リス

瀬戸かもめ

 ぼくにとっての命綱だった紐がぷつりと切れてぼくは宙に投げ出された。ぼくの町が暴風域を出て強風域に入ったという時で少し雨が降っていた。雨に濡れそぼつ歩道は人通りが疎らである。その横の車道も時おりヘッドランプのついた車が通るくらい。
 もといた場所は楽器ケースの取っ手だった。トロンボーンという長い金管楽器のケース。楽器の持ち主がケースにストラップをつけるのは外の演奏会に行ったときにすぐに自分のものだと判断するためらしい。そう、ぼくはリスのストラップだったのだ。さっき紐が切れるまでは。
 ふと前方を見ると、道沿いの低い木の下に、迷子にでもなったのか、一羽の雀がいてじっとこちらを窺っている。台風のこんな日に群れからはぐれてしまったのは不運としか言いようがない。でも、ぼくとしては自由に飛び回れるその若い雀の境遇のほうがよっぽど幸せに思えた。
 トロンボーンという楽器は伸ばすと長さ二メートルほどあって、長い。そんな楽器をそこそこ器用に扱っている人間というものはなんだかすごいと思うし、羨しくもある。たしかに彼女は朝食の食パンを食べるのが遅いとかで時々練習に来なかったりするからあまりほめたものではないが、楽しそうにしている顔を見るとぼくもほっとする。
 今朝は彼女は普通に家を出た。吹奏楽部の朝練に間に合う時間に。台風がこの地域を通りすぎたのは夜中だったらしい。暴風警報が出ていない、と不満をもらしていた。週末明けで、いつもは学校に置いている楽器も持って帰っていたから今日の彼女は大荷物だった。だからケースから落ちたぼくのことに気づかなかったかもしれない。
 今ごろ、気づいてくれているだろうか。
 過去を、思い出すことには痛みが伴うものだ。幸せだった過去、みじめだった過去……。様々な見てきたものたち。家族のこと、吹奏楽部のこと、あったかい家のこと。いっそ全部忘れてしまったほうが楽に思える。だから、振り返るのをこらえて今の現実だけを見ることにしよう。
 さっきから、ほとんど景色は変わらない。信号は時間がたてば変わり、間欠的に車が通りすぎる。歩道を通る人や自転車もたまにあった。風は普段より強い。昨晩はもっと強かった。風が大きな声でうなり狂っていた。どこかのトタン屋根が剝がされるような音、断続的に聞こえる救急車のサイレン、窓の悲鳴。建物が壊れやしないかと思うような風だった。もし学校が休みだったら、ぼくは今ごろ家の中にいるのだろうか。そうかもしれない。だけど、どうせ次に運ばれる時に紐が切れて落ちるに決まっている。どうせ切れる運命だったんだ。……またいつの間にか振り返っていた。
 気づいたら雨がやんでいた。
 しばらくして、雀のさえずりが聞こえた。仲間の雀が来たのだ。彼らはすぐに飛び去っていった。ぼくはまた一人になった。
 道を行く人の視線はほとんどぼくを通過した。自転車の車輪はぼくを│()けて通っていく。通行人の目には憐れみが見えた。誰かに拾われるのも悪くない、と思ったけど誰も拾ってくれる気配はなかった。
 あ、お父さん。ぼくの持ち主のお父さんが駅の方から歩いてきた。ぼくのほうをじっと見た。可哀そうに、という表情はしたものの拾ってはくれなかった。まさか自分の子供のものだとは思いもよらなかったのだろう。
 何人もの人が通りすぎていった。どれだけ待ったろう。
 遠くから歩いてくる、あれはぼくの持ち主だ。間違いない。彼女がぼくに気づいたようで、駆けてきた。じっと見た。記憶を遡っているのかもしれない。いつ落としたのだろうか、みたいな? 少し疲れたような顔だったのがやがて、ほっとしたという顔になった。
 疲れた顔の理由は、家に帰るなり判った。台風で電車のダイヤがめちゃくちゃになって、二時間以上遅れた始発で死にそうなくらい寿司づめにされたから定期外の地下鉄を使って学校に辿り着いたら、すぐに帰されたというのだ。二人とも、散々な一日だったらしい。
 服を替えたあとで、彼女はぼくを水洗いしてくれた。タオルでふいて、そのあと頭をなで、ぼくの柔らかい尻尾をぷにぷにと揉んだ。

リス

リス

久しぶりに更新してみました。今回は私小説ならぬ他小説です。私のリスのストラップに関する話を書いてみたものです。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
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