夏とひなた

 宿題の参考書が剰余の定理に入ったあたりでわけがわからなくなってしまった。夏休みに入る前に手をつけて、今日久しぶりにまた手をつけて。この調子だと、何か忙しい理由を毎日毎日つけていって、新学期直前に駈け込み乗車みたいに終えることは目に見えている。部活だってあるから忙しいのは事実なのだ。
 長いこと集中してたからか喉が渇いた。麦茶を飲みに行こうと立ち上がったその時、携帯が小さな音を立ててゆれた。メールを開く直前まで心臓の動きが激しくなっていたが開けると同時にほっとした。
 夏からのメールだった。実は夏からデートに誘われていたのだった。かといって、そのために同性からのメールにどきっとした訳ではない。基本的にメールのやり取りのたびにそうなるのだ、私は。
 誘われたのは終業式の日だった。偶々一緒に帰り道を歩いたところまでさかのぼる。私の方は顧問が体調を崩したため、夏は病院に行くので部活を休んだため本当に偶然である。
「ひなた、今度の土曜の午後、空いてる?」
「うん」
「よかった。花火大会、一緒に見ようよ」二か月くらい前に仲良くなって、初めてのお誘い。でも、続きがあった。
「デートなんだけど、いい?」本当に、思い出すだけで顔が赤くなる。
 その直後は意味を判じかねたが、判った直後には誰かに聞かれなかったかときょろきょろしていた。おかしな反応だと思う。それになぜか、私は二つ返事で承諾してしまっていた。なぜそうなったかはわからない。夏の暑い日だったからかもしれない。不思議と嫌な気分じゃなかった。
 約束した日はまだ計画は立っていなかった。今のメールがそれである。花火を見る穴場があるということだった。ところが「駅前に二時集合」、とだけあって具体的にはよく判らない。

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「駅前に二時集合」、とだけ書き送ったが、何となく片づかない気分だった。だってこんなにあっさり話が決まるとは思わなかったのだから。彼女の顔は見る見るうちに赤くなっていたのに行くという返事だったのは意外だった。
 ……本当にこんなことをして良かったのだろうか、と私は駅まで歩きながら考えた。振りかえってみると、もう元彼と別れて二か月になる。高校の陸上部に入って、初めて会ったとき一目惚れして、その年の二学期からつき合い始めたものの結局趣味や性格が違いすぎて別れた。デートの行き先でもめたのだった。ちっぽけなことだったなと思う。
 私には昔から小さな夢があった。恋人と一緒に花火を見たいのだ、手を繫いで。
 それなのに彼とは花火を見ずに別れてしまった。夜にLINEで別れることを伝えた次の朝、教室の机の上に突っ伏して泣いていると声をかけてくれたのがひなただった。あの心配に満ちた微笑が忘れられない。私もつられて頰笑むと涙を人差し指でぬぐって「大丈夫」と答えた。今まで話したこともなかったのに心配してもらったのが嬉しくて、それで仲良くなった。
 つらつらと思い出していると、もう駅はすぐ近くである。
 高架の駅の入り口の前に立って辺りを見回してみたがまだ来ていないよう。花火大会があるから普段より人が多い。浴衣姿の人もちらほら。
 少し待っていると遠くからひなたが歩いてくるのが見えた。手を振ると向こうも振り返した。ひなたは左手に白地に黒い水玉の日傘を持っていた。暑いから私も持って来ればよかった。
「おはよう」昼過ぎなのに、いつもの癖が出た。
「おはよう。ねえ、どこに行くの?」
「喫茶店」
「ふうん?」ひなたは小首を傾げている。
「ベランダから花火がよく見えるんだ」
 ひなたは納得したよう。

 駅からしばらく、少し急な坂を上る。坂からは海が見えて景色は良いのだが日射しの熱を蓄えてかなり熱かった。
 ひなたが傘に入ってもいいと言った。傘に入って、軽くにやけながら上の水玉を眺める。
「へへへ。相合傘」
 返事がないから顔を覗くと赤くなってもじもじしている。
「ごめん、悪かったよ。冗談だから」
「ううん、大丈夫。私もなっちゃんのこと好きだから」
 今度は私が赤くなる番だった。

〈喫茶なつ〉は昔風の喫茶店である。少しだけ明るい店内ではいつもグレンミラーなどのジャズのレコードがかかっている。
 適度に冷房の効いた中に入るとすぐ、店長をしている私のおじいちゃんが声をかけてきた。
「やあ、なっちゃん。お友達かい?」
「うん」
 ひなたも挨拶を返した。空いているテーブルまで行って座ると、ひなたに耳打ちした。
「一応今日はデートだけど、おじいちゃんにはさすがに言えないからああ言ったってだけだよ」
 ひなたは頷いた。
 おじいちゃんが水を持って注文をとりに来て、二人とも同じものを頼んだ。クレームブリュレとカフェラテ。私が薦めたのだ。
 おじいちゃんが離れていくと、ひなたに質問された。

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 私は水を一口飲んでから訊いた。
「ねえ、どうして私を誘ったの? えーと、何ていうのか、どうして私なのかってことなんだけど」
 夏は人差し指を頰に当てるようにして、左手で顎を支えながら少しの間考えていた。
「好きだから。……一緒にいると安心する、一番、好きな人だから」
 最後の方は語調が強かった。それで夏は顔を少し赤くした。店内には、カウンターやテーブル席に疎らにお客さんがいたけれどあまり気にしていないふうだった。それでも私の心臓は強く脈打って、今にも泣き出しそうだった。
 二人とも暫く無言だったけれど夏のおじいちゃんがカフェラテを持ってきてくれてその沈黙は破られた。夏のおじいちゃんが戻っていった後、私は泣いたか覚えてない。少なくとも直後、私はコップの水を飲み干していた。
 落ちついて、私は夏に言う。
「ごめん。私は夏のこと大好き。だけど何て思われてるか全然わかってなくて、それで言われたらびっくりしてまだ心の整理がついてないんだ」夏の表情が変化するのを見た。一瞬呆然としたように思ったのが急に悲しみをたたえ、そのまま諦観の顔になった。少なくとも、今まで見たことのない顔だ。前に泣きはらしていた時は、まだ、比較的耐えられたのかもしれない。
 気づいたら、次の言葉が口をついた。
「……付き合うのはまだわからないけど、でも、デートなら私は行きたい。ほら、なっちゃん、泣かないでよ。私は笑ってるなっちゃんが好きだから」
 これが答えなのかはわからない。でもお互い落ちついたのはほんとうらしい。
「うん。がんばって笑う。ひなた、ありがとう。……ふっ、」
 夏の口から小さな笑い声がもれて、それで私たちは同じように笑った。暫くの間笑っていた。本当に楽しかった。
「おほん。お取込中のところ申し訳ないが、クレームブリュレ持ってきたよ」
 気づいたら、そばに夏のおじいちゃんが微笑んで立っていた。それでも夏は一回噴き出していた。
 気をとり直して、食べたクレームブリュレはおいしかった。やっぱり泣いたあとのお菓子は最強なのだ。上の飴の層はかりっとしてて、下のプリンの味と混ざりあって、温かくておいしかった。

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 お茶の後、花火までまだ時間があるから喫茶店を出て散歩することにした。
「ねえ、読書感想文用の本、見に行かない?」と、さそってみる。
「うん。まだ決めてないから行こう」との返事だったので、本屋さんに行く。
 その本屋さんは駅の近くにある。チェーンのお店で、広い店内は明るく奥まで高い本棚が続いている。
 私はこの前映画を見た「レ・ミゼラブル」を探したいと思っていた。

 少し陽が傾きかけの赤みを帯びた空の下を歩く。風が吹いてひなたのスカートがゆれてる。なぜか私は仄かに寂しい気分になった。
 坂に沿った街路樹は青暗く高い。夏の熱気の中で、そこだけは日蔭になっている。突然、ひなたに話しかけられたので横を向く。ひなたの指の促す方向を見た。書店前のベンチに一人の少女が掛け、顔を伏せて泣いている。顔を見なくても髪型と大きさでわかった。小柄で、ボブのてっぺんで毛が何本か立っている。
 青葉である。もとは私の友だちで、最近ひなたとも仲良くなっている。前に好きな人がいるという話を聞いたからそのことかもしれない。
 ひなたは駆けよって声をかけた。顔を上げて少しすすり泣きながら一つ一つ言葉を切るように話しだした。
「うん、大丈夫。前に、言ってた、部活の先輩に、告白したんだけどさ、『僕には彼氏がいるんだ』って、言われて、そのときは、呑み込めなかった、んだけど、今になって、涙が出てきちゃって」
 ひなたは青葉の隣に掛けると肩を組むように手をおいて「まあ人生長いんだからそんなこともあるさ。頑張ったじゃん」と言った。私は(本当に彼氏いるのかな? 噓じゃないだろうな?)なんて思ったのだけれど、それはただ単に、青葉が、肩に手を置かれているのがうらやましくて、その気を紛らわせたいだけなのかもしれない。
 友だちよりも〝好きな人〟のことを考えてしまう自分が何となく自然に思えるのにどこか哀しい。
「私、先に入っとく」とひなたに一声かけてから書店に入った。何やってんだろ、私。S文庫の棚の前で「レ・ミゼラブル(一)」や、その他の本を持ってみたのだけれどその重さがしっくりこなくて元に戻した。

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 夏、行っちゃった。青葉はきょとんとしている。友だちなのに慰めてくれないのが不思議なのだ。私には理由がわかった。
 私にとっては初めてのデートなのだから台無しになんてしたくない。
 青葉に「もう大丈夫?」と聞いて肯かれたのでバイバイして、店内に入ることにした。自動ドアを通ってすぐ、とぼとぼ歩く夏と鉢合わせ。するといきなり抱きついてきた。
 すぐ体を離すと夏は、「青葉に悪いことしちゃった!」と少し悲しそうな顔で言う。
「たぶん大丈夫だよ、あとで謝れば。……じゃあ、本見る?」
「ううん。いい」
「なんで?」
「だって、デートに本屋さんなんて味気ないじゃない」
「たしかに、それもそうだ。じゃあ今度にしよう」と私も賛同して本屋を出る。
「ひなた、帰りは向かいの道にしない? あっちの方あんまり行ったことない」
「賛成!」
 祭りや花火といえば露店というイメージだけれど、ここは花火の中心から少し離れているので、ない。だから普段より人は増えるが、坂を上るか海岸に出るかしないと見えないのでものすごく多いわけでもない。私の住んでるのは坂の下の方だから家からは花火の音しかわからない。いつもは海岸まで見に行くから、夏のおじいちゃんのお店が花火見物の穴場とは知らなかった。
 高架下の横断歩道を渡る。車道を挾んで向かいの歩道を上って散歩をつづける。
「夏、ここならデートっぽくない?」駅から少し歩いたところの小さなビルに挾まれた、もっと小さな建物。飾り窓には一枚の絵が入っていた。波立つ光る海に白い雲の浮かぶ絵。ここは画廊らしい。
「うん。デートっぽい。けど、入っていいのかな」
「そりゃいいでしょ。人少ないんだし」
 硝子戸を開けると中には若い女の人が一人いた。挨拶して入ると、部屋の壁ぐるりに絵が掛かっていた。
 私達の他に客はいない。
 見ていくと海の絵が多い。濃紺の海に煌々と月光の降る絵、飛び魚を捕える水鳥の絵、珊瑚礁を海中から眺める絵……。
 ふいに私は一枚の絵の前で足をとめた。晴れた日のヨットハーバーの絵。海は凪いでいた。三角帆が何枚も重なり合って、原色をぶつけ合いながら立っている。懐かしい風景だった。出会うなんて思っていなかった古い知り合いに何十年ぶりかで会ったような気分。なんて、私はまだ何十年も生きてないのだけれど。
「ひなた、どうかした?」
 私が暫く一つの絵をぼんやり見つめているのを察してか夏に訊かれた。
「ん。懐かしい絵だなって思って」
「ああ、確かに。ひなたの好きそうな絵。海の色に黄色も使ってあるとことか」
「うん」いや、それだけじゃないはずなんだけど。何か忘れてる。
「そうだ。これ、小さい頃よくおじいちゃんと来た海なんだ」
「そうなんだ。……ひなたのおじいちゃんのこと、初めて聞いた」
「もういないからね。私が高校入る前に死んじゃった。合格のことを伝えられたからよかったと思うよ」
「ごめん。辛いこと聞いちゃった」
 私は目をつぶりゆっくりと首をふった。「そんなことない。だって、思い出すのって嬉しいんだもん」
「どうして?」
「その人が、近くにいるような気がするんだ。すぐにでも話しかけてきそうなほど近くに」
「ふうん。私にはよくわかんないや。私ならきっと、おじいちゃんがもし死んだら辛くてしようがないと思う」
「うん。私も辛い。でもね、死ぬのって桜が生まれかわるみたいなことだと思うよ。春は少年少女の可憐な時期、夏は頼れる青葉が出て毛虫たちを養うの。秋はだんだん木の葉が頭のてっぺんから着飾ってまた美しくなる。一方で、本当は弱っている。そして、だんだん葉が散っていって死ぬ。これって、美しい死に方のお手本みたいじゃない? また春の来るのを期待している、だからこそ、あまり苦しまずに安心して死ねるんじゃないかと私は思うんだ」
 死んだら意識は、記憶は、どうなるのか知らない。夏との思い出は? それに、あまり苦しまないなんて保証はない。考えれば真っ暗な深淵に落ちてしまいそうで。だから、今を楽しまなければ。
 夏は私の目を見つめている。
「夏、やっぱりこの話はやめよう。本当はきれいな絵なのに怖いこと考えてしまうから」
「うん、それがいい」

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 喫茶店の二階にはベランダがあって下の街を一望できる。もう夜の帳が降りて街には灯りが点っている。ここにはベンチが置かれていて、私たちは言うまでもなく、店の常連さん何人かとおじいちゃんも座って花火を待っている。
「もうそろそろ」
「うん。もうじき。あ、上がった」
 細い光が地面から空へのぼり放射状に広がる。胸を重くノックするような響きも来た。
 一発、また一発と上がる。花火の真下で見たことなんてないし、ましてやどんな順番で、どんなプログラムで打ち上げてるかなんて知らない。けれど、今年の花火はいつもにまして胸に残るもののような気がした――打ち上げるごとに煙ってゆく空なんて気にならないくらいに。
「そうだ。ひなた、手をつなごう」
 これが目的だったけど言ってよかったのだろうか。たぶん、嫌だったとしてもひなたのことだから怒らないだろう、とは思う。
 ひなたは一瞬渋るような顔をした。けれど「なんてね」と言って破顔一笑。私の頼みに応じてくれた。それも恋人みたいに指の間に指を入れて。
 ひなたは私のことを好きなんだろうか。多分、嫌いではないとは思う。けど好きだとしたら、これは遊び? それとも本気? 私にはわからなかった。けれど、今はどっちでもいいのだ。
 あと暫く、花火が終わるまではこのままでいよう。誰に見られたって構わないから。

夏とひなた

そういえば、ひなたが日傘を喫茶店に忘れていることに後で気づきました。

夏とひなた

高2の夏に書き出したのですが、書き終えたのは高3の冬です。百合というジャンルの存在を知らぬまま百合を書いていました。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-26

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