漁師と人魚

千葉しげる

人魚を助けた漁師の話

昔、 ある漁村に病気の母親と幼い弟と妹を持った若い漁師がいた。 この漁師は母と弟妹を養うため、 海が荒れた日でも漁に出なくてはならなかった。
海が荒れば、 当然魚たちも海深く潜り、 漁などできないことをこの漁師も知ってはいたが、 それでも何度も何度も網を海へ投げ込んでいた。
もはや日暮れ近くになり、 やっぱり駄目か、と、 ため息をつきつつ、 それもう一度。と、 網を海に投げ込むと、 不思議と何かがかかった手応えを感じ、 サメかと思って急いで引き寄せてみると、 それは髪の長い人魚であった。
髪が長いので、 初めは女の人魚かと思ったが、 よく見ると男の人魚であった。 人魚は網から逃れようと盛んにもがいていたが、 漁師が、大人しくせぇ。と、 一声かけると、 その動きはピタリと止まった。
漁師は人魚に向かって、 人の言葉がわかるのか?。と、 尋ねると、 人魚は大きく頷いた。 そして、 私は病気なのです。 あと何年も生きられません。 ですから、 どうか逃がしてください。と、 漁師に命乞いをした。
しかし、 漁師はこれを許さず、 お前の肉は、 食えば不老不死の薬になると聞く、 病気の母親にやるためにもお前を逃すわけにはゆかん。と、 答えた。
すると人魚は、 ならば、 あなたの願い事を四つ叶えてあげましょう。 それで逃がしてもらえますか?と、 頼んだ。
だが、 漁師は、 何をぬかす、 できもせぬことを言って逃げようとするか。と、 言って、 舟の櫂を振り上げて網の中の人魚を叩こうとした。
そこで人魚は、 待ってください。 私の言っていることが信じられぬのなら、 これをご覧なさい。 この荒れている海を、 静めて見せましょう。 そう言うと人魚は、 目をつぶり、 両手を合わせて何やらぶつぶつと呪いを始めた。
するとどうであろう、 あれほど荒れていた海が穏やかになり、 水面はまるで鏡のように陽の光を放っていた。 漁師はこれには驚き、 なんてことだ。 あれほど荒れていた海が静まり返るとは。 こいつ嘘はついておらんな。と、 振り上げた櫂をおろし、 人魚を信じることにした。
そこで、 人魚はすかさず、 一つ目ののぞみはこれで良いでしょうか?。と、 漁師に尋ねた。 すると漁師は、 何がだ?。と、 問い返すと、 人魚は、 あなたが漁に出るときはいつでも、 荒れた海は凪になるということですよ。と、 答えた。
よかろう。と、 だけ漁師は答えた。 そして、 二つ目ののぞみだが。と、 続けながら、 人魚を網ごと引き寄せて、 中から出してやった。 人魚は、 ありがとうございます。と、 安心した様子で漁師に礼を言い、 逃げたりしませんから。と、 付け加えた。
人魚が、 二つ目ののぞみは何ですか?。と、 尋ねると、 漁師は、 母親の病を治してくれ。と、 頼んだ。 そして、 三つ目ののぞみは、 決っして破れぬ網をくれ。と、 言い、 最後ののぞみは少しためらいながら、 嫁をくれぬか?。と、 だけ言った。
人魚は、 わかりました。と、 言うと、 先ほどと同じように両手を合わせて、 何やらぶつぶつとつぶやき出した。 しばらくして、 それが終わると、 急いで家へ戻ってみなさい、 母親はもう起き上がっていることでしょう。と、 言った。 漁師はそれを聞くと、 本当か?。 そうなら嬉しいが、 で、 嫁はいつ来る?。と、 急に元気になって嫁の話を持ち出した。
人魚は、 三日後、 都から一人の娘がやってきます。 その娘を嫁にしなさい。と、 言った。 ほとんど諦めていたことだけに、 漁師はもう少し聞いてみたくなり、 それで、 どんな娘なのだ?。と、聞くと、 人魚は、 そこまでは、 わかりません。 おそらく良き娘かと思われます。と、 だけ答えた。
人魚は、 ならば私は帰ります。 助けてくれてありがとう。と、 言うと、 海の中へ静かに沈んでいった。 漁師は、 その様子をしばらく眺めていたが、 ふと、 我に返って急いで家に帰った。
家の戸を開けると、 すぐさま、 おっかあ無事か?
と、 叫んだ。 家の中を見ると母親が台所に立っていた。 寝てなくて大丈夫なのか?。と、 男が尋ねると、 母親は、 今日は、 なんだか急に元気が出てきて、 久しぶりに夕食の支度でもしようかと思って。と、 答えた。
男は、 人魚は約束を守ったのだ。と、 思うと急に、 ならば嫁様はどんな娘っ子が来るのか?。と、 いうことが気にならずにはいられなかった。
三日後、 一人の娘が男の家を訪ねてきた。 聞けば都からやってきたと言う。 娘が言うには、 三日前の夕方、 父親が突然家に占い師を連れてきて、 私のお婿さんはどこにいるかを占わせたと言う。 そして占い師が言うには、 ここからちょうど三十里離れた岬に、 病気の母親と歳の離れた弟妹を持った父親のいない若い漁師に嫁ぎなさい。 そうすれば、 必ず幸せになります。 とのことだった。
娘は話を聞いて、 とても驚いたと言う。 当然であろう。 どこのどんな人間かも分からぬ者の処へ急に嫁に行けなどと言われても、 戸惑わぬものなどいないであろう。
娘は、 占い師に向かって、 なぜ漁師なのですか?と、 尋ねたという。 すると占い師は、 そう占いに出ているからとしか言いようがない。と、 答えたそうである。
娘は、 何も漁師だから嫌だと言っているのではない。 理由もはっきりとしていない相手に嫁ぐことが不満なのだと言った。
しかし、 娘の父親がこの占い師を信じ込んでいるため、 有無を言わさず送り出されたのだそうだ。 話を聞かされた男は、 この娘をたいそう気の毒に思い、 なんなら嫁になってくれなくてもいいんだよ。
と、 言った。
すると娘は、 男のことをじっと見た後、 今度は一転して妙なことを言った。 何やらあなたには、 運の良さを感じます。 どうか、 私をこの家の嫁にしてください。と、 頼んできた。 男は、 この娘が何かを感じ取っていることを悟った。
確かに人魚に会って以来、 荒れている海も凪になるし、漁はいつでも大漁で、 しかもどういうわけか網には海の底の生き物まで入っている。 この三日、 毎日舟いっぱいの魚たちを乗せて帰ってくるものだから、 急に景気が良くなった。
そんな雰囲気をこの娘は、 分かっているのかもしれないと男は思った。 ならば、 一緒に暮らすか?。と、 男は娘に言うと、 娘は、 末永くお願い致します。と、 頭を下げた。
それから十年の月日が流れた。 その間、 毎日が大漁続きで、 家の脇には蔵が三つも建った。 あまりにもたくさんの魚たちが獲れるので、 とても捌ききれず、 庭に大きな生簀を造り、 漁から帰ってきては、 その中に魚たちを放した。 それを毎日仲買人が買い付けに来るものだから、 お金は貯まりに貯まった。
そんな毎日が続いていたある日、 男が漁に出ようと荒れた海に舟を漕ぎ出すと、 何やらいつもと様子が違っていた。 おかしい、 いつもなら水面がもっと凪になるはずだが。と、 首をかしげた。 そして、 大切にしている網にもほつれが見つかった。
男は、 人魚の病が悪化していることを予感した。 そして、 母親と嫁のことが心配になって、 すぐさま家に引き返すこととした。
家に戻ると、 案の定、 母親は床についていた。 今朝まで元気だったが、 どうしたのか聞いてみると、 急に胸が苦しくなってきたので、 大事をとって横になったのだと言う。
嫁の方も、 何やら落ち着かぬ様子でいたので、 これもまた理由を聞いてみると、十年前になぜ父の意見に屈して、 この家に嫁ぐことを決めたのか不思議でならないと言い出した。 男は、 俺を見込んだのは、 お前の方なんだから。と、 言うと、 嫁は、 そうでしたよね。と、 笑っていた。 男は、 二人の様子の変化に冷や汗をかかされたが、 まずは一安心した。
だが、 それから一月ほど経ったある日のこと、 漁に出られないほど海は荒れ狂い、 男が海辺に立っても海は少しも静まり返る気配を見せなかった。 そして、 男が無理に海へ漕ぎ出し、 網を打とうとしたら、 たちまち網がズタズタに切れてしまった。 男は、 もはや、 人魚は死んでしまったことを確信した。
慌てて荒れた海から引き返すと、 一目散に家へと向かった。 以前同様、 母親と嫁が心配であったからだった。 だが、 それは全て杞憂に過ぎなかった。 母親に体の具合を聞いてみると、 男には心配かけまいと黙っていたことだが、 だいぶ前から少しずつ胸の病がぶり返してきていたと言った。
そして母親は、 海辺は空気が荒いので、 体をいたわるためにも、 内地で百姓をしている弟のところへ移りたい。と、 言った。 本人に言わせれば、 薬より養生というではありませんか。 天候が温暖であれば病もきっと良くなりますよ。 とのことであった。
嫁の方はと言うと、 以前から疑問に思っていた、男との夫婦生活も、 男の心が誠実で、 しかも稼ぎも良い働き者であるから、 だんだんと気持ちも落ち着いてきて、 今はこの人の嫁になって良かったと思っている。と、 語っていた。
これはきっと、 人魚の容態が少しずつ変化して、 病気が重くなっていったからだと男は思った。 そして、 今現在、 家族に何か大きな問題でもあるわけでもなく、 男のこの一月の不安は、 一気に吹き飛んでしまった。
数日後、 海岸に男の人魚の死体が上がった。 人魚の死体の周りには、 人だかりができていた。 そこへ男が割って入るなり、 人魚の肉を欲しがる村人たちに向かって、こう諭した。 この人魚は病気であり、 その肉を食べれば、 きっと何らかの病気になってしまう。
だから人魚の肉を欲しがるのはやめとけ。と。
さらに、 自分が言ったことの証明をするために、
十年前にこの人魚と出会ってから今日までのことを正直に話した。 話を信じた村人たちは、 その後、 人魚を葬った場所に人魚塚を造った。 そして、 海が荒れている日は、 誰もがその人魚塚に花を手向けることを欠かさなかったと言う。

漁師と人魚

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