よろしくお願いします。

よろしくお願いします。

はじめまして&こんにちは、すらです。
働き者のメイドさんシリーズの一作目となります。
楽しんで頂ければ幸いです。

02年に「メイドさん」縛りで仲間に原稿を募り、慣れないPCにあくせくしながら編集し、同人誌イベントで頒布したメイドさんアンソロジー小説集「Pure」が初出となります。

 ランプの灯りが部屋の中を照らし出しす。
 ミュゼは与えられた小さな机の上にランプを置くと、カバンの中から便箋と筆記道具を出した。
 インク壷は古く軽くなっていたし、羽ペンの白羽は少しくたびれていたけれど、ペン先だけは傷みのない光を返してきた。
 餞別にいただいた宝物。
 竜が好んで食べたという、金でできたペン先。
 手紙を書く準備ができたところで、ふぅっと息をついた。
 身体はくたくたにくたびれていたのに、ぜんぜん眠くなかった。まだまだ緊張が解けていないのだ。
 ゼルプル家で迎える初めての夜。初めての都会。初めて会う人々。今日だけでいくつの初めてを経験したことだろう。
 ミュゼは視線を便箋に戻すと、金のペン先を青黒いインクに浸した。
「そういえば、あなたも文字を書くのは初めて」
 金のペン先に微笑みかけると、便箋に文字を綴り始めた。
……今、私はゼルプル家のお屋敷から、このお手紙を書いています。御主人様のアルバート様は、水軍の軍医総監……
 ペン先が、はたと止まってしまう。ミュゼの表情も心なしか曇った。
 私がゼルプル家で働くことも、御主人様が軍医であることもみんな知っているのに……。
 「ふぅ」と、ため息をついて、何気なく視線を月明かりのさす窓辺へと向けると、昼間あの窓の向こうに、ほんの少しだけ見えた汐の内海の様子が見えたような気がした。
 ミュゼの表情に少しだけ明るさが戻った。
 昼間、オールドリーフ駅で聞いた空から降ってくるようなざわめきが、かすかに聞こえてくるかのようだった。

 ◇ ◇ ◇

 カバンを片手にプラットフォームに降り立つと、言葉を失ってしまう。
 見上げる空に空はない。巨大な天蓋を持つ国際駅は、天井に音が反響して人々の声、蒸気機関車の汽笛や蒸気、重たい金属の軋みなどが、すべて空から降ってくるのだ。
 でも、そのすざましいばかりの喧噪に心奪われている余裕はなかった。
「邪魔よ」
 との声に背中を押され、
「あっ、すいません」
 そう答えるのがやっとで相手の顔すら見れない。
 気をつけなきゃ。
 ミュゼはカバンを両手で抱えながら小さな体をさらに小さくして歩いた。
 すれ違う多くの人たち。
 本当に色んな人たちがいた。黒いコート姿の紳士たちや、目に鮮やかな色彩を残す、よそよそしい顔の婦人たち。綺麗な装いに大人びた表情の子どもや、黒い軍服の軍人、生まれてはじめて見る異国の一団、駅で働く駅員やポーターに物売り。
 ただ一つのプラットホームでさえ、小さな村の祭りの賑わい。
「私、この街で、働くんだ」
 そう口元でつぶやこうとしたけど、つぶやきにはならなかった。口の中がカラカラで唾を飲み込むのがやっとだった。
 顔を上げると大きなアーチが見えた。
 その大きなアーチは、伝説の竜の口のように開き、多くの人々が吐き出されるのと同時に、同じ数だけの人々が吸い込まれていくかのように見えた。
 アーチを潜り抜け、巨大な待合いホールに出たミュゼの足が自然と止まってしまう。
 巨大なドームの天井に叙事詩が広がっていた。
 陽の光を受けて輝く天井のステンドグラスが、この地方に棲まったという竜の王の一人「汐の王」の物語を、見る者に語りかけてくる。
 ミュゼは息をするのも忘れて物語を追い続け、追い続けた後、一番大切なことを思い出した。
 待ち合わせの天使の像はすぐにも目に飛び込んできた。
 ミュゼは人にぶつからないようにしながら、時には小走りになって、ホール中央の天使の像へと向かった。
 天使の像にたどり着くと、カバンを落とすように置き、ふぅ、と息ついてしまう。
 いけない、いけない……でも、これが都会なんだ。
 ミュゼは大ホールを見回し、天使の像を見上げた。
 大理石で作られた白い天使の像。
 どのような小さな街でも、この王国なら必ずある天使の像。
 この街の天使は、ミュゼの故郷の天使とは比べものにならないほど大きく。風を正面から受ける短衣や腰帯の様子や、広げられた一対の翼。その今にも風を蹴って飛び立ちそうな躍動感は、本物の天使の時間を止めて石像にしてしまったようにさえ見えた。
 すばらしい技と感性の結晶に違いなかったけれど、でもミュゼは少し違和感を覚えてしまう。
 街を守るといわれる天使の像。
 ミュゼの知っている天使は、街の空気に溶け込んでいるものだった。
 でも、この天使は、今にもこのホールから飛び立って、街の人々を見守っていこうとする、そんな強い感じがする。
「あ」
 ミュゼは思い出した。
 この街はお医者様と兵隊さんの街だから、こういう天使が一番ふさわしいんだ、と思った。
 そう思うと、ミュゼは何か新しいものを発見したかのように嬉しくなって、
「よろしくおねがいします」
 と、自然と天使の像に挨拶をしていた。
「失礼。あなたがハイランドのミュゼですか?」
 ミュゼは、そう声をかけられて、ゆっくり振り向いた。
 そこには灰色の軍服姿の背の高い男の人が立っていた。
 小さくうなずいて、
「あ、あの」
「アルバート・ゼルプルです」
 ゼルプルと名乗った男は、金のモールや飾りのついた灰色の軍服を着ていた。でも、軍人とは思えない長い黒髪をしていて後ろで一本に束ねてあった。持っている雰囲気だろうか? 軍人というより貴族という感じがする。
 でも、そのことがミュゼの頬を真っ赤にし、口に手を当てさせ、返事をする言葉を奪ったわけではなかった。
 男はまったく気にせずに、
「今、君はこの天使の像に話しかけていなかったかな?」
 ミュゼは顔を真っ赤にしてうなずいた。
「なるほど」ゼルプルは天使の像を見上げ、ミュゼに視線を戻した。「ん? どうしたんだね」
 ミュゼは、大きく首を横に振りながら、
「いえ、あの、その、迎えにはバーゼルさんがいらっしゃると思っていて、旦那様がいらっしゃるとは思っていなかったし、それに……」
「それに。何だね」
「えっ、あ」
 ミュゼは言葉が喉に詰まったようになって、上手く喋ることができなかった。
「気にすることはない。屋敷に戻る途中、寄っただけだ。もっとも、バーゼルがわざわざハイランドから呼び寄せたメイドを見ておきたいとも思ったがね」
 ゼルプルの言葉に、ミュゼは頬がさらに熱くなっていくのを感じた。
「あの、その」
 ミュゼはそんなことないです。と言いたかったのに、口が言葉を忘れてしまったかのように言葉が出てこなくって、うつむくことしかできなかった。
 そんな様子のミュゼにゼルプルは軽く微笑みを向け、
「では、屋敷へ行こう」
 ゼルプルはミュゼのカバンに手を伸ばした。
「あ、カバン、自分で持ちます」
 慌ててさえぎる。
 ゼルプルはうなずいただけで歩き出したが、思い出したかのように足を止め、天使の像に視線を向けた。 
「そういえば、私もたまに思うのだ」
 ゼルプルの言葉にミュゼは顔を上げ、ゼルプルと同じ方を見上げた。
「この天使は実は生きているのではないか、とね。では行こう」
 ゼルプルは歩き出した。
 ミュゼはまるで何かにあてられたかのように、その場に立ち尽くしていた。
 けれどすぐに自分を取り戻すと、ゼルプルの後を追いかけた。
 
  ◇ ◇ ◇
 
 なんでだろう? 旦那様のことを考えると、なぜか嬉しくなる。
 ミュゼは新しい便箋を前に、気分がそわそわしてゆくのを感じた。
 そう言えば、この後のことをよく覚えてない。

  ◇ ◇ ◇

 ミュゼは旦那様の後に付いて、間違いなく駅からお屋敷まで歩いたのに、お屋敷までの道順はおろかお屋敷の門構えの記憶すらなかった。      
 まるで夢の中で歩いていたような気分。
「どうしたのあんた。ぼーとして」
 ミュゼは、そう言われて、はっ、と我に返った。
 ミュゼの目の前にいる二十ぐらいの女性は、この家に仕えるメイドのマルシェだ。
 旦那様は、ミュゼをマルシェに引き合わせたあと、階段を上がり自室へと戻っていった。
「あんた、都会に食われていると、魔女に苛められるよ」
 ミュゼを紹介されたマルシェは、いつまでも、ぼぉーとしているミュゼが、都会に怖気ついていると思ったようだ。マルシェ自身、そういう経験があったのかもしれない。
「とにかく、しゃっきとなさい。都会は嫌味を言わないけど、魔女は言いたい放題だからね」
 早口で喋る感じといい、腰に手を当ててしゃべる調子といい、前の屋敷の先輩と印象がダブる。きっと、マルシェさんは、てきぱき仕事をする強い人と、ミュゼは思った。
「それとも、旦那様にあてられたのかしら?」
 マルシェはニヤリといった感じの笑みを浮かべた。 
 ミュゼは、思いっきり首を横に振った。
「ま、どっちでもいいけど。魔女にとやかく言わせないように、しゃきっとなさい」
 そのマルシェの声だけで、ミュゼは背中を叩かれたような気がした。
「……魔女様がいるんですか?」
「様ってなんだい? あんた魔女の紹介できたんだろ?」
「いえ、私は、前に働いていたお屋敷の奥方の紹介できました。奥方の知り合いのバーゼルさんという方が、都会でメイドを探されているというお話で、奥方から契約の切れるのに合わせて行くように薦めてくれたのです」
「そのバーゼルさんて言うのが魔女なのよ。バーゼルさん、なんて名前で呼ぶのは、旦那様ぐらいなものよ。じゃ、あんた、この屋敷は旦那様とリアお嬢様の二人で住んでらしゃるのも知らないで来たの」
「いいえ」
「そう、あと登庁の時に迎えに来る兵隊さんがいるのは知ってる?」
「いいえ」
 と、ミュゼは首を横に振った。
「護衛兼身の回りの世話ってやつで、お付きの兵隊さんが来るのよ。大喰君だからご飯はいつも三人前よ。たまにこの屋敷に泊まっていくから専用の部屋もあるわ。あとで案内するから。とにかく荷物を持って上に上がりましょ。歩きながらだって話しはできるんだから」
 マルシェの言葉にミュゼはうなずいた。
「で、話しの続きだけど、仕事の分掌をおおまかに言っておくと。修繕と渉外、朝食を仕切っているのがこの私。魔女の方は、お嬢様の身の回りのお世話と、夕飯、夜食といったところ。あ、あと、お嬢様のおやつは交代制かな。ここまでで質問ある?」
 マルシェは一気にまくし立てた。
「あの、旦那様の身の回りのお世話はどなたが」
「旦那様は、身の回りのことは大抵御自分でなさるわ。それにお嬢様へのお世話も最低限に、と言われているの。だから、私と魔女だけで、この屋敷を切りもみできるわけ。田舎の屋敷はどうだか知らないけど、軍人の家って意外に手がかからないものよ」
 マルシェは軽く言い切った。でも、ミュゼにはこのお屋敷が二人のメイドでどうにかなるとは思えなかった。
 屋敷そのものは、華美でもなく、特別広いというわけでもなかったけど。例えば、階段の踊り場に花が生けてある花瓶一つにしても、本物だけが持っている気品や落ちつきを持っていて、屋敷全体がそのような雰囲気で満たされていた。しかも、そういうのを保つには、普段からの手入れが物を言う。
「マルシェさんとバーゼルさんだけで……」
 すごく大変かもしれない。ミュゼは小さく握りこぶしを作った。
「マルシェさん、なんてやめてよ柄じゃないわ。マルシェでいいよ。あと魔女も魔女と呼んだほうがいいかも」
 小さく「はい」とミュゼはうなずいた。 
「あと、魔女はこのお屋敷に住み込んでいるけど、私は見た目の通り通ってるわ。とにかくがんばってよ。あと一週間しか私はいないんだから」
 マルシェは立ち止まると腰に手を当て、ミュゼの目を見ながら言った。 
 ミュゼはマルシェにその理由を尋ねなかった。その代わりに、
「いつなのですか?」
 ミュゼは、マルシェの白いエプロンのおなかに優しい笑みを向けた。
「予定ではあと四週間といったとこよ。本当はギリギリまで仕事したいけど、そうもいかないってさ。初めての子どもだし、魔女も次の満月が過ぎたら邪魔だからとっとと子どもに備えろ、て言うしね」 
 マルシェはミュゼの笑みにつられるように笑った。
 でも、
「とにかく時間ないんだから、ビシバシ厳しく行くわよ」
 と言った途端、マルシェの笑いはまるでオオカミが笑うかのような感じになり、ミュゼは笑みは少し引きつった。
「もっとも、魔女がハイランドから呼び寄せるぐらいだから、鍛えられるのはこっちだったりして」
「そ、そんなことないです。(前の)奥方とバーゼルさんが親しい知り合いだったというだけです」
「ふぅん。あの魔女がね。ま、若い頃、王室のメイド長をやってたくらいだから、お偉いさんにも親しい友人が多いのでしょ」
 ミュゼとマルシェは階段を三回ほど上った。階段はさらに上へと続いている。
「やれやれ、やっとついた。四階と屋根裏はね、旦那様の資料倉庫になってるわ。普段、誰も行かないけどね。本当は下の階にも余っている部屋あるんだけど」
「平気です」
「そぉ。私には堪えるわ、何せ二人分だからね」
 少し廊下を進んで、
「ここがあんたの部屋よ。掃除はしたからすぐにでも使えるわ」
 ミュゼは、ベッドと机、タンスといった最低限の調度しかない部屋に入った。
 マルシェの言うとおり掃除された部屋は余計に殺風景に見えた。
 ミュゼはまるで誘われるかのように窓へと歩いていく。カーテンを払いのけ窓を開ける。頬に少し冷たい風を感じた。家々と屋根が続いてくその隙間と隙間の間に、ほんの少しだけ空の青さとは違う青が見えた。
「……汐の内海」
「へー、古い名前知っているのね。昔話だっけ?」
 ミュゼはうなずいた。
「あっ、あんた、そのうなずくだけって癖、直しなさいよ。少なくとも魔女には「はい」って、答えないと、嫌味を言われる口実をわざわざ作ってあげるようなものよ」
「は、はい」
「よろしい。で、どう? この部屋気に入った」
 ミュゼは自然にうなずこうとして、
「はい」と不自然な感じに言った。
「ふふ、その調子。じゃ、タンス開けてみて」
 マルシェは、またニヤリと笑った。
 ミュゼはそんなマルシェに気がつかずに、言われた通りタンスを開けてみた。
 中には、二着の紺色のワンピースと白いフリルのついたエプロンが四枚、綿の質素なエプロンが六枚下がっていた。
 ミュゼの顔がほころんでゆく。
「もともと、私のサイズの奴だから、肩が少し余るかもしれないけど。詰められるでしょ?」
 ミュゼはうなずいたあとに、「はい」と答えた。
「さぁ着て見て、私は姿見とって来るわ」
 そう言って、姿見を取りに行くマルシェに、ミュゼはお礼を言うと、ハンガー掛けからパフスリーブのワンピースを手に取った。
 きめ細やかなつややかな肌触り。ミュゼはまるで小さな縫い目の一つ一つまで確かめるかのようにワンピースを見た。
 この礼服を着て仕事をするんだ。
 ミュゼはこの服を着て仕事を次々にこなしてゆく自分を思い描い描いた。
 軽く自分にうなずきかけると、紺色のワンピースに袖を通してみた。着てみると少し肩が余ったのと、スカート丈が長くなってしまったけど、少しの手直しで済むことがわかった。リボンタイしめて、エプロンを後ろで結び、手探りで頭にヘッドドレスを着けた。
 急に背筋が伸びたような気がした。
 小さくその場で回わってみる。長いスカートの裾が広がった。
 ミュゼは子どものように目を輝かせると、少し早く回ってみた。スカートが風をはらみ紺色の海のようになった。
「何してるの?」
 そのマルシェの声に、ミュゼは水を頭からかけられたような表情になった。だんだん顔が熱くなって行くのを感じた。

  ◇ ◇ ◇

 ミュゼは頬が熱くなって、意識は現実の世界に戻ってきた。
 ちょっと、情けない。

  ◇ ◇ ◇

「この大時計、そのうち修理が入るけど。一日五分ずつ遅れていくから、毎朝ここを開けて調節して。あと、一週間に一度ここを開けて、ここを引っ張って重しを上にあげてあげてちょうだい」
「はい」
 ミュゼは頭の中が混乱しそうになっていた。バーゼルさん(魔女)のいる台所へ向かう途中も、マルシェにとっては色々なことを教える授業時間だったからだ。
 リネンの扱いや掃除の順番や方法。各階の部屋の間取り……覚えなければいけないことがたくさんあった。マルシェはそんなミュゼを見透かしたのか、
「明日とあさって全部一緒にやるから、今、全部覚えなくっても大丈夫。でも、しあさってになっても覚えていなかったら」
 ここで、マルシェは言葉を切ったので、ミュゼはつられて、
「……なかったら?」
「どっか~ん」
 マルシェの声に、ミュゼはビクッとなった。
「ははは、冗談だけど、半分本気よ。この仕事は家事の延長じゃないんだから、チンタラ覚えればいいって物ではないでしょ。それに家事だったら許されるミスも、ここじゃ許されない。わかるでしょ?」
 ミュゼは自信なさげにうなずいた。
「だから、うなずくだけはやめなさい」
「は、はい」
「よろしい。じゃ、最後に台所へ行きましょう。魔女を紹介するわ」
 マルシェにうなずこうとしたところで、ミュゼは視線を感じた。その方向を見ると、六歳ぐらいの女の子がこちらを見ていた。
 フワフワとした繊細な髪の小さな女の子。
 ミュゼは反射的にお辞儀をした。それに気がついたマルシェが、
「リアお嬢様お帰りなさいませ。今、新しく入ったメイドに案内をしています」
「ハイランドのミュゼです、よろしくお願いします」
 ミュゼの声に、小さなリアは視線を逸らすと、階段を駆け上がっていってしまった。
 ミュゼは何かを言おうとしたけど何も言えなかった。
「気にしなくてもいいよ。リアお嬢様はいつもはああだから。悪い子じゃないけどすごく人見知りをするの。お母様を早くに亡くされたから。でも、すごくいい子よ。大事にしてあげて」
「はい」
 ミュゼはうなずいた。
 かすかにしていた甘い匂いが台所に近づくたびに強くなってきた。
 マルシェに後に付いて台所へ入ったミュゼはドキリとした。
 五十をとうに越えて、白くなった長髪を邪魔にならないように結った女性がミュゼを睨むでもなく見ていた。
「連れてきたわ新人、ほれ」
 マルシェに促されて、
「は、はい。ハイランドのミュゼです。フィオナ様の紹介で来ました。よろしくお願いします」 
 お辞儀をして顔を上げたミュゼは、魔女(バーゼル)の眼鏡越しの目と合った。
 魔女はミュゼを値踏みでもするかのように見ていた。
「なんてざまだい。またずいぶんとまぁ情けないのをよこしてくれたね」 
 いかにも魔女らしい、にごった感じの声に、ミュゼはかすかな痛みを感じた。
 魔女の言葉はさらに続く、
「ま、フィオナはどこか抜けたところがあるから、大方、こんな娘でも十分使えると思ったのかね」
 かすかな痛みは、お裁縫で失敗して自分の指に針を刺したときのように痛んだ。それも、自分のことをけなされることよりも、自分のせいでフィオナさま(奥方)をけなされることが、ミュゼを痛くした。
「ま、いい。追い返すにしても、夜行までまだ時間がある。どこまで使いものになるのか、試してみようじゃないか」
「はい」 
 ミュゼは下唇をかんだ。
「じゃ、お茶を淹れることはできるね? それぐらいはできなきゃ困るが。旦那様とリア様に紅茶を淹れとくれ。マルシェ、お菓子を頼んだよ。アプリコットパイを一緒に運んで落とされでもしたら大変だからね。私は旦那様方に知らせてくる」 
「はい」
 と、マルシェが返事を返したときには、マルシェは鍋つかみをはめて、手際よく、薪オーブンからパイを取り出していた。
 甘く香ばしい熱気と匂いが台所を包んだ。ミュゼの視線が一瞬止まってしまうような、カラメルの色に光るアプリコットパイ。
 マルシェは手際よくそれを皿に盛った。
「魔女はいつもあーよ。だから気にしない、気にしない。でも、魔女はああ言うだけあって、かなりできるわよ。元王室メイド長は伊達じゃないんだから。このパイだって、見た目もそうだけど、風味も味も特別よ」
 ミュゼは軽くうなずいただけだった。けれどマルシェは怒らなかった。その代わりにミュゼの眼差しにニヤリと笑った。
 ミュゼは茶道具と茶葉を見た。ミルクはもう温められていて、ポットも保温のためのティーコゼがかかっていた。
 私を送り出してくださった奥方のためにも、おいしい紅茶を淹れなくては。
「マルシェさん、旦那様とお嬢様の好みは?」
「旦那様は特にないけど、お嬢様はミルクを多く使うわ」
 お茶はシロンのお茶だから、あまり濃く淹れると、渋みに香りが負けてしまう。でもミルクに負けないためには……。
 ミュゼは、頭の中で屋敷の様子を思い描いた。
 ミュゼが考え込んだのは、本当にわずかな時間でしかなかった。
 まず、鶏を模したティーコゼを外して、肌の厚い茶色のポットのほんのりと温かくなった取っ手をつかんだ。
 すごく手によくなじむポット。
 まるでそのポットから染み出したかのように、ミュゼは緊張がほぐれていくのを感じた。
 うん、いつものとおりに。
 ミュゼは肩から力を抜いて息を小さくつくと、ポットに入っていたお湯を捨て、シロン茶をポットに入れた。
 人数分プラス味と香りを左右する采配。
 ミュゼはこの采配を、ハイランドのお屋敷でやってきたとおりにやった。新しいお湯をポットに注ぎ入れて、ティーコゼをかぶせると、残りの湯でカップと茶漉しを温めた。
 ミュゼの手際のよさに、マルシェは口笛を吹くような顔になる。
「用意はできた?」
「はい」
 ミュゼは茶道具に声を立てさせないように、慎重にトレーを持ち上げた。
 歓談室の前まで来ると、マルシェは一度、ミュゼに目配せをし、ノックをして中に入った。
 小さな円卓にちょうど向かい合わせになるように、旦那様と小さなリアお嬢様が座っている。
「今日は、パイか」 
 旦那様はマルシェの持つトレーの上のアプリコットパイを見ていた。
「はい。お嬢様のリクエストでアプリコットを使ってみました」
 と、魔女。
「そうか、では、私も今日はいただくとしよう」
「マルシェ」
「はい、かしこまりました」
 サイドテーブルの上でマルシェはパイに包丁を入れ、香ばしい匂いと音を立てながらパイを八等分にした。その隣で、ミュゼは琥珀にも似た紅茶を白い温められたカップに注ぎいれる。
「失礼します」
 ミュゼは、旦那様とリアお嬢様の前に紅茶を出した。
「ほぉ」
 と、旦那様は声をあげた。
「いい香りだ。新しいお茶かい?」
 ミュゼのかわりにマルシェが、
「いいえ、旦那様。お茶は代わってませんが、お茶を入れるメイドが新しいんですよ。ミュゼ、旦那様とリアお嬢様に改めて御挨拶を」
「ハイランドのミュゼです。よろしくお願いします」
 ミュゼはお辞儀をした。
 旦那様は軽くうなづいたけど、リアお嬢様は顔をぷいっと横に向けてしまった。
 旦那様はそんな娘に苦笑いを浮かべ、
「こら、リア。ご挨拶なさい」
 諭すような言葉にも、リアお嬢様は「やだもん」と、口をへの字にしただけだった。
 ミュゼの顔が曇った。
「こんな紅茶いらない」
 リアお嬢様は椅子を降りると、旦那様のとめる声も聞かずに、そのまま歓談室を出て行った。
「すまないミュゼ。あの娘を悪く思わないでくれ」
「そんな、とんでもない」と、ミュゼは言えなかった。例え言えてたとしても、魔女の声にかき消されていたに違いなかった。
「リアお嬢様は、まったく悪くございません」
 魔女は耳の奥までジンジンしそうな大声を張り上げた。
「こうなったのは、このハイランドの片田舎から来た娘のせいです」
 ミュゼは、叩かれてもいないのに頬を張られたような気分になった。魔女が一瞬だけ、金色の瞳をギラつかせた牙が三列もある狼に見えた。
「あなたは下がりなさい」
 魔女にそう言われて歓談室から出てきたとき、今すぐ「帰りたい」と思った。
 耳は鳴り、鼓動は激しく、目はちかちかした。ミュゼは半ば走るかのように早足で台所に戻った。
「はぁ」と短く息をつくと、だんだん目の前がぼやけてきた。
 泣いているときじゃないのに。そう思えばそう思うほど、ミュゼの目に涙があふれた。
 何かに呼ばれたような気がして、ミュゼはうつむいた顔を上げ振り返った。
「はい?」 
 リアお嬢様が台所の入り口に立っていた。手を後ろに組んでミュゼの視線と合わないようにうつむいていた。
 ミュゼはあわてて袖で涙をぬぐった。
「私、悪くないんだから」
 リアお嬢様は、口元でそう言った。
「……」
 ミュゼはすぐに言葉が出なかった。
「私悪くないもん。ミュゼが怒られたの私のせいじゃないんだから」
 リアお嬢様はさっきより大きな声で言った。ミュゼはゆっくりと表情を和らげていった。
「はい。リアお嬢様のせいではありません」
「ただ、あの時、紅茶を飲みたくなかっただけ」
「はい」
 ミュゼはうなずいた。
「ミュゼは怒ってないの?」
 リアお嬢様は、チラッと、ミュゼの方を見て、また目線をそらした。
「怒ってませんよ。ちっとも」
 自然と笑顔になる。
「それだけだから」
 リアお嬢様は駆け出した。
 廊下の少し先で、
「お嬢様、走っているところを怖い魔女に見つかると、怒られますよ」
 と、マルシェの声がして、マルシェが茶道具一式やパイなどを持って台所へ戻ってきた。
「あら、いたの?」
 マルシェは意外そうな顔をした。
「はい」とミュゼはうなずいた。
「私はてっきり、自分の部屋に戻って荷物をまとめてるのかと思ったよ」
 マルシェはニヤリと笑った。
「そうですね。ハイランドに帰りたいと思いました。でも、今はそう思いません」
「そうかい、そりゃよかった。せっかく旦那様があんたの紅茶をおいしいって褒めていたし」
「え」と、ミュゼは、何かにつままれたような顔になった。
「リアお嬢様ともうまくやれそうだしね」
「はい」
 ミュゼは微笑みと共にうなずいた。
「さて、魔女が来る前にさっさと片付けて、いつでも夕食の準備に取りかかれるようにするよ。さもないと、とっとと田舎に帰れ! って、オールドリーフ育ちの私まで言われちまうよ」
 マルシェにつられてミュゼは笑った。

  ◇ ◇ ◇
 
 金のペン先がまた止まった。ミュゼは顔を便箋から上げて、
 バーゼルさんが怒ったから、リアお嬢様と仲良くなれた……バーゼルさんはそれがわかっていたのかも。
 ミュゼは、小さくうなずくと、手紙の最後の部分を書き始めた。
 

 すごく厳しくて、すごく素敵な先輩たちに囲まれて、
 私、がんばってゆきます。

                   ミュゼ

よろしくお願いします。

イラスト:影守俊也 『Forbidden Resort』 http://www1.odn.ne.jp/403resort/

よろしくお願いします。

都会へと出てきたメイドのミュゼ。 彼女が出会う都会の人々と、ささやかでも、ミュゼとっては大きな事件。 その一番初めのエピソードとなります。 イラスト:影守俊也 『Forbidden Resort』

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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