今夜、眠れないのは貴女のせい

§ 一 §

 眠れない……。

 閉じたカーテンの隙間から、星が瞬いているのが見える。
 月が無いせいか、強く眩しい。
 聞き慣れない壁掛け時計の音が耳に障る。
 冷房の室外機のうなりが気になる。
 車が通り過ぎる音がする。遠くで電車が走り去る。
 自宅であれば気づきもしない音が、去り際に胃のあたりをチリチリとなでていく。

 知らない天井の下に寝そべるというのは、こうも感覚が研ぎ澄まされるものか。先ほどから睡魔は断続的に訪れているのに、今度こそ眠りの縁にたどり着けそうだと安堵した途端、ここが他者の家であることを思い出し緊張してしまう。コンタクトレンズのケースを化粧ポーチにしまったか、といった小さなことが気になって仕方がない。

 繊細といえば聞こえはいいが、要は臆病なだけ。心の弱さを再発見した思いがする。

 寝るための環境は、完璧なのだ。
 寝転がっているベッドは一人暮らしのくせに贅沢な広さと適度な弾力を持つセミダブル。リネンのシーツは張りも肌触りも快適だし、借りたパジャマからは柔軟剤のほのかな薫りが鼻をくすぐる。下着も真新しいのでサラサラとして肌に優しい。部屋の主が準備してくれた環境は、寝心地のよさなら文句のつけようもない。

 一方で、寝られない本当の原因を作っているのも、この部屋の主、璃子(りこ)であった。Tシャツに下着姿というあられもない姿の彼女は、お気に入りのヌイグルミを抱きしめるように私の左半身に絡みつき、無理やりさせた腕枕にくるまりながら静かに寝息を立てているのである。

 どう見ても、事後のようだ。他者の視点を想像するだけで、興奮と切なさがない交ぜになった、淫らとも思えるどきどきが止まない。

「重い」

 照れ隠しもあって、腕枕への文句を口にしてみた。照れというのは恐ろしいもので、そこまで嫌ではない小さな不満を大きく見せたがる心理が働く。本当は身動きの取れないこの呪縛のような姿勢に飽きただけであって、決して重くはないのだ。

 まったく抵抗しなかったわけでは無い。呪縛から逃れるために先ほどから間断ない努力を続けてきたのだが、頭をどかそうとすると、逃がさないぞと言わんばかりに腕に力を込められてしまうし、寝返りを打とうと体をよじると、素早く足を絡めて寝技をきめられてしまう。彼女は全て無意識で動いているようだ。

 それにしても、いい加減、疲れた。

「もう勘弁して」

 かれこれ一時間はこんな攻防が続いている。寝られるわけが無い。
 すーっ、すーっ、という穏やか寝息が憎らしい。



 三連休の真ん中。璃子に招待を受けた私は、数本のワインを手に彼女の家を訪ねた。チーズとおしゃべりとをつまみにして、昼からのんびりとボトルを空け始めた宴は九時を回っても続いた。その頃になると、当然二人ともいい具合にだらけきっている。

 付き合い自体は一年と短いものの、なかなか腐れ縁が切れない璃子は、前職の元同僚だ。といっても同僚の時期に付き合いは一切無く、私の退職前後に起きたとある事件を発端にして友人関係に進展した。

 お酒があれば話題には事欠かないので、月に二、三度ほどの頻度で互いのストレスを解消するために“飲もう”と誘いあうのが慣習となっている。普段は居酒屋で閉店間際まで話しこみ、互いに時計を気にしながら終電に乗って帰宅。翌日、二日酔いを引きずって出社し、頭痛と昨晩の話題の愚痴をメールしあうのがパターンになっていた。だからこうして、彼女の部屋で際限なく飲み続けるのは初めての経験だ。翌日も休みなのでダラダラと飲み過ごせる。この状況は後に何のストレスもない分、アルコールによる高揚感も相まって至福の悦びがある。さらに相手が璃子であることも、たまらなく心地よい。彼女は周囲の誰もが認める蠱惑的(こわくてき)な人で、一緒にいるだけで私を多幸感に包んでくれる。そんな麻薬のような友人と心を許して飲み明かすなど、堕ちゆく廃頽的な快感が約束されているようなものだ。

 良く言えば大らか、悪く言えばガサツな性格の璃子は、声も身振りも表情も大きい、はっと目を惹くような華を持った二〇代半ばの女性だ。彼女の周囲には常に人が集まっていて、仕事に遊びにとお誘いの声も老若男女を問わずに多い様子。夜は残業か同僚との飲み歩きが日課らしく、定時で帰り支度をする地味で目立たない私とは対極の存在と言っていい。

 璃子に「家で飲もうよ」と誘われたとき、きっと掃除をする時間もないくらい忙しい人だから物が散乱した汚い部屋なのだろう、と勝手に想像していた。しかし実際は、私の部屋と比べるのも嫌になるくらい、それはそれはキレイにしていて、心から驚かされてしまった。昨日今日で慌てて掃除したのでは、こうまで清潔感を醸すことはできまい。軽く何かに裏切られた思いだ。

 居心地の良さもあって、程度の良い疲れと気だるさに、私は半日の間ずっと気持ちが緩みっぱなしでいる。深夜に片足をつっこんだ時間になっても、なかなか腰を上げることが出来ない。

「うーん、帰るのが面倒になってきたなあ」

 冗談混じりにそうつぶやくと、璃子は嬉しそうに笑った。

「そうかいそうかい。麻里(まり)はくつろいでくれているかい。なんなら泊まっていけばいいよ」

 しかしその有難い申し出には、心から反駁する。

「遠慮しとく」

 嫌そうに顔の前で手を振ると、彼女は身を乗り出して抗議した。

「なんでっ!? 私、なんかしたっ!?」
「なんかどころの騒ぎじゃ無かったと思いますが」
「はあ? 記憶にございません」
「都合のいい記憶力だね。今のアンタと一緒に夜を過ごすのは、身の危険を感じます」
「ヒドイ言われようです」
「まずは反省しよう。全てはそれからだ。な?」

 なぜここまで頑なに彼女の誘いを断るのかというと、要するに、つまりだ。


 私は彼女に襲われたのだ。



 まだ日も残る夕方のこと。

 おしゃべりが一段落してワインのストックも切れたときだった。

「さっぱりしに行こうか」

 と、よくわからない誘い文句で、璃子は私を外に連れ出した。新しいワインとつまみを買い足しに行くのだと思っていたので、なんの疑問も無くヒョイヒョイとついていく。すると一〇分ほど歩いたところで彼女は立ち止まり、正面にある建物を見上げた。そこは、私の生涯で一度も縁の無かった場所だった。

「こ、ここ!?」

 仰天した。“湯”と書かれた古めかしい暖簾。上空を仰ぎみれば、コンクリートの煙突が高々とそびえ、水蒸気にも見える細い煙が頼りなげに風になびいている。

「そうだよ。たまにはよくない? 私も初めて来たけど」

 この言い草である。さすがは行き当たりばったり兼ワガママ日本代表。サプライズ好きの彼女は、私の反応を楽しむようにニヤニヤと笑っている。

「着替え無いし、タオルも無いし」
「いい歳をして、タオルも買えないのかい」

 役者のような言い回しと身振りでさっさと暖簾をくぐった彼女は、粋な江戸っ子オキャンのように見返り美人の立姿で

「いいさね。お姉さんが湯をごちそうしてやろう」

 と誘ってきた。彼女の独り芝居に二の句が継げない以上は、ついていくしかあるまい。完全に選択肢を封じられた私は、しぶしぶ暖簾をくぐった。



「はぁぁぁっ! いいもんだね、銭湯も」
「……うん」
「何よ、汗も流れてさっぱりするでしょ!」
「……後のことを考えなければね」

 暑さを残す九月中旬。熱気と湿気はいまだ八月を引きずっており、エアコンの効いた彼女の家にいてさえじんわりと汗がにじんだ。あの微妙に湿った服や下着をもう一度着ることを想像して、少し気持ちが萎えていたのである。化粧もし直さないと帰れないし、実は面倒のほうが多い。しかし璃子はそんな私の気持ちを見透かしたかのように

「替えの下着は、使ってないやつを持ってきたよ。肌着もあるから安心しなさい。化粧なんて一人で黙々とやるから面倒なのさ。お話しながらすればいいじゃない」

 といってから、湯のなかにブクブクブク、と潜った。

「ちょっ……やめなよっ」

 長くて見事にストレートの髪が、湯の表面で扇のように広がった。
 普通、髪は縛るだろう……! いやその前に、潜ること自体がありえないっ!
 私は唐突でマナー知らずの彼女の行為に驚き、他のお客さんの手前もあって慌てて彼女の腕を引き上げようとした。恥ずかしさで頭がいっぱいだったためか、そのときの妙な感触に気づくまでに数秒の間があった。

「……っ! 何してんのっ!」

 掴んでいた彼女の腕を反射的に振り払う。勢いに逆らわずに水面をぷかぁと漂った璃子は、目だけを湯から出して、ニヤリと笑った。

 ちょっと……。今、彼女は、もしかして……。

「アンタっ! 揉んだでしょっ!」

 私は憤って大きな声を出してしまった。“揉んだ”という単語だけがさほど広くもない女湯の中で反響する。その直後に、璃子のけらけらと笑う声が重なった。

「そんなけしからんモノを所有しているほうが悪い」
「だからって鷲掴みはないでしょ!」
「いいじゃんかー。恵まれない私に、少しは愛を分けておくれよ」

 璃子はそう言いながら、自分の胸を手で包んで大きさを比べるように強調した。相変わらず、よくわからない理屈だ。

「ねえ、そういうことして、楽しい?」
「なに、ちょっと興味ある? 私のも揉んでみる?」
「違うよっ! 呆れてんのよバカ!」
「なんだよー、貧民とは仲良くできないっていうのかい? 気持ちよかったくせに」
「……もういい」

 口でこの子に敵う気がしない。それどころか、この程度のことに本気で憤っている自分が、逆に恥ずかしくなってきた。私はそんな羞恥心を振り払うかのように、彼女の話題にあわせてみる。

「別に神経通ってないんだから、揉まれたって気持ちよくはないよ」
「わかってないなー、麻里は」
「何が」
「乳房区域は確かにそうかもしれん。しかし乳首界隈の敏感さは貧富の差なく平等のはずだよ! よし、私が“巨乳は感じにくい”という説を論理的に否定してやる」
「……どうやって」
「揉ませて」
「ダメに決まっているでしょ!」
「ケチぃ。そんな大きいものを持っているんだから、ちょっとくらい揉ませてくれたって、減りもしなけりゃバチも当たらないだろうに」

 どうあがいても彼女のペースだ。言い負かされると本当に揉みしだかれそうで恐ろしい。だから私も必死で抵抗する。

「自分が小さいからってひがまないで。鬱陶しい」
「言われるほど小さくはないつもりだけど……まあいい。揉ませてくれれば今の暴言は忘れてやろうではないか。全ての胸に平等の権利を!」
「言っている意味がわからないよ」
「かわいそうに。よし、揉ませてくれれば“巨乳は頭が悪い”説も併せて否定してあげる」

 ……これは、皮肉かな。それとも、マジかな。
 呆れて物も言えない、という心境を、身をもって体験した初銭湯だった。



「思い出した?」
「……ええ、まあ」
「完全に酔っぱらっていたよね、あれ」
「……ええ、まあ」
「で、今も酔っぱらっているよね」
「……ええ、まあ」
「やっぱり帰る」
「待ってぇ、おいてかないでぇ」

 追いすがるような泣き顔を見せた彼女。どうせ冗談だと思い、軽くあしらおうと帰り支度をする。しかし、絡みついた彼女の腕がびくともしない。二度、三度。振りほどこうとしても、その力は一向に緩む気配はなかった。

 何だろう?
 その必死さに捨て置けない何かを感じとった私は、抵抗せずに帰り支度をやめる。

「……どうしたの。何かあったんでしょ。本当は何か、言いたいことがあるんでしょ」
「無いよ」

 一転してニッコリと笑う璃子。その姿に、私はますます帰れなくなってしまった。
 何としてでも帰られたくないなら、嘘でも“何かがあった”と言って同情を誘うだろう。それなのに、いつもの笑顔で“無い”と言い切った。もしも“それなら帰るよ”と返事をしたら、彼女は再び追いすがるのだろうか。それを確認することは、まるで彼女を試すようで……どうしてもできなかった。

§ 二 §

 こうして、何度目かの判断ミスを積み重ね、私は今、この家の暗い天井を見つめている。左半身は璃子(りこ)に支配されていて身動きがとれない。やれやれ、と空いた右手で彼女の髪をすいてみた。さらさらとした髪がすべるように指の間を潜り抜けていく。気持ちよさそうに身じろぎしながら抱きついてくる彼女を、心の片隅でかわいいと思っている自分に気づいて、慌てて首を振った。

 あ、まずい……。

 僅かな尿意を感じ取り、さすがに危機感を覚えて真剣に対策を立てることにした。なんとしてでも彼女の蜘蛛の巣から脱出しなくてはならない。

「よし……この作戦で行く」

 数分の時を経て、私は脱出作戦を立案した。
 それにしても。左側で寝息を立てているこの人と真正面から付き合うのは、とってもとっても面倒なことだと知っているはずなのに、私はなかなか学習しない。妙なトラブルに巻き込まれて悪目立ちすることはもちろん、今日のように身の危険を感じることも再三だったはずだ。

 それなのに、なぜだろうか。璃子には離れがたい魅力がある。それは、衝撃的な出会いのせいではないだろうかと思い当たった。立案した脱出作戦のための準備を進めながら、私は、璃子との出会いについて思い返していた。



 前職で同僚だった頃の私と璃子は同期入社のはずだが、三年の在職期間中ほとんど接点が無かった。部署が違うというだけでなく、そもそも二人の性格に一致が無いからだ。天真爛漫で話題の中心にいたがる璃子と、目立たず騒がず自分のペースを守り続ける私。業務的なやりとりすら月に一度あるか無いかで、そのまま私が在籍し続けたとしても、きっとお互いに存在すら意識せぬままに終わる関係だっただろう。

 しかし、ある事件を元に、二人は出会ってしまう。

 その日、いつもどおりに出勤した私は、昨日とは違うオフィスの雰囲気を感じとっていた。普段から挨拶を交わす人には無視をされ、上司からも業務以外の話題を振られることが無くなった。当たり障り無く淡々と業務をこなしたにも関わらず、定時に帰ろうとするとなぜか陰口を叩かれる。

 これは私の預かり知らぬところで何かがあったな。そう思わざるを得ない。とはいえ、積極的に会社で友人を作ろうとしてこなかったせいで、調べようにも伝手がない。相談しようにも味方がいない。

 私のような人間はこういう時、人の噂も七五日と信じ、やることをコツコツと続けるしか対抗手段を持たないのだ。そのうちきっと元に戻る、と半ばあきらめ気味に覚悟を決めるしか他に道は無いのである。我慢を続けていればこの空気の正体もおのずと明らかになるだろう。

 居心地の悪い日々を一週間ほど這い続けた頃。給湯室から漏れてくる陰口をたまたま耳にしたことで、漂う空気の正体を知ることになる。

「噂の常盤麻里(まり)。やっぱり神田部長を総務の佐川さんから寝盗ったんだって。大人しそうな顔して、やるよね」
「それだけなら、まだいいよ」
「えっ、何なに!?」
「人事の佐久間くんから聞いたんだけど、どうやら会社の経費を数百万単位で横領していたらしいよ」
「あ、その話、私も聞いた! で、バレそうになったのを経理部長の神田さんにすり寄って、もみ消してもらったっていう……」
「でもさぁ! 神田部長と佐川さんだって、そもそも不倫関係だったわけで……」

 女子社員たちの話題がゴシップネタへと流れたのを機に黙って立ち去る。ああなるほどね、この件には真実からかけ離れた噂と、一切の証拠がないという現実があるんだな。その二点が、私と会社を首の皮一枚でつないでいるって訳か。ようやく事件の全貌を理解することができた。といって対処の方法も無い。しばらくは居心地の悪い中を過さなければならないようだ。

 それからまた数週間後。仕事でミスをしたのをきっかけに、厳しい顔をした上司に呼び出された。そして、唐突に自主退職を勧められる。

「今なら微少だけど退職金も出る。二ヶ月分の給料もそれとは別に支払うと人事も言っている。大変残念ではあるが、よくよく考えてくれ」

 体の良い厄介払いだ。神田部長の手が回ったのか、それとも社内の雰囲気を慮っての企業的判断か。四面楚歌のなか抵抗する手段も思い浮かばず、私は仕方なしに退職することを選択した。

 数ヶ月にわたり全社中の話題だったこの騒動は、私の存在をたいそう有名なものにしていたらしい。退職の挨拶に回るとすべて同じ会話になったことが何よりの証拠だ。

「お世話になりました」
「あ、はい」

 腫れ物扱いをされながら、挨拶になっていない挨拶を何十回と繰り返す。三年ほど毎日を過ごした空間とこんな形で別れるとは思いもよらなかったが、仕方がない、それもまた人生だ。

 そのときだった。

 私の目の隅に華やかな女性の歩き姿が映った。確か、椎名さんって言ったっけ。特に接点もなく、会話も「お願いします」「はい」くらいしかしたことがなかったな。

 でもまあ、袖触れ合うも多生の縁、か。

 妙に肝が据わっていた私は、どうにでもなれ、という気持ちで彼女に話しかけた。

「お世話になりました」

 すると、彼女は他の人たちとはまったく違う反応を見せた。

「こちらこそ。常盤さんだっけ。残念だね。いろいろと」
「はあ、まあ……」

 どういう意味だろうか。……きっとすべての意味で、なのだろう。
 小ざっぱりとしたファッションに身を包んだ彼女は、会話を打ち切るどころか、さらに畳みかけるようにとんでもないことを口にして、私をギョッとさせた。

「フロアいちの美人で巨乳だもん、妬まれても仕方ないさ!」
「はあ…………はあっ!?」

 巨乳はともかく、美人はあなたのことでは? そう言いかかった私を封じるように、彼女は言葉を継いだ。口から生まれてきたとしか思えない頭の回転の早さだ。

「これでようやく私の時代がきたなー! あなたのせいでいつも霞むんだ、私の存在。いや、ライバルを失うというのは心から残念だよ、ホントホント」

 彼女はニヤニヤと笑いながら、近々飲もう、と言って名刺を私の手にねじ込んだ。見ると携帯の番号が書いてある。何だろうこの人。今さら私と付き合ったところで、何のメリットもないのに。ふと視線に気づいて顔をあげると、彼女の目が“あなたのも教えて”と言っている。

 ――変な人。どうせ社交辞令だろうけど。
 そう判断し、私も自分の携帯番号を教えた。

 私は彼女を相手にすると、なぜか正常な判断ができなくなるようだ。
 それは今でも続いている呪われた七不思議のうちの一つなのだが、最初の判断ミスが携帯の番号を教えたことだとすると、二度目の判断ミスはそれから二週間後に起こった。

 携帯が振動するとともに、見知らぬ電話番号がディスプレイに浮かび上がる。面接した会社の人事からかもしれないと思い、慌てて電話に出ると、受話口から底抜けに明るい声が響いた。

「もしもーし!」
「は、はい。どなたでしょう」
「どなたでしょうはご挨拶だね。椎名だよ」
「……えっ」

 しまった、どうせかかってこないと思って、電話番号を電話帳に登録していなかった。

「再就職の様子はどうかな、と思って。うまくいっている?」
「いえ、まだ芳しくなく……」
「そうだろうそうだろう」

 今なら電話の向こうで彼女がニヤついていることを容易に想像できるが、そのときの純な私は“そうだろう”の意味がつかめずに、はあ、と気の抜けた返事をした。

「よかったら今晩、会わない? 約束どおり飲みに行こう」

 再就職に行き詰まっていた私は、寂しさに負けてここでも判断ミスをする。彼女の誘いを受けてしまったのだ。

「やあやあ、久しぶり」

 相変わらず華やかな様子で駅の改札に現れた彼女は、あんな噂で退職した私に対して、気負うことのない笑顔で歩み寄ってきた。そして、こっちこっち、と勝手に歩き出す。彼女の目的を持った足取りを見て、私は背中からはぐれないように黙ってついて行った。

 おしゃれな人だからきっといいお店に行くのだろうと身構えて、いつもより余計に現金を下ろしてきたのに、彼女は迷うことなくチェーン展開の安居酒屋に入った。カウンター席以外は混雑している旨を店員に伝えられると、またもや迷うことなくカウンター席に座り、私に一言も尋ねることなく生ビールを中ジョッキで二つ注文した。

 一仕事終えたような満足を顔にたたえる。次いでお手拭で手をぬぐう。特に話題を振るでもなくメニューとにらめっこを始める――。好き勝手に振舞いだした椎名璃子という女性を眺めながら、心の中で断定した。

 この人、私の数段上を行くマイペース人間だ。

 隣にいることを認識してもらえているのかが不安になってきた私は、ビールで乾杯したら自分から話しかけようと心に決めた。いつまでも彼女のペースに巻き込まれているというのも癪ではないか。しかし、そんな些細な目論見すらも、彼女にかかってはあっというまに覆されてしまう。

「世の中は不条理だっ!」

 彼女は店員からジョッキを受け取りながら言うと、すぐに手のものを高々と煽ってビールを喉に流し込んだ。そしてその中身を半分減らすまでの間、泡が覆うジョッキを持ち上げたまま固まっていた私を見て、ちょっとバツが悪そうに、乾杯、と先端を当てる。またもや機先を制されたことにショックを受けながらも、心を奮い立たせて質問してみた。

「……なにが不条理なんですか?」
「だってさ、私と常盤さんって部署が違うのに、私だけ忙しくなったんだよ?」

 まったく意味がわからなかったが、よくよく話を聞くと、つまりこういうことだった。
 庶務と経理を併せたような業務についていた私が抜けたあと、その穴を埋めるために彼女の部署から女子社員が数人引き抜かれたらしい。人が減った分の業務は、当然、部署内で分担することになる。

「それがさ、ほぼすべて私の業務にされちゃったんだ。これじゃあいくつ体があっても足りないよー。まったく冗談じゃない。私ゃアシュラマンかっつの」

 憤りはよく伝わってくるのだが、たとえがよくわからない。
 ……アシュラマンって何?

「ごめんなさい」

 私の責任でないことは自覚していたが、ひとまず謝ってみる。こうも真正面から文句を言われると謝りたくなるのだから不思議だ。一方の彼女はというと、そんな私を見てニコニコと笑っていた。

「いいよいいよ、先行投資と思っておくから」
「はい?」
「当面のライバルがいなくなったから、きっとこれから私に惚れる男子が増えるぞー。事実、増えつつあるしねっ! さあ、無駄モテフィーバーのスタートだ」

 当面のライバルとは、まさか私のことだろうか。そして……無駄……モテ? え?

「いやー、目の上のたんこぶが自滅してくれてホント助かった! ありがとう、ありがとう! 常盤麻里のあっぱれな自滅に乾杯!」

 ……これは、皮肉かな。それとも、マジかな。
 ここまで堂々と“いなくなってよかった”と言われ続けると、例の噂を流したのは彼女ではないかと疑りたくなってくる。

 しかしそれ以前に、彼女の認識との間にある齟齬が、先ほどから気になって仕方がない。

「私、モテたことなんて無かったですよ」
「あっはっはっ! 知らぬは本人のみってね。陰では常盤さん、男子に人気があったのよ」

 私には敵わなかったけどね、と彼女は注釈をつけたが、その言葉が無抵抗に鼓膜を通り過ぎてしまうほど、私は驚いていた。うそ……。私が、モテてた? 本当に知らぬは本人のみだ。

 それはさておき、今の会話は新しい情報になりうる。それを元にさらに想像を膨らませてみた。
 椎名さんには社内に気になる男の人がいた、と仮定してみよう。その人は実は私のことが好きで、それを知った椎名さんは私を恨んでしまう。腹いせに私が神田部長と寝て横領を隠したという噂を流して……。陳腐ではあるが、一応の筋は通る仮説だ。

「会社に、好きな男の人がいるんですか」
「え、なんで。そんなのいないよ」

 あっけらかんとしたその返答を受けて、先ほどの仮説を取り下げることにした。この様子からしても彼女の性格からしても、可能性は低そうだと直感したのだ。恋愛のもつれが無いとわかると、純粋に彼女の思考回路に興味が湧いてくる。

「どうしてそこまでして、モテたいんですか」
「気分がいいから」

 即答だった。理由としては至極まっとうだが、こう思わざるを得ない。変な人――と。

「気分が悪くなる人と無理して付き合いたくないじゃない。モテてるとね、ひがんだりそねんだりする人は勝手に離れて行くし、私と仲良くしたくない人も、無理に近寄ってこなくなるんだ。結果、人間関係の面倒が減るのよ」

 へえ。私の知らない世界だ。面白いことを言うんだな。

 私は初めて彼女の顔をまじまじと見つめた。まつげが長くて大きな目。ぱっちり二重の上には決して人に嫌な印象を与えない形のいい眉。通った鼻筋と厚くて艶のある唇は男性ウケも良さそう。素ですでにモテるだろうに、この人は人間関係にやたらと計算高い。モテていれば面倒な人間をふるいに掛けられると考えていること自体、どこか醒めた印象を受ける。派手な外見とは裏腹に、実は寂しさを抱えている人なのでは、と憶測を広げたくもなる。

 でもそれなら、なぜ私と付き合おうと思ったのだろう。椎名さんと積極的に仲良くしたいと思ったことは一度として無い。むしろ、性格が合わなさそうだと距離を置いていたくらいなのに。

「そんなの決まっているじゃない。気に入ったからだよ」

 ますます意味がわからなかった。社内でまったく接点の無かった私を、彼女が気に入るタイミングなどあっただろうか。

「あなたと接したいと思ったのは私の自己満足。気に入った人と一緒にいるのは心地いいからね」
「あの……」

 自分で聞くのが恥ずかしいセリフを、無理にでも言わざるを得ない状況だ。渾身の勇気を振り絞る。

「私なんかの、どこを気に入ったんですか」

 頬が染まるのを感じながら言い切った。それなのに……。

「さあて……なんだっけね。忘れちゃった」

 見え見えの嘘でさらっと回答を避けられてしまった。

「会社であれだけひどい噂が立てば、普通は敬遠しますよね」
「敬遠されたいの?」

 急に艶っぽくなった声にハッとして顔を見つめる。長いまつげの下に、強い意志を感じさせる瞳の光。その魔力に心を吸い取られそうになっている私を、彼女は優しい微笑みで見つめた。

「気分が悪くなる人の悪口をわざわざ言い合うなんて、人生の浪費だと思わない? それなら男の子にモテていたいし、巨乳を愛でていたい」

 目線が胸に落ちていることに気づき、反射的に両腕で隠す。彼女はニヤリと笑ってまたビールを煽った。

 なんだ。

 なんなんだこの人は。

「もしかして……まさかとは思いますが……」
「ん?」
「私の胸が、大きいからですか」

 すると彼女は一瞬だけ驚いた表情を見せると、鈴のようにコロコロと喉を鳴らしながら涙目になって腹部を押さえ、よくわかったね、と言って笑い転げた。不思議と馬鹿にされたとは思わなかったが、心の中で神格化していた彼女の地位は、一気に人間にまで堕ちた。そして、一言で表すことに成功したのだ。

 ――ただのセクハラ女子だ。

 その途端、なぜだか彼女が無性に好きになった。

 これを機に、彼女は私にとって椎名さんではなく璃子になり、彼女も私を麻里と呼ぶようになる。隙さえあれば胸に手を伸ばしてくるこの人といるといちいち気疲れは感じるが、不快に思うことは一度として無かった。

 再就職に無事成功してしばらくは、週に一回ほどのペースで飲みに誘い合う仲になる。忙しかったこともあって、七割程度しか付き合えなかったが、会えば必ずセクハラを受け、三回に一回は璃子が酔いつぶれて私が面倒を見た。

 華やかな部分も駄目な部分も含めて、会うたびにどんどん彼女が好きになる。いつしかお互いの口調はさらに砕け、椎名璃子の二人称は“アンタ”になっていた。

§ 三 §

 暗闇の中、目論見の成就まであと一歩に迫っていた。

 この作戦を成功させないと、膀胱が大変なことになる。それは綺麗好きの璃子(りこ)も望まないだろう。よってお互いのためにも、本作戦は完遂させねばならないのだ。二人の頭を支えていた枕をゆっくりと気づかれないように引きずり出すことには成功した。後はその枕を私の体と入れ替えるだけ。そして……一気に体を捻って……ベッドから転がり落ちる!

 体を離す瞬間、璃子の腕に力が入ったのは感じたが、間一髪のところでなんとかすり抜けることができた。フローリングに肩を打ちつけたが、音が出ないように落ちることにも成功。一〇分以上を費やした脱出作戦はここに完了した。ああ、何と言う達成感。誰かに向かって敬礼したい気分だ。

 やれやれ、と腕枕を続けていた左腕をさすりながら首を左右に傾けてストレッチをする。これでトイレに行けるし水も飲めるぞ、助かった。璃子め、苦労をかけるんだから。

 でも、枕をぎゅっと抱きしめながら顔をすりよせるようにして眠る璃子の姿を見ていると、どうしても憎むことができない。

 すでに自認している。私は璃子にとことん甘いのだ。


 トイレの帰りに冷蔵庫からペットボトルの水を出して口に含んだとき、庫内灯の光が整理整頓された本棚を映した。あ、璃子の蔵書、見てみたい。私はペットボトルを冷蔵庫に戻してから本棚の正面に立つと、カーテンの隙間から漏れる街頭の光を頼りに上から下までざっと眺める。そこには、文庫、新書、B5、A4と、さまざまなサイズの本が完璧に揃えられていた。あの大らかな性格からはとても想像できない神経質さだ。

 本棚は所有者の性格が出るというが、まてよ。もしかしたら私は、彼女の性格を見誤っているのではないだろうか。だとしたら、一年もの間、私は彼女の何を見てきたというのだろう。少し不安になってしまう。

 それにしても、彼女の趣向は本当に一貫性がない。文芸から少女漫画、ビジネス書に写真集と幅広く、家計簿か日記らしきノートも数十冊の単位で本棚にキッチリと収められていた。

「あれ……?」

 ノートだけが綺麗に立てられた目の高さにある一画に、一センチほど背が飛び出た一冊を見つけた。これだけ整頓された書架の中では、一センチのズレと言えどかなり目立つ。私は小さな親切心から、背表紙をぐいっと奥に向かって押し込んでみる。しかし、他のノートの重さに押されてか、五ミリほどで止まってしまい、背表紙が揃わない。仕方なしに一度引き抜いて手に持ち直した。

 車が外の道を通った。そのヘッドライトに照らされて、ノートの表紙がくっきりと浮かび上がる。そこには。



 常盤麻里(まり)



 体が硬直した。
 えっ、どういうこと。……えっ? えっ!?

 なんで私の名前が書かれたノートがあるの。“飲み歩き記録”や“一緒に見た映画一覧”や“彼女の迷言録”といったサブタイトルすら無く、無味乾燥とした筆跡の字面が私の名前を象って並んでいるだけ。これは、何? これは、私の何? これは、彼女の、何?

 しばらく身動きできなかったが、ようやく我に返る。とはいえ頭の中は相変わらず疑問符だらけだ。このノートは何を書き留めるために用意したものなの? なぜ表題が私の名前なの?

 まるで、彼女の分類能力によって、本棚に綺麗に整理されたような気分になり、全身に悪寒が走る。その震えは最初小さかったが、徐々にめまいと共に大きくなっていき、ノートを手にしたままガクガクと小刻みに顎まで揺れた。

 何が書かれているんだろう。何を記録していたんだろう。いつから書き始めたのだろう。動機はなんだろう。あんなに笑いあって、あんなに語り合って、あんなに心のうちをさらしあったはずなのに。もし、この一画に立てられたノートのすべての表紙に、私と同じように誰かの名前が記されていたら、どう対処すればいいのだろう。いや、それを確認することすら恐ろしい。私は彼女を特別な存在だと思っていたが、彼女にとって私は、表題に名前を記して書架に立てかけておくノートの一冊にすぎなかったのだとしたら。


 知りたい。私は彼女の友人なのか。
 知りたい。私はノートの一冊なのか。


 そのとき、心の奥に誘惑という名の悪魔が姿を見せた。
 それは小さな声で、“開け”と言っていた。

 待って。これは璃子のプライベートなノート。私のことを何かしら書き記していたとしても、勝手に開く権利はない。

 “開け”

 例え悪口を書き連ねていたとして、それが何だと言うの。彼女は現にこうして私を家に泊めた。それはこのノートを見られる危険を孕んでいる。ならば、ひどいことが書かれている可能性は皆無に等しい。

 “開け”

 もしかして。見られたくないから、抱きついて行動の自由を奪っていたの? 自分が寝ている間に勝手な行動をとられないように。ううん、それもおかしい。ならあんな顔をして“おいてかないでぇ”などと追いすがるだろうか。

 “開け”

 でも、やはり不自然だ。なぜ? どうして? 璃子の部屋の本棚に、私の名前が書かれたノートがある。これほど不可解なことは無いのではないか。先ほどから心拍が悲鳴をあげている。



 このままでは眠れない。



 ……確認してしまえばいいじゃないか。精神を平静に保つためにも。笑い話で済ますためにも。

 “そうだ。開け”

 やましいものでないから、こうやって外に出しているんだ。数ページ読んで、ふーんって感じなら、そこで辞めればいい。こんなにも私が震えているのは、そもそも彼女のせいだ。眠れずに起きていたのも、すべて彼女のせいだ。

“そのとおりだ!”
「……開いてしまえば……いいんだ」

 どす黒い感情が胸を支配するのを感じながら、ノートを開く決意をした。借りたパジャマで手汗をぬぐうと、もう一度、表紙に書かれた名前を見つめる。整った字は確かに璃子の筆跡だ。私の名前を記しながら、彼女は何を考えていたのだろうか。

 恐る恐る開く。そこには左上に日付、下に一日一ページの分量で日記調の文面が記されていた。丁寧な文字で書かれた最初のページの日付は約一年前。妙な噂が広まってから数日後だ。

 はじめの頃は“社内の空気が悪くて仕事の効率が悪い”などと所感が書かれていたのだが、読み進めるうちに、私にまつわる噂やそれを流している人の名前などが箇条書きで書かれるようになってきた。見覚えのある名前が並ぶと、当時のことを思い出して軽く吐き気がする。あのときの自分に戻りたくないと思う心が、拒絶反応を示しているのだろうか。

 ノートの内容から、椎名璃子の思考の一部が私にも理解できた気がした。

「これは……どうやら……」

 彼女は、事件を独自に調査していたようだ。

 よく知っている噂話はもちろんのこと、当人である私すら知らない事実が時系列を追って整理されている。神田部長は噂が流れてから数日後に臨時役員会で査問を受けたらしく、その後も頻繁に呼びだされていたことが手に取るようにわかる。総務の佐川さんが神田部長と不倫していた事実も調べた様子で、状況証拠にしかならないとはいえ、多くの有効な証言を集めていた。

「……仕事のできる人の報告書は……読みやすいな」

 恐怖で震えたノートの中身は皮肉なことに、私を取り巻く事件をこの上なく読みやすくまとめた記録帳だった。この調査能力は並ではない。社内に多くの伝手を持ち、男の子たちに“無駄モテ”をしているだけあって、集められた情報はとてつもない量だ。

「あっ、この日」

 ある日付を見つけて、そこに書かれた内容の簡素さに、私は思わずたじろいだ。



 常盤麻里、自主退職。



 事実を淡々と書いた璃子。
 どうして、こんなに淡々としているの? 私はすがる思いで筆跡を指でなぞりながら、彼女の気持ちを想像しようと試みた。でも……何も伝わってこない。退職の挨拶で交わしたあの会話は、私の人生をくるっと回転させてしまうほど衝撃的だったのに。それなのに、璃子は……。

「たった一〇文字で、書き記せちゃうんだ……」

 悔しい、とも、やはりね、とも、目の上のたんこぶが、とすらも、一切書かれていない。きっと、調査対象としてしか見ていなかったから、ここまで冷静な書き方なのだろう。もしやと思い、初めて二人で飲みに行った日付を開いてみたが、そこにも居酒屋についてのことは一行も触れられていなかった。

 そもそも、椎名璃子はなぜこの事件を調査していたのか。こうなると、会社から極秘裏に依頼されていたと考えるのが自然だ。そして、退職した後も関係を絶やさないようにと、社から命令されていたのかもしれない。

 待って。冷静になろう。

 確証も無く想像だけで勝手に話を進めては駄目だ。
 少なくとも彼女のプライベートなものを勝手に覗き込んでいるのは私の方。猜疑心にさいなまれてノートを開いてしまったのは私の方。それなのに、この上想像だけで璃子を貶めてはいけない。

 負の感情に浸りきりそうになるのをぐっと踏みとどまり、嫌な妄想を否定したくて再びノートに目を落とした。私の退職後も記録は続く。疑問だった事象をひとつひとつ潰していく過程が手に取るようにわかる。そして彼女の思考は後半になればなるほど、ひとつの結論に向けて収束していく。それは、こんな仮説だった。


 神田部長が、横領の罪を、常盤麻里に、なすりつけた。


 薄々、私も勘付いてはいた。警察沙汰にでもならない限り、本件はうやむやのままにもみ消されるだろうことも予想していた。それでも、少し調べれば神田部長のボロは詳らかにされるのをどこかで期待してもいたのだ。しかし現実には、私が自主退職することになった。

 彼女は、一体どんな結論に行きついたのだろう。まるで自分の未来が記された神様の予定帳でも読むような気持ちで、畏れを伴いながら先へ先へと読み進める。


 そして、とあるページで手が止まった。


  ●社内調査の証言
  神田部長、常盤麻里の左胸にホクロがあると証言
  横領は常盤の犯行 → まさかとは思うが? 要調査

  ●常盤麻里に聞きたいこと。
   ・左胸にホクロはあるか


 ホクロ……? ホクロだって……?
 そんなもの、無いはずだけど。
 あっ。それを、確認したかった、ってこと!?



 真っ白になった脳裏に、様々なシーンがフラッシュバックする。



 ――そんなけしからんモノを所有しているほうが悪い
 ――フロアいちの美人で巨乳だもん。
 ――それくらいなら男の子にモテていたいし、巨乳を愛でていたい。
 ――さっぱりしに行こうか。


 ――さっぱり、しに、行こうか。



 ――さっぱり――しに――行こうか。


 ……なんだ。……結局、そういうことか。

 胸をやたらと触りたがったのは、調査の一環だったのか。
 一年も友人関係を続けてきたのは、今日、銭湯に誘うため。


 たかが!
 たかが左胸にホクロがあるか無いかを確認するためだけに……!!


 立っていられない。膝に力が入らない。

 ゆっくりと膝を曲げて、手を床につけながらなんとか上体を支える。目の前が真っ暗だ。全身の毛孔が開ききり、ザワザワと蠢いているような錯覚に陥る。

 あの笑顔は? あのお酒は? あの冗談は? あの言葉は?

 屈託の無い笑顔で、私に冗談ばかり言ってたじゃない。無邪気な寝顔で、身じろぎしながら抱きついてきたじゃない。あれは、なんだったのよ――。

 ――ダメだ。ここから先、読めない。
 私は、ノートを静かに閉じた。本棚に戻す気力が湧いたのは、それから一五分ほど後のことだった。

§ 四 §

 長い時間、呆然と、暗い天井の一点を見つめていた。

 すべては、計算の上に成り立つ友情だったんだな。……虚しいね。全部私の独りよがりじゃない。そうだよね、たかが一年で彼女のことを知った気になっていた方が悪いんだ。バカだなあ。自分みたいな女に椎名璃子(りこ)のような華やかな友達が、できるはず無いのに。何を夢見ていたんだろう。恥ずかしい。

 涙があふれそうになった瞬間。
 かちっ、と頭の中でスイッチが入った音がする。
 一年前までの自分が……体の奥底からよみがえる音だ……。

 それは、悪魔の囁き。

 ――ショックを受けるようなことじゃないでしょ。コツコツと日々を積み重ねていれば、きっと私は元に戻る。そのうち気だるい空気にも慣れるよ。

 そう。きっと私は、元に戻る。
 涙腺が、閉じた。涙は、もう見せない。
 目が、すわっていく。頬が、落ちていく。口が、への字になる。
 大人しくて、目立たなくて、誰とも交わらない自分が、戻ってくる。
 心にふたをして、雑音を遮断して、背を丸めて。

 ――よくできたわ。もう大丈夫。何も怖くない。どんな攻撃も流せる私になったよ。緩んだ気持ちとはおさらばね。騒がず、はしゃがない、そんな“私”を取り戻すの。

 分厚い鎧を着直した私は、心の波形がフラットになったことを、確認した。

 熟睡する椎名瑠子の顔を拝みに、隣室へと足を向ける。彼女を傷つけたいわけではない。むしろ自分を傷つけるために顔を見ようとしているようでもあって、そんな屈折した負の感情を懐かしむ気持ちすらあった。

 椎名瑠子は、先ほどと同じ格好で静かな寝息を立てていた。
 床に腰を下ろして、ベッドの端に顔を乗せる。

「穏やかな寝顔ね。子供のように愛らしい」

 聞いているはずもない彼女に、小声で話しかけた。

「私はあなたを、ずっと愛らしい人だと思っていた。ずっと大好きな人だと思っていた。でも、そんなあなたは、一年ものあいだ、私と友人ごっこを続けてきたのね」

 震えは止まった。恐怖も止んだ。しかし、浮ついた気持ちや、跳ねるような高揚感も同時に止んだ。

「どれだけ忍耐力があるというの。私には真似できないわ」

 そして最後に、彼女と、サヨナラする魔法を唱えた。



「すごい人ね……椎名さん」



 そのときだった。
 バチン! と音がしそうなくらい勢いよく、彼女の両目が見開かれた。魔女の目だ……! 瞬時に全身が震えたくらい、その瞳には心を吸い込む力が宿っていた。射すくめられた蛙のように、体が動かなくなる。

「……読んだ?」

 彼女は、無表情でそう言った。格が違うことを思い知らされるような恐怖を感じながら、小さくうなずく。

「そう。最後まで?」

 操られた人形のように、首を横に振る。すると、彼女は上体を起こし、ベッドの上に胡坐をかいて、髪をかきあげながら、ふう、とため息をついた。

「神田部長ね、一昨日、自主退職したの」
「……え」

 知らなかった情報を聞かされて、我に返ったような心持になる。目線をそらした彼女は、淡々と話し出した。

「あれからも横領していたらしくてさ。愚かな人だよねえ、偽者の末路はホントに哀れだ。金を使わないとモテることを維持できないのだから」

 そう言って嘲るような笑いを漏らす。会社もそこまで馬鹿じゃないのに、と言ったあと、目線をまた私に戻した。

「『常盤麻里(まり)の左胸にホクロがあることを知っている』って彼が証言したときには、さすがの私も焦ったよ。こんなやり方であなたと肉体的な関係があることを示唆してくるなんて」

 横領を隠ぺいしたのは認めるが、実行犯はあくまでも常盤麻里だ、と主張したということか。当然、会社は真実を知ろうとするだろうが、司法権の無い一般社員が女性の胸を検査するなど、下手をすればセクハラで逆に提訴されてしまう。会社は絶対に調べることができない。

「でもだからこそ、神田部長はそう言ったんだと思うんだよね。事件をうやむやにするために。あの人、そういう悪知恵だけは働くんだよなあ」

 どこか愉快そうに聞こえる。しかし次の瞬間、彼女の声はナイフよりも鋭く尖った。

「私はどうしてもそれが許せなかった。自己保身に走った卑劣な人間の讒言(ざんげん)のせいで、真面目に頑張っている人が、ゆがんだ情報を元に貶められていくなんて……!」

 真面目に頑張っている人とは……。私の、ことだ。なぜだろう。胸が、うずく。

「彼は、スキャンダラスでエロティックな常盤麻里という“噂の女”を仕立てあげた。……そうすりゃ、無責任でゴシップ好きな拡散者が、噂に尾ひれをつけて勝手に広めてくれるからね」



 いい歳して馬鹿みたい。こんなの! いじめと同じ構造じゃないか!!



 心の中で思っていた言葉を、椎名璃子は口に出して憤った。
 その行為は、私の過去にも憤ってくれているような錯覚に陥った。

 周囲の態度が唐突に変わる――。大人しかった私が学生時代に頻繁に受けてきた仕打ちだった。突然仲間外れにされる。いきなり物を盗まれる。聞こえるように悪口を言われる。昨日までの平和な日々が突然去ってしまうのだ。

 大半の人間は、こういった状況にさらされても平然としていられる能力を、持ち合わせていない。だから現実に耐えきれなくなり、心に大きな傷を受けて立ちすくんでしまう。

 長く果てないいじめに泣き続けたあるとき、私は能力を持とうと心に決めた。嵐が去るのをじっと耐えてやりすごす処世術だ。以降、どんなにひどい行為にも泣かずに、耐えてやりすごすことで日々をこなした。次第に心は麻痺し、いじめをいじめと感じなくなっていく。

 大学に進学していじめが無くなったときは一息ついたが、社会人になって三年目にして周囲の反応が変わったとき、私は、ああまたこれか、と思っただけだった。
 心が傷つくことに、見て見ぬふりをしてきたのだ。

「耐えたんだね」

 唐突に、彼女がそう言った。

「普通は逃げるか戦うかするものなのに、それを耐え抜こうとしたんだね」

 目に、慈しむような優しさが宿っている。
 なによ、そんな目で見ないでよ。私はただ、いじめられている現実を受け入れるのが、嫌だっただけだよ。あなたみたいに、清く正しく美しく、なんて生きてこなかったのよ。
 その言葉を口に出そうか、逡巡している自分がいる。
 おかまいなしに、彼女は続ける。

「私もね、同じなの、麻里。多分あなたとまったくおんなじ。……中学の時に、ある日突然クラスの全員から無視されたの。何の前触れもなく、本当に唐突に」

 どくん。心臓が鳴った。

「一つのひどい噂が事実として広まって、全員から汚物扱いされた。……辛かった。毎日泣いて過ごしたな」

 どくん。どくん。目を閉じれば、簡単に思い出せる辛さ。

「耐えられなかった私は、親に泣きついて転校した。そして新しい中学で、今のやり方を身につけた。ひとりでも多くの味方を作るの、打算と計算とで」

 どくん。どくん。どくん。無駄モテは、彼女なりの処世術だったのか……。

「でも、あなたは違ったね。耐えて、そして忍んだ」

 ……抵抗する手段を、持たなかっただけだよ。

「誰のせいにするでもなく。誰を攻撃するでもなく」

 ……根暗なヒキコモリだからだよ。


「感動したんだよ。心から……」


 ……やめてよ。私なんて。私なんて!



「常盤麻里。ああ、美しいな、って。私なんかより、ずっとずっと」



 美しい……? 誰が? ……私が?
 椎名璃子より? 美しいですって……?



 ――フロアいちの美人で巨乳だもん、妬まれても仕方ないさ!



 あっ――。

 彼女の現在と過去の言葉に、不覚にも、涙が瞳に溜まり出した。
 どうして今頃……。

 心に鎧を着込んでから、一度として湿らせたことの無かった涙腺を、彼女はたった一言で崩壊させた。
 頬に暖かいものが伝う。溜めに溜め続けた辛さが、どんどん流されていく。
 そうか……。涙というものは、理解してくれた人のために流すものなのかもしれないな……。

「……私が辞めた後も……事件を調べていたの?」
「横領事件が止まなかったからね。それまであなたのせいにされちゃたまらないと思ってさ。身の潔白を証明するために、全証拠と証言をそろえる作業を継続していたってわけ」

 全部、私のためじゃないか。彼女にとってはなんのメリットも無いことなのに。

「そこまでしてくれる……理由は……何……」

 涙声で尋ねた私の目をじっと見つめた彼女は、笑みを消して一言ひとことを噛み砕くように言った。

「ゆがんだ情報を元に貶められる辛さを、一人で抱えちゃいけない」
「……」
「誰かが味方にならなきゃいけない。じゃないと、私もあなたも、世の中を嫌いになっちゃう」
「……」
「あなたも知ってるでしょ。この世は捨てたもんじゃないし、楽しいことは山ほどある」
 それは、あなたが、たくさん教えてくれた。
「……どうしてあなたは、私に構うの」
「え?」

 きょとんとした顔を見せた彼女は、喉だけでくっくっと笑うと、何度も伝えたのになあ、と言いながら、私の大好きな笑顔を見せた。



「私は、あなたが気に入ったの」



 涙が止まらない。
 彼女は一度として裏切っていなかった。それどころか、本人以上に私を評価してくれていた。辛い日々を心から理解してくれていた。そしてその哀しみを和らげるために、全力で構ってくれた。

「あ……り……うう……」
「なあに。聞こえないよ」

 彼女が優しく肩を抱いてくれる。

「あ……りがと……う。本当に……ありがとう……ありがとう……」

 そう言いきった私の頭を抱えて、優しく撫でてくれる。その手に快さを感じれば感じるほど、この人の愛情に改めて気づかされて、涙が止まらなくなって困る。

 一年という時は、短いようで実は多大な経験を与えてくれていた。私は確実にこの一年で変わっていたのだ。人を好きになり、仕事を好きになり、社会を好きになった。笑顔が増えて、外出も増えて、友人も増えた。彼女はたった一年で、すべてを私に与えてくれた。ありがとうを繰り返す以外に、何ができるというのか。

 しかし彼女はそんな私にこんなことを言う。

「お礼はいらない。そのかわり、ただひとつのことを守ってほしいの」
「……な……に……」

 両手を差し出してくる。少しの戸惑いと照れと後ろめたさもあって、なかなか応えられないでいると、強引に両手を掴んできた。

 えっ――!

 その手は、ぐっしょりと湿っていた。何かを恐れているのだろうか。この上なく冷静に見えるのに……。
 それよりも衝撃だったのは、パジャマで手汗をぬぐった私とは対象的に、彼女は手にかいた汗を、まったく隠そうとしなかったことだ。

 ――大切なことを私に伝えようと、覚悟を決めている。

 想いがひしひしと両手から伝わってきた。

「ねえ、麻里」
「はい」

 彼女は、一呼吸を置いて、私を正面から見据える。しかしその目に、初めて会ったときに感じた魔力は欠片もなかった。それは……何かに耐えている目だ。
 そして、小刻みに震える唇を、開き……、



「椎名さん、なんて、やめてよ……」



 切実な声がゆらぐ。目にさざなみを漂わせる。表面張力を失ったひとすじが、頬を伝って、きらりと輝いた。

「ね、頼むよ。そんな……他人行儀に、呼ばないで……っ」
「……ちょ、ちょっと、なんで泣くの!」

 二重でぱっちりした魅惑的な瞳から、ひとすじ。また、ひとすじ。星明かりに反射して、残像を残しながら止むことなく続く、心の痛みの数だけ降る流星雨。一粒流れるごとに、語尾の震えが大きくなる。握る手に、力が加わっていく。

「ちゃんと……アンタって言って……よ……ぉ。ねえ……ねえって……っ」
「なっ、泣かないでよぉっ!」

 すべてをかなぐり捨てて、名前を呼ぶことを懇願する璃子。その姿を見るに耐えず、泣き叫んでしまったのは、私のほうだった。

 それでも彼女は、私の手を強く握りながら、目から流星を降らせながら、じっと私を見据えながら、必死で、追いすがるように、憐れみを求めるように、懇願し続けた。



「お願い……名前で……呼んで……。璃子って……呼んで……」



 ……ああ!
 こんなにも!
 こんなにも繊細な人だったのか!

 呼び名一つで傷ついて、涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらしゃくりあげて、名前で呼んでと拝まないといられない、ガラス細工のような人だったのか!

 ずっと見誤っていた。私は、アンタという人を、完全に見誤っていた。
 成り振り構っていられなかった。声の震えを制御することすらできなかった。とにかく、一秒でも早く、彼女の名を呼びたい。彼女の名前は……そう。


「璃子っ!」


 目を惹く艶やかな花弁と、細く折れやすい茎を持った、瑠璃色の輝ける華。

「もちろんだよ、璃子。もちろん……だってばっ! ……璃子っ!」

 アンタの名前を呼ぶことが、どれだけ誇らしかったか! アンタと会える日々が、どれだけキラキラしていたか! わかる? 璃子。私はこんなにも、アンタに憧れているんだよ。

 だから、何度でも呼ぶ。
 何度でも、何度でも。アンタが泣きやむまで、何度でも!

「麻里ぃ……麻里ぃ……っ! わああああ……っ」
「ごめんね、璃子! ごめん……ねっ!!」



 私たちは抱き合い、声を上げて泣いた。



 ……閉じたカーテンの隙間から、星がにじんで見える。
 月が無いせいか、強く明るいようだ。
 聞き慣れない壁掛け時計の音がリズミカルに時を刻む。
 エアコンが心地よい風をそよがせる。
 車が通り過ぎる音がする。電車はもう、走っていないようだ。



 そして、大好きな璃子が、耳元で、泣いている。

 私はきっと、一生、この夜を忘れない。

§ 五 §

「うふふ、よかった! 嫌われちゃったら、巨乳を揉む機会もなくなっちゃうもんなーっ!」

 あんなに泣き喚いたくせに、もう笑っている。呆れた人だ。

「アンタの興味は、結局そこなのね」

 呆れた口調で言う私に向かって、当たり前でしょ、と舌を出した璃子(りこ)は、笑顔になると抱きついてきた。

「巨乳は世の宝だよ? 見事な胸は保護の対象だからね」

 やれやれ、と苦笑いするしかない。



 ん?
 胸という言葉が、私の中で警鐘を鳴らした。

 疑問に思っていた何かが、そこに転がっている。手を伸ばせば掴める距離にある。ああ、もどかしい! 私は何かに気づいたのだ。それは、とても重要なことのようで、どうでもいいことのようでもあって、実体がつかめない分、もやもやとする。

 ――たかが左胸にホクロがあるか無いかを確認するためだけに……
 ――心拍が悲鳴をあげている……このままでは眠れない……


 まてよ……。ちょっとまってよ……。もしや……。もしかすると……。


 私は、彼女の思考をトレースする。一本の糸の行く末をたどるように、ゆっくりと……ただし、確実に。そして今日体験した時間を巻き戻し、もう一度再生し直してみる。すると……。


 あっ、そういうことか!


 そこには一つの結論が転がっていた。
「ねえ、璃子」
「なに、麻里(まり)
「私、すごいことに気づいちゃった」
「……へえ。聞かない方がいいことかな?」
「……勘のいい子ね。きっと、そうよ」

 璃子は、目線を外して宙を漂わせ始めた。そんな彼女の姿が、今は可愛くて仕方が無い。

「これから話すことは独り言だと思ってくれていい。だから合ってようと間違っていようと、私は構わないから。アンタがどう思うかは、知らないけどね」

 そう意地悪な前置きをして、持論を展開することにした。



 今回の事件は、神田部長が自主退職したことで一応の解決を見せている。だから、私の胸にホクロがあるかどうかを確認する必要はないはずなのだ。でも、事件に対する責任が無くなった今だからこそ、知的好奇心の旺盛な璃子はどうしても事実を確認したくなった。心の片隅で、本当に私と神田部長が不倫していたとしたら、それはそれで面白い、とでも思ったに違いない。

 璃子は私を銭湯に誘い、ホクロがないことを確認した。ここまでは彼女もしてやったりといった気持ちだろう。何しろ、他の誰も知ることのない真実を得ることができ、かつすべてが計画通りに進行したのだから。

 しかし問題はその後だ。彼女のガラスのハートは、私を好奇心の対象にしたことに罪悪感を抱き始めたのだ。そして、もし私にすべてを洗いざらい話したとしたら、私がどう思うかを想像して悶絶したのだろう。だから、

「疑ったみたいで、ごめんね。ほんと、ごめんね」

 と、ずっと私の横で抱きついていないと、


 今夜、とてもじゃないが、一人では眠れそうにない。


 そう思ったのだ。だから彼女は泣き落としまでして、私を引き止めた。
 ガラスのハートのくせに、すべて計算ずくなんて……。

「やるよね、アンタ。ほんと騙されましたよ」

 見ると彼女は、枕をぎゅっと抱きしめて、目を閉じ、静かな寝息を立てていた。この寝姿に騙されたけど、実はずっと起きていたんだな……。どうやって仕返ししてやろうか……。



 よし、こうしてやるっ!



 私は、誰よりも愛している気持ちを込めて、艶やかな唇にキスをした。
 パチッと、驚きに瞳を見開く璃子。
 急に恥ずかしくなった私は、即座に飛びのいて言い訳をする。

「お、お返しだよ! 別に私、そういう趣味ないよ!」
「……なんだ、ないのか」

 ちょっと、なんで残念そうなのっ!?

「わ、私、いっとくけどノーマルだからねっ」
「聞いてないよ、何にも」

 ……ずるい。私ばかり盛り上がっているみたい。

 仕返しをしたつもりだったのに、完全に璃子の手のひらの中で転がされている。彼女はニヤニヤした笑みをたたえながら、からかうような声を出した。

「しかしなんだねぇー。麻里もおとなしそうな顔して、ずいぶんキスが上手じゃない。私ちょっと、感じちゃったよ」
「お、おいおい……」

 そして、顔を近づけて、囁くように……。

「ね、もっかい、しない?」
「し、しないよっ!!」
「……人の書類を盗み見た落とし前は、まだつけてもらってないなー」
「そ、それはごめんっ」
「で、もっかい」
「しないよっ!」

 顔が近すぎて心臓がもたない。思わず目をそらしてしまう。何これ。私、そんなつもりじゃなかったのに……。でも、キスしたことに後悔していない自分がいて、それがまた、心拍の速度を上げる。

 璃子は、少し顔を離すと、困ったような顔をした。

「むー、頑なだなあ。仕方ない、胸を揉むので勘弁するか」
「それもお断りだっ!」

 強く断った私を見て、彼女はけらけらと笑った。


「ま、なんにしても、これからもよろしく。巨乳のくせに頭がよくて、キスで私を感じさせた麻里」


 優しい笑顔に赤面する。


「アンタ、やっぱり、最高の“友人”だわ」


 ……これは、皮肉かな。それとも……。

今夜、眠れないのは貴女のせい

ジャンルというものにこだわらずに書きました。
ご感想などいただけると、とても嬉しく思います。

今夜、眠れないのは貴女のせい

心を許した親友・璃子(りこ)の家に訪れた麻里(まり)は、熟睡する璃子とともに彼女のベッドで横たわっていた。思い浮かべる彼女との出会いとその後の交流。そのひとつひとつが麻里にとっては宝物のような思い出であった。しかし、一冊のノートを手にしたことで、その風景が音を立てて崩れていき……。 風変りな璃子に翻弄される日々を振り返りながら、スリリングな“今夜”という時間を過ごした麻里の体験を描く。~友情+事件=眠れない夜~の物語

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-13

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  1. § 一 §
  2. § 二 §
  3. § 三 §
  4. § 四 §
  5. § 五 §