快活の哀しみ(1)

尾川喜三太 作

第一章 田園の憂鬱

 事件は平成元年にまで溯らねばならない。
 市立第五小は、市内に数ある学舎のなかでも殊に小さく、数字を冠せられていながら分校のような扱いをされていた。通りふたつと隔てぬところには鄙に雙びなきマンモス校、第三小が控えているだけこの観は余計強められた。全校生徒百十余名、男子八人女子七人の五年生に於いて、越賀東洋は文武兼道のちょっとした餓鬼大将だつた。
 この手の餓鬼大将がやがて中学入学と同時に零落してゆくのは見やすい道理である。六年間、彼等は親戚付き合いにも似た畛畦のない交流を続ける。ところがこんな隣家の晩飯の菜まで膾炙される交流が今度はどこにも見出されず、他人との距離感をとり倦ねた彼等は小さく輪になり、しばし漂う浮輪となつてこの荒波をやり過ごす。やがてその寡黙、その質朴が強調され、それと知らぬ間に彼等は優等生になつている……
 だがこの臨時傭いの、いつまでも馴染まぬ割烹着のような餓鬼大将を御役御免になることは、東洋とて何の異存もなかつた。むしろ愉快なくらいだ。
 恐らく倍の人數がをればもつと首領然とした人物も現れように、やや影のある東洋にその役が押し付けられたところに、この学年特有の色があつた。彼の快活とそれと反對な考え深さは彼が思う以上に同級生たちを蝕んでいた。
 それは梅霖の予感を孕んだ春夏の交で、大形に身体を揺すつた学校の楠は、然しながらこの予感に身を蘸し、緑陰は光の雨を降らせた。
「ええ、いよいよこの季節がやつて参りました」
 新任の富田先生は、この教室に黴のように蔓延つていた沈黙を言下に蹴散らして了つた。ちょっと麁造な神経の持ち主である彼女は、はじめから妊婦のような身体をしていた。
「明日はみんな待ちに待つた、ドッジボール大会です。体育の時間もフルに使つてこの日に備えて来たんですから、存分に成果を見せてやりましょう」
 三年生からこの学年の受け持ちになつた彼女は実際、行事の評判をよく知らない。T市内の学童保育所が一堂に会する任意団体主催の大会に、なぜか第五小から五年生チームを派出する習いで、生徒間では通過儀礼のように風評される。あまりいい風評は聴かない。コテンパンにされるとも聴く。先日の愉しかるべき林間学校もこれあるがためにみんなどこか上の空で、却々心楽しまなかつたくらいだ。
 生憎と三階の教室からは、第三小のグラウンドの一角が、町工場の黔突ごしにちらりと見える。その一角に、今しも昼放課になつた生徒たちが波打際の漂流物よろしく渦を巻いて殺到し、訳のわからぬ遊びをはじめた。その思わせぶりなスリットが全貌の想起へと彼等を駆り、吶喊の聲だけが物越に雲霞のごとく立ち騰つている。ために窓外の長閑な景色は、少しばかり歪んでさえ見えた。

 翌朝、眠り覚めやらぬ憂鬱な窓辺が冴々と白みそめるのを、否が応にも瞼の裏に感じた。この晴天が彼等には当付けがましい。日半ばにして降り出す気配もない。
 小真木原公園には瓢箪池があるが、藺草の群落がこれをぐるりと擁してをり、辛うじて瞥見される池心にはひこばえのような慈姑が水面に秀でている。藤葛の柵んだ東屋には転たあるまでの蜂が群がり、二面にわかれた青い砂地には早くもコートの白線が縦横に引かれていた。この広場はもとゲートボール用に開放されていたため起伏に乏しく、おが屑をさらに粉微塵にした・歯の浮くような・よそよそしい踏み心地がした。
 恁う所狭きまでコートが引かれては、リーグ戦が消化されるのも時間の問題である。第一試合の呼子が鳴ると、広場はたちまち殺伐とした空気に包まれた。誰もがブラインドで白線ギリギリを踏み込み、砂煙をあげる。とても我々の知るドッジボールと同じものだとは思われない。加之第五小チームはコートの長辺を央に、次の対戦チームと対峙する形で体育座りをさせられていたが、ボールが逸れて、或る女子の足許に転がつた。拾い上げた彼女の顔は、崩れ落ちるように青褪めた。
『あゝ、やっぱりあのボール、めちゃに硬いんだろう』
 東洋はこれを横目に眺めて、独語ちた。『それに下手すると、キーパーが至近距離からのシュートを顔面キャッチするくらいの衝撃と恐怖感がある』
 向かい側には、第三小校区の学童保育『青空倶楽部』の面々が不機嫌そうな顔を並べていた。不均整な面輪と色の浅黒さが彼らの共通項で、電線の上の烏よろしく居並んださまは、難民街頭の物乞いの狡智を、剥き出しの脛は、異様に黒く、細瑾を集めて焠がれた劍の冷やかさを示している。これら烏どもの藪睨みに、第五小一同すッかり機先を制せられていた。
 なかんずく東洋は両膝のあいだに顔を埋め、痙攣的に肩を震わせていたが、隣にいた今城だけがこれを見咎めた。東洋はただ、笑つていたのだ。
「どしたのトーヨー、なにがそんなに可笑しい?」
「いや、だってさコンちゃん。向こうのチームのあいつがさ……ほらあの一番でけーやつ」
 京臣はおそるおそる相手方の座高をた比べた。なるほどひとり上背のある男子は、同じく隣で膝を抱えている・キャップを冠つた指導員の座高と遜色ない。立つてみないと分からないが、既に六尺に垂んとしている。
「あいつがどうかしたの?」
 京臣はむしろ、隣で胡乱な微笑を泛べている若い指導員の、秀でた鼻梁の方が気がかりだつた。庇の蔭に隠れて正でに見定めがたいものの、一雙の眼は笑つているとも笑っていないともつかない。
「あのアボリジニの首領みたいなやつ、さっきっから唇舐めすぎじゃね?」
 そう云つている間にも、上背の男の舌は営巣するアナゴのように忙しなく出入りして、いよいよ分厚く唇を隈取つてゆく。
「あゝ、たしかに、あれは舐めすぎだね。棒紅を食み出して刷いたみたいだ。うちのお母さんだって店開けるときあんなに塗りたくったりしないよ」
 うつかり調子を合わせた京臣は唇を屹とした。東洋は背中を波搏たせて、笑いを隠しきれない。
「あの下唇なんか、アンコウの域に達してる。水圧から解放されてあんなに膨張しちゃったんだろう……まったく人を笑わせて、とんだ顔芸だ」
「あんまり笑っちゃ不味いよ。ほら、今あいつトーヨーのことすげーガン見してる」
「マジで?」
「あーあ。これでトーヨー、瞬殺確定だね」
「あの身長で角度つけられたら、いくらコントロール抜群でも、顔面直撃は必至だな」
 口ほどに怯めたる色もなく東洋は笑い已まなかつた。前にも云うごとく、東洋の快活さにはどこか強いられた跡が見られ、誰もが心冱るような場面に際会してこそその快活は、雲居に赤い風船のように、あはや暴発せんと欲した。

 果せる哉、開始早々から東洋は狙われた。さすが先住民と云つたところで、その眼力では破顔した東洋の皺の数までかぞえてい兼ねない。
 三段跳びのロシア人選手さながらに、コート内を目一杯使つて助走をつけた先住民の一球目は、それ自体鳴物のような・風切りの音を伴つて東洋を強襲した。近くにいたアンディー(安藤)もキョンシー(虚子)も思わず二三尺飛び退つたが、東洋はこれを、ちょっと可愛らしいくらいの音をさせて難なく受け止めていた。低学年から少年野球に打ち込んでいる彼には、的の大きさも然りながら、これくらい見慣れたものだつた。因みに京臣も安藤も虚子も、東洋と同じ野球少年である。
 負けじと振りかぶつた東洋の勇姿はいかにも頼母しかつたが―――何せ東洋は投手である―――仰山なのは形だけで、山なりに抛つたボールは間の抜けた弧を描いたので、外野に渡すつもりが歴然としていた。身長の割に手足の小さい彼は、体力測定の遠投でも妙なスピンがかかつて飛距離が伸びないのが難点で、彼なりに考えた結果、味方の反撃に俟つことにしたのだ。
 ところがそのパスが渡りそうにない。
『おやおや、アボリジニが半身になつて、フェンスぎりぎりを攻める中堅手みたく後退してゆく。ライン上で立ち止まつて、発条のように脚を撓めた。で、飛んだ―――』
『飛んだ!』と思つた時には既に遅く、パスは敢えなく奪取され、前進していた東洋との間を瞬く間に詰めて来る。東洋はまるで蟹行運動しか仕付けないヤドカリのようなぶきっちょな背走のすえ、アボリジニがボールを投げるまでもなく、後ろざまにズッコケて了つた。
 内野の味方から失笑が起こつた。能面のような顔をした京臣が、徐ろに手を差し出した。
「こんな時に、笑いをとらなくていいから」
「正直に『ダッせ』って云って呉れた方が、まだ助かる」
 赤面しながら、東洋はおとなしく京臣が袂の塵を拂うのに任せた。

 それから東洋は、蜘蛛の子を追い散らすような好き放題を相手にゆるして、所在なく見まもる他なかつた。ボールが渡る機会は是なく、寧そ座り込んで了おうかとも思う。この圧倒的な体格差をまえに義憤めいたものを感じる所謂が東洋にはなかつた。むしろそう云つた直情径行の正義感を警戒する傾きさえあつた。この齢(よわい)にして東洋は、口にこそ出さね、まことに老成した・それ自体悲壮趣味の矛盾をはらんだ信条を蔵していた。
『俺はぜったいに悲劇的英雄に憧れたりはしない。英雄が自分の行動の悲壮味を自覚していた場合は
以ての外だ。だから俺は、ヒロイズムに動もすると奔りたがる俺の中の「男子」を警戒して、悍馬のごとき感情にはちゃんと手綱をつけてやらねばならない』
 だからこそ東洋は、梟雄に対しては正義をではなく、哄笑を以て報いることを学んだ。悄気ることも、憤ることも、自責の念に囚われることもせず、底ひなき哄笑だけを手に、あらゆる悪を―――自分の弱さをさえ卻けようと決意していた。
 はじめ隅に身を寄せ合つていた女子は、内股で可愛らしく片足をあげて故とのように矢面に立つてゆく孔雀のようにバタバタと僵れ、男子は男子で列をなして、泥沼に突進してゆく豚の集団自殺のようで、てんで意気地がなかつた。
―――だが誰も東洋に太平楽を極め込みさせやしない。これは本人にだけは知らせない公然たる秘密だが、彼は誰よりも『堪え性のない正義漢』だからだ。
 内野に辛うじて残つていたのは京臣と、幼馴染の凪であつた。

 一種異様の速球が―――云つてみれば中てる気のない速球が飛杼のごとく交されていた。その時、曩のお道化とは打つて変わつた京臣の真剣な眼差しが、打てば響いて、東洋に通じた。『狙われてるのは僕じゃない』とその眼が云う。動いているのは京臣のようで、計算され尽くした牽制球で身動ぎもならないでいるのは凪の方だつた。
『よし。俺は冷静を欠いちゃいない』そう呟いてから『こっちに寄越せ』と云う手真似で、東洋は小さく麾いた。京臣も余裕のほどを見せて、汗にしとつた額の陰でにやりと笑つた。

 京臣は何を思つたのか、挟撃されている凪のほうへ衝と寄つて、庇うのかと思いきや、無手勝流にボールに向かつて体当たりを試み、場外に弾き出すと、当然のようにそれを拾つて外野の方へ駈けて来た。
 みんな開いた口が塞がらない。
「何してんの……コンちゃん?」『寄越せ』と云つた手前、彼の破綻のない一連の動きが呑み込めない自分に、多少忸怩たるものがあつた。
「これは一寸、ななめ上すぎるだろ」
「行ってあげなよトーヨー。プリンセスがお待ちかねだよ」
 何かよい思案はないものか、とその赤と白で塗り分けられたボールと霎時睨めッ競をして、
「モンスターボールにしては些とデカいが、これであの先住民の長躯を回収して、味方の陣地に召喚とかできたら、いいのにねえ……」
と照れ隠しを云ってみたが、こちらは無視された。
 結局東洋は、ボールを持つた京臣を短辺の端まで歩かせてから、フェイントで真横にパスを出させ、蹙まつていた相手女子の不意を突いた。

      *

 東洋の快活にいつも反省を促すのは、凪を措いて他になかつた。
 早熟な少女の常とて、垂り尾のような手足の線は彼女の率直そのもので、弱腰から胸にかけての緩徐たる高まりは、幼さをやぶる生硬な零余子の芽のように、高々と息衝いていた。東洋と雙んでふだん勝気な凪が、今は汗みずくで、千行(ちすぢ)の後れ毛をうなじに乱して、肩で息をしている。針金に辛く身を支えた石竹のようなこのいぢらしさが、東洋の心を―――ひいては彼の怠惰を搏つた。
「ごめん……ありがと」凪は殊勝げに微笑つた。
「いやあ……」東洋はそれから当然の疑問を、『なぜ君だけがこんなに苛められてるんだ』と云う問を、発しかけて揺蕩つた。その上だけにどう〴〵と雲の堆積が落ちかかるように、急劇に蒼ざめてゆく額の蔭で、凪の瞳は藍い水隈の、清水のように凛冽な非難を湛えていたからだ。―――なぜそれが解らないの?―――まつたくだ。どうして俺はそんなことにも気づかないんだろう―――そんな知る由もないことを、知らない自分が咎められるのは奇体だ。凪はいつも当然のように、超自然の悟性を東洋に要求して来、東洋もそれを当然の義務のように感じるのが常であつた。
 それに二人は小三の秋以来、一寸した確執をふたりして頑固に傅育てて来たのだつた。
 見つめ合つた二人だけの沈黙が居づらさに、
「とにかく」と、東洋ははにかむように前置きした。
「あとは俺が何とかするから……」
「……うん」不貞腐れたようにそう云うと、汗が目に入つたと云うような鋭角のそぶりで、凪は砂の滲んでいない方の手頸で、目許をそっと拭つた。
『頑固な奴だ』と東洋は思う。それにふだん半眼に塞いでいるあの寝惚眼が、ここぞと云う時、ハエトリソウのように微妙じく花ひらくのである。長い睫毛の影を宿したつかの間の深淵を、東洋はさてもとゆかしく眺めた。
 凪の辛苦をよそに、汗ひとつ掻いていない自分のシャツの白さが、まるで触媒の石灰のように、みどろならざるないなかに露悪的に輝いて、東洋の眼を灼いた。たといこの単身挺したところで、償いきれない大きな負債を自分は凪に負つていると、東洋は思つた。
 試合終了の笛が鳴るまでやつらはラリーを続けるかも知れない。同伴の富田先生はちょうど席を外している。そして相手方の指導員が始終口もとに貼りつけている微笑は、全く以て得体が知れない。
 東洋は少しも早く凪を解放してやることしか考えなかつた。庇い立てした自分がやられては意味がない上、相手に凪を中てる気がないので、この状況は小学五年の東洋に真ッ昼間から知恵熱を上げさせた。肯て対角線にのがれてから躱すことで逸れ球を誘つたが、ついに窮余の一策に、先の京臣のアイディアを換骨奪胎することに決めた。
 凪を背中に庇いながらボールを躱していた東洋は、魔が魅したようにふらりと、凪の傍を離れた。すると案の定『いい気になるなよ』と云わんばかりの・脅し文句のようなボールが凪の顔を目がけて飛んだ。それと見るより、踵を旋らし、東洋は横ッ飛びにボールに体当たりを仕掛けた……
 が、それがやはり、ちょうど彼の顔の高さだ。
「ゔゔッ」
 顔面に命中したボールを、風に柳条と逆らわず、東洋は巧みに凪の胸へと導いた。無防禦な凪の身体を勦わるようにボールは触れて、ふわりと落ちた。
 外野から皆ながわらわらと駆け寄つて来た。相手チームの連中もこれに加わつて、顔面はセーフだとかなんとか談論風発しているのが聴こえる。いつたい、東洋が受けた衝撃と、四つん這いになつてなにかを怺えている彼の様子との間には、曰く云いがたい隔たりがあつた。彼はしばらく、熟柿のように枝を離れた自分の頭部を、こうして探しているのではないかと思つた。なかなか目が明かない。眼球が押し壓されたようで、不快な圧力が眼窩に籠り、このまま目を開くとまぶたが内側に捲れ込んで来そうに感じた。
 ようやく目が明いた時、夥しい鼻血を砂の上にばらまいている自分を見出した。真ッ赤な落英の繽紛たるを掌に受けとめることも忘れて、東洋は出るに任せていた。

快活の哀しみ(1)

快活の哀しみ(1)

小学校時代。全校生徒110余名、男子8人女子7人の小さなクラスでガキ大将のレッテルを押しつけられた越賀東洋は、自分の暗い側面を隠し、たくみにでっち上げられた快活なみぶりで、徐々にしのびよる憂鬱の気配を追っ払おうとつとめるが―――『なんて損な役回りなんだ』一風変わったガキ大将のドッジボール大会における滑稽劇。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-04-01

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