克子二十歳(かつこにじっさい)

ダルビッシュ末子

  1. 克子二十歳
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克子二十歳

 始まりはデブ、のろま、役立たずだった。
 四年五年六年と学年が上がるごとに暗い、汚い、生理になってるんだ、ブラジャアをしてると加算されていき、中学校では来る日も来る日もチビデブブスニキビ顔がデカい気持ち悪い死ねと卒業まで悪罵され続けた。高校に入学して一年目の夏休みに身長マイナス103、BMI指数ぎりぎり標準にまで体重を落とし在学中に彼氏も二人出来二人目の彼氏と校内で堂々と乳繰り合うようになってからは周囲がよそよそしく冷ややかになり露骨な美男子贔屓のヒステリックな担任女体育教師には親にも見せる最後の通知表の担任からの通信欄には「途中からの克子の変わりようにはびっくりしました!」などと書かれた。高校を卒業して社会人になり自然に2キロ痩せ親より年長の職場 のおばさん達からは可愛い、綺麗、スタイルが良いと言われるようになり、露出度の高い派手な洋服と10センチ以上のハイヒールを常用し始めそれまでは殆どされなかったナンパとキャバクラスカウトを毎日のように時には日に数回されるようになった。
 しかし、何も変わらなかった。変われなかった。変わりはしなかった―

 秩序を乱す異分子は自分か。誰と組ませてもだめなのは自分か。ああここもやっぱり、不適合か。
「ブスちゃん、急に休んだら又怒っちゃうんじゃなーい?」
「うるさいなあ。仕方ないんだよ。月経なんだから。具合悪いんだから」
 克子は女工だ。寝装品工場でブス。こと山中恵美子と二人一組で日がな一日シーツを畳んでいる。顔を付き合わせて同じ作業を繰り返す恵美子は挨拶もまともにしない。出来ない。だのに、必ず一日一回は克子に対して何かしらの難癖をつける。作業場に就くなり克子の全身を不快そうに眉をひそめて凝視し暫し前兆のようにもごもごと口を動かした後堰を切ったように北関東訛りの混ざる狂ったモールス信号のような不快な金切り声を張り上げて。すみません。を繰り返しても終わらない。反論しても止まらない。本気でノイローゼになりそうになる。それが、毎日、毎日。限界地点に達した辺りで子宮がきりきりと痛み、克子は会社を当日欠勤してしまう。中卒とババアとキチガイばっかりの職場。口を開けば噂と悪口。かっちゃんは又メンス?私達の若い頃はそんなことじゃ休まなかったわよねえ、病気じゃあるまいし。しょうがねえなあ、克子のマンチョは。言われてる。確実に俎上に上げられている。最早まざまざ目に浮かぶ。もう一年以上あそこに居れば嫌でもわかる。寝床からのそりと起き出してトイレで血の混ざる糞尿を放出しインスタントコーヒーを飲んで煙草を吸う。又気持ちが悪くなる。でも止められない。
『ワーストこそベスト!底辺から頂点へ!いじめられ半生、一発大逆転!』―頭が大きく著しい胴長短足で太っていて背が低く少し頓珍漢なK子の言動は学校生活に於いて常々笑いの対象になった。そしてある地点からK子はそれを逆手に取った。埋没したくなかった。馬鹿にされても傷つけられても十把一絡げの雑魚にはなりたくなかった。どの道ただそこに居るだけでいじめられるのだ。某かの存在意義が欲しかった。だから、命懸けで道化を演じた。「笑われる」から「笑わせる」へ。日陰から日向へ。上部グループや教員、先輩からも目を掛けられ、校内での地位を確たるものにした。私は底辺。私は劣等感の権化。誰よりも劣っていて皆から嘲弄されるのが私の存在意義。身を挺して万人に優越感を与える自己犠牲の聖母。指差して笑え。同情などするな。価値は無くとも用途は有るのだ。皆がそれを私に求める。何人たりにともこの座は譲らない。本当はこんなの嫌だけど。辛くて苦しくて死にたいけど。K子は学校という名の修羅道を生き抜くため好きで築き上げたわけではない地位と好きで形成したわけではない自己にしがみついた。そうせざるを得なかった―
 作家たるもの根暗でなくてはいけない。厭世的でなくてはいけない。孤独でなくてはいけない。無様で、不幸でなくてはいけない。それが美学。それが生きざま。どこにも同化してはならない。人生が生きるに値するものであるはずなど、無い。
 父には偏差値低い、偏差値低いおまえは馬鹿だと蔑まれてきたが国語は出来た。成績は何時も、いやまあ、大体5だったし満点こそは取り逃がしたが偏差値が70を超えたこともあった。校内読書感想文コンクールでも二回最優秀賞を取った。物心ついた頃から運動も勉強も不得手で貶されて見下されて数学の試験では一桁の点数を取ったりもしてきたでも、文章だけは誉められてきた。だから克子は、作家を志している。中高生時分これなら行けるのではと身近な嫌われもの達をモデルにしたエロ小説をしこしこと書いたりもしたがそんなものは学校内の一部で回覧されウケる。と言ってもらえたばかりで世に出られるはずもなく一番おいしい確実に注目してもらえる女子高生作家にはなれなかった。女は若くなければ。若いうちに、一日でも早く作家に成らなくてはならない。夢破れるのが怖くて挑めずにいたけどもう逃げていない。書いてるもの。認められるかどうかなんてわからないけど。「作家」の呼称は些か俗っぽくて軽いか。文士。文学者。克子はそう呼ばれたい。何がなんでもそう呼ばれるように成りたい。

 タマボウ株式会社。克子の在籍する会社。川口市内の老舗企業。地域一番の低賃金。進学する学力も気力も無く事務員にも販売員にもなりたくなく大手のパン工場二社に不採用を言い渡され内々定を取れぬまま二学期を迎え途方に暮れていたところに卒業生が数人在籍しているから今年もどうですかとお呼びが掛かり藁にすがる思いで飛び込んだ紡績工場。就職氷河期を着の身着のまま丸腰で漂流する克子を引き上げてくれた言わば救世主。なのだが、どうにも相容れない。所在地の川口市「大川」という地名が既に呪われている。克子が怨恨の情を燃やす人物男部門一位の姓名は「大川勝弘」。何と因業な。無論それが理由ではないが行きたくない。行く前に帰りたい。辞めたい。しかしおいそれと辞めるわけにはいかない。もう入社二年目に突入してしまったから。もう二十歳の、立派な成人になってしまったから。
 工場の従業員の大半は徒歩か自転車で作業着で通勤する近隣住民である。一時間ぐらいかかるの?ええっ!もっと!?通勤だけで疲れちゃうわねえ。おばさん連中に異口同音にそう言われる松戸在住の克子は何時も現場に一番乗りしてアイロンの電源を入れ元栓を捻る。主務の内藤さんに挨拶とお詫びをして、ラジオ体操を終え、二歳年上の恵美子にもすみませんでした。とお詫びを言って作業を始める。返事がわりに「フンッ!」と吐き捨てられそっぽを向かれた後全身を睨め回され名門女子高の頭髪検査のごとき細かな粗探しをされ、金切り声で一頻り面罵され続ける。帰りたい。一刻も早く家に帰りたい。
 なんとか一日をやり過ごし脱ぎ散らかした作業着を乱雑にロッカーに放り込み全力疾走で最寄りの蕨駅に向かう。たった三停留所の距離に片道190円も出してバスになど乗りたくない。時々バスに勝つ。入社して間も無く遭遇した中学と高校の同級生の女各一名に克子何やってんの?プー?と問われミシンかけてると答えると揃って、「できんの?」と問われた一ヶ月後克子は工場の花形縫製工からまんまと左遷された。真っ直ぐ縫うだけ物言わぬ機械に従うだけの流れ作業に付いていけずに脱落した。左遷され、当初組まされた一歳年下の猿島はおっとりとした娘だった。同世代ゆえに関心を持つ対象も一致し芸能や容姿や食べ物についてあれやこれやとそれなりに楽しく会話できた。四十枚のシーツの塊はずしりと重く始めのうちは作業台に運ぶ際よろめいたりしたがまともな仕事が出来るようになって使い物になれたことが克子は嬉しかった。しかし安穏とした日々はある日突然一変した。おっとり温厚だったはずの猿島が係長の槙村さんに私語を注意されるやいなや目を剥いて食って掛かり「ムカツクー!」と絶叫しながら壁を殴り椅子を蹴飛ばしこめかみを痙攣させながら克子の顔面にビシビシと当たるのもお構いなしに生地を引き裂かんばかりの荒々しい所作で次々とシーツを乱舞させ「もうやりたくない!」と突如作業場から飛び出して克子を置き去りにし仕事を放棄したのだ。猿島は病的な月経前ヒステリーの持ち主だったのだ。それからは猿の月経周期に合わせて克子も激しい八つ当たりを受けた。そしてそれは周知の事実なのに、仕事が遅いから、気が利かないから、声が篭るから、終業時間ギリギリにトイレに行くから等々克子の粗をチマチマチマチマと半ば無理矢理かき集めて突き付けてあたしはそれにムカついてるんだみんな言ってるあんたが悪いんだ自分が悪いくせに人に言うなと自分の非を認めない。手作業一本の雑役工という受け皿に待ち受けていたのは然るべき底辺のいびりだった。克子は猿と組まされている期間人目を忍んで歯軋りしながら三回泣いた。あの子は誰と組ませてもだめだから。言うこと聞かないから。内藤さんへの再三に渡る訴えが漸く聞き入れてもらえて代わりに組まされたのが恵美子なのだからどうしようもない。恵美子も無理ですと言ったらもう辞めてもらうしかないと言われる。
 明日も仕事なのに。とっととシャワーを浴びて寝たいのに。今夜も招かれざる客が予告もなしにやってきた。実兄の剛さんが大学を卒業して北九州に単身赴任してから松雄君は用もないのに克子の自宅に屡々訪れるようになった。初めの数回、手料理を美味しいと言ってくれたのは嬉しかったが、今はウザい。けれど言えない。三回目の来訪時に松雄家と同じ中辛のルーを使用して水を一滴も使わずトマトジュースのみで煮込んだ克子の一番の得意料理であり松雄君の大好物であるカレーを振る舞った際ひたすら辛い、辛い。とだけ評され飲み会の時克子ちゃんのカレー辛いんだもんって言ったらふーんあ、そうって流されちゃった飲んでる席じゃなかったら聞いてすらもらえなかったねと毎度お馴染みの聞きたくもない余計な報告をされどうせならおいしいの食べたいでしょ。とお母さんが店屋物を取るようになった。子供の頃はかっちゃんのお料理はプロ級ね。お店が開けるわね。などと過剰な称賛をしていたのに。今では過剰な肩入れの対象をすっかり松雄君に移行させている。男らしい強面が好きな克子の感覚では好みであり知人からカッコいいじゃんとのお言葉を頂戴したこともあり少なくとも若気の至りで付き合って性急に操を捧げてしまった雑魚醜男よりは格段にいい男ではあるが決してハンサムではなくもっくりとした筋肉質とデブの中間の華の無い容姿も、克子のことは言わずもがな友人らのことも見ず知らずの人のことも貶してばかりいる捩けた性格もお母さんは偏執狂的なまでに肯定する。
「おまえは俺の財布だ」
 サポーターを買わされた後でそんな暴言を吐かれたと報告した際も、
「それだけ頼りにしてるってことでしょ」
 などと受け流していた。お母さんの言うことは大体にして鵜呑みにしてきた克子も流石にそれはおかしいんじゃん?と紛然とするのだが一切の資金の調達窓口は何時もお母さんなので山ちゃんはお金が無いんだから、あんたは働いてるんだから(これで)出してあげなさい。とお母さんに言われるままお母さんから受け取った金を交際費に充てる。金の出所が克子ではなく技師として病院に勤める乳の高い収入からだと克子は勿論のこと松雄君も感付いているから父には言えない。実兄の剛さんには苦言を呈されるが「無い」と言われたら克子が出すしかない。克子はデートを金で買っている。
「なんで原稿用紙があるの?」
「ああ。昔学校で使ってたやつが出てきた」
「ふーん」
 そそくさと机の引き出しに仕舞う。書いていることは松雄君にも言わない。十代の頃、純な気持ちで夢を打ち明けた際は「無理に決まってるんだよ」と言われたし。驚かせてやる。そして惚れ直させてやる。そうなれば又、大切にしてくれる。高校三年生の夏。学校で毎日顔を合わせるうちに意気投合し会えることが楽しみになり言葉を交わすだけでは足りなくなり触れたくなり自分のものにしたくなり出逢って二ヶ月目の放課後どちらからともなく二人で途中下車して、モスバーガーで食事して、カラオケに行って、公園に行って、語り合って、好きだと言われて私も好きだよと応えて始まって、手を繋いで身を寄せあって登下校し毎休み時間克子の学級に来てくれて帰宅後は毎日電話してくれてお互いの存在を確認し合うだけで骨髄まで熱く蕩かすような無上の喜びに包まれていた付き合い始めのあの頃のように。一握りになんかなれないんだよ。普通が一番幸せだってわかる日が来るんだよ。松雄君は克子にそう言った。あんたはそうだったかも知れないけど私は違う。二十歳過ぎればただの人。そんなジンクス私には適用されない。皆からこんな人初めてと言われ大物になると言われ学級文集で文化祭で校内放送で浴びた数々の称賛と脚光。中学時代は二学年下にファンクラブもあった。行事毎にサインや写真撮影も求められた。私は大成しなければいけない逸材なのだ。不世出の天才なのだ。その強固な思い込みが克子を二十歳過ぎまで生き延びさせた。根拠は根拠と呼ぶには余りにも貧弱で限り無く希薄なものなのだけれど。
「松雄君の学校の近くのラーメン屋この前テレビで紹介されてたね」
 ピザーラのモントレーを食べ終えた後情報番組を視ていて思い出す。松雄君がよく利用する博多ラーメン店。しかし克子は連れていってもらったことがない。そこも、あそこも、どこにも。
「あそこゆで卵食い放題なんだよ。中山、この前食い過ぎて吐いてんの。ウケるよね」
「ああ嫌だ。吐瀉物喉に詰まらせてそのまま死ねば良かったのに」
「そういうこと言うなよ」
 克子が他人を謗ると松雄君は自分を棚上げして偉そうに諌める。自分は侮蔑されたことはおろか口も聞いたことの無い他人に関してもっと残酷な悪口雑言を嬉々として吐くくせに。今更取り繕うことなど出来ないし取り繕う意味だって無いのに正義ぶる。
「なんであんな性格の悪い豚と仲良くするの?私がいじめられてたのに」「しょうがないんだよ。同じサークルの仲間だから。付き合いがあるんだよ」
 中山が居るから。田口が居るから。同じ松戸市内で過ごし育った松雄君の行動範囲には誰かしら過去の克子を知る人物が居る。中学一年の時分克子を執拗に、集団でいじめた当時の克子より更にデブの中山は、超面白いもん見せてやるよ。ダラララララ……ジャーンッ!山田君のカノジョ、でーっす!超カワイイ~!と、ドリフターズの役立たずのデブがコントで扮する女学生そのままのぶくぶくに肥えて目の細く埋もれた強烈に醜い卒業アルバムの克子の写真を仲間達に回覧したらしい。爆笑、失笑、気持ちわりい、キツイの絶叫。その反応の数々を松雄君は詳らかに克子に報告した。草サッカー仲間の田口には自分の彼女が栗頭中学校出身の河合克子である事実すらひた隠しにしている。田口なんか同じ学級になったことも口を聞いたことも無いのに。誰それのカノジョはかわいい、誰それのカノジョはブス、お前よりブス、誰それのカノジョはおっぱいデカい、誰それのカノジョは国立の大学通ってる。いいよなあ。すげえよなあ。聞きたくもない仲間の彼女の下衆な品評ばかりつらつらと聞かされながら克子はその輪の中には一向に入れてもらえない。
「仕方ないよね。私も前醜男と付き合ってた時は人に見られるの嫌だったもん。本当に好きでも不格好だから人に見られたくない。凄くわかるよ。その醜男にでさえこそこそ隠されてたからね、私なんか」
「そんなこと言ってないよ。おまえヤバいこと言うから。みんな引いちゃうから」
 実際、自宅や駅の周辺で克子が松雄君と共に居る際中学の同窓生や下級生に遭遇すると未だに大声で騒ぎ立てられ穴が開くほどの好奇の目で見られる。河合克子「なんかに」カレシができた!と。
「なんであいつM大なんか行ったんだろう。勉強だけは出来たのに。H高だったのに」
「遊んじゃったんだよ。H高ぐらいじゃ大学行けない奴一杯居るよ」
 克子が単願推薦下限ぎりぎりでやっと入学出来た埼玉の中堅私立高校は松雄君にとっては第五希望の滑り止めだった。二人の高校入試時の偏差値には実に十以上の格差があった。正直に話した結果付き合って間も無くから事ある毎にバカだバカだと蔑まれた。偏差値はいくつだった、どことどこを落ちた。だからなんだ。結局全て落ちて馬鹿の私と同じ高校に行き着いたじゃないか。たかが無名の五流大学生じゃないか。しかしその無名五流大学でさえ受験したら確実に不合格だったであろう学力の無い克子は何も言い返さない。そこまでの馬鹿ではない。ただ、中山の話題になるとどさくさに紛れて、ここぞとばかりに無名五流大学のM大学を腐す。不良のチビ男の尻馬に乗って克子をブタ、トンカツと罵倒した百貫デブの中山のように。
「あー、私生まれ変わったら蝉になりたいな。蝉になってミンミンミンミン毎日毎日闇雲に鳴き続けるだけ鳴き続けてコテッと息絶えたい」
「土ん中で七年もじーっとしてなきゃいけないんだよ?地獄じゃん」
「でもその間地上で何が起こってるかなんか判んないわけだからさ。それが辛いとかつまんないとかも解んないわけじゃん。実質的に生まれて直ぐ、人生の酸いも甘いも己が何者かもなーんにも把握しないまんま力の限りひたすら鳴き続けて死ぬ。ほんと、羨ましくて堪んないよ。あー、良いな、蝉。今すぐに、生まれ変わりたい」
「おまえ変わってんな」
「だって生きんのめんどくさいもん。死ぬタイミング逸してずるずる生きちゃっただけで自分なんか生きてる意味無いもん。とっとと死にたい」
「又そういうことを言う。さっきまであんなにひいひい喜び悶えていたのに。生きているからあんなに気持ちのいい感覚が味わえるんだぞ」
「死ねば性欲も死滅する。食欲も睡眠欲も物欲も。もうそういう七めんどくさい一切から解放されたいんだよ。二十年も生きて良いことなんか何も無かったんだからこれから生きてたって良いことあるわけないんだよ」
「人は皆いつかは必ず死ぬんだよ。生きてれば嫌でも死ぬ時が来るよ」
「それが何時になるか分かんないから毎日イライラするんだよ。あー、長生きなんかしたくない。一日でも早く死にたい」
「悲しいこと言うなよ」
「ごめん。でも仕方ない。私は生きることが嫌いなのよ。性分なのよ」
「ほんと悲しいよ。俺は生まれ変わっても人間がいい」
「ふーん。変わってんね」
 貧乏なのにね。実家が億単位の借金抱える不動産屋で兄ちゃんは無職の穀潰しなのにね。高校を卒業して間もない日曜日の昼下がり定休日のはずの民謡酒場から悲鳴が聞こえてガラスの割れる音がして見たら暴れる中年男が松雄君の父上様だったというドラマのワンシーンのような衝撃的な光景は今も克子の脳裡に鮮明に焼き付いている。実子である松雄君は動じている風でもなかったけれど。
「じゃ、又」
「明日も仕事頑張って」
「うん。頑張る。ありがと」
 団地の駐輪場まで送り、自転車をがに股で漕ぎながら去る松雄君の克子よりデカい頭とゴツい背中を暫し見送る。今日も愚痴を溢してしまった。と言うか、愚痴ばっかりだ。喜ぶはずは無い、申し訳ないと思いつつ克子にはそれしか話せることが無い。
『言葉と、そして己の過去と格闘しそれを制した覇者。いじめられっ子の希望の星。現役女工作家と新聞配達苦学生のゴールデン.カップル、ここに誕生!』
 文壇デビューしたら松雄君などとは月と鼈サラブレッドと豚の各界著名人の美青年達が数多自分に接近してくる。それでも自分は今の彼氏である松雄君を選ぶ。何も無い、まるでだめな私を愛してくれた彼を選ぶ。きちんと、けじめとして、処女膜再生手術を受けて、結婚する。それは克子が松雄君と付き合い始めた時から己が己に課した果たさねばならない使命なのだ。
「松雄、一生処女とヤれないねー」
 松雄君と相思相愛説が流れたほど仲の良かったスタイルの良いブスのりんこちゃんに言われた忘れ得ぬ刃のような一言。高校時代松雄君は色んな女と広く浅く仲良くしていた。そしてそれを武勇伝のように得意気に考えなしに克子に聞かせた。しかし、誰一人として恋仲には成らなかった。詰まる所は誰からも洟も引っ掛けられなかった。俺っていい人で終わっちゃうんだよねー。訊いてもいないのにそう公言する男と私女として見られてないからあ。と公言する女は概して自分はモテると思い込んでいる。単に同性の友人が居ないだけなのに。そして実際のところ、モテない。でも、胸糞悪い。でも、許せない。どの女も知っているから。嫌いか好きじゃないかどっちかだったから。愛称。下の名前にちゃん付け。面と向かっては姓にさん付けで呼んでいたと言うのだから一層無気味だ。その女達全員と付き合ってセックスの一つもしてきてくれていれば非処女であることに引け目を感じることも御門違いで一方的な嫉妬に苦しむことも無かったのに。上部は仲良くしていた子達にまで敬遠されるようになって四面楚歌になって卒業まで一人で弁当を食べて机を殴って泣きながら昼休みを過ごさなくて済んだのに。その女どもとはもれなく全員と嬉々として学食に行ったのに。長い昼休みを一緒に楽しく過ごしたんだろうに。あいつは、そういう男なんだ。その時が来たらきっと血も涙も無く平然と自分を棄てる冷酷な男なんだ。結婚なんてしたって幸せにしてもらえるはずが無い。不幸に成るための結婚などやはりすべきではない。晴れて作家に成ったら棄てられる前に棄てよう。身軽になろう。作家に成って、「漠とした不安」などと一般人には理解不能な動機を述べて自決したい。全ていじめっ子に擦り付けた上での絶対的な被害者面しての自害はし損なってしまった。だから作家に成って、正々堂々と、明鏡止水の心持で高層ビルの屋上から飛び降りて死にたい。自分の最期は、自死だ。建設的な自死だ。そうせねば克子が生きてきた意味が無くなってしまう。作家の肩書きは意義ある自死への片道切符。だから克子は喉から手が出るほどそれが欲しい。
「すみません」
出勤した克子はアイロンの元栓を誤って逆方向に回してしまいアイロン台を水浸しにしてしまった。今日で二度目だ。
「しょうがないわよ。わざとじゃないんだから。今度から気を付けてね」「すみません」
 放送台の付近で駄弁りに興じていた槙村のババアは吹き上がる蒸気に気付いていながら奥の作業場で机に突っ伏して寝ている克子にそれを知らせてくれなかった。プシュー、ビシャビシャという音に気付いた克子が慌ててアイロン台に駆け寄ると、
「かっちゃんアレどうすんのおー?」
 などと間抜けな言葉を掛けてきた。元栓を絞めることぐらい三十年来この工場で働いてきた貴様ならすぐに出来ただろう。おしゃべりクソババア。夫婦揃っておしゃべり。他言無用の出来事をあちらこちらで無節操に吹聴する顰蹙夫婦。それはこの工場の誰もに言えることだが。
「河合さん、又やったのオ?」
「すみません」
「なんでおんなじ間違い何度もするんかねー?あ、わざとか。わざとやってんのか。朝からでっかい口開けてあくびばっかりすんのもいっつもシャツの襟立ててんのも、みーんなわざとか」「そんなことは、」
「あア!?アンだって!?ボソボソボソボソ、聞こえねーよ!ああ、それもわざとか!わざとやってんのか!人とまともに喋ることもできねえんか!なんにもわかんねえ、なんにもやらねえ、箱入りのお嬢様か!こんなトコでこんな仕事バカ臭くてやってらんねえってか!?別にどうでもいいけどよ!」
 克子の過失を即座に耳に入れた恵美子が分厚くかさついた唇を醜く歪めて克子を詰る。これでこの日の会話は終了。友達は作らない主義だと公言し公言しつつも班を作る必要に迫られた時はのらりくらりと適当な、空きのある集団に拾ってもらい拾ってもらっておきながらこんなところに居たくないつまらない死にたい地獄だと輪から抜け出し自分を面白い。面白い人は頭が良いと言ってくれる人を求めてあっちでへらへらこっちでへらへら結界を行き来し飽きられて主役を張れなくなるとあいつらはバカなんだどいつもこいつもセンスがねえ大ッ嫌いだろくなもんじゃねえああ全く何処も彼処も居心地が悪い。色んな人が居るから?お前に何が解るお前も殺されてえかと一応は陰ででも辺り構わず放言し最後は何時も八方塞がりになった無為な学校生活が今は恋しい。他愛ない、取りとめの無いおしゃべりをしたいという簡素な、有していて満たされていることにすら気付いていなかった欲求が今は窒息しそうなほどに抑圧されている。七時間以上眠っても、起床から始業までにブラックコーヒーを二本飲んでも、作業中薄荷の効いた飴を舐めても二十分に一度は噛み殺せない大欠伸を放出させて恵美子に口おさまえろ!下向いてしろ!マスクでもして対策立てろ!と口角泡飛ばされ眼前で右左右左と挑発的に手刀を切られながらどうにも制止出来ない生理現象を理不尽に非難される。
「ブスの前で屁えこいて「これだって生理現象だ!」って言ってやれ!そうすりゃ何も言わなくなるだろ!」
 父から受けた野卑な助言はいくらなんでも実行出来ない。
 午前の作業終了のベルが鳴り、克子は食堂に一番乗りして五人分の椅子を出しお茶を用意する。それを終えたら列に並んで配膳された食事を受け取り一人即座に食べ始める。入社後数日は共に帰宅し昼休みを過ごした洋裁の専門学校―とは言っても俗に言う「全入」の中卒と同等の高専卒―の同期二人は気付けば比較的年の近い先輩達と仲良くなっていた。恵美子も二人とはオメエ、クソエミコ、と呼び合いながら実に楽しげに冗談を言い合っている。頭の水準が同じ同士気が合うんだな。克子は昼食は同じ卓で取るが基本的に会話には加わらない。終業後の更衣室での周囲の会話に笑い声を上げて反応したりもするのだがそこに溶け込むことが出来ない。あたりのキツい三十路の中卒のブスに「何そんな笑ってんのよ」と噛みつかれもした。煙草がどう、服装がこう、年が少しばかり上だというだけでこんな頭の悪い連中に説教などされたくない。挨拶や返事もしないと言い掛かりを付けられる。ちゃんとしている。聞こえないお前らの耳がおかしいんだ。ドムドムバーガーでアルバイトをしていた際義務付けられていた劇団員みたいな快活な発声なんかもう気持ち悪くて出来ない。低音でぼそりと話すのが私なんだ。明るいだけが取り柄の女になんか死んでもなりたくない。そういうのが面倒だから現場に就職したんだ。一心不乱に出された飯を喰らいごちそうさま。と小声で言ってテーブルを一拭きして椅子を仕舞い克子は喫煙所に向かう。トイレで、更衣室裏で。隠れてしていた喫煙は著しいニコチン臭ですぐ露見した。我慢出来ずに入社後七ヶ月、十九歳と五ヵ月で勇気を出して喫煙所に足を踏み入れ始めてから克子に居場所が出来た。手を焼いていたのはおばさんおじさん達も同じだったようで、先ずは厄介者の猿に関する愚痴を親身になって聞いてもらえた。「河合さん」だった呼称が「克子」「かっちゃん」に変わり、こと息子しか居ないおばさんおじさんからは娘のように可愛がられるようになった。「あー、暑いなや」
「はい。暑いですねえ」
「克子は暑くねえべ。いつも半分裸みたいなカッコしてパンツ見せて歩いてんだから」
「そうっすね。今日はパンティー穿いてないから尚更清涼感高めですよ。昨日彼氏に脱がされて穿き忘れちゃって!あッ、陰核がっ。こ、擦れるー」「ワハハ!毎日頑張ってんだろ!若いなあ!」
「はい!毎日ノーパンです!スースーです!擦れるウーッ」
「ワハハハ!この、ドスケベ!彼氏が種無しになっちまうからキュウリでも突っ込んどけ!」
「いや、キュウリじゃ細過ぎますねえ。彼氏馬並みなんでっ」
「ワハハ!じゃあ、バナナだ!ナスだ!米ナスだ!」
「ですな。纏めて二本で!ゲハハ!」
 腰を微かに律動させたり軽く白目を剥いたり舌を出したり然り気無く人差し指と中指の間に親指を潜り込ませながら拳を握って右腕をマラに見立てて起き伏しさせたりしながらのワンパターンの下衆な下ネタ。ジジイババアは笑ってくれるが克子の内心は虚しい。でも、致し方無い。同い年の学生達がサムイ。ひいた。の二語で一蹴して次に移ることの出来るつまらない駄洒落や冗談にも追従笑いを浮かべながら何らかの相槌を打ち、聞いているふりをしなくてはならない。ここで生活をしていくためには。

 松雄君が約束の十時を三十分経過しても現れないので自宅に電話を掛ける。去年までは電話を掛けることも許されなかった。家族が出た際は声帯に力を籠めて男の声色で偽名を名乗るルールを課せられた上で、どうしてもの場合だけはと許可された。手前はこちらの都合も考えずに突然やって来てはテブラ.タダメシ.タダマンして帰るのに。目覚まし止まってた。今出る。一駅分の電車賃を浮かせるために自転車で。あと二十分は更に待たされる。外で会う時はほぼ毎回そうだ。ここ千葉県に於いても松雄君の体内でだけは沖縄時間が流れているようだ。いつぞや電話に出た母親までもが朝刊の配達を終えて寝入る息子が「出掛けてます」と嘘を吐いた。
「この前買ったのは?」
 三十分後到着した松雄君の足元を見ると、先日男らしからぬぐずぐずした小一時間の逡巡に付き合わされた後買ってやった白い鼻緒の雪駄ではなく黒い鼻緒の雪駄を履いている。
「家にあった」
「何だよそれ」
 返品してこい。そして返金された3900円私に返せ。ワゴンセールのカットソーが三枚買える。言ったところでサッカースパイクを買うのに出してやった不足分の12000円はもうどうあっても返ってこないから黙ってラブホテルに向かう。常時居間に母が居る自宅団地では声も上げられない。シャワーも浴びられず駅弁ファックも出来ない。缶チューハイを立て続けに二本飲み干して克子は野獣の咆哮さながらに喘ぐ。演技と穿った松雄君が試しに律動を止めて喘ぎ声も止まるのを確認し、
「マジか」
 と呟くので思わず笑う。笑い声はすぐさま又咆哮に変わる。生娘だった中学生時分官能小説に記されていた一文を読んで何故女が腰を振るのだろう?と不可解に感じていたが何のことはない、奥の奥までマラを入れたいからだった。気付けば克子も正常位の最中無意識に腰を振るようになっていた。高校生時分、放課後試験中でもお構いなしにカラオケボックスに連れ込まれては半裸に剥かれその巨根をくわえさせられ時にはゴムも着けずに挿入され泣かされていた童貞上がりの松雄君の爆発的な性欲。それは十九歳の終盤辺り、克子が排卵期に月経のような出血をするようになった辺りから追い付け追い越せになり二十歳を超えた今はすっかり肩を並べるようになった。貪欲に求め合い火が起こるほど激しく擦り合う様は正しくデッド.ヒート。もしも妊娠をしない身体になれたなら毎日でもしたい。永久的な効力を持つ媚薬を全身に塗り込まれたように克子は松雄君の熱く猛々しい肉体から離れられなくなっていた。
 フリータイム5時間3800円。克子が財布から千円札を四枚出そうとすると松雄君が2000円出してくれた。おつりの200円を渡そうとするといいよ。と譲ってくれた。連続で全額払わされ女にばっかり払わせちゃだめだよ。とやんわり苦言を呈した際は奉仕してるから。あんなにやったんだから当たり前だと言われそういうものなのかなと思いそうになっていたが時々割り勘をしてくれると釈然とする。帰宅途中ミニストップでデザートを買って店外に出ると、車の中から松雄君より数段カッコいい細面の青年に声を掛けられた。遊びたいなと思って。スタイル良いね。可愛いよ。ありがとうございます。凄く嬉しいですとそっぽを向いたままで言い捨てて自転車に跨がって全速力で帰路につく。デザートが転倒しホイップクリームが蓋にべっとりと付着していたのでスプーンで本体に戻す。若い細胞固有の張りと細く真っ直ぐな脹ら脛。克子の体形は見る人によっては「スタイルが良い」と感じられるらしい。しかし致命的なこの頭身。この骨格。長身の女子はおろか、平均的な身長の男性にも座高で負けた試しがない。尚且つ、分厚いレモン型のパッドの内蔵されたブラジャアでぽっちゃり兼グラマーを偽造しているが実際のところ生の乳房は小さくもないが大きくはない。松雄君にもこの腹このケツ、なのにこのおっぱい。胸ねえ、胸ねえ、お前はデブなのに乳がない。と無情に咎められてきた。童貞二人としか関係を持ったことの無い性欲の強い克子には他の、ある程度経験のある男性がどんな風にするのかに対する強い関心も又否定出来ない。正直、松雄君が処女とヤりたがっていたのと同様克子だって童貞でない男とシテみたい。そんな淡い浮気心に歯止めを掛けている理由には固い貞操観念以外に不細工な裸体を見られたくないと言うのもかなりある。素っ裸でさんざんヤった気心知れた松雄君にしか見せられない。ヤるだけなら容姿端麗な男が良いに決まっている。しかし、当の自分の躰が醜いのだから出来っこない。ああ、勇気があればあんなカッコいい男とヤれる人生もあったのにな。安物の、舌にべたつくクリームとムースを口内で溶け合わせながら克子は遠い目をする。とまれ今日は半額出してもらえてかなりカッコいい人にナンパしてもらえた。DHCのセントジョーンズワートを飲んで穏やかな気持ちで月経を乗り越えよう。パンナコッタとチョコバナナクレープを瞬時に平らげた克子はそれをちゃらにしてくれるという触れ込みのサラシア茶を一気に飲んで大きく伸びをした。
「克子。おはよう。今日も綺麗だよ」「私今日月経なんですよ。触ったら血ぃ付きますよ」
「わかる。おんなのにおいがしてるもん」
「ダハ」
 臀部、太股、脹ら脛。何が楽しいのか出勤時同じバスに乗車するスケベジジイの松野は始業前椅子に座って机に突っ伏してミシン課のキチガイ婆さんの大声での独り言と一人笑いを聞かされながらラジオ体操の開始を待つ克子の下半身を毎朝触る。そのくせ終業後の出来高報告や昼休みにサークルごとに集まって週に一度行われる職場改善会議「ハーモニー活動」では皆の前で克子を馬鹿扱いして蔑む。
「河合さん、かわいそー。「おまえはバカなんだから黙ってろ」なんて言われて。松野さん酷いよねー」
 食堂で同期のいけ好かない出っ歯女が克子が松野に受けた侮辱を同情を装って面白半分で蒸し返す。喜んでいるのは明白なのに。「バカなんだから」ではなく「出る幕無いんだから」と言ったのに。克子もそこに居たのに殊更に屈辱的な台詞に脚色し悪意を煽る。本当に頭と性格が悪い。顔も悪い。面倒なことが何より嫌いな克子は松雄君敢えて訂正もしない。低能と同じ土俵に乗ってはいけない。自分も同類かそれ以下になってしまう。お母さんにもそう教え込まれてきた。ガツンとやり返してやれ出来ないか怖いか情けねえなと父に叱咤されても克子はずっと母からの教えに従ってきた。
「それで毎朝臀部やら太股なんか触ってくるから腹立ちますよねー」
「わー、気持ちわりい。蹴っ飛ばしてやれ。部長にチクれ。槙村さんじゃ話になんないから。でも君の服装にも問題あるかもな。おっちゃん達喜んじゃうよ」
 人目に付かない場所ではセクハラもされているというネタを持ち出せば或いは本当に同情してもらえるかも知れないという浅はかな期待を抱いて溢し猿の鬱憤の捌け口にされていた時分も相談に乗ってくれた切符の良い三十路先輩に鋭い指摘を受ける。父にも、克子、おまえはなんちゅうカッコしてんだ!レイプされても文句言えねーぞ!と屡々注意される。そのまんま性犯罪加害者の異常性欲男どもと同じような言い草をされ克子はますます不快になる。
「関係無いんですけどねえ」
 猿を含む克子の一学年下の娘達、最後の企業内定時制高校の女生徒達が卒業後間も無く一斉に巣だってからと言うもの社内のヒヒジジイどもの慰み物役は克子が一手に担わされる羽目なった。毎朝正門に立ちよく缶入りのお茶を奢ってくれる気前の良いおじさんの木田さんには「かっちゃん隣の西川口で働けよ」とからかわれる。一年前、目付きとガラが悪くガタイと威勢の良い一学年下の女子プロレスラーのような女には入社早々目の敵にされタイムカードを隠される、段ボールを探しに潜入した倉庫のシャッターの鍵を閉められる、克子がトイレ掃除をしている間ずっと個室に潜伏し終了して現場に引き換えそうとするや否や飛び出してきて腕を掴まれ床に付いた毛くずを指摘されやり直しを命じられるなどの古典的な嫌がらせをされたが女ばかりの集団で生きていた女固有の鋭敏な嗅覚で以て克子が全く遊んでいない地味でつまらない女だと感知してくれるようになった。そんな、中卒の頭の悪い小娘でさえ、閉経したおばあちゃん達でさえ女の性別を持つ人達は大体にしてわかってくれるのに、何故にマラの萎びたヒヒジジイどもはわかってくるないのか。喜んでいるなどと甚だしい勘違いをするのか。お母さんに溢すとそんなの昔からよくある普通のことなのよ、おじさんは可愛い子が好きだから仕方無いのよ、と宥められた。このぐらいは我慢するのが当たり前なのか。どうにも解せない。けれど克子は口には出せない。
 明細伝票に記された縫製枚数812枚。実際の出来高は810枚。今日も計算が合わない。自分より一歳年下の中卒でこの役割を任ぜられていたのだからそのストレスもあったんだよな。前任の頭の悪い猿にも少し同情する。終業後足取り重く事務所に行き、担当の松野に帳面を見せて報告する。
「なんで合わないんだ!おかしいだろ!」
「すみません」
 こっちが訊きたい。合わないものは合わない。相違が生じる度松野は出来高を算出した克子を頭ごなしに詰るが相違が生じるとしたら裁断か縫製の過程でだろう。ひたすら畳んで梱包するだけの克子に原因のわかろうはずはない。
「まあまあ、顔でカバー出来るから」
 松野の朝令暮改と記憶違いに常々振り回され発注間違いの尻拭いをさせられている事務のババアが横から火に油を注ぐようなことを言う。
「カバー出来ない。「普通の顔」だ」
 克子の胃の腑にむらむらと憤りが込み上げる。美人ではない。可愛くもない。それは事実なのだが改めて、しかも毎朝我が物顔で躰を触ってくるヒヒジジイに言われると日々の無抵抗で受ける屈辱と相俟って殺意がたぎる。ストーカーって怖いよ。可愛すぎるとそういう被害があるんだよ。克子は「普通」で良かったじゃん。いやブスじゃないよ。「普通」だよ。彼氏に言われた屈辱も蘇る。おまえ飽きた!つまんない!「普通」になれ!克子をさんざん見世物として連れ回し恥をかかせた末にポイ捨てした上部集団への怨恨も芋蔓式に喚起される。解放され、私服に着替えて通用門を飛び出し怒り心頭でバスに乗り込み、ストレス発散の目的を引っ提げて大宮に繰り出す。袖無しの、胸の隆起を強調させたレモンイエローのリブカットソーに太股までスリットの切れ込んだデニムのタイトスカート。松野は毎朝克子の若い肢体を舐め回すように見ては素敵だよ。カッコいいな。ボインだね。と脂下がる。気持ち悪い。おまえのためじゃない。彼氏のためでもない。全ては自分のため、自己満足のためだけだ。ナンパ。キャバクラスカウト。キャッチセールス。ほら見たことか。私は綺麗なんだ。可愛いんだ。お母さんもその仲間も皆そう言っている。それだけじゃない。内包した「普通」とは違う途轍もない才気が隠しきれない強大なオーラを放っているんだ。だから何処に行っても人々の耳目を集めてしまうんだ。あんなところでヒヒジジイどもの慰み物にされてあんな貧乏ブタゴリラと付き合ってるたまじゃないんだ。徘徊しただけで満足した克子は何も買わずに駅のホームで煙草を一本吸って大宮を後にした。そもそも今日は持ち金が千円と少ししかなかった。金なんか持っていないのは克子とて同じなのだ。
「そうやって居ないとこでブーブー言いながらいいように触らせてんだからなあ、おまえは。おまえいっつも後から言うんだもん。俺にも。その時言えばいいのに」
 電話でぼやくと松雄君までもが克子にも非があるようなことを言う。自分は罪の無い、絶対的な被害者なのに。「立ち向かえ」という強者の理論。弱者の克子には実行出来ようはずもないのに。
「いいようになんて触られてないよ!嫌だよ!」
「じゃあ「やめてください!」ってはっきり言えよ。言わないおまえも悪いんだよ。今度触ってきたら蹴っ飛ばしてやれよ。誰もおまえを責めないよ。セクハラされてる被害者なんだから」「そうだけど」
 言ったらきっと「克子のくせに生意気だ」と逆捩じを喰わされる。逆恨みされて、何倍にもされて返される。小学校の頃からずっとそうだった。担任の馬鹿教師どもにそんなことで腹を立てるなんておまえは了見が狭い人間だ、みんなが君を信頼して頼んでるのに怒るなんて浅はかだと御門違いに責められた。松雄君だって逆ギレばっかりだ。どいつもこいつも克子の気の弱さを罪悪だと非難しながら結局克子の弱さにつけこむ。屁理屈捏ねて自身の正当化を謀りながらなのだから余計に質が悪い。皆馬鹿だ。自分で自分が見えていない大馬鹿だ。馬鹿を相手にして自分が傷付くなんてまっぴらごめんだからやはり克子は陰で言う。「気が強い女」のなんと愚かで傲慢なことよ。克子の周囲で気が強いと自称する女は皆例外なく反比例して頭の弱い闇雲に人の神経を逆撫でするだけの性格が悪いだけの女だった。だから克子は大嫌いだった。それに男女問わず、陰口は卑劣だと罪の無い人を言葉の刃で無慈悲に切り付ける奴等は十割十分両刀だ。面と向かって罵倒するだけでは飽きたらずに陰でも引き続き誰彼構わず聞くに堪えない悪口雑言を乱れ打っている。間違っている。私は弱くても謙虚で正しい人間でありたい。そうやって弱い自分を正当化して優越を感じている風を装いつつ克子は「気が強い」を自称する輩を畏怖していた。
 夏の工場直売バーゲンセールが講堂で開催され、母が仲間にあげる品を特大段ボール箱二箱分購入した。案の定皆からそっくりね、そっくりだと言われ克子は心底不愉快になる。小学校高学年の時分より言われてきたけれど当時よりは大分痩せて別人のように身嗜みに気遣うようになった今になっても尚言われてしまうとは。まだ二十歳の女なのにあんな肥った白髪と皺だらけの弛んだおばさんにそっくりだなんて。人の痛みの解らない無神経な連中め。皆死にやがれ。一日不機嫌に過ごし組み立てなくても良い段ボールを余分に組み立ててその辺に放置したままにして恵美子にナニコレナニヤッテンノー!?とどやされた。
 帰りの駅のホームで母が空腹を満たすためコンビニエンスストアで買った美味くもない総菜パンをかじる。現在月経終了三日目の痩せ日である克子が今日は食べて帰らないよ。と蕨駅周辺での外食を却下したからだ。お母さんごめんなさい。克子は真っ直ぐ帰宅して、プロテインを夕食にしなくてはならないのです。痩せなくてはいけないのです。痩せたら心も晴れやかに明るくなってこんな我が儘言わなくなりますから。毎月毎月そう固く誓った三週間後辺りに全身が浮腫んで苛立ちが抑えられず克子は食欲の暴徒へと化す。
「槙村さんが一杯おまけしてくれたのよ。で、かっちゃんのお母さん!ってちっちゃいおばさん連れてきたから挨拶したら克子ちゃんは生理が強くてねーとか言ってたっけ」
「ああ、内藤さんか。普通言わねえよな」
「はい」としか答えない克子は昔からおばさんには可愛がられる。そして何を言っても平気と誤解される。
「神経細いのよね、見かけによらず」 克子が欠勤した翌日出勤すると陰ではお互いの悪口を言い合っている同士が徒党を組んで面と向かってそんなことを言う。太い見かけによらずとな?おまえらよりは痩せているだろう。病気じゃないんだから。私たちの若い頃はそんなことで休む人居なかったわよねえー。言われたこと言われているであろう言葉を脳内で勝手に反芻させ、弱い克子はますます弱る。
―なんて可愛い子でしょう。お人形みたいね。タレントにしなさいよ。この世に産み落とされた直後より容貌の愛らしさから蝶よ花よと溺愛され次いで二歳にしてアルファベットが暗唱出来たことや漫画の模作が達者なことから普通と違う。天才だ。などと有りもしない能力まで過大評価され過保護に育てられたK子は自身を女王のように思い込み幼稚園という小さな箱の中専横を極めるようになった。学園ドラマの真似をして通園鞄で級友を叩き他の園児を突き飛ばして気に入りの遊具を独占し虚栄心から大法螺も吹き、結果皆の鼻摘み者となった。居場所を無くしたK子は暗く塞ぎ込み自宅に籠り、小学校の中学年時には人より少し早い成長期と相俟って原型を留めぬほど醜く肥えた。当然の如く優しかった周囲の大人達は手のひらを返したように冷たくなった。三つ子の魂百まで。それでもK子の潜在意識には寵愛された幼女期のK子が厚かましく鎮座し続けた。私は違う。私は尊い。私は偉大だ。他者との軋轢を徹底的に避け己と真っ向から向き合うことも努力も苦労もせぬまま誤った選民意識と邪な自尊心を肉体同様肥大化させていく一方だった―
『白い肌。長い髪。つぶらな瞳。清楚な美貌にそぐわぬ過激な下ネタと毒舌で人気沸騰の作家.河合克子さん。こんな子がこんなことを!』
 執筆に一段落を付けた克子は正面から右から左から鏡を点検する。右の顔より左の顔の方が良い。眼は元々二重でまあ大きい。唇も所謂おちょぼだ。問題は、鼻だ。逃げも隠れもせず正々堂々番組で特集を組んでもらってだだっ広い顔面の中心に下品に鎮座するこの不細工な団子鼻は絶対に整形しよう。細く、少し高く。その暁には十二キロぐらい痩せて胸も大きくして雑誌グラビアも飾らねば。致命的な巨顔はどうするか。顔の骨は削れるが頭蓋骨は削れない。そこはプロの技術で加工修整してもらえば良い。場合によってはネタにしよう。見向きもされないよりはましだ。作家の名声を得たその頃にはその程度の心の余裕も生まれているはずだ。美貌と知性。そこを誉めそやされたい。枯れたババアと脂ぎったジジイばかりのクソツボで美人だね、モデルさんみたいよ。などと言われたって嬉しくない。プロになって、プロに誉められたい。そして醜く老いさらばえる前に若くして、絶頂期に、世間に惜しまれながら、霧散したい。想い描いている自分に成れれば。外見中身共々実物の何十倍もの美化を施して脳内に創り上げたもはや偶像の自分に成れれば。両親のことも彼氏のことももっと大事にしてあげられる。人も自分も、きっと全てを許せる。だから手取り11万と数千円の安月給で自分を綺麗に見せてくれる洋服と、ハイヒールと、ワコールの下着と、一ヶ月で体重が十キロ減るカプセルと身長が十センチ伸びる錠剤と乳房が五センチ膨張する粉末を購入し続けなくてはならない。剛は家に三万入れてたけど克子はマイナスか?凄いどんぶり勘定だな。おまえそんなんじゃ一生自立出来ないよ?父と兄にチクチク言われても、家の近くに家賃34000円の物件あるからおまえ独り暮らししろよと彼氏に言われても、実家に寄生せざるを得ない。待っててください。印税で返しますから。待っててください、その時が来るまで。月々の支出がいくらに及ぶかという現実からは目を逸らし桁違いの皮算用を想い描きながら克子は工場で単純作業に従事する。

「今日サッカーだったんじゃないの?」
「午前中で終わった」
「今家何も無いんだ」
「じゃファミマ行こう」
「ミニストップが良い。パフェ食べたい」
「じゃミニスト行こ」
「うん」
 日曜日。克子の昼寝中松雄君が突然訪ねてきてミニストップに同行し合計2000円程度の飲食物を購入する。外食の際自分の財布から抜き取った紙幣を人目を盗んで松雄君の財布に移し彼に支払いをさせたりもしていたが、近頃はそれすらもしない。松雄君はお客様。これは当然のおもてなし。お母さんもそんなようなことをのたまわるから克子もそう自分に言い聞かせる。けれどこう毎回だとやはり腑に落ちない。
「なんかさー、こういうの同棲してるみたいでだらしなくて嫌。私が独り暮らしならともかく」
 食べて飲んでセックスをした後煙草を吸いながらデカい図体でしどけなくベッドに寝転ぶ松雄君に克子は苦言を呈する。
「同棲してるんだよ。俺いつも裸にエプロンでお出迎えしてんじゃん。ブランブランッ」
「ワハハ」
 勇気を出して精一杯の抗議をしてもくだらない冗談で切り返され、笑ってしまってうやむやにされる。何時も。何時も。
 なんでこんな男を好きになってしまったんだろう。
 忌憚無く言って、高校時代の松雄君は皆の鼻摘み者だった。女子数人に理由を訊ねると皆揃って、
「変わってるから」
 と答えた。変わり者鼻摘み者であったが故、一年の時分克子と同じG組だった克子の大っ嫌いな佐藤真紀という可愛い女、誰がどう見ても可愛いのに可愛くないよおとほざく女の名前を騙った偽の付文で嵌められたこともあった。リーダー格の女が発起人となり松雄君がしたためて佐藤の下駄箱に入れた手紙をビリビリに破いてG組女子一同の松雄断罪署名―の体を取った憂さ晴らし―を寄せ書きした用紙の上にばら蒔く作業が実施された際に克子も求められるまま「短小包茎ポークビッツ野郎」「一生せんずり万年童貞」by.FUCK河合と記した。だから三年生になってこれまた克子の大っ嫌いだった男狂いのよっこちゃんを通じてスクールバスで出逢うずっと前からその事件を通じてお互いの名前は知っていた。お互いがお互いの悪評を耳に入れて種類の違う嫌悪感を抱き合っていた。だのに、熱烈に愛し合うようになった。好きだよ。愛してるよ。可愛いよ。綺麗だよ。俺、こんなに人を好きになったの生まれて初めてだ。そのどさくさに紛れて度々混入される、
「みんな克子の良さわかんないんだよ」
「誰が何と言おうと俺は克子が好きだから」
 などの侮蔑に他ならない言葉に何よそれ。私は告白されたことも付き合ったこともあるのよと違和感を抱きつついさかいになるのが怖くて触れられずに放置していたらやがて本性を露呈された。
 このブサイク。きたねえ顔。何が「かわい」だよおまえは「ブスイ」だ。痩せろよ、デブ。デブって言われて傷付いてんならなんで痩せないんだよデブ。好きなもん食って太ってんだろ?俺はチビじゃないもん。おまえはチビデブだ……
「おまえら、くだらないことしてんじゃねえよ!」
 スクールバス内で入学時から避け続けてきた中学の同窓生である男らに絡まれ又あの地獄が始まるのか卒業までこいつらの存在に脅かされて過ごすのかと震えて泣く克子の眼前に何処からともなく現れ克子の手を引きすみません、と先客に移動してもらって後部座席の奥に匿い再び男達の前に仁王立ちになってそう一喝してくれた松雄君。
「克子は俺が守る。克子を傷付ける奴らは俺が許さない。絶対に泣かせない」
 お互いの想いを確認し合ったその日、克子を己の身体の一部に組み込まんばかりの力で強く抱き締めながらそう言ってくれた松雄君。克子の最愛の彼氏。いじめっ子達に言われた台詞をそっくりそのまま「彼氏」に言われるようになるとは夢にも思わなかった。私は騙されたのか。或いは偽の付文事件に加担し破かれた手紙を繋ぎ合わせ身振り手振り交えて宝塚のような芝居口調で読み上げて大爆笑したことを人伝いに聞いて根に持ち復讐をするために私に接近したのか。或いは下ネタばかり吐くからヤれると踏んで高校在学中に筆下ろしを遂行するための道具として小太りの三枚目で美しくもなく全くモテないが一応女性器を有してはいる私を選んだのか。自分を全肯定してくれる神のような存在の出現に夢うつつと心酔していたのに。何時しか克子はそんな妄想にばかり囚われるようになった。
 学食に連れて行ってほしかった。
「席替えしてからさ、三津谷とかのグループが側に来たから昼休みうるさくて勉強出来ないんだよ。おまえ一緒に食べてくれる?」
 そう松雄君に依頼されるまま弁当班を抜けて三津谷ら二年時の弁当班だった面子―克子以外の面子は学級が変わって離ればなれになっても固まり続けた―と三年時の弁当班並びに松雄君の在籍するC組の面子から後ろ指を指され白い目で見られながら原則として自分の学級で昼食を取ることという禁を犯して他学級の教室に単身で浸入し松雄君と弁当を食べ終えると参考書に向かう松雄君の向かいで手持ち無沙汰でただじっと座って昼休みが終了するのを待ち推薦入学が決まって屋上サッカーに復帰した松雄君が初めは自分が食べ終えるとさっさと、克子が不貞腐れて自身の在籍するB組に帰ろうとしてからは時計をちらちら見ながらゴツい図体を蟯虫でも居るようにそわそわと揺らしながら食べるのが遅い克子が食べ終えるのを待ちそれから席を立っていたが、お母さんの作った特大握り飯や蜜柑を下品に丸飲みし家畜のような早食いを終えた松雄君に「早く行かせて」とねだるような催促するような薄気味悪い表情を繰り返し見せられるのが耐え難く不愉快になった克子が食べかけの大好物の筋子の握り飯を「もういらない!」とゴミ箱に投げ棄てたのを最後に共に弁当を食べるのを止めた。それから毎日克子は味のしない弁当を友人の一人も居ない教室で一人で食べて、阿呆ども―克子をいじめた中学の同窓生が毎昼休み遊びに来ていた―の織り成す喧騒の中であんな男を好きにならなければ、あんな男を好きにならなければと誰にも気付かれぬよう突っ伏して机を殴って泣きながら昼休みをやり過ごした。松雄君の方から「学食行こう」と言ってくれなかったら別れるつもりだった。遠回しにしかししつこく催促してもついぞ言ってくれなかった。それなのに、別れられなかった。卒業して別々の道を歩き始めたら別れちゃうんだよ。そんな周囲の言葉に必死に抗ってしまった。克子の存在を否定するような罵詈雑言ばかりを浴びせられ、来いと言われれば駆け付け、行くなと制されれば指をくわえて見送り、しろさせろと言われた要求には痛くても屈辱的でも全て応じた。しかし付き合って一年半余りが経過した去年の冬、クリスマスイブにデートする口約束をすげなく破られ抱えきれなくなって実兄の剛さんに松雄君に言われたことされたことを洗いざらい打ち明けるやヤバい、おまえ都合よく利用されてるよ、女の扱いを知らなさすぎるよ、女と付き合う資格無いよ、松雄君おまえに振られなきゃ目覚まさないよ……と驚き呆れ果てた調子で助言され、翌日掛かってきた電話で克子は涙と悲鳴混じりに鬱積された憤懣を松雄君に吐露した。その際に、
「許してくれる?」
 と問われ、
「許すよ、好きだもん」
 あまりにも安易にそう答えてしまったから結果、別れるきっかけを逃してしまった。それ以来以前ほどの暴言は無くなり肛門に裂傷を負わされることも局部の毛を剃られることも無くなったが、相変わらず褒めてくれない。喉元過ぎれば熱さ忘れるでやはり時々不用意に貶す。何処にも連れて行ってくれない。我が世の春は付き合い始めの二ヶ月程度だった。二十歳の身空で古女房。否、養ってもらえる分古女房の方がましだ。自分は、金まで払わされる。それでも克子は別れを選べない。
 シーツを畳んで梱包し終え並んで着席して荷札に記名する恵美子に克子が裁断の西田さんに教えられた商品名を告げる。生地が同じであっても刺繍が異なり商品名も別物になる場合が間々あり、その都度知らせるのは克子の責務だからだ。
「アア!?言われなくても知ってるよ!」
「ヘエー?それで?それがなんなの?」
 ただ、伝えるべき商品名を伝えただけで。苦虫を噛み潰したような顔で、無気味な嘲笑を浮かべながら、無意味に、全くもって無意味に愚弄をされる。聞き返される。答える。又聞き返される。いきおい大声になると、
「アア!?何いきなりキレてんだ!私になんか文句あんのか!?いーっつもブッスーッとつまんなそうな顔して!一体ゼンタイ何が言いたいんだよ!ちゃんと声出して言ってみろ!」
 こっちの台詞だ。倦み果てた克子は何も言いたくなくなり顔をしかめて口をつぐむ。その反応に対しても腹を立てた恵美子は更に激しく捲し立てる。
「カワイサン!カワイサン!カワイサン!カワイサン!返事しねえのかよ!カワイサーン!私の言うことは何にも聞こえないって言うのかア!?オメエツンボかア!?フンッ!どうーでもいいけどさあ!!」
 シーツを梱包した袋を結わく布紐を補強のために二本用意したら一本だけでいいだろと騒がれる。克子の側だけ二本にするとバランス悪いだろ私に対するイヤミかと喚かれる。荷札が斜めに付いてるベストの裾が捲れてると怒鳴られる。沈黙が訪れ両者の間の緊迫感が弛緩したところに半笑で、
「今日あくびしないねえ」
 と強烈な嫌味を投下してくる。克子が驚きと憤りに震えつつ、
「はあ」
 と精一杯の生返事で返すと「ケッ!」とそっぽを向いて吐き捨てるや否や今度は理解不能な憤怒の表情を満面に湛えてなんなんだよゴチャゴチャ、「バカが」ゴチャゴチャ、と昔のテレビ放映終了後に映し出された砂嵐のように耳障りで聞き取れない言いぶりでもって明瞭に克子に向けていると判る不平を呟き続ける。月経前だけ一定の周期でわかりやすく苛立ちを露にする今はなき猿の方が僅差でましだったかとさえ思えてきてしまう。しかしもう、代わりなんて居ない。自分の代わりは掃いて捨てるほど居るというのに。オックス生地の固いシーツの端に克子の握り締めた指跡がくっきりと付いた。

 土曜日克子はお母さんと南越谷に買い物に来た。キャバクラスカウトが二件。ナンパが一件。彼氏が居ると言うと友達紹介してよ。合コンやろうよと食い下がる。口車に乗せられてキャバクラで働こうが合同コンパに参加しようが、どうせ当世風の痩せた、顔の小さい女の引き立て役を担う羽目になるのだ。そもそも合同コンパに調達出来る友人など居ない。そういった場所は自分の人生とは一生無関係だと克子は認識している。極度の近視のお母さんは買い物に異様に時間が掛かる。タンクトップとワイドパンツを買った後書店に入って雑誌を数冊立ち読みして時間を潰す。今週発売のファッション雑誌。よせばいいのに読者モデルの頁をつい探して見てしまう。T短大二年カリスマ読者モデル.オイちゃん。高校一年時分克子を引き立て役として連れ回した当世風の、顔が小さく痩せていて脚まで長い可愛い女。かっちゃんいいんじゃない?と日陰の雑魚醜男と克子を引き合わせた女。松雄君が磯の鮑の片思いをしていた女。大っ嫌いな女。おまけに今月の星座占いを見ると双子座が最下位だ。全くもって忌々しい。独りで勝手に向かっ腹を立てながら書店を出ると前方から極限まで短くしたスカートから細く長い脚をこれ見よがしに晒した女子高生の集団が歩いてきたので下を向いて息を止める。キモ。デブババアのくせに脚出してバカじゃんと嗤われそうで怖い。三年になって、周りより少し遅れてルーズソックスを履いて臨んだ始業式で一斉に注目され「やったじゃん!」などと囃されそれが恥ずかしくて休日しか履けなくなった屈辱が蘇る。サティの肉屋でアルバイトしていることに対し合ってるじゃん、社員になっちゃえばいいじゃんと冷やかされた屈辱が蘇る。イケてる現役女子高生に遭遇すると克子は己の不格好さを否応なしに痛感させられる。シャネルもルイヴィトンも太刀打ち出来ない制服という絶対的なブランド。錦の御旗。羨ましい。妬ましい。今一度女子高生になりたい。勉強なんか大嫌いで成績も振るわず何処にも馴染めない苦痛なだけの学校生活を過ごした克子が空前の女子高生ブームの今女子高生に戻れたところでどうせ当時より一層強烈な劣等感に苛まされるだけなのだが、羨ましくて仕方無い。
 お母さんとアストリアで合流しグラッチェガーデンに向かう。にんにくとトマトのスパゲッティ、ピッツアマルゲリータ、若鶏の唐揚げ、ガーリックトースト、シーザーサラダ……、月経が近いから、我慢しても痩せない期間だから、普段食べられない高カロリーな料理を親の金でしこたま好きに喰らう。酒も呑む。そして克子は僅かに減らした体重を元に戻してしまう。毎月、毎月。
「ああ、美味しい。松雄君ファストフードばっかりだもん。ほんと嫌だ。何処にも連れて行ってくれない。つまんない」
「つまんない。って子供が言う言葉なのよ。山ちゃん毎日新聞配達で疲れてるのにゴミゴミしたところに連れてったらかわいそうよ。山ちゃんはミーハーじゃないのよ。流行りにばっかり飛びつく軽い男よりずっといいじゃない」
 確かにカラオケに行っても流行りの歌はまともに歌えない。CDを借りる金も無いから廃れた曲を何回も歌う。そのくせ克子が二回続けて同じ曲を歌うとこれこの前も歌わなかったあ?と露骨に嫌な顔をする。そして部屋代もドリンク代も克子に払わせる。
「いや、ミーハーだよ。可愛くてモテる子ばっかり好きだったもん。そういう子じゃオトせないからランク下げてランク下げて私で妥協したんだよ。何処から仕入れてくんだか芸能人のガセネタもしょっ、ちゅう、吹き込んでくるし。しかも間違いだって判明しても激昂気味に言い張んの。おかしいんだよ、あの男」
 克子が小学生の時分より強い関心を惹かれて深夜放送のテレビに噛じり付き何時かは足を踏み入れたいと熱望していたライブハウスや単館上映の映画にもめんどくさい。知らないやつばっか出てる映画なんかつまんないよと連れて行ってくれない。松雄君はみんなが知っていてみんながいいと言うものしか認めないのだ。女子高生の尻を追い掛けない唯一その一点だけは非常に高く評価出来るが、それにしたってつまらない。本当は周りの天麩羅大学生とおんなじで、金さえあれば今が旬の女子高生を血眼になって狩りに行っていたかも知れない。相手にされるはずが無いのに。松雄君おまえとじゃなきゃ付き合えないよ。兄さんもそう言う。そして克子はそれを松雄君に言う。
「そんなこと言っちゃかわいそうじゃない。彼なりに一生懸命話題を提供してくれてるんでしょ?あんたなんか会社の人の文句ばーっかり聞かせてるんだから。そっちの方がよっぽどつまんないじゃない」
「何でそんなこと言うんだよ!嫌なヤツばっかりの会社で我慢して真面目に働いて何処にも連れてってもらえないで金は払わされて文句でも言わなきゃやってらんないんだよ!私だって好きで生きてんじゃないんだよ!」
 一番言われたくない正論をずばりと母親に言われて克子は気色ばむ。おずおずと皿を下げに来た小柄で華奢なウエイトレスが軽く怯えている。好きで生きてるんじゃない。生まれてきたくなんかなかった。十代の時分から少し追い込まれると易々抜き出す克子の伝家の宝刀。衝動的ではない、常々抱いている本心だから致し方無い。産道を通る際は必死で生まれたがっていたはずなのに。もっとも克子は帝王切開で取り出されたらしいが。
「子供の頃可愛い可愛いって甘やかしちゃったからこんな利己的な子になっちゃったのかしらね……。私育て方間違えたかしら……」
 何時からかお母さんはこの台詞をよく口にするようになった。そう言われても残念ながら克子本人には容姿が優れているが故にちやほやされた良い記憶など欠片も無い。自分でも自覚の無い潜在意識の中に厚かましく居座って私は誰よりも綺麗で可愛いのよこんな所に居る女じゃないのよと騒ぎ立てて来るばかりだ。
「いや。ママンは悪くありませんよ。大川や小倉が悪い。中山も」
 克子は責任転嫁が大嫌いだ。だから初めから背負わぬよう逃げる。人の上になんか絶対に立ちたくない。下へ下へと潜り込む。しかし自身の人格形成に於いて小中学校時代の全方位からのいじめが多大なる悪影響を及ぼした事実は否定のしようが無い。責任転嫁なんかじゃない。厳然たる事実だ。あいつらのせいだ。殺したい。
「そんなくだらないこと忘れなきゃダメよ。今は綺麗なんだから」
「綺麗じゃないよ。もう若くもないし」
 娘の克子にその福々しい丸顔と団子鼻だけしっかり生き写しにして現代の若者に於いて最強の武器となる小顔と脚長を全く遺伝させなかった罪は深い。私の若い頃なんか胸もお尻もぺっちゃんこ でみっともなかったわよ。克子の方がずっと今風でカッコいいし美人よ。そんなお為ごかしは受け付けない。こんな私のようなものをこの世に産み落とした罪は、重い。元を質せばやはり、産んだお母さんが悪い。親のせいにする奴は最低だ二十歳過ぎたら全て手前の責任だと大見得を切った舌の根も乾かぬうちから克子は一人心の中で親への理不尽な呪詛を吐き、最後の一個の唐揚げを口の中に放り込みビールを飲み干すと御馳走様もろくに言わず手洗いに立った。
 触ったら蹴り。触ったら蹴り。今日こそは。正当防衛だ。そう決心して現場に赴くと殺気を感じたか何時も克子の臀部を叩く松野は付近をうろうろしただけでおはよう。も言わずに立ち去った。この調子だ。克子はほくそえんだ。
「今日うちの鬼ババア……、あっ、お姉たまはお休みでーっす!ご迷惑おかけしまーす!」
「あはは。知ってますよ。ありがとう」
 恵美子の妹で包装台配属の真美子さんが伝えに来る。今日は恵美子が私用で休みで午前中は今年定年の気の良いおばちゃんの草間さんと組んで馬鹿話をしながらシーツを畳み午後は内藤さんとアイロン掛けだ。朝の情報番組の星座占いが当たった。今日は良い日だ。
「あー、落ち着きますね。何時もはあのお方に何かしら文句付けられて息が詰まりそうだから」
 実際はアイロン場の熱気で蒸された内藤さんのすえたような汗臭さと溝のような口臭にも息が詰まりそうだが克子は面白おかしく共通の話題を持ち出す。これは悪口ではない。無難な軽口だ。現に誰もが同調してくれる。そして自分も又同じように俎上に上げられていることぐらいは克子もわかっている。
「恵美子ちゃんもきかないわよねえ。でもあれでもよくなったのよ。前は癇癪起こして鋏振り回したりしてたんだから。突然「辞める!」って言って田舎に帰って三ヶ月も出て来なかったり大変だったのよ」
「そうなんですか。真美子さんは礼儀正しい良い子ですけどね」
 克子の一学年下で唯一工場に残留した真美子さん。顔は麻原彰晃に瓜二つと揶揄され姉と同じようなものだが現場や食堂で少し接する限りはハキハキにこにこしていて感じが良い。姉妹揃って特殊学級一歩手前の劣等生だったとは多分に信憑性の高い噂で聞かされたが更衣室でも現場でも人の頭のてっぺんから爪の先までじろじろと睨み回して一人笑い怒り詰ってくる恵美子とは大違いだ。ある意味、かわいい。
「そう?真美子ちゃんの方がもっと手の焼ける子だと思うけど」
「そうなんですか」
 克子はいったいに人を見る目が無いようだ。男女問わずに勝手に美化して勝手に幻滅して悪し様に言い出す。来るもの拒まず受け入れて本性を知っても見限れない。本当に弱い。それに、学校と違う工場では本性を知るほど近しくなる場面も必要も無い。学校で生徒の本分である勉強をしてこなかった克子は会社では会社員の本分である仕事だけをしたくて煩わしい人付き合いの無い現場を選んだのだ。そこは性に合っているんだと本心から思っている。
「克子ちゃん今度の休みは出掛けるの?」
「母と買い物ですねー。友達居ないから母とばっかり出掛けてるんです。マザコンなんです」
「じゃあ安心ね。克子ちゃんはよくおかしなことを言うからみんな心配してるけど。お母さんと仲が良いなら安心よね」
「はあ。でも、地味でつまんない日常ですよ」
「地味な人が派手になろうとしたらいくらでもなれるけど派手な人が地味になるのは難しいことなの。地味に生きてる方が間違いが少ないわよ」
「はあ」
 確かに、母親との関係が良好な女は概して貞操観念が固い。有名人や犯罪者の体験談を見聞きしても男出入りの激しい性にふしだらな女は母親に愛情を掛けられなかったと告白しているケースが極めて多い。親に言えないことなんかしたくない。子供の頃からずっとそうだった。良い子だった。故に克子は大人に叱られた経験があまり無い。
 同年代の連中並びにもう片方の実の親からは蔑まれ貶され続けてきたけれど。
 ドチビ、潰れっ鼻、顔デカニキビ。ペッチャパイですげー下ッ腹。死ね。
 容姿、学力、性格、存在そのもの。物心付いた時分より克子は実の父親から克子を構成する全ての要素を口さがなく貶されてきた。ことどうにも出来ない身長には異様に執着があり、同級の女子の話をするとバカの一つ覚えのように、
「おまえより背え高いのか?ゝ?」 
 と訊かれ、低身長の女性を目撃すると、
「チビだな~!克子みてえ!」
 と苦々しげに騒がれた。中学校二年生まで辛うじて上位に位置していた成績が三年になって急降下し三学年上の実兄の剛さんが私立高校から私立大学に進学するから親に負担を掛けぬよう私は公立に行くと明言していたのに間際になって五教科勉強するのが嫌、三月まで合格発表を待つのが嫌、という総括するところの「勉強したくないから」と理由で私立高校を志願し入学してからは卒業するまで事ある毎に偏差値低いくせに!ゝ!と東京六大学卒の祖父と旧帝大卒の叔母に囲まれて育った無名公立高校卒業後職を転々とした末の放射線技師専門学校卒の父親に呪詛のように繰り返されるようになり今も侮辱しかされない。学校でいじめられ帰宅してもほぼ同様の言葉を浴びせられ、
「背え伸びねえ、もっとデカくなると思ったらこんなチビで情けねえとか。ニキビだらけで気持ち悪いとか。私だって物凄く気にしててどうにも出来ない学校で言われること家でも毎日言われて。あんなお父さん要らない。居なくなってくれるなら貧乏になってもいい」
 泣きながらそうお母さんに訴えた夜もあった。お母さんはその都度父を諭してくれたが父は聞く耳を持たなかった。克子が「死ね!死ね!」と鬼の形相で殴る蹴るの反撃を加えてもイテー、イテー、やめろよ。おまえより先に死ぬから安心しろ。とへらへら薄気味悪い笑みを浮かべながら言うばかりで反省の意思は全く見せず、当然の如く克子への言葉の暴力を止めることをしない。だから克子は昔も今も、父が大嫌いだ。悪い友達なら居ない方がましよ。克子はレベルが高すぎて周りの子と合わないのよ。やり返したら負けよ。ばかを相手にしない克子はりこうなのよ。克子が死んだら私も死んじゃうんだからね……。母の渾身の、もはや祈りのような必死の肯定があったから克子は生きて来られた。克子が一番誉めて欲しい頭の良さと容貌の良さを誉め続けてくれた。数学の偏差値が40を切っても。機転も融通も利かずものを全く知らなくても。ニキビだらけの豚になっても。巨顔の平目の団子鼻でも。それはそれは、痛ましいまでに。だからやはりお母さんを喜ばせ安心させるためにも、お母さんと同じく父も大いに人柄を―両親に向けた猫を被った一側面だけ捉えてだが―買っている実直で親孝行な松雄君と一筋に付き合って取り敢えずは結婚をしなくてはならない。何をやってもだめで見た目も中身もまずくお母さんの信仰する輸血禁止の宗教の信者にもなってあげられなかったがそれぐらいは実現させてあげたい。
「克子は嫌だって言ってんだから強制すんな。信仰は自由だろ?強制するもんじゃないだろ?」
 小学校を卒業し集会への出席を拒絶し始め母の涙ながらの説伏に押し入れに逃げ込んで籠城し口を閉ざして抗う克子にそう口添えしてくれた、宗教なんてものを毛ほども信じないまともな父には今も感謝している。
「克子は作家に成れるな」
 最優秀賞を取った克子の作文を真剣な顔で最後まで読み読み終えた後そう言ってくれた人も又唯一父だけだった。何が夢だ!偏差値低いくせに何が作家だ!その一年後、看護婦になってほしいと熱望する父に対し自分には夢があるから自由な時間の持てない看護婦にはなりたくないと言った克子の言葉をそう唾棄したのも又父だったのだが。
 夕方を過ぎると蕨駅にも新松戸駅にも克子と大体同じ年頃の集団がたむろして大声で駄弁っている。一見してフリーター。かなりの高確率で男の中に女が一人の編成。その女は克子より更にチビだったり脚が太かったり目が細かったり。どんな女でも巧くやれば制服を着てルーズソックスを履いた女子高生じゃなくても特に見てくれが良くなくても姫になれるのか。幾ばくかの羨望を抱き因縁を付けられるのが怖いのであまり見ないようにして傍らを通り過ぎる。
「生まれ変わったらチャラチャラしたいなあー!」
 ネギ畑に挟まれた路を自転車で走行しながらまだ明るい夕空に向かって克子が大きな独り言を叫ぶと遠くでカラスが鳴いた。
―俗物ども。自我意識の無い腑抜けども。一人じゃお家に帰れない、一人じゃトイレにすら行けない雑魚ども。私は何処にも属さない。自ら所望した崇高な孤独。何処かに同化したら終わりだ。放課後は赤の他人。卒業したら異邦人。何人たりとも自分の領域には足を踏み入れさせない。変わらない。何色と交わっても薄れも染まりもしない糞色のドドメ色。どいつもこいつも何故に容易く素知らぬ顔で前言撤回をする?言責を持たない?自分に甘過ぎやしないか?私はあんな風には絶対にならない。肩肘張って自分に枷掛けて誰の得にも何の得にもなりはしない。誰のことも受け入れられず肯定出来ずきっと最後は自分をも否定することになる。そんなの分かってる。でも私はこの道を選ぶ。良いのだ。そうやって私という存在は浄化されていくのだ。遭う者遭う者皆反面教師。余分なものを排除した末にはきっとダイヤモンドのように美しく煌めく真実が残る。これは私の揺るぎ無い信念。「排他的向上心」だ―
 鉛筆の芯が磨り減ってきたので削り直して煙草を吸う。中高生時分、地味で冴えない子が派手で活発になることは「デビュー」と揶揄され嘲笑された。克子もそこはかとない嫌悪感を抱いていた。しかしその嫌悪感の正体は他でもない嫉妬心なのだということを自覚し認める。羨ましい。かつての自分を簡単になかったことに出来る無恥で軽薄なあれらの人種が心底羨ましかった。松雄君も大学に入学し発言力の高いイケてる人気者グループと友人になり他校に通うその彼女らも交えて連日放課後飲んだくれて闇雲に攻撃的な物言いをするようになり上部デビューしたかのように見えたが如何せん資金が無かった。借金重ねて昼夜問わずに飲んだくれるお父さんの煙草をくすねてこれ見よがしに燻らすのが関の山だった。

 何時もは徒歩か自転車圏内で済ませようとする松雄君が原宿に連れて行ってくれると言うので喜び勇んで同行すると克子が連れて行かれた先は柏や松戸に在るのと同種のサッカー用品店だった。
「もう帰っちゃうのお!?せっかく原宿来たから渋谷行きたい。109見たい」
 克子にサンダルを買わせ目当ての品を購入したらとんぼ返りしようとするのでそのぐらいは当然の権利だろうと要望を言うと、
「おまえホントにわがままだな。しょうがない、歩くぞ」
 と言われ、炎天下人混みの中を12センチハイヒールでめくらめっぽうに歩かされくたくたになって双方が極度の方向音痴故結局渋谷には辿り着けず明治神宮前駅から押し黙ったまま松戸まで帰った。
「そうよ。わがままよ。男の人は女の買い物になんか付き合わされたくないのよ。それも今日みたいな暑い日に。山ちゃんかわいそうよ」
 かわいそう、かわいそう、かわいそう。松雄君に関する愚痴を溢すとお母さんは何時もそれを言う。「かわいそう」は正義か?かわいそうたあ惚れたてことよ。か?違うだろ。同情と愛情が同種のものであるはずが無いだろう。お互いを尊敬し合うのが愛だろう。愛する人を可哀想がるなんてそんな不幸な愛はない。今日だってモスバーガーでの食事代は松雄君が払ったもののその倍以上の価格のサンダルは克子が買わされたのに。せっかく原宿まで足を延ばして新八柱にも新松戸にも在るモスバーガーなんかで食べたくなかったのに。悪いのは松雄君なのに。「わかままなのはあいつだよ!何でこんなに我慢ばっかりしてわがままなんて言われなきゃいけないんだよ!」
 それを確認すべく克子は北九州に赴任中の社交的で交遊関係が広く女にももてた実兄の剛さんに電話を掛けて聞いてくれるまま止めどなく彼氏への不満をぶちまける。子供の頃からずっとそうしてきた。思春期なのはお互い様なのに死にたい殺したいと怒涛のごとき怨嗟を一方的にぶちまけてきた。親には言えない閨事に於いての松雄君の横暴な言動も全て兄さんには話せる。そしてその内容を要約して克子は松雄君に伝える。兄さんが言ってた。そこいらの馬鹿が使う同じような低能二、三人、酷い時はたった一人を指してのたまわる「みんな言ってる」なんかとは比較にならない打撃を与えてやる。だって、松雄君が悪い。
「おまえ、俺ばっかり悪人にすんなよ」
 兄にも松雄君にもそう苦情を言われるが克子は止められない。わがまま。わがまま。何故人は自分をそう評するのか。幼児期に早々と自覚して必死に隠してるのに。嫌なことは嫌って言えって全部嫌だ。やりたくないことしかない。だから仕方無く何時も何時も嫌なことばっかり押し付けられて断れず我慢ばっかりしてきたのに。それでもわがままだってこれ以上どう自分を殺せと言うのだ。物理的に死ぬしかないのか。死にたいのは山々だ。死ねたらとっくに死んでいる。死ねないから死ぬほど辛い。産まれてきたくなんかなかった。ベッドに寝転んだ克子は長時間歩かされてパンパンに浮腫んだ脹ら脛を頭上に上げてぶらぶらと揺らした。極端に短い膝下が視界に広がりやり場の無い苛立ちが更に募った。
「これは急ぎだから。かっちゃんはそこにある掛けカバーやって」
「はい」
 軽く反動をつけて、弧を描くように思いっきりパッと端部分を放り投げる。初めのうちは上手く拡げられなかった布団カバーも能楽師が拡げる蜘蛛の糸のように綺麗に拡げられるよう。得意になって作業を繰り返していると恵美子蜥蜴のような目で克子の方をちらちらと見ながら池沼さんに何かを耳打ちしている。何だ。もう以前のように手元で団子状にさせたり床に落下させたりなんかしていないじゃないか。ちゃんと上手に拡げられてるじゃないか。「何ですか?」と訊けない克子はただ不穏な渋っ面をして作業を続ける。
「かっちゃんさあ、まずは引っくり返さなきゃ裏っ返しだよ!暑さでボケたか!」
「あ、すみません」
 池沼さんが克子の拡げた掛けカバーを台から箱に戻しながらミシンと包装台の人達が一斉に注目するぐらいの大声で叫び、傍らでキツツキのように身体を前後させながら引き付けを起こさんばかりにクエクエと恵美子が笑う。縫製された製品は先ず表向きに返す。その工程を忘れていた。
 仕方無い。
 みんなが出来ることが出来ない。それが克子なのだ。しかしこれは世を忍ぶ仮の姿だ。みんなが出来る簡単なことが出来ない代わりにみんなには無い高度な才能を備え持っているんだ。お母さんも幸田先生もそう言ってくれた。私は醜いあひるの子。そのうち白鳥になってこんな所から羽ばたくんだ。絶対に大成して皆の鼻を明かせてやるんだ……。そんなことを心の中で誓いながら何事も成し遂げられず何物にも成れないまま克子の人生は二十年が過ぎた。
「ねえ、こないだ大宮で歩いてたでしょ?派手な真っ黄色の着て」
「ああ。見られてましたか」
 克子が喫煙所でおじさんおばさんと毎度の下衆なエロ話をしていると織物事業部の「きょうこ」と呼ばれている茶髪でピアスをした若い女の子がマルボロメンソールを吹かしながら笑顔で話し掛けてきた。目につく風貌で克子も存在を知ってはいたが会話をするのは初めてだった。何だか不思議な気がした。
「敬語やめようよ。うちらタメだよ」「ああ、はあ」
 敬語の敬は敬遠の敬。その事実がふと克子の脳裡に過る。カワイサン何で敬語なんか使うのー!?恵美子に忌々しそうに苦情を言われたこともあったが克子は崩せない。工場の女工は克子を除き皆中卒だ。「タメ」でも三年も先輩だ。克子も来年で三年生になってしまうが卒業出来る目処は今のところ、無い。
「あたしが「あー、会社の子だー」って言ったらカレシの友達が河合さんのこと見て「かわいいなー。紹介してよ」って言ってたんだけどどう?会ってみる気ない?」
「ワハ。私これでも彼氏が居るんで」「いいじゃん。遊ぼうよ、みんなで」
 硬派な一棒主義の克子は彼氏以外の男と職場以外で会ったりしない。中学生時代暗黙の裡に掲げられていた幼稚な倫理の垣根が取り払われ男子と女子が「友達」して放課後や休日学校外に呑みに行ったりカラオケに行ったりし始めた高校時代も一度たりともそこに加わらなかった。と言うか、端から誘われもしなかった。だから「友達」として男女交えて遊びに行った話を嬉々として克子に聞かせる松雄君には敵意すら覚える。たとえそれが克子と知り合う前の出来事であっても。
「ああー、」
 克子は正直かかわり合いたくなかった。生返事をしてそそくさと昼寝をしに現場へ帰った。
「いいじゃん。友達になればいいじゃん。友達作れよ」
 帰宅後電話で松雄君に報告すると好意的な口振りでそう勧められた。友達作れよ。とは以前より松雄君から何回か言われている。克子はその都度「いらない」と即答する。実際、いらないのだ。
「えー、だってその子の男友達私のこと可愛い。紹介してって言ったんだよ?それでのこのこ会いに行ったら誤解されるんじゃない?それにやっぱり……、私らと同じ学年で施設で育った中卒ってまともな家庭の子じゃないでしょ。見た目もギャルっぽいし。悪い世界に引き込まれそうで怖いよ」
「又それを言う。おまえ、そういう偏見ほんっと良くないよ。みんなそれぞれ家庭の事情があるんだよ。子供は親を選べないんだよ。俺だって金持ちの子供に産まれてきたかったよ。欲しいものも買えない。風邪も引けない。一日も休まないでバイトしてもバイトしても全部学費。おまえは良いよな、次から次に好きに洋服も靴も下着も買えて。物持ちで。そうだよ、おまえだってギャルみたいなカッコしてんじゃん。もう二十歳のオバサンなのに。社会人になって突如ケバ系デビュー。俺恥ずかしいよ」
 母ちゃん、母ちゃん。大好きなお母さんが中卒だからか松雄君は中卒という言葉に被害妄想に近い過剰な反応を示す。高校生の時分こっそり自宅に上がった際、
「代ゼミ前回偏差値4×.×C大学スイセン4×。あと一歩!必勝!」
 と言う文言が書かれた紙が居間に貼られているのを克子は見た。その克子が書くのと酷似した稚拙な文字に籠められた穀潰しの長男は高校も偏差値40台の阿呆だった故普通より少し成績の良い次男坊には返って恥な学歴となるような六流の学校でも「大学」と名の付くところに何がなんでも家計が火の車で借金まみれで本人に学費を負担させることになっても行かせたいという無学な親の見栄とエゴを目の当たりにして克子は怖気がした。その記憶が蘇り「デビュー」と言われた屈辱も癇に障る。いいじゃん。デート代殆ど私に払わせてるんだから。洋服も靴も買わせてるんだから。言いたくなるがすんでのところで飲み込む。
「いやもう偏見なんか無いよ。女工は中卒ばっかりだけど学力が無いから中卒の人なんか殆ど居ないもん。実際私が一番仕事が出来なくて皆から馬鹿にされてんだし。ケバいって、今時あのぐらい普通じゃん。腹凄いから臍は出さないし。それに地味な服装だとあんたダサいダサいって大仰に酷評すんじゃん。毎日毎日家と会社の往復で何処にも連れてってもらえなくて生活が極めて地味なんだから服装ぐらいは派手にしてないとつまんなくてやってらんないよ。その恭子って子T中出身だって。浦和の」
「ああ。今井と一緒か」
「あの人松雄君と同じユース出身なんだね。昨日テレビで言ってた」
「あんなの小物だ。大したことない」 気を取り直して全く興味の無いサッカーの話題を振ったらこれだ。松雄君はいったいに「褒める」ということをしない。褒めたら死ぬとばかりに貶す。克子のことも。誰のことでも。
「プロじゃん。凄いじゃん。プロになれたんだから」
 自分の方が劣っているのにさして優秀でない人を悪し様に腐す。目くそ鼻くそならぬ鼻くそ目くそか。自分がどんなに馬鹿にされてもそれだけはすまいと固い矜持を抱き続ける克子は聞かされる度に不快になる。バブル景気に乗じた高卒のトラック運転手上がりの無資格の潜りながら一応不動産屋を営むお父さんの息子であったお陰で取れた企業推薦とやらを利用してやっと無名五流大学に潜り込めた程度の学力の分際で克子の敬愛する実兄の剛さんが四校に不合格し渋々入学して卒業した有名四流大学を猛然と謗った時は流石に「入れんの?」と言ってやった。少なくともあんたよりは上だよ。何が「うちは所詮三流大学」だ。三流じゃねえ。五流だよ。一般入試だったら六流だって受かっていたかも怪しいのに。三流に土下座しろ。貴様は人を馬鹿に出来るような身分じゃねえんだよ。時たまは克子も言ってやる。言ってやると怯む。いかつい風貌にそぐわず松雄君も又、弱い。しかしそれが判ってもやり込めはしない。又すぐに言えない克子に戻る。
「あいつらは小学校上がる前からやってたからだよ。俺は遅かったんだ。俺だって始めるのが早ければプロになっておまえとなんか付き合ってない」
 詰めの甘い男め又もや隠しきれない本音を出し腐った。何をかいわんや。偶然を装い昇降口で待ち伏せ克子の前の席の矢尾板君に用があると見せかけ克子の学級に克子に会いに訪れ自分がぐいぐい押してきたくせに。今となってはヒモ擬きのくせに。ユースに所属しているのを鼻に掛けていたことも皆から嫌われる大きな要因だったじゃないか。本来そういったブランドを持つ生徒には仲良くなりたい尻軽男女が寄っていくものなのに「気持ち悪い」と敬遠されていたじゃないか。教科書にサインの練習。机にトーナメント表。気持ち悪い。恥ずかしい。体育祭のリレーでは短パンからスパッツをはみ出させ暫くの間「スパッツ」という渾名で呼ばれ部活はキツいから、「おまえにも会えないし」と完全趣味の弱小サークルに逃げた無名五流大学生の貧乏ブタゴリラが何を抜かす。克子の頭に血が昇り悪意に火が点く。
「ああ。プロになってカリスマ読者モデルの及川さやかと付き合って一緒に雑誌に載ってた?」
 ゴツい巨顔のブタゴリラ。おまえなんかあの女と並んだら引き立て役だよ。って私も引き立て役にされたけど。糞が!克子の悪意はひとりでに勝手に加速する。
「付き合わねえよ。あんなしゃくれの井の中の蛙。タカビーなんだよ」
 大学の友達もみんな及川のこと知ってんだよ。卒アル一人に貸したら二ヶ月戻ってこなかったよ。スゲーよな。そのアルバムには克子も一応写っているのだが。在学中に亡くなった男子ですら写っている学校生活のスナップ写真には一枚たりとも見切れてすらいないのだが。
「しゃくれじゃないよ。受け口だよ。無茶苦茶可愛いよ。「好きだった」って言ってたじゃん。あんな腹黒女。私のことも完全に見下してやがった。独りで十分勝負出来るぐらい綺麗でスタイルも良いのに私みたいなデブとかブスを引き立て役として常時従えとくっていうのが浅ましいんだよな。及川と学食で食べたご飯美味しかったー?男女混合なかよしグループ。ダセえ。気持ちわりい。向こうはあんたのことなんかなんー、とも思ってなかったのに試験休みに遊びに行った時なんかも尻尾振って付いてって。バッカじゃないの!」
「美味くねえよ。安もんの固い肉で。添加物一杯使ってそうで」
 ろくなもん食ってない貧乏人が。この前家で鰻を食わせてやった際も一心不乱にガツガツと下品にかっ込んだ後で、
「俺穴子の方が好き。母ちゃんの作る穴子の天丼美味いよ」
 などとほざいた。いつぞや家族全員が絶賛する克子の自信作のカレーに辛い辛いとひたすらいちゃもんだけ付けたのも貧乏な家庭故無名メーカーのこくも香りも無い底値で売られた賞味期限切れのルーを極限まで薄めて使用しているからなんじゃないのか。
「喜んで行ったんだろー?私のことは連れてってくれなかったのに!」
「行ったじゃん。おまえ遅刻して来たけど」
「あれは起こしてくれなかったお母さんが悪いんだよ!自分なんか毎回毎回三十分以上遅刻して来るでしょ!自分のこと棚に上げて不機嫌そうにむっつり無言で私に合わせもせず食べ進んで食べ終えたら私を騙すように屋上サッカーに消えて!卑怯なんだよ!」
「おまえは「教室に行く」って言った。だから俺は「飲み物買いに行く」って言った。あれは「ここからは別行動だよ」って意味だったんだよ」
「屁理屈言うなよ!「屋上にサッカーしに行く」って言わなかったんだから騙したも同然でしょ!?嘘吐いたも同然でしょ!?」
「おまえが勝手にそう捉えてるんじゃねえかよ。「教室で待ってるから来て」って言わないおまえの言葉が足んないんだよ」
「何!?又逆ギレ!?そう言ったら屋上に行かなかったの!?」
「……行かなかったよ」
「嘘吐けよ!私が遅刻したこと引き合いに出して絶対屋上に行ったんだよ!遅刻しなくても「飲み物買いに行く」って言って屋上に行ったんだよ!おまえはそういう人間なんだよ!」
「うっせえなあ!過ぎたことばっかネチネチネチネチ言いやがって。「会えれば幸せ」って言ったの誰だよ!」「それは、……」
 あの頃は本心からそう言った。でも、「でも、今は違う」と言ってしまったら元も子も無くなる。克子は口ごもる。
「ムカつく。切る」
「……」
 会えれば幸せ。
 それはお互い同じ学校の制服を着ていた高校生だったからだ。午前十時に待ち合わせて十八時遅くとも二十時前にはさよなら。六本木や西麻布はおろかそこかしこにチェーン店のある居酒屋やファミリーレストランにすら連れて行ってもらえない。車も無い。携帯電話も無い。気配りすら無い。もう、二十歳なのに。立派な大人なのに。全然違う。子供の頃テレビで視て激烈な憧憬を抱いていた二十歳と、全然違うじゃないか。でもそれを言ったら、彼が金を持っていないことに言い及んだら、関係が終焉を迎えてしまうから言えない。そんな理由で別れられない。結局そんな自身のエゴで松雄君と別れられないという事実に克子は気付けない。
「オッス。オラ松雄。ブルマちゃん久しぶり。元気?パフパフしてる?」
「ごめんなさい」
 口論で終了した通話の三十分後に松雄君から電話が掛かってくる。いつも通りだ。自責の念と御門違いな憤りがない交ぜになって克子は泣く。
「泣かなくていいよ。もういい加減許してよ。俺おんなじネタで何回も何回も謝らされて」
「許してるよ。でも、忘れられないの」
「忘れられない。ってことは許せてない。ってことなんだよ」
「だって地獄だったもん。なんで一人で食ってんの?松雄は?松雄は?って毎日訊かれて、毎日民部田が来て馬鹿騒ぎしてて。毎日机殴って泣いてたもん。何食べても全然美味しくなかったしすっごく、惨めだった。最後の昼休みぐらい一緒にいてほしかった。……、私が自殺しないで生きて来られたのはね、日記に記した「殺したい」の言葉が「死にたい」を数個を上回ってたからなのよ」
「そんな。俺はおまえの彼氏なんだよ?おまえをいじめた奴らとは違うんだよ?おまえは、愛されてるんだよ?傷付いてるのはおまえだけじゃない。毎日つまんないのもおまえだけじゃないんだよ。おまえ、みんな俺にぶつけるけど」
「でも」
「でもへちまもない。過去なんて過ぎたことはどうだっていいんだよ。前を向けよ。今を生きろよ。大事なのは今なんだ。これから良くなっていけばいいじゃないか」
「言うのは簡単だけど」
「変わるのも簡単なんだよ。自分次第だ。頑張ろう」
「うん」
 彼は何故こんなにも寛大なのだろう。人にも、自分にも。克子は自身の対局にある松雄君のそこに惚れ込みつつあやかれない。いっそ見棄ててくれれば楽になれるのに。許される度深遠な自己嫌悪に苦しむ。
―過去は変えられない。謝られたって言われた事実は消えない。私の傷は消えない。時が解決してくれるなんてまやかしだ。笑って許せる日なんて来ない。憎し、許すまじ。恨み晴らさでおくべきものか。復讐するは我にあり。燃えたぎる怨念と負の感情だけにK子は生かされていた―
 過去の日記を読み返し灰皿を吸い殻の山にする。眩暈に襲われ嘔吐する。涙が流れる。辛い。もう二度と会うこともない。言ったあいつらは忘れてる。そんなのわかってる。でも、後には引けない。手を真っ黒くさせながら鉛筆で迸る恨み辛みを原稿用紙に書き殴る。これを書き上げて作家に成るんだ。作家に成ってあんな男棄てて才能ある美青年と付き合うんだ。取り巻きを何人も侍らして着飾ってルイヴィトンやプラダの鞄をぶら下げて夜な夜な六本木や西麻布を闊歩するんだ。いや、だめだ。あることないこと言い触らされて松戸市内を歩けなくなる。週刊誌に売られる。金銭を要求される。自宅にも嫌がらせの電話が相次ぎ家族にも甚大な被害を与えられる。トーク番組のサプライズとして登場した松雄と中山にドリフターズのブーに瓜二つの写真まで披露されて過去を暴露される。それに、
「俺を棄てないでね」
 と言われて、
「棄てるわけないじゃない。こんなに好きだもん」
 と応えてしまったんだから自分からは、別れられない。自分の言葉に責任を持たない人間は大嫌いだ。克子は、言葉を愛しているのだ。だから書かずにおれないのだ。

「あー胸糞悪い!死ね!死ね!死ね!」
 新松戸駅で下車し地団駄踏んで駐輪所に向かいながら克子は顔を歪めて小声で呟く。蕨駅付近でデブ醜男にしつこくナンパされ振り切ったら、
「ヘッ、ブース!」
 と罵声を浴びせられたのだ。気を落ち着けるため深呼吸をし自販機でお茶を買って一気に飲み干す。ふと栄養成分表示を見ると4キロカロリーと書いてある。お茶は等しく0キロカロリーじゃなかったのか。クソッタレ。ムシャクシャする。どうや痩せたってブスなんだ。顔デカチビなんだ。中学二年の二学期炭水化物抜きダイエットを決行し即座に3キロ痩せたのに誰からも気付いてもらえずそんなことしても痩せるわけないバカじゃん気持ちわりいと米飯抜きの弁当を連日覗き込まれ取り上げられ回して見せられる外野の妨害に敗け敢えなく失敗に終わった際も大川らにそう言われた。毒食わば皿までとセブンイレブンに乗り込みブリトーとアメリカンドッグとポテトチップスとまるごとバナナを買い帰宅して早々親の仇を取るように次々と食い散らかす。食後に煙草を三本続けて吸っていると松雄君から電話が掛かってきたので克子は待ってましたとばかりに今日の出来事をぶちまける。
「今日蕨で中山みたいなデブ醜男がしつこくナンパして来てさ、無視したら「ヘッ、ブース!」って言いやがったの」
「ムカつくね」
「死んでほしいよね。と言うか、死にたくなるよね」
「そんなこと言うな。女は顔じゃない」
「そうだけど」
 そうじゃないだろ。正解は「おまえは可愛いよ」だろう。
「河合さんあの二人(同期入社の二人)とどっか行ったりしないの?」「しないねえ。私人と接するの苦手だから。学校でも友達居なかったから」「なんで?」
「いじめられてたから」
「え、うそ」
 克子の入社前に退社した同期の寮生による根も葉も無い悪評の流布、地元の仲間を使った暴力を楯になけなしの給金をせびられる恐喝……、自身のいじめ経験を語った流れで図らずも引き出した猿の過酷ないじめられ体験を教えた際も、
「弱いものがさらに弱いものを叩くんだよ」
 とザ・ブルーハーツの名曲の歌詞を引用したベタな切り返しをしてきた。そんなのおまえはブスだ、おまえは最弱者だと言っているも同然じゃないか。自分がそれを言ったらおしまいなのだということを松雄君はわかってくれない。克子は胸を掻き毟られる思いになる。
―K子は我儘が自身の最大の短所だと自覚しており他者に指摘されると腸が煮え繰り返った。どうにかして駆逐しなくてはならないと日々苦悩した。そして集団では常々己を殺した。媚びた。へつらった。おもねった。他人の一挙手一投足に気を配り、要求に応じ、猿回しの猿宛ら言いなりになった。結果、良い子だ良い人だと皆から言われ一見するところの明らかな成功を収めた。しかしK子は内心悲しくて堪らなかった。そんなもやもやしたやりきれない矛盾を抱えて暗鬱とした顔をしていると自分等がさんざんK子に卓球の素振りをしながらの教員の物真似や隠語をだみ声で連呼しながらのコサックダンスをさせてきた女達は他学級や他学年の人間が克子に同じことをさせようとすると「かわいそう」などとK子を擁護し「調子に乗んのやめな。今度やったら友達やめるよ」などとK子を詰るようになった。人様に迷惑かけて天下泰平の顔なんか出来ない。人様に侮蔑を受けて天下泰平の顔なんか出来ない。厭だ。我儘と言われるのは厭だ。厭だ。言いなりになるのも厭だ。笑いを取りたい。目立たなきゃ。でもやらされるのは恥辱。どいつもこいつも下手に出りゃ付け上がりやがって。交錯し荒れ狂う自我超自我エスに薄っぺらな偽善の仮面は引き剥がされ、どうしたいかと問われれば明確な答えも出せないくせに不平ばかりが口を衝くわがまますぎるK子を最後は皆が見棄てた―
 デブで、短足で、のろまで。克子は体育では1を付けられた経験もあるほど運動神経が悪い。しかし、多くの女子が疲れて歩き始める中最後まで全力で走り抜いた故、持久走のタイムだけは学級で真ん中ぐらいだった。それが仇となり中学三年生の駅伝大会は行事毎に体調を崩す通称イベント女が「足が痛い」と棄権したため急遽代役として駆り出された。各学級から選抜された俊足達に大きく後れを取りぼてぼてのろのろと赤い顔をして息を切らし走るデブの鈍足。それでも奇跡的に後ろに一人居り、歯を食い縛り、内臓が迫り上がるほどのラストスパートを掛けた。
「私ばっかりー!!やりたくねえよー!」
 そう絶叫する克子の手を引いて駅伝のスタートラインに並ばせた担任教師幸田は全校中の罵声みたいなエールを浴びて克子がビリから二番目でゴールした後のホームルームで言った。
「又河合さんに貧乏くじ引かせちゃいましたけどお、」
 と。
 このババア、人気者の美男子黒沢君が人の厭うことを引き受ける際は、
「困った時の黒沢君みたいに頼っちゃってますけどお、」
 と言ったのに。それが何故、何故、「河合さんのお陰で穴を開けずに済みました。しかも、一人抜いてくれました」
 と言わないのか。後日近所の噂好き親子の母親が
「かっちゃんビリじゃなかったわよ!」
 とわざわざ報せに来たとそういうことに全く関心の無いお母さんに聞かされ克子の怒髪は天を衝いた。国語で体育で学級文集で書かされた作文に憤怒の感情を剥き出しにぶつけ、暫くは誰とも挨拶も交わさなかった。
「なんで強い人に向かわないんですか!なんで克子とかY君みたいな弱い人に向かうんですか!」
 この人は弱者です。劣っている存在です。学級崩壊といじめが横行する教室で怒りに打ち震え嗚咽しながら幸田が絶叫した台詞。あんたがそれを言ってしまってどうする。失笑している者も居た。克子を始めとした見映えの悪い、鈍臭い、嫌と言えない「劣っている」生徒ばかりを自身の支配下に置いて見え透いたお為ごかしで言いくるめて、否、言いくるめられている気になって自分は正義だ。弱者を救済する女神だと自己満足に浸る傲慢で独善的な勘違いババア。良い子だね、優しいね、大人だね。その言葉を掛けた後例外無く、他の生徒が厭う恥ずかしい役や面倒なことの一切を幸田は克子に任じた。
「嫌なことは嫌って言いなよ!見てるこっちが嫌になるよ!」
 そう叱咤しつつ、
「やってくれるよね?」
 と高圧的な眼で克子の眼を覗き込みながら。
「やりたくありません」
 克子がはっきりそう言っても。否、やりたくないと言うとより意固地になって応援団や学級委員や駅伝をやらせた。結局あんたが一番私を見下してて一番私の弱さに付け込んでるんじゃないか。自己中心的が過ぎて生徒はおろか教員の間でも四面楚歌になってこいつなら意のままに動かせるって私にばっかり纏わりつくんじゃないか。一時は克子も、
「あんたなかの言いなりにはならない。助言も忠告も要らない」
 と反旗を翻したが即支配下へと出戻った。自分なんか一人では何にも出来ないと身を持って知っていたからそうせざるを得なかった。そして卒業してからも手紙をやり取りし近況報告をしに行った。担任に提出する生活記録で放課後の美術準備室で「死にたい」と「殺したい」ばかりを繰り返す克子を見棄てずあなたはつまらない人間じゃない、あなたにはセンスがある、パワーがある、レベルが高い。と多分に不確かで曖昧なけれどすてきに耳触りの良い言葉で迷う克子の背中を押して存在を肯定し続けてくれた幸田を見切ることが出来なかった。絶対的な服従と引き換えに、
「あなたはあなたのままでいい」
 と言ってくれる存在への依存を断ち切ることなど無力な克子に出来ようはずが無かった。
 昨夜の暴食で巨顔が更に浮腫んでいる。鼻の下には吹き出物も出現し、眼の下には青黒い隈が色濃く浮かび、否定しようの無いぐらいブスな己の容顔を鏡で確認した克子は又死にたくなる。自分程度の容姿は見る人によってはブスでデブだと自覚していれば間違いない。褒められた時心底嬉しい。彼氏が出来たら一途になれる。しかし裏を返せば実際ブス。デブ。と言われた際に最も傷付くレヴェルのモデルケースが正しく克子なのだ。変わりたい変わるためには先ずガリガリに痩せて別人にならなくてはいけない。でも、痩せられない。
 去年の冬、風邪をこじらせて4キロ痩せた。克子程度の体格の4キロはかなり違う。標準体重どころか美容体重をも2キロ下回りBMI指数もあと2キロほどで「痩せ」の部類というところまで痩せた。家族からも親戚からも職場のおじさんからも痩せたねえ、頬が削げた、ウエストが締まった、脚、めちゃくちゃ細い。大丈夫?と嬉しい言葉を掛けてもらえた。唯、一番気付いてほしい松雄君は気付いてくれなかった。それどころか、
「どこが痩せたんだよ!全然痩せてねえよ!胸がねえからだよ!」
 と凄まじい剣幕で罵り、共通の知人である同級生な女の名を挙げると、「あいつは痩せてる」
 と言うから私今あいつより身長3センチ高くて体重1キロ軽いよ。と比較対象にすると、
「いーや!あっちも今はダイエットしてもっと痩せてるかも知れない!おまえの方がデブだ!ずりいんだよ、人のこと引き合いに出して!おまえはデブなんだよ!デブ!デブ!」
 と半狂乱で否定された。しかもそこまで残酷な言葉を投げ掛けておいて蒸し返すと覚えておらず、諸々のストレスで見る見るうちにリバウンドした際は、
「デブったなー。痩せろよ」
 と蔑まれた。一応は標準なのに。パーマをかければ「ゴワゴワできたねえ」その不評を受け職場のおばさん達には可愛い、似合うと好評だったのに15センチほどばっさり切ったら「気付かなかった」佐藤真紀が肩口ほどの長さの髪をほんの2、3センチ切り揃えた時は気付いたのに。何を着てもどんな髪型をしても似合わない、変だ、ダサい、おばさんぽい。何をやっても否定、否定、ひたすら、否定。気付いてもくれず貶してばかりのあいつが悪い。愛憎を隔てる一枚の薄い紙が突き上げる憎悪で吹き飛ばされる。許せるはずなんか無い。今現在克子は松雄君が本気で憎い。
「毎月毎月サプリメントなんてくだらないものに何万もかけて無理な我慢したと思ったらケーキとかハンバーガーなんてバカ食いして。お金ドブに捨ててんのと一緒よ?普通の食事を普通に食べればいいのよ」
「わかってるよ。でも毎日ストレス溜まるんだからしょうがないんだよ」
 河合家の財政管理を一手に担うお母さんにも度々小言を言われる。元を質せばお母さんが私の欲しがるままに美味しい餌を与えたから痩せていて可愛かった私はデブになっていじめられたんじゃないか。お母さんが私を生んだからいけないんじゃないか。
「食べられるってことはほんとに悩んでないってことなのよ。ほんとに悩んでたら食べられなくなるもの」
 中学時代この人に浴びせられた刃のような一言も喚起される。辛い。死にたい。どうにもしんどくて克子は二日続けて会社を休んだ。
―理由なきいじめ。自分が気弱だから。不格好だから。不器用だから。だから何にも悪いことしてないのにいじめられてしまう。こんなに頑張ってるのにいじめられてしまう。生きてるだけでいじめられてしまう。そういう星の下に生まれたんだ。諸悪の根源は唯一つ、外部からのいじめ。なんて可哀想な私。いつもにもまして眠られぬ冬休み、いじめっ子達への憎悪が実に人の一人も殺してしまいかねないほどの頂点に達した時、K子は気付いてしまった。本当に許せないのは自分なのだ。と。サボってばかり行けば楯突いてばかりで発表会では電源を切って臨み退会する際は「あんなひどい子初めてです」と言わしめ母親もろとも悔し泣きさせたエレクトーンの先生。優しくて面白くてなんでも出来て皆から好かれていることが常々気に入らず原因不明の眼の充血をした際思い付くままあいつにやられたと無実の罪を着せた幼稚園の同級生ナカチナオヤ君。いじめっ子達に反撃出来ない鬱憤晴らしにヒステリックに暴言を浴びせ詫びれず仕舞いで離れたあの人やあの人。笑いを取りたいから。優位に立ちたいから。日頃の腹いせをしたいから。顧みれば傷付けた大勢の他者。何故自分は傷つけられてばかりいるのか?答えは他でも無い、自分が人を傷付けたからだ。大変だ。取り返しの付かないことをしてしまった。どうするか。死んで詫びる。それが最善。わかってはいる。わかってはいるけれど、まだ、死ねない。死ねと言われても、死ねない。夢。希望。何と身分不相応な感情よ。それがあるからは私は死ねない。人類に於いて最も恥ずべきは己を知らぬこと。しかし、知ってしまったが故に地獄の苦しみを味わわねばならなくなった。脳に木霊する他者への無数の怨嗟。それだけでなく押し潰されるような自責の念までをもギリシア神アトラスのごとく背負って生きなければならなくなった。私は過去に殺される。殺されるなら天に召されるその前に一花だけでも咲かせたい。そのためには変わらねばならない。人のため、己のため、過去のため、未来のため、私は変わろう―
 今の自分を変えるための原動力は蓄積された劣等感と過去への怨念ただそれだけだ。自分を許してしまったら自分を死の淵に追いやった重罪人のあいつらをも許すことになる。そんなの絶対に許されない。秩序と道徳の基盤が音を立てて崩れそれもろとも生きる指針も海の藻屑と消えてしまう。憎し許すまじ、他人も自分も。不寛容という名の免罪符を後生大事に胸に抱き生ぬるく浅い濁流の中克子は独りから回る。
「あらかっちゃん、久しぶり。やめちゃったのかと思ったよ」
 ラジオ体操が始まると禿頭小男の槙村が克子の側に来て皮肉を言う。おばさんにもおじさんにもお兄さんにも何も言えないのに。見た目と中味がこれほどにそぐう人間も珍しい。
「辞めませんよ。他に行くとこなんかありませんよ」
「とっとと結婚でもして辞めてくれよ」
「無理ですよ」
 若干二十歳で寿退職出来るほどの色気と手腕があったら天からこんな所で働いてはいない。どんなに自分がいけなくても言われたくない言葉は数多ある。屈伸をしながら克子は露骨に渋っ面になる。
「こんなに続けて。ちょっと異常じゃない?生理以外に何か原因があるんじゃないの?大きい病気にでもなってたら大変だから一度精密検査受けた方がいいんじゃない?」
「はあ。すみません」
 内藤さんにも憤怒を湛えた表情で諌められる。作業が始まれば縫製後の余り糸を切ろうとして生地まで切る。シーツを入れるズダ袋を段ボールに無造作に放り込み続け台車が動かせないほど積み込みすぎておじさん二人に救助してもらう。トイレ掃除で回収した汚物を焼却炉に棄てる際扉の開閉に手こずって全身煤だらけで現場に戻り商品に付着させてだめにする。一日中方々から一身に浴びる馬鹿、馬鹿、馬鹿の集中砲火。学校時代と何ら変わらない。情けなさと羞恥に泣きそうな顔をしてすみませんを繰り返しながらここでも底辺を獲得出来た変わらない自分に心中密かに安堵しほくそえむ邪悪な克子が居た。
―学校では道化として求められる一瞬のために心血を注ぎ家に帰れば寝食だけの木偶の坊を決め込む無気力な生活。それこそが、安泰。変わってるから。どじでのろまでぼけてるから。ばかだから。笑われて貶されて足蹴にされてただ廊下を歩いているだけでも名も知らぬ下級生からまで「気持ちわりい」と避けられる屈辱をへらへら笑って耐え切れば鬼ごっこの「みそ」のように見下されることと引き換えの責任放棄をさせてもらえた。あんたはやらなくていいよって言ってもらえた。K子はずっとそうして生きてきた。それは、何にも出来ないK子が知らず知らずに身に付けた、身に付けてしまった破壊的で退廃的な処世術だった―
 数行書いて鉛筆を机に置き、煙草を吸った後大きく溜め息を吐く。克子は書くことを面倒臭くて虚しいと感じ始めていた。連綿と綴られるデブブス死ねの俗悪なリフレイン。残虐な暴力も金品の恐喝も登場しないちんけないじめ手記。こんなの誰からも見向きもされない。何の波乱も変哲も無い半生を歩んできた無知で無学な小娘の雑記。そんなの面白いはずが無い。明日からは又あのクソツボでブスとババアとヒヒジジイに不快な思いをさせられる。生きていたくない。死にたい。馘にしてはくれまいか。自主退職は親が許してくれないから。出てけと言われるから。やめたい。あんな所に居たくない。日曜朝刊の折り込み広告。店頭に貼られたポスター。募集をしていても採用してもらえるかなど分からない。否、低偏差値高校卒で何の資格も能力も持たない二十歳を超えてしまった自分など採用してもらえるはずが無い。あのクソツボですらまともには勤まらないポンコツが他所で勤まるわけが無い。嫌だ。嫌だ。逃げ出したい。脱け出すには死ぬしかない。死にたい。惰性にしちまえばこっちのもんだと踏んでいたが、その漫然たる惰性の日々が克子はどうにもしんどくて堪らなくなっていた。
「これ、あたしの携帯番号。気が向いたらいつでもかけてよ。重く考えないで」
「ああ、どうも」
 克子が喫煙所で二本目の煙草に火を点けると恭子が小さな女の子らしい文字で電話番号の書かれたミッキーマウスの可愛らしいメモ帳を手渡してきたので目の前で財布にしまった。その後は昼休み終了間際まで女子高生の最近のルーズソックスはもはや雑巾のようだとかチョベリバって全然流行ってないよねとかマクドナルドのてりやきって甘過ぎるよねやっぱモスだよねとか安室奈美恵の小顔と華奢な体形は羨ましすぎるよねなどと自然に談笑した。やはり同世代の仲間と遊び歩いている子との会話は楽しい。刺激がある。高校時分三枚目役として求められるまま所謂コギャルグループと同じ班になった際は突っ込みの厳しさに疲弊し有名無名問わない人の噂話と批判に辟易し徐々に遠ざかって離れたけれど、恭子は誰も傷付けない。何処と無く、中学時代大川に受けていた苛烈ないじめから克子を庇護してくれていた珠ちゃんに似ている。
「恭子と克子仲良いな。漫才コンビ組んでテレビ出ろよ。ミニスカート穿いて。俺らも応援しに行くよ」
「じゃあ、生放送でズロースの真ん中に「タマボウ命」って書いて御開帳しなくちゃですね。腹話術みたいに下の口で喋って。これがほんとのザ・マン才!なんつって!」
「ヤダー!」
 恭子が克子の肩をバシバシと叩いて笑い、
「あーあ、しょうがねえなあ、かっちゃんはバカばっかり言って。でも人の悪口よりはましだよな」
 ひとしきり笑った後で下品な大デブおばさんの池沼さんが言う。そう、悪口よりはまし、悪口よりはまし。皆本当は悪口なんか言いたくないんだ。世の中良い人の方が多いんだ。目出度いと嗤われても克子は根底ではそう信じている。
「恭子ちゃん?良い子じゃない?見た目はツッパリっぽいけど」
 現場で恭子の話題を提示すると若い人が好きな池沼さんはそう言い、
「しっかりしてるよ。見かけによらず」
 かつて独身寮で共に生活していた恵美子でさえ肯定的な言葉を発した。もう立派な社会人同士、ましてや同じ会社の人ならば或いは安心か。友達。小中学生時分は「友達になろう」と優しい風を装い接近してきた女達が皆例外無く克子を隷属させ蹂躙し愚弄し陥穽に陥れる人物ばかりであった故友達は作らない主義だと公言するようになっていたが大人になった今なら存外善きものなのかも知れない。頑なな克子の信念が少し揺らいだ。
「河合さん、荷札の記号/じゃなくて、‐。さっきトイレ行くとき見て、呆れてしまった」
「はあ、すみません」
 先日は何故「0」を下から書くのか教わんなかったのかと追及された恵美子から今度はハイフンの角度にいちゃもんを付けられる。克子は‐と書いたつもりだったのだが。小学生時分から克子の字は「読めない」と評されることが多かった。その都度文豪は皆悪筆だった字が下手な子は頭が良いのよと宛名書きの内職をしていた達筆なお母さんも言っていたなどと根も葉もない俗説をつい脳裡に浮上させてしまうが単純に書き順が滅茶苦茶で下手で雑なのだ。教わったはずなのに。そう言われてもちゃんと聞いていなかったのだから出来ようはずが無い。やりたくないやりたくないもんと扁桃体が外界からの教授の声を遮断してしまう。阿呆面下げておろおろしていればしょうがねえなあと見かねた誰かがやってくれる。良いんだ。その代わり誰もが厭う求められてすらいない規格外の恥辱と顰蹙は全部買って出てきたんだ。どこからも爪弾きにされる嫌われ者とばかり組まされて行動を共にさせられてたんだ。底辺の受け皿になってやってきたんだ。開き直って克子は他力に頼る。ふつうのことが出来るようになって、一員にされてしまう窮地から血相を変えて逃げ回る。

 盆休み二日目克子はお母さんと久方ぶりに池袋に買い物に来た。オレンジ色のキャミソールワンピースに白いエナメルの12センチピンヒール。ナンパとスカウトが次から次に千葉や埼玉よりも短い間隔で克子に声を掛ける。中には芸能プロダクションを騙る者も居た。私は都心の繁華街でも通用する女なんだ。確認出来た。足を延ばして良かった。気分良くすまし顔でサンシャイン通りを闊歩していると前方より聞き覚えのある嬌声が聞こえてきた。髪の毛の茶色い肌の黒い男に取り巻かれ女王然としている長身痩躯の巻き髪のきらびやかな美女の嫌でも忘れない顔を見て克子は固まった。及川さやかだった。
「ヤダー!かっちゃんなんでそんなカッコしてんのー!?かっちゃんじゃないみたーい!社会人デビュー?道間違っちゃったあ?」
 踵の平らなビーチサンダルを履いていても12センチヒールを履いた克子より僅かに高い目線から及川が克子のミニワンピースの裾をぺらと捲りアッハッハと大声で笑い、克子の知らない男達も及川に付和雷同するように奇声を上げ手を叩きけたたましく笑う。体育の着替えの際克子が男子生徒の間で噂になるほどのどぎつくえげつない素材と色調の下着を見せびらかして女の子達の歓声を浴び得意満面でいると割って入ってきたこの女に、
「かっちゃん、ほらこれ見てっ。にく!にく!」
 と胃の肉を摘ままれ軽く揺さぶられた恥辱が一連の言動からまざまざと喚起される。克子が顔よりも二の腕よりも太股よりも過剰な肉付きを最も気にしている腹。指摘されたことはあれど、実際摘ままれたのは後にも先にもその一度だけだ。摘ままれて平たく潰れた白い脂肪の塊。皆の哄笑。この女の指の圧力と微かな痛みが克子の脳裡にいっぺんに鮮明に甦る。
「かっちゃん超脚細ーい!スタイルいいよねー!あたしもダイエットしなきゃなあーッ」
 その数日後今度は男子生徒達の前で誰がどう見ても痩せているこの女に何の前触れもなく囃され失笑に包まれた恥辱も連続して甦る。克子は泣きたくなった。
「か、仮想したんだ……私、ママちゃんとデイト中だから。じゃあ」
 居たたまれなくなり顔を下に向けて駅方面に踵を返した。
「まア、がんばってねーッ!」
 克子の背後に松雄君と付き合い始めた時とそっくり同じ口振りで同じ女が叫ぶ声が聞こえた。雑踏の中から時折聞こえる笑い声の全てが自分に向けられている妄想に憑りつかれ、お母さんを置き去りにして逃げるように池袋から松戸に帰った。
「今日、池袋で松雄君の大好きな及川に遇っちゃったの」
「ふーん。って言うか好きじゃねえし。顔も忘れたよ。どうでもいいよ」「なんでそんなカッコしてんのーって爆笑されちゃった。引き連れてたホストみたいな気持ち悪い男達にまで笑われた。もう私恥ずかしくてお母さんとはぐれてたんだけど先に一人で帰っちゃった。悲しいよね」
「気にすんなよ。そいつらがバカなんだから」
「あんただって私を馬鹿にしてんでしょ?卒業アルバムのあの醜い写真見てクソ豚と一緒に笑い転げてたんでしょ?ま、私もあんたのビリビリに破かれた熱烈ラブレタア繋ぎ合わせて読み上げて爆笑したけどね。「まきさん、で良いんですよね?まさのりさん、じゃ男ですもんね。最近手紙を入れてくれないので風邪でも引いたのかと心配しました。略。俺も真紀さんのことが好きになりそうです。真紀さんが直接俺に好きだと言ってくれる日を楽しみに待ってこの手紙を入れておきます。山田松雄」おえー!きもちわりー!あれ、狙って書いたんでしょ?最高傑作だよね!復元して保管しとけば良かったねー!」
「おまえ、それは言っちゃまずいだろ。今の話に関係ねえし」
「だって、佐藤のことも「ちょっと好きだった」って言ってたじゃん。及川に遭ったら芋蔓式に思い出しちゃったんだよ。あんた、あっちでチャラチャラこっちでチャラチャラ色んな女と仲良くしてたじゃん。なんで?可愛いから?何も知らなかった罪の無い私のことは筋違いに恨んでたのに。でもやっぱりあの手紙佐藤が書いたんじゃないかって一縷の望みが棄てらんなかった?「最近手紙を入れてくれないから風邪でも引いたのかと心配しました。それとも俺のことキライになったのかな?」キライが何故かカタカナ。気持ちわりいー!松雄君って皆から嫌われてたんでしょー?大学の友達や中学の同級生が知ったらどう思うかねー?私乗り込んでってバラしちゃおっかなあ!拡声器で!あんたと中山が克子は面白がって見せびらかした私のあの醜い卒業アルバムも持参して!誰からも洟も掛けらんないゲテモノ同士お似合いじゃんって拍手喝采してもらえるかもよ!」
「おまえさ、言って良いことと悪いことがあるだろ。謝れ」
「謝んねえよ。おまえだって言っちゃいけないけと言いまくって私を傷付けてんじゃねえかよ」
 松雄君は謝れば「よし」と許してくれる。何時も。如何なる場合でも。でも今夜は謝って済ませたくなかった。私は一筋縄ではいかない女なのよ。彼氏なら全て受け止めてよ。そのぐらいはしてくれてめ良いはずでしょう?世間の、ふつうの男がしてくれることを何一つとしてしてくれないんだから。堰を切ったように克子は続けた。
「俺今おまえのこと「殺したい」と思ったよ、マジで。俺があの時どれだけ恥かいたと思ってんだよ。学校辞めようとまで思い詰めたんだぜ?死ねるもんなら死にたいぐらいだったよ。おまえには人の痛みがわかんないのか。わかんないよな、面白がってたんだから」
 何を甘いことを。たった一回こっきりの悪戯被害で。私は何年間にも渡っていじめられてばっかりでそれでも死なずに学校へ通ったんだ。毎日、毎日。松雄君はわかってくれていない。二年も付き合ってるのに。一番、否、唯一わかってほしい他人なのに。覚悟しろ。わかれ。それが出来ないのならとっとと棄てろ。克子の胸に蟠る積もり積もった自他への憎悪がまっしぐらに理不尽に松雄君一人に向かう。
「わかんないよ。私だって幾度となくそう思ったよ。バイト掛け持ちするからおまえには会えないって電話切った直後に中学時代の仲良い女友達と会って、その一週間後に又その面子で呑んで、こっちの都合も考えずいきなり深夜に明日会うって電話してきて、当日は二日酔いで手抜きの前戯で発射したら気持ち悪いって横になって顔覗きこんだりしてたら「うるさいなー!眠らせろよ!」って理不尽にキレて。ホテル代1円も払わないでビートたけしの1000円以上もするくだらない本買って。財布無くしたから改札出れないって嘘の電話で船橋に呼び出してその時もホテル代全額払わせて帰り駅のホームで私が「つまんない」って呟いたらその後の電話で「今日はつまんねえとかホザき出して超不愉快だった」とか逆ギレして。あんたの方がよっぽど酷いこと言ったりしたりしたじゃん。兄さんもびっくりしてたよ!」
「又その話かよ。俺が悪いって何回も謝ったじゃん。一回言えばわかるのにしつこいんだよ。兄さん兄さんってなんで何でもかんでもお兄さんにチクるんだよ。付き合ってるから言えることだってあるのにおまえはお兄さんとも付き合ってんのかよ。大体、悪くないのに謝るおまえが悪いんだよ。おまえいつも俺のせいにばっかりするけど。おまえだって悪いんだよ。卑怯なんだよ」
「そんな言い草無いでしょ!?悪いのは百パーセント加害者なんだよ!明らかにおまえが間違ってんのに何で私が責められるんだよ!一回言えばわかるって全然わかってなかったじゃん。「やだ」って言ってんのにやめるどころか余計に酷いこと言ったじゃん。「デブって言われて傷付いてんならなんで痩せないんだよ?」って、大川と同じこと言ったじゃん!痩せても気付いてくれないでデブデブ言ったじゃん!何で用も無いのに家に来るの?喜んでるとでも思ってるの?こっちの都合全然考えないで。迷惑だから家には来ないでよ!」
「いい加減にしろよ。迷惑なのはこっちだよ。俺だって悩み無いわけじゃないのに一方的に愚痴ばっかりボンボンボンボン。おまえだって俺の気持ちなんかこれっぽっちも考えてやしないじゃないか。俺にだって我慢の限界があるんだぞ」
「じゃあ限界まで耐えてよ。私を傷付けたんだから償ってよ」
「それはあと何年、何百回続くの」「さあ。私の傷が完全に癒える時までじゃない?」
「それはいつになるの」
「そんなのわかんないよ。わかるわけないじゃん」
 何年何百回彼を責め続けたところで癒せるはずなど無い。それだけは克子にもわかっていた。
「俺、もう限界だよ」
「ああ、そう」
 そのまま電話は切られた。
 何時もは三十分後に掛け直してくれる電話が無い。三日経っても。一週間経っても。優しいだけが取り柄だと思い込みながら一年以上も付き合ったけど実際は優しくさえなかった弱くて卑小な雑魚醜男のように自然消滅を狙うのか。放置されて二ヶ月が経過したバレンタインデーに克子から電話を掛けその計画はおじゃんにしてやったが。それは絶対にしないと約束したのに。付き合い始めて一ヶ月、煙草を止められない自己嫌悪から克子が初めて泣いた日「結婚しよう」と言ってくれたのに。お母さんも山ちゃんは?と心配し始める。自分からは電話出来ない。眠られぬ日々が克子を苛んだ。
 台風が関東地方を直撃する。最寄りの駅までじめじめとした人いきれの充満するバスに乗らなくてはいけない。武蔵野線はきっと止まる。老朽化した工場は又そこかしこで雨漏りを起こす。恵美子とモップ掛けに駆り出される。そこで又、そっちやってもしょうがないでしょー!バケツこんなとこに置いたら危ないでしょー!ナニヤッテンノー!ナニヤッテンノー!とどやしつけられ皆に笑われる。頭痛がする。気持ち悪い。こんな日に会社に行かない方が良い。前回の当日欠勤から二週間と空けずに又克子は体調不良を理由に会社を休んだ。
「ブスちゃんも内藤さんも凄い怒ってんだろうね。明日大騒ぎされるだろうね」
「うるさいなー。知らねえよ。私なんか居なくたって会社は痛くも痒くもないんだよ。私なんか居ない方が世のため人のためになるんだよ」
 黙ってろ。自由気ままに遊び歩く専業主婦のあんたに何がわかる。子供二人が私立の学校に入学して肉屋のパートを始めたなんて真っ赤な嘘だ。朝でも昼でも何時も居る。初めから産むな。母に神経を逆撫でされ克子が再び寝床に戻ってうだうだしていると不意打ちで父が帰ってきた。強風でバイクが転倒し手首を負傷したらしい。
「克子!何でおまえが居るんだ!ずる休みか!」
「ずる休みじゃねえよ」
 ずるも同然だった。でも身体も心も言うことを聞いてくれなかった。父はこんな日でも朝の四時に起きて仕事に向かったのに。語尾が消え入りそうになった。
「台風来るからめんどくさくてずる休みしたんだろ!「やめたい」って言わなくなって安心してたらずる休みなんかしてたのか!倫子も何で休ませるんだ!」
「しょうがないじゃない。具合悪いんだから」
 お母さんが力なく答える。中学校三年の二学期、高校の推薦が取れるかどうかを決定する大切な期末試験も克子は緊張による体調不良で欠席した。大幅に改竄した成績を高校側に送ることで推薦は取り消されなかった。その時両親がしていたのと同じ会話が今、二十歳になった克子の目前で交わされている。
「馘になったらどうすんだ!こんな時代におまえなんかを置いといてくれる会社他には無いんだぞ!何でおまえはそれが分からないんだ!」
「わかってるよ。たまには休まなきゃ続けらんないんだよ。私だって色々あるんだよ」
「何が色々だ!何の苦労もしたことのねえ実家住まいの寄生虫が!何時まで親を頼りにしてここに居座る気なんだ!俺も倫子も何時までも生きてないんだぞ!大体この狭いウサギ小屋に大人四人は収容しきれないんだよ。来年は剛も帰ってくる。会社の近くにアパートでも借りておまえが出てけ!皆そうしてるだろ!一人で生きてみろ!女が一人で生きていくことがどれだけ大変か身をもって学んでみろ!」
「うるせえなあ!そのうち出てくよ!」
「手は捻るし娘はずる休み。あー、俺、もう働きたくねえ!克子、俺と倫子を養ってくれ。今まで育ててやったんだから当たり前だよな?」
「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ。出来るわけがねえだろ」
 生まれてきたくなんかなかった。あんなところで働きたくない。私を蔑む父が悪い。甘やかした母が悪い。貧乏で褒めてくれない彼氏が悪い。ブスが悪い、ババアが悪い、ヒヒジジイが悪い。皆死ね。死ね死ね死ね。否、死んでくれても根本的な解決にはならない。やはり自分が死にたい。死にたい。死にたい。いじめられてたから、バカにされてるから。そんなのは言い訳にならない。責任転嫁だってわかってる。でももう二十年も生きちゃったから変われない。結局克子は変わるのが怖い。おまえが甘やかすから。あなたが怒らせるようなこと言うから。しょうがないのよ、克子は弱いのよ。両親の口論が耳に入らぬよう克子はタオルケットを被って蹲った。
 台風一過で朝から気温が三十二度を記録し夕刻になっても尚金色の太陽がギラギラと照り付けるその日克子は新しい世界に足を踏み入れる覚悟をしていた。妬かせてやる。私だけ嫉妬に苦しんでるなんて不公平だ。カッコ良かったらヤられてやる。それであの男に棄てられたら棄てられたでもう良い。私を褒めてくれてるというその男に乗り換えれば良いんだ。褒めてくれなくなったら又褒めてくれる別の人。文壇の男衆の名前を次々指差して寝た。寝た。寝ない。寝た。寝た。寝た。作家は奔放に色恋をすべきなんだ。どうせもう二人の男と同衾した綺麗ではない躰なんだ。欲しがる男が居るうちに惜しみ無くもれなくくれてやればそれこそ慈愛に満ち溢れた聖母のような心持ちで日々を送れるようになるかも知れない。そのヤりたいだけが目的の男達からさえ見棄てられたらオナニーすればいい。そもそも人生なんか他者の介在するオナニーみたいなもんじゃないか。終業後気付けに缶チューハイを飲んで恭子の携帯電話番号が書かれたメモを財布から抜き出し、掛けた。
『電波の届かない場所に居ます』
 耳元に流れる無機質なガイダンスを聞いた克子は受話器を置いてどっと汗ね噴き出す身体で電話ボックスにへたり込みフフッ、と乾いた笑い声を漏らした後さめざめと泣いた。
―「生まれること」は即ち「生むこと」K子はそう考える。不出来さに対し悲嘆にくれながらも僅かばかりの利点は手放しで褒めそやし、無条件に慈しむ。時に殺めたい程に嫌悪しても、やはり溺愛している。大成しようが堕落しようが、切り離すことの出来ない絆が存在する。逃れられない。生涯を見届けなければいけない。K子は謂わば不肖の子を育てているのだ。御託を並べつつ挑戦をしない怠惰で不甲斐ない分身を。もう、後には引けない。誰のせいでもない。全て自分の責任だ。全て自分が築き上げたんだ。幾度となく殺されそうになりながら死に物狂いで確立した私のアイデンティティ。一生全力で守り抜くんだ。自分以上に自分を愛してくれる男など現れないかも知れない。良かろう。その分自分が愛してやろう。改心してくれる日が来るのを信じて。人間は皆独りだ。自分と、誰よりも誰よりも愛する自分と、一蓮托生だ―
 私は雑草。踏まれた麦。笑わば笑え。今に見ておれ。エレクトーンも逆上がりもクロールも数学も洋裁も友人も自分の人生には不要だ。そう見なしたから克子はぜんぶ、できないまんま放り投げてきた。作家は何をやってもだめな人間が行き着く職業なんだ。自分は作家に成る人間なんだ。だからそんなものはできなくていいんだ。元より今更できっこないんだ。克子は執筆に打ち込むことで松雄君に会わず通話もしない空虚を埋めた。日記を繰る、辞書を繰る、活字で桝目が満たされていく。乱れた精神が束の間安定する。言えなかったことが吐露出来わからなかったことがわかって来、充足感に満たされ万能感まで沸き上がる。生きていて良かったと思える瞬間さえ訪れる。克子はやはり、書きたいのだ。
 アイロン課の草間さんの送別会を兼ねた暑気払いが開催され克子がトイレから帰ってくる際わざと転倒したりカラオケでおばさんらに抱きついてキスをする振りをしたりビール瓶でフェラチオの真似をしたりしながら「金太」という人物がまたたいた、まわった、まけが多い、など主人公の名前と行動や出来事の初めの一文字を組み合わせると必ず「キンタマ」に成る放送禁止猥歌の金字塔を熱唱するとおばさんおじさんは流石克子ちゃーん!と拍手喝采で狂喜し恵美子も破顔し「キンタマシナビル(カワイソウニー)」の歌詞がモニターに表示された際は、
「カワイソウダナッ」
 と小声で呟いて喜んでいた。大立ち回りを演じた宴会終了後前後不覚に酔って千鳥足になる克子に木田さんと真美子さんが肩を貸してくれ、酒を飲まない内藤さんが車で自宅まで送り届けてくれた。自宅に到着するなり上がり框に嘔吐し母に泣かれた。
「おはようございますっ、金太さーん!」
「かっちゃん、ちゃんと帰れたかあ?」
「河合さんスゴイ歌歌うんだね。家帰ったら真美子が喜んで歌ってたよ」「へえッ、すみませんでしたっ。家に着くなりゲロまみれでしたっ」
「しょうがねえなあ。かっちゃん、あのタマの歌恵美子んちのお隣さんに聞かせてやれよ」
「お隣さん?」
「隣の部屋に住んでる男の人と彼女がアンアンオンオン凄い声で発声練習してんだよ。私は興味ないんだけど始まっと何時も真美子が壁に耳くっつけて喜んで聞いてる」
「ワハハ!私も御一緒したいですね!弁当持参で!対抗してうちの父ちゃんが視てる洋物エロビデオ大音量で流してやりますかね!オーイエース、カムカアーム、オーウダアーリイン!って」
「ハハハ!かっちゃんも一緒になって見てんのか!だからエッチ博士になたたんだな!英才教育だな!」
 全力投球で醜態を晒した怪我の功名で克子はおばさんと真美子さんを介して恵美子とも普通の会話が出来るようになった。下ネタ、芸能ゴシップ。皆笑う。笑って終わる。ワンパターンの低レヴェルな会話。でも、悪口よりはましだ。慣れか、恵美子と組み始めた当初は病気のような頻度で発生したあくびも人並みの頻度になった。噛み殺してやり過ごせる。それに準じて前頭葉も少しまともに機能し始めたか平台車が無くなれば倉庫に取りに行きガムテープが無くなれば事務所に貰いに行き箱に補充し何も言われなくともボサーと突っ立ってること。も少なくなった。皆良い人。皆良い人。悪いのは何時だってどじでのろまで不器用な自分。文句言ったら罰が当たる。克子もそれをわかってはいる。わかってはいるけどこんな奴らそんな言い方と邪な自尊心が障壁となり心中で反発してしまう。自己嫌悪に陥りつつなかなか治せない。馬鹿は御互い様欠陥だらけの不適合なのも御互い様なんだよと治す素振りも見せない。
「恭子ちゃん、警察捕まったってよ」「えっ」
 同じ卓で食事をしている槙村さんに聞かされ、狼狽した克子は味噌汁の椀を倒した。男友達数人と暴行傷害事件を起こしたらしい。逮捕時恭子は開襟ブラウスにリボン、チェックのスカートにルーズソックスの制服擬きを着用していたそうだ。あの日電話が繋がったら自分もその場に居合わせ巻き添えを喰らっていたかも知れない。十代からの日常的な喫煙とごくごくたまの飲酒以外これと言った悪行など全くしないで生きてきたのに。正社員として就職出来深夜に帰宅することすらなく親を安心はさせられているのに。克子は粟立った。川口市の十九歳の工員の少女。あたしまだ十九。遅生まれなんだ。恭子はそう言っていた。命拾いしたな。恭子に対する微かな同情も感じた。
 終業後、克子は更衣室に置かれた姿見に映る己のずんぐりした体躯と平面的なデカい顔面を具に観察した。カッコ悪い。冴えない。良いじゃないか。刑務所仕様のダッサい作業着板につき、ほんとによく似合ってる。
 わかってた。
 何時だって何処でだって、容姿相応の地味で垢抜けない何処か田舎風な風体こそが何の取り柄も無い役立たずの克子が周囲からの好感を集める大きな要素になっていたのだ。その色気も男っ気も無い野暮ったさで存在を容認してもらえていたのだ。わかってる。克子に本当に似合っているのはそっちなのだ。でも恋人の存在が出来変身願望と承認欲求を手軽に充たせる快感を覚えてしまった今は色んな部分を底上げして派手に着飾らなければ生きた心地がしない。良いんだ、何ら変わっちゃいないんだから。地味で真面目で、暗くて弱くてつまんない自分のままなんだから。ちょっと考えればわかることに気付かず手間取ってへまをして教えてもらったこと頼まれたことを三歩歩くと忘れてバカだボケだナニヤッテンダショウガネエナと蔑まれ笑われて。どんな服を着て何処で何をしてたって私は私。きっと一生変わらない。今日という日が終わっても又別の朝がやって来る。毎日毎日同じことを繰り返す。もう二十歳。だからなんだ。二十の次は二十一。それがどうした。然るべきその日が来るまで私はここに居るしかないんだ。他に行くところなんか無いんだ。皆が辞めるからとにかくここから脱け出したいからと巣だった娘達の大半は一ヶ月足らずでリタイヤして田舎に逃げ帰ったと多分に正確な風の噂で以て聞いた。私は逃げない。逃げたりしない。逃げても現状は打破出来ない。二十年も生きてされは身を持って学んだ。逃げ道ではない活路を切り拓くんだ。書くんだ。書いて書き上げて作家に成って脱出するんだ。道は、それしか無いんだ。
 そうやって甚だしい勘違いをしたまま身の程知らずな願望を核弾頭のように抱えて間違った方間違った方へと進む克子の人生は続いて行く。
 日が短くなった。薄暗がりから鈴虫の声が微かに聞こえる。清涼な風に弄られ素足の足首がひんやりと冷える。秋だ。
「気付けよ」
 蕨駅に到着し階段を上ると、改札を抜けたところで後頭部をぺしりと叩かれた。振り返ると長袖シャツの袖を捲った松雄君が立っていた。
「ああ」
 電車賃往復1000円以上かかるじゃない。
 溢れた涙を手の甲で拭い嗚咽を堪えながら克子はそんなことを考えた。

克子二十歳(かつこにじっさい)

克子二十歳(かつこにじっさい)

人生は糞。自分は芥。だけど夢を見ずには生きられない。身の程知らずな願望を抱きもがき苦しむ二十歳の娘の愚かで痛くて滑稽な青春プロレタリア小説。

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