ガラスの子
SF掌編小説です。縦書きでお読みください。
赤く澱む液の中には、あまりにもたくさんのアミノ酸が浮遊している。過剰な塩類、リピッド、生命現象に欠かせないアデノシン三燐酸、だが、こんなところで遊んでいても何の用も足さない。
休憩の細胞が広い海に揺られる夢を見て、出発の心を開けた。薄い細胞膜を通して侵入してこようとするナトリウムを一生懸命抑えている。次第に明瞭になってきた過去、未来の展望に、球形の細胞は考え込んだ。なつかしい昔を思いおこした。コアセルベート、ミセラ。
球形細胞はすでに幾百もの細胞に分裂している。
「どのようなものになるのだろうか」細胞は情報を盗み見た。激しく移り変わる角膜を覗き、仁を透視し、ヌクレオチドの配列を調べ、電子の安定状態を見た。それは人間になれとあった。
細胞塊に神経が走った。ピリッとした感じが全身を包み、電気が流れ、新しい感覚をもたらした。細胞分裂は進み、複雑な形になった。それは思った。
「鰓をこのままつけて、この水の中を泳ぎ回ったらどんなに楽しいだろう」
細胞塊は第一の目を開けた。器官としての目ではない。
・・・目の前には、ねじくれた核酸や、にじみ出たヘモグロビンなどが右往左往している。ヘモグロビンのやつは二酸化炭素を背負い、酸素と交換しようと行き場所を探しているのだ。アミノ酸が手をつなぎ、液の中を泳いでくるのが見えた。アミノ酸は細胞塊に挨拶をした。「よー仲間になるぜ」。アミノ酸はそういいながら細胞塊の中にどんどん入ってくる。
細胞塊はすでに、いろいろな機能を有していた。
ぼおやだ。
ビリビリビリ、ぼおやはピクッと動いた。発達し過ぎた神経系が、不純物に刺激を与えられたのだ。
ぼおやの中の幾万の細胞では、自然のコンピューターの働きで暗号が解明され、新たなタンパク質が作られ、第一の目はそれを好ましげに見守った。
「ぼおや、過去をしっかり見たかね、同じ繰り返しじゃ意味がない、どこか、ぼおやの必要と思うところで暗号を組み替えなさい」
と何かが言った。
「どういうこと?」
「昔、二本づつの手足と二つの目、耳、・・・そういう人間だっただろう、そしてお前もそうなるよう暗号は組まれている。だが、それじゃ、進歩はない。だから、どこでもいい、暗号を変化させなさい、しか、決して大きく変えてはいけないよ、いいね、大きく変えていはいけないよ・・・・」
ぼうやは目をぱちくりさせて、水の中を見た。周りには壊れたアミノ酸が浮いているだけだった。その声がどこから聞こえたのか分からない。
ぼおやは目玉の暗号を少しばかり変えてみた。
ぼおやはさらに成長し、骨が太くなり、手足が伸びた。
見慣れないものがそばにやってきた。
ふにゃふにゃしたもので、時に赤く、時に青く輝いた。燐酸にぶつかると跳ね返り、マグネシウムをけっとばし、ぼおやの目の前に来た。そいつは言った。
「ぼおやは男になりたいかね、それとも女になりたいかね」
ぼおやは悩んだ。
「お前さんの選択のできる唯一のものだ」
「でも、暗号は男になるように言っているよ」
「ああ、だからぼおやと呼んでいるのだがね、暗号なんてどうでもいい、それがあろうがなかろうが、男になっても女になってもいいんだよ」
「男がいい」
ぼおやがやっと決心すると、ふにゃふにゃしたそいつは、丸くなり三つに割れ、ぼおやの中に入り込んできた。三つの中の一つはもそもそと頭の中にはいり、脳と下垂体前葉に根を張った。もう一つは目玉に入った。残りの一つは足と足の間に入り込むと楽しげに言った。
「さーぼおや、大きくしてやるぞ、うんと立派にな」
「よろしくね」ぼおやは言った。
と、そこに、またもや見慣れないものがやってきた。そいつは大きなボールだった。ぼおやを無視すると、目玉の中に入り込み、すでに席をきめていた『男』の元と握手を交わした。
ぼおやはあわてて言った。
「誰だい」
「運命だよ、ぼおやが生れるまで、お話をしてあげるよ、相談にのるよ、ところでごめんよ、少し遅れちまった」
ぼおやはふくれた。
「なんで、もっと早く来てくれなかったの、男になろうか、女になろうか、まよったんだよ」
「そりゃ悪かった、まさか、こんなところで育っているとは思っていなかったんだ」
「こんな所って?」
「知らないのかい、ここはガラスの中だよ、さすがの運命様も気がつかなかったてことよ」
「普通はどんなところで育つの?」
「お母さんさ」
「お母さんってなに?」
「うん、ぼおやと同じ細胞でできているのさ」
「ふーん」
ぼおやは手を伸ばしてみた。手に触れたのは暖かくはあったが、硬くてつるつるしたものだった」
ぼおやは運命に尋ねた。
「これはお母さんじゃないの?」
運命はしばらく考えた。
「ぼおやにはお母さんだよな」
トゲトゲな真っ黒い紐、透明な紐が現れて、ぼおやの前で踊りだした。透明な紐はぼおやと目をあわすと、さっさとぼおやのからだの中に入り込み、手の指の先っちょを住処とした。
黒いトゲトゲはいつまでもクネクネと舞い、ぼおやの目の前でおどけると言った。
「どうした、もうすぐだよ、準備はいいのかい」
急に言われてぼうやはとまどった。
「なにが?」
ぼおやはその黒いトゲトゲに親しみを覚えた。
「もうすぐここから出て行かなきゃならんのさ」
「ふーン、ところであなたはだあれ」
「悪魔だよ、悪魔」
そう言うと、黒いトゲトゲは丸まっちくなった。
「あんたは、どこに住みたいの」
黒いトゲトゲは言った。
「あんたのおちんちん」
「え!」
ぼおやは驚いた。
「またかい、あそこはいろんなのが住処にしているんだよ、『男』や『生活』『種族』やいっぱいだよ」
「いいさ、なんとかやっていけるさ」
「なぜあそこがいいの?」
「すぐ外に出られるからさ」
ぼおやのからだのなかでは、血がざわめき、心臓が高鳴っている。
急に楽しく話をしていた、運命や悪魔の声が聞こえなくなった。彼らは最後に「頑張れ」と言った。
耳の鼓膜が振動し始め、外のざわめきが伝わるようになった。うるさい音だ。
次に襲ってきた不幸は、第一の目が見えなくなっていくことだった。過去の広い海が見えなくなり、アミノ酸や、カルシウム、にくらしい二酸化炭素、ナトリウム、マグネシウムの形がぼんやりとしてきた。
と、暗闇が迫り、第一の目が閉じた。
ざーざーざーと、ぼおやの耳にわけの分からない音が響いた。
「大成功だ」
オギャア、オギャア、オギャア、オギャア
試験管を母として、電気を父としたこの子供は「ガラスの子」と呼ばれた。
ガラスの子