縁側と舟

N村Kタロウ 作

和風で朦朧とした掌編小説です。いままで「門の掌編集」としてひとまとめにして掲載していましたが、分かりにくいので別々の作品として掲載し直すことにしました。

 右手には青い闇に沈んだ庭があった。左側は明かりの無い座敷だった。その境界をなす縁側で、柱にもたれ、足を投げ出して座っているのだった。
 真暗闇ではない。雨上がりに月でも出ているのか、木の葉や庭石に光の点が散らばっている。黒光りする敷板に、投げ出された裸足の両足が白く浮かんでいた。
 座敷は広い。二十畳ほどあろうか。そのあちらこちらに、布にくるまって眠る人影がある。大きい者や小さい者。体を横に向けあるいは背中を丸め、誰も顔を見せない。男か女かも分からない。幾人かは布の端から黒い髪を少しのぞかせていた。
 もはや痛みも無く、苦い思いも無かった。ただ懐かしい。みな気心の知れた親しい人ばかりだ。ひとりびとりを誰が誰とは見分けられなくとも、そのことは確かだった。
 暗い座敷の奥には、水墨画の襖絵がぼんやりと見えた。白砂に松原、帆掛け舟が一艘浮かんでいる、霞んだ浜辺の風景。見覚えのある絵だったが、どこかの寺院で実際に見たのか、画集で目にしたのか、それとも絵ではなく実景を見たのだったか、判然としなかった。
 細部の情景は暗くてよく見えないが、たしか霧雨が降っていたはずだ。そしてあるかなきかの風を筵帆に受けて進む舟。鏡の如く凪いだ水を、舳先がさばさばと切る。編笠姿の船頭は、うつむいて面貌を見せない。舵を取る腕は、袖のない着物からするりと伸び、胸がひやりとするほど細く、白かった。
 霞の底に水面が広がる。見やると船頭は目の前にいる。笠の縁から口元だけがのぞく。青白く薄い唇。長く黒い髪がはらりと垂れ、その幾筋かが微風にあおられて、濡れた笠の縁にはりついた。
 背筋を激しく打たれたように、
 ――この人を、知っている。
 と気づいた刹那、ひぃーん、と硝子を撫でるような響きを聞いた。
 静けさが戻ると、船頭も舟も景色もすべて元どおりに薄暗い襖絵の中に沈んでいた。
 今の音は何だったのか。庭の石灯籠の辺りから聞こえた。生き物の声のようであった。ひぐらしの鳴く声にも似ていた。夢にうなされた少女の、声にもならぬ声とも思えた。
 薄闇の座敷は、今はまた全き静寂のなかにあった。
 二十人近い人がいるのに、衣擦れや寝息さえ聞こえないのだった。あるいは、もはや彼らとは違った理のうちにあって、互いに界を異にしているのかもしれなかった。
 寂しかった。誰かと声を交わしたかった。この中の、誰にでもいいから、せめて別れを告げたかった。
 寝ている人影の中で最も近くにいるのは、細い身体を黒っぽい毛布にくるんだ小柄な女性、もしくは少年だった。丸めた背中をこちらに向けて、微動もしない。
 誰だろう。幾人かが思い当たる。いずれもごく近しい相手だった。その中のひとりに違いないのだ。少し手を伸ばせば、その肩に触れることも、毛布をめくって顔を見こともできたろう。しかしそうすればこの静かな時は永久に消え去ってしまうかもしれない。
 彼らと顔を合わせ、言葉を交わすことは二度とできない。そう納得せねばならないのだろう。こうした時間が与えられただけでも幸いなことなのだ。
 暗い座敷を目を凝らして見渡す。誰も身体を丸めて石のように動かない。床の間の掛け軸には細い筆で何か書かれているようだったが、はっきりとは見えなかった。奇妙に崩された二文字は「未生」とも読めたし、「未来」とも「来世」とも「本来」とも読めるようだった。
 それより他には家具も調度も無い。床脇の違い棚に置かれた白っぽいものは、目を凝らすと置物でも陶器でもなく、丸めた衣服らしかった。
 誰かが脱いでそのまま置いたような服。それだけがこの美しい空間と時間の調和を乱していた。
 グレーのパーカーのように見える。遠い呼び声のごとく、記憶が胸を打つ。この中に、あの子がいるのか。
 そうだ。そうに違いない。あの子が寝る前に脱いで、丸めてあの違い棚に置いたのだ。グレーのパーカーを。そうに違いなかった。
 静寂を乱さぬように座ったまま目で探す。この十何人かの中にあの子がいる。考えてみれば、いない筈が無いのだ。どこかに……どこに? 体形の極端に違う者はすぐに除外できる。では床の間の前で寝ているのがあの子か。でもあの子はもっと手足が長かった。部屋の中央でうつ伏せになっているのは? それともやはりパーカーのいちばん近く、違い棚の下で体を折り曲げているのがそうなのか。
 それらしき姿を三、四人にまで絞り込むことはできたけれど、そこまでだった。どれもあの子のようであり、だがやはりどれも違うように思われて、そうなると違い棚に置かれているのがあの子のパーカーかどうかも怪しくなってくる。ここにあの子がいない筈が無いという確信だけが残り、見つけ出すことはやはりできないのだと悟った。
 だがとにかく、あの中の誰かなのだ。その筈なのだ。いる筈なのだ。ひとつひとつの人影を、しばし見つめた。あの子でなくても、みんな誰かしら大切な人であることは間違いないのだ。
 この時間はいつまでも続かない。皆が目覚める前にここから消えなければならない。自分は遅れて来て、先に行く者だ。それは分かっていた。
 襖絵の舟が、少しずつ進んでゆく。微かな風を帆に受け、注視し過ぎると動きが見えなくなるほど、ゆっくりと。
 いや、そうではない。舟が進むのではない。舟の描かれた襖一枚だけが動いているのだ。
 開いてゆく。少しずつ、少しずつ。
 やがて現れた隙間の向こうは、黒漆で塗りつぶしたように真っ暗だった。
 徐々に広がってゆく四角な闇に目を凝らすと、そこにもやはり光はあった。オレンジ色の小さな灯火のようなものが、ぼんやりと見えた。しばらく見ていると消えてしまう。しかし目の力を抜くと、やはりそこにある。
 長方形の闇はさらに少しずつ広がり、何もかもを飲み込んでいった。襖も、眠る人々も、畳も床の間も、やがては縁側も庭も、なべて暗闇と成り果て、それでもなおオレンジの光はゆらゆらと揺れる。裸足の指先に触れるのはもはや磨かれた縁側ではなく、冷たく濡れた船底である。編み笠をかぶった船頭が、白くか細い腕で舵を取っている。凪いだ水の上を、オレンジ色の光にむかって音も無く、ゆっくりと進んでゆく。
 すとん。
 襖の閉じる音を背後に聞き、すべてが父母未生以前の闇に崩れ落ちた。
 何もかも分かっていた。船頭のこと、あの子のこと、あらゆる物事の意味さえも。しかしそれを口に出そうにも、もう言葉にも声にもならない。そこには縁側も舟も無く、光も影も形も無い。時間も、私も無い。

縁側と舟

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縁側と舟

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-03-28

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