イスタムールの戦い【2章】 ~フラットアース物語①

宇佐野 稜 Ryo.Usano

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第二章〈()〉:守るべきもの


二の竜は部屋で一人、主君から与えられた花を(にら)んでいた。二の竜は、これまでに、これほど長い一日を経験したことはなかった、と思った。
一昨日から続いていた身体にのし掛かる重苦しい波動(エネルギー)は、今朝はもう消えていた。だが、それが主君に与えた影響は、二の竜には計り知れなかった。
(結局、その痛みを分け与えては下さらなかった……。)
ヒトに対して、竜族の力を行使してはならないという(おきて)を破ったのは、二の竜だ。だから、その罰は自分に与えて下さるように、と二の竜は願った。
しかし、一の竜は全てそれを自分で受け止めた。竜界の留守を預かる三の竜から何の報告もないと言うことは、主君は竜界へも影響が出ないように、その力を使ったのだろう。二の竜は、それが辛かった。
八竜は、主君の盾となってお守りするのが、その存在理由だ。だが、その一番手であるはずの二の竜自身が、大切な主君を傷つける原因となってしまったのだ。情けなくて、身の置き場もなかった。

昨日一日、主君は二階の小部屋に(とど)まったまま、外に出ることはなかった。いや、あれほどの重圧を一人で受けていたのだ。恐らく、動きたくても動けない状態だったに違いない。幸い昨日は、誰も主君の邪魔をしに来なかった。もし、誰か来たとしても、二の竜は、それが誰であれ、(たと)えヒトの王であっても、追い返すつもりでいた。
(ヒトなど存在しなければ良いのに……。)
仮に譲歩(じょうほ)して、その存在は認めるにしても、どうして竜族が、ヒトを守らなくてはならないのか。どうして竜界が、ヒトの世界の影響を受けなければならないのか。

竜界を維持する為に、一の竜を筆頭に八竜達は日々、絶え間なく修復を続けている。それがヒトの世界の影響で、突如として予想以上の崩壊(ほうかい)を引き起こすのだ。竜界からヒトの世界を切り離してしまえば、どれほど彼らが気力(エネルギー)を消耗しなくて済むことか。取り分け、竜界と密に接(コンタクト)している彼らの主君が、不必要に苦しまなくて済むことか。それを考えると、二の竜はいつも、腹立たしい思いに()られた。
(全ては我が君の為。それなのに……。)
一体どんな顔をして、主君の前に出れば良いと言うのだろう。いっその事、主君が、罰として二の竜の地位を取り上げて下されば良いのに、と彼は願った。



§

話し合いの為に(ほむら)の塔を訪問する、との伯暖(はくえん)王からの伝言を受け取って、コウヨウは小さく()め息をついた。
問題は、二の竜のことだ。先日の事件の後、二の竜は部屋から出て来ていなかった。どうやら、彼を説得することから始めなくてはならないようだ。
実のところ、竜族は、わざわざ部屋まで足を運ばなくても、互いに心話で話をすることが出来た。だが、コウヨウは、そうする事には抵抗があった。
八竜達と話したい時、コウヨウは、必ず彼らの部屋を訪れた。まるでヒトのような振る舞いをする、といつも二の竜には(あき)れられたが、コウヨウにとっては、それが普通のことだったのだ。

心話で先触れをしても何の返答もなかったので、コウヨウはそのまま、二の竜のいる部屋の扉を開けた。二の竜は、(すで)に彼を待ち構えていたが、その視線は(かたく)なに()らせたままであった。
「ヒトの王達が、話し合いの為にここに来る。……いつまで、そうやって部屋に(こも)っているつもりだ。」
コウヨウの言葉に、二の竜は苦しげに(うつむ)いた。
「……私は(おきて)を破り、重ねて禁も(おか)しました。そのような私に〈二の竜〉の資格などありません。その務めはもう、私には……。」
「職務放棄は認めないよ。」
コウヨウは強い語調でそう言った。
「その許可なら、既にお前に与えてあるはずだ。」
「ですが……。」
なおも言い(つの)ろうとする二の竜の抵抗を封じるべく、コウヨウは続けた。
「二度は言わない。これは命令だ、二の竜。」
「……御意。」
結局、一度も視線を合わせることのないまま、頭を下げた二の竜を部屋に残して、伯暖(はくえん)王の一行を出迎える為に、コウヨウは祭壇の間へと降りて行った。



§

午前の謁見の後、花の宮殿の一室で、伯暖(はくえん)王は馬車の準備が整うのを待っていた。
これから(ほむら)の塔で、竜族を交えての作戦会議が予定されている。朝の会議では、国境の軍からの報告も議題に上がったから、それらを竜族に伝えて、出陣のために必要な段取りを彼らと話し合う必要があった。

馬車を待つ短い時間の間にも、伯暖(はくえん)は、どのように二の竜と話を進めるのが、一番良いのかと考えずにはいられなかった。
(まだ、竜族の姿を、一般の兵士達の目に触れさせるわけには行かない。)
彼らは敵軍よりも、むしろ竜族の方を恐れるだろう。兵士達が恐慌(きょうこう)状態に(おちい)れば、竜族に危害を加えないとも限らない。伯暖(はくえん)が恐れていたのは、そのことであった。

楽浪(ゴウラン)国が大軍を動かした意図も、そこに相手国の守り手である蛇竜族が、どう関わっているのかも、未だ分かっていない。だが……。)
前線からの報告は、もはや迷っている猶予(ゆうよ)などない現実を、伯暖(はくえん)に突きつけていた。
この戦いに、表立って竜族に加わって(もら)うかどうか。伯暖(はくえん)王は、非常に難しい決断を迫られていた。
昨日も一日、派遣する軍の詳細に加えて、竜族を伴うべきかで、高官達の意見が分かれた。
使者の報告から、国境の軍の敗北に蛇竜族が関わっているのは確実だとして、こちらも竜族を同行するべきだと主張したのは、宰相である(おう)子清(しせい)、王の叔父である(りく)公衛(こうえい)達の一派だ。それに対して、国軍である竜師(りゅうし)を率いる左軍将軍の(はく)子剛(しごう)の右軍将軍の(けん)文秀(ぶんしゅう)は、伯暖(はくえん)王と同様に、兵達の統率が取れなくなることを恐れて、前線に竜族を伴うことに反対していた。
(ただし、敵の軍勢に蛇竜族が加わっている、と言う点については、皆の意見は一致している。……そうなると、竜族の力を借りなくては、どうにもならないのが現実だ。)

竜族には、国境へ同行して欲しい。しかし、本当に必要な時まで、その姿を兵士達に見せたくはない。それが、伯暖(はくえん)王の側の本音であった。それが、こちらの虫の良い願いであることは、重々承知していた。
(だが、どうにかして、それを理解して(もら)わなくてはならない。)
伯暖(はくえん)王は、コウヨウのことを思い浮かべた。
今回、二の竜と共に彼が来てくれた事は、この国にとっても救いなのかもしれない。玄初(げんしょ)の一件でも感じたことだが、叔父の公衛(こうえい)からの報告でも、コウヨウは人の考えや行動を、良く理解していることが(うかが)えた。
(竜族からすれば、不快なことだろうが……。)
それでも、竜族にこちらの意図を隠したまま、戦場まで行くことは不可能だ。
(まずは説明するところから……だな。)

§

(ほむら)の塔の二階に伯暖(はくえん)王の一行が入ると、彼らを出迎えたのは、二の竜ただ一人であった。伯暖(はくえん)達を階下から案内して来たコウヨウは、いつの間にか姿がみえなくなっていた。
伯暖(はくえん)王と二の竜が席に着くと、竜師の右将軍(けん)文秀(ぶんしゅう)は、卓上に地図を拡げ、前線の状況を説明しはじめた。竜師(りゅうし)とは、各州に所属する軍隊である州師(しゅうし)とは別に、王が直接の指揮権を持つ国軍の名称だ。
伯暖(はくえん)は、右将軍の説明を聞いている二の竜の様子を、注意深く観察していた。
楽浪(ゴウラン)国軍は、先日、国境の興紆(シンユ)村の近郊に布陣しているという情報がありました。一方、我が軍は現在、ルゼルク国境からモイレの町まで、一時、軍を下げており……。」
地図上に敵味方の駒を配置しながら、文秀(ぶんしゅう)の説明は続いた。
「我が軍の方は、ルゼルク州師八千と、ログドから派遣させた州師四千の一万二千。それに対して、敵軍は現在確認されている情報では、約ニ万となっていますが……。」
斥候(せっこう)からの報告はないのか。」
伯暖(はくえん)王の問いに、(けん)文秀(ぶんしゅう)は、傍らの左軍将軍へと視線を移した。
「……国境からの報告は、逐次(ちくじ)参っておりますが、状況は一昨日の急報から変わっておりません。」
沈黙した右将軍の代わりに、左将軍(はく)子剛(しごう)がそう答えた。
「つまりは開戦からのこの五日間、楽浪(ゴウラン)軍の居場所は、全く分かっていない……と言うことですね。」
感情を(あらわ)にしない宰相の言葉は、単に事実の確認ではあったが、居並ぶ高官達には、一層冷ややかに感じられた。

この情報は、国官達に動揺を与えないように、昨日以来の会議では伏せられていたものだった。前線の部隊が、姿の見えない敵に突如(おそ)われた揚句(あげく)、現在は敵の居場所も分からないなどと、竜族が存在することすら知らない官吏達に言えるはずもない。
ギズルガ(蛇竜族)だ。……間違いない。』
独り言のように二の竜が(つぶや)いた。それへ(うなず)いて、伯暖(はくえん)は軽く息を吐いた。
「……いま、何と……?」
伯暖(はくえん)王の隣に座る(おう)子清(しせい)が、(いぶか)しげに聞き返した。
「……あぁ、二の竜は、それらが蛇竜族の仕業だ、と。」
伯暖(はくえん)がそう答えると、子清(しせい)(わず)かに首を(かし)げた。
「それは、楽浪(ゴウラン)軍の居場所が(つか)めないことを、言っておられるのですか?」
子清(しせい)の質問にも、二の竜は、地図から目を上げようとはしなかった。
「それもそうだが、姿の見えない敵と言うのは、蛇竜族(奴ら)のことだろう。」

二の竜の発言を聞いて、伯暖(はくえん)王の後ろに控えていた高官達がざわめいた。
「本当に、そのような事が出来るのか……? それも竜族の力の一つだと言うのか?」
左軍副官の(きょう)敬邦(けいほう)が思わず口にしたその言葉に、二の竜が機嫌を損ねはしないかと、上官の(はく)子剛(しごう)は一瞬、肝を冷やした。
「現実に起こったことだろう? それとも、ヒトに、それが可能だとでも言うのか?」
そう二の竜に返されてしまえば、伯暖(はくえん)王の側は黙り込むしかなかった。

「国境へは、一両日以内に、竜師を派遣する予定にしております。」
伯暖(はくえん)王は、(かたわ)らで珍しく苦い顔をして黙っている宰相の代わりに、二の竜に告げた。
「承知した。」
と、二の竜は、あっさり(うなず)いた。だが、伯暖(はくえん)王は、言い出し難いその内実を、どのように切り出すべきかと迷っていた。
「移動の間は、外套(がいとう)を深めに被っていれば、それと知られる事はないだろう。」
二の竜は、依然(いぜん)として伯暖(はくえん)達の方を見ようとしないまま、淡々とそう言った。そんな二の竜とは反対に、青ざめたのは伯暖(はくえん)王の(がわ)だった。

「ヒトが、我々を恐れている事は知っている。兵の混乱を心配する気持ちも理解できる。……だが、蛇竜族(ギズルガ)との戦いになれば、そう言う訳には行かない。」
「……それは、勿論(もちろん)分かっている。」
伯暖(はくえん)王の返答を聞いて、二の竜が顔を上げ、伯暖(はくえん)を見据えた。それとほぼ同時に、(おう)子清(しせい)が声を上げた。
「恐れながら、陛下。それはなりません。」
二の竜の視線が、子清(しせい)へと移った。

「竜族を初めて目にする兵達は、その状況を理解する事ができないでしょう。それではいたずらに、彼らを混乱に追い込む事になりかねません。」
子清(しせい)は、二の竜と向き合った。
「前線からの報告にあったような力を竜族が用いるのなら、その戦いに我が軍が巻き込まれる事態は極力避けたい。……例えば、姿の見えない蛇竜族の接近を、前もって知ることは出来るのですか?」
子清(しせい)の質問に、二の竜は無言で(うなず)いた。
「ならば、兵士達のいない場所に、彼らを誘導する事は、可能ですか?」
「敵の数によるが……可能だ。……むしろ私達の方も、力を振るうのにその方が都合が良い。ヒトを傷つけないかと、気を使わなくて済むからな。」
そう答えながら、二の竜がうっすらと笑ったような感じがした。
「確かに……。竜族のことは我々に任せて、そちらはヒトの相手をすると良い。」

しかし、と二の竜の言葉に、やや顔を(ひそ)めながら口を挟んだのは、左軍将軍の子剛(しごう)だった。
「その敵軍の居場所を知ることが出来ない状況では……。」
「ニ万ものヒトの存在はすぐ分かる。それに、それだけのヒトを隠す為には、蛇竜族も、かなりの力を使っているはすだ。大きな力が働いている場所は、離れていても感じる事ができる。国境近くまで行けば、その場所を教えてやれるだろう。」
「成る程……。」
伯暖(はくえん)王は、得心して(うなず)いた。彼が、緑家の人々や竜族に対して抱く感覚を、やはり竜族も持っているのだ。何しろ、二の竜とこうして間近に向き合っていると、伯暖(はくえん)は、まるで巨大な焚火(たきび)にでも、(あぶ)られているように感じられた。

「それでは、この度の軍勢に、竜族の皆様にも同行して頂くと言うことで、よろしいのですね?」
集まった一同に対して、宰相の子清(しせい)が言った。伯暖(はくえん)王は、竜師の両将軍へと目を()ったが、彼らは無言だった。それを確認して、伯暖(はくえん)王は子清(しせい)(うなず)いてみせた。
「では、二の竜、出立の詳細が決まり次第、追ってお知らせいたします。」
子清(しせい)がそう言うと、二の竜は、分かったと、短く応じた。
伯暖(はくえん)王と二の竜が席を立ったのと同時に、階下へ続く扉が開き、コウヨウが姿を見せた。制服を身に付けたコウヨウは、どう見ても普通の従僕(じゅうぼく)にしか見えない。
だが、伯暖(はくえん)王一行を(ほむら)の塔から送り出し、一礼をしたコウヨウと伯暖(はくえん)の瞳が交わった時、伯暖(はくえん)王の脳裏に竜王の声が響いた。
『心配はいらない。』
伯暖(はくえん)の視線を受けて、コウヨウの口元が、(わず)かに微笑みの形に動いたように、伯暖(はくえん)には思われた。



竜族との会見が終わってほっとしたような、不安の残るような気持ちで、伯暖(はくえん)王の一行は塔を後にした。
側近達との話し合いは、いつもならば西翼を利用するのだが、竜族のことを考えて、伯暖(はくえん)達は、再び花の宮殿へと移動した。
「二の竜の様子に、特に変わりはなかったように思われましたが。」
宮殿の一室に高官達が集まったところで、(りく)公衛(こうえい)が切り出した。
「始めは、心ここに在らずという感じだったが……。」
そう伯暖(はくえん)が言うと、私には分かりませんでした、と公衛(こうえい)は応じた。

「それにしても……、竜族が皆、あのような力を使うことが出来るのか……。」
一昨日の前線からの報告を思い出して怖気(おぞけ)をふるう様子で、(こう)伯葵(はくき)が言った。
今年、(こう)家当主を継いだ彼は、六公家の当主の中で最も若い。無論、竜族と接するのは、今回が初めての事であった。
「陣地内に、突如大風が吹いたかと思ったら、兵達が次々となぎ倒され、大天幕も収められた物資ごと押し(つぶ)されていた……か。」
苦々しく(つぶや)いたのは、(そう)家当主の元曄(げんよう)だ。
「その被害が、陣内だけに(とど)まっていなければ、普通、竜巻かと考えるな。」
そう続けたのは、先王の末弟、(りく)仲昴(ちゅうこう)だった。

「ですがその当時、竜巻が生じるような天候ではなかったと言うことです。ルゼルクでは、竜巻は非常に珍しい現象です。」
反論するかのように、左軍将軍の(はく)子剛(しごう)が言った。(はく)家の治めるルゼルク州は、彼の出身地だ。
「竜巻ではない決定的な証拠は、兵士達が見た目映(まばゆ)い光りの接近でしょう。」
左軍将軍を援護するように、(けん)文秀(ぶんしゅう)が付け加えた。

高官達の話題は、昨日と何ら変わらない。結局、その場にいなかった我々では、結論を出せない問題なのだ、と伯暖(はくえん)は思った。
(いや。……(たと)え、その場にいたとしても、果たしてその状況に対応出来たかどうか。やはり、竜族の事は、竜族に任せてしまうのが一番良いだろう。)
伯暖(はくえん)王は、先程から隣で黙り込んだままの宰相を、ちらりと見()った。子清(しせい)との付き合いは決して長くはないが、伯暖(はくえん)にはそれが、彼が考えを整理している時の(くせ)だと分かっていた。
伯暖(はくえん)王は、集まった公官達に、早急に派兵の準備を整えるよう指示を出して、会を解散させた。


「どうした? 気になる事があるのか?」
他の者達が退出した後も部屋に残った子清(しせい)に、伯暖(はくえん)王は声を掛けた。
「はい。お許し頂けるのであれば、幾つか確認したいことがございます。」
伯暖(はくえん)王は、子清(しせい)(うなが)して席に着かせた。
「それで、聞きたい事とは何だ。」
伯暖(はくえん)(たず)ねると、子清(しせい)は少し迷うような顔をした。彼にしては珍しいその様子に、伯暖(はくえん)王は、思わず笑みが()れるのを抑えられなかった。普段、何が起きても揺るがないという態度の宰相が、今日は二度も、言葉を探して惑っていた。
子清(しせい)が、そうやって躊躇(ちゅうちょ)するのは珍しいな。午後は大嵐か?」
冗談めかして言った伯暖(はくえん)王に、子清(しせい)は眉を(ひそ)めた。
「……いえ。弟の……玄初(げんしょ)の言葉の意味が、先程の話し合いでようやく分かった、と考えていたのです。理解したつもりでも、実際に経験するのとは大きく異なる。」
子清(しせい)はそう言いながらも、まだ考えをまとめられていないようだった。

「どういうことだ?」
伯暖(はくえん)王が(たず)ねると、子清(しせい)は何事か決心したように、正面から伯暖(はくえん)王と視線を合わせた。
「恐れながら、陛下には、竜族の言葉が、どのように聞こえていらっしゃるのでしょうか? 玄初(げんしょ)は、竜族の言葉は、全く意味が分からなかったと申しておりました。」
あぁ、と伯暖(はくえん)(うなず)いた。それは、彼も経験したことだ。

玄初(げんしょ)からその話を聞いた時、私は、出迎えの場での竜族は、ごく普通に話していたはずだと思いました。ですが、先程の話し合いの場での二の竜の言葉は、正直、私には、とても聞き難いものでした。それにも関わらず、皆、何の違和感もないように、話が進んで行って……。言葉の意味が分からない訳ではないのです。ただ、何と言えば良いのか……。」
「聞いていないはずのものが、聞こえる気がする、と言うのだろう?」
伯暖(はくえん)王の言葉に、子清(しせい)は、その通りですと答えた。

「それに加えて、私達が言わなかった情報を二の竜が口にしても、誰一人として疑問にも感じていなかった。……そちらの方が、私には恐ろしく感じました。」
「実際のところ、それが竜族の話し方だ。意識に上った物事を読み取り、伝えたい事を相手の意識に送り込む。……恐らくは皆、それと意識していないのだろう。私も、竜炎石を持つまではそうだったからな。」
伯暖(はくえん)王は、束の間、言葉を途切(とぎ)らせた。
「……即位式の前後で変化したその感覚に、私はしばらくの間、見るもの聞くもの、いや、自分の感覚の全てを疑った。自分の感じているものは、果たして真実なのか、とな。」
伯暖(はくえん)王は、そう言って自嘲(じちょう)的に笑った。一方、子清(しせい)は真剣な顔で、伯暖(はくえん)の言葉を聞いていた。

「では彼らは、目に見えていないものも見ることが出来るのでしょうか? 玄初(げんしょ)は、竜族は姿が見えていなくても、その意識で誰なのか判別出来ると言いました。……それが、二の竜が言っていた、存在を感じるという表現なのでしょうか?」
子清(しせい)の言葉は、伯暖(はくえん)王に対する質問と言うより、自己問答のようだ。
「何らかの方法で姿を隠している敵を暴くのなら、何かその手段があるのかもしれないと考えられます。しかし、彼らは、(たと)(さえぎ)る物があっても、それが建物であれ、距離であれ、それに関係なく、相手を知ることが出来ると言う。……それではまるで、彼らが()()事を必要としない、と言っているようなものではありませんか?」

伯暖(はくえん)は、子清(しせい)のその考えは正しいのかもしれないと思った。伯暖(はくえん)には、大きな違いしか分からないが、竜族が個々の差をより細やかに感じることが出来るのなら、人や竜族を見分けるのに、()()()()ことは必要ないのかもしれない。現に今、伯暖(はくえん)にも、(りく)家の人々が、宮殿内の何処にいるか、おおよその方向は分かる。
「私が陛下にお聞きしたかった事は、陛下も同じ感覚を持っていらっしゃるのか、ということです。」

伯暖(はくえん)は答えなかった。と言うよりも、咄嗟(とっさ)に答えられなかったのである。
「敵軍の場所は分かる、と言った二の竜の説明に、陛下は即座に納得されたご様子でした。それが、私には不思議に感じられたのです。」
子清(しせい)は、伯暖(はくえん)王を見つめたまま、言葉を続けた。その瞳は、伯暖(はくえん)(わず)かな変化さえ見逃さない、と言っているようだ。
「歴代の王は、即位にあたって竜王からその力の一部を分け与えられる。……これは、陛下よりお貸し頂きました即位式の記録に、記載されていた文言です。その〈力〉に、竜族と同じ感覚も含まれていると、考えてもよろしいのでしょうか?」
この男は本当に勘が鋭い、と伯暖(はくえん)は思った。
(この男の前で、隠し事が出来る者などいるのだろうか。彼の観察力は、当人が意識していない深層まで暴き出す。……さすが、司法と監察を伝統とする黄家の当主だな。)

伯暖(はくえん)王は、宰相を(にら)みつけた。
「お前は、歴代の王のみが知る秘密をも、暴こうという訳だな。」
その言葉を聞いて、子清(しせい)の顔色が変わった。
「それが秘されるべき事柄(ことがら)ならば、私の質問はお忘れ下さい。それは、私の本意ではありません。」
「既に知られた事を、取り消す訳には行くまい? それとも、取り()()べきか?」
含みを持たせた伯暖(はくえん)王の言葉に、子清(しせい)が目を伏せた。それを見て、伯暖(はくえん)は軽く笑った。
「冗談だ、子清(しせい)。……人の命よりも重いものは、この世にはない、と私は思っている。それが、大事な友人なら尚更(なおさら)だ。……あぁ、〈友人〉ではないという訂正ならば受け付けないぞ。」
何か言いたげに口を開きかけた子清(しせい)は、伯暖(はくえん)王の言葉に、また口を閉ざした。

子清(しせい)の推察は正しい。私は、竜の血を引く者、つまり(りく)家の人々に限って、目を使わなくも、その存在を感じることが出来る。……恐らく、竜族の感覚もそれに近いと思う。」
伯暖(はくえん)の答えを聞いて、子清(しせい)はまた何やら考え込んでいた。
「それでは、二の竜の言葉を信用して、軍を出しても良いと言うことですね。」
「ああ、大丈夫だ。」
伯暖(はくえん)王は、(ほむら)の塔を出る時に、一の竜が(ささや)いた言葉を思い出していた。
(そう、私達には竜王の絶対的な加護がある。この能力は、その証なのだから。)

「ですが、それならば……。もしや、陛下は……()()の事をご存知の上で。」
そう言い()した子清(しせい)の顔は、極度に緊張して色を失っていた。
今日は珍しい光景を三度も見られた、と伯暖(はくえん)は内心で苦笑した。
「私は、子清(しせい)の秘密を暴こうとは思わない。そこには、多くの者の思惑があるのだろうからな。」
伯暖(はくえん)は、子清(しせい)に笑いかけた。
「彼は、私にも大切な……、大切な者だ。」
伯暖(はくえん)王はそう言い残して、次の予定の為に部屋を出て行った。

第二章 ―2―

§

コウヨウは塔の一室から、眼下に広がる小庭園を眺めていた。空は晴れていたが、昨日よりも空気は冷たく感じられた。
(警告はしたのだから、僕のせいでは、ないよな。)
コウヨウは、()め息をついた。
(感度は下げているはずなのに……。)
今の状態でも、目隠しをされているようで窮屈(きゅうくつ)だ。感覚を完全に閉ざしてしまうという選択もあるが、それでは気が滅入(めい)ってしまいそうだ。
(いっそ、王宮から離れてしまいたい。)
不可抗力とは言え、伯暖(はくえん)王と宰相の会話を聞いてしまったことに、コウヨウは後ろめたさを感じていた。彼らは話を聞かれたくない為に、わざわざ花の宮殿まで移動したはずである。それなのに、結果的に彼は、それを盗み聞いたことになるのだ。

知らず、コウヨウの口から、また()め息が(こぼ)れた。
(竜炎石で関係(コネクト)している伯暖(はくえん)王、それから玄初(げんしょ)様、公衛(こうえい)殿下に関しては、すでに接触(コンタクト)があるから選択することも出来る。しかし、宰相閣下に関しては、いつ(つな)がりが成立したのかさえ分からない。なのに、聞こえるなんて……。)
自分の力を自分で把握(はあく)していないと言うのも、問題があるな、とコウヨウは思った。
竜界から連れて来た者達は、ヒトの世界の生き物の多さと、無軌道に拡散するヒトの意識に、すっかり混乱して部屋に閉じ(こも)りきりだ。二の竜は、ヒトの世界に何度か来たことがある所為(せい)か、感覚を完全に閉ざして、外を見ないようにしていた。

(二の竜は、良く我慢出来るものだ。)
感覚を制限していて他が見えない分、(つな)がりのある者の意識()は、強調されて聞こえて来るのだ。必然、意識()はそこに集中することになる。
(だから……かな。)
コウヨウは、二の竜が上階から降りて来る気配を感じた。ヒトの世界に来てから、二の竜は、普段以上にコウヨウの機嫌に敏感になっていた。
竜王とその配下の八竜達とは、とても密接している。その関係は、不可分の存在だと言っても良いほどだ。

二の竜のいる隣の部屋から、陶器の触れ合う微かな気配が届いた。
(二の竜に、()め息を聞かれてしまったみたいだ。)
コウヨウは苦笑して、部屋を出た。その気配に気付いて、二の竜はちらりと視線を向けたが、茶の葉を計るその手は止めなかった。
コウヨウも二の竜も、茶の葉の(さわ)やかで甘い香りが好きだった。竜界では、茶葉は貴重品だ。ヒトの世界でも、貴重な品物には違いないが、ヒトの世界と比べて植物の少ない竜界では、それはほとんど竜王の為に作られているようなものだった。
二の竜が差し出した茶を受け取ると、陶器を伝わる熱が、手に心地よく感じられた。
「やはり、もう少し情報が欲しいな。」
コウヨウの(つぶや)きを聞いて、二の竜が物言いたげに視線を向けた。

「ギズルガのことだ。……伝聞では曖昧(あいまい)な点が多すぎる。出来れば、その場にいた者に話を聞きたい。」
「敵の規模は、国境まで行けば分かることです。」
二の竜は、コウヨウの外出には、あくまでも反対の様子だ。
「だが、おかしいと思わないか? ヒトの記憶から推測して、ギズルガが派手に力を見せつけた割りに、ヒトへの実害はほとんどない。あれは単に、ヒトを(おど)かすことが目的だったとしか考えられない。」
コウヨウの言葉に、二の竜も(うなず)いた。
「私もそう思います。あれぐらいならば、外域の竜達にも可能です。八竜どころか、下官達の仕業でもない。」
「上級官達の力は、ヒトの姿を隠す為に使っているのか? だとしたら、何の為だ?」

二の竜は、伯暖(はくえん)達との話し合いで得た情報を再確認するように、しばし考えていた。
「ヒトを混乱させる目的、でしょうね。力を使えば、私達には感知出来ますから。」
「そう。ギズルガのやっていることは、竜族にとって何の意味も無いことだ。」
「ですが、私達が行けば、その謎はすぐに解けるでしょう。」
(……それで、良いのだろうか。)
二の竜の言葉に(うなず)くには、何故か迷いがあった。何か分からないが、違和感のようなものが、コウヨウの中で(ささや)くのだ。

「何か予見がおありになられるのですか?」
八竜達は、歴代の竜王に引き継がれるその能力を〈予見〉と呼ぶが、コウヨウに言わせれば、それは単に勘でしかない。
「いや。そうではない……と思う。」
コウヨウの答えに、二の竜は、成る程と小声で(つぶや)いた。
「そのお答えは、何らかの予見がある、と言うことですね。」
「でも、それは確実ではないし、それに、何か見えている訳でもない。」
「ですが、あなたが何かあると判断された。私達には、それで十分です。」
二の竜は、真っすぐにコウヨウを見つめて、そう言い切った。
「二の竜……。」
コウヨウは、二の竜に(うなず)いた。
「済まないがもう少しだけ、時間をくれないか? この不安の理由を知りたい。」
そう告げたコウヨウに対して、二の竜は黙って頭を下げた。


§

(よかった……。)
玄初(げんしょ)は、ほっとした気持ちで、花の宮殿の一室を出て、(ほむら)の塔へと足を向けた。
昨日、伯暖(はくえん)王から休みを頂いたとの、兄の伝言を受け取った時、玄初(げんしょ)は正直、竜族に関する任務から外されるのではないかと考えていた。
今日も出仕はしたが、兄から、午前は高官達と竜族の会議があるので、花の宮殿で待つようにと言われて、玄初(げんしょ)は不安な気持ちを抱えたまま兄の戻りを待っていたのだ。
会議を終えて帰って来た兄に政務室に呼ばれ、玄初(げんしょ)は、伯暖(はくえん)王の伝言を受け取った。
(そのまま続けるようにと、言って下さったなんて……。)
王の信頼を(うれ)しく思うと同時に、もう失敗は出来ないと、玄初(げんしょ)は気を引き()めた。


玄初(げんしょ)(ほむら)の塔の前で来ると、コウヨウが扉を開けて顔を出した。玄初(げんしょ)の姿をみとめて一礼をするコウヨウは、従僕(じゅうぼく)の制服がとても自然に見えた。
竜族には付き人がいないと聞くし、コウヨウは、そもそも竜王なのだから、そんな仕事はしないはずである。事前にこの国の習慣を学んで来たにしても、それが違和感なく見えるのは、すごいことだと玄初(げんしょ)は思った。それに引き換え玄初(げんしょ)の方は、官吏になって半年は過ぎたというのに、(いま)だに国官の仕事に馴染(なじ)まなかった。

「何事も、一朝一夕には行かないものです。」
笑いながらコウヨウが言ったので、玄初(げんしょ)は顔を赤らめた。その外見が自然に見える分、相手が人とは異なる、と言うことをつい忘れてしまうのだ。しかし、考えが伝わると警告されていても、考えることは止められない。
「気にしなければ良いのです。」
コウヨウは何の事はない、という口調でそう言うが、そうしようと思えば思うほど、気になるものだ。
「それなら、他の事を考えるというのはどうですか?」
「他の事……?」
「ええ。何かに夢中になっていれば、余計なことは考えずに済むでしょう?」

それは(もっと)もなのだが、玄初(げんしょ)には、代わりに何をすれば良いのか思いつかなかった。
「では、玄初(げんしょ)様の仕事場を案内して下さい。それから、出来れば騎士宮まで行きたいのです。」
「騎士宮へ……?」
それへ(うなず)いて、少し確認しておきたい事があるので、とコウヨウは言った。
「それなら先ず、騎士宮へ行きましょう。俺……私はまだ見習いなので……。だから、コウヨウ様に仕事を紹介すると言っても、王宮の中を見せるくらいしかできません。」

そう言って西翼の方へ歩き出した玄初(げんしょ)を、コウヨウは引き止めた。
「コウヨウ、と呼び捨てにして下さい、玄初(げんしょ)様。従僕(じゅうぼく)の制服を着ている私にその呼び方では、おかしいと感じますよ。」
そうは言っても、仮にも竜王を呼び捨てにする訳には行かない。玄初(げんしょ)が困った顔をしたのを見て、コウヨウは続けた。
「私は、気にしません。私達は普段から、あまり敬称に(こだわ)らないので。」
「努力……してみます。」
自信なさげに答えた玄初(げんしょ)に対して、そう願います、と応じたコウヨウの微笑みは、まるでいたずらっ子のようだ。

「ですが、そうすると竜族は、目上、目下に関わらず、名前で呼び合うのですか?」
玄初(げんしょ)の質問に、コウヨウは少し首を(かし)げてから、いいえ、と答えた。
「では、どうやって相手を呼ぶのですか?」
「相手を特定して話す必要がある時には、階級を用います。……こちらでも、役職を呼び名に使うことは普通でしょう?」
そう言われてみれば、〈二の竜〉という呼び方は、その地位を示したもので、玄初(げんしょ)達は、彼の名前を知らなかった。
「ええ。でも、それなら同じ役目の者は、どう区別するのですか?」
「同じ立場の者など、私達の世界には存在しません。」
きっぱりとした口調でそう言うと、コウヨウは先に立って歩き出した。

「でも、それでは……。」
慌ててその後を追いかけた玄初(げんしょ)の頭には、竜族に対する疑問が次々と浮かんでいた。
(全ての者に異なる役職名がついていると言うこと? じゃあ、子供や役を退いた者はどうするのだろう?女性にも階級があるのだろうか?)
だが、奥宮の中では他の人の目もある。結局、玄初(げんしょ)はそれらの疑問を飲み込んだ。

(竜族にとって、階級で呼ばれるのが普通なら、コウヨウ様を一の竜と呼ぶが適切なのだろうけれど……。)
その呼び名は使わないで欲しいと、既に言われているし、それに外では、その名で呼ぶ訳には行かない。
(コウヨウ〈様〉をつけない……と。うっかり間違えないと良いけど。……あれ?)
突然、前を歩いていたコウヨウの姿が見えなくなったので、玄初(げんしょ)は辺りを見回した。
(あぁ、そうか。……ここだった。)

そこは一見すると、直線の廊下が続いているように見える場所だが、実際には目の前の柱の脇に曲がり角がある。両翼の建物は、侵入者を防ぐ為に、わざと分かり難く造られているのだと、玄初(げんしょ)は聞いたことがあった。
廊下を曲がると、コウヨウが立ち止まって、玄初(げんしょ)を待っていた。
「つい、考え事をしてしまって……。」
どうかしたのか、とでも言いたげなコウヨウの顔を見て、玄初(げんしょ)はそう言い訳した。実のところ、玄初(げんしょ)は大抵、この場所を通り過ぎてしまうのだ。
それにしても、玄初(げんしょ)が覚えるまでに一ヶ月以上もかかった西翼の中を、コウヨウは戸惑う様子もなく歩いて行く。

(そう言えば、コウヨウ様と西翼を歩くのは、初めてではないだろうか……?)
「そうですね。でも大丈夫ですよ。」
何の前置きもなくコウヨウがそう言ったので、玄初(げんしょ)は、何のことかと聞き返した。
「道に迷う心配はありません。……見えていますから。」
「見えているって……何が?」
コウヨウは足を(ゆる)めて、玄初(げんしょ)の隣に並んだ。
「あらゆる存在(もの)が、です。」
そう言われても、玄初(げんしょ)には理解できなかった。だが、それを聞いて良いものか、玄初(げんしょ)は一瞬迷った。
「構いませんよ。むしろ、()いてもらわなくては答えられません。ヒトと私達の何が同じで、何が違うのか。私も全て知っている訳ではありませんから。」

(そうだ。先日、探り合いは止めると決めたのだから、疑問に思ったことは取り敢えず()いてみよう。質問に答えるか答えないかは、コウヨウ様の自由だもの。)
玄初(げんしょ)が、心を決めてコウヨウの方を見ると、コウヨウは軽く笑った。
「先日、私達は、ヒトの意識(波動)を感じると言いました。それと同じことです。私達は、ヒトを感知するのと同じ感覚で、あらゆる存在(波動)を見ています。この世界に存在しているものは、全て信号(波動)を発していますから。」
「生きていないものでも……?」
「そうです。全ての存在は、各自の色と声(波動)を持つのですよ。」
コウヨウにそう言われて、玄初(げんしょ)は辺りに目を走らせた。この瞬間にも、壁や天井が何か(ささや)いているのだろうか、と思ったからだ。

そんな玄初(げんしょ)の様子を見て、コウヨウが、忍び笑いを()らした。しかし、コウヨウは、すぐにその笑いを消して、すっと玄初(げんしょ)から距離を取った。その直後に、廊下の角から数人の女官が姿を現した。彼女達は、すれ違いざまに玄初(げんしょ)達に会釈をして、通り過ぎて行った。

「あぁ、待って。」
玄初(げんしょ)は、分れ道に差し掛かった廊下を、女官達が出て来た方へ曲がろうとしていたコウヨウを呼び止めた。確かに、その廊下の先にある階段を下れば、大庭園を抜けて花の宮殿へ続く外廊に出る。しかし騎士宮は、そこから更に中庭と広場を越えた先にあって、歩いていては時間がかかってしまう。
「騎士宮まで行くのなら、馬車を使いましょう。」
玄初(げんしょ)はそう言って、コウヨウを連れ、馬車(とま)りへと降りた。折よく、南門に向かう馬車が出るところだったので、二人はそれに乗り込んだ。

(あ……。用があるのは、左右どちらの騎士宮だったっけ?)
ふと玄初(げんしょ)は、コウヨウにそれを聞いていなかったことを思い出した。
(でも、他の同乗者がいる前で、ご用はどちらですかと聞くのも変だし……。)
そう玄初(げんしょ)が考えていると、耳のそばでコウヨウの(ささや)く声が聞こえた。
『戦の起きている場所は、(はく)家の領地でしたよね?』
その声は、いつものコウヨウの声より、少しだけ低く感じられた。
だが、コウヨウは窓の外を眺めていて、玄初(げんしょ)の方を見てもいない。それに対して、他の乗客は何の反応もしていなかった。
玄初(げんしょ)は驚いたが、同時にその声を聞き慣れているようにも感じた。
(今、両軍が対峙(たいじ)しているルゼルク州は白家が治めている。……と言うことは、左軍の(はく)将軍の所へ行かれるつもりなのだ。)
コウヨウは、窓から玄初(げんしょ)へ視線を移して、小さく(うなず)いた。

(でもそれなら、南門まで行って乗り換えになる。)
玄初(げんしょ)達が乗っているこの馬車は、西翼から出て、右軍の騎士宮を通り、南門へ行くものだ。王宮で働く者達の為に運行される馬車は、決まった場所へしか行かないから、左軍の騎士宮へ行くには、南門から東翼へ向かう馬車に乗り換える必要があった。
(馬車の都合が悪ければ、南門でしばらく待たされることになるかもしれない。)
『それは仕方ありません。』
玄初(げんしょ)の耳には、幾分笑いを含んだようなコウヨウの声が(ささや)くが、コウヨウの口元は全く動いていなかった。
(ほむら)の塔の一件で、これが竜族の声だと分かったけれど、分かってはいても、何だか変な感じだ。)

『私は、玄初(げんしょ)様がこの〈声〉に、意外と早く馴染(なじ)んでしまわれたので、驚いています。』
そう言って、コウヨウは(わず)かに微笑んだ。
「馴染んだと言うか……。」
思わずそう声に出して、玄初(げんしょ)は、向かいに座る乗客と目が合った。
「どうかなさいましたか、玄初(げんしょ)様?」
コウヨウが素知らぬ顔で、そう訊いてきた。
「何でもありま……せん。」
気まずくなった玄初(げんしょ)の声は、尻すぼみになって口の中に消えた。
(人前ではよほど気を付けないと、この調子では、独り言ばかり言うおかしな奴だと思われてしまいかねない。)

隣に座るコウヨウからは、笑いを(こら)えている気配を感じる。しかし、(はた)から見れば、何事もないかのようにすました顔だ。
(声だけでなく、気分も伝わるというのは不思議だな……。何と言うか、コウヨウ様の中に、別のコウヨウ様がいるみたいだ。そして、その内側のコウヨウ様と、俺が(つな)がっている……。)
コウヨウの言葉通り、玄初(げんしょ)はその事に対して、()して違和感を感じていない自分に気が付いた。

(それに何だか、陛下と似ている……気がする。)
何が似ているかは言いようもないが、強いて言えば安心感だろうか。
玄初(げんしょ)は子供の頃から、王都に対して暖かさのようなものを感じていた。その理由の一つが、伯暖(はくえん)王の存在であることを、玄初(げんしょ)は最近になって知った。
昨年末、国官を養成する学校である太学(たいがく)を卒業して、国試で国王陛下の面接を受けた時、玄初(げんしょ)伯暖(はくえん)王に同じ感覚を感じたのだ。それ以来、玄初(げんしょ)伯暖(はくえん)王との間には、片時も途切れることのない(つな)がりが生まれていた。

(そう言えば、州試に合格して王都の太学に入るという時も、王都に〈行く〉のではなく、王都に〈帰る〉と言ってしまって、州の学校の友人達から、王都の生まれなのかと聞かれたな。)
勿論(もちろん)玄初(げんしょ)は、(おう)家の領地であるクローディ州の出身だ。今でも玄初(げんしょ)の母親は、クローディの州都エルサに住んでいる。ただ、母は、(こう)家の治めるエルムホアの生まれだった。一度、王都で女官をしたと言うような話は聞いた事があったが、それは玄初(げんしょ)が生まれる前の話だ。
そして、最も不思議だったのが、玄初(げんしょ)にとって一番落ち着く場所が、(ほむら)の塔だと言うことだった。兄に連れられて塔に行った時、玄初(げんしょ)は、初めて訪れたはずのその場所で、やっと帰って来た、と思ったのだった。

(機会があれば、陛下に(うかが)ってみたいと思っていたけれど……。)
伯暖(はくえん)王がおいでになられる時は、いつも兄の子清(しせい)が一緒で、玄初(げんしょ)はその話題を持ち出すことが出来ないでいた。
(コウヨウ様になら、お聞きすることが出来るだろうか。)
だが、玄初(げんしょ)伯暖(はくえん)王の間の事を、コウヨウに(たず)ねるのはおかしい気もした。

玄初(げんしょ)がそんな物思いに(ふけ)っている間に、馬車は南門に到着した。幸い次の馬車もすぐに見つかったので、玄初(げんしょ)とコウヨウは、程なく左軍の騎士宮へ行くことができた。
だが、騎士宮の入り口で、玄初(げんしょ)が名前を告げて(はく)将軍への面会を申し出ると、対応した武官は渋い顔をした。

「今は、戦の支度で忙しい。将軍もお会いにはなれないだろう。」
「それは、存じ上げております。」
玄初(げんしょ)の返答を聞いて、武官は、それならお引き取り下さい、とやや強い口調で言った。
(でも、コウヨウ様が、用があると言うのだから……。)
玄初(げんしょ)は、公衛(こうえい)殿下の名前を持ち出して面会を取り付けるつもりだった。
『その必要はありません、玄初(げんしょ)様。』
玄初(げんしょ)の耳元で、コウヨウの(ささや)き声がした。
「え、どうして……?」
玄初(げんしょ)の言葉を待たずに、コウヨウの声が続けた。
『先日の前線での騒ぎについて、知ることを話せ。』
(ささや)きよりも小さなその声は、どうやら玄初(げんしょ)へ向けられたものではなさそうだった。

玄初(げんしょ)の目の前に立っていた武官が、ほんの少し眉を寄せ、それから軽く首を振った。
「……出立を前に、皆、気が()いている。急ぎの用件でなければ、明日以降にしてくれ。」
「ええっと……。」
武官からそう言われて、玄初(げんしょ)はコウヨウを(うかが)った。
じっと騎士宮を見上げているその横顔は、いつもと変わらない。しかし、コウヨウから感じられる気配は、まるで炎に触れているかのように(ひど)く熱かった。
玄初(げんしょ)ではないか。……どうかしたのか?」
不意に、そう声を掛けられて、玄初(げんしょ)は騎士宮から出て来た男へ視線を移した。

(はく)将軍閣下……。」
玄初(げんしょ)達の相手をしていた武官が、緊張した面持ちでその男、左軍将軍、(はく)子剛(しごう)に敬礼をした。
「いえ、その……。」
突然の事に玄初(げんしょ)が言い(よど)んでいると、コウヨウが代わりに前へ進み出て、お忙しいところ申し訳ありません、と応じた。その気配は、もういつものコウヨウだった。

「あぁ、これは……。」
コウヨウの姿を見た(はく)将軍の顔が、(わず)かに引きつった。
玄初(げんしょ)、お客人がご一緒なら、先にそれを告げれば良いものを。」
「はい、申し訳ございません。」
玄初(げんしょ)が謝罪すると、子剛(しごう)は落ち着かなげに視線をさまよわせた。
「国境での竜族の事は……。」
「え……。」
独り言のような(はく)将軍の(つぶや)きに、玄初(げんしょ)は思わず聞き返した。

だが、それに対して、(はく)子剛(しごう)怪訝(けげん)そうな顔をした。
「何だ?」
「いえ、あの……。」
(はく)将軍のその様子は、自分が何を言ったのか、いや、何かを言ったことさえ意識していないように見えた。
玄初(げんしょ)様にお願い申し上げて、これから街を案内して頂こうと思っているのです。」
横からコウヨウが口を出した。
(え……? そんなことは一言も……。)
そう思って玄初(げんしょ)は、隣に立っているコウヨウを見遣った。それと同じくして、この忙しい時に、と(はく)将軍が小さく舌打ちをしたのが聞こえた。

「しかし、前線での出来事……か。」
虚ろな瞳のまま、子剛(しごう)(いら)々とした様子でそう(つぶや)くと、コウヨウへ視線を移した。
「……そうだ。それなら、外出は明日以降にされてはいかがてす? 明日には竜……お客人の皆様も師団と一緒に国境へ向かわれる。そうすると、ここに残るあなたはお(ひま)でしょう?」
これで解決だと言わんばかりの口調で、(はく)子剛(しごう)は言った。その顔は、普段通りの表情に戻っていた。
「私がここに、残る……?」
不思議そうに(つぶや)いたコウヨウに対して、子剛(しごう)は苦笑を()らした。
「いやいや、いかにお客人方とは言え、あなたのような幼い……年端の行かぬ者を戦場には連れて行けないでしょう。」
「それは……。」
一の竜に対して失礼だ、と玄初(げんしょ)は言いかけたが、白将軍の(かたわ)らに立つ武官の存在を思い出して、慌ててそれを飲み込んだ。

「そうか、そう言う選択肢もあるのか……。」
コウヨウが、独り合点したように言った。
「どういうことですか?」
そう(たず)ねた玄初(げんしょ)へは答えずに、コウヨウは、にっこりと(はく)将軍に微笑んだ。
「それならば、尚更(なおさら)、今日の内に街へ行かなくてはなりません。玄初(げんしょ)様に、案内をお願いした理由は、出立の準備の為ですから。」
それを聞いて、(はく)子剛(しごう)が顔を(ひそ)めた。
「それと、街へは玄初(げんしょ)様と二人で行きたいと思います。騎士団の皆様方も、出立の支度でお忙しいでしょうから、お手を(わずら)わせる訳には参りません。」
子剛(しごう)の様子を気にも留めていないかのように、コウヨウは続けた。
「護衛を付けずに街へ……?」
「ええ。護衛がついていては、余計に目立ってしまいますし。」
「それは……そうだが。しかし……。」
子剛(しごう)は迷うように、玄初(げんしょ)とコウヨウを見た。
「ご心配には及びません。私も随行(ずいこう)の一人に選ばれるくらいの腕は、持っております。」

(くらい、と言うか、竜族の中で、一の竜より強い者はいないはずだ。)
玄初(げんしょ)がそう考えていると、(はく)将軍も、何かを思い出したかのように顔を(ゆが)めた。
「あぁ、まあ……、そうだな。……ならば、玄初(げんしょ)。護身用の得物を持って行け。」
「えっと、はい。ですが俺……。」
文官と言っても、官吏になるには、一通りの武芸の心得もなければならない。だが、玄初(げんしょ)は、武器を持つことがあまり好きではなかった。
「では、私がお借りしてもよろしいでしょうか?」
そう(たず)ねたコウヨウに、(はく)子剛(しごう)(うなず)いた。そして傍らの武官に、玄初(げんしょ)達を武器庫へ案内するように命じた。

通常、王宮の中で帯剣することは許されていない。ただ竜師に属する武官だけが、王宮を守る為に、宮殿内で武器を携帯することを認められているのだ。街に(やしき)を持つ国官達の中には、護身用に武器を持ち歩く者もいたが、王宮へ入る際には、それらは全て、騎士宮へ預けることになっていた。
玄初(げんしょ)は普段から武器を携帯しない。その代わり、玄初(げんしょ)の行き帰りには護衛がついていた。玄初(げんしょ)は不要だと思っていたのだが、それは兄の命令だった。


「どうぞ、お好きな物をお持ち下さい。」
担当の武官に鍵を開けさせると、左軍将軍の副官である(きょう)敬邦(けいほう)は、そう言って玄初(げんしょ)達を武器庫に招き入れた。
敬邦(けいほう)は、軍の準備状況を報告する為に、宮殿へ向かった(はく)将軍の代わりに、玄初(げんしょ)達を武器庫まで案内してくれたのだった。

コウヨウは、興味深そうに武器庫の中を見て歩いていたが、正直に言って、武器の良し悪しは、玄初(げんしょ)には全く分からなかった。そもそも玄初(げんしょ)は、武器を持って争うことが嫌いだった。
(竜族も、武器を持って戦うのだろうか?)
「武器を用いるのは、儀礼的な戦いに限ります。……通常は武器など意味をなさない。」
玄初(げんしょ)の数歩先を歩くコウヨウが、独り言のように言った。だが玄初(げんしょ)には、それが彼への答えだと、もう分かっていた。

(きょう)敬邦(けいほう)は、付き従う武官達を扉の前で待たせていたので、武器庫の中にいるのは、玄初(げんしょ)達三人だけだ。コウヨウの返事は、玄初(げんしょ)の後ろを歩く敬邦(けいほう)にも聞こえていたはずだが、彼は何も言わなかった。
「では、竜族にも争いはあるのですね。」
そう言ってから、玄初(げんしょ)は、国境で起こっている戦のことを思い出した。
(竜界でも、蛇竜族との戦いがあるのだろうか。)
「彼らとは、顔を合わせることもありません。」
片手で扱う剣の並んだ棚の前で立ち止まって、それらを値踏みするように見定めていたコウヨウは、そう言って玄初(げんしょ)を振り返った。

「でも、それなら……。」
一体誰と争うのか、と玄初(げんしょ)が言いかけた時、コウヨウが剣の一つを手に取って、(さや)から抜き放った。玄初(げんしょ)は、自分に向けられたその切っ先に、息を()んだ。
「ただ有る(存在)為に。……力で役割(地位)が決まると言うのは、そう言うことです。」
コウヨウは抜き身の剣を検分すると、それを(さや)に納めた。
「この剣をお借りします。」
コウヨウは、玄初(げんしょ)の後ろに立つ敬邦(けいほう)に言った。

「……玄初(げんしょ)様、本当によろしいのですか? やはり、護衛をお連れになられた方が、良いのではありませんか。」
そう言った敬邦(けいほう)は、腰に下げた剣へ手を掛けたまま、コウヨウを(にら)んでいた。
「大丈夫です。……本当に、大丈夫ですから。」
(だって、俺が感じるコウヨウ様の気配は、いつもの暖かさだ。)
玄初(げんしょ)は、敬邦(けいほう)とコウヨウの間を(さえぎ)るように立った。

「ですが……。」
何か言い()した敬邦(けいほう)は、しかし、玄初(げんしょ)の胸に下がった黄玉石の飾りに目を留めると、諦めたように息を吐いた。
「まぁ、あなたには同じ事か……。」
(きょう)敬邦(けいほう)(つぶや)きは、玄初(げんしょ)には意味が分からなかった。
「では、行きましょうか。」
敬邦(けいほう)が剣から手を離したのを見て、玄初(げんしょ)はコウヨウを(うなが)し、二人並んで歩き出した。
結局、敬邦(けいほう)は、二人が騎士宮を出て行くまで、厳しい目つきでコウヨウのことを見つめていた。



騎士宮を出ると、玄初(げんしょ)はコウヨウを振り返った。
「申し訳ありません。」
玄初(げんしょ)の言葉に、コウヨウは首を(かし)げた。
「どうして、玄初(げんしょ)様が謝罪されるのです?」
そう言われてしまうと、玄初(げんしょ)は、何と答えて良いのか分からなくなった。
(あの質問は、自分の方が悪かった。だって俺は既に、竜族の地位が、その力によって決まると聞かされていた。……そしてその意味は、少し考えれば分かることだ。)

だが、それならコウヨウは、その戦いに勝って、一の竜の地位を手に入れたと言うことになる。玄初(げんしょ)は、自分より五、六歳は年下に見えるコウヨウを見つめた。
(そうしてでも、一の竜になりたい理由が、コウヨウ様にはあったのだろうか?)
いや、その理由があったからこそ、彼は一の竜なのだろう、と玄初(げんしょ)は考え直した。けれどそれは、何だか寂しいことのように、玄初(げんしょ)には思えた。

「竜族にとっては、それが当たり前(唯一の道)なのです。……誰も疑問にも思わない。」
そう(つぶや)いたコウヨウの声は、(わず)かな怒りを含んでいるように玄初(げんしょ)は感じた。しかしコウヨウは、そのまま南門へ向けて歩き出した。
「待って下さい。……あの、騎士宮でのご用は、もう良いのですか?」
確かコウヨウは、騎士宮で確認したい事があると言っていたはずだ。それがいつの間にか、玄初(げんしょ)と街へ出掛けることに変わっていた。

「用件なら最初で済んでいます。……後は、まぁ、言い訳ですね。だって、(はく)将軍を前にして、何でもありません、と逃げる訳にも行きませんから。」
最初で用は済んだ、との言葉に、玄初(げんしょ)は、騎士宮で用件を告げた直後のコウヨウの様子を思い返していた。
(国境での騒ぎ、とコウヨウ様は言っていた。)
楽浪(ゴウラン)との国境に配置されていたルゼルク州師の部隊が、突然の大風に襲われて多数の怪我人が出た、と言う話を、玄初(げんしょ)は兄から聞かされていた。恐らくコウヨウはそれについて、何かを確かめたいと考えていたのだろう。

(でも、用は済ませたと言っても、どうやって?……もしかして、あの〈声〉のこと?)
玄初(げんしょ)は、その時の(はく)将軍や武官の様子が、何となく変だったことを思い出した。
「ヒトを探していたのです。前線でその出来事を直接見た者がいないかと思って……。ですが、ここにはいませんでした。」
コウヨウはそう答えたが、それは玄初(げんしょ)の疑問の答えにはなっていなかった。
「どうやって……ですか? 普段話す時と何も変わりません。一人に意識()を向けるか、大勢に対して意識()を出すかの違いだけです。」
そうは言っても、あれはほんの一瞬の出来事だった。左右の騎士宮には、正員だけで三、四千人の武官が所属している。(たと)えその半数が役目で外出していたとしても、騎士宮には千人近くの人が常駐しているはずだ。

(あの一瞬で、全員にそれを確かめた……?)
反応(答え)があった者に対してだけです。そもそも、それを知っているのは、上層のヒト達だけでした。一般の兵士達には、知らされてもいない。」
コウヨウは、少し声を落として玄初(げんしょ)に言った。
南門まではまだ少し距離があったが、王宮広場には、雑用をこなす下働きの者達が盛んに行き来していた。彼らは、国官の制服を着た玄初(げんしょ)を見ると道を()けた。中にはコウヨウの肩に付けられた国章に目を留めて、慌てて顔を伏せる者もいた。

(でも高官達が知っている情報なら、竜族にも伝えられているはず。午前はその為の話し合いではなかったのだろうか?)
「伝え聞いた事では、見逃しがあるかもしれない。……一族の命を預かる身として、少しでも正確な情報が欲しい。……そう考えるのは当然の事でしょう?」
コウヨウの言葉に、玄初(げんしょ)(うなず)いた。それは兄の口癖(くちぐせ)でもあったからだ。
(他人の言葉ではなく、自分の言葉で考えること。……兄上はいつもそうおっしゃる。)

「今回の事は、その指し手が読み難くて、正直、次の手に迷っていたのです。」
「指し手……ですか。」
コウヨウが(たと)えたのは、将兵や王の(こま)を使う遊戯(ゆうぎ)のことだろうか。貴族の子供達は幼い頃からその遊戯に親しむ。そしてそれは、兵を動かす理論や駆け引きを学ぶ為に、士官の訓練にも用いられるものだった。

(迷っていた、と過去形で言うからには、もう心は決まったと言うことなのかな。)
コウヨウは、ちらりと玄初(げんしょ)を見て(うなず)いた。
「あ、そうか……。それなら、街へ行く理由はありませんね。」
街へ行くと言うのが、あの場の言い訳ならば、そうする必要はないだろう。
「ですが、剣をお借りしてしまいましたし……。」
と、コウヨウは苦笑した。確かに、このまま奥宮に戻るのなら、剣は騎士宮で返さなくてはならないが、さすがに、借りてすぐに返しては変に思われてしまう。

「それに、ここの市場にも興味があります。」
その言葉に、玄初(げんしょ)は内心驚いた。と言うのも、普段の彼の務めの一つが市場の調査だったからだ。
玄初(げんしょ)様さえよろしければ、このまま市へ連れて行って頂けませんか?」
「それは勿論(もちろん)。俺の今の役目は、コウ……あなたの案内ですから。」
危うくコウヨウ様、と呼んでしまいそうになって、玄初(げんしょ)は慌てて言い直した。
「市場は王宮から遠いのですか?」
含み笑いをしながら、コウヨウが聞いた。
「ええ、少し。でも、馬車を使えば暮刻(ぼこく)に入る頃には、行って来られるはずです。」

二人の前方に城門が見えて来て、玄初(げんしょ)は、コウヨウの先に立った。南門では警備の兵士の誰何を受けることになる。普段から出入りがあって、兵士達にも顔を覚えられている玄初(げんしょ)が前に出て、コウヨウを連れだとした方が、すんなりと門を通れるだろうと考えたからだ。
「では、お願いいたします。」
コウヨウはそう言ってから、さりげなく制服の肩に付けられた記章を外し、腰に巻いていた帯の物入れにしまい込んだ。

(確かに、ここから先は、王宮の記章は目立つ。それが奥宮の記章と国章なら尚更だ。……それにしても、コウヨウ様は、こちらのことを良く知っていらっしゃる。実際、俺の説明なんて、必要ないのではないだろうか。)
「そのようなことはありません。玄初(げんしょ)様のおかげで、ここへ来てから私は色々な発見をしました。」
「それなら、良いのですが……。」
コウヨウの微笑みにも、玄初(げんしょ)は今ひとつ胸を張ることが出来ないでいた。

第二章 ―3―

§

「王宮の南側に、市街地が広がっているのですね。」
街並みを眺めながら、コウヨウが玄初(げんしょ)に言った。二人は城門を抜け、王宮の外に設けられた馬車留りで馬車を待っていた。玄初(げんしょ)の考えた通り、南門の兵士は、玄初(げんしょ)の顔を見ると、すぐに城門を通してくれた。
「ええ、そうです。王宮の南側と東側を合わせて旧市街地と呼んでいます。南門の側は宿屋や商いをする店が多いですね。東門側は、六公をはじめとする貴族の屋敷が集まっています。これから行く市場は、市街地の南東の端にあります。」
それから、と玄初(げんしょ)は、南門に隣接する二つの建物をコウヨウに示した。

「一つは都府で、王都の(まつりごと)を行う場所です。もう一つは護民官の詰め所で、護民官は都の治安を担当する州師の一部門です。ここラムゼイ州師の本拠地は、市街地の南西にあります。……そしてその長は、ラムゼイ州公である(りく)公衛(こうえい)殿下です。」
玄初(げんしょ)は、そっと隣に立つコウヨウの表情を(うかが)った。コウヨウが様々なことを事前に調べて来ている様子なので、玄初(げんしょ)は、自分が余計なことを言ってはいないかと、つい考えてしまうのだ。

「では、王宮の北西側は? 王宮の北西にも城門がありましたよね?」
コウヨウの言葉通り、王宮の城門は三ヶ所にあった。北西の門は、そこを流れるエーベル川に架かる橋を渡ると、新市街地と呼ばれる(まち)に出る。本来、この北西の門は、緊急時に竜師や州師が利用する目的で造られたものだった。その為、新市街地は、道幅や建物を建てる場所が厳しく制限されていた。
「北西側は、街の規模は小さいですが、職人町があります。新しく移住してきた人達が多く、最近では市場も開かれて、街は広がって来ています。」

玄初(げんしょ)は一台の馬車を(つか)まえると、コウヨウを(うなが)してそれに乗り込んだ。
玄初(げんしょ)が行く先を告げると、馬車は貴族達の屋敷が集まる東街の方へ走り出した。旧市街地の中はエーベル川の支流によって、南北に(まち)が区切られていた。だから、街の南に行くには、必ず、東か西の橋を渡らなくてはならなかったのだ。

「北側に見えるひと(きわ)背の高い建物が、女神シュンヨウの神殿です。神殿の周辺には六公の屋敷があります。」
東街を通りながら、玄初(げんしょ)はコウヨウにそう説明した。
「では、玄初(げんしょ)様は、普段はそこにお住いなのですね。」
コウヨウの言葉に、玄初(げんしょ)は一応(うなず)いたが、その内心は少し複雑だった。
(住んでいる……と言うか、お世話になっている、のかな?)
玄初(げんしょ)は、国官の職務と同じように、官吏になってから暮らしはじめた都の(おう)家の邸にも、まだ慣れていなかったのだ。

国官は、希望すれば花の宮殿の一室を宿舎として与えられる。玄初(げんしょ)は、少なくとも国官の務めを覚えるまでは、他の新任の官吏達と同様に、宮殿で寝泊まりするつもりでいた。だが、兄の子清(しせい)がそれを許さなかったのだ。
玄初(げんしょ)は学生の頃も寮で暮らしていて、あまり黄家の邸に帰ることはなかった。
その所為(せい)もあって、黄家の邸での四六時中付き添いの者がいて、何から何まで世話をしてくれるという生活に、(いま)だ馴染めないでいた。
無論、母の邸にも使用人はいたから、玄初(げんしょ)とて子供の頃は彼らの世話を受けていた。だが、母は、自分で出来ることは自分でさせる方針の人だった。
ところが都の邸では、机の上の文箱から筆一つを取るのも、従者と呼ばれる付き人が行うのだ。そして、玄初(げんしょ)が自分でそれをすると、彼らは不服そうな顔をした。

「自分でする、とおっしゃれば良いではありませんか。」
一体何がそんなに可笑(おか)しいのか、コウヨウは、必死に笑いを堪えているという顔をして、玄初(げんしょ)に言った。
「それは、そうかもしれませんが……。」
玄初(げんしょ)には玄初(げんしょ)の職務があるように、彼らにも彼らの役目がある。それは理解しているから、玄初(げんしょ)はやめて欲しいとは言えなかった。
「それなら、玄初(げんしょ)様がお慣れになることですね。」
コウヨウは、あっさりとそう言ったが、それに慣れることが出来ないから、玄初(げんしょ)は複雑な気持ちなのだ。
「一度、例外を作ってしまえば、後は楽です。とは言え、最初の抵抗は強いでしょうけれど。」
コウヨウのその言い方は、まるですでに経験済みだ、と言わんばかりだ。しかし、不思議そうな玄初(げんしょ)の視線にも、コウヨウは笑って答えなかった。



やがて、市場の近くの大通りで馬車から降りると、玄初(げんしょ)とコウヨウは、二人並んで市場へ通じる路地を歩き出した。
路地は、大人三人がようやく並べるくらいの幅しかなかったが、市場からの帰りと思われる荷物を抱えた女性達や、家と家との狭い隙間を走り回る子供達、それから、住宅の間に点在する小さな工房に出入りする男達、と路地を行き交う人は多かった。二人はそれらの人々の間を縫うように歩いていた。
すれ違う男達の中には、一人二人、玄初(げんしょ)の官服を見てぎくりとした表情を見せる者がいたが、玄初(げんしょ)は気づいてもいなかった。コウヨウは、それらを興味深く眺めていたが、玄初(げんしょ)には何も言わなかった。
一方、玄初(げんしょ)は、聞こえてくる声の方に気を取られていた。道幅が狭く家々が接近しているこの辺りでは、家の中にいる人の声も路地まで聞こえて来るからだ。
(どうか、誰も言わないでくれ。)
玄初(げんしょ)はそう願いながら、広い市場通りへ出ようと足を早めた。

(うそ)をつく子は、竜に連れて行かれるよ!」
一軒の家の中から母親らしい女の声が聞こえて、玄初(げんしょ)は青ざめた。道行く人達はそれを聞いて、にやりと笑って通り過ぎて行く。その後から、子供が泣きながら謝る声も聞こえてきた。
常套句(じょうとうく)ですよね。」
そう言うとコウヨウは、少し肩を(すく)めるようなしぐさをして笑った。
「ご存知……なのですか?」
驚いて玄初(げんしょ)(たず)ねると、まあ、と言葉を濁して、コウヨウは気にも留めない様子で歩き続けた。

程なく市場通りに出ると、活気に(あふ)れた売り子の声が二人の耳に飛び込んで来た。市場には、果物、野菜、穀物、豆類と扱う品物ごとに店が立ち並び、それらの隣には、色とりどりの布が天井まで掛けられた店もあった。コウヨウは興味深げに、店先に並んだ商品を(のぞ)き込みながら歩いて行く。日曜雑貨を扱う店、肉屋、魚屋など、たくさんの店がある中で、コウヨウが一番長く足を止めて見入っていたのは、装身具を扱っている店だった。

「細工物は、どうやって作っているのか興味が湧きます。」
そう言ったコウヨウの瞳は、花を見つめていた時と同じく、幼い子供のようだった。
片や玄初(げんしょ)は、穀物や野菜、塩を扱う店などで時々足を止めては、人々のやり取りをそれとなく聞いていた。コウヨウは、そんな玄初(げんしょ)の様子も面白く眺めていた。

玄初(げんしょ)様は、普段こういったお仕事をされているのですか?」
「あぁ、すみません。……仕事で来たのではないのに、つい習慣が出てしまいますね。」
言われてはじめて気が付いた、と言うように、玄初(げんしょ)は照れ笑いを浮かべた。玄初(げんしょ)の仕事の一つは、人々の生活に直結する物資の値段の調査だ。その売値が、定められた範囲に収まっているか、急な値上がり、値下がりが起こっていないかを見張るのが、彼の役目の一つだった。

「だから、先程から玄初(げんしょ)様の姿を見かけると、(おび)える者がいるのですね。」
それを聞いた玄初(げんしょ)は眉を(ひそ)めた。値段の調査と同時に、玄初(げんしょ)が担うもう一つの仕事が、裏取引の(うわさ)の収集だ。だが、コウヨウは玄初(げんしょ)を見て、小さな笑いを浮かべた。
「多少のお金を使ってでも、取引を有利に進めたいと言うのは、商いをする者なら、誰でも思うことではないですか?」
(いたずら)にそれを許せば、風紀は乱れます。それで不利益を(こうむ)るのは、正直に生きている市井の人々です。」
玄初(げんしょ)の答えに、コウヨウは大きく(うなず)いた。
「それが、(おう)家の答えなのですね。」
そう言ったコウヨウの目線は、一瞬、玄初(げんしょ)の胸飾りに止まった。
(何だか、国試の最終試問を受けているみたいだ。……面接で、陛下も同じようなことをおっしゃった。)

玄初(げんしょ)は無意識に、胸の黄玉石に手を()った。お守りだ、と言って兄が玄初(げんしょ)にくれたその玉石には、金燕と砂華を意匠とした(おう)家の紋が刻まれていた。金燕は民の安らぎを、砂華は公平な裁きを意味する。どちらも、古い時代の(おう)家の役割を表したものだと、玄初(げんしょ)は聞かされていた。
(でも、どうしてコウヨウ様がそれを……?)
家紋の意味など、親から子供へ伝えられるもので、世間一般に流布しているものではないはずだ。玄初(げんしょ)は一応、他家の家紋は知っている。だが、それに込められた意味までは知らなかった。

コウヨウは、玄初(げんしょ)から視線を()らせ、少し考える様子を見せた。
「一つには、その玉石が発する信号です。物は意思を持ちませんが、意志を持つ者がそれに触れる(与える)ことによって、そこに意識が残ります。その思いが強ければ強いほど、それが繰り返されれば、繰り返されるほどに、宿る力は強くなる。……その願い(意識)の強さを、ヒトは『お守り』と呼ぶのかもしれませんね。」

玄初(げんしょ)は、家紋の刻まれた黄玉石を手に取り、しげしげとそれを見つめた。
(代々の黄家当主に受け継がれて来たこの玉石に、そんな気持ちが込められていたなんて……。)
玄初(げんしょ)は、それを彼に与えてくれた兄のことを思った。
「では、コウヨウ……。あなたのところでは、どうなのですか?」
玄初(げんしょ)は、敬称をつけずに彼を呼ぶことに、どうしても抵抗を感じていた。
「どう……と言うのは?」
「えっと、あの……。あなたの国にも、俺のような役目の者がいるのかと思って。」

コウヨウは、ぐるりと市場を見渡した。
「その必要はありません。」
コウヨウはそう言うと、通りを横切って歩き出した。
「必要ないって、どういうことですか?」
玄初(げんしょ)は、コウヨウを追いかけて、その横に並んだ。
「全ての物は、使われる為に作られているからです。」
「それは、つまり……。」
コウヨウの話は、官吏を登用する為の試験のようだ。ただし、その理論は玄初(げんしょ)達とは逆だ。
「余分に作られる物がないから、それを売り買いする市場は成立しない、と言うことですか?」
玄初(げんしょ)の問いに、そうです、とコウヨウは(うなず)いた。
(確かにそれなら、市場を監視する役目は必要ないけど……。でも、竜族の世界に商いの習慣がないのなら、商売人の考え方を、コウヨウ様はどこで学んだのだろう?)

コウヨウは通りを渡ると、足を止めることなく路地の一つへ入って行った。
そこに何かあるのだろうかと、玄初(げんしょ)が思った時、小さな雑貨屋の店先に置かれた椅子に、一人の老婆が腰掛けているのが目に入った。
「良い香りがしますね。……それは、売り物ですか?」
見れば、老婆の側には大きめの(かご)が置かれていた。玄初(げんしょ)(のぞ)き込むと、籠の中には十個ほどの金色の実が入っていた。
突然声を掛けられた老婆は、驚いたようにコウヨウを見つめている。
糖柑(とうかん)ですね。……王都で見かけるのは珍しい。」
脇から玄初(げんしょ)が言うと、そうなのですか、とコウヨウが微笑んだ。
「お前さんは、王都の出身ではないのかい?」
コウヨウの笑顔を見て、少し警戒を解いた様子の老婆が、そう話しかけてきた。
「ええ、王都へは来たばかりで……。」
コウヨウはそう言葉を濁したが、老婆は、じっと玄初(げんしょ)の文官の制服と、コウヨウの従僕(じゅうぼく)の制服を見比べていた。

「あぁ、俺は南のクローディの出身なので、糖柑(とうかん)は馴染みの果物です。でも、王都へ来てから、こんなに大きな糖柑(とうかん)は見たことがありません。」
玄初(げんしょ)の言葉に、老婆は(うなず)いて、この王都の辺りが、糖柑(とうかん)が実る北限だからだろうと言った。
「良ければ、その糖柑(とうかん)(ゆず)って下さいませんか? 皆、喜ぶと思うので。……あぁ、私達は、北の方の国から、このイスタムール国へ来ているのです。」
コウヨウはそう言いながら、玄初(げんしょ)に軽く目配せして見せた。
「え、ええ。……そうですね、北のお客人には、糖柑(とうかん)は珍しいでしょう?」
玄初(げんしょ)は、何とかコウヨウに話を合わせた。しかし、それを聞いた老婆は、渋い顔をして二人を見た。
「すまないが、これは知り合いに分ける為にと持って来た物でね。残っているのは、傷の入っている物ばかり。とても、外の国のお客人に出せる物ではないよ。」
「私は、それでも構わないのですが……。」
コウヨウは残念そうに、(かご)の中の糖柑(とうかん)を見遣った。老婆は、そんなコウヨウの顔をじっと見ていたが、しばらくして、それなら、と切り出した。

「家まで来てくれるのなら、まだ木に残っている実がある。……ただ、あたしが収穫するには、高いところにあるのでね。取って(もら)う手間をかけてしまうけれど。」
それでも良いなら、と言った老婆の言葉に、二人は顔を見合わせた。さっき(ゆう)の正刻を告げる鐘を聞いたばかりだから、(くれ)の刻までは、あと一刻間ほどだ。王宮まで帰る時間を考えれば、それほど遠くへは行けない。老婆にその事を告げると、彼女は、家はすぐ近くだと言った。
「では、お言葉に甘えて、そうさせて頂きます。」
玄初(げんしょ)が口を開く前に、コウヨウがそう答えた。
老婆はその返事を聞くと、立ち上がって傍らの籠を取り上げ、先に立ってさっさと歩き出した。コウヨウが望むのなら、玄初(げんしょ)は否とは言えない。老婆の後について歩きながら、玄初(げんしょ)はコウヨウの側に寄って、小声で話しかけた。

「最初から、あの糖柑(とうかん)が目的で、路地へ入ったのですか?」
「ええ。とても良い波動(匂い)が届いて来ましたから。」
コウヨウはそう言って、小さく笑った。
糖柑(とうかん)は皮がとても薄くて()き難いが、その実は糖(みつ)のように甘い。そのことから糖柑(とうかん)の名前がついているのだが、その匂いはさほど強くはなかった。他の柑橘(かんきつ)類と同じように皮を()けば香りが立つが、そのままの実では、鼻を近づけようやく香りが分かる程度だ。

竜族はとても匂いに敏感だ、とは聞いていたが、そうは言っても、広い市場通りの反対側にまで、糖柑(とうかん)の香りが届くとは到底思えなかった。
「そうですね……。嗅覚というより、玄初(げんしょ)様の『お守り』に近い感覚でしょうか。」
意味が分からずに玄初(げんしょ)が戸惑っていると、コウヨウは、もどかしそうな顔をした。
「全てを言葉にするのは難しい。きっと、他の者達も、慣れない言葉で表現することに疲れて、思っていることを言わないでいるのだろうな。」
コウヨウと話していると全くそうは思わなかったが、竜族は寡黙(かもく)だ、と聞かされていたことを、玄初(げんしょ)は思い出した。

「……ですから、嬉しそうな波動()が届いて来たのです。美味しそうな表情と言うか、食べた時の甘さとか香りとか、それらを見て喜ぶ心地とか、そんなものが全部、一緒になって漂って来たのです。……だから、そんな暖かさ(幸せ)を発している(ヒト)は、()なのか知りたいと思ったのです。」
「人……ですか? 糖柑(とうかん)ではなくて?」
初めて聞いた時ほどの違和感はないが、コウヨウの話すこちらの言葉と、玄初(げんしょ)の内側で聞こえる竜族の言葉の二重音は、時折、玄初(げんしょ)を混乱させた。
「同じことです。物の波動は、ヒトの思いを反映している。」

途中、老婆は、小声で話す二人の方をちらりと見遣ったが、そのまま何も言わずに歩き続けていた。いつの間にか、辺りの家は(まば)らになり、代わりに小さな畑が点在する街の外れまで来ていた。
もう先には数件の家しかない分れ道で、老婆は足を止めて、玄初(げんしょ)達を振り向いた。
「こんな辺鄙(へんぴ)な場所まで、貴族の坊や二人だけで付いて来て、追剥(おいは)ぎだったらどうするつもりだい?」
老婆の言葉に、玄初(げんしょ)は顔色を変えた。
「大丈夫です。辺りにヒトの気配はありません。」
一方のコウヨウは落ち着き払っている。

「お前さんは若いのに、たいした度胸だね。」
老婆は微笑を浮かべて、コウヨウの持つ剣へと視線を移した。
「その剣は飾りではない、という訳だ。」
「ええ、まぁ。………あなたは、この家にお一人で暮らしていらっしゃるのですか?」
コウヨウは、目の前の家を見ながら、そう老婆に(たず)ねた。見れば、その家の庭には、屋根に届きそうなほどの大きな樹が生えていて、黄金色の実を、枝もたわわに付けていた。
老婆は家を振り返ると、ああ、と少し寂しそうに答えた。家の窓には、壊れた扉の代わりなのだろうか、所々、無造作に板が打ち付けられていた。
「旦那も息子も、先に()ってしまったからねぇ。」

玄初(げんしょ)が少し離れた隣家へ目を向けると、そこは長らく空き家になっているのだろう。玄関の扉が一部はずれて、そこから空っぽの部屋を(のぞ)き見ることが出来た。
「……やっぱり、この木からも良い香りがします。」
糖柑(とうかん)の樹を見上げ、目を細めてコウヨウが(つぶや)いた。

「あ……。あの、これほど大きな糖柑(とうかん)の木は、俺の郷里でもあまり見かけません。王都でも、こんな立派な樹になるのですね。」
老婆が怪訝(けげん)な顔をしたので、玄初(げんしょ)は慌ててそう言った。
「そうさね。この樹を見た人は皆、珍しいと言うよ。毎年、うちの糖柑(とうかん)は特別甘いと評判だ。取り分け、今年は出来が良い。」
そう言って糖柑(とうかん)の樹を見上げる老婆は、とても優しい瞳をしていた。

「大切にされているのですね。」
糖柑(とうかん)の木から老婆へと目を移して、コウヨウが言った。
「色々な想い出が、詰まっているからねぇ……。」
老婆の(つぶや)きを聞いて、玄初(げんしょ)は自分の胸飾りに手を遣った。その意味を知った今は、冷たい玉石の感触の奥に、暖かさが宿っているような気がした。
(この女性にとっては、この木が、見守ってくれるものなのだ。)
玄初(げんしょ)は、糖柑(とうかん)と彼の胸飾りが似ている、と言った先程のコウヨウの言葉に、ようやく納得が行った。
「思いを込めて作られたものは、受け取った相手に幸せな気持ちを届けてくれる。だから、あなたの糖柑(とうかん)は甘いのでしょうね。」
コウヨウの言葉に、老婆は嬉しそうな微笑みを浮かべた。

「……それじゃあ、済まないけれど、収穫を手伝ってもらえるかね。」
「ええ。任せて下さい。」
コウヨウはそう言うと、老婆が空にした(かご)を一旦玄初(げんしょ)に預けて、身軽に木を登って行った。そして、木の上で玄初(げんしょ)が差し出した籠を受け取ると、コウヨウは次々に糖柑(とうかん)の実をもいでは、その籠に入れていった。見る間に籠は一杯になり、すぐにコウヨウは、山盛りになった糖柑(とうかん)を抱えて木から降りて来た。

「まぁまぁ、こんなにたくさん。ありがとうねぇ。……これなら明日、家に来る娘の子供達にも、分けてやれそうだ。」
籠に山盛りの糖柑(とうかん)を見て、老婆は言った。それから彼女は、入れ物を探して来ると言って、立て付けの悪くなった玄関扉を開け、家の中へ入って行った。
「何故だか(なつ)かしい感じがする……。」
老婆の姿が見えなくなると、コウヨウがそう(つぶや)いた。その瞳は、じっと糖柑(とうかん)の樹を見つめている。
「これは自分の記憶なのか……。それとも、あの人の記憶なのだろうか?」
コウヨウは、何かを探すかのように古びた家に目を遣った。そしてそのまま、庭を歩いて行くと、コウヨウは、老婆が開け放した玄関から家の中を(のぞ)き込んだ。

「ちょっと、コウヨウ様……。」
無断で他人の家を(のぞ)くのは、行儀が良いとは言えない。玄初(げんしょ)は、急いでコウヨウの側へ行った。
「やっぱり、この家を知っている。でも、誰が……?」
そう(つぶや)いたコウヨウの表情が、突然、険しくなった。
どうかしたのか、と玄初(げんしょ)がコウヨウに問いかけるより前に、玄初(げんしょ)の耳にも、虫の羽音のような甲高い響きが聞こえた。微かなその音は、何故か胸をざわつかせた。
(この音、どこかで聞いたような気がするけど……。)
玄初(げんしょ)が思い出せずにいる間に、家の奥から老婆が姿を見せた。彼女はその腕に、細長い布を重そうに抱えていた。

待たせてしまったね、と言いながら歩いて来る老婆に、コウヨウは後退りして家の入り口から離れた。だが、その目は老婆から動かない。
(コウヨウ様は、この音が嫌なのだ。)
老婆が近付いて来るにつれ、玄初(げんしょ)の耳に聞こえる虫の羽音のような音は大きくなり、時々、それが獣の遠吠えにも聞こえた。
「その……、手に持っていらっしゃる物は、何ですか?」
玄初(げんしょ)は、玄関を(さえぎ)って、コウヨウと老婆の間に立った。
「これかい? これは剣だよ。」
老婆はそう言って、玄初(げんしょ)の肩越しに背後のコウヨウを見た。彼女が手にした包みは、玄初(げんしょ)でさえ不快に思うほどの音を発していた。
「私の夫は、ここラムゼイの州師をしていた。」
しかし、老婆は、気にする様子もなく話し続けた。

「その夫が、仕舞い込んで置くには勿体(もったい)ない、と言っていたものだ。」
老婆は、コウヨウに渡すようにと言って、玄初(げんしょ)にその荷包みを差し出した。
(受け取ってしまって良いのだろうか……?)
玄初(げんしょ)は、横目でコウヨウを(うかが)ったが、コウヨウは、その包みを見つめたままだ。
迷いながらも玄初(げんしょ)が受け取ったその剣は、彼女のような老婆がよく持てたものだと思うくらいに、重量のあるものだった。
不思議なことに玄初(げんしょ)がそれを受け取ると、剣が出していた音は幾分小さくなった。

「あれだけの量の糖柑(とうかん)を軽々と運べるお前さんなら、その剣も扱えるだろう。」
老婆は笑いを含んだ声で、玄初(げんしょ)の後ろに立つコウヨウに話しかけた。
「その剣は、夫の従兄の持ち物でね。私らは息子に譲るつもりでいたけれど。あぁ、息子も州師の武官だったのさ。男の孫にも恵まれた。でも、五年前のあの流行(はやり)(やまい)で、息子夫婦も孫も、亡くなってしまって……。」
老婆はそう言って、一つ()め息をついた。

「娘の嫁ぎ先は商家で、子供も娘ばかりだから剣は無用の物……。私も老い先長くはないし、夫の従兄からの大切な預かり物を、どうしたものかとずっと考えていた。」
そこで話を止めて、老婆は、少し昔話を聞いてくれるかい、と玄初(げんしょ)達に言った。
「えぇ、話して下さい。」
玄初(げんしょ)の後ろから聞こえたコウヨウの声は、(ひど)(かす)れていた。

「その剣は夫の従弟、その剣の持ち主の弟さんだけれど、その人が冬器(とうき)として作った物でね。……その剣を作り上げた日に、従弟は亡くなってしまった。」
その時、従弟は、まだ三十歳にもならなかったはずだ、と老婆は昔を思い出すように言った。
(そうか、この音は、緑の祭りで舞い手が持つ冬器の出す音だ。)

六年に一度、緑の年の終わりに、緑の月と呼ばれる(うるう)月が巡って来る。緑の月は、イスタムール国を構成する六つの氏族、つまり六州公家の〈地祇(ちぎ)〉と呼ばれる氏族の神を(まつ)る月でもあった。

祭りでは、各家から選ばれた楽人と冬器を持った舞い手が、神に歌舞を捧げるのだ。緑の月の祭りの舞い手は、緑の年生まれの成人に限られるが、その舞は各家で異なる。そして冬器も、家ごとにある程度決まった形状をしていた。冬器が武器の形をしているのなら、それは(はく)家か(こく)家のどちらかだ。

「でも、冬器ならどうして……。」
冬器は、土木や工業に関する仕事を行う工部の中で、冬官(とうかん)と呼ばれる特別な国官だけが扱えるものだ。冬器の出来を判定し、管理を行うのが冬官(とうかん)の役目だった。そして全ての冬器は必ず国庫に納められる。冬器は国王の為に作られ、王の許可により各家に貸し与えられるものだからだ。

玄初(げんしょ)の質問に、老婆は小さく首を横に振った。
「その剣は、冬器とは認められなかったのさ。」
「そんな……。」
冬器は国王に捧げる物であるから、作り手達は、持てる力の全てを注いでその制作にあたる。だから『冬器は作り手の命を吸い取って冬器と成る』と言われるのだと、玄初(げんしょ)は聞いたことがあった。でも、命の全てを捧げて作った品が、冬器として認められなかったのなら、亡くなった当人は浮かばれないだろう。冬器として作られ、冬器として認められなかった品物は、価値のない失敗作として扱われるのが常だ。

「従兄は亡くなる直前に、私達夫婦を訪ねて来て、その剣を置いて行ったのさ。その剣を、その由来とともに誰かに(ゆず)ってくれ、と言ってね。……私には、その剣が従兄とその弟さんの、二人の生きた証に思えてならなくて。」
老婆は、だから、と言って、コウヨウを見つめた。
「その剣を受け取っては(もら)えないかね?」
「……どうして、私に?」
(うつむ)いたまま、そう言ったコウヨウの声は、まるで泣いているように聞こえた。

「さぁ、そう言われるとねぇ……。糖柑(とうかん)の木に登るお前さんを見ていて、何故か従兄を思い出したのさ。」
そう言ってから、老婆は、少し遠くを見た。
「従兄が王都にいた頃だから、もう四十年近い昔になるかねぇ。……この家は、元々は従兄のものでね。毎年、従兄は木に登って糖柑(とうかん)を取ってくれた。従兄はとても身軽な人だった。私の夫なんて、一番下の枝で足を滑らせて、皆で大笑いをしたものだよ。」
だからと言うわけではないけれども、と老婆は続けた。
「もし従兄の子供が無事だったら、皆でこんな光景を見られただろうかと、ふと思ったものだからね……。」
「無事……と言うのは、事故か何か?」
玄初(げんしょ)の言葉に、老婆はまた()め息をついた。

「その発端は私の所為(せい)でもあるけれど……。従兄の子供は、生まれてすぐに行方不明になってしまったのさ。従兄は、その年に奥さんも亡くして……。折角苦労して手に入れた竜師の職も捨てて、従兄は郷里のルゼルクへ帰ってしまった。」
「竜師……? その方は、竜師の武官だったのですか?」
そうさ、と老婆は(うなず)いた。
「従兄はラムゼイ州師から、竜師になった人だった。」
「州師から……。」
それは凄い、と玄初(げんしょ)は思わず(つぶや)いた。

竜師は、王宮内の警備のみならず、国王や王族の外出などの際の警護も行うから、その人物への審査が厳しかった。最初に州師にいたと言うことは、その人は六公家とその分家である十二候家のいずれからも、後ろ楯を得ることの出来ない生まれだったと言うことだ。そこから竜師への推薦を得るには、相当の努力と、その能力を発揮できる機会に、恵まれていなくてはならない。
武官がその能力を発揮する場所が、戦場だということを考えれば、玄初(げんしょ)は良い気分はしなかった。だが、その機会を、確実に評価に結びつけるだけの努力を、その人はしたと言うことだ。

「その人のお名前は、何とおっしゃるのですか?」
竜師に所属していたなら、王宮に記録が残っているかもしれない、と玄初(げんしょ)は思った。
『……コウヤ。』
玄初(げんしょ)の内側で、コウヨウの声が聞こえた。
「ああ、公鵺(こうや)。その人の名前は、(きょう)公鵺(こうや)だ。」
コウヨウの声と重なるように、老婆がそう答えた。
玄初(げんしょ)がコウヨウを振り返ると、傍らまで歩み寄って来たコウヨウが、玄初(げんしょ)の腕からその剣を受け取った。剣はコウヨウの手に収まった途端(とたん)に、ぴたりと鳴り止んだ。
「ありがとう、コウヤ……。僕も、幸せだったよ。」
震える唇で、そうコウヨウが(つぶや)いた。小さなその声は、すぐ側にいた玄初(げんしょ)にしか聞こえなかったはずだ。

「もし良ければ、お前さんの名前を聞かせて(もら)えないかね? 春になったらルゼルクの墓に(もう)でて、その剣の持ち主に、誰に渡したか伝えておきたいから。」
老婆の言葉に、コウヨウは一拍置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「ヨウ……。コウヨウと言います。」
「まさか……!」
思わぬ老婆の大声に、玄初(げんしょ)は目を丸くして彼女を見つめた。
「あぁ、そうだよね。あの子のはずがない……。だってあれは、もう三十五年も前の話だ。……でも、なんて偶然なのだろうね。従兄の子供の名前も、〈(よう)〉と言うのだよ。きっと、従兄の思いが、お前さんと引き合わせてくれたのだろうさ。」
大切にしておくれね、と言った老婆の言葉に、コウヨウは大きく(うなず)いた。

「さ、もう日暮れも近い。最近この辺りは物騒になって来ていてね。追剥(おいは)ぎが出たと言う話を度々聞くから、間違っても小径(こみち)なんかに入り込んでは駄目だよ。」
そう言いながら老婆は、持って来た手提げ(かご)糖柑(とうかん)を詰め、それを玄初(げんしょ)達に渡した。それから彼女は玄関先に立って、二人の姿が見えなくなるまで見送ってくれた。

第二章 ―4―

§

コウヨウは、黙ったまま早足で歩いていた。後をついて行く玄初(げんしょ)は、小走りにならないと追いつけないくらいだ。
玄初(げんしょ)の頭の中には、老婆の家での出来事についての疑問が浮かんでいたが、息が上がってコウヨウに話しかけるどころではなかった。
やがて市場の本通りに(つな)がる脇道の一つで、ようやくコウヨウは足を(ゆる)めた。
暮の刻が近いので、家々に挟まれた道は薄暗く、辺りには人気も(まば)らだ。ただ先を急ぐ二人の靴音だけが小さな道に響いて、やけに大きく聞こえた。

その時、二人の背後で、女性の悲鳴らしき声が聞こえた。それは然程(さほど)大きな声ではなかったが、玄初(げんしょ)達の気を引くのには充分だった。
玄初(げんしょ)が振り返ると、家と家の間に入って行く人影と、その人影が手にしている刃物のきらめきが目に飛び込んで来た。
「いけません。」
人影の方へ走り出そうとした玄初(げんしょ)を、鋭い声でコウヨウが制した。
「放っては置けないでしょう?」
玄初(げんしょ)はそう言うと、彼の腕を(つか)もうとしたコウヨウを振り払って、脇道へと走り出した。それを見たコウヨウは、さっと辺りに視線を走らせた。だが、生憎と他にヒトが通りかかるような気配はない。それを確認して、コウヨウは舌打ちをした。

「全く……。仕方のない人だな。」
コウヨウは、玄初(げんしょ)の後を追いかけて走り出した。この状況では、手に持った糖柑(とうかん)の籠と二本の剣は邪魔で仕方がなかった。しかし、どちらも置いて行くことは出来ない。
「あぁ、もう。荷物さえなければ。」
コウヨウが追いつけないでいる間にも、玄初(げんしょ)は人影を追いかけて、小径を更に、込み入った家々の隙間のような道へと入って行ってしまった。

「その人を放せ。」
(わず)かに遅れて、コウヨウが玄初(げんしょ)の姿が消えた脇道へ辿(たど)り着くと、(りん)とした玄初(げんしょ)の声が聞こえた。それを聞いて、コウヨウは少し胸を()で下ろした。
細い路地の先で、玄初(げんしょ)は、女性の首に短剣を突きつけた男と対峙(たいじ)していた。男は、後から姿を現したコウヨウをちらりと見て、余裕の笑みを浮かべた。
「本気で、素手のまま、ごろつき達と渡り合うおつもりですか?」
小声でそう(ささや)きながら、コウヨウは騎士宮で借りた剣を抜いて、玄初(げんしょ)の側へ歩み寄った。

「ようこそ、俺の領分へ。疑うことを知らないお坊ちゃんの相手は楽だね。」
男はそう言うと、人質にしていた女と顔を見合わせて笑った。
それでようやく、玄初(げんしょ)は、(だま)されていたことに気が付いたが、時すでに遅し。人の気配に玄初(げんしょ)が振り返ると、いつの間にか、三人ほどの男が背後に立ち(ふさ)がっていた。

「さて、状況を分かって頂いた所で、持ち物全て置いていって(もら)おうか。……ああ勿論(もちろん)、着ているものも全てだ。命があるだけましだろう?」
(かしら)らしいその男は、そう言って手にした短剣をちらつかせて見せた。人質のふりをしていた女も、手に短剣を握って、薄笑いを浮かべて玄初(げんしょ)達を見ている。
玄初(げんしょ)は申し訳ない気持ちで、隣に立つコウヨウを見た。だが、コウヨウは平然とした顔で、男と向かい合っていた。

「去るのはそちらの方だ。……死にたくなければね。」
コウヨウの言葉を聞いて、男が笑った。
「坊や二人で、何をするつもりだ。それとも、少し痛い目を見たいのか?」
(かしら)の男がそう言うと、玄初(げんしょ)達の背後で忍び笑いが上がった。
「死にたいみたいだな。」
コウヨウの口調は、幾分(あき)れた様子だ。
「殺しては駄目です。」
それに対して玄初(げんしょ)は、きっぱりとした口調で、コウヨウに言った。玄初(げんしょ)をちらりと見遣ったコウヨウは、()め息をつくと、手に持っていた糖柑(とうかん)の籠と、老婆から譲り受けた剣の包みを玄初(げんしょ)に押し付けた。

「はぁ……、あなた方も苦労しますね。」
まるで遠くに呼びかけるように、コウヨウがそう言うと、それを聞いた追剥(おいは)ぎ達は、他に誰かいるのかと互いに目配せをした。
「なんだ、変なことを言いやがって。撹乱のつもりか?」
追剥(おいは)ぎの頭は、舌打ちして短剣を握りなおすと、玄初(げんしょ)の方へと一歩踏み出した。
咄嗟(とっさ)に、逃げなくては、と思ったものの、玄初(げんしょ)の身体は糖柑(とうかん)の籠と剣の重さに、身動きすら(まま)ならない。それを庇うように、コウヨウが、男と玄初(げんしょ)の間にすっと割り込んだ。ほんの少し場所を移しただけのように見えたのに、いつの間にか、コウヨウの手の中の剣は、ぴたりと追剥(おいは)ぎの胸に当てられ、男の動きを封じていた。

「どうして殺してはいけないのですか?」
そう言ったコウヨウの口調は、まるで天気の話でもしているかのように単調だ。
一方、剣先を向けられている男は、ごくりと息を呑んだ。
「護民官に引き渡して、裁きを受けさせるべきです。」
玄初(げんしょ)の主張に、コウヨウは小さな笑い声を上げた。
「本当に仕方のない……。わざわざ、護民官の手を(わずら)わせるまでもないでしょう?」
コウヨウはそう言って、半歩、追剥(おいは)ぎの男の方へと近寄った。剣を突き付けられている男は、必然、その分を後ろに下がらなくてはならない。
「わ……分かった、俺が悪かった。……何もいらないから、お前達は行っていい。」
慌てた様子でそう言いながらも、男が玄初(げんしょ)達の背後にいる仲間に目配せをしたのを、コウヨウは見逃さなかった。

次の瞬間、コウヨウは何も言わずに玄初(げんしょ)を横へ突き飛ばした。不意をつかれてよろめいた玄初(げんしょ)は、受け身を取ることも出来ずに、すぐ脇に建つ家の壁に背を打ち付け、そのまま壁際にうずくまる格好になった。
その衝撃で、玄初(げんしょ)が抱えていた籠の中から、糖柑(とうかん)の実が数個、地面に(こぼ)れ落ちた。玄初(げんしょ)の視線の先で、その糖柑(とうかん)の一つが、地面に突き刺さった手幅ほどの長さの小刀にぶつかって、向きを変えた。そこは、先程まで玄初(げんしょ)達が立っていた辺りだ。
それを見た玄初(げんしょ)は、青ざめた顔でコウヨウを見上げた。

一方のコウヨウは、一瞬だけ玄初(げんしょ)に目を向けたものの、すぐに追剥(おいは)ぎの頭との距離を詰め、男の持っていた短剣を手で叩き落とした。攻撃を受けた男が体勢を崩したのを見て取ると、コウヨウは背後に迫って来た男二人を振り返って、手にした剣で薙ぎ払った。その動きを警戒して、彼に近付いて来ていた男達の足が止まった。
その隙にコウヨウは、玄初(げんしょ)(おそ)いかかろうとしていた男の一人に体当たりをして、その男を突き飛ばすと、もう一人の男の腕を(とら)えた。腕を(つか)まれた男は(うめ)き声を上げ、手に持っていた短剣を取り落とした。しかし、男の剣先は、すでに玄初(げんしょ)の腕を(かす)っていて、切り裂かれた(そで)の一部が、(わず)かに血に染まっていた。

それを見たコウヨウの顔が、見る間に(けわ)しくなった。すると、コウヨウに腕を(つか)まれている男が、突然、大きな悲鳴を上げ、近くにいた玄初(げんしょ)の耳に、何かが砕ける鈍い音が聞こえた。
それからコウヨウは無造作に、その男を倒れ込んでいた仲間の方へ押しやった。然程(さほど)力を入れたようにも見えなかったにも関わらず、押し遣られた男の身体は、起き上がろうとしていた仲間の男を押し倒して、更に先まで転がって行った。

「コウヨウ……!」
地面に倒れた男から目を戻した玄初(げんしょ)が、コウヨウの背後に忍び寄る男達に気付いて、声を上げた。その声を聞いて玄初(げんしょ)を見遣ったコウヨウの口元が、笑いの形に動く。だが、彼は背後を振り返ろうともしなかった。
それどころか、コウヨウはいきなり、男達の方へ、つまり真後ろへと動いた。
「危な……い!」
背後に迫る男達の手には短剣が握られていたから、そのまま下がれば、まともに刃を受けてしまう。玄初(げんしょ)は思わず目を閉じた。

しかし、がつん、と何か硬いもの同士がぶつかる音がした後、玄初(げんしょ)の耳に届いたのは、どさっと重いものが倒れる音と男達の(うめ)く声だった。玄初(げんしょ)が恐る恐る目を開けると、目の前の地面に、二人の男が腹を押さえて倒れていた。
コウヨウは、と言えば、残る頭目の男の剣をひらりと避けると、次の動きで踏み込んで、間合いを取ろうと後退りする男に肉薄した。
その様子は、まるで男の持つ剣など恐れていないように見えた。玄初(げんしょ)は、騎士宮の武器庫で、武器など意味をなさない、と言ったコウヨウの言葉を思い出していた。
コウヨウは、近付きざまに頭目の男の足を払うと、倒れ込んだその男の胸に片足を置いて、喉元に剣を突き付けた。
「動くな!」
コウヨウの声が響き渡り、一瞬、追剥(おいは)ぎの一味だけでなく、全てのものが動きを止めたように感じられた。

「殺しては駄目です!」
玄初(げんしょ)は思わず大声を上げた。コウヨウから感じられる気配は、凍りつきそうなほどに冷え切っている。玄初(げんしょ)は震える声を振り絞った。
「……コウヨウ。お願いです。」
コウヨウは、ゆっくりと玄初(げんしょ)に視線を向けた。だが、その瞳は人形のように何の表情も浮かべてはいない。
「あの方が、ああ(おっしゃ)るので、殺さないでおいてやる。」
男の方へ目を戻して、コウヨウは言った。しかし、彼は男の上から動こうとはしなかった。代わりに、頭目の男が(かす)れた悲鳴を上げた。
「コウヨウ!」
玄初(げんしょ)はもう一度、彼の名を呼んだ。するとコウヨウは、男から目を上げた。けれどもそれは、路地の先から聞こえて来た足音を確認する為だった。

「あそこです。そこで追剥(おいは)ぎが……!」
こちらへ向かって来る複数の足音と一緒に、狭い通りの向こうで、誰ががそう叫ぶのが聞こえた。
「護民官が来たようですね。」
そう(つぶや)いて、ようやくコウヨウは男から離れると、剣を鞘に戻した。
それからコウヨウは、玄初(げんしょ)に歩み寄り、手を貸して彼を立ち上がらせた。
その間に、頭目の男は、(ほう)々の(てい)で逃げ出して行った。他の追剥(おいは)ぎ達の姿は、()うに見えない。

「この辺りで追剥(おいは)ぎが出たとの通報があったが、見なかったか?」
足早に近付いて来た武官達が、玄初(げんしょ)達の姿を見て、そう声を掛けて来た。
「さぁ……。今しがた走り抜けて行った男達がいたので、それかも知れません。」
コウヨウが、頭目の男が姿を消した道を指し示しながらそう答えると、武官達は顔を見合わせた。隊長らしき男が、何か言おうと口を開きかけたのに対して、側にいた武官が、その脇を突ついて何事か小声で合図した。
すると武官達の視線が、一斉に玄初(げんしょ)の胸飾りに向けられた。
「いや。あぁ……そう言う状況ですから、気をつけてお行き下さい。」
護民官達は、緊張気味に目線を交わし合い、先を急ぎますので失礼します、と言うと、足早にコウヨウが示した道の方へと去って行った。

それを見送って、コウヨウは、転がっていた糖柑(とうかん)を拾うために地面に屈み込んだ。玄初(げんしょ)も彼を手伝おうと、近くに落ちていた糖柑(とうかん)へと手を伸ばした。するとコウヨウが、その傍らに落ちていた平石に目を留めた。綺麗(きれい)な円に加工されているその石は、手の中にすっぽりと収まる大きさだ。
「それは装飾品としては使えなかった玉石……くず石でしょうね。」
コウヨウが平石を拾い上げたのを見て、玄初(げんしょ)は言った。

「申し訳ありません。ちゃんと守り通せなくて。」
コウヨウは、手の中の平石から玄初(げんしょ)の腕の傷に目を移して、ぽつりと言った。
「ただのかすり傷です。」
切られた時は痛かったが、改めて見れば、それは引っ掻き傷程度で、すでに血も止まっていた。玄初(げんしょ)は恥ずかしくなって、傷を見られないように腕を引いた。
「あなたが止めるのも聞かずに、追いかけて行ったのは俺ですから。……むしろ謝るのは俺の方です。案内役として、あなたの安全を最優先に考えなくてはならなかったのに、俺……。」
「私が連れ出したのですから、玄初(げんしょ)様を守るのは私の役目です。」
拾い上げた糖柑(とうかん)(かご)に戻してから、玄初(げんしょ)の持っていた荷物を受け取ると、コウヨウは玄初(げんしょ)(うなが)して歩き出した。

「ああいう場合は、声を上げて助けを呼ぶ方が先ですよ。」
(さと)すようにコウヨウに言われて、玄初(げんしょ)は小声で、はいと答えるしかなかった。
きっと、今日の出来事を報告したら、兄にも同じことを言われるのだろう。少し(あき)れたような兄の顔が思い浮かんで、玄初(げんしょ)()め息をついた。
「まぁ、宰相閣下が、目を離せないと思う気持ちは分かります。」
そう言いながら、コウヨウは通りの角に立っていた若者に、手に持っていた平石を放り投げるようにして渡した。
それを受け止めた若者は、茫然(ぼうぜん)とした顔でコウヨウを見つめた。

「済まなかった。」
脇を通り過ぎながらコウヨウが小声で、若者にそう(ささや)いたのを玄初(げんしょ)は聞き逃さなかった。
「どういうことです?」
足を早めたコウヨウに走り寄って、玄初(げんしょ)(たず)ねた。コウヨウは、玄初(げんしょ)を横目で見ると、微かな笑いを浮かべた。
「護民官を呼んでくれたのは彼です。」
「え、そうなのですか……?」
それならお礼を言いたいと思って、玄初(げんしょ)は後ろを振り返った。だが、そこにはもう、あの若者の姿は見えなかった。残念に思いながら玄初(げんしょ)が目を戻すと、コウヨウは既に、かなり先に行ってしまっていた。慌てて玄初(げんしょ)は、コウヨウを追いかけて走り出した。

第二章 ―5―

§

結局、二人が王宮に到着したのは、暮の半刻を告げる鐘が鳴り終わった後だった。
暮の半刻、つまり陽が落ちた時刻より後は、都の城門は閉ざされ、陽が昇る(そう)刻の半刻まで出入りが出来ない。それと同様に王宮の警備も、暮の半刻から夜間の態勢へと変わるのだ。当然、夜間は、宮殿内に出入りする者への確認が厳しくなる。
「間に合いませんでしたね。」
王宮前の馬車留りで馬車を降りて、南門へと歩きながら、玄初(げんしょ)はコウヨウに言った。
「問題は、この剣を持ち込むことを認めて(もら)えるか、ですね。」
コウヨウはそう言って、老婆から譲られた剣の包みを持ち上げ、玄初(げんしょ)に示した。

「あぁ、それがありましたね。……何とか理由をつけて、騎士宮まで行ければ良いのですが。」
夜間は、そもそも王宮に入るにも、特別な理由が必要だ。それについては、玄初(げんしょ)は宰相である兄の名前を使うつもりだった。
コウヨウについては、公衛(こうえい)殿下か、若しくは、国王陛下の命令で外出した、という言い訳が出来るだろう。しかし、剣を持ち込むには、何か(もっと)もらしい理由を考えなくてはならない。
(南門で止められた時は、事情をご存じの(はく)将軍に頼るしかない……。)
けれども昼間の感じでは、左軍将軍は、竜族にあまり好意的ではないように見受けられた。

「奥宮殿の肩章は付けた方が良いでしょう。」
玄初(げんしょ)が言うと、コウヨウも(うなず)いて、帯の物入れから記章を取り出した。
荷物を抱えているコウヨウの代わりに、その肩に記章を付けてやりながらも、玄初(げんしょ)は、剣を持ち込むための言い訳を必死に考えていた。
(うそ)は言えない。でも、真実を全て明かす必要もない。……理由として使えるとしたら、それが冬器(とうき)だと言うことだろう。)
老婆は、その剣が冬器として認められなかったと言ったが、玄初(げんしょ)が知る限り、それは冬器としての特徴を備えていた。
(少なくとも、一般の兵士に冬器かどうか判断する(すべ)はないはずだ。)
玄初(げんしょ)は決心すると、騎士宮で借りた剣をコウヨウから受け取った。

「これは、私が借りたことにします。理由は、あなたの案内と警護のためです。あなたは、陛下のご命令で、その冬器を受け取りに街まで出掛けた。いいですね?」
玄初(げんしょ)の言葉に、コウヨウは(わず)かに表情を(くも)らせた。
「例えその剣を取り上げられたとしても、冬器だと言っておけば、冬官(とうかん)へ送られます。その間に、公衛(こうえい)殿下に申し上げて、工部へ手を回して(もら)いましょう。」
コウヨウは少しの間、南門を見つめていたが、やがて黙って(うなず)いた。
「心配されなくても、大丈夫ですから。」
玄初(げんしょ)はそう言って、コウヨウを(うなが)して南門をくぐった。

二人が詰め所の前で足を止めると、警護の兵の一人が事務的に、所属と名前を名乗るようにと言ってきた。玄初(げんしょ)が、自分とコウヨウの所属を告げると、対応した兵士は玄初(げんしょ)の胸飾りに目を留めて顔色を変えた。
「あ、その……少しお待ち下さい。」
兵士は慌てた様子で傍らの扉を開けると、頭を突っ込んで、誰かとひそひそ話をしていた。やがて、対応していた兵士と入れ替りに、しぶしぶと言った様子で出てきたのは、どうやら上官らしかった。だが、彼の顔は明らかに(ひる)んでいる様子だ。

彼は、玄初(げんしょ)の制服とコウヨウの肩章を確認すると、遅い時間から入城する理由も問わずに、荷物の確認をさせて下さい、とだけ言った。
玄初(げんしょ)は、手にしていた剣を差し出して、その剣を(はく)将軍の許可を得て、左軍から借りたことを告げた。
玄初(げんしょ)の剣を確認した後、コウヨウが持っていた包みを受け取った武官は、驚いた顔をして、その包みとコウヨウとを見比べた。玄初(げんしょ)は、その剣がかなり重いものだったことを思い出して、内心冷や汗をかいた。

「中を確認させて頂いても、よろしいですか?」
武官はそう言って、返事も待たずに包みを解きはじめた。
「あ……、それは冬器として納められる予定のものです。」
玄初(げんしょ)は平静を装って、そう言い訳をした。
しかし、それを聞いた武官は、荷を解く手を止めて玄初(げんしょ)を見た。その顔は先程までとは打って変わって、厳しい表情をしていた。
「冬器の搬入搬出は、定められた日に、定められた手順に従って行う決まりになっているはずですが……。冬器を運ぶ者であるという認定証は、お持ちですか?」

(しまった……。)
咄嗟(とっさ)に言い訳を思いつくことが出来ずに、玄初(げんしょ)は黙り込んだ。その様子を見て取った武官が、包みに手を伸ばして、やや粗雑にそれを開けた。
「冬器に添えられる決まりの、冬官(とうかん)の許可証もないようですね。」
武官は、言い訳は許さない、と言わんばかりの顔で玄初(げんしょ)(にら)んでいた。
(うそ)をついて武器を持ち込もうとした行為は、反逆罪に問われる可能性もある。)
また自分の所為(せい)で、コウヨウ様に迷惑をお掛けしてしまった、と玄初(げんしょ)は唇を()んだ。

武官は玄初(げんしょ)達から目を離さずに、隣の部屋にいる部下を呼んだ。
姿を見せた部下にその剣を渡そうと、武官がそれを持ち上げた時、剣を包んでいた布の間から何かが床に滑り落ちた。それを見たコウヨウが、さっと武官に走り寄る。
「なっ……!」
その動きを抵抗と見たのか、武官は飛び退いて腰の剣へ手をかけた。
しかし、コウヨウは武官の足下にしゃがみ込むと、そこに落ちていた小さな白い石を拾い上げた。
「それは何だ?」
武官は剣を抜き放つと、コウヨウに剣先を向け、手に持っている物を渡すようにと言った。だが、コウヨウは、手の中の石を見つめたまま動かなかった。
しびれを切らした武官が、コウヨウの持つ石に手を伸ばした。

「触れるな!」
大声を上げて、コウヨウが退く。それを見た武官の表情が、一段と険しくなった。
玄初(げんしょ)の耳に、竜族は触れられることを何よりも嫌う、と言った兄の言葉が(よみがえ)った。
(どうしよう。……このままでは、大きな騒ぎになってしまう。)

「どうしたのだ。」
不意に隣室の扉が開いて、予想外の人物が姿を見せた。
敬邦(けいほう)様……。」
武官と玄初(げんしょ)が、同時にその名を呼んだ。
左軍将軍の副官である敬邦(けいほう)は、部屋の中の様子を見て眉を(ひそ)めた。
「どうして、こちらに……。」
玄初(げんしょ)が聞きたかったことを、武官が(つぶや)いた。
「午後の勤務を終えた者から、あなた方がまだ戻らないと報告があったので、確認に来たのです。」
敬邦(けいほう)は武官にではなく、玄初(げんしょ)達へ向けてそう答えた。その様子に、何か事情がありそうだと察した武官は、警戒しながらも武器を納めた。

「それは……?」
と、敬邦(けいほう)は、コウヨウの手元に視線を移した。コウヨウは、その問いには答えず、じっと敬邦(けいほう)を見つめている。
「あぁ、お守りですか。」
よくよく見れば、その石には(ひも)(くく)り付けられていた。
「大事な物なら、落とさないように仕舞っておかれると良いでしょう。」
続けてそう言った敬邦(けいほう)の声は、何か変だ。玄初(げんしょ)がそう思っていると、敬邦(けいほう)は眉間を軽く手で押さえて、何かを振り払うように小さく首を振った。その様子に玄初(げんしょ)は、騎士宮の入り口での出来事を思い出した。
玄初(げんしょ)は、そっとコウヨウの様子を(うかが)った。いつの間にか、コウヨウは持っていた石を、どこかに仕舞い込んでいた。

「それで、何でしたか……? あぁ、お戻りが遅いので、国王陛下も宰相閣下も心配しておいでです。それで、まだ戻らないようなら、街へ探しに行かせようかと話し合っていた所で、その確認と手配の為にここへ来たという訳です。」
「それは、大変申し訳ありません。」
そう言った玄初(げんしょ)に対して、敬邦(けいほう)は、謝罪されるのなら陛下に対してですよ、と軽く玄初(げんしょ)(いさ)めた。
それから敬邦(けいほう)は、警護を担当する武官へ向かって、先程の状況の理由を説明するように言った。武官は、玄初(げんしょ)達を気にしながらも、敬邦(けいほう)に事の顛末(てんまつ)を報告した。

「成る程……。」
武官の説明を聞き終わると、敬邦(けいほう)は、兵士の持つ剣に目を()って、幾分厳しい顔でコウヨウを見た。
「コウヨウ……の、彼の所為(せい)ではありません。俺が……。」
玄初(げんしょ)は何とか弁解しようと口を開いたが、敬邦(けいほう)は、玄初(げんしょ)様、とそれを遮った。
「……事情は後ほど(うかが)いましょう。その冬器は、一旦、私の方でお預かりいたします。

敬邦(けいほう)は、異論ありげな武官を目線で制し、玄初(げんしょ)達に早く奥宮へ戻るように言った。
玄初(げんしょ)はコウヨウと顔を見合わせた。
『仕方ありません。』
コウヨウはそう伝えてきたが、玄初(げんしょ)は、このまま引き下がる訳には行かない、と思った。しかし、良い方策は思い浮かばない。
警備の武官達は、依然(いぜん)として険しい顔で玄初(げんしょ)達を見ていた。

「それから、宰相閣下より玄初(げんしょ)様へ、戻ったら速やかに状況の報告に来るように、との伝言を(うけたまわ)っております。」
宰相閣下という言葉を強調して、敬邦(けいほう)は言った。
「分かりました……。」
玄初(げんしょ)はしぶしぶそう言うと、敬邦(けいほう)(うなが)されて南門を出た。二人はそのまま、敬邦(けいほう)が手配した馬車で西翼まで戻った。

西翼を歩きながらも、あの場で何と言えば良かったのか、と玄初(げんしょ)は考えていた。
(正直に中身は剣だと告げて、南門で預けた方が良かったのだろうか。)
だが、それでは城の中には持ち込めない。その場合は、外に出る時に、受け取ることが出来るだけだ。
(俺が黄家の屋敷へ持ち帰って、兄上に、冬器を持ち込むための手配をして(もら)えば良かったのかもしれない。でも、それでは手続きに時間がかかってしまう。……それに、剣の来歴も詳しく問われるかもしれない。)

(きょう)公鵺(こうや)の弟だと言うその作り手が、過去に冬官(とうかん)の審査を受けたのなら、その名前は工部の記録に残っているはずだ。
(そうか……。工部を通すとなると、冬器ではなく武器だと判断されてしまう。)
その剣は一度、冬器ではないと判断されている。そして、公式の記録として残された判定は覆せない。
(きょう)公鵺(こうや)……か。コウヨウ様は、その人物をご存知の様子だった。)
玄初(げんしょ)は、先を歩くコウヨウの背中を見つめた。

市場での言葉、公鵺(こうや)という人物のこと、街角の若者について、それから南門での出来事と、玄初(げんしょ)の頭の中は、様々な疑問で一杯だ。
だが、コウヨウは黙ったまま、西翼の中を歩き続けていた。一方、玄初(げんしょ)もそれらの疑問の何から聞けば良いのか迷っていた。
(ほむら)の塔まで辿(たど)り着くと、コウヨウは無言で入り口の扉に手をかけた。それから、思い直したように玄初(げんしょ)を振り返ると、今日は本当に済みませんでした、と言った。

「俺の方こそ、迷惑をお掛けしてばかりで……。」
玄初(げんしょ)の言葉に、コウヨウは、いいえ、と首を振った。
「ちゃんと傷の手当ては受けて下さい。小さな傷でも油断は禁物です。」
コウヨウが玄初(げんしょ)の腕へ目を向けたので、玄初(げんしょ)は、追剥(おいは)ぎの一件で、まだコウヨウにお礼を言っていなかったことを思い出した。
「あ、はい。……その、ありがとうございます。俺のこと守って頂いて。」
気にされることはありません、とコウヨウは笑みを浮かべた。
玄初(げんしょ)様をお守りするのは、私の役目の一つですから。」
コウヨウは、(ほむら)の塔の扉を押し開けた。
「では、玄初(げんしょ)様、また明日。……お疲れでしょうから、今日は余計なことは忘れて、ゆっくりお休み下さい。」
一瞬、何か言いたげな顔をした玄初(げんしょ)を残して、コウヨウは塔の中へ入って行った。


§

塔の壁越しに、玄初(げんしょ)の気配が西翼の方向へ遠ざかって行くのを確認して、コウヨウは小さく息を吐いた。
広間に()えられた祭壇の中心では、その存在を主張するかのように、竜炎石が紅く揺らめいていた。
(そう……竜の血を持つヒトを守ること、それが竜族に課された使命の一つだ。)
逆に竜族が、竜の血を持つヒトに危害を及ぼした場合、たとえそれが些細(ささい)なことであっても、その罰は過酷だ。コウヨウは昨日、それを身を持って味わった。
(けれど、その〈竜の血を持つヒト〉の範囲がどこまでなのか……。)

今回の戦いに介入するにあたって、コウヨウは九十年前の事件について可能な限りの情報を収集した。だが八竜達が出した結論は、その疑問に答えが得られない限り、ヒトの戦に介入することは一の竜の、つまりコウヨウの命を危険にさらすだけだ、ということだった。
(九十年前の結果から言えば、竜の血を持つヒトの範囲は、敵国の王とその一族にも及ぶらしい……。)
それは、(おきて)が言う〈竜族〉の中に、彼の一族と蛇竜族との区別がない、ということを意味していた。それは有り得ない、と八竜達は言ったが、それ以外に九十年前の出来事を説明する理由がないのだ。

(だからこそ、僕は八竜達の反対を押し切ってここへ来た……。他の竜達では出来ないことも、僕には可能だからだ。〈(おきて)〉が禁じている事の多くを、一の竜になる前に、僕は経験済みだ。つまりそれは、僕にとって〈(つみ)〉にはならないことを示している。)
コウヨウは、竜炎石から目を離した。
『お帰りなさいませ。』
二の竜が心話でそう伝えて来た。長らく塔を離れていたから、二の竜はさぞ心配をしていた事だろう。
『ただいま。』
コウヨウは、二階への階段を登りながらそう答えた。
(今日は色々な事があったな。)
(たと)え離れていても、一の竜と八竜達の意識()は深いところで(つな)がっている。コウヨウの強い感情の動きを、二の竜も感じていたはずだ。
しかし、それきり二の竜は何も聞いては来なかった。
部屋に戻ると、コウヨウは窓を開けて、傍らの寝台に腰を下ろした。夜風は濃い湿気を含んでいた。恐らく明日は雨になるだろう。

コウヨウは、白い石のお守りを取り出した。老婆から(もら)った剣に結び付けられていたその小さな玉石は、コウヨウの手の中で、(ほの)かな暖かさを発していた。
(……父さん。)
コウヨウの意識の奥底で、行き場を見失っていた記憶の断片が、その玉石を介して一つに(つな)がった。
(知らなかった、あなただったなんて……。もっと早くに気が付いていたら、僕は、あなたを悲しませずに済んだのだろうか? ごめんなさい。それから、ありがとう。……あなたの記憶(想い)は、ちゃんと受け取ったよ。)
コウヨウは玉石を握りしめたまま、長い間そうして夜風に吹かれていた。

イスタムールの戦い【2章】 ~フラットアース物語①

イスタムールの戦い【2章】 ~フラットアース物語①

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