快活の哀しみ(0)

尾川喜三太 作

序詞 時ならぬ東風の音信れ

 平成九年の夏、上智大の東海林凪(とうかいりんなぎ)は前期最後の講義の帰途、隣接する聖イグナチオ教会の鐘楼前で見事なコーラスを披露していた北里大アカペラ部の黄色いTシャツのなかに、今城京臣(こんじょうきよみ)の姿を見出した。今城は出羽T市の同郷人で、小学校以来の付き合いである。地方予選で敢へなく砕け散つた中央高校野球部を引退した頃からすくすくと身長が伸びはじめた彼は、今や頭半個分は周囲に抽んでて背が高く、昔ながらの童顔を金髪に染めたマッシュルームヘアに包んでゐた。肩の肉も落ち、見違えるほど垢抜けた都会風の扮装のなかにも、女性の凪をさえ瞠目せしむるほどの剰多な睫毛を凪は見忘れなかつた。ごく自然に凪は手を挙げていた。すると先方でも気付いていたらしく、それにしては用意周到な、何度も復習されたあとすら見られる無表情な足取りで、凪に近づいて来た。
「ちょっと可いかな」
 四カ月ぶりとは云え、久闊の挨拶を舒べる間もなく今城は、大徳通りの筋違いにある喫茶店の方を指さして言つた。こんな打ち付けなところは如何にも彼らしかつたが、その顔にはコーラスを奏でた後の解放感と余韻と云つたものが綺麗に拭われており、今しがた親族の訃に接したばかりと云つたような生気のなさであつた。
「ねえ、どうしてそんな不景気そうな顔してるの」
 凪の注文したキャラメルマキア―テとレギュラーコーヒーを持つた今城が、カウンター席へ戻つて来ると、彼の流儀に倣つて凪も無造作に云つた。
「『虹のかかる橋』でしょ、さつき歌つていたのつて。でもそれにしては、汗ひとつ掻いてないのね。貴方つてそんなに低体温だつたかしら」
「違うんだよ」今城は相変わらず総硝子越しの往来を見ながら、重々しく云つた。
「ちょっとした賭けをしていたんだ。君が上智の法学に進んだのは知っていたし、今日たまたまソフィア聖歌隊との合同イベントだつたから、若し君を見付けるような事があれば本統のことを話し、見付からなかつた時はこの事はもう僕の口からは云うまいと思つて」
「うん」
「僕としては後者を望んでいたんだけれど……君があの噴水を央に擁した階段を下りて来るのを見たとき―――君があんまり変わらない所為ですぐ解って了つた訳だが―――情けない話、急にこの事の重大さに思い当たつた次第で、最後の方なんか歌うことも忘れていたよ」
「ふうん成程、そう云うことね」
 あんまり変わらない所為で、と云うのはいくら今城でも少し不躾な気がした。実際凪は髪も染め、ゆるいパーマネントを毛尖にかけて、剩え小六以来外した事のない桃色のカチューシャも外せるようになつたくらいで、自分でも驚くばかりの変貌ぶりだと自信していた―――となればこれは、今城一流の含蓄のある言葉で、身支度や立ち振る舞い以前にその人が担つているオーラと云つたようなものを斥していたと作者は推断する。
「それで、そんな賭け事をしてまで私に云うか云わないかを占わなければならなかつた事つて」
 男女ともに分け隔てのない今城は、男子の総意を布達するパイプとして女子代表の凪とあけすけな情報のやり取りがあり、個人的な感情を挟まないため二人とも無責任なほど恬淡なやり取りを散々繰り返して来たはずであるが、今城のこの渋り方は異常であつた。
 今城はそれから随分と長く沈黙を守つた。催促する習慣のない凪も平気でこの沈黙に付き合つてやつた。どうせ亦、沈痛な面持ちからは想像もつかない嬉しがらせの、愉快なサプライズを披露目るための下地づくりだろう、と云う安易な憶測が凪にはあつた。
 大方の予測がついた彼女は、
「第五小の同窓会には、貴方、行くの」
と、こちらから水を向けてやつた。但しこの効果は甚だ絶大であつた。今城は先程からくるくると回すばかりで一口も口を付けていないカップから、飛沫が飛ぶほどびくんとひとつ、身体を揺すつた。そして今日はじめて凪の顔を正面から見据えた。
「君は……行くの?」
「えゝ、まあ。一応私、同窓会の幹事だし」
 単簡に答えてから、凪は、今城の質問に一種哀願するような調子があつたことを不審に思つた。
「そうか、それもその筈だ。じゃあ矢張り僕が云うしかないようだ」
 凪のキャラメルマキアートは今しも底をついて、秋蝉の最期の鳴き音のような音を立てた。
「実はトーヨーが……越賀東洋(こしがひでひろ)が亡くなつたんだ、今年の五月に。だからこの夏の同窓会は自粛することになつたんだ」
 凪は暫時、我が耳と今城のらしからぬ鹿爪顏を疑つた。先の秋蝉のあわれな鳴き音が今度は潮騒のごとく彼女の耳の中へと逆流し、潮位は高まり、蜿りに蜿つた。
「もう第五小の面々には知らせてあつて、あとは凪に伝えるだけだつたんだ。でもこればかりは、トーヨーがさ、成可くなら君に知らせないようにしたいつて、それで……」
 これだけを、ほとんど目を瞑つたまゝ云い畢えると、急に店内のBGMも客同志のささめきも足早に退いてゆく引潮のように、耳遠く感じられた今城はふと不安に駆られて、凪を見遣つた。
 凪は瞬き一つせず、痛いほど蒼い夏の空の色を湛えた眼差で、静かに涙を流していた。
「お葬式は……越賀君のお葬式はいつなの?」
 凪は歔欷に妨げられた蚊の鳴くような声で、これだけを訊いた。
 店内の喧噪にも掻き消されることなく、この問が今城の良心を刺した。矢張り伝えるべき時宜を得なかつたとの後悔に、口が甚だしく重くなつた。
「もう済んでいるんだ。トーヨーが死んだ、その次の週に」
 嘗てない口の重さは、まるで千鈞の巖を呑まされたようだと、今城は思つた。

             *

『人は、自分の本懐に成可く早く気付くことが、幸福への捷径だつて言うけれど、私にははじめから自分の本懐が痛いほどよくわかつていた。わかった上で、それを自分の心眼から隠し続けて来たんだわ。自分の本懐と決して邂逅さないような人生の歩き方が、人並の生活を送るための必要条件になつた。私の生活はこうして至極表面的で、怒りも悲しみも生じる余地のない、飛ぶ鳥が永らく鶏仔と一緒になつて地べたの餌を啄んでいるような一種の微行を強いられて来たけれど、訓練の成果もあつたかして、本懐に対しては目隠しをしたまゝ後ろ向きにその本懐の背後を取る術を遂に私は会得した。それなのに……私の本懐を告げる前に彼は逝つて了つたのだ』
 今城と邂逅した翌々日の七月二十九日、凪は今城が制止するのも肯かず、上越新幹線の車上の人となつた。彼女は今でも、今城の云つた事を本気にしなかつた。東洋の死去を根拠づける明証に自分でぶつからないかぎり、納得できそうにない自分を感じた。
 T駅の改札を降りるや、記憶は、喚び起こす前から凪を駆つて東洋の実家の方へ、身体は蹌踉と憧れ出した。その手には凡ゆる生活の左券が握られていなかつた。東京に戻らねばならぬ事、いつか司法書士試験に及第する事、越え来れば又立ち顕れる山また山のような生活が前途を要している事すら凪の念頭にはなかつた。今城に会つた時と同じ姿で、手製の財布だけが辛うじて握られていた。
 十年無音に打過ぎた東洋の実家は、驚くほどに昔のまゝであつた。ブロック塀の透かしから生い上る蔦の湿深さ、前栽の松、紫陽花の植込み、玄関先の雪見灯籠も縁側の立簾も釣り忍も、凪の思いでをひとつずつ仕掛け絵本のように立体的に立ち上がらせ、却つて人気のない空虚な精緻さに護られていた。幼かりし東洋がランドセル掛けで玄関から飛び出して来ても、凪はこの際驚かなかつたろう。
 懐かしい色彩に塗り込められた家を前に凪は眩瞑を覚えた。真夏の日照にもめげず斯くも風致ある田舎家に不幸があつたとは思われない。東洋は生きているに相違ない。
 獨りそのなかに虚空に向かつて瞠かれたひとつの窓があつた。家具ひとつない二階の部屋はまるでこの山川草木の四重奏、蝉時雨のどよめきのさなかに投げ込まれた骰子型の真空であつた。嘗ての東洋の部屋からは帷幄さへ取除かれてゐたのだ。
 凪は、呼鈴を鳴らしに、往来から見通しの広庭を抜ける勇気が挫けた。
 とその時、池の端に悄然と佇んだ松の幹が二股に分かれたかに見えた。先刻からその根方に身を凭せて一息納れていた家人と覚しき五十男は、右腕にロフストランドクラッチを装着し、付根から徐々に侵されてゆく胡麻塩頭のために六十にも但しは七十にも見えた。家人に訪宅を言い入れようと云う考は、撒き水をしたたか浴びせるような老人の冷やかな眼差しに接して、すッかり翻して了つた。
 門前に佇んでいた凪は老人の不審げな視線に逐われて道を向うへと歩き出した。ストラップが揺れて、三脚のパイプが屈伸するような音が侘しげに地面を叩いて過ぎた。東洋の父の前傾した背中は凪の行く道とは反対の、屋敷林の檜の縁を伝わつて、雲の峯が崩れてゆくような遅々たる速度で、次第に遠くなつた。
『昔、横転したトラクタの下敷きになられたとは聴いていたけれど、それだけであんなに老け込まれる訳がないわ。やっぱり越賀君が……』
 反駁しようのない明証に次々直面させられた事で凪はやつと人心地が着いた。一昨日来梳かない髪と握りしめた財布と、訝しがるのが尤もな赤い、泣き腫らした眼許とに、まるで道辺の鹿驚に出会うかのような白々しい肉感を以て、東洋の父と同程度にそれは他人の肉体であつた。東洋が死んだ事で凪の心と身体とは、丁度回転する凧のように均衡を失い、やがて互いの紐帯を引きちぎって首足處を異にするかも知れない。心と身体の緊密さを保つには、東洋と云う仮設は余りに必要不可欠だつた。
『田園地帯の目の障とてない広野に、悪意は、隱り處を失つて放逐されてゆくと考えるかも知れないが、真実はそうではない。悪意はここでは形を持たない瘴気となつて人々の間に遍満しているんだ。だから、凶悪な事件を生む素地は僕等にだつて充分備わっているし、寧ろ凶暴さに相応しい気質は都会の人間以上に僕等の無意識の底流を養っているのかも知れない』
 シロップ事件の直前に東洋が口にした言葉が、何か異様な現実感を帯びて凪の身辺を旋風のごとく襲い、纏わつた。曹洞宗善寶寺の末寺で、第五小校区一円の葬儀を取りしきる妙心寺裏の花典霊苑を心当てに、凪は今少し確乎たる歩を運んだ。あとは自力で東洋の墓前に辿り着くだけだ。


 榎の若木が、黒々とした影を斜めに刻んで項垂れている三段墓の行列のなかに、水際立つた快活さで、満身の喬柯を相称に翳して、夏の後光を受けていた。裁ちたての、色鮮やかな菊の生花にもまして榎はその墓地でただひとりの生者だと云う感があつた。凪はそこはかとなくその方に惹かれた。
 果たして榎の根際には、真新しく築かれた土饅頭に矗乎と一本、板塔婆が立つていた。あの日に焼けた、掻けば角質のように剝落する樹皮の内側に秘められた辺材は謂わば樹木の魂に充たり、生々しい木理はあたかも静脈である。嚼蠟の梵字は余り刻銘に過ぎ、彼女が戒名に紛れた「東洋」の二文字を見付けることを少しも妨げなかつた。
 霊前には、夥しい数の献花が累をなしていた。白日のもとに晒されない魂の白さは、生命の真摯の秘密をここに危険なほど露わに示していた。
『こんな事なら、寧そ…』凪は膝から頽れて、柔らかなクローバの毛氈の上に膝を突いた。
 観念的に存在しないこと、詰まり彼女の問いかけが応え手を得ずに迷走することは、存在的に存在しないも同じだとするのが凪の絶望の本体であつたが、東洋と云う仮設がこうして破られるや、観念的に存在しないことのいかに堪えやすいかが痛感された。観念的に瞬時に消える事があつても、存在自体はなくならないことに彼女の迂闊な安心があつたのではないか?
 ただ目前に東洋の仮象を得、生前の存在感を彷彿とさせることで、凪ははじめて東洋と云う仮設なしに肉体と精神の紐帯を結び直しつつある自分を感じた。
 この一部始終を遠く水汲場の方から見戌つていた今城は、半ば朝した自分の魂を追つて、天の操縦にしたがう傀儡のように盲動して来た凪が、ようやく我に返る経緯を具さに目撃したように思い、轟沈したあわれな背中に近づいて行つた。
「トーヨーには会えたかい?」
と背後から声を掛けた。凪は平静に、ええ、と答えた。
 今城はその実、凪が東洋の訃音に動揺を来たして、取り返しのつかないことを仕出かさないかと、気が気でなかつたのだ。
「トーヨーがいつか云つていたよ。『俺はせめて凪の肥やしになれさえすれば、それで可い』って。親父さんが事故して半身不随になつたあの時から、すっかりその心算だつたんだろう。だから…」
「だから何なの。私、越賀君に結局、本当のことは何ひとつ言えなかった。進学で上京して、この夏の同窓会でやつと彼にありのままを打ち明けられるところまで漕ぎ付けていたのに、こんな」
「大丈夫」
「だから何がよ」
「トーヨーは全部分かってたよ。君の本懐を」
「嘘。言葉にしなきゃ何も伝わらないわ」
「『私が本懐を自覚するその前に彼が本懐を叶えて呉れること』それが君の本懐だつたはずだ。だからトーヨーは先んじて君の本懐を叶えたんだ、君が言葉にするその前に」
 かごとばかりに云つた凪の、冗談の裡に潜ませた本懐を、東洋は忠実に読み取つていたのだ。
「だからさ、凪。トーヨーに代わつて僕が云うよ。君は生きることだ。トーヨーの死を糧にして今やトーヨーを抜きにして、はじめて君は本懐の呪縛から解き放たれた生き方をすることが出来る筈だ」
 そんな生き方は今の凪の夢想だにするところでなかつたが、こくりと首肯した髪の揺曳に聊かも投げやりなところはなかつた。
『不思議だわ。私は今日はじめて彼の真心に出会つたような気がする』
 本懐は、凪の無意識に脅かされることなく一瀉して、とめどない涙で贖えない分、抱擁がこれを補つた。やつとはじめて東洋の赤心に、彼女の心もまた赤裸々になつて触れ合うことが出来た。
 故友の遺志を果たし終え、今城も熱い目頭を押さえた。
 号泣は、猶も無限に蒼い空の深みに悠々と吸い込まれて行つた。

快活の哀しみ(0)

快活の哀しみ(0)

東海林凪(なぎ)は東京の大学に進学した。夏休みに予定されている同窓会をまえに、いよいよ幼馴染の東洋(ひでひろ)に自身の『本懐』を告げる決意を整えつつあった箭先、東洋のかつての親友だった今城京臣(きよみ)があらわれ、東洋の死を告げる。凪は取るものも取りあえず故郷に戻り、そこで東洋の死の明証につぎつぎとぶち当たり―――今まで凪の心裡で生きながらえて来た東洋の幻影が、彼をかたどった卒塔婆の柾目とみずみずしく枝を張った榎の若木に移植され、目の前に対称を得、『本懐』の重荷を卸したとき、凪ははじめて心のままに号泣の淵へと身を沈めた。 思い合っていた二人を引き裂き、最後に彼女に安堵の涙を流させた当のものは何だったのか? 出羽T市で起きた猟奇殺人事件の顚末。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-03-26

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