雨上がり、あの空の向こう側
プロローグ・いつもの朝
紺色のカーテンの隙間から明るい光が差し込んでいる。うっすらと目を開いた頃、一足遅れたスマホのアラームが午前七時を告げだした。その賑やかな電子音をうっとおしく思いながら、俺は寝ぼけまなこをゴシゴシと擦って、ベッドから這い出る。今日もいつもの一日が始まるのだ。
「眠みぃな……」
独り言をこぼして、テレビを朝の番組にチャンネルを合わせてみる。液晶画面の向こう側に映る若い女性アナウンサーが地方の朝市をワザとらしいテンションで紹介していた。
『見てください。この大きなカニを!』
カニだろうがイカだろうがどうでもいい。ぼんやりとした頭でタバコに火を点けた。虚ろな視界に映るテレビには、そのカニだが何だかを水揚げした漁師が現れ、その逞しい姿に目が止まる。髭面でガッシリとした大きな肉体を持った男性が、アナウンサーにおだてられガハハと笑っている。だが、俺の興味は一瞬で消え去り、やっぱりいつもの朝の気だるさに包まれるだけだった。
タバコの白い煙が狭い部屋に広がると、俺はようやくカーテンを開けていないことに気付く。厚手の遮光カーテンを開いてみると、掃除をサボって土埃がこびりついた窓の向こうに灰色の厚い雲が広がっていた。
いつまでもこうしているわけにはいかない。
小さなキッチンにある小さな冷蔵庫から牛乳を取り出しコップに注ぐと一気に飲み干した。のどの乾きが癒されると、コンビニで買った食パンを取り出しトースターで焼く。その間に冷蔵庫の冷たい卵で目玉焼きを作り始める。ジューっと音が鳴り出す頃、俺の脳みそはようやく覚醒するのだ。
テレビから天気予報が流れてきた。
『今日は晴れ間を覗かせる地域もありますが、全国的に梅雨空の一日になるでしょう』
トースターから金属的な音が鳴ると、テレビの音は耳からこぼれ落ちた。
「いただきます」
誰に告げるわけでもない小さな感謝。
何の変哲もないトーストと目玉焼きの朝メシを胃に流し込む。こんな朝をもう何回繰り返しているのだろう。そんなことすら、もう考えることもしなくなっていた。
朝メシを済ませると、寝汗で軽く湿ったTシャツとスエットを脱ぎシャワーを浴びに行く。小さなユニットバスは掃除もそこそこで、今の俺の生活態度を表しているように思える。だからと言って、それを改めるわけでもないのだが。
シャワーから注がれる熱い水しぶきが裸体に当たると、全身にこびりついた眠気が洗い流されていく。俺はボディソープで寝汗を洗い流しながら、下腹部におもむろに手を伸ばしてみた。
「また腹がでてきやがった」
ここ最近、毎晩のように酒を飲み過ぎている自分自身に言い聞かせるように言葉をつぶやいた。
これでも学生時代は柔道をやっていて、柔道に心身共に捧げていたといっても過言ではない。一番熱中していたのは高校の時で、それはもう二十年前の話だ。高校卒業後、大学でも柔道部に入って続けていたが、その頃には何となく惰性になっていた。そうしているうちに、あっという間に二十歳になって三十歳になって、今はもう三十七歳。
あれだけ好きだった柔道への熱も冷め切って、いつの間にかこんな風になってしまっている。
俺はへその下にうっすらと生えた黒い毛をなぞるように下腹部を撫でて、シャワー音の中にため息を忍ばせた。
「……バカバカしい」
シャワーから上がりチャッチャと体を拭くと、幅広のワイシャツに袖を通しネクタイを締める。スーツの上着は袖を通すのが面倒だから、肩に背負ったまま玄関で靴を履いた。
ドアを開けると、もう雨が降り始めていた。玄関に置いてあったビニール傘を手にして、短く切りそろえたソフトモヒカンの頭の上に掲げて歩き出す。その間にも、足元の古びたコンクリートは少しずつ雨の色に染まっていく。
傘の切れ端から顔を上げてみると、遠くにあるビルの谷間に空が見えた。その小さく区切られた空間では雨雲が溶け、輝く光を覗かせている。手を伸ばしても到底届きそうにない距離。でも、あの向こうには間違いなく青い空がある。
それはつまらない景色なのかもしれない。でも、俺にとっては、足を思わず止めずにはいられないものだった。
前にもこんな景色を見たことがあるのだ。
そして、その景色はこれまでもこれからも、きっとどんなに歳をとっても忘れることがないもの。他愛のない日常を繰り返しているこんな俺でも、忘れられない想いがある。
第一章・俺とタケル先輩
二十年前――。
その日、俺は古びた椅子に腰掛けて小さな机に片手で頬杖をつきながら、どんよりと曇った空を眺めていた。
「言わんでも分かると思うが、今度のテストは高二のお前らにとって大事なものだからな。部活もいいが、勉強もしっかりしろよ!」
体育会上がりのガッチリした男性の国語教師が声を上げると、クラスの数人がへーいと、だらしない声を上げた。俺はその声の中に加わることはしない。
「用事のないヤツはさっさと帰れよ」
先生の言葉と同時にチャイムが鳴り、一斉に椅子を動かす音が響き渡る。
俺もその音に紛れて立ち上がると、
「あ、ハヤト。お前は先週の課題に出した作文まだ出してないぞ。今日は残って書いていけよ」
と、剛田先生に指をさされた。
「ええっ!? 明日、持ってきますって!」
俺は唇を尖がらせてみるが、先生は俺の反応を楽しむようにチッチッと舌を鳴らし小指を立てる。
「ダメだ! 提出期限はとっくに過ぎている。今日中に出して帰ること」
そう言うとさっさと教室から出て行ってしまった。
「くそっ!」
俺は手にしたカバンを机の上に投げ出し、椅子に再び座ると両手を後頭部に回し足を組み、天井の蛍光灯に目をやった。
「今日はタケル先輩と手合わせできるはずだったのによぅ!」
俺はガキの頃から柔道一本!
タケル先輩ってのは、柔道部の先輩で、俺より一つ年上の副主将。インターハイ出場経験もある強者なのだ。本当は自分の練習だけでも手一杯のはずなのに、面倒見が良くて俺たち後輩の練習相手になってくれる優しい兄貴みたいな存在だ。今日は俺の相手をしてくれる約束だったのに、あの剛田センセ……いや、あのゴリラめ!
「アキラっ! 剛田にああ言われたら部活にも逃げられねぇな」
「うっせーよ! 早く帰れ、帰れ!」
俺は面白がって帰ろうとする同級生に国語の教科書を投げつけた。空中で失速した教科書はバサリと床に落ち、狙った背中はもう見えなくなっていた。
「あーっ、チクショウ!」
居残りの作文を放り出して部活に行くことはできない。なぜなら、あのゴリラは柔道部の顧問でもあるのだ。
何とかサボれないかな?
ふと廊下に目をやると、すでに教室を出て行ったはずのゴリラ、いや剛田先生が廊下からニカッとした表情でこちらを見つめていた。
「あ……」
俺はそれに気付くと、アホ面で口を半開きにして小さく声を上げた。
「おらぁ、ハヤト! 教科書を投げるとは何事だ! さっさと作文書けぃ!」
先生は学校近くの売店で売っている海苔弁当の海苔のような太い眉を吊り上げ野太い声を上げた。
「は、はぃぃぃ!」
そんな鋭い視線から逃げるように、俺はすぐさま机に向かって作文を書き始めた。
結局、課題の居残りが終わったのは、とっくに日も暮れて校門が閉まる時間だった。
「あー、散々な一日だぜ……」
俺は昇降口で腰を下ろして靴の紐を結びながら、思わず独り言をこぼした。
「そんな日もあるさ」
頭の上から聞こえてくる少し低くて温かみのある声。目の前には泥だらけの大きな白いスニーカーを履いた足。わざわざ顔を上げて確かめなくても、声の主が誰なのかすぐに分かっていた。
「タケル先輩、今帰りすか?」
俺は緩みそうな口元に軽く力を込めながら、平静を装って顔を上げる。
「ああ、格技場の掃除に時間がかかってな」
「じゃ、じゃあ、一緒に駅まで行かないっすか!」
俺の声は思わず上ずってしまった。
「ああ、行こう」
タケル先輩は逆ハの字の太い眉を緩ませて、そう答えてくれた。
昇降口を出ると雨が降り出していた。既に、窪んでいる部分には水溜りができている。サーッと音を立てて落ちる雨に、俺は軽く舌打ちをして頭を軽くかいた。
「俺、傘ないんすよね。雨が止むの待つんで、先輩は先に……」
俺が言い切らないうちに、
「入っていくか?」
と、隣に立つ先輩は紺色の傘を開き、右半分を俺の頭上に掲げてくれた。
「い、いや。んなことしたら先輩の体が濡れちゃうから」
「そんなこと心配するなって。それに当分止まないぞ、この雨」
そこまで言うと先輩は一足先に歩き始める。俺は無言でその後を追いかけた。
傘は先輩の九十キロ級の肉体もすっぽりと覆うような代物だが、肩幅のある俺が隣に入ってしまうと先輩も濡れてしまう部分が出てくる。だから、俺はさり気無く傘の外側に遠慮気味に身を放していた。
「おい、そんなに離れたら濡れるぞ。もっとこっち来いって」
先輩は肉厚の手でグイっと俺の右肩を引き寄せるものだから、俺の左肩と先輩の右肩が密着する形になってしまった。
「す、すんません」
俺は小さく頭を下げた。その言葉に、先輩は何も言わず、いつも強い意志を感じさせる大きな瞳をただ微笑ませていた。
湿度が高く、蒸し暑い。厚い雲に覆われた天井から無数の糸が降り注ぎ、地面で楽しそうに飛び跳ねている。この傘の中は周囲から隔絶された世界。周りの雑音は全て雨音にかき消されているようだった。
「部活以外で先輩と一緒になるのって初っすね」
「ああ、そうだな」
先輩は歩く方向に目をやりながら、笑顔を浮かべている。
「先輩は今年もインハイ行くんすよね。三年だからついに全国優勝っすね!」
「おいおい、まだ県予選前だぞ。去年は運もあってインハイに出れたところもあるんだ。今年はどうなるか分からないな」
「えーっ!? 先輩なら大丈夫っすよ。天地がひっくり返っても先輩は負けないって。俺が保障するっす」
俺は軽口を叩くけど、お世辞は言わない。この先輩がどれだけ努力を重ねているか、知っているから。
「……お前、どっからその自信は沸いてくるんだ」
先輩はうっすらと頬を赤く染め、大きなキリッとした目元を緩ませて、苦笑いを浮かべていた。
「間違いないっす。大丈夫っす」
雨音を聞きながら、俺はチラチラと気付かれないように先輩の表情を見て楽しむ。だが、それ以上話が続かないので話題を変えた。
「でも、あれっすよね」
「ん? 何だ?」
「格技場の掃除なんか、後輩にやらせればいいじゃないすか。先輩は練習に専念すればいいのに」
何気ない一言だったが、先輩は眉間にしわを寄せて口をへの字に曲げた。俺のことを一瞬だけ見て目が合うと、また歩いている方向に視線を戻した。
「武道の『心技体』って聞いたことあんだろ?」
「もちろん。心と技と体ってことすよね」
「じゃあ、何で『心』が一番最初に来るか、知ってるか?」
「……さぁ?」
とぼけた俺の返事に、先輩はバカにするわけでもなく、一つうなずいて教えてくれた。
「心がまず出来ていなければ何も大成しないってことだ。掃除をすることは、ただその場所をきれいにするだけではない。掃除をしながら、自分を見つめ直したり、好きなことができる感謝の気持ちを心に刻むことでもあるんだ」
「……」
俺の中に少しだけ対抗心が生まれた。俺だって柔道は大好きだ。先輩のように強くなりたくて仕方ない。その為にはひたすら練習して技を磨き、体を作っていけばいいと、ただ単純に思っていた。
「どうした……?」
先輩は俺の顔を覗き込んでくる。気が付けば、俺も自分の表情が険しくなっていた。
「あ、すんません。……さすが、先輩っすね!」
俺は慌てて笑顔を作った。
この雨は止みそうにない。俺たちが踏み切りまでやってくると、カンカンと信号が鳴り遮断機が下りてきた。
「お、気を付けろよ」
先輩の言葉に、もう一歩踏み出そうとした右足が止まる。足元を見ると、そこには大きな水溜りができていた。
――カンカン、カンカン。
電車は上りと下りの両方から来るようだ。信号音がけたたましく鳴る中で、いつの間にか交わす言葉を失っていた。
「……長いな」
ポツリとつぶやく先輩の言葉に合わせて、俺は水溜りをもう一度眺めた。
コンクリート上にある冷たい鏡は一つの傘に寄り添うように並ぶタケル先輩と俺の姿が映し出されている。一つ年上の部活の先輩は体の大きさもそうだが、俺にとっては何だかずっと年上のように感じて、自分のことが急に恥ずかしくなってしまった。
上りと下りの電車が同時に音を立てて雨の中を走り去る。しばらくして信号音が止み踏切が開くと、車道で停止していた車が動き出した。
「ありがとうございました。もう駅近いので行きます」
そう言い切ったか言い切らないうちに、俺はまだ降りしきる雨の中へ飛び出した。
「お、おい、ハヤト!」
背後から先輩の声が聞こえたが、その声は車道を走るタイヤの群れにかき消された。
その日の夜、俺は珍しく自分の部屋の勉強机に向かっていた。だが、三十分もしないうちに手元の教科書は別世界の古文書のように見え、手にしたシャーペンは真っ白なノートにグルグルと渦巻きを書き続ける道具になった。
部屋の壁に掛けておいた濡れた制服に目をやってみる。先輩と別れた踏み切りは駅までそこそこ距離があった。だから傘のない状態では、どんなに早く走ってもしっかりと制服は濡れてしまうのだ。
家に帰って、すぐに濡れた制服をハンガーに掛けた。だが、まだ完全には乾いていなかった。
「もし先輩と会ってなかったら、今頃、何してるんだろうな?」
役立たずのシャーペンを放り出し、椅子の上から天井を見つめた。もしタケル先輩がこの世に居なかったら、俺も当然のように存在しないとさえ思う。小学生から親に習わされた柔道は中学の部活でそこそこの成績を収め、高校も推薦で入学できた。もちろん高校の柔道はレベルも高くて、インターハイや春高といった全国的な大会も多い。でも、今の俺にとっては柔道と同じくらいに、先輩であるタケル先輩と同じ時間を過ごせることに喜びを見出している。
天井を見上げていた額をノートの上に落とし、緩いピントで制服をもう一度眺めた。
先輩の手に触れてみたい。それは練習とか、そういったことではなくて、素の状態で先輩の温度を感じてみたいのだ。もし、先輩に呼吸を感じる距離まで近づくことができたなら、俺はその空気の密度に窒息するかもしれない。
「ああ、バカバカしい……」
軽いため息と共に虚しく言葉を吐き出すと、机から離れベッドに身を放り投げた。
天井から吊るされた蛍光灯の光が目に刺し込んでくる。俺はその白色灯の明るさに目を細めながら、熱で膨れ上がった自分の股間に右手を伸ばしていた。
去年の合宿で、俺はタケル先輩と同じ風呂に入ったことがある。合宿先の道場の掃除が終わらず一年の入浴時間を逃した俺は、顧問の指示で次に入る二年の先輩たちに混じって風呂に入った。洗い場で他の先輩と笑いながら話しているタケル先輩は、緊張でコソコソと風呂場へ入ってきた俺に声を掛けてくれた。
「おう、ごくろうさん。ここ空いてるぞ」
タケル先輩は左脇の腰かけ椅子を進めてくれた。
「あ、ありがとうございます……」
俺は自分の体を洗いながら、横目でチラチラと先輩を見た。その先輩のガタイが忘れられない。筋肉が盛られた重量級選手らしい大きな肉体は他の先輩たちと比べても抜きん出ていた。
オナニーを始めようとする俺の視界から天井の光が薄れ、代わりに憧れの先輩が目の前に現れた。想像の先輩は丸太のような腕で俺をギュッと抱きしめてくれる。俺は先輩の太くガッシリとした首に腕を回しキスをせがんだ。
「ハヤトは甘えん坊だなぁ」
いつもの声が耳に届き、先輩の唇が俺の唇と重なった。それはゆっくりと甘い。俺は唇の谷間から舌を突き出し先輩の中に入ろうとする。それに答えるように、先輩は舌先を重ね合わせ粘膜をゆっくりと絡めてくれる。
俺はディープキスをしながら、先輩の体をなで回す。三角筋が発達し丸く盛り上がった肩や、ベンチプレスで鍛えられた大胸筋の感触を楽しんでみる。その間に、先輩の肉厚の手が俺の恥ずかしい部分に伸びていく。
「お前のココ、もうガチガチじゃねぇか」
「ああっ、ダメッ! タケル先輩」
俺は勃起したチンポをガッシリと握られて、顔を硬直させた。先輩は俺の股間を揉んだり、サオの形をなぞる様に擦って、恥らう俺の表情を楽しむようにしている。
そんな想像を一人で膨らませていると、もう我慢できなくなってくる。俺は一人、ベッドの上でスエットと黒いボクターパンツを膝まで下ろし、ブルンと飛び出したサオを握りしごき始めた。
「気持ちいいか?」
「ううぅ、さ、最高っす。せ、先輩のも触っていいすか?」
「おう、触ってくれよ」
スクワットで引き締まった先輩のケツに伸ばしていた両手を、俺は恐る恐る前の方に移動させてみる。
だらんとぶら下がった先輩のチンポと玉袋。その肉の熱を感じていると、手中のチンポがムクムクと起き上がる。先輩の肉体は体毛がほとんど無いのに、へそから下の陰毛は黒々としていて、それが妙に大人の男臭さを感じた。
「ああ……、いいぞ。もっと触ってくれよ」
先輩が吐息混じりに答えてくれるので、俺は勃起したサオを握る手に力が入る。
想像の中で先輩のチンポをしごく右手は、実際には自分のチンポをしごいてオナニーをしている。ジワジワと上がってくる快感に、性的に感じている嫌らしい先輩の顔を思い描いた。
「ハヤト、チンポしごくの上手いな。ああ、俺……出ちまいそうだ」
「せ、先輩、俺も最高っす。出していいすか……?」
「ああ、一緒に出そうぜ!」
「あーっ! イクッ、イクッ!」
目の前が一瞬真っ白になり、身体かフッっと軽くなったような気がした。次に目に映ったのは、いつもの自分の部屋にある白い天井だった。顔を起こしてみると、この部屋にはタケル先輩がいるはずもなく、代わりに自分のチンポから噴き出た大量のザーメンで汚れた腹があるだけだった。
「……」
俺は無言でティッシュを使って体を拭いていく。今日はずいぶんと飛んだらしく、胸の上の方にまで白いものがこびりついていた。
丸めた大きなティッシュの塊をゴミ箱に放り投げると、さっさとスエットを引き上げ枕に再び頭を投げ出した。一つ大きなため息を吐き出す。一瞬タケル先輩の裸体が瞳に浮かんできた気がしたが、すぐにそれは消えた。
「バカバカしい……」
もう一度、独り言をこぼすと、枕元にあったマンガ雑誌に手を伸ばした。
第二章・柔の道
五月、ゴールデンウィークに毎年恒例で実施される柔道部合宿が今年も始まった。六月初旬のインターハイ県予選に向けて、レギュラーを中心に実力強化に励むのだ。
朝五時――。
顧問のゴリラ、いや剛田先生が、やかましいホイッスルを山間の合宿所に響かせる。
――ピーッ! ピーッッッ!
「寝ボ助ども、起きろー!」
嬉しそうな先生の声に、俺を含めた同室の連中がノソノソと起き始める。俺は大あくびをしながら、トレーニング用のTシャツとハーパンに着替えた。
外はヒンヤリとしていて肌寒い。俺と同じように両手で自分の腕を覆いながら部員全員が集合する。
「おーし。寝ぼけた身体を叩き起こすには早朝ランニングが一番だ! 走った後の朝飯はうめーぞ!」
「うーっす」
低い掛け声と共に、主将が先頭になって部員全員が朝の空気に身を投じていく。その後ろには巨大な黄色のメガホンを持って自転車に乗った顧問が発破をかけてくる。
合宿自体は部員全員の実力強化を目的としているので、実力の有無や先輩後輩に関係なく、全員が練習に参加をする。レギュラーも補欠もヒラも基本的な練習内容は一緒で、レギュラーは剛田師範による集中練習を受けるが、その反面、後輩たちへの指導役も担っている。
俺は先を行くタケル先輩にダッシュで追いつくと声をかけた。
「タケル先輩、うっす。午後の乱取り、俺にも稽古付けてくださいよ!」
「おう、いいぜ。ガチで相手してやっからな。覚悟しとけよ」
先輩は強い眼差しで俺に視線を向けると、軽く口元を緩ませた。
「あざーっす!」
俺はこんな先輩とのこんなやり取り一つで、かったるいランニングも全力で取り組みたくなる。
二キロほど走った頃、最後尾のメガホンが声を上げる。
「おーし、次の角を右へ曲がれーっ! 千源寺の千本階段、登るぞーっ!」
「うーっす」
千本階段とは、寺の名物でこの辺りでは観光名所でもあるらしい。名前の通り千段ある石造りの階段で、登りきった寺の境内で折り返しとなり休憩をもらえる。
普段なら静けさに包まれる時間帯なのかもしれないが、いくつもの足音が山寺の境内に向けて響き渡る。タケル先輩は足に多少なりとも自身のある部員達の集団に混じり、息を切らすこともなく黙々と階段を駆け上がっていった。
「ハァ、ハァ、ハァッ……」
俺は半分くらいで息が上がってしまい、自然とペースが落ちていった。その間に先輩の姿がどんどん小さくなっていくのが悔しい。
「全員登ったな。よし、小休憩ーっ!」
小さな境内の中で、半数以上の部員が息を絶え絶えにして地面に膝を付いたり、寝転んだりしている。俺もその中の一人であるが、額の汗を拭いながら細めでタケル先輩を探すと、先輩は涼しい顔をして同じ三年の部員と談笑していた。
「休憩終わりーっ! お前ら、帰るぞ!」
メガホンが吠えると、今度は来た道を戻って合宿所へ戻るのだ。
朝一番のランニングを終えて、合宿所で朝飯を食べながらミーティングを行う。その後、十分なストレッチを行い、ウェイトトレーニングに入る。上半身では背中や肩、上腕三頭筋を中心に鍛えていくが、特に柔道上達のためには背筋を強化することで、相手を引き付け力強い技を繰り出せると言われている。
「おっ、スクワットやるのか? 俺が補助に付いてやるよ」
指導役としてトレーニングルームを巡回していたタケル先輩が俺に声を掛けてくれた。
「うっす。タケル先輩、お願いします」
足腰の筋力強化も柔道にとっては大切で、下半身を鍛えることで瞬発的な力を養うことができる。
王道はこのバーベルスクワットで、自分で扱える最高重量の七割から八割程度のウェイトでトレーニングするのが効果的だという。一セット五回、それを五セットこなすので負荷は軽そうにみえるが、真剣にやればなかなかハードなものだ。後半の四セット目あたりからは怪我の危険性も出てくる。だから、必ずバーベル系の筋トレには補助に付いてもらうことになっている。
俺が腰痛防止のベルトを締めて、いざバーベルを肩に乗せようとした時に、背後から山川主将の声がかかった。
「タケル、剛田先生が呼んでるぞ。そいつの補助は俺が代わってやるよ」
「おう、分かった。じゃ、行ってくるわ」
「あ、先輩……」
俺は思わずか細い声を上げてしまったが、それは主将の野太い声にかき消された。
「うぉっしゃ! スクワット、お前の腰が砕けるまで相手してやるぜっ!」
暑苦しい本末転倒なセリフに、思わず真顔で言葉を返す。
「主将、それじゃ意味がないっす」
「グダグダ言うな。さっさと始めろやっ!」
スクワットの補助役はトレーニーの背後にぴったりと張り付き、トレーニーの動作に合わせて腰の上げ下げを共にする。つまりは、俺のケツに補助役の股間が密着するような姿になるわけなのだが、主将は百キロ超級のガタイで筋肉も脂肪も多いガチデブ体型なのだ。だから主将の太鼓腹が俺の背中にピッタリと張り付いてくる。しかも、俺が膝を曲げ、腰を降ろすと、背後の主将との密着度はますます高まり、耳元には荒々しい呼吸音が聞こえてくる。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
主将の熱い息遣いが、バーベルを担いでいる俺の耳にねっとり伝わる。背中には密着した主将の腹から吹き出る汗がジンワリと感じてしまう。そんな状態で集中力が切れそうになるが、ここで崩れたら本当に怪我をするかもしれない。
最後の一回。俺はギリギリの体力を使って腰を上げると、バーベルをラックの上に掛けた。
「おーし、よく頑張ったな! これでお前もオリンピックで金メダルだな。ウェイトリフティングの!」
主将の下らない冗談は聞き流すとして、五セットを終えると、息が上がってしまう。
「あ、ありがとうございます……」
俺は自分の汗を拭いながら主将の顔を見ると、俺以上に額にダラダラと汗をかいていた。
「おう、また一緒にやろうぜっ。ハハハッ!」
味付け海苔のような太い眉を上げ大きな目と口をさらに広げて笑っている。この人も、タケル先輩同様に後輩の面倒見は良いのだが、暑苦しいのが欠点である。いわゆる汗臭い柔道部員の典型だと思う。
昼食の後は部員全員が道着に着替えて、柔道らしい練習が始まった。
ちなみに道着の下はパンツを履かないのがうちの部の伝統だったりする。下着を着けていてもルール違反になるわけではないが、慣れればフルチンの方が楽に動ける。中学までは下着を着用していた俺も、高校に入ってからはフルチン派になった。もちろん、最初の頃は着替えの度にハズいと思っていたが、部員の誰もが着換える時にマッパになるのだからすぐに気にならなくなった。
柔道には様々な練習方法があるが、基礎練習としてウチの部でも『受け身』を重視している。畳敷きの道場に響き渡る受け身の音は、その場の雰囲気を一転させ武道の凛とした空気を運んでくる。
――バンッ! バンッ!
受け身やすり足などの基本的な鍛錬が終わる頃には、部員全員が武道家のツラ構えになる。誰もが強くなりたいと思うのは一緒のことで、剛田師範の激を受けながら一つひとつの練習を真面目に取り組んでいるのだ。
「打ち込み、始めっ!」
道場に響く合図と同時に、二人一組で技をかける練習が始まった。俺は同期のヤツと組み、大外刈の打ち込みに取り掛かる。この技は相手の外側から足を大きく刈って投げる足技の一つで、俺が得意とするものでもある。
相手の片胸に進み寄り、相手の重心を片足に集中させ体勢を崩す。その隙に相手の真横に足を踏み込み、刈る足のつま先を意識して大きく蹴り上げる。ここまでの技をかける直前までの動作を何度も繰り返すのが打ち込みという練習だ。
打ち込みが終わると、いよいよ乱取りが始まる。乱取りはより実践に近い練習だ。
「タケル先輩、胸貸して下さいっ!」
「おう、来たな。フルボッコにしてやっからな」
先輩は余裕の貫禄で胸を広げてくれる。
俺と先輩は互いの道着の襟と袖をつかみ、相四つの状態を作る。
先手必勝!
俺はすぐに得意の大外刈をかけようとするが、先輩はとっさに前かがみになって防御の姿勢を作り出した。このまま大外刈をかけようとすれば、逆に自分の足を先輩に刈られてしまう。
相手の体勢を崩すことが技かけの第一歩。自分が半回転するように体を動かしながら、タケル先輩の肢体を引き込もうとするが、二十キロ近く体重差のある相手を動かし、重心をこちらの有利に動かすのは容易ではない。
「どうした。もう終わりか?」
耳元でささやきながらニヤける先輩に、俺は強い視線で睨み返した。
「まだまだぁ!」
一度組み手を外し、襟をつかむ釣り手と袖をつかむ引き手がぶつかり合うケンカ四つの状態で再び組みなおす。俺はここから体勢を作り直そうとしたが、今度はタケル先輩が先に動き出した。
「あっ!」
釣り手の上に覆い被さった先輩の肘が大きく曲がり、俺の片腕がロックされてしまった。一瞬の動きに戸惑う俺をよそに、先輩が足を小さく回転させると、その反動で俺の体が引っ張られる。不安定になった足元に先輩の左足が伸び、斜めに回転するように俺自身が宙に浮いた。これは体落だ!
――バシン!
畳に打ち付けられた俺は、悔しくて仕方なかった。ああーっ、と声を上げようとしたが、その口は中途半端に止まってしまう。畳の上から見上げた先輩の横帯が緩み道着の襟が大きくはだけているからだ。その開かれた素肌には大胸筋が発達した逞しい胸と、ムッチリとした腹があり、その肌にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「おい、大丈夫か? 頭打ったのか?」
タケル先輩の呼びかけに反応が遅れたのは、やっぱり練習中によこしまなことを考えているからなのか。
「……大丈夫っす」
「じゃあ、さっさと立て。どんどんやるぞ!」
「うっす!」
俺は雑念を振り払い、再び先輩に挑んでいった。
第三章・山川主将の寝技
合宿中は夕方まで稽古詰めとなり、練習が終わると夕メシを食い風呂に入る。その後は剛田先生の方針で勉強時間となるのだ。
「我が校は文武両道! 柔道ばっかり強くなっても人間として大成せんからな。学生としての本分も忘れてはならん」
先生は国語教師であるにも関わらず英語や数学の受験指導までしてくれる。去年三年だった先輩も十月の国体まで部活を続けていたが難関大学に一般受験で合格したのだ。
「あー、分かんねぇ」
俺はボソリと言葉を漏らし、手にしたシャーペンを問題集の上に放り投げた。離れたテーブルに座って勉強するタケル先輩に目をやると、先輩は黙々と手元を動かしている。その様子をジッと見つめていると、自分の手の動きなんて動くわけがない。
「ホレ、集中せんか!」
剛田先生は手にした教科書で、パコンと俺の頭を叩いた。
勉強時間が終わると、就寝までは自由になる。一日中、黙々と練習に励んだ部員たちも、ここからは普通の高校生になる。
「おーっし、花火しようぜ! 花火!」
「お前、この時期にそんなの持ってきたのか。スゲーなっ!」
「体育館でバスケやんぞ。去年の雪辱晴らさずにおけるか!」
「おう、行こうぜーっ!」
短い時間を惜しむように、花火組は外へ、バスケ組は体育館へ向かって行った。他の連中も思い思いに好きな時間を過ごしているようだ。
俺はタケル先輩の姿を探した。一緒に合宿ができるのは今年が最後なわけで、少しでも先輩と一緒に居たかった。だが、先輩の姿はどこにも見当たらず、俺は見つからないとなると半分ヤケになってあちこち探し回った。
宿舎の入口脇にはソファーとテレビが置かれており、ちょとした談話コーナーになっている。そこに山川首相が一人、腕組をしながらテレビを見ていた。
「主将、タケル先輩知らないっすか?」
「いや、知らん」
短く答えた主将はデカい丸顔をこっちに向けて、俺のことをジッと見つめてきた。
「な、何すか……?」
「お前、ヒマか?」
「……はい」
何となくイエスと答えざる終えない雰囲気だった。
「ちょっと付き合ってくれ。……あ、道着を着て道場まで来いよ」
機嫌の悪そうな低い声でそう言うと、主将はその場を離れていった。
言われたとおり着替えた俺は、主将が待っているはずの道場に向かった。だが、宿舎から道場に向けて伸びる渡り廊下から見る限り、道場の窓は真っ暗で灯りが点いていない。不思議に思いながらも、入り口に立ち思い引き戸をゆっくりと開けてみた。
「主将……?」
俺は潜めるような声で呼びかけると、
「おう、こっちだ」
野太い声で返事があった。
畳の中央が窓から差し込む月明かりでぼんやりと照らされ、そこに黒帯の主将が腕組をしながら、正座で静かに俺を待っていた。いつものおどけた暑苦しい雰囲気はなく、まるで試合前に瞑想をしているような姿に、俺は緊張で張り詰めた空気を感じてしまう。
「すんません。遅くなりました」
「いや、俺の方こそ悪いな」
「どうしたんすか?」
主将は少し黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……あのよ。寝技の練習に付き合ってくれないか?」
「え……、それって今じゃないとダメなんすか?」
「どうしてもやっておきたいんだ。お前みたいな体格のヤツを相手にしたいんだ!」
主将は暗がりでも分かるくらいに俺を強く睨み付けて、放そうとしない。
「わ、分かったっす。練習なら電気を点けましょう」
主将はこんな切迫キャラだったかと思いつつも、俺はしぶしぶ同意した。
「いや、このままがいい。こんな時間に練習してるのバレたら師範にどやされるからな」
そう言って、主将は立ち上がり準備運動を始める。俺は怒られるならやりたくないと言いかけたが、もうそんなことを言える雰囲気ではなかった。
重い足取りで主将が待つ畳の中央まで行き、
「俺が守りっすか?」
と、意味のない確認をした。
「ああ。四方固の縦・横・上の順で付き合ってくれ」
その返事に、俺はやっぱり嫌だと思った。
四方固は寝技の中でも密着度が高く、見方を変えれば妙な絡み手とも言える。俺なんか主将の巨漢では到底技から逃げるのは難しいのに、なぜ主将は俺のような体格を練習相手にしたいのか、理解が追いつかない。だが、ここまで来ては逃げ場もないので俺は言われるまま、畳の上に仰向けに寝た。
「じゃ、いくぞ」
「うっす」
主将は仰向けになった俺の帯下付近に馬乗りになり、ケツを降ろすと、首下に片腕を通してくる。さらに、主将のもう片方の腕で俺の首が完全に自由を奪われると、守り手の顔の方向とは反対方向に攻め手の顔が向くのだが、主将は俺の向いている方に顔を寄せてきた。
「しゅ、主将。顔の向きが……」
「いいんだ! 俺はこの方がやりやすい」
俺の顔面に数センチまで接近した主将の顔。それ以上近付かれると唇が重なってしまいそうな距離だった。俺は目を逸らしてみるが、間近に迫った主将の鼻や口からフーッフーッっと、野生的な呼吸音が耳に届いてくる。
「……んっ!」
俺は両目をつぶりながら、つい悶えるような声を上げてしまった。
首に回されていたはずの主将の腕は、いつの間にか俺の肩甲骨付近まで下がり、ギュッと力を入れられる。それはなんだか抱きしめられているような感覚がした。それに、帯下の動きがなんだか妙な感じがする。分かりやすく言えば、俺の股間に主将の股間がグリグリと押し付けられているような。その間、俺も技から逃れようとしたが、全く持って力が敵わなかった。
「おし、次は横で頼む」
技が解かれると、急に体が軽くなった。
「うっす」
俺は一度起き上がり、妙な寝技で乱れた襟元を正そうとしたが、主将は急にドンと、俺を両手で押し倒してきた。
「わぁ!」
体を倒された俺が驚きの声を上げても、主将は何も動じない。畳に倒された俺の肢体に、攻め手である主将が真横に陣取る。次に、俺の首を片腕で制し、残った腕が俺の股間下付近の道着をつかむ……はずだが、主将はさらに奥深くに手を滑り込ませてきた。
「えっ? ちょ、ちょっと……」
ケツの谷間の奥に主将の中指が当たっている。
「うるさい! これが俺のスタイルなんだよ」
俺はその迫力ある口調に圧倒されていると、主将は何かを探るように俺のケツに回した手の指をクリクリと動かし始める。
「くぁ! ちょ、やめ……」
独特過ぎる主将の寝技に、俺は本能的に防衛反応が働いた。両足の膝を立てながら足を宙に浮かせて、その勢いで逃れようとした。だが、主将は空気に舞う俺の両足が大股開きになる瞬間を見逃さず、俺の股間を手のひらいっぱいに握り閉める。
「しゅ、主将。それ、禁じ手!」
「……」
俺の叫び声に主将は何も答えてくれない。股間を包んでいた主将の手のひらは、俺のサオやタマの形を確認するように揉んでくる。俺は焦った。ただでさえ道着の下はパンツを履いていないわけで、まして合宿中にオナニーなどできるわけもなく、俺の股間は素直に反応してしまった。
「あっ……んっ」
つい、女みたいな声が出てしまった。だが、主将は俺の反応に気付いていないのか、俺の股間に伸びた手をどかそうとはしない。それどころか、半勃ち状態のサオの形をなぞるようにさすってみたり、タマを揉みながら中指を立ててケツの穴を弄ったり、明らかに違和感のある動きを執拗に続けてくる。
「しゅ、主将。もう、やめ・・・」
俺はジタバタと抵抗しながら声を上げるが、俺の首を制するために接近していた主将の顔は、俺のことを空虚な目で見つめるだけで、無機質な恐怖を感じた。
「おし、最後に上を頼む」
急に俺を押さえつける力が弱まり、主将は平然とした口調で立ち上がった。
「主将、すんません。俺、今日は調子悪いみたいで……」
これ以上の相手はできない。俺はフル勃起させられたチンポを隠すように両手を前にして頭を下げた。
「まだまだーぁ!」
主将が再び険しい表情で声を張り上げると、俺はまた畳の上に突き倒された。
「やっ、もう無理っす!」
弱弱しく抵抗の声を上げるしかできない俺に、主将は容赦なく襲い掛かっていた。
上四方固。これはすごく分かりやすく言えば、シックスナインのような形で組み合う寝技だ。本来、柔道の技では相手の股間部分には十分注意しなくてはならないのだが、男女混合の試合で上四方をかけた男が、どさくさに紛れて女のアソコをクンニしたとかいう話を聞いたことがある。
俺は今まさに、それと同じようなことを主将にされている。
「主将、もうそれ寝技じゃないっす! 止めて下さい!」
押し倒された俺の股間に主将は顔を埋めてきて、俺の顔面は主将の蒸れてすえた臭いのするそれで押しつぶされていた。
「や、やめっ…・・・てっ!」
俺の唇には道着越しに主将の硬くなったチンポのゴリゴリとした感触が伝わってくる。一方、俺もさっきまで散々弄られ刺激されたチンポに、主将の熱い吐息を感じてしまう。
「見せろ!」
主将は俺の下衣を脱がしにかかってきた。俺は必死に抵抗しようにも、百キロ超級の先輩に体の自由を奪われ思い通りに体を動かすことができない。他人に弄ばれる屈辱で悔しくて目頭に熱いものを感じてしまった。
その時だった。
「おらぁ! 山川、何やってんだ!」
俺は涙で歪んだ視界を声のする方向にスライドした。
「タケル……せんぱい……?」
道場の入り口で仁王立ちする男の姿を見て、俺は緊張の糸が切れていった。
「タ、タケルっ! お前、何でここに!」
俺の身体に圧し掛かっていた重しが外れ、急に体が軽くなる。俺はすぐに自分の下半身を確認したが、下衣はへそ下まで肌蹴ている程度でチンポまでは晒されていなかった。
俺はすぐに立ち上がって、乱れた道着を正した。
「お前は嫌がる後輩にそんなことを! 剛田師範に全て報告しないといかんな!」
タケル先輩はこれまで見たこともないような怖い表情で、山川主将に詰め寄っていた。
「悪い、俺が悪かった! もうしないから。堪忍してくれ!」
主将は慌てて道場から飛び出していった。
急に静かになった。月の光は相変わらず明るくて、青白い光に畳が照らされている。俺は変なところを見られたと、急に恥ずかしくなり、頬にさっきまでとは違った熱を感じた。
「ハヤト、大丈夫か?」
タケル先輩は心配そうに優しい口調で声をかけてくれる。
「大丈夫……です」
俺は先輩を正面から見ることができなくて、明後日の方向に顔を背けた。
「山川には俺からよく言っておく。もう二度とお前にあんなことしないように、俺も注意して見ているから」
「……なんか、すんません」
タケル先輩が悪いわけでもないのに、俺が悪いわけでもないのに、何だかケンカしたような嫌な空気だった。それでも先輩に心配をかけてしまったことは間違いなくて、俺はそれが嫌だった。
「俺、もう寝ます」
呟くように小さな声を吐き出し、俺はその場から走り去った。
その夜は眠れなかった。山川主将にされたことよりも、タケル先輩にあんなところを見られたことが恥ずかしくて仕方なかった。仮にあのまま主将の思うがままにされたとしても、先輩に見られるよりはずっとましだった。俺は悔しくて涙を流さずにはいられなかった。
第四章・夜の散歩、永遠に続く時間
五月の連休を利用した合宿は滞りなく進み、ついに最後の夜を迎えた。最後の夕飯は打ち上げを兼ねて野外でバーベキューを行うのだ。
「肉、うめーっ!」
「もっと俺にも肉くれよ!」
「おいおい、お前ら野菜も食べろよ」
ハードな合宿を最後までやり遂げたご褒美だと、剛田師範が肉や野菜を焼いて部員たちに振舞ってくれる。俺は同期の連中と一緒に、思う存分に肉を食べ空腹を満たしていった。
楽しみはあっと言う間に過ぎていく。
「じゃあ、そろそろ終わりにしまーす。片付け班、よろしくー」
企画係の先輩が号令をかけると、部員たちは名残惜しそうにうーっすと、返事をした。俺は片付け班のメンバーなので、その場に残ってバーベキューの後始末を始めた。
「これで終わりか? そっちはー?」
「おう、終わりだー」
「じゃあ、ゴミ集めるぞー」
いくつかのゴミ袋を一ヶ所に集めて片付け班も解散となった。既に、他の部員たちは宿舎に入り自分の部屋に戻ったりしている頃だ。周囲には静かに虫の声が鳴り、ひんやりとした空気が立ち込める。さっきここで繰り広げられた大騒ぎがまるで嘘のように消えてしまっていた。
俺は集めたゴミを集積場まで持っていく役を引き受けた。
「おし、終わり」
名残惜しい気分に一区切りをつけるようにして、宿舎へ戻ることにした。離れたゴミ捨て場の帰り道から宿舎が見えてきた時、玄関からタケル先輩が出てくるのが見えた。ベンチコートを着た先輩は周囲を警戒するようにキョロキョロと振り返りながら合宿所の敷地から出て行こうとするではないか。
俺はとっさにその後を追っていった。
「タケル先輩、どこ行くんすか?」
「おっ、ハヤトかぁ。見つかっちまったな」
先輩は俺の顔を見ると少しばつが悪そうな顔をした。
「ちょっと散歩だ。面白くねぇけど、お前も行くか?」
「行く、行くっす」
先輩が誘ってくれたことが嬉しくて、俺は思わずはしゃいでしまった。
「どこまで行くんすか?」
「ん? 来れば分かるよ」
先輩のあっけらかんとした口調に、俺は黙って後を付いていった。
夜道をしばらく歩いて、たどり着いた場所は千源寺だった。早朝ランニングで駆け上がってきた石段の先は真っ暗で、何が待っているのか不安にならないでもない。
「上まで行くぞ」
タケル先輩はそう言って、千本階段を登っていく。
「あ、うっす」
俺もその後に続いた。
「上に何かあるんすか?」
「まぁな」
明日の朝も登るはずの険しい階段はゆっくり登っても、それなりに体力がいる。こんな夜更けに何があると言うのか。俺には分からなかったが、ここまで来たらタケル先輩を信じてついて行くしかなかった。
「せ、先輩。ここに何があるんすか?」
「ああ、あるんだ」
息を切らして問いかける俺に、先輩は静かな口調で答えにならない答えを返してくれる。だが、その表情には何かの期待を込めた喜びのようなものが感じられた。
階段を登りきった先輩は境内の奥に進み、本殿の裏にある雑木林に踏み入っていった。俺もそれに続く。しばらく足元の悪い場所を進むと、先を歩いていた先輩が立ち止まり、後ろに続く俺に振り向いた。
「ほら、これだ」
先輩が指す方向に、俺は目を凝らしてみた。
雑木林が途切れ、目の前の視界が開けていく。眼下には田畑が広がっていて灯りがポチポチと点っていた。今、立っている場所は千源寺の裏にある崖の上だった。
「何も無いじゃないすか」
俺は夜の田舎風景を見せられて思わず拍子抜けした。
「違う違う、上だよ。上を見ろって」
先輩は白い歯を見せて、頭上を指差した。
「あ……」
俺はその漆黒の闇をスクリーンにした光り輝く世界に一気に引き込まれた。
「最後にこれを見ておきたくてな」
ポツリと呟く先輩の言葉に、俺はただただ頷くだけだった。
紺色の絵の具を敷き詰めたような空に無数に広がる星の光。それは街の賑やかな灯りが存在する地域では見ることができない本当の星空だった。
強く輝く星、チカチカと信号のように瞬く星、細かくてザルの目からもすり抜けてしまいそうなほどほのかに光る星。大小の様々な光が遠い宇宙の果てから、俺と先輩の立つこの場所まで届いている。それは当たり前のようなことかもしれないが、ある種の奇跡を感じた。
先輩はその場に腰を下ろしてあぐらをかくと、口をポカンと開けて間抜けヅラしている俺のジャージの裾を引っ張り隣に座るように促した。
「昨日まで天気がイマイチだったからな。今日は晴れて良かった」
その先輩の言葉に答えるように、たくさんの星が一斉に瞬いた気がする。
「すごいっすね」
それが素直な感想だった。
「あの、明るい星見えるか?」
先輩は遠くの空に強く光る星を指差す。
「あれっすか?」
俺も真似して指を伸ばしてみた。
「あの星と、あれとあの星を結ぶと、春の大三角って呼ばれているやつだ」
「スゲーっ! 本当に三角形だ」
俺は夜空に彩られた三角形に心が動かされた。
先輩は他にも、あれがしし座、あれがおおぐま座だと、といろいろ教えてくれる。
「先輩は星が好きなんすね」
俺は一つひとつの星座を見つめながらポツリと呟いた。
「ああ、好きだ」
「凄いなぁ」
「別に凄くなんかないさ。ただ好きなだけだ」
そんな他愛もない話をしていると、冷たい風が吹いてきて俺は思わずクシャミをしてしまった。
「おいおい、大丈夫か?」
「あ、すんません。大丈夫っす」
俺は大きく鼻をすすった。
「これ使えよ」
先輩は自分が着ていたベンチコートを脱いで、俺の肩にかけてくれた。
「いや、先輩が寒くなるっすよ。俺は大丈夫なんで」
「いいって。着とけよ」
「じゃあ、先輩。一緒に使おうっす」
俺は先輩の脇に腰を下ろし、コートの右端を先輩の肩にかけ、左を俺の肩にかけ直した。
「あ、ありがと……な」
先輩の少しぎこちない口調に、俺は笑顔で答えた。
「俺もありがとうっす」
右肩から伝わる先輩の体温が、俺を安堵させてくれる。
「先輩、もっと星のこと教えてくれないすか?」
「ああ、いいぜ」
コバルトブルーに光る夜の空気に二人っきり。先輩は笑って空を指差しながら、俺の知らない星座のことをたくさん話してくれた。その話の半分くらいは無知の俺にとっては難しくて右から左へ筒抜けになってしまったかもしれない。それでも部活では見せることのない星の輝きに似た先輩の瞳は、俺を幸せにしてくれた。
この時間がいつまでも続いて欲しい。いつの間にか、そんな想いが芽生えていた。
第五章・助川先生のたくらみ
合宿が終わると県予選に出場するレギュラー陣は、ハードな練習から本番に向けて調整に移行していった。タケル先輩も打ち込みや投げ込みをする程度で、余った時間は俺たち後輩の指導に当ててくれている。
そんなある日。
「なぁ、あれ見てみろよ」
「ん、どした?」
同期のヤツが格技場の隅を指差している。学校の挌技場は柔道部が独占しているわけではなく、半分を剣道部も使用しているのだ。向こうの壁際に、剣道部顧問である助川先生が腕組をしながらジッとこちらを見ていた。助川先生は五十代半ばで、いい年のオッサンなのだが、剣道界ではそれなりに名の通った人らしい。化学の教師で一見するとオタクっぽい感じで、四角いメガネをかけたクソ真面目な性格から授業も面白くないと聞いたことがある。理科は生物を選択している俺にとっては関わりの無い先生の一人だ。
「助川のヤツ、こっちみてニヤニヤ笑ってないか?」
「なんか、キモイな」
コソコソと話していると、
「おい、そこ! ボサッとしてるな。乱取りやるぞー」
反対側からタケル先輩が声を張り上げた。
「うーっす!」
俺も同期のヤツも、慌てて練習に戻っていった。
「練習終わるぞー」
主将の号令がかかる。即座に部員全員が整列し正座をすると、面と向かって中央に正座する剛田師範に向かって、
「ありがとうございましたっ!」
と声をそろえ、深く一礼をする。
礼に始まり礼に終わる。柔道で強くなるには礼節も欠かしてはならない。
この挨拶が終わると、部員たちは緊張の糸が切れ、普通の高校生になる。とは言っても、練習後は誰もがクタクタで片付け当番以外はすぐに部室へ戻っていくのだ。
「ハヤトが今日の当番か。俺も手伝ってやるよ」
「やった。タケル先輩、あざーっす!」
俺と先輩は二人で格技場の後片付けを始めた。投げ込み練習の時ケガを防止するためのマットや、ワンセットのタイムを計測する大型のスポーツタイマーを挌技場内の倉庫にしまっていく。大方片付けが終わったところでふと目をやると、剣道部も練習が終わったようで誰もいなくなっていた。
最後の清掃で畳の上をほうきで掃いている時、俺は一枚の畳が傷付き大きくささくれ立っているのを見つけた。
「先輩、これどうしたらいいすかね?」
床の隅を掃いていたタケル先輩は俺の呼びかけに答えて、すぐに見に来てくれた。
「どうした? ああ、これは交換しないとまずいな」
そう言って膝を付き、ささくれ部分をなぞるように触りだす。だが、規則正しい結び目が裂けた畳のい草の切れ端は鋭かったようだ。
「痛てっ!」
急に先輩は小さく叫び、人差し指を口に咥えた。
「大丈夫っすか?」
「ささくれで指が切れちまった」
先輩は咥えていた人差し指を口から離す。俺はその指を覗き込んでみると、傷口から少し出血をしていた。
「俺、バンソーコー取って来るっす!」
「ああ、悪いな。頼むよ」
俺は格技場の裏にあるプレハブ小屋に走った。この小さな建物が柔道の部室なのだが、もう電気が消えていて掃除で残っていた俺たち以外は、皆帰ってしまったらしい。俺は棚から救急箱を持ち出し、再び格技場へ戻っていった。
「バンソーコーと消毒液、持ってきたっす!」
俺は格技場で待っているはずの先輩に救急箱を掲げて見せるが、そこには誰もいなかった。
「せんぱーい……」
俺は少し首をかしげて周囲を見渡すと、ささくれがあった畳の一枚が、ぽっかりと抜けているのに気付いた。もしかしたら、先輩が交換しようと傷の付いた畳を持っていったのかもしれない。畳のストックがあるのは倉庫だけだ。俺は倉庫へ自然と足が向いていた。
さっき施錠したはずの倉庫の引き戸がわずかに開いている。その戸を開いて中に入ってみるが、先輩の姿は見当たらない。戸口付近にはさっき片付けたタイマーやマットが置かれているだけ。俺は奥へ進んでみることにした。予備の畳は確かずっと奥の方にあるはずだ。俺は暗がりの中を進んでいった。
しばらく先に行くと、人の気配を感じた。なぜかコソコソとした話し声も聞こえてくる。
「……先生、それは前にも断ったはずです」
「いいじゃないか。君が……その、私と同じと知った以上、もう我慢できなくてね」
俺はとっさに、近くに詰まれたダンボールの影に隠れて様子を伺った。倉庫の暗がりに目が慣れてくると、険しい表情をしたタケル先輩と、剣道部顧問の助川先生が向かい合って話している姿が見えてきた。
「ここなら誰にも見つからない。だからいいだろう?」
先生は先輩の肩に手を置いてニヤリと口元を緩ませる。
「止めてください!」
先輩は表情を強張らせ、今まで見たこともないような怖い顔でその手を払いのけた。
すると、先生も眉を吊り上げて険しい表情になる。
「……ナマ言ってんじゃねえよ。お前が男好きだってことを学校中にばらすことだってできんだぞ!」
先生は先輩の道着の襟をつかみ背後にある畳の上に押し倒すと、その上に馬乗りになった。
「止めろっ!」
タケル先輩は大声を張り上げる。俺はとっさに飛び出そうとした。
だが、俺が動くよりも一足早く、俺の隣を急ぎ足で通り過ぎる人影があった。
「助川先生、うちの部員に手を出されては困りますな!」
現れたのは、道着からジャージに着替えていた剛田先生で、仁王立ちで助川先生を睨み付けていた。
「ごっ、剛田先生っ!」
助川先生はタケル先輩から離れ、顔色をサッと変えた。だが、すぐに影のある笑みを取り戻す。
「先生も私と同じ穴の狢ですよね。あなたも一緒にどうですか? 若い男、しかも剛田先生にとっては愛弟子と性的に交われるなんて、夢のようなことじゃないですか」
その言葉に、剛田先生は何も返答をせず、無精ひげが伸びた顔で口角を上げながら怪しく笑う。そして、近くにあった竹刀を一本手にした。
「おおっ! 先生も乗り気なのですね。しかもそんなものを持ち出して、弟子を堕そうとするとは……。あぁ、なんて鬼畜な師匠なんだ!」
助川先生のテンション高めの声に、畳に倒れたままのタケル先輩は目を大きく開いた。今度こそ俺の出番だ。大人二人が相手でも、俺が何とかして先輩を助けなくてはならない。タケル先輩が俺のことを山川主将から救ってくれたように!
俺が飛び出そうとした瞬間だった。
――バンッ!
剛田先生は手にした竹刀を強く床に叩きつけた。その音はどんな力を入れれば鳴るのかと思うくらいの轟音で、打ち付けた竹刀の先を助川先生の鼻先に突きつけていた。
「助川先生。残念ながら、俺はションベン臭いガキを相手にする趣味はねぇんでね。それよりも、もうテメェを許すわけにはいかねぇ! これまで何人の剣道部員を喰ってきたんだ?」
「な、なんでそれを……!」
山上先生の顔がみるみる青ざめていく。
「その問いに答える必要はねぇ。それに飽き足らず、俺の弟子にまで手を出すたぁ……。もう黙ってらんねぇ。お前を学校から叩き出してやる!」
そう言って、剛田先生は竹刀を再び振り上げると、弧を描くように優雅に鋭く、助川先生の無防備なわき腹をバシンと叩き付けた。
「うごえっ!」
助川先生は身構える暇もなく一撃を受けその場にうずくまった。だが、背中に紅蓮の炎を抱えた剛田先生はその足元まで寄って行き、もう一度、竹刀を強く床に叩き付け、
「おらぁ、かかって来いやぁ!」
と、もう一度竹刀を振り上げた。
「たっ、助けてくれぇ!」
助川先生は腰を抜かしたように四つんばいで剛田先生から離れると、両手で頭を守るようにして一目散に倉庫を飛び出していった。
「ふんっ!」
剛田先生は大きな鼻息を吐き出し、手にした竹刀を床に放り投げる。そして、畳の上に倒されたままのタケル先輩のもとに寄っていき、「大丈夫か?」と手を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
先輩はそれ以上何も言わず、無言で目線を落とし、口をへの字に曲げた。
「もう二度と助川にあんなことはさせねぇから。お前も、さっきの事はもう忘れろ」
先生はそう言ってその場を立ち去ろうとするが、
「待って下さい!」
と、タケル先輩は呼び止めた。
「どうした?」
「剛田先生は、先生は、その……俺と、一緒なんすか?」
「……ああ、そうだ」
「前から、俺のこと知ってたんですか?」
「そうだな。長年教師やっているとそんな勘が働く。だから助川の動きには注意していたつもりだった……。だが、こんな目に遭わせてすまなかった」
先生は深々と頭を下げるが、先輩は首を左右に大きく振ってだらんと下ろしていた手には、握りこぶしができていた。
「俺、俺……どうしたらいいか分からなくなるんす。好きなヤツがいるんだけど、俺が好きになったらそいつが迷惑するんじゃないかって。でも、俺、どうしても抑え切れなくて、諦められなくて……」
言葉が次第に尻すぼみになり顔を落とした先輩の肩が小刻みに震え始めた。それを見た先生は小さくため息を付き、大きな手で先輩の肩をポンポンと叩く。
「お前なぁ。真面目過ぎるんだよ」
「だって、だって……」
顔を上げた先輩の頬は涙で濡れていた。初めて見る先輩のそれに俺は自分の心が締め付けられる思いがした。
「好きになられて迷惑するヤツなんかいるもんか。お前が誰かを好きになるのは人間として自然なことだ」
「でも……。俺、怖いんです。アイツにこの気持ちを伝えて失敗だったと思うことが」
「……そうだな。確かに怖い」
先生は小さな天窓に映る月を見上げた。
「でもな。これは忘れるな。人を愛することを知ったお前には、世界中が見方になってくれる。だが、世界中の誰一人としてお前を助けてはくれない」
そう言って、目を細め軽く口元を緩めた。
「……それって、どう言うことですか?」
ボソリとつぶやかれた先輩の言葉。
「お前はこの意味を知らないほどガキではないだろう」
先生の返事に、先輩は何も言わずに黙っている。二人の会話を盗み聞きしている俺も、その言葉を心の中で反すうした。
「片付け終わったら、早く帰れよ」
先生は先輩に背を向けて倉庫の出入り口へ向けて歩き出
した。だが、ダンボールの影に隠れていた俺の脇で足を止めると、チラッとこっちを見てニヤリと笑った。まるで、お前がそこにいるのは分かっていたと、言いたげだった。
「青春は短し~♪」
先生はどこかで聞いたことがあるような歌を低い声で歌いながら、倉庫を出て行った。
第六章・俺と先輩の告白
剛田先生が居なくなって、俺は手にした救急箱のことを思い出した。溶け切らない気まずい雰囲気を払拭するように、俺は笑顔を作ってみる。
「先輩。きゅ、救急箱、も、も、持ってきました」
俺は平静を装ってダンボールの影から顔を出してみるが、その声はしどろもどろだった。
「あ、ああ。悪いな」
先輩は何事もなかったように答える。
俺はその様子にどこか安心感を覚え、救急箱を床に置き、中を開いて絆創膏を取り出した。
「貼るから。先輩、指出して下さい」
先輩は黙って右手の人差し指を見せてくれた。もう出血が止まっていた傷口だったが、俺は丁寧に絆創膏を貼った。指先に伝わる先輩の手は思ったよりも温かい。
「おう、ありがとな」
先輩は俺が手当てをした指を見つめながら、軽く笑みを浮かべた。その後、俺から視線を逸らして何もない壁の方を見たり、天窓を仰いだりしている。俺も沈黙を守りつつ、救急箱のふたを閉じた。
「……ありがとうな」
先輩はこの場所に流れる静かな空気を破ろうとしたのか、同じセリフをもう一度言った。
今は俺と先輩の二人っきり。さっきの助川先生とのやり取りや、剛田先生の言葉がずっと遠い過去のように感じる。でも、俺はここから一歩先へ踏み出したいと思うようになっていた。
俺が口を開こうとした時、
「なぁ、お前に話があるんだけど。大事な話だからマジで聞いて欲しい」
と、先に口を開いたのは先輩だった。
「俺も……先輩に話がある」
「何だよ。お前から言えよ」
「いや、先輩からどうぞ」
先輩と俺はしばらく下らない押し問答が続いたが、そのうちじゃれ合うようになり、いつの間にか声を上げて笑い合った。
「じゃあさ。二人同時で言ってみるか?」
その先輩の提案に、俺は大きくうなずいた。
「いいか? いくぞ!」
俺たちは互いに向き合って大きく息を吸い込むと、その息と一緒に言葉も吐き出した。
「俺、ハヤトのことが好きだ!」
「俺、タケル先輩のことが好きっす!」
お互いに被った声の意味を理解すると、俺たちはもう一度笑った。
天窓から降り注ぐ月の光がいっそう明るくなったような気がする。腹がよじれるほど笑い尽くした俺たちは目頭の涙を拭うと、改めてお互いに相手を見つめた。
先輩はまるで対戦相手を睨み付けるような視線で俺のことを見ている。だが、その頬には赤みがかかり、口元は軽く弧を描いていた。その表情を見て、俺の心の中で湧き上がるものがあった。それはガキの頃に飲んだ夏休みのラムネのように、甘くて爽快な感覚。その時にしか味わうことができない弾ける瞬間だった。
俺たちは静かに歩み寄り、お互いに胸をつき合わせ、手のひらをいっぱいに広げて背中の温度を確かめ合った。
「ハヤト……。キスしてもいいか?」
耳元でささやかれる先輩の声に、俺は何も言わずに唇を重ねた。
「……んっ!」
不意を突いた俺からのキス。先輩は少しだけ声を上げ、目を閉じる。俺もそれに習って、まぶたを閉じれば先輩の舌使いがリアルに感じられ、それまで凝り固まった何かがゆっくりと溶けてく感覚がした。
「好きだよ。ハヤト」
「俺も好きです」
キスの合間を縫って生まれる言葉に感情がより高ぶっていく。それはきっと先輩も同じ気持ちのようで、呼吸を重ねるたびにキスはより激しくなっていった。
「先輩……」
俺の言葉に答えるように、先輩は俺の肩に回していた手を腰まで下ろし、ゆっくりと前に移っていく。もうそれだけで、俺の股間はパンパンに膨れ上がり熱を持て余してしまう。
俺も真似するように先輩の股間へ手を回すと、俺と同じように勃起したチンポの熱を感じた。
「お前、キスだけでもうこれかよ」
苦笑する先輩に、俺も負けずに言い返す。
「先輩だって、ガッチガチじゃないすか」
俺と先輩は悪戯っぽい目でクスクスと笑うと、もう一度キスを求めた。
呼吸が止まるような長いキス。二つの舌が時間をかけて執拗に絡みつき、お互いの粘膜をじっくりと確かめ合う。生唾が混じり合い、先輩のものが俺の体に注ぎ込まれていく。
唇の交わりが解かれると、先輩は俺の道着の横帯に手をかけて前襟を大きくはだけさせた。ひんやりとした空気が胸に伝わるのと同時に、素肌に先輩の大きな温かい手の感触が広がっていく。
「お前の肌、スベスベで気持ちいいな」
「なんか恥ずかしいっす」
俺は照れ臭くなり、妙な笑いを浮かべるしかできない。その間に先輩の手は俺の乳首を探り当てると、人差し指と親指でコリコリと摘み出した。
「あっ……!」
「乳首、感じるのか?」
「あっ、いえっ! ……あんっ!」
「……どっちなんだよ」
先輩は笑みを浮かべながら、俺の乳首を人差し指の腹で押してみたり、爪先で弾いたりしてくる。
「きっ、気持ちいいっ!」
自分で触る時よりも何倍も気持ち良くて、歯止めのない波の刺激に耐えることだけで精一杯だった。
「もっと気持ちよくしてやるよ」
先輩は俺の胸に顔を近付けると、そのまま乳首に吸い付いてきた。
「ああっ! せ、先輩、それ……ヤバい……っす!」
「んんー?」
舌先で乳首を転がされて悶絶する俺の反応を楽しむように、先輩は俺の顔を見上げてくる。さらに、右の乳首に吸い付きながら、左側は指で苛められ続ける。交互に舌先と指先で攻められ続けると、道着の中のチンポは何度もビクンビクンと反応してしまった。
「そろそろこっちも可愛がってやるよ」
先輩は俺の道着の下衣を膝まで引き下げると、ノーパン状態の股間が晒され、勃起したチンポが勢いよく外へ飛び出した。へそまで反り返った俺のサオ。それを先輩にまじまじと観察されてしまう。
「お前、結構デガいな」
「先輩、そんなに見ないで下さいっ!」
「いいじゃん。減るもんじゃねぇし」
先輩は悪戯っぽい目で俺の大事なところをジロジロと観察している。サオの裏筋、タマの大きさ、玉袋の裏側までジックリとチェックされて、俺のチンポはさらに反応してしまった。羞恥心で血流が走り、硬さを増す。皮を剥かれ、先っぽの割れ目を指先でなぞられると、軽く何かが漏れる感覚があった。
「先っぽから出てきたぞ」
その言葉に俺は頬に熱を感じ、何も答えることができない。ヌルヌルとしたガマン汁は潤滑油となり、先輩の滑らかな指先の動きでさらに身悶えしてしまう。先輩はそんな俺の表情を嬉しそうに見上げていた。
「もっと気持ちよくしてやるよ」
そう言って、先輩はサオを手にすると一気に根元まで咥え込んできた!
「あっ、あっ、ああーっ!」
今まで味わったことのない感覚だった。脳天に響くようなしびれる感覚。舌先で亀頭やサオを刺激され、足元がガクガクと震えてくる。
「せ、先輩っ! もうダメ。ヤバい、出る!」
下半身からこみ上げてくるものを我慢する余裕はなかった。チンポの中から出口に向けて白濁の液体が勢いよく飛び出し、射精の快感に俺は身を任せた。
二度、三度と快感と共に吐き出される精液。ようやく射精が止まると、軽い疲労と共に開放感が伝わってくる。
「お前、すげぇ出たな……」
数秒間だけ真っ白になった視野だが、先輩の一言で薄暗い倉庫の風景が再び目に映し出された。
「あっ。ごめん、すんません!」
俺が放った体液で先輩の手や頬が汚れていた。それを道着の袖で拭いながら、先輩は怒ることもなく口元を大きく緩ませる。
「今度は先輩の番っすね」
俺は自分の乱れた道着を正すこともせず、先輩の乳首を舐め股間に手を回しまさぐり始めた。さっき自分が犯られたように、俺も真似をしてみる。
「ああ、気持ちいいぜ」
先輩は吐息混じりに答えてくれた。
俺はもっと感じてもらいたくて懸命に乳首に舌先を這わせた。大胸筋とその上に載った脂肪でデカく膨らんだ胸にちょこんと乗った乳首はピンク色。先輩のそんな恥部の一つに、無心にむしゃぶり付いていた。
「先輩のチンポ、見てもいいすか?」
俺の上目遣いの言葉に、先輩はニヤニヤと笑う。
「どーしよっかなー」
「ええっ! そんなの酷いっす」
口を尖らせる俺の頬を、先輩は両手で押さえ込み笑いながら軽くキスをしてきた。
「はやく脱がしてくれよ」
「……うん」
俺は小さく答えると、先輩の下衣をゆっくりと膝まで引き下げた。先輩のチンポは俺よりも成長していてヘソの上まで大きく反り返り、何か別の生き物ようにブルンブルンと暴れまわっている。俺よりも太くて長いサオ、筋肉で張った太ももの間には存在感のあるタマ。陰部を覆う陰毛が濃くて、たった一歳しか違わないのにずっと年上の男のように感じた。
「あまりジロジロ見るなよ。恥ずかしくなるだろ……」
先輩は少しだけ目を逸らして頬を赤らめている。
「先輩だって、さっき俺のをジックリ観察してたじゃないすか」
そう言いながら俺の心の中では、チンポってどんな味がするのかと緊張していた。心臓の鼓動はいつしか俺の身体を支配し始める。口を開いて、恐る恐る先輩の一部を口に含んでみた。
唇と舌から伝わるサオの感触は柔らかいゴムのように弾力があり、生き物の温度を感じた。少しすっぱいような鮮魚店で感じるような生臭い感じが鼻に伝わる。でもそれは不快というよりは、先輩放つリアルなエロで、それを体感している自分が少し大人になったような気がした。
俺はさっき先輩にされたように同じことを真似してみる。サオを根元まですっぽり咥えてゆっくりと出し入れすると、
「ああ……」
と、先輩は溜めていた息を吐き出すように声を漏らした。
俺はしばらくサオのグラインドを続けてから、先っぽの割れ目をなぞる様にして舌先をチロチロと小刻みに舐めてみる。すると、先輩は眉間にしわを寄せて天井を仰ぎながら低い声を唸らした。
「先輩、気持ちいいすか?」
俺は調子に乗って、サオの先っぽから根元まで玉の裏にかけてゆっくりと舌先を躍らせてみた。
「ああ、いい……」
深いため息のような声色に、俺はもっと気持ちよくしてやりたいと、そけい部や太ももの内側にまで舌を這わせていった。
「ああっ! お、お前、どこでそんなテク仕入れたんだよ」
「ヤリチンみたく言わないで下さい。これでも初体験なんすから」
俺はサオを握りしごきながら亀頭だけをすっぽり咥えてみると、熱を帯びた先輩のチンポはさらに硬くなっていくのが分かった。
「俺も、初めてだぜ。初めてだから、そんなふうにされちまうと……ああっ!」
先輩は小さく声を出すのと同時に、口の中に生暖かく塩気のある液体が注ぎ込まれた。急なことで驚いたが、それが何であるのか理解した時には、先輩の一部を一滴も無駄にしたくなくて、そのままゴクリと飲み込んだ。
「あっ、バカ! 飲んで大丈夫なのかよ」
先輩は慌てて俺の口からチンポを離すが、もう出てきたものは飲み込んだ後だった。
「分かんないけど。こういうプレイもあるってネットで見たから、たぶん大丈夫す」
チンポをしゃぶるのにひざまずていた俺の目線に合わせて、先輩は腰を下ろすと目を丸くして、
「……不味くないのかよ」
と言った。
「先輩のだから、美味かったっす!」
俺の能天気な笑顔に、先輩はプッっと吐き出して俺の両頬を指で摘んできた。
「じゃあ、お前のを俺にも飲ませろ」
そう言って、低く積まれた畳の上に俺の身体を押し倒し、その上に先輩が身を乗り出してキスをしてきた。
「先輩、今度はしゃぶり合いしてみないすか?」
俺のチンポは既に元気を取り戻し、先輩のそれもムクムクと頭をもたげ始めていた。
「お前、ドエロだな」
「先輩もっす!」
先輩は畳に仰向けに寝転び、俺がその上に上下逆さに乗っかった。先輩は俺の腰をつかみ、そのままチンポを下から咥えはじめる。俺は再びチンポに感じる先輩の舌遣いにハウッンと妙な声を上げて、先輩のビクビクと跳ねるチンポを口の中に頬張った。
天窓から覗いていた月は西の方角へ移動する。倉庫で俺たちが交じり合っている間に、格技場のドアは既に外側から施錠されているのだったが、その事に気付くのは、もうしばらく後のことになる。
第七章・虹の向こうに
梅雨前線が活発になり長雨の季節になった。先日、インターハイ出場を掛けた県予選大会が開かれたが、タケル先輩は惜しくも準決勝で敗退し代表にはなれなかった。
準決勝の試合が始まって間もなく相手が大外刈を掛けてくるも、先輩は刈られようとした足を大きく前に振り上げて相手の技を透かした。だが、相手がバランスを崩した際に、つられて先輩も一緒に倒れこんでしまったのだ。優劣のつけ難い状況に、技を透かした先輩に一人の審判が『一本』と判断した。しかし、残り二人の審判が相手選手に対して『有効』を取った。その後も、何とか劣勢を挽回しようとした先輩だったが、形勢逆転はならず勝負に敗れてしまったのだった。
大会後、間もなくして期末試験が近くなり、部活動の休止期間に入った。厚い灰色の雲に覆われた日曜日の午後、俺は市街にある大型ブックセンターへ毎月愛読している柔道マガジンを買いに行った。
「あ、タケル先輩!」
「お、ハヤトじゃないか。お前も参考書買いに来たのか?」
先輩を見つけたのはレジの脇にある参考書のコーナーだった。俺は少し舌を出して首を横に振ると、さっき買ったばかりのマガジンを先輩に見せた。
「ちょっとは勉強もしろよ」
先輩は軽く笑って、手にした大学受験の過去問集をレジに持って行き支払いをする。
店を出た先輩が後に続く俺に、
「ハヤト、腹減ってないか? ラーメン食いに行かねぇ?」
と、誘ってきた。
「あ、行く! 行くっす!」
俺も一つ返事で答えると、先輩はここまで乗ってきた自転車を手で押しながら、ラーメン屋まで連れて行ってくれた。
「らっしゃい! お好きな席へどうぞ」
店の引き戸を開けると、食欲をそそるスタミナ感のある強烈な香りが鼻に付く。
「俺、にんにく味噌チャーシューの大盛りで」
先輩はカウンターの内側から水を出す店主らしきおっちゃんに注文をした。
「あいよ。そっちの兄ちゃんはどうする?」
黒いTシャツにタオルで鉢巻をしたおっちゃんが愛想よく俺に声をかけてくれる。
「あ、俺も同じの。大盛りで!」
「大盛り二丁、まいど!」
横に座った先輩が俺を見てニヤリと笑うと、俺も同じように笑みを返してコップの水を口に運んだ。
「へい、お待ち!」
威勢のいい掛け声と共に、店員は俺と先輩の目の前に、湯気の沸き立つ巨大などんぶりを置いた。香りの良い濃厚な味噌に、野生的なにんにくの匂いが漂い、厚切りのチャーシューがどんぶり一面を埋め尽くしている。
「すげー、美味そう!」
俺は思わず唾を飲み込んだ。
「これ、一度食べるとクセになるんだぜ。お前にも一度食べさせたいと思ってたんだ」
先輩はそう言って、割り箸を割りレンゲを手にすると、舌舐めずりをする。
「いっただっきまーす!」
どんぶりから立ち上る熱々の湯気に顔を突っ込み、俺も先輩もガツガツと食べ始めた。ボリューム満点のチャーシューに喰らいつき、箸いっぱいにつかんだ麺をズルズルと口に運んでいく。
別に早食い競争をしているわけでもないのに、俺たちは無言で食べ続ける。あっという間に具や麺を食べきると、ほぼ同時にどんぶりを両手に持って濃厚なスープをゴクゴクと飲み干した。
「あー、美味かった!」
「はーっ、最高だぜ!」
俺も先輩も額に汗をじっとりとかいて、氷の溶けかけた水を口に運んだ。
「おやっさん、ご馳走様でした」
先輩はサッと立ち上がると財布を取り出した。俺もそれに習って自分の財布を鞄から探す。
「今日は俺のおごりだ」
「いや、それは悪いっすよ」
「全部食えたご褒美だって! 俺、最初に来た時は食いきれなかったんだぜ」
そう言って、先輩は二人分のラーメン代を払うと財布をしまい本屋で買った参考書の紙袋を手にした。
店を出ると雨が降り出していた。厚い雲からシトシトと雨が落ちていて、地面には水溜りが広がっていた。湿度は高くジメッとした空気が漂う。店の脇に小さく咲くアジサイもその雨に頭を垂れるようにしていた。
「あ、降ってきちゃいましたね」
俺の言葉に、先輩は何も答えずにジッと遠くの一点を見つめている。
「なぁ、ハヤト。あっちは晴れてるのかな?」
先輩は西の方角を指差しながら口を開いた。
「え?」
俺は同じ方向に目を凝らしてみる。西に広がる背の低い山の上は雲が裂け、山肌に太陽の光が差し込んでいるように見えた。
「ああ、あっちは雲が切れてるんすね」
「なぁ。あの晴れているところまで行ってみねぇか?」
「え? 歩いていったら結構あるっすよ」
先輩は俺の言葉を無視して、軒先に止めておいた自転車のロックを外しサドルにまたがった。
「後ろに乗れよ」
そんな誘いが、俺は何だか嬉しくて、自転車の後ろにまたがると先輩の肩に両手を乗せた。
「おし、行くぞ!」
そう言って、先輩は雨の中、自転車を漕ぎ出した。
二人乗りの自転車が雨の中をゆく。しばらくは顔面を濡らすには十分な雨量だった。だが、俺たちはオオーッ、スゲーと声を上げて、その雨を楽しみながら西に向かって進む車輪の回転に身を任せた。
市街地を抜け住宅街を抜け、田畑が広がってきた頃、山の上に向けて伸びる道路にさしかかった。二人乗りのしかも男子柔道部員が乗る自転車は重さに耐えながら必死に前に進んでいく。
坂道の途中に差し掛かり、ここまで頑張ってきた自転車の勢いが失速し車輪の回転が重々しくなる。先輩は立ち漕ぎで何とか前に進めようとしていた。
「先輩、止めて! 俺、降りるから」
「大丈夫だって。お前一人くらい乗せて走る体力くらいあるって!」
先輩はペダルを漕ぎ続けるが、重々しく回転するタイヤに悪戦苦闘するばかり。
「やっぱ、俺、手伝う!」
俺は自転車から飛び降りると、後ろから両手に力を入れて押していった。
「さっき先輩におごってもらったニンニクラーメンでパワー全開っす!」
「おおー、スゲーッ!」
自転車の回転速度は復活し、坂道をスイスイ登っていく。俺の押す力を糧に、先輩もペダルを漕ぐ足にますます力を込めていった。
山の上に登るにつれて雨が弱くなってきた。先輩は口元に力を込め鼻息を立てながら自転車を漕ぎ続ける。しばらくして山頂に着く頃には、あれだけ降っていた雨もほぼ終息していた。
「け、結構、距離あったな……」
「そ、そうっすね……」
先輩も俺も息を切らしながら雨と汗で濡れた短髪を後ろへかき分けた。たかだか自転車で低い山に登ってきただけなのだが、先輩と一緒に協力して何かやり遂げた感があって、俺は変にニヤけてしまった。
俺たちが登ってきた山は標高二百メートル程度の小さなものだ。ここには市街地を見下ろすことができる簡素な展望台がある。その展望台の隣にだだっ広い駐車場があり、先輩は隅に自転車を止めた。
展望台に上がってみると、東側に広がる市街地が広がっていた。
「わあっ……」
俺は思わず口を半開きにした。
それに答えるように先輩も呟くように言葉を出す。
「きれい……だな」
ここに来るまで頭上に広がっていた灰色の雲は青空の勢いに負け、この山の上では薄く溶け始めていた。消えかかりそうな雲の切れ端から太陽の光が降り注ぎ、眼下に広がる街並みは雨の雫でキラキラと輝き始める。湿度の高い空気がスッキリと澄んでいく。遥か向こうに見える海の青さ、山のふもとに広がる木々の緑が輝きを増す。この街にずっと住んでいたのに、俺はこんな美しい風景を今まで見たことがなかった。
「俺、先輩とここに来れて良かった」
俺はポツリと漏らした。
「ああ、俺もだ」
そう答える先輩の手が、俺のすぐ近くにあった。俺はこの輝く世界の中でその手をつなぎたくて、少しずつ呼吸を整えながら距離を近付けてみる。
「お前には正直に言うよ」
あと数センチのところで、先輩は真っ直ぐに輝く街を見つめながら口を開いた。
「ん?」
俺は平静を装って、景色に見とれているように空返事をして、伸ばした手をサッと引っ込めた。
「俺、部活辞めることにした」
「えっ!」
そのたった一言で、俺はそれまでの温かい雰囲気が一気に冷めていく感覚に襲われた。
「何で? 先輩なら来年の春高にだって行けるかもしれないのに。インターに行けなかったからって、ここで諦めるなんて……!」
俺の戸惑いを含めた言葉に、先輩は目線を動かすことなく言葉を続ける。
「俺、大学で本気で勉強したいんだ。前からずっと考えてた。だから今は受験勉強に専念する」
「大学なら、部活で十分推薦で行けるじゃないすか!」
「俺は天文学を勉強したいんだ。物理学部はスポーツ推薦で入れるようなところじゃない」
先輩は少しだけ険しい顔になった。そんな先輩の表情の裏側に、あの千源寺の崖の上から眺めた星空に目を輝かせていた先輩の姿が重なった。
それでも俺は、唯一の接点でもある柔道から先輩が去ってしまうことに戸惑いを隠せなかった。俺は先輩のように柔道で強くなりたいのに、ずっと追い続けていた先輩がそんなことを言うなんて……。俺は信じたくなった。
「先輩は、先輩はインターに出たほどの実力なのに……」
「でも今年は行けなかった。俺の実力なんてそんなもんさ。柔道は好きだよ。でも自分の人生を掛けるなら、俺は柔道よりもっとやりたいことがある」
俺の心の中は大きくかき乱されていた。別に柔道に力を注ぐ自分のことがバカにされたわけでもないのに、否定されたわけでもないのに。
「そんなの先輩らしくない!」
それは勢いに任せて吐き出してしまった言葉だった。
「俺は一年の頃から先輩に憧れてきた。ずっと先輩のようになりたいと思っていた」
俺の語気は次第に強くなり、乱れた感情をむき出しにしていた。俺の言葉に先輩は何も答えようとしない。それが感情の高ぶった俺のテンションをますますかき乱した。
「先輩は才能があるのにそれを生かさないなんて贅沢だ。そうやって好きなこと言って、他人の気持ちなんか考えたことないんだ!」
そこまで言葉にした後、俺は我に返り、少し言い過ぎたと思った。
先輩は目を細めて緩く口を開く。
「お前は、俺を何だと思ってるんだよ」
それは冷めた口調だった。
「どういうことすか?」
俺の中にある高揚とした気持ちが治まり切らず、怒りに似た感情がふつふつと湧き上がっていた。
「俺は、お前のために先輩であり続けなくてはいけないのか? 俺は、お前のモチベーションのために生きていなくてはならないのか?」
「違う! そんな事を言いたいんじゃない!」
「何が違うんだよ」
先輩の低く重い言葉に、何も答えることができなかった。俺は、先輩が試合に負けて投げやりになっているのではないかと思っていた。だが、それを説明にしようにも、何のセリフも浮かばない。
俺たちの間に沈黙が流れた。その間に、低い山を取り囲む木々がザワザワと音を立て始める。足元に一筋の風が立ち込めた。それは何かを語りかけているようで、俺は顔を上げると思わず空に目が釘付けになった。
「あ……」
「虹だ! すげぇでかいな」
先輩も真っ直ぐに突然現れた七色の光を見つめていた。
雨上がりの街から空に向かって弧を描く虹。それは美しくもはかなげで、俺の目には何か物悲しげに映った。
「先輩、聞いてもいいですか?」
「……ん?」
その返事に、俺は言葉に迷った。だが、今聞かなかったら後で後悔するような気がしていた。
「今でも俺のこと好きっすか?」
俺のつぶやくような言葉に、先輩はこちらをチラリと見て下唇を噛んだ。
「正直……分からない」
俺は自分の足元に視線を下ろした。
「好きかもしれないし、そうでないかもしれない」
その先輩の言葉で、俺には次の言葉は無かった。
その後、俺も先輩も空に架かる虹をしばらく見つめていた。時が経つに連れて、七色の大きなアーチは徐々にかすれていく。それに合わせて隣に座っているはずの先輩がどんどん離れていくような気がした。俺は一生涯愛することができた人を見つけられたと思っていたのに、あっさりとその想いは踏みにじられた。
空に掛けられた虹は名残惜しそうに光を失い、やがて見えなくなった。
エピローグ・あの空の向こう側
俺はもう二十年前になるタケル先輩との記憶を、遠いビルの谷間にある空に思い描いていた。
あの後、先輩は部活を引退し大学受験に専念した。受験生になった先輩とは、セックスどころか一緒に帰ることもままならなかった。そこから先は、失恋に向けて自然とフェードアウトしていくしかなった。
翌年の春に先輩は難関と言われている私立大学の物理学部に合格した。高校を卒業した先輩とは、何度かメールや電話でやり取りをしたが、いつしかそれも途絶えてしまった。更に何年かして、先輩は天文学研究の分野で活躍していると風の噂で聞いたこともある。
あの頃、恋愛をするには俺は子供過ぎて、たった一歳年上の先輩はずっと大人だった。今でもあの頃を思い出すと、顔から火が出るほどに恥ずかしくなる。だが、先輩と一緒に過ごしたあの毎日は、今でもこの胸を焦がしていた。
俺は高校卒業後、何人かの男と出会い、付き合うこともしてきたが、先輩以上の男には出逢えなかった。
俺はタケル先輩が好きだ。例え柔道をしていなくても、タケルという人間が好きだった。男との恋愛やエロい経験を重ね続けて、そんなことを繰り替えすことに少し疲れてしまった時、タケル先輩のことがたまらなく愛おしくなっていた。
その日の夕方。仕事が終わって会社を出ると、朝から降り続いていた雨はようやく止んでいた。道路の水溜りに映るオレンジ色の雲。夕暮れの街を人ごみに紛れて歩いていると、
「あ、ハヤトじゃないか?」
と突然、声をかけられた。
俺が振り向いてみると、短髪でメガネをかけた見慣れない大柄の男性が立っていた。灰色のスーツ姿に、白いワイシャツがパンパンに膨れ上がり首元のネクタイは窮屈なのか、だらしなく緩められている。
「失礼ですが……」
「やっぱりハヤトだ。俺だよ、俺!」
その男はあご髭を蓄えた口元を緩ませて笑うが、見慣れない相手に俺は怪訝そうな表情を浮かべる。
「メガネかけてるから分からないか?」
そう言って男がセルロイドのメガネを外すと、俺は思わず大声を上げた。
「ああっ!」
俺は目を丸くして口を半開きにし、人差し指でその相手を指さした。
「タケル先輩っ!」
面影のある顔立ちに、当時からデカかった体は少しふくよかになっている。だが、それがより男らしさを増していた。
「やっと思い出したか」
先輩はメガネを外したままの素顔で、口元を緩ませて笑顔になった。それは見覚えのある先輩の笑顔だった。
俺は久しぶりの再会を素直に喜んだ。
「元気だったか?」
その先輩の言葉に答えようとした時、俺は先輩の背後にある夕焼け空に大きな虹が出ているのに気付いた。
あの日、二人で追いかけた雨上がりの空。その先には俺がずっと追い求めていたものがある気がしてならなかった。
「先輩、あの……」
下らない社交辞令なんてどうでも良かった。今ここでタケル先輩に伝えたいのは、たった一つの想いだけだった。
「ん、どうした?」
先輩はあの時と変わらない笑顔で、俺の言葉を待っている。
雨上がり、あの空の向こう側