イスタムールの戦い【2章】 ~フラットアース物語①
第二章〈苻〉:守るべきもの
二の竜は部屋で一人、主君から与えられた花を睨んでいた。二の竜は、これまでに、これほど長い一日を経験したことはなかった、と思った。
一昨日から続いていた身体にのし掛かる重苦しい波動は、今朝はもう消えていた。だが、それが主君に与えた影響は、二の竜には計り知れなかった。
(結局、その痛みを分け与えては下さらなかった……。)
ヒトに対して、竜族の力を行使してはならないという掟を破ったのは、二の竜だ。だから、その罰は自分に与えて下さるように、と二の竜は願った。
しかし、一の竜は全てそれを自分で受け止めた。竜界の留守を預かる三の竜から何の報告もないと言うことは、主君は竜界へも影響が出ないように、その力を使ったのだろう。二の竜は、それが辛かった。
八竜は、主君の盾となってお守りするのが、その存在理由だ。だが、その一番手であるはずの二の竜自身が、大切な主君を傷つける原因となってしまったのだ。情けなくて、身の置き場もなかった。
昨日一日、主君は二階の小部屋に留まったまま、外に出ることはなかった。いや、あれほどの重圧を一人で受けていたのだ。恐らく、動きたくても動けない状態だったに違いない。幸い昨日は、誰も主君の邪魔をしに来なかった。もし、誰か来たとしても、二の竜は、それが誰であれ、譬えヒトの王であっても、追い返すつもりでいた。
(ヒトなど存在しなければ良いのに……。)
仮に譲歩して、その存在は認めるにしても、どうして竜族が、ヒトを守らなくてはならないのか。どうして竜界が、ヒトの世界の影響を受けなければならないのか。
竜界を維持する為に、一の竜を筆頭に八竜達は日々、絶え間なく修復を続けている。それがヒトの世界の影響で、突如として予想以上の崩壊を引き起こすのだ。竜界からヒトの世界を切り離してしまえば、どれほど彼らが気力を消耗しなくて済むことか。取り分け、竜界と密に接している彼らの主君が、不必要に苦しまなくて済むことか。それを考えると、二の竜はいつも、腹立たしい思いに駆られた。
(全ては我が君の為。それなのに……。)
一体どんな顔をして、主君の前に出れば良いと言うのだろう。いっその事、主君が、罰として二の竜の地位を取り上げて下されば良いのに、と彼は願った。
§
話し合いの為に焔の塔を訪問する、との伯暖王からの伝言を受け取って、コウヨウは小さく溜め息をついた。
問題は、二の竜のことだ。先日の事件の後、二の竜は部屋から出て来ていなかった。どうやら、彼を説得することから始めなくてはならないようだ。
実のところ、竜族は、わざわざ部屋まで足を運ばなくても、互いに心話で話をすることが出来た。だが、コウヨウは、そうする事には抵抗があった。
八竜達と話したい時、コウヨウは、必ず彼らの部屋を訪れた。まるでヒトのような振る舞いをする、といつも二の竜には呆れられたが、コウヨウにとっては、それが普通のことだったのだ。
心話で先触れをしても何の返答もなかったので、コウヨウはそのまま、二の竜のいる部屋の扉を開けた。二の竜は、既に彼を待ち構えていたが、その視線は頑なに逸らせたままであった。
「ヒトの王達が、話し合いの為にここに来る。……いつまで、そうやって部屋に籠っているつもりだ。」
コウヨウの言葉に、二の竜は苦しげに俯いた。
「……私は掟を破り、重ねて禁も犯しました。そのような私に〈二の竜〉の資格などありません。その務めはもう、私には……。」
「職務放棄は認めないよ。」
コウヨウは強い語調でそう言った。
「その許可なら、既にお前に与えてあるはずだ。」
「ですが……。」
なおも言い募ろうとする二の竜の抵抗を封じるべく、コウヨウは続けた。
「二度は言わない。これは命令だ、二の竜。」
「……御意。」
結局、一度も視線を合わせることのないまま、頭を下げた二の竜を部屋に残して、伯暖王の一行を出迎える為に、コウヨウは祭壇の間へと降りて行った。
§
午前の謁見の後、花の宮殿の一室で、伯暖王は馬車の準備が整うのを待っていた。
これから焔の塔で、竜族を交えての作戦会議が予定されている。朝の会議では、国境の軍からの報告も議題に上がったから、それらを竜族に伝えて、出陣のために必要な段取りを彼らと話し合う必要があった。
馬車を待つ短い時間の間にも、伯暖は、どのように二の竜と話を進めるのが、一番良いのかと考えずにはいられなかった。
(まだ、竜族の姿を、一般の兵士達の目に触れさせるわけには行かない。)
彼らは敵軍よりも、むしろ竜族の方を恐れるだろう。兵士達が恐慌状態に陥れば、竜族に危害を加えないとも限らない。伯暖が恐れていたのは、そのことであった。
(楽浪国が大軍を動かした意図も、そこに相手国の守り手である蛇竜族が、どう関わっているのかも、未だ分かっていない。だが……。)
前線からの報告は、もはや迷っている猶予などない現実を、伯暖に突きつけていた。
この戦いに、表立って竜族に加わって貰うかどうか。伯暖王は、非常に難しい決断を迫られていた。
昨日も一日、派遣する軍の詳細に加えて、竜族を伴うべきかで、高官達の意見が分かれた。
使者の報告から、国境の軍の敗北に蛇竜族が関わっているのは確実だとして、こちらも竜族を同行するべきだと主張したのは、宰相である黄子清、王の叔父である緑公衛達の一派だ。それに対して、国軍である竜師を率いる左軍将軍の白子剛の右軍将軍の黔文秀は、伯暖王と同様に、兵達の統率が取れなくなることを恐れて、前線に竜族を伴うことに反対していた。
(ただし、敵の軍勢に蛇竜族が加わっている、と言う点については、皆の意見は一致している。……そうなると、竜族の力を借りなくては、どうにもならないのが現実だ。)
竜族には、国境へ同行して欲しい。しかし、本当に必要な時まで、その姿を兵士達に見せたくはない。それが、伯暖王の側の本音であった。それが、こちらの虫の良い願いであることは、重々承知していた。
(だが、どうにかして、それを理解して貰わなくてはならない。)
伯暖王は、コウヨウのことを思い浮かべた。
今回、二の竜と共に彼が来てくれた事は、この国にとっても救いなのかもしれない。玄初の一件でも感じたことだが、叔父の公衛からの報告でも、コウヨウは人の考えや行動を、良く理解していることが窺えた。
(竜族からすれば、不快なことだろうが……。)
それでも、竜族にこちらの意図を隠したまま、戦場まで行くことは不可能だ。
(まずは説明するところから……だな。)
§
焔の塔の二階に伯暖王の一行が入ると、彼らを出迎えたのは、二の竜ただ一人であった。伯暖達を階下から案内して来たコウヨウは、いつの間にか姿がみえなくなっていた。
伯暖王と二の竜が席に着くと、竜師の右将軍黔文秀は、卓上に地図を拡げ、前線の状況を説明しはじめた。竜師とは、各州に所属する軍隊である州師とは別に、王が直接の指揮権を持つ国軍の名称だ。
伯暖は、右将軍の説明を聞いている二の竜の様子を、注意深く観察していた。
「楽浪国軍は、先日、国境の興紆村の近郊に布陣しているという情報がありました。一方、我が軍は現在、ルゼルク国境からモイレの町まで、一時、軍を下げており……。」
地図上に敵味方の駒を配置しながら、文秀の説明は続いた。
「我が軍の方は、ルゼルク州師八千と、ログドから派遣させた州師四千の一万二千。それに対して、敵軍は現在確認されている情報では、約ニ万となっていますが……。」
「斥候からの報告はないのか。」
伯暖王の問いに、黔文秀は、傍らの左軍将軍へと視線を移した。
「……国境からの報告は、逐次参っておりますが、状況は一昨日の急報から変わっておりません。」
沈黙した右将軍の代わりに、左将軍白子剛がそう答えた。
「つまりは開戦からのこの五日間、楽浪軍の居場所は、全く分かっていない……と言うことですね。」
感情を露にしない宰相の言葉は、単に事実の確認ではあったが、居並ぶ高官達には、一層冷ややかに感じられた。
この情報は、国官達に動揺を与えないように、昨日以来の会議では伏せられていたものだった。前線の部隊が、姿の見えない敵に突如襲われた揚句、現在は敵の居場所も分からないなどと、竜族が存在することすら知らない官吏達に言えるはずもない。
『ギズルガだ。……間違いない。』
独り言のように二の竜が呟いた。それへ頷いて、伯暖は軽く息を吐いた。
「……いま、何と……?」
伯暖王の隣に座る黄子清が、訝しげに聞き返した。
「……あぁ、二の竜は、それらが蛇竜族の仕業だ、と。」
伯暖がそう答えると、子清は僅かに首を傾げた。
「それは、楽浪軍の居場所が掴めないことを、言っておられるのですか?」
子清の質問にも、二の竜は、地図から目を上げようとはしなかった。
「それもそうだが、姿の見えない敵と言うのは、蛇竜族のことだろう。」
二の竜の発言を聞いて、伯暖王の後ろに控えていた高官達がざわめいた。
「本当に、そのような事が出来るのか……? それも竜族の力の一つだと言うのか?」
左軍副官の皎敬邦が思わず口にしたその言葉に、二の竜が機嫌を損ねはしないかと、上官の白子剛は一瞬、肝を冷やした。
「現実に起こったことだろう? それとも、ヒトに、それが可能だとでも言うのか?」
そう二の竜に返されてしまえば、伯暖王の側は黙り込むしかなかった。
「国境へは、一両日以内に、竜師を派遣する予定にしております。」
伯暖王は、傍らで珍しく苦い顔をして黙っている宰相の代わりに、二の竜に告げた。
「承知した。」
と、二の竜は、あっさり頷いた。だが、伯暖王は、言い出し難いその内実を、どのように切り出すべきかと迷っていた。
「移動の間は、外套を深めに被っていれば、それと知られる事はないだろう。」
二の竜は、依然として伯暖達の方を見ようとしないまま、淡々とそう言った。そんな二の竜とは反対に、青ざめたのは伯暖王の側だった。
「ヒトが、我々を恐れている事は知っている。兵の混乱を心配する気持ちも理解できる。……だが、蛇竜族との戦いになれば、そう言う訳には行かない。」
「……それは、勿論分かっている。」
伯暖王の返答を聞いて、二の竜が顔を上げ、伯暖を見据えた。それとほぼ同時に、黄子清が声を上げた。
「恐れながら、陛下。それはなりません。」
二の竜の視線が、子清へと移った。
「竜族を初めて目にする兵達は、その状況を理解する事ができないでしょう。それではいたずらに、彼らを混乱に追い込む事になりかねません。」
子清は、二の竜と向き合った。
「前線からの報告にあったような力を竜族が用いるのなら、その戦いに我が軍が巻き込まれる事態は極力避けたい。……例えば、姿の見えない蛇竜族の接近を、前もって知ることは出来るのですか?」
子清の質問に、二の竜は無言で頷いた。
「ならば、兵士達のいない場所に、彼らを誘導する事は、可能ですか?」
「敵の数によるが……可能だ。……むしろ私達の方も、力を振るうのにその方が都合が良い。ヒトを傷つけないかと、気を使わなくて済むからな。」
そう答えながら、二の竜がうっすらと笑ったような感じがした。
「確かに……。竜族のことは我々に任せて、そちらはヒトの相手をすると良い。」
しかし、と二の竜の言葉に、やや顔を顰めながら口を挟んだのは、左軍将軍の子剛だった。
「その敵軍の居場所を知ることが出来ない状況では……。」
「ニ万ものヒトの存在はすぐ分かる。それに、それだけのヒトを隠す為には、蛇竜族も、かなりの力を使っているはすだ。大きな力が働いている場所は、離れていても感じる事ができる。国境近くまで行けば、その場所を教えてやれるだろう。」
「成る程……。」
伯暖王は、得心して頷いた。彼が、緑家の人々や竜族に対して抱く感覚を、やはり竜族も持っているのだ。何しろ、二の竜とこうして間近に向き合っていると、伯暖は、まるで巨大な焚火にでも、炙られているように感じられた。
「それでは、この度の軍勢に、竜族の皆様にも同行して頂くと言うことで、よろしいのですね?」
集まった一同に対して、宰相の子清が言った。伯暖王は、竜師の両将軍へと目を遣ったが、彼らは無言だった。それを確認して、伯暖王は子清へ頷いてみせた。
「では、二の竜、出立の詳細が決まり次第、追ってお知らせいたします。」
子清がそう言うと、二の竜は、分かったと、短く応じた。
伯暖王と二の竜が席を立ったのと同時に、階下へ続く扉が開き、コウヨウが姿を見せた。制服を身に付けたコウヨウは、どう見ても普通の従僕にしか見えない。
だが、伯暖王一行を焔の塔から送り出し、一礼をしたコウヨウと伯暖の瞳が交わった時、伯暖王の脳裏に竜王の声が響いた。
『心配はいらない。』
伯暖の視線を受けて、コウヨウの口元が、僅かに微笑みの形に動いたように、伯暖には思われた。
竜族との会見が終わってほっとしたような、不安の残るような気持ちで、伯暖王の一行は塔を後にした。
側近達との話し合いは、いつもならば西翼を利用するのだが、竜族のことを考えて、伯暖達は、再び花の宮殿へと移動した。
「二の竜の様子に、特に変わりはなかったように思われましたが。」
宮殿の一室に高官達が集まったところで、緑公衛が切り出した。
「始めは、心ここに在らずという感じだったが……。」
そう伯暖が言うと、私には分かりませんでした、と公衛は応じた。
「それにしても……、竜族が皆、あのような力を使うことが出来るのか……。」
一昨日の前線からの報告を思い出して怖気をふるう様子で、紅伯葵が言った。
今年、紅家当主を継いだ彼は、六公家の当主の中で最も若い。無論、竜族と接するのは、今回が初めての事であった。
「陣地内に、突如大風が吹いたかと思ったら、兵達が次々となぎ倒され、大天幕も収められた物資ごと押し潰されていた……か。」
苦々しく呟いたのは、蒼家当主の元曄だ。
「その被害が、陣内だけに止まっていなければ、普通、竜巻かと考えるな。」
そう続けたのは、先王の末弟、緑仲昴だった。
「ですがその当時、竜巻が生じるような天候ではなかったと言うことです。ルゼルクでは、竜巻は非常に珍しい現象です。」
反論するかのように、左軍将軍の白子剛が言った。白家の治めるルゼルク州は、彼の出身地だ。
「竜巻ではない決定的な証拠は、兵士達が見た目映い光りの接近でしょう。」
左軍将軍を援護するように、黔文秀が付け加えた。
高官達の話題は、昨日と何ら変わらない。結局、その場にいなかった我々では、結論を出せない問題なのだ、と伯暖は思った。
(いや。……譬え、その場にいたとしても、果たしてその状況に対応出来たかどうか。やはり、竜族の事は、竜族に任せてしまうのが一番良いだろう。)
伯暖王は、先程から隣で黙り込んだままの宰相を、ちらりと見遣った。子清との付き合いは決して長くはないが、伯暖にはそれが、彼が考えを整理している時の癖だと分かっていた。
伯暖王は、集まった公官達に、早急に派兵の準備を整えるよう指示を出して、会を解散させた。
「どうした? 気になる事があるのか?」
他の者達が退出した後も部屋に残った子清に、伯暖王は声を掛けた。
「はい。お許し頂けるのであれば、幾つか確認したいことがございます。」
伯暖王は、子清を促して席に着かせた。
「それで、聞きたい事とは何だ。」
伯暖が尋ねると、子清は少し迷うような顔をした。彼にしては珍しいその様子に、伯暖王は、思わず笑みが漏れるのを抑えられなかった。普段、何が起きても揺るがないという態度の宰相が、今日は二度も、言葉を探して惑っていた。
「子清が、そうやって躊躇するのは珍しいな。午後は大嵐か?」
冗談めかして言った伯暖王に、子清は眉を顰めた。
「……いえ。弟の……玄初の言葉の意味が、先程の話し合いでようやく分かった、と考えていたのです。理解したつもりでも、実際に経験するのとは大きく異なる。」
子清はそう言いながらも、まだ考えをまとめられていないようだった。
「どういうことだ?」
伯暖王が尋ねると、子清は何事か決心したように、正面から伯暖王と視線を合わせた。
「恐れながら、陛下には、竜族の言葉が、どのように聞こえていらっしゃるのでしょうか? 玄初は、竜族の言葉は、全く意味が分からなかったと申しておりました。」
あぁ、と伯暖は頷いた。それは、彼も経験したことだ。
「玄初からその話を聞いた時、私は、出迎えの場での竜族は、ごく普通に話していたはずだと思いました。ですが、先程の話し合いの場での二の竜の言葉は、正直、私には、とても聞き難いものでした。それにも関わらず、皆、何の違和感もないように、話が進んで行って……。言葉の意味が分からない訳ではないのです。ただ、何と言えば良いのか……。」
「聞いていないはずのものが、聞こえる気がする、と言うのだろう?」
伯暖王の言葉に、子清は、その通りですと答えた。
「それに加えて、私達が言わなかった情報を二の竜が口にしても、誰一人として疑問にも感じていなかった。……そちらの方が、私には恐ろしく感じました。」
「実際のところ、それが竜族の話し方だ。意識に上った物事を読み取り、伝えたい事を相手の意識に送り込む。……恐らくは皆、それと意識していないのだろう。私も、竜炎石を持つまではそうだったからな。」
伯暖王は、束の間、言葉を途切らせた。
「……即位式の前後で変化したその感覚に、私はしばらくの間、見るもの聞くもの、いや、自分の感覚の全てを疑った。自分の感じているものは、果たして真実なのか、とな。」
伯暖王は、そう言って自嘲的に笑った。一方、子清は真剣な顔で、伯暖の言葉を聞いていた。
「では彼らは、目に見えていないものも見ることが出来るのでしょうか? 玄初は、竜族は姿が見えていなくても、その意識で誰なのか判別出来ると言いました。……それが、二の竜が言っていた、存在を感じるという表現なのでしょうか?」
子清の言葉は、伯暖王に対する質問と言うより、自己問答のようだ。
「何らかの方法で姿を隠している敵を暴くのなら、何かその手段があるのかもしれないと考えられます。しかし、彼らは、譬え遮る物があっても、それが建物であれ、距離であれ、それに関係なく、相手を知ることが出来ると言う。……それではまるで、彼らが見る事を必要としない、と言っているようなものではありませんか?」
伯暖は、子清のその考えは正しいのかもしれないと思った。伯暖には、大きな違いしか分からないが、竜族が個々の差をより細やかに感じることが出来るのなら、人や竜族を見分けるのに、目で見ることは必要ないのかもしれない。現に今、伯暖にも、緑家の人々が、宮殿内の何処にいるか、おおよその方向は分かる。
「私が陛下にお聞きしたかった事は、陛下も同じ感覚を持っていらっしゃるのか、ということです。」
伯暖は答えなかった。と言うよりも、咄嗟に答えられなかったのである。
「敵軍の場所は分かる、と言った二の竜の説明に、陛下は即座に納得されたご様子でした。それが、私には不思議に感じられたのです。」
子清は、伯暖王を見つめたまま、言葉を続けた。その瞳は、伯暖の僅かな変化さえ見逃さない、と言っているようだ。
「歴代の王は、即位にあたって竜王からその力の一部を分け与えられる。……これは、陛下よりお貸し頂きました即位式の記録に、記載されていた文言です。その〈力〉に、竜族と同じ感覚も含まれていると、考えてもよろしいのでしょうか?」
この男は本当に勘が鋭い、と伯暖は思った。
(この男の前で、隠し事が出来る者などいるのだろうか。彼の観察力は、当人が意識していない深層まで暴き出す。……さすが、司法と監察を伝統とする黄家の当主だな。)
伯暖王は、宰相を睨みつけた。
「お前は、歴代の王のみが知る秘密をも、暴こうという訳だな。」
その言葉を聞いて、子清の顔色が変わった。
「それが秘されるべき事柄ならば、私の質問はお忘れ下さい。それは、私の本意ではありません。」
「既に知られた事を、取り消す訳には行くまい? それとも、取り消すべきか?」
含みを持たせた伯暖王の言葉に、子清が目を伏せた。それを見て、伯暖は軽く笑った。
「冗談だ、子清。……人の命よりも重いものは、この世にはない、と私は思っている。それが、大事な友人なら尚更だ。……あぁ、〈友人〉ではないという訂正ならば受け付けないぞ。」
何か言いたげに口を開きかけた子清は、伯暖王の言葉に、また口を閉ざした。
「子清の推察は正しい。私は、竜の血を引く者、つまり緑家の人々に限って、目を使わなくも、その存在を感じることが出来る。……恐らく、竜族の感覚もそれに近いと思う。」
伯暖の答えを聞いて、子清はまた何やら考え込んでいた。
「それでは、二の竜の言葉を信用して、軍を出しても良いと言うことですね。」
「ああ、大丈夫だ。」
伯暖王は、焔の塔を出る時に、一の竜が囁いた言葉を思い出していた。
(そう、私達には竜王の絶対的な加護がある。この能力は、その証なのだから。)
「ですが、それならば……。もしや、陛下は……あれの事をご存知の上で。」
そう言い止した子清の顔は、極度に緊張して色を失っていた。
今日は珍しい光景を三度も見られた、と伯暖は内心で苦笑した。
「私は、子清の秘密を暴こうとは思わない。そこには、多くの者の思惑があるのだろうからな。」
伯暖は、子清に笑いかけた。
「彼は、私にも大切な……、大切な者だ。」
伯暖王はそう言い残して、次の予定の為に部屋を出て行った。
第二章 ―2―
§
コウヨウは塔の一室から、眼下に広がる小庭園を眺めていた。空は晴れていたが、昨日よりも空気は冷たく感じられた。
(警告はしたのだから、僕のせいでは、ないよな。)
コウヨウは、溜め息をついた。
(感度は下げているはずなのに……。)
今の状態でも、目隠しをされているようで窮屈だ。感覚を完全に閉ざしてしまうという選択もあるが、それでは気が滅入ってしまいそうだ。
(いっそ、王宮から離れてしまいたい。)
不可抗力とは言え、伯暖王と宰相の会話を聞いてしまったことに、コウヨウは後ろめたさを感じていた。彼らは話を聞かれたくない為に、わざわざ花の宮殿まで移動したはずである。それなのに、結果的に彼は、それを盗み聞いたことになるのだ。
知らず、コウヨウの口から、また溜め息が溢れた。
(竜炎石で関係している伯暖王、それから玄初様、公衛殿下に関しては、すでに接触があるから選択することも出来る。しかし、宰相閣下に関しては、いつ繋がりが成立したのかさえ分からない。なのに、聞こえるなんて……。)
自分の力を自分で把握していないと言うのも、問題があるな、とコウヨウは思った。
竜界から連れて来た者達は、ヒトの世界の生き物の多さと、無軌道に拡散するヒトの意識に、すっかり混乱して部屋に閉じ籠りきりだ。二の竜は、ヒトの世界に何度か来たことがある所為か、感覚を完全に閉ざして、外を見ないようにしていた。
(二の竜は、良く我慢出来るものだ。)
感覚を制限していて他が見えない分、繋がりのある者の意識は、強調されて聞こえて来るのだ。必然、意識はそこに集中することになる。
(だから……かな。)
コウヨウは、二の竜が上階から降りて来る気配を感じた。ヒトの世界に来てから、二の竜は、普段以上にコウヨウの機嫌に敏感になっていた。
竜王とその配下の八竜達とは、とても密接している。その関係は、不可分の存在だと言っても良いほどだ。
二の竜のいる隣の部屋から、陶器の触れ合う微かな気配が届いた。
(二の竜に、溜め息を聞かれてしまったみたいだ。)
コウヨウは苦笑して、部屋を出た。その気配に気付いて、二の竜はちらりと視線を向けたが、茶の葉を計るその手は止めなかった。
コウヨウも二の竜も、茶の葉の爽やかで甘い香りが好きだった。竜界では、茶葉は貴重品だ。ヒトの世界でも、貴重な品物には違いないが、ヒトの世界と比べて植物の少ない竜界では、それはほとんど竜王の為に作られているようなものだった。
二の竜が差し出した茶を受け取ると、陶器を伝わる熱が、手に心地よく感じられた。
「やはり、もう少し情報が欲しいな。」
コウヨウの呟きを聞いて、二の竜が物言いたげに視線を向けた。
「ギズルガのことだ。……伝聞では曖昧な点が多すぎる。出来れば、その場にいた者に話を聞きたい。」
「敵の規模は、国境まで行けば分かることです。」
二の竜は、コウヨウの外出には、あくまでも反対の様子だ。
「だが、おかしいと思わないか? ヒトの記憶から推測して、ギズルガが派手に力を見せつけた割りに、ヒトへの実害はほとんどない。あれは単に、ヒトを脅かすことが目的だったとしか考えられない。」
コウヨウの言葉に、二の竜も頷いた。
「私もそう思います。あれぐらいならば、外域の竜達にも可能です。八竜どころか、下官達の仕業でもない。」
「上級官達の力は、ヒトの姿を隠す為に使っているのか? だとしたら、何の為だ?」
二の竜は、伯暖達との話し合いで得た情報を再確認するように、しばし考えていた。
「ヒトを混乱させる目的、でしょうね。力を使えば、私達には感知出来ますから。」
「そう。ギズルガのやっていることは、竜族にとって何の意味も無いことだ。」
「ですが、私達が行けば、その謎はすぐに解けるでしょう。」
(……それで、良いのだろうか。)
二の竜の言葉に頷くには、何故か迷いがあった。何か分からないが、違和感のようなものが、コウヨウの中で囁くのだ。
「何か予見がおありになられるのですか?」
八竜達は、歴代の竜王に引き継がれるその能力を〈予見〉と呼ぶが、コウヨウに言わせれば、それは単に勘でしかない。
「いや。そうではない……と思う。」
コウヨウの答えに、二の竜は、成る程と小声で呟いた。
「そのお答えは、何らかの予見がある、と言うことですね。」
「でも、それは確実ではないし、それに、何か見えている訳でもない。」
「ですが、あなたが何かあると判断された。私達には、それで十分です。」
二の竜は、真っすぐにコウヨウを見つめて、そう言い切った。
「二の竜……。」
コウヨウは、二の竜に頷いた。
「済まないがもう少しだけ、時間をくれないか? この不安の理由を知りたい。」
そう告げたコウヨウに対して、二の竜は黙って頭を下げた。
§
(よかった……。)
玄初は、ほっとした気持ちで、花の宮殿の一室を出て、焔の塔へと足を向けた。
昨日、伯暖王から休みを頂いたとの、兄の伝言を受け取った時、玄初は正直、竜族に関する任務から外されるのではないかと考えていた。
今日も出仕はしたが、兄から、午前は高官達と竜族の会議があるので、花の宮殿で待つようにと言われて、玄初は不安な気持ちを抱えたまま兄の戻りを待っていたのだ。
会議を終えて帰って来た兄に政務室に呼ばれ、玄初は、伯暖王の伝言を受け取った。
(そのまま続けるようにと、言って下さったなんて……。)
王の信頼を嬉しく思うと同時に、もう失敗は出来ないと、玄初は気を引き締めた。
玄初が焔の塔の前で来ると、コウヨウが扉を開けて顔を出した。玄初の姿をみとめて一礼をするコウヨウは、従僕の制服がとても自然に見えた。
竜族には付き人がいないと聞くし、コウヨウは、そもそも竜王なのだから、そんな仕事はしないはずである。事前にこの国の習慣を学んで来たにしても、それが違和感なく見えるのは、すごいことだと玄初は思った。それに引き換え玄初の方は、官吏になって半年は過ぎたというのに、未だに国官の仕事に馴染まなかった。
「何事も、一朝一夕には行かないものです。」
笑いながらコウヨウが言ったので、玄初は顔を赤らめた。その外見が自然に見える分、相手が人とは異なる、と言うことをつい忘れてしまうのだ。しかし、考えが伝わると警告されていても、考えることは止められない。
「気にしなければ良いのです。」
コウヨウは何の事はない、という口調でそう言うが、そうしようと思えば思うほど、気になるものだ。
「それなら、他の事を考えるというのはどうですか?」
「他の事……?」
「ええ。何かに夢中になっていれば、余計なことは考えずに済むでしょう?」
それは尤もなのだが、玄初には、代わりに何をすれば良いのか思いつかなかった。
「では、玄初様の仕事場を案内して下さい。それから、出来れば騎士宮まで行きたいのです。」
「騎士宮へ……?」
それへ頷いて、少し確認しておきたい事があるので、とコウヨウは言った。
「それなら先ず、騎士宮へ行きましょう。俺……私はまだ見習いなので……。だから、コウヨウ様に仕事を紹介すると言っても、王宮の中を見せるくらいしかできません。」
そう言って西翼の方へ歩き出した玄初を、コウヨウは引き止めた。
「コウヨウ、と呼び捨てにして下さい、玄初様。従僕の制服を着ている私にその呼び方では、おかしいと感じますよ。」
そうは言っても、仮にも竜王を呼び捨てにする訳には行かない。玄初が困った顔をしたのを見て、コウヨウは続けた。
「私は、気にしません。私達は普段から、あまり敬称に拘らないので。」
「努力……してみます。」
自信なさげに答えた玄初に対して、そう願います、と応じたコウヨウの微笑みは、まるでいたずらっ子のようだ。
「ですが、そうすると竜族は、目上、目下に関わらず、名前で呼び合うのですか?」
玄初の質問に、コウヨウは少し首を傾げてから、いいえ、と答えた。
「では、どうやって相手を呼ぶのですか?」
「相手を特定して話す必要がある時には、階級を用います。……こちらでも、役職を呼び名に使うことは普通でしょう?」
そう言われてみれば、〈二の竜〉という呼び方は、その地位を示したもので、玄初達は、彼の名前を知らなかった。
「ええ。でも、それなら同じ役目の者は、どう区別するのですか?」
「同じ立場の者など、私達の世界には存在しません。」
きっぱりとした口調でそう言うと、コウヨウは先に立って歩き出した。
「でも、それでは……。」
慌ててその後を追いかけた玄初の頭には、竜族に対する疑問が次々と浮かんでいた。
(全ての者に異なる役職名がついていると言うこと? じゃあ、子供や役を退いた者はどうするのだろう?女性にも階級があるのだろうか?)
だが、奥宮の中では他の人の目もある。結局、玄初はそれらの疑問を飲み込んだ。
(竜族にとって、階級で呼ばれるのが普通なら、コウヨウ様を一の竜と呼ぶが適切なのだろうけれど……。)
その呼び名は使わないで欲しいと、既に言われているし、それに外では、その名で呼ぶ訳には行かない。
(コウヨウ〈様〉をつけない……と。うっかり間違えないと良いけど。……あれ?)
突然、前を歩いていたコウヨウの姿が見えなくなったので、玄初は辺りを見回した。
(あぁ、そうか。……ここだった。)
そこは一見すると、直線の廊下が続いているように見える場所だが、実際には目の前の柱の脇に曲がり角がある。両翼の建物は、侵入者を防ぐ為に、わざと分かり難く造られているのだと、玄初は聞いたことがあった。
廊下を曲がると、コウヨウが立ち止まって、玄初を待っていた。
「つい、考え事をしてしまって……。」
どうかしたのか、とでも言いたげなコウヨウの顔を見て、玄初はそう言い訳した。実のところ、玄初は大抵、この場所を通り過ぎてしまうのだ。
それにしても、玄初が覚えるまでに一ヶ月以上もかかった西翼の中を、コウヨウは戸惑う様子もなく歩いて行く。
(そう言えば、コウヨウ様と西翼を歩くのは、初めてではないだろうか……?)
「そうですね。でも大丈夫ですよ。」
何の前置きもなくコウヨウがそう言ったので、玄初は、何のことかと聞き返した。
「道に迷う心配はありません。……見えていますから。」
「見えているって……何が?」
コウヨウは足を緩めて、玄初の隣に並んだ。
「あらゆる存在が、です。」
そう言われても、玄初には理解できなかった。だが、それを聞いて良いものか、玄初は一瞬迷った。
「構いませんよ。むしろ、訊いてもらわなくては答えられません。ヒトと私達の何が同じで、何が違うのか。私も全て知っている訳ではありませんから。」
(そうだ。先日、探り合いは止めると決めたのだから、疑問に思ったことは取り敢えず訊いてみよう。質問に答えるか答えないかは、コウヨウ様の自由だもの。)
玄初が、心を決めてコウヨウの方を見ると、コウヨウは軽く笑った。
「先日、私達は、ヒトの意識を感じると言いました。それと同じことです。私達は、ヒトを感知するのと同じ感覚で、あらゆる存在を見ています。この世界に存在しているものは、全て信号を発していますから。」
「生きていないものでも……?」
「そうです。全ての存在は、各自の色と声を持つのですよ。」
コウヨウにそう言われて、玄初は辺りに目を走らせた。この瞬間にも、壁や天井が何か囁いているのだろうか、と思ったからだ。
そんな玄初の様子を見て、コウヨウが、忍び笑いを漏らした。しかし、コウヨウは、すぐにその笑いを消して、すっと玄初から距離を取った。その直後に、廊下の角から数人の女官が姿を現した。彼女達は、すれ違いざまに玄初達に会釈をして、通り過ぎて行った。
「あぁ、待って。」
玄初は、分れ道に差し掛かった廊下を、女官達が出て来た方へ曲がろうとしていたコウヨウを呼び止めた。確かに、その廊下の先にある階段を下れば、大庭園を抜けて花の宮殿へ続く外廊に出る。しかし騎士宮は、そこから更に中庭と広場を越えた先にあって、歩いていては時間がかかってしまう。
「騎士宮まで行くのなら、馬車を使いましょう。」
玄初はそう言って、コウヨウを連れ、馬車留りへと降りた。折よく、南門に向かう馬車が出るところだったので、二人はそれに乗り込んだ。
(あ……。用があるのは、左右どちらの騎士宮だったっけ?)
ふと玄初は、コウヨウにそれを聞いていなかったことを思い出した。
(でも、他の同乗者がいる前で、ご用はどちらですかと聞くのも変だし……。)
そう玄初が考えていると、耳のそばでコウヨウの囁く声が聞こえた。
『戦の起きている場所は、白家の領地でしたよね?』
その声は、いつものコウヨウの声より、少しだけ低く感じられた。
だが、コウヨウは窓の外を眺めていて、玄初の方を見てもいない。それに対して、他の乗客は何の反応もしていなかった。
玄初は驚いたが、同時にその声を聞き慣れているようにも感じた。
(今、両軍が対峙しているルゼルク州は白家が治めている。……と言うことは、左軍の白将軍の所へ行かれるつもりなのだ。)
コウヨウは、窓から玄初へ視線を移して、小さく頷いた。
(でもそれなら、南門まで行って乗り換えになる。)
玄初達が乗っているこの馬車は、西翼から出て、右軍の騎士宮を通り、南門へ行くものだ。王宮で働く者達の為に運行される馬車は、決まった場所へしか行かないから、左軍の騎士宮へ行くには、南門から東翼へ向かう馬車に乗り換える必要があった。
(馬車の都合が悪ければ、南門でしばらく待たされることになるかもしれない。)
『それは仕方ありません。』
玄初の耳には、幾分笑いを含んだようなコウヨウの声が囁くが、コウヨウの口元は全く動いていなかった。
(焔の塔の一件で、これが竜族の声だと分かったけれど、分かってはいても、何だか変な感じだ。)
『私は、玄初様がこの〈声〉に、意外と早く馴染んでしまわれたので、驚いています。』
そう言って、コウヨウは僅かに微笑んだ。
「馴染んだと言うか……。」
思わずそう声に出して、玄初は、向かいに座る乗客と目が合った。
「どうかなさいましたか、玄初様?」
コウヨウが素知らぬ顔で、そう訊いてきた。
「何でもありま……せん。」
気まずくなった玄初の声は、尻すぼみになって口の中に消えた。
(人前ではよほど気を付けないと、この調子では、独り言ばかり言うおかしな奴だと思われてしまいかねない。)
隣に座るコウヨウからは、笑いを堪えている気配を感じる。しかし、端から見れば、何事もないかのようにすました顔だ。
(声だけでなく、気分も伝わるというのは不思議だな……。何と言うか、コウヨウ様の中に、別のコウヨウ様がいるみたいだ。そして、その内側のコウヨウ様と、俺が繋がっている……。)
コウヨウの言葉通り、玄初はその事に対して、然して違和感を感じていない自分に気が付いた。
(それに何だか、陛下と似ている……気がする。)
何が似ているかは言いようもないが、強いて言えば安心感だろうか。
玄初は子供の頃から、王都に対して暖かさのようなものを感じていた。その理由の一つが、伯暖王の存在であることを、玄初は最近になって知った。
昨年末、国官を養成する学校である太学を卒業して、国試で国王陛下の面接を受けた時、玄初は伯暖王に同じ感覚を感じたのだ。それ以来、玄初と伯暖王との間には、片時も途切れることのない繋がりが生まれていた。
(そう言えば、州試に合格して王都の太学に入るという時も、王都に〈行く〉のではなく、王都に〈帰る〉と言ってしまって、州の学校の友人達から、王都の生まれなのかと聞かれたな。)
勿論、玄初は、黄家の領地であるクローディ州の出身だ。今でも玄初の母親は、クローディの州都エルサに住んでいる。ただ、母は、紅家の治めるエルムホアの生まれだった。一度、王都で女官をしたと言うような話は聞いた事があったが、それは玄初が生まれる前の話だ。
そして、最も不思議だったのが、玄初にとって一番落ち着く場所が、焔の塔だと言うことだった。兄に連れられて塔に行った時、玄初は、初めて訪れたはずのその場所で、やっと帰って来た、と思ったのだった。
(機会があれば、陛下に伺ってみたいと思っていたけれど……。)
伯暖王がおいでになられる時は、いつも兄の子清が一緒で、玄初はその話題を持ち出すことが出来ないでいた。
(コウヨウ様になら、お聞きすることが出来るだろうか。)
だが、玄初と伯暖王の間の事を、コウヨウに尋ねるのはおかしい気もした。
玄初がそんな物思いに耽っている間に、馬車は南門に到着した。幸い次の馬車もすぐに見つかったので、玄初とコウヨウは、程なく左軍の騎士宮へ行くことができた。
だが、騎士宮の入り口で、玄初が名前を告げて白将軍への面会を申し出ると、対応した武官は渋い顔をした。
「今は、戦の支度で忙しい。将軍もお会いにはなれないだろう。」
「それは、存じ上げております。」
玄初の返答を聞いて、武官は、それならお引き取り下さい、とやや強い口調で言った。
(でも、コウヨウ様が、用があると言うのだから……。)
玄初は、公衛殿下の名前を持ち出して面会を取り付けるつもりだった。
『その必要はありません、玄初様。』
玄初の耳元で、コウヨウの囁き声がした。
「え、どうして……?」
玄初の言葉を待たずに、コウヨウの声が続けた。
『先日の前線での騒ぎについて、知ることを話せ。』
囁きよりも小さなその声は、どうやら玄初へ向けられたものではなさそうだった。
玄初の目の前に立っていた武官が、ほんの少し眉を寄せ、それから軽く首を振った。
「……出立を前に、皆、気が急いている。急ぎの用件でなければ、明日以降にしてくれ。」
「ええっと……。」
武官からそう言われて、玄初はコウヨウを窺った。
じっと騎士宮を見上げているその横顔は、いつもと変わらない。しかし、コウヨウから感じられる気配は、まるで炎に触れているかのように酷く熱かった。
「玄初ではないか。……どうかしたのか?」
不意に、そう声を掛けられて、玄初は騎士宮から出て来た男へ視線を移した。
「白将軍閣下……。」
玄初達の相手をしていた武官が、緊張した面持ちでその男、左軍将軍、白子剛に敬礼をした。
「いえ、その……。」
突然の事に玄初が言い淀んでいると、コウヨウが代わりに前へ進み出て、お忙しいところ申し訳ありません、と応じた。その気配は、もういつものコウヨウだった。
「あぁ、これは……。」
コウヨウの姿を見た白将軍の顔が、僅かに引きつった。
「玄初、お客人がご一緒なら、先にそれを告げれば良いものを。」
「はい、申し訳ございません。」
玄初が謝罪すると、子剛は落ち着かなげに視線をさまよわせた。
「国境での竜族の事は……。」
「え……。」
独り言のような白将軍の呟きに、玄初は思わず聞き返した。
だが、それに対して、白子剛は怪訝そうな顔をした。
「何だ?」
「いえ、あの……。」
白将軍のその様子は、自分が何を言ったのか、いや、何かを言ったことさえ意識していないように見えた。
「玄初様にお願い申し上げて、これから街を案内して頂こうと思っているのです。」
横からコウヨウが口を出した。
(え……? そんなことは一言も……。)
そう思って玄初は、隣に立っているコウヨウを見遣った。それと同じくして、この忙しい時に、と白将軍が小さく舌打ちをしたのが聞こえた。
「しかし、前線での出来事……か。」
虚ろな瞳のまま、子剛は苛々とした様子でそう呟くと、コウヨウへ視線を移した。
「……そうだ。それなら、外出は明日以降にされてはいかがてす? 明日には竜……お客人の皆様も師団と一緒に国境へ向かわれる。そうすると、ここに残るあなたはお暇でしょう?」
これで解決だと言わんばかりの口調で、白子剛は言った。その顔は、普段通りの表情に戻っていた。
「私がここに、残る……?」
不思議そうに呟いたコウヨウに対して、子剛は苦笑を漏らした。
「いやいや、いかにお客人方とは言え、あなたのような幼い……年端の行かぬ者を戦場には連れて行けないでしょう。」
「それは……。」
一の竜に対して失礼だ、と玄初は言いかけたが、白将軍の傍らに立つ武官の存在を思い出して、慌ててそれを飲み込んだ。
「そうか、そう言う選択肢もあるのか……。」
コウヨウが、独り合点したように言った。
「どういうことですか?」
そう尋ねた玄初へは答えずに、コウヨウは、にっこりと白将軍に微笑んだ。
「それならば、尚更、今日の内に街へ行かなくてはなりません。玄初様に、案内をお願いした理由は、出立の準備の為ですから。」
それを聞いて、白子剛が顔を顰めた。
「それと、街へは玄初様と二人で行きたいと思います。騎士団の皆様方も、出立の支度でお忙しいでしょうから、お手を煩わせる訳には参りません。」
子剛の様子を気にも留めていないかのように、コウヨウは続けた。
「護衛を付けずに街へ……?」
「ええ。護衛がついていては、余計に目立ってしまいますし。」
「それは……そうだが。しかし……。」
子剛は迷うように、玄初とコウヨウを見た。
「ご心配には及びません。私も随行の一人に選ばれるくらいの腕は、持っております。」
(くらい、と言うか、竜族の中で、一の竜より強い者はいないはずだ。)
玄初がそう考えていると、白将軍も、何かを思い出したかのように顔を歪めた。
「あぁ、まあ……、そうだな。……ならば、玄初。護身用の得物を持って行け。」
「えっと、はい。ですが俺……。」
文官と言っても、官吏になるには、一通りの武芸の心得もなければならない。だが、玄初は、武器を持つことがあまり好きではなかった。
「では、私がお借りしてもよろしいでしょうか?」
そう尋ねたコウヨウに、白子剛は頷いた。そして傍らの武官に、玄初達を武器庫へ案内するように命じた。
通常、王宮の中で帯剣することは許されていない。ただ竜師に属する武官だけが、王宮を守る為に、宮殿内で武器を携帯することを認められているのだ。街に邸を持つ国官達の中には、護身用に武器を持ち歩く者もいたが、王宮へ入る際には、それらは全て、騎士宮へ預けることになっていた。
玄初は普段から武器を携帯しない。その代わり、玄初の行き帰りには護衛がついていた。玄初は不要だと思っていたのだが、それは兄の命令だった。
「どうぞ、お好きな物をお持ち下さい。」
担当の武官に鍵を開けさせると、左軍将軍の副官である皎敬邦は、そう言って玄初達を武器庫に招き入れた。
敬邦は、軍の準備状況を報告する為に、宮殿へ向かった白将軍の代わりに、玄初達を武器庫まで案内してくれたのだった。
コウヨウは、興味深そうに武器庫の中を見て歩いていたが、正直に言って、武器の良し悪しは、玄初には全く分からなかった。そもそも玄初は、武器を持って争うことが嫌いだった。
(竜族も、武器を持って戦うのだろうか?)
「武器を用いるのは、儀礼的な戦いに限ります。……通常は武器など意味をなさない。」
玄初の数歩先を歩くコウヨウが、独り言のように言った。だが玄初には、それが彼への答えだと、もう分かっていた。
皎敬邦は、付き従う武官達を扉の前で待たせていたので、武器庫の中にいるのは、玄初達三人だけだ。コウヨウの返事は、玄初の後ろを歩く敬邦にも聞こえていたはずだが、彼は何も言わなかった。
「では、竜族にも争いはあるのですね。」
そう言ってから、玄初は、国境で起こっている戦のことを思い出した。
(竜界でも、蛇竜族との戦いがあるのだろうか。)
「彼らとは、顔を合わせることもありません。」
片手で扱う剣の並んだ棚の前で立ち止まって、それらを値踏みするように見定めていたコウヨウは、そう言って玄初を振り返った。
「でも、それなら……。」
一体誰と争うのか、と玄初が言いかけた時、コウヨウが剣の一つを手に取って、鞘から抜き放った。玄初は、自分に向けられたその切っ先に、息を呑んだ。
「ただ有る為に。……力で役割が決まると言うのは、そう言うことです。」
コウヨウは抜き身の剣を検分すると、それを鞘に納めた。
「この剣をお借りします。」
コウヨウは、玄初の後ろに立つ敬邦に言った。
「……玄初様、本当によろしいのですか? やはり、護衛をお連れになられた方が、良いのではありませんか。」
そう言った敬邦は、腰に下げた剣へ手を掛けたまま、コウヨウを睨んでいた。
「大丈夫です。……本当に、大丈夫ですから。」
(だって、俺が感じるコウヨウ様の気配は、いつもの暖かさだ。)
玄初は、敬邦とコウヨウの間を遮るように立った。
「ですが……。」
何か言い止した敬邦は、しかし、玄初の胸に下がった黄玉石の飾りに目を留めると、諦めたように息を吐いた。
「まぁ、あなたには同じ事か……。」
皎敬邦の呟きは、玄初には意味が分からなかった。
「では、行きましょうか。」
敬邦が剣から手を離したのを見て、玄初はコウヨウを促し、二人並んで歩き出した。
結局、敬邦は、二人が騎士宮を出て行くまで、厳しい目つきでコウヨウのことを見つめていた。
騎士宮を出ると、玄初はコウヨウを振り返った。
「申し訳ありません。」
玄初の言葉に、コウヨウは首を傾げた。
「どうして、玄初様が謝罪されるのです?」
そう言われてしまうと、玄初は、何と答えて良いのか分からなくなった。
(あの質問は、自分の方が悪かった。だって俺は既に、竜族の地位が、その力によって決まると聞かされていた。……そしてその意味は、少し考えれば分かることだ。)
だが、それならコウヨウは、その戦いに勝って、一の竜の地位を手に入れたと言うことになる。玄初は、自分より五、六歳は年下に見えるコウヨウを見つめた。
(そうしてでも、一の竜になりたい理由が、コウヨウ様にはあったのだろうか?)
いや、その理由があったからこそ、彼は一の竜なのだろう、と玄初は考え直した。けれどそれは、何だか寂しいことのように、玄初には思えた。
「竜族にとっては、それが当たり前なのです。……誰も疑問にも思わない。」
そう呟いたコウヨウの声は、僅かな怒りを含んでいるように玄初は感じた。しかしコウヨウは、そのまま南門へ向けて歩き出した。
「待って下さい。……あの、騎士宮でのご用は、もう良いのですか?」
確かコウヨウは、騎士宮で確認したい事があると言っていたはずだ。それがいつの間にか、玄初と街へ出掛けることに変わっていた。
「用件なら最初で済んでいます。……後は、まぁ、言い訳ですね。だって、白将軍を前にして、何でもありません、と逃げる訳にも行きませんから。」
最初で用は済んだ、との言葉に、玄初は、騎士宮で用件を告げた直後のコウヨウの様子を思い返していた。
(国境での騒ぎ、とコウヨウ様は言っていた。)
楽浪との国境に配置されていたルゼルク州師の部隊が、突然の大風に襲われて多数の怪我人が出た、と言う話を、玄初は兄から聞かされていた。恐らくコウヨウはそれについて、何かを確かめたいと考えていたのだろう。
(でも、用は済ませたと言っても、どうやって?……もしかして、あの〈声〉のこと?)
玄初は、その時の白将軍や武官の様子が、何となく変だったことを思い出した。
「ヒトを探していたのです。前線でその出来事を直接見た者がいないかと思って……。ですが、ここにはいませんでした。」
コウヨウはそう答えたが、それは玄初の疑問の答えにはなっていなかった。
「どうやって……ですか? 普段話す時と何も変わりません。一人に意識を向けるか、大勢に対して意識を出すかの違いだけです。」
そうは言っても、あれはほんの一瞬の出来事だった。左右の騎士宮には、正員だけで三、四千人の武官が所属している。譬えその半数が役目で外出していたとしても、騎士宮には千人近くの人が常駐しているはずだ。
(あの一瞬で、全員にそれを確かめた……?)
「反応があった者に対してだけです。そもそも、それを知っているのは、上層のヒト達だけでした。一般の兵士達には、知らされてもいない。」
コウヨウは、少し声を落として玄初に言った。
南門まではまだ少し距離があったが、王宮広場には、雑用をこなす下働きの者達が盛んに行き来していた。彼らは、国官の制服を着た玄初を見ると道を避けた。中にはコウヨウの肩に付けられた国章に目を留めて、慌てて顔を伏せる者もいた。
(でも高官達が知っている情報なら、竜族にも伝えられているはず。午前はその為の話し合いではなかったのだろうか?)
「伝え聞いた事では、見逃しがあるかもしれない。……一族の命を預かる身として、少しでも正確な情報が欲しい。……そう考えるのは当然の事でしょう?」
コウヨウの言葉に、玄初は頷いた。それは兄の口癖でもあったからだ。
(他人の言葉ではなく、自分の言葉で考えること。……兄上はいつもそうおっしゃる。)
「今回の事は、その指し手が読み難くて、正直、次の手に迷っていたのです。」
「指し手……ですか。」
コウヨウが譬えたのは、将兵や王の駒を使う遊戯のことだろうか。貴族の子供達は幼い頃からその遊戯に親しむ。そしてそれは、兵を動かす理論や駆け引きを学ぶ為に、士官の訓練にも用いられるものだった。
(迷っていた、と過去形で言うからには、もう心は決まったと言うことなのかな。)
コウヨウは、ちらりと玄初を見て頷いた。
「あ、そうか……。それなら、街へ行く理由はありませんね。」
街へ行くと言うのが、あの場の言い訳ならば、そうする必要はないだろう。
「ですが、剣をお借りしてしまいましたし……。」
と、コウヨウは苦笑した。確かに、このまま奥宮に戻るのなら、剣は騎士宮で返さなくてはならないが、さすがに、借りてすぐに返しては変に思われてしまう。
「それに、ここの市場にも興味があります。」
その言葉に、玄初は内心驚いた。と言うのも、普段の彼の務めの一つが市場の調査だったからだ。
「玄初様さえよろしければ、このまま市へ連れて行って頂けませんか?」
「それは勿論。俺の今の役目は、コウ……あなたの案内ですから。」
危うくコウヨウ様、と呼んでしまいそうになって、玄初は慌てて言い直した。
「市場は王宮から遠いのですか?」
含み笑いをしながら、コウヨウが聞いた。
「ええ、少し。でも、馬車を使えば暮刻に入る頃には、行って来られるはずです。」
二人の前方に城門が見えて来て、玄初は、コウヨウの先に立った。南門では警備の兵士の誰何を受けることになる。普段から出入りがあって、兵士達にも顔を覚えられている玄初が前に出て、コウヨウを連れだとした方が、すんなりと門を通れるだろうと考えたからだ。
「では、お願いいたします。」
コウヨウはそう言ってから、さりげなく制服の肩に付けられた記章を外し、腰に巻いていた帯の物入れにしまい込んだ。
(確かに、ここから先は、王宮の記章は目立つ。それが奥宮の記章と国章なら尚更だ。……それにしても、コウヨウ様は、こちらのことを良く知っていらっしゃる。実際、俺の説明なんて、必要ないのではないだろうか。)
「そのようなことはありません。玄初様のおかげで、ここへ来てから私は色々な発見をしました。」
「それなら、良いのですが……。」
コウヨウの微笑みにも、玄初は今ひとつ胸を張ることが出来ないでいた。
第二章 ―3―
§
「王宮の南側に、市街地が広がっているのですね。」
街並みを眺めながら、コウヨウが玄初に言った。二人は城門を抜け、王宮の外に設けられた馬車留りで馬車を待っていた。玄初の考えた通り、南門の兵士は、玄初の顔を見ると、すぐに城門を通してくれた。
「ええ、そうです。王宮の南側と東側を合わせて旧市街地と呼んでいます。南門の側は宿屋や商いをする店が多いですね。東門側は、六公をはじめとする貴族の屋敷が集まっています。これから行く市場は、市街地の南東の端にあります。」
それから、と玄初は、南門に隣接する二つの建物をコウヨウに示した。
「一つは都府で、王都の政を行う場所です。もう一つは護民官の詰め所で、護民官は都の治安を担当する州師の一部門です。ここラムゼイ州師の本拠地は、市街地の南西にあります。……そしてその長は、ラムゼイ州公である緑公衛殿下です。」
玄初は、そっと隣に立つコウヨウの表情を窺った。コウヨウが様々なことを事前に調べて来ている様子なので、玄初は、自分が余計なことを言ってはいないかと、つい考えてしまうのだ。
「では、王宮の北西側は? 王宮の北西にも城門がありましたよね?」
コウヨウの言葉通り、王宮の城門は三ヶ所にあった。北西の門は、そこを流れるエーベル川に架かる橋を渡ると、新市街地と呼ばれる街に出る。本来、この北西の門は、緊急時に竜師や州師が利用する目的で造られたものだった。その為、新市街地は、道幅や建物を建てる場所が厳しく制限されていた。
「北西側は、街の規模は小さいですが、職人町があります。新しく移住してきた人達が多く、最近では市場も開かれて、街は広がって来ています。」
玄初は一台の馬車を捉まえると、コウヨウを促してそれに乗り込んだ。
玄初が行く先を告げると、馬車は貴族達の屋敷が集まる東街の方へ走り出した。旧市街地の中はエーベル川の支流によって、南北に街が区切られていた。だから、街の南に行くには、必ず、東か西の橋を渡らなくてはならなかったのだ。
「北側に見えるひと際背の高い建物が、女神シュンヨウの神殿です。神殿の周辺には六公の屋敷があります。」
東街を通りながら、玄初はコウヨウにそう説明した。
「では、玄初様は、普段はそこにお住いなのですね。」
コウヨウの言葉に、玄初は一応頷いたが、その内心は少し複雑だった。
(住んでいる……と言うか、お世話になっている、のかな?)
玄初は、国官の職務と同じように、官吏になってから暮らしはじめた都の黄家の邸にも、まだ慣れていなかったのだ。
国官は、希望すれば花の宮殿の一室を宿舎として与えられる。玄初は、少なくとも国官の務めを覚えるまでは、他の新任の官吏達と同様に、宮殿で寝泊まりするつもりでいた。だが、兄の子清がそれを許さなかったのだ。
玄初は学生の頃も寮で暮らしていて、あまり黄家の邸に帰ることはなかった。
その所為もあって、黄家の邸での四六時中付き添いの者がいて、何から何まで世話をしてくれるという生活に、未だ馴染めないでいた。
無論、母の邸にも使用人はいたから、玄初とて子供の頃は彼らの世話を受けていた。だが、母は、自分で出来ることは自分でさせる方針の人だった。
ところが都の邸では、机の上の文箱から筆一つを取るのも、従者と呼ばれる付き人が行うのだ。そして、玄初が自分でそれをすると、彼らは不服そうな顔をした。
「自分でする、とおっしゃれば良いではありませんか。」
一体何がそんなに可笑しいのか、コウヨウは、必死に笑いを堪えているという顔をして、玄初に言った。
「それは、そうかもしれませんが……。」
玄初には玄初の職務があるように、彼らにも彼らの役目がある。それは理解しているから、玄初はやめて欲しいとは言えなかった。
「それなら、玄初様がお慣れになることですね。」
コウヨウは、あっさりとそう言ったが、それに慣れることが出来ないから、玄初は複雑な気持ちなのだ。
「一度、例外を作ってしまえば、後は楽です。とは言え、最初の抵抗は強いでしょうけれど。」
コウヨウのその言い方は、まるですでに経験済みだ、と言わんばかりだ。しかし、不思議そうな玄初の視線にも、コウヨウは笑って答えなかった。
やがて、市場の近くの大通りで馬車から降りると、玄初とコウヨウは、二人並んで市場へ通じる路地を歩き出した。
路地は、大人三人がようやく並べるくらいの幅しかなかったが、市場からの帰りと思われる荷物を抱えた女性達や、家と家との狭い隙間を走り回る子供達、それから、住宅の間に点在する小さな工房に出入りする男達、と路地を行き交う人は多かった。二人はそれらの人々の間を縫うように歩いていた。
すれ違う男達の中には、一人二人、玄初の官服を見てぎくりとした表情を見せる者がいたが、玄初は気づいてもいなかった。コウヨウは、それらを興味深く眺めていたが、玄初には何も言わなかった。
一方、玄初は、聞こえてくる声の方に気を取られていた。道幅が狭く家々が接近しているこの辺りでは、家の中にいる人の声も路地まで聞こえて来るからだ。
(どうか、誰も言わないでくれ。)
玄初はそう願いながら、広い市場通りへ出ようと足を早めた。
「嘘をつく子は、竜に連れて行かれるよ!」
一軒の家の中から母親らしい女の声が聞こえて、玄初は青ざめた。道行く人達はそれを聞いて、にやりと笑って通り過ぎて行く。その後から、子供が泣きながら謝る声も聞こえてきた。
「常套句ですよね。」
そう言うとコウヨウは、少し肩を竦めるようなしぐさをして笑った。
「ご存知……なのですか?」
驚いて玄初が尋ねると、まあ、と言葉を濁して、コウヨウは気にも留めない様子で歩き続けた。
程なく市場通りに出ると、活気に溢れた売り子の声が二人の耳に飛び込んで来た。市場には、果物、野菜、穀物、豆類と扱う品物ごとに店が立ち並び、それらの隣には、色とりどりの布が天井まで掛けられた店もあった。コウヨウは興味深げに、店先に並んだ商品を覗き込みながら歩いて行く。日曜雑貨を扱う店、肉屋、魚屋など、たくさんの店がある中で、コウヨウが一番長く足を止めて見入っていたのは、装身具を扱っている店だった。
「細工物は、どうやって作っているのか興味が湧きます。」
そう言ったコウヨウの瞳は、花を見つめていた時と同じく、幼い子供のようだった。
片や玄初は、穀物や野菜、塩を扱う店などで時々足を止めては、人々のやり取りをそれとなく聞いていた。コウヨウは、そんな玄初の様子も面白く眺めていた。
「玄初様は、普段こういったお仕事をされているのですか?」
「あぁ、すみません。……仕事で来たのではないのに、つい習慣が出てしまいますね。」
言われてはじめて気が付いた、と言うように、玄初は照れ笑いを浮かべた。玄初の仕事の一つは、人々の生活に直結する物資の値段の調査だ。その売値が、定められた範囲に収まっているか、急な値上がり、値下がりが起こっていないかを見張るのが、彼の役目の一つだった。
「だから、先程から玄初様の姿を見かけると、怯える者がいるのですね。」
それを聞いた玄初は眉を顰めた。値段の調査と同時に、玄初が担うもう一つの仕事が、裏取引の噂の収集だ。だが、コウヨウは玄初を見て、小さな笑いを浮かべた。
「多少のお金を使ってでも、取引を有利に進めたいと言うのは、商いをする者なら、誰でも思うことではないですか?」
「徒にそれを許せば、風紀は乱れます。それで不利益を被るのは、正直に生きている市井の人々です。」
玄初の答えに、コウヨウは大きく頷いた。
「それが、黄家の答えなのですね。」
そう言ったコウヨウの目線は、一瞬、玄初の胸飾りに止まった。
(何だか、国試の最終試問を受けているみたいだ。……面接で、陛下も同じようなことをおっしゃった。)
玄初は無意識に、胸の黄玉石に手を遣った。お守りだ、と言って兄が玄初にくれたその玉石には、金燕と砂華を意匠とした黄家の紋が刻まれていた。金燕は民の安らぎを、砂華は公平な裁きを意味する。どちらも、古い時代の黄家の役割を表したものだと、玄初は聞かされていた。
(でも、どうしてコウヨウ様がそれを……?)
家紋の意味など、親から子供へ伝えられるもので、世間一般に流布しているものではないはずだ。玄初は一応、他家の家紋は知っている。だが、それに込められた意味までは知らなかった。
コウヨウは、玄初から視線を逸らせ、少し考える様子を見せた。
「一つには、その玉石が発する信号です。物は意思を持ちませんが、意志を持つ者がそれに触れることによって、そこに意識が残ります。その思いが強ければ強いほど、それが繰り返されれば、繰り返されるほどに、宿る力は強くなる。……その願いの強さを、ヒトは『お守り』と呼ぶのかもしれませんね。」
玄初は、家紋の刻まれた黄玉石を手に取り、しげしげとそれを見つめた。
(代々の黄家当主に受け継がれて来たこの玉石に、そんな気持ちが込められていたなんて……。)
玄初は、それを彼に与えてくれた兄のことを思った。
「では、コウヨウ……。あなたのところでは、どうなのですか?」
玄初は、敬称をつけずに彼を呼ぶことに、どうしても抵抗を感じていた。
「どう……と言うのは?」
「えっと、あの……。あなたの国にも、俺のような役目の者がいるのかと思って。」
コウヨウは、ぐるりと市場を見渡した。
「その必要はありません。」
コウヨウはそう言うと、通りを横切って歩き出した。
「必要ないって、どういうことですか?」
玄初は、コウヨウを追いかけて、その横に並んだ。
「全ての物は、使われる為に作られているからです。」
「それは、つまり……。」
コウヨウの話は、官吏を登用する為の試験のようだ。ただし、その理論は玄初達とは逆だ。
「余分に作られる物がないから、それを売り買いする市場は成立しない、と言うことですか?」
玄初の問いに、そうです、とコウヨウは頷いた。
(確かにそれなら、市場を監視する役目は必要ないけど……。でも、竜族の世界に商いの習慣がないのなら、商売人の考え方を、コウヨウ様はどこで学んだのだろう?)
コウヨウは通りを渡ると、足を止めることなく路地の一つへ入って行った。
そこに何かあるのだろうかと、玄初が思った時、小さな雑貨屋の店先に置かれた椅子に、一人の老婆が腰掛けているのが目に入った。
「良い香りがしますね。……それは、売り物ですか?」
見れば、老婆の側には大きめの籠が置かれていた。玄初が覗き込むと、籠の中には十個ほどの金色の実が入っていた。
突然声を掛けられた老婆は、驚いたようにコウヨウを見つめている。
「糖柑ですね。……王都で見かけるのは珍しい。」
脇から玄初が言うと、そうなのですか、とコウヨウが微笑んだ。
「お前さんは、王都の出身ではないのかい?」
コウヨウの笑顔を見て、少し警戒を解いた様子の老婆が、そう話しかけてきた。
「ええ、王都へは来たばかりで……。」
コウヨウはそう言葉を濁したが、老婆は、じっと玄初の文官の制服と、コウヨウの従僕の制服を見比べていた。
「あぁ、俺は南のクローディの出身なので、糖柑は馴染みの果物です。でも、王都へ来てから、こんなに大きな糖柑は見たことがありません。」
玄初の言葉に、老婆は頷いて、この王都の辺りが、糖柑が実る北限だからだろうと言った。
「良ければ、その糖柑を譲って下さいませんか? 皆、喜ぶと思うので。……あぁ、私達は、北の方の国から、このイスタムール国へ来ているのです。」
コウヨウはそう言いながら、玄初に軽く目配せして見せた。
「え、ええ。……そうですね、北のお客人には、糖柑は珍しいでしょう?」
玄初は、何とかコウヨウに話を合わせた。しかし、それを聞いた老婆は、渋い顔をして二人を見た。
「すまないが、これは知り合いに分ける為にと持って来た物でね。残っているのは、傷の入っている物ばかり。とても、外の国のお客人に出せる物ではないよ。」
「私は、それでも構わないのですが……。」
コウヨウは残念そうに、籠の中の糖柑を見遣った。老婆は、そんなコウヨウの顔をじっと見ていたが、しばらくして、それなら、と切り出した。
「家まで来てくれるのなら、まだ木に残っている実がある。……ただ、あたしが収穫するには、高いところにあるのでね。取って貰う手間をかけてしまうけれど。」
それでも良いなら、と言った老婆の言葉に、二人は顔を見合わせた。さっき夕の正刻を告げる鐘を聞いたばかりだから、暮の刻までは、あと一刻間ほどだ。王宮まで帰る時間を考えれば、それほど遠くへは行けない。老婆にその事を告げると、彼女は、家はすぐ近くだと言った。
「では、お言葉に甘えて、そうさせて頂きます。」
玄初が口を開く前に、コウヨウがそう答えた。
老婆はその返事を聞くと、立ち上がって傍らの籠を取り上げ、先に立ってさっさと歩き出した。コウヨウが望むのなら、玄初は否とは言えない。老婆の後について歩きながら、玄初はコウヨウの側に寄って、小声で話しかけた。
「最初から、あの糖柑が目的で、路地へ入ったのですか?」
「ええ。とても良い波動が届いて来ましたから。」
コウヨウはそう言って、小さく笑った。
糖柑は皮がとても薄くて剥き難いが、その実は糖蜜のように甘い。そのことから糖柑の名前がついているのだが、その匂いはさほど強くはなかった。他の柑橘類と同じように皮を剥けば香りが立つが、そのままの実では、鼻を近づけようやく香りが分かる程度だ。
竜族はとても匂いに敏感だ、とは聞いていたが、そうは言っても、広い市場通りの反対側にまで、糖柑の香りが届くとは到底思えなかった。
「そうですね……。嗅覚というより、玄初様の『お守り』に近い感覚でしょうか。」
意味が分からずに玄初が戸惑っていると、コウヨウは、もどかしそうな顔をした。
「全てを言葉にするのは難しい。きっと、他の者達も、慣れない言葉で表現することに疲れて、思っていることを言わないでいるのだろうな。」
コウヨウと話していると全くそうは思わなかったが、竜族は寡黙だ、と聞かされていたことを、玄初は思い出した。
「……ですから、嬉しそうな波動が届いて来たのです。美味しそうな表情と言うか、食べた時の甘さとか香りとか、それらを見て喜ぶ心地とか、そんなものが全部、一緒になって漂って来たのです。……だから、そんな暖かさを発している物は、何なのか知りたいと思ったのです。」
「人……ですか? 糖柑ではなくて?」
初めて聞いた時ほどの違和感はないが、コウヨウの話すこちらの言葉と、玄初の内側で聞こえる竜族の言葉の二重音は、時折、玄初を混乱させた。
「同じことです。物の波動は、ヒトの思いを反映している。」
途中、老婆は、小声で話す二人の方をちらりと見遣ったが、そのまま何も言わずに歩き続けていた。いつの間にか、辺りの家は疎らになり、代わりに小さな畑が点在する街の外れまで来ていた。
もう先には数件の家しかない分れ道で、老婆は足を止めて、玄初達を振り向いた。
「こんな辺鄙な場所まで、貴族の坊や二人だけで付いて来て、追剥ぎだったらどうするつもりだい?」
老婆の言葉に、玄初は顔色を変えた。
「大丈夫です。辺りにヒトの気配はありません。」
一方のコウヨウは落ち着き払っている。
「お前さんは若いのに、たいした度胸だね。」
老婆は微笑を浮かべて、コウヨウの持つ剣へと視線を移した。
「その剣は飾りではない、という訳だ。」
「ええ、まぁ。………あなたは、この家にお一人で暮らしていらっしゃるのですか?」
コウヨウは、目の前の家を見ながら、そう老婆に尋ねた。見れば、その家の庭には、屋根に届きそうなほどの大きな樹が生えていて、黄金色の実を、枝もたわわに付けていた。
老婆は家を振り返ると、ああ、と少し寂しそうに答えた。家の窓には、壊れた扉の代わりなのだろうか、所々、無造作に板が打ち付けられていた。
「旦那も息子も、先に逝ってしまったからねぇ。」
玄初が少し離れた隣家へ目を向けると、そこは長らく空き家になっているのだろう。玄関の扉が一部はずれて、そこから空っぽの部屋を覗き見ることが出来た。
「……やっぱり、この木からも良い香りがします。」
糖柑の樹を見上げ、目を細めてコウヨウが呟いた。
「あ……。あの、これほど大きな糖柑の木は、俺の郷里でもあまり見かけません。王都でも、こんな立派な樹になるのですね。」
老婆が怪訝な顔をしたので、玄初は慌ててそう言った。
「そうさね。この樹を見た人は皆、珍しいと言うよ。毎年、うちの糖柑は特別甘いと評判だ。取り分け、今年は出来が良い。」
そう言って糖柑の樹を見上げる老婆は、とても優しい瞳をしていた。
「大切にされているのですね。」
糖柑の木から老婆へと目を移して、コウヨウが言った。
「色々な想い出が、詰まっているからねぇ……。」
老婆の呟きを聞いて、玄初は自分の胸飾りに手を遣った。その意味を知った今は、冷たい玉石の感触の奥に、暖かさが宿っているような気がした。
(この女性にとっては、この木が、見守ってくれるものなのだ。)
玄初は、糖柑と彼の胸飾りが似ている、と言った先程のコウヨウの言葉に、ようやく納得が行った。
「思いを込めて作られたものは、受け取った相手に幸せな気持ちを届けてくれる。だから、あなたの糖柑は甘いのでしょうね。」
コウヨウの言葉に、老婆は嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「……それじゃあ、済まないけれど、収穫を手伝ってもらえるかね。」
「ええ。任せて下さい。」
コウヨウはそう言うと、老婆が空にした籠を一旦玄初に預けて、身軽に木を登って行った。そして、木の上で玄初が差し出した籠を受け取ると、コウヨウは次々に糖柑の実をもいでは、その籠に入れていった。見る間に籠は一杯になり、すぐにコウヨウは、山盛りになった糖柑を抱えて木から降りて来た。
「まぁまぁ、こんなにたくさん。ありがとうねぇ。……これなら明日、家に来る娘の子供達にも、分けてやれそうだ。」
籠に山盛りの糖柑を見て、老婆は言った。それから彼女は、入れ物を探して来ると言って、立て付けの悪くなった玄関扉を開け、家の中へ入って行った。
「何故だか懐かしい感じがする……。」
老婆の姿が見えなくなると、コウヨウがそう呟いた。その瞳は、じっと糖柑の樹を見つめている。
「これは自分の記憶なのか……。それとも、あの人の記憶なのだろうか?」
コウヨウは、何かを探すかのように古びた家に目を遣った。そしてそのまま、庭を歩いて行くと、コウヨウは、老婆が開け放した玄関から家の中を覗き込んだ。
「ちょっと、コウヨウ様……。」
無断で他人の家を覗くのは、行儀が良いとは言えない。玄初は、急いでコウヨウの側へ行った。
「やっぱり、この家を知っている。でも、誰が……?」
そう呟いたコウヨウの表情が、突然、険しくなった。
どうかしたのか、と玄初がコウヨウに問いかけるより前に、玄初の耳にも、虫の羽音のような甲高い響きが聞こえた。微かなその音は、何故か胸をざわつかせた。
(この音、どこかで聞いたような気がするけど……。)
玄初が思い出せずにいる間に、家の奥から老婆が姿を見せた。彼女はその腕に、細長い布を重そうに抱えていた。
待たせてしまったね、と言いながら歩いて来る老婆に、コウヨウは後退りして家の入り口から離れた。だが、その目は老婆から動かない。
(コウヨウ様は、この音が嫌なのだ。)
老婆が近付いて来るにつれ、玄初の耳に聞こえる虫の羽音のような音は大きくなり、時々、それが獣の遠吠えにも聞こえた。
「その……、手に持っていらっしゃる物は、何ですか?」
玄初は、玄関を遮って、コウヨウと老婆の間に立った。
「これかい? これは剣だよ。」
老婆はそう言って、玄初の肩越しに背後のコウヨウを見た。彼女が手にした包みは、玄初でさえ不快に思うほどの音を発していた。
「私の夫は、ここラムゼイの州師をしていた。」
しかし、老婆は、気にする様子もなく話し続けた。
「その夫が、仕舞い込んで置くには勿体ない、と言っていたものだ。」
老婆は、コウヨウに渡すようにと言って、玄初にその荷包みを差し出した。
(受け取ってしまって良いのだろうか……?)
玄初は、横目でコウヨウを窺ったが、コウヨウは、その包みを見つめたままだ。
迷いながらも玄初が受け取ったその剣は、彼女のような老婆がよく持てたものだと思うくらいに、重量のあるものだった。
不思議なことに玄初がそれを受け取ると、剣が出していた音は幾分小さくなった。
「あれだけの量の糖柑を軽々と運べるお前さんなら、その剣も扱えるだろう。」
老婆は笑いを含んだ声で、玄初の後ろに立つコウヨウに話しかけた。
「その剣は、夫の従兄の持ち物でね。私らは息子に譲るつもりでいたけれど。あぁ、息子も州師の武官だったのさ。男の孫にも恵まれた。でも、五年前のあの流行病で、息子夫婦も孫も、亡くなってしまって……。」
老婆はそう言って、一つ溜め息をついた。
「娘の嫁ぎ先は商家で、子供も娘ばかりだから剣は無用の物……。私も老い先長くはないし、夫の従兄からの大切な預かり物を、どうしたものかとずっと考えていた。」
そこで話を止めて、老婆は、少し昔話を聞いてくれるかい、と玄初達に言った。
「えぇ、話して下さい。」
玄初の後ろから聞こえたコウヨウの声は、酷く掠れていた。
「その剣は夫の従弟、その剣の持ち主の弟さんだけれど、その人が冬器として作った物でね。……その剣を作り上げた日に、従弟は亡くなってしまった。」
その時、従弟は、まだ三十歳にもならなかったはずだ、と老婆は昔を思い出すように言った。
(そうか、この音は、緑の祭りで舞い手が持つ冬器の出す音だ。)
六年に一度、緑の年の終わりに、緑の月と呼ばれる閏月が巡って来る。緑の月は、イスタムール国を構成する六つの氏族、つまり六州公家の〈地祇〉と呼ばれる氏族の神を祀る月でもあった。
祭りでは、各家から選ばれた楽人と冬器を持った舞い手が、神に歌舞を捧げるのだ。緑の月の祭りの舞い手は、緑の年生まれの成人に限られるが、その舞は各家で異なる。そして冬器も、家ごとにある程度決まった形状をしていた。冬器が武器の形をしているのなら、それは白家か黒家のどちらかだ。
「でも、冬器ならどうして……。」
冬器は、土木や工業に関する仕事を行う工部の中で、冬官と呼ばれる特別な国官だけが扱えるものだ。冬器の出来を判定し、管理を行うのが冬官の役目だった。そして全ての冬器は必ず国庫に納められる。冬器は国王の為に作られ、王の許可により各家に貸し与えられるものだからだ。
玄初の質問に、老婆は小さく首を横に振った。
「その剣は、冬器とは認められなかったのさ。」
「そんな……。」
冬器は国王に捧げる物であるから、作り手達は、持てる力の全てを注いでその制作にあたる。だから『冬器は作り手の命を吸い取って冬器と成る』と言われるのだと、玄初は聞いたことがあった。でも、命の全てを捧げて作った品が、冬器として認められなかったのなら、亡くなった当人は浮かばれないだろう。冬器として作られ、冬器として認められなかった品物は、価値のない失敗作として扱われるのが常だ。
「従兄は亡くなる直前に、私達夫婦を訪ねて来て、その剣を置いて行ったのさ。その剣を、その由来とともに誰かに譲ってくれ、と言ってね。……私には、その剣が従兄とその弟さんの、二人の生きた証に思えてならなくて。」
老婆は、だから、と言って、コウヨウを見つめた。
「その剣を受け取っては貰えないかね?」
「……どうして、私に?」
俯いたまま、そう言ったコウヨウの声は、まるで泣いているように聞こえた。
「さぁ、そう言われるとねぇ……。糖柑の木に登るお前さんを見ていて、何故か従兄を思い出したのさ。」
そう言ってから、老婆は、少し遠くを見た。
「従兄が王都にいた頃だから、もう四十年近い昔になるかねぇ。……この家は、元々は従兄のものでね。毎年、従兄は木に登って糖柑を取ってくれた。従兄はとても身軽な人だった。私の夫なんて、一番下の枝で足を滑らせて、皆で大笑いをしたものだよ。」
だからと言うわけではないけれども、と老婆は続けた。
「もし従兄の子供が無事だったら、皆でこんな光景を見られただろうかと、ふと思ったものだからね……。」
「無事……と言うのは、事故か何か?」
玄初の言葉に、老婆はまた溜め息をついた。
「その発端は私の所為でもあるけれど……。従兄の子供は、生まれてすぐに行方不明になってしまったのさ。従兄は、その年に奥さんも亡くして……。折角苦労して手に入れた竜師の職も捨てて、従兄は郷里のルゼルクへ帰ってしまった。」
「竜師……? その方は、竜師の武官だったのですか?」
そうさ、と老婆は頷いた。
「従兄はラムゼイ州師から、竜師になった人だった。」
「州師から……。」
それは凄い、と玄初は思わず呟いた。
竜師は、王宮内の警備のみならず、国王や王族の外出などの際の警護も行うから、その人物への審査が厳しかった。最初に州師にいたと言うことは、その人は六公家とその分家である十二候家のいずれからも、後ろ楯を得ることの出来ない生まれだったと言うことだ。そこから竜師への推薦を得るには、相当の努力と、その能力を発揮できる機会に、恵まれていなくてはならない。
武官がその能力を発揮する場所が、戦場だということを考えれば、玄初は良い気分はしなかった。だが、その機会を、確実に評価に結びつけるだけの努力を、その人はしたと言うことだ。
「その人のお名前は、何とおっしゃるのですか?」
竜師に所属していたなら、王宮に記録が残っているかもしれない、と玄初は思った。
『……コウヤ。』
玄初の内側で、コウヨウの声が聞こえた。
「ああ、公鵺。その人の名前は、皎公鵺だ。」
コウヨウの声と重なるように、老婆がそう答えた。
玄初がコウヨウを振り返ると、傍らまで歩み寄って来たコウヨウが、玄初の腕からその剣を受け取った。剣はコウヨウの手に収まった途端に、ぴたりと鳴り止んだ。
「ありがとう、コウヤ……。僕も、幸せだったよ。」
震える唇で、そうコウヨウが呟いた。小さなその声は、すぐ側にいた玄初にしか聞こえなかったはずだ。
「もし良ければ、お前さんの名前を聞かせて貰えないかね? 春になったらルゼルクの墓に詣でて、その剣の持ち主に、誰に渡したか伝えておきたいから。」
老婆の言葉に、コウヨウは一拍置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「ヨウ……。コウヨウと言います。」
「まさか……!」
思わぬ老婆の大声に、玄初は目を丸くして彼女を見つめた。
「あぁ、そうだよね。あの子のはずがない……。だってあれは、もう三十五年も前の話だ。……でも、なんて偶然なのだろうね。従兄の子供の名前も、〈陽〉と言うのだよ。きっと、従兄の思いが、お前さんと引き合わせてくれたのだろうさ。」
大切にしておくれね、と言った老婆の言葉に、コウヨウは大きく頷いた。
「さ、もう日暮れも近い。最近この辺りは物騒になって来ていてね。追剥ぎが出たと言う話を度々聞くから、間違っても小径なんかに入り込んでは駄目だよ。」
そう言いながら老婆は、持って来た手提げ籠に糖柑を詰め、それを玄初達に渡した。それから彼女は玄関先に立って、二人の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。
第二章 ―4―
§
コウヨウは、黙ったまま早足で歩いていた。後をついて行く玄初は、小走りにならないと追いつけないくらいだ。
玄初の頭の中には、老婆の家での出来事についての疑問が浮かんでいたが、息が上がってコウヨウに話しかけるどころではなかった。
やがて市場の本通りに繋がる脇道の一つで、ようやくコウヨウは足を緩めた。
暮の刻が近いので、家々に挟まれた道は薄暗く、辺りには人気も疎らだ。ただ先を急ぐ二人の靴音だけが小さな道に響いて、やけに大きく聞こえた。
その時、二人の背後で、女性の悲鳴らしき声が聞こえた。それは然程大きな声ではなかったが、玄初達の気を引くのには充分だった。
玄初が振り返ると、家と家の間に入って行く人影と、その人影が手にしている刃物のきらめきが目に飛び込んで来た。
「いけません。」
人影の方へ走り出そうとした玄初を、鋭い声でコウヨウが制した。
「放っては置けないでしょう?」
玄初はそう言うと、彼の腕を掴もうとしたコウヨウを振り払って、脇道へと走り出した。それを見たコウヨウは、さっと辺りに視線を走らせた。だが、生憎と他にヒトが通りかかるような気配はない。それを確認して、コウヨウは舌打ちをした。
「全く……。仕方のない人だな。」
コウヨウは、玄初の後を追いかけて走り出した。この状況では、手に持った糖柑の籠と二本の剣は邪魔で仕方がなかった。しかし、どちらも置いて行くことは出来ない。
「あぁ、もう。荷物さえなければ。」
コウヨウが追いつけないでいる間にも、玄初は人影を追いかけて、小径を更に、込み入った家々の隙間のような道へと入って行ってしまった。
「その人を放せ。」
僅かに遅れて、コウヨウが玄初の姿が消えた脇道へ辿り着くと、凛とした玄初の声が聞こえた。それを聞いて、コウヨウは少し胸を撫で下ろした。
細い路地の先で、玄初は、女性の首に短剣を突きつけた男と対峙していた。男は、後から姿を現したコウヨウをちらりと見て、余裕の笑みを浮かべた。
「本気で、素手のまま、ごろつき達と渡り合うおつもりですか?」
小声でそう囁きながら、コウヨウは騎士宮で借りた剣を抜いて、玄初の側へ歩み寄った。
「ようこそ、俺の領分へ。疑うことを知らないお坊ちゃんの相手は楽だね。」
男はそう言うと、人質にしていた女と顔を見合わせて笑った。
それでようやく、玄初は、騙されていたことに気が付いたが、時すでに遅し。人の気配に玄初が振り返ると、いつの間にか、三人ほどの男が背後に立ち塞がっていた。
「さて、状況を分かって頂いた所で、持ち物全て置いていって貰おうか。……ああ勿論、着ているものも全てだ。命があるだけましだろう?」
頭らしいその男は、そう言って手にした短剣をちらつかせて見せた。人質のふりをしていた女も、手に短剣を握って、薄笑いを浮かべて玄初達を見ている。
玄初は申し訳ない気持ちで、隣に立つコウヨウを見た。だが、コウヨウは平然とした顔で、男と向かい合っていた。
「去るのはそちらの方だ。……死にたくなければね。」
コウヨウの言葉を聞いて、男が笑った。
「坊や二人で、何をするつもりだ。それとも、少し痛い目を見たいのか?」
頭の男がそう言うと、玄初達の背後で忍び笑いが上がった。
「死にたいみたいだな。」
コウヨウの口調は、幾分呆れた様子だ。
「殺しては駄目です。」
それに対して玄初は、きっぱりとした口調で、コウヨウに言った。玄初をちらりと見遣ったコウヨウは、溜め息をつくと、手に持っていた糖柑の籠と、老婆から譲り受けた剣の包みを玄初に押し付けた。
「はぁ……、あなた方も苦労しますね。」
まるで遠くに呼びかけるように、コウヨウがそう言うと、それを聞いた追剥ぎ達は、他に誰かいるのかと互いに目配せをした。
「なんだ、変なことを言いやがって。撹乱のつもりか?」
追剥ぎの頭は、舌打ちして短剣を握りなおすと、玄初の方へと一歩踏み出した。
咄嗟に、逃げなくては、と思ったものの、玄初の身体は糖柑の籠と剣の重さに、身動きすら儘ならない。それを庇うように、コウヨウが、男と玄初の間にすっと割り込んだ。ほんの少し場所を移しただけのように見えたのに、いつの間にか、コウヨウの手の中の剣は、ぴたりと追剥ぎの胸に当てられ、男の動きを封じていた。
「どうして殺してはいけないのですか?」
そう言ったコウヨウの口調は、まるで天気の話でもしているかのように単調だ。
一方、剣先を向けられている男は、ごくりと息を呑んだ。
「護民官に引き渡して、裁きを受けさせるべきです。」
玄初の主張に、コウヨウは小さな笑い声を上げた。
「本当に仕方のない……。わざわざ、護民官の手を煩わせるまでもないでしょう?」
コウヨウはそう言って、半歩、追剥ぎの男の方へと近寄った。剣を突き付けられている男は、必然、その分を後ろに下がらなくてはならない。
「わ……分かった、俺が悪かった。……何もいらないから、お前達は行っていい。」
慌てた様子でそう言いながらも、男が玄初達の背後にいる仲間に目配せをしたのを、コウヨウは見逃さなかった。
次の瞬間、コウヨウは何も言わずに玄初を横へ突き飛ばした。不意をつかれてよろめいた玄初は、受け身を取ることも出来ずに、すぐ脇に建つ家の壁に背を打ち付け、そのまま壁際にうずくまる格好になった。
その衝撃で、玄初が抱えていた籠の中から、糖柑の実が数個、地面に零れ落ちた。玄初の視線の先で、その糖柑の一つが、地面に突き刺さった手幅ほどの長さの小刀にぶつかって、向きを変えた。そこは、先程まで玄初達が立っていた辺りだ。
それを見た玄初は、青ざめた顔でコウヨウを見上げた。
一方のコウヨウは、一瞬だけ玄初に目を向けたものの、すぐに追剥ぎの頭との距離を詰め、男の持っていた短剣を手で叩き落とした。攻撃を受けた男が体勢を崩したのを見て取ると、コウヨウは背後に迫って来た男二人を振り返って、手にした剣で薙ぎ払った。その動きを警戒して、彼に近付いて来ていた男達の足が止まった。
その隙にコウヨウは、玄初に襲いかかろうとしていた男の一人に体当たりをして、その男を突き飛ばすと、もう一人の男の腕を捉えた。腕を掴まれた男は呻き声を上げ、手に持っていた短剣を取り落とした。しかし、男の剣先は、すでに玄初の腕を掠っていて、切り裂かれた袖の一部が、僅かに血に染まっていた。
それを見たコウヨウの顔が、見る間に険しくなった。すると、コウヨウに腕を掴まれている男が、突然、大きな悲鳴を上げ、近くにいた玄初の耳に、何かが砕ける鈍い音が聞こえた。
それからコウヨウは無造作に、その男を倒れ込んでいた仲間の方へ押しやった。然程力を入れたようにも見えなかったにも関わらず、押し遣られた男の身体は、起き上がろうとしていた仲間の男を押し倒して、更に先まで転がって行った。
「コウヨウ……!」
地面に倒れた男から目を戻した玄初が、コウヨウの背後に忍び寄る男達に気付いて、声を上げた。その声を聞いて玄初を見遣ったコウヨウの口元が、笑いの形に動く。だが、彼は背後を振り返ろうともしなかった。
それどころか、コウヨウはいきなり、男達の方へ、つまり真後ろへと動いた。
「危な……い!」
背後に迫る男達の手には短剣が握られていたから、そのまま下がれば、まともに刃を受けてしまう。玄初は思わず目を閉じた。
しかし、がつん、と何か硬いもの同士がぶつかる音がした後、玄初の耳に届いたのは、どさっと重いものが倒れる音と男達の呻く声だった。玄初が恐る恐る目を開けると、目の前の地面に、二人の男が腹を押さえて倒れていた。
コウヨウは、と言えば、残る頭目の男の剣をひらりと避けると、次の動きで踏み込んで、間合いを取ろうと後退りする男に肉薄した。
その様子は、まるで男の持つ剣など恐れていないように見えた。玄初は、騎士宮の武器庫で、武器など意味をなさない、と言ったコウヨウの言葉を思い出していた。
コウヨウは、近付きざまに頭目の男の足を払うと、倒れ込んだその男の胸に片足を置いて、喉元に剣を突き付けた。
「動くな!」
コウヨウの声が響き渡り、一瞬、追剥ぎの一味だけでなく、全てのものが動きを止めたように感じられた。
「殺しては駄目です!」
玄初は思わず大声を上げた。コウヨウから感じられる気配は、凍りつきそうなほどに冷え切っている。玄初は震える声を振り絞った。
「……コウヨウ。お願いです。」
コウヨウは、ゆっくりと玄初に視線を向けた。だが、その瞳は人形のように何の表情も浮かべてはいない。
「あの方が、ああ仰るので、殺さないでおいてやる。」
男の方へ目を戻して、コウヨウは言った。しかし、彼は男の上から動こうとはしなかった。代わりに、頭目の男が掠れた悲鳴を上げた。
「コウヨウ!」
玄初はもう一度、彼の名を呼んだ。するとコウヨウは、男から目を上げた。けれどもそれは、路地の先から聞こえて来た足音を確認する為だった。
「あそこです。そこで追剥ぎが……!」
こちらへ向かって来る複数の足音と一緒に、狭い通りの向こうで、誰ががそう叫ぶのが聞こえた。
「護民官が来たようですね。」
そう呟いて、ようやくコウヨウは男から離れると、剣を鞘に戻した。
それからコウヨウは、玄初に歩み寄り、手を貸して彼を立ち上がらせた。
その間に、頭目の男は、這々の体で逃げ出して行った。他の追剥ぎ達の姿は、疾うに見えない。
「この辺りで追剥ぎが出たとの通報があったが、見なかったか?」
足早に近付いて来た武官達が、玄初達の姿を見て、そう声を掛けて来た。
「さぁ……。今しがた走り抜けて行った男達がいたので、それかも知れません。」
コウヨウが、頭目の男が姿を消した道を指し示しながらそう答えると、武官達は顔を見合わせた。隊長らしき男が、何か言おうと口を開きかけたのに対して、側にいた武官が、その脇を突ついて何事か小声で合図した。
すると武官達の視線が、一斉に玄初の胸飾りに向けられた。
「いや。あぁ……そう言う状況ですから、気をつけてお行き下さい。」
護民官達は、緊張気味に目線を交わし合い、先を急ぎますので失礼します、と言うと、足早にコウヨウが示した道の方へと去って行った。
それを見送って、コウヨウは、転がっていた糖柑を拾うために地面に屈み込んだ。玄初も彼を手伝おうと、近くに落ちていた糖柑へと手を伸ばした。するとコウヨウが、その傍らに落ちていた平石に目を留めた。綺麗な円に加工されているその石は、手の中にすっぽりと収まる大きさだ。
「それは装飾品としては使えなかった玉石……くず石でしょうね。」
コウヨウが平石を拾い上げたのを見て、玄初は言った。
「申し訳ありません。ちゃんと守り通せなくて。」
コウヨウは、手の中の平石から玄初の腕の傷に目を移して、ぽつりと言った。
「ただのかすり傷です。」
切られた時は痛かったが、改めて見れば、それは引っ掻き傷程度で、すでに血も止まっていた。玄初は恥ずかしくなって、傷を見られないように腕を引いた。
「あなたが止めるのも聞かずに、追いかけて行ったのは俺ですから。……むしろ謝るのは俺の方です。案内役として、あなたの安全を最優先に考えなくてはならなかったのに、俺……。」
「私が連れ出したのですから、玄初様を守るのは私の役目です。」
拾い上げた糖柑を籠に戻してから、玄初の持っていた荷物を受け取ると、コウヨウは玄初を促して歩き出した。
「ああいう場合は、声を上げて助けを呼ぶ方が先ですよ。」
諭すようにコウヨウに言われて、玄初は小声で、はいと答えるしかなかった。
きっと、今日の出来事を報告したら、兄にも同じことを言われるのだろう。少し呆れたような兄の顔が思い浮かんで、玄初は溜め息をついた。
「まぁ、宰相閣下が、目を離せないと思う気持ちは分かります。」
そう言いながら、コウヨウは通りの角に立っていた若者に、手に持っていた平石を放り投げるようにして渡した。
それを受け止めた若者は、茫然とした顔でコウヨウを見つめた。
「済まなかった。」
脇を通り過ぎながらコウヨウが小声で、若者にそう囁いたのを玄初は聞き逃さなかった。
「どういうことです?」
足を早めたコウヨウに走り寄って、玄初は尋ねた。コウヨウは、玄初を横目で見ると、微かな笑いを浮かべた。
「護民官を呼んでくれたのは彼です。」
「え、そうなのですか……?」
それならお礼を言いたいと思って、玄初は後ろを振り返った。だが、そこにはもう、あの若者の姿は見えなかった。残念に思いながら玄初が目を戻すと、コウヨウは既に、かなり先に行ってしまっていた。慌てて玄初は、コウヨウを追いかけて走り出した。
第二章 ―5―
§
結局、二人が王宮に到着したのは、暮の半刻を告げる鐘が鳴り終わった後だった。
暮の半刻、つまり陽が落ちた時刻より後は、都の城門は閉ざされ、陽が昇る早刻の半刻まで出入りが出来ない。それと同様に王宮の警備も、暮の半刻から夜間の態勢へと変わるのだ。当然、夜間は、宮殿内に出入りする者への確認が厳しくなる。
「間に合いませんでしたね。」
王宮前の馬車留りで馬車を降りて、南門へと歩きながら、玄初はコウヨウに言った。
「問題は、この剣を持ち込むことを認めて貰えるか、ですね。」
コウヨウはそう言って、老婆から譲られた剣の包みを持ち上げ、玄初に示した。
「あぁ、それがありましたね。……何とか理由をつけて、騎士宮まで行ければ良いのですが。」
夜間は、そもそも王宮に入るにも、特別な理由が必要だ。それについては、玄初は宰相である兄の名前を使うつもりだった。
コウヨウについては、公衛殿下か、若しくは、国王陛下の命令で外出した、という言い訳が出来るだろう。しかし、剣を持ち込むには、何か尤もらしい理由を考えなくてはならない。
(南門で止められた時は、事情をご存じの白将軍に頼るしかない……。)
けれども昼間の感じでは、左軍将軍は、竜族にあまり好意的ではないように見受けられた。
「奥宮殿の肩章は付けた方が良いでしょう。」
玄初が言うと、コウヨウも頷いて、帯の物入れから記章を取り出した。
荷物を抱えているコウヨウの代わりに、その肩に記章を付けてやりながらも、玄初は、剣を持ち込むための言い訳を必死に考えていた。
(嘘は言えない。でも、真実を全て明かす必要もない。……理由として使えるとしたら、それが冬器だと言うことだろう。)
老婆は、その剣が冬器として認められなかったと言ったが、玄初が知る限り、それは冬器としての特徴を備えていた。
(少なくとも、一般の兵士に冬器かどうか判断する術はないはずだ。)
玄初は決心すると、騎士宮で借りた剣をコウヨウから受け取った。
「これは、私が借りたことにします。理由は、あなたの案内と警護のためです。あなたは、陛下のご命令で、その冬器を受け取りに街まで出掛けた。いいですね?」
玄初の言葉に、コウヨウは僅かに表情を曇らせた。
「例えその剣を取り上げられたとしても、冬器だと言っておけば、冬官へ送られます。その間に、公衛殿下に申し上げて、工部へ手を回して貰いましょう。」
コウヨウは少しの間、南門を見つめていたが、やがて黙って頷いた。
「心配されなくても、大丈夫ですから。」
玄初はそう言って、コウヨウを促して南門をくぐった。
二人が詰め所の前で足を止めると、警護の兵の一人が事務的に、所属と名前を名乗るようにと言ってきた。玄初が、自分とコウヨウの所属を告げると、対応した兵士は玄初の胸飾りに目を留めて顔色を変えた。
「あ、その……少しお待ち下さい。」
兵士は慌てた様子で傍らの扉を開けると、頭を突っ込んで、誰かとひそひそ話をしていた。やがて、対応していた兵士と入れ替りに、しぶしぶと言った様子で出てきたのは、どうやら上官らしかった。だが、彼の顔は明らかに怯んでいる様子だ。
彼は、玄初の制服とコウヨウの肩章を確認すると、遅い時間から入城する理由も問わずに、荷物の確認をさせて下さい、とだけ言った。
玄初は、手にしていた剣を差し出して、その剣を白将軍の許可を得て、左軍から借りたことを告げた。
玄初の剣を確認した後、コウヨウが持っていた包みを受け取った武官は、驚いた顔をして、その包みとコウヨウとを見比べた。玄初は、その剣がかなり重いものだったことを思い出して、内心冷や汗をかいた。
「中を確認させて頂いても、よろしいですか?」
武官はそう言って、返事も待たずに包みを解きはじめた。
「あ……、それは冬器として納められる予定のものです。」
玄初は平静を装って、そう言い訳をした。
しかし、それを聞いた武官は、荷を解く手を止めて玄初を見た。その顔は先程までとは打って変わって、厳しい表情をしていた。
「冬器の搬入搬出は、定められた日に、定められた手順に従って行う決まりになっているはずですが……。冬器を運ぶ者であるという認定証は、お持ちですか?」
(しまった……。)
咄嗟に言い訳を思いつくことが出来ずに、玄初は黙り込んだ。その様子を見て取った武官が、包みに手を伸ばして、やや粗雑にそれを開けた。
「冬器に添えられる決まりの、冬官の許可証もないようですね。」
武官は、言い訳は許さない、と言わんばかりの顔で玄初を睨んでいた。
(嘘をついて武器を持ち込もうとした行為は、反逆罪に問われる可能性もある。)
また自分の所為で、コウヨウ様に迷惑をお掛けしてしまった、と玄初は唇を噛んだ。
武官は玄初達から目を離さずに、隣の部屋にいる部下を呼んだ。
姿を見せた部下にその剣を渡そうと、武官がそれを持ち上げた時、剣を包んでいた布の間から何かが床に滑り落ちた。それを見たコウヨウが、さっと武官に走り寄る。
「なっ……!」
その動きを抵抗と見たのか、武官は飛び退いて腰の剣へ手をかけた。
しかし、コウヨウは武官の足下にしゃがみ込むと、そこに落ちていた小さな白い石を拾い上げた。
「それは何だ?」
武官は剣を抜き放つと、コウヨウに剣先を向け、手に持っている物を渡すようにと言った。だが、コウヨウは、手の中の石を見つめたまま動かなかった。
しびれを切らした武官が、コウヨウの持つ石に手を伸ばした。
「触れるな!」
大声を上げて、コウヨウが退く。それを見た武官の表情が、一段と険しくなった。
玄初の耳に、竜族は触れられることを何よりも嫌う、と言った兄の言葉が蘇った。
(どうしよう。……このままでは、大きな騒ぎになってしまう。)
「どうしたのだ。」
不意に隣室の扉が開いて、予想外の人物が姿を見せた。
「敬邦様……。」
武官と玄初が、同時にその名を呼んだ。
左軍将軍の副官である敬邦は、部屋の中の様子を見て眉を顰めた。
「どうして、こちらに……。」
玄初が聞きたかったことを、武官が呟いた。
「午後の勤務を終えた者から、あなた方がまだ戻らないと報告があったので、確認に来たのです。」
敬邦は武官にではなく、玄初達へ向けてそう答えた。その様子に、何か事情がありそうだと察した武官は、警戒しながらも武器を納めた。
「それは……?」
と、敬邦は、コウヨウの手元に視線を移した。コウヨウは、その問いには答えず、じっと敬邦を見つめている。
「あぁ、お守りですか。」
よくよく見れば、その石には紐が括り付けられていた。
「大事な物なら、落とさないように仕舞っておかれると良いでしょう。」
続けてそう言った敬邦の声は、何か変だ。玄初がそう思っていると、敬邦は眉間を軽く手で押さえて、何かを振り払うように小さく首を振った。その様子に玄初は、騎士宮の入り口での出来事を思い出した。
玄初は、そっとコウヨウの様子を窺った。いつの間にか、コウヨウは持っていた石を、どこかに仕舞い込んでいた。
「それで、何でしたか……? あぁ、お戻りが遅いので、国王陛下も宰相閣下も心配しておいでです。それで、まだ戻らないようなら、街へ探しに行かせようかと話し合っていた所で、その確認と手配の為にここへ来たという訳です。」
「それは、大変申し訳ありません。」
そう言った玄初に対して、敬邦は、謝罪されるのなら陛下に対してですよ、と軽く玄初を諌めた。
それから敬邦は、警護を担当する武官へ向かって、先程の状況の理由を説明するように言った。武官は、玄初達を気にしながらも、敬邦に事の顛末を報告した。
「成る程……。」
武官の説明を聞き終わると、敬邦は、兵士の持つ剣に目を遣って、幾分厳しい顔でコウヨウを見た。
「コウヨウ……の、彼の所為ではありません。俺が……。」
玄初は何とか弁解しようと口を開いたが、敬邦は、玄初様、とそれを遮った。
「……事情は後ほど伺いましょう。その冬器は、一旦、私の方でお預かりいたします。
」
敬邦は、異論ありげな武官を目線で制し、玄初達に早く奥宮へ戻るように言った。
玄初はコウヨウと顔を見合わせた。
『仕方ありません。』
コウヨウはそう伝えてきたが、玄初は、このまま引き下がる訳には行かない、と思った。しかし、良い方策は思い浮かばない。
警備の武官達は、依然として険しい顔で玄初達を見ていた。
「それから、宰相閣下より玄初様へ、戻ったら速やかに状況の報告に来るように、との伝言を承っております。」
宰相閣下という言葉を強調して、敬邦は言った。
「分かりました……。」
玄初はしぶしぶそう言うと、敬邦に促されて南門を出た。二人はそのまま、敬邦が手配した馬車で西翼まで戻った。
西翼を歩きながらも、あの場で何と言えば良かったのか、と玄初は考えていた。
(正直に中身は剣だと告げて、南門で預けた方が良かったのだろうか。)
だが、それでは城の中には持ち込めない。その場合は、外に出る時に、受け取ることが出来るだけだ。
(俺が黄家の屋敷へ持ち帰って、兄上に、冬器を持ち込むための手配をして貰えば良かったのかもしれない。でも、それでは手続きに時間がかかってしまう。……それに、剣の来歴も詳しく問われるかもしれない。)
皎公鵺の弟だと言うその作り手が、過去に冬官の審査を受けたのなら、その名前は工部の記録に残っているはずだ。
(そうか……。工部を通すとなると、冬器ではなく武器だと判断されてしまう。)
その剣は一度、冬器ではないと判断されている。そして、公式の記録として残された判定は覆せない。
(皎公鵺……か。コウヨウ様は、その人物をご存知の様子だった。)
玄初は、先を歩くコウヨウの背中を見つめた。
市場での言葉、公鵺という人物のこと、街角の若者について、それから南門での出来事と、玄初の頭の中は、様々な疑問で一杯だ。
だが、コウヨウは黙ったまま、西翼の中を歩き続けていた。一方、玄初もそれらの疑問の何から聞けば良いのか迷っていた。
焔の塔まで辿り着くと、コウヨウは無言で入り口の扉に手をかけた。それから、思い直したように玄初を振り返ると、今日は本当に済みませんでした、と言った。
「俺の方こそ、迷惑をお掛けしてばかりで……。」
玄初の言葉に、コウヨウは、いいえ、と首を振った。
「ちゃんと傷の手当ては受けて下さい。小さな傷でも油断は禁物です。」
コウヨウが玄初の腕へ目を向けたので、玄初は、追剥ぎの一件で、まだコウヨウにお礼を言っていなかったことを思い出した。
「あ、はい。……その、ありがとうございます。俺のこと守って頂いて。」
気にされることはありません、とコウヨウは笑みを浮かべた。
「玄初様をお守りするのは、私の役目の一つですから。」
コウヨウは、焔の塔の扉を押し開けた。
「では、玄初様、また明日。……お疲れでしょうから、今日は余計なことは忘れて、ゆっくりお休み下さい。」
一瞬、何か言いたげな顔をした玄初を残して、コウヨウは塔の中へ入って行った。
§
塔の壁越しに、玄初の気配が西翼の方向へ遠ざかって行くのを確認して、コウヨウは小さく息を吐いた。
広間に据えられた祭壇の中心では、その存在を主張するかのように、竜炎石が紅く揺らめいていた。
(そう……竜の血を持つヒトを守ること、それが竜族に課された使命の一つだ。)
逆に竜族が、竜の血を持つヒトに危害を及ぼした場合、たとえそれが些細なことであっても、その罰は過酷だ。コウヨウは昨日、それを身を持って味わった。
(けれど、その〈竜の血を持つヒト〉の範囲がどこまでなのか……。)
今回の戦いに介入するにあたって、コウヨウは九十年前の事件について可能な限りの情報を収集した。だが八竜達が出した結論は、その疑問に答えが得られない限り、ヒトの戦に介入することは一の竜の、つまりコウヨウの命を危険にさらすだけだ、ということだった。
(九十年前の結果から言えば、竜の血を持つヒトの範囲は、敵国の王とその一族にも及ぶらしい……。)
それは、掟が言う〈竜族〉の中に、彼の一族と蛇竜族との区別がない、ということを意味していた。それは有り得ない、と八竜達は言ったが、それ以外に九十年前の出来事を説明する理由がないのだ。
(だからこそ、僕は八竜達の反対を押し切ってここへ来た……。他の竜達では出来ないことも、僕には可能だからだ。〈掟〉が禁じている事の多くを、一の竜になる前に、僕は経験済みだ。つまりそれは、僕にとって〈罪〉にはならないことを示している。)
コウヨウは、竜炎石から目を離した。
『お帰りなさいませ。』
二の竜が心話でそう伝えて来た。長らく塔を離れていたから、二の竜はさぞ心配をしていた事だろう。
『ただいま。』
コウヨウは、二階への階段を登りながらそう答えた。
(今日は色々な事があったな。)
譬え離れていても、一の竜と八竜達の意識は深いところで繋がっている。コウヨウの強い感情の動きを、二の竜も感じていたはずだ。
しかし、それきり二の竜は何も聞いては来なかった。
部屋に戻ると、コウヨウは窓を開けて、傍らの寝台に腰を下ろした。夜風は濃い湿気を含んでいた。恐らく明日は雨になるだろう。
コウヨウは、白い石のお守りを取り出した。老婆から貰った剣に結び付けられていたその小さな玉石は、コウヨウの手の中で、仄かな暖かさを発していた。
(……父さん。)
コウヨウの意識の奥底で、行き場を見失っていた記憶の断片が、その玉石を介して一つに繋がった。
(知らなかった、あなただったなんて……。もっと早くに気が付いていたら、僕は、あなたを悲しませずに済んだのだろうか? ごめんなさい。それから、ありがとう。……あなたの記憶は、ちゃんと受け取ったよ。)
コウヨウは玉石を握りしめたまま、長い間そうして夜風に吹かれていた。
イスタムールの戦い【2章】 ~フラットアース物語①