ありふれた罠

翔優

罠は誰でも仕掛けることができ、また誰もが引っかかりがちだ。

今日も晴れているのがよく分かる。カーテンから漏れる光はとても眩しかった。私はベッドから体をよじらせて、起き上がる。カーテンを開けると、眩しい光は私を包み込んでくれるようだ。気分よくスマホをチェックすると、今までの明るい光は雲に隠れ、黒雲が私の周りを覆った。LINEにメッセージがあったのだ。メッセージの相手は相手は大輔、私の夫である。
「チッ、またLINE来てたよ」
思わず舌打ちをしてしまう。学生の頃から直さないといけないと言われていた癖だが、30を過ぎた今でも直せていない年代物だ。
「美咲、いつになったら帰ってくる?」
大輔からのメッセージは毎日、何通も届く。そのことに対して、私はいつも苛立ちと恐怖感を覚えている。いつになったら、大人になってくれるのだろうか。そんな思いを抱きながら、どうしてもLINEをブロックできない。

大輔は私の全てを支配下に置こうとした。結婚当初は、通帳の管理もしてくれるし、新居になる賃貸マンションやその他のややこしい電気や水道などの面倒な契約もしてくれた。さらには引っ越しも彼の仕切りでスムーズに進んでいったのだ。私としては、大助かりで、何ていい夫を捕まえたのだろうと浮かれた気分になったものだった。しかし、次第に大輔の本性が明らかになるに連れ、私はその性格に失望し、ウンザリしてしまう。朝は必ずご飯を食べていかなければならず、例えば、私が寝坊したとかで朝食にパンを出そうものなら、大輔はヘソを曲げ、
「いいよ、コンビニ行っておにぎり買うから」
と言って、一目散に会社へ行ってしまうのである。それだけではない、何一つ私の思う通りにならないのだ。食事は自分の好きなものでないと家を出て行って外で食べてしまう。例え、食事をしたとしても
「まずい。もっと美味いもの作ってよ」
「温かい料理が出てくることにありがたさを感じない」
と言われる。さすがに怒りが爆発して、私がキツいことを言うと、反省したのか必要以上にシュンとなって自分の殻にこもってしまう。しかし翌日になると、今までと変わらぬ態度で私に接してくる。そのスパイラルを2年近く繰り広げてきたのだ。その度に、罪悪感に苛まれ、
「この人には私がいなきゃダメなんだ」
という意識を植え付けられた。
通帳の管理にしても、大輔が自分の思う通りにしたいが為に家計を握るのが目的だったような気がしてならない。実際、自分のものは惜しみなく買う癖に、家で使う物にはとことんケチだった。私が風邪をひいて39度の高熱が出た時も、
「病院に行きたい」
と言うと、あの手この手で言いくるめようとし、結果として反論する気力を失わせるという姑息な手段で、お金をケチったのである。

そんなある日のことだった。大輔が仕事で大きなミスを犯してしまったと家に帰って早々にしてきたのだ。話によると、取引先との重要な会議に遅刻し、向こうの担当者を怒らせてしまったらしい。私も納期が近く、切羽詰まっていたこともあるのだが、
「遅刻したの?社会人として失格じゃない。これをキッカケに気を付けることね」
と意地悪く言ってしまった。傷つけるつもりはなかったけれど、普段から高圧的にされてきたから、つい反撃してやろうと思ったのも事実だ。あまりにうじうじしているので、「チッ」と舌打ちした後
「こんなことじゃ死なないんだから、いつまでもうじうじすんな」
と怒りの篭った口調で言ってしまった。その後、大騒ぎになることなど予想もしていない私は、大人しく大輔が寝たのを見て
「たまにはいい薬になるわね」
と思いながら寝たのだった。
次の日の朝、異変は突然にやってきた。大輔の姿がどこにもない。近所の公園やコンビニをまず探したが、見当たらない。駅前の図書館、スーパー、映画館にも当たってみたが、やはりいない。半日かけてあちこち探し回って、いよいよ警察に届け出ようと思っていたところ、スマホに着信があった。見慣れない番号に怪しさを感じながら電話に出ると、男の声がした。男はまず隣町の警察署のナカガワという警察官だと名乗った。
「あなたのご主人なんですが、公園の近くで首を吊ろうとしていたところを保護しまして…」
「それで、夫は無事なんですか?」
「はい、無事に保護いたしまして、怪我はありませんでした」
そう聞いただけで、心臓が止まりそうになった。時を同じくして身体中の力が抜けて、その場にひれ伏した。
「今すぐそちらに向かいます。はい、申し訳ありませんでした」
大急ぎで隣町の警察署へ大輔を迎えに行った。署に着くとナガガワさんに生活安全課まで案内され、彼に会うことができた。憔悴しきっていて、頻りに誰彼構わずに謝り倒していた。そんな姿を見て、私は彼を抱きしめずにはいらなかった。
「美咲、ごめん。もう迷惑かけないから」
大輔の声が警察署に響いた。

そんなこともあり、私がそばにいなきゃいけない、という思いが先行して、未だにLINEのブロックができないのだ。だけど、そんな思いも、2年近くそのような不安定な生活を送っているうちに、果物が朽ち果てるように段々と変化してきた。あの警察沙汰となった出来事以来、大輔は反省するかと思いきや、ますます私を支配しようという姿勢が明確になっていった。身体的な暴力は受けなかったけども、自分のやることなすことを頭ごなしに否定されるようになった。自分の好きなアーティストや趣味、しまいには仕事にまでケチをつけ出すようになると、私は完全に疲弊し、生活全般に支障をきたし始めた。SNSも禁止されて、愚痴を言う相手も遠のいていった。

そして、私は会社に1週間の休暇を取って、実家へと逃げ出すことにした。朝、大輔と一緒に会社を出る振りをして、そのまま、実家へと向かった。電車に揺られること2時間、その間に実家にも連絡を取った。両親は突然の帰省に驚いたようだったが、事態を飲み込んでくれたのか、多くを語らず、ただ
「気をつけて帰ってこいよ」
と言い残して、電話を切った。その瞬間、私は涙をこぼしてしまった。袖で拭っても拭っても涙は止まらず、人目も気にしないで嗚咽した。
実家に戻るとすぐに、昔使っていた部屋に置いてあるベッドに横になった。それも家族は黙って見守ってくれた。元々は両親と妹、そして私の4人暮らしだったが、妹が関西の大学に行くことになって家を出て行き、私も就職の時に一人暮らしを始めた。だから、今は両親が犬の「はな」と暮らしているだけである。

ベッドの中で、私は大輔にメッセージを残すのを忘れていたことに気づいた。LINEにメッセージを送る。送信する手が震える。もはや彼と関わる一切のことに恐怖感を覚えていた。
「しばらく実家に帰ります。急なことで、ごめんなさい」
最後の「ごめんなさい」は大輔に対しての保険だった。本当に悪いのはあいつなのに…。悔しさが込み上げる。また泣きそうになる。部屋の外でははなが何かを察したのか、珍しくワンワンと吠えている。私は、はなを入れてやることにした。はなは部屋に入るなり、クゥーンと鳴き私の元にやって来てくれた。はなを抱き上げた私は思いっきり泣いた。涙で目の前が何も見えなくなるまで。



美咲が出て行ってから、4日が過ぎた。そのうち、帰ってくるだろうと高を括っていたが、どうやらそうもいかないらしい。本当に1週間帰ってこないのだろうか?そんなことを考えていると、携帯の着信音が鳴った。ディスプレイには義父の名前が表示されている。
「もしもし、大輔君か?」
「もしもし、はいそうです。すみません、美咲がお世話になってます」
「いやいや、いいんだよ。それよりも今度の土曜日は空いてるかな?」
義父はワントーン下げて、ヒソヒソ話をするように話した。
「はい、空いてますが」
「そうか、実は美咲を連れて、そちらに行こうと思っているんだが。まあ、君にも思うところがあるだろうから、話を聞こうと思ってな」
美咲はともかくとして、父、あるいは母もついてくる。彼らは美咲を溺愛していて、もし何かあったら少々厄介だと思った。義父が以前から冗談交じりに
「美咲を泣かせるようなことがあったら、ただじゃ済まないぞ、ハハハ」
と話していたのを思い出した。とはいえ、俺には美咲を泣かせるような要素は思い浮かばない。確かにキツく当たったこともあるが、むしろ、こっちがいつも反撃に遭い、泣かされそうになるくらいだ。そう思いながら、
「分かりました、今度の土曜日ですね。お待ちしております」
俺は義父の最後の声を聞いて、電話を切った。そして、多少散らかった部屋を眺めて、呆然とした。
「片付けなきゃな」
と呟いて、今度は窓の外に目をやった。やたらと大きな満月が浮かんでいた。

土曜日はあっという間にやってきた。義父からの電話でなし崩し的に話し合いの場が持たれることになってから、2日。俺は食欲が落ち、眠りも浅くなった。夜中に起きるようになってしまった。部屋は早朝に起きてから急いでゴミ袋を広げて、ありとあらゆるゴミを取り除いてある。さらに、掃除機もかけた。また客用のコーヒーカップを棚の奥から取り出して、洗っておいた。準備は万端である。
万端なはずなのだが、俺の心中は穏やかではなかった。何しろ、実家に帰った妻の親が我が家にやってくるのである。小さな城に数百万の兵士が襲いかかるようなものだと、虚しく例えてみた。
落ち着かない午前中を過ごし、約束の1時になった。部屋のチャイムが鳴ったのは、それから10分ばかり過ぎた頃だった。
ドアを開けると、義父と義母がいて、その後ろに隠れるように美咲が付いてきている。
「やあ、こんにちは」
「こんにちは、お待ちしていました」
その会話が空虚に聞こえる。向こうは内心、こちらに向けて火花を散らしているのだろうか。
「では、早速上がらせてもらいますよ」
と義父が言うと、義父と義母が美咲を連れてズカズカと家の中に入っていく。それからしばらく沈黙が流れた。とても気まずく、体が鉛のように重く感じられた。美咲が
「私が準備するわ」
と言ってくれたが、断っておいた。とにかく早く湯を沸かして、コーヒーを入れたかった。そうしないと、気持ちが折れそうだ。美咲はずっと落ち着かず、キョロキョロしているが、俺の方に目を合わせなかった。

「大輔君、早速なんだが、君と美咲の間に何があったんだ?」
義父が鋭い眼光を放つ。俺は怖じけずかないように息を一つ吐いた。
「何がと言いますと…」
「いや、難しく考えなくていい。怒ってるわけじゃないんだ。この子が君と上手くやっていけないって言うから気になってな」
怒っているわけじゃない…言葉とは裏腹にその表情は硬く、般若の面に限りなく近いように見えた。
「美咲がそう言ってるんですか?だとしたら、お恥ずかしい限りです。彼女を幸せにするって約束したのに」
「まあ、そう自分を責めずに」
「この子にも行き過ぎたところがあるかもしれないからね」
今まで黙っていた義母もようやく会話に参加した。地蔵のように見えた義母の顔に生気が戻った。
「いや、僕が悪いんです。僕が未熟だから、こんな風に彼女を困らせる」
俺は棚から、いざという時のために用意していた物を出した。それは大判の封筒に入っていて、緑色で印刷された申請用紙。離婚届だ。
「それは何だ。そんな物しまいなさい」
義父が動揺を見せる。
「そうよ、まだ早いわよ」
義母も甲高い声を上げて、慌てている。
「いえ、これが僕の考えた責任の取り方です。彼女を泣かせてしまって申し訳ありませんでした」
俺はほぼ反射で土下座をした。
「おい、こんな責任の取り方があるか。むしろ無責任だぞ。頭を上げなさい」
「ダメです。僕にとって美咲は不釣り合いなんです」
瞬間に涙が出てきた。視界が海に潜った時のようにグニャっと歪む。
「いいから、頭を上げろ」
義父と義母が俺の手から、離婚届を奪おうとする。取られまいとして、俺も必死になって離婚届を掴む。そういった小競り合いが2、3分続き、
「やめてよ!」
と美咲が叫んだ。
「もういいから。私、大輔と一緒に生きていくから。ずっと一緒にいたいから、喧嘩はやめてよ」
そう言うと、美咲は離婚届を取り上げて、その場で破り捨てた。そして、蹲り嗚咽を漏らした。義母も声を上げて泣き出した。俺は動揺し、
「それでいいのか?俺なんかと一緒でいいのか?」と繰り返し問う。
「それでいいよ。本当は、私がいないとダメなんでしょ?強がらなくていいよ」
俺はほぼ反射的に「うん」と答えた。

そこから先は、動く気力を削がれた人間が4人立ったり伏せたりした状態が続いた。そうしているうちに、いつの間にか、日が傾きかけていた。義父は
「そろそろ帰ろうか、美咲お前もだ」
と言ったが、美咲は
「私、今日はここに泊まってくわ。大輔に今までのお詫びしないといけないからね」
と言った。今日はマンションに泊まることになったようだ。実家に置いてある荷物は明日、取りに行くらしい。
義父母が帰ると、
「お義父さんとお義母さんに悪いことしちゃったな」
「いいの、またお詫びに実家に行けばいいし」
「それもそうだな」
そう言い合い、俺と美咲は抱き合った。これで美咲は俺の物だ。そう思うとニヤケを堪えることができなかった。


抱き合った後、私は激しい後悔に襲われた。また同じ手に引っかかってしまった。もう何度目だろうか?
「部屋片付けないとね」
と言い、大輔から離れると片付けをしながら、「チッ」とまた舌打ちをした。直さなきゃいけない癖なのに。

ありふれた罠

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ありふれた罠

美咲は夫の大輔の元をある理由で離れていく。事情を聞いた両親は大輔を訪ねるが…

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