深い霧。森。

らっきょ太郎

「何しているの?」
 透き通っていた。透き通っている少女の声。そのせいだろう。この場所には相応しくはないと思った。僕は或るスベスベとした岩に腰掛けていた。目の前には小川が流れている。周囲には霧がかかっていて車のフロントガラスに張り付いた靄のように視界が悪かった。それと少し、肌寒い。空は灰色であってお世辞にも、とても素敵な気分になる日よりとは言えなかった。それで再び思った。ベーカリー屋にミントが売られている程度に場違いな声の主だと。そうして僕は振り返る。何故か恐れはなかった。かわりに返答としての文句を言った。
「見てわからないかな? 僕は休憩しているんだ。随分と歩いたからね。それで結構、疲れているんだ。だって此処らへんってぬかるんでいるだろう? ほらスニーカーも泥だらけになっている」
 僕はそう言って履いている赤いスニーカーを見せた。スニーカーの底には勿論の事だが側にも泥が付着していた。
 僕が発した声の先には白いワンピースを身に着けた女の子が居た。色素が薄い髪で眠たそうな表情でこっちを見ていた。それから少女は近づいて来て僕のスニーカーをまじまじと見つめ唇を動かした。
「こんな森にスニーカー履いてくるなんて、ばっかみたい。私、結構、此処らへんを歩いてるけど裸足なのよ?」
「でもスニーカー履かないと泥でヌルヌルするだろ?」
「スニーカー履いていても、スニーカーの中がヌルヌルするじゃない。それなら泥のヌルヌル具合が良いわ」
 僕は少女の言葉に頷いて「確かに。君の言う通りかもしれない」と言い、僕は履いていた赤いスニーカーを脱いで川の方に思いっきり投げつけた。
 ボシャンと鳴った。カワセミがシブキを見て睨んだ。 
 僕の赤いスニーカーを飲み込んだというのに、川は静かなままだ。声をかけても無表情で無関心な女のように冷たく感じた。
「何も捨てる事はないじゃない。貴方、ばっかなの?」
「いや。よくよく考えてみたら靴なんてもの履いているの人間くらいなもんだよな。犬も猿もスピノサウルスもミトコンドリアも。一般的には裸足なんだ。裸足が普通で靴を履いている僕がおかしいんだ」
 霧は深くなってきていた。さっきまで見えていた灰色の空はもう見えなくなっている。何処から光が射しているのか疑問に思ったが、すぐにでもどうでもよくなる。そんな事はどうでもいい事なんだ。と、それから霧の影響でこの僕の視界が狭くなり、押し迫るこの森の呼吸の冷たさを皮膚で感じてハッキリと分かる。この霧がこの場所、この空間を包み込んで根こそぎ引きちぎって深い、そう。とても深い海の底の底。海底の亀裂に沈んていくんだと。
「重い空気……。でもヒンヤリともしない」
 僕の独り言は少女の耳にも入ったらしく、少女は僕の霞んだ瞳をジィーと見た。緑色の目だった。
「そう? 貴方はおかしいかしら? 私は別にそうは思わないわ」
 少女は続ける。
「何故、貴方はこんなに深くて寂しい森にやって来たの?」
 川の上から吹いた風が少女の前髪を揺らす。
「喉が渇いたからコーラを買いに来たんだ。アパートから出て自販機を目指して歩いていたんだ。うん。歩くだろ? 君もそうすると思うよ。喉が渇いていたら」
「へえ。それでこんな森に、それもこんな深くに? アパートから出て自動販売機を探して来たっていうわけ?」
「ああ。凄く。渇いていたからね」
 僕はそう少女に言うと髪の毛を掻き上げて息を吐いた。そうしてから此処まで来た経緯を思い出す。
 一つの点が別の点を繋いでいた頃を。
 電車を乗り継いだ。電車を降りて目的地に到着した。それで、また乗り継いだ。電車の中には、それなりに気が合う友人もできた。でも乗り継いだ。それは正しい事だと思っていた。多分。他の奴らもそれが正解だと思っていた筈だ。次の乗り換えはワクワクした。『ずっと』このワクワクが、向上した意思が続くと思っていた。電車は確かに進んでいた。けれども、ある一点を過ぎると目的地もないのに進む。トタントタンと、反復する低音の音を鳴らして進む。景色はどの世界の人たちも見てきた景色であった事に気づく。ハリボテに見えた。絵が巧みな人が描いた幻の景色を延々と見続けていた。目的地は結局、同じ。同じで、二度と目覚めない安らかなトンネルにトタントタンと進んでいる。そこは、ただ虚しい。
 ナゼソウオモウンダ。
 ソレデイインジャナイカ。
 僕の遺伝子に組み込まれている。その破壊できない。改編のできないプログラムは僕の身体を酷く憎んでいた。それは脳と骨を腐らせる。腐敗の匂いは日に日に増して強くなり寝ても覚めてもグルグルと回転して叫ぶ。喉は渇いていた。水の冷たさも忘れていた。渇く。
 デモアシタハセマル。
 キミハダマッテケシキヲミテイロ。
 嫌に思う。しかし、だからといって、僕に何ができる? 人は皆、孤独だ。そうだろ?
 夜が怖い。僕は気づかないうちに夜が嫌いになっていた。『僕を憎む』それは、歯ぎしりをしたり、疑いを持って嘲弄する。甲高い声で笑う。ああ。渇くのはもう嫌だ。
「貴方ってばっか?」
 石灰で造った像みたいに沈黙している僕に少女は言った。
「ばっかでも何でもいいや。君はどうせ僕をバカとしてみなすんだろ」
「ふぅん。開き直るんだ」と少女はぼやいて「ねぇ。此処って森じゃない? それで思ったんだけど、木って面白いよね」
「何が?」
「だって、木って全部、真っすぐに伸びるじゃない。真っすぐって言うのは上にって事。私だったら横に伸びたり、折れ曲がったり、ジグザグに伸びたりするんだけどね」
「知らないよそんな事。どっかの偉い木がそういう方針なんだろ。どの組織にも偉い奴は存在するもんだ
。木も例外じゃない。で、偉い木は言ったんだ。木は真っすぐに伸びる事ってな。だからジグザグに伸びる奴なんていないんだ」
「あら、私だったら絶対、ジグザグに伸びるんだけどな」
 霧はより深く濃ゆくなっていた。それに対して少女は何一つとして話題を出さなかったし、気にもとめていなかった。
「ねぇ。一個だけ質問していいかしら?」
「僕が答えられる質問なら」
「世界は残酷だと思う? それとも私って残酷だと思う?」
 僕は黙った。
 少女はニンマリとしているが目は真剣だった。それで僕はゆっくりと考えて、ゆっくりと口を動かした。
「僕自身の何かが残酷だと思う」
「それは答えじゃない。答えになっていないわ。私が聞いているは、世界は残酷だと思う? 私って残酷だと思う? って事よ」
 誰かが息を吐いた。多分。僕なんだろう。
「オーケー。答える。僕は今日、喉の渇きが酷くて目が覚めた。でも夜だった。僕は夜が嫌いだ。南京虫の塊が嫌いなくらいに嫌いだった。それで夜が感じないよう二度寝をしてから再び目を覚ました。喉は渇いていた。仕方がないから赤色のパーカーを身に着けて青いジーンズを履いて赤いスニーカーを履き自動販売機を探してアパートから出た。でも、僕にとって必要な自動販売機は中々見つからなかった。赤い自動販売機がよかったけど青い自動販売機しかなかった。探してもない。それで隣の街に行った。でもそこにもない。そこから隣の街に行った。でも見つからない。そうしているうちに僕は森に入ることにした。そこにあると思ったからだ。僕の渇きを乾かしてくれる何かがあるってね。深く歩いた。スニーカーは泥で汚れて喉の渇きは結構酷かった。そうしているうちに小川を見つけた。でも飲もうとは思わなかった。僕にとってその川の水は硬く、砂に感じたんだ。だから僕はため息を吐いて休憩する事にしたんだ。それからスベスベとする岩に座って目を閉じて、深い霧が何を意味するのかを考えていた。すると君の声が聞こえた」
 僕は喉の渇きを感じ、掠れた声で答える。
「君は残酷だ」
「あはは」
 少女は優しく微笑んだ。
「どうしてそう思うの?」
「僕よりタチの悪い腐臭がするんだよ」
「ええ? 私、今朝、シャンプーをしたよ」
 そう言って少女は口元をあげて笑う。
「でも、初めてかも。私の事を残酷って言った人」
「優しい少女がこんな深い森には来ない」
「それは確かね」
 少女はそれから「此処って貴方みたいな頭のネジが外れた奴らが結構来るんだよね。なんか色々と文句とか戯言とか言ってさ。ホントにくだらない事をごちゃごちゃと言うの。で、結局此処に来るって言うのはそういう事によね。それで私は彼らに対して悪戯をするの。だってもう、半分以上がダメになっているじゃない? 本人的もどうでもいいって思ってるし。それで私は彼らの脳を空っぽにするの」
「空っぽにするだって?」
「そう空っぽにする。そうすると本人の中身はもうないんだけど、受け答えは完ぺきにできるんだよね。なんていうか。こっちのAの質問に対してBの答えを出せるようにしたパソコンみたいにしちゃうの。だから元の場所に戻っても誰もその人が空っぽになった事には気づかないし、それ以上に周りの人からすると『中身』が向上して見えるかも! だってもう、絶対に壊れないもんね」
「おままごとにしては少し度が過ぎないか?」
「でも誰も不幸になっていない。本人はもう苦しまなくていいし、その人の回りにいる人たちも嬉しく思ってくれるんだよ」
「それで私はこの森に埋まっている彼らの肉体を並べて見るの。そうしたら、なんていうか、人ってなんだろうな~って思うの。みんな最後はこうなるのに。ってね。それで私の一時的な快楽はその瞬間だけを感じて持続しない。そこが本当につらいの。ずっとそれが続けばいいのにって思うの。それが私の悩み。ねぇ。貴方は私の快楽の一部になってくれる?」
「あっそ」
 僕は答えた。少女はチラリと銀の光を右手から放った。僕は最初その小さく光るモノが何なのかは分からなかっけど、この世界にはない一種の異物だと思った。少女は僕に向かってその銀色に光る物体を振りかざして、切り付けて来た。けれで僕はその腕を掴み銀色に光る物体を奪い取り、彼女の顔の右半分を切り付けた。少女の断末魔が深い霧の中で鳴り響いた。小さな身体から想像できない大きな断末魔はミルキーウェイよりも壮大でカスタードのように甘かった。
 少女は右手で顔を抑えながら言う。
「ほんとに、貴方は、ばっかね……。素直にしていれば、『それから』解放してあげるのに。めんどくさいわよ。貴方。そう言うの詐欺って言うのよ」
 僕は握っていた正体不明の何かを少女に静かに渡しながら言った。
「ごめん。僕はただ痛いのは苦手なんだ。甘いのは好きだけどさ。うん。だからダメなんだ」
 霧は白いカーテンであった。森の静けさは羊毛であった。僕の『それ』はよく濁っていた。喉の奥は渇ききっていた。もう少しで夜になりそうな声が聞こえた。なにもかもが間違っていて壊れていた。

深い霧。森。

深い霧。森。

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