快活の哀しみ(2)

尾川喜三太 作

第二章 常滑の苔と黒い石

 東洋は漱石の『坊ちゃん』に似ていた。彼はその類似を早くから自覚し、努めてこれに似まいとして来た。彼とて、昔から同級生の口々に愛誦せられて来た『東京に進出してからが人生だ』と云う自嘲的な惹句より、悪く言えば百姓根性むきだしの、怒りの発露と握り拳が不随意に直結している正義感の方が好もしかつた。ただ少し気になつたのは、直情家がはじめから担わされている悲壮趣味の機構と、彼の悲劇性の自覚である。悲劇作家の秘密を知つたとき、東洋は同じ道を辿る気がしなくなつた。彼の正義はさながら敗走のために奉げられている。敗走の予感に打震え、その直前こそ筆力はここを先途と鼎を扛げ、物語は敗走を以て成就している。この感傷的なからくり、敗走の予感と口強な台詞の取り合わせを東洋は呪つた。彼の拳は、悲劇性の自覚に対する生理的な嫌悪のために顫えた。
 東洋が、かつて界隈で鳴らした喧嘩ッ早さを引ッ込めるようになつた原因は、いろいろと考えられるが、彼に『坊ちゃん』を貸し出した氏原がその一人である。氏原は東洋の同級生のなかで一番穎脱の、博引旁証ばかりするちょっといやみな青箪である。
 当時小三だつた氏原は、『漱石全集』を読破したことが大の得意で、将来は作家になるんだと敦圉いていた。知的労働におよそ理解のない東洋は、運動の不得手な人間が、胡語を作る悠か遠国の消息について、見て来たように語る吹聴癖を気の毒に思うぎりだつたが、夏休みの課題図書で困つていた彼に氏原が『坊ちゃん』を差し出した時は素直に歓んだ。
「いやあ、なんて良心的な薄さだ。きみ気が利いてるね」
 だが今思えば、氏原は気を利かすどころか、『坊ちゃん』に徴して東洋の喧嘩ッ早さを諷刺していたにすぎない。この皮肉が通ぜず、剩えお礼を陳べてしまう東洋の鈍さに、氏原はますます笑壺に入つたろう。
 東洋は冒頭から『坊ちゃん』の心情に無抵抗に自分を投射することができ、向かッ腹を立てるタイミングも、拳を握つた後の爪痕も手に取るように解つた。これほど読書が苦痛でない例はなかつた。だが物語も半ばにさしかかると、不知ハードカバーを支えていた手に異様な力がこめられた。不正を常習する小悪党、しかすがに人に尊敬されようなどと云う矛盾と平気で同居するインテリゲンチャ、憤懣の種は尽きないが、彼が実際に腹を立てたのは、一本気が懐胎する悲劇性を自覚しはじめた『坊ちゃん』に対してである。おおよその察しはつきながら、またたく間に掉尾まで読み下して了うと、
「ちくしょう!」
と聲の下、借り物の漱石全集を壁にむかつて叩きつけていた。
「ほら見ろ、やっぱりこうなった。この敗北主義者め、抛っとくと自分の義憤の浄さを手ずから愛撫しかねねえぞ。この趣味的な正義漢がッ!」
 さて『趣味的な正義漢』と題された東洋の作文は、第三十一回読書感想文コンクールで佳作入選を果たして了つた。とくに『坊ちゃん』を斥して『まるでこの国に巣食う敗戦趣味の最初のひとだ』と称した最後の結びは揮つていた。漱石全集を返した時、氏原は厭味ひとつ云わなかつたが、内心穏やかでなかつたろう。作家志望を表白しながら、氏原の作文が入選したと云う話は聞かない。それが証拠に、氏原はハードカバーの喉が大きく凹んでいることを指摘して、後日東洋に弁償させた。

 T市と云えば、新潟や県都の中心街へ出てゆくアクセスの悪さから『陸の孤島』などと呼ばれて久しいが、東洋はこれに引ッ掛けて『陸の孤島のバルカン半島』などと綽名されていた。孤島と半島の間にある矛盾が景気よく見逃されていたのは、さすがに小学生までだつたが、其名にし負う逸り気で、向かうところ捫択を惹き出さで措かない彼を、教師たちは持て余していた。
 自己陶酔をことごとく撥無した彼の鉄拳―――いわゆる『右ストレート』は専ら目的物にむかつて突き出され、目上の破落戸をとりわけ好んだ。彼の勧善懲悪は、あのジャンケンの『最初はグー』を自分のために誂えられた先人の智恵だと感佩していた。『これが俺の勧懲の正統性の証しであり、しかも『最初はグー』に相応しかるべきグーパンチは、俺の無感傷な右ストレートを措いて他にない』―――その東洋に少年野球が宛がわれたのは小三の夏である。河川敷の野球チームを紹介したのは京臣であるが、根回しをしたのは当時の担任であつた。
 新たなはけ口を見出した彼の『右ストレート』は今や休日限定で、しかもあのグラウンドの隅に吹き出た贅疣のようなマウンドの上から放たれるようになり、教師らはようよう胸を撫で下ろした。それゆえ彼が利腕をかばつて、衣嚢に両手を突ッ込んだまま学校中を闊歩しても、無異だけを祈る教師らに否やはなかつた。
 東洋のかかげる哄笑の教義を、そこらの『軽蔑の笑い』と混同してはならない。彼の哄笑はつねに青臭い勧善懲悪からのみ昇華されたもので、勧善懲悪を閉め出したところの内容空虚な笑いこそ、彼が目指した哄笑であつた。
『俺は絶対に笑い飛ばしてやる、すべてのセンチを!』これが彼のモットーであつた。
 彼の哄笑はまず、穉気芬々たる自分の正義感を笑い飛ばすことからはじめる。だから結局、彼が笑い飛ばしているのはあらゆる悪をではなく、悪に対する彼の青い嫌悪、あらゆる自分の弱さに対する彼の青い焦燥であつた。それに対応する感情さえ排除できれば、対象それ自体も彼の視野から退場してゆく道理である。

      *

 凪とは妙心寺の慧日幼稚園以来の仲で、京臣をさし措いて最も古い。このことを綺麗に忘れている彼は鈍くも小一以来と信じていたが、凪は早くから東洋を目離れなかつた。
 当下、給食に時折あらわれるレーズンパンのレーズンが食べられない凪は、食後の遊戯にも加わることができず、食べ畢るまでひとり濡色の光沢を持つこの鉱物と対峙するのを余儀なくされた。戸外では、『缶けり』の鬼が数取りをする賑やかな声が聴こえる。いつもならお茶と一緒に嚥下していたこの卦ッ体な鉱物が、急に憎たらしくなつた凪は、ついにポケットにそいつらを捻じ込んで了つた。
 胸の痞えが下りた凪は、天馬空を征く翼の自由を得て、窓の外に飛び出した。
 凪は鬼にもう十秒かぞえてもらう間に、息促き切つて、手近なところに蓊然とあるサツキの茂みに身を蔽した。するとそこに偃臥になつて葉越に前途を透かしている東洋がいた。数取りが已んだので、凪も並んでしゃがみ込んだ。
 なにかがころんと地面に落ちた。凪がそれと気づくより、東洋は凪の懐ろからまろび出たこの糞のようなものを拾い上げ、凪の顔とそれを等分に見比べた。凪は耳まで赤くなつている。
「自家に持って帰るほど、レーズンが好きなの?」
 凪はか黒いおかつぱ頭を左右に振つた。
「んー……じゃあ自家の庭に植えて、葡萄棚を拵えたいとか?」
 ためらいがちに、レーズンきらいなの、と凪が小さく答えるのが聴こえる。
「ふーん、そっかあ。じゃあ今度から俺が食べてやるから、ポッケにしまっちゃ、駄目だぜッ」
 そう云うなり東洋は、油断した鬼の隙をついて、茂みの外れから身を躍らせた。
 東洋が憶えてないのも無理はない。凪はそれから間もなく東洋の蹤を慕うようになつたが、東洋はただ正直に、好物のレーズンパンの分け前に預かりたかつただけである。
 
 だから東洋が凪を見初めた時の印象は、空恐ろしいの一言に尽きた。入学式以来、彼が自分と同じ通学班だと知るや、息をも継がせぬ求愛のしなで彼を翻弄させ、東洋は凪が、はじめから自分について智識を持ちすぎていることに、ど肝を抜かれた。
 それから二人の仲良しっぷりは、見ているこっちが恥じらわれる・仔犬同志のじゃれ合いのような様相を呈し、たちまち学級の名物になつた。それは双子も啻ならざる男女が互いの不足を補い合うようで、循環端なきがごとく、この世の終わりまで手をつないで輪踊りをしてい兼ねないほどである。
 いぜん二人の関係は、分子間結合のファンデルワールス力のような無作為の結びつきで、清純この上なかつた。凪は事あるごとに、
「私と結婚するのよ」
「私のこと、好き?」
「はっきり言って。ちゃんと約束して」
などと矢継早な調子で東洋を狼狽させ、しかし満更でもない彼がそれに応ずると云うのが、お定まりの見世場になつた。
 やがて彼等は「結婚生活の模倣」に熱中しはじめた。
 縡ここにいたつて、東洋はにわかに、凪が示したかくも法外な親しみを受容するためには、自分への好意、などと云う自惚れだけでは足りないことに気づいた。熱病のように凪を蝕む彼への好意は、目の前の自分に源する以上に、彼女が背向にしている生活の黒い影の使嗾と、彼女の反発に由来していると考えた方が自然だ。「結婚の模倣」を云い出してからは、ここにいない誰かに向けて演ずるような俳優の見得が―――つまり彼女の好意の仮装がぼろを出しはじめた。
  凪は大きく深呼吸をした。相当な覚悟でのぞんでいることが窺われる。それから探るような目つき―――東洋の愛のひらめきをひとつも迯すまいとするような・兢々たる・落穂拾いをする作女の必死な目つきで東洋を見上げた。
 凪からすれば『結婚の模倣』はひとえに義務、ひとえに課せられた儀礼であり、ともすると結婚それ自体、苦痛を要するものであるらしい。望まないものを自らに課す理由が東洋にはわからない。しかしこの苦痛の表徴こそ、彼女の本懐の所在を他事もなく証しするのである。切願は、それだけ待ち人に苦痛を強いるものである。
 可笑しなことに、凪の中では、男女は結婚すると物理的な距離に仲を裂かれ、文通や祈りや遠方からの呼びかけによつて互いの愛を育まねばならないと考えられているらしい。『結婚の模倣』がはじまると、二人は以前より離れて了つた。凪は東洋をよせつけず、東洋は大人しくこれにしたがつた。これが結婚の効用なのか、迭みに相手を所有していると云う確信に支えられて、情熱はより内攻した形態をとるのか?―――にしても、凪が慎み深い距離を保ちながら東洋の方へよこす視線の、なんと不安に充ち満ちていたことか。小三の分際でいつたい如何なる夫婦関係を父母の間に閲して来たのか、東洋には凪の家庭の後ろ黒い影は想像するに余りあつた。
 二人は半年にわたつて文通のやりとりをした。けだし愛をかたるに如かない彼の気持は、日常を飛び過ぎる紙片の隻影のようなよしなしごとばかりを書面に写して、凪がのぞんだたつた一言を執拗に避けつづけた。下校後、返事をしたためると、日も昃きぬとに相手の家まで届ける。かたみがわりに取り交されるこの手紙において、さし出された愛の不公平は目に余るものがあつた。東洋は凪の愛に―――正確にはただ単つの感情に殉じようとする彼女の態度に嫉妬を覚え、そこから横着な自己肯定だけを歃つて来た自身に嫌悪を覚えた。峻別して来たはずの『軽蔑の笑い』に、彼の凪に対する態度が似通つて来たからだ。
 哄笑とは結局、自身に向けられた『軽蔑の笑い』であつて、溺れさせるところの感情を何一つ身に惹きつけまいとする怯懦ではないか?『俺は凪の好意に対する自分の執着をも笑つて退けるのか?』
 またこう思つた。『俺は俺の正義感にまじる感傷を警戒していただけで、客観性の混入した不純な正義感を笑い飛ばしたかっただけだ―――正義感が悲劇を要求するなら、愛はいつたいいかなる見返りを求めるのだろうか?愛に客観性が生じないなら、猶豫わずそれに殉ずるべきだ』
 この正義漢も所詮、自分の正義感に『純正』との御墨付を与えてくれる対象を求めていただけに過ぎない。かくして彼は、凪のための正義感に聊かの感傷も忍び込まないことを知つた。この場合、自己犠牲などと云ういけ好かない中有に自身を投げ出すまでもなく、凪はそのまま彼自身だつた。いつたいこれ以上の愛の表現が考えられようか?
 やがて彼の、凪の愛に対する嫉妬は氷解する―――だが仕舞まで、東洋は凪の手紙に家庭問題の資料を読み取ることができなかつた。程なく手紙は、情熱を伝える導線回路が焼き切れたように、ふッつと途絶えた。四年生に上がると同時に、凪は引ッ越し、同じ学校の同じ教室の中に坐ら、音信不通となつた……
『俺はいったい、どうすべきだったのだろう?あの時、たしかに、俺は試されていた。試験期間はたっぷりあり、文通は優に百をこえていたのに、俺は彼女が望んだ結果を示せなかった』
 凪の祈るような目つき―――啓示が降つて東洋の頭上に霹礰するのを待つような、らしくない卑躬の目つきが、それから頭を離れない。
 だからかして、ドッジボール大会で身を挺してかばつた東洋に、凪は犒いの一つも云わなかつた。
「どうして凪だけあんなに狙われてたんだろうな?」
 夏休みのプール授業の後、居残つて野球をしていた東洋は京臣にこうのどかに訊いた。
「たぶん三小の学童内で何かあったんだろう」
「それと凪が苛められるのと、どういう関係が?」
「あれ、トーヨーまさか知らないの?凪、小四の時引っ越してからこっち、お母さんの仕事が晩くまでかかるから、あすこの学童に通ってるんだよ」
 東洋は驚くより先に、京臣に淡い嫉妬を覚えた。

……眉と眼が仲良く真横を向いているあたりはまことに謐かで、薄い上唇が奥に引ッ込みながら白い前歯がのぞくので、反対に頬がせり出してくる立体的な微笑、いつも小さく、菫の花のように微笑うのが、凪の癖だつた。
『俺はひさしく、彼女の微笑った顔とはご無沙汰している』

快活の哀しみ(2)

快活の哀しみ(2)

東海林凪はくせものだ。漱石の『坊ちゃん』みたく感傷的な正義漢になりたくない東洋は、めぐりめぐって『哄笑の教義』を打ち樹て、ひとまず自身の問題にケリをつけたかと思いきや、今度は凪がつぎから次へと彼に難題をふっかけて来る。東洋の快活と凪の本懐をときあかす起点。

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更新日
登録日 2019-04-05

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