紅服の男

 漢の成帝の代、長安より二十里ほど離れた山里のこと、古廟へ寄り合い、眉間に皺寄せる者達があった。
 夏の暑い日のこととて、日焼けした額には汗がじとりと湿り、篭った空気の中を回る蚊の音が悩む者等を一層苛立たせる。
 いつの間にか、戸口に立っている見慣れぬ姿に気付き、一人が何用かと尋ねると、
「あやかしの話、是非ともお聞かせ願いたく」
 返答に一同が振り向いた。涼しげな眼に鮮やかな紅服を着た、歳は二十歳頃かという男であったが、しかし、その穏やかな顔つきと、細身で丸腰の格好に、すぐに失望の空気が漂った。
「余所者には関係のない話だ」
「見過ごせぬ事情により参った次第です。話によってはお力になれるかと」
 言いながら上がり端へ腰かける。里長が肯き、男は座敷へと招かれた。
 その化物が現れたのはもう二月も前のこと――。二人が枝打ちに山へ入っていたところ、一方が午飯にしようと声をかけたが返事がない。居た場所を探ってみれば、点々とした血の跡と、相棒の右足とだけが残されていた。食い千切られたような傷痕から、虎狼の類の仕業と見てすぐさま山狩りが行われたが、目撃されたのは、灰色の、形定まらぬ、奇怪な姿であったという。
 山師等としては怯むわけにもいかず、警戒の下に仕事は続けられたが、その都度に仲間が消えていった。
 ついには噂を聞きつけ、討伐を申し出る者が現れた。隆々たる体躯の武人に、人々は大いに期待したが、しかし山へ行ったきり帰らなかった。その後も何人かが、時には十人もの武者が一度に山へ入ったが、やはり運命を同じくし、命からがら逃げてきたある剣士は、
「にわかに闇が落ちたかと思うと、林木の隙より複数灰色の腕が伸び、これをたしかに剣で払ったが傷はすぐに癒えてしまい、幾度斬りつけても手応えがなかった。あのような魔性は初めて見た……」語りながら震えた。
 いよいよ困窮し、神巫を頼んで口寄せを試みたところ、毎月の初めに一人、人身御供を差し出すことを告げられた。
 あまりのことに今は日々思案のために集まっているが、妙案もなく、最初の期日が明日に迫っている。……
 話が終わり、つかの間の沈黙の後、里の者が客人へ尋ねた。
 男は仔骨(ここつ)と名乗り、自らの仕える、さる身分の御方が此度住まいを移ることになり、この道中に妨げがないか検分していると言う。
「件の山道は外せぬ道、わが主のためにもこの禍は打ち払わねばなりません。ひとつ私に助力させてください」
 不安はあったが、しかし断る理由はなく、山入りは即座に決行されることになった。男は里人に頼んで三振りの長剣を用意してもらい、これを縛って背に担いでは、徐という馬飼いの若者と、その馬と共に山路へ入る。
 徐の道案内は無論、途中までの約束だったが、灰色の空の下、茂る林木と蝉の声に囲われて、進むごとに馬飼いの顔は汗ばみ、不安の色が濃くなっていく。
「どうもおかしい……一旦引き返しましょう」
 いつもの標に一向たどり着かないらしい。しかし下ったが、行けども視界は開けず、里の見えてくる気配がなかった。
「戻れません、こんなことは初めてです」声を震わせる若者へ、
「仕方ありません、進みましょう。おそらく向こうも警戒しているのです」
 仔骨は穏やかな声で応える。徐は心強く思ったが、しかしその無表情な顔を見たとき、どういうわけか、寒気のようなものも同じく感じた。
 やがて登った先に開けた場所が現れ、
「ここで待ってみましょう」
 と、仔骨が背の物を下ろすと、やむなく徐も従い、下山を急ぐためであった馬を、近くの桑木につないだ。
 空には変わらず雲が垂れ込め、薄暗い山林のなか、焚火を起こし、これを挟んで二人は腰を落ち着けた。
 仔骨は剣を抜き身にすると、燃え盛る炎の側へ三本とも突き立てる。今は蝉の声も失せ、しんとした空気に、徐は不安で堪らなくなった。
「やはりもう一度山を下り……」
 思わず言いかけたが、愛馬のいななきがこれを掻き消した。途端、冷たい風が来て、辺りを見る間に闇が覆い、炎と木々が斜めにゆれ始めた。
 暴暴と力増していく風に、徐が顔を隠しながら首を向けると、馬は悲痛な声を上げ、その身はすでに、後ろの何者かに半ばまで呑み込まれている。やがて鼻先をも見えなくなると、恐ろしさに、徐は歯の根を打ち鳴らし、叫ぶことすら出来ない。
「風上で火を守り、そこから動かぬよう」
 落ち着いた声に、徐が跳び上がって従うと、仔骨は剣を二本取り、これを左右の手に構えた。
 木々の間より長いものが伸びてくる。灰色の太い腕、その先に人のような手と、また鋭い爪を持った獣の足とがある。仔骨は踏み込み、爪のある方を斬り上げた。
  オオオオオオオオオッ……
 複数、重なったような咆哮が、林の向こうより響いてきた。闇の中、冬瓜ほどの光が六つ、爛々と輝いている。
 灰色の手が、断たれた腕を拾い上げ、元にくっつけるかのような仕草をする。
「無理だ。熱した鉄で斬られては、戻しようがあるまい――」
 言い放つと、仔骨は更に踏み入り、今度は人の手の方を斬りはねる。
 再び咆える声がして、これには強い怒りが含まれていた。四方の闇より、人と獣と禽の指を生やした八本の腕が、一度に襲い来た。
 仔骨は舞うようにしてこれらをかわすと、一足に跳び、頭上遥か高い、桑の枝へ赤烏の如く乗り着ける。
「こっちだ」
 挑発の声に、向かってきた二本の腕を、枝より落下する中途で切断し、更に着地に四本を素早く断つ。そして振りかぶり、両の剣を六つの光へ投げつけると、凄まじい苦痛の声が上がった。地を蹴り、火の近くを駆け抜けざま、仔骨は最後の剣を抜く。
 走る正面から来た二本の腕を、下げた姿勢でかわし、一振りでこれらを断ち切ると、剣を光の中心へ飛ばす。
 雷轟のような悲鳴が一帯を裂き、徐は耳を押さえ地へ伏せた。
 それから、どれくらい時が経ったか、気が付くと、荒れ響いていた風は止み、辺りには茜の色が落ちている。伏せたまま、暮れゆく空を見上げた横、日に陰った仔骨の顔が覗いていた。
「終わりました」
「化物は……?」
 ふらつきながら徐が立ち上がると、仔骨は招くように林の方へ行く。その先に、見たこともない形が転がっていた。
「これは三口(さんこう)という化生です」
 それは、人の倍はあろうかという体に、三つの獣の頭を持ったものであった。猿を中心とし、左右に梟と狼の顔が生えたようになり、光っていたのはこれらの眼らしく、それぞれの額には剣が刺さっている。灰色の針のような毛が全身に立ち、十本もある腕は、長く、それぞれが仔骨に断たれた場所に伸びている。両脚は短く、これは猿のものであろう。腹が異常なまでに膨らんでいるのは、馬を呑んだせいだと、徐にもわかった。
「三口は、複数の獣が同じ場所で死ぬと、ごく稀にその霊と肉とが一つになって生まれるものです。三つの命を宿しているため、その力は非常に強く、苦手の熱で傷の癒合を妨げ、三つの命それぞれを仕留めないことには倒せません。――では、陽の暮れる前に山を下りましょう。最早あやかしの力は消え、道に迷うこともありません」
 里へ帰り、一部始終を報告すると、皆は大いに喜んで、即席の宴が開かれることになった。
 仔骨はすぐに発とうとしたが、強く引き止められ、夜通し酒と御馳走が振舞われた。
 翌朝、宴に連なった一人が目を覚ますと、紅服の背中が土間口にあり、仔骨が靴を履いているのが見えた。急ぎ皆を起こし、見送ると、
「遅くなっては主に心配をかけますゆえ、これにて失礼いたします」
 一礼し、戸口を出ようとした。しかしふと立ち止まって、振り返り、
「今日より数えて二十日後の夜は、決して外へ出ぬよう、里の者みなへお伝えください」
 ゾッとするような眼で言う。そして出て行く背を、せめてもの礼にと里長が金子を持って追いかけたが、その姿は煙のように消えていた。
 この様子と、徐の語った人とは思えぬ戦いぶりに、あの男はきっとどこかの神仙が、魔物に悩まされる我々を憐れみ、遣わしてくれた者であろう――人々はそう言って肯き合った。

 それから山で人が消えることはなくなり、人々は元の生活に戻った。
 やがて仔骨の言った二十日目が来る。彼の最後の言葉は里に伝えられてはいたが、ほとんどの者は忘れていた。
 しかし、この日の早くに里長を訪ねたのは、あの徐であった。徐は例の言葉がどうしても気にかかり、今一度里へ注意を促すよう頼みにきたという。言われて里長も思い出し、恩人の言葉、守るに越したことはないと、これを引き受けた。
 その日の夜、通達どおり盛り場は早くに閉められ、家々の門戸も固くされた。空は暗く、肌はじめつき、戸や窓が風にやかましく、犬の声にもどこか心騒がせられる気分で、人々は寝床に着いた。
 夜半、これは里の端にある酒屋の主だったが、目覚めてかまどの始末が気になり、台所へ行った。確認して一息つき、瓶より水をすくってから眼を上げると、窓の外が明るい。
 格子へ顔を持っていくと、夜闇に、輝くものがゆっくりと進んでいる。炎の塊のようなそれは、人の形を成していた。思わず息を呑むと、その後ろのほうから、今度は何か、途方もなく大きい、黒いもののやって来る気配があった。
 黒いものは幾つもある短い足を重たげに動かし、しゅうしゅうと鳴きながら、蝦蟇のように腹をズズと引き摺って、道一杯の体を少しずつ移動させている。
 やがて間近に来て、その丸く巨大な頭らしき部分に、目玉が大小無数に蠢いているのが見えたとき、主は窓からのけぞったが、動けず、その場にうずくまって震えた。遠くには犬の激しく鳴く声が聞こえていたが、しばらくして、ぷつりと止んだ。
 朝、街道にはたしかに痕跡があり、昨夜に見た数人によって様子が語られたが、あの家ほどもある、黒いものがなんであったか……、これを答えられる者はなかった。
 しかし、黒いものを先導するように前を歩み、火の輝きを放っていたもの、その顔が、あの紅服の男であったことについては、目にした皆が口をそろえた。
 また、外に犬や牛馬を繋いでいた者は、朝になり、変わり果てたその姿に愕然とした。家畜の体には傷一つなかったが、しかし皮と骨だけを残し、あとの目玉や臓腑、肉はすべて失われていたという。

紅服の男

終わり方がある海外ホラーと被っているのですが、それを知ったのは書き終えた後なのでそのままにしています。
また作中に出てくる化け物はオリジナルです。

紅服の男

古代中国が舞台の民話風小説です。 化け物に悩む村人たちは、謎の青年・仔骨に退治を依頼します。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-03-20

Copyrighted
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