといつも、これまで行ったこともなかったようなお店で美味しい食事をご馳走してもらい、そして同級生の大学生では絶対に言ってくれないような甘い言葉で誉めてくれた。何度目かの食事の後で、女はそのスカウトマンに抱かれた。これまでにないような快楽を味わった夜だった。
 次の週にスカウトマンに言われてプロダクション事務所を訪れた。スカウトマンはすぐにいなくなってしまった。何人かの男に囲まれて聞いてもすぐに分からないような難しいことを説明され契約をしろと言われた。怖くなった。ただ、断ってその場を立ち去るのは、スカウトマンの男に悪い気がした。しばらくそのままうつむいて粘ったがサインするまでは帰してもらえない雰囲気だった。そのときはサインさえすればこれで帰れるし、仕事だってやれそうなものだけやればいいと思った。AVに出させられるとはまったく考えてもいなかった。女は今でもあの瞬間に戻って浅はかな自分を止めたいと思う。その後、スカウトの男からはまったく連絡がなくなった。彼はそういう役割の人らしかった。

 次の日は午後からサイン会が入っていた。マネージャーの車に乗り、郊外のDVDショップを何件か回った。サイン会と言ってもアイドルとは違い、集まる人数も大して多くはない。十人から二十人くらいで、年齢層も幅のある男たちが集まってくる。DVDを買った人にサインと握手をする。さらに何枚か買ってくれた人とは一緒に写真を撮るというサービスもしていた。女はいつもサイン会のときには知り合いが来たらどうしようと生きた心地がしなかった。そしてどこの誰かも分からない、自分の裸の映像を見ている男たちを相手にニコニコとしなければならないことも苦痛だった。マネージャーには水着にしろと言われたがそれは断った。せめて露出の多い格好をした方が売り上げがいいと言われて、普段は履かないような短すぎるミニスカートを履かされた。
 並んでいる客にサインをしていると、ある三十代くらいの男性から「ディズニー好きなんですよね」と言われて、ミッキーマウスのぬいぐるみを手渡された。家にあるディズニーランドで買ったものよりもずいぶん大きなものだった。女は一瞬、これをくれたのが、こんなAV好きの中年男ではなく自分の恋人だったらよかったのにと思った。しかし、すぐにそんなことを思ってはくれた相手に失礼だと思い直した。「ありがとう、嬉しい!」とわざと大きな声を出してみたが、自分でも少しわざとらしいように感じた。
 それから、手がひどく皺だらけの手で握手を求めてきた人がいた。女は思わず顔を上げて相手の顔をまじまじと見た。帽子をかぶって、若者風のシャツを着ており、背中も曲がっていないため、一見するとそれほど歳には見えないが、顔をよく見るとかなりの老人のようだった。その瞬間、女は手紙の主はこの老人なのではないかと思わず強張った顔をしてしまう。相手の老人も女の表情の変化に気がついたのか、びくりとした表情をする。老人は何枚もDVDを買ったようであり、記念撮影をしなければならなかった。女は気味悪く思いながらも、マネージャーやDVDショップの店員がいる手前、露骨に嫌な顔をすることも出来ず、少し引きつった顔で、老人とツーショット写真を撮った。そのとき、老人がいつの間にか手を回して彼女の二の腕を掴んだ。横にいたマネージャーが「お客さん、すいません、タッチは駄目なんでして。女の子から手をつなぐのはいいんですが、それはご勘弁を」と言って、老人の手を引き離してくれた。帰りの車の中で、女はマネージャーに「手紙の人って、あの写真撮ったときに腕掴まれた人じゃない?」と聞いてみた。「何とも言えないですね。そうじゃないとも言えないけれど。ただあのじいさんは見覚えがあります。サイン会は今回初めてじゃないです。かなりのファンなのは確かですね」女は薄気味が悪いと思った。マネージャーは手紙が着ただけで、それ以上に何も起きていないので何か対処する段階にはないとだけ言った。確かにそうだと思った。ただ漠然と不安だった。

 家に帰ると母親から電話が来た。疲れていたが、あまり心配されると面倒なことになると思い電話に出た。プロダクションと契約をした段階で「芸能人になるから普通のマンションではセキュリティが危ない」と言われて事務所が家賃を払うということで引越しをした。今までのマンションとは比べ物にならないくらいに高級なところだった。しかし、親には場所が不便だから引っ越したとだけ伝えていたため、もし心配した親が上京してきて、どうして仕送りとアルバイトだけでこんなに高級なマンションに住めるのかと追求されたら答えようがない。母親は変わりない調子で女の様子を聞いてきた。女は無事にやっていると答えた。今は就職活動をしているけれどなかなか大変だと言った。嘘だった。実際はAVの仕事で気力も体力も失ってとても就職活動など出来なかった。母親は地元に帰ってくればいいじゃないのと言った。女は考えておくと答えた。電話を切ると、この先の自分の人生が途方もなく先の見えないものに思えた。地元に戻りたい気持ちはあった。しかし、もし地元の男友達の間に彼女がAVに出ていることが知れ渡っていたら、もうどこにも逃げるところはないような気がした。それならまだ都会の中の方が人に埋もれて生きていける。ただ大学の友人のように普通の企業に就職することは想像が出来なかった。それにAVの仕事は当初の約束ではもうすぐ辞められるはずだったが、本当に辞めさせてもらえるかどうか分からない。こんな話考えたくなかった。また酒を飲まなければと思った。しかし、昨日冷蔵庫のビールを飲み干してしまったことを思い出し、女はコンビニに行くためにふらふらしながらマンションの外に出た。

 プロダクションと契約になり、マネージャーがついた。そのプロダクションには何かチンピラっぽい男や遊び人風の男が多かったが、女のマネージャーになったのは普通のサラリーマンという風貌の男でほっとしたのを覚えている。三十代くらいであり、たまに子どもの話をしたりするところから、既婚者のようであった。その後、何週間かエステやスポーツジム、ボイストレーニングに通わされた。その頃はまだ本当にモデルか、あるいはせいぜいグラビアアイドルなのだろうと信じていた。ただ売り込みのための写真を撮ると言ってスタジオに呼ばれたとき、トップレスを求められたのにはさすがに不振に感じた。そのときはその場にいたカメラマンの人が業界ではそれは当り前で女優さんもヌードになることがあるし、モデルをやるにも、グラビアをやるにも、その方の身体の特徴を把握しておく必要があるのだと言われて、そんなものなのかと思い、その場の雰囲気があまり性的ではなかったこともあって、すんなりと脱いでしまった。そんなことよりも、そのときの女は自分をスカウトした男が少しも連絡をくれないことがショックでそのことばかり考えていた。そこからマネージャーとその上のチーフマネージャーに連れられてメーカーに売り込みに行くことになった。トップレスになることを求められたり、性体験の人数を聞かれたりした。女もこれがAV女優のオーディションなのだと気がつき始めた。移動の車の中でマネージャーにそう尋ねると、あっさりとAVだと認め、今の世の中は芸能人になるにはまずAV女優をやるのが一番の近道なのだと言ってきた。そんな話は聞いたことがないと思った。それで騙される子はいるのかもしれないが自分は騙されないと思い、女がそんなことは信じられないと言うと、横にいたチーフマネージャーがお前のためにすでに莫大なお金が動いていて、契約書にはAVの撮影のこともしっかりと書かれているのだ、もし今辞めるというのなら、何百万単位の違約金を払ってもらう、お前が払えないというなら、親に連絡して払わせてやると恫喝をしてきた。大人の男に間近で怒鳴られたのは初めてだった。何も言えなかった。そ親には絶対に知られたくなかった。従うしかなかった。

 AVに出始めて半年ほど経った頃、地元から高校時代のクラスメイトの男がやってきた。地元の大学に通っていたが、就職活動は都会でしたいのだという。とても背の高い野球部の主将だった。笑顔がさわやかだった。高校の頃、一ヶ月だけ付き合ったことがあった。女がディズニーランドに行ったのは、両親が連れて行ってくれたときと、もう一回はこの彼と二人でデートで行ったのだった。高校生の二人にとっては大冒険だった。新幹線は高すぎるため始発に乗って在来線を乗り継いだ。夢のような一日だった。部屋にあるミッキーマウスはそのとき買ったものだった。それがどうして別れてしまったのか。今の女にははっきり思い出すことが出来なかったが、そのときはお互いにまだ異性と付き合う心の準備が出来ていなかったのかもしれない。まだセックスもしていなかった。ただ、それだけに淡い青春時代の思い出だった。AVに出演するようになって、極力人と会わないようにしていたが、そのクラスメイトの男からのメールがとても自然で、まるで高校時代と変わらない調子であったため、女もつい返事をしたくなった。そして、男の就職活動の終わる時間に待ち合わせて二人で飲みに行った。楽しかった。まるでAVのことなど何も自分には関係がないかのように思えた。お金のない大学生が行くようなどこにでもあるチェーン店の居酒屋に入ってお会計は割り勘だった。いつも業界関係者に奢られてばかりいる女には割り勘が逆に嬉しかった。男の乗る夜行バスを一緒に夜道で待ちながら、男は「何で俺たち別れちゃったんだっけなぁ」と言った。女は男の肩を突き飛ばして「今さら何言ってんの。惜しくなったのか、こいつ」と笑っていった。男も笑って「お前、自分でそういうこと言うかなぁ」と突き飛ばし返してきた。女はこんなに幸せな時間はいつ以来だろうかと思った。このまま何事もなかったようにこの人と一緒にいたい、AVのこともすべて忘れて、この人と一緒になりたいと思った。
 しかし、男が次に上京してきたときには雰囲気は一変していた。男が話があるから静かなところがいいと言った。女は最初、きっと付き合おうと言ってくれるのだろうと思っていた。男の表情が硬いのも緊張のせいだと思った。女は個室のある居酒屋を選んだ。男は終始強張った顔をしていた。オーダーが済んで、女は内心では心を弾ませながら、それでも平静を装って、「それで話って何?」と尋ねた。すると男は自分の鞄をあさり始め、中からDVDのパッケージを取り出し、テーブルの上に放り出した。そこには「美脚女子大生極秘アルバイト」とタイトルが書かれ、ミニスカートで大きく脚を組んだ女の写真が載っていた。
「なんだよ、これ」
 女はまったく予想していなかった展開に動揺し、それでも知らないふりをして、
「そっちこそなんなの。これが私に似てるって言うの? そんなの知らないわよ」
 と言った。しかし、その声は微かに裏返って震えていた。
「他のやつらならそうやってシラを切れるかもしれないけどな、俺がお前を見間違えるわけないだろ。これはどう考えたって、絶対にお前で間違いないんだよ」
 男は怒鳴るように言った。
 女は何も言えなくなった。
「お前、東京に来ていったいなにやってんだよ。人様の前でこんな姿をさらして、どうしちゃったんだよ」
 男は怒りを抑えられないように言い募った。
「おい、何とか言えよ、お前、こんなことして、もう誰にも相手にされなくなるぞ。こんなことした女と誰も結婚なんかしたくないし、仮に子どもが出来て、自分の母親のこんな姿を見たら、どれだけショックを受けるか分かってるのか」
 私だって好きでAVに出たわけじゃない、そう言いたかったが、言えなかった。そんなこと言っても分かってくれるはずがない。それにちょっと見た目が好きだからとスカウトマンについていった私が悪いし、事務所で取り囲まれたときに走ってでも逃げ出さなかった私が悪いし、契約書にサインをしてしまった私が悪い。何も言えない。でも私はやりたくってやっているわけじゃない。
「なに黙ってんだよ、お前、インタビューの中でずっとAVに興味あったとか、色んなセックスがしてみたかったとか、自分は人よりも性欲が強い方だと思うとか言ってんじゃねぇか。お前、本当になに考えてんだよ」
 そんなの言わされただけ。本当にそう思っていたわけじゃない。AVなんて見たことなかったし、セックスだってそんなに好きじゃなかった。でも、AVに出てインタビューに答えたら、この人も誰も彼も私がそんな女だと思う。みんなからそんな女だと思われる。そのとき女の口からつぶやくように出たのは、
「地元の友達たちには言わないで」
 という言葉だけだった。男はどんと机を叩いた。
「ようやく口を開いたかと思ったら、それかよ。もう知らねぇよ」
 男はそう履き捨てるように言って、その場を立ち去って帰ってこなかった。女は追い詰められた自分の口から出たのがそんな言葉だったことが情けなかった。しばらくして、二人分の生ビールが運ばれてきた。女はぼんやりと二つのジョッキを眺めていた。

 しかし、女にとって本当にショックだったのは、次にその男に会ったときだった。男から数週間後にあのときは言い過ぎたという謝罪のメールが来て、「お前にはお前の事情があったんだと思う。もう一度会って話したい」と言ってきた。女は複雑な心境だった。もう二度と会いたくないという気持ちの方が強かった。しかしここで言うことを聞かないと地元でばらされてしまうのではないかという恐怖心があった。ただ心のどこかで分かってもらえるのではないかという気持ちもあった。どうしてこんなことをやらなければならなくなったのかを聞いてもらえるのではないかと。さらにもっと心の奥の方には、この苦しみから助けてほしいという気持ちもあったのかもしれない。男は話を聞かれたくないからということで、女のマンションで会うことを提案してきた。女は仕事がばれた以上、高級なマンションに住んでいることが知られてもかまわないと思い、男を部屋に招いた。男はしばらく感心した様子で女のマンションの中を眺めて、やがて「お前も色々あって大変だったんだよな」とにやにや笑って言った。そのにやついた顔を見た瞬間、女には男の目的が分かった。遅かった。男は女に抱きついてきた。「いいだろ、どうせ仕事で色んな男に抱かれてるんだろ」女には男がそんなことを言ってくるなんて信じられなかった。「DVDでやってたこと俺にもやってくれよ、なぁ、あんなの好きなんだろ」高校時代の思い出がすべて嘘のようだった。女は最初、男の肩を突き飛ばして抵抗したが、野球部だった男の力は強かった。やがて女はもがくのをやめた。事が済んだ後、ぽつりと、「出てって。もう来ないで」と言った。男はにんまりと笑って、「そう怒るなよ。それじゃ、またな」と言って去っていった。女は自分に青春時代などなかったのだと思った。自分には淡い恋の思い出など最初からなかったのだ。

 翌週、大学に行くと同じ授業を取っているはずの、医学生とコンパに行った友人が来ていなかった。ボランティア好きの友人と彼女が自分たちに何も言わず休むなんて珍しいと話し、どうしたのかメールで連絡をしてみたが、返事は返ってこなかった。「いい男見つけて、そのままお持ち帰りとかされちゃって、今頃はラブラブで離れられなくて出て来ないんじゃないの?」そんなふうに言ってみたが、それでも何か不穏な、嫌な予感がした。しかし、それ以上はどうしようもなかった。相変わらず女は授業が終わるとまっすぐにマンションに帰り、酒を飲んで寝るという生活を続けた。

 その週の週末は所属するプロダクションの社長と女が契約をしているAVソフトメーカーの重役との会食に同席することになっていた。一般にAV女優はプロダクションに所属し、そのプロダクションがAVソフトメーカーに女優を派遣するというかたちが取られる。人気の女優は専属契約ということになり、そのメーカーから単独主演の作品がいくつもつくられることになる。女はその日はマネージャーも来るものだと思っていたが、彼は女をプロダクションの事務所まで連れて行くと、「今日は私はここまでなんで」と言って帰ってしまった。プロダクションの社長とチーフマネージャーが彼女をメーカーまで連れて行った。行く途中の車の中で社長は「専属契約が延長になるかどうか、勝負のときなんだからな」と言ってきた。女はAV女優を辞めたいと思っていたため、契約の延長などしてほしくなかった。辞めたいことはマネージャーを通して社長にも伝えてあるはずだった。「でも、私」と口を開きかけた。しかし、社長はその声を封じるかのように、「君にはかなりの投資をしてきたんだ、ここで恩返しをしてもらわなきゃね」と言った。「新作の売り上げもなかなかいいようだからな。今度またAV女優たちのアイドルユニットを新しく作るっていう話も出ているから、この調子でいけば選んでもらえる可能性もあるな」。チーフマネージャーは運転しながら「そう、彼女はこれでいてなかなか歌が上手いんですよ。ボイストレーニングのとき、トレーナーが褒めてましたから」と話に入ってくる。社長は機嫌よさそうに笑う。「そろそろ、深夜ドラマとかVシネマとかそういう仕事を取ってきてもいいかもしれないな。マネージャーには頑張ってもらわないとなぁ」女は心の中で辞めたい辞めたい辞めたいとつぶやいていた。しかし、その言葉はどうしても口からは出てこなかった。
 ソフトメーカーの重役を拾った車はある最高級のホテルの前まで行くと停まった。女と社長、チーフマネージャー、そして接待相手のソフトメーカーの重役の四人はそのホテル内にある和食料理に入った。すでにコース料理が予約されていた。メーカーの重役は機嫌よく飲んで笑っていた。女にはこの高級な店が似合うような品のいい人物には見えなかった。話題も金の話かセックスの話だった。女は早くこの場を去りたいと思った。社長たちはしきりに自分の事務所の女優たちがいつもお世話になっているということや、今後プロダクションとして推していきたい女優のことなどを話している。社長はちゃっかりと女のことだけではなく、別の女優のことについても使ってもらうように薦めている。互いは旧知の仲らしく、社長とメーカーの重役は女に対して卑猥な冗談を言うのを酒のつまみに仲良さそうに飲んでいた。きっちり一時間半で料理が終わったところで、社長とチーフマネージャーは席を立った。「では、我々はこのへんで。上の部屋は取ってありますので」そう言うと社長は鍵を机の上に置く。そして女の肩を叩くと、「それじゃ、頼んだよ、分かってるよね」と言う。女はそのとき初めて状況を理解した。自分のプロダクションでも枕営業があったという話を以前に同じプロダクションの女の子に聞いたことがあった。ただ、これまでは一度もなかったし、マネージャーに聞いたときには、「そんなのは昔の話で、今の時代はもうない」と笑われて、「それよりも女優同士で話さないようにいつも言っているじゃないか」と叱られた。女もその言葉を信じてしまっていた。目の前の男は嘗め回すように女を見ていた。

 メーカーの人の機嫌を損ねて、社長やマネージャーに恥をかかせたらいけない。自分の中でまだそんな意識があったことが、後で考えると不思議だった。その場を立ち去ることはできなかった。女は酒をがぶがぶと飲んだ。男はデザートを食べ終わると、女のデザートが残っているのを少しも気にせずに立ち上がり、「行こうか」と言った。
 何も感じない。何も感じない。これは現実じゃない。こんなこと起こってない。女はひたすら自分の頭の中で何度も繰り返した。私の心は決して動かない。そして、中年男の体が自分の上を通り過ぎるのを待った。「何だよ、DVDを見ると、もっと感度がよさそうなのになぁ」中年男は少し不満そうに言った。そして、顔に射精をされた。そういうことが好きらしかった。中年男は「これタクシー代な」と言って女に二万円を握らせた。女はふらふらとホテルの外に出た。

 もう何もかもどうでもいいと思った。このまま車に轢かれてしまってもかまわないと思った。どうせ自分の人生なんてこの先も何もいいことなんてないに違いない。自分はこのままひどい扱いを受け続けるに違いない。いつからこんなことになってしまったんだろう。私はどうして引き返せないままにこんなところまで来てしまったのだろう。スマートフォンが震えた。手に取るとマネージャーからだった。いつものように今後の予定を伝えるメールだった。女はそのままマネージャーに電話をかけた。すぐに繋がった。

 今日はお疲れさまでした。来週の予定送ったんですが、見てもらえました?

 マネージャーはいつもと変わらない普通の調子で話していた。そのことが安心したような、悔しいような、何かたまらない気持ちがした。

 どうしたんですか。何か様子がおかしいですね。

 女が返事をしないことを不思議に思ったマネージャーが聞いてきた。女は車が行き交う夜の幹線道路沿いの歩道を歩きながら、涙を流していた。声を出したら泣き声になってしまいそうだった。

 それとも電波が悪いんでしょうか。もしもし、私の声が聞こえてますか?

 ようやく声が出た。
「レイプされた」

 え、何ていいました?

「メーカーの人にレイプされた。社長もチーフもみんな知ってて私を差し出した。みんなぐるで私を犯させた」
 それだけ言ったら、もう泣き声になって何も喋れなくなった。たまにすれ違う人は、声を上げて泣く彼女を訝しげな顔で見ていたが、彼女はやめることが出来なかった。

 今どこです? 車の音がするから、外なんですね。すぐに迎えに行きます。

 女はようやく食事をしたホテルに面した幹線道路だということを伝えた。もう歩く気力もなくなり、コンビニの前まで来てしゃがみ込んでしまった。

 それからマネージャーが来るまでに二十分はかからなかった。それまでの間にも、何人かの男に話しかけられた。女は声をかけてくる男を睨んで放っておいてと怒鳴らなければならなかった。マネージャーはミネラルウォーターのペットボトルを持って現れた。コンビニの前で座り込んでいる女にそれを手渡して、「とりあえず、車に乗りましょう」と言った。女が動き出さないのを見ると、女の手をとって立ち上がらせた。
 毎週のように乗っているマネージャーの車の中に入ると、止まったはずの涙がまた流れてきた。マネージャーは黙って車を運転しながら、女が泣き声に混じって少しずつ話し始めるのを辛抱強く聞いた。
「今日はそうだったんですね。社長は何も言ってなかったのに、私に来ないでいいって言ったのはそういうわけだったからなのか」
 マネージャーがそう言うのを聞くと、急にマネージャーに対して腹が立ってきた。女は運転するマネージャーの肩を叩いた。
「何で私をちゃんと守らないの。それが仕事なんでしょ。何で私がこんな目に合うのを、あんたは止められなかったのよ」
 マネージャーはただ「申し訳ありません」と言って運転を続けた。

 泣き崩れている女を心配に思ったのか、いつもはマンションの前で女を下ろして帰るマネージャーが部屋まで上がってきた。女に顔を洗って気分を鎮めるようにいった。女はそれには従わず、マネージャーにビールを出し、自分でも飲み始めた。自分の部屋に座って落ち着くと、またホテルでの男の顔が頭に浮かんでくる。すると、どうして枯れてしまわないのかと思うくらいに涙が流れ出す。
「今日は本当につらかったのですね。つらい中をよく頑張っています。あなたを見ていていつも思います。あなたはとても頑張り屋さんなんですよね。今夜は嫌なことは忘れてゆっくり休みましょう。それから考えましょう」
 女は首を振った。
「私は頑張り屋さんなんかじゃない。それに忘れたくても頭から離れてくれない。今もずっとあいつに犯され続けてる気がする。もうどうしたらいいか分からない。私どうにかなっちゃいそう」
 マネージャーの手が女の肩を叩く。いつの間にかソファの隣に座っていた。女はマネージャーの胸にもたれ掛かった。相手のワイシャツが汚れるのも気にせずに涙や鼻水を流した。その間マネージャーは女の頭を優しく撫で続けた。
 しばらくして、女の泣き声が少し治まってきたとき、マネージャーは女の両腕を掴んで体を離した。マネージャーの顔が急に近くなったと思うと、いきなり口の中に舌が入ってきた。女には最初何が起きたのか分からなかった。気がつくとマネージャーは女の尻を掴んで、固く勃起した股間を女の体に擦り付けてきた。女が逆らおうとすると、ソファの上に押し倒された。そこから女は放心状態になって、何の抵抗も出来なかった。されるがままに避妊具もつけずに挿入された。射精し終わると、マネージャーは「大丈夫、君のことはこれからは僕が絶対守るから」と言った。怒る気力もなかった。何もかもが信じられなかった。女はただソファに顔を突っ伏していた。女がずっとそのままでいるため、しばらくしてマネージャーは帰っていった。

 時間の感覚がよく分からなかった。長かったのか短かったのか。女は顔を上げた。しかし、自分が何をしたらいいのか分からなかった。自分がするべきことなど何一つないような気がした。トイレに行こうと立ち上がると、ミッキーマウスのぬいぐるみを踏みつけていた。どうでもよかった。便器に座ると動きたくなくなった。拭くのも面倒な気がした。死んだらどうなるんだろうと思った。どのくらいの時間を過ごしたのかようやくトイレから出ると、机の上に手紙があるのに気がついた。マネージャーが置いて行ったのかもしれなかった。あの老人からの手紙と同じ便箋に入っていた。女はそれを手に取った。


 また御手紙を出してしまうことをお許しください。先日のサイン会で貴女は私のことにお気づきになったのでしょう。あなたの表情と手の強張りで分かりました。貴女が私を恐がっていることも。ただ、貴女に分かっていただきたいのは、私は貴女に何かを求めているわけではないということです。それどころか私は貴女に望まれれば残り少ない命の中で出来ることを、何だってやってあげるでしょう。いや、私は死んでからでさえ、貴女のためになることをしてあげたいと思っているのです。嘘ではありません。
 ただ、先日お会いして私の心配が益々強くなってきたことがあります。それは貴女自身のことについてです。実はサイン会は初めてではありませんでした。私の家には貴女のサインが何枚か並んでいます何回かお会いする中で、そして最初の作品から比べて見ていく中で、私には貴女の心や体の状態がよくない方に行っていると感じるようになりました。表情、肌、二の腕を掴んだ時の感触、そして体形のどれを見てみても、貴女はとても悩んで落ち込んで、自暴自棄になった生活を送っているのではないかという気がしてならないんです。貴女は今、とても悩んで、苦しんでいる。自分の人生なんて、どうでもいいと思ってしまっている。
 私は貴女を見るたびに、そうした悩みが深まっていくのを感じて、心が潰れてしまうような思いでいます。貴女のその悩みを、老いた私が命と引き換えにして、全て消し去ってあげられたらどんなにいいだろうと、そんなことを思ったりするのです。
 テレビの画面上と、サイン会でしか貴女のことを知らない私には、貴女の悩みがどんなものであるかなど、想像もつきません。男性との関係のことかも知れませんし、御家族との関係かもしれませんし、将来のことかも知れません。或いはポルノビデオに出演しているということについての悩みなのかも知れません。私は貴女が作品の中で質問に答えていたように、セックスに興味があったからこの仕事をしている、というわけではないことを分かっています。貴女はセックスがそれ程好きではないのでしょう。貴女がポルノ女優になったのは、きっとそれだけ止むを得ない事情があったのだと思います。それでも、ひょっとしたら貴女はそのことで悩んでいるのかもしれない。自分の仕事に自信が持てないのかも知れない。
 ただ、私がここで言いたいのは、貴女のその御仕事によって、多くの人が救われているということです。いや、他の人は分かりませんが、少なくとも私を救っているのです。私は身寄りのない老人で、この年になってとても孤独で、何のために残りの人生を生きていくのか分からずにいました。世間で話題になっているような孤独死をするまでの僅かばかり時間を過ごすだけなら、今すぐに自分で終わらせてしまってもいいのではないかとさえ思うこともありました。これまでの人生も決して順風満帆であったわけではありません。人から酷い仕打ちを受けたこともありましたし、私が誰かを傷つけたこともありました。そして振り返って、私の人生が誰かのためになったということがあったのだろうかと思うのです。私が誰かの助けになることが、あの疎開先で少女が私を支えてくれたように、私自身が誰かの支えになったことがあったのだろうかと。残念ながら思い出せないのです。私は結局いつも自分のことしか考えてきませんでした。思い返せば、私に助けを求めていたかもしれない人たちを、私の我侭で見捨ててしまったこともありました。親切にしてくれた人に対して、利用するだけ利用して、最後に恩を仇で返してしまったこともありました。この年になって自分が誰の役にも立っていないと気がつくなんて、何て愚かなことでしょう。
 私が言いたいのは、それでも、私とは違って、貴女は私を助けているのです。そして私を助けているのと同じように、恐らく多くの人たちの生きがいになっているに違いないのです。何の喜びもない私の毎日の中で、貴女の作品を見ながら自慰をする瞬間だけが、私にとって本当に価値のある、宝石のように貴重な時間なのです。だから、貴女にはそんな投げやりになって欲しくないのです。貴女には素晴らしい価値があるのです。貴女には自分にも仕事にも誇りを持って毅然と生きていってもらいたいのです。この救いのない世の中は、貴女が存在してくれているというだけで、全体から見れば僅かかもしれませんが、それでもよりよいものになっているのです。もし貴女がいなければ、この世界はもっともっと酷いものなのです。貴女がこの世界の闇を、少なくとも私にとっては、輝かせてくれているのです。
 私の人生はもう長くはありません。寿命というだけではなく、悪性の腫瘍に侵されているのです。貴女に勇気を出して御手紙を差し上げたのは私の命が長くないと分かったからということもありました。私の人生の最後に希望を、貴女の事を考えながら自慰をするという素晴らしい時間を与えてくれた貴女に、私の心からの御礼として、私の遺産貰って頂きたいと思っています。これは私が貴女から頂いた希望と比べれば、本当にささやかな、取るに足らないものですが、せめてもの私からの気持ちだと思って受け取っていただけたらこんなに嬉しい事はありません。


 女は老人からの手紙を閉じた。この老人の言うように、部屋で孤独にマスターベーションをする時間がもっとも幸せな時間だとしたら、いったいこの老人の人生とは何だったのだろう。遺産を譲るなんて出任せに決まっている。こんないやらしい老人のマスターベーションのおかずになるために生きていたくなんてない。私の人生はそんなためのものではない。でも、それじゃ、私の人生はいったい何のためのものだったんだろう。この老人のいやらしいマスターベーションの快楽のためじゃないとしたら、何のために生きているのだろう。今は結局、お酒を飲んで寝るためだけに生きてしまっているのではないか。そんなことのためだけに生きているとしたら、このマスターベーションだけが楽しみの老人とどこが違うというのだろう。こんなところ抜け出したい。一刻も早く抜け出したい。ここにいたらおかしくなる。ここは私の居場所じゃない。
 しかし、女は一瞬だけこうも思った。ほんの少し、ほんのつかの間だけ、今がとてもひどい気持ちだから、あまりにもひどい気持ちだから、こんな風に私のことを思っている人たちがいるために、そのために私には、それでもまだ生きている価値があるのだと、生きていていいんだと、そんなことを思ってはいけないだろうか。ずっとではない、今だけ、何もかもがひどい今だけは、そう思っていてはいけないだろうかと。


 数日間は何も出来なかった。ただ食事もせず水だけ飲んで部屋に閉じこもった。携帯への連絡は一切チェックしなかった。数日経って部屋から出たのは、吹っ切れたからではなく、ただお腹が空いたからだった。こんなときでもお腹が空くのが不思議だった。数日振りに最寄の商店街を歩くと、街ではこれまでとまったく同じような時間が流れていて、女はそのことで少しほっとしたように感じた。このまま何事もなかったようにこれまで通りの人生を歩んでいけるのだろうかと自問した。答えは分からなかった。
 マネージャーからは何通かメールが来ていた。これまで通りのごく事務的な内容だったが、ところどころで、これまでにはなかったような女を気遣う文章が挟み込まれており、女は背筋が寒くなった。
 それでも、女は事務所に来るようにという言いつけの通り、約束された曜日にプロダクションに行った。女は自分のことだが自分のことではないような朦朧とした気分で事務所のドアを開けた。するとチーフマネージャーに弁護士が来ているぞと言われた。まったく心当たりがなかった。マネージャーは彼女を見つけると、一緒に来るようにと言って面談室へ歩き始めた。マネージャーはあんなことがあっても少しも変わらない様子だった。女が彼の顔を見て露骨に嫌悪感を見せてしまっても、彼の側の対応は全くいつも通りであり、そのことが不気味に感じられた。面談室に入るときちんとしたスーツを着た四十絡みの男が待っていた。
「いやぁ、変な話なんですがね、もちろん、お断りになってもまったくかまわないんですが、あなたに遺産を譲りたいと遺言を残された方がいらっしゃるんですよ。あなたのファンの男性が」
 女がマネージャーの方を見ると、マネージャーは頷いた。
「あのファンレターのおじいさんだよ」
「こちらもこういうケースは珍しくてですね。相続をするという人の本名も分からないんですから。もちろん、相続をするためには本名やら本籍やら、色々と個人情報が必要ですし、こういったお仕事をしている関係上、そうしたことを知られたくないというのであれば、お断りになっても全くかまわない話なんです」
 その口調からは弁護士は面倒くさいので断ってくれと言ってきているようであった。女は老人の話が本当だったということが信じられなかった。だとしたら、老人の言っていたことは全て本当だったのだろうか。老人は疎開中にあった少女の影を私に見て、私のために生きて、私に全てを残して死んでいったのだろうか。
「あの、総額はおいくらくらいになるのでしょうか?」
 マネージャーが落ち着いた口調で尋ねた。弁護士は苦笑いする。
「そうですねぇ、だいたい十万くらいじゃないですか」
 女は再び驚いた。老人の生活はそんなにも逼迫していたのだろうか。
「十万って、そんなに貧しかったんでしょうか」
「まぁ、裕福ではないですよねぇ。ただ、葬儀やら何やらで随分お金がかかりましたし、遺言での相続といっても、血の繋がりのある親族には遺留分っていうものがあるんですよ。その遺留分を引いて、さらには遺言書にあった十五人で分割すると、そのくらいになってしまうっていうことでしょうか」
「十五人って、彼女一人ではないんですか?」
 弁護士は今度は声を出して笑う。
「もう、お子さんたちも呆れてたんですが、キャバクラ嬢が四人、元キャバクラ嬢が二人、飲み屋で会った知り合いの女が二人、風俗嬢が四人、AV女優が二人に、ストリップ嬢が一人の合計十五人に遺産を分けたいって言うんですよ。どんだけ女好きなんだって、娘さんもカンカンになってたんですがね、でも、こちらはそういう遺書なんだから、その通りにしないわけにはいかなくって」
「お子さんもいらしたんですか?」
「腹違いの子どもが全部で五人出てきましてね。最後の妻との娘とは今でも音信があったみたいなんですが。変わった人生ですよね。若い頃は小説家志望だったみたいで、途中であきらめて会社を興して、それが成功してその後はそれなりに収入があって、蓄えもあったはずなんですが、晩年のキャバクラ通い、風俗通いで、貯金は切り崩される一方だったので、まぁ、親族の中には底を尽きる前に亡くなってよかったみたいに言っている方もいましたけどね。界隈では有名な『エロ爺さん』だったみたいですよ」
 女は眩暈がしてきた。もう何がなんだか分からなかった。弁護士の話によれば、もともと体は丈夫で病気ひとつなく、死因は健康ランドで無理してサウナに入って心臓麻痺になったということだった。その健康ランドでも、垢すりマッサージの韓国人女性の尻を何度も触って、男性従業員を呼ばれて注意を受けるという問題を起こした直後だったのだという。
「この件って、お返事はいつまでとか期限はあるんでしょうか」
 そう言うマネージャーの言葉を封じるように女はきっぱりと、
「いえ、いりません」
 と言った。弁護士は安堵した顔になった。
「分かりました、ではこの書類にサインをお願いします」
 弁護士はすぐにファイルから一枚の紙を取り出した。女がサインをしようとしたとき、ふとその書類に老人の享年が八十四歳と書かれているのに気がついた。
「八十四歳だったんですか」
「そうなんですよ、でも、この方は、少しでも若く見られたいのか、通っていたキャバクラや風俗では七十八歳って言っていたみたいなんですがね。七十八歳も八十四歳も、もうそうなっちゃったら変わらないような気がするんですけど、本人の中では少しでも若く言いたかったんでしょうかねぇ」
 何もかも嘘だった。

 マネージャーには車で家まで送ると言われたが、女は今日はまだ時間が早いから買い物でもしながら歩いて帰ると言って断った。繁華街にあるプロダクション事務所から出ると、辺りは沢山の人通りだった。女はその人波の中を歩いていった。次第に笑いがこみ上げてきた。欲望にまみれた人間は、何て馬鹿馬鹿しいんだろう。そしてなんて強いんだろう。私はこんなに馬鹿馬鹿しい世界の中を生きているのだ。女は人目も気にせずに軽く手を広げてスキップをするように歩いた。何だか色々とどうだっていい気がした。何もかもが馬鹿馬鹿しい気がしてきた。女の口からは自然に歌も流れてきた。幼い頃、夢のようなお伽の国を思い描いて歌ったあの歌が。世界中どこだって手を取って助け合えると歌うあの歌が。

it's sexual world それは性にあふれた世界

* 本作品は文芸同人誌「孤帆」第27~29号に掲載した作品を加筆訂正したもの、あるいは今後「孤帆」に掲載する予定のあるものです。また、 「小説家になろう」および塚田遼小説サイト「僕は毎日本を書く」に同時掲載しており、文芸同人誌「孤帆」 関連のサイトに掲載される可能性があります。

it's sexual world それは性にあふれた世界

現代社会に起こる様々な性にまつわる物語を描き出していく10章からなる連作短編集。不倫、デートレイプ、セクシャルハラスメント、盗撮、AV強要、援助交際、集団暴行事件など、様々な現代的なテーマを取り上げながら、性に振り回されて生きていく人間の姿をあぶりだしていく。

  • 小説
  • 長編
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
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