E4 ~魂の鼓動~

序章

A.D.2070。
 20世紀末から21世紀にかけて、鋭い牙を剥いた地球温暖化の波。それはいつしかうねりを増し、幾つもの国がなすすべもなく海の底に沈んでいった。
 そればかりではない。
 中南米に近い太平洋、あるいは日本の三陸沖から東の地点でも海底火山の爆発や海底内のプレートが地すべりを起こし、日本を初めとした東南アジア諸国は、最大級の地震と津波に見舞われていた。その上、欧米では起こりえなかった地震が各所で頻発し、世界は徐々に混乱の様相を呈していった。
 そこにもって、欧米や中国山間部などでは、世界規模の歴史的火山噴火の余波を受け、地球が表面及び水面下で怒りを爆発させたかのような天変地異が続き、人類は住む場所を求め大移動を始めた。限られた大地には数億もの人類が押し寄せ、我先にと土地を確保しようとして争いが頻発した。
 その間、地球の温度上昇は、火山灰で地球が覆われる中、一旦収束したかに見えたが、太陽の紫外線が差し込むにつれ、その上昇率は悪化の一途を辿ったのである。

 2080年。
 10年に及ぶ第3次世界大戦が勃発。
 米国とロシアはアラビア周辺で代理戦争を繰り広げ、周辺国の死者は8割という惨事となった。EEC合衆国にはアラブ流民が入国したが、アラブ民族同士の争いは止むことが無く、EEC合衆国は今や死地と化していた。
 また2086年、戦争を終わらせるべく、核ミサイルが北ロシアと北中国、EEC合衆国、北米アメリカから発射され、人類の約3分の2と人類が住める環境の地の約半分を放射線に晒すという最悪の結果が待ち受けていた。
 そうした間にも、北アフリカに端を発したHIVウィルスから派生したHIVⅡウィルスが猛威を振るい、次々と人命が奪われていった。HIVウィルスと違いHIVⅡウィルスに対する特効薬はなく、座して死を待つのみといった状況下の中人々はパニックに陥り、世界規模で集団自殺やテロ行為さえもが続発し世界中を震撼させた。

 結果、地球の人口は約5億人にまで減少し、人類は滅亡の危機に瀕していたのである。

 2090年。
 どちらとも勝敗のつかぬまま、10年に及ぶ世界大戦は終結を迎えた。
 勝戦国や敗戦国が入り乱れる中、各国のトップは違う視点から今後の政を見定めていた。
 そして、一つの方向性が提案された。
 国の垣根を越え、皆が協力し合いこの危機を乗り越えようというものである。
 歴史的瞬間。世界が一つに纏まった瞬間である。人口激減の問題を受けた各国は、戦争を止め、現在の人口を維持することを最優先としたのだった。

 ここに、地球政府が誕生した。


 2120年。
 地球政府では旧各国を自治国として認め、人種間及び宗教間での争いを禁じたが、争いの火種が無くなることは望めず、各国は自治国軍隊と警察府を組織した。

 そうした中、世界医学だけは革新的に発達し、個人の細胞から作りだした人工臓器を様々な身体の部分に埋め込む技術が確立された。
 個人細胞から作りだした筋肉を埋め込み義体化した人間たちは、注射による義体化部分の油を指すことと、健康診断でのオーバーホールのみ。心臓までもが義体化された人類も少なくなかった。
 これらはマイクロモビルと呼ばれ、サイボーグに属する人間たちとして新たに存在することとなった。
 それは、スポットブースターと呼ばれる機能増幅器で電気信号を脳に送ることによって電脳化し、身体はオール義体というマイクロヒューマノイドとは一線を画していた。
 スポットブースターの誕生により、マイクロヒューマノイドが人型ロボットという概念は今や過去のものとなっている。
 マイクロモビルもマイクロヒューマノイドも、環境汚染化が進む中その身を守るために必要な技術とされ、瞬く間に地球上に広がった。

 日本は第3次世界大戦とその後の大地震及び火山噴火で本州の殆どが津波を被り、また、東日本から東海、四国と九州の南側が核戦争による放射線に晒され、居住できる土地の約3分の2を失った。1億人いた国民は、戦争や災害が原因で次々と犠牲者が出た。漸く世界が落ち着き日本自治国となった今、人口は半分以下の5千万人ほどに減少するという結果が齎された。
 現在居住できるのは、九州及び本州の旧日本海側と旧北海道のみ。日本に四季があった頃は冬場に雪の積もる地域だったが、地球温暖化の影響を受け、今では雪も降らない。


 旧北日本日本海側に位置する伊達市。其処にある東日本警察特別部隊支援班、通称、ESSS、イースリーエス。                   
 SIT、SAT、ERTと並ぶ日本自治国警察府の主要機関である。旧北日本にある伊達市の警察特別部隊支援班は東日本を管轄し、西日本を管轄しているのは、旧山陰は毛利市にある西日本警察特別部隊支援班。通称、WSSS。
 伊達市と毛利市は、20世紀までは冬になると雪で閉ざされた世界が広がっていたが、地球温暖化の波は顕著だった。両都市ともに冬に雪が降ることもなくなり、日本の四季は今や完全にその姿を消した。
 そして、大地震や火山噴火といった天災及び朝鮮半島を初めとした欧米からの住民大移動を発端とした核戦争により、今や日本の太平洋岸は、住むべき場所としての機能を失った。

 日本では、マイクロモビルやマイクロヒューマノイドの研究が追いつかず、一般国民が交通事故などでパーツを損壊した場合は、個人細胞から再び人工臓器を作り出し、身体に戻すという方法が採られていた。その作製期間は半年とされ、その間、入院が必要とされた。

 ところが心臓だけは、半年待っていられない。それは即ち、死に値することを意味していた。心臓を患った人々は日本自治国に対し心臓の人工臓器を作製しパーツとして組み込むことができるよう、デモ行進を繰り返したが、自治国内閣府では、この案件を承認しようとはしなかった。

 日本自治国内では、研究の一環として警察関係者は心臓を義体化し、事件に遭遇し被災した場合は、当該関係者は予備のパーツを組み込むこととされていたが、皆が皆、それに追従したわけでもない。
 特に、麻薬取締の囮捜査に就く職員や、中華系マフィア等に潜入する職員は、潜入する際にCT検査される場合が多く、心臓を義体化していれば囮としての役目が果たせないというジレンマの中、決死の覚悟で悪の巣窟に入り込むスパイ任務を担うのだった。

 各自治国が領有地確保に関してしのぎを削る中、生身のスパイだけが身体を張った策戦に参加していたわけでもはい。
スパイの中でも、例外的にマイクロヒューマノイドはいた。例えば北米のCIA。外国における諜報活動を担う情報機関。大統領直轄の情報機関として果たすその役割は大きい。
こういった機関に勤務する者は皆マイクロヒューマノイドだった。
 国家間の上層部に入り込みロビー活動を行う際には、いざというとき生身の身体では厳しいものがあるし、SPや警官などは皆がマイクロヒューマノイドなので懐疑的な目で見られることも少ない。
 CIAに限らず、情報機関はどこの国家も同様の措置をとり現在に至る。
 
 『狐と狸の化かし合い』
 そう定義づける学者も多い中、自国のマイクロヒューマノイドの性能を上げるべく、闇に紛れて動く国家は多かった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 西暦2122。
東アジア。

約40年前に勃発した第3次世界大戦の際、日本は永世中立国と宣言し戦争には参加しなかった。
第2次世界大戦で敗戦した記憶は、もう国民の間では過去の件(くだり)ではあったが、唯一の戦争被爆国となったが故のジレンマは国民からの戦争参加反対の声を招き、戦争へと踏み出すタイミングを逃していたのも一因である。
 米国からの参加要請をも振り切った結果、日本が北米やロシアと締結していた相互不可侵条約は破棄され、日本は自衛のために自衛隊を軍隊として内外に知らしめるとともに、核爆弾の研究を始めるに至ったが全世界的にその遅れは顕著なものだった。

 西暦2086年、戦争を終わらせるべく、北ロシア、北中国、EEC合衆国、北米アメリカから発射された核ミサイルは様々な場所で爆発したが、実はその前年に日本国土の太平洋側上空では、各国の放った核ミサイルが爆発し、日本自治国内にまたしても黒い雨を降らせたのである。

中立を保ったが故に、そして戦争被爆国であったが故に、アジアの小国であるが故に、第3次世界大戦の核ミサイル着弾標的のテストケースになり国土を核の嵐に晒された恰好になった日本。
戦争に参加しても参加しなくても、核による被爆テスト国はアジアの小国と決められていたとしか言うほかなかった。

日本は第3次世界大戦とその後の大地震及び火山噴火で本州の殆どが津波を被り、また、東日本から東海、四国と九州の南側が核戦争による放射線に晒され、居住できる土地の約3分の2を失った。
 その限りでは日本そのものが終息する勢いではあったが、勤勉な民衆は被害を受けなかった日本海側を拠点として日本自治国の再生を図った。
 これが功を奏し、太平洋側は復興しないまでも日本自治国としての体裁を取り繕うことができたのである。

西暦2090年に戦争が終結し、各国の放った核ミサイルにより国土を荒らされたことによる報復として、日本自治国が移民の受け入れを拒否する施策は30年の間世界的にも認められていたが、地球規模で居住区が不足する中、特に、ここにきて人口増加の傾向が著しい朝鮮半島では移民の受け入れを折にふれては日本自治国に要望していると聞く。
しかし、日本自治国内に向けて朝鮮半島移民政策が模索されてから10余年を数えるが、日本自治国では頑として移民を受け入れるつもりはなかった。
そこに登場したのが安室元内閣府長官と壬生前内閣長官である。この2名は日本国民総電脳化と朝鮮半島移民政策を合わせ技で達成しようとした。新興宗教を隠れ蓑にして。
結局、内部からこの計画は徐々に崩壊し、壬生は暗殺、安室は逮捕されたが、その安室も暗殺の憂き目を見ることとなった。


現在は旧大韓民国と旧朝鮮民主主義人民共和国が統一され、名を変えて統治を行っている朝鮮自治国。
 とはいっても、この朝鮮半島を皮切りに、国全体に多民族が押し寄せ土地を占拠、先住民は旧朝鮮民主主義人民共和国の山間地や寒冷地に少数が住む事態と成り果てていた。
 そこで隣国である日本自治国に移民を送る様決議があったという。移民とは、ゲルマン民族やアラブ民族を指している。これらを一掃し、朝鮮自治国としてのあるべき姿を知らしめる、というのが上層部の狙いでもあった。
 
 朝鮮半島の移民政策実施要望には、旧中華人民共和国=中華自治国の思惑も少なからずあったに違いない。
中華自治国においても、シルクロードと呼ばれた「草原の道(ステップロード)」、「オアシスの道」「海の道(シーロード)」を通してゲルマン民族系の大移動を許す結果になったわけだが、全ての道が通行に適したわけでもなく、陸地を中心として移動してきたゲルマン民族やシーロードを主要な移動方法としたアラブ民族に占拠され、中華自治国そのものも統治困難と成り果てていたのは朝鮮自治国と同義であった。

 これら東アジアの国々からすると、日本自治国はいつまで経っても【勝手な見解を述べるアジアの島国】という意見が大勢を占めていたが、地球政府が設立した国際協議会では日本自治国の対応やむなしという知見で、朝鮮自治国及び中華自治国の意見を取り上げる国は殆どなかった。

第1章  インテグレート=組織統合の完成形=

2124年春。
 その年の春一番は観測されなかった。
 いや、観測されないと言うよりは、どの風を指定して良いか気象分野のお役所が揉めただけだろう。
 杏にとってはそんな些末なことなどどうでも良い。
 風が強いと伊達市内の外部施設にて行う射撃練習の成果に影響を及ぼすので、魔法か何かで風を止めたいとまで思うこの季節がやってきただけの話だ。

 そう言えば、夜遅くE4から戻った剛田が家の中でそっと洩らした。
「今春から、元W4の九条と三条が我がE4に正式に異動する。近日中に内示が出る」
 あら、それは良かった・・・と呟こうとした杏の口を塞ぎながら、不破は見るからに不機嫌そうな顔でその知らせを聞いている。
「なんだ、不破。気に入らないと言った顔だな」
 剛田の質問に答えることはせず、不破は杏の顔色を窺っている。
「僕は別に気に入らないとか思ってません。それより杏があいつらの異動を喜んで、自分の仕事を忘れやしないか、それが心配なんです」

 杏は不破が口を塞いでいた左手を強引に退()けると、家の中だと言うのに目つきが変わる。
「仮にもチーフに向かって失礼な」
 そう言って、不破と剛田の顔を見ながら腰に手をあて大きな声で笑った。

「2人とも仕事は仕事として、上手くやってくれ」
 大きな溜息が剛田の口から漏れてくる。剛田は近頃溜息ともつかぬような深い深呼吸をすることが増えた。W4が解体され九条たちの面倒を見るようになってからかもしれない、と杏は剛田を案じていた。
 
 剛田の心配事はそれだけではなかった。

 これは内々の情報ではあったが、槇野首相は朝鮮国との国交断絶に向けて動きを加速し始めていた。理由は、朝鮮国からの移民が犯罪に手を染める率が顕著に表れている、と言うものだったが、国家内閣情報局=内情では、これ以上増え続ける移民を受け入れたくない、という槇野首相の本音を押し隠そうとはしなかった。
 無論、済州島など観光地への旅行なども制限されるのだから、移民に関係のない都市では反対運動も起きそうな気配だ。
 そこに、運よくと言うべきか、運悪くと言うべきか、日本古来の島を朝鮮国の土地だと豪語し島に上陸する朝鮮国の陸軍兵士たちが数多くみられ、日本のメディアは連日のようにその問題を取り上げた。
 日本古来の島が無くなろうとしている、とぶちかましたものだから、朝鮮国への日本国民の思いは怒り心頭に発し、日本国内における朝鮮移民は肩身の狭い思いをしたばかりではなく、料理店などは罵詈雑言に(さいな)まれ一旦店を閉じる者まで現れる始末だった。
 
 槇野首相にとっては渡りに船。
 自分がコメントを発表しなくても、マスコミは毎日のように印象操作で朝鮮国を叩いてくれる。槇野首相は自分が矢面にたつ行動を極度に嫌い、内情に任せきりでコメントすら内情に出させていた。
 だが、多くの国民は時の首相が答えるべきだと考えているのだろう。内情のコメントに激怒した国民は、内情や官邸の総理秘書室にまで怒りの手紙や、インターネットによる攻撃材料としてSNSを有効に活用していた。

 
 そんな中、春の異動内示が出て、正式にW4の九条と三条のE4入りが決まった。
 E4の皆はこれまでの経緯を知っていたから猛反対とまではいかないものの好ましい人事とは言い難かったようで、内示の瞬間、E4の皆は目が泳いで自分たちの心中を悟られることのないように、といった面持ちの者がほとんどだった。

 そして4月。
 九条と三条がE4に異動してきた。
 杏が仕切った最初の挨拶で、九条は皆の顔をひとりひとり見ながら「昔は暗殺部隊の中にいた」と強調した。続けて喋った三条も「得意なのは暗殺」とE4に戦線布告するような言葉をわざとチョイスしたように見えた。
 これからのワークバランスをどうするか悩ましい、と痛感した杏だったが、たぶん、一番心配したのは朝から会議で警察府に行かざるを得なかった剛田だろう。
 
 それでも、倖田と西藤、特に倖田は暗殺も辞さない日々に身を置き、西藤は元軍隊所属。軍隊と言うところは「殺るか殺られるか」で日々を過ごしていたから九条たちの発想と似たものがあるのは確かだ。
 挨拶を聞き顔色を変えたのは設楽と八朔だった。
 何様だと言う顔をして下目遣いで九条たちを睨む設楽。八朔はそんな設楽を見て心配したのだろう、何か気の利いた言葉で補おうとしていたようだが、どうやらそれは無理だったらしく然も残念だと言わんばかりに首を振る。

 ところで、杏はここにいるべき人間が1人足りないことに気が付いた。
「北斗は?」
 設楽が嫌味たらたらに杏の目を見た。
「地下でやつらと遊んでます。射撃訓練とか言ってたけど、どうすかね」
「おい、誰か連れてこい」
 杏が周りを見回した時、三条がいらないという風に手を振った。
「彼とはもう挨拶済みですし」

 北斗と三条の接点。
 青森市の山中、FL教独自の研究施設。

「そこで九条さんも挨拶しましたから」
 三条としてはこの挨拶式を早く終わらせたい、そういう心理が働いているのだろう。
 九条はポーカーフェイスを貫いていたので、杏にとっては何を考えているか見当がつかなかった。
「それなら僕らが地下に降りましょう」
 突然の九条の言葉に、E4の面々は少々戸惑いを隠せないでいる。
 特に杏は。
 まさか北斗に挨拶するためだけに地下に降りるわけがない。何か別の目的があるに違いない。
 いや、今更その目的を聞いてどうなる物でもないし拒むこともできないだろう。杏は2人をバグやビートルのいる地下2階と、射撃場他様々な設備のある地下1階に案内し、その顔色を窺った。

 九条と三条はバグたちには見向きもせずに、地下1階にある射撃場に興味を示した。
 2人とも目に光が差し込み、輝いているのが見て取れる。
 さすがは総理直属の暗殺部隊であったW4の生き残り。
 自分達の生き様を、そしてその誇りを忘れてはいなかったか。

 杏は2人に地下を自由に見て回るようにと声を掛け、1人でE4に戻るため、エレベーターのボタンを49と押した。

 49階に戻った杏のところに、ひねくれた顔をした設楽が忍び寄ってくる。
「チーフ」
「なんだ」
「俺、あの2人好きになれないんですけど」
「まだ1日目だ」
「第一印象ってやつですよ」
「お前はやかましボーイだな」
「なんすか、それ」
「いつでもやかましいってことだ」
「いくらなんでも失礼っす」

 設楽は頬をブクブク膨らませ、自分の持ち分であるIT室に篭ってしまった。
 他のメンバーはと言えば、いつものように八朔はVRで遊んでいるし、倖田はソファに腰かけてライフルのオーバーホールを始めていた。西藤はソファに横になりだした。
 不破の姿が見当たらない。
 不破にはいつものルーティンが無い分、こういう時は探すのも面倒ではあるのだが、今日はたぶん、杏と入れ替わりに地下に降りたはずだ。北斗のところに行くふりをして。
 その実は、九条と三条が何を欲しているか見ておきたいのだろう。

 杏の思惑通り、10分もすると不破は北斗を連れて戻ってきた。
「2人は?」
「射撃練習してます」
「そうか」
「朝から晩までやりかねませんよ、アレ」
「朝こっちに顔を出してくれれば問題ない」

 そうか、やはり。
 あの2人は元々暗殺部隊で毎日のように射撃に励んでいたことだろう。それがテロ制圧部隊のE4に放り込まれ、極力犯人の命を取らない方針の剛田の元で、果たしてやっていけるのか。
 杏の脳裏に2人が孤立していくさまが連想される。
 今後、彼らが属するのはテロ制圧部隊のE4。最悪の事態だけは避けなければ。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
 
 それから1週間が経った。
 相変わらず、九条と三条は朝49階に顔を出し、それからは地下に潜って射撃練習を繰り返していた。
 当然、E4メンバーと話す機会も全くと言っていいほど、ない。

 表立って不満の色を見せる訳ではなかったが、総理直轄の暗殺部隊として主に活動してきた彼らにしてみれば、テロ制圧組織として動くE4の面々の日ごろの行いは、「甘い」という一言で片づけられるような貧弱とでも呼ぶべきくだらない側面を持ったものだったに違いない。
 テロ制圧部隊としてのE4が決して結果を残していないというわけでもない。
 ただ、普段の自堕落とでもいうべき生活態度に、常時ピリピリとした生活を送ってきた暗殺部隊の面々に急に慣れろといってもそれは及び難いことだった。
 特にIT担当の設楽とITサブ担当の八朔が、持ち込み禁止のスコッチを飲んでE4室内をうろついていたことが、九条たちにとって自堕落の枠を超えた信頼に値しない勤務態度と捉えられたようだった。
 無論チーフの杏が二人に拳骨を食らわせ酒を取り上げたとしても、それに至るまでの経緯を笑って許せるような九条や三条ではない。
 それは2人の目が物語っている。

 今、チーフとして自分に何ができるのか、何をしなくてはならないのか。
 いや、もう方向性は出ている。
 それをどうやってあの2人に伝えていくのか。
 自分がマイクロヒューマノイドとはいえ、見た目が女だからダメなのか、それとも出自が華族ではないから目下に見られているのか。
 女だ華族でない、と言われてしまうとさすがの杏も頭が痛くなるのは目に見えていた。

 九条たちの件はE4室長の剛田にとっても総合的に頭を抱える問題のひとつだったと思われるが、九条がマイクロヒューマノイドであり、三条も次期健康考査の際にマイクロヒューマノイドに再生したいという希望を持っており、そのようなプラス面を考慮すれば直ぐにでもE4に溶け込んでほしいという願いが剛田や杏の心の内があったのは確かだ。

 どうすれば彼らは49階に上がってくるのだろう。
 剛田から直接注意してもらう方法もないではない。
 だが、表面上はいくらか効くかもしれないが、腹の中ではあの挨拶どおり自分達を暗殺部隊としか考えていないことになりはしないか。
 本当に、どうしたものかと杏は毎日のように考え続けていた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 九条たちの参入により新制E4が発足して10日ほどが過ぎたある日のこと。
 杏は一度思考を深めていくと、周囲が見えなくなる悪い癖がある。
 どうやら今日はその悪い癖が出たようで、杏が気付かないうちに、金沢で毎日のように開かれている会議から戻った剛田が自分で珈琲を淹れて席に着いたことに気が付かなかった。
 珈琲の香りで剛田の到着を知った杏は、椅子に深く腰掛けていた剛田の前に小走りで立ちはだかり、剛田の机の両端に己が手を置く。
「さて、あの2人はどういう立ち位置にするの?」
「今どこにいる」
「地下で射撃訓練してる。この10日間立て続けに。あのぶんだと毎日それがルーティンになりそう」
「紗輝がいなくなって倖田だけになったからな、スナイパーが。あと1人は欲しかったところだからそれでいいだろう。1人も2人も変わらん」
「了解。でも、2人が浮かないようにだけしないとね」
「ああ、それはかなり頭の痛いところだが」

 何か疲れているようにも見える剛田の表情を察知した杏。
「何かあった?」
「E4回線を遮断しろ、ダイレクトメモで話す」
「了解」
 杏はダイレクトメモの準備をするため、着けている時計の右端ボタンを1回押した。
(総理の意向が強く働いてな、朝鮮国との国交断絶が現実味を帯びてきた)
(如何ともし難い状況なの?)
(あの人は一度言い出したら折れない。まして、自分の総理の座を揺るがしかねない大問題にも関わらず、皆内情に丸投げしている)
(内情、内閣情報局?あそこにだってできることとできないことがあるじゃない)
(イエスマンしか近くに置いていないからこうなるんだ)
(暗殺する?)
(言葉が過ぎるぞ)
(あら、ごめんなさい)

 杏は笑ってダイレクトメモを切った。

 国交断絶。
 安室元内閣府長官と壬生前内閣長官が推進した朝鮮半島移民政策=移民推進計画はとん挫することになる。
 当時、合わせ技で達成を目論んだ日本自治国総電脳化計画はお蔵入りとなったわけだが、今の槇野総理は何を考えているかわからない。自分に都合のいいイエスマンだけを国民として残すために、またしても日本自治国総電脳化計画が浮上してこないとも限らない。
 ある意味、槇野総理の方がやりにくい。
 春日井理もマイクロヒューマノイド弾圧などめちゃくちゃな政策をぶち上げて国の基盤を揺るがすような世迷言をやらかしてくれたが、槇野総理は実は小物で、虚勢を張っているだけかもしれない。
 それでも今まで何とかやってこれたのは、内閣情報局通称内情が総理の気持ちを忖度して、これまで上手く立ち回ったからだ。

 そりゃ朝鮮国や中華国からの移民は、国内でも持て余すほどの犯罪集団と成り果てた者も多数存在する。
 だが、目に見える部分だけで国交を断絶してみても、密航者が増えるだけで根本的な解決にはほど遠い。
 果たしてそこには、表立って諸外国に知らしめたい何かをリノベーションする目的があるのか、それとも浅はかで自分ファーストな総理の単なる思いつきか。

 これから日本はどういった方向に舵を切っていくのだろう。
 考えれば考えるほど、杏ですらもため息が出てくる。


「帰るか、五十嵐」
 剛田の声がして、きょろきょろと杏は周囲に目を配った。
 目の前には微笑みを浮かべた剛田が立っている。
 時計を見ると、もう退庁時刻だった。
 部屋にはまだ北斗と不破が残っていた。
 杏は九条たちのことが気になった。
「九条と三条は?」
「もう帰りましたよ。鐘とともに去りぬ、ってやつです」
 帰宅の準備をしていた北斗が静かな口調で杏の疑問に答えた。
 一緒に北斗の言葉を聞いた不破が目の中に炎を宿し始めている。
 それに気付いたのかどうか、北斗は「お疲れ様です」と手短に挨拶したかと思うと早々にドアの向こうへと姿を消した。

 不破が目の中の炎を隠さないまま、誰に向かってでもなく、独り言を発する。
「なんか、これからやってけんのかよ。今ですらこの状態で」
 杏も不安を隠せないところではあるが、ここで言葉にすべきでないことは皆の共通意見だと思いながら不破をなだめるのだった。
「しばらく様子を見ましょう、幸い仕事も入ってないし」
 不破は、やはりあの2人に良い感情を持ち合わせていないのだろう、段々と目を細めて暗に意見しているのがわかる。
「紗輝の後釜だと思えば人数的には足りる。でもさ、紗輝のように個人プレーに走られて困るのはこっちだ」
 それまで杏と不破に背中を向け、二人の会話を聞くだけに徹していた剛田が、不破を諭しながらコートを羽織る。
「不破、そういうな。紗輝はもう亡くなった。死人を貶めるもんじゃない」

 杏も黒い革のライダースジャケットを羽織りながら不破を嗜めた。
「紗輝は不器用な生き方しかできなかったから」
 不破も剛田の言葉を聞き反省の色を見せつつも、どうやら今日ばかりは言わないと気が済まないらしい。
「紗輝のことを引き合いに出したのは悪かったと思ってる。でも、あいつらがE4に馴染んでくれるかは未知数じゃないか」
「まあね、一筋縄じゃいかないかもしれない」

 剛田は先を歩きながら振り向きざまに右手でクイッと飲みのような仕草をした。
「どうだ、付き合わないか」
「あたしたち、飲んでも酔わないのに?」
「だからいいんだ」
 杏も不破も吹き出した。自分だけ酔いたい剛田。
「OK、そこらの屋台でならいいわよ」
「好都合だ」

 3人は室内の電気を消すと、ドアの向こうに消えた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 翌日、朝7時に杏が目を覚ますと剛田はいなかった。
 洗面所や果てはトイレまで開けてみるが、その姿はない。
 何かあれば絶対メモを残していくのに。
 杏は爆睡している不破を起こすため不破の部屋に行き、ドンドン!と大きな音を立ててノックした。返事はない。もう一度、今度はドアを蹴破りそうな音でキックする。
 ようやく不破は目を覚ましたらしく、室内でベッドから転がり落ちる音がした。
「う・・ん。誰」
「あたし、杏」
「どうしたの、まだ早い」
「剛田さん、今日朝早いって言ってた?」
「いや・・・」
「いないのよね、どこにも。メモもないし」
「九条たちのことでE4行ったか、至急の会議で金沢にでも飛んだんじゃないの」

 杏は妙に嫌な予感がして、自分の部屋に駆け戻った。そしてクローゼットを開けると、黒いTシャツに細身のパンツを穿きビビッドピンクのロングジャケットを羽織り、上に黒のロングコートを着込んだかと思うと、不破の部屋の前で「お先っ」と叫んで家を出た。
 ガレージに、剛田の愛車NSXは無かった。
 不審に思いながらマイクロヒューマノイド特有の早い走りでE4の部屋へと急ぐ。
 E4室内や地下の駐車場も探したが、そこにも剛田はいなかった。
 当然ながら、机上にメモもない。

 杏が着いたばかりの午前7時半ごろは部屋の中に誰もいなかったが、午前8時を過ぎるとメンバーが続々と出勤してきた。
 設楽が杏の顔色に気が付く。
「チーフ、どうしました?」
「あ、いや、なんでもない」
 九条や三条は出勤してくるだろうか。
 杏の心配をよそに、2人は連れ立って出勤してきた。
 同じアパルトモンを借り上げたようで、その行動はいつも一緒らしい。どこから狙われてもいいように2人で互いを守り抜いているような雰囲気。
 あの拷問は、三条にとって世の中への見方を180度変えさせてしまったのかもしれない。

 倖田、北斗、西藤、不破。
 皆が揃っても剛田は顔を見せる様子はなかった。

 どうしてだ?
 何の連絡もなく杏や不破の前から姿を消す人ではない。剛田に引き取られたときからずっとそうだった。

 九条たちは直ぐに地下室に降りようとしていたが、杏の困ったような表情に九条が気付き、足を止める。三条だけが最初にドアを開けて廊下に出たかと思うと、そのままエレベーターで地下へと降りた。
 九条は不破に背を向けて、囁くような小さい声で杏に問うた。
 不破に聞こえないように、とでもいうべきか。
「剛田さん?」
「あ、ああ。姿が無い」
「今までこんなことは無かった?」
「思い出せる限りでは一度もない」

 杏の焦りは尋常のそれとは違っていたように見えたらしい。
「じゃあ、探しに行きますか」
「どこへ」
「心当たりがあるんです」
 そこで不破が背後から抜け出し、杏と九条の間に入ってくる。
「僕も行きます」
 どうやら全部聞えていたらしい。不破が地獄耳とは知らなかった。

 九条が出掛けると聞いて、設楽はIT室から大声を出した。
「時計、E4専用ダイレクトメモ用の新品時計できてますよ。こないだのはW4用の時計でしたから。ほら、持ってってください」
 不破がIT室に行き、2人分の時計を設楽から受け取ったが、杏はそれを不破の手から容赦なく取り上げる。
「北斗、三条用の時計ができたみたいだから地下に持ってってくれないか」
 北斗が時計を受け取り地下へ降りようと準備していると、ナイスなタイミングで三条が49階に戻ってきた。待ってましたとばかりに九条と三条を捕まえ、ダイレクトメモの使用方法を説明する設楽。
 いつでも使えるよう、ほとんどの場合、電源は入れっぱなしにしておくのがE4式。
「時計?ああ、僕らも持ってるけど」
「それだとE4向けじゃないんすよ。こないだは準備が間に合わなくてその時計使いましたけど。そっちは思い出にとっておいた方がいいじゃないすか」
 三条は設楽をまじまじ見ると、黙って1回頷き、元々していたダイレクトメモ用の時計を腕から外した。

「ところで、僕も連れてってくれませんか」
 杏に向け発せられた三条の言葉に、不破は大の男が3人も・・・と渋ったが、杏は不破の声など聴かずに三条の手を握ってお礼を言っている。
「ありがとう。どこを探したらいいのか、全くわからない」
 三条も杏の手を握り返しながらシリアスな顔付きで返事をする。
「九条さんに任せましょう」


 それからすぐに4人はエレベーターで1階に降りた。1階で杏と九条が待っていると、GT-Rに乗って現れた三条。
「すみません、こっちは2人しか乗れそうにない」
「いや、こっちの2000GTもそんなもんだ、気にするな」
 不破が急ぎ家に戻り取ってきた車だ。
 九条と三条がGT-Rに乗り先頭を走り、不破と杏は2000GTで後を追う。
 GT-Rは違法改造された車らしく、2000GTでついていくのもやっとのくらい時速が出ている。杏は真剣に悩みながらも可笑しくなってしまった。

 剛田失踪の心当たりとやらを聞くに当たり、九条と三条に配布されたダイレクトメモが使えるか試用してみることにし、杏は二人に向け語り掛ける。
(こちら五十嵐、聞えるか)
(聞こえます、こちら九条)
(ところで、心当たりとは?)
(叔母のところです)
(今はどこに)
(まだ九条の家に世話になっているはずです)
(剛田室長が我々の誰にも言わないで会いに行ったと?)
(何か記憶の鍵が掴めたのかもしれない)
(それならあなたにダイレクトメモくらい残していくのでは?)
(僕らの時計は旧式の物ですからね。先日だってわざわざ皆さんに合わせていただく格好になった。もう寿命だったんです。そして、E4用の新しいダイレクトメモを知ったのは今日の登庁後ですよ)

 毛利市までの4時間。
 九条の言う心当たりとやらは、剛田と美春の関係性。美春に何等かの異状が起きたか、或いは全てを思い出したのか。杏は不破と話をすることもなく物思いに耽っていた。

 ダイレクトメモの試験後は誰も何も話さず、景色だけがものすごいスピードで過ぎていく。
 景色の中には毛利市内の移民居住区も見えてきて、何かバラックのような建物だったり、朝鮮国の旗がたなびいていたり、およそあそこは日本の中なのか?と目を疑うような景観が広がっている。

 移民居住区は山の手のゲルマン人居住区と、下町の朝鮮人及び中華人居住区とに選別されていた。
 山の手にある居住区は建物も立派だし、居住区内で生活を完結できるよう生活圏内には様々な工夫がなされていたが、下町の朝鮮人及び中華人居住区に対しては、そういった配慮はなされていないようで、学校にすら通えない子どももいるとどこかで聞いた。
 杏は下町の風景を目にするにつけ、直視できない自分がいることが恥ずかしくもあり、政局に興味がないとはいえ、何もしない政府ばかりか代案すら示さない内閣府や野党に対し、少なからず苛立ちを覚えるのだった。
 
 九条の実家は、そんな異国情緒溢れる景色とは縁のない、地区の南方向にあり荘厳な建物が立ち並ぶ住宅街の一角にあった。だだっ広い土地の中に、これまた8LDKはあろうかという平屋建ての家屋。
 さすがは元華族である。
 車を降りた九条は、両手を広げて前に突き出し皆に待てと言う仕草で家の中に入っていった。
 5分ほど待っただろうか、九条が1人で家から出てくる。その5分が杏にはとても長く感じられた。
 ダイレクトメモで流れてきたところによると、九条は家族に大勢で来たことを内緒にしているらしい。
(叔母は1時間ほど前に病院に出掛けたそうです)
(剛田さんは?)
(いえ、こちらには誰も顔を出していないとのことでした)
 不破が珍しく会話に参加してきた。
(となると、どう考えるべきでしょうね、チーフ。室長はこちらに来ていないのでは?)
 九条を心良く思っていないからか不破は否定的な意見目白押しで、杏としては、できることなら不破のオンラインメモにスクランブルをかけたくなったほどだ。不破がみなを押さえつけるように続ける。
(最初から方向性が違ってて、剛田さんは伊達市にいる、という線も有り得ますよ)
 不破には悪いが、ここで諍いを起こしてほしくない杏としては早々にこのやり取りを終わらせて欲しかった。
(まあ、そんなに早々と決めつけるな、不破。ここも重要なポイントだ。ここに来てないということを証明してから次に進む)

(病院に行きましょう)
 不破のいうことなどまるでお構いなしの九条の提案で、杏たちは美春が通っているという心療内科を訪れた。
 また、九条が様子を見てくるということで後の三人は建物外で待つことになり、不破のネガティブボルテージはどんどん上がっていく。
 杏に対し、地声で込み上げる怒りを小噴火させている。
「大体、4時間もかかるとこにくるんならメモ残さないはずないって」
「でも自分の意思によりメモ無しで家を出たのは確かでしょ。車も無かったし」
「何かの用で早く家を出て、金沢辺りで会議じゃないの?」
「そういう時はメモが残ってる」
「たまたま忘れたとか」
「それはない」
「じゃ、誘拐」
「それは心配してる。でも家の周りに争った跡はなかった。靴痕も見た。車もない」
「車付きでE4ビルの近くで拉致されたら?」
「それは・・・」

 杏が言い淀んでいると九条が病院のドアを開け、手で丸印を作りながら2000GTに近づいてきた。三条もGT-Rを降り、2000GTの方に向かって速足で歩いてくる。
「ここに来た時、ちょうど付き添いの看護師さんともう1人、年配の男性が一緒だったそうです」
 不破はそれが何だという顔をする。
「それが剛田さんだとは限らない」
「いえね、設楽さんから剛田さんの顔写真入った入館許可証借りてきたんです。それ見せたら、この人だ、って」

 さすがの不破も九条に対する辛辣なフレーズが見つからなかったらしく、むっとしたまま黙り込んだ。
 杏は、ほっとしたのもつかの間、時間的にもう実家に戻ってもいい頃ではないかと考えを巡らせた。
「実家からこの距離なら、もう戻っていても良い頃じゃないのか」
 
 九条は一瞬、眉を(ひそ)めた。
「そうですね、それからの足取りは掴めていません」
「ダイレクトメモで話しかけてみるとするか」
 すると不破を初めとした男性陣は皆、手で×印を作る。盗聴を心配してのことだ。
 不破が何かを考えて腕組みし始めた。
「設楽に連絡して、Nシステムに車がヒットしてないか聞くのが得策では」
「車ったって、剛田さんの車か九条の実家の車かもわからないし、もしかしたら別人の車かもしれない」
 杏は皆の意見を無視して、ダイレクトメモを送ると再度言い放った。
「相手が同じ周波数を使っていない限り、影響はないだろう。これは警察府にしか割り当てられない周波数だ」
「そりゃそうですけど」
 さすがの九条も心配している。
「ハッキングには十分気を付けてくださいね」
「そういった外部からの侵入があればすぐにスクランブルがかかる仕組みだ。設楽は口さえ除けば優秀な男だからな」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


(剛田さん、剛田さん)
 杏は優しい口調で静かに語りかける。
(剛田さん、今どこ)
 返事はない。
(剛田さん)

 しばらく繰り返していたが、返事がない。
 不破は優しい口調の杏など知らないはずだから別人と思われているのだろうと悪態三昧。いや、剛田の前では女らしい言葉遣いだと杏が反論する。
 そんな喧嘩はどうでもいいと不破にやり込められた杏。皆はダイレクトメモを止めろというし、杏自身、ちょっと不安になりつつあった。
 剛田や美春たちが皆まとめて誘拐されていたとして、犯人にこの周波数がバレていたら?
 誘拐されたかもしれない3人はただでは済まないだろう。

 もう1回だけ、それで連絡がなかったらもう止めよう。
(剛田さーん、返事してー)
 その時だった、微かに聴こえた剛田らしき男性の声。
(五十嵐、か?)

 思わず杏は丸印を作って周りの3人に知らせた。周りもダイレクトメモを準備し、杏と剛田の会話を聴きだした。
(今どこ)
(わからん、高速にいるのは確かだ)
(何に乗ってるかわかる?車種)
(年代物の黒いセンチュリー)

 杏は低い声で不破に命令する。
(不破、設楽に連絡。年代物の黒いセンチュリーをNシステムで追え。それと、毛利市にあるはずの赤のNSXも)
(了解)

 不破はすぐにE4にいる設楽に連絡を取った。設楽がNシステム検索を起動させ、全国を視野に入れ車種と色を入力する。
 3分もしないうちに、毛利市から金沢市に向けて高速道を走っている年代物の黒いセンチュリーが見つかった。
 剛田は九条家界隈まで自力で行ったのだろう、その際、九条の実家と病院を結ぶどこかの地点で何者かに捕まり、センチュリーに乗せられ高速道路に入ったと考えられる。
 センチュリーは、もうすぐ毛利市を出て金沢市に入ろうというところのようだった。
「行くぞ!不破!」
「僕たちも」
 2台の車はセンチュリーを追うためにギャギャッとタイヤを鳴らしながらカーブを曲がり、アクセル全開で高速道へと向かった。

 GT-Rは信じられない程速いスピードで高速道路を駆け抜けていく。
「マジ、すげえ」
 車に関してはちょっとうるさい不破が褒めている。
 こうして段々距離を詰めてくれれば杏にとっても嬉しいことなのだが。

 杏は九条にダイレクトメモを送る。
(犯人は生け捕りにする。いいか、犯人は生け捕りだ。きっと誰かがバックにいるはずだ)
(叔母や剛田さんに危険が迫ったらどうするんです)
(その時は私が犯人に引導を渡してやる。他の者は生け捕りに回れ。これは命令だ)

 九条も三条も返事をしない。
(返事!)
(了解)
(はい)

 納得していないという気持ちが声に現れていて、今後のE4を投影しているかのようなシーン。
 これは、とてもじゃないが一筋縄ではいかない。
 暗殺部隊は総理の影。どうすれば彼ら2人を暗殺部隊というしがらみから魂を解き放ち、光を当ててやれるのか。
 E4だってたまに暗殺に回るときもあるが、任務の殆どはテロの制圧。国民を危険から救い守ることにある。
 杏は決して、テロ制圧が光だと思っている訳ではない。
 ただ、暗殺部隊という闇を背負った2人を、闇という砂の城に置き去りにすることなどあってはならない。だからこそ、剛田は敢えてE4への異動を内申したはずだ。
 2人を本当の意味で救うには、何が一番効果的なのか。
 
 杏の思いは其処にあり、不破の荒い運転で身体を左右に振られながらも、その荒さが全然気にならないほど深く考え込んでいた。
 
 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 高速道を爆走しながら、杏たちの乗った車は金沢市に近づいていく。
(設楽、今向こうはどこにいる)
(金沢の市道に入ったようです。マップ送りますか?)
(頼む)

 設楽からダイレクトメモを通じて送られてきたマップには、金沢の要所要所にあるNシステムとその番号、地域名がアップされている。設楽オリジナルだと本人は得意顔だ。
(今何番だ)
(金沢市街19番で最新の映像確認できました。段々スピードが落ちてきているのでこの辺がアジトかもしれません。廃屋、ですかね)
(引き続き映像解析してくれ)
(了解)

 どうやら犯人は剛田や美春を町はずれの廃屋に連れ込む気らしい。設楽オリジナルのマップが顕著にそれを物語っている。
 金沢は九条たちの方が知っているかもしれない。総理からの直接命令などもあっただろうから。途中から命令主は安室元内閣府長官に代わったようだが。
 春日井元総理はそれも面白くなかったのだろう。それでW4はお取り潰しとなり、一部の人間は拷問に耐え兼ね警察を去った。
 九条はマイクロヒューマノイドだったばかりに2年間の逃亡生活を余儀なくされた。逃亡したのは九条だけではなく、杏や不破も同じ。
 春日井の総理としての道筋が見えなくなったとき、杏も不破もどれほど安心したことか。
 杏が昔のことを思い出している間に、九条たちの車と杏たちの車は1軒の廃屋の前に着いた。
 設楽のマップどおり。設楽はお喋りさえなければ本当にいい仕事をする。
 杏たち4人は音がしないようにドアを開け車外に出ると全員が銃を手に、ゆっくりした足取りで廃屋の中へと踏み込むのだった。
 
 すると突然、廃屋の奥の方で乾いた音の銃声が鳴った。

 九条と三条は走り出そうとしたが杏に止められた。
(皆、私の後について私を援護しろ) 
 顔を(しか)めながら銃声のした方向へ走り出した杏。後ろから男性陣が援護する。
(1台のセンチュリーに乗れる人数は決まってる。犯人は大した数ではないはずだ、見つけたら手足を狙え)
 九条が反論ともとれる意見を述べる。
(でも、今ので誰かが怪我したかもしれませんよ、射殺の許可を)
(その許可は現場を見てからだ)
(一瞬の判断の遅れがいたたまれない状況を齎す結果にもなりかねません、射殺の許可を)
(九条。言いたいことはわかるが犯人なんぞ後からどうにでもできる、今は剛田室長と美春さんを救うことを優先に考えろ)
(でも・・・)
(私と不破がこれから奥に進む。九条と三条はここで待機。犯人が逃げ出そうとしたら足を撃て。カメレオンモードのロック解除は私が行う)
 九条との押し問答が続く中、杏たちの目の前に広がった風景があった。
 剛田が美春の前に立ち、犯人と対峙していた。
 剛田の脇に、ひとりの女性が倒れているのが見える。
 犯人は2人。
 剛田も犯人も、杏たちには気が付いていないようだった。

(行くぞ!ロック解除!)
 プログラムに組み込んだ指揮系統から命令があった場合はオートロックが自動的に解除され、即座にカメレオンモードになる。
 指揮系統のチーフである杏の命令で、杏と不破は即座にカメレオンモードになった。杏は九条と三条も自身の命令でカメレオンモードになると思っていたが、オーバーホールしていないことに気が付きハッと息をのんだ。
 まさか2人の姿が見える状態で犯人の前に出てはいまいか。
 急いで周囲を見渡すと、4人とも姿が見えない。九条と三条は各自の判断でカメレオンモードになったのだろう。

 湿った臭いのする廃屋の中で倒れていたのは、付き添いの看護師と思われる女性だった。杏が急ぎ駆け寄る。出血は多少なりとはあるものの、良かった、まだ息はある。
 九条と三条の姿がどこにあるか心配ではあったが今はそちらを考えている時ではない。剛田たちの安全を確保することだ。
 杏がゆっくりと犯人の1人の前に立って肩と手足を立て続けに撃ち、不破も杏同様にもう一人の犯人の目の前に立って肩と手足を1発ずつ撃った。
 2人の犯人は動けなくなり、そこに蹲った。

 杏が設楽に救急搬送をするよう指示する。
(設楽、消防に3名分の救急依頼をしろ。地元警察も呼べ。場所はお前のマップどおり廃屋の中だ)
 犯人が動けなくなると、杏と不破はカメレオンモードを解き犯人に手錠を掛けた。九条と三条もモードを解き近づいてきた。
 剛田は4人を見て安心したのか、肩の力を抜いたように見えた。美春を庇っていたのだろう。立ち位置ですぐに判る。
 九条は優しい口調で剛田に問いかけた。
「大丈夫でしたか?剛田さん。叔母様も」
 九条の問いかけに剛田は頭を掻いた。
「済まない、美春さんをこんな危ない目に遭わせてしまって」
「ご無事なら何よりです」

 杏はちょっとおかんむりだった。
「なんで美春さんのとこに行く、ってメモ残さなかったの」
「本当に済まない。美春さんから手紙で連絡があったんだ。全てを思い出したから2人で話したい、皆には知らせてくれるな、と」
「本当に思い出したの?」
「いや、誰かの企みに乗せられてしまったらしい」
「美春さんは何も思い出していなかった」
「そうだ。ところで」
 頭を掻きながら話題を逸らす剛田。
「五十嵐。よく私が毛利市に来てることが判ったな」
「九条さんの勘」

 杏が剛田とやり取りしている間、九条は美春をハグして自分のことがわかるかと問うていた。
 美春は残念そうに首を横に振る。
 ただ、美春はカメレオンモードを解いた杏の方をしきりに気にしていた。
 目が輝き、まるで娘だとでもいわんばかりの表情で。
「どなたかは思い出せないのだけれど、前にお会いしたことがあるわ」
「どこで会ったか覚えていますか?」
「ううん、それはわからない」

 九条に代わり、杏が美春の肩を抱いた。
「とにかく、一度外に出ましょう」
 万が一、犯人の仲間がここにくることを考えて4人で剛田と美春を囲みながら廃屋を出ようとする杏たち一行。不破は心配げな顔つきだったが、先頭は九条と三条に任せた。
 廃屋の外の明るさが眩しく感じられたちょうどその時。
 パン!!
 また、ピストルの乾いた音が鳴る。
 杏と不破が盾になり剛田達の前に出て、剛田と美春を守る。杏たちの前にいる九条と三条が廃屋を最初に出てしまう格好となり、今更ながらに杏は先頭二人に対し強い違和感を覚えた。
 まさか。
 すると突然、武器をもった犯人らしき人間が前方から2,3人現れた。こちらに向かって話しているのはどうやら朝鮮で使われている言葉。

 それは一瞬の出来事だった。
(おい、待て!!)
 杏が発したダイレクトメモの言葉が空回りするかのように、九条が相手の胸に弾を1発当て、犯人の仲間であろう1人がもんどり打って後方に倒れた。
 三条も九条が発射したすぐあと杏の許可を得ずに1人の脳幹に発射、相手は膝を落とし前に倒れた。
 あとの1人は、不破が手足を撃ち抜き射殺には至らなかった。
 他に犯人がいないのを確認した杏が倒れた男たちに近づき2人の脈を計ったが、もうどちらも息は無かった。
 

 不破は怒り心頭に発したようで、九条たちの前に回り込む。
「なんで許可も得ずに射殺するかな」
「あの場合、僕と三条が何らかの事情で守れなくなったら剛田さんと美春さんに危険が及んでしまいますから」
「実際に君らは無事で、僕とチーフが剛田室長たちを囲んでたでしょうが」

 杏はこれからのことを考えつつ、美春を毛利市に置くこと自体に賛成の意を表さなかった。
「少なくとも伊達市に来てもらって、安全な住まいを提供しないと」
「五十嵐の言う通りかもしれない」
 剛田も最初は杏の考えに賛成したが九条の実家ではそれを許さないとのことで、実家からのお達しを九条が剛田に説明すると、腕組みして自分としての考えを押しとどめたようだった。

 そう。

 美春は九条が近くにいるからと伊達市のホテルに移った直後に行方不明となる事件が起こり、見つかったのは400km以上も離れた毛利市だった。
「あの謎が解明できない限り、毛利の家では叔母を手放そうとはしないでしょう。ここにきて、またこういう事件に巻き込まれたわけですし」
「じゃあ、あたしがSPとしてE4近くに家を借りる。そして毎日一緒に暮らす。あたしの顔は覚えてるみたいだし。それならどう?」
 九条は黙って考えを頭の中で纏めているように見えたが、それを言葉にしようとしていない。少なくとも杏にはそう見えた。
 少しは杏のプランに興味を示してはいたのだろうが、返答に値するほどのプランではなかったのだろう。その様子を見ていた不破の怒りは頂点に達したらしく、九条に掴みかかろうとする。杏の怪力で不破を押し込めなかったら、今頃九条は2,30mほど投げ飛ばされていたかもしれない。
 杏は不破を宥めて九条の返事を待った。
 プラン以前の問題を九条は気にしていた。
「今日の犯人は、朝鮮語を話してました。やはり以前誘拐したのも朝鮮国にいる人間でしょうね」

 朝鮮国か。
 逢坂美春として夫と一緒に海を渡ってから20年余り。
 その中で夫の逢坂は亡くなり、美春は朝鮮国の中で1人生きてきた。
 苦楽を共にした夫との別離(わかれ)、異国で独り生きる哀しさ、辛さ、寂しさ。
 それらすべてを飲みこんで美春は生きてきた。
 剛田の助言や融資に頼るところもあっただろう。
 せめて剛田のことだけでも思い出してほしい、それが杏の願いだった。

 空にはオレンジやグレーの色が差し込み、もう、日暮れ時に差し掛かろうとしていた。
 2000GTとGT-Rに2人以上乗るのは無理があるので、九条と杏と美春が1台のタクシーに乗って先導し、金沢市の警察府御用達のホテルに泊まった。
 ここはセキュリティがしっかりしているので警察府の人間か、その家族でないと泊まれない。九条は美春を実母と書き込み杏と一緒のツインルームを取った。
 他の4人はシングルルームでツインルームの近くに部屋を準備してもらい、よもやの事態に備える。

 食事はルームサービスでと主張する九条だったが、そのルームサービスのボーイに扮した敵が現れない可能性もゼロとは言えない。
 本来、一切のリスクを冒さないのがE4の手法であり、杏のポリシー。たまにわかっていながらリスクを取るときもあるが、それは他に手立てがなく、テロ制圧を早急に解決するために必要な場合のみだった。
 今は美春を守るのが第一に優先すべき事であり、リスクを冒す必要などどこにもない。
「食事は夕方6時に。4人で迎えに来て。1人でも欠けたら事件があったと見做してここからは出ないことにするから」
 杏のスキームに皆が賛成し、夕方6時まで杏は美春と一緒に部屋でのんびりと過ごすことにした。
「美春さん、何か飲みませんか。お茶とコーヒー、紅茶、どれにします?」
「そうね、久しぶりにマッコリが飲みたいわ」
「マッコリ?朝鮮国のお酒ですね。ルームサービス兼SPに頼んでみましょう」

 各部屋にいる者たちとはダイレクトメモを通じて話すことにしており、皆ON状態にしている。
 杏は不破にダイレクトメモを飛ばした。
(おい、不破。マッコリとミックスナッツルームサービスで持ってきてもらえるかどうかフロントに聞け。で、そっちの部屋に運んでからお前がこっちに持って来い)
(そんな言葉遣いしてると剛田室長が泣きますよ、チーフ)
(大丈夫だ、室長から一旦時計を預かっているから向こうには聞こえないはずだ)
(やれやれ)

 15分も経った頃か。
 不破がマッコリ2人分を運んで部屋に現れた。
 カメラ付インターホンの画像をわざわざE4にいる設楽に解析させて、100%不破ならドアを開けるという念の入れ様。
 目的の物を入手すると、不破をお払い箱にしてドアをぴしゃりと閉める杏。
 公務中とは言え、ついつい不破も地が出てくる。
(酷くねー?ありがとうの言葉もないわけ?)
(あ、忘れてた。ありがとう、不破君)
(取ってつけたような礼だな)
(細かい意見はあとで聞く)

 不破もマッコリと聞いて朝鮮国の酒だと気付いたはずだ。
 杏が飲みませんかと勧めたのは部屋の冷蔵庫に入っていたものだったが、美春はそれらを飲みたいとは言わなかった。
 たぶん、美春が大好きで一押しの酒なのだろう。
 瓶のマッコリを小さなグラスに注ぎ入れ、美春は乾杯、とグラスを杏の方へと近づける。
「乾杯」
 口元にグラスを傾ける美春。杏は飲まずにグラスをテーブルに置いた。
 直ぐに飲み終えた美春は、首を傾げた。
「美味しい。でも変ね、どうして久しぶりに飲みたい、なんて思ったのかしら」
「朝鮮国に関わるお仕事とか、もしかしたら旅行先で飲んだのかもしれませんね。いずれ朝鮮国に関わりがあったのかも」
「そうね、あなたは飲まないの?」
「実は下戸でして」
「そうそう、マイクロヒューマノイドだものね」

 美春はハッと目を見開き、杏をじっくりと見つめる。
「あなたのことだけは、なぜか思い出せるの。前もこうしてホテルの中でお酒を飲んだわ」
 杏は柔和な表情を浮かべ、美春に問いかけた。
「そうです、正解です。それがいつ頃かは思い出せますか?」
 美春はしばらくグラスに目を落していたが、次第に苦しそうな表情に変わり眉間に皺をよせた。
「ごめんなさい、やっぱり思い出せない」

 夜のディナーと朝の軽い食事を済ませると、剛田は不破とともに毛利市に戻り、設楽がシステムで見つけておいたNSXを取りに向かった。
 時間制駐車場で埃を被りつつあった赤のNSXに乗り込んだ剛田は、2000GTの不破を残しE4へと先に向かった。
 その間も、杏と美春はホテルで待機していた。
 これからどうするか。
 杏のプランは受け入れてもらえそうにない。
 九条と美春が一旦毛利市の実家に戻り、複数のSPを付けるよう九条が実家に提案することで話は纏まった。
 九条たちが毛利市に向かうためハイヤーを呼ぶと、三条はひとりGT-Rに乗って伊達市を目指してホテルを出ていき、残りは杏と不破だけになった。

 杏が2000GTの助手席に乗る。
「少し飛ばすぞ」
 そういうと、不破は思いきり2000GTのアクセルを踏み込んだ。

第2章  核の脅威

 不破が荒々しく運転する車の中では、杏が身体を左右に振られながら不破の横顔を見ていた。
「ご機嫌斜めね」
「そりゃもう」
「九条と三条?」
「そう。あのシチュエーションで射殺とか有り得ない」
「仕方ないわ、身体と思考回路が洗脳されてるようなもんだから」
「俺たちの方が絶対正しい」
「見る角度によって変わるモノだってわかってるでしょ、本心では」

 杏の言葉を聞いた不破はそれ以上、語ろうとはしなかった。
 九条と三条。彼らには彼らなりの流儀があり、たまたまE4と平行線を辿っているだけで、どちらが正しい方法なのかなど永遠に見つかりはしない。
 それは杏も頭では理解できていたが、魂で嗅ぎ分けるのはかなり難しいと感じていた。

 伊達市に着いた杏たちは、2000GTをESSSビルの地下に置き、地下通路で隣のビルに入る。いつまでも来ないエレベーターに苛立ちを隠さない不破。
 杏は何も言葉にすることなく、不破の肩を揉みながら49階まで上がる。

 E4では、またしてもいつもの光景が広がっている。
 
 杏はIT室に入り、居眠りしている設楽に拳骨をかまして声を掛けた。
「設楽、よくやってくれた」
 飛び起きた設楽は、相手が杏だと知るとふうっ、と溜息を洩らす。
「室長たちを救えたとあっては、光栄この上ないっす」
「寝言か?」
「いえ、本心ですよ」
 
 杏たちより先に毛利市を出た剛田は、金沢辺りに立ち寄ってから帰路に就いたらしい。昼を過ぎてから剛田がE4戻り、そこから1時間遅れで九条と三条もE4に戻ってきた。
 剛田は椅子に座りながら、九条たち2人を呼び止めた。
「九条、三条、一連の働きに感謝する」
「いえ、半分は私事でしたので」
「君の勘がなければ美春さんはどうなっていたかわからない」
 九条は瞬間、眉をピクッと上げながら平静を保とうとしている。
 気付いたのは、たぶん杏だけ。
 勘という言葉がお気に召さなかったのか、他に理由があるのかは分からない。

 九条と三条の二人は、剛田に断りをいれると、また地下に潜ってしまった。
「もぐらじゃあるまいし」
 クールが売りのはずの不破は、すっかり小言ばかりの舅状態と化している。
 剛田に聞えないように、杏はぶつぶつ言ってふて腐れている不破にそっと耳打ちした。
「まあ、そういわないで」
 

 そこに、ESSS本部から1本の内線電話が入った。
 剛田は電話を受けながら徐々に眉間のしわが深くなり、言葉も少なくなっていく。まるで息を止めて話を聞いているかのようで、室内に緊迫感が流れる中、電話が終わった瞬間剛田は大きく息を吐きだした。
 目を閉じ黙りこんでしまった剛田の元に近づいた杏は、自分と剛田の分の珈琲を準備した。
「室長、何かあった?」
「まあ、あったと言えばあった」
「じゃあ、無かったと言えば無かった?」
「いや、無くはない」
「じゃあ、あったんだ」

 剛田は九条と三条、北斗を地下から呼び戻すよう杏に告げると、また、椅子に深く座り直して皆を待つ。
 地下組が49階に姿を見せると、剛田は電脳を使うよう皆に命令した。
 
「皆、電脳を繋いでくれ。北斗には後程レクチャーする」
 各々が、耳たぶ部分についているアクセサリーを1回、強く押す。イヤホン型の線がアクセサリーから伸び、その線を耳の鼓膜に押し当てるという初期型の電脳線で、現状に照らしてみればかなり旧式の電脳パターンではあったが、小脳を弄り電脳線を小脳に繋ぐ新式のパターンと見栄えが変わっただけということもあり、E4では今も遜色なく任務を熟せている。そのため、新型に変えたいという申し出は未だ無い。
 九条と三条は小脳から出る電脳パターンを使用していたが、彼らと電脳が繋がらないというデメリットも無いため、電脳線の形体について剛田は無駄に身体を弄らない方針を採っていた。

 北斗は今も全身電脳化も義体化もしていない。
 厳しい状況に陥るときが無いと言えば嘘になるが、北斗は今の仕事に誇りをもって生きている。電脳化しないことにより、スパイとして潜入できる場所は山ほどある。
 今日も電脳での打ち合わせが終わったら、剛田から直接レクチャーを受ける。その方が伝言ゲームにならずに済む。


 さて。剛田から告げられた懸案事項とは。

「槇野総理がな、日本でも核実験に伴うミサイル発射を行うと諸外国に宣言したらしい」
 メンバーは一様に驚きを隠さなかった。
 こういうとき、一番先に口が動く設楽。
「だって今じゃ各国が廃止の方向で発射場を閉鎖したりしてますよ。どうして世の中の流れに逆行するようなことを宣言したんでしょうか」
「そうだな。朝鮮国、中華国、北米辺りはもとより、世界中から猛烈な反発が予想される」
「そりゃそうですよ」
「内情側からの言い分としては第3次大戦が起こる前に北米で流行った、北米ファーストの考えを踏襲しているとのことだ。先日北米で行われたG8の会議で日本ファーストを貫く所存であると明言したそうだ」
 剛田は、この話題に関する質問は受け付けない、というように手を広げた。
 この上まだ一つ二つ何かあるのか。
「その発言を受け、諸外国は日本に向け再再度のミサイル発射準備に入ったとも噂に聞く」

 さすがの九条や三条も苦笑いするしかない。
 普段は不破や九条と並びポーカーフェイスの部類に入る三条も呆れてものが言えないという顔つきに変わり剛田を見る目が完全に泳いでいたが、すぐにまた瞳に炎を宿した。
「万が一日本海側の居住区にミサイルが落ちてきたら、今度こそ日本は終わってしまいます。日本の太平洋側を上空から見てくださいよ。二度と核爆弾は御免だ、って思いますから」
 剛田は初めて自分の言葉で話した三条の意見を聞きながらも、小刻みに溜息を吐いていた。
 これからのミッションを想像するだけで頭が痛いと言ったところか。
「海外視察に来る各国の自治体議員団などは多いが、皆、対岸の火事という雰囲気が蔓延している。観光旅行としか見えない。いつどうなるかなんて誰にもわからないのにな」

 九条がフフフ、と笑った。
「いくらE4でも、撃たれてしまったミサイルの弾道までは制圧しきれないでしょう」
 剛田は飄々とした表情で応える。
「撃たれる前に行って制圧すれば問題ない」
「え?室長、真面目に言ってるんですか?」
「命令次第だ」
 剛田の微かな笑みに、世界のどこであれ、日本に向けた不当な動きがあれば制圧がなされることを知った九条。

 だが、先日の事件以来、剛田と杏の間には九条たちに関するひとつの約束事項があった。
 2人が事件及び暗殺対象の人間をいとも簡単に射殺することを優先する限り、カメレオンモードは使わせない、というまさにシンプルな考え方。
 暗殺主体の人間がカメレオンモードを使用できるということは、銃を向けられる側に対する人間としての尊厳を著しく奪ってしまっていることと同義であり、それはよほどの事情が無い限り、例えば人質をとって今にも殺しかねないといったケースでなければ認めらないということになる。

 そう考えるとあの毛利市の廃屋での事件では一見九条たちが正しいようにも思えるが、あのケースは杏と不破がいたため、射殺作戦を実行に移す意味が無かった。
 不破が後から激怒したのも理解できる、と杏は考えていた。
 射殺優先の作戦を採りなんら迷いなく実行する限りは、カメレオンモードは使わせない、時計はとりあげる、と厳しい方法を採らざるを得なかった。


 E4が成り行きを注視する中、北米と朝鮮国が今までG8の枠組みから離れて国交を樹立していたのは確かで、北米は、事実上中止~空中分解していた米朝軍事演習を再開すると日本に通告してきた。
 日本の核の脅威が世界的に広まった証拠だとも言えよう。
 しかし、同時に地球規模で経済制裁に踏み切るとされた日本国民は日本の食糧自給率が前年度マイナス10%になると聞き、不安を募らせていた。

 昨年の食糧自給率が40%台スレスレで、30%台まで落ち込むとメディアで取り上げ、毎日のように騒がしくしていたからである。
 この経済制裁では、主に食糧をストップさせるという噂が流れ、各地で経済制裁詐欺とも呼べる動きが加速し、食糧の取引金額は倍近くに膨らんだが、それでも食料品を扱うスーパーなどでは長蛇の列ができた。
 日本にいた朝鮮国や中華国の人間は、正規のルートに則った移民でない者も多かった。彼らは食糧を入手する方法が無く、最終的にスーパーを襲撃・破壊し食料品等等、何もかも奪っていくのだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


「槇野が何やら素っ頓狂なことを考え付くのは仕方ないとして、内情や内閣府は今の今で何をしてるんだ?」
 朝から活字新聞を見ている杏が新聞を応接椅子に放り投げた。
 北斗はそれを拾い、丁寧に折り畳んでから1面を見始める。
 槇野首相の核実験発言に関連し、経済制裁が各国から次々に発動されることがどの活字新聞でも1面を飾っている。経済制裁の項目として取り上げられたのは、やはり食料品だった。会社を休んでスーパーに並ぶ男性が増える情景が目に見えるようだ。

 マイクロヒューマノイドは一般人が口にするような食物では無かったし、腹が減る、栄養が偏るというデメリットはないので比較的冷静に対処していたようだが、世界一良かったはずの一般人のマナーもここまで。
 朝鮮国や中華国のように真夜中のスーパーなどに忍び込む輩が増えたが、それらは全て朝鮮国及び中華国の人間が行ったこと、と真実を曲げて騒ぐメディアの連中。

 真実を曲げざるを得なかったその裏側には、内閣府及び内閣情報局からの猛烈な圧力だったことが透けて見えた。
 なぜ隠したのか、なぜ外国人のせいにするのか。
 これらについては一般人に知らされることも無かったが、内情が諸外国と非公式に協議を続け、槇野首相にミサイル発射を思い留まらせる代わりに、食料品の経済制裁を解く方向で調整していた、という筋書きで日本人の謙虚さを前面に出したかったらしい。

 核の脅威を消し去るには、槇野首相のミサイル発射発言の撤回が必要になってくる。
 人に頭を下げるのが大嫌いな槇野首相は、今回も内情のトップに頭を下げさせた。
 諸外国にしてみれば、誰が頭を下げるかによって日本という国の本気度を見極めたい狙いもあったようだが、槇野首相の態度は決して諸外国の関係者に歓迎されるものではなかった。
 むしろ誠実でないとして、経済制裁を強めようという国すらあったくらいだ。その急先鋒が中華国だった。
 中華国は北米との関係こそ最悪だったが、ロシアとの結びつきは強固で友好条約も締結しており、ロシア周辺からの移民受け入れは何を置いても優先させていた。だが、キャパを超えた受入は真綿で首を絞めるような形で国をどん底へと落としていく。
 現在の中華国の為体(ていたらく)は、そこを見定める人間が誰一人としておらず、ましてや責任を押し付けあうその国の、個々人の体質にあるのだろう。

 朝鮮国はそのような親密な国もなく、一時期は噂された北米との結びつきも強固なものにならないまま、米朝軍事演習を再開するという話も宙に浮いた。
 北米としては、日本に対するあてつけの意味もあっただろうし、自国の本気度を否応なしに見せつけるつもりだったはずが、組む相手が朝鮮国というだけで北米国内では反発されデモ行進が起きたという。
 朝鮮国の非道の数々、嘘の数々を北米の国民は忘れていなかった。

 結果、日本は各国の核の脅威からその身を守ったことになる、とメディアはこぞって報じたが、それは全く逆で各国に飴を与えたようなものだった。
 そもそも、核の脅威ではなく経済制裁という別物が日本を襲う寸前で助かっただけのことであり、日本にとって核を持ち続ける限り避けて通れない問題が浮き彫りになった出来事だった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・◇

 E4専用のカメレオンモード化のオーバーホールはまだまだ先の話としていたが、取り敢えず三条をマイクロヒューマノイド化するオペが国立第2科学研究所の一室で行われた。
 今ある肉体はほとんど損傷していないため第2科研は全身義体に難色を示したが、三条の強い希望で身体中が義体に交換されていく。
 最終的に、残されたのは頭部分のみ。三条は眼も交換したいと言い出した。
 しかし西藤や倖田の例でも分かるように、目の義体交換は軍隊に入隊した場合やスナイパーとしてライフル銃を扱う任務等に限られており、好んで交換をすることはないと杏がいうと、自分はスナイパーになり現在1人で担っているスナイパーの倖田を補助したいという。

 三条の言葉に嘘はなさそうで、杏はしばし悩ましい時間を持つことになった。
 だがE4にいる剛田に連絡を入れてみると、紗輝の後任としてスナイパーが欲しいのは事実であり、三条さえオペの承諾書にサインしてくれれば直ぐにでも倖田を通じて練習時間を作る、とのことで、杏にしてみればそれ以上は何も言えなかった。
「剛田室長からOKが出た。あとはお前の承諾だけだ」
「任せてください。元々銃の扱いには手慣れてますし、目標物を撃ち落とす訓練も怠りませんでしたし」
「倖田に指示を仰げ。ライフルにはそれなりの動きもいるだろう」
「承知しました」

 そうして、全身義体のスナイパーがE4に誕生した。
 寡黙な倖田は多くを語らなかったがやはり嬉しかったようで、三条を連れて一緒に地下に潜り込んだりビル群に出て目標物をどれくらいの射程距離で撃つかなど、様々なことをレクチャーしている。
 三条も始めこそ黙々と働く倖田の前で大人しくしていたようだが、段々と打ち解け、ライフルの話などで盛り上がっているようだった。
 
 九条が49階にいる時間も増えた。
 三条のいない地下はどうやら寂しいらしい。今は北斗がちょっとした仕事でE4にいないからバグやビートルの世話もいいぞとけしかけてみるが、乗ってくる様子はない。
 基本、無口で仕事中はほとんど冗談も言わないが、オンオフの切り替えだけは早い九条は、オフになると杏を質問攻めにする。するといつの間にか不破が混じっていて、杏の答えを不破が九条に伝える、といったおかしな関係が続いているのも確かだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 核問題がようやく落ち着きを見せたのが1か月後の5月末。
 その頃、四季が無くなった日本ではあったものの季節は昔でいうところの夏に向かっていたところだった。
 心地よい風が頬をすり抜け、緑に包まれた街路樹はさわさわとざわめく。

 新制E4ではこの時期と9月、事件さえなければ2人ずつ1週間、交互に休んで鋭気を養うのが通例となった。
 今回の休みは、設楽と八朔、倖田と西藤、九条と三条、北斗と不破の順で日程が組まれた。
 ただ、北斗が急ぎスパイとして槇野首相に近しい筋の国会議員秘書として働きだしたので最後まで残っていた不破は杏と組むことになった。
 剛田は杏とかち合わないように最初に休むと言いながらまだ休んでいない。剛田はいつもそうだ。休む休むと言いながら休んだ試しがない。

 車の旅行は不破の運転が荒くて楽しめそうにないと杏が愚痴るため、今季は新幹線に乗り福岡市に旅行することにした。途中、毛利市に立ち寄り美春の様子を見てくるのが杏の休暇の条件だったと言ってもいい。
 杏も久しぶりの休暇かもしれない。
 一旦事件が起きると徹夜で3日や1週間仕事が終わらないなどザラ。
 中間管理職のチーフでさえも仕事は休めない。
 どこでも相場が決まっているものだ。

 今週休む九条と三条は毛利市に里帰りし、美春の様子を見たり、昔のW4時代の仲間とともに酒を酌み交わしたりと有意義な1週間を過ごす予定らしい。一条の墓参りにも行くと聞き、杏は花を手向けてくれるよう九条に願い出た。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 剛田は今日も会議で金沢市に飛んでいた。
 杏にとっては頭が空っぽになるくらい何もない日々だった。
 この日々を有効に使わなければ、と反対に気合が入りすぎる。
 珍しく杏は白いタイトスカートを穿き白いTシャツにベージュのジャケットを羽織ってゆったりとした雰囲気を漂わせて活字新聞を見ていた。
 そこに、八朔が大きな声を出しながらバタバタとE4室内のドアを開け、飛びこんできた。
「モ、モニター」
 もう息が上がり声に出すことさえできなくなっている。
 
「どうした、八朔」
「とにかく、モニター」
 急いで西藤がモニターのスイッチを入れた。
 そこに映し出されていたのは、新幹線の映像だった。

 ニュースによれば、札幌から福岡に伸びる新幹線の毛利市駅近くで、包丁を持った男が乗客に襲いかかっており、列車が毛利市駅に緊急停車したというものだった。
 男は包丁の他に凶器は持っていなかったが、その凶器で滅多刺しにされた女性が1人心肺停止のままその場所に倒れ、他に、首などを切られ重傷を負った男女が2人いるとの情報だけは入ってきたが、他に情報が入らない。
 そう言えば、この新幹線は九条と三条が乗る予定だった。
 あの2人のことだから、もし犯人と対峙したらすぐさま射殺して事件の全容を迷宮入りにしてしまうだろう。

 案の定、九条からダイレクトメモが来た。
(チーフ、ニュース見てます?)
(ああ、見ている。その新幹線に乗っているのか?)
(はい、残念ながら)
(お前たち、変な気を起こして犯人を射殺するなよ)
(誰かが犠牲になっても?)
(手か肩を狙えば相手は凶器を持てなくなるだろうに。そして逃げられないよう、足を撃て。たまには命令に従ったらどうだ)
(たまには、って。従わなかったのは美春さんの件だけですよ)
(そうだったか?)
(今日は大丈夫です、信じてくださいよ)
(とにかく、どうしようもない状況になったとしても手足を撃って終わらせろ。絶対にE4とは気取られるな)
(了解)

 まあ、何を言っても聞きやしないだろうが、言わないよりはマシか。
 正義のヒーローになることも大切だがW4やE4は世に存在しないはずの機関。何か事件に巻き込まれて警察沙汰となり、マスコミの餌食になるのも困る。
 その辺りのさじ加減が微妙なラインを保ったまま、E4は現世に存在している。
 頼むぞ、九条、三条。
 元は暗殺部隊だったお前たちのことだ、人知れず手足を撃つことで犯人をその場に留め置き、警察に引き渡すことなど朝飯前だろう。お願いだから犯人の脳幹を狙うのだけは止めてくれ。

 杏は心配しながらも、手も足も出せずにニュース情報をみているしかなかった。


 ニュース情報では、犯人は凶器を振り回し誰も近づくことができず、警察でさえも手を(こまね)いている状態だった。
 杏なら獣用の麻酔弾を肩に撃ち込みそのまま眠らせるところだ。
 テロ制圧という目的のために手段は何でもありの今の世で、犯人を殺さず人質を助けるには、麻酔弾にて手足を撃つというのは、世界を通してしばしば用いられる手法でもある。

 毛利市にあるWSSSでは特にそういった手法を用いることなく、地元警察に任せて、手を出す気も無いようだった。
 設楽もIT室から出てきてモニターを見ていたが、WSSSは意気地がないと口にして暗に批判していた。W4が無くなった今、WSSSとて作戦を実行に移す部隊がなくなり口惜しい限りだろうが、ここまで被害を広げたのでは如何ともし難い部分もあるだろう。

 地元警察が犯人の説得に失敗し膠着状態が何十分と続く中、突然犯人の男が両手を上に挙げ凶器の包丁を放り投げたかと思うと、後ろに倒れ込んだ。
 警察や機動隊の連中が雪崩をうったように倒れ込んで犯人を取り囲み、ようやく取り押さえるのがモニターを通して日本中に流れる。
 犯人は脳幹を撃たれ即死だった。
 救急隊が入れ替わりに列車内に入り、怪我をした男女を車内から救急車に運んだが、滅多刺しにされた女性だけは心肺停止の状態でブルーシートを掛けられ車外に出てきた。
 そしてもう一つのブルーシート。犯人が最後に列車から降ろされていくものとだ思われた。

 
 銃の音がしない中での逮捕劇。
 誰かが車内の喧騒に紛れてサイレンサー付きの銃を使ったものと思われた。
 E4で皆に支給している銃にはサイレンサーが付いている。テロを制圧する際に音がするとマズイ場面にちょくちょく出くわすからだ。
 そうなると、九条か三条が車両内に入ったのかもしれない。

 杏はこちらから九条たちに向けダイレクトメモを送った。
(捕まったようだな)
(そうなんですか?僕たち、車両が別なのでニュースが流れないと進捗状況がわからない)
(そうか?じゃあ、WSSSで解決したのかな)
(あそこはこういった事件で動く機関ではありませんよ、あの人たちが考えるのは身内の体裁だけだ)
(手厳しいな)
(2年前、嫌と言うほど思い知らされましたから)

 杏は強制的に話題を変えた。九条の思考回路は2年前にタイムスリップしたまま、いつまでも動く様子が無さそうだった。
(撃ったのがお前たちでないのなら、長居は無用だ。早く脱出して本来の行程に戻れ)
(了解)

 ニュース映像はずっと新幹線内で映像を繰り返し流していたが、警察に取り囲まれた犯人の他、2回、警察隊の脇に髪の毛が明るい栗色の背の高い妖艶な美女が立っている映像が流れた。
 最初その手に銃を確かに持っていたのに、次の瞬間には何も持っていなかった。一連の映像を組み合わせ現場の再現を構築するに、犯人を撃って始末したのはその女性で、あの緊迫した場面で犯人の脳幹を1発で正確に撃ち抜き即死させたものと推察された。
 
 事件が射殺という形で終わりを告げると、当該新幹線に乗車していた乗客は別の新幹線や代替バスに乗り現場を離れていった。
 事件現場の周辺が沈静化していく中、警察の発表資料が事前にどこからかマスコミにリークされた。
 包丁を振るったのは住所不定、無職、福嶋丈太郎、25歳。
 福嶋は女性1人を殺害し、男女2名への殺害未遂の罪で逮捕されたのだが、この時、何者かに脳幹を撃たれ即死した。警察では被疑者死亡のまま、今後も捜査を進めるという。
 もう一つ、リークされた内容の中に目を見張るものがあった。
 新幹線内で銃刀法違反の罪に問われた女性がいた。
 警察隊の脇にいた女性だろうか、彼の女性の名はナオミ・ゴールドマン。
 女性は毛利市で勾留されるとの速報が1回だけTVで流れたが、速報は一回きりで何回にも渡り流れることはなかった。

 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
 

 あくる朝。
 剛田は金沢に行くとだけ告げて、朝早く家を出た。
 また会議か。
 不破が欠伸をしながら杏を起こしに来た。
 どちらかといえば低血圧に近い様相の杏は朝起き抜けが一番機嫌が悪い。
 なのに、今日は化粧まで済ませているといって不破が杏をからかう。
 それにも動ずることなく不破をやり過ごしている杏。

 杏はあの事件以来、妖艶女性が何となく気になっていた。
 まさか銃持ちながらの観光・・・いや、それこそ飛行場で金属探知機に捕まって日本には入れないだろう。
 なら、どこの誰?
 考えられるとするならば、FBI。
 FBIなら銃持っていても変じゃないし、今は身分証明書さえ出せば飛行場でも通してくれる。なぜ新幹線に乗っていたかは不明だが。
 杏の考え事をよそに、不破は楽しそうに口笛を吹きながら洗面所へ行き、口笛を止めずに髭を剃っている音が洗面所から漏れ聞こえる。
 器用だ。

「乗ってく?」
 不破の声が聞こえないでいた杏。
「おい、乗ってくか」
 不破の怒りボルテージはちょっとしたことで上がっていく。九条たちがE4に配属されてから、クールな不破はどこかにいった。
 その代り、うるさい舅みたいな不破が降臨した。
 これがこいつの本性なのか、とさえ思ってしまうほどだ。不破本人に言わせると「全然変わってない」むしろ大人になったというのだが。
 自分が思う自分と他人が思う自分は、全く別なのだなと杏が痛感した出来事でもある。

 乗っていくかと聞きながら、乗らないと答えれば怒る不破を前に杏はちょっとした面倒さを感じてはいたのだが、今日はE4に剛田がいないとなれば早く行かねばなるまい。
 不破の怒涛のアクセル急発進さえ我慢すれば早くE4に着く。
 杏はOKの返事をして、車の助手席に乗り込んだ。


「おはようございまーす」
 いつでも明るい設楽がE4室内に入ってきた。
 この挨拶を聞くと、気分が滅入るときがある。ちょうど今日の杏は気分が滅入り気味だった。
 九条たちが昨日まで休みをもらっていて、今日から登庁する。
 果たして彼らはステップアップしてE4に慣れるよう努力をしてくれるだろうか。
 実際、九条も三条も、赴任当初に比べれば49階にいる時間も増えた。

 だが、コミュニケーションという垣根はまだ高いのか、他の連中と仲良く話しているのは見たことがない。

 “職場は仲良しグループじゃない”
 それが杏の口癖でもあるわけだが、仲良し以前に相互理解の気持ちがなければ、いざという時の議論は平行線を辿ることが多い。
 E4では普段からメンバー同士が仲良く話すわけではないが、いざとなれば仲間を救うため全力で任務にあたる。
 スパイ任務の北斗の救出などがそのいい例だ。
 仲良くお仕事するわけではなく、お互いを心から認め合って考え方にも理解を示す、こういう大人のお付き合いができる組織、それがE4だ。

 ただし、今回の場合、不破が自らそのお付き合いを止めようとしているのが心配でもある。
 杏は、口うるさい舅になってどうする、と家に帰るたびに説教ともなんともつかない話を不破にするのだが、一向に収まる気配はない。
 ああ、頭が痛い。そう言いながらいつも杏は痛み止めの薬を探す。
「今は頭痛薬ないよ。つか、僕らが飲んでも効くわけない」
 ふふん、と鼻を高くする不破のその鼻をポキッと折ってやりたい気分に駆られる杏。
「それなら金輪際舅めいた真似はよして。そうすれば治るから」
 
 不破は杏の言葉を脳内変換しているのか知らないが、自分が誰かに悪いことをしている、という意識が無いらしい。
「俺が誰に何したっての。杏こそおかしいでしょ」
 クールガイだった不破からは程遠い現在。
 こうなってくると、剛田から言ってもらわない限り、治らない。剛田が注意したところで、脳内変換してしまえば治すのはもう無理に近い。
 不破の脳ミソを正気に戻す一発逆転劇でもないものか。


 杏は今日も気が滅入っている。気が滅入ったままサーバーからカップに珈琲を移していた時のことだった。
「あ」
 並々と溢れかえる珈琲の量。
 やってしまった、注意散漫な証拠。
 杏はカップに口を近づけるが、熱くて飲めない。
 そう、杏は猫舌である。
 首から上はオーバーホールしていないので、小さな頃からの猫舌はいつまで経っても治らない。
 益々滅入る、今日この頃、である。


「みな、集まれ」
 杏が珈琲とトラブルを起こしていたちょうどその時。
 少し低めに剛田の声が二度、聞こえた。
 いや、実は高く言い放ったつもりが、珈琲と格闘していた杏には聞こえなかったのかもしれない。
 杏は珈琲メーカーの傍に零さないようにそっとカップを置くと、一番前に小走りで出た。
 
 剛田の隣には、背が180cmはあろうかという大女、失礼、スレンダー美女が立っていた。
 
 どこかで見たことがある。
 最近のことだ。
 杏は近頃の考え事が何だったのかすっかり忘れていた。そして杏お得意の脳内人物整理が始まった。今日は女性編。ぐるぐると色々な女性の顔が脳内に浮かび、蠢いては消えていく。シーン分けで、オン、オフ、そしてテロ制圧と女性の顔が流れていく。
 ことのほか、時間がかからずこの女性を思い出すことができた。
 新幹線での包丁男に発砲し事件を解決した女性だ。
 どうしてまた、E4に。
「先日の新幹線内殺人事件、覚えているか。あの際事件解決に尽力してくれたナオミ・ゴールドマンだ」
「ああ、一度だけ速報流れたけど」
「あれは当局のミスでな。間違った情報がそのままマスコミに流れた」
「銃刀法違反のこと?名前のこと?」
「銃刀法違反の話だ」
「じゃ、本名なのね。大丈夫なの?全国的に名前知れちゃって」

 女性は青い目を(しばた)かせながら杏をじっと見た。5秒ほど、両者は(まばた)きもせず相手を見つめ続けた。
「OH.あなたがアンね。よろしく」
「名前の心配してるのだけど」
「大丈夫、偽名だから」

 偽名、ナオミと名乗る女性は杏よりも大きな口を開けてアハハと笑い、メンバー全員に握手を求めてきた。
 英語は一言も使わず日本語だけで対応してくる能力の高さ。
 これは、安全安心が売りの日本に滞在しているただの女性警官ではないだろう。
「で、どちらからのお客様?」
 剛田の顔を見た杏。
 その質問に対し、剛田は一度咳払いをしてから皆を見回した。
「ナオミ・ゴールドマン。ま、偽名でもなんでもいい、ここではそう呼ぶことにする。彼女は北米CIA Central Intelligence Agency、中央情報局に所属している。今回、留学を兼ねて日本に来たんだが、あの事件で一時警察に勾留されてな、皆への紹介が遅れた」
「兼ねて、っていうことは」
「そうだ、E4メンバーとしてテロ制圧に加わることになる。留学終了時期は今のところ未定だ」

 目の前にいるこの女性は、杏を困らせる存在になるのか、それとも明るい未来がここに生まれるのか。
 サイレンサー付きの銃を携行している留学生か。
 銃携行して旅行なんぞ有り得ないし、何かしら目的を持って日本の中を移動していたはず。
 興味というよりは、心配の種になりそうで杏は頭を振ってその考えをどこかに吹き飛ばそうとした。

 ナオミの紹介が終わると、三条は、倖田に教えを請うためライフルを持って地下室に降りた。
 九条はいつもどおり誰と話すわけでもなく、自分の席で活字新聞を読んでいる。
 北斗が帰ってくれば、九条の相手をしてくれるのだろうが、その北斗は今、E4の中で一番忙しい。
 繁忙期といえば誤解が生じるが、スパイとしての情報収集は今が最も盛り上がっている時期であり、こちらに顔を出す時間は取れないと思われる。
 現在、槙田総理の周辺で人気急上昇中の国会議員秘書として働いている北斗の任務に差し支えないよう、こちらからは連絡を控えていた。
 
 西藤はいつもどおりソファに寝転がるし、設楽と八朔はIT室で遊びだした。
 ナオミの相手は、必然的に杏か不破の役目となる。
 ただ、何か事件が起こった時や剛田がいないときは杏が皆を取りまとめるので、お客様のナオミまで気が回らないかもしれない。
 その辺を心配したのだろうか、剛田はナオミのパートナーとして不破を指名したあと、金沢の警察府で会議があると言って席を立った。
 
 不破は九条のことなど忘れたかのように、いつものクールな不破に戻ってナオミを各施設に案内し始めた。
 
 良かった。うるさい舅の不破が消えた。
 神様ナオミ様。
 名前なんてこの際どうでもいい、感謝します。
 杏自身も、これで安心して任務を遂行できると、日常を取り戻した気分になるのだった。

第3章  日朝中間国交断絶宣言

 不破がナオミの相手をしてE4の部屋を出ていた時、九条の席に近づいて隣の空いていた席に座った杏。
「今日は地下に降りないのか」
「毎日射撃訓練も飽きが来ますね、昔は1ケ月続けても3ケ月続けても平気だったのに」
「そりゃ昔よりも精度が上がったからそう思うんだろう」
「まあ、WSSSでの会議とかなら剛田室長のカバン持ちで毛利市に飛びたいところですけど。今は活字新聞読んでる方が落ち着きます」
「カバン持ちの件は、今度剛田さんにリクエストしてみよう」
「ところで」
「なんだ」
「ホントに剛田室長がいなくなると言葉遣いが変わりますよね。僕はどちらも好きですけど」
「不破に聞かれないようにしろよ。あいつは舅のようにぐちぐちうるさい」
「気にしてません、大丈夫です。ありがとう、気を遣っていただいて」
「あいつも元々は冷静なやつなんだけど」
「不破さんとのお付き合いは何年になります?」
「剛田室長に拾われてからだから、もう10年は超えたな」
「あなたは10歳で拾われた。不破さんは11歳だったと記憶していますが」
「よく御存じで。ただし、私は不破の本当の年齢はわからないんだ」
「あの研究所は決してあなたたちを人間として扱ったわけでもなかった。以前のマイクロヒューマノイド掃討作戦で国内にあった国立科学研究所は焼打ちに遭い壊れてしまった。でも、それでよかったんだと僕は思っています」
 杏は剛田に会うまで、研究所でいつも膝を抱えていたことを思い出した。

「貴方はいつマイクロヒューマノイドに?」
「僕は5年前にW4が創設された時です。1体は必要だと言われ、まあ、健康体だったんですが全て義体化してマイクロヒューマノイドになりました。一条も心臓だけは義体化していたんですが、あんな事件に遭ってしまった」
「あの時は・・・。私たちが犯人を捕らえたところで一条さんは亡くなられてしまったし」
「でも、最後は僕のしたいようにやらせてくれた」
 杏は笑っていいのかわからず、九条から目を逸らしてしまった。
「これからは命令が無い限り一発勝負はしないこと。でないと、カメレオンモードとダイレクトメモできる時計、取り上げる」
「僕のカメレオンモードはオーバーホールしてないだけで、W4の時から使ってましたよ。暗殺するには必要な武器ですからね」
 フフフと目だけ笑う九条。
 そのうち、不破とナオミが戻ってきたが不破は九条に一瞥をくれたきり、杏の顔も見ようとせずナオミと談笑していた。

 は?
 いや、談笑するなとは言わない。
 別に誰と仲が良くても構わない。
 九条を無視するのは昔からの平行線的な考えがあるとして。
 が、あたしを無視って。
 どの面下げてチーフを無視してんだ、あんたは。
 1人で任務を熟してるつもりなのか?

 カチーン。
 ブチッ。

 杏の頭の中で、何かが切れる音がした。
 剛田には心配をかけないようにするが、不破には反省してもらわなければ。
 あたしを無視した挙句、女といちゃいちゃするだと?
 断じて許せん。

 退庁時間となったが、剛田はまだ戻ってこない。
 ダイレクトメモで帰っていなさいという指示もない。
 今日は剛田にひとくされ言いたくて、杏は剛田の帰りを待つことにした。
 皆が杏に挨拶をしてE4室から出ていく。
 不破は相変わらずナオミと一緒で、これから伊達市内を案内するのかもしれない。杏に挨拶もないまま、不破とナオミは部屋を出ていった。

 もう家に帰ってくんな、バカヤロー。

 地下から上がってきた三条と倖田も帰り支度を始めていた。
「帰らないんですか」
 九条が不思議そうに杏を見つめている。
「今日は剛田室長の帰りを待とうと思ってる」
「じゃあ、僕も一緒に待ってもいい?」
「帰る方向が反対では?」
「構いませんよ、三条、先に帰っていいから」
「はい、九条さん」
 倖田は無口だが挨拶はきちんとしていく。三条とのやりとりの中で、九条に対する苦手感も薄れてきたのかもしれない。
「チーフ、九条さん、お先に失礼します」
 杏は少し嬉しくなって倖田と握手したい気分になる。
「ああ、ご苦労だった。気を付けて帰れよ」
 
 部屋の中には、九条と杏の二人になった。杏は活字新聞を読みながら、珈琲を淹れ直して飲んでいた。ついでに、といえば言葉が悪いが、九条の分までカップに注ぐ。
「どうぞ」

 杏から珈琲をもらい、最初に口を開いたのは九条だった。
「変だと思いませんか」
「何が?」
「ナオミのE4入りです」
「留学と言うくらいだから、CIAのお遊びなのでは?」

 九条の考えは杏とは少し違っていた。
 今日の事件のニュース映像を見る限り、いくら背が高いとはいえ、遠くから客の間を縫って狙ったとしても1発で脳幹に命中するわけがない。
 ということは、カメレオンモードで近づいた可能性が高い。
 現在、全世界的に通常の警官レベルではカメレオンモードは使用できなくなっており、各自治国の軍隊、その中でも暗殺部隊と呼ばれるクラスがその役を担うことが多いと言う。

 杏にしてみれば、世界的なことまで考える余裕すらなくひた走ってきたのは確かで、九条の言うことは尤もだと思った。
「E4はテロ制圧と言う時間との勝負があるからカメレオンモードも使っているけど」
「そうなんですよ。となれば、彼女は北米で、軍隊、暗殺部隊、あるいはテロ制圧部隊の任務のどれかを熟していたことになる。でも、軍隊に所属する人間ではない」
「それなら不思議もない。テロ制圧部隊の任務を熟してきたと考えれば」

 九条は指を振り、杏の考えを暗に否定した。
「CIAにそんな部署はありませんよ。あるのは、隠してはいるけど暗殺部隊だけだ」
 杏は首を傾げた。
 なぜ、北米の暗殺部隊かぶれが日本の秘密機関に出向してきたのか。
 九条は、WSSSあたりでW4が解散したことを知り、今度はE4に身を置いてターゲットを見定めているのだろうと。
「どういうこと?」
 話の本質が見えないでいる杏に、九条はひとつの方向性を示した。
「直感的に言えば、彼女は北米自治国に敵対する指導者の暗殺を請け負っているのではないかと」

 それでも杏は、なぜ日本にきたのかが納得いかなかった。こんな弱小国、手に入れて何になる。
「なぜ日本に」
「答えは簡単、暗殺対象がこの国にいるから」
「誰」
「総理でしょう」
「えっ、あんなの死んだところで何の得がある」
 九条としてはそういった考えではなく、北米に与しない国を血祭りにあげる一環として、まずトップの暗殺を考えるだろうということだった。
「日本は第3次世界大戦の犠牲となったわけですが、あの時に北米との不可侵条約を破棄して中立国を選択しました」
「それ以来、北米とは何ら与していない」
「そうです」
「まさか、それだけのことで暗殺すると?」

 北米でも水の底に沈んだ土地がたくさんある。一方、北米の内陸部はほとんど被害もなく海岸部からの人口の流入で、今まで死地と化していた町が賑わってきている。
 だが、北米の内部地域にある工場から海岸部へと続く水道関係を整備したのは、憎き相手として戦闘を繰り広げたロシア自治国。
 そのロシアは、地殻変動と地球温暖化で今まで氷結されてきた北から北東地域に掛けて緑が戻り、天然ガスや油田、その他様々な燃料が噴出するエネルギー国家となった。
 北米が居住地域を大きく失くしたのとは反対に、ロシア国内では地震等で居住不可となった地域はあるものの、北東地域に人口が流出したことで、国家として大きくバランスを崩すことなく現在に至る。
 ゲルマン民族ではロシアに移住を希望する者も多く見られたが、第3次世界大戦で失われた国家間の障壁はそれを許さず、誰もがロシアに移住できたわけではなかった。
 20世紀から21世紀にかけてロシアと友好条約を結んだ国の住民のみがロシアの地を踏むことができたのである。
 ロシアに居所を失った連中が中華国に流れた経緯があり、今の不均等な体制が作られていると言っても過言ではない。

「とすると、最終的にはロシアを狙った暗殺劇が起こらないとも限らない。でもその前に、北米に逆らった日本の上層部を血祭りにあげてロシアに宣戦布告する可能性は大きくあります」
「また戦争?」
「言葉のチョイスがまずかったかな。地球政府が禁じている戦争ではなく、ロシアの基盤を壊すぞ、という北米としての一方的なストーリーが存在しているのでは」
「助けてもらっておいて随分と自分勝手なストーリーだこと」
「北米は、かつての自分ファースト時代を忘れられない。あのトランプ時代の自分勝手なストーリー、歴史で習いませんでした?」
「お恥ずかしい限りだが歴史は私の頭にインプットされていない。小さな頃はバトルの方法くらいしか習ってないんだ」

 九条は寂しげな表情をしながら杏の近くに寄ってきた。
 そして、ストレートパーマを掛けたばかりの杏の、長いサラサラとした髪を2度、撫でた。
「辛い過去を思い起こさせてすみません」
「もう辛いことは忘れてこれからを生きると剛田さんとも約束したし」
「そうですか、ならいいけど」

 そこに、目を丸くした剛田が入ってきた。
 自動ドアの向こうから杏と九条の姿が見えていたらしい。
「お前たち、こんな時間まで何しとる」
 杏と九条は途端に離れて机二つ分くらいの距離を置く。
「いや、あのね、剛田さんを待ってたの」
「どうして」
「不破に言ってよ、九条さんには冷たく当たるくせに、ナオミには鼻の下でろーん。それって酷くない?」
 剛田が珈琲を淹れながら右手にカップを持ってくすくすと笑い出した。
「何をやきもち焼いてる」
「違うわ、やきもちじゃないって」
「そうか?俺にはお前と不破が互いにやきもち焼いてるようにしか見えないが」

 九条も頷きながら剛田に賛成している。
「確かにそうですね、普段はお2人とも冷静なはずなのに、不破さんは僕を見ると鬼のような顔をするし、チーフはナオミが来てから情緒不安定ですよ」
 剛田がアハハと声を上げて笑った。


 E4を出て九条と別れ、剛田と杏が一緒に帰宅すると家に不破は戻っていなかった。目を吊り上げる杏に剛田がピシッと注意する。
「五十嵐。お前もチーフとして皆を平等に見ろ。不破の怒りも分からんではないだろう」
 剛田の言葉に杏も頷き些か反省の色を見せたが、まだまだ怒りは収まらない。
「毛利市で九条チームが暗殺主体で動いたのは本当だし、口を出したくなる気持ちは理解できるわ。でも、だからと言って無視したりチーフのあたしを飛び越えて意見や指示したりするのは不破が間違ってない?」
「チーフとしてお前がすべきことをすれば、不破の小言も減るさ。不破はお前が九条や三条に甘いと思ってるような節もある」
「甘いつもりはないんだけど」
「さ、もうおやすみ。不破には声を掛けるが、お前自身も反省しなさい。わかったね」

 剛田が着替え始めたのでそそくさと部屋を出た杏は、自分の部屋に行くとジャージに着替えた。
 何かあっても外にこのまま出られる格好で杏は寝ている。
 ここに来たばかりの頃から、いつもそういう格好をして剛田の帰りを不破と一緒に待った。
 そう、自分と不破は似た者同士。
 不破も九条に嫉妬しているのかもしれない。杏に対し、帰ってくるなバカヤロー的な思考でいるのかもしれない。
 剛田や九条の言うとおり、自分はナオミに嫉妬しているのかも・・・いや、それだけはない。
 杏は化粧を落としシャワーを浴びると、ベッドに潜り込み何も聞こえないようヘッドホンで音楽を聴きながら眠りに就くのだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 翌朝。
 剛田の姿は家の中になく、テーブルにメモが置いてあった。
「無断外泊の不破に注意してくる。お前は普段通りの出勤時間で構わない」

 剛田の言葉通り、普段通りの時間に家を出た杏。
 薄水色の曇りない空には何台ものヘリコプターが飛び交っていた。

 何があった?
 難事件の発生なら、E4に連絡が入るはず。
 剛田や杏の元に何も連絡がないとすれば、その手の問題では無かろう。
 杏はE4までの片道20分、(そぞ)ろな胸騒ぎを覚える中、足取りを速めるのだった。

「おはよう」
 速足で歩いてきたので、少しだけ息が上がっている杏。
 E4への自動ドアが開くと剛田と不破を探したが、2人とも姿が見えなかった。ナオミの姿も見えない。
 はて、地下にでも降りてバグやビートルの前で説教くらってんのかしらと思いつつ、極力そこは表に出さず、いつもどおりといえばいつもどおりの表情で自分のデスクに向かう。朝には珍しく、モニターが金沢市内と思われる場所を映し、ざわめくマスコミの姿が見て取れる。
「設楽、何かあったのか」
 こういうときは情報通の設楽に訊くのが一番早い。
「槇野首相が朝9時から国益に係る重大発表するってんで、どこもかしこも民間のヘリが飛び交ってますよ」
「ああ、それでか」
「ね、チーフ。重大発表って何だと思います?」
「私に聞くな。私は槇野じゃない」
「僕はね、朝鮮国に関することじゃないかと踏んでるんですよ」
「お前らしいな、朝鮮国大嫌いな設楽君」
「語弊のある言い方は止めてください。どこに盗聴器があるかもわからないんだから、この建物は」

「お前のいうとおりかもしれない」
 杏は設楽から視線を外しながら小さな声で自分だけに聞えるように呟いた。

 杏が出勤して30分。
 剛田たちは一向に姿を見せない。E4室内では午前9時の重大発表を前にマスコミがいきり立つ様子だけがモニターを通して見えてくる。

 と、モニターが、総理ではなく、内閣府の宗像補佐官を映し出した。
「これから槇野総理の談話が発表されます」
 その言葉だけで宗像補佐官は姿を消し、次の瞬間には槇野首相の姿がモニターに映し出されていた。
「国民のみなさん、おはよう」
 槇野首相の声が上ずっている。槇野の地声を知る数少ない者の1人である杏としては、こりゃ相当緊張しているんだろう、と思わざるを得ない。
 今まで宗像補佐官か内情の連中だけを表に出してきたからな。
 自分から何かをはっきりと発信することの無かった槇野が何を話すのか。
 少しばかり興味を引かれないでもない。

 モニターの中で頭を下げる槇野首相。
 して、その口から放たれた言葉とは。
「我が国の国益に沿った方針として、朝鮮自治国及び中華自治国との国交断絶を決意し、皆様のご理解を得たく、来たる6月に国民投票を実施するものであります。国交断絶の折には、現在日本自治国に暮らす朝鮮自治国及び中華自治国の移民の皆様方には、祖国にお帰りいただくことになります・・・。もし、日本自治国に留まる意向の移民の方々がいらっしゃるとしたならば、移民電脳化推進計画に基づき電脳化していただき日本自治国の国益に寄与して頂きたく存じます」

 その瞬間、モニターの前に集まっていたE4メンバーは目が釘付けになった。
 そうきたか。
 総理の腹の中はある程度分っていた。
 槇野はそれまで朝鮮自治国及び中華自治国移民計画推進の旗振り役としてアジア列強に名を連ねる意向を示していたがそれはポーズであり、内心、両国からの移民受け入れにはかねてから反対の意見をもっていると噂が立っていた。 
 それが急転直下、ここにきて方針を180度転換し、目に余る朝鮮自治国及び中華自治国からの移民の行動を重く見た槇野は、両国との国交を断絶することを宣言し、国交断絶、移民の強制送還と言う厳しい態度に踏み切ったのだった。

 確かに朝鮮自治国及び中華自治国からの移民はまともな教育を受けられないばかりか、リテラシーを享受できない当該地域は犯罪の温床と化している。
 それにしても、移民電脳化推進計画などという施策が日本国内でいつのまにか正式に施行されていたという総理の口調には驚いた。
 アジア民族よりは比較的大人しいゲルマン民族が移民として日本の地を踏んだ際には、移民を電脳化し子孫の繁栄を望めない身体にするという移民電脳化を推進し、ゲルマン民族の中でもそれに同意した者だけが避難先の朝鮮国を離れたのであって、それは内々に行われていたはずだった。

 しかし、そういったゲルマン民族の移住時とは一線を画し、方々で争いやテロ紛いの行動に走る朝鮮自治国及び中華自治国の移民を前にし、総理は即座に移民電脳化計画を内外に知らしめ両国をけん制する方策を採った。
 そこにきて国民投票の実施である。
 何か月も前から槇野内閣で温められ極秘裏に進められてきたであろうこのシナリオは、完全に日本自治国がアジアを動かすという趣旨の決意表明であり、両国からの非難は必至かと考察された。

 移民電脳化計画。
 電脳化して移民の脳内を把握することにより犯罪の撲滅に貢献するばかりか、意にそぐわない移民を隔離することで移民居住区にエセ平和を齎すデンジャラスな切り札。
 危険極まりない切り札は最後まで残しておくべきものだ、というのが杏の持論だが、どうやら槇野首相は早々にそのカードを切ってしまったようだ。
 
 この先に待ち受けるのは、天国への階段か、もしくは奈落の底か。

 あらかたの内容が放映し尽くされたところで室内のモニターを消し、設楽と八朔をIT室に追いやる杏。三条と倖田は地下に降り、西藤は睡眠をとる。九条は一度姿を見せたが、今は姿が見えない。久々のルーティン復活かもしれない。
 不破とかち合わなきゃいいけど。
 大人同士なんだからチーフに心配を掛けないでくれと思いつつも、ナオミが来たことでE4に、いや、杏は自分に何らかの変化が起こりそうな気がしていた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 地下に降りた人たちが昼を過ぎても上がってこない。
 もしかしたら、総理談話の伝言ゲームか?
 心配とまでは行かないが、また不破が九条に文句タラタラなのではと懸念した杏はエレベーターに乗り込み地下1階のボタンを押した。

 地下に降りてみると、三条と倖田、九条が射撃練習をしている。
 轟音が響く中、口をゆっくり動かして3人に時間を知らせたが、九条も三条も口を開かなかった。
 倖田が練習を止め、49階に上がろうと射撃場から出るところだったので、杏は倖田を追いかけエレベーターホールに近づいた。
 手で九条たちを指さし、九条たちの考えを杏に代弁する倖田。
「あの2人、槇野首相警護のハイリスク・ノーリターンの仕事が絶対に入るはずだ、と言って練習を始めたんですよ」
「そうだったか。ところでこっちに剛田室長がいなかったか」
「さっきまで不破さんやCIA美女と話してましたけど。室長は1人で上に戻りました」
「不破たちは?」
「バグやビートルと遊んでたかな」

 倖田と別れ地下2階に行くと、不破とナオミがキャッキャと燥ぎながらバグたちに油を注している。
 おい不破、デレデレし過ぎて油注し過ぎるなよ。
 呆れた杏は地下1階に戻り、九条たちをしばらく声も出さず見つめながら、時折独り言を呟き考え事をしていた。

 為替のリスクヘッジじゃないが、日本は今、大きな賭けに出ている。
 国交断絶という世界を揺るがす重い決断。併せて起こす移民の強制送還。
 ゲルマン民族を受け入れる土俵があるのに、そこに朝鮮民族や中華民族が入れないと言うのは理屈になっていない。
 ただ、最後の切り札に使った「移民電脳化計画」を盾にすれば、ある意味での洗脳を嫌がる人間は出てくるだろう。電脳化されてまで隣国で暮らしたくはない、と。
 ゲルマン民族は自分の住む土地を失くし朝鮮国に流れ着いたからこそ、「移民電脳化計画」を受け入れて日本を永住の地と定め、こちらに来た者が多いと聞く。

 槇野首相の内心は本気度100%だろうが、実際、例えば北米などと国家間の足踏みが揃わないことにはこの計画を実行するにはやや無理がある。朝鮮国及び中華国との戦争を視野に入れなければならないからだ。
 ま、あの総理のことだ、これっぽちもリスクなど考えてはいないだろうが。
 国民投票など、たかが日本国民のガス抜きであって投票結果が反映されることは、まずあり得ない。

「おい、おい、杏」
 呼びかけにも気付かないくらい射撃練習の音は大きく、頭に拳骨をくらって初めて杏は顔を上げた。
「何してんだよ」
 仕事場にも拘らず名前呼びで、おまけにチーフに向かって拳骨をかましたのは不破だった。
 ムカッときて杏は不破の右足を踏みつけた。なぜ地下2階にいたはずの2人がここにいるのか、そこまでは見当もつかなかった。
「チーフと呼べ。今日の総理談話、聞いたか」
「あ、悪い。総理の談話?全然。何かあったの」
「上に行って詳細聞いてこい」

 隣からミスCIAナオミが顔を出す。
「OH,だから九条が下に降りてきたのかしら」
「知らん」
 不破はもう一度杏の頭に拳骨を落す。
「“知らん”はないだろう、仮にもE4メンバーだぞ」
 杏はもう、沸騰寸前である。
「いいから2人とも上に行け」

 2人がまた談笑しながらエレベーターの方に歩き出す。
 杏はそれを苦々しく思いながらも、九条たちの練習が終わらないのを見越すと地下を出て49階に向かった。

 49階では、剛田が警察府から呼び出しを受けて金沢に飛んでいた後だった。
 誰も自分に教えてくれなかったことに少し腹が立ったが、ここで怒ってもヒステリックチーフと揶揄されるだけだと思いなおす杏。
 色々言いたい気持ちをぐっと飲み込んで、IT室に篭る設楽と八朔までをも呼び出した。
「全員揃ったか」
 不破がおどけながらまた文句を言っている。
「若干2名、地下で遊んでマース」
「今のは嫌味か、それとも戯言(ざれごと)か?」
 杏の怒りを通り越した冷たい態度に、不破も何かを感じたようで黙り込んだ。

「剛田室長が警察府に呼ばれたところをみると、E4に何か任務が与えられるとみてほぼ間違いないだろう。設楽、八朔、毛利市を中心とした全国の事件情報を手に入れることができるか?」
「消防無線でも盗聴しない限り無理ですよ」
「じゃあ、盗聴してでもいいから事件情報を集めろ」
「ひっでえ」
「ぐずぐずいうな、放り出すぞ」

「ちょっと、メンバーに八つ当たりしないでください」
 不破の言葉で怒りが沸点に達しそうな杏。そこに西藤が助け船を出した。
「あの総理談話見れば情報が欲しくもなりますよ、俺は何をすればいいですか」
「西藤は科研に連絡を入れて予約してくれ。皆、交互にオーバーホールしてもらうように」
「了解」
「残りの者はこれから射撃練習、毎日1人400発」
 ナオミもか、と言う顔をする不破。
「当たり前だ。ナオミは普段から鍛えているようだが、E4メンバーとして働くからには私の指示に従ってもらう」
「ハイ、了解、アン」

「九条や三条には言わないんですか」
 不破が頓珍漢なことを言って場を凍らせる。
 杏の目は、もう血走っていた。
「あの2人が何をしているのか、お前は見てもいないのか、それとも、それさえ目に入らなかったか」
「いや、直接伝えないと分らないと思って」
「九条は総理談話を見た直後から自律的に射撃練習に入った。これがどういうことかわかるか?」
「いいえ」
「不破。お前馬鹿か?」
「パワハラ反対」
「それ以前の問題だろう。チーフである私が何も言わなくても今必要な事を始めた、ただそれだけだ。ここで私に文句を言う暇があったら地下に行って九条以上の練習をしてこい」
 不破は小さな声で了解、と呟いた。
「室長から連絡があり次第、連絡するからみなダイレクトメモで話せるよう時計を付けろ。ナオミの分は早めに作らせる。ナオミ、しばらくは不破と一緒にいて連絡がすぐ耳に入るようにしてくれ」
「OK、アン」


 杏は皆に指示した後、自分の席に戻って大きく息を吐きだした。
 つ、疲れた・・・。
 これまで何度となく任務初動の指令を下してきたことがあるが、こんなに疲れたことなど記憶にない。
 不破の非協力的な態度がこんなにも日常を狂わせるとは思っても見なかった。
 メンバー間の輪を乱すなら、もう出てくるなと言いそうになったが、さすがにそれは剛田に怒られるし、輪を乱しているのは杏自身ということにも繋がりかねない。

「八朔、お前はナオミ用の時計を早急に作れ。西藤、オーバーホールの際にカメレオンモードのオプションも付けてもらうように」
「了解です」

 地下1階の射撃場では、九条と三条の他にも、倖田と不破、ナオミが射撃練習を始めていた。
 そこに杏も混じり射撃練習を開始した。
 
 100発中、99発がど真ん中に命中。
 杏は低い声で舌打ちする。
 今までの練習でミスしたことなど一度もない。
 やはり何か自分の中で昇華しきれていないものがある。
 がむしゃらに練習するのは好きではないが、皆に1日400という数字を出した以上、自分は500発くらい射撃練習をしなくてはなるまい。

 杏は雑念を振り払うようにして、銃を握る手に力を込めた。

第4章  移民受容要求

 剛田は退庁時間になっても戻ってこなかった。
 杏は待とうか帰ろうか迷ったが、九条や三条が退庁していないのに気付いた。
 IT室の2人も今日から徹夜続きだろうということもあり、室内で活字新聞を片手に、槇野首相の国交断絶談話発表文を再度読み返していた。
 IT室では設楽がコンピュータに何かを接続させる音やキーボードを叩き続ける音、八朔が時計を作るために何かを削る音などがこちらまで漏れてくる。
 時計は明日までにできあがるだろう。
 事件情報は、全国どの地域で事件が頻発しているかを図式化するものであり、今後の対応には必要不可欠なものである。設楽がする仕事なら、安心して任せられる。

 問題は、春が来たかのようにふわふわと浮かれている不破だ。
 ダジャレではない。
 万が一テロ騒ぎなどが起こった場合、死人を出さないという条件付きでも九条と三条は仕事をミスなくこなしてくれるだろうが、不破のあの舞い上がり様といったら。
 ナオミにいいところを見せようとして頑張るか?
 いや、そういう問題ではないだろう。
 今の不破が冷静に状況を判断できるのか、それがミスに繋がり下手をすれば相手は死なずともこちらが痛手を負ってしまう。
 最悪、あいつは任務から外すことも考えねばなるまい。

 ナオミはどうだろう。
 不破と同じで冷静になれないだろうか。
 あの新幹線での行動を見る限り、元々は至極真っ当に任務を熟せる力を持っていると思うし、不破を外して1人になりさえすれば現状把握から事後検証まで何も命令せずともやってのける力量はあるように感じる。
 なんのために日本に来たのかが少々胡散臭さも残るところではある。
 昨夜九条が言った通りなら、ナオミの日本留学の目的はやはり槇野首相かもしれない。
 とすると、テロ制圧なら使えるが首相警護の任には向かない、というより、警護させてはいけない人物ということになる。

 
 ああ、頭が痛い。
 不破もナオミも使えねー。

 
 杏が頭を抱えていると、剛田が戻ってきた足音がした。
「どうした、五十嵐」
「ああ、剛田さん、お帰りなさい」
「何かあったのか?」
「ううん、何でもない。そっちはどう?」
「予想通りだ。あの談話を見て、早速総理への暗殺予告が内閣府に入ったそうだ。お蔭で警察府まで駆り出された。明日からE4が槇野首相を警護することになった」
「それでね、問題があるのよ」

 杏は昨晩の九条とのやり取りを掻い摘んで剛田に話した。
「ね、そうするとナオミは警護に付けちゃいけない人物ってことになるわ」
「そうか。今回の身辺警護はお前と九条、三条、倖田、西藤に頼む方向で検討しよう」
「不破はどうするの」
「ナオミの身辺警護に当たらせるさ」
「お願い、何もないとは言い切れないもの」
「それより五十嵐」
「何?」
「槇野首相はワンマン総理と呼ばれている。振り回されても我慢しろ」


 翌日午前8時。
 E4の5人はオスプレイに乗って伊達市の飛行場を飛び立った。
 剛田と不破、ナオミは今回、お留守番。
 不破からは“どうしてだ”という不満が口を吐いて出たが、ナオミを危険に晒すことはできないという剛田の見解及び命令で、2人は伊達市に残った。

 金沢市の内閣府に到着したのが午前8時半。
 内閣府では宗像首相補佐官が烈火のごとく怒っている。
 任務開始の1時間前には内閣府に着きレクチャーを受けるべきだというのである。でなければ別の部署に頼んだのにと嫌味たらたらの宗像補佐官。
 杏は平身低頭で謝罪する羽目になった。
 早速振り回し、1回目。

 何とかその場を乗り切って、マルタイである槇野首相に会うと、踏ん反り返ったただのオヤジだった。
 これがまた、解りもしないくせにSP業務に口を出してくる。
 お前は“ここ”に立て、お前は“そこ”に立って俺の身代わりに撃たれる役目だ。お前は・・・。
 身代わりに撃たれる役目だと?
 “そこ”に立ったのは倖田だったが、平時からほとんど顔色を変えることの無い倖田がさすがに目つきを変えた。
 振り回し、2回目。
 総理様であることは皆知っているしそれなりのSP体制で警護するはずが、槇野首相の鶴の一声でどこからでも狙いやすい布陣にしてしまっている。なんともバカらしい。

 相手が誰であろうと正しいこと正しいと主張してきた杏にとっては、これがまた頭を悩ませることとなったが、九条と三条は槇野首相の思いつきで代えられた布陣に立ち、一言も話さずアイコンタクトも取らず黙々とSP業務を熟すのだった。
 
 杏は、自分のしてきたことがある意味間違っていたのかもしれないと改心するシーンが多々あった。SP業務では九条や三条のように相手を守ることが最優先で、警護についている間は自分というものを押し殺さなければならない。
 やはり、W4のように総理直轄の暗殺部隊は鍛え方が違うのか。

 槇野首相が演説を行う金沢市内の会場に着き、やっとE4は一時その身が自由になった。演説会の会議場では、金沢市の警察からSPが付くのだという。
 E4では内閣府から会場までの往復を警護するだけなので、暫しの自由時間ができた。
「切れそうだった」
 杏が言っちゃいけないと思いつつ口走ると、倖田と西藤が大きく頷く。
「今までの我儘マルタイの中でも群を抜きますね」
「九条さんたちは、頭に来ないんですか」
 九条がにこやかに笑う。
「それが警護だから」
 三条も警護には慣れているような素振りでここでようやく九条とアイコンタクトを採った。
「こういうマルタイは多いですよ」

 杏も色々な場所でSPとして働いたが、今までこういった我儘放題の警護は初めてだった。今回の警護は、想定外。気を遣わないと言ったら嘘になる。
「午後に向けて鋭気養わないと」
 杏は演説会場の輪から抜け出て、大きく深呼吸をしながら周囲に目を配った。
 
 なんだか空気が違う。
 ピリピリと張り詰めたものが会場周辺を覆っていた。会場に出入りする者たちから殺気は感じられない。辺りを見回しても殺気を漂わせる人影は見えない。
 だが、何かが杏の魂を揺さぶり覚醒させようとしている。
 これは・・・まさか、狙撃?

 となれば、槇野首相の演説終了時、皆が動き出し会場の外に出る瞬間が一番の狙い時か。
 演説中は何人ものSPが槇野首相を取り囲んでいる。
 
 どこからどこまでが金沢の警察府からSPが付くのか、主催者の考えが今一つこちらに伝わっておらず、次第に杏の口はへの字型に曲がってきた。
 杏はダイレクトメモで皆に知らせた。

(何かおかしい、皆狙撃に注意して業務を熟せ)

 会場内に走って戻った杏は、主催者から、演説終了後の槇野首相の立ち位置などを細かく確認し、またダイレクトメモで皆に伝えた。
(このとおりに歩いてくれれば大丈夫とは思うが、あの天邪鬼(あまのじゃく)のことだ。進路を変えるかもしれない)
 西藤がこらえきれないように時計に向かって溜息を吐いたのが分る。
(俺は一旦右側のそでに移動します)
(頼む)
 倖田は観衆の中に狙撃犯がいるかもしれないと言って、カメレオンモードになり舞台の上に上がった。
(特にここからはそういった臭いは感じません)
(そうか。私も会場に出入りする者からそのような空気は感じなかった)

 三条からも連絡が入った。
(会場から出て、どこからがE4の警護になるんですか)
(主催者からは建物から出る時からだと聞いているが、あてになりゃしない)
(では、こちらもカメレオンモードになって会場のドア付近で待機します)
 九条も三条と同じ位置に立つと連絡が来た。

(まったく。最初から最後までSP業務の方がまだ楽だな。余計気を遣う)
 杏の愚痴めいた言葉に九条が釘をさした。
(こういった警護はよくある話なんですよ、チーフ。とにかく無事に警護を終わらせましょう)
(そうだな、愚痴を言っても始まらん。皆、総理が車に乗って内閣府に着くまでよろしく頼むぞ。各自のタイミングでカメレオンモードになってくれ)
(了解)

 演説は終盤に差し掛かり、会場がいくらかざわつき始めた。
 杏がカメレオンモードになって槇野首相の前に立とうと移動を始めた時だった。

 乾いたような音で1発の銃声が会場内に鳴り響いた。
 驚き悲鳴を上げる来場者たち。
 金沢市のSPに守られた槇野首相は、演説を途中で止め、肩を震わせてその場に(うずくま)った。
 人にあれこれ指図する割には、小心者と見受けられる槇野首相。
 SPたちが立ちあがらせ壇上のそでに避難させようとするが固まってしまい動けない。
(西藤、首相を持ち上げろ!)
 杏の言葉が聞えるか聞えないかのうちに西藤は動き出していて、槇野首相を片腕で持ち上げてそのまま舞台のそでに引っ込んだ。
 しかし、会場から出るには一旦皆から見える出入り口に姿を見せなければならない。
 早くしなければ狙撃犯が近づいてくると金沢市のSPたちが槇野首相を説得するのだが、お前たちが撃たれてこいと言って聞かず、身動きが取れない状況に追い込まれていた。

(こいつはバカか)
 杏はそでに引っ込むとカメレオンモードを解除して今度はSPたちの説得に当たった。
「こちらで槇野首相を担ぎ上げますから周囲を固めて出入り口まで出てください。出入り口には部下を配置していますから大丈夫です」
 すると槇野首相は怒りだした。
「首相である私を担ぎ上げるとはどういうことだっ!」
 杏も負けていない。
「ではご自分の足で移動なさってください。ここにいても狙撃犯に狙われるだけです」
「お前たちが撃たれればいいんだっ」
「そうしてSPが1人もいなくなったらどうやって逃げるおつもりですか。お1人であの出入り口まで移動されますか」
 
 槇野首相は言い返す言葉もなくまた蹲った。
「西藤、いけ」
 杏はひとことだけ西藤に命令すると、倖田にダイレクトメモを飛ばす。
(倖田、どの辺りから銃声が上がったか判るか)
(会場最後尾のメディア用のカメラ席かと)
(まだカメラ席は埋まっているのか)
(こういう絵は面白がって録りますから、動きはありません)
(よし、このまま静観していろ。九条、三条、出入り口の様子はどうだ)
(来場者がパニックを起こして移動し始めたので巧く出られるかどうか)
(だから最初に出るべきだったんだ。仕方ない、来場者に紛れ込ませて逃げるぞ)

 すると今度は2,3発の銃声が会場の照明に向けられたらしく、会場内は暗くなった。
 狙撃犯は暗視スコープを使用しているとも考えられる。
 時間との勝負。

 西藤に担ぎ上げられた槇野首相はヒイイイと金切り声をあげSPたちを蹴る。
 その姿が来場者に見られないようSPたちは西藤と総理を囲んで出入り口に近づいた。

 ところが今度は出入り口付近に銃弾が飛び、SPが1名、腕を撃たれてしまった。
(倖田、分ったか?)
(はい、俺も暗視スコープ装着したので会場内が見えるようになりました。狙撃犯も見当がついています)
(直ぐに撃て。相手は出入り口付近に近づくはずだ)

 倖田が走り出した直後、今度は出入り口付近で銃声が2発。
 襲われたのは槇野首相かもしれないと、杏は来場者をかき分け出入り口に着いた。

 そこには見知らぬ男がライフルと小銃を持ったまま、こと切れていて、九条と三条がにこりと笑いながら杏を迎えたのだった。

(死んだのか)
(足に一発と、あとは脳幹に)
(殺すなと言った覚えがあるが)
(このままでは総理に危害が及ぶ可能性が非常に高かったので、自己判断ではありますが行動に移しました)
 
 杏はしばらく言葉も出なかったが、殺してしまったものは仕方がない。
 気を取り直した杏。
(今度は会場外に出るぞ、そこでも狙撃ポイントは何カ所かあるはずだ)
 倖田がカメレオンモードを解いて会場内の廊下を走ってくる。
「最初に外に出て狙撃ポイントを探します」

 西藤は震えあがっている槇野総理をSPたちと囲みながら防弾ガラス入りのセンチュリーに乗せた。
 杏が駆け回っているため、内閣府までは九条が付いていくと言う。
(チーフは外野の特定を進めてください)
(そうさせてもらう、気を付けて行けよ)
(了解しました)

 だが、槇野総理を乗せたセンチュリーはガンガン、とエンジンの調子がおかしい。
 まさか、この中に時限爆弾?
 ここに来た時、ハンドルを握っていた運転手がなぜか消えていた。
(待て!そのセンチュリーはダメだ!)
(どうやらそのようですね、時限爆弾かな)
 九条たちは急いで内閣府スタッフ者専用のエルグランドに乗り換えるため槇野首相をセンチュリーから降ろそうとした際、エルグランドの窓を目掛けてライフル弾が飛んできた。
 幸い、エルグランドの窓も全部防弾窓だったことから、今回は誰も怪我らしい怪我はしなかったが、槇野首相の杏たちへの恫喝は、それはもう、凄まじいものだった。
 金沢市のSPたちは、やっとうるさい槇野首相から離れられる、とでもいいたげに皆ニヤついている。

 それもまた、杏の逆鱗に触れる原因にはなり得たが、今は喧嘩している場合ではない。
 運転は西藤が務め、エルグランドに九条が乗り込み、30分程離れた内閣府へと向かったのだった。

 会場内外から槇野の護衛をしていた杏、三条、倖田の面々は、バラバラに分れて狙撃犯を追っていた。
 何発かのライフル弾がセンチュリーを襲っていたが発車できないまま。爆発物の危険性を鑑みセンチュリーに人は乗っていない。
 時限爆弾の可能性を示唆した杏の考えは現実のものとなり、10分後、とうとうセンチュリーは爆発した。
 ガソリンに引火して爆発したため、黒い煙がもうもうと辺りに立ち込める。
 金沢市のSPは消防と警察を呼ぶと言って皆、庁舎に逃げ込んでしまった。

(ったく。使えないやつらだな)
(チーフ、公務員なんてこんなもんですって)
(三条、お前はどっちの味方なんだ)
(チーフ、見つけました。向かい側にある50階くらいのビルかな、屋上に1人います)
(そうか、じゃあ三条はそちらに)
(了解)

(倖田、中にいた犯人は警察に引き取らせたか)
(はい、日本人ではないようです)
(外国籍?)
(はい、朝鮮国かと)

 杏は嫌な予感がして、三条にダイレクトメモを飛ばす。
(三条、そっちは殺すなよ)
(はーい)

 三条から聴こえるライトな声。
 本当に大丈夫だろうか、と思ってはいたのだが・・・。
(チーフ―。すみませーん)
(なんだ)
(足撃つつもりが、また心臓いっちゃって)
(またか?)
(警察は呼んであります、こちらも朝鮮国のようですね)

 杏は、誰が何を言おうが、もう今日の任務は終わらせようと思っていた。
 それ以上追っても今日のところは何も出てくる気配はないと思ったし、何と言っても、あの腑抜けなくせに怒鳴る小心者をこれ以上守る気にはなれない。
 あの小心者オヤジにはほとほと呆れかえった。杏が内心そう思っていたのは確かだった。

 内閣府から西藤と九条が戻ってくるため警察府の中で待ち合わせ、2人がくると警察府にはろくすっぽ挨拶もせずに杏は飛行場へと向かった。

 なんとかその日の警護を終わらせて伊達市に戻ったE4メンバー。
 あとはゆっくりするはずが、剛田室長の厳しい眼差しが5人を待っていた。

 設楽の収集した事件情報によると、毛利市の外国人(ゲルマン民族)居住区において小規模爆弾テロが頻発し、段々とその規模は大きくなりつつあるという。
 その犯人像が掴めず、内閣府から内々に調査を依頼された剛田室長は、疲れているところ申し訳ないと前置きしながら明日からの任務を皆に伝えた。
「設楽の情報どおりだ。毛利市のゲルマン民族居住区で爆弾テロが起こっている。最初はゴミ箱を焼く程度だったが、段々と規模が大きくなっていて、車や倉庫などが標的になりつつあるらしい」
「犯人を捕まえればいいのね?」
「そのとおりだ、五十嵐」
 剛田はESSSに出発を報告するため足早に部屋を出た。

 杏はくるりと後ろを向いて、皆の顔をゆっくりと見た。疲れの残った面子はいない。よし。これなら明日からテロ制圧部隊として本来の任務を果たすことができそうだ。
「九条、三条、被疑者は死なせないように。今回は皆で手分けしてゲルマン民族の居住区を当たる」

 俺とナオミの出番はあるのかと言わんばかりに、不破が杏を睨んでいる。
「ナオミの時計はできたか?八朔」
「出来てます」
「じゃあ、ナオミ。使い方は不破に教えてもらってくれ。明日は設楽と八朔を除いた全員で毛利市に飛ぶ。出発時間は午前6時」
 西藤が手を上げて杏に知らせる。
「チーフ、科研の予約、今晩なんですけど。どうします?」
「九条と三条とナオミはカメレオンモードを持っていたとしても古い可能性がある。最新式にオーバーホールしてくれ。あとの者は、九条たちのオーバーホールが終わる夜7時ごろに科研に集合のこと」
「了解」

 九条と三条はナオミと一緒にタクシーで科研に出掛けて行った。
 49階に残された者は、地下に降りて射撃練習を始めた。
 
 不破が杏の隣で射撃練習をしている。
 隣で撃っている不破の成績を見て杏は驚き練習の手を止めた。
 100発中、90発。
 余りの出来の悪さに、不破の肩を叩く。以前は100発100中だったのに、なぜこんなに精度が落ちた。
「不破、言いたかないが、9割では困る」
「自分だって100発100中に届いてないくせに」
「こんなところで喧嘩しても始まらん。向こうに行くまで10割に近づけろ」
 そういって、杏は自分の練習を再開した。不破が何か言っていたが、ヘッドホンを付けていたのでそれを外してまで聞く気も無かった。
 本当なら、ナオミと遊んでるからだバカヤローと叫びたいが、それを言ったところで不破の出来が劇的に良くなるわけでもない。
 とにかく今はテロ制圧のため毛利市に飛ぶまで、寝る間も惜しんで訓練するより他ない。

 午後7時。
 倖田と西藤、不破と杏が1台の借り上げ車に乗って科研に到着した。
 施設内ではちょうど九条のオーバーホールが終わったところで、三条とナオミはもう着替えて1階ロビーで話をしながら九条を待っていた。
「チーフ、もうすぐ九条さんが終わります。あとの人はすぐ準備してくださいとのことでした」
「じゃあ、倖田から行け。西藤、不破、私の順番でオーバーホールする。不破まで終わったらここで解散だ。明日の集合はE4室内で午前5時30分、皆、解ったか」
「了解です」
「OK」

 倖田のカメレオン化のオーバーホールが始まり、次に西藤が行う。
 2人はオーバーホールが終わると互いにカメレオン化の練習として時計左端のボタンを押し自力でカメレオン化していた。
 九条や三条もカメレオン化しながら話をしていたが、ナオミは時計の使い方がわからないため、ガラスの向こうで行われている不破のオーバーホールを興味深そうに眺めていた。

 不破はマイクロヒューマノイドなので、身体全体を全て交換している。そこにカメレオン化のオーバーホールもプラスして1時間半ほど時間がかかっていた。
 三条もマイクロヒューマノイドになったから時間はかかっただろう、ナオミはカメレオンモードを使えるくらいだから何処かは義体していると思ったら、全身義体のマイクロヒューマノイドということだった。
 はて、マイクロヒューマノイドに恋心なんて芽生える余地があったっけ、などと杏が首を傾げているうちに、不破のオーバーホールが終了した。
 メンバーは科研内にて現地解散とし、皆はバラバラに帰っていく。
 どーせ不破はまたナオミのところにでも行くんだろうから、帰りは1人でいいや、とふて腐れ気味の杏。

 皆がいなくなってから杏のオーバーホールが始まった。
 時間に縛られたオーバーホールは好きではない。やはり、肉体に宿る魂が消えていく感じは、杏の心すら空っぽにしていくようで、毎回のこととはいえ、慣れることはできなかった。
 2時間が経過し、杏にとって苦痛のオーバーホールはやっと終わった。
 今日は何年に一度かの脳のCTも撮って、脳の発達状況を見るのだという。
 杏は興味が無かったが、剛田がその辺をかなり心配しているのは確かで、剛田を安心させるための医学的資料としてCT画像を持ち帰るのがお約束となっていた。

 杏が1階のロビーに降りると、不破が迎えに来ていた。
「ナオミは?」
「九条たちと帰っていった。家が近いらしい」
「時計の使い方、教えてくれた?」
「もちろん、検査もしたし明日から使えるよ」
「なんでまた迎えにきたわけ?この頃あたしたちのムード険悪だから剛田さんに言われたの?」
「剛田さんはまだE4にいるんじゃないかな。設楽たちも仕事してるし」
「いいのよ、別にあたしに気を遣わなくたって。ナオミといたけりゃそうすればいい。帰ってくんなバカヤローってあんたの背中に向けて叫んでたけど」
「こないだはナオミから色々聞かれて、バーで一晩。お互いマイクロヒューマノイドだから酔うってこともないし」
「言い訳しなくていいって。お互い大人なんだし」
 不破はふっと口元が緩んだ。
「お前こそバカヤローだな」
 
 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 朝5時。
 今朝のE4室内は朝から賑やかだった。
 
 1時間後の出発に合わせ次々と出勤してくるE4メンバー。
 その中でも設楽と八朔が早めに出勤していて、出立メンバーに必要な物を地下の倉庫から出してきた。

 防弾ベスト。
 万が一カメレオンモードになる前に上半身に銃弾を受けても大きな怪我は避けられる。大切なアイテムだが、皆着用を忘れていることが多い。
 ヘルメット。
 これも同様に頭と耳を保護する仕様のものだが、メンバーからの評判は今一つ。
 軽量ブーツ。
 雪道や泥道などを走るのに便利で尚且つ足への負担を減らしたブーツ。八朔の自信作。
 皆、銃は携行している。倖田と三条はライフルを中心とした銃構成で臨むことになる。

「各自、命を大切にするように。これは自分の命も他者の命も同様だ。さ、行ってくれ」
 剛田の言葉を背中に受けつつ、伊達市の飛行場まで2台の公用車で向かう杏、不破、倖田、西藤、九条、三条、ナオミの7人。

 飛行場に着くと、もうオスプレイが飛行可能な状態に仕上がっていた。
 杏を筆頭にメンバー全員が乗り込み、午前6時ジャストにオスプレイは飛び上がって毛利市を目指した。

 毛利市の飛行場まで凡そ1時間。
 オスプレイの中で、メンバーは無駄口を叩くでなく、皆神妙な顔付きで自分の足元を見たり、目を閉じて静かにしていた。
 そして飛行場からWSSSまでは車で20分程。
 WSSSの厚意により、ゲルマン民族居住区まではパトロールのために使う覆面パトカーを3台と、無線付きのバスを借用する算段が付いている。午前8時前後には目的地に到着する予定になっていた。
 目的地のゲルマン民族居住区までは、不破と九条、三条が車を運転しバスは西藤が運転して居住区入口の公園脇にそれぞれ車を停め、覆面パトカーを運転していた3人が一旦バスに移る。
 
 WSSSからゲルマン民族居住区までの道のりで見受けられたのは、杏が4月にも見た通り、朝鮮国の旗が掲げられたバラック造りの建物、雨露を凌げていられるのだろうかと思えるくらい、粗末な建物に暮らす朝鮮国の移民。
 子どもは汚い洋服を着て、道路沿いに出てきて食べ物を恵んでくれと鍋を差し出す光景がそこかしこで見られ、一日の食事にも困っているのではないかと可哀想にも思うのだった。
 だが、今、E4がやるべきは彼らに恵んであげることではなく、いかにして朝鮮国や中華国からの移民の全体的な生活水準が上がるのか、内閣府で検討するよう進言することしかないような気がした。

 一方のゲルマン民族居住区は、居住始めこそ電脳汚染などのトラブルにも見舞われたが、騒動が落ち着いてくるにつけ、小奇麗な洋風アパルトモン、各地に設けられたスーパーマーケットを中心とした買い物地区、インターナショナルスクールや日本語教室などの学び舎(まなびや)、先端ファッションに身を包み歩道を行き交う人々など、外国の香りがほのかに感じられる街並みが形成されてきていた。
 こちらは衣食住に恵まれ快適な暮らしができているのだろう。人々の表情にも活気が見受けられる。
 その中で、やはり人々の心配はテロと思われる爆破が続いていることだろう。


 ゲルマン居住区については、口にこそしないけれど杏も考えていることがあった。
 日本人ですらここまで快適な暮らしをしているのはほんの僅か、人口に換算しても一握りではないかと思われ、あらためて計画の妥当性にクエスチョンマークが浮かぶ。
 まあ、そこまでしなければゲルマン民族は移住してこなかっただろうが、元々日本国民は移民に反対していた者が多かったと聞く。

 ここまで来ると、犯人、いや、犯人グループはどこのどいつか直ぐに見当が付いた。
「早計ではあるけど、こりゃ、犯人はゲルマン居住区以外に住む移民じゃないすかね」
 あくまで自分の意見として、と前置きしながらの西藤の言葉に異論を唱える者はいなかった。
「ここまで違うのかと思うと、大人はまだしも、子どもが可哀想だな」
「でも罪を犯していいという言い訳にはなりませんよ」
 不破が放った言葉に対する九条の正論に、不破が一瞬いきり立った。
「なんだと・・・」
「不破っ、今は止めろっ」
 怪力でならす杏が思わず不破の背後から羽交い絞めにして怒りを収めるよう諭す。それを見て笑うナオミ。
 おい、笑うな。美女だからとて、何でも許されるわけではないぞ。
 杏がイライラしながらナオミを見ると、ナオミはテヘペロとでも言いたげに舌を出してウインクする。
 さすがの杏も、ナオミの誤魔化しを見てどんよりとした気持ちになるが負けてはいられない。手を腰に当て、出し得る限りの大声で叫んだ。
「今はテロ制圧が我々の任務だということを片時も忘れるな。喧嘩してる場合でも笑って誤魔化す場合でもないぞ」


 ゲルマン民族居住区を3台の車でパトロールしながら不審物や不審者の有無を探るため、バスには総括的に西藤が残り、倖田と三条の車は西側を、不破とナオミの車は東側を、最後の九条と杏が乗る車は北から南を動き、活動拠点のバスに乗っている西藤に情報を繋ぐことにして、居住区の中央口で3台は別れた。主要な情報はダイレクトメモで伊達市にいる剛田にも情報を上げるよう、念を押して。
車に乗りこむとき、不破はこれまた一瞬不満ありげな表情になったが、ナオミに何かを耳打ちされると急に収まり笑顔になった。
 しかし、杏的には少しよろしくない。九条と三条はある程度この辺の地理にも明るいだろうが、不破は毛利市のことをほぼ知らないためだ。大丈夫かと心配する杏に、九条が笑いながら教えてくれた。
「ナオミは今年の3月まで1年間、WSSSにいたそうです。我々同様、この辺には詳しくなったみたいですからご心配なく」

 納得した杏がOKサインを出し、九条はゲルマン民族居住区の中央から北側に進路を取ってアクセルを静かに踏んだ。
 杏は先程までのどんよりした気持ちを九条に零す。
「不破にしてもナオミにしても困ったもんだ」
「2人とも正直でいいじゃないですか」
「ところで、仕事の話なんだが」

 杏としては、今回の任務は一義的にテロ制圧が目的である。
 犯人を捕まえて、もしも外国人なら自国に強制送還すればいい話であり、それ以上の何物もない。
 だが九条の意見はもう少し深かった。
 今回の騒動を機に、槇野首相は朝鮮国や中華国の移民を排除する動きに拍車をかける腹積もりだろうと九条は予測していた。
「一日でも早く国交断絶に持っていきたいわけか」
「そう。できるだけ今回の犯罪、テロリズムをクローズアップしたいでしょうね」

 それでも。
 移民、いわゆる民族大移動のヒストリーはとても古く、迫害の歴史を辿りながら住まう土地を替えた民族は多い。
 そう簡単に総理の言う国交断絶が叶うのだろうか。
「無理でしょう、経済的繋がりもないとは言えませんし。特に中華国は」
 九条は淡々と言ってのける。
 来月の国民投票についても触れ、何に賛成するのかしないのかがはっきりしないとぼやく九条。杏は、“国交断絶に賛成の人→○ 反対の人→×”じゃないのかと単純かつ明快な答えを出した。
 九条は、投票というのは、反対する人しか行かない。賛成派は総じて行かないと溜息を吐く。それも、経済的なこととか知らない人しか賛成票を投じる余地がない、とも。
 だからはるか昔、EUからのイングランド離脱事件も起きた。あれは正しく投票の論理を悪用したものだと。

「経済摩擦なんて起こしたら、またもや世界不況ですよ」
「どうして今頃国交断絶とかぶちまけたんだろう」

 九条は、朝中を放り出しても日本が享受できるメリットがあるとしか考えられないという。一般の国民には知る由もない何かがある、と。
 杏は慰安婦や尖閣の問題が尾を引いているのではと尋ねたが、昔から騒いでいることが原因ではないと言いながら、九条は信号機で止るためにブレーキを踏んだ。ゆっくと、それでいて静かに。同乗者のことを第一に考える車の運転、不破にも教えてやりたいと杏が零すと、九条はくすくすと笑った。

 ひと通り見終わった頃、西藤から無線が入った。
「東側の公衆トイレに爆弾が仕掛けられていたそうです。今、WSSSの爆弾処理班が向かっています」
 ちょうど中央口にいた杏と九条は、不審げに辺りをきょろきょろと見回す2人の青年を発見した。
「中央口にて不審者発見、これから職質に入る」
 ドアを優しく開け、向こうになるたけ気付かれないように外に出た杏と九条は、どっちがどちらのターゲットに声を掛けるか指でサインをし合い、杏は右側を歩く男に近づいた。
「すみません、お聞きしたいことが」
「何だよ」
「この辺にW4の事務所があると聞いたんですが」
「そこの角曲がってまっすぐ100m位行くとあるよ」
 青年が上衣のポケットに手を忍ばせた。出すのは、銃か、ナイフか、それとも携帯電話か。
 杏は静かに笑みを湛えながら青年の真ん前に出て両手を広げた。
「W4そのものがないのに?」
 しまった、という顔をする青年。
 すぐさま杏の裏をかき、来た道を戻って逃げようとした。

 杏は2,3歩走り出してふわっと飛び上がり、宙返りをしながら青年の前に立ちはだかった。
「諦めなさい、もう逃げられない」
 青年がなおも上衣ポケットに手を突っ込んでいる。杏がその手元に注目すると、ポケットから取り出したのは違法改造された銃だった。

 杏は八朔特製の防弾ベストを着るのを忘れていた。なんという失態。
 こうなったら素手で戦うしかない。
 相手が銃を構えるのと、杏の回し蹴りで相手が10mほど吹っ飛んだのは、ほぼ同時だった。
 転んだ拍子に相手は銃を離してしまい、杏の足下に転がってきた。
 杏はそれを拾うと、自分のポケットに仕舞い込む。
 そして青年の下まで走りよると、立てないでいる相手の真上から脳幹に向かって銃を押し付けた。
「何をしても無駄だ。立って手を高く上げろ」
 青年はよろけながらも立ち上がった。
 そして、銃を複数所持していたのか、またもや上衣のポケットに手を入れた青年に痺れを切らした杏は、今にも走り出そうとするそのアキレス腱に向け、1発発射した。パン!!という音が辺りに響き渡る。
 青年は前につんのめって転び、アキレス腱を押さえ騒ぎ出した。
「銃刀法違反で逮捕だ。立て」
 相手は立てる訳もなく、転げまわっている。
 眉間に皺をよせ、杏は青年の上衣ポケットに手を入れると改造銃を2丁取り上げた。
「最初から大人しくしていれば痛みを感じることもなかったのにな、残念だ」
 杏は西藤にダイレクトメモで指示を飛ばす。

(不審者1名、銃刀法違反で逮捕。アキレス腱を撃ったので救急車を手配してくれ)

 転げまわっている青年を尻目に、杏は九条がどこにいったか気になった。
 たぶん、もう1人も逃げようとしたはずだ。まさか、また脳幹一発なんてやらかしていないだろうな。
 こいつらの身元はまだはっきりしないが、もしも移民で、警官に撃たれ死んだとなればそれはそれで騒ぎになる。ましてE4は存在すら知られていない組織。こんなことで存在を明かしていられない。

 杏はダイレクトメモで九条に呼びかける。
(九条、今何処にいる)
(公園の外堀です、最初逃げられましてね、これがまた駿足で。捕まえるのに外堀まで走らされましたよ)
(脳幹に当てていないだろうな)
(信用ないな。きちんと右肩に当てて銃は取り上げました)
(そっちも改造銃か、やれやれ、公務執行妨害もプラスだな)
(日本語話せるようだけど、こっちの彼は朝鮮人です)
(そうか?こっちはまだ聞いてなかったな、どれ、聞いてみよう)

 杏は転がり騒ぐ青年に、日本語で話しかけた。杏は朝鮮語などほとんど知らない。 
 よほど痛みに耐えられないらしく、青年が朝鮮語でアパ、アパと言っているのが聴こえた。=アパ=確か“痛い”という意味。朝鮮人だな、こっちも。

 意識ははっきりしていたので救急車とともに所轄の警察を呼び、そこから無線でWSSSのテロ担当者に繋いでもらう。これまでの経緯を報告すると、朝鮮語の得意な捜査官が病院に向かってすぐに捜査が始まった。杏と九条が逮捕した当人として病室に入る。

 逮捕した青年たちは朝鮮国からの移民で、爆弾の運び屋だった。
 どこに爆弾を仕掛けたのか聞くと、素直には話さない。
 司法取引で罪を軽くする、でなければ相当重い罪になるかも、と捜査担当者がちょっと脅すと、青年たちはすぐに爆弾の仕掛けた場所を吐いた。
 公園内の東側に設置してある公衆トイレ。
 誰かが使うかもしれない施設で、今までの車や倉庫よりも一歩踏み込んだ場所に爆弾を仕掛けたことになる。
 西藤が仕入れた情報と同じかどうか確認するため、倖田と三条が急行し公園内の西側に設置してある公衆トイレを捜索した。
 結果、爆弾らしきものは見つからなかった。
 これで公園東側の公衆トイレに仕掛けられた爆弾は青年たちの仕掛けたものと断定した。爆弾そのものはもう爆弾処理班によって取り除かれ、居住区には影響なく事件は終わりに差し掛かろうとしていた。

 だが、青年たちは「自分は頼まれただけだ」と口ぐちに言っている。
 2人が2人、同じ容貌の男から頼まれたと証言し、特段嘘を吐いているとも思えない。自分たちのしていることがテロ行為に当たると聞かされると、2人とも震えあがっていたが、結局、頼んだ男の正体はわからず仕舞いだった。

 こいつはバックに何者かがいる。
 杏と九条は早々に病室を出ると、病院から車を走らせ西藤が乗っているバスへと急いだ。
「パトロール車に告ぐ、至急バスに戻れ。パトロール車に告ぐ、至急バスに戻れ」

 倖田・三条組、不破・ナオミ組の車が帰ってきて、皆がバスに乗った。
「公園東側に仕掛けられた爆弾だが、逮捕したのはただの運び屋だった。裏にもっと別の組織があるに違いない」
 九条が手を振る。
「朝鮮国の嘘は日常茶飯事です。この頃は中華国の人間より性質が悪い」
「なるほど。そうすると、自分たちはただの運び屋で他のことは知らないと言っているが、あの2人は絶対に嘘を吐いていると。もう少し締め上げれば吐くんだろうがな。なにせここは毛利市でWSSSの管轄だ。我々が手出しするわけにもいくまい」
 三条が手を上げて話したそうに口元をムズムズさせていた。
「WSSSの無線傍受してみればいいじゃないですか」
「怒られないか?」
「気付かれないようにやりますよ」
 そういうと、無線の機械を弄りだした三条はしばらく顔を顰めていたが、あるときぱっと表情が変わり、九条に無線機を差し出した。
 それを聴く九条の顔にも明るさが見受けられる。

 やはり、犯人グループは毛利市内朝鮮人居住区に身を潜めていた。

 テロ行為の目的とするところは、「移民受入受容要求」。
 受入受容を示さなかったにも関わらず日本に流入していた両国の移民に対し、国民の不満はたまり続け、一方で、移民たちによるテロの下地となる不穏な空気が醸成されつつあったのも最早間違いのないところだった。
 朝鮮国や中華国内では人口増に喘ぐ自治体が相次ぎ破綻しており、ゲルマン民族だけの日本移送では雀の涙程度の政策でしかなく、矛先をアラブ民族へと変えたもののテロ行為が相次いだため断念、自国民を日本に流出させることを閣議決定したと聞く。
 結局、自国を追い出されるような格好で朝鮮国から無断で流入してきた移民たちが、これは不公平な国策だとしてテロを策動したと思われる。

「この内容によるとWSSSでは犯人グループを特定したようですね、あの下っ端が人相を言ったおかげでグループの中心人物が掴めたようです」
「ご苦労だったな、三条。それなら我々が口を出すまでもあるまい。今回はこれで任務終了になるだろう」

 ナオミはI am bored.と低く小さな声で呟いた。
 今回の任務は余程つまらなかったらしい。
 誰もそれに気付く者はいなかったが。


 その後、剛田室長から正式に帰還命令が出てE4は毛利市からオスプレイで飛び立ち帰路についた。
 ナオミは表面上明るく振舞っていたが、時折意地悪な目をして杏を見ていた。
 杏もそれに気付いてはいたが、別段ナオミに何かしたわけでもない。

 “だから女は面倒で嫌いなんだ”

 閉口している杏の気持ちを汲み取ったのは、おそらく九条くらいだろうか。
 西藤は眠ってしまったし、倖田と三条はライフルの話で盛り上がり、不破はナオミの世話係。ナオミはキャッキャと燥いでいるように見せていたので、当の不破は気が付かなかったろう。

 不破に攻撃させるエサを与えてしまうような気がして、杏は九条と話すのも遠慮していた。
 早く伊達市についてほしい。
 杏にとってはある意味地獄の1時間だった。

第5章  テロリズムの行方

 久しぶりの休日。
 剛田は愛車のNSXに乗り、高速に乗って毛利市を目指していた。
 その後ろを、杏が運転して九条が助手席に乗り、ひたすら爆走しているNSXを追いかける2000GT。

 毛利市に入る前に2台はSA(サービスエリア)に寄りガソリンスタンドで給油し、3人は車から出て缶コーヒーを飲んでいた。マイクロヒューマノイド用の缶コーヒーは実は苦いのだが、杏も九条も気にしていない。
 一気に缶コーヒーを飲み干した剛田が杏と九条を交互に見る。
 
「五十嵐、九条。相談があるんだが」
「なあに?」
「剛田さんから相談とか聞くと身震いしますね」
「なに、そんな大それたことじゃない」

 剛田は2人から視線を逸らし、太陽が眩しく感じられる青空を見上げた。
「朝鮮国での美春さんの住居をそのままにしようか悩んでいる。記憶が戻っても、九条家では朝鮮国に美春さんを旅立たせることはないだろう?九条、そう思わないか」
「そうですね、もう朝鮮行きは許さないでしょう。今は仕事もしていないし、毛利市で暮らせというはずです」
「そうなるとな、向こうの住居がある必要性も感じられない」
 
 非常に効率的な考え方であり、朝鮮国に出入りするのが段々難しくなっている現実を思えば致し方ない。
 だが、杏は敢えて反対の立場を採った。
「最終的に記憶が戻ってこちらで暮らすにしても、向こうの家には大事な大事な失くせない記憶が詰まっているんでしょう?記憶が戻ったら居場所がなくなってしまわない?」
「こちらで暮らすとしてもか?」
「そう、自分で日本に戻るという決断が必要だと思うの。美春さんならもしかしたら1人で生きられるとは思うけど、この頃何かと物騒だしさ、日本で暮らした方がいいって勧めるのは剛田さんの役目じゃない?」
 九条が杏を驚きの眼差しをもって見つめる。
「チーフは仕事中とっても合理的なのに、オフになるとセンチメンタルなところもあるんですね」
「九条、寝技で落とされたい?」
「いえ、褒めてるだけですから」
「住居だけは残しておいて、最終的には全てを思い出した美春さんが決断すべきだと思う。あたしたちが守りながらこっちで暮らす方がいいんじゃないかな」
「伊達市で、ということですか?」
「そうよ、九条。実家とはいえ何かと不便ではあるでしょうから。あたしと同居してもいいじゃない」
「うーん、そこを九条の家が許すかどうかの問題がありますけど」

 ひとしきり悩んだ剛田はまだ答えが出せないようで、とにかく毛利市に行き様子を見てきたいというばかりだった。
 付いていく車の中で九条は杏に色々と質問してくる。ときに運転の邪魔になることも承知の上で。
「剛田さんは、もしかしたら叔母を愛してるのかな」
「どうかな、でもあたしたちが済州島に隠れた時、いの一番に頼ったのは美春さんだし、美春さんも旦那さん亡き後剛田さんに頼りながら生きてきたのも本当みたいよ」
「僕は無償の愛を感じるんです、剛田さんの姿勢に」

 そういえば、剛田に女性の陰が見えたこともなければ、そんな素振りは一切見せたとこがないが、こと美春のことになると我を失う傾向が見られるのは確かだ。
 だからこの間のように警察関係者であるにもかかわらず拉致されたりするのかもしれない。あれはどうみたって怪しい手紙だったのに、まんまと騙されるという失態もやらかしてしまった。
 どうやら、剛田が我を忘れて美春に尽くしてしまうことだけは確かな事実といえるだろう。


 爆走しながら毛利市に入り九条の実家の近くに着くと、剛田は少し手前で車を停めた。杏もその後ろで車をストップさせる。
「ここで待っていてください」
 九条が助手席から勢いよく飛び出して家の中に走っていき、また杏と剛田は10分程待たされた。
 美春が1人になることの無いよう、いつも警護のSPが張り付いていたから一人にするよう頼みに行ったのだろう。
 上機嫌で家の門から出てきた九条は、剛田と杏に告げた。

「叔母の古くからの友人とそのお嬢さんということで家に入れることになりました。さ、どうぞ」
 剛田は美春にとって、古くからの友人、には違いない。
 ただ、美春の家出を手伝った人物とは誰も想像しなかっただろうが。
 九条は真実などおくびにも出さず、ただの古い友人ということで押し切ったらしい。
「そうか、有難い」
 剛田は少し緊張の面持ちで車から出て、九条の後ろに立った。
「大丈夫なの?」
 車から出ながら杏が問うても堂々としている九条。
「古くから見知った顔ではあるし、何より、杏さんの顔だけは覚えていますからね、この場合、何かと都合がいい」
「九条さんって、いつもしれっと嘘つくよね」
「失敬な。叔母のためですし、他に嘘なんてついてませんよ」
 
 広い住居の中、長い廊下を静かに歩く九条。その後をやはり音も立てずに歩く剛田と杏。
 美春がいる部屋のドアを開けて中を覗くと、少し痩せてしまった女性が後ろを向いて座っていた。
 誰かが来た、と気付いた女性が微笑みを湛えてゆっくりとこちらを振り返る。
 美春だった。
 九条が古くからの友人とその娘だというと、美春は杏を見て喜んだが、剛田を見てもその瞳に光が戻ることはなかった。

 毛利市内での拉致誘拐未遂事件以来、初めて美春に会った剛田だったが、剛田や夫の逢坂さえも思い出せず魂の鼓動が感じられない美春に対し、少し涙を浮かべながらも剛田は気丈に接していた。
 九条は、自分と杏が10分程席を外すことを剛田と美春に伝えると、杏の手を掴んで廊下に出た。
 家の中を案内しながら、九条はこれからどうしようか思案中だと杏に告げた。

 家の者は、ずっと家にいれば昔を思い出すだろうと言って聞かないが、自分はそうは思わない。美春は外に出て様々な体験をすべきなのではないかと。
 杏も九条の言葉に賛成の意を示した。
 拉致のリスクは消えないものの、家にいたからとて全てを思い出すわけではないだろう、美春が経験してきたことを美春自身にもう一度体験させることが重要だと思う、と。

 一方、広い部屋の中で、剛田と美春は2人きりになった。
 誰もいなくなったところで、美春は剛田に対し一礼すると、渡したいものがあると言って近く置いてあったバッグを引き寄せた。
 美春が自分のバッグの中の奥深いところに仕舞っていた一枚の写真。
 それは、剛田と美春と本木が一緒に移った昔の写真だった。
 逢坂の顔ではなく、本木の顔。本木と美春が結婚する前、交際していた頃の写真だと思われた。

 美春は写真に写る剛田を指さし、優しげな表情で笑った。
「若い時からお変わりないお顔なので、この写真を見てすぐにわかりました。どうやら、わたくしたちは昔からのお知り合いだったのですね」
 そう言われ、剛田は「はい、そうです」と答えるしかなかった。
 もう1人は見たことがない顔だという。
 あんなに愛した本木のことを忘れている美春。
 剛田は何を思ったことだろう。
 この写真は甥の九条にも知らせてないものだと言われ、保管を頼まれた剛田は写真を人知れず自分の財布に仕舞い込んだ。

 美春の記憶はまだほとんど戻らなかったが、やはり杏のことだけは逢ったことがあるとはっきり覚えていた。
 剛田は一縷の望みをかけて、杏に2週間ほど休暇を取らせ、美春と2人、地球温暖化で一時は海に沈みかけたものの地震の地殻変動で隆起した沖縄周辺に旅行するプランを練り上げた。
 杏は素直に喜んだが、先日のような拉致事件に遭遇しないとも限らないことを思うと、手放しに旅行を満喫することはできないと剛田に申し出た。
「お前は旅行を満喫する役目ではないだろうが」
「あ、そうね。ごめんなさい、あの弾圧劇以来のホテル住まいだから、つい喜んじゃった」
「その代りだが」

 剛田から出た案は、2人ほどボディガードをつけるというものだった。
 
 ボディガードの役目を仰せつかったのは、なんと、不破と九条。
 九条と、もう1人警察関係者が美春をガードするということ、友人も、友人の娘も警察府に勤めている真面目な警官だということなど、九条が実家に向けてやや大袈裟にアピールすることで、ようやくプライベートに口を挟まないと実家に約束させ、普段ついているSPを除外することに成功した。

 ボディガード同士で険悪なムードになるのではと、両者の狭間で心配していた杏だったが、九条はあくまで叔母のボディガードであり、杏のガードは不破が担当する、という落としどころを見つけて九条と不破は結託したようだった。
 不破曰く、「どっちがガードされているか正直わからん」とのことではあったが。
 その晩、不破が杏にプロレス技を掛けられたのは想像に難くない。

 九条を介し剛田から声を掛けられた美春は、沖縄入りを快諾した。
 沖縄に行く前の日から杏は毛利市に入り、ホテルに宿泊することにして九条たちと入念にストーリーを練り上げていた。
 翌日、毛利市の飛行場から沖縄に向かいジェット機に乗った杏と美春は沖縄のビーチに姿を現した。
 手前は透明で遠くに離れるにしたがって真っ青にグラデーションを描く、とても綺麗なプライベートビーチ。
 空の真っ白な雲と海の青が絶妙なコントラストを描いて、夏を思わせる空気感が辺り一帯に満ち満ちている。

「綺麗。わたくし、こういう景色がとても好きなの」
「本当に綺麗ですね。冷蔵庫の物で申し訳ありませんが、何かお飲みになりますか」
「今日は、お酒のほうは夜まで止めておきましょうね。今は烏龍茶をいただけるかしら」
「はい、承知しました」
「ごめんなさいね、こんなところまでお付き合いさせてしまって」
「いえ、剛田も心配しておりますので。お役に立てれば幸いです」
 杏と2人でゆっくりとした時間を過ごす中、こういった時間の流れや景色にほのかな思い出がある、と美春が語った。
 杏は剛田から預かっていた若かりし頃の逢坂と整形前の本木の写真を1枚ずつ見せた。
 すると、最初は“知らない”を繰り返していた美春だったが、ついに逢坂の顔を思い出した。

“海に連れて行ってくれて、いつもこうした時間を一緒に過ごした人”

 お付き合いしていた人かもしれないし、お友達だったのかもしれない。やはりそれ以上は記憶が定かでない、と。
 それが愛する夫だとまでは、一度に思い出すことはできなかった。
 本木の写真は、見ても誰かわからないという。

 何日かプライベートビーチで過ごす中、自分が逢坂と結婚していたことを思い出した美春は、最初に杏の手を取った。
 思い出した記憶は、こうしたビーチで過ごしている途中に結婚指輪を失くしてしまい、大喧嘩になったというもので、ふふふ、と美春は笑った。
「普段は大人しい人だったの。でもスイッチが入ると饒舌になる人だったわ。あの時もそう、2人で指輪を探しながら大喧嘩になって。そしたらラバトリーの隅にちょこんと置いてあって」
「この方は逢坂さんといいます。どこにお住まいだったか、覚えていらっしゃいますか」
「それは思い出せないわ。でもね、思い出したの。剛田さんのこと」
「どういったことですか」
「夫が亡くなったの。多分まだわたくしたちが30代か40代の頃だと思うわ。そしたら剛田さんが手を差し伸べてくださって。金銭的なものもあったけれど、一番はわたくしに寄り添ってくださって、翻訳者としての仕事まで探してくださったの。あなたのお父様には、本当に色々と助けて頂いたわ」
「お仕事のことも思い出されたのですね」
「でもね、杏さん。変なの」
「どうしたんですか」
「夫と剛田さんの間に接点が見つからないの。剛田さんは夫のお友達だったのかしら。だからわたくし、あなたのことも覚えていたのかしら」

 美春は、逢坂が夫だったことは思い出したが、逢坂の姓、どこに住んでいたか、逢坂が何をしていたかまでは思い出せなかったし、ましてや本木のことなどこれっぽちも思い出せなかった。
 そればかりか、逢坂と剛田の接点が見つからず美春は困惑しているようだった。

 もうひとつ奇妙なことがあった。
 余りに暇でやることもない杏が、クルーズ船で沖縄の海を満喫しないかと美春に声を掛けた時だった。
「船に乗るのは嫌」
 そう告げたきり、美春の表情はみるみるうちに曇った。
 杏が知る限り、美春は船に乗るのが嫌いではなかったはずだし、朝鮮国に剛田と不破と杏が3人で潜んでいたときも船で何度も済州島まで来て杏たちの身の回りの世話をしてくれた。
 それが、船に乗ること自体を嫌がるとは。

 それを聞き、行方不明になったあの事件の際、何かのアクシデントがあったのかもしれないと剛田は判断し、美春の記憶に係る混乱を避けるため、1週間ほどで旅行を切り上げろと杏に命令し、杏と美春、ボディガード2名は毛利市に戻った。
 今回は拉致などの事件に巻き込まれることもなく、ほんの少しだけでも記憶を取り戻したことで、剛田は安堵していた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 沖縄帰りの杏を、剛田が小さな声で廊下に呼び出した。
「五十嵐、ちょっと来てくれ」
「どうしたの?美春さんに何かあった?」
「いや、純粋に仕事の話だ」
「じゃあ、室内でも構わないじゃない」
「考え事があってな」

 剛田が言う考え事、とは、暗殺部隊のことだった。
 彼らは根っこからターゲットに対し暗殺が最善の策であると教え込まれてきている。
 こちらの倖田のように命令に従い忠実に暗殺業務に就くのとは全く別だと嘆く剛田。
「でも、こないだの毛利市では九条さんも脳幹行かなかったわよ」
「あれは下っ端だと気付いていたからだろう」
 
 杏は背中が何かゾクゾクするモノがあって、体中にブツブツと発疹ができる気がした。
「もしかして・・・」
「そう、そのもしか、だ」
「えー、なんでこっちでやるの。警察府の機動隊とかSITとかSATとか色々あるじゃない」
「総理のご希望だそうだ」
「げーっ」
 
 今度もマルタイは槇野首相。
 場所は北海道札幌市。
 ESSSの管轄地である。
 明後日、演説に行く予定が組まれているという。
 そこに、テロ実行の情報が齎された。

 今回は朝鮮国や中華国など、アジア系のテロ組織が関与していると思われた。

「断ることもできまい。行ってくれ」
「それだけ?暗殺部隊が心配なんじゃないの?」
「今回のテロはどういった手法を取るのかわからないから困っている」
「まあ、いつもなら周辺のビルとかに犯人がライフル持って準備して、って感じよね。でなきゃ人質とって立てこもるとか」

 剛田の話では、日朝中国交断絶宣言後、朝鮮国や中華国では移民を断った槇野首相を恨んでいる輩が増えているということだった。
 ご尤もな話だ。
 自国にいても辛い生活しかできず日本に行けば幸せが待っているという、ある種のデマが流れ、謝った情報が乱れ飛ぶ。
 噂が噂を呼び、日本に来たがる一団がいる一方で、朝鮮人や中華人で“日本での暮らし”を知っている人間は絶対にいってはダメだ、移民は総電脳化されてしまうと吠える。
 電脳化されようが、今の生活を抜けられるならそれでいい。なんでもする。もう、自治国内で敵対してしまってはどうしようもない。
 デマを信じ未来に対する希望が満ち溢れている中で、本当に電脳化した人たちは人間にとって大切である子孫繁栄のプログラムを書き換えてしまうことで人間としての尊厳を傷つけられ、尚且つ、今はゲルマン民族とは違った扱いしか受けられない。

 単純に、日本自治国内閣府も悪い。
 はっきりとした情報をこまめに出すべきで、移民を流入させたくないならそれなりの大義名分をはっきりと示さなければならない。
 だが、日本自治国としては何も示していないのが現況で、そこで周辺国では移民として日本に入れば高級な暮らしができると言う夢を見る。
 夢から覚めるころにはもう、テログループの一員として爆弾作りを担っている、というわけだ。

「五十嵐、これから皆に伝えるが、俺の援護射撃よろしく頼むぞ」
「無理かも」
「そういうな」

 またまた頭の痛い任務がきたものだと、杏は頭を抱えながらE4室内に入っていった。
 皆もう射撃練習から戻ってきていて、困り果てた表情の剛田と杏を代わる代わる見て、倖田や西藤、不破は“また面倒な依頼を引き受けたな”という顔をしている。
 九条や三条、ナオミはそこまでは判断しかねているのだろうが、胡散臭そうな周囲の状況を嗅ぎ分けているように思われた。
 ゆえに、3人とも真面目な顔つきで誰かが言葉を発するのを待っていた。

 皆が見つめる中、初めに言葉を発したのは剛田だった。
「皆、聞いてくれ。明後日(みょうごにち)、槇野首相が北海道入りして札幌で演説する」
 IT室から出てきた設楽の目の色が変わる。
「はい、それで」
「当日のテロ情報が齎された。そこでだ、E4が総理のSP業務を担うことになった」

 シーン、と静まり返る室内。
 剛田も杏も、皆が何も言わず付いて来てくれるのかとキラキラ星が舞い込みそうになった。
 しかし、そうは問屋がおろさない。
 次の瞬間、室内は騒然となった。
 先陣をきるのは、いつも設楽。
「なんでうちがやるんです?」
 八朔も負けていない。
「あんな我儘ジジイ、ほっときゃいいんですよ」
「そうそう、ああいうのは早死にしてくれた方が国民のため」
「設楽さん、たまにはいいこと言うじゃないですか」
「嫌なものは嫌でしょー」

 それに対し、やはり、九条や三条、ナオミは何かしら思うところはあるのだろうが一切口にはしなかった。
 何という鍛練。
 今まで首相のSPに着いたことも数えきれない程あるだろうし、嫌な思いも多かっただろうに、職務に忠実に、自分を殺しながら忠実に職務に当たってきたというわけか。ナオミにしても同じようなシチュエーションでの業務に就いたことがあるのだろう。

 杏が皆よりも大きな声で一喝し、室内はシーンと静まり返った。
「ここでいうのは勝手。皆の気持ちがわからないでもない。だけど、我々に課せられたテロ制圧という任務は着実に熟すべきじゃない?」
 不破がこめかみを押さえながらも杏の言葉に反応した。
「そうですね、選り好みとかそういうのじゃないけど、僕たちが何のために存在するかを考えれば、北海道に飛ぶのは必然的なものでしょう」
 倖田はヴィントレスを手に、声には出さずとも頷いた。
 西藤もソファから立ち上がり、杏に対しOKマークを手で作る。

 思ったほどの抵抗もなく、メンバーそれぞれが北海道行きを承諾した。
 目に皺をよせながらも口元をきゅっと結んだ剛田は、ESSSへの報告のため室内を出た。

 だが、剛田が部屋から出た瞬間、また愚痴合戦が始まった。
「こないだも何回も振り回されましたよ」
「そうそう、こっちの立ち位置指示しておいて、「お前は俺の身代わりに撃たれる役目だ」とか。俺はあんたの影武者じゃないし。ただ単にテロと聞いたから行っただけなのに」
「チーフ、さすがに初めてでしたよ、あそこまで強烈に我儘いうマルタイは」

 杏としてもあのような人物をなぜE4が警護しなければならないのかと憂鬱にもなってくるが、こればかりは任務と割り切らなければならない。
「皆が言いたくなる気持ちもわかるとさっき私はいったな。実際、わかる。でも九条や三条が愚痴を言うのを聞いたことがあるか?」

 悪口合戦を繰り広げたE4のメンバーは、途端に大人しくなった。
「ないです」
「俺もありません」
「僕もないですね」
 あと一息。杏は立て続けに皆を鼓舞する。
「今回はテロを実行する旨の情報が入ってきているそうだ。どのような形でくるかわからない以上、自分たちの任務を考えればテロ制圧は私たちの正式な任務だ。移動するメンバーは後で発表する。今回はバグやビートルも連れていく。以上」

 皆が下を向きながらも了承した。
「人質とって立てこもるんですかね」
「それが一番手っ取り早いからな」
「ライフルで遠くから総理を狙うことも考えられますよ」
 九条や三条、ナオミはなおも口を開こうとしない。
 杏は、メンバーを分断させてはならないと、九条たちにも声を掛けた。
「九条、お前はどう思う」
「テロと言っても方法は様々。僕たちW4は警護の方が本職でしたから、テロ制圧グループと総理警護グループに分けてもよろしいかと」
「警護は何だかんだ言ってESSSからも人を出しそうな気がしている。こちらではテロ制圧にほとんどの力を使うことになればいいんだが」
「であればなおさらのこと、僕や三条、ナオミはテロ制圧部隊に属して間もないわけですから、十分な計画と的確な指示が欲しいところです」
「指示はその都度私が出す。ダイレクトメモで指示を出すので、時計だけは忘れるな。あと、全員、今日明日で射撃練習を行え。倖田と三条はライフル銃の方にシフトしろ」

 地下に行くと、珍しくバグの一機が地下1階に上がってきていた。
「アンダ!ホクトドコ?」
「仕事だ」
「ネエネエ、ボクラモアサッテノシゴトニツイテイクンデショウ?」
「そうだ、我々と一緒に行く」
「フーン、ホクトガイナイトサビシイナ」
「寂しい気持ちがわかるのか」
「アッタリマエデショ!!」

 一時期、心を失くしたバグやビートルを目の当たりにした杏としては、嬉しいやら、こいつらの思考にどうやって魂が入り込んだのか調べてみたいやらで気持ちも揺れるが、今はどうやらその時期ではないらしい。
「今回も後方援護よろしく頼むぞ」
「ハーイ」

 杏は皆の手前多く射撃訓練を行うつもりで地下に来たのだが、殆どの者が下に降りてきたので練習場所を譲った。
 
 練習の光景を見ていると、ライフルを使う倖田や三条は別として、不破や西藤が肩を狙って発射しているのに対し九条とナオミは心臓を狙い100発100中の勢いでトリガーに手を掛けていた。
 杏は不破の肩を叩き、振り返ったところを引きずり部屋の隅まで移動し、普段の練習風景を尋ねる。
「いつも九条は心臓一直線なのか?」
「心臓5割、脳幹5割」
「それじゃ被疑者が死んでしまう」
「元々が暗殺主体とは言え、何度注意しても聞きやしない」
「ナオミも初めからあの具合か」
「ええ、九条たちを真似してるんじゃないですか」
「まさか、ナオミには注意してない?」
「留学ついでの人に意見しても仕方ないですから」
「そういう問題か」
「なら、チーフが指導すればいい」

 杏に頭の痛みが戻ってきた。
 ジンジンと頭の奥が痛む。マイクロヒューマノイドは薬を飲んでも効かないから、この憂鬱な時間をどう乗り切ればいいのか自問自答してみるが、答えは出なかった。
 でも、一度くらい指導しなければチーフとしての体面も保てないと考えた杏はナオミの傍まで歩いていく。
 そして、ナオミの射撃が一段落するまで後ろで待った。
 ナオミが射撃を止め、両手を下ろした時、杏はナオミの肩を叩いた。ナオミが振り向くと同時に早口で指導する。
「ナオミ。肩を狙って撃ってくれ」
「どうして?」
「人を殺しに行くわけじゃない」
「肩なんていつでも狙えるわ。それよりも誰かが人質になったらまずいでしょう。犯人はその場で射殺しないと。北米では常識よ」
「E4では命を奪わない」
「OH、それっておかしい」
「生け捕りにするのが我々の仕事だ。射撃訓練でも肩を狙うように」
「I don't want to do it」
「すまん、私は英語がわからない、日本語で話してくれ」
「嫌よ」

 嫌と言われて引き下がるのも癪だったが、ナオミは指導事項を守りそうになかった。祖国の常識と言われれば、そうなんだろうが。
 杏は頭を左右に振りながら、今度は九条の元へ歩いていく。九条も外すことなく脳幹と心臓を狙っている。
「九条、肩を狙うように」
「ナオミから言われてましたよね。僕も嫌です」
「そう言うな。生け捕りにするのが我々E4の仕事だ」
「W4ではターゲットを射殺するのが我々の使命でしたから。今更生け捕りと言われても思考が付いていかないんです」
「それは分かるが」
「なら、好きにさせてください。実際の現場では肩を狙いますから。ナオミもそうすると思いますよ」

 もう、知るか。
 そう言いたい杏。
 チーフなんて辞めて一兵卒になれば言いたいことばかり言って気楽に過ごせるだろうなあ。不破にでもチーフを譲ろうかと、本気で杏は思考を重ねる。

「僕はチーフなんて嫌ですからね」

 ドキッとして思わず後ろを振り向くと、不破のいかにも乗り気ではないといった表情が杏の目を捉えた。
 各自が撃つ銃声が響く中で、杏はもうがっくりと肩を下ろしたいところだったが、最後のプライドというやつだろうか、ピン、と背筋を伸ばし自分も銃を片手に練習に入った。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇
 
 人口500万人都市、札幌。

 北の要所として日本自治国を支えるこの地は、かつての第3次世界大戦でロシアの脅威に晒された土地でもあった。
 中立を宣言した日本は軍隊を派遣してもこちらから戦を仕掛けることはできず、ただただ応戦に回るばかりで国民の不安を煽ることとなり、当時の内閣はヘボだ馬鹿だと揶揄された。
 長きに渡る世界的な戦が終戦を迎える直前は、札幌にも核ミサイルが落ちるとデマが飛び交い、札幌市の住民は本土に逃げ出し北海道の人口は50万人を切った。
 戦火がようやく冷め地球政府ができ各自治国が統治を始めた頃、札幌への移住者は増加の一途を辿ることになった。
 東日本地域が軒並み核でやられ住まうことすらできなくなったからである。
 その後、札幌周辺は戦争前の2.5倍に当たる500万人が(ひしめ)きあい暮らすようになった。札幌周辺は札幌市に取り込まれ、北海道全体では800万人余りの人々が日本海側を通り、海を渡って原野を開拓する時代が再び到来したのだった。

 その札幌市に槇野首相が演説に行くことになり、何年ぶりの首相来道かと地元新聞は書き立てた。
 槇野は国民に見せる顔と素の顔に乖離があったが、新聞は一切そのことを洩らそうとはしなかった。北海道の地元新聞には槇野の素顔が知らされなかったこともあるだろうし、知っていたとしても、裏の顔を晒せばその新聞社は三日と経たずにお取り潰しの刑を言い渡されるという評判が出版業界や新聞協会にはあったからだ。
 槇野が首相に指名されて以来、内閣は国内主要メディアにかかる株式を50%以上、保有するようになったのである。
 国からの検閲を受ける社会主義国家と何ら変わらない仕組みではあったが、新聞社は地下新聞と名乗る新聞を皮切りに、ネットの波に乗せるなど様々な方法を駆使し国民が政治の一端を窺い知ることができるよう腐心したのである。

 
 金沢から首相専用機で札幌入りする槇野首相を出迎えるため、E4のメンバーは札幌に集結した。
 槇野首相が演説を行う大通公園において爆発物を仕掛け演説中に爆破させる、という情報が齎されており、ESSSは北海道警を中心とした近隣県の警官や機動隊を総動員して爆発物の捜索に時間を割いていた。
 しかし、爆発物らしき箱や紙袋など怪しい物は一切見つからず、愉快犯による偽情報ではないかという空気が辺りを包み込んでいた。
 捜索は、首相が演説を始める10分前に一旦打ち切りとなった。

 槇野首相が演説を始める午後2時になると、サクラを初めとした演説傍聴者、野次馬、公園で親子が遊ぶ姿などがそこかしこに見受けられ、大通公園の中は平和そのものにしか見えなかった。

 だが、演説を始めて10分後、事件は起きた。
 手を繋ぎ公園で遊んでいた何十組という親子が次第に演説会場に近づいてきた。

 おかしい。
 公園に遊びに来ただけの子供連れ親子が、こんなに熱心に演説を聴くとは思えない。
 
 サクラの人物たちを押しのけ、演説を聴くために前列に紛れ込む親子。
 すると、演説を掻き消すかのような悲鳴がそこかしこから響き渡る。
 杏は宗像補佐官に耳打ちをして、補佐官から首相に言伝してもらう。宗像補佐官は杏に対し嫌味三昧だったが、言うことには素直に応じた。
「総理、様子がおかしいです、バスの中に避難を」
 その意見をまるで無視するかのような槇野首相は、杏に向かって豪語した。
「お前たちが身代わりになるんだから、私に害は及ぶまい」
 杏も負けていない。
「大掛りな爆弾になると、周囲全体が吹き飛びます。警察バスの中だけは安全ですので、どうかバスの中へ」
 自分が危ない、その言葉を聞いた槇野首相は、登壇して訴えていた演説を慌てて終了させて警察バスの中に一目散に引っ込んだ。

 通常、演説者が奥に引っ込めば、野次馬などは直ぐにその場を去る。サクラは皆警察関係者なので残っていても不思議ではない。たぶん、北海道警の警官だろう。
 でも、何十組もの親子連れは帰るということもなく、まるで槇野の後を追うように演説場のバスが置いてある近くの噴水まで歩いていくと、子どもの服を脱がせ始めた。
まだ水浴びなどするような季節ではない。

 杏は、その光景を見て目を疑った。
 10人ほどの子どもが、爆発物を身体に括りつけられ泣くでも喚くでもなく立っている。年は、5歳から10歳と言ったところで、余りにも痛々しい姿だった。
 また、子どもの親と見られていた人物たちも次々と上着を脱ぎ始めた。身体には同様に爆発物を巻いている。己が身に爆弾を巻いた様子を携帯電話で自撮りする者まで現れた。
 
 自爆攻撃。
 バスはそこから走り出そうとしたが、親子らしき者たちが立ちはだかって前にも後ろにも進めなかった。轢いてしまえば爆弾が爆発するからである。

「すぐに爆弾処理班を!隣市にも応援要請しろ!」
 それまでポカーンと様子を見ていた北海道警の警官たちは、杏の言葉で現状の危機を捉えたらしい。
 無線で本庁とやり取りしている。

 杏の物言いは、かなりキレていた。
「バカヤロー、爆弾処理班呼ぶんだよ、今すぐに動け!」
 札幌市では、爆発物処理を担当する課すらなく、今まで道警におんぶしていたらしい。
 準備も含めて到着まであと1時間かかるという。
 北海道警、なんという失態。
 いや、失態はE4にもあった。
 このようなテロ行為が日本でも起こり得ると想定し判断しなければならなかったのだ。

 この時、杏にとっては槇野首相などどうでも良くて、助けたいのはむしろ子どもたちだった。

 ダイレクトメモで皆に繋げた杏。
(このまま噴水あたりで留め置いて自爆機器類を外そうと思うんだが、意見のあるやつはいるか)
(九条です。もっと人のいない場所に陽動して自爆する前に殺害するべきではないでしょうか)
(子どもだぞ。一緒に殺すというのか?)
(バスに被害が出る方が怖いでしょう?仮にも我々SPですし)
 杏は九条の意見に賛成しかね、言葉を返せない自分をもどかしく思った。

(不破です。バグとビートルなら爆発物処理できるかも)
(何機持ってきた)
(フル動員して6機来ました)
(九条、せめて子どもだけでも助けてやりたいと思う)
(時間がないですよ)
(バスに近寄ってもすぐに爆発しないところをみると時限爆弾のようだ。ビートルとバグを使って子どもたちの爆発物を外す)
 それ以上自分の意見をいうことなく、九条は素直に折れた。
(そうですか、了解しました)

 親子たちは相変わらずバスを取り囲んでいて、自爆するにしても、あとどのくらいの時間が残されているのかわからない。

 杏は、一か八か、人から見えぬ場所でカメレオンモードになりバスの方に近づいて、親が手を離したすきに1人の小さな子どもの真ん前に立った。
 子どもがぶら下げていた爆弾の爆破予定時刻は2時40分。もう10分しかない。爆弾処理班の到着を待つ時間は無い。

「バグ、ビートル、全機カメレオンモードになれ。最初にバグとビートルが子どもたちの爆弾を外す。バグもビートルもカメレオンモードになって噴水までいくんだぞ、気付かれないようにしろ」
「ハーイ」
「ふざけてるとオイル抜くぞ」
「フザケテナイヨ。バクハノセンヲキレバイインデショ?」
「そうだ」
「ミンナ、イコー」

 E4からついて来たバグ3機とビートル3機は、車の陰に隠れるとすぐにカメレオンモードになって噴水前に駈けていく。
 子どもたちにバグが見えたのかどうかは知らないが、子どもたちがその顔に笑いを取り戻した。
 爆発予定時刻まであと5分。
(アン―、コドモノブンハミンナキッテイインデショ)
(どこを切るかわかったのか)
(モッチローン)
 それから3分もしないうちに、バグとビートルにより、爆発物は子どもたちの身体から安全に撤去された。身軽になって、噴水の辺りから逃げ出す子どもたち。どうやら、一緒にいたのは本当の親ではなかったのだろう。

 逃げた子どもたちに驚いているのは大人の方だった。
 日本語ではない言葉で何か叫んでいる。
 そして、子どもたちを追いかけて駆け出す者が現れ、それまで取り囲んでいたバスから遠ざかる大人が大多数となった。
 皆一様に、子どもが簡単に外せたと思ったのだろうか、自分の爆発物を身体から撤去しようともがいている。

「バスを動かせ!!」
 杏の声が聞こえたのかどうか、バスは無傷で噴水前から移動し公園の外に走り去る。
 ちょうどバスが噴水前から走り去ったその時だった。
 銃声の音が数発聴こえた。
 爆弾を身体に巻いた大人たちは全員がその脳幹や額を撃たれ、後ろに倒れ息絶えると同時にそこかしこで少爆発が起こった。その数、約10名。子どもを従えていた数と同じと思われた。
 
 不破と西藤に、噴水前から逃げてバスを遠巻きに見ていた子どもたちを救急車で札幌市内の病院まで急ぎ送り届けるよう指示すると、杏は、爆発した大人たちの傍に駆け寄った。
 もう、無残なものだった。
 手足や上半身はバラバラとなりどれが誰の身体かもわからない。
 生け捕りなどという甘いことを考えていた自分が正しかったのか、今回に限っては殺すしかなかったのか。
 
 警察が現場検証を始めたが、彼らは誰が撃ったかまで特定しようとしなかった。要するに、総理側から指示があったということだろう。
 
 確かに、槇野首相は無事に逃げることができた。
 しかし、これでよかったのか。
 無事に総理は助かった、と言えば聞こえはいいが、テロを計画している元締めがどこにいるのか情報源を失ってしまった杏としては、大人たちの爆弾を処理できなかったのが心底悔やまれた。

第6章  メモリー

「どう思う?」
「何が」
 剛田が家に帰るまでの間、杏と不破は先日の爆弾テロについて話し合っていた。
「こないだの札幌。大人たちの命を助けることはできなかったのかな」
「一瞬で逝ったのはどっちも同じだろうけど、俺なら最後まで諦めなかった」
「でもさ、刻一刻と時間迫る恐怖心て絶対あるよね」
「だろうな。人間死ぬときゃ走馬灯のように生きてた時の場面が思い浮かぶんだとさ」
「マイクロヒューマノイドも?うっそだー」
「脳から出る何かがそう見せるんだとしたら、俺だってお前だってありだろ?」
「あ、剛田さん帰ってきた」

 
 剛田は然も機嫌が悪そうな表情で、玄関で靴を脱いでいる。
 玄関に剛田を迎えに出た杏は、不思議そうに首を捻った。
 あの事件、槇野首相からはE4の出来が良かったと褒められたと聞いたのに。バグたちの仕事もそうだが、大人たちを皆殺しにして自分のバスが助かったことを喜んでいたらしいのに。
 杏から言わせれば槇野は鬼畜の中の鬼畜だが。
「どうしたの、すごく機嫌悪そう」
「五十嵐か。困ったもんだ、暗殺部隊も」
「何、こないだのこと?」
「いや、九条が辞めるかもしれない」
「あら、どうして?」
 杏の顔色が青ざめた様に見えたのだろう、後から来た不破は眉間に皺を寄せ始めた。
「朝鮮国の秘密諜報機関の人物が日本に上陸した、福岡に潜伏しているとの情報が入ってな。それを掴んだ九条が、美春さんの記憶を消したやつらだと決めつけて報復に出ようとしている。止めたんだが・・・」
「が?」
「退職届を預かる格好になってしまった」
「あら」
「どうしたものかなと」
「あの人に限ってやられることはないと思うけど。どっちかっていうと相手をすぐ殺すし」
「今度の相手は朝鮮国政権の中でも名の知れた秘密諜報機関の人物でな。簡単に殺すことは可能としても、国家間の火種になる可能性だってある」
「だって、総理は国交断絶宣言したんだから別に構わないんじゃないの」
「あれは完全にフェイクだ。国民投票して国民の人気を取ったところで、経済問題とか言い出してグレーゾーンに放り込む腹積もりなんだろう」
「えー、でも向こうの国では恨まれてるんでしょ、移民電脳化計画とか言って」
 不破が杏の言葉を押さえ付ける。
「それだってまだ実行に移してないというわけか」
 剛田はカバンをリビングのテーブルに放り投げるように置いて、台所の冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。
「危ない橋は渡るなと注意したんだが」
 不破はふん、と鼻を曲げていた。
 辞めたければ辞めればいいと憤慨している不破。
 せっかく剛田が引っ張り上げたのに、未だやりたい放題なのが気に入らないらしい。

 剛田はグイッとビールを飲みながら、自らの胸の内を杏と不破に吐露した。
 
 W4を全滅させてしまったことに対するちょっとした罪悪感。
 それは、元々の組織創設の時に遡った。
 創設される時は、どちらも暗殺部隊として創設されたという剛田。E4がその後も暗殺部隊を続ける可能性もあったという。たまたま、E4はテロ制圧部隊にその意義と業務形態を変えただけの事だった。

 何か言おうとする杏の口を後ろから手を回して押さえ、不破が剛田とやり取りしていた。
 剛田はW4だけに魔窟のような後ろ汚い仕事を押し付けたのは自分かもしれないと言って視線を床に落とした。
 それに対し不破は、未だに暗殺から離れようとしない態度が気に入らないとはっきり言ってのけている。
 許してやれ、と剛田は元気なく不破の肩を叩いた。
 W4は思いもよらぬ形で空中分解し一条も失った。何かに縋りたい気持ちだってある、と。

 福岡に行く前に、九条が毛利市に一度立ち寄るのは明白な事実と考えて、杏と不破は剛田の「済まない」という言葉を伝える為だけに伊達市を飛び出した。
 不破にしてみれば一発くらい殴ってもいいと口にするのだが、暴力反対の杏は猛反対で片腕折るよと不破を脅していた。
「お前ほど暴力的なヤツはいない」と不破に(たしな)められ、杏はまたもや頭に血が上る。ほらみろと諭され、上げた拳を下ろせなくなっていた。
 不破に笑われる杏。杏の口角も段々上げっていき、ついには二人とも笑い出した。
 2人で大笑いしてやっと拳を下ろしたあと、杏は不破に真面目な声で話しかけた。
「ところでさ」
「何?」
「強いのかな、朝鮮国の秘密諜報員」
「どうだろ、お前に素手で敵うやつはこの世にいないから」
「武器持ってたら?」
「お前も銃は携行してんだろ、あとはカメレオンモードしかないっしょ」
「とにかくさ、追いかけて人を簡単に殺すあれだけは止めさせないと」
「やっぱり」
「何が」
「お前が九条を気にしてんのって、そこなんだよな」
「そこ、とは」
「単純な殺人鬼になって欲しくない、っていうか」
 杏もどうして九条が気になるのか自分でも気が付かなかったのだが、不破の一言は胸にズン!と響いてきた。
 そうか、単純な殺人鬼。W4は殺人鬼と化す危険性を孕んだ組織だった。だから気になったのか。
 不破は続けた。
 三条は賢いから、もう殺人鬼たるW4の弱点を見つけている可能性がある。
 だが九条は殺人鬼となるためだけにマイクロヒューマノイドにされ、総理の勝手な考えで路上に放り出されるどころか、2年間も美春さんに面倒を見てもらい身を隠さなければならない生活を送らされた。
 同じように冷静で頭のいい三条とは違う生活を余儀なくされた。
 三条もかなりきつい拷問を受けたようだから決して楽をした訳ではないが。

 杏は自分の中にある九条像がどこか危なっかしいといつも感じていた。
 元々華族の御曹司であり、杏や不破とは生まれも育ちも違う。そして、美春さんのことになるとすぐキレる。
 その他は、ナオミの時のように至って冷静で分析力も高いと言うのに。

「ナオミの時って何」
 不破に聞かれ、しまった、口走ったかと思ったが、もう後戻りできるほど不破はバカではない。
 杏は九条とナオミの話をしたことを正直に話した。
 不破は特にナオミを庇いだてするわけでなく、杏の話を聞いていた。
「ナオミも暗殺部隊出身か。言われてみれば、今のCIAにテロ制圧組織はないな」
「え、昔はあったの」
「知らん」

 槇野がターゲットではないかという九条の言葉をどうやって伝えようか、杏は少し考えた。不破だって暗殺部隊くらい理解できればターゲットを槇野としていることくらいわかりそうなものだが。
 なんといっても、まともな時の不破は九条や三条並みに冷静で賢い。
「なんで日本に来て、WSSSで働いて次はE4なんだろ。ましてやE4なんて秘密組織みたいなもんだし」
「そうよね。何がしたくて留学してんだか」
「そりゃ、何かしらターゲット探してんじゃないの」
「あんただったら誰をターゲットにする?」
「んー、杏」
「簡単に殺すな」
「冗談だよ、今の国内体制でいえば槇野しかいないだろ」
「やっぱりそう思う?」
「あ、九条に言われたな」
「あたしだってたまには考えるわよ」
「いや、お前がこういうところで考えを巡らせるはずがない」

 あたしの頭の中はお見通しというわけか。
 偉い、不破。
 
「だから1回目の護衛には付けなかったのよ。札幌の時は迂闊ではあったけど、結果オーライということで」
「槇野を暗殺したところで日本は変わらないと踏んだんだろ」
「どうして」
「槇野は裸の王様だから。小賢しい役人風情が北米を脅かす存在にはなり得ないと。これが安室だったら暗殺されてた」
「安室元内閣府長官か。あれでW4の未来が崩れた感はあるわよね」
「元々は春日井の子飼いだったW4を寝返らせてクーデター狙った節もあるし」
「安室のやりたかった国民総電脳化計画も頓挫したし、ま、移民計画は安室でなくとも誰かがやる羽目に陥ったような気はするけどね」
「朝鮮国や中華国まで受け入れるとは思わなかったよ。何かしら裏取引があったのかもしれないな」
「でも、ゲルマン居住区との差は痛々しい」
「あれじゃ暗殺したくもなるだろ、両国にとっては」

 そんな言葉のキャッチボールを続けるうちに、2人の乗った車は毛利市に入った。
 一応、ダイレクトメモで九条を追いかけてみる杏。時計を置いて行かれたらジ・エンド。
(もしもし、九条さん、九条さん)
 ダイレクトメモは繋がらなかった。
 やはり伊達市に置いて来たのだろうか。
 でも、使ってない時のザザザーという砂嵐音はならなかった。ということは、携帯はしているかもしれない。
 九条の実家は何回か行ったので覚えていた。
 また、友人の娘で美春が唯一思い出せる人間として訪ねてみた。
「美春さんはお元気でいらっしゃいますか」
 お手伝いさんと思われる年配の女性は、当主と呼ぶといって家の奥へと消えた。
 5分が経過。
 こういう時、5分待つのは結構辛いものがある。
 九条が来ていないことを理由に、今回ばかりは入れてもらえないかもしれないと危惧していたが、やっと当主と呼ばれた若い男性が出てきた。
 あれ、なんだか九条さんに似ている。
 九条さんの兄弟か、はたまた従兄弟か。
 そんな些末なことはどうでもいい。
 美春に会えるかどうか、物腰柔らかな芝居をしながら聞いてみる。
「叔母は病院に行っています。お待ちになりますか」
「いいえ、それでは後日また。今日は近くに立ち寄っただけですので。どうぞよろしくお伝えくださいませ」

 どうやら当主とは九条の兄弟のようだ。
 以前行った病院は、何となく道を覚えている。真っ直ぐ行った先にあったから。
 杏と不破は九条家を後にし、心療内科へと車を走らせた。

 杏が待合室を覗くと、美春が席に座っていた。お付きの人が会計を済ませている。
 今しかない。

「ご無沙汰しております、美春さん」
 美春はそれまでつまらない、といった顔で下を向いていたのだが、杏に声を掛けられると楽しそうな目に変化し杏の元へと走ってきた。
「今、お忙しいですか。ご自宅に伺ったら病院だということでしたので」
「もう会計も終わったから帰らないと。でも、残念だわ」
「今日、九条さんがこちらに来てないですか」
「顔は出したけど、忙しいとかですぐに出て行っちゃった」
「どこに行くかお話になってましたか」
「いいえ。どうかなさったの?」
「いえ、今日は私、非番なんですが九条さんが出掛けていたようなのでこちらかなと思いまして」
「ここから行けるなら、毛利市内か福岡ね」
「福岡?」
「ええ、尚志くんは向こうの大学を出たの。お友達もいらっしゃるそうよ」

 それだ!
「そうでしたか、では次にお会いするときはそのお話も聞かせてくださいね」
「本当にごめんなさい」
「いいえ、お大事にどうぞ」

 杏は美春が病院から車に戻って家に帰るまで、ずっと外で見張っていた。もう、あんな真似をする輩はいないだろうが。
 美春が乗った車が見えなくなると、杏は早速近くで待っている不破の車に乗り込む。
「福岡ね、行ったのは」
「なんで?」
「卒業した大学や友達がいるんだって。朝鮮国からも近くて地理に明るい」
「となれば、暗殺くらいお手のもの、というわけか」
「朝鮮国から来た人物探さないと」

 杏と不破は、猛スピードで福岡をめざした。
 だが、2人とも福岡には仕事の護衛やテロ対策の講演を聴きに来た程度で地理には疎い。
 こういう時に頼るのは、設楽大先生しかいない。
 ダイレクトメモで設楽を呼び出す。
(おい、設楽。福岡の設楽オリジナルマップを送ってくれ。それと、九条の車を追いたいんだが)
(九条さんの車?ナンバーも車種も知りませんよ)
(三条なら知ってるだろう)
(はいはい、地下に降りて聞いてきます)

 しばらくの間。
 不破も何も話さずに一直線で福岡を目指す。
 杏も手持無沙汰になって景観を眺めていた。
 毛利市と福岡市の間に移民居住区はないはずなのに、朝鮮国や中華国の旗を掲げてある掘立小屋がいくつか見つかった。
正式ではない移民がここにもいたか。
 船で荒波を渡ってきたか、旅行と見せかけそのまま居ついたかのどちらかだろう。
 こうしてテロの温床が育っていくのかと思うと、杏は少し憂鬱になり、伸びたサラサラの髪をかき上げた。

 不破の運転する車は福岡市に入った。
 西の玄関口、福岡市。
 人口は150万人。

 第3次世界大戦における西の要所であったが、朝鮮国に近かったため札幌ほど強大な海外の脅威に晒されることはなく、人口が減ることも無かった。
 当時の朝鮮国は軍隊こそあったものの今よりも軍備が遅れておりその分を北米に頼り切っていたが、その北米にも見放されたのが第3次世界対戦の最中だった。
 そういった事情もあり、日本海側にあった福岡県は南側にあった県のように核の犠牲になることなく、今日に至っている。
 ただし、朝鮮国の北部では昔から核ミサイルを研究していたという説もあり、福岡市については札幌ほど人口が増える要因にはなり得なかったというのが識者の見解だった。


(チーフ、チーフったら、聞こえてます?)
 設楽の声だった。どうやらしばらく前から呼んでいたらしい。ダイレクトメモの接続が悪いのか、杏が考え事をしているから聞こえなかったのか、それは定かではなかった。
(悪い悪い、どうだ、九条の車、わかったか?)
(三条さんに聞きました。ガンメタのミニクーパー。年代物ですけどフルカスタマイズしてるらしくて、スピードも結構出るらしいですよ)
(そのミニは今どの辺を走っているかわかるか)
(はい、福岡市内の西区に向かって走行中のようです)
(そうか。何処かで止ったら教えてくれ、我々の車と何キロくらい離れてる?)
(20kmはゆうに離れてると思いますけど)


 設楽との会話をダイレクトメモで聞いていた不破はアクセルを一気に踏み込み、また荒い運転になる。九条をサポートできるかどうかの瀬戸際だし一刻も早く九条に追いつかなければいけないのは分かっているが、荒い運転だけは止めて欲しい。
「不破、そんなに急がなくても」
「何言ってる、ここで逃したら何のために福岡まできたかわかんなくなる」
「そりゃそうだけど」
「ベルトきっちり締めて、身体振られないようにどっかに捕まってて」

 げーっ。吐きそう。杏はひたすら別のことを考える。

 それでも不破が急いだお蔭で、設楽マップで見つけた九条の車へあと数キロに迫っていた。マップを頼りに、交差点をUターンしたり制限速度+50キロで走って見たりと不破と杏は迷走していた。
 だが、ようやく九条の車が見えてきて、設楽に教えられたナンバーを確認し、中に一台挟む格好で杏たちは九条の車を追うこととなった。

 西区に入り、九条の車は一度九州大に入っていく。不破の車では目立つので、マップをダイレクトメモで表示したまま九州大入口近くで待つこと30分。
 他の出入り口から出られたらおしまいになる。
 だがまた、九条の車は杏たちが待ち受けている門から動き出した。
 ラッキー。
 九州大からでた九条のミニクーパーは、博多湾の長浜海岸へと向かっているらしい。
 
 そこに何があるのか、九条は何をする気なのか、杏には見当もつかなかった。
 というより、九条のことになると杏は平静を失うのかもしれない。九条が美春のことで我を忘れるように。
 おかしいな、不破の考えることなら何でもすぐにわかるのに。
「お前も冷静になって考えろ。九条は大学で何かを調達し長浜海岸で誰かに会う気だ」
「あ、そっか」
「お前なあ。俺が思うに、ありゃ大麻の類いじゃないのかな」
「厳しく制限されてても、地方にくると制限なんて無いに等しいということだな、不破君」
「お前生意気~。ほれ、酔わせてやる」
 不破は蛇行運転を繰り返し、本気で杏は酔いそうになった。
「こっちの警察に捕まるわよ、やめといたら?」
 急に真面目な運転になり九条を追う不破は、運転しながら何かを考えている。事故を起こしはしないかと、杏としてはとても不安になる。
 不破の考えているとおり、大麻を持ちだして誰かと取引でもするつもりか。
 ただ、日本自治国内や国立大学内で生産される大麻は、マリファナにはなりにくいと言う検証結果も出ているくらいで、大麻がどういう取引の材料に使われるのか、それは首を傾げるよりほかない。

 九条だってたぶん九州大学にいたのだろうから、現状は分かっているはず。となれば、誰かを騙して大麻を渡し、別な情報と交換すると考えれば合点がいく。
「不破のいうとおりね、大麻を持ちだし交換条件にして、誰から情報を引き出すって腹か」
「俺たちはどこで九条を捕まえればいいんだ?」
「取引相手がいない時に捕まえるしかないでしょ」

 九条の車は長浜海岸の駐車場に停まった。その手前の道路で不破は車を停め、遠目にでも九条の動きが分かるようにしていた。
 時間は午後1時50分。
 たぶん、九条が相手との待ち合わせているのは午後2時だろう。
 ダイレクトメモを使って、もう一度だけ連絡を取る杏。
(九条さん、九条さーん)
(どうしました。僕、今日は休暇なんですけど)
(後ろ見て、2000GTの不破と五十嵐です)
(どうやって知ったんです、ここを)
(設楽マップ)
(邪魔しないで下さいよ、相手は朝鮮と北米間のスパイなんですから)
(あら。何聞きだすの)
(いま日本に来てる朝鮮国諜報員の名前と宿泊先です)
(なんちゃって大麻どうするの)
(栽培用に渡すだけですよ。マリファナとは一言も言ってないし)
(あとから報復されない?)
(あ、向こうが来た。そっちは恋人の逢瀬のふりでもしててください)

 ダイレクトメモは突然切れた。目を凝らして九条の車を見ていると、九条は車から降り、駐車場に入ってきた一台のハマーに乗った人物と車の窓越しに握手を交わしている。そして車の中に向けてなんちゃって大麻を渡した。相手は大層喜び、九条の質問に滑らかに答えていたと思われる。相手の顔がほころんでいたから大凡間違いないだろう。
 見た感じ、アジア人ではなく欧米人に見えたが、電源をいれっぱなしの九条のダイレクトメモから流暢な朝鮮語が聞こえてきていたので、相手はほぼほぼネイティブの在朝北米人か。九条がいやに朝鮮語が上手なことに杏と不破は驚き、2人で顔を見合わせた。美春さんに習うわけがないし、どこで習ったのだろう。暗殺部隊の仕事で朝鮮入りすることもあったのか。
 ただ、向こうの声が聴こえるということは、こちらの声も聞こえる可能性があるので杏も不破も話すことはしなかった。

 朝鮮北米間のスパイか。
 ナオミにでも紹介してもらったに違いない。
 ナオミの行動も実に不可解なものだったから、今はもう、何が起こっても不思議ではないと杏は思っていた。

 朝鮮北米間のスパイらしき人物の乗るハマーが駐車場から出て杏たちの車に近づいてきた。
 仕方ない、恋人のふりでもして抱き合うか。
 杏は丸い目をした不破に文句を言わせず首に手を回した。不破も杏の腰に手を添える。小さな声で「もっと!」と言われた不破は、腰に回した手に力を込めた。見つめあうとどちらからともなく笑いが込み上げそうだったので、互いに目を瞑る。

 ハマーが通り過ぎるエンジン音が聴こえ、バックミラーで離れたことを確認したのち、杏と不破はお互いの手を解くと同時に、腹の底から大笑いする。
 腹の皮が思わず捩れそうになるほど笑っていると、九条からダイレクトメモが入った。

(朝鮮国諜報員の宿泊先ですが、不思議なことに、ここ福岡じゃない、毛利市なんです。また叔母を狙うつもりかもしれない。僕は先回りして帰りますから。帰りに九条の家に寄っていただけるとありがたい)
(了解)

 九条は自分の車に乗り込むと、タイヤをキュキュっと鳴らして毛利市へと戻っていった。
 杏と不破は、それなりのスピードで設楽マップを使い福岡市を離れることにする。
 九条の後を追いかけてハマーとすれ違ったら少々具合が宜しくないことを認識していたからだ。

 九条とは別の道を通りながら、午後のひととき居眠りをしている設楽を叩き起こし不破の車と九条の車の差を聞きつつ、スピードを上げて毛利市へ戻る杏と不破。その距離は段々と離れていく。
 如何に九条がフルスピードで高速を運転しているかがわかるというものだ。
 諜報員か。
 お願いだ、九条。早まった真似だけはしてくれるな。
 そんな気持ちで杏は前を見ている。
 不破も運転に専念し、2人はとうとう毛利市に入るまで口を開くことが無かった。

 福岡市から2時間。大きな道路だけを通ったので九条との差はだいぶ開いていたらしい。
 九条の実家に寄ると、まだ九条の車が駐車場に停まっている。
 不破の2000GTも結構目立つ車なので、手前のコインパーキングの奥に車を停め、万が一のためにカメレオンモードになって九条の家の玄関前まで歩く。近くにハマーや目立つ車は停まっていなかった。

「ごめんください」
 インターホンを鳴らすと、お手伝いさんが出てきて不審そうな顔をする。
「九条尚志さんは御在宅ですか」
 美春ではなく、九条にアポを取ってあると前置きすると、少々お待ちを、と告げられ5分以上待たされた。この家ではさっさと家の中に足を踏み入れたことがない。
 やっと九条が出てきたかと思うと、叔母が少し変調をきたしていると言われ、杏は許しも得ていないのに、靴を脱ぎ裸足のまま美春の部屋へ向かった。

「美春さん」
 ドアを開けながら呼びかける杏。
 不思議なことに、美春は杏のことを忘れていた。
「どなた?」
「五十嵐杏です、覚えていらっしゃらない?」
「こんな若い御嬢さんは知らないわ」
「剛田さんは御存じですか?」
「ええ、剛田さんにはお世話になったもの」

 もしかしたら、と、整形前の本木と整形後の逢坂の写真を2枚、美春の前に並べる。
「あ」と口を噤んだまま、美春は眉間に皺をよせ厳しい顔になり、さっと2枚の写真を手にすると脇に置いてあった自分のバッグの奥底に仕舞い込んだ。
「どうしてあなたがこの写真を持っているの?」
「剛田さんに頼まれたからです、写真のお2人のことも思い出されましたか」
「いやだ、忘れるわけないじゃない・・・だって・・・2人とも・・・」
 そういったまま、美春は両手で側頭部を押さえて苦しそうに下を向いた。
「そう、この人は私の・・・」
 杏が美春に2人との関係性を問いかけようとした時。
「ごめんなさい、1人にしていただいてもよろしくって?」
 1人になりたいと美春に言われてはその質問を投げる訳にもいかず、杏は部屋の外に出た。
 あれは、もう思い出している。剛田のことも、夫であった逢坂、本名である本木のことも。
 夫と死別したといえ、なぜ今、自分が実家に戻っているのか不審に思ったのだろう。
 30代後半から40代のころを思い出し、杏のことは記憶が並行したことにより蓋をされたのかもしれない。
 美春が芝居をしているとは到底思えなかった。

 そういえば、美春は沖縄旅行の時、大きなクルーズ船ですら乗るのを嫌がった。
 元々船に乗ることが嫌だった節はない。
 あの時も考えたが、やはり美春が行方不明になった際に船にまつわる記憶で嫌なことがあったのではないか。
 となると、船で拉致された可能性も否定できない。
(不破。あの事件の時、地元警察に何かしら情報が入ってなかったか、設楽に頼んで調べてもらって)
(了解、そっちは進展あったのか)
(断片的に思い出してはいるけど、今度はあたしのことを忘れたみたい)
(そうか。全てのピースが埋まりきらないのは仕方ないな、時間がかかるかもしれない)

 不破とのダイレクトメモを終わらせたとき、ドアの内部から何やら音が聴こえてきた。
「杏さん、部屋にお入りになって」
 突然ドアが開き、美春が杏を小声で呼ぶ。目尻に皺が寄り、どこか晴やかな表情を取り戻したようにも見えた。

 杏には、美春の魂がやっと光を取戻し、今ここに鼓動を得たように思われた。

「わたくし、全て思い出しました」
 杏が驚きをもった眼差しで部屋に入ると、美春は自室で物思いに耽っていた九条をも部屋に呼んだ。
「剛田さん、杏さん、尚志さん、そして夫。皆、わたくしにとっては大切な方々でしたのね」
 九条は、夫、と言われた時だけムッとしたようで眉間の間隔が狭くなる。

 美春はこれまでの人生を振り返り、自分にとってかけがえのないものだったと熱弁した。
 その中でも、本木と剛田に出会い支えられたことで今の自分があるという。
 九条はその言葉が気に入らなかったのか、目線を変えさせる目的なのか、事件に巻き込まれた時のことも覚えているのかと美春に問うた。
 
「ええ。わたくしが伊達市でホテルに滞在していた時のことでしょう」
「はい、叔母様。ご自分からいなくなったのか、誰かに、そう、拉致でもされたのか」
「拉致といえば拉致ね。ホテルマンの恰好をした男性が部屋に訪ねてきて、ロビーでお客様がお待ちですと言ったの。付いていくと背広姿の男性が立っていて、剛田さんの使いだと言ったわ」
 杏がひとこと口を挟む。
「でも、実際は剛田さんの使いではなかった」
「そう。そのまま車に乗せられて港方面に向かって。変だなと思ったら、さきほどのホテルマンも船に乗っていたの」
「ぐるだったんですね、そいつらは」

 九条は美春に対し、杏が聞きたかったことを遂に口にした。
「なぜ拉致されるようなことになったんです?」
「尚志君はいつも直球しか投げないのね。少し長くなるかもしれないけど、いい?」
「はい、どうぞ」

 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 美春は夫の死後、剛田に紹介され朝鮮国内で翻訳の仕事を主に生計を立てていた。
 様々な国から流入してくる移民は朝鮮語がわからなかったため、英語から朝鮮語、あるいは中東各国の言葉と朝鮮語、といった形で翻訳の仕事は引きも切らず舞い込んだ。
書籍であったりネットのホームページであったり、中には同時通訳という緊張感のある仕事もあり、時期が重ならない限り全てを請け負っていた。

 概ね満足する生活の中で、ある時、朝鮮の諜報機関と北米CIAの人間がやり取りしていた文書を翻訳する役割を請け負うことになった。
 そういった重大な仕事を一民間人に託すのは変だと思ったし、その中身も一民間人が聞いてはならない内容だった。
 これは、仕事が終わったら自分は消される。
 直感的にそう感じた。

 美春は仕事を終える直前に日本への航空便チケットを予約し、終えると同時に身を隠しながら日本国内に逃げた。消されることを見越しての逃亡だったが、やはりそのとおりだったようで、朝鮮の諜報機関が美春を追ってきた。

 伊達市で拘束し航路で朝鮮に連れ戻すことを予定していたようで、どこまで日本国内で情報を流布したか拷問して、全てを聞きだすつもりだったと思われる。
 美春は船のなかで“情報は一言たりとも洩らしていないし、仕事のことはいつも直ぐに忘れている”と反論したが、当初の計画から特例は一切認められなかったという。

 そこで美春は勇敢というか無鉄砲というか、皆がいる前で甲板に走り出た。
 時間は夕方遅く。もう金星が船から見えるようになっていた。周りには島すら見えず光も見えない海原だけが続いているというのに、地平線に向かい船から身を乗り出しそのまま海の中へと自ら落ちることを選択した。

 諜報機関の男たちは、もうここで海に落ちたら命はない、と美春を探しもせずに朝鮮に向かう航路を取った。夕闇が迫る中、もう美春の命は尽きたかと思われた。


 ところが、である。
 非常に運がいいと言うか、運だけで片付けていいのかどうかも分からないのだが、美春は近くを航行中だった日本の漁船に助けられた。

 しかしこのとき、美春は自分の名前すら思い出せず全てを忘れ果ててしまっていた。
 漁船は港に入り、親切な漁船の乗組員が病院に連れていこうとすると美春はなぜか波の間に姿を消した。
 もしかしたら、追いかけられているという記憶だけが美春の心に残っていたのかもしれない。

 そして、九条たちに見つけられたときには、全ての記憶を失くしていた。
 九条は脳を弄られたのではと心配していたが、そこに行きつく前に逃げていたので脳は大丈夫だった。
 だが、朝鮮国は周到だった。美春の過去を徹底的に洗いだし九条家の人間であったことを知り、九条の実家を張っていた。
 美春が戻ったことで、九条の実家は射程距離範囲内と目され、心療内科に行く際に捕まったということだった。

 ここでひとつの疑問が残った。
 拉致誘拐されて以降、毛利市に住むようになった後に誰が剛田を呼んだのか。
 これには多くの謎が潜んでいたが、剛田と美春の関係を突き止めた朝鮮自治国諜報機関では、剛田と美春を一緒に始末しようと計画を立てたのだろう。
 剛田が逢坂の友人として朝鮮に出入りしていたことだけがクローズアップされただけで、ほとんど表に出ることのないE4の室長であることは諜報機関でも情報が錯綜していたとみられる。
 ただ単に警察府の人間だとしか身分を掴んでいなかったのかもしれない。

 もちろん甥の九条尚志がWSSSにいたことも調査済みではあったのだろうが、春日井のマイクロヒューマノイド弾圧時に一時姿を晦ましたこともあり、九条の存在はそこで途切れてしまったと見るのが妥当な線だった。
 まさか、九条が生きていて、美春奪取のために動くとは考えも及ばなかったのだろう。

 その場にいた杏と九条は、外で待っていた不破の存在を思い出し、済まなかったと詫びて九条家に入れた。
 九条家では美春の記憶が戻ったことを大袈裟なまでに喜び、皆を引き留めて祝宴を上げた。
 畏まって座っている杏や不破は何か自分たちが場違いな気がして、九条に理由を話し明日の仕事があるからと宴会を中座させてもらった。
 
 帰りがけに、剛田にダイレクトメモを送る杏。
(美春さんの記憶が戻ったわ。でも、朝鮮の諜報機関と北米CIAの人間のやりとりを翻訳したことで、これからも狙われる可能性は大きいと思う)
(記憶が戻ったのは何よりだ、あとはこちらでも策を講じる。お前たちは一旦伊達市に戻れ)
(了解、九条さんは明日休みかも)
(久しぶりに本当の意味で叔母さんと会ったんだ。明日くらい年休とってもいいだろう)
(そうね、では、これから戻ります)

 不破は、今までにないほどゆっくりとアクセルを踏み、杏が騒ぎ出さないほどのスピードで伊達市に向かい高速道を走り続けた。

第7章  北斗の休日

 国民投票は、槇野首相の思惑通り日朝中間国交断絶を支持し賛成票を投じる者が圧倒的多数を占め、賛成得票率は80%を超えた。
 その一方で投票率はというと30%にも満たないという有様で、大雑把にいえば、このことに興味がない国民が全体の7割を占めると推察される結果となった。

 国民投票前後に槇野首相が行っていた演説会の度に護衛を申し付けられていたE4では、メンバーが二分する形で冷戦に突入していた。
 あの設楽でさえ、口を利かずにIT室にひきこもり八朔と中で何を話しているのかすらわからない。
 
 剛田は頭の痛い日々を過ごしていたわけだが、そうそうそんな日々ばかりではない。

 久しぶりに北斗がE4に顔を出した。
 さる国会議員秘書としてスパイ活動を行っている北斗。
 杏以外の皆にはまだ内緒にしてあるが、その国会議員とは、今や槇野を追い越さんばかりの人気を誇る西野谷(ゆずる)だった。
 どうして北斗が普段の任務とは全く関係の無い国会議員秘書に化けたかといえば、槇野の指示だったことは容易に想像できる。
いわゆるところの身体検査というやつだ。
 近頃、西野谷を内閣府長官に任命してはどうかという意見が内外において噴出していたことから、槇野としては体裁を取り繕うためにも西野谷の調査が必要だった。

 とはいえ、槇野は究極の自分ファーストの人間だったから、将来の首相候補と呼ばれ自分よりも人気が出てきた西野谷の動向を非常に(おそ)れていた。
 そこでE4に命令し、身体検査という名目の元に西野谷の行動を丹念に探りその弱点を見つけ、首相候補から外してしまおうというのが槇野の魂胆だった。
 
 北斗はE4創設当初からスパイ任務に就いており何でもするとはいえ、今回の仕事に関しては腰が引けると言うか、できれば関わりあいになりたくないといった表情を見せた。
 新興宗教や反社会勢力の方がよほど律儀なところがあるとも言える。
 もちろんそれらを肯定するわけではないが、お山の大将を目指す人間たちは反社会勢力よりもよほど腹黒く、人一人を潰すことをアリ1匹と混同しているのではと思うことすらあるからだ。

 剛田は北斗を49階の会議室に連れていくと言って、北斗と杏を連れて部屋を出た。
 会議室に到着するや否や、北斗は珍しくだらだらした姿勢で椅子に座った。
「いやー。久しぶりの休日ですよ」
 剛田が目を細め笑いながら北斗の愚痴に応じる。
「あれから全然休む暇もなかったのか?」
「人使い荒いったら。僕だけかと思ったら、どの議員の秘書でも似たようなものなんだそうです。政治の世界はノー・サンキューですよ」
「まあ、そういうな。もう少し働いてくれ」
 北斗は剛田の言葉を聞くと項垂れる仕草を見せた。
 半ば本気だったのかもしれない。
「3ケ月近く働いて休日全くなしって。どれだけ過酷だと思います?」
「そこまでとは思わなかった。槇野首相が西野谷議員に興味を示していてな。もうここまで来ると嫉妬かストーカーに近いんだが」
「嫉妬ですよ、議員宿舎では有名な話です」
「で、何か情報はありそうか?」
「僕は下っ端なので運転手や車の掃除とか、よくてお茶出ししかしてないんです。コピーでも取れればどういう内情か判るんですけど」
「私設秘書の1人だからな。西野谷議員は私設秘書も辞めないと噂を聞くが」
「辞めませんね、酷い議員の元で働き出すと、3日で来なくなるそうですよ」
「それはまた極端な例だろう」
「それが、結構この世界ではあるらしいです。秘書を人と見做さない連中の集まりですから」
「政治家はお前が一番嫌う人種のようだな、珍しく能弁だ」
「任務がなかったら3日で辞めてます」
 北斗の肩をポンポンと叩き、笑いながら剛田は立ち上がる。
 そしてESSSの会議に行くと言って会議室から出ていった。

 剛田が座っていた席に杏が移り、畑違いのスパイ活動で凹んでいるようにも見える北斗の愚痴を聞く。
「だいぶこき使われているようじゃないか、北斗」
「この3ケ月で5キロ痩せましたよ。ダイエッターにはいい仕事かも」
「そういえば、頬がコケ落ちてるな」
 
 身体検査という名目は別として、槇野首相が今一番警戒しているのが西野谷議員には違いなかった。
 嫉妬やストーカーというフレーズも剛田の口から出たが、真面目にそうらしい。槇野首相の私設秘書は、西野谷議員をつけ回したり、本職の探偵にお願いしているという噂も聞く。
 そして探偵料は公費で払う。
 何かが欠け落ちてるとしか言わざるを得ないが、政治家とはそんなものであり、国民の納めた税金を一番無駄に使うのが国会議員ということになる。
 国会議員の議員年金。一般人とはかけ離れた金額とも。
 国民から搾り取った税金は、お前らの年金に成り果てると言うわけか。いや、集めた分を公務員と同じようにどこかに預けてお金を増やしてるんだっけ。
 税金使わないなら、自分たちは何もいうことはない、と杏は頭をぐるぐるさせる。

 一般人が国会前で繰り広げるデモに参加するくらいの大事ではあるのだろうが、杏はそういった物事に興味も無く、北斗から聞く秘書事情というものは、なぜにそこまで人間扱いされないのにボスに尽くすのか、という心理の方が興味の端に引っ掛かる。

「ところで、西野谷議員の弱点は見つかったか」
「まだ3ケ月なんで、車運転してても会話の意味が分からなくて。ただ、公用車を使わないで宿舎を出る時があるんです」
「女か」
「恐らくそうかと」
「女の恨みは怖いぞ。何かやらかしたらすぐにスキャンダル確定だ」
「そうなったら、ソースとしては僕が一番疑われるんでしょうね」
「かもな」

 杏と北斗が会議室から戻ると、IT室から設楽と八朔が出てきて、北斗の任務内情を聞きたがる。
 まだ誰にもどこで何のためかという活動内容自体を話していないし、ほとんどこちらに顔を見せたり連絡も来なかったため、心配、というよりは話の種が欲しかったとお見受けする。
 北斗はやんわりとそれらをかわしソファに座って活字新聞を見ていた。
 そこに、地下で射撃訓練を終わらせたメンバーが続々と戻ってきた。

「北斗、お疲れ様」
 優しく声を掛ける不破に続き、西藤や倖田も一声かける。
 だが九条や三条は北斗を半ば無視するように自分の椅子に座って二人で何やら相談事の時間に充てているようだった。
 
 一番後に部屋に入ってきたのはナオミだった。
 北斗を見ると、ソファに寄って行き、声をかけた。
「ハイ、北斗」
「ナオミさん、元気ですか」
「んー、射撃訓練でへとへと」
「そりゃ大変だ」
「北斗は今、何してる?」
「色々と」
「ねえ、何?」
 アリ地獄につかまった昆虫を救うかのように、杏が笑いながら2人の間に割って入った。
「北斗、久しぶりに来たんだ、バグとビートルに会って行け。喜ぶぞ」
「はい、ではお言葉に甘えて」
「私も行く」
 杏の言葉は逆効果になったようで、北斗とナオミは一緒に地下2階に降りていった。
ナオミは色々と北斗に質問するだろうが、北斗は現在の任務を明かすわけもないし、その辺は北斗を信じている。
 ナオミが北斗と話をしても平行線になるのは必至だと思いながらも、杏の心のどこかに、ナオミがある種の異端児=危険人物であることがインプットされてしまっていた。
 仕方ない、地下に降りるか。

 杏は1人で廊下に出るとエレベーターホールに行き、地下2階のボタンを押した。
 エレベーターから出た途端、バグたちの声の中にナオミの声が混じってみんなで大笑いしている。
 北斗の声は聞こえない。
 きっとまた皆にオイルを注して回っているのだろう。
「ナオミッテイウンデショ、ニホンジンミタイ」
「正真正銘、北米人よ」
「フワクライセガタカイネ」
「不破ほどじゃないと思うけど」
「アンヨリオネエサンナノ?」
「こら、女性に年を聞くものじゃないわ」
「ドウシテ?」
「どうしてかな?」

 杏はバグたちの方に近づき北斗を探すふりをした。
「北斗は?」
「ア、 アンダー」
「ホクトハネ、イマボクラノネドコノオソウジシテル」
「アンハナンサイナノ?」
「今ナオミが言っただろう、女性に年を聞くものじゃないって」
「アンッテジョセイダッタノ」
 背中をバシッと叩かれるバグ1台。
「私も一応女性だ」
「ソウダッタンダ」
「マタヒトツベンキョウシタヨ」
「ミンナ、アンニトシヲキイチャダメナンダッテー」

 大騒ぎしている6機のバグとビートル。
 女性の登場が余程お気に召したらしい。
 これではナオミも北斗と会話らしい会話もできまい。

「偵察?」
 ナオミが杏に向かっていやに挑戦的な眼差しをぶつけてきた。
「私の行動が気になる?」
「チーフだからな、四方に目を配るようにしている」
「あら、そう」
 あら、そう、だと?
 だから女は苦手なんだ。
 女であることを最大限に利用して別の女と敵対する。
 どっちが男性に好かれるかをバロメーターにして、優位を保ちたいがためにマウントを仕掛けてくる。

 馬鹿らしい。
 私にはマウントも敵対も興味はない。
 こいつ、とっとと早くCIAに帰らないかな。
 九条はこいつが槇野を狙ってる、っていうけど、あんな総理が暗殺されたところで我々にマイナス事項が生ずるわけでもない。
 前の春日井と比べてもどんぐり背比べといったところだ。
 こうなってくると、杏の中での総理大臣適任者へのボーダーラインがどんどん低くなっていく。
 もう少しまともな首相は現れないのか。
 西野谷議員は世間では評判のようだが、果たしてどんな人間なんだろう。
 北斗がもう少し西野谷議員の懐に入って探れるようになれば、人となりも見えてくることだろう。今はそれを待つしかない。

「アンッタラ!!」
 ビートルの声で杏は物思いに耽っていた自分に気が付いた。
「北斗とナオミは?」
「モウイナクナッタヨ」
「そうか、じゃあ今日はお前たちも寝る時間だ。お休み。電気消すぞ」
「ハーイ」
「オヤスミナサーイ」
「チャオ」
「どっから覚えてきたんだ、“チャオ”なんて」
「ナオミニキイタ」
 何をバグたちに教えているんだと、杏は少し可笑しくなって大笑いしながら部屋の電気を消し、ドアを閉めてエレベーターホールへと歩き出した。

 49階では地下の喧騒が嘘のように、皆が黙って自分の時間を持っていた。
 北斗も珍しくうたた寝している。
 国会議員の秘書とは、相当気を遣うものなんだろう。毎日がその連続に違いないだろうに、北斗は本当に良くやってくれている。

(あたしなら3日で行かなくなるな)

 そう考えながら杏が北斗にハーフケットを掛けてあげると、九条が杏の傍にやってきた。
「お疲れのようですね、彼は」
「まあ、色々とあるんだろう」
「国会議員の秘書なんて地盤を譲ってもらうための登竜門のようなものですからね」
 杏は驚きといっていい目で九条を見る。
 九条が真の北斗の任務を知っているのかカマをかけているのかどうか、どちらかわからなかったため、返答に困っていた杏。
 九条も杏を見返し一瞬目をくりっと大きくして口角を上げる。
「返事は期待していません。僕の情報網もまだまだ健在だと言うアピールですよ」

 不破がこっちをじろじろと睨み始めた。
 九条がそれに気付かない訳もない。
「さて、本日はこれまでということで」

 時計を見ると、もう退庁時間に近かった。

 杏はハーフケットをぎゅっと握りしめる北斗を見ていた。
 そういえば、北斗がここに来たのは昼過ぎだったか。
 午前中は自分のアパルトモンで爆睡していたろうに、本当に律儀なやつだ、北斗は。

 周囲を見回すと、皆北斗の寝姿を見ていたようで静かに退庁の準備をしている。
 ナオミだけが仰け反った姿勢で足を大きく組み、動く様子もない。
 北斗を起こして一晩バーにでも連れていくつもりか、と杏はこめかみに青筋をたてた。

「北斗、もう時間だぞ。帰ろう」
 不破が助け船か泥船かわからないような態度に出た。
 お前が一緒になったらナオミがついていくだろうに、と杏は少なからず心配しながら北斗を見ていた。

「あ、もうこんな時間ですか。今日は剛田室長と食事しようと思ってこっちに来たんです。まだ戻ってないのかな」
 北斗、ナイス言い訳。
「まだ戻っていない。不破、最初に帰っていいぞ」
 杏がナオミを視野に入れながら不破を帰そうとすると、ナオミはなおも北斗を待とうとしたが、何か不穏な空気を感じ取った不破がナオミをバーに誘い一晩付き合う約束でことは収まった。

 剛田が退庁時間を30分も過ぎてからE4に戻ってきた。
「何だ北斗、明日も早いんじゃないのか」
「昼間話せなかった連絡事項です」
「じゃあ、酒でも一杯ひっかけながら聞くとするか」
 
 剛田は北斗と杏を連れ、馴染みの小料理屋に行き個室をとった。
 料理が並べられていくのが一段落した頃、剛田が口を開いた。
「西野谷議員についてか?」
「いえ、西野谷議員のことではないんです」
「とすると」
「はい、槇野首相について」

 北斗が話し出したのは、槇野首相に収賄疑惑が持ち上がっているというものだった。
「お友達わいろ疑惑」と題した収賄疑惑。

 ひとつは、槇野の古くからの友人が経営する大学に、本来申請してはいけない学部が申請され、それがまかり通って来年4月から開学するというものだった。
 その学部とは、獣医学部。
 獣医学部の卒業生は、その殆どが開業し小動物を診ている。
 本来、道府県で必要とされる獣医師は、見る対象が様々だからなのか、給料が安いからなのか、はたまた鳥インフルや豚コレラといった災害その他で動物を殺す役目を担うからなのか、全然募集数に足りず、毎年頭を抱えているのが現状だった。
 第3次世界大戦終了後、道府県では苦肉の策として高校を卒業した者が獣医師見習いとして地方公共団体に就職しながら決められた大学に通い、6年の課程を学修し、また地方公共団体に戻るという方法を採ったが、学修する中で翻意して仕事を辞め動物病院を開設する者が後を絶たなかった。
 そのため小動物の獣医師は充足しており、開業しても結局は儲けにならず病院を閉める者まで出ていた。
 裏事情も透けて見える観点に立ち、国としては獣医学部の学部申請を認めておらず、他に何か方法がないか情報収集しているのが実情だった。
 それがここに来て、およそ生物とは何の関連もない大学により、獣医学部の学部申請が出され、認可を受けた。
 一重にこれは、槇野が裏で金を受け取り、時の文部科学技術省に圧力を掛けたからだという噂が立っているというのだ。


 もうひとつは、やはり槇野の奥方のお友達が私学の小学校を建設するにあたり、本来何十億の価値があるとされる国有地を10分の1ほどの値段で入手した、というものだった。
 これもまた、槇野の奥方が裏で金を受け取り、ときの大蔵財務省に圧力を掛け不当に土地を斡旋した、斡旋収賄罪に問われるべき事案だと言うのである。

 こちらは獣医学部よりもっと手が込んでいて、偽の契約書が何通も見つかるという絡繰りがあり、真実がどこにあるのか、槇野の奥方を証人喚問しようとする動きも見られたが槇野は頑として受け付けず、奥方のお友達が詐欺を働いたとして書類送検されることとなった。
 本来、こういった事件は刑事裁判を通じて罪を詳らかにするのが政治家にとっての慣行であったにも関わらず、である。


 これらはまだ、槇野の子飼いである現在の内閣府長官が押さえつけていたためマスコミにも明らかにされていなかったが、槇野周辺から取材攻勢を強めている反政権派の活字新聞では、当の昔にこの案件に勘付いており、あとはスキャンダルを出す時期について社内で調整していると言われているのだそうだ。
 スキャンダルが出ることが事前に知れれば、この出版社は槇野によって空中分解の沙汰を受けてしまう。それを避けて地下で活動していると、北斗の口から語られたのだった。

 剛田は目を閉じ口元を真一文字に結んで北斗の話を聞いていた。
 話し終えたあとも、しばらく目を開けようとはしなかった。
 何かしら、考えることがあるのだろう。

 その点杏は何も考えずに口を開く。
「お友達内閣か。今でもそういうことってあるのね」
「いやー、槇野もいい加減にして欲しい感はありますよ」
「ソースはどこからなのかしら」
「それこそ元秘書とか、元愛人とか、色々あると思いますよ」

 剛田が目を開き北斗を見て、重々しい口調で語った。
「北斗。そのことはしばらくお前だけの胸の中にしまっておいてくれ。いずれ公になることとは思うが」
「はい、了解です」
「それより、西野谷議員の方は本当にまだ何もわからないか」
 剛田がいなくなってから杏に話したことを、北斗は繰り返し話した。
「公用車で帰らない日があるんです」
「行き先は?」
「尾行できる状況ではないのでまだ不明です。時間を見つけて尾行します」
「忙しいところ悪いが頼むぞ」
「もしかしたら今回の件、槇野首相からの依頼ですか」
「ま、そんなところだ。我々は探偵事務所ではないといくら言っても聞く耳を持たない。困ったものだ」
「次回の休みまでにはご報告できるようにしますので」
「ああ、お願いする」

 翌日は早めに出勤しなくては、と北斗は酒も飲まず食事も1人前食べないで席を立った。
 杏は尊敬の念を持って北斗の後ろ姿を見送る。
「本当に、E4で一番稼いでるのは北斗だと思うわ」
「どんな場所でも危ないところでも文句ひとついわずにスパイとして入ってくれる、ありがたいな」
「今回も北斗が危なくなったらお助けマンで行かせてね」
「そんなことはないと信じたいが、何が起こるかわからないのが政治の世界、いわゆるところの”伏魔殿”というやつだからな」


 北斗は翌日からまた西野谷議員の私設秘書として、汗を流す毎日となった。
 公用車を使わず帰る日が週に1度か2度。
 公用車の洗車を行い、その他にも書類の後始末や翌日以降の来客に関するスケジュール管理を任されるようになり身体がいくつあっても足りない状態の北斗だったが、何か理由をつけて西野谷を尾行しようと考えていた。
 
 西野谷は自宅に帰る様には見えなかった。
 公用車を使わない時は議員会館からタクシーを拾って帰る日がほとんどで、たまに公共交通機関の駅に向かって歩いていくのが見られたが、そもそも自宅とは反対の方向。
 やはり、女か。
 でも、西野谷は独身。別に誰と付き合おうが周囲から何も言われる筋合いはない。
 槇野は何の弱点を知りたがっているのだろう。
 早く仕事を切り上げて西野谷を尾行したいと頭の片隅に思いはあるものの、新しい仕事は思った以上に頭を使う。
 目の前から去っていく西野谷を見て、北斗に焦りが無かったと言えば嘘になる。

 しかし、今の自分ではどうしようもないことを弁えている北斗は、とにかく仕事に早く慣れようと必死に頑張っていた。

第8章  夢の蹉跌

 その頃、E4ではちょっとした嵐が巻き起こりかけていた。
 なんと、槇野首相が突然、西野谷議員暗殺をE4に命令するという暴挙に打って出たのである。
 西野谷が裏で朝鮮国のテログループを支援している噂がある、というのがその理由だった。

 剛田は西野谷に張り付いている部下から何も報告がないとして、暗殺に対し慎重な姿勢を崩さなかった。
 すると槇野首相はE4解散の命を出すと言って剛田を脅してきた。
 暗殺か、解散か。
 剛田が受ける電話の向こうで槇野が怒鳴り散らすため、E4メンバーにもその話は漏れ伝わり、剛田が槇野から1日の間に何回も呼び出しを受けていなくなると、室内は騒然となった。

 設楽は基本的に槇野を好きではないようで、北斗から報告もないまま、大義名分のはっきりしない暗殺など到底受け入れるべきではないと叫んでいる。
 八朔も基本路線としては設楽と同じだが、暗殺しない=解散という槇野の意地の悪さを口撃していた。

 一方で九条は、槇野のいうことを受け入れ西野谷暗殺に舵を切るべきだと口にして設楽と睨みあいバチバチと火花を散らしていた。
 三条も考えは九条と同じで、もしこれがW4ならすぐに暗殺指令を実行に移しただろうと言い、九条を擁護する。

 不破は、槇野が大義名分としている朝鮮国テログループ支援の有無をまず調べ上げるのがE4の任務だと九条と三条を突き放した。
 倖田と西藤も、E4の任務の正当性を担保していないことには、槇野からはしごを外された場合にどうするのかと九条に食って掛かる。

 任務の正当性など我々には関係ない、ボスからの命令に従うか従わないかの2択だとナオミは投げ捨てるように言って、自分の論理を曲げる気はないとして引かない。

 E4室内はすっかり二分されてしまい、杏が何を言おうとも誰も聞く耳を持たないような状態になり、杏は半ば爆発しそうになった。

 そこに剛田が疲れ果てた表情で戻ってきた。今日一体何回目の呼び出しだっただろうと杏は剛田を心配そうに眼で追う。
 剛田は小さな声で皆を統制しようとしているが、皆はもう熱くなっていて、剛田の声が聞こえていないようにも思われた。

「皆、静かにしろ」
 設楽は結構せっかちな性格ゆえに、事の次第を知りたがって剛田の机の前に行く。
「一体どうなっているんです、今」
「設楽、まず珈琲を一杯飲む時間をくれ」
 剛田が決して答えを引き伸ばしているわけではないのだが、皆にはそう映らなかったかもしれない。
 また先程と同じことを口々に言い出して、互いを(けな)しあっている。

「さっきも言った。静かにしてくれ」
 剛田の声はやっと杏に聞き取れるくらい。だいぶ向こうでやらかしたのだろう、本当に疲れ果てているようだった。

「皆黙れ!!」
 杏が銃を空砲で鳴らすと、ようやく皆の貶し合いが止った。

「経過を説明して頂けますか、室長」
 九条がゆっくりとした口調で言うと、設楽を押しのけながら剛田の前に立った。
「経過、か。そうだな」
 剛田は一度軽く咳払いをすると、電脳を繋ぐよう皆に指示した。
 声を荒げ槇野とやり合って来て、大きな声が出ないのだった。
「皆がどこまで知っているかわからんので、初動から話すことにする」

 今日の朝、出勤すると内閣府から電話があり、槇野が伊達市内のホテルで呼んでいることを伝えられた。何のことかうすうす感じながらもE4を出てホテルに向かった。
 話題は西野谷議員の弱点を掴んだかどうかの確認だと、そう解釈していた。
 北斗からはまだ連絡もなく、西野谷議員の政務活動外のことは分からない。それしか言えることはない。
 指示のあったホテルの一室に槇野を訪ねると、槇野は驚くべきことを口にした。
 西野谷議員が朝鮮国のテログループを秘密裏に支援しているという噂を聞いた、今後その動きが活発化しないうちに、西野谷議員を暗殺して欲しい、というものだった。
 西野谷議員のところに潜り込ませた部下からはそういった類いの報告は受けていないと突き放したが、噂を聞いた、噂は信用できる、噂、噂。
 
 次第に、何でも噂で事が完結するなら政治など要らないではないかとさえ思うようになったので、剛田ははっきりと暗殺には応じられないと一言いい、ホテルを出てE4に戻った。
 それからである。
 槇野がホテルの外線電話から怒鳴り声でE4に電話をしてくるようになった。
 ここからは皆が聴こえていた通りで、何回もホテルに呼び出され暗殺を命じるから履行しろと恫喝された。
 こちらとしては大義名分が信用できるソースとは思えないゆえ応じられないと返すと、今度はE4解散を持ちだし、俺の言うことが聞けないなら活動できないようにしてやると脅された。

 E4の解散など2年前に経験済みで、マイクロヒューマノイドを弾圧した春日井総理と比べれば、別に槇野を怖いとも思わなかった。
 軍隊を出しE4を弾圧するなら、また皆で国外に散らばり逃げるだけ。
 
 そこまで胆を据えた。
 自分としては部下である北斗の報告を待つことを決断し、もう槇野の我儘に付き合うのは止める。

 それが剛田の出したE4としての決断だった。
 
 ホテルの部屋を出る時、もう一度、“お前たちを干して活動できなくしてやるので首を洗って待っていろ”と言われ、“お待ちしています”と嫌味を一言ぶつけて戻ってきた。
 最悪解散、よくて仕事を干される。
 皆には迷惑をかけるが、この方針に従ってほしい。

「魂は肉体が死んだのちにも生き残ると信じられている=The soul is believed to survive the body after death.」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 剛田に言われた言葉を、皆理解できていないようだった。
しがらみの中で無味に生きるのではなく、魂の趣くままに生きろとメンバーに説いたのだが、「自分の人生、滑稽な命令に服従するような生き方は止めろ」という概念を理解できたのは、周囲を見る限りでは杏だけだった。

 皆がふぅ、と溜息を洩らした。
 九条がふふふ、と笑いながら剛田を見ている。
「なかなかどうして、室長もあとに引かない方なんですね」
「引かないも何も、噂レベルで仕事をするくらい我々は落ちぶれていない」
「ここはボスの顔を立てて実行に移すべきでは?」
「人の顔を立てることがE4の任務ではない。もちろん、北斗からその旨の報告があれば、暗殺指令には応じるつもりだ」

 三条も剛田に意見しようと剛田の机に近づいた。
「僕も総理の命令には従うべきかと思います。大義名分だってあるでしょう」
「そのソースはどこから出ているかわからんのだぞ。E4を、人一人の命をないがしろにするようなチームにはさせない」
「強情ですね、室長」

 不破が“強情”という言葉を聞いて憤慨し、三条に近づいてその胸ぐらを掴む。
「僕たちは任務に正当性があるかどうかで判断してきた。何でもかんでも上の顔色だけ窺うやつらとは違う」
 いつもは冷静な九条が段々怒ってきたのが分る。目を細くして不破に応戦してきた。
「それはW4のことを言っているのか?」
「別に」

 また言い争いに発展させる気か。
 馬鹿どもめ。

 杏は再度部屋の中で空砲を鳴らした。
「今は言い争ってる場合じゃないだろう」
 皆が一瞬、目線を下に落とし大人しくなった。
「西野谷議員の疑惑が本当かどうか、北斗が調べられないならこっちで調べれば済むだけの話じゃないのか?」
 目を細めて怒っている九条の代わりに、三条が些かではあるが冷静さを保っていた。
「なるほど。では、具体的にはどうします?」
「2人ずつに分かれて西野谷議員を尾行すればいい」
「議員がどこにいるのかもわからないのに?」
「伊達市と金沢市と毛利市に飛べば何処かには現れるだろう、まさか山奥には行くまい」
「山奥かもしれませんよ」
「その時はまた考える、とにかく今は疑惑の真偽を確かめることに専念しろ」

 不破は怒ってはいたが杏の意見に耳を傾けたようで、北斗に申し訳ないなといいながら尾行することを承諾した。
「チーフ。夜中だったら北斗に連絡つきますよね、こちらが参戦することを知らせないと」
「わかっている。北斗も忙しくて中々本当の任務に辿り着けないでいるのがもどかしいだろうから、今後はこちらが中心となり動く」
 やっと冷静になったと思われる九条からも注文が付いた。
「今回はバグたちを貸してください。それとカメレオンモードの許可を」
「わかった。ただ、警察府とWSSSにテロ支援疑惑とは言えないから、各自宿を準備してくれるか」
 それには皆が頷いた。ちょうど皆が杏の言葉に耳を貸すようになっていたので、馬鹿らしいノイズは部屋から消えていた。
「倖田、西藤、お前たちは伊達市内を。そして九条と三条、お前たちは金沢市の議員会館から出る西野谷議員を追え。不破はナオミと組んで毛利市での西野谷議員の行動を明らかにしろ。地下に降りてバグを連れていけ。北斗から連絡があるかもしれないから私はここに残る。さ、皆行ってくれ」
 
 ぞろぞろと歩きながら皆が部屋から出ていくと、ようやく静けさが部屋を支配した。
 こんなにE4室内が荒れたことが今まであったか?
 やはりW4の生き残りである九条と三条、そしてCIAからの客であるナオミが諸悪の根源のようにも思えて、杏は天井を眺め一度だけ小さく溜息を洩らした。

 IT室に戻る設楽たち2人に、今日から残業になるぞと言いながら、杏は矢継ぎ早に命令する。
「設楽、連れて行かれたバグたちがどこに現れるか、こちらで記録しろ」
「了解です」
「八朔はテロメンバーと思しき奴がいたら顔と移民許可証を照合しろ」
「わかりました」

 2人が早速機械に向かい始めると、杏は頭を押さえながら剛田の下へ行った。
 頭の奥がジンジンと痛む気がした。
「ちょっと男性形態でごめんなさい。もう、あの状態みたら腹が立って腹が立って」
 頭を押さえている杏を見て、剛田が心配している。
「頭が痛いのか?」
「ちょっとね、最近多いの」
「科研に行って診てもらったらどうだ」
「一般人のように薬飲んだら治らないかしら。これって脳の命令で痛くなるんでしょ」
「お前の場合、脳だけは何も手を加えてないだろう」
「わかってる。無理はしないわ」


 槇野首相は、北斗やE4メンバーが西野谷の行動を掴めないままいたこの時期から、ゲルマン民族だけでは飽き足らず、朝鮮国や中華国からの移民はもとより、諸外国からの全移民や、国民の中で一定の犯罪歴がある者についても総電脳化することをぶちあげ、国会での意見も聞かず、またもや国民投票をすると宣言した。

 それまで我慢に我慢を重ねていた移民や、一部の日本人から巻き起こる非難の声。
 だが、電脳化しその脳内を把握することによって、異分子や問題行動の元締めを炙り出すには絶好の機会であるという、元内閣府長官安室玲人(あむろれいじ)の腹積もりでもあったこの計画を、知ってか知らずしてか、槇野総理は実行に移そうとしていた。
 槇野の場合、電脳化で自分に都合の良い情報を移民や犯罪者に移植することが目的だったのだが。

 しかし、その計画がすぐに実行されることはなかった。
 移民の人権を無視した非礼であるとして、国際協議会でこの問題が取り上げられたのである。
 主として日本に移民を流入させている朝鮮自治国及び中華自治国に対し、この時代において初めて意見を言う場が設けられたわけだが、3国間協議の場を設けようとする朝鮮自治国及び中華自治国の思惑は外れ、両国は日本自治国の対応を非難するだけに留まった。

 一方、日本国民からは賞賛の声も上がったが、犯罪者の人権を擁護する市民団体が突如現れ、槇野首相のお友達わいろ疑惑が持ち上がった。
 北斗の言っていた通りの内容で、2大スキャンダルがすっぱ抜かれたのである。
 日本国内では槇野や奥方のやりたい放題が連日マスコミをにぎわせることとなり、槇野は少なくとも、日本国民の電脳化についてはここに挫折を見た。

 槇野は一旦E4を遠ざけたものの、スキャンダル発覚後マスコミがこの問題を放送するようになってから暗殺未遂が続くようになり、怖気づいたのだろう。高圧的だった態度を一変させ再度E4に護衛を命ずるようになった。
 今回は素直に槇野の護衛を受けることにした剛田。
「誰かを暗殺するのは我々の仕事ではないが、守るのは我々の仕事である」
 そういって静かに槇野に従うのだった。
 護衛には杏1人が付くことで暗殺に神経をとがらせ渋る槇野を納得させて、他のメンバーは朝鮮国テロメンバー支援と西野谷議員の関係を洗い出す作業に追われていた。

 そんなある日のこと、九条から杏にダイレクトメモが入った。
(チーフ、西野谷議員のことで報告があるんですが、時間取れますか)
(ああ、今日は護衛がなかったから今はE4室内にいる)
(西野谷議員が隠れて通う場所がわかりました。朝鮮国関係者とも目される人間も何名か出入りしています)
(金沢市内か)
(いえ、それが伊達市なんです)
(ではこれから私も行こう。三条は念のためライフルを携行しろ)

 剛田は折しも、ESSSで本人曰くつまらない会議に出席していた。お伺いを立てている暇はない。
 杏は居残っている設楽と八朔に留守番を頼み、黒の革パンツにGジャンを羽織って外に出る。地下2階によって1台のビートルを起こしそれに乗って、九条たちが指定してきた場所へと急いだ。
 杏が20分かけて着いた場所は、伊達市内屈指の山の手地区にある、だだっ広い邸宅だった。
 カメレオンモードになって邸宅の門の前に張り付く杏とビートル。
(九条、どこにいる)
(一応門の中に入りました)
(誰か他に来客がいるのか)
(見るからに朝鮮人と思われる男女が4名、インターホンで名を名乗って、家の中に入って行きました)
(そいつらの写真は撮ったか)
(はい)
(ではそれをダイレクトメモに添付して、至急八朔宛てに送ってくれ)
(了解)

 杏はIT室で作業中の八朔を呼んだ。
(伊達市山の手住宅街の邸宅に、西野谷議員と、朝鮮人と思われる男女が時間差で入っていった。今写真をダイレクトメモに添付して送るから、移民かどうか確認してくれ)
(わかりました)

 杏は八朔からの返事を待たず、門を乗り越えて九条たちと合流した。ビートルは門の前で、これから誰か入ってきたら写真を撮る様命令して置いてきた。
「ここからダイレクトメモで話す」
「了解」

 カメレオンモードのまま、玄関をキキキと最小限の音で開ける三条。
 家が広すぎて、西野谷議員と朝鮮人たちがどこにいるのかわからない。
(バラバラに動くぞ。九条は2階を。三条は玄関から向かって右側の部屋を。私は左側の部屋を調べる)

 杏が動こうとした時、ビートルから連絡が入った。
(マタクルマニノッタヒトガキタヨ。シャシントレナイ)
(そうか、では私が玄関先に戻って車から降りてきた人物の写真を撮る)

 杏は九条や三条と離れ、1人玄関に向かった。
 玄関ホールでカメレオンモードのまま、来客を待つ。車寄せでドアを開閉する音が聴こえた。
 
 来る。

 万が一カメレオンモードが解けてしまった時のリスクを考えて、玄関からほとんど死角に入る廊下の端に佇む杏。
 入ってきたのは買い物袋を下げた人物。来客というよりも、ハウスキーパーに近いような気がしたが、一応写真を撮り八朔に送った。

 よし。
 ここが西野谷議員の秘密の隠れ家的存在なのかは断言できなかったが、色々と人が出入りしているのは確かなようだ。
 玄関で待機していた杏に対し、九条から低い声で連絡が入る。
(2階は全て確認終了しました。人の陰は見えません)
(そうか、では1階の玄関から見て左側を探してくれ。どこかで一緒にいるはずだ)

 三条からも連絡が入る。
 確認したが、こちらは水回りの部屋が多く、皆が一堂に会する部屋はなさそうだ、というものだった。
 さすれば、今皆が集合しているのは玄関から見て左側、九条が調べているスペースになる。
 三条と杏は階下の廊下の隅で身を潜めていた。
 すると少々困った事態が起きた。
 小型犬が2匹、廊下に出てきたのである。

 犬だけはまずい。
 カメレオンモードなど犬たちにはあってないようなもので、こちらの正体がばれてしまう。
(九条、まずい。室内飼いの犬が出てきた。カメレオンモードがばれる可能性がある。今日のところは撤収するぞ)
(えー、あと2部屋なのに)
(バレたら元も子もない。戻れ)
(了解しました)

 九条も静かに玄関先まで戻ってきた。
 犬たちは少し眠気があるのか、杏たちに気付かない訳はないのだが吠えようとはしなかった。
 危機一髪。
 杏たち3人はそっと集まり玄関ドアを少しだけ開け、皆が滑り出すように外に出る。

 こういった邸宅は番犬として屋外にも犬がいる場合が多いが、今日のところでいえば屋外に犬の姿は見えなかった。

 門まで足早に歩く杏たち。
 ビートルの背に乗ればE4の入っているビルまで、20分もかからない。
(では、私は一足先に帰る。九条と三条はゆっくり戻ってこい。いくぞ、ビートル)
(ハーイ)

 杏はカメレオンモードのままビートルに乗り、夕闇が迫る中、E4を目指した。
 一度地下に行ってビートルを眠らせると、49階に上がり設楽や八朔のいるIT室に足を向けた。IT室では、設楽が酒を飲んで寝ている。八朔は溜息を吐きながら杏たちが送った写真を解析していた。
 剛田はまたESSSの会議とやらでE4室には戻っていなかった。
 もう年なんだから、いい加減あっちこち飛び回るのは止めて欲しいと言う杏に、年寄り扱いするなと言って剛田は笑ってばかりだった。

「どうだ、八朔」
 杏の一言で設楽は目が覚め、寝ぼけたことを抜かしていた。
「金沢のバグが行方不明です」
「議員会館前にいるんじゃないのか」
「え。九条三条組はこっちにいますよ」
「金沢に置いて来たんだそうだ」
「はあ」
「議員会館前のバグに帰還命令を出せ」
「はーい」

 まったく。誰もいなくなるとすぐこうだ。
 いい仕事をするやつだが、これだけはいただけない。
 九条たちが気付いて嫌な顔をしないよう、杏は設楽に水をがぶ飲みさせて、IT室の換気扇をフル回転させた。

 30分ほどでE4室内に明るい顔色で談笑しながら九条と三条が戻ってきた。
「あれはいったいどういう集まりなんでしょうね」
 九条が杏の頭を突っつく。
「うーん、まだ何とも言えないが、朝鮮人が複数出入りしていることに間違いはないな」
「その理由ですよ、今回の胆は」
「まだわからない、としか言えないだろう」
 三条はライフルをちらつかせながら、西野谷議員暗殺のシナリオを九条と話していたらしい。
「若い人間も多かったし、テログループと言われればそう見えなくもない」
「まだ、時期尚早というやつだ、決めつけるな」
 
 九条と三条を尻目に、杏は声を拡大させて倖田と西藤あてにダイレクトメモを送った。
(倖田、西藤。九条と三条が伊達市内にて朝鮮人と思われるグループと西野谷議員のコンタクトを捉えた。お前たちは明日からそちらのコンタクト場所に回って欲しい)
(了解)
 すると、遠く離れた毛利市から不破がダイレクトメモに入ってきた。なぜか声にノイズが混じっている。
(ではこちらも、もうお役御免ですか)
(いや、西野谷議員と会っていた朝鮮人が伊達市在住とは限らない。今八朔に顔写真と移民許可証を照合させている。もう少し待て)
(北斗からの連絡は)
(まだない)
(了解、何かあったらすぐ教えてください)

 不破としては、九条と三条が見つけた、というのが気に入らないのかもしれないが、金沢の議員会館を張っていたのは九条たちだから当然といえば当然。
 毎日出入りしている議員会館から追うのは容易い。
 毛利市に西野谷議員が姿を現さないことが決定的になったら、不破とナオミには毛利市を離れてもらう予定だが、問題は金沢市。
 果たして今、目を離して大丈夫だろうか。
 
 北斗からの連絡が全く入ってこないのがネックといえばネックだが、一般人に成りすましスパイとして活動する北斗とは、電話でやり取りするよりほかない。
金沢市でも小さなアパルトモンを借りているはずなので夜中に連絡しようと、杏は楽観的に考えていた。
 その夜11時ごろ、杏は北斗のアパルトモンに電話を入れた。
 北斗はE4からの電話と知っているはずだが中々出ない。まだ仕事中か?と切ろうとした時、北斗の声が聞こえた。
「はい、北斗です」
「五十嵐だ」
「五十嵐先輩、お久しぶりです」
 ?? 
 先輩?
 誰かと間違えているのか。
 いや、この声を北斗が間違えるわけがない。

 となれば考えられるのは、盗聴。
 隠れる場所がないから先輩と呼んでいるのか。
「盗聴防止か?」
「あー。はい、はい」
「西野谷議員が伊達市で朝鮮人数名とコンタクトを取っている。そちらに情報はないか」
「申し訳ないです、僕ではとても務まりそうにない」
「ない、か。では、西野谷議員と朝鮮の関係について何かわかったら電話をくれ」
「お役に立てずすみません。はい、また何かあったら誘ってください。では、これで」
 北斗との電話は直ぐに切れた。

 あの分だと、誰かが盗聴器を仕掛けているに違いない。西野谷議員はそういった必要性が感じられないから、やるとすれば槇野か。おのれ、厄介事を増やしやがって。
 杏の怒りは自然と槇野に向かっていく。
 お前が護衛対象者じゃなくて暗殺対象者なら直ぐにでも実行するのに。
 本当に残念だ。

 杏は、あと1日、毛利市内で西野谷関連の情報が取れなかったら、不破とナオミを金沢に移動させることにした。
 金沢で議員会館を張って何か掴めるものを探してもらうしかない。
 しかし、不破たちと北斗が接触できる可能性は天文学的数字になる。盗聴されているくらいだから北斗には尾行も付いているかもしれない。
 どうすれば定期的に北斗から情報をもらうことができるか。
 1回だけなら、アポなし電撃訪問で西野谷議員の事務所を訪ね応対させればいいと思うが、やはり北斗を巻き込むのは無理があるか。

 だとすると、北斗が西野谷議員の元で秘書をする妥当性がどこにでてくるか、事情が変わってきた今となっては、もう北斗が秘書を辞めても差し支えはない。
 北斗に対しては折をみてもう一度辞職を勧めるとして、今は伊達市の動きを注視しなければならない、と杏は考えていた。

 北斗の話によると、西野谷議員が公用車を使わないのは週に1度か2度。
 その時はタクシーに乗り他の尾行者を振り切って伊達市まで来ている。何かでタクシーの都合がつかない時、あるいはどうしても新幹線に乗らなければならない時だけ新幹線を使っていると見るべきか。

 新幹線の方が時間的には1時間近く速いから、急ぐときは新幹線、という考えもあるかもしれない。
 昨日の今日でまたあそこに人が集まるとは考えにくいので、不破たちを金沢に戻らせ議員会館を張らせれば、公用車以外で帰る時が明らかになるし、連絡を受けてE4があの山の手の豪邸を張っても時間的なロスはない。

 杏は考えを整理して、まず、不破たちに金沢行きを命じ議員会館を張らせる任務を与え、残りの者は伊達市にて西野谷議員や朝鮮人グループの入っていく豪邸を張らせることにし、朝鮮人グループがどこに帰っていくのかを中心に、皆バラバラに尾行せよ、とE4の倖田、西藤、九条、三条に命じた。
杏はそのまま西野谷議員が入っていった家に残り、西野谷議員の動向を調べることにした。

ただし、室内犬2頭の問題が残っている。
身体は透明になっても、匂いは消えない。
どうしたものかと杏は考える。
麻酔銃、麻酔エサ。
エサは残ったら不審者が邸宅内に侵入したことを教えるようなものだし、麻酔銃は量を間違えると犬を殺してしまう。
仕方がない。設楽も忙しいことは忙しいだろうが、小型犬用の麻酔銃を今度行くまでに作製してもらうしかない。

杏は一旦E4に帰り、IT室に顔を出した。
もうバグは金沢の1機だけなので設楽は比較的のんびりと仕事に向かっていた。
「設楽、頼みがあるんだが」
「何ですかー」
「小型犬用の麻酔銃を作ってくれ。今度西野谷議員が伊達市に現れるまでに」
「チーフ。それってあまりに俺をこき使ってません?」
「すまん。時間がないんだ」
「そうですね、それは分ります。じゃ、頑張りますんで残業手当よろしくです」
「わかったわかった。室長に話してみよう」
「お願いしやーっす」
 設楽は杏を押しのけてエレベータ―ホールに駆けて行くと、1人で地下に降りた。

 設楽の様子を見て「よし」と片手でガッツポーズを作った杏は、次に不破にダイレクトメモを送った。
(不破、不破、聞えるか)
(ん・・・誰だ?杏か)
(チーフと呼べ。起きろ)
(今何時)
(午前様だな)
(ったく。人使い荒いんだから)
(悪い、陽が昇ったら金沢に飛んでくれ)
一翔(かずと)、誰?)
 不破の隣から聞えてくる女性の声。
 お前―、出張中に女連れ込んでんのかー、と、杏はこめかみがヒクヒクと動いている。
 
たぶんナオミだな。
 いつも不破にべったりだから。
 まあ、この時間なら普通は寝てるからこっちも良くない。
 しかし、女と2人で宿を取る不破も許せん。
 帰ってきたら仕返ししてやる。

 不破との交信を早々に切り上げて、杏は49階で仮眠を取ることにした。剛田も今日は金沢の警察府で泊付きの会議だから帰らない。
 ひとりで寝るのも寂しいし、起きて出勤する時間ももったいない。

 IT室で設楽と八朔が目の色を変えて仕事していた。
 何かを切っている機械の音を聴きながら、杏はつかの間の眠りに落ちた。


 翌日早くに起きた杏は、地下に降りてシャワーを浴びた。
 万が一の着替えはいつも地下のロッカーに用意してある。
 濡れたストレートの髪を強風ドライヤーで乾かしながら、杏はある種の心地よさを感じていた。この気持ちは何だろう、何にも例えようがない。
 そうとはいっても、今日あたり西野谷議員が伊達市に戻ってくる可能性はあるし、場合によっては、今晩は徹夜になるかもしれない。
 徹夜は慣れているが、杏としては今回の任務は何か前に進みたくないという気持ちが高まってきた。
 何故かは見当もつかないが、西野谷議員がテログループを支援しているとは思いたくない。たぶん、そこに凝縮されていた。

 不破とナオミは朝一番にホテルをチェックアウトし、金沢に向かっていると杏にダイレクトメモが入った。
 ま、仕事はしてるんだから2人で一部屋に寝てたことはチャラにしてやる。
 そう思いながら地下から49階に上がる時、1階でエレベーターが開き九条と三条が並んで出勤してくるところに出くわした。
 
 九条が杏を見て目を丸くする。
「チーフ、徹夜ですか?」
「まあな」
「髪、濡れてますよ」
「それ以上言うな。プロレス技掛けられたくなかったら」
「はいはい」

 ちょっと呆れ加減で返事をする九条や、何も言わず九条を見て笑っている三条とともに、杏は49階に到着した。
 部屋の中にはもう倖田も西藤も姿を見せていて、今日の予定を2人で相談していたようだった。
「チーフ。昼間に山の手に行って、先日見損ねた部屋を確認できませんかね」
「うーん、誰の家かわからんからなあ」
「犬を黙らせない限り無理じゃないですか」
「そういえば西藤は犬が大嫌いだったな。どうする、行くか?」
「なるべくなら後方支援でお願いします」
「なら次回は4人で行くとするか」

 こっちで予定を話し合っていると、足音もなく八朔が目の下にくまを作りながらIT室から出てきた。
「チーフ、調べました。先日西野谷議員と行動を共にしているとみられる朝鮮人」
「どうだった?」
「全員移民許可証持ってますね、正式移民として登録されてます。朝鮮国にいる時から犯罪歴はありません」
「今はどこに住んでる」
「全員が伊達市内に住んでます」
「わかった、八朔。ありがとう。少し仮眠を取れ」
「了解、寝ます」
 背中を丸くしながらIT室に帰っていく八朔。IT室には寝袋も準備してあり、しょっちゅう徹夜している2人が交互に使っている。

 夕方近くまでいつものように自由な行動で時間を潰しているE4メンバー。
 八朔が調べてくれたおかげで、豪邸に出入りしている者たちの尾行もやり易いことがわかった。
 西藤が珍しく起きていて、地下のバグたちにオイルを注しに行くと言って席を立つ。
 倖田は万が一に備えて、三条とともにライフルでの狙撃練習をするためこれまた地下に降りていった。
 残ったのは九条と杏。
 九条は活字新聞に熱心に目を通していたが、他に誰もいないとわかると杏の隣に座った。
不破がいない時は九条と話しても炎上しないので楽だなと思い杏は思わず口元がほころぶ。
「どっちに転ぶと思います?」
「西野谷議員か?」
「ええ」
「どっちかはまだわからんが、誰かが住んでいる屋敷には違いないだろう。あの時犬を連れ込んだ人間はいなかった」
「となれば、あそこには犬の飼い主が住んでいることになる」
「一義的に考えればそうだな」
「設楽マップで追ったらどうです?」

 九条の意見を聞きIT室に出向いた杏は、設楽にマップ作製をお願いしようとしたが、設楽は麻酔銃作製に目の色を変えていて、話しかけることすらできなかった。
 E4室内に戻る杏。
「ダメだ、麻酔銃に憑りつかれてる」
「チーフがこき使ってるんですよ」

 と、不破からダイレクトメモが入った。
(西野谷議員が公用車を使わずタクシーを拾いました。たぶんこれから伊達市に向かうものと思われます)
(タクシーを可能な限り追いかけろ。毛利市に行く可能性もあるからな)
(了解)
 今度は地下組にゲキを飛ばす杏。
(地下から上がってこい。西野谷議員が動き出したぞ)

 地下から皆が49階に上がってきて、出掛ける準備として銃やライフルを手にした時だった。
 剛田が金沢から戻ってきて自動ドアが開き、室内に風が舞った。
 杏が剛田にこれまでの経過とこれから出動する旨を話し了解を得ようとした時、剛田がひとこと付け加えた。

「その邸宅は西野谷議員の実家だ」

 杏が本当かと言わんばかりの大声で聞き返す。
「実家?」
「そうだ。たしか母親が1人で住んでいるはずだ。西野谷議員は結婚していないから選挙になるとこちらの実家に戻ってくる」
 なるほど、合点がいった。杏はそんな顔で剛田を見ていた。
「そう。だから犬がいたのね」
「カメレオンモードの一番の敵は犬だ、気を付けろよ」
「大丈夫、小型犬用の麻酔少なめ麻酔銃作ってもらってる。あと1時間でできるかな」
「また徹夜させたのか。あまりこき使うなよ」

 ふふふ、と杏は笑って剛田を見る。
 剛田はまったく、といいつつ珈琲を淹れながら、杏に頭痛は大丈夫かと尋ねた。
 あれから頭痛はない、と杏が答えると剛田は胸を撫で下ろしたように2,3度頷いた。
 
 剛田からの指示で、先発隊として倖田と西藤が西野谷議員の実家屋外に潜入することになり、バグとビートルを1機ずつ出し2人はE4を出た。
「出入りしている者の犯罪歴がないとすれば、テログループに辿り着くかどうか怪しいものだな」
 剛田は槇田の言った噂を信じていないからか、テロについては懐疑的な見方をしている。
それに対し朝鮮国が大嫌いな九条は絶対にテログループであり、秘密裏に会合を開いているのだろう、実家は目晦ましだと剛田に反論している。
杏はこれまでどちらとも言えないと心の中では思ってきたが、実家ということを聞き、なぜ朝鮮人が複数集まっているのか、その疑問が解けずモヤモヤしていた。

 でも、今日また実家に複数の朝鮮人が集合するとなれば、自ずと答えは見えてくるし、槇野のいう噂の真偽も明らかになる。

 倖田と西藤は豪邸の屋外にて家の様子を探っていたが、特に変わりはなく、人の出入りもないという。
 夕方、西野谷議員が戻ってからか勝負か、と念入りにカメレオンモードの具合を調べる杏。犬さえいなければもっと簡単に事は進むのだが、こればかりは仕方がなかった。

 夕闇が夜の空気に包みこまれ、屋敷屋外が暗くなったところで、西野谷議員が実家に戻ったという知らせが西藤からE4に届いた。
 屋外を調べたところ番犬のような犬はおらず、西藤はそのまま屋外で待機することになっていた。倖田は万が一のためにライフルを撃てる場所を探していたが、窓のある部屋には誰も姿を見せないらしく、出番がないかもしれないとダイレクトメモを寄越した。

 あとは、朝鮮人の移民たちがいつ、この屋敷に顔を出すかである。帰り際に尾行するには格好の新月。
 設楽の最高傑作麻酔銃が1丁できあがり、麻酔弾は1匹に付き1発と杏は説明を受けた。麻酔の効いている時間は大体2~3時間だという。
 倖田が最初に麻酔弾で眠らせますかと申し出たが、いつまで寝ているかもわからないくらいの少量なので、杏が所持し全員が揃ったら2匹一緒に眠らせることにして周囲の部屋を探ることにした。

 九条と三条が最後に現れた。
 設楽特製の麻酔銃を三条が撃ちたいと要望するのだが、杏はガンとして認めず、玄関から向かって左側の部屋を中心的に探すことで指示を出す。
 
 その時、また犬が2匹揃って出てきた。
 杏は躊躇なく犬のお尻の辺りを狙って麻酔銃を撃ち、犬たちはよろめきながら歩いていたが、ついには足元が千鳥足状態になり、そのまま崩れ落ちて眠ってしまった。

 ここからが本業。先日見つけられなかった玄関から見て左側にある2室を、九条と三条が探す。
 部屋はすぐ見つかったが、集合している部屋はドアが開かないと九条がダイレクトメモで早口に話す。
 杏はそれも想定内で、待っていれば必ず1度や2度は開くと、せっかちな九条と三条を押さえ付けた。
 待つこと30分、ドアが開きハウスキーパーのような女性がお茶と菓子を持って部屋の中に入った。朝鮮語の話せる九条が、杏と一緒に中に入り込んだ。九条は最初、朝鮮語?と杏に対ししらばっくれていたが、長浜海岸で聞いたぞと脅すと、素直に認め通訳も兼ねるとして中に入った。
 中では、日本語や朝鮮語が乱れ飛んでいたが、何より驚いたのは病人がおり、最新式の設備を使い病床に臥していた、という事実だった。
  
 九条が朝鮮語を聞き杏に耳打ちしてきた際、テロのような内容の話は一切しておらず、西野谷議員もたまに朝鮮語を使ってベッドに臥している人の心配をしていたし、病人も朝鮮語を使っていた、ということだった。
 杏と九条の2人は30分ほど部屋にいただろうか、室内での動きを見る限り、この家に出入りしていたのは医者、看護師2人、介護士の4人らしかった。
 移民としてこちらに来てからは、日本国で使用できる免許も持っていない故、(なりわ)いとして働くことはできなかったが、こうした秘密の治療であれば、その腕を使って昔受けた恩を返している、と話していることがわかった。
 無免許医師による治療は何故行われているのか。
 母親らしき人物は西野谷議員と話す際は日本語を使っていたが、医師たちに対しては朝鮮語で会話していた。たぶん、西野谷議員そのものはクォーターかそれ以上に日本人の血が濃いと思われたが、西野谷議員のルーツは朝鮮国にあるのだという、知られてはいけない秘密を抱えていることが推察された。
 国内で選挙に立つ際、ルーツが海外にあると選挙に受からないばかりか、万が一受かったとしても人気は望めない。海外からの移住者に選挙権を与えれば別だが、今の日本は選挙権を与えていなかった。

 九条はテロではないと知ると黙り込み、早く帰ろうと杏を突っつく。
 また今度ドアが開いてからだと諭す杏だったが、段々時間が経ってきて、犬のことが心配になってきた。

 と、廊下で犬の声がした。今更行って眠らせる麻酔銃もない。
 九条と杏は、ドアが開くのを待つしかなかった。
 それから30分ほどでその日の治療は終わり、西野谷議員と医師たちとの懇談が始まった。
杏と九条は最後のお茶を持ってきたお手伝いさんらしき女性がドアをノックして開けるのを辛抱強く待ち、ドアの陰に身体を寄せ、お手伝いさんをやり過ごした。
犬はどこだと探すと、ご主人様に会いたかったらしく、ワンワンと鳴いて西野谷議員に飛んで寄っていく。

 よし。この隙に逃げる。

 開いたままのドアから足音を立てないよう、ゆっくりと、でも意識してドアの向こうに身を滑らせると、2人は漸く廊下に出ることができた。
 2人はそのまま廊下を速足で音がしないように歩き、奥で皆が懇談している最中に、キキキとドアを静かに開けて屋敷から出ると、倖田や西藤、三条と合流した。

 一応、杏を除く4人は医者を初めとした朝鮮人を追って自宅を突き止め本当にテロの素地が無いかを調べることとし、杏は剛田に報告するため皆と別行動をとった。

 看護師は同じ方向に歩き出したため、同じ移民宿舎に帰るものと踏んだ九条は杏を追ってくる。
 2人でE4に戻った時、まだ剛田は待ってくれていた。
「お疲れだった」
「知ってたの?」
「何を」
「西野谷議員のルーツ」
「いや。でも政治活動などの系統から、もしかしたらとは思っていた」
「ボスに話して判断を仰ぐべきでは?」
「テロではなかろう、なぜ話す必要がある」
「朝鮮国の血が混じった人間が国会議員など、許されることではありません。暗殺すべきです」
「彼は生まれてこのかたずっと日本籍で暮している。暗殺する理由はどこにもない」
 剛田は瞬間的にこれを拒否し、ボスには一切真実を伏せる、と杏と九条に強い口調で言い切った。

不破とナオミも夜遅くE4に戻る予定ということで、皆が帰ってくるまで3人は珈琲を飲みながらそれぞれが自分の思いを胸にしまったまま、過ごしていた。

 夜遅く尾行組が戻り、西野谷議員宅に出入りしていた移民はテロとは関係ないことが報告された。全員が元医療従事者で、無資格で診療を行っていることは懲罰に値したが、金もなく病院に行けない移民たちを夜遅くまで診ており、例えば爆発物を作るとか、そういった時間があるとも思えなかった。

不破とナオミも到着すると、剛田は再び皆を諭した。
「魂は肉体が死んだのちにも生き残ると信じられている=The soul is believed to survive the body after death.」
剛田はこの言葉の「自分の人生、滑稽な命令に服従するような生き方は止めろ」という概念を皆に説く。

しがらみの中で無味に生きることはするなといわれた九条や三条、ナオミもこの言葉の意味するものを自分なりに解釈しようとしていた。
設楽はすぐにギブアップしてIT室に逃げていったが、九条は最後に折れた。
「W4ではこういうことを言ってくれる人はいませんでした。上司は自分ファースト人間で、春日井総理に安室のことが知れるや否やW4から逃げ出したんです。そして僕らだけが矢面に立たされた」
 剛田は優しく九条の肩に手を置きながら、三条にも目を遣り話し出す。
「守るべきは誰かを見失ってはいけない。部下がいれば部下を守る。当たり前のことだ」
「剛田室長はもし何かあったら僕らを守ってくれると?」
「だからお前たちをE4に呼んだんじゃないか」

 九条は目を閉じ、上を向いた。泣くのを必死に我慢しているように見えた。
 三条は我慢できずに下を向くと、膝を突いて涙を流した。
それ以後、九条や三条は暗殺にシフトする考えを改め、剛田に意見することを止めた。


 スキャンダル発覚後、槇野や槇野の奥方の評判が段々と斜陽化していく中、槇野に対し、移民全体の総電脳化計画を強行し国民も同時に総電脳化の犠牲になるという噂が流布され、最終的には国民の反発を買うこととなった。
 噂とは、()(あら)ず。

「金沢のメインストリートにあるバーで聞いたんですけど」
 不破とナオミが金沢にいる際、バーで西野谷議員に関する妙な噂が立っていたことを突き止めた。
「西野谷が暴漢を雇い、槇野を暗殺すると吹聴してたと言うんです」
「まさか」
「ええ、それで方々で突っ込んでみたら、どうやら槇野の愛人がその噂の出所のようで」
「あの気の強そうな奥方を前に愛人なんぞを囲ってるの」
「チーフ。もしかしたら愛人宅で何か出るかもしれませんよ」

 不破と杏は、互いの顔を見て、思わずにやりと笑った。
「剛田さーん、金沢に行ってもいい?」
 杏は猫なで声になって剛田に擦り寄った。
「五十嵐、また変なことに首を突っ込むつもりか」
「真実は明らかにしないとね。その噂が本当かもしれないしー」
 剛田は呆れたような顔をしつつも、杏を止めはしなかった。
「2日やる。それで何も出てこなければ諦めろ」
「はーい」

 不破と杏が悠長に出掛ける支度をしていると、九条がニヒルな笑みを携えて近づいてきた。
「現場を押さえたとして、あとはどうするつもりですか」
「どうしようかしら。あたしゴシップ誌には疎いのよねー」
 九条が苦笑する。
「だと思った。僕が良いところ紹介してあげますよ」
「あら、詳しいの?」
「昔取った杵柄(きねづか)ってやつです」
 不破は面白くなさそうにそっぽを向いたが、その首根っこを引っ捕まえて九条に礼を言う杏。
「ありがとう、これで噂の全容を解明できるわ。ほら、不破も頭下げて」
 力比べで杏に負けた不破はぺこりと九条に頭を下げ、九条は笑いながら今日はもう帰ります、と剛田に言って姿を消した。
「なんだ、これからすぐ行くのか」
 剛田は久しぶりに3人で家に帰ろうと思っていたようだったが、杏も不破もそれどころではない。
「あと2日しかもらってないんですもの、早く行かなくちゃ」
「お前のそういう時の行動の早さは治らないな、五十嵐」
「好奇心旺盛と言って」
 不破が時計で写真を撮れるか最終チェックをしている。よし、撮れる、と呟く不破。
 杏は録音機能の付いた時計を探している。
「設楽、確か試作品あったわよね」
 IT室から設楽が顔を出した。
「地下の倉庫にあります。持ってくるのでちょっと待っててください」
「OK」

 10分ほど待つと、設楽が地下の倉庫から試作品の録音機能付きダイレクトメモ用時計が姿を現した。
「どれ、録れるかな。あー、あー。本日は晴天なり、本日は晴天なり」
 杏が声を録音し、PCに落とし込む。
 録音機能は上手く作動し、杏の声が再生された。
「これなら専用PCに取り込まないと再生できないようになってますからね、ただの時計にしか見えません。使い方は、右のスイッチを3回、押してください」
「ありがと、設楽。剛田さーん、じゃあ行ってくるから」
「気を付けて行けよ。何かあったらすぐ連絡しろ」
「はーい」

 5分後には、2000GTに乗り込んだ不破と杏が夜の伊達市を高速道に向かって爆走していた。
 金沢市まで2時間。
 楽しいドライブの始まりだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 金沢市に着いたのが夜の8時。
 首相官邸にはまだ槇野が残っていて、これからどこかに出掛けるような雰囲気があった。
 ピン、ときた杏は、不破を突っつく。
「これから愛人との逢瀬にでも出かけるんじゃない?」
「そうかあ?」
「ま、そう言わず追いかけてみましょう」

 槇野が出掛けたのは金沢市内にある政治家御用達の高級料亭だった。
 杏と不破は離れたところに車を停め、カメレオンモードになって人物が良く見える場所に陣取っていた。
「ほら、槇野。不破、顔撮って」
「了解」
 その後、料亭にはそぐわぬ洋風のドレスを着た若い女性が1人、タクシーで乗り付け料亭内に入っていく。
「撮って撮って」
「これがお相手?若くないか?」
「愛人は若いって相場が決まってるのよ」

 バラバラに料亭に入った2人がその後一緒に料亭を出るところや2軒目に訪れたバーでべったりと腕を絡ませているところ、そこから移動するときも首相専用車に乗り込むという公私混同。
 そして最後には愛人宅マンションで腕を組みながら降りて中に入り、首相専用車が帰るところなど、かなり良い絵が撮れた。

 しかし、問題は2人が西野谷議員を陥れようとする会話。それを録音しないことには杏としては収まりがつかなかった。
「不破、あのマンションに行こう」
「入れるか?」
「カメレオンモードになってあいつらと一緒に入ればいいじゃない、行こう」
 しかし、その晩はあと一歩、というところでオートロックが閉まったものだから一緒に入り損ね、録音は翌日に持ち越された。
 翌日は槇野が自宅に帰ったらしく、愛人マンションを訪ねてくる様子はない。
 正味あと1日。
 今晩がヤマだ。

 杏と不破が玄関先でカメレオンモードになっていると、今日は槇野が1人で愛人のマンションにやってきた。
 時間は夜の10時。何処かで会合を開いていたのだろう、顔が赤くなっていた。
 また首相専用車が玄関脇に停まって槇野を下ろした。
 ここまで首相専用車を使うとは。
 馬鹿なのか、ケチなのかわからない。

 杏と不破は槇野が押した番号を覚えて、その部屋に後から入るつもりでいたが、今日は槇田が入ったあとからオートロックを解除するなど出来っこない。
 愛人が家の中にいるのだから槇野の後ろに隠れてエレベーターを出る、ということになった。
 槇野の背中についた杏と不破はエレベーターが何階で止まったか確認し、その部屋に着いた槇野を迎える愛人を察知したため、一緒に部屋の中に入るのを止めて、部屋に2人が入ったのを確認してから、杏は針金をポケットから取り出した。
「やるの?」
「30秒でできるから」
「お前の方が犯罪者だな」
「ご勝手にどうぞ」

 本当に30秒でマンションの鍵を開けた杏は、不破と一緒に少しだけドアを開け身体を滑り込ませた。
 愛人は内鍵を掛けない性分らしく、その点では杏たちに最大の幸運が訪れていたとも言える。
 リビングにいる愛人は、簡単なつまみとワインを準備しており、今晩会えたことに感謝の意を伝えている。そんなのいいから、早く西野谷の話をしろ、と杏はイライラしていた。
 
 すると思いもよらないことに、2人はすぐにリビングからベッドルームに移動し始めた。

 不味い、一緒に入らなければ録音できない。
 愛人は酔ってもいない風情で、2人は腕を組みながらベッドルームに移動した。愛人が最初に部屋に入りベッド周りを整え、少し遅れて槇野が後から入ろうとしていた。
 槇野はちょっとふらつきながら歩いていたので、これ幸いと愛人のすぐ後ろに張り付いた杏と不破は、槇野が入る前にベッドルームの隅に身を置き、カメレオンモードのまま隠れた。

 杏は苦笑いしながら不破の耳元でそっと囁く。
「なんか嫌な予感」
 不破も心なしか不安を隠せないといったところなのだろう、声に覇気がない。
「うん」
「早く噂話しないかな」
「しっ、ほら、押せ」

 杏は慌てて時計の右側を3回押した。
 槇野と愛人の2人は思った通り、西野谷を追い落すために嘘の情報を流しており、その経過を話しては、然も楽しそうに笑っていた。
 よし、録れた。

 しかしまたも困ったことが起きた。
 愛人と槇野はすぐ寝るとばかり思っていたのに、服を脱ぎ出して事を起こしてしまったのである。

(げっ)
 杏が不用意な声を出すと不破が止める。
(しっ、聞えたらまずい)

 事の最中にも槇野が西野谷の名前を出し、噂を流して完全に潰してやると息巻いている。
 杏と不破はどうしていいかわからずその場に凍り付いたままで録音がなされていたが、聞こえなくてもいい声まで入ってしまいはしたものの、これはこれでリアルな情景を醸し出していた。
 録るべき物は間違いなく録り終えたので早く帰りたい杏だが、今ドアを開ける訳にはいかない。
 杏と不破は2人がすやすやと眠りに就くのを待って静かにドアへと近づき、そっとドアを開けた。
 暗い廊下で何かを蹴ってはいけない。
 最新の注意を払いながら廊下を歩きだす杏と不破。

 玄関を出ると、ピッキングの針金を持って音が出ないようにドアの鍵を閉める。
(よし、閉めた。不破、帰ろう)
(お前これ何秒かかった)
(20秒)
(マジもんで犯罪者の域だな)
(うるさい)
 カメレオンモードのまま悠々とマンションのエントランスまでの廊下を歩く杏たちだったが、エントランスの向こうから、何やら犬の吠える声がする。
 どうしてこんな夜中に住人が犬を連れているのか、杏には分らない。不破が犬の散歩というので杏はようやく納得した。
(麻酔銃もないし、どうする?)
(速足で通り抜けるしかない)

 犬は杏たちに気が付いたらしい。キャンキャンと何度もこちらを向いて騒ぐ。
 飼い主は到底何が起こっているかわからず、夜中ということもあり必死になって犬を宥めようとしていたが、およそ、隣を人間が歩いているということには気が付かなかったようだった。

(あー、終わったあ)
(帰るぞ、杏)
(そうね、急がないと)

 無事にマンションを出た杏たちは、周囲に人がいないのを何度も確かめてからカメレオンモードを解くと、一気に走り出した。
 そしてマンション南口の路上に停めてあった2000GTに素早く乗り込むと、エンジンを2度、3度とふかしながら爆走体制に入り、不破は思い切りアクセルを踏み槇田の愛人が住むマンションを後にした。

 伊達市に戻ったのは夜中の3時。
 自宅に戻る前にE4に行って寝ている設楽を叩き起こす。
「おい、設楽、起きろ」
「あ、お疲れ様です」
「これをPCに取り込んでくれ」
 写真と録音を終えた時計を渡すと、杏が設楽の頭をポカっと叩く。
「へぐるなよ、これしかないんだから」
「わかってますよ」

 設楽が笑いたいのを我慢してます、という顔で杏と不破を見た。
「ディープなもの持ってきましたねえ」
「仕方なかったんだ。まさかお前、目の前ですぐ脱ぎ出すなんて誰も考えないだろ」
「人それぞれっすからね。ま、この方がリアルなのは確かだし」

 写真と録音を何枚かのブルーレイディスクとDVDに落とし込むと、設楽はまた寝袋に入って次の瞬間には寝ていた。
 杏と不破は顔を見合わせクスッと笑うと、鍵を閉めて静かに歩き出しE4を出た。

 翌日朝、眠そうな顔で登庁した杏。
 不破は運転で疲れたので午前中休むと言い剛田を呆れさせたが、杏は眠い目をこすりこすり、九条にお願いしてゴシップ誌に物証を送りつける気満々だった。
 剛田は朝から金沢市に出張なので、2人はバラバラに家を出た。

 ボーっとしながら杏がE4に入ると、皆が大笑いしている。
「チーフ、これ目の前にして録音してたんですか?」
 三条がさすがにそれはないでしょと言いながら杏の顔を見てまた笑う。
「仕方ないだろ、まさかそこで逃げるわけにもいかないし」
 九条は次のタスクを考えているようで、口から笑い声は漏れるものの、目は笑っていなかった。
 物証をひと括りにして九条に渡す設楽。
 杏は九条に頭を下げた。
「なるべくセンセーショナルに書き立てるところに投げ込んでくれ」
「お任せください」

 九条が投げ込みに行った2日後、R15指定の物証こそ活字新聞には載らなかったが、バラバラに料亭に入った2人がその後一緒に料亭を出るところや、2軒目に訪れたバーでべったりと腕を絡ませているところ、そこから移動するときも首相専用車に乗り込むという公私混同が見開き紙面で掲載された。
 そして最後には愛人宅マンションで腕を組みながら中に入り、首相専用車が帰るところなど、何枚かの写真と、それこそセンセーショナルな見出しで一部のゴシップ誌が伝えると、女性誌や通常の雑誌などもそれに追随し槇野の女性遍歴を一斉に報じた。
 R15の物証はゴシップ誌のネット版で繰り返し流れ、ダウンロード数はうなぎのぼりとなり、槇野は赤っ恥を晒す格好となった。

 結局、槇野は愛人問題と西野谷議員への誹謗中傷も加わり、世論を騒がせ国民の信頼は地に落ち、総理を降板することになった。
 槇野のぶち上げた日朝中間国交断絶宣言と日本自治国の移民及び犯罪者総電脳化計画は暗礁に乗り上げ、蹉跌をきたしたのだった。

第9章  What's your real purpose?(君の本当の目的は何だ?)

 槇田が失脚したのち、総理の座は西野谷(ゆずる)に移ると国民の誰もが期待に胸を膨らませ、ほとんどのマスコミもそうなると予想し、日々、特集も組まれていたほどだった。

 だが、西野谷議員は総理の椅子に座ることはなかった。
 西野谷は日本中から期待されていた総理の座を辞退し、先輩議員の東音|《あずまね》聡里(さとり)が日本自治国の首相となったのである。その東音から指名を受けて、西野谷自身は内閣府長官となった。

 設楽は、西野谷自身が欲を出して首相になれば、絶対に自分のルーツを探られるということを予感していたに違いないと指摘した。
 朝鮮国からの移民でもなければ、生まれてすぐに日本自治国籍を取得しているのに合点がいかないと三条は切り返す。
 九条はルーツだろうが移民だろうが関係ないと言ったきり黙る。朝鮮国そのものが大嫌いなようで、話にも混じらない。
 九条の朝鮮国嫌いは一生直らないだろうなと思いながら、杏はモニターに映る東音内閣の顔ぶれを見ていた。

 西野谷内閣府長官は、東音|《あずまね》総理とは同じ伊達市出身で信頼し合っている仲と聞く。
 杏は政治に興味があるわけではないが、絡まりがんじがらめになった日本という国の行く末をひとつひとつ紐解いていくように、様々な問題を解決しそうな二人だなと感じていた。

 東音首相と西野谷内閣府長官は、早速他の国々との対等な関係を国内外に示した。
 朝鮮自治国や中華自治国、ロシア自治国や北米自治国等、様々な国と友好条約や不可侵条約を締結することで外交関係を発展させた。
 国内では朝鮮系や中華系の正式移民に対し、電脳化することでゲルマン民族と同じ生活水準を約束し、騒乱の収拾を計った。
 そして、移民の中でも医療技術者や介護技術者においては国内での診療行為を全面的に認め、自由診療を許可した。
 移民の健康を心配し移住してくる医療技術者も多かったので、ゲルマン移住区を含め移民からはおおむね好感触を得た素案であった。

 電脳化を嫌う不法移民が論議の的になった時だけは威厳を各国に示し、電脳化と移住はセットであるとして譲らず、当該不法移民は強制送還で二度と日本自治国の地を踏ませないという強権を発動した。


 西野谷が内閣府長官になるタイミングで、北斗は事務所を辞めE4に戻ってきた。
 その日は朝からモニターが付いていて、西野谷たちの功績をコメンテーターが褒めている。
 北斗が“伏魔殿に就職しなくて良かった”と溜息を吐くと、周囲の者たちは笑って北斗の頭を撫で回した。
 
 杏が皆を代表するような形で北斗と話す。
「でも、仕事してるじゃない、内閣府長官殿は」
「ずっとこういう方でしたよ、下に対して威張ることも無かったし」
「あとはあのことが知られないようにするだけね」
「あのこと?ルーツですか?」
「あら、知ってたの?」
「はい、しょっちゅう朝鮮国の人達が陳情に訪れてましたから。そういうときは議員会館では会わなかったし、内緒ですけどね」
「じゃあ、議員会館の中でも有名なの?」
「知ってる先生はいたと思いますよ」
「よく槇野にばれなかったわね」
「みんな西野谷先生を守ってましたから」
「この政権が長く続くことを祈るわ」


 近頃はナオミの機嫌がすこぶる悪い。
 槇野を暗殺する前に首相が交代し、日北友好条約及び不可侵条約を締結してしまったからだ。
 ナオミにしてみれば、槇野暗殺がCIAに戻る際の手土産だったのだろう。
 外交に力を入れてこなかった春日井や槇野は、格好の標的となり得たのだが、もう、現在の東音首相を狙う要素はどこにもない。

 槇野暗殺に傾いていたアジアの国は多かった。
 それは北米とて同じこと。
 第3次世界大戦時に突然一方的に不可侵条約を破棄され恥をかいた北米も、煮え切らない日本自治国に対し何らかのアクションを起こすことはやぶさかではなかっただろう。
 それ自身は槇野のやったことではなかったが、その後も(くみ)しない状況が続いているのは、北米にとって恥の上塗りとでもいうべき状態ではあったらしい。

 杏はそれを九条から聞き、何が本当に日本の為になるのか悩む日もあった。

 そんなナオミが、もう仕事が無くなったことにより北米に帰る日も近いのだとばかり思っていた杏。
 ナオミがもう少し日本にいる、E4に残ると聞いた時は、嬉しさ0、がっかり度100。
 根っからナオミと杏は違うタイプだったし、不破と何度も外泊していることも杏にとって面白いケースではなかった。
 剛田と2人じゃ家が危険から守られないとかなんとか言っておきながら、本心は今までいつもそばにいた不破がいないと、科研での一人ぼっちの日々を思い出し、どこかで寂しさを感じていた。そう、単純に寂しかっただけ。マイクロヒューマノイドに恋愛要素は組み込まれていないから。
 それでも、自分の心境の変化に一番驚いたのは、杏自身だった。
 近頃は互いが近くに居すぎてそれが当たり前だと思い不破に対する感謝の念を忘れていた。
 日常は変わりゆくものだと知ったのはナオミが来てから。
 杏は家に不破が戻らない日は、昔のように膝を抱えて壁にもたれかかっているときが増えたのも確かだった。


 今日もナオミは相変わらず不破とベタベタしていたが、目つきが明らかにおかしい。クスリでもやっているのかと思わせるようなぼんやりした目で杏を見ていた。
 不破に絡みつつ、視線は杏や九条に注がれているように見える。
 ナオミに聞いたって話しやしないだろうと思いつつも、その不気味な視線はどこか杏の心を苛つかせた。
 頭痛も相変わらずジンジンとした痛みが続き治らない。
 杏は最悪の週末を迎えていた。

 ナオミが今晩のエサと品定めしたのは北斗のようで一生懸命誘うのだが、北斗にその気はないようで、ものの見事にナオミはフラれていた。
 心の中で“ざまあ”と見下したくなるのを押さえて、顔では残念そうに振舞って見せる杏。
 と、次にナオミが誘ってきたのは、なんと杏と九条だった。
「アン、尚志。今日付き合ってくれないかしら」
 げーっ。
 なんであたしが、としかめっ面をする杏。
 九条はスマートに誘いに乗っている。
「チーフもご一緒しませんか」
 げげっ、九条、こっちに振るなよ。
 杏は思わず口に出しそうになった。

 不破が杏の脇腹に勢いよくパンチを2.3発入れる。
「行って来いよ、迎えに行ってやるから」
 杏はつきたくもない嘘をついてその場をやり過ごそうとした。
「あたし酒場は性に合わなくて・・・」
「あら、E4創設時は一番酒に強かったって聞くけど」
 ナオミに昔のことを持ちだされ、不破が話したのだとわかると逆に不破の脇腹を2,3発突くが、もう、どうしようもなかった。
「強いんじゃなくてマイクロヒューマノイドだから酒が身体に入り込まないだけ。素面でもいいなら付き合うけど」
「OK.素面でも大歓迎」

 スレンダー美女ナオミが前を歩き、九条と杏が後ろから付いていく。
 周囲はナオミに圧倒されているというか、皆がナオミを振り向いていく。
(そりゃ、この大女だったらびっくりして皆振り返るって)
 腹の中でまで、意地悪ムードを醸し出している杏に、九条が耳打ちする。
「今日は帰れないかも知れませんよ」
「それは困る」
「どうして」
「不破が迎えに来る」
「おや、そうでしたか」
 くっくっく、と控えめに笑う九条。
「笑いごとじゃないでしょ」
「さて、どうなることやら」

 ナオミが入っていったのは外国人バーと呼ばれる場所だった。
 日本人もいるが、周りは皆外国語で会話している。英語が主ではあったが。
「アン、尚志。何か飲む?」
「適当に見繕ってもらえれば。僕もチーフも酔わない体質ですから」
「そう、じゃ、お任せということで」
 ナオミは店のスタッフに一声かけると飲み物を3つくれと言っていたようだが、杏の場合、英語はからっきし。久々に味わうこの雰囲気にさえも酔いそうだなあと周りを見回していた。
「で、2人が酔わないなら単刀直入にいうわ」
 ナオミがE4では見せないようなキリッとした目をして口元を揺らす。
「北米に来ない?」
 杏はナオミが旅行にでも誘っているのかと首を傾げ笑い出した。
「あたしパスポート持ってないし」
 隣を見ると、九条もナオミ同様真面目な顔つきでじっとナオミを見たかと思うと、その眼は杏に向けられた。
「そういう意味ではないようですよ」
 そういう意味ではない。では、どういう意味だ。杏には見当がつきかねていて、ナオミを直視することができなかった。
 九条は運ばれてきたグラスに口をつけるとテーブルに置き、もう一度ナオミの目を真っ直ぐに見た。
「再び暗殺部隊として活躍できるのが嬉しいのは本音です。ただ、僕は日本人としてのアイデンティティーを大切にしたいのもまた確かでして。お誘いは有難いのですが、僕は海を渡ることはできません」
 ああ、そうかと杏は気付いた。
 ナオミは、CIAの暗殺部隊に九条と自分を誘ったのだ。
 そして九条は断った。
 自分はどう答えればいいのか。実際のところ、暗殺部隊なんてまっぴら御免だし、剛田や不破と居る今の生活を壊したくはない。
 仕事に(かこつ)けるのが一番か。
「ごめんなさい、あたしは今の仕事が気に入ってるから。剛田さんとも離れたくないし」
「剛田さんじゃなくて、不破と離れたくない、でしょ」
 ナオミが笑いながらいう言葉に手を振ってみるが、違うとは答えられなかった。
「いや、不破は別に」
「本当はね、北斗も狙ってたの。でも無理ね。彼はE4のスパイとして仕事をしていくことが自分の使命だとはっきりいうのよ」
「彼ならそうかもしれませんね。ただ、ひとつ教えて下さい。僕たちをこのように誘うと言うことは、YESの返事を期待した訳ですよね」
「そうね」
「NOの場合、どうするおつもりでしたか」
「手土産のない長期出張は有り得ない」
「ならどうするんです、今のE4で辞めそうな人間なんていませんよ」
「E4なら誰でもいいわけではない。あなた方、という指示を受けている。NOの返事が向こうに聞こえたら、あなた方はCIAに狙われる可能性だってあるの」
 杏の腹は決まっているがゆえに、危険が待ち受けているとしても今の生活を変えることなど有り得なかった。
「危険と望まない生活のどちらかを選べと言われたら、あたしは危険を選ぶ」
「僕もそうですね、今迄だって危険と隣り合わせで生きてきた」

 ナオミは大きく溜息をついたが、それ以上、誘ってこようとはしなかった。
「了解。これ以上は言わない。でも、危険を避けることができないのもわかってもらえたわね?」
 杏と九条は、頷くとナオミをその場に残して店を出た。ほんの30分程の出来事だった。
「危険と隣り合わせか、結構デンジャラスな生活してたのね、九条さん」
「杏さんだって、デンジャラスゾーンに足を突っこんだわけですから、これから大変になりますよ」
「剛田さんに伝えた方がいいわよね」
「そうですね、任務に差し支えることだってあるでしょうし」
「CIAか。美春さんのことも関係してるのかな」
 九条は一瞬、歩く動きを止めた。
「なるほど、そういうことだったか」
「何が?」
「叔母様の誘拐未遂がなぜ起きたか、たかが文書の翻訳程度で探し回るのも変だと思っていたんです。翻訳で殺されるなら、今頃世界中の翻訳者が皆殺されてますよ」
「それはそうかもしれないけど」
「あれは元々僕らをターゲットとした翻訳の仕事だった。叔母様や剛田室長の身の安全を盾に僕らを北米に連れていくつもりだったとしたら?」
「でもナオミは誘ってこなかったわ」
「ナオミは僕らが絶対に渡米しないことを見抜いている。でもCIAではどうです?まだまだ叔母様たちを盾にして僕らを望まない世界に引き入れようとしませんか?」
「そんな、じゃあ、あたしたちが日本にいれば美春さんや剛田さんに迷惑がかかるということ?」
「そうとも言えるでしょうね」

 2人はそれからぐるぐると歩き回り伊達市内の公園に入り、こちらを狙ってくるハンターがいないかどうか確認することにした。
 ナオミの入った外国人バーに、ナオミの仲間がいて会話を聴いていたはず。
 それは間違いのない事実だと2人の間では暗黙の了解がなされ、夜遅くまで2人は公園内をうろうろしていた。
「美春さんは九条の家にいて大丈夫なの?」
「先程マイクロヒューマノイドのSPを増やすよう連絡を入れました。下手にこっちにくるよりも九条家の息のかかった地域の方が過ごしやすいことは確かです。以前もこちらのホテルで誘拐されましたし」
「剛田さんは、もうあっちこっちに行かなくちゃいけないから誘拐しようと思ったら簡単にできる」
「不破さんをボディガードにつけたらどうです?ナオミはもうE4には来ないでしょう」
「あたしが付こうかな」
「いけません、2人とも狙われてしまう。僕らは叔母様や剛田さんから離れなければ。杏さんはしばらくの間、家にも帰らない方がいい」
「悔しいったらないわ。これってズルいやり方じゃない」
「しっ」
 九条が杏の手を握る。
「あの樹の陰に入ってカメレオンモードになりましょう。会話はダイレクトメモで」
 
 どうやら九条がハンターに気付いたようだった。
 杏たちは素知らぬふりをして木陰でカメレオンモードになると、そこから公園内を見回した。
 九条が杏にハンターの居場所を教えてくれた。
(ほら、今ベンチに腰かけた2人組。一見ゲイのカップルにも見えますけど、先程外国人バーにいた2人組です)
(よく見てたわね)
(仕事柄、人の顔を覚えるのが早いんですよ)
(あたしも不破に連絡しようと思うんだけど、ホントの事言って信じてもらえるかしら)
(今は無理でしょう。E4に行って仮眠取りませんか。あそこなら大抵IT室の2人がいる)
(そうね、それなら不破も許してくれそう)

 杏と九条は公園内を出るとカメレオンモードを解き、E4を目指して速足になった。
 ハンターはどうやらマイクロヒューマノイドではなかったようで、すぐに尾行をまくことができた。
 ESSSビルまで着いた2人はすぐにビルに入ると地下に降り、そこから地下通路を歩いてE4ビルに入り49階に上がった。
 いつもどおり、八朔はゲームで遊んでいて、設楽は酒を飲みながら寝袋に入っている。IT室には顔を出さず、杏はダイレクトメモで不破を呼んだ。
(不破、聞える?不破!!)
(おいこらお前、今どこにいる)
(E4)
(さっきナオミが泣きながら連絡してきたぞ、お前と九条に置いて行かれた、って)
(それ、嘘泣きだってば。つーか、大事な事話すから聞いてよ)
(九条と一緒にいるんだろ、なんか雰囲気怪しかったってナオミが言ってた)
 杏の脳内で、ブチッと回線が切れる音がする。
(あんた、あたしとナオミのどっち信じるのよ。何年も一緒に暮らしてきたあたしのこと信用しない訳?てか、そこに剛田さんいる?)
(どっちって。剛田さんなら寝てる)
 不破のトーンが1段階収まった。
(明日から剛田さんのボディガードやってくんない?)
(なんで)
(あたし、北米CIAに狙われてるみたいだから)
(なんだよそれ)
(明日E4に来たら教えるから。しばらくの間、あたしE4に寝泊まりする)
(お前支離滅裂。大丈夫か?酒に酔うわけないのに)
(素面よ。とにかく明日剛田さんと一緒にこっちに来て)

 九条はその頃もう仮眠を取っていて、すやすやと眠っていた。
 この状況下で5分もしないうちに眠れるとは、九条はよほど強心臓なのだと思い、杏は安心するどころかおかしくて笑ってしまった。
 杏の笑いに気付いたのか、八朔がIT室から出てきた。
 2人を指さし、首を捻る八朔。
「八朔、早く寝ろよ。しばらくの間、私たちもこっちで暮らすことにする」
「何かあったんですか、チーフ」
「明日剛田室長が来てから説明する」
 八朔は不思議そうな顔をしながらも、何か事情があるのだろうと尋ねることを止めてくれた。八朔のように設楽も物分りが良ければいいのだが、なにせ設楽はおしゃべりが過ぎる。
 ナオミはもうE4には来ないと言う九条だが、ナオミの野郎、不破には自分と九条が逃げ出したと連絡していたらしい。
 自分と不破との不和を狙ったのか、それとも明日からもいけしゃあしゃあと顔を見せるのか。
 あの演技力で明日以降も来られたら、九条と自分が浮いてしまわないかと心配になる。

 浮く?
 あたしと九条さんが?

 そうか、そうすればいたたまれなくなり渡米をOKするかもしれない。そういった腹を決め込む可能性だった大いにある。まったく、どこまで行っても面倒な女だ。
 剛田さんには話しを信じてもらえると仮定しても、不破が無理では剛田さんの身が危ない。自分が付いても剛田さんの身には危険が生じる。杏はどうすれば上手く回るのか考えても考えても答えは出てこなかった。

 考え出すと眠れないタイプの杏は、爆睡する九条を見ながら、向かいのソファで羊の数を数えるのだった。


 翌朝。
 結局、杏は一睡もできず、目の下にクマを作りながらE4の窓辺から差し込む朝の光を浴びていた。
 不破は剛田をガードしながら出勤してくれるだろうか、剛田に危険は及んでいないだろうかと心配しながら待つ杏。
 そこに、剛田が早めに出勤してきた。
 不破を傍らに伴って。

 杏の心配は徒労に終わり、安堵が心の中に広がった。
 早く昨日のことを話したい一心で、杏は2人の腕を掴み、会議室に入ろうとする。
「剛田さん、不破、こっちこっち」
 目の下にクマを作った杏を見て、剛田が心配そうにしていた。
「どうした、五十嵐。寝てないのか」
「寝られる状況じゃなかったのよ」
「何があった」
「だから、こっちこっち」

 杏の声が聞こえたのか、爆睡から目覚めた九条が後から会議室に入ってきた。
 会議室に入り鍵を掛けると、杏と九条は昨日の出来事を剛田と不破に話し始めた。

 ナオミからCIAの暗殺部隊入りを打診されたこと。
 2人ともその場で断ったこと。
 ナオミがYESの返事を期待して杏と九条を誘ったこと。
 NO=手土産のない長期出張は有り得ないとナオミが話したこと。
 E4なら誰でもいいというわけではない、杏と九条という指示を受けているということ。
 NOの返事なら、CIAから狙われる可能性があるといわれたこと。
「危険と望まない生活のどちらかを選べと言われたら、あたしは危険を選ぶ」と杏が答えたこと。
「今迄だって危険と隣り合わせで生きてきた」と九条が答えたこと。
 ナオミは大きく溜息をついたが、それ以上、誘ってこようとはしなかったこと。
 これ以上は言わないが、危険を避けることができないのもわかってもらえたかとナオミに念を押されたこと。

 それにより、導き出されたひとつの答えがあったこと。
 その答えとは、美春の誘拐未遂はCIAが九条取り込みのために仕組んだある種のゲームであったこと。
 同じように、杏取り込みのために剛田がこれからCIAに狙われる可能性が高いこと。
 春に起きた美春や剛田の誘拐未遂の際、剛田に来た手紙はCIAが出した可能性があること。

「おいおい、それを全部信じろっていうのか」
 不破は呆れたように隣に座る九条を睨み、剛田の隣に座った杏に疑問符を投げつけた。
「じゃあ、あんたはナオミを信じれば?」
「いや、剛田さんのボディガードをするのが嫌なわけじゃない。ナオミがそういう役割をもって日本に来たのかが疑問なだけだ」
 杏も負けてはいない。不破に向かって低くドスの効いた声で応戦する。
「この場合、ナオミには2つの使命があったと見るべきよ。槇田の暗殺も重要な役どころではあったでしょうけど、結局暗殺できず仕舞い。残りの使命のヘッドハンティングは成功させなければと焦ったんじゃないかしら」
 九条も自分たちの自慢ではないと前置きしつつ、剛田や不破を見ながら話し始めた。
「僕は叔母が朝鮮国の諜報機関から狙われる理由がわからなかった。たかが文書の翻訳ごときで狙われるなんておかしいと思っていました。今回のヘッドハンティングがその裏に隠れているとしたら、全ての辻褄が合うんです」

 不破が嫌味を言おうとするのを制止して、剛田は杏と九条に尋ねた。
「自由と危険はいつの世でも隣りあわせだ。お前たちは本当に自由と危険を選ぶつもりなのか」
「あったりまえじゃない、剛田さん。あたしは自由も効かない人形のような生活は科研で卒業したの。いくら危険が待ち受けていようとも、あたしは自由を選ぶ」
 杏の言葉を引き取った九条も頷きながら向かいに座る剛田を見た。
「チーフの言ったことが全てです。僕だって向こうで働くという望まない生活などまっぴら御免だ。日本のヒエラルキーの中で日本のために尽くすことこそが僕のモチベーションに繋がると思っています」

 不破はそれでも何かしら言いたげに杏を見ていた。
 ナオミの芝居を見抜けないなんて、バカヤローと叫びたくなる杏だったが、剛田の手前、それは止めた。

 九条は美春に及び危険性を剛田に力説し、九条の家でSPを増やすことも率直に話した。
「美春さんに危険が及ぶことはないのか」
 剛田は少し声が大きくなった。また、我を見失いかけているように見えた。
「分りません。ただ、向こうの狙いが僕とチーフだとすれば、誘拐したとしても殺すことはないでしょう。殺せば僕らは永遠に手に入らない訳ですから」
 無償の愛、と九条がいったことを杏は思い出した。
「しかし朝鮮国が絡んでいると厄介なのではないか?北米の思惑とは真逆のような気がするんだが」
「はい、心配なのはそこです。朝鮮国なら、叔母や剛田室長に危害を加えかねない」

 不破はそれでも信じられないと言った表情で1人黙っていたが、あらためて剛田がボディガードを依頼すると、渋々ではあったが首を縦に振った。
 
 会議室から剛田と九条が出ていった。
 明かりを消そうと電源に近づいた杏のところに不破が寄ってきた。
「昨日、ナオミから連絡があったことは言ったよな」
「ああ、あの大嘘」
「ナオミはそのあと“九条の嘘に気を付けろ”って言ったんだ。どういうことか分るよな」
「どういうこと?あたしと九条さんは2人でナオミに会ってヘッドハンティングされたのよ。あたしも嘘ついてるっていうわけ?」
「そうじゃない。その話はお前が言うんだから本当だろう。でも九条は何を考えてるかわかんない奴だし、そこには絶対に嘘もある。だから注意しろって言ってんの」
「意味わかんなーい」
「たまには俺の言うことも信用してくれ」
「不破のことは信用してきたわよ。でもさ、今回に限ってはどうしてナオミが正しくて九条さんが嘘つきなのか、そこがわかんない」

 不破との意思疎通は現段階では無理だと知った杏。
 そこまでナオミを信じているとは。
 不破の態度を見て杏は少々哀しい気持ちにはなったが、今はそれどころではない。
 北米が自分たちのヘッドハンティングを諦め、朝鮮国も美春の拉致誘拐を諦めるまで負けるわけにはいかない。
 先を歩く不破の背中を見ながら、杏は不破を思いっきり蹴りそうになった。


 ナオミはその日以降、無断欠勤が続いた。
 剛田が何も言わず杏も興味を示さないのを見て、メンバーは一様に驚きの表情を持ってそれを迎えた。
 陰で設楽が、まるで剛田のボディガードのようにカバン持ちをする不破になぜだと尋ねていたようだが、不破ものらりくらりとかわしたらしく、設楽でさえ暗に何かが起きていることを悟ったようだった。

 ナオミが消え失せてから1週間。
 E4は普段と変わりない風景の中、ナオミの消息について皆が何かしら琴線に触れてはいけないことを考えているのは間違いなかったが、杏は敢えてそのことにも言及しようとしなかった。
 剛田には不破が付いている。九条の家には屈強なSPを増やした。
 それが今、杏と九条が取り得る一番安心できる方法だったが、九条は長期の休暇を取る、あるいは退職願を出して毛利市に帰る、など次第に伊達市から離れることを考えるようになっていった。
 
 九条に相談された剛田は退職願ではなく長期出張を進め、九条は現在の身分のまま毛利市の実家に戻った。
 何か有事の際はダイレクトメモやカメレオンモードも許可していたので、毛利市の状況は逐一剛田の耳に届いていた。
 剛田としても、いくら屈強なSPとはいえ、E4における杏や不破、西藤に並ぶ猛者を基準に見ているわけだから、民間警備会社で雇う警察あがりのSPをやや不安視していたのは事実で、九条が毛利市に戻ることに何の異存もなかった。
 むしろやり易くなったと喜んでいたのが事実ではあったのだが、九条だけでは心配だったのだろうか、三条まで長期出張という形で九条のアシストとして毛利市に派遣するのだった。

 もちろん、北米が狙っているのは九条であるからして、毛利市で何か起きる可能性は決して0になったわけではない。それは杏が剛田のSPに付くようなものだったから。

 E4でも、不破と一緒に西藤が剛田に付くことになり、剛田の身の安全をより強固なものにしようと動いていた。
 杏が剛田のボディガードに入らなかったのは、いつかくるであろう危険を察知したときに、剛田を守るためだった。

 杏は九条が毛利市に戻って以降、1人で行動することが多くなった。剛田がE4にいない時は不破もいない。事件もない日々は杏でさえも眠くなる。
 杏はあれから家に戻っていない。
 CIAから尾行され、剛田に危険が迫るのを回避するためだ。
 ま、とっくの昔に家なんぞ突き止められているだろうが。

 皆が帰り、夜になると暗く星さえも見えない物悲しい空を眺めては溜息を吐く。
 IT室に寝泊まりしている八朔と設楽が酒を飲まなくなったのは、いや、飲めなくなったのは杏のせいかもしれない。
 それでも杏にはここしかいるところがない。
 
 
 なるべくE4から出ないように生活していた杏だったが、たまには外の空気が吸いたくなる。
 毛利市の方でも特に動きがあるとは聞こえてこない。
 杏は、九条も美春さんも無事という証拠だと解釈していた。

 それなら、少しくらい、いいか。
 
 杏はいつも外出する時のように隣のビルの地下に回って外に出た。
 この道もナオミにはバレている。
 まったく、面倒なお誘いを受けたものだと、杏はまた頭の中で当時のことを思い出していた。
(ああ、やだやだ) 
 
 杏はゆっくりと歩きながらビル街を抜け、公園に足を延ばした。
 
 黒のハマーが自分を追い越していったのに気付いた杏は、福岡は長浜海岸での九条の取引を思い出した。
 あの時のハマーのナンバーは伊達330 は 1001 確か色は黒。
 福岡にいるのに伊達ナンバーだったので珍しい、と思った記憶が蘇った。
 なぜあの時の車がここにいる。
 いや、元々伊達ナンバーなのだから、こっちが拠点か。
 杏は少し混乱気味で公園の入り口で立ち止まり、静かに考えていた。
 
 すると黒のハマーは100m程行き過ぎたところでUターンしてこちらに戻ってきた。じっと運転席を見つめる杏は福岡での運転者の顔もなんとなくだが覚えていた。
 スピードを緩め近づいてくるハマー。
 だが杏を目の前にしたハマーは、突然加速すると杏の横を過ぎ去り、風が舞い杏の長い髪がバサバサに揺れた。
 目の前で加速されたため運転者の顔はよく見えなかったが、なんとなく、あの時のハマーのような気がした。

 あれは在朝北米人と杏は認識していた。さすればCIAに属する人物ということは容易に想像できる。
 なんだ、やっぱり尾行されてるんじゃないか。
 外に出ればすぐ尾行か。
 尾行といえば聞こえはいいが、ストーカーに追われているようであまり気持ちのいいものではない。

 杏は公園に入るとすぐにベンチに座り、九条にダイレクトメモで久しぶりに連絡を取ってみた。
(元気?九条さん)
(ええ、のんびりしています。長期休暇のようなものですから)
(ところで、長浜海岸で会ってたあのハマー。CIAの人なの?)
(長浜海岸?ああ、あの時ですか)
(なんか同じ車につけられてるような気がするんだけど)
(在朝北米人のスパイだったのは確かですね。今度はあなたのストーカーにでもなったかな)
(悪い冗談は止めてよ。そちらではストーカーはいないのね?)
(今のところ見かけません。でも外出したらいるかも)
(もう断ったのに何がしたくてストーカーするのかわからないけど。対決するなら、あたし負けない自信はあるのよね)
(僕もそうですね、相手がマイクロヒューマノイドだったとしても、僕より強いのは杏さんだけだと思うから)
(あら、褒めてるの?)
(もちろん)

 そこにイレギュラーな雑音とともにナオミの声が聞こえてきた。
(ハロー、お二人さん。あたし、ナオミよ)
 杏は仕事モードになって構えた。
(なんだ、無断欠勤)
(あら、あたしのチーフじゃないのよ、あなたは)
(休暇願も退職願も出てないだろうが)
(あたしはどこにも属してないもの)
 杏の言うことなど右の耳から左の耳に流して聞いているのではとさえ思えるナオミ。
 会話のキャッチボールすらもできず、杏はストーカーの一件もあり余計イライラした。

 そこで杏は、在朝北米人でハマーに乗るストーカーの彼と対決しても負けない自信はある、とナオミを挑発した。そこに九条が割り込んできて、自分も同じだとナオミを煽る。
 ストーカーしているのがあの在朝北米人なのかどうかを知るためカマをかけてみたのも多分にある。
 すると、ひときわ雑音が酷くなる中、ナオミの低い声が聞こえた。
(北米との関係をこれ以上悪化させないで)
 ナオミはひとこと返すと通信を遮断してしまい、雑音はピタリと消えた。

(これ以上悪化させるなって言われてもねえ。ストーカーしてくるのは向こうなのに)
(ナオミなりの忠告なんだと思いますよ。ハマー以外にもストーカーはいるでしょうから)
(ああ、ゲイの店?)
(語弊がありますよ。外国人バーと言ってください)
(あら、ごめんなさい)
(こちらには三条がいますから、彼を毛利市に残して僕がハマーの彼とご対面しましょうか?)
(あなたは元々面が割れてるじゃない)
(ストーカーを止めるよう進言するとか)
(あの様子じゃ無理っぽくない?)
(じゃ、逃げるしかない)
(ちょっと腹が立つけど、剛田さんを心配させないためには逃げるしかないかしら)
(ええ、そう思います。何かあったらまた連絡下さい。すぐ伊達市に行きますから)

 九条との会話が切れて、杏はきょろきょろと周りを見た。
 いるいる。
 ストーカーさまご一行。
 あっちにも。
 こっちにも。
 雰囲気が一般人とは違うからそういった輩はすぐに分る。
 こいつらもマイクロヒューマノイドか。
 全部1人で相手にしたとして、怪我無く戦えるか。
 怪我をするような戦いっぷりでは剛田さんに心配をかけてしまう。

 その時杏の頭に浮かんだナオミの一言。
 北米との関係を悪化させるな、か。

 今日のところは何もしないで終わらせておこう。

 でも、いずれ戦う時が来るような気がすると感じながら、杏はベンチから立ち上がり艶やかな髪を2,3度かき上げた。

 E4に戻った杏を待ち構えていたのは不破のお説教だった。
「チーフ、今までどこに」
「散歩」
「大丈夫なんですか、出歩いて」
「うん、ストーカーがたくさんいた」
「ストーカー?尾行されてるじゃないですか」
「そのようね」
 不破が寄ってきて杏の耳元で囁くと同時に、反対側の耳を抓る。
「剛田さんを心配させるな」
「いたたたっ。わかってるって」
「逃げ(おお)せろよ」
「了解」

 その日、剛田は午後から金沢市で警察府の会合があるため不破と一緒に出掛けることになっていたが、杏の姿が見えないため出発時間を遅らせていた。
「ごめんなさい、あたしは大丈夫だから」
「五十嵐、本当に大丈夫か」
「今日もここに泊まるもの」
「そうか。設楽と八朔がいるから1人にはならなくて済むと思うが」
「そうね、たまには1人で寝たいくらい」
「嘘をつけ」
 剛田は笑いながら不破を伴いE4を出た。
 直後、設楽が杏の脇にトコトコと歩いてくるのが目に入ったが、敢えて杏はそれを無視して珈琲を淹れにサーバーの場所まで移動した。設楽はそこまでついてくる。
「チーフ」
「なんだ、設楽」
「室長からの命令です。この探知機をつけろと」
 それはやや幅のあるシルバーの指輪で、内側に探知可能な信号が入っている形式のものだった。
「室長が?私に?」
「はい。絶対に外すなと」
「そうか。了解した」
 早速指に嵌めてみるが、杏の細い指にはサイズが合わず、両手の中指でもぐるぐる回る。杏はIT室にいる設楽の背後に立った。
「設楽」
 後ろを振り向き、目を真ん丸にする設楽。
「はい、何でしょう」
「サイズが合わない」
「えっ」
「どうしたものかな」
「作り直すとあと3日はかかるしな・・・チーフ、親指でも無理ですか」
 そう言われ、杏は親指に指輪を嵌めてみた。サイズ的には違和感が無かったが、親指というのがちょっと引っ掛かって、新しいのを作製してくれと設楽に頼みこむ。
「お洒落とか以前の問題として、何かと不便な気がしてな、済まない」
「じゃあ、サイズ計らせてください。どの指にします?」
「左手中指」
 設楽にサイズを計ってもらい、当面の間は親指で我慢してくださいと言われて杏は素直に応じた。銃を撃つ時には非常に邪魔なのは確かだったが、最速で治してくれると言うので我慢した。早々、銃を撃つ機会も今はないだろうという思いもあったからだ。

 これなら、部屋の中にいなくても居場所が分る。
 不破に怒られる回数が激減する。
 剛田さんに心配をかけなくてよくなる。
 ま、不破だって心配しての説教なんだろうが。

 杏は指輪を見ながら今日はもう何もする気になれなかった。
 活字新聞を読み、地下2階でバグたちと遊んでいる北斗に声を掛け、また49階に上がり活字新聞に目を通す。
 新聞を目の前にしながらも、考えるのはCIAの報復。そこで、通常は肩しか狙わない杏だが、この日は少し考えを変えた。相手を死に至らしめるシチュエーションがあるかもしれない。
 脳幹と心臓に向け、あとで射撃訓練でもするか。指輪が邪魔で今は無理だが。
 これで何があっても生き延びることができるはず。杏はまた地下に降りて自分用の銃を2丁手にすると、それを上衣のポケットとパンツのポケットに無造作に入れた。

 翌日、探知機がどの辺りまで効果を発揮するのか試すために、杏と倖田は一緒にE4を出た。剛田からの指示でE4から出る時は誰かと一緒に、ということで、今日は倖田が付き合ってくれた。
 すると、黒のハマーがまた近づいてきては去っていくのを2回ほど繰り返した。
 杏でなくてもそれが何を示しているのかは理解できたようで、倖田はいつでも胸ポケットから銃を出せるように手を開けていた。
 公園まで足を伸ばし、探知機の性能を計るためE4の設楽を呼び出した。
(設楽、どうだ)
(今公園ですね、大丈夫です)
(向こうの海岸まで行ってみるか)
(はい、お願いします)

 倖田はちょっと咳が出ていた。風邪気味らしかったが誰にも言わないでついて来てくれたらしい。
 無理をするな、と倖田を帰し、代わりに西藤に来てもらうことにした杏。
 ただ待っているとストーカーが集まりそうなので、杏は海岸への散策路を1人で歩き出した。
 この海岸は波が高く泳ぐには適さないが、夕陽が沈むロマンチックな光景を楽しみに、夕方になるとカップルが集まってくる。
 海岸線に対して平行に走る道路もあり、駐車場も整備されている。

 その駐車場を過ぎようとしたとき、黒のハマーが杏の前に立ちはだかった。
 エンジンを止めた車から降りてきたのは、長浜海岸で見たあの男だった。

 夕方の時間が迫りくる時間帯。
 まだカップルの数は少ない。
 男は相当な殺気を身に纏い、杏を凝視している。
 
 ストーカーがキレたか。
 北米を怒らせるなとは言っても、向こうが仕掛けてくる分には自己防衛しなくてはならない。杏はポンポンと飛んで身体を解すと、利き腕の右腕をぐるぐると回す。
 互いに声を立てぬまま、勝負の火ぶたが切って落とされた。
 相手は銃を使わず素手でくる。
 それならと、杏も銃を出すのは止めた。
 ジリジリと相手の呼吸を探り、呼吸が乱れるのを互いに待つ2人。
 しかし、杏はこの大事な時に頭がジンジンと痛みだし、思わずしかめっ面になってしまった。
 それを見逃すはずもなく、最初に攻めてきたのは相手だった。

 頭を押さえ突っ立っているように見える杏に向けて空手ともつかぬような動きで素早く杏を攻め立てる。
 杏はといえば、怪力男と戦うのは西藤で慣れているので相手の突きやパンチを左右に頭を振るだけで凌ぐパターンが多く、今日も凌いで相手の体力を削ぐ方法を採るつもりだった。
 ところが、運動不足からくるのか、そういった実戦が近頃無かったのが災いしたのか、胸に強烈な1発をくらい、息ができなくなった。
 息が苦しくやや動きが鈍ったところに、立て続けに突きやパンチ、キックを浴びせてくる相手に、防戦一方の杏。
 このままでは初めての負けを喫するのではないか、そう思った時だった。
 相手の突きのタイミングが、一瞬ずれた。

 よし。相手は体力を使い過ぎた。
 そう思った杏はそこから怒涛の快進撃とでもいうべき反撃を見せる。
 ボディブローにかかと落としや胸への突きなど、相手の技術そのままに反撃を続けていたが、相手も動きを止めたことで回復したらしく、また動き出した。

 一騎打ちの様相を見せた2人の戦いは両者一歩も譲らず、杏はパンチで相手の利き腕らしき右腕の肘下を折る怪我を負わせたが、直後に相手のキックが右ふくらはぎに当たり右膝下が折れる怪我を負ってしまった。相手もマイクロヒューマノイドだった。
 パンチ力を失くした相手と、立っていられない杏。


 そこに、西藤と不破が走ってきた。
 設楽に言われ付けていた探知機がここまで作動することを証明したものの、いつまでも帰らない杏を心配し2人が来たのだった。

 そこに珍客が姿を見せた。
 ナオミだった。
「この辺でマイクロヒューマノイドの部分交換をする研究所はないか」
 不破が驚くような男性的な声で話すナオミ。
 不破も西藤も、教える気は更々無かったようだが、杏が科研を教えろと不破に囁いた。
「お前、本気か?」
「北米との関係をこれ以上悪化させないためには、貸しひとつあればいいだろう」
「貸しねえ。やっこさん、借りた気になってくれるかどうか」
 呆れながらも、不破は科研に連絡を取ってくれた。

 杏とハマーの彼は科研に運ばれ部分交換オペを余儀なくされた。
「助かった。ありがとう」
 男性ではないのかと思うほど、声が低いナオミ。杏はひとつ聞きたいことがあった。
「どういたしまして。ところで、ハマーの彼の名は」
「ハーマンだ」
 ぶふっと吹き出す杏。余りに単純というか、取ってつけたような名前。
「偽名か?」
「そう」
「2度と忘れないでおく。今日のところは両者決着つかずだ、また機会があればお手合わせ願おう」
 杏の言葉をナオミは否定した。不破たちにも聞こえるように。
「北米に近づいてはいけない」
 杏も真面目くさったナオミの目の前に立ち、身振り手振りで反論する。
「ストーカーしたのはそっちだろうが」

 ハーマンの交換オペが終わると、ナオミとハーマンはナオミが運転するハマーに乗って闇の中へ姿を消した。
 今度は、杏の番。
「右膝下の他に異常はないですか」
「はい、いや、近頃頭痛が酷くて。ジンジンと頭が痛む」
 
 すると、科学者たちは騒然となった。
 杏は3日ほど検査入院という名目で科研に留め置かれた。
 頭痛の原因は、一般人の場合痛みの中枢とされる大脳の視床、体性感覚野、帯状回、前頭葉、小脳等、様々な部位との機能的結合性によるものとされるが、杏のCTなどにその様子は映し出されない。
 業を煮やした科学者たちは、脳を弄るかどうかの検討に入った。

 このままでは、また科研の玩具にされる。
 頭が痛いよりも恐れていたことが始まろうとしていた。
「頭痛の原因を調査してみませんか」
「断る」
「頭の痛みを失くすだけで生活も変わりますよ」
「いや、そちらで精製したマイクロヒューマノイド用頭痛薬さえもらえればいい」
 その晩、杏は退院した。
 薬は決して頭痛を完治させるものではなかったが、科研にいて玩具にされるよりはマシだ。
 杏の脳が今まで感じなかった痛みを感じるようになったのは、科学者たちからすれば脳の進化、エボリューションであろうという見解に至ったようで、何かあればすぐにきてくださいと満面の笑みで皆が見送っていた。


 それから3日後の事。
 E4にメールが入った。
 設楽が気付き皆に配布する。

 差出人はナオミ・ゴールドマン。
 内容は、杏たちのハンティングから手を引き、ハーマン・クリントンと一緒に日本を離れ北米に戻るというものだった。

 やっと胸をなでおろす杏にとって、ナオミは苦手な人種だったのは確かで、いる時といない時とでは緊張感も違う。
 杏に迷惑を掛ける存在、と思ったのは強ち間違いではなかったと思う。
 不破は残念そうにしながらも、杏の笑顔をみて満足したようだった。
 九条からも連絡が来た。九条の家も動きがないため、三条を毛利市に残しE4に戻るという。
 不破の目は意地悪気に光ったが、杏や剛田は手放しで喜んでいた。
 通常ベースでの日常が戻り、不破と剛田、杏の3人での生活が再開してようやく自分が取り戻せた気分になった。

 忍び寄る影に、この時は誰も気付きようもなかった。

第10章  メンバーシップ

 ナオミが姿を消して1ケ月が過ぎた。

 いま日本では、国内全体を巻き込み、迷宮入りかと巷で囁かれていた安室元内閣府長官射殺事件が過去に遡って盛り上がりをみせていた。
 安室が殺されたことにより、いくつかの疑問は国民の知るところとなった。
 例えば、安室とフリーランスリバティー教通称FL教の癒着に端を発した電脳汚染事件。
 麻田導師も暗殺されたため事件の背後など細かい部分は闇の中に葬り去られたが、元教団幹部の供述からこの2名の間に何かしらの繋がりがあったことが判明し、マスコミを一層賑わせることとなった。
 いずれ、麻田に限らずともFL教と安室の関連を報じたマスコミは多かったし、そういった類いのルートで殺された、と見る関係者が多かったのも事実である。

 電脳汚染はマスコミには伏せられたファクターとして内閣府ではひた隠しにしてきたが、安室射殺事件に端を発しマスコミの知り得るところとなり、開示しない訳にはいかなくなった。
 だが内閣府としては日本自治国総電脳化計画だけは一般市民に告げられない舞台裏があり、必死にマスコミへの詳細な情報提供を拒み続けていた。日本人を総電脳化し人口を減らして、朝鮮から移民を受け入れる計画があったとは、天地がひっくり返ったとしても言えるはずもなかった。

 ところが槇田首相が内閣府の上層部及び研究機関の職員のみぞ知り得る、第1級の機密事項である犯罪者総電脳化計画をぶち上げたため、安室が中心となって進めた過去の計画が今また注目を集めることとなり、東音内閣においても国会の代表質問は空転し、この話題は国民の間でも可否の意見が真っ二つに割れることとなった。

 犯罪者を電脳化するだけだから自分には関係がない。
 最初に犯罪者で実験をして、その後一般市民も総電脳化されるに違いないから絶対に計画を阻止しなければならない。
 前者は物事の表面しか捉えない人間や、犯罪抑止の観点を考えない者の意見が多かったが、後者は何が何でも許さないという極論を唱える向きが多数見受けられた。

 東音内閣では一切を否定し火消しに躍起になったが、人の口に戸は立てられない。噂とは瞬く間に広がっていく。
 今や前首相である槇田の不用意な失言が、東音内閣の首を真綿で締めるような状態になりつつあった。

 そこで登場したのが西野谷内閣府長官だった。
 西野谷内閣府長官は、2年以上前に安室元内閣府長官により日本自治国総電脳化計画の素案が作成されていたことを一般市民に正直に告げ、それは安室の死及び春日井首相の退任とともに蹉跌し、もう現内閣ではそのような計画がないことを丁寧に説いた。
 もちろん、その計画が日本人を総電脳化し人口を減らして、朝鮮から移民を受け入れるのが目的だったとは口が裂けても言えるはずもなく、それだけは最大の機密事項とされ、西野谷内閣府長官は、おくびにも出そうとはしなかった。
 そして、槇野前総理のいう日本人犯罪者総電脳化計画は、素案の段階でもないことを合わせて言い含めていくことも忘れなかった。
 実際には内閣府の上層部及び研究機関の職員のみぞ知り得る、これまた第1級の機密事項である犯罪者モルモット計画を一般市民に知られるわけにはいかなかったのである。

 だが一般市民の中には穿った見方をする者もいて、金沢市などでは、安室の考えた日本自治国総電脳化計画がこの先確実に実施される、と邪推してデモ運動に発展させようとする向きもあった。
 北斗はこの時期普段ならあまり仕事がないのだが、金沢市においてデモ活動を先導している所謂プロ市民と呼ばれる市民グループの動向調査を行うため、現場に潜入し捜査することになった。
 デモ行進を実現させようと一般市民を煽り立てる中、プロ市民にはどういったメリットがあるのかを探ろうとする北斗。
 そもそもプロ市民とは、責任感や行動力を伴ったプロフェッショナルな意識を持つ集団を指す言葉だったが、時代の流れとともに、その目的は変化していた。
 今では、見た目には一般市民と変わりないような出で立ちで一般市民を装い市民活動を先導する役割を担っている場合も多い。
 だがその胸中はどこにでもいる《普通の》一般市民とは違い、実際にはその活動によって利益を得る政治活動家、というのが定説になっていて、利益追求型のニセ活動を差すことがほとんどと言われ、左翼系の活動家、団体などの左翼系組織が主といわれてきた。
 一方で、この時代における右翼系の活動者は「右翼団体」と明記されているものの、左翼系活動者たちはそれこそがプロ市民であるとして譲らない。

 今回の場合においても、プロ市民たちは市民活動の一環として、日本自治国総電脳化計画は市民生活を根底から脅かすものだとして国会前に集結し連日のデモ行進を行うと宣言しているが、果たしてそれだけなのだろうか。

 北斗はプロ市民と呼ばれるうちの1人、伊東毅彦を訪ね、伊東の市民活動にかける思いを聞き感銘した、是非活動を手伝わせてほしいと言って深々と頭を下げた。
 伊東自身、自分は《普通の》一般市民であり給料などそういったものは発生しないし君のためにならないというのだが、伊東家の応接室兼事務所には何か特殊な感覚が残ると判断した北斗は、伊東の懐に入るためありったけの嘘八百を並べ立てる。
 自分が今は無職あること、貯金を切り崩して生活しているがアパートの家賃が払えず追い出されそうなこと、市民活動に前々から興味を持っていたこと、伊東の活動を何度も見るにつけ、自分が必要とされる場を市民活動に見出したこと、自分の力が発揮できる場が市民活動にあることなど、北斗は伊東に向け30分近く熱弁し、今の政府は一般市民の思いを等閑にし日本自治国総電脳化計画を推し進めようとしている、これは許されざる暴挙だと拳を振り上げた。
 伊東も北斗の熱意にほだされ、応接室で寝泊まりすることを許してくれた。
 そして北斗は伊東の家で毎日の雑用を担当しながら過ごすことになった。

 どうやら伊東は独身、もしくは男やもめといった状態の家族関係らしい。
 これで家族がいれば、住み込みは許してもらえなかっただろう。
 伊東は40歳くらいの中年で、普段は家で誰かと連絡を取ったりデモ行進のための準備に追われたりしているようだった。北斗は3日に一度くらいの割合でお金を渡され食材を買い込み簡単な料理を作ったり掃除をしたりと、ハウスキーパーのような役割を任されていた。
 しかし、伊東の年齢からして働いてもいないのに生活費がどこからでているのか、それが北斗には不思議でならなかった。
 伊東はどこからか資金援助を受けているに違いない。北斗がそう考えたのも無理はない。

 実際、スーツを着たどこぞの政治家の秘書らしき青年が訪ねてくると、北斗は決まって買い物に行くよう指示された。
 その秘書らしき青年は月に1~2回、伊東の元に姿を見せた。
 どこかで会ったような気がしないでもない北斗は、なるべく顔を合わせないようにしていた。西野谷の秘書をしていた時、議員会館で顔を見かけたことがあるような気がしたのだった。
 西野谷は保守系議員だったからこういった運動とは対極にあるわけで、市民運動に興味があったと公言した自分が西野谷の秘書では話がクロスしてしまう。
 伊東は北斗の正体についてまだ何も気が付いていない様子だったが、段々本性を現してきたのか、1か月を過ぎたあたりから次第に北斗を顎で使うような態度が目立ってきた。
 伊東は思いのほか神経質だったのである。
 部屋の掃除については、本を1冊でも違う場所に置くと怒られ、料理では素材が不味いと言って残す日も多くなった。毎晩酒を飲む伊東のために、夕食とはまた別に酒のアテを作らされ、台所の後片付けが終わるのは日付が回った頃になる。
 いや、睡眠時間が無くなるのはまだいい。
 酒を飲んで気の大きくなった伊東は北斗の一挙手一投足について毎日のようにダメ出しをして説教を重ねる。
 まったくもって迷惑な話なのだが、それも伊東の側面として覚えておかなければならない。
 囮捜査など、これが基本だ。
 

 いけ好かない部分が見え隠れしてきたな、と微かに思い始めた頃、E4の杏から連絡事項が三条によって齎された。
 三条と会うのは、伊東に見つからないよう、伊東の家から少し離れたホームセンターの中。
 北斗は丸腰で電脳化もしていないため、外部との通信連絡は衛星通信送信機だったのだが、伊東と一緒に住む段階で、外部との連絡手段は断つよりほかなかった。
 
 三条は決まった時間にホームセンターに来る北斗からメモを受け取り、E4に持ち帰っていた。今回は杏から任務に係る指示がきており、三条は杏の書いたメモを北斗に手渡した。

「北斗へ

 そいつは公安でもマークしているようだが中々シッポを掴ませないと聞いている。
 そこでだ。
 そいつの本当の狙いと金の出所、その金が不正なものである証拠を掴め。

 その方法だが、三条に持たせた盗聴器をやつがいない時に応接室に設置しろ。
 コンセントに差す形式で見た目タップにしか見えない代物だから当面は役に立つだろう。
 任務終了時はもちろんのこと、お前が危険を感じたらすぐに外せ。
 いいか、気を付けろよ。
 自分の身の安全を第一に考えろ。

                                     五十嵐」
 

 北斗は三条を見て目尻を下げ微笑みながらありがとうと礼を述べる。
 そして周囲を2度ほど確認し杏からの手紙を三条に返すと、渡されたタップを急いで上衣のポケットに仕舞い込んだ。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 北斗はその晩いつものように応接室のソファに寝ていたが、経験上、夜は行動すべきではないことを知っている。
 万が一何かしてるのを見られたら正体がばれてしまう。
 昼間デモに出掛けている時を狙って、掃除をしながらタコ足配線の場所にすっきりするタップをつければ見つかっても理由をこじつけられる。それがベストだろうと考えていた。
 焦りは業務に支障を齎すことも十分に知っているし、近頃、焦ることでパーになった仕事も何度かあった。
 今回は長丁場となっても、相手の尻尾を掴まなくてはならない。
 

 翌日、伊東が出掛けると早速北斗は部屋全体に掃除機をかけながら応接室の一角、人間からは見えにくい場所に狙いを定めてタップ式の盗聴器を取り付けた。
 杏のいうとおり、見た目はただのタップだ。
 だがこのタップは、見てくれ以上に優れたものだと聞く。前に設楽が北斗が49階の部屋にいるとき皆に自慢していたことがあったのだ。
 E4のIT室でタップ式の盗聴器から音を拾い、会話の録音だけでなく、声紋分析なども可能な高性能盗聴器だという。
 
 伊東にとって世間にバレては困るもの、一般市民とは名ばかりの裏の顔。
 市民活動に端を発した本当の狙いと金の出処。伊東に渡っている金は十中八九不正なものだろう。
 何が出てくるかわからない、まるで玉手箱のようだ。
 玉手箱を開けたら白髪のおじいさんでは困るけど。
 北斗はそんなことを考えながらフンフンと童謡を口ずさみワクワクしながら掃除を続けていた。


 北斗が盗聴器を伊東の家の応接室に取り付けてから2週間。
 伊東は相変わらずデモの準備に追われデモ参加を繰り返していた。
 1週間に1度は日本国内どこかしらのデモに出掛けているようで、デモ参加者の把握や統制などにも腐心していると本人が言っていた。
 北斗にとってはどうでもいいことだが、上手く話を合わせて自分もかくありたい、と伊東にゴマをする。自分は演技派だな、と北斗自身は思っていて、絶対にNGを出してはならないのだが、IT室では設楽と八朔が大笑いしているだろうなと思うと笑みが漏れそうになる。必死で笑みを消すよう努めるのだった。

 北斗にとって、その日は唐突にやってきた。

 朝、一本の電話を受け取った伊東は北斗に10時に来客があるのでお茶を出してから買い物に行くように、とホームセンターへの買い出しのメモ書きを渡した。
 なるべく長い間帰ってくるなという意志表示。
 これは何かある、と踏んだ北斗は応接室を念入りに掃除する。
 と、掃除が済んだ頃に来客があった。
 やはり議員会館で見たことのある顔。
 北斗は普段着で髪型も変えていたし、秘書時代にはスーツに伊達メガネで変装していたので、来客は北斗の別の顔に気が付かない様子だった。
 あまり顔を見られないように下を向きながらお茶を出し、伊東に買い物に行く旨を伝えて家を出た。

 その日は三条とホームセンターで会う日だったので、好都合だった。三条がE4を出る前に、議員会館にいる議員の全秘書の顔写真記録を設楽に頼んだ。顔写真だけで構わない。それだけあれば思い出せる記憶能力を北斗は持っている。


 今日はこの後毛利市内でデモがあると伊東は言っていた。
 なら、半日は帰らないだろう。
 来週までなら顔写真記録などの伊東に関する資料もできあがると設楽たちは息巻いているらしいが、これからすぐに顔写真記録だけでも見たいという北斗の願いは聞き入れられた。
 流石に設楽は仕事が早い。
 だが顔写真記録などの資料を見る為には、伊東の応接室では余りにリスキーだった。
 どこかに場所を移してみるしかあるまい。

 北斗はピン、ときて三条を同窓生に仕立て上げることにした。
「三条さん、僕の同窓生に成りすまして一緒に図書館行きましょう」
「なんで図書館」
「資料を広げるには好都合じゃないですか」
「そりゃまあ」
「喫茶店や飲み屋で広げたら目立ちますから、図書館が一番いいんです」

 北斗は伊東に、旧友と会ったので帰宅時間が遅れてもいいかと電話した。
 いつもならひとくされ文句を言われるところだが、今日の伊東はとても機嫌がよく、すぐにOKの返事が来た。あの男がまだいるのだろうと北斗は考え、伊東の家から一区画離れた場所にある図書館に三条を連れ立って向かった。

 やはり今日訪ねてきた男は、左翼系か右翼系か、あるいはリベラル派だったか、いずれ議員秘書に間違いない、と北斗は当たりを付けた。誰の秘書として働いているのかまでは思い出せないが、会ったのは議員会館の中である。

 30分後、杏から直接データが三条の下に届いた。その間はホームセンターで買い物をする北斗。
 三条を通して杏と会話する北斗は、少し焦りの色を見せていた。
(これで全ての公設と私設秘書を揃えた。見覚えがある顔がいたら知らせろ)
「これから見て三条さんに伝えます」
(三条がそこにいるのか、大丈夫か?)
「旧友と会ったことにして帰宅時間遅らせてもらいましたから」

 北斗は顔写真をザーッと目で追っていく。
 議員の顔は見ないで、秘書だけを追っていた。
 
 そのうち、ひとり該当者が出てきた。
 今日伊東の家に来た男に似ている。
 だが、働いているのは右翼系議員の議員秘書として、だった。
 不思議に思い、残りの議員秘書について指をあてながら必死に追う。
 最後まで見たが、残りに該当者はいなかった。

 首を捻りながら三条に報告する。
「この人だよ、今日来たの」
 三条も首を捻る。
「この悠木信一郎議員は、バリバリの右翼系じゃないですか」
「そうだね、でも前々から伊東の家に来てるのは、やはりこの顔」
「悠木議員の私設秘書ですね」
 その旨を伝えようと、三条が杏にダイレクトメモを送った。杏もまさかという口調で北斗に尋ねる。
(悠木議員の秘書が伊東を訪ねた?左翼系の議員じゃなくて?)
「間違いありません、悠木議員の秘書のようですね。僕が西野谷議員の秘書をしていたときに議員会館でも顔を見たことがあります。まさか短期間の間に右翼と左翼の二極に傾いたりしないでしょう」
(それはそうなんだろうが。とすれば、プロ市民そのものがフェイクというわけか。公安でさえ騙し果せたと)
「そういうことになりますね。もう少し時間をください、証拠を探してみます」
(ああ、こちらでは設楽たちが聞き漏らさないように交代で張ってるから安心しろ)

 北斗は図書館の中で三条と別れ、急ぎ伊東の家に帰宅した。
 もう、悠木議員の秘書らしき男の姿は見えなかった。
 その日の伊東はすこぶる機嫌がいい。晩飯をおごってやるからと、寿司の出前を注文するよう北斗に指示して、いつもより早い時間だと言うのにビールを飲んでいる。
 今日、金が懐に入ったのだろうと北斗は見当をつけ、伊東の指示に従った。


 それから1週間。
 北斗が待ち焦がれた買い出しの日になった。
 掃除と洗濯を済ませ、夕飯の材料の買い物に出た北斗は、いつものように一区画離れたホームセンターに出掛けた。
 連絡事項があれば、決まった場所に三条が来ているはずだった。
 しかし、三条の姿はそこになく、立っていたのは杏だった。
 目立たないようにデニムに革のジャケットを羽織った杏が北斗の方に近づいてきた。

「お手柄だったぞ、北斗」
「悠木議員のことですか」
「ああ。悠木はタカ派の保守系議員として一般社会では知られてるが、ルーツが朝鮮国でな。今も朝鮮国から多額の違法献金をもらっているんだ」
「伊東との関連は」
「伊東もルーツは朝鮮国だ」
「えっ、そうなんですか」
「で、これは大きな声では言えないが」
 杏が北斗の右耳に顔を近づける。
「安室射殺犯は伊東に嫌疑がかかってる。やつは朝鮮国の雇われスパイ兼スナイパーでもあったのさ」

 杏の話を総合すると、こうだった。
 悠木議員はルーツが朝鮮国だったがその事実を隠し、タカ派と呼ばれるバリバリの保守系議員として名を売っていた。
 して、その内幕はといえば、議員当選後毎年のように朝鮮国から違法献金を受け取っていたが政治資金として記載しておらず、現在の政治資金規正法に抵触する恐れがある。

 そこに目を付けたのがエセプロ市民の伊東だった。
 伊東は日本生まれ日本育ちの在日朝鮮人だったが、小さな頃苛められたのを執拗なまでに記憶に留め、日本という国に復讐することを企んでいた。
 伊東の本当の狙い、いや、理想というべきか。
 朝鮮国からの移民を増やし日本自治国を崩壊させ朝鮮国に併合する。
 そのためにはある程度の資金が必要だった。
 伊東は朝鮮国の雇われスパイとして働く中で、悠木議員の政治資金に目をつけたのだろう。
 悠木議員を直接脅して違法献金から幾分かの金を巻き上げていたと思われる。
 その他にも、ルーツが朝鮮国の議員で違法献金を受け取っている者を捕まえては金づるにしていた。

 西野谷内閣府長官もルーツは朝鮮だが、朝鮮国から違法献金を受け取っていなかったため伊東のアンテナには引っ掛からず脅されることはなかった、と推考された。

 そんな中、安室が逮捕され、日本人総電脳化計画は宙に浮いた格好になった。
 安室の後継として同じ所論をもって政治の明るい舞台に躍り出ることを夢見ていた悠木は安室が厄介者に変わっていったし、日本人総電脳化計画によって多数の朝鮮人が日本に入国すると信じ安室に期待していた伊東はひどく安室に失望した。

 この男は朝鮮をルーツとする自分にとって、邪魔だ。

 ここで伊東と悠木、2人の思惑は一致し、伊東がスナイパー役を引き受けて安室を射殺したと思われる。
 その思惑は朝鮮国にとっても同様で、安室の唱えた朝鮮人優遇策が急に先細りになると烈火のごとく日本を非難し、両国間の政治的関係は急速に冷えていった。

 そこにもって、槇野の国交断絶宣言。
 結局具体化はしなかったものの、朝鮮国では民主運動が巻き起こり日本を排除せよ、というデモが朝鮮国内各地で行われていた。
 朝鮮国の政治がこれを利用しない手はない。
 内政の不手際を隠すため、メディアに外政だけを垂れ流し日本自治国を悪者にすれば、自分たちが延命できるという目算を持って(まつりごと)に当たっている、ということだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 朝鮮国が外交攻勢を強める中、東音首相と西野谷内閣府長官は移民以外の日本人総電脳化の推進を白紙に戻し、世界と渡り合って新しい日本自治国の基礎を作り上げようとしていたが、ここにきて悠木議員や伊東のような輩が増えているのもまた事実であり、現体制をよしとしない議員連中や一般市民も固まりつつあった。


 そんな時、西野谷内閣府長官の暗殺未遂が起きた。
 朝の出勤時、車から降りて内閣府に入ろうとした際、ビルの間からライフルで狙撃されたのである。
 幸いどこにも怪我は無かったものの、安室元内閣府長官を襲った線条痕と同じとされ、同一犯の可能性が出てきたとマスコミは書き立てた。
 西野谷は自分のルーツを含め話題の人になることを嫌ったためマスコミには報道規制が敷かれたが、それでも一部のマスコミは同一犯に拘って取材を続けていた。

 そこでE4に西野谷長官護衛の依頼が舞い込んだ。
 九条と不破、西藤を護衛に、そして倖田を犯人発見時のカウンター技術をもったスナイパーとして付けた剛田。
「五十嵐や三条がいない分、しっかりと長官を守ってほしい」
「了解しました」
 九条は西野谷のルーツの話をすると朝鮮国に繋がるから嫌だと言っているが、西野谷そのものの人格は認めている。
 だから今回の依頼も二つ返事で引き受けたのだった。

 その頃北斗はルーチンワークに少し飽きがきていたが、きっと何かが出ると自分に言い聞かせ住み込みを続けていた。
 杏と会って以降、悠木議員の秘書は2,3回来てその度北斗は追い出された。
 他にも背広姿の人が何人か来るたびにお茶を出しては家から追い出され買い物に行く。背広姿の男性たちは、議員会館で会ったことはあるような気はするが、以前三条が持ってきた写真を見せられたもののこちらとしては余りに忙しく顔を覚えていない時も多い。
 下を向いたまま歩きながら北斗は考えていた。
 もし、向こうが自分を知っているのに自分だけが覚えていないとしたら。
 不味くないか?
 西野谷議員に仕えていたと知れたら。
 ますます不味くないか?
 伊東が自分のことを調べないとも限らない。

 これから、言動にはますます配慮しなければと思う北斗だった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 そんな日が続いた朝のこと。突然伊東が応接室で眠る北斗を起こす。
 デモでこれから福岡に行くと言いだし、帰りは夜遅くになるので鍵を閉めておくようにと言って家を出ていった。

 そうか、それなら来客はない。今日は念入りに掃除するか。
 北斗は応接室から掃除を始め、普段は掃除しない鍵のかかった物入れがあったため鍵を探そうとしたが見つからず諦めた。
 だが、物入れのノブを回すと、すうっとドアが開いてしまった。
 そのままドアを静かに開けると、そこにあったのはライフル銃だった。

 なぜライフルがここにある?
 静かにドアを閉めた北斗は他にも掃除していない場所があるかもしれないと、次々にドアを開けていく。
 他の部屋に、怪しいものはない。あのライフル銃だけだ。

 日本自治国では、現在一般市民は小銃やライフル銃を手に出来ない仕組みとなっている。動物ハンターでさえ、自宅に銃を保管することはできず銃器店に預けることが義務付けられている。ハンティングで使用する際は預けている銃器店に銃を取りに行く。銃器店にはマイクロヒューマノイドの警官が交代で勤務し、強奪を防いでいる。
 北米や諸外国で起きているような銃乱射事件を防ぐため、槇田が無理矢理法案を通したのだった。

 とすると、あの銃は闇で仕入れたものか、誰かの預かりもの、ということになる。
 伊東の趣味がハンティングだと聞いたことは一度もない。
 誰かに預かってくれと頼まれ、置いているだけかもしれない。
 掃除をひと通り終えた北斗は応接室で唸っていたが、もう一度あの銃を見ようと廊下に出た。

 今日は夜遅くなると言っていたから、昼間見る分には大丈夫だろう。
 物入れのドアに触ろうとした時だった。

「北斗、何をしている」

 北斗の肩がビクッと動く。
 声の主は伊東だった。
「そこで何をしている」
 北斗はありったけの演技力で平常運転をアピールしたかったが、果たして。
「あ、今日は昼間暇なので念入りに掃除をしようと思っていたんです。こちらはしなくてもいいですか?」
「そこはいい」
「わかりました」
「ちょっと来てくれないか」
「はい」

 伊東が応接室の内カギをかけたのを北斗は見逃さなかった。
 そして伊東は北斗が仕掛けた盗聴器のある壁の方に歩いていく。
 まさか、盗聴器が見つかったか?
 北斗は心臓がどきどきと音を立て、まるで息切れを起こしているような気分になる。
 どうか見つかりませんように、と願う北斗だったが、どうやらもう遅いことを理解せざるを得なかった。

「こんなタップは付けた記憶がないのだが」
 そういって北斗が取り付けたタップを指さした。
「もうひとつ電源口を増やしたかったのでタップを買ったのですが、いけなかったでしょうか」
「そうか」
 そう言ったまま、伊東はコンセントから右手でタップを引き抜くと、そのままグシャッと叩き潰してしまった。
 は?伊東がこんな力を持ってるなんて聞いてない。
 伊東はマイクロヒューマノイドか?そんな話は一切なかった。飲んで酔っ払うこともあったし。マイクロヒューマノイドなら飲んでも酔いが全身に回るはずがない。
 それに、そもそも警察関係者等公務に当たる者でない限りマイクロヒューマノイドにはなれないはずで、プロ市民がマイクロヒューマノイドなんて、冗談でも聞いたことがない。
 でも、マイクロヒューマノイドとまではいかなくても、目の前にいるこの男がどこかしら義体であることは確かだった。

「これでもうお終いだな。誰に言われて俺のことを調べていた」
「なんのことか、僕は・・・」
「嘘だってのはバレてんだよっ!!」

 突然態度を豹変させ、これまでの生活が嘘のように怒り狂う伊東。
 それでも北斗は知らぬ存ぜぬを繰り返すしかない。
 マズい展開だ・・・。
 どうやってこの場を収めたらいいんだろう。

 その時、ちょうどインターホンが鳴った。
 北斗はそちらが気になったという素振りで玄関の方を見る。
「どなたかいらっしゃったようですが」
「今日は出掛けるといってあるから訪ねてくるやつはいない」

 いよいよ、マズい。
 今にも自分の脳天を直撃されそうで、さすがの北斗も諦めムードが出てきた。
 いや、最後まで諦めてはいけない。

 と。
 玄関の方から何か音がする。
 グシャ、グシャ、という鈍い音。
 なんだ?
「あの、何か音がしませんか」
「そんなもの聴こえない。お前などひとひねりで殺してやる」
 伊東はテーブルの上に置いていたゴムの手袋を掴むと素早く両手に嵌めた。
 鬼のような顔をしながら、北斗の正面にドンドンと近づいてくる伊東。北斗は後ずさりしていたが、反対側の壁に背中がぶつかってしまった。
 そしてとうとう、北斗の首に伊東の指がかかった。
 物凄い圧で、北斗は少しの息でさえも吸うことができなくなった。やはりこれは腕だけ義体化したか、マイクロヒューマノイドの力に違いない。
 何かで対抗しようとするが、応接室の中で手の届く場所には何も見つからず、北斗の焦りはMAXに達した。
 もうすぐ三途の川が見えてくるのか。
 死の瞬間はそうだと聞いたことがある。チーフにだけど。

 北斗がジタバタと手足を動かして、自分の両手で伊東の両手首を掴んだ時だった。
 バタン!
 応接室のドアが開き、風が室内のカーテンを揺らす。
 伊東はドアの鍵を閉めたはずなのに、誰がどうやって開けた?
 誰が?


 自分の後ろから来た来客は北斗には見えなかった。
 何か話すのかなと思ったら、手の方が早い来客だったらしい。

 伊東の両肩と両足に一発ずつ銃弾が撃ち込まれた。
 どちらも効いた様子は見受けられなかった。
 やはり伊東はマイクロヒューマノイド。だから銃が効かない、と北斗は薄れゆく記憶の中で叫んだ。
 すると、今度は伊東の額のど真ん中に3発、銃声が響く。

 北斗はゆっくりとその場に崩れ落ちた。だが誰かが肩を貸してくれて、部屋の隅に移動した。それだけがうっすらと記憶に残ったが、あとのことは覚えていなかった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 伊東の部屋に現れたのは、杏と不破だった。
「誰だ、お前らは」
「名乗るほどのモンでもないわ」
 最初に伊東の肩と足を撃ったのは不破。
 すぐにマイクロヒューマノイドだと判断し、額を撃ち抜いたのは杏。
 だが、額を撃たれても尚且つ伊東は生きていた。
「日本製のマイクロヒューマノイドじゃないのか、こいつ」
 杏は続けざまに伊東の顔中に銃弾を浴びせ、不破は首筋を狙って撃ったが、伊東は直ぐには倒れなかった。
 ただ、杏や不破、北斗に対し攻撃してくることはなかった。
 どうやら、攻撃反射の脳髄がやられているらしい。
 瞼に撃ち込んでみても激痛に晒される様子はなかった。まさか、目までをも義体化しているというのか。
「腹立つ。どこが欠点なんだ」
「俺は後頭部と小脳狙ってみるから、杏はとにかく足を潰せ」
「オーライ」
 杏が伊東の両足のアキレス腱をこれでもかというくらい、何度も撃つ。マイクロヒューマノイドも何十回も同じ場所を撃たれれば、その場所が壊死のような状態になるのは科研で証明済みだった。
 だが後頭部と小脳にも消滅ポイントは見つからず、伊東はそのまま腱をやられて後ろに倒れ動かなくなった。
 杏がE4にダイレクトメモを飛ばし警察を呼んだ。
「銃刀法違反、殺人未遂、公務執行妨害、それくらいで引っ張ってくれ。もしかしたら安室元内閣府長官殺人の殺人容疑と西野谷現内閣府長官の殺人未遂容疑が出てくるかもしれないから、応接室の隣の物入にあるライフルを丁寧に調べるよう」
 
 警官が到着し伊東を確保するとともに、事件の詳細を調書に書こうと杏たちに協力を求めたが、杏は自分の身分証明でもある警察手帳を出してちょうどその場面に出くわしただけだと嘘をつき、それ以上の追及を逃れた。
 杏たちは部屋の隅で倒れている北斗の傍にかけ寄った。北斗の頬を何度か叩き口に水を含ませると、北斗は当初息ができずぜーぜーむせ返りながらも息を吹き返した。
 喘ぐような掠れ声で杏と不破を交互に見る北斗。
「チーフ。なぜここに」
「詳しい話はあとだ、北斗。これを飲んで少し休め」
 杏が軽度の睡眠剤を北斗に飲ませ、北斗をおんぶして外に出る不破。
 北斗を車の後部座席に押し込むと、杏と不破が勢いよく車に乗り込んだ。
 そして2000GTが伊東の自宅から勢いよく駆け出していった。

 金沢市からフルスピードで伊達市に向かう2000GT。
 北斗は眠り込んでいた。
「杏も寝たら?この頃徹夜続きだったろ」
「それは不破だって同じでしょ。ちゃんと前向いて走るように、あたしが見てないと」
「俺は大丈夫。お前よく肌荒れしないね」
「それはどうも。鉄の肌ですから」
 杏が前を向きながら不破の頬を抓る。
 その手を振り払うことなく、不破はアクセルを全開にして高速道を駆け抜けた。


 北斗が目覚めると、そこはE4のソファの上だった。
「いてて」
 喉の辺りがヒリヒリする。
 ああ、そうだ。伊東に首を絞められたんだ。一般市民ならまだしも、相手はマイクロヒューマノイドだったようだから力が強すぎて手を振り解くこともできなかった。
 一緒に生活してて気が付かなかった。伊東はマイクロヒューマノイドだったのか。そういえば、妙に食事は小食だった。でも、酒飲んで酔ってたよな?国内生産のマイクロヒューマノイドは、食べ物も一般人とは違うし酒を飲んでも酔いはしない。
 それに、公の仕事に就いているようには見えなかった。どこでマイクロヒューマノイドになったんだろう。
「あいつは朝鮮国でマイクロヒューマノイドになったようだな」
 北斗の心の疑問に答えたのは杏だった。
「チーフ、助けて下さってありがとうございます」
「いや、お前を危険に晒して済まなかった。あいつがマイクロヒューマノイドだということに気が付かなかった私の落ち度でもある」

 北斗はようやく現実を語れるくらい痛みが引いて来た。
「日本製のマイクロヒューマノイドじゃないとすると」
「朝鮮国に渡ってマイクロヒューマノイドになったのなら、向こうのスパイだったときに身体を変えたんだろう」
「部屋にライフルがありました」
「ああ、照合したところ、安室狙撃事件と西野谷狙撃未遂事件の線条痕と一致した。器用なことにスナイパーでもあったようだな」
「すみません、盗聴器叩き潰されてしまって。その辺の情報入らず仕舞いでしたね」
「IT室で聞いてたところ潰された音がしたんで私と不破が緊急出動したってわけだ」
「近くにいたんですか?」
「向かいのアパートに待機していた」
「え!それなら教えてくれればよかったのに」
「お前にも内緒で済まなかった。悠木議員の話の後、伊東の動きを見るために別働隊として動いていたんだ。お蔭で誰が伊東の部屋に出入りしていたかわかったし、朝鮮国からの違法献金組も芋づる式に捕まるだろう」


 3日後、伊東はだんまりを決め込んだまま検察に移送されることになっていた。だが、移送車両に乗る際、朝鮮国の物と思われるライフルで襲われ3人の警官が命を落とし、伊東は移送車両とともに敵の手に落ちた。まんまと逃げ果せたのである。途中で移送車両だけが見つかり、伊東は行方知れずになった。

 そのニュースはマスコミに上がる前にE4にも届いた。
 剛田が電話を受け、「なにっ」と一言発しただけで杏には事の次第がはっきりと見えたのだった。
「剛田さん、まさか伊東が逃げ出したとか?」
「そのまさかだ」
「伊東は日本じゃプロ市民の真似事していたけど、本当は朝鮮国の秘密諜報機関にいたんじゃない?だったらスパイとスナイパーで身体もマイクロヒューマノイドに替えたのもわかる」
「かもしれんな」
「実はね、困ったことがあるのよ」
「なんだ、五十嵐」
「朝鮮国のマイクロヒューマノイドには弱点が見つからなくて。日本や北米なら頭部、特に脳幹撃てば即死するんだけど。向こうはどこ撃っても死なないの」
「科研で研究しているはずだから聞いて来たらどうだ」
「分かった。不破、一緒に行く?」
「行く」
「寝不足じゃないの。寝たら?」
「それは皆同じだから」

 今日の不破の運転は、近年珍しいくらい穏やかなものだった。
 振り回されることもなく快適な杏。
 科研までの10数分間、2人は無駄口に時間を割くことなく、押し黙ったまま科研を目指す。
 到着し科研の玄関口を入ったところで1人の若い研究員が杏たちを出迎えた。
 どうやら剛田があらかじめ連絡してくれていたらしい。
「お時間割いていただき申し訳ありません」
「国ごとのマイクロヒューマノイドの変遷などを研究しています。こちらへどうぞ」
 杏たちは地上3階の研究室に通され、講義を受けた。
 
 北米やロシア、その他漂流中のゲルマン民族のマイクロヒューマノイドの身体は、今日日本で作製されているバージョンとほぼ変わりなく、急所も頭脳部分である。
 ただし、日本のバージョンは頭脳の表面そのものを取り替える技術も発達してきており、脳の表面だけをスポットブースターのパワー増幅器に磁気を当てることで新しいパーツに力を吹き込み、己の能力を上げていくという方法を取れるような実験が最終段階に入っており、臨床実験を待つばかり、ということだった。

「朝鮮国や中華国はどうでしょうか」
 杏の質問に科研の男性研究員は少しだけ恥ずかしそうな笑みを漏らした。
「向こうの2つの自治国だけは互いに研究成果を出し合う列強とは一線を画しておりまして、よくわからない、というのが現状なんです」
 杏は話を聞いているのかいないのか、自分の言いたいことだけ、聞きたいことだけを研究員に向かって早口で話している。
「頭の何処を撃っても死なない、ということは、頭部を含めた全体義体ですよね」
「おそらくそうかと」
 思いがけず朝鮮国のデータを拾えると分った研究員は、ノートを出して杏の言うことを書き留めていた。
「まず、顔全体、特に額と脳幹、後頭部と小脳、あとは身体全体。どこを撃っても倒れませんでした。さすがに攻撃の手は止りましたが」
「耳を至近距離から撃ってみましたか?」
「いえ、耳は撃っていません。耳を撃って倒すことできますか」
「向こうのは技術の進歩が遅くて、耳に電脳を繋いでいる場合がほとんどです。そういったマイクロヒューマノイドだと、耳を撃てばそこから脳の状態が崩壊することも考えられますね」
「じゃあ、耳から繋ぐタイプなら耳、小脳経由なら小脳を撃ってみればいいということですか」
「あくまで理論上の話ではありますが」
 杏はにっこりと笑みを浮かべ、不破を見る。不破も満足したというか、それ以上の話は引き出せないだろうという表情で杏を見ている。
「ありがとうございます、とても役に立ちました」

 杏と不破は研究員に礼を述べると科研を出て車に乗り込んだ。
 帰り道、不破は機嫌がよくなりまたアクセルを踏み込む。
 杏は身体が振られて酔いそうになりながらも不破に話しかけた。
「あたしたちも耳から繋いでるから進歩の無いマイクロヒューマノイドの仲間ね」
「半島のマイクロヒューマノイドは頭脳全体を覆ってるんだろ、マイクロヒューマノイドというよりは人造人間に近い感じするけど」
「そうね。脳そのものをスポットブースターで弄ってる可能性はあるわけだ」
「俺は嫌だなあ。脳弄ってまでマイクロヒューマノイドになりたいとは思わない」
「顔も老けなくて済むかしら」
「お前のツボはそこかよ」
「いつも“お肌の曲がり角―”とかって馬鹿にするのはそっちじゃない」

 返事の代わりに、不破はもう一度アクセルを踏み込んだ。

第11章  マイクロヒューマノイドの魂

 E4に戻った杏と不破は、剛田に第2科研でのあらましを報告するとともに、北斗も入れた全員が会議室に集まり電脳を繋いで緊急ミーティングを行った。
 伊東が逃げ出したということは、伊東を拾ったのは朝鮮国の秘密諜報機関あるいは軍隊とみて間違いない。
 相手が秘密諜報機関なら伊東をこちらの手に渡せない理由もわかるというものだ。伊東の身体を研究材料に使われては困るのだろう。

 秘密諜報機関といえば、美春を拉致誘拐したのも北米の命を受けた朝鮮国の秘密諜報機関の連中ではなかったのか。
 ただ、1度目は伊達市で拉致し船で朝鮮に向かおうとしたところ美春が海に飛びこんだため目的を果たせなかった。2度目に毛利市で誘拐を試みた際は2人が死に、3人がまだ警察府に拘束されている。
 誘拐の理由や個々の所属などについては3人とも黙秘しているというが、もし所属が秘密諜報機関であれば、そういった訓練はしているだろうから黙秘を貫くに違いない。

「これまでの情報を総括すると、伊東は朝鮮国の秘密諜報機関出身のパートタイムスナイパーであり、パートタイムスパイとして日本と朝鮮国を行ったり来たりしてきたんだろう」
 剛田が皆に伝えると、西野谷内閣府長官の護衛を外れE4に戻った九条が首を竦める。
「パートタイムスナイパーですか。僕の探していた人間がどうやら伊東だったと知って驚きましたよ」

 三条は淡々と事実のみを伝えていたが、それは驚きべきもので杏はつい前のめりになってその言葉を聞いていた。
「1週間前に朝鮮国の一番大きい港から大型船が出港したという情報が入っています」
 剛田が三条の言葉に関心をもったようで、片目を瞑ったままそちらを向く。
「軍隊か?」
「いえ、軍隊のように国旗は揚げていません。ですから諜報機関の可能性も否定できません」
「そうか。今どの辺りにいる」
「出てから今まで済州島近海で碇を降ろしているそうです。何かの訓練とか、そういった類いも考えられます」
「信頼できるソースからの情報提供か」
「はい・・・実は元W4のIT担当が無線をキャッチして、僕に連絡をくれました」
「そうか、では信頼に値するな」
 信頼に値する情報、と言われた三条は嬉しそうな顔をして九条を見た。九条もまた、口角をあげて微笑んでいる。
「では、設楽、八朔。お前たちがその情報を引き継ぎ、無線を追え」
「了解です」
 杏の言葉に反応し、早速八朔が1人で無線を傍受しに走っていく。

 すると剛田が考え込むような仕草を見せたので、みな何事かと身構えた。
「お前たちのいうとおり、朝鮮国秘密諜報機関が伊東を奪還したと見て間違いないだろう。大型船が出たということは、何かにカムフラージュして日本に上陸することも考えられる。五十嵐、不破。科研での報告事項を皆に話せ」

 杏が話したのは、朝鮮国製のマイクロヒューマノイドが弱点らしい弱点を持っておらず、唯一足の腱を何十回も狙った場合のみ移動できなくなる、という比較的弱気なものだった。ただ、向こうのマイクロヒューマノイドは最新式ではなく耳から電脳に繋ぐため、耳を撃ってみる可能性が残された、と杏は締めくくった。
 不破からは、日本製のマイクロヒューマノイドは脳を弄っていないため脳の保護が最優先になると思われることから、ヘルメットの着用を徹底することなどが報告された。

 剛田が皆の顔をひとりひとり見回した後、電脳から言葉として伝わってくる。
「言葉は何も語らない。語るのは行動そのものだ。言葉に惑わされること無く行動を注視して任務に当たれ」
「了解」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 早いもので、伊東が朝鮮国に奪還されてから1ケ月が経った。
 日本自治国としては表立った捜査ができず、E4に全権委譲という形をとって捜査を進めていた。今日はその報告事項を内閣府に伝える為、剛田と不破が金沢に出向いていた。

 伊東は、大陸内か、あるいは船の中でかは知らないが、足の腱を繋げる緊急オペを施していると杏は考えていた。
 設楽がIT室から出てくると、無線傍受の様子をE4の皆に伝える。
「大型船は一度済州島の港に入りました。食糧補給、燃料補給を済州島自治府に申し出ていますが、その実何名かの人間が新たに船に乗り込んだようです」
 杏は設楽の腕を掴み、問いかけた。
「乗り込んだ人間の正体はわかるか」
「朝鮮語を自動翻訳していますが、何せ人名なんで。ただ、チーフの役割を果たしている人間が乗り込んだのは確かです」
「伊東か?」
「カメラがないためその辺ははっきりしていませんが、伊東ではないようです。伊東も恐らく乗り込んだとは考えられますが」
「そうか、引き続き無線傍受よろしく頼む」
「了解」

 杏は九条を見て、チョイチョイ、と手招きする。
「どう思う」
「今の情報量ではなんとも」
「そうだな、いずれ日本に向けて出発する可能性は大きいと私は見ている」
「着岸がどこになるのか、いつなのか。その辺ですね」
「無線傍受でなんとかなればいいが」


 急にE4の中に風が入ってきて杏の机から書類が飛んだ。
「こちらの在朝スパイから連絡が来ているわ。船は2週間後に日本自治国伊達市に着岸する」
 そういって自動ドアの向こうから顔を出したのは、ナオミとハーマンだった。
 杏が渋い顔をしながら皆の前に出てナオミたちに応対する。
「何の用だ」
「あら、杏。渋い顔しないで。CIAで掴んでる情報を伝えに来ただけ」
「信頼できる筋の情報なのか?」
 信じていないと言わんばかりの杏の言動を見て九条が椅子から立ち上がった。
「チーフ。そういきりたたないで。ここはじっくり話を聞いてみましょう」
 杏はふん、とそっぽを向いてナオミたちの応対を九条に任せた。
「今、こちらでも済州島近海の大型船にかかる情報を収集しているところです」
「その船で間違いないわ。ところであなた方、朝鮮国の秘密諜報機関の元お偉いさんをやっつけたんですって?」
「誰です、それ」
「日本名、伊東毅彦」

 えっ、と部屋中がざわめきだした。
 倖田はライフルを床に落とし、西藤は寝ていたソファからガバッと飛び起きた。北斗は読んでいた活字新聞がビリッと破けたくらいだ。三条は北斗も認めている通り、性格的にどっしり構えている大物なので、ちらっとナオミをみただけだった。
 比較的冷静な九条がなお、ナオミと杏の橋渡し役を仰せつかった状態で会話に臨んでいる。
「これはまた。彼は元お偉いさんだったんですか」
「途中で椅子取りゲームから降りてパートタイムになったらしいけど」
「なるほど、どうしても日本で生きたかったのかな」
「復讐するためにね」
 九条は眉を八の字に下げて“復讐するため”のワンフレーズを考え込んでいるようだ。
 そしてようやく口を開いた。
「小さな頃の苛めが原因ですか。それでも普通なら祖国に帰って祖国のために働くんじゃないでしょうか」
「日本の崩壊をその手で成し遂げたかったのでしょう。その眼で見ながら」
「どうして伊東は安室元内閣府長官を殺したのでしょうね」
「それはあなた方が一番判ってるはず。もう安室は使い物にならなくなった」
「悠木議員に唆されたと?」
「少なくともCIAでは日本の議員に唆されたくらいで伊東があの行動に出たとは思っていない。彼自身がストーリーを描いていた。そこにたまたま暗殺依頼が飛びこんだだけ」
「なるほど、ありがとうございます。何か疑問があったら、その腕に付けている時計で聞きますから」

 ナオミはこちらでダイレクトメモ用の時計を作ってもらったが、捨てたと杏は思っていた。杏は少し意外そうな顔をしたようで、ナオミが杏に向かって女王の微笑とばかりに見下ろした。
「杏、この優れものは北米に持ち帰って研究材料にさせてもらうわ」

 剛田がいれば結論は剛田が出したはずだが、杏だけでは珍しく結論が出せなかった。
 ナオミを前にすると、杏の思考回路は停止する。
 今時間、剛田は内閣府にて報告をしている真っ最中だろうからダイレクトメモも使えない。
「いや、一旦返してもらって上層部のOKが出たらまた渡す。それでどうだ」
 ナオミはふふふ、と笑って杏の提案を拒否した。
「あたしたちの最後の仕事ですもの、今はまだ渡せない」
「何が最後の仕事だ、E4から出た後はどこの警察にも所属していないだろうに」
「あなた達にとっては来たるべき悪魔、こっちの名前じゃ伊東ね。あいつとの対決よ、人手はあった方が得でしょ。あたしたちも北米に手土産ができるし」
「手土産のためにここに残ると?」
「お互いwinwinじゃない?お得よ、あたしとハーマン」

 杏がどんなに考えていても答えは出ない。

 それでも、ここに残って戦うと言うのなら好きにさせればいいのでは、という結論にようやく至った杏。
「E4の邪魔だけはするな」
「しないわよ」
 ナオミは小さく溜息を吐き何か英語で言っていたが、杏には聞き取れなかった。杏と話しても面白くない、とでも言いたげな顔をしている。
「じゃ、2週間後にまた来るわ」
 ナオミはハーマンの肩を叩くと、踵を返して自動ドアの向こうに消えた。

 ナオミがいなくなり、やっと思考能力が戻ってきた杏。今後のスケジュールを念頭に置きながら皆を地下の練習場へと追いたてる。
「北米のいうことが本当なら、2週間の猶予が与えられたことになる。みな、まず額を集中的に狙え。そうすれば相手は攻撃できない。そして至近距離から耳を撃てば向こうのマイクロヒューマノイドは死ぬと思われる。動くのが邪魔な時は腱に纏めて撃て」
 九条と三条は相手の攻撃などお構いなし、“邪魔者には死あるのみ”と言わんばかりに、端から耳を撃つ練習を始めていた。
 

 ナオミがE4に顔を出した直後から、設楽と八朔は無線傍受に追われていた。
 北米スパイの情報通り、2週間前後で大型船は伊達市に入ると思われる。
 これがフェイクの情報でない限り、伊達市でE4を全滅させ、その後金沢市や毛利市といった主要地域を狙うものと考えられたが、杏はひとつだけ気になったことがあった。

 美春と剛田を始末するため誘拐したやつらは、毛利市のWSSS施設で拘束されている。朝鮮国の秘密諜報機関では、E4壊滅とメンバー奪還、どちらを優先して考えるだろう。
 あたしなら、メンバー奪還をまず優先事項にする。
 E4など、大人数で攻めればいつでも潰すことができるから。
 となると、この無線情報はフェイクの可能性が多分に考えられるのではないか。

「剛田室長、どう思う?」
「なんだ五十嵐、唐突に」
「相手のプライオリティー」
「この場におけるプライオリティーとはなんだ」
「毛利市内にいるメンバー奪還とE4全滅のストーリー、剛田室長ならどっちを優先する?」
「そりゃお前・・・」
「ね?北米の情報や無線情報では最初に伊達市を攻撃してE4を失くすとしているけど、果たしてそうかしら」

 杏はIT室に向かって行き、ドン!と1回、ドアを蹴った。
「おい、2人とも。無線傍受先がもう一つないか調べろ。内容は、朝鮮国が毛利市を最初に攻めると言うものだ。船が到着する時期も合わせて徹底的に調べ上げろ」
「え。今更ですか」
「船がいる場所から毛利市までの時間も合わせて知らせろ。この1週間が目途だから、死ぬ気でやれ」
「まったあ、チーフは人使い荒いんだから」
 設楽のブーイングを拳骨で黙らせた杏は、今一度2人に強い口調で指示を飛ばした。
「最初の無線はフェイクの可能性もある。微々たる電波でもう1件の無線が流れていないかどうか、探すんだ。頼んだぞ」


 杏はそのままIT室から出てナオミに連絡しようと思ったが、それには時期がまだ早いと察した。
 もう1件の無線を傍受できなければ、ナオミは杏の言うことを信じようとはしないだろう。彼女らと軋轢は起こしたくない。たぶん相当な戦力になるはずだ。ナオミとハーマン、あの2人がいるだけで。

 徹夜で無線傍受を続ける設楽や八朔に差し入れをしながら様子を聞く杏。
「どうだ、微弱電波でもいい、何か通信している様子はないか」
「今までの無線通信が大きすぎて裏に何かあるかどうかも聞き取れません」
「そうか、引き続き、両方の無線傍受を頼む」

 元W4のメンバーによる無線傍受がフェイクだとする杏の考えを、三条に伝える気にはなれなかった。せっかく傍受して三条に教えてくれたというのに、それを無下にするような気がして言い出せない。
 浮かない顔の杏を見て、地下の射撃練習から戻った九条が心配そうな顔で杏に近づいてきた。
「何か困りごとでも?」
 杏は、迷いに迷ったが、九条に自分の意思を伝えようと決めた。
「W4元メンバーが傍受してくれた無線通信が、もしかしたらフェイクかもしれない」
 杏は九条に、朝鮮国がどちらを優先して事に当たろうとするか、仲間の奪還が先かE4の全滅が先だろうかと、あらためて聞いた。
 
 九条が冷静に受け止めてくれたように見えて、杏は少しほっとする。
 淡々とした表情で聞いていた九条だったが、段々と目に炎が宿ってきた。
「プライオリティーからいってみれば、毛利市への上陸が先に思えますね。メンバーの奪還と、叔母様の命を断ち切る作戦に出てもおかしくない」
「となると、別の無線でやり取りしている可能性があるのでは?」
「ええ。僕らの元メンバーも悪気があってやったことではないのでその辺はお許しください。IT室では別の無線傍受を?」
「それが上手くいかない。北米に知らせようにも、ナオミは私の言葉を聞こうとしないから困っている。あいつらが味方に入れば鬼に金棒状態になるのは確かだと思うからな」
「叔母様のこともあるから、僕から北米、ナオミさんに連絡してみましょう。ところで船は今どこに?」
「まだ済州島の近海で碇を降ろしているそうだ」
「今動きだせば1週間もかからず日本に到着しますね」
「ああ、今出発して毛利市に着岸されたら町は大混乱になる」
「WSSSも身動きとれずに惨敗するでしょうし」

 杏と話を止めた九条は早速、ナオミにダイレクトメモを飛ばしていた。初めは出なかったようだが、何回かチャレンジしたところ、ナオミが出たらしい。
 九条は自分の叔母が朝鮮国秘密諜報機関に狙われていることを告げ、もしかしたら大型船は最初に毛利市に入り叔母の拉致誘拐とその際捕まったメンバーの奪還を目指しているのでは、と話題を振ってみる。
 ナオミは初めのうちこそ在朝スパイの言うことに間違いはない、と九条の言い分を退けていたが、九条の叔母、美春が2回も誘拐、あるいは誘拐未遂に遭っていることを考慮し、伊達市でE4を失くすよりも、日本人の人質を取った方が朝鮮国にしても戦いやすい状況になると理解したようだった。

 在朝スパイはもう国外に逃れているので情報を確認する術がない。
 北米の最新型無線傍受機器で無線を聞き取れないか上司に相談する、とした上で、ダイレクトメモは切れた。


 それから3日が経った。
 杏は徹夜をするIT室の2人をときに鼓舞し、ときに優しく差し入れを持って、無線傍受の様子を眺めていた。
 相変わらずE4の無線機ではフェイクしか傍受できず、設楽たちも段々焦りと滅入りが限界にきているように見えた。
 設楽は昼間から酒を飲みながらヘッドホンをして耳を澄ましていた。
 酒を飲んで細かい無線の音が聴こえるかどうかは非常に疑問の残るところではあったが。

「よっしゃー!!」

 杏が徹夜に付き合ってE4のソファでうとうとしていると、IT室の設楽が大きな声で叫んだ。
 設楽は酒臭い顔でIT室から出てくると、杏の元に一直線に飛んでくる。
「見つかりました、裏の無線傍受に成功しました!」
 杏は鼻を押さえながら設楽の肩を叩いてその仕事を労った。
「ご苦労だった、設楽。ただ、その酒臭いのなんとかならんか」
「これが僕の徹夜スタイルなんですよ、お蔭で無線傍受に成功したんですから」
「それはそうだが。あとは八朔に任せて今日はもう帰って寝ろ」
「いいんですか?チーフ」
「今日だけな」
「あざーっす」

 設楽はロッカールームに飛んでいく。杏がIT室を覗き見ると、八朔が微弱無線を聞き漏らさないよう、目を瞑り真剣な顔でヘッドホンをしている。
 寝ているわけじゃあるまいな、とも思ったが、不用意に声を掛けるのも集中をきらすか、とIT室に入るのを止めた杏。
 換気扇をつけようと思ったが、無線はかなり小さな音だ、聞えなくなる可能性もあると思いそのままにしていた。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 翌朝、メンバーが次々と出勤してくる。
 皆、設楽が酒臭いのは知っていたようだが何日も徹夜しているIT組に文句をいう気にもなれなかったらしく、珈琲を淹れながら自分の席に着く。
 やがて、剛田と不破が出勤してきた。
 剛田も部屋の中が酒臭いのを感じたようで大きく溜息をついたが、設楽や杏に対しては何も言えずにいたようだった。
 そんな剛田に気付きながらも、杏はこっちが先と言わんばかりに剛田に寄っていく。
「剛田さん!無線見つけたわよ!」
「本当か?」
「ええ、設楽が見つけたの。余りに酒臭いから自宅に帰したけど」
「正解だな。ところで、無線の内容は解ったのか」
「今八朔が聴きこんでるところ」
「内容がわかったらすぐに教えてくれ、金沢にいく」

 杏はIT室を度々覗き、八朔に声を掛けるタイミングを計っていた。
 それから1時間ほど。
 目の下に真っ黒なクマをつくった八朔がIT室から出てきた。
 あれから3日間徹夜したのが痛々しいほどにわかる。

「チーフ、向こうの無線内容わかりました」
「どういう内容だった?」
「やはり着岸は毛利市、時期は10日後。フェイク無線は2週間後でしたから4日ほど早い着岸です。3日違えば毛利市を手中にして金沢や伊達にも攻め込んでこれます」

 杏が九条と三条を見ると、最初に九条が立ち上がった。
「毛利市で大型船が着岸できるのは毛利西港ですが、あそこはかなり目立ちます。毛利西区海岸の沖合に母船を停めて夜にボートで海岸線に渡るのが一番目立たない方法かと」
「なるほど。その2択で間違いない?」
「ええ、他は現実的ではない。な?三条」
 九条から話を振られた三条も椅子から立ち上がった。
「僕もそう思います。毛利東区にはそういった海岸はありませんから」
 三条は、前の無線がフェイクであったことを九条から聞いたのだろう。残念ではあったろうが、もう切り替えて仕事をしているように思われた。

 剛田の方を向いて今の話を繰り返そうとする杏だったが、剛田はそれを制止してすぐに立ち上がった。
「これから内閣府と警察府に行ってくる。時期的には間違いないと見た。場所は毛利市を第一と考え我々E4はそちらに集中するが、金沢市と伊達市にも部隊を派遣するようお願いしてくる」
「軍隊?」
「いや、五十嵐。できれば軍隊は派遣したくないところだ、戦争問題に直結しかねないからな」
「じゃ、警察部隊本部とWSSS、ESSSというところね」
「向こうの規模にもよるが、今の段階ではそれで間に合わすしかないだろう」
「こき使われるわね、あたしたち」
「向こうの船は本当に1隻だけか?」
「今のところは」
「他に情報が入ったらすぐに連絡しろ、わかったな」
「了解、いってらっしゃい」

 不破を伴って金沢に出掛けた剛田を見送った杏は、くるりと振り返ると九条の顔をまじまじと見る。
「ナオミに連絡してくれ、向こうでも同じ無線通信が聴こえているかどうか」
「了解」
 九条はすぐにダイレクトメモをナオミに飛ばす。やはり、1回で出る様子はない。杏はナオミを前にするといつもイライラさせられる。早く出ろ、ナオミ。
 何回か連絡をつけようとしたが、今日は全然繋がらない。
 九条が諦めて杏に向かって首を竦め時計から手を離した。

 いやいやながら、ナオミに連絡するため時計のボタンを押そうとする杏。
 するとボタンを押した瞬間にナオミの低い声が聞こえてきた。
(やーね、時間考えてよ。こっちは今夜中なんだけど)
(すまん。ところで、今までと違う無線通信を傍受した。日本着岸は10日後、場所は毛利市だ。そちらで何か情報が入っていないか)
(なんですって?)
(今までと違う情報があったら連絡をくれ。どちらが本物かまだはっきりとしていないが、微弱無線をキャッチしての情報なので精度は高いと思っている)
(これからCIAに行くわ。あとで連絡するから待ってて)

 ナオミはぷつりとダイレクトメモを切り、杏は話が繋がったことで内心ほっとしていた。
「北米で同じ情報が得られたら、本格的にシフトを動かす。それまでの間、射撃訓練と防御訓練に励んでほしい」
 それだけメンバーに伝えると、杏は自ら地下に降りた。

 地下1階から下を見ると、北斗がバグやビートルと追いかけっこをして遊んでいるのが見える。
 今回はバグやビートルにも頑張ってもらわなければ。
 向こうの規模次第ではカメレオンモードを使うつもりだが、どこまで通用するかわからない。
 なるべくなら、こちらの手の内を全部さらけ出すことは避けたい。
 まあ、それは向こうだって同じだろうが。
 
 色々と考えあぐねていると、頭がすっきりしない。
 杏は銃を取り出して射撃場に行き、手始めの100発を続けざまに撃った。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 300発ほど的を狙ったところでようやく頭がすっきりしてきた杏は49階に上がり自動ドアを開けた。
 室内には誰もいない。
 入れ違いに皆、地下に降りたらしい。
 
 珈琲を淹れて自分の席に戻ると、机に九条の字でメモが残されていた。
 ナオミから連絡が来たらしい。
 直接杏と話したいということで、連絡を待つとナオミが九条に伝言したようだ。全て九条に伝えてくれればいいのに、と思うと頭がピリピリと痛む。
 また頭痛。
 薬を飲んでから連絡するか。
 薬を探していると、ダイレクトメモでナオミのキンキン声が聞えてきた。

(連絡しろっていったでしょー)
(すまん、射撃場にいた)
(こっちでも無線傍受したみたい。ハーマンと9日後に毛利市に行くわ。集合場所はWSSSビル1階。時間は夕方4時。いい?)
(ああ、構わない)
(E4はどうするの?皆毛利市に行く?)
(今のところはその予定だが)
(今までの無線どおり伊達市に来たらどうするの)
(ESSSにお願いするしかない。こっちはオスプレイで移動するから毛利市との往復はそんなに時間がかからない)
(飛行場から海岸線までほとんど距離が無いから、正味1時間半というところね)
(ああ、毛利市の飛行場まで行く時間がちょっと惜しいくらいで、飛行時間そのものは1時間あれば)
(了解。伊達市にいようかと思ったけどあたしとハーマンは車しか移動手段がないから最初から毛利市に行くわ)
(そうか。では、WSSSビルで待つ)

 これで北米からの助っ人も目途が立った。戦闘力も高そうだし、2人でもいないよりはましだろう。
 CIAからの助っ人なのか、個人的な北米への土産話なのかは知らないが。

 ピリピリとした杏の頭痛はまだ続いていた。
 机の中に入れた頭痛薬を探す杏。
 ようやくみつけ、薬を手に給湯室まで頭を抱えながら歩きコップに水を注いで一気に飲み干した。
 どうせ気持ち程度しか効かないのだが、別に気持ち程度で良い。これ以上を望んだら脳を弄られてしまいそうだ。

 杏が給湯室からE4に帰ると、九条だけが射撃を終え49階に戻っていた。
「ナオミと連絡が付きましたか」
「9日後WSSSビルで待ち合わせ」
「実戦経験もあるでしょうから役に立ちそうですね」
「しかし、朝鮮がどれくらいの規模で来るか。結構な数が来ると思うんだけど」
「そうですね。そこでチーフ、ご提案があります」
「何?」
「最初にカメレオンモードで雑魚を減らして、伊東や向こうの司令塔は最後まで残す方が賢明かと」
「殺すということ?」
「チーフの言うとおり、向こうはかなりの数が来るはずです。こちらは少数精鋭とはいえ、数的劣勢は免れない」
「最終的には剛田さんの判断を待つしかないけど、それも致し方ないかもしれない」
「剛田室長も許してくれると思いますよ。今回に限っては」

 2人で話しているところに自動ドアが開き、ちょうど剛田の姿が見えた。後ろに付いている不破は杏たちを見ると口元をへの字にした。また不破は怒っている。
「どうだった、剛田さん」
「我々は毛利市に集結することで話がまとまった」
「こっちも今策戦会議してたとこ」

 杏は九条から提案のあった内容を剛田に話した。
 カメレオンモードで雑魚を殺して伊東や向こうの司令塔は最後まで残す方法。
 杏としては、伊東ら向こうの司令塔に付く人間を最初に落としたかったが、戦況を見ないとそこまでは決められないと剛田がいうため、それ以上意見するのは止めた。
 いずれ、伊東や向こうの司令塔は、自分か九条、北米の2人あたりが相手をすることになるだろう。
「ところで、向こうではカメレオンモードあるのかしら」
 杏の素直な疑問を引き取ったのは剛田だった。
「いや、無いと思われる。向こうは日本よりマイクロヒューマノイドの研究が遅れている。未だに電脳も耳で繋ぐくらいだからな」
 
「北米では?」
「北米はマイクロヒューマノイド研究の最先端だ、ハーマンとやらも確実にカメレオンモードは装備しているだろう、ナオミも装備していた」
「なら心配はいらないわね」
「で、さっきの策戦だが」
「やってもいい?」
「致し方あるまい。人数を見て五十嵐、お前が判断しろ」
「じゃあ、任せてもらえるのね」

 不破が懐かしそうな目をする。
 以前、中華国海兵隊と戦った思い出が蘇ったらしい。
「あの時は軍こそ出さなかったけど海上保安庁が出てきたよな」
 杏も当時を思い出した。
「九条三条ペアは全然疲れてなかったの思い出した」
 九条が笑いながら手を振る。
「僕らだって疲れてましたよ、そう見せないだけです、あの時は身も心も暗殺部隊でしたから」
 不破と九条は互いに無視しあいながら独り言を杏に向ける。
「今度も海上保安庁出てくるかな」
「その前に全滅させないと」
 不破が九条に対し嫌味を言う。
「殺し自体は俺としては有り得ない」
 不破の態度を見た杏は呆れ、さすがの光景に、不破に釘をさした。
「向こうの数にもよるけど、今回は最初から始末する気で行く。船の甲板焼くのは前と同じにしようか」
 不破も少し反省したようだった。
「ま、あんときも結局は全滅させたわけだから。そうでないと身が持たないし」
 九条は一条を失った思い出したくもない思い出だったらしく、顔を背けながら怒りに肩を震わせた。
「中華国のときは今回とは比べ物にならない規模でしたからね。それを考えれば。ただ、今回の場合急所が見つからないのでそこは心配ですが」

 剛田が九条のやるせない思いを引き取った。
「今のところ、向こうのマイクロヒューマノイドは伊東しかわかっていない。伊東はどこを撃っても死ななかったと聞く。耳が果たして急所なのかもはっきりしていない。中華国のときより難儀かもしれない」
 杏も不安を隠せないでいた。
「あの時の伊東レベルで皆が義体化してたら、1体倒すのに時間がかかる分厄介だわね」
 不破も皆の話を聞くうちに、少し不安が頭をよぎったらしい。急に真摯な態度に出る。
「もしそうなら、どうする」
「最初に耳を狙って雑魚を倒す方向でいくけど、それが無理なら防御しながら1対1で。そうなるとこちらは人数が少ない分消耗も激しくなるし分が悪くなる」
「船を最初に焼き払えば?」
「そうね、不破。それも選択肢に入れるわ」

 杏が浮かない顔をしていると、地下から倖田、西藤、三条が戻ってきた。
 杏の顔色を窺ったのは三条だった。
「チーフ、浮かない顔ですね。何かありましたか」
「いや。これから会議室で対策を練る。皆、集まってくれ」

 剛田から全権委任された杏は、皆を会議室に呼ぶと早速声を上げた。
「朝鮮国からの大型船は10日後に毛利市沿岸に近づくと思われる。そこで我々の戦い方を確認しておきたい」

 杏は九条や不破と話していたとおり、最初はカメレオンモードになり雑魚を片付ける方向性を示した。その一方で、伊東や朝鮮国の司令塔に逃げられないよう、何かしらのプレッシャーをかけることも大事だと説く。
 大型船にはバグやビートルで近づき焼夷弾を撃ち込み、船そのものを動けなくする。海上保安庁の船が出てくることも勘案の上で。
焼夷弾を撃ちこむのはビートル2機。補助者が必要なら都度考えていく。
 焼夷弾。
 一条を襲い、紗輝を殺したあの女に杏が復讐した方法だ。
 焼夷弾で目を義体化したマイクロヒューマノイドが倒れるとは思っていないが、それも一つの選択肢とする。

 杏は、最初にカメレオンモードの形態をとり至近距離から雑魚らしき面々の耳を狙うことを提案した。それが上手くいかない場合、カメレオンモードで防御しながら1対1の対戦になる。
 頭も義体化している朝鮮国のマイクロヒューマノイドは一見して弱点が見つからないことは前もって皆に報告している。
 とにかく、正面突破のし難い相手なので、十分に注意を払っての策戦になることは皆が承知の通りだと結んだ。

 バグやビートル、北米のナオミとハーマンを加えたとしてもE4側は8人プラス6機しかいない。
 杏は北米からもっと助っ人を集められないかナオミに打診しようとも思ったが、難しいのではないかと九条が言う。
「でも、言うだけはタダだから」
 そういうと杏は北米が昼間の時間を狙ってダイレクトメモを飛ばした。
(・・・というわけで、苦戦が予想される。北米から少しでもいい、お助けマンに来てもらえないだろうか)
(一応上層部に打診はしてみるけど、期待しないで)
 一瞬、カチンときた杏。
 だがここで熱くなってはいけない。いくらかでも助っ人は必要だ。
(期待しないで待ってる)
 そう答えるのが精一杯で、杏はナオミのブラックジョークに付き合う心の余裕もなかった。

第12章  トゥエンティフォー(24時間)

杏は毎日のようにE4に泊まり込み、考えをまとめようとしていた。
 徹夜が続き、剛田の家に帰る時間も惜しいとばかりに、ソファに転がって防御の方法を考えてみる。
 カメレオンモードだけでは盤石とは言えない防御態勢。
 もう、この日が来てしまったことに杏は一抹の不安を覚えた。
 何が不安なのか。
 こちらの人員が明らかに少ないであろうこと。そしてマイクロヒューマノイドの性能とでもいうべきか、製造方法の違い。どこを狙えばいいのかさえ、今ははっきりしていない。
 今までこんなに不安を感じたことが果たしてあっただろうか。
 
 不破などは“なんとかなるし、なんとかする”と楽観的なのだが、杏はそこまで楽観的にもなれなかった。自分がチーフという責務を負っているからこその不安、ともいえるだろう。
 こちらの人間に誰一人怪我なく朝鮮国の人間だけを殲滅(せんめつ)させるには、どうしたらいいのか。
 本当に耳は急所なのか。
 何を考えても後ろ向きになってしまい背を丸くしている杏の脇に、九条が姿を見せた。
 九条に気付いた杏は、不破が近くにいないかキョロッと辺りを見回す。
「まだ不破さんは来てませんよ、僕らが話してるとすぐに目くじらたてますから」
「九条さん、あたしちょっと真面目に不安感じてて」
「はい、これからの事考えると緊張するのは確かですね。でも貴女が緊張したら、部下はどう思うでしょう。貴女は芝居でもいいから楽観的な振りをして皆を鼓舞しなければならない」
「そんなものかしら」
「そんなものですよ」
 内心不安で仕方ない杏には、優しげな九条の言葉が心の奥底に沁みた。

 よし、あたしだけでも楽観的を装うことにしよう。あとは、不破の言う通りどうにかするしかない。
 
 杏たちは無線で引っ掛かった日時の1日前にオスプレイで毛利市に入った。向こうでは10日前と言ったきり、もうあの微弱無線は聞こえては来なかった。
 毛利市か、金沢市か、はたまた当初の無線どおり伊達市でくるのか。
 1日前に毛利市に入ることで、時間的な余裕が生まれる。
 夕方4時過ぎにはナオミとハーマンが連れだって毛利市のWSSSビルにやってきた。
 人数の少なさに驚きを隠せずにいる杏は、思わず強い口調でナオミを責めるかのようにその目をじっと見る。
「助っ人は?来ないのか」
「あたしたちだけで足りるわ」
「朝鮮製のマイクロヒューマノイドの事、話したよな」
「なんだったかしら」
「どこ撃っても死なない、倒れない」
「撃たれて死なないやつはいない。どこかに隠しているだけよ」

 隠している。
 杏にとっては斬新な発想で、目の前がぱっと開けて明るくなる感触を得た。
 不破と話しているナオミに近づいていく。
「隠すったって、どこに」
「あたしが知るわけないじゃない」

 その言葉を聞き、やはりナオミは苦手だと尻尾を巻いてその場から離れた杏は、九条と三条のいる場所に逃げた。
「ナオミが、“撃っても死なないやつはいない。どこかに隠しているだけ”と言ってる」
 ガキの使いじゃあるまいし、言われたことをオウム返しにするだけのチーフなど変だと自分でも思いながらも、不安を外に漏らせない杏の口を吐いて出るのはその言葉しかなかった。
 九条や三条も、さすがに隠してある場所を考える余裕は無かったらしい。
「額はダメ、脳幹もダメ、前頭部もダメ、後頭部や小脳もダメ。首もダメでしたね」
「そうだ。ただ、額に2,3発撃ったら動かなくはなったが」
「耳が残ってますね」
「科研でも自信がなさそうだった」
「目には命中させました?」
「目は撃ったつもりだが」
「以前のときのように焼夷弾を目に撃ち込んでは?」
「それは考えていて、それ用の銃と焼夷弾も用意してある」
「なら大丈夫。きっとうまくいきますよ」

 九条に慰められ、WSSSビルの1階でうろうろしていると、ビルの警備員がもう時間だからと杏たちを追いたて始めた。
 時間はもう夕方。
 すると警備員に対し、九条が小声で何か言っている。警備員はすっかり恐縮しているように見えた。
「もう大丈夫です、今晩に限っては1階を開放してもらうようWSSSの上層部に取り計らってもらえることになりました」
 九条がいなかったら、一晩を路上で過ごすか、一旦オスプレイのところまで荷物を持って戻らなければならなかった。
 この辺における九条家や三条家の力は絶大なるものがあるのだろう。
 WSSSビルの1階を開け放したまま、九条や三条にに頭を下げて警備員は立ち去った。

 いずれWSSSの機動隊などは今回の戦闘に参加しなくてはならないのだから、警備もへったくれも無さそうなものなんだが、まさか・・・。
「WSSSは参加しないと思いますよ、前に言わなかったかな」
 九条がサラッと流すのを見て聞いて、“はあっ?”とぶち切そうになった杏だが、不破が間一髪で後ろから杏を羽交い絞めにして押さえた。
「自分たちの生活を守りたいのなら機動隊くらい出してもいいはずなのに。現に金沢と伊達では警察府とESSSが機動隊を出すじゃないか」
「比較対象が悪すぎますよ。WSSSは本当に何もしやしない」
 九条はWSSSの為体な体制に対して今も手厳しい。

「じゃあ、WSSS分の敵はこっちに回しましょうか?」
 不破がふざけた物言いをしてまた杏を怒らせた。
「お前ひとり、ここに置いていってやる」
「冗談ですよ、チーフ」

「アンー」
「おお、お前たちのことを忘れてた」
 バグとビートルもオスプレイに乗ってここ毛利市に入っていた。
「ホクトガイナイトツマンナイ」
「そういうな。北斗は疲れてお留守番だ」
「ナラチャチャットヤッツケテカエル」
「頼もしいな。いいか、私のいうこと聞いてから攻撃するんだぞ」
「アンガイナクテモコウゲキデキルヨ」
「なんで」
「ムコウノメッシポイントガボクラノナカデハヒカッテワカルカラ」
「お前たちそういう機能もついてるのか」
「ソウダヨ」
「そりゃたのもしい」
「マカセテ」
 バグは然も可笑しいというように1機がダンスを始めると、ビートルも併せ6機が一斉にダンスを始めた。

 昔のバグよりも数段バージョンアップしていたのを把握しきれていなかった杏。
 これを使わない手はない。
 不安を抱える杏の心に光が差し込んだように思えた。
 自分にとって重要なのは、如何にして与えられたミッションをクリアするか、ただそれだけだと杏は初心に帰り、奮い立った。

 夜の帳は杏たちにとって決してプラスのシーンではない。
 西藤は両目を義体化しているし、倖田、三条は利き目を義体化しているので夜にも強いが、九条が目を義体化しているという話も聞かない。ナオミも目を義体化した風体ではない。
 いずれ、伊東が目を義体化していたことから察するに、敵はセオリーどおり夜の闇を利用して上陸するであろうと杏は考えていた。

 杏はバグとビートル全機に大型船の海上移動マップ及び上陸地点予想マップを送るよう指示を出し、バグとビートルはカメレオン部隊の名に恥じぬカラーヴァリエーションで空高く飛び出していく。
 バグたちを見送った杏は、WSSSビルの1階で出撃を待つメンバーたちを見ながら今夜の戦闘をじりじりときた気持ちで待っていた。
 毛利市内に敵を入れる訳にはいかない。
 海岸線で皆始末しなければ。
 今晩のミッションは、E4にとっても北米にとっても大きな意味を持っていると考えられる。
 突然ハーマンが杏に向かってチョイチョイと手招きしていた。
 何だと思いながら近づく杏に、ハーマンは身振り手振りを交えながら、ナオミ程ではないが分り易い日本語で話しかけてくる。
「先日はどうも」
「こちらこそ」
「僕らはかねがね日本と朝鮮を行き来する伊東を危険人物であるとして行方を追っていた。今日は必ず伊東を捕縛するつもりだ」
「生きて捕えると?」
「生死はこの際関係ない。伊東をこちらの手に落とせば任務は完了する」

 そうか、北米でも伊東を追っていたのか。
 それなら話は早い。
「こちらの策戦としては、雑魚を片付け伊東や司令塔は最後のデザートにする予定だったが、それなら最初からナオミと一緒に伊東を捕縛してもらうとするか」
「ナオミもそのつもりでいる。伊東は任せて欲しい」
「ところで、伊東や司令塔が船から離れるとは思えない。E4としては最終的に大型船に向けて焼夷弾を撃ちこむ気でいるんだが大丈夫か?」
「こちらで預かってフィナーレで派手にやるさ」
「では、そこまで任せることにする。そうなればこちらは雑魚の絶滅に注力するとしよう。アクシデントが起きたらナオミが持ってるダイレクトメモで連絡をくれ。大型船まではうちのビートルを貸し出す」

 杏と固く握手を交わすと、ハーマンはナオミの方にゆっくりと歩き始めた。
 それにしても、伊東や司令塔がおいそれと大型船から顔を出すとは思えない。甲板に引きずりだすのか、それとも内部に入り込んでいくのか。
 杏自身、最後はそうしようと考えてはいたが、最初から伊東狙いとは。
 北米の2人は相当の手練れと見た。


「アンー、フネガイタヨ」
 1機のバグからの連絡に、ダイレクトメモでマップを開いた杏は少なからず驚きを隠し得ず、「はあ?」と独り言が口を吐いて出る。
 思ったより船が毛利西港に近い場所まで接近しており、このまま西港に接岸するつもりなのでは、とメモを受け取った皆が口々に話す。
 しかし接岸すればその時点で不審船と判断され海上保安庁の餌食になるのは既成の事実とも言えた。
 一体、朝鮮国の諜報機関とやらは何をしたくて、また、どう動くつもりなのか。

 敵が毛利西区海岸の沖合に母船を停めて夜にボートで海岸線に渡るものだとばかり思っていた杏は、ここで作戦の一部手直しを迫られることになった。
 思っていたよりも母船が陸地に近いところまで来ている。
 これは母船から直接マイクロヒューマノイドどもが陸地に渡ってくる可能性を示しているが、着岸するふりをして沖へ逃げていく蓋然性も低くはない。
 皆にダイレクトメモを飛ばすことを瞬時に決めた杏。
(バグ、ビートル、1機を残して皆下に降りてこい。カメレオン部隊のままでな)
(ハーイ)
(倖田、三条。カメレオンモードでバグを伴って船の接岸区域上空に移動しろ。上陸しそうな気配があったら連絡を寄越せ。我々が行くまで攻撃はするな)
(了解)
 倖田は直ぐに杏の考えを理解したが三条は違う側面から考えていたようで、杏に質問が飛ぶ。
(チーフ。もし相手に見つかったらどうします?)
(何らかのアクシデントで相手に見つかった場合はその限りじゃない)
(殺しても構いませんか)
 その質問にはっきりと答えられない杏だったが、もう、綺麗事だけで終わることでない状況なのは誰の目から見ても明らかで、躊躇している場合ではなかった。
(ああ、構わない。いいか、まず自分たちの命を優先しろ)

 上空から戻ったバグとビートルが倖田と三条を乗せてまた空へと上がる。2人もカメレオン部隊と同じカラーヴァリエーション、というよりは透明人間といった方が近い色あいで上空に待機していた。

 1機のバグがその後も船の動きを見張っていて、その映像が時計を通して流れてくるが、やはり大型船は沖に戻ることなく倖田たちが隠れている近くに接岸した。
 偽の無線効果で日本警察は騙されていると思っているのか、人間たちの動きは比較的ゆっくりとしていて船から降りる様子はない。船上からもピリピリとした細やかな動きは感じられない。
 倖田から連絡が来た。
(チーフ、毛利西港北側の埠頭に接岸確認。このまま待ちます)

 1機のバグを上空に残し、倖田と三条に付いたバグやビートルを除いた3機は空から降りてきて今は杏の傍にいる。WSSSビルから毛利西港までは、2キロほど。一般人でも走れば10分とかからない距離ではあるが、急ぎ大型船を包囲する必要があった。
 皆、マイクロヒューマノイド特有の歩幅を広くとった速い走りで港まで走っていく。
 ナオミと杏は、ビートルに乗って皆を追い越しながら接岸場所に向かった。

 ナオミが女丸出しにして自分を正当化している。杏はそれが苦手だった。
(あたしは女性だし男性と比べたら体力ないし、ここで体力消耗したくないから)
(私は全体を把握するためだ。女性だからと甘えてるわけじゃない)


 2分ほどで男性陣とビートル1機が毛利西港北側の埠頭に接岸場所に到着した。皆、カメレオンモードになってコンテナの陰に身を潜め杏の指示を待っている。
 上空から見た様子を尋ねる杏に、倖田から返事がきた。
(そろそろ上陸かと思われます。船上に人影が増えてきました)
(空中からの狙撃はどうだ、できそうか)
(難しいですね、風も強いし何と言っても波が高い。一度陸上に降ります)
(了解、上空のバグは引き続き船を監視、上陸が始まったら知らせろ)
(アイアイサー)

 気が抜けるようなバグの返事に皆引き攣り笑いを浮かべながらも、バグからの連絡待ちとなり銃やマガジンマグチェンジの行程を確認した上で個々に呼吸を整えている。
(倖田、人数はどれくらいいた)
(見た限り全体で100体程度いますね、甲板に50体ほど、船内も併せれば100体はゆうに超えそうです)

 あの伊東レベルの頑丈なマイクロヒューマノイドが100体前後か。
 これは制圧に時間を要しそうだと杏が考えていると、バグから黄色い声が飛んできた。
(アン!フネカラオリタヨ!)
(よし、各自カメレオンモードのまま雑魚どもの耳を狙い撃て!皆くれぐれも、自分の命を最優先にしろ!)
 物陰から一斉に飛び出した杏、不破、九条、西藤、ナオミ、ハーマン。

(杏、この中に伊東はいない!焼夷弾付きのビートルを借りる!)
 瞬時にナオミからダイレクトメモが飛ぶ。
 ナオミとハーマンは上陸組に伊東がいないのを見極めると焼夷弾を積んだビートル1機に2人で乗って船へと向かった。

 サイレンサーを付けた銃撃とはいえ、上陸組が何者かに襲撃を受けたことを知った敵の司令塔から指示があったのだろうか。船上から陸に向けてライフルが次々と発射される。
 しかし揺れる船上からのライフル発射は功を為さず、もちろん倖田や三条がカウンターで船を狙い撃とうとするが、的が絞れないと2人ともイライラした口調で杏に零していた。
(カウンターも効きやしない、どうします、チーフ)
(三条は一旦上陸組の制圧に回れ!倖田は引き続き風を読みながらカウンター攻撃を続けろ!)
(了解しました!)
 三条も上陸組の射撃体勢に入り、物陰から飛び出した。

 皆カメレオンモードで敵の近くまで寄り、耳を狙って鼓膜を爆破させるが、倒れる者は1人としていなかった。
 科研での相談は意味を為さなかったか。
 杏は非常に焦り、次の指示が出せないでいた。
 こいつらの急所はどこか。
(各自、耳への攻撃を止めて目への焼夷弾に切りかえろ!)
 不破が最初に焼夷弾を積んだマガジンをリロードし、敵の両目に撃ちこむ。九条や西藤もそれに続いた。
 だが敵は倒れる気配すらなかった。
 
(どうだ?)
(ダメです、痛がる兆候もない。目も義体化してる)
 そこに、敵が適当に撃ち放った銃弾が不破の頬をかすった。
 不破の頬からツー、と血が滴り落ちているのが遠目からでもわかる。同時に、不破のカメレオンモードが回線以上を起こしたらしく解けてしまい、杏の命令をしても作動しなくなってしまった。これではいつ敵に狙われるかわからない。
(不破!大丈夫か、一旦隠れろ!)
(了解)
 不破はコンテナの陰に隠れて傷を拭き、杏からの命令がなくとも個人でカメレオンモードになれるよう時計のボタンを押そうとしたが、間に合わず敵船から狙われてしまった。
(不破!!)
 パン!という音とともに、不破の微かなうめき声が聞こえてくる。
 杏が目を凝らして不破を確認すると、足首に銃弾を受けた不破は俊敏な動きができずに足を引き摺ったまま、なんとか敵船から見えない場所に逃げ込んだ。
(大丈夫か、不破!)
(足首の関節部分をやられました。頭でなくて良かった)
(向こうは我々も頭部を義体化していると思っているかもしれない。お前の近くに敵が現れたらとにかく頭部を撃ち続けて相手の動きを止めろ)
(了解)
 不破は負傷のため攻撃に加われなくなった。ダイレクトメモが通じることだけが不幸中の幸いであった。

 杏の不安は的中した。
 耳もダメ、目もダメ。
 一体、どこに急所がある。
 杏の焦りはMAXに達し、敵を撃つ手が止まってしまうほどだった。
(チーフ!)
 九条のダイレクトメモで杏は我に返った。
(チーフが焦ってどうするんです、向こうは頭じゃなくて足を撃ってきた。これが意味するところが分かるでしょう?)

 人間とは、言葉ではない、行動で自分を置き換えてしまうものだ。
 敵の急所は足首なのか、いや、まだわからない。
 上半身でないのは確かだと見当はついたが、それさえもお門違いなのでは、と射撃に集中できないでいた。
 マガジンがいくつあっても足りやしない。
 一体、どこに急所があるんだ、こいつらは。

 そこに不破からダイレクトメモが届いた。
(今いるバグかビートル使って上空から見た方が良くないですか?)
 さきほど九条からのアドバイスはあったものの、足首が急所だとはどうしても思えなかった杏は、マイクロヒューマノイドの弱点を探すためバグに乗って上空から敵を見る作戦に切り替えた。
(そうだな、バグ2機とビートル1機、いるか?)
(アイヨー)
(バグたちは上空に行け!ナオミ!もう焼夷弾の準備はできたのか)

 その頃、船の中で伊東と渡り合っているナオミはそれどころではなかった。
 相当な手練れであるはずのナオミとハーマンが伊東ひとりに振り回されていた。
 ナオミも自分の攻撃術には自信があるが、伊東のそれはナオミたちを遥かに凌駕しているというか、古い型式のマイクロヒューマノイドでも、カメレオンモードを使っていなくてもここまで戦えるのだということを伊東自身が示している。
 カメレオンモードであるはずのナオミとハーマンが全身に銃弾を浴びせたにも関わらず伊東は倒れなかった。
 結局、杏たちと同じように足の腱に銃弾を集中し、伊東が歩けなくなるのを待った。
 普通なら弾丸1発で敵を倒すナオミもハーマンも伊東を倒すことができず、ナオミがヒステリーを起こしたらしい。

(焼夷弾?そんなの知らないわよ!)
 カチン、とくる杏。これには杏も非常に気を悪くした。ヒステリー以前の問題で、杏が本気で怒ると途轍もなく怖いのをE4の古参組は知っている。
(そうか。ではビートル、こちらへ戻ってこい)
(酷いじゃない!あたしたちどうすんのよ)
(知るか)

 頭まで義体化したマイクロヒューマノイドは火傷した程度では死なない。
 朝鮮製マイクロヒューマノイドは目も義体化しているようで火傷程度で済んでしまうだろう。
 バグとビートルに乗った九条たちが上空に行くと、杏は敵の足首を撃ちながら隠れてはまた出て足首を狙う方法を探ったが、雑魚ですら一向に倒れる様子はない。
 もう、撃っていないのは頭のてっぺんか足のつま先しかいない、というほどで、杏はおろか皆も段々に焦りの色が濃くなってくる。杏自身の焦りが皆に伝染してしまったかのように、動きが緩慢になってきていた。
 
 その時、バグからの連絡がダイレクトメモで流れてきた。
(アンー、ワカッタカモ~)
(なんだ、バグ)
 初めは何を言っているのかわからなかった杏。
 しかし、バグは冷静さを欠くということがないゆえに皆に希望を齎した。
(ワカッタヨ、キュウショ)
(本当か?)
(ムコウノメッシポイントガボクラノナカデハヒカッテワカルッテイッタジャナイ)
(どこだ?)
(トウチョウブ。デモカミノケデカクレテルカラニンゲンカラミタラワカンナイカモ)

 杏は急いで皆にダイレクトメモを飛ばす。
(やつらの急所は頭頂部だ。バグが見つけた。ただ、髪の毛で隠れて見えないそうだ。私がやつらの頭上に行って確認する。設楽!聴こえるか!これから送るデータを皆にマップとして送信しろ!)
(了解)
 杏は1機のバグに乗るとカメレオンモードになって敵のマイクロヒューマノイドたちの頭上に位置した。
(バグ、急所を光らせてデータをE4の設楽に送信しろ)
(アーイ)
 バグが赤外線カメラを作動させ、急所部分を設楽に送信した。設楽がそれを受け、皆のダイレクトメモにマップとして送信し直す。
 杏がマップを見ると、敵の頭頂部、直径2cmくらいが赤く光っていた。
(西藤、三条、バグとビートルに乗って敵の頭上に位置して頭頂部を狙え!私と九条は地上で敵の額を打ち、動きを一旦止める!)

 そういうと、杏はカメレオンモードを自ら解き、バグから飛び降りて敵の中に入り込んだ。
 杏が3発ずつ敵の額に弾を撃ち込み敵の動きを一瞬止めたところに、西藤と三条が頭頂部を狙う。
 九条も杏と同じように敵の目を惹き付ける為カメレオンモードをわざと解いて敵の額を狙い撃ちした。
 西藤と三条のサイレンサーを付けた銃からパン!という小さな音とともにマイクロヒューマノイドが倒れていく。頭頂部からはおびただしいばかりの血が滴り落ちた。

(よし、時間はかかるがこの方法で上陸組を全滅させる!)

 目の前に現れる敵の胸を左手で突き、ある時は回し蹴りを放って動きを止めて、瞬時に額に弾を撃ち込んでいく杏。
 九条も同じように、2,3人の敵を相手に足蹴りを多用し相手の動きを制限した上で正確無比な射撃を行っていた。

 西藤と三条は敵の頭上に身を置き、1人につき1発のマグナム弾を頭頂部に撃ちこむと、すぐに移動しまた同じことを繰り返した。
 上陸したマイクロヒューマノイドたちは何が起こっているか見当もつかないようだったが、次第にどこから狙われているかわかったようで、上空に向け発砲してくる。
(西藤、三条、気を付けろ!バグ!ビートル!撃った瞬間に位置を変えて相手の発砲に備えろ!)
 
 ところが困ったことに、杏のマガジンが足りなくなってしまった。
 不破のマガジンをもらえばなんとかこの策戦を続行できるのだが、と瞬時に考えた。
 だがこのまま不破のところに走っていけば、当たり前のように不破の隠れ場所が敵に知れる。
 
 杏は前に立ちはだかるマイクロヒューマノイド4,5体に足蹴りを食わせて一旦カメレオン化すると、不破のところまで走っていった。
「不破、大丈夫か?」
「足首の関節に来たから動けない。バグに乗って上空で待機する。その方がいい」
 杏はバグに命令するためダイレクトメモを使った。
(バグ、1機不破を乗せて上空で待機しろ!もう1機、倖田を乗せて上空からの攻撃を始めろ!倖田、カウンター攻撃は一段落だ、上空から狙える範囲だけを撃て)
(アイアイサー)
(了解)

 結局複数で相手のマイクロヒューマノイド1体の相手をするため、すぐに制圧することは厳しい状況ではあったが、地道に急所を狙い続けた結果、上陸してきたマイクロヒューマノイドは皆、頭から血を流し埠頭のコンクリートジャングル上に息せぬその身を横たえていた。
 その数、約80体。
 杏は次の上陸組を阻むため、そのまま船に向かっていく。
(不破を除いた全員で船上のマイクロヒューマノイド殺戮に向かう!)
 
 その時上空のバグから届いた言葉に、杏は一瞬目の前が真っ暗になるような動悸に襲われた。
(アン、モウフネノウエニヒトハイナイヨ)
バグの淡々とした連絡に杏の魂にはどっと危機感が押し寄せるとともに怒りが湧いてくる。
(なんだと?どこにいった。まだ半分近く残ってたはずだ!)
(ボートデフネノウシロカラオリテハシッテイッタ)
(どうして言わない!)
(ナンカイモイッタヨ、キイテナカッタノハアンダヨ)
(いつごろ、どっちに向かった?)
(チョウド10プンマエゴロ、10ニンクライデWSSSビル、10ニンクライハジュウタクチニムカッタ)
 そこに驚きを持った口ぶりで九条が口を挟む。
(まさか、南の方角?)
(ウン、ミナミ)
 
 乗っていたビートルから瞬時に降りようとする九条を杏が止めた。
(乗ったままフルスピードで実家を目指す方が早い!)
(本当に速く着きますか?)
(ビートルは疲れ知らずだ、三条も九条家に行け!)
 九条は返事もせずにビートルと一緒に動き出した。それを見た三条も慌ててバグに乗り九条の後を追う。

 迂闊だった。
なぜ全員が一気に船から降りてこないのか、最初に自分が気付くべきだったと杏は悔やんだ。
船を離れた敵の1チームはWSSSにいる同胞の解放、あと1チームは美春の拉致に向かったと思われた。
(西藤、我々もWSSSに向かう!)
(了解)
(僕もWSSSに行きます)
(お前は無理をするな。倖田、敵が残っていないかどうか確認しろ!)

 不破の返事を聞くか聞かないかのタイミングで、杏は西藤とバグを伴いWSSSビルに向かった。
 あの諜報機関のメンバーと考えられる男たちが拘束されているのは、確か最上階。
 普通の勾留者は地下2階に留め置かれるが、あいつらに限っては朝鮮国の秘密諜報機関が関連していると目され、特殊勾留者として扱われていると聞いた。
 WSSSも、普段なら1階を締め切ってしまうのだが、E4がいたせいで開放されていたから簡単に入れてしまう。WSSSでは敵が来るなどと夢にも思っていないだろう。
 
 猛スピードでバグは宙に浮いたまま移動し、1分でWSSSに着いた杏と西藤。
 杏は西藤に最上階の勾留者たちのもとにマイクロヒューマノイドどもが群がっているかどうか確認するよう伝えると、自分はまず地下2階へと急いだ。
 逸る心。まさか、皆倒されていないだろうな。
 まだ解放の段階に至っていないよう心の中で十字を切り、バグを伴い地下の勾留者ゾーンに近づいていった。
 勾留者ゾーンに入るには、3重の扉を開けなくてはならない。そして各扉の前には常時3~4人の守衛がいる。守衛もマイクロヒューマノイドのはずで、すぐに倒されたりはしないだろうと当たりを付けたが、杏の心配は現実のものとなっていた。

 扉を守るべき守衛たち全員が頭から血を流し、床の上に倒れていた。守衛の持っている扉の鍵は奪われて、次の扉、最後の扉も開けられていた。
「おいっ、大丈夫かっ」
 皆、いわゆる心肺停止状態で、息絶えていた。1人だけ、重体でありながらもかろうじて話せる者がいた。
 杏はその守衛を助け起こし、聞いた。
「何があった」
「マイクロ・・・襲って・・・」
「そいつらはどこに行った」
「・・・わから・・・ない」

 杏は救急車を呼ぶと、外に出て最上階に乗せて行くようバグに命令した。
(バグ!私を最上階に乗せていけ!)
(ハーイ)
 最上階から既に連れ出されている可能性も考えられたが、たぶん、ビル内をくまなく探しているはずだと杏は考えていた。
(西藤、最上階の勾留者ゾーンはどうだ)
(変わりありません、まだ拘束者3名はそのまま勾留されています)
(そうか、多くて10体ほどのマイクロヒューマノイドが行くはずだ、バグと一緒になって頭頂部を確実に狙え)
(了解)

 杏は地下から1階に上がり外に出て、バグを伴って50階建のWSSSビル49階の非常階段に降り立つ。やつらが動くとしたら、内部階段かこの非常階段。10人もいればエレベーターは使わないはず。バグに乗って非常階段を下まで確認するが、各階の非常扉は鍵がかかっているのだろう、敵が走っている様子はない。
 一瞬、非常扉を壊して中に入ろうかと思った杏だが、止めた。それでは敵にどうぞ使ってくださいと言っているようなものだ。
 杏は非常階段から中に入るのを諦めて一直線に1階に降り、また中に入るとバグの背に乗って内部階段を上がっていった。
 各階の廊下を確認し、スピードを上げて上階に向けてバグは飛ぶ。

 38階についた時だった。
 何やらバタバタと上の階で走りまわっている音がする。
「よし、追いついたぞ」
 バグは39階のフロアに入ると、カメレオンモードで天井を移動し敵の姿を捉えた。
 杏は頭頂部分に次々に1発で敵を仕留めると、天井を移動しながら内部階段を使って40階に先回りした。
 内部階段を使って上がろうとする敵は、5人ほどに減っていた。
 階段周辺で杏は天井から頭頂部を狙う。
ところが敵も杏の所在を掴むかのように天井に向かい発砲してきた。寸でのところで敵の攻撃をかわした杏は、一旦上の階に身を顰めた。
そして、敵が上の階に来るのを待ち、またこちらから攻撃する。
 上の階に行くにしたがって、敵の数は徐々に減っていった。
 杏が最上階に上がる頃には、もう1人しか残っていなかった。
(西藤、1人に減らした。あとは任せた)

 50階も階段を駆け上がるのは疲れるだろうに、やはりマイクロヒューマノイド。
 しかし最後まで残った男も、西藤から頭頂部を狙われ床に転がる運命が彼を待ち受けていた。
(チーフ、こっちも終わりました)
 これで全員のはず。
「バグ、今まで私だけで何人殺してきた?」
「アンガコロシタノハ9ニンだよ」
「そうか」

 E4は元々テロ部隊制圧のために創設された部署であって、殺す、という概念も選択肢も無かったのが不破にとっては災いをなしたのか。
 自分の魂が引きちぎれるような2つの両極的な考えを一気に習得させられた気持ちの杏は、西藤を船に向かわせ、何か不都合があったら知らせるようにと一言付け加えた。
自身は再度最上階の勾留者を確認するつもりで最上階に入った杏だが、聞こえてきたのは守衛たちのE4に対する罵詈雑言。
 拳骨をかまそうかなとも思ったが、ここで時間を割くわけにはいかない。
 杏はカメレオンモードで守衛の真ん前に立ち、壁をガン!!と3発ほどパンチし粉々にして最上階を去った。

 杏は、美春の住む九条の実家も心配だった。
 もしも美春に何かあったら・・・。
 考えていても仕方がない。
 九条にダイレクトメモを送ろうとしたとき、反対に三条からメモが届いた。
(こちら10人全員を殺害しました。美春さんは無事です)
(そうか、今晩は九条をそこにおいて三条とビートルだけ埠頭に戻ってこい)
(了解です)

 埠頭に戻った杏が船の中で見たのは、窓越しに見える伊東と、ナオミ、ハーマンの姿だった。伊東は動じていないのか、それとも先日のように動けないでいるのか。
 たぶん、後者。
  
(ナオミ、ハーマン。これから船を焼く。外に出てこい)
(こっちの都合は効かない訳?)
(知らん。ビートルを1機そちらに回す。死にたくなかったら出てくるんだな)
 そういって、杏はビートルを1機呼んだ。
(ビートル、2人を船から拾ってWSSSに連れていけ。そのあとは私のところに戻って来い)
(ハイハーイ)
 杏の意見を良しとしたのかどうか、ナオミとハーマンは船上に出てきてビートルに乗り、低空スレスレでWSSSビルの方角に消えた。そしてビートルは杏のところに戻った。
 
 こちらにいるビートルはその内部に焼夷弾を積んでいた。
 もしも船内に生き残りがいる場合、船から出てくる見込みは大きい。
(倖田、降りてきて焼夷弾の撃ち込みを頼む)
(了解)
西藤に対しては、引き続きバグとともに上空に待機するよう指示を出す杏。生き残りには容赦なく攻撃するようにと言い渡した。
下に降りてきた倖田は焼夷弾をセットすると一発目の焼夷弾を船上に撃ちこんだ。そして続けざまに2発目の焼夷弾を撃ちこむ。

 やはり、船の中から逃げてくる雑魚は多かった。
 西藤はWSSSビルから戻ってからも疲れも見せずに戦っていたが、やはり手数が足りない。段々敵は市内へ向かおうとしているのがありありと分る。その時、ハーマンとビートルが戻ってきた。
「伊東は落としたから、最後のプレゼント」
「有難い」
「では、いきますか」
ハーマンは、カメレオンモードは使わず正攻法で敵の相手をすることにして、手をポキポキ鳴らした。相手の膝辺りを思いっきり蹴って膝を折ったり、回し蹴りで気絶させたりしながら、船から逃げてきたマイクロヒューマノイドたちの動きを止め額に3発撃ち込む。気絶したマイクロヒューマノイドには、陸上にいるビートルが照準を合わせてマグナム弾を撃ちこんだ。
 三条も埠頭に戻り、杏とともに回し蹴りや胸への突きで相手を立ち上がれない状態にして、敵の頭頂部を撃つ作業は概ね西藤と倖田が担った。

 船の中から逃げてきた輩は15~20人ほどいただろうか。
杏たちの攻撃により雑魚の戦士たちは全滅し、残りは船の中にいる伊東と船隊の司令塔の2人だけになった。

 杏がガラス窓を破り船内に入ると、もう伊東は歩ける状態ではなかった。

 別にナオミたちは伊東の亡骸が欲しいわけではあるまい。
伊東よ、北斗にした非礼の数々、今ここに謝罪してもらおう。お前は船とともに炎上するがいい。
 伊東を跪かせるような姿勢にすると、杏は最期の1発を伊東の頭頂部に撃ちこんだ。

 司令塔は船の中にはいなかった。いつの間にか船から消えていたらしい。
ハーマンが、船内にいた司令塔がここのコンクリートジャングルにはいないと言う。ということは、ボート組と一緒に上陸したと思われた。
 もしかしたらWSSSにいる仲間の奪還作戦、あるいは美春のところに向かい、杏や九条らに撃破されたのかとも思ったが、司令塔は厚手のヘルメットを1人だけ被っていたとのハーマンからの報を受け、杏たちの目をかいくぐり逃げ果せたと判断、上にはそのように報告することとし、杏はやっと肩の力を抜いた。
 
 直後、設楽から現場付近に海保の船が近づいていると言う情報を掴んだ杏は、皆に知らせた。
(逃げるぞ。思った通り、海保のお出ました。ハーマンはビートルに乗っていけ。一旦WSSSのビルに集合の事。西藤、倖田もそのままバグに乗って最初に逃げていいぞ、疲れただろう)
(来るときは大変でしたけど、まだ走れますよ)
(いや、倖田は私たちのような脚でないのだから走るのも一苦労するだろう。カメレオンモードとはいえ、万が一海保の目にでも留まったら面倒だからな)

 WSSSビルに着くと、ナオミが首を傾げながら杏の方に近づいてきた。
 また何か我儘言う気か。
杏はちょっと身構えた。
「あたしとハーマンはここで失礼するわ」
「この辺一帯は大騒ぎになるぞ、大丈夫か」
「迎えが来るの」

 誰が迎えに来るのかは聞かなかった杏。聞くのも面倒だったし、よしんば聞いたとしても、ナオミもハーマンも本当のことは答えなかっただろう。
 
「チャオ」
 ナオミはハーマンとともに夜明けが迫った東へと悠々とした態度で歩き始め、その後ろ姿に杏は(おもむろ)に敬礼した。

終章

 朝鮮国秘密諜報部隊との戦闘から一夜が明け、毛利西港で起きた、甲板が焼かれ難破船と化した大型船のことは直ぐにニュースとなり国民全体の興味を引いた。

 何より、日本船籍でない船、というだけで識者たちは自分勝手な持論を振りかざし、船の船籍は北米という人もいれば朝鮮国だ中華国だロシアだといくつもの見解に分れ、ただでさえ暇なワイドショーのリポーターが毛利市に集結し、ああでもないこうでもないとカメラを回している。
 だが、そこに1体のマイクロヒューマノイドがいたことは伏せられていた。
 海保で伊東の亡骸を収容したのだろう。
 実際に、完全にカムフラージュしていた大型船は、海保が調べても船籍が分らなかったという。

 元W4のメンバーがフェイク無線をキャッチしなければ、今頃日本に対してどのような攻撃をし、日本自治国を自国の前に(ひざまづ)かせたかもしれない朝鮮国秘密諜報部隊。


 足首を負傷した不破は夜明けを迎えるとすぐに毛利市内の警察病院に向かった。
 その頃WSSSビルにいた杏たちのもとに、一旦実家に戻っていた九条が合流した。
 九条はいくつか杏の質問に答えてくれた。
「美春さんは?」
「無事でした。家のSPが何体かやられましたが、僕が途中から参戦したので。叔母は強いですからちっとも物怖じしてませんでしたよ」
「そこまで執念深く追いかけるなんてどういう連中なんだろう」
豊山犬(ぷんさんけん)とか言ってました。噛みついたら放さない、って」
「それだけ職務に忠実ということ、か」
「伊東や向こうの司令塔はどうなりました?」
「伊東は火の中。司令塔はいつの間にか逃げ出していた。どこで見失ったかわからない」

 伊東は朝鮮国の秘密諜報機関出身であり、かねてよりプロ市民を装いパートタイム諜報員としてスパイ活動やスナイパーなどで働いてきたがゆえに、北斗の目的を知ったとき、何とも表現のし難い喪失感というか、E4への怒りを露わにしたものと考えられる。
 一方、同胞2名が死に3名が拘束された彼の秘密諜報機関では、美春を襲った理由を絶対に外部に漏らしてはいけないという大義名分はあったが、それはすなわち拘束されている者たちの奪取と、死という名の制裁なのではないか。
 確かに、朝鮮国側では同胞を助ける意味で奪取を試みたとみるのが大筋だろうが、杏には強烈な違和感が残っていた。
 プロとして任務を成功へ導けなかったことへの処罰の意味をも兼ねていたとみるのが妥当なところではないのか。
 今回の日本上陸は、朝鮮国と北米CIA上層部、この2者の思いが結託しテロ紛いの行動になって現れた、と考えるには十分すぎるくらいの材料が揃っていたことになる。
 だが実際にはナオミとハーマンがE4に助っ人として現れた。ナオミとハーマンは組織を裏切ってE4に助太刀したわけではあるまい。
 北米上層部は、どこかの段階で朝鮮国に見切りをつけたのだと思われる。
 九条家に現れた刺客も北米からの依頼ではなく朝鮮国が暴走した結果で、北米は一切関わっていない可能性が高い。
 船から逃げ出した司令塔はどこに消えたのか、船一隻と100体ものマイクロヒューマノイドを失う結果となり命令指揮系統からどんな制裁を加えられるのか、今はもう知る由もない。
 これで美春に対する攻撃の手は緩むのか、それとも威力を増大させて尚も魔の手が伸びるのか、杏にはどちらとも考えあぐねていた。


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 オスプレイで伊達市に戻ったE4メンバー。
 不破は足首の状態を見極める為、警察病院から転院し、毛利市に残り第3科研に検査入院することになった。
 心配した九条が第3科研に見舞いに行くと、不破は口では酷い言葉を選びながらも、満面の笑顔で九条の見舞いを受けていたらしい。
 三条は饒舌になって、剛田に対しE4の感想やら不満やらを声高に叫んでいる。
 九条も不破の見舞いからE4に戻って、北斗と潜入捜査のON・OFFについてちょっとした議論を交わしていた。

 やっと、E4がひとつにまとまったか。
 この何か月かは時に冷や汗がでたことすらあった。
 こんなに騒がしい室内は九条と三条が来てから初めてで、杏は壁際で皆の様子を見ながらふっと苦笑いを浮かべた。

 九条と三条、ナオミ。
 新顔が入ってきたと思ったらナオミが消えた。
 九条曰く、日本での生活からさっぱりと足を洗いハーマンと一緒に北米に帰るとか。
 地下ではバグとビートルが、オイルが欲しいオイルを寄越せと叫んでいるのがIT室のカメラに捉えられていた。

 CIAから連絡が入ったのか、朝鮮国では美春に危害を加えるような素振りは一切見せなくなった。
 九条が“ナオミたちに心から感謝する”と杏に笑顔を向けて北米への感謝を口にした。


 そんなある日、活字新聞に小さい記事が載っていた。
 WSSS内にて勾留されていた者数名が亡くなった、という記事だった。
 亡くなったのは、朝鮮国籍の男3名。
 毒殺だった。
 容疑者の割り出しや毒殺方法、毒の入手ルートほか、詳細はひとつも解明されていないとのことだった。

 E4としては容疑者を特定したかったが、WSSSではE4の介入を良しとしなかった。
 そしてこの事件もまた、詳細を捜査されること無く事実上の迷宮入りとなったのだった。

 
 日本、朝鮮国、中華国、北米、ロシア。
 各自治国の思惑が入り乱れる中、今や日本という国の枠組みを乗り越え世界的な活躍が期待されているE4。
 剛田、杏、不破、倖田、西藤、北斗、設楽、八朔、九条、三条。バグ、ビートル6機。
 今日もまた、彼らの朝が始まる。

「指令だ。皆、電脳を繋げ」

E4 ~魂の鼓動~

E4 ~魂の鼓動~

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-04-03

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  1. 序章
  2. 第1章  インテグレート=組織統合の完成形=
  3. 第2章  核の脅威
  4. 第3章  日朝中間国交断絶宣言
  5. 第4章  移民受容要求
  6. 第5章  テロリズムの行方
  7. 第6章  メモリー
  8. 第7章  北斗の休日
  9. 第8章  夢の蹉跌
  10. 第9章  What's your real purpose?(君の本当の目的は何だ?)
  11. 第10章  メンバーシップ
  12. 第11章  マイクロヒューマノイドの魂
  13. 第12章  トゥエンティフォー(24時間)
  14. 終章