虫喰い茸

虫喰い茸

茸不思議小説です。縦書きでお読みください。

 四月になりすぐの日曜日の朝のことである。庭に出て草木をながめていたとき、蛇苺がまとまって生えているところに、薄茶色の茸が生えているのが目にとまった。蛇苺の実が茸を取り囲んでいる。一つの絵にはなるが、蛇苺の赤い可愛らしい実が好きなので、なんとなく茸が邪魔に感じた。そんなことで茸を抜いた。
 高さが五センチほどだから、草の中から茶色の傘が飛び出している。傘の形はランプ形、典型的な茸である。柄に虫食いの跡がついている。
 キッチンのテーブルにおくと、虫食い茸はちょこんと座っている小さな子犬のようでちょっと可愛い。よく見ると少し濃い茶色の傘には筋が入っていて、傘には虫食いもなくなかなか形がいい。柄のところはビロードのようなふかふか感があるが、三カ所ほど食われている。それが目立って汚らしくみえるのだが、本来はきれいな茸の部類にはいるのかもしれない。
 コーヒーをいれテーブルにつくと、目の前に茸が立っている。見つめていると、虫に食われたと時、茸はがっかりしただろうとかわいそうに思えてきた。歩けない茸である。虫が来ても避けることができない。食べられているときはどんな気持ちなのだろう。この茸は虫達にとって美味いのだろう。もし自分なら身をよじって苦しむにちがいない。
 あれ、何で茸に感情移入しているのだろうと我にかえった。
 私はすでに引退した医者である。ときどき元勤めていた大学病院の手伝いを頼まれそのとき出かけるだけの生活をしている。医者は患者さんを客観的に見なければいけない。余計な感情移入は判断を狂わせることがある。日々新しくなる医療の知識を吸収し、自分の経験をそこに生かして、患者さんの顔や動きを見る。かわいそうだなとか、どこかだらしなさそうだなどと思ってしまうと、判断が正しくなくなってしまうこともある。そんな生活を長い間してきた。あまり余計なことは考えないできた。
 遅く家に帰り、朝早く出ることから、妻が手入れしてきた庭をゆっくり眺めるようなことはしなかった。たまの休みのときも部屋で論文を読んでいることが多かった、とりたてて趣味がないので、妻が作ってくれた料理を楽しむぐらいである。死んだ妻はなかなか料理が上手だった。そんなことで、病院をやめたとき、庭にどのような木が植わって、どのような花が咲いているかほとんど知らないことに気付いた。庭に茸などが生えるなどとは思ってもいなかった。茸は料理の材料としか思っていなかったのである。
 医療の中で茸を扱うことはあまりない。茸の漢方薬に関しては講義を聞いたし、薬理の授業や専門医の話の中で茸の名前を聞くことはあった。しかし最後は小児科で長く治療にあたってきた私にとって、茸は食べる以外は無縁に近かったのである。
 庭に生きている小さなものが、今まで接してきた子どものように思えるのだろうか、庭で赤い蛇苺の実を見ると診察に来た無邪気な女の子を思い出し、ぴょんと跳ねるおんぶばったは元気な男の子に見える。
 そんな中に生えた茸は邪魔な病気に見えたのかつい取ってしまった。だが机の上の茸を見ていると、今度は茸がかわいく思えてきた。食べたいという気持ちは起きなかった。
 なにをくだくだと茸の事を考えているのだろうと可笑しくなったが、ともかく思考をそこで打ち切って外出の準備をした。
 今日は銀座に出て知り合いの個展を見る予定である。
 銀座はいつ行っても同じだ、中国語が至る所から聞こえてくる。しかし彼らは画廊にはなかなか入ってこない。外国にも知られたような有名な画家の絵ならいざしらず、五万といる日本の画家の絵を買うようなことはしてくれない。
 友人は風景画家である。中堅どころの油絵画家で、フランスに長い間いたのだが、年をとって日本が懐かしくなり、奥多摩に住むようになった。彼とは小学校から高校まで同じ学校に通った。友人は美大にすすんで、私は医大にすすんだ。二人とももう古希をだいぶ越えた。
 「よー、きてくれたのか」
 通りの画廊にはいると、白いあごひげを伸ばした友人が、入っていった私を認めてよってきた。
 「うん、元気そうだな」
 私は画廊の中を見渡した。そう広くないが、友人の最新作が数十点かざってある。
 「もう医者はやってないのか」
 「一週間に一度ほど大学病院に手伝いにいってるが、後はうちにいる」
 「なにしているんだ」
 「なんにも」
 「昔から、ぼーっとしていたもんな、それなのにひょいと有名医大に入っちまうんだからすごいもんだ」
 大人を相手にするのはにがてて、小児科を三十年も続けていた。子供は昔も今も変わらないが、連れてくる母親が全く違う人種になっちまったようで、勤めているのが苦痛になってきていた。
 「奥多摩の絵だね」
 彼の絵は写実でもあり、絵の中の一部は抽象である。そういうと意味が分からないと思う。景色は遠近感を出すのが基本だろう、もしそれを彼の絵に当てはめると、時間の遠近法、いや次元の遠近法で描いているというのだろうか。絵の中心の風景は今のものでくっきりと写実的に描かれているが、周りは抽象的に描かれていたり、ぼやかせてあったりして、時間軸がずれて過去であったり未来であったりする。現実の風景の周りに未来や過去の風景を眺めることができるのである。一つの絵のなかに同じ場所であるが違う次元の風景が重なってるんだ、という友人の説明を聞いたことがあった。理屈はどうあれ、彼の絵は綺麗な風景画である。
 「奥多摩は絵になるよ、まあ、ゆっくり見てくれ」
 私は壁に掛けられている絵を順に見ていった。もうすでに半分ほど売れている。買うのは日本人よりフランスやイギリスのバイヤーが多いようだ。意外とヨーロッパ人に好かれる絵かもしれない。
 いくつかみていくと、驚くものが目に入った。小さなわき水のある林の中の絵であるが、その池の手前のほとりに、薄茶色の茸が描かれていた。
 「この絵はどこで描いたんだ」
 彼は画廊の人と話をしていた友人に声をかけた。友人は近寄ってきて、
「それか、今住んでいるところから歩いて十分ほどのところの池を描いたんだ。きれいなところで、時代を超えた美を描こうと思ったんだけどね」
 「いや、いい絵だと思うよ、この茸はそこに生えていたのかい、それとも時間軸をあらわすものかい」
 「茸なんか描かないよ」
 友人は不思議そうな顔をして自分の絵を見た。
 「ほんとだ、茸を描いている、意識をしていなかったということは、そこに生えていたんだな」
 その茸は今朝がた庭で見つけた虫食い茸にそっくりだったのだ。
 茎の虫食いの後までそっくりだ。絵の値段を見ると、五万円とある。六号ほどの絵だから高くはない。
 「これ、買うよ」
 「へえ、それはありがとう、この絵は好きな絵だよ、だけど茸は意識しなかったな」
 友人は本当に嬉しそうに笑って、売れた印の赤いシールを絵の下に貼った。
 その後、ひとしきり彼と話をして、家に帰ると虫食いの茸はテーブルの上でそのままになっている。捨てるのは可哀想だから食器棚の脇に立てておいた。

 それから五日後に彼の絵が宅急便で届いた。開けてもう一度じっくり見ても、やはりきれいな絵である。玄関にかけることにした。かけてみると、ぴったりで、周りが明るくなった。
 手前に描いてある茸は柄のところが虫に食われて穴が開いている。庭で採った茸の柄の虫食いとそっくりである。それであの茸はどうしたかと思いだし、キッチンに行くと、まだ食器棚の脇に元気に立っていた。
 その虫食い茸をもって玄関にもどり、絵の中の茸と見比べてみた。よく似ている。庭の茸には三カ所ほど虫に食われた穴があるが、絵の中のものは真ん中ほどに一カ所である。まあ、偶然にしても縁がある。虫食い茸はキッチンに戻した。
 その日の午前中は新宿のデパートに買ったズボンを取りに行った。裾の長さの調整ができたという連絡があったからだ。
 よく地方の駅弁を集めて大会を開くデパートだったが、今日は珍しく切手とコインの販売会をやっていた。子供の頃は美術切手を集めたものである。そのころまだ活版印刷で、日本の趣味週間の切手やフランスの美術シリーズの美しさは格別だった。大学にはいってからは、忙しかったせいもあるが、全く集めることから離れてしまった。医学一筋で、そこから離れた今、趣味は続けておくべきだったと思う。といって、これからもう一度収集しようという気は起きない。しかし見ることは好きで、退職後は美術展に限らず面白そうな展覧会には出かけることがある。
 八階の催しものの会場に足を運んでみた。あまり混んでいない。ガラスと棚の中に並んでいる切手を見ると何か懐かしい。最近の日本の切手には趣がなく、興味が全くなかった。だが古い切手は見ていて確かに綺麗だ。切手商によっては、絵柄により分類しておいてあるので見やすくていい。子供の頃は動物や植物の切手にも興味があった。そんなところを見て回っていて、茸の切手ばかり集めて展示しているところがあった。ふと足を止めてそのストックブックを開いてみた。
 最初に出た茸切手がある。ルーマニアの切手である。老眼鏡を取り出してみると、1958年とあるから、私が十五歳の時にでたものである。今2018年であるから六十五年前ということになる。世界最古の切手はいつ頃だろう。子供の頃何かで知ったのだが今は忘れてしまった。ただイギリスからでた切手だと思う。十九世紀半ばだと思うから、それを考えると、茸の切手はまだ新しい。切手ができて百年過ぎてからだろう。
 茸切手のアルバムを開いていくと、きれいな茸の切手が次々と現れてくる。飽きないものである。最後のページに現れた茸の切手におやっと目を留めた。庭の虫食い茸によく似ている薄茶色の茸の切手だ。2018年とあるから出たばかりである。出している国の名前は読めない。見たことのない言葉である。
 しげしげと見ていたからだろう。店員さんがよってきて、「珍しい切手ですよ」と言った。どういう意味か尋ねると、「国ではなくて、南米の島が出していて、その島の古い言葉で書いてあるので、誰も読めないのですけど、アメリカの名だたる切手商から仕入れたので、きちんとした切手だと思います」と言った。
 「島の名前はなんというのでしょう」
 「エクアドルのガラパゴス諸島のはずれの島で、フロレアナ島というのですけど、すみません私もその島のことはよく知らないのです」
 自身がなさそうだ。正直な店員さんだ。ともかく珍しいのだろう。庭の虫食い茸に似ていたので買う気になっていた。
 「いくらでしょう」
 「千五百円です」
 そんなに高くない。
 「これください」
 その店員さんは「ありがとうございます、茸切手を集めてらっしゃるのなら、この本はお持ちですか」
 と、一冊の本を見せてくれた。
 [キノコ切手の博物館]で、世界のすべてのキノコ切手を持っている石川博己という人の本だ。日本郵趣出版がだしている。なかなか面白そうだ。
 「もっていません、これもください」と切手とともに買ってしまった。
 衝動買いをしてしまったと思いながら、電車の中で本を広げると、なんと世界には五千に近いキノコ切手があるようだ。茸の三角切手、立体図の切手、さまざまである。もちろん今日買った切手はのっていない。 
 家に帰り、書斎のデスクの上で買ってきた切手を袋から出して見た。その切手の茸も虫食いだった。キッチンから茸を持ってきて、見比べてみると、切手の茸の柄には二カ所の虫食いがあってその形と位置が、庭の茸にそっくりであった。面白いものである。
 さて、茸の切手をどうしようか迷った。子供の頃のストックブックはもうない。ストックブックを買う必要はない。この一枚の切手をどうしよう。
 考えがまとまらず、とりあえず袋に入れたまま引き出しにしまうことにした。引き出しを開けるとき、机の上に目がいった。空の写真用の額がおいてある。大学病院のスタッフが診療室で撮った私の写真をいれて、退職の時に贈ってくれたものだ。恥ずかしいから写真をはずしたままにおいておいたのだ。L版の木のフレームだから切手には大きすぎると思ったのだが、引き出しに入れて忘れたままになるよりいいだろうと思い、それに入れてみることにした。確かにちょっと大きさがあわないが、黒檀の縁がよくあう。机の上に立てた。切手も一つの美術品である。
 切手の中の茸の絵もなかなかきれいだ。目立たないが全体の姿はいい。本当に庭の虫食い茸とよく似ている。ということはうちの茸もなかなか形がいいのだろう。
 キッチンから庭の茸を書斎に持ってきて机の上に置いてみた。机の上にしっかりと立った。そういえば採ってから一週間もたつのに萎れていない。今採ってきたように元気だ。虫の穴は何だか可哀想だが、よく見ると美味しそうだ。齧った虫はハッピーだったに違いない。食べた後に猫のように顔を洗ったのじゃないかと、また妄想に駆られた。
 まだお昼を食べていない。ちょっと腹が減ったな。と思ったら、目の前の茸が食欲をそそる。
 虫が食うくらいだから美味いのだろう。
 茸の傘をちょっとばかりかじった。確かに味がある。きっとアミノ酸が豊富なのだろう。何という茸なのだろう。
 私がかじったので、傘まで虫食いになってしまった。何だか虫の気分だ。
 携帯がなった。娘からである。うちの傍まですでに来ているとの連絡である。
 娘は生物学者になり、とある大学の准教授で、脳とホルモンの研究をしている。ハンガリーでの国際学会に出席し一昨日帰国したばかりだ。旦那は私と同じ医大出身で大学病院に勤めている。
 すぐに玄関のドアを開ける音がして、娘の声がした。
 「お父さん書斎なの」彼女は隣の駅のマンションに住んでいる。
 「玄関に絵を飾ったのね、茸がきれい」
 娘は書斎にずかずかと入ってきた。
 「お父さん、ハンガリーからのおみやげ、それに、今日の夕飯買っといた」
 「なんだい」
 娘が紙袋から包みを出して、中のものを机の上に置いた。陶製のカップである。
 「ジョーナイよ」
 「ジョーナイってなんだい」
 「ハンガリーの焼き物、有名なのよ」
 枯れ葉の中から立派な臼茶色の茸が生えている絵がついている。その茸が我が家の虫食い茸にそっくりである。娘が机の上の庭から採った茸を見た。
 「あーら、机の上の茸、そっくりね、傘の破れているところまで似ている」
 私が今かじった傘の破れである。
 「え、茸の切手も飾ったの、この茸もよく似ているわね」
 「今日午前中にデパートいってきたんだ」
 「この茸はどうしたの」
 「庭に生えていた」
 「きっと毒よ」
 「死ななかった」
 「食べたの」
 「いや、かじった」
 「お父さん卑しくなったのね、お昼食べてないのでしょう」
 「美味しい茸だよ」
 「私これから、友達のところにおみやげ持ってくの、夜のおかず買ってきた、あじのフライとトンカツ、食べてね」
 ハンガリーの話でも聞かせてくれればいいのにと思ったのだが、あっと言う間に玄関に行ってしまった。私が机の前から立たないうちに一気にしゃべって出ていくとはせっかちな娘である。誰に似たんだ。
 こうして私は机の上の虫食い茸、いや私もかじった茸、額にはいった切手の茸と、ハンガリーのカップの茸に囲まれた。偶然にしては出来すぎているような気がする。
 何だか机の上に立っている庭の虫食い茸が生き生きとしてきた。
 茸を手に取ってみた。うまそうだ。今度は柄のところをかじってみた。ずいぶん美味しい茸だ。体の中がふーっと暖かくなるような気分だ。
 おいしい。とうとう私はその茸を全部食べてしまった。遅いお昼はそれで満足をした。
 夕方になり、娘のくれたアジのフライとトンカツを温めて夕食の用意をしたのだが、食べたいという気が起きずに、残したまま寝てしまった。
 明くる朝、お腹が空いたと感じるのだが、いつものパン屋のおいしいイギリスパンも食べる気がしない。朝はいつもお腹が空いていて、美味しくパンと果物を食べ、紅茶を飲むのだが。からだは元気なのにどうしてだろう。外に出て、空気を吸うと食べる気が起きるかもしれない。庭に出た。かすかだが茸の臭いがしてきた。お腹がすいてきた。
 庭の蛇苺の赤い実に囲まれて、また薄茶色の茸が生えていた。その茸にも虫に食われたあとがある。
 それを採るとキッチンに持っていった。茸のいい匂いがキッチンに充満した。テーブルの上におくと、動き出しそうなかわいらしさがある。
 見ていたら食欲が出てきていつものパンと果物の朝食をとった。新聞をキッチンのテーブルの上に広げると、採り立ての茸の匂いが強く香ってきた。なんていい匂いなのだろう。茸をつかむと傘のところを食いちぎった。汁が口の中一杯に広がり、匂いが鼻に抜けてきた。本当に美味い茸だ。茸を片手に持ったまま、朝刊を開いた。すると、いきなりカラー刷りの広告が目に入った。紙面の半分を使った広告には、針鼠達が部屋の中で好きなことをしている絵がのっていた。どうもマイホームの宣伝のようだが、会社名がどこにあるのかわからない。最近はテレビを見ていても、イメージは面白いが会社の名前がわからないのが多い。記憶に残ればいいのだろう。
 針鼠が部屋の中に生えている茸をかじっている。針鼠も茸が好きとみえる。齧っている薄茶色の茸を見て驚いた。うちの虫食い茸にそっくりなのである。またもや庭の茸とそっくりな茸が出現した。
 片手にある茸の柄を見た。柄の虫に食われた跡が針鼠の歯型に見えてきた。妄想だ。もやもやとしていると、疑問が生じてきた。
 虫はなぜ全部食べてしまわないのだろう。虫にとってすべて食べるには大きすぎるのかもしれない。とすると一番美味しいところからかじっているに違いない。これだけ美味しい茸だから、虫がかじった最初のところにうまみが凝縮されているのではないだろうか。友人の絵の中の茸も、切手の中の茸も、ジョーナイのカップの茸も、それに新聞の針鼠の齧っている茸も、だいたい柄の根本よりちょっと上のところが食われている。そのあたりが旨いのかもしれない。
 虫に食われていない茸を探して、最初のひとかみをしてみたい。そのためには新しい茸が生えてきた時に、虫に食われる前に素早く採らなければならない。そうするには夜中に茸を見張らなければならないだろう。そう思いながら片手に持った茸の傘を喰ってしまった。次に茸の柄を口の中に押し込んだ。虫食い茸は旨い。
 庭に出て、さっき茸を引っこ抜いた場所にいってみた。クローバに混じってかなりたくさんの蛇苺が赤い実をつけているところである。
 茸を採った跡が白く残っている。その端から少し濃い、薄茶色の玉が顔を出している。きっとこれがあの茸になるのだろう。
 夕方になり、またそこをのぞいた。すると茸の頭が盛り上がっている。茸の成長は早い。夜中に育って明日の朝にはかなりの大きさになるのだろう。とすれば夜中に起きてみなければならない。
 懐中電灯を用意しておいて、ベッドにはいった。最近は夜中にトイレに起きることが多い。起きたついでに庭に出てみればいいだろう。
 案の定、夜中にトイレに行きたくなって、時間を見ると二時であった。ちょうどいい時刻である。トイレのあと、懐中電灯を持って庭に出てみた。茸の場所を照らしてみるとあった。茸が大きくなっている。しかし、今までのものの半分ほどの背の高さである。もう少し伸びてからのほうが良さそうである。
 周りを照らしてみた。虫はみあたらない。日が昇る前にもう一度来てみよう。もう一度ベッドにはいった。
 目を覚ましたのは五時ちょっと過ぎであった。庭にでると空が青くなり始めている。それでも懐中電灯が必要で、明かりに照らし出された茸はずいぶん大きくなっている。採っても良さそうだ。かがんで手を伸ばしたときである。丸っこい堅そうな虫が、しょろしょろと走ってくると、あっと言う間に茸の幹にがぶりと噛み付きサクサクと食ってしまった。茸の柄に大きな穴があいた。あわてて採ろうとすると、もうひと噛みしてしまい、また大きな穴があいた。その虫は舌なめずりをした。ようにみえた。そこでやっと茸を採ることができた。虫に負けた想いだった。
 もう虫食い茸になっていた。明らかにあの虫は、食べるところを決めてかみついていた。そこが一番旨いところだろう。しゃくに障る虫だ。つぶしてやると、虫を見ると、顔を洗っている。手を伸ばすと、しょろしょろと逃げてしまった。その際、ばーか、虫にならなきゃ食える分けねえよ、と虫が言っているのが聞こえたのである。
 全くけしからん虫である。ともかく部屋に戻り、書斎のデスクに採った茸を載せると、もう一度ベッドにはいった。
 八時頃だろう。いつものようにベッドから降りた。顔を洗ってから食事の用意をして、書斎に行ってみると、机の上の茸から三匹の虫が逃げていくのがみえた。虫は机から飛び降りると、一目散に床を走って、あいている入り口からでていってしまった。
 デスクの上には喰い荒らされて、ぼろぼろになった茸が、気丈にも立っていた。
 どこからはいってきたのだろう。きっと明け方茸を採ったときに、ついてきたに違いない。油断も隙もない虫達である。
 それにしても、虫達は旨いものをよく知っている。
 ぼろぼろになっていた茸を口に入れてみた。ずいぶん旨い茸である。わざわざ部屋の中まではいりこんできたわけがわかる。庭でじゃまをしなければ、仲間を呼んで宴会を開いたのじゃないだろうか。
 ちょっとばかりしゃくに障ったので、デスクの上の虫の食いかけ茸を全部食べてしまった。
 茸を食べる虫はこんなに旨いものを探すことができるのだ。虫になってみたいものだ。
 このとき初めてそんな気持ちが芽生えた。
 そういえば、虫に変わる話があった。私は小説を読むほうではなかった。子供の頃から理系といわれ、自分も理科が好きだったのだ。だから文学のことはよく知らない。しかし、カフカの変身は知っていた。虫に変わる話だが、きちんと読んだことはない。
 カフカの変身では、どうやって主人公が虫になったのだろう。
 死んだ妻は本が好きで、彼女の本棚には彼女が集めた本がそのままにしてある。
 彼女の使っていた部屋には、今でも大きな本棚二つにきれいな本が並んでいる。彼女が大事にしていた本である。きっといい本に違いないが、当時私は興味を持っていなかったので、どのような本があるか知らなかった。子供たちがいつかほしくなるだろうと思ってそのままにしてある。カフカの本があるのかどうか知らないが、端から見ていった。六段ある本棚二つを見ていくのにかなり時間がかかった。しかしカフカの本はなかった。ただ、変身のロマンというタイトルのアンソロジーがあった。一つの本棚のほとんどは澁澤龍彦という人の本だった。その中の一つである。きっと彼女はこの作家が好きだったに違いない。妻は出版社に勤めていたが、子供ができてからは家庭に入り、もっぱら本を読んでいた。忙しかった私は家の中は彼女にすべて任していたのだ。それが六十を目の前にして突然脳の動脈瘤破裂で亡くなってしまった。
 私は「変身のロマン」をもって書斎に行った。開く前に箱に中の作品名がかかれていたので、みるとカフカがあった。これはいいと思ったのだが、「変身」ではなく、「断食芸人」であった。ちょっとがっかりして、本を戻しにいった。そういえば、寝室にも本棚が一つあって、そのままにしてある。私がいつも寝ているところだが、本を眺めたことはなかった。その本棚には世界文学全集があった。本の背の作者の名前をおっていくとカフカがあった。これなら大丈夫だろう。書斎に持っていって開いた。やっぱり、「変身」もはいっていた。
 こうして、私は久しぶりに小説を読むことになった。
 ページを開くと、驚いたことに、いきなり主人公が虫に変身してしまった。きっと、読んでいけばどうして変身したのか理由がわかるだろう。ところが読み進めていっても、変身した虫に対する周りの反応だけで、とうとう、最後は死んでしまった。ありゃ、これではどうやって虫になったのかわからない。
 ドイツ人が虫をどのようにとらえていたのだろうか。虫は人間より下等と思うのか、嫌われるものなのか、とすれば主人公は人生から脱落して、虫生を生きなければならなくなったということか。しかし、虫になった動機や、理由を知りたい。
 もう一度、澁澤編の「変身のロマン」をもってきた。
 開いてみると、最初に澁澤というひとの「メタモルフォーシス考」と言うエッセーがあった。読んでいくと、動機が分類されていた。神などの罰によるもの、祝いや記念、自分を守ったり、危険を避けるためによるもの、衰弱してそうなものとある。なるほどとうなずけるが、この分類は古典的文学作品から整理したもので、人間の気持ちを分類すると、もっと積極的に変身するものがあってもよいのではないだろうかと思った。何かをしたいと思うので、変身したいというものである。または綺麗な虫なので自分もなりたいとかいう変身である。今、私は美味しい茸をみつけて食べたいので虫になりたいと思っている。そういう範疇に入るのではと思った。
 澁澤龍彦氏がえらんだカフカの変身の話の「断食芸人」では、主人公が何になるのか興味がそそられる。それで、昼食後その本を読むことにした。
 昼は新潟から取り寄せたそばをゆでて食べた。
 その後、ベッドに横になって読みはじめた。いつも食後にちょっと居眠り程度の昼寝をする。その前に本を読んでみよう。なれないことをすると、すぐ寝てしまうかもしれないと思いながら本を開いた。
 「変身のロマン」には上田秋成、泉鏡花など私でも知っている名前が並ぶ。後半に訳されたものがあって、カフカの「断食芸人」はかなり最後のほうだ。
 読み始めたが、なかなか頭に残らない。少しずつ読み直しながら、それでも、寝てしまうことはなく、何とか最後まで読んだ。しかし、期待していたものとはほど遠かった。虫に変わるわけではなかった。ただ、別の観点から行くと面白いと言えば面白い。澁澤氏はただ主人公が虫や植物に変わるという話を選んだのではなく、もっと高度な文学的判断から選んだようである。昔、断食をして、それを興行することで、見せ物として金銭を受け取るという芸人がいたらしい。主人公の芸人は、真っ正直で、四十日までしか行ってはいけないというお上の制度を恨むほど断食をしたい人間なのである。やがてその芸人芸もすたれ、お金を払う見物人がいなくなる。本人は断食しかできないと思い、サーカスに身を売る。檻に入れられ、客の通り道に置かれるが、それも忘れられ、やがて気がついた興行主が、藁の中で断食を続ける主人公を見つける。どのくらい経ったか分からないほどの月日が経ち、やっと生きていた主人公は、なぜ断食をこんなにまで続けるのかと問う興業主に耳打ちをする。「食べたいと思うほど美味いものがない、だから断食をしたんだ」という。その後、その檻には美味しいものをもりもり食べるきれいな虎が入る。そこが変身なのかも知れないが。本人がなにかに変るわけではない。死体になるだけである。
 この話で世の中に美味い物がないから食べたくない、と言う考え方が私とは真逆で面白い。私は美味しい茸を探し、美味しい場所に齧りつくためには虫にならなければならず、なりたい。のである。
 それから本をベッドの脇に置いて、ちょっと寝てしまった。起きたのはもう夕方である。外に出て茸のあったところに行ってみると、また茸の子供が頭を出していた。
 明日には大きくなるだろう。虫に見つかる前に採ることができるだろうか。
 私はビールを飲みながらご飯を食べて、寝てしまった。ビールを飲んだのも茸をとるため早く寝てトイレに起きるためである。

 茸の匂いで目が覚めた。真っ暗なのに寝室がよく見える。ずいぶん広いベッドだと思いながら、ひっくり返ると、床に転がり降りた。いい匂いだ。庭のほうから漂ってくる。あきらかにあの虫食い茸の臭いだ。きっと食べごろになったのだろう。
 あわてて隙間から庭に出た。庭がずいぶん広い、そういえばクローバの葉っぱが目の高さだ。
 自分ははいつくばって歩いている。手が足だ。いや腹のところに何かある。足だ。だけど腹の下の方にも足がある。足が六本になっている。からだの色は真っ黒だ。明らかに虫になっている。懸命に足を動かした。頭に蛇苺の実がぶつかった。茸の臭いがクローバの葉の間に漂っている。だんだん強くなってきた。
 蛇苺の葉陰から薄茶色の茸が見えてきた。まだほかの虫は来ていないようだ。茸の下にきた。見上げるように大きいものだ。
 飛び上がると、茸の柄にかみついた。じゅっと汁が出て、口の中に茸の味が広がった。美味い。茸の下でこの幸福をかみしめていた。もう一度飛び上がった、柄の中程の一番美味そうなところにかみついた。実に美味い。
 だがその余韻にしたっていると、もう茸を食べる気がしなくなった。二咬みで腹が膨れたのだ。腹がくちくなるともう茸に興味がなくなったのだ。これが虫なのか。人間はいくら食べても美味いものを喰いたいと意地汚い。虫は生きるために物を食う。だが、腹一杯になるともう興味がなくなる。
 今度は眠くなった。ベッドに戻ろう。隙間から家に戻ると寝室のベッドにはいあがった。枕の上にのるとぐずぐずとそこにうずくまって寝てしまった。
 どのくらい寝ていたのかわからないが、娘の声で目が覚めた。
 「お父さんどこに行ったのかしら」
 「今まで、いたような雰囲気が残ってます」
 私は目を開けた。娘が警官と寝室にいる。
 「なにも取られていないのですね」
 「はい」
 「いついなくなったことを気づかれたのです」
 「さっきです、いつもはすぐに電話にでるのに、いくらかけても出なかったもので、来てみたらいませんでした。べッドには確かに寝た跡があります、珍しく母の本を読もうとしていたようで、母の本がここにあります」
 ベッドの枕元に「変身のロマン」が置いたままになっていた。
 「最後に会われたのはいつでしょう」
 「三日前です、旅行みやげを持ってちょっと寄りました、そのときは元気に茸などをかじっていました」
 「さらわれた可能性はありますか」
 「そのようなことはないと思います、それに家出などするようなことはないし、旅行用の物もすべて残っています、財布もお金が入ったまま書斎にあります」
 「認知症でもないですね」
 「ええ、まだ医者をやっていました」
 娘がベッドの上の私をみた。
 「虫が入り込んでいる、なにかしらこの虫」
 「これは、よくいるくそ虫です」といいながら、警察官は私をつまみ上げ、窓を開けて庭に放り投げた。
 私はクローバの上に落ちると、仰向けになって、足をばやばやさせたが、なかなかひっくり返ることができない。
 何匹かの蟻がやってきた。
 「うまそうだ」
 蟻が言ったことに気づいた私はぶるっと寒気がした。羽を痛めて土の上に落ちた蝶に、わんさか蟻がたかって、まだ動いている蝶に噛み付いているのを見たことを思い出したからだ。よせよせと声を出してわめいたはずなのだが、蟻はそんなことおかまいなしだ。
 やがて蟻は私の六本足にかみつくと、みな食ってしまった。
 足をもがれた私は涙を流したかった。だけど虫の目にその仕組みはなかった。
 蟻は「見た目ほどうまくねえ」と言って去ってしまった。
 もう私は動くことができない。
 これから、私は死ぬまで断食をしなければならないのである。口の中にあの茸の香りが残っているのが、せめてもの救いであった。
 私は美味しい茸を食べるため、なりたくて虫になった。だけど断食をしなければならなくなった。変身の一つのケースとして、カフカに新しい物語を作ってもらうしかないだろう。
 

虫喰い茸

虫喰い茸

美味しい茸を食べるため虫に変身する男の物語。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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