(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑦

サラ

  1. 愛憎の果て(前編)
  2. 愛憎の果て(後編)

愛憎の果て(前編)

昇日の光が、大海のごとくなったナイルを照らす。水は緩やかに大地を侵食しながら、北の海へと流れ注ぐ。その河口付近、地中海を臨む広大な三角形の土地に、かつて古代エジプト王国最初の首都が在った。
始まりの都メン・フィス。エジプトの名では、アンク・タウィ(二地の生命)という。

海に近いその都市は、南方よりのテーベに遷都してからも港町として機能し続けた。現代でこそ、郊外に埋もれるように遺構が残るばかりであるが、エジプト新王国時代になお健在であった。

別名アンク・タウィの意味するところの二地というのは、上下エジプトのことだ。このメン・フィスは海から運び込まれた各国の交易物資が、縦に長く伸びる南北のエジプトへ、富が血液のように行き渡るための要所。まさに生命線ともいえる場所だったのかもしれない。

後のエジプトがローマ帝国に支配され、地中海沿岸で最も繁栄を極めたとされる大都市、アレクサンドリアが建設されるまで、旧都メン・フィスはエジプトの主要港として隆盛を誇った。

その旧都のはずれで、ナイルの流水を岸辺の崖からじっと見下ろす男がいた。
この時代、エジプトと勢力を二分していた、帝国ヒッタイトの王子イズミルである。ナイルの姫を取り逃がして砂漠に出た後、そのまま遁走したかに見せて、この旧都にとって返し身を潜めていた。

王都テーベからは遥か150里(600㎞)以上は離れており、ファラオの息のかかった追手は来ない。
港が近いメン・フィスには東西の国から商人どもが寄り集まり、昼夜を問わずごった返しているため、身を隠すには都合が良かった。街の名が忌々しい宿敵の名を冠していること以外は、悪くはない拠点だった。

眼下のナイルでは、低い土地のあらゆるものが水に沈み、もとの地形がわからぬほどだ。
遥か北には巨大な三角錐の建造物があり、それがそのまま逆さまに水面に映っている。鋭利な頂きが上下に突き刺さる様は、まるで天と地を貫くかのようだ。
かつてこのメン・フィスが王都だった頃、クフという王が建造したピラミッドである。このような巨大建造物もまた、材料と物資と人を集めて運ぶためのナイルという運河があってこそ、造ることができたのだろう。

水勢はやや弱まったものの、黒々と揺れる波にはまるで得体の知れぬものが潜んでいるようで不気味だ。
実際、ときおり鰐(ワニ)や河馬(カバ)と思しき水棲生物が流れの緩いところで顔を水面に出し、しきりに獲物を探している。
日に日に迫る河の水に脅かされ、住む場所を失い、家財が押し流されようとも、人々の表情は畏敬と喜びに満ちている。

(地の利か神の加護か)

イズミルはこの怪異にも神秘にもうつる黒い河を野心に満ちた目で眺めた。
この土地を手に入れることができたなら、その価値は計り知れない。

ヒッタイト帝国はエジプトから陸路で500里余(約2,000km)も離れた荒野の高台に首都を設けた。山々が屹立(きつりつ)する高原地帯で、日射しは強く寒暖差が激しい。
厳しい環境下のため作物もさほど育たず、河や泉などの水源も近くに無い。
なぜそうした場所に都を設けたのか、現代では知る由もないが、考古学の研究によれば、あえて攻めにくい場所に城を構えることで、敵の侵入を防ぐ目的があったらしい。
またこれは筆者の考えだが、ヒッタイト人の精神世界において、大いなる自然の力を得ようとしたためではないだろうか。
ヒッタイト人は主に嵐の神を信仰していたらしい。山に神が宿り、その神の力によってもたらされる雷雨や嵐が、水の恵みとなる。
首都ハットゥシャの発掘結果によれば、その雨を山に貯水し、配管を用いて街まで水を引いていたらしい。いわば、ダムのようなものまでつくっていたのだ。
彼らは高く険しい山々の間に水の豊かさを見たのかもしれない。

ナイルは黒いが、イズミルが幼いころから知る河は赤かった。赤は、エジプトでは不毛の色だ。
羨む道理などないが、乏しい資源を活用するため、人が知恵を絞り続けねばならないヒッタイトにとって、エジプトは妬ましい国だ。神の御業かなにかはわからぬが、労さずに毎年農作物が大量に得られる土地など、欲しいに決まっている。

とはいえ、完全に手中に入れることはほとんど不可能といってよかった。
首都からなん百里も越えたところまで遠征するのは必ずしも得策とは言えない。過去、先代王たちが何度か試みるも失敗に終わっている。
小国ならいざしらず、ここまで強大な国を完全に掌握するのは難しいのが現状だ。

第一の関門として、周りを砂漠に囲まれており、これを越えながら打ち破るのは容易くない。しかもエジプト軍は強い。鉄器を多量に投入し一時優勢に立てたとしても、ナイル河の周辺は資源も人も十分で、体力もあり長期戦になれば勝ち目はない。
いくら百戦錬磨のヒッタイト軍とはいえ、人の利も地の利もない状況下で戦いを挑むのは無謀といえた。
ゆえに実にならぬ争いを取り止め、不可侵の条約を結び、交易によって和解していた。ミタムンの一件でそれが壊れたわけだが。

黒々と揺れる川面に視線をおとしたまま、イズミルは妹ミタムンを想った。エジプト出立前、兄に向かって、
「かならずやエジプトの…ファラオの弱みを探り出して持ち帰ります」
そう豪語した妹は、高飛車で世間知らずだった。しかし、この態度こそヒッタイトの狙いを体現していたともいえる。
前述したように、エジプトは普通に攻めて崩れる国ではない。となれば弱体化する隙、例えば内乱や内戦の火種を見つけて内側から破壊するしかない。暗殺もそのひとつの手法だ。
いくつもの国々が興っては消えるこの時代、それを非人道的と糾弾する思想も法(のり)もありはしない。ミタムンもそうした国間の思惑を、多少傲慢ではあったにしろ、ヒッタイトの王女として理解していた。

手柄を立て、王と王妃に喜んでもらうべく、勇んでいったつもりがまさか、自分の方が罠にかかり暗殺されようとは夢にも思わなかったであろう。若い奢りゆえなのか、本気でメンフィス王に心奪われたためなのか、いずれにせよ迂闊であり、未熟だった。

王子はナイルの川面を眺めるのを止め、繊細な睫毛に縁取られた両の目を静かに閉じた。

(よもや女王、アイシスが…)

怒りに支配されそうになる己を封じるように、鼻から息を吸い、そして吐いた。妹は愚かだったと思っていてさえ、やはり怒りは抑えきれない。

キャロルが漏らしたミタムン殺害の真犯人は、にわかには信じがたい人物だった。女王アイシスが弟メンフィスへの嫉妬に狂い、友好国の姫をなぶり殺しにしたのだ。
妹の無念を晴らしてやるためにも、 このまま国へ逃げ帰るわけにはいかない。かならずアイシスに…エジプトに、報復を果たすのだ。

そう奮い立った瞬間、瞼の裏にキャロルの可憐な姿が浮かび上がった。彼女から発せられるのは、ミタムンの壮絶な死の幻影を打ち消すような、柔らかい暖かな生命の息吹だ。
結局、今度も最後まで笑顔を見せることはなかったが、泣き顔や挑むような表情でさえ、清々しくしなやかな命の力強さを感じる。そうまさに初春の嵐のようなキャロルは、たとえ真実、神の娘でなくとも誰もが惹きつけられる存在だろう。

あの娘を本当に笑わせてみたい、と思う。あの娘が微笑めば、さぞ美しく、白い花がほころんだようになるに違いない。固い蕾のままのあの娘を、自分の手で花開かせたいー。

イズミルはふいに、自らを嗤(わら)った。まさかあんな小娘に心を奪われ、未練がましくこんなところで二の足を踏んでいるなど、父や母が知ったらなんと言うだろう。
だがなぜか、ミタムンを想うたび、こうしてキャロルへの思慕も同時に溢れていく。まるで両者のあざなえる縄に巻き込まれ翻弄されていくかのように。

「あのう…イズミル様」

そう声をかけられ、王子は目を開けた。

「…」

疲れた顔のヒッタイト兵ーーいまは商人に化けているが、部下のひとりが、なにごとか言いたげにこちらを見ていた。またその後ろには、共に砂漠を逃げてきた数十人の兵たちが、同じようにくたびれた様子で、揃って恨めしげな目を向けてくる。

王子は再び自嘲した。
彼らが何を言いたいのかはわかっている。早い話、実にならぬ戦など早々に切り上げ、さっさと故郷に帰らせてほしいということだ。
いまや兵たちの王子への評価は失望に近い。敗け戦をニ度重ね、神の娘とは申せ、この期に及んでまだ異国の女に執着するなど愚かにも程があるではないか。

(そう思われても無理はない)

そう自身を鼻で嗤ったが、頭はいたって冷静であった。たしかに、単なる色事で国を振り回しかねない王子の行動は非難されて当然である。
だが王子に諦める気はない。ここで何もせず引き返せば、それこそ収穫もなにもなく無能者の極みだ。イズミルはもう一度深く息を吸い、さらに平静になるよう努めた。

(ミタムンの報復を果たし、ナイルの娘を得る。次こそはこの宿願を達成せねば、後が無い。だがくれぐれも感情に流され、おぼれたまま事を起こしてはならない。)

このヒッタイトの嫡子は、殊に感情を抑制する能力に長けていた。

(これは復讐の戦いでも、愛を得るための戦いでもない。すべてはヒッタイト存続のためであり、わたし自身すらその歯車のひとつに過ぎない。)

胸中に渦巻く想いをなかば禁欲的に封じ込めながら、その実、その欲望のために動くのだ。
良し悪しはともかく、男のこうした特性は近隣国にも情報として密かに漏れ広がりつつあった。
私情に溺れることなく冷静に、誰にも公平な判断が下せる能力を為政者に求めるのは、古代でも現代でも変わらない。
父王の治世がいまだ堅固であるゆえ、正式には決められていないが、次期ヒッタイト王となるであろうイズミルに畏れを抱く者も、すでにあらわれ始めていた。

(いかなる場合も冷徹に思考し、判断して決断を下す。それが目的を果たすために最も重要なことだ。わが妹はそれを欠いた。ゆえに失敗したのだー。)

王子は兵たちに向き直ると、おもむろに告げた。

「国へ帰りたい者は帰るがよい」

唐突な主の言葉に、臣下の者たちは顔を合わせていぶかしむ。

「だが、わたしはミタムンを殺したエジプトをこのまま見逃すわけにはいかぬ。わたしは妹のために今一度策を練る。これが最後だ。
そなたらには十分付き合ってもらった。国へ帰ったら褒美を取らせるよう父上に進言しておこう。帰りたい者は止めぬ。自ままに致せ」

動く者はいない。ミタムンの名を口にすると、兵たちは静まり返って王子をじっと見上げた。その視線を受け止めながらイズミルは言葉を継いだ。

「だが、わたしを信じ残る者は聞け。
ミタムンの死により和平は壊れた。これよりは、我が国がいかにしてエジプトより優位に立つかの瀬戸際。
いまから新たな作戦を言い渡す。やはり鍵となるはナイルの娘だ。ここ数週間の間に得た情報を元に、もう一度メンフィス王を罠にかける」

王子がそう決意を述べると、疲れ果てていた兵たちの目が徐々に熱を帯びていくようだった。

「エジプトには必ず一矢報いねばならない。いや、一矢報いるだけでは足らぬ。これを好機としてエジプトの国の威勢を削ぎ、傾かせるのだ。すべては我がヒッタイトのために…そして、それこそが」

兵ひとりひとりを眺めながら、鋭く鷹のような目をひらめかせてこう言い添えた。

「ミタムンへの弔いだ」

王子に失望しかけていた兵士たちは思いなおしたようだった。皆無言で首肯して、王子の指示を待つ態度を示した。

もとは様々な国の寄せ集めであるヒッタイト人は、実際、主君の首のひとつやふたつ飛ぼうが気にしない質だった。主君が翌朝、別の人物にすげ替わることも、彼らにとっては日常で、忠誠心は薄い方だったに違いない。国として統率性を維持するために、細かい規則や制限を設け、破った者には厳しい罰が加えられた。また、王族や貴族の上層部では法律のようなものまで作って人を御していた。

王子とて、ここで失態を演じれば、兵の信頼はニ度と戻らないだろう。口先で納得させはしたが、次が無いことに変わりはない。

しかし、この不敵で狡猾な男は兵の士気など意に介さずの体だった。ここまで手こずりはしたものの、次の手で必ず蹴りをつけられると踏んでいた。

天に、きぃきぃと鋭い鳴き声を発して一羽の隼(はやぶさ)がよぎる。ナイルの河辺で獲物を探して飛び回る猛禽の鳥だ。
河の水が増えきったあとは、引いていくだけ。あの隼は、水が引いたあとの逃げ遅れた魚を狙っているのだろう。
鳥影を追って目を細めながら男は笑う。

(待っておれ…メンフィス王)

策があった。

愛憎の果て(後編)

「あねうえ…!あねうえ、どこ?」

「メンフィス…!あなたの姉上はここよ」

表に出て地面に膝をつくと、幼い弟を両手を広げて迎えた。宮殿の庭は光に満ちて、競うように萌え出でた草花がそよそよと緩やかな風になびいていた。

「まあ、泥だらけ…。また外で暴れてきたのね?仕様のないこと…」

「あねうえ…
どうしてわたしには、ははうえがいないのですか?」

「メンフィス…」

「あねうえにはときどき、ははうえから〈てがみ〉がとどく。でもわたしには…てがみもとどかないし、おカオも、みたことが、ない。」

普段は活発できかん坊の、侍女が手を焼く王子だったが、このときは珍しく母のいないのを寂しがっているようだった。御守りのスカラベのように小さな握りこぶしを、ほんの一回り大きな自分の手できゅっと握って、アイシスはこう諭した。

「メンフィス、あなたの母上は、葦の原野の…神の国におられるのよ。」

かみの、くに、と姉の言葉をゆっくりと繰り返すと、つぶらな黒い瞳が悲しみに暮れた色になる。メンフィスは、口を尖らせながら言う。

「ならわたしは、ははうえには、もうあえないのだな」

うつむく弟にアイシスは優しく微笑んで言った。

「母上がおられなくても、あなたにはこの姉上がいるではありませぬか」

「あねうえが…?」

「わたしくしは、あなたの姉であり、母であり、つま、なのですよ。わたくしは、ずっとあなたのそばにいるわ」

妻、というところは、初めて口に出したら、なんだが気恥ずかしいような、くすぐったいような心地がした。
そしてメンフィスはアイシスにそう言われ安心したのか、

「うん」

と真剣な顔つきでうなずいて、またぱっと表に駆け出していってしまった。

(待って…)

アイシスは小さなメンフィスの背中に手を伸ばし、追いかけた。追いかけて走るうち、小さなメンフィスの背中はみるみる成長していく。
幼い子供から少年へ、少年から青年へ。
そして凛々しいファラオとなった弟は立ち止まって姉を振り返った。

(メンフィス…)

(姉上、わたくしはもう子供ではありません)

アイシスへ向けられた視線は険しく、幼い日の弟はいない。それどころか、彼の瞳は姉への厭わしさや拒絶に満ちていた。
アイシスはたまらず叫んだ。

(わたくしをそんな目でみないでメンフィス!)

(姉上の言いなりにはならない。自分の妃は自分で決めます)

言い捨てると、再びアイシスに背を向けた。

(そんな、メンフィス…
待って!メンフィス!!!)

目を開けた時、涙が頬を伝っていた。午睡から覚めた女王は赤い唇を歪ませて笑う。

(幸せだった頃の夢だけでよかったものを)

寝台から身を起こすと、午後の熱気が立ちこめてきて眩暈がしそうだ。

「アリや」

「は、なんでございましょう。アイシス様」

女官のアリを呼ぶと、すぐに間仕切りの影から返事が返ってきた。

「神殿に行く。供は要らぬ。」

とだけ伝えて、寝台から起き上がった。
乾燥した植物の蔦(ツタ)で編まれた座面がぎしり、ざくり、と柔らかい音を立てて軋む。
高貴な身分の者が使用するベッドは、身体を横たえる部分が網目状になっていて通気性がよく、エジプトの気候に合う優れたつくりになっている。ただ、真夏の暑さは耐えがたく、涼しげなベッドだけでは凌げない。
ナイルの水が引き込んであり、風通しのよい神殿内に涼を求め、アイシスは自室を出た。

常ならば、侍女が数人付き従うものだが、いまはそれも煩わしい。
巨大な石柱が並び、まるで森のような回廊をひとり進む。強い陽が差し込んで、砂岩の床に真っ直ぐ白黒の帯模様をつくっている。アイシスは規則的な影模様の中をゆっくりと歩いた。表に目を移せば、遠く陽炎の先から、かすかに喚声が聞こえてくる。
今ごろはナイルの水が引き始め、農民たちが残った泥で畑をたがやし、種を撒いたり、新たな苗を植えたりする作業にいそしんでいることだろう。
アイシスは唇を噛んだ。いまやナイルの恩恵は、そのままキャロルへの忠誠心に変わっていた。

(どうすればよいのじゃ)

このままではアイシスの立場はますます悪くなる一方だ。その上、もし本当にキャロルが王妃になってしまったら、その後のわが身など、考えたくもない。
メンフィスが頑なに離さないキャロルを、なんとか亡きものにする方法はないかと、そればかりを考えていた。

(直接手を下したと知れれば、メンフィスは怒り、このわたくしを罰するでしょう。それに、キャロルを神の娘と信じ込んでいる民達はわたくしを許さない。それでは意味が無い。)

現代人の感覚からすれば、アイシスの行動は残忍に思える。だが古代の王族にとってはこれも己が生き抜くすべであった。
この王宮で孤独だったのは、メンフィス王だけではない。アイシスだとて、生まれの高貴さのみに甘んじず、自身の努力によっていまの地位を築いてきた。

実のところ、メンフィスとは腹違いの姉弟で、アイシスの母は正妻ではなく父王に召し出された市井の人だった。いわゆる庶子であるアイシスは、母の苦労や父の無情、宮廷人達の口さがのなさなどを幼い頃から見聞きしており、王宮社会の裏にある人間の醜さ狡猾さは、弟よりもはるかに身に染みている。

王宮の内外で、王座を狙う者は大勢いる。邪な者達から弟を護ってきたのはアイシスだった。権力とは、見た目の華やかさと裏腹に冷たく脆いものと知っていた。力を持てば人が集まり持て囃されるが、その分、失えば身ぐるみを剥がされるばかりか、命さえ危うい。
だからいま、キャロルを殺さねば自分が殺されるのだ、王宮とはそういう場所である。だからこそ容赦はない。

神殿に入ると、ひんやりとまではいかないが、幾分涼しい風が吹く。生木に似た香りの乳香がほのかに漂い、引きこんだナイルの水音が静かに響く。アイシスにとって、身が引き締まると同時に気が落ち着く場所だ。
しかし、今日ばかりは様子が違った。普段ならば、まずその場にいる神官達がアイシスを丁重に出迎え、ご用伺いにくるはず。
だが、いまはだれの気配もなかった。いや、気配がないのではない。だれかがじっと気配を殺している。警戒しつつも鋭く声を放った

「誰ぞ、そこにおるのか!」

神殿内に反響した声が消えて少しあと、背後から声がした。

「わたしよ、アイシス」

振り返ってそこにいたのは、まさにいま、殺してやろうと考えていた相手だった。

「ふっおまえか、キャロル。神官達はどうしたのじゃ。」

殺意を気取られぬように、芥(あくた)でも眺めるような目を向けるアイシスに、キャロルはややたじろぎながらも、はっきりとした口調で、

「"アイシス様に話があるのでふたりにして"とお願いしたの」

(こざかしい真似を)

アイシスは鼻であしらい、にべもなく突き放す。

「お前に話すことなどない」

「現代への帰り方を教えて!」

キャロルは間髪いれず本題をぶつけた。

「わたしを連れてきたのはあなたでしょう!
わたしとみんなを騙し、パパを殺して…!もう気が済んだでしょ?わたしが邪魔ならば…お願い、もとの場所に帰して!」

キャロルは必死に訴えた。ずっとここにいて、結局帰る方法がわかるのはアイシスしかいなかった。唯一の頼みの綱だ。

「知らぬ」

「アイシス!」

「おほほ…愚かな娘じゃ。あろうことかお前を憎むこのわたくしに、助けを求めるなど。」

冷酷な嘲笑をおさめると、すっと黒い瞳が細められる。

「だいたい、わたくしがお前に手を貸して、なんの得がある。邪魔ならば殺すだけの話」

「…!」

アイシスはさっと片腕を上げた。すると、神殿の柱の影から武装した人物がひとり、音もなく現れた。神官ではなく、屈強そうな男だ。神殿の護衛にしては眼光鋭く、身なりからしてあまり身分の高い者でもなさそうだ。戦士か刺客の風貌である。おそらく、アイシスが神官どもと共謀し密かに雇っている私兵だろう。1人だけとはいえ、武器で襲われたら敵わない。
キャロルは背筋に嫌な汗が伝うのを感じながら、じりじりと男から距離をとる。

「キャロル、お前にはここで死んでもらう」

万事休す、歯牙にかかる寸前の獲物と思われたキャロルが咄嗟に放った言葉に、女王の表情が一瞬硬直した。

「ルカが…ルカが来るわ」

「なに?」

「ルカに、アイシスに会に行くと伝えてあるわ。時間と場所も。もし長く戻らなければ、ここへ探しにくる。
そしてそのときは、わたしがいなくなったことをメンフィスに報告するように言ってあるわ。」

(おのれ…小娘が)

漆黒の女王と黄金の少女は、静まり返った神殿内で睨み合う。

「わ、わたしだって馬鹿じゃない。ふたりきりになれば、あなたがわたしを殺そうとすることくらいわかるわ。だから手は打った。」

「……」

「アイシスお願い。メンフィスとあなたの墓を暴いたことは謝るわ。けど、悪気があった訳じゃないの。
パパは犠牲になったけど、わたしは恨んだりしない。奪われたメンフィスのミイラは、帰ったら兄さんと一緒に必ず探して取り戻す…!だから…!」

「お前の謝罪など要らぬ!」

真紅の唇を震わせてアイシスは叫んだ。

「アイシス…」

「知ったような口を利くな!お前ごときにわたくしのなにがわかる。お前など"用"が済めば死ぬはずだったのじゃ!それなのに…」

「"用"…?」

急に感情的になったアイシスに驚くも、これまでに自分が知らされてない事情が隠されているように思えたキャロルは、さらに追及した。

「…わたしをここに呼び寄せたのには、他になにか理由があるの?」

アイシスは憎しげにキャロルをにらむばかりで、黙っている。考えてもみれば、おかしな話だ。なぜアイシスはわたしを殺さず、わざわざこの世界に連れ去ったのか。なぜ、メンフィスに見つかるまで奴隷として泳がせておいたのか。湧いた疑念はどんどんと膨らんでいく。
キャロルはしびれを切らし、武器を向ける神殿兵にかまわず、アイシスに駆け寄り、とりすがって叫んだ。

「教えてアイシス!わたしは死ぬわけにはいかない!それにメンフィスと結婚するなんてできないわ。お願いよ。わたしに出て行かせてちょうだい」

アイシスはしばらく、燃える目でキャロルを見下ろしていたが、やがて苛立たしそうに息を吐いた。

「…神殿兵」

目の動きだけで命じると、神殿兵の男は声も漏らさず不気味な静けさを保ったまま、のっそりと下がっていった。
聞こえない距離まで離れてから、アイシスは取りついたキャロルを振り払い、ようやく口をきいた。

「お前を元の場所に戻す方法がわからぬのは本当じゃ」

「…そんな!」

「だが、呪いを解くことはできるかもしれぬ」

「どういうこと…?」

キャロルを残し、アイシスは正面にある祭壇に向かって歩いた。
低い階段の上に、胸の高さほどの四角い大きな供物台が鎮座している。上には儀式で使う道具などが置かれ、仄かに乳香の残り香が漂う。供物台を挟んで両側には、神格化された歴代ファラオの巨像が護るようにそびえる。

差しこむ陽光はいつの間にか傾いて、砂漠硝子(リビアングラス)のかけらのような黄色が、神殿内の床や天井、石像や壁画などの装飾を一面に染めた。光に照らし出されたそれらの砂岩の肌には、珪砂(けいさ)の粒子が浮かび、眩しく虹色に点滅した。
並ぶ列柱の奥の中庭に目をやれば、ナイルの水が満ちる池に純白の睡蓮が可憐に咲き、光の網が天井や壁に反射しては揺らめいた。

太陽の神殿にふさわしい荘厳さに、こんな用事で来たのでなければ見惚れていられたのに、とキャロルは思った。

「呪いを解いたとて、お前が元の場所に戻れるかはわからぬということじゃ。」

供物台の前に立ったアイシスは、キャロルに背を向けたまま、片頬を歪めて言った。

「そもそも、王家の呪いなどただの口実。
わたくしは、"メンフィスを救うために"禁術を使った。」

「…禁術?メンフィスを救うため…って?」

キャロルは思わずアイシスを追い、階段を登って祭壇の彼女に近づいた。そして、カチャリ、と金属の高い音が鳴ったと思うと、三日月形の短剣が喉元に突きつけられていた。生け贄の心臓に突き立てる聖剣だ。

「すぐにメンフィスの目の前から消えよ。」

キャロルは息もできず、突きつけられた刃と、アイシスを交互に見た。

「さもなくば殺す。」

「…な、」

やっとのことで息を吐き出して、

「…でも、どうやって?メンフィスの監視が酷くてここを抜け出せないわ」

「わたしがお前を密かに外国へ逃がす。
そうじゃな…バビロニアあたりにでも売ってやろう。」

「バ、バビロニア…?」

「それを承知するなら、本当のことを話してやろう。だが、否というならここでお前を殺し、遺体をナイルに流す。
ほほ、お前の母や兄がお前の死体を見つけたら、どんな顔をするであろうな」

いかにも愉快げに、残忍な笑みを浮かべるアイシスに背筋が氷る。女王は本気だ。

「わ、わかったわ…。わたしがバビロニアに逃げればいいのね。」

この状況では、首を縦に振るしかない。

「だけど、呪いはどうすればいいの…?手掛かりだけでもなければ…」

「まこと、五月蝿い小娘じゃ」

アイシスが言葉を遮り、鋭利な切っ先をぐいと鼻先に近づけた。そして、そのままゆっくりと階段を降りながらにじりよる。キャロルは唾を飲み込んで、後ずさった。

「お前など殺して仕舞いだったはずなのに、面倒なことになった。」

「…」

キャロルは、アイシスの恐ろしさを知っていたが、それはメンフィスへの愛ゆえにだということも理解しているつもりだった。
恐怖をこらえ、後退する足を踏みとどめながら、凶刃の向こうで憎悪にたぎる両目を見据えた。

「アイシス…でも、わたしは生きたい。」

「…!」

キャロルは剣を突きつけられたまま、白い腕を伸ばすと、刃を握るアイシスの指にそっと触れた。

「お願い、手を貸してアイシス。
その代わり、あなたがもう人を殺めなくてもいいように、わたしも手伝うから」

そう告げた瞬間、突きつけられた剣先が揺れた。
しばらくキャロルの目鼻の先で小刻みに震え、ようやくふっと力が抜けたように下に降ろされた。
向かい合うふたりの脳裏には、きっと同じ光景が浮かんだであろう。熱い炎に呑まれて死んだヒッタイト王女の姿だ。

「わたくしはただ、メンフィスを護りたかった…」

短剣がするりと女王の指から滑り落ちた。かしゃん、と静かな音が神殿内に響いた。アイシスは床に目を伏せ、左腕で反対の腕を抱いた。

神殿のなかは昼から夕へ、眩しい黄色から熟れた棗椰子に似た柔らかな橙(だいだい)に変わり、二人を包んでいた。
キャロルは、黙ってアイシスの前に膝を折った。地べたに座ると静かな目で彼女を見上げ、話の続きを待った。アイシスもキャロルを見たが、そこに憎しみの炎は無かった。

キャロルを殺すことを諦めた女王は、再び祭壇の方を振り仰いだ。つけ髭に大きなネメス(頭巾)と、聖蛇の額飾りを身に付けた威厳ある姿のファラオ像が、夕陽色に染まりながら二人を見下ろしている。

「我が弟メンフィスは、もともと死ぬ運命だった。」

かすれて消えそうな声の告白だった。キャロルは目を見開いた。

「えっ?」

「たとえ神の定めでも、わたくしはどうしてもメンフィスの死を受け入れることができなかった。
…だから、その運命を変えるために、お前を未来から呼び寄せたのじゃ。」

それを聞いたキャロルは、はっとして、王家の谷からメンフィスの棺が発見されたときのことを思い出した。
眠るミイラを詳しく調べれば、それは若くして死んだ青年王だった。惜しげもない量の黄金で塗り固められ、厳重に幾層にも重ねられた、その一番最後の棺のなかには、枯れた矢車菊の花束が添えられていた。
手向けた人の想いを感じて、キャロルは他のどんな豪華な装飾よりもその花束が美しいと思った。

(あれはアイシスが…)

キャロルの反応を気にかける様子もなく、アイシスは独白のように淡々と語り続けた。

「未来を予見するという呪術師に命じて、メンフィスの未来を何度も占わせた。しかし、毒蛇に噛まれて死ぬ、戦の最中に死ぬ、王宮で何者かに暗殺される…結局、メンフィスの生きる未来はどこにもなかった。わたくしは絶望した。」

無感情に語っているようでも、言葉の端を震わすアイシスに、キャロルも次第に胸が苦しくなってくる。
若く雄々しく、民の期待に応えて、これから立派な王者たらんとするあのメンフィスが死ぬなんて、とても考えられなかった。その喪失感は想像にすら堪えない。

「そして、ついにその未来が来た時、わたくしはメンフィスの死を嘆き悲しむ事さえ許されなかった。メンフィスが死んだ後、すぐにバビロニアの王がやってきた。」

「バビロニアの…?」

アイシスはこちらを振り返り、皮肉と後悔のにじむ笑みを浮かべた。

「バビロニアのラガシュという王だ。メンフィスが死んですぐに、わたくしに結婚を迫った。ずっと狙っておったのじゃ。わたくしと…このエジプトとをな。
わたくしは、メンフィスのことばかりを気にかけていてラガシュの思惑に気付かず、まんまと奴の仕掛けた罠に嵌まってしまった。」

アイシスにとって、なんてむごい運命なのだろう。愛する人を喪ったいうだけでも辛いことなのに、すぐに他の男との結婚を強要されるだなんて。もはや、キャロルはアイシスに同情するどころか、あまりにも非情な運命に怒りすら覚えていた。
しかしそんな悲劇の当事者であるはずのアイシスは、驚くことを口にした。

「わたくしはラガシュ王との結婚を拒み、自ら命を絶った」

「…え!?」

「ふっ、このわたくしがただで死ぬものか。自らを贄(にえ)とし、禁じられた術を使ったのじゃ。そして、現代に行きお前を捕えた。」

艶やかなのにどこか背筋が凍えるような微笑みに戻って、アイシスは言った。キャロルは彼女に心を寄せかけたところを、急に突き飛ばされたようで唖然となった。
弟の後を追って死んだアイシスは、自らに復活の術を施し、現代によみがえった。

「メンフィスのミイラを盗んだのは、誰でもないこのわたくしじゃ。未来に行ったのは過去を書き換えるためよ。未来にあるメンフィスのミイラと、その"身代わり"となる者が必要だった。」

最初はキャロルの父を身代わりとしたが、うまくいかなかった。そこで「運命を変える者」として娘のキャロルを古代に呼び寄せた。思惑通りにキャロルはメンフィスの命を救い、メンフィスが死ぬ過去は書き換えられた。しかし今度はメンフィスがキャロルを深く愛してしまい、キャロルの存在をもて余したアイシスは、用済みであるキャロルを殺そうとした、というのが真のいきさつであった。

「本当はメンフィスが生きてさえいれば、どんな未来でもよかった…。しかし、お前はあまりにも余計なことをしすぎた。」

この上、エジプト王妃になるなど馬鹿げている、とアイシスは吐き捨てた。
キャロル自身も、それはそう思う。でも、利用するだけしておいてあとは死ね、なんてあんまりだ、思った。それに、

「あなたは、メンフィスを救うためにわたしのパパを犠牲にしたのね…」

「ああそうじゃ。だが、それがなんだというのじゃ。人とはそういうものであろう。皆、誰かの犠牲の上に生きている」

違う、と言おうとして、でも声がでなかった。
アイシスのメンフィスを想う心はわかる。でもそのためにパパは死に、自分も古代に連れ去られた上に抜け出せなくなった。それだけではない。戦で多くの人命が失われた。命を命で償っても、悲しみと憎しみが広がるばかりで"きり"がない。

(こんなこと…わたしで終わりにしなくちゃ)

陽が沈みつつあるのか、薄暗くなってきた外をちらと見て、気持ちが急いてくる。ずっと座り通しで話を聞いていたキャロルは、立ち上がって言った。

「…それで、その術を解くにはどうしたらいいの?メンフィスが生きているから、わたしはもう用済みで、ここにいる必要はないんでしょう?」

「おお、そうであった。この呪術を解くには、お前にバビロニアに行ってもらわねばならぬ。」

一転、愉しそうに目を細めながらアイシスは言う。

「わたしは、呪術板で行動が縛られておるのじゃ。お前も見たであろう。現代でライアンたちが修復した、焼き粘土で造られた呪術板じゃ。
あれは、わたしの邪魔をするためにバビロニアの呪術師が造ったもの。」

おそらく、ラガシュ王の差し金だろう。と忌々しそうに呟いた。

「現代にあるそれは壊せぬゆえ、今この世界にあるものを壊すしかない。さすればわたしは解放され、おまえを元の世界に還せるじゃろう」

「その呪術板が…バビロニアにあるのね」

「おそらくな」

このままアイシスの言うことを信用していいのだろうか。でも、いまは信用するしかない。とにかくここを出て、アイシスの邪魔をしているというその呪術板を探し出して破壊する。今後の目的がはっきりしただけでも大きな収穫とみるべきだ。
そんなキャロルの心を見透かしたか、宵闇にたたずむアイシスの瞳が怪しげに閃いた。

「信じるかどうかはお前次第じゃ。
お前が出ていくと言うなら、いくらでも手を貸そう。
だが、ここに留まる限りはお前の命を狙い続ける。」

「…わかってるわ」

重く言葉を返した時、静まり返っていた神殿内が、急に騒がしくなった。誰かが入ってくる声がする。

「キャロル様!どこですか!」

「ルカ」

ここよ、と声をかけると、従者のルカが入口に立って、松明をかざしながらこちらを探していた。
そして、ルカの後ろに続いて、何人かの護衛を引き連れたメンフィス王その人が入ってきた。紺地に金の鷲が翼を広げた柄の外套を翻しながら向かってくる。

「姉上」

弟王がずんずんと神殿の奥に入ってきても、姉のアイシスは動じなかった。

「メンフィス、わたくしになにか」

「キャロルに、なにをしているのです」

メンフィスはアイシスとキャロルの間に立ちはだかり、半ば詰問した。

「メンフィス」

キャロルが口を挟みかけるも、強い眼差しで制される。

「…ほほ、わたくしがキャロルになにかするとでも?」

「姉上は、キャロルを憎んでいる」

「まあ、憎む?…それは違うわメンフィス」

薄闇で、アイシスの瞳は恐ろしい輝きを放っているかに見える。つと、その指先を伸ばして、

「その娘はあなたから逃げたがっている。だから、わたくしは親切にも手を貸そうとしているだけよ。」

「…っアイシス!」

たまらず叫ぶと、今度はメンフィスがキャロルの腕をつかんだ。

「キャロル…そなたまだそのようなことを…!」

「ち、ちがうわ。そうじゃなくて…」

思わずアイシスの方に抗議の目を向けるが、何処吹く風とこちらを弄んでいる体だ。
まなこを吊り上げているメンフィスに向かって訴えた。

「わたしは…ただ、家に帰りたいだけで、」

そうだ。本当に家に帰りたいだけで、誰も傷つけるつもりなんかない。

「その、あ、アイシスに頼んであなたを説得してもらおうと…」

なにかが込みあげてきて、途端胸が詰まる。言い訳をするのつもりが、語尾がぐずついてしまった。家に帰りたいと口に出せば、その想いが堰を切って溢れてしまいそうだった。

「…そなたの家はここだ」

娘を手離したくない青年王は、そう言い聞かせるように断じて、掴んでいた腕を離すと、そのまま娘の手を握って己の傍に引き寄せた。単に里心を起こしたものととったらしい。

「宮殿へ戻るぞ。
姉上、キャロルの言うことを真に受けぬよう」

言い置くと、来たときと同じような速度で神殿の入口に向かって踵を返した。
メンフィスにぐいぐい手を引かれながら一度だけ振り返ったが、アイシスの表情は薄闇にまぎれて窺えなかった。

彼女を完全に信用できるわけじゃない。でも、嘘を言っている様子でもなかった。

(バビロニアに行こう)

わだかまりの残る心を抱えつつも、キャロルは前を向いた。自分が家に帰ることが出来たならば、きっとなにも問題はないはずだ。それ以外のことは考えないようにしよう。

だがそもそも、どうやってバビロニアに行けばいいのだろう、とキャロルが考え始める頃、いまだアイシスは独り、メンフィスの去った先を見つめていた。

陽が落ちたあとの神殿に、神官たちの手によって次々とかがり火が焚かれてゆく。夜の海を思わせる瞳は深い憂いをたたえ、熱い炎を映して眩惑(げんわく)的にゆらめいた。
アイシスの名の由来であるエジプトの女神イシスは、息子ホルスを愛するあまり、魔術を使って父神のラーを弑逆しようとするなど、王権を巡る謀略に手を染めたという。以来、彼女は王権の守護者、或いは謀略の神となった。
奇しくも、その名の通りの命運を背負うアイシスは、血の色に似た唇をわずかに動かし呟いた。

「あなたは愚かだわ、メンフィス」

このときアイシスは、暗がりに潜む者の気配に気づいていなかった。

(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑦

(仮)王家の紋章創作(イズミルルート)⑦

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