兎の言葉

 …駄目だ、書けない。
 和樹はキーボードから手を離し、大きく天を仰いでため息をついた。そのまま天井にある小さな染みを無心に見つめ、頭を埋めている中途半端な熱が冷えるのを待つ。時間がたつと頭の中にあった無数のプロット候補たちは消え去ったが、もやもやとした感情だけは染みのように残り続けた。
(少し休憩しよう)
そう考え体を起こすと、ほぼ真っ白なパソコンの画面が再び目に入った。最初の一文から打っては消し、打っては消しを繰り返し、結局朝から全く進んでいない。もし手書きで書いていたならきっとくしゃくしゃに丸まった原稿用紙が無数に散らかっていたのだろう。しかし実際には、小奇麗に整頓された机回りからは書けない苦渋の痕跡を窺い知ることは出来ない。「パソコンで書く最大のデメリットは、失敗の履歴が残らないことです」なんて言われたっけ。台所に向かい、乾燥機に入れっぱなしのコップを取り出し、インスタントのコーヒーを作りながら、和樹はこの部屋を見た時の彼女の反応を思い出した。


「綺麗すぎます。部屋っていうのは、その人自身を表すんですよ。作家なら、もっと雑多な思考を持っていないといけないんです。小説っていうのはごちゃごちゃに散らかったごみの中から、言葉を掬って、編み上げるものなんです。先輩にはそれがない、だから先輩の書く物語は全部高級フレンチコースみたいになっちゃうんです」
部屋に入るなり信じられない、というように彼女はまくしたてたが、和樹は自分が怒られていること自体暫く理解できなかった。部屋が綺麗すぎる、ということで怒られたことは生まれて初めてだったし、ましてや自分の書く小説を批判されたのもその時が初めてだった。
「高級フレンチコースって、別に悪いことじゃないと思うけど」
自分でも何に反論しているのかわからないままようやく言葉を捻りだした和樹だったが、彼女はふんと鼻で笑いながら誇らしげに胸を張るのだった。
「庶民である私はチェーン店の牛丼のほうが好きです」

彼女―亜美は、在籍時期が被ってはいないが、大学の文芸部の後輩であった。そして、少しずつ作家として名前が売れ始めた和樹の新しい編集者でもあった。元々小説家を志していた彼女にとって、和樹は自分の叶えられなかった夢を掴もうとしている存在であり、尊敬の念と共に、羨望や嫉妬といった感情も少なからず抱いていたようだった。

「どうして、作家にならなかったの」
一度、そう彼女に聞いたことがある。いつもの如く、打ち合わせ時に自分の原稿に的確に駄目だしをしてくる彼女への、そんなに言うなら君が書けばいいじゃないか、と子供のような反抗心から出た質問だった。すると彼女は雷に打たれたように驚きの表情を浮かべた後、ぐっと押し黙ったのだった。和樹は想像していなかった彼女の反応に困惑し、すぐさま謝罪の言葉を連ねたが、しばらくすると彼女は静かに顔を上げ、「残酷なことを聞きますね」と前置きしてから、
「ならなかったんじゃなくて、なれなかったんです」
と寂しそうに笑った。


冷めたコーヒーをすすりながら、ふとだいぶ窓の外が薄暗くなってきていることに気付いた。時計を見るともう夕方の六時であった。朝起きてからかれこれ半日は机に向かっていたことになる。ほぼゼロといっていい進捗に、和樹は思わず自虐的な笑いが漏れ出た。
和樹にとって『書けない』なんてことは人生で初めてだった。否、物語の展開に行き詰って書けないということは何度かあったが、少なくとも今のように、『書く気が起きない』なんてことはこれまで一度もなかった。創作意欲はいつも湯水の如く湧いてきて、和樹を執筆に駆り立てた。こんな自分を見たら、彼女はどう思うだろう。心配するだろうか。それとも、軽蔑して、口も聞いてくれないだろうか。
部屋の明かりをつけると、ふと机の端にビニール袋が目に入った。いや、正確にはビニール袋からはみ出したカッターナイフが、光の反射にきらめくのが目に入ったのだ。昨夜の夕食を買いに行ったついでに、なんとなく百均に寄って購入したのだった。なんとなく。そう、本当になんとなくだ。空気を吸うように当たり前のように、気付いたらカッターナイフを和樹は手に取っていた。


「死ぬってなんだろう」
「なんですか、おもむろに」
唐突な和樹の問いに、原稿から目を離さないまま亜美は眉だけをしかめて答えた。喫茶店の外はすっかり雪景色で、しんしんという音が今にも聞こえてきそうだったが、店内は暖かく、どことない安心感に包まれていた。
「いやさ、世にいう文豪って、結構自殺する人が多いじゃない。太宰治とか、三島由紀夫とか。なんでかなって思って」
「知らないです。深く考えすぎちゃったんじゃないですか?」
「深くって、何を?」
「生きている意味とか。時々ありません?お酒飲みすぎた次の日とか、友達と楽しく遊んだ次の日とか、あー、なんか色々めんどくさいなって」
「その気持ちはわかるけど、でもそんなので本当に死んじゃうかな」
「兎は寂しくて死んじゃうんですよ。人間だって、寂しくて死ぬことくらいありますよ」
 人間だって、寂しくて死ぬ。その言葉が妙に腑に落ちて、和樹は「そっか。そうだね」と相槌を打ち、そのまま会話は終わった。彼女はいつも自分の何気ない問いに適当に答えているようで、核心をつく結論を出す。自分なんかよりも、ずっと物事を客観的に見ていて、だからこそ和樹は安心して彼女に編集を任せられるのだった。
 そのまま順調に打ち合わせも終わり、喫茶店を出ていつものように別れようとしたところで、彼女がふと自分を呼び止めた。
「さっきの話ですけど」
「さっき?」
「死ぬってどういうことか」
「…あぁ」
すっかり終わった話だと思っていた和樹は、一瞬思い出すのに時間がかかった。
「なんでですか?」
「え?」
「先輩は、死にたいんですか?」
 いつの間にか、彼女は真剣な目でこちらを見つめていた。死にたいんですか?そんなはずはない。ただたんに、親に昔作家になることを反対されたのをふと思い出して、なんとなく話のネタで聞いただけで。そんなこと思ったことないよ。そう答えようとすると、彼女がばっと自分の両手をとった。
「…嫌です」
「え?」
 聞き返すと、彼女はひんやりした手でぎゅっと和樹の手を握り、震える声で、でも真っすぐとした瞳で答えた。
「私は、先輩が死んだら嫌です」
彼女の長い睫毛に積もる雪を見ながら、その言葉は和樹の胸の奥の奥をゆっくり突き刺すように届いて。和樹は、いつのまにか彼女に恋をしてしまっていたことに気付いたのだった。


あれからずっと、苦しくて苦しくて仕方がないのだ。和樹は涙のようにぽたぽたと滴り落ちる赤い液体を静かに見つめた。彼女の訃報を聞いてから、もう一か月が経つ。あの雪の日の一週間後に、彼女は交通事故であっけなくこの世を去ったのだった。彼女に自分の想いを伝えることのないまま、彼女の存在だけがぽっかりと抜け去った。しかし、涙だけは何故か全くでないのであった。泣くことができたなら、少しはこの苦しみが晴れるだろうに。涙を流したら、一緒に彼女との思い出まで流してしまいそうで、それを無意識の内に身体が拒否をしているようだった。
人間だって寂しくて死ぬ、と言った彼女の言葉がふと蘇った。このまま流れ出る血を止めずにいたら、きっと死ぬだろう。それって、寂しくて死んだことになるんだろうか。彼女だったらなんというだろう。「私は、先輩が死んだら嫌です」違う。これは彼女が最後に言った言葉だ。違う。どくどくと流れ出る血を見ながら、彼女のひんやりとした、でも暖かな手の感触を思い出す。くそ。なんだってこんな時に。「私は、先輩が死んだら嫌です」震える声で、彼女の言葉がもう一度脳裏に響く。出血で少しぼんやりした意識で、なにか、血を止めるものを、と立ち上がる。もう少しだけ。もう少しだけ、彼女のために生きてみようか。
洗面所のタオルで出血部を強く抑えながら、いつのまにか自分の顔が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていること気付く。なんだ、泣けないって思っていたのが馬鹿みたいじゃないか。抑えているタオルで顔を拭うと、涙と鼻水と血が混じって余計にグロテスクな顔になったが、鏡に映る顔を見ていると、なんとなく、今ならいい物語が書ける気がした。 

兎の言葉

兎の言葉

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-31

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