武州大乱

公家龍司

戦国武将列伝、太田資正と北条氏康の因縁 ~なぜ知将は覇王を裏切ったのか?~ 同時代を生きた武将の証言

   第一章 ()(ちよう)


一、雨駈ける茜
(あかね)(15)

 悪路だった。
 雨が寒い。鳴る風が痛い。越える道が淡く、深い。
 踏みしめる土が軟らかく、冷えた腰が(きし)み、重たく沈む。
 眼が濁り、真暗になる。泥に足を取られ、転びそうになったら、声がした。
「人が人を信じられぬ世のなか、人はなにを信じるのか。こんな紙きれではなくてな」
 なにを、信じるか。
 神仏や国家、主君、また忠臣。師弟と長幼、悪友と親友。義理の父母、兄弟、姉妹。(いち)(ぞく)(ろう)(とう)、親兄弟、犬畜生。なにを選ぶかが、人の一生なのだろう。
 誰がために、生きるのか。
 逆上(のぼ)せた問いだ。口にするのも、(はばか)る。
 土が匂った。雨を()くと()れた身体が、雨しぶく(みち)に転げる。
 赤土が、(せま)る。水たまりにうつる能面を(なぐ)ったら、ぽたぽたと揺れるだけで、両眼をうしなった顔の(くち)もとは、わずかに笑んでいた。
「馬だったら、愚痴をいわぬだろう」
 
 踏む土が硬い、と感じれば、そらを覆っていた黒雲が散っていて、いつしか雨あしは弱まっていた。
 にしの空を見ると、おちる陽があって、地平を赤く染めている。
「急がねば」とおもったら、腰が浮き、背から地に(たた)かれた。なにごとかと、かすんだ視界をひろげた。影がこちらを、(のぞ)いている。
「おい、あんた。待ってくれ」と、声をかけられたら、しばしの沈黙のあと、「あん、女か」と、低い声がした。 
 跳ねあがり、短刀で、声を突く。
 男が、のけ反る。「あぶねえな」眼をひん()き、「話してるだけだろうがよ、なんだ」と、いってきた。
 右足首が(しび)れていた。
 足をすらし、後ろにさがる。張りのある(つた)を感じた。見たら、道をはさむ小木の幹に蔦が巻かれてある。
 誰かが引っ掛かるのを、待ち伏せていたのだろう。
「そんな()っかするな。争う気はねえ」男はあげた手のひらを見せ、腰の太刀に手をつける様子はない。ただ立っている。
 貧相な身なりから、()(じき)にみえた。殺気を一切感じない。刃をしまい、()いた。「なんだ?」
「おう。ああ、だけど、詳しく話そうとすれば、なかなか長くなるんだが、どうしたもんか」
「なんなの?」
「いや、すまん。かい摘まんで話すよ、ああっと」男は近くにあった古木に座った。「わるいな、時間をとらせないからよ。ほんのひとときだ、俺の話を聞いてくれ。ええっとな」
「で、なに?」
「すまん、すまん」手を組み、見つめてくる。「俺は、(いわ)(つき)(いぬ)だ。名はない。捨てた名だ」
「戌」は、岩付|(おお)()が用いる()(ちよう)で、太田家直属の足軽を意味する。戌は、岩付と(まつ)(やま)の二城にそれぞれ五十人いて、この男は、岩付足軽のひとりだろう。
 身内だとわかって気がゆるみ、息を吐き、「(あかね)」と名をいった。
「おう、茜。俺はな、殿から松山に書状を届けよ、と命じられているわけだが」
「なら、早くゆけ。(うえ)(すぎ)どのが待っている」
「待ってくれ。最後まで聞いてくれ。あとちょっとだけだ」いままでの威勢は、臆病な自身を隠すためか、とおもうぐらいに、虚栄な男は暗くなった。瞳に涙をにじませ、青白い顔で、こちらを見る。「なくした。書状を」
 使()(しや)にとって、書状をなくすは、命をなくすと同義。むかし、祖父に聞いた言葉を思いだした。
 さて、ゆこうとしたら、男が手首を(つか)んできて、だみ声を震わせ、言葉が(のど)をつまらせても、まえ歯をこじあけ、舌が言葉を吐きだした。「正しくは、盗まれた」
 紛失でも、斬首を(まぬが)れないのに、盗まれた、だと。
 なくしても、敵方に読まれない望みも、十分にありえる。字を読めない百姓にひろわれ、ちり紙にされて内容が読まれなければ、書状の機密は保たれ、害はきわめて少ない。
 ただ、盗まれたとなると、別の話だ。
 こいつのなりでは、銭や米などの物品、つまり商人をねらった盗みではなく、密使をねらった外交がらみの盗みと考えるのが妥当であろう。
 金品ではなく、わざわざ書状を盗む、というのは、その書状に盗むに相当する情報が書かれてあると()っているからなのだ。それを識っている(やから)といえば、敵の(かん)(じや)くらいだ。
 男は前歯で下唇を噛み、屈んでいる。
 盗まれた書状を放っておいたら、害となる。
 なんとかしなければ、主君に背いた不義になるのでは。哀れな男を見なかった、なにも聞かなかった、と心の奥底にしまいこんで、本当によいのだろうか。
「俺には、あんたとおなじくれえの、娘がいてな。食わしてゆかにゃならん。だから、いま死ぬわけにはいけねえんだ」垂れた(はな)をすすり、拝んできた。「さっきの身のこなし、あんたも密使だろ。書状を盗りかえすのに、ひとつな、力を貸してくれんか。俺ひとりじゃ心もとない。こかしたのは謝るからよ、本当にすまねえ」
「うるさい。少し黙って」心が乱れ、思わず大声が出、怒声となった。
 一喝された男の背が伸び、頭頂を両手で抑えたら丸く縮こまった。うすい毛を()きむしり()(えつ)をくり返している。
 心の根の底を破って、若い(つぼみ)が、茜に芽吹こうとしていた。

 茜は十になっても、まともに話せなかった。
 通っていた寺の僧、手習いにきていた武家、商人の子らから、奇異な眼でみられ、軽口をたたかれて、やることなすことをからかわれ、嘲笑の(さら)しものにされ、皆から()(ほう)とおもわれ、すれ違うたびに()()にされ、あきたら無視され、孤立した。
 いつしか存在を忘れさられ、輪のなかの流れから取りのこされ、人でなくなり、また獣ともいえず、かといって世俗をはなれた仙人にもなれず、意志のないただの人形になりさがった。
 終いには気晴らしの奸計にはめられ、貞節をうしなった。
 心は傷だらけ。心のかたちはゆがみ、傷の()える見こみはなく、生きる力はなくなった。
 やすらかな早い死を求めるのが、のちの主人を知らない幼き茜の唯一の希望だった。

 男のそばに十の茜があらわれ、男を介抱しながら、なにかを問う純真な瞳をむけてくる。
「俺はどうしたらいい。生きているのか、死んでいるのかさえ、わからねえ」男の顔に血の気がない。虚ろにしたをむいて祈っている。
 男の肩に手を置いた。男がぼうっと顔をあげる。
「岩付の宿舎でなら、話の続きを聞けるけど、どう?」笑んで尋ねた。「どうせ、ながくなるんでしょ」
 夕陽を見て、その傾きをはかった。「暮れんな」と(つぶや)いたら()けだした。
 遅れて男が立ちあがると、かけ足で後ろについてきた。


二、百日の孤独
(おうぎ)(がやつ)(うえ)(すぎ)(しん)(くろ)(うど)(のり)(かつ)(35)

 孤独であった。
 (のり)(かつ)は妻の()()を抱き、女体のなかに桃源郷を求め、さまよっていた。必死に現実から逃げたが、(なま)めかしい千代の顔がとろけ、おどろおどろしい(うじ)(やす)の顔に変われば、夢|(うつつ)な幻から現実に帰されたのだ。
 眼をあけた。きょとんとした千代の顔が、そこにある。(おそ)ろしい顔が(ぼう)(ぜん)と浮かぶ気がして外に寝がえった。
「あなた、どうしたの? ふるえているわ」後ろから千代の湿った肌が、背と腰に吸いつく。甘い吐息が耳にかかると幾分か冷静さをとり戻す。呼吸の感覚が深くなるにつれ、身体の震えはしだいに治まってきた。背に千代の鼓動を感じる。
 虚ろに眼をとじたら千代と共に、春の河原にかえっていった。
 
 
三、凍える陽炎(かげろう)
(おお)()()(のの)(かみ)(すけ)(まさ)(39)

 指さきに感覚がない。
 両手のひらでふるえる唇をおおったら、霜の匂いが(のど)をさす。頭蓋の痛みに耐えながら口をひらくと、(はら)から息を吐きだした。
 (てのひら)が蒸され、人肌のあったかさが徐じょに戻ると節が動き、確かにここに指があると認める。
 が、そのわずかな隙を見はからって、あの冷気が甲の側からじわじわ攻めこんで潜熱を奪う。
 抵抗もむなしく再び、指をうしなった。
 霜のおりた枯れ草の原を(うさぎ)が跳んでいる。身ぶるいをしたら(すけ)(まさ)は狩ろうと定め、弓と矢を構えて弦をひいた。
 兎が、ぴたと動きをとめる。耳をたて、あたりを警戒しだす。
 息を殺した。胴を狙い、矢を放つ。
 放った矢は兎に吸いこまれ、かさと枯れた音がきこえる頃には、すでに兎は(くさ)(むら)におちていた。
 口を鳴らすと、ひらと風がおこる。後ろに影がすわった。
「お見事」片膝をつき、呼ばれた(てつ)(しん)が伏している。
「なあに、これしき。肩ならしにも、なるまい」肩をまわし、中腰になると腰を沈めた。尻のしたに(しよう)()が現れたら深く座りこんだ。
 秋のいろをうしなった野原を見はらし(ほお)(づえ)をつくと、ゆったりとした時間のなかでふけようとする。
 空が鳴いた。
 女の悲鳴だ。床几をこかし、立ちあがる。
 耳をすまし、あたりを(うかが)う。あの村か。なにやら騒がしい。
 影が、みえる。男の影が三つ、女の影も三つ交わっている。わめく女らに抱きつき股を()(そで)からまさぐりながら男らが歩いている。
 鉄心と共に原を突き進む。はげた岩肌に身をひそめ近くでみやる。
 野武士、か。
「止めて、やめて」と叫ぶ女らの手くびを掴んで茂みに連れようとしている。女たちの小袖は、抵抗したためか。みだらに破れ、すきまから白い肌があらわになっていた。
 奴らは三人だった。
 ひとりでやれると見こみ、攻めかからん、とする鉄心の動きを手で制する。
 矢筒から矢を三本とり内二本の矢を口にくわえた。弓に矢を一本そえ、弓を構える。弦をひいて狙いを定めると矢を放った。腰をひねり、狙いなおして、さらに一矢。続けて最後の一矢を放つ。
 矢を受け、野武士が(たお)れた。戸惑う女から()がされる。
 鉄心に声をかけ、女に忍びよると、なにがおこったか察しがついたらしい。小袖を着なおし、にこやかな表情を浮かべて頭を何度もさげてきた。
「おけがは?」
「ええ、おかげ様で」
「どうなされた?」村なかを見た。人の()(はい)はなく、静かだ。
「若い衆は皆、(いくさ)に出てます。ここにいるのは、()けた老人たちと、その面倒をする私ら三人だけですわ」
「留守を狙われた、わけか」
「はい。あなた方がおらなければ、いまごろ、どうなっていたか」
 礼をいう女の瞳に、わずかだったが、どこか悲しげないろがうつった。心の奥底に、なにやら闇を抱えているな、とおもった。
 女のひとりが口をひらく。「立ち話もなんですから、うちにおあがりなせえ。なんにもねえけど、暖ぐれえならとれますよ」
 いや結構と、いいかけたが、芯からひどく冷え、どこかで身体をあたためる必要があったし、女たちが隠している闇の正体にも気にかかり、少し話をしたい気分にもなったから、「では、遠慮なく」といい、好意に甘えた。
 住まいに通された。持っていた弓、担いでいた矢筒、かぶっていた笠、羽織っていた蓑を順に、()()に立てかけ、()(おけ)のそばに座る。
 炉火で手の裏表をあたため、冷えて凝りかたまった顔を、()みほぐし、疲れをとる。
 女が火桶を囲んで座ってくると、やわらかな表情でいう。「お気づきだと思いますがね。私ら三つ子の姉妹でして」
 いわれれば、三人、顔がよく似ている。「ああ確かに。して、姉さんは?」

 居間に灯が、つけられた。
 女の生いたちや、村での生活、将来の夢など、たわいもない話をきいていた。
 女らにはむろん、松や竹や梅やら、それぞれ名があるわけだが、しだいに誰が誰で、いま誰と話していて、いま誰から話しかけられたのか、見わけがつかなくなる。終いには、名を呼び間違えてしまった。非礼を()びようとすれば、その女が、下腹にすり寄ってきた。
 瞳が澄んでいる。かるく微笑むと、肩から小袖を脱いだ。
 横を見たら、鉄心にも女がつき、最初こそ戸惑っていたが、女二人がかりでおこされ、奥の間に連れられた。
 首すじをなめてくる。細い腕で肩に抱かれ、動けない。
 髪から値打ちの(かんざし)が抜かれ、ながい黒髪が女の顔を隠す。吐息で髪が、ゆれる。
 髪のすき間から、視線があった。
 一瞬だが、ためらいのいろが、瞳にうつる。とおもえばすぐに、殺気を帯びた、いろにかわっていた。
 身体が動く。腕をほどき、右手首と脇を掴んだ。跳ねて、腰を浮かす。足をふんばり、腰をひねると、背負い投げた。
 簪が床を転がり、女が派手におちる。
 息の荒い女が、床を()い、簪に手をのばす。から、足さきで簪を蹴りとばした。
 女が、女人とは思えぬ身のこなしで、跳んで立ちあがる。
 ただ者ではない。後ろに、さがる。
 ぱちっと、火の粉で(せつ)()(またた)いた。とおもえば、鼻さきに女の掌があったのだ。
 喉をつかまれる。怖ろしい力で絞められる。指を一本いっぽん剥がすのは、難儀だろう。
 やむをえぬ、か。
 手刀を尖らせ、「()(めん)」というと、女の首を叩きわった。いそいで息を継ぎ、()(まい)を凌いだ。
 首の(あざ)をさすりながら、簪を手に取る。調べたら、(くし)に隠し針があった。裏を見れば、簪のつけ根に、「三つ(うろこ)」の家紋が掘られてある。「うじやす、め」
 奥間に、駈ける。戸を、蹴やぶる。
 素っぱだかの鉄心が、(うごめ)く女にかぶさっていた。背には、簪を(くわ)えた女がついている。
 跳びかかった。
 背についた女の頬を殴り、指に挟んだ針で顔面を突き、腹を蹴りとばす。
 鉄心の脇を抱え、引きはがせば、濡れた女の、あご骨を足で砕いた。
「っせい」ぼうっとした鉄心の、頬を打つ。唇のゆがんだ鉄心の眼に、正気の火が戻る気配がした。「鉄心、あぶなかった。こやつら、伊勢の間者だぞ」
「かんじゃ、間者ですと」気をとり戻した鉄心は、額を床に擦りつけ、()きだす。「まこと申し訳ございません。私がついておって、策に気づくどころか落ちてしまい、しかも、殿の危機に、なにもできない始末。恥をかさね、一族に面目がございません」
 鉄心のまえで中腰になる。裸で土下座をする鉄心の肩を軽く叩き、言葉をかけた。「終わった、もうよい。はよ仕度せい。捨ておいてゆくぞ」鉄心が、あわてて駈けだそうとしたから、(さと)した。「待て。その(かつ)(こう)じゃあ、とたん凍え死ぬのではないか?」

 村落に、火をはなつ。
 まもなく炎に包みこまれた。揺ゆら熱気をおびながら、浅黒い煙をあげている。燃えひろがり、(どん)(てん)を暗く染めてゆく。
 村の骨格が、灰になった。村落のなれの果てを眺めると、頭のなかに、女たちの、悲しみをおびた静かな表情が、三度浮かんだ。
 残像が焦げついた。まぶたの裏に染みこんだ。
 眼をとじても闇に、ぼうっと三つ。
 おなじ顔の女が、なにを訴えるのでもなく、微かにそこに、あり続けていた。
 
 
四、みえざる鎖
()()(ろう)(28)

 (そう)(しゆう)(かざ)()(だに)に、春がやって来た。
 華やぐ風が、谷底を吹きぬける。渓谷のしたを流れる川には、梅の花びらが、揺ゆらと漂い、枝の実をついばむ野鳥らが、春の到来を喜んでいた。
 小太郎は、陽気な気配の漂う川辺を歩き、水の涼しい匂いと、樹木に咲いた若い花の淡い香りを(たの)しむ。胸いっぱいに、春が宿した命の輝きを吸いこんだ。
 見ると、川の()(かげ)にそって、高貴な装いの殿方と、その奥方がゆったり歩いていた。ただの谷の川が、品位の高い神泉に感じられた。
 水面は、春の陽ざしで、散りぢり(きら)めいている。まばゆき光のしたを、春の魚の影が泳いでゆく。
 春の生き物たちだけではない。小太郎も、この春の日を待ち焦がれていたのだ。長年の重荷から解放される、過去との(せき)(べつ)の日だった。
 背に、(さん)たる陽の、温かな気配を感じ、かろやかな気分になる。張った肩のちからが次第にゆるんで、ふと笑みがこぼれおちた。(けが)れを知らなかった少年のころの、青い果実の匂いをまとった童心が、帰ってきたのだ。
 里を抜け、国境の関所を過ぎると、武州に入った。
 通った道に、手馴れどもの()(たい)が転がり、門出のはなむけの花となって、きえてゆく。
 
 
五、きえた書状を追え
茜(15)

 名がないと呼ぶときに不便だ、と考えたから、男に、「(いぬ)()(すけ)」という名を与えた。早駈けの太田犬之助からあやかった。
 なんども犬之助と呼び、声に出したときの、ひびき加減をきいている。
 過去を()いても一切話したがらず、余程つらい思いをしたのか。無理に聞きだす必要もないから、書状が盗まれた状況を訊いた。
「城を出て、すぐだ。風が吹き、(ふところ)が冷えた。さすれば、書状がなかった。きっと盗人に、かすめ盗られたんだ。そうだろ」
「つまり、誰に盗まれたか、見てはいない。気がつけば、書状がきえていたの?」
「ああ、そうだ。きえていた。どう思う?」
 まずいな。
 (あかね)は、この手口と似た盗みを働く輩のうわさを、耳にしていた。「伊勢家に仕える(らつ)()(かざ)()(しゆう)といえば、犬之助も知っているでしょ」
「風間衆か。夜討ちや家屋の放火、金品の強奪に人さらい、(ちよう)(ほう)や暗殺なんやらもやる、(うじ)(やす)の名のもとになんでもかんでもかまいなしに暴れまわっている盗賊たちの集まりだろう。さすがに知っているよ。ばかにするな」
「盗みの手口が、奴らのやり方に似てるなって」
「てことは。てことだよ。風間衆が書状を盗んだっていうのかい?」
 やっかいだ。風間衆が盗んだとなると、書状はすでに敵の手にわたっているのかもしれない。とり戻す以前に、とり戻す必要がないのだ。
 といっても、敵にわたっていない可能性も残されているから、確かめる必要はあった。「犬之助。風間衆の()(じろ)がどこにあるか知ってる?」
「いいや。知らねえな。どこにあんのかね」
「どこにあるか私も知らない。なら、知っている奴の後をつければいいと思わない?」
「だれを。風間衆か。姿すら見たこったねえのに」
「いや、ちがうよ。()(れい)商人。奴をつけて、奴隷たちのなかにもぐりこむ。風間衆は、じかに奴隷商人と人身売買の取引をしているらしいから」
 犬之助の顔が暗くしずんだ、とおもったら、怒気まじりの声でまくしたててきた。「気はたしかか。あぶなくないのかい。もし気づかれたら、俺たち奴隷になって、売りとばされちまうんじゃないのか」
「犬之助。盗まれた書状をとり返すんじゃなかったの。これぐらいの危険が、なに」
「だけどよお」犬之助をほっとき去ろうとしたが、「あぶなくなったら逃げるからな」と犬之助がいうと、いそぎ足でついてきて並んで宿舎を後にした。
 月のあかりのなかに、にぎやかな夜市があった。
 岩付城のちかくにある、その奴隷市場には、二三十文の安値で奴隷たちが売られている。おのが子を売る父母、幼子の奴隷を買いあさる爺婆、人手をもとめる男女、人身売買の取引が盛んに行われていた。
 市場の裏手から、松明(たいまつ)をもった奴隷商人に引導され、手首をしばられた奴隷たちが出てきた。犬之助とひそかに後をつける。奴隷商人にひきいられ、はだしの奴隷たちが山林のなかにきえてゆく。
 所どころで奴隷たちの悲鳴や奴隷商人の怒鳴り声などがきこえたから見失わず、かつ見つからずに後をつけられた。
 うごく気配がきえたから、遠くから成り行きをみやる。
 奴隷商人がなにやら、合図をすると、ほら穴の奥から屈強な白髪頭の男があらわれて、奴隷商人と二言三言話すと、商人の手になにか渡し、商人は礼をいうと去った。
 白髪頭の男が、奴隷たちを品定めし、おわると奴隷たちを穴のなかにひき連れて、うすやみにきえた。
「行くよ」
「ほんとうに行くのかよお」
「早く」犬之助と小走りで駈けると奴隷たちの後列につき、ほら穴のなかを進む。犬之助も塗りたくっておけ、というと馬の糞を犬之助の(ほお)にも塗ってやった。
 ひらけたら、空洞があった。盗人らが、くつろいでいる。
 奴隷たちが、なかにいれられると輩たちが、がやがや近づいてきた。めずらしそうな眼で、奴隷の顔や骨つきなどを見、使えるやら、こいつにするやら、貧弱ばかりやら、と好き勝手に(しやべ)りはじめた。白髪頭の男が、「黙れ」と低い声でいうと皆、青ざめた顔になり、静かになった。この男が、ここの頭目なのだろう。
 男は皆から、()(すけ)のお頭と呼ばれていた。奇遇を感じる。こちらには犬之助がいたのだ。おもわず笑いがこみあげ、こぼれおちそうになったが、笑いをこらえた。
 猪助が、奴隷を配下にわけた。相棒のいない配下には若い男をつけ、女房に先だたれ、子もいない配下には若い女をつけ、衰えの目立つようになった年老いた配下には、幼子をつけた。
 下人の出、とおもわれたか。犬之助は(した)()の雑用係となった。茜はおなじ年つきの男につけられた。
 男は名を、(とら)()(ろう)という。最近合流した風間衆の若手のひとりだという。虎治郎から、ここでの生活について、食事の頻度は何回で、寝床の場所はそこで、いつ寝て、いつおきるのか。(かわや)はどこで、生理の始末はどうするか、などの規則の説明をこまかく受けた。猪助のお頭の(おきて)で、奴隷とはいえ、奴隷にも人としての暮らしは、最低限保障されている、との配慮らしい。
 毎晩、虎治郎に抱かないのか、と問うのだが、虎治郎は抱かないと固辞していたから、虎治郎には(だん)(しよく)の気があるのだと思いはじめていた。
 犬之助はというと毎朝、厠の糞尿のくみ取り、食事の用意と後片付け、掃除や洗濯などの雑用をこなし、下っ端からこきつかわれていた。

 七度目の早朝、猪助が若い配下と岩付城下に物色にいったから夕方まで帰ってこないと、虎治郎からきいたから、猪助の居室の横穴に密かにしのびこみ、盗まれた書状がないか、さがしはじめた。
 書物のあいだに紙きれの角がみえた。
 なにか、はさまっている。書物をひろげ、確かめると探していた書状だった。
 表面に扇谷上杉|(しん)(くろ)(うど)どのと主君の名が書かれてあって、ろうそくの灯で透けて、岩付城主太田の名とその()(おう)がみえたから、これだと(うなず)いた。用意していた偽書とすりかえると書状を懐にしまった。
「おまえは何者だ?」後ろから声がきこえ、虎治郎が立っていた。こちらを鬼の形相でにらみつけている。
「すみません。厠はあちらでしたよね」といい、虎治郎の横をすりぬけ出ようとしたら、肩をつかまれ、先をはばまれた。
「だから、おまえは何者だ、と訊いている」
 あせる。
 背筋は冷たく凍り、悪寒がはしると尿意を催し、ほんとうに厠に行きたくなってきた。
「申さぬと、斬るぞ」といった虎治郎が、腰に()いている刀の柄に右手をおくと、緩りと握りしめ、いまにも斬りかからん、としている。
 ここで斬られては、せっかく、盗りかえした書状が無駄になると考えたから、虎治郎の言葉を信じ、いつわりなく正体を明かした。
 すると虎治郎のうごきが、止まった。
 肩がこきざみにふるえだし、刀の鞘が、かたかたと音をならす。くつくつと口の隙間から笑い声がもれ出る。ほほえみを浮かべた虎治郎が、茜の耳元を手でおおって小声でささやく。「安ずるな。俺は、お主の仲間だ」
 横目で、虎治郎のやさしい眼つきを見て、あっけにとられた。
「申し遅れてすまぬ。俺は、(おお)()()(のの)(かみ)どのの家臣、(ひろ)(さわ)()(わりの)(かみ)(のぶ)(ひで)という者だ」
「尾張守どのが、どうして、なぜ盗人をやっておいでなんですか?」
「おまえ、なかなか笑わせるな。盗人ではない。殿の命令で潜伏をしておるのだ」
「潜伏?」
「ああ、猪助の動向を監視するのが主な目的で、あとはここにいる風間衆がなにか(くわだ)てておらんのか、眼を光らせておったのだよ」
「そうでしたか。まこと見抜けず、すみません」
「よい。して、そちはなぜここにいる?」
「はい。たいへん申しあげにくいのですが、内密とあらば、お話しできますが」
「申せ。口はかたい」
「では、申しあげます。太田どのからあずかった書状を奪われた阿呆がおり、その者に頼まれ、助太刀しているわけでございます」
「なるほどな。あい、わかった。で、書状はあったのか?」
「ええ、ここに」と茜はいい、懐の書状を虎治郎にみせた。
「ふむ、よろしい。この件は殿には伝えんから、安心するがよろしい」
「かたじけのうございます」
「茜よ。俺は機を窺って抜けるが、そなたはすぐに抜けたほうがよいな?」
「おっしゃるとおりでございます」
「では、俺が(はか)らうから、堂どうと入り口から出てゆかれるがよい」
「ご配慮ありがたく存じます」
「結構。では行くか」と虎治郎が去ろうとしたから、「お、お待ちください。一言申してよいですか?」と呼び止めた。
「なんだ? 申してみよ」
「厠にいってきて、よろしいでしょうか?」

 茜と犬之助は信秀に手引きされ、難なくほら穴の入り口に着き、信秀に礼を述べると駈けだした。
「やっと解放されたよ。まったくなんだよ、あの下っ端。こきつかいまくってよ」
「まあ、いいよ。書状を盗り返せたんだから」
「そうだけどさ」
 犬之助に書状をわたそうとしたら、「あれ。(すみ)の字がうすら裏に(にじ)んでいる」とおもったが、殿の書き損じだと考え、とくに気にせずに書状を渡した。
「おお。これぞまさしく盗まれた書状だ。これで死ななくてすむよ。茜、ありがとうな。ほんとうに感謝して」
「よし、ゆこう」犬之助の言葉を、最後まできかず、駈けだす。
「礼ぐらいちゃんといわせてくれよな。はずかしがるなよ」
 松山城にむかって、駈けてゆく。死の匂いはすでにきえ、ここちよい雨あがりの()れた風にふかれ、いまを生きていた。
 
 
六、小太郎の息子、小次郎
小太郎(28~38)

 武州の北地まで来たら、()()(ろう)を追ってくる手馴れどもの気配はきえ、おだやかな山道の旅となった。
 歩みはかろやかだ。風間衆の束縛から解放され、人間のかがやきを取り戻そうとしていた。
 遠くに(そう)(そん)が見える。
 腹が、鳴る。脚に疲れも感じていたから、立ちよろうと考えた。
 村には活気がある。
 どこの誰ともしれない小太郎を、(こころよ)く迎えいれてくれて、住まいを案内してくれた。
「ようこそ。なにもないとこですが、ご緩りと、旅の方」威厳のある老人が話し、床にすわった小太郎に、粗末ではあるが、食事を出してくれた。
 奥から、愛らしい幼女が出てきて、()(しやく)すると老人の陰にかくれ、すわる。
 (まつ)と呼ばれた幼女は老人の孫で、肩をもみほぐしていた。
「まつ。(たけ)(うめ)はどうしたんか?」
「裏山の川に遊びに行くっていってたよ。じいじ」
 老人はすっと立つと、「雪解け水がまじり川の流れが早うなっとるかもしれん」といって、松の頭をなでる。「ちょっと待っとれえ、見てくるわ」といい残し出てゆく。
 松は、「ふあい」と、気のぬけた返事をすると、小太郎のまえにちょこんと座った。
「まつちゃん、っていうの?」とたずねる。
「うん、そう。おじちゃんは?」
「俺は、小太郎」
「こたろう。小太郎おじちゃんね」松があどけなく笑うと、つられて笑った。
 松とたわいもない話をしていると、老人が顔を(ろう)(ばい)させ、(さけ)んで入ってきた。「竹と梅が川に流された。村の皆でさがしてもらっているが見つからん」
「それは、てえへんだ」
「旅の方すまぬが、助太刀くださらんか?」
「おう、まかせとけ」
 松をのこし、老人と走りだす。
 雪が解けて増水した川は氾濫し、水の色は茶色に混濁し、草木、砂、小石、樹木を喰らい、凄まじい勢いで、流し去ってゆく。
 ふんどし姿になると、川に飛びこんだ。
 視界がわるい。かすかに川底がみえるだけだった。が、川底の岩と岩とのすき間に引っ掛かった花柄の()(そで)が、ちらとみえた。近づいたら(よう)(じよ)だった。
 ひきあげる。幼女をかつぎ、川辺に寝かす。口をひろげ、奥底に息をおくりこんだ。青ざめた幼女の顔に血色が戻って、うつろに眼をひらいた。
「たけ。竹よ、無事だったか」老人が竹を抱きしめ、泣いているが、抱かれている竹は、呆然とした表情のままだ。
「あとは梅か」川にふたたび潜ろうとしたら、木蔭から寝息がきこえた。いざゆくと幼女が樹によりそい、ねむりこけていた。
 竹に連れられ、やって来た老人が、「うめ、梅も無事だったか」といい、ぼうっと虚ろな眼の梅を抱きしめる。
 老人が急に手を掴んできて、「旅の方、あなたは孫たちの命の恩人ですわ。今晩うちに泊まってくだせえ。なんならいつまでも村にいてくだせえよ」と頼んできた。
「俺としちゃ、行く当ても特にねえから、かまわねえがな」
 その晩、村の者たちから盛大に祝われた。酒もはいったから、いい気分になり、陽気に踊ったりして、村の者たちから大いに笑われた。

 村で暮らす。家、農具、田畑を老人から譲り受け、農夫として田畑を耕す生活がはじまる。
 十年後には成長した松と結ばれ、男児がうまれ、名を()()(ろう)とつけた。
 畑を耕していると、遠くから妻の松が見ていて、松に抱かれた小次郎は乳をすい、母のなかでゆれている。
 陽が沈み、一日の仕事がおわると松と家に帰る。小次郎を寝かしつけ、なかよく肩をかさねた。
「あなた、あたし幸せよ」
「ああ、俺もだ」
 寄りそい、眼をとじる。
 風間衆が近隣の村を襲っている、ときいたのはちょうどこの時分だった。
 
 
七、(なな)(さわ)(しち)(ろう)という男
茜(14~15)

 十四になるころには、(きつ)(おん)も治まっていた。
 またとある日、一夜の宿の礼にと浪人より剣の扱いの手ほどきを受け、無心に稽古するうちに、おなじ年ごろの(やから)にからかわれなくなっていた。
 幼き日に受けた(はずかし)めによる心の傷は()える兆しをみせ、はるか昔に視た悪夢の一部にすぎない、と茜は思いはじめていた。
 (せみ)の声がそらに鳴っている。
 道には湯気が立ちこめている。しばらく陽差しをさけようと外れにある古寺の陰で涼んでいた。湿った髪のさかいから汗がうすら流れ、小袖のなかは熱気にみちて肌は粘つき湿っている。
 燃ゆる陽はまだ高い。とうぶん道に戻れない。竹筒の水を飲みほすと、古寺の裏手にある井戸で水をくんだ。
 くんだ水は、手が(しび)れるほどに冷たく清らかで、一口飲んだら身がふるえ、熱をおびた肌が引きしまった。
 あたりに人の気配がなかったから小袖を少しひらき、なかに溜まっていた熱気を逃がし、水で濡らした手のひらで肌を濡らしながら粘りけを取ってゆく。
 がさ、と音がした。
 見ると、(かい)(そう)と呼ばれる大男がこちらを見、腕を組んで立っていた。
 あわてて着なおし、かるく会釈し、さて去ろうとしたら、そいつが近づいて来た。
 いそぎ去ろうとしたが、ただならぬ威圧感で腰をぬかし、身動きがとれない。
 眼のまえに来たら、腰をかがめ、瞳をのぞいてきた。「大きくなったな」と怪僧が(つぶや)いた。その言葉に(むし)()が走ったら、急に腕をつかまれ、うす暗い講堂のなかに引っ張られる。
 逃げよう、と腕をねじったが無駄で、声をあげようにも、声がのどにつまり、息がもれるだけだった。ただ力まかせに引きずられる。
 怪僧が、止まる。みれば、こめかみを押さえ、さっと掌を見ると、あたりを警戒しだした。
 古寺から声があがった。木蔭から、笠をかぶった武人が出てきて、「女を、放て」と叫んできた。
 一瞬、掴みが緩くなったので、井戸の裏に逃げた。怪僧は追ってこない。武人を睨んでいる。手につばを吐き、腰に差した棒を抜いたとおもえば、跳んでいた。
 武人は、地をえぐった棒をかわし、佩いた太刀を抜けば、さらされた肩を刺した。ぎらついた怪僧が、棒を振りあげると、武人は後ろに跳んだ。間合いができた。
 男と男の死闘が、眼前でくり広げられている。
 武人が息をすうと、飛びこんだ。体当たりで巨体が揺れ、脇にわずかな(すき)ができた。すかさず横に払う。血しぶきが武人の顔を染める。
 脇から血が噴き、流れた血で、怪僧の足もとが赤く染まってゆく。息が荒くなり、その顔はこわばり、色はどす黒い。地に差した棒に(もた)れかかり、うつむいている。
 礼を言うべく武人に走りよって頭をさげた。「あぶない」ときこえたら、身体が押しとばされ、地に尻をつく。顔をあげる。
 武人の右脚ちかくに棒が落ちてある。脚の関節が逆に曲がり、乾いた音が鳴ると武人が転んだ。
 駈けよった。手を差し伸べたが、武人は自力で、刀の鞘を支えに立ちあがり、こちらに笑んで、「無事で、なにより」とだけいい、去ろうとしたのだ。
 追おうとしたら左手で制され、右脚をひきずりながら、夏の陽にきえる。
「お待ちを。お名前だけでも」
「名のるほどの名ではないが、願いなら聞きうけよう。俺は、()(ろう)(なな)(さわ)(しち)(ろう)と申す」
 言葉を残し、光に去った。
 怪僧は息絶えていた。血だまりのなかにうつぶせになって死んでいた。その屍を見おろしていると、悪夢はきえるどころか、さらに漆黒によどみ、深まってゆく。
 しゃがみこんだ。虚ろになって堕ちた。首の(あざ)がうずき、心の古傷がえぐられる。
 陽がおちた。あたりが暗くなる。涼しい風が吹きぬけ、腰をあげた。視界がはっきりとするのを待ち、駈けるのではなく、歩いて帰路についた。
 家のまえに着くと家外で、父|(てつ)(しん)と祖父|(てつ)(さい)が心配して待っていた。が、彼らの声かけには応じず、だまって自室に入り、今日の出来事を振りかえった。
 日課を休んでいれば、古寺で涼まなければ、井戸で水をくまなければ、怪僧と再会しなければ、七沢どのとは逢わなかった。
 礼をいわなければ、かれが右脚を失わなかった。
 安直な行動によって恩人の右脚を奪ってしまったのではないか。
 助けてくれた恩人のことで頭の中がいっぱいになってしまい、その日は朝方ごろまで寝つけなかった。

 十五になると、()()の儀式が執り行われ、その年に城の仕官先がきまった。武州松山城にゆく。
 松山城主上杉新蔵人|(のり)(かつ)との謁見のため奥座に通された。伏していると奥から城の主があらわれた。主は杖をつき、右脚をかばいひきずっている。茜のまえにすわる。
「あげい」
「は」顔をあげ、城主の顔を見、はっとした。七沢七郎だったのだ。
 憲勝もおどろきの表情をうかべている。「そち、あのときの」
「その節は」言葉にならない。言葉が続かない。
 戸惑う茜をきづかい、憲勝はやさしく声をかけてきた。「気にするな。俺の落ち度だ。そちのせいではない」
 頭のなかが白くなる。申し訳なさすぎて言葉が出てこない。
 憲勝は茜の顔を静観し、「そちに、家臣の忠義を確かめるが、よいか?」と訊いてきた。
「はは」
「俺の脚となり、支える覚悟はあるか?」
 息をのむと、はっきりと声に出していった。「むろんございます。脚になり、永くおそばに仕えとうございます」本音だ。なんども悪夢で視てきた光景だ。七沢七郎、いや憲勝の脚になるのが、あの日以来、罪悪にむしばまれてきた茜にとっての生きる希望となっていたのだ。
「わかった。さがれ」
 憲勝が去ってもいっこうに動けず、顔を伏したまま泣いていた。憲勝にいだく茜の忠義心は深く傷ついた少女の心を癒やし、(ぜい)(じやく)な心を守る強固なかさぶたとなり厚くあたためるのだ。
 
 
八、兆し
太田美濃守資正(39)

 伊勢の大軍が(から)(かい)(やま)城を攻めおとし、(ろう)(じよう)していた(かつ)(ぬま)領主|()()(だん)(じよう)(しよう)(ひつ)(つな)(ひで)は自害された。瓦櫓(やぐら)のうえより城下をながめていた(すけ)(まさ)は、鉄心の耳うちで、聞き知る。
 (いわ)殿(どの)(さん)(しよう)(ぼう)()の僧、間者の(えい)(しゆん)からの伝聞であった。
()きなされたか」視界が急に暗くなると体勢をくずし、鉄心の肩につかまって耐える。
「殿、大丈夫でございますか」
「ああ。()(まい)がしただけだ。気にするではない」
 唐貝山城があった方をむくと、戦友の死をとぶらう。眼をとじ、手をあわせ、一言一句かみしめながら念仏を唱えた。
「鉄心よ。きいておるやもしれぬが、松山城にむかわせた物資輸送隊が、風間衆に襲われたそうなんだ」
「は。存じております。三班いた物資輸送隊は、別べつの経路を選び、松山城を目指したらしいのですが、どの経路でも風間衆が現れたそうなのです」
「のう。ふしぎだとは思わぬか。まるで輸送経路が、風間衆に()れていたようではないか」
「まさか、そんな」
「うむ。風間衆の動向に関しては、信秀に監視させておるが、もしや城内にも伊勢方の間者が紛れこんでいるやもしれぬな」
「でしたら、大事でございます。上杉どのに、城内に間者の気配がないか、注意されたしとお伝えしたほうが、よろしいのでは。いそぎ参りますが」櫓から飛びだそうとした鉄心の動きを、声で制する。「まあ待て。すでに、書状を臣下にあずけておる。はやとちりが」
 遠いそらをながめ、敵の大軍を想像した。
 うすら笑みを浮かべる氏康が、精鋭の騎馬隊を率い、武州の地に戦火をもたらさん、と()せ参じる光景が、ありありと眼前にひろがった。「おのれ。討ち滅ぼしてくれるわ」瞳には、燃えさかる武州の大地がうつり、迫りくる大戦を予期させた。
 
 
九、ゆけむりの(とう)()()
扇谷上杉新蔵人憲勝(35)

 松山城には傷の療養のために、()殿(どの)が設けられている。立ちこめる薬草の煙に蒸され、(のり)(かつ)の右脚に走るうずきがいくぶんか癒やされた。()(かた)(びら)に汗が染み出てきたから、横に座していた(あかね)が肩を掴んできて、身体が持ちあがると場外に連れだされる。
 湯帷子を脱がされ、ふんどし姿にされると、(おけ)の温水で肌に溜まった(あか)が洗い流される。
 濡れた手のひらで肌に寄りそい、垢をとってゆく茜が、ふと眼に入ってくる。
 かよわな指さきは、無数の傷で皮膚がめくりあがり、赤くむくみ、産毛な腕や強靭な脚には、いくつもの細かな刀傷や(あお)(あざ)やただれがあり、張りのあった若くて瑞みずしい肌は、ひどく疲れていた。気丈に誠よく尽くしているから、気づいてやれなかった。
 己に情けなくなり、茜を抱きしめる。小柄な茜が、やさしく包まれた。
「ご(たわむ)れを」
「すまぬな。許せ」
 妻の千代は、岩殿山正法寺の栄俊のもとに()(じよ)と家臣らと手習いに出かけていて、城内には小姓を除けば、ほかに誰もいなかった。
 
 
十、ああ諸行無常
小太郎(38~41)

 ()()(ろう)は、風間衆から逃げるように村を去る。陽が昇りきっておらず、まだ夜の暗さが残っていたが、闇にはもとい慣れていたから、静かな春の野原を()(そう)(じゆう)のようにひた()けてゆく。背には寝ている()()(ろう)をかつぎ、まさか父に連れられて草原を疾走しているとは、(つゆ)にも思っていないのだろう。
 小太郎の血が受け継がれた小次郎がいれば、いずれは妻の松や村のみんなに迷惑をかけてしまう、だから誘拐した、というのが、熟考をかさねた小太郎の結論だった。
 むろん可愛い幼子を奪い、松には、ひどい仕打ちをしたのだから(じゆ)()で呪い死んでも、いつ背を刺されても構わない。覚悟の上での行動だ。松を愛おしく思っていたからこその、強行だったのだ。
 野を駈けぬけ、若い草葉のやさしい冷たさに()でられ、風間衆らの殺気から逃げてゆく。駈けるさきは決まっていなかったが、この子を守り生き延びよう、という決意は心にあった。
 村を出るときに、今後一切の盗みを禁じる、と固く誓っていたから、山林の中腹に小屋を建て、雨かぜを(しの)ぎ、耕作に精を出した。
 春に種をまき、夏に成長を見、秋に収穫し、冬を越す。おぶった子を養いながら、四季のなかを生きていた。
 春が来るごとに小次郎は育ち、言葉を話すようになった。這うから歩きに変わり、くわに興味を持って、畑の土に穴をあけ、なかをいじくる遊びを憶えた。子の著しい変化を見、この子を立派に育てあげようという父の意志が、日にひに強まっていった。
 
 ある冬の、おだやかな夜明け。松の木のうえで、(ぎよう)(てん)を拝み、風を感じていた。
 小次郎は、どこだ。寝坊か、早くせねば、陽がのぼってしまうぞ。
 木から飛びおり、小屋にむかった。戸をあけ、寝床をのぞけば、小次郎が横になっていた。
 寝ぼすけ、め。ちょいっと驚かしてやるか、と呟いたら、足を忍ばせながら近づいた。
 飛びつく。「おい、いつまで」といいかけ、顔をのぞいた。「小次郎?」たっぷりの汗をかき、息もよわい。「こ、小次郎」額に手を当てれば、熱がひどい。
 土間に跳ぶ。干した蚯蚓(みみず)を全て取ると土鍋で(せん)じ、()した湯を(わん)に移した。
 小次郎の背を持ちあげ、薬汁を一口飲ます。苦にがしい顔が、徐じょにゆるみ、やすらかになる。
「足らんな。すぐに戻る」といったら、山中に蚯蚓を掘りに出た。
 泥を(ぬぐ)い、帰ってくると、小次郎があえぎ、もがいていた。獲ってきた蚯蚓の籠を床に落とす。駈けよった。
 足に、汚物がある。顔は青白く、ふるえていた。歯を()みしめ、必死に生きようと、耐えていた。
「いや、だが」とはいわず、小太郎は決心した。
 小次郎を布で巻くと、背負った。冬の山をくだる。笠をかぶり、蓑をはおり、藁ぐつをはいたら、戸から駈けだした。
 はげしい胸の鼓動が伝わってくる。「死なすわけには」と山肌を滑っていった。
 灯りがみえる。
 母屋の戸をたたき、「頼もう、たのもう」と叫ぶ。
「誰だ?」
 戸から声がきこえ、戸がひらく。
「かたじけない。お力をお貸し願いたいのだが」戸から顔をみせた(だん)()の眼をのぞき、背の子をみせた。
「乞食か。帰れ」
 旦那が戸を閉めようとしたから、あいだに手をさしこみ、「待ってくれ。頼む」と食いさがる。手の甲から血がにじみ出、腕筋をつたって、血が一滴おちた。「取引がしたい」と呟いた言葉で、旦那の動きが止まる。
「取引だと。おまえ、誠か?」
「ああ。取引だ。たのむよ」
「仲介者がいないとやらんのだが。よろしい、あがりなさい」
 旦那がいうと、戸はひらき、屋敷のなかに通された。
 奥の隠れ座敷に入ると、正座し、旦那に話す。「この子を買ってくれ」
 旦那が、小次郎の顔をのぞき見る。「(おさな)()か。だがひどく弱っているな」
「すこし風邪をひいているだけだ。薬を飲ませてもらえれば、すぐ良くなる」
「うむ。まあ、幼子は高く買ってもらえるから、すてがたいな」旦那が迷うと、小太郎に尋ねた。「して、いくらで買ってほしいのだ?」
「銭はいらない。かわりに」
「かわりになんだ?」
「この子が買われるまでの、養育に使ってほしい」
「養育? なぜ、そんな世話をしにゃならん。俺は売ってきた奴隷を、売りさばくのが仕事で、奴隷は商品にしかみておらんのだがな。奴隷が死んでも、商品が腐ったくらいの感情しかないが」
「たのむ。無理は承知の上だ。この子には生き延びてほしい。この通りだ」頭を深くさげ、旦那にたのみこむ。
「帰れ」
「なんとか」
「帰れといっている」立ちあがり去ろうとすると、「待て」と旦那がいってきた。「その子は、ここに置いてゆけ」
「え?」
「奴隷のなかに、乳の張った遊女の成りさがりがいたから、そいつに乳母のかわりをさせてやる。そのかわり、買い手がみつかったらすぐ売るから、そのあとはしらんからな」
「結構です。恩にきります。売られたあとは、この子の天命が導いてくれるでしょう」小次郎をおろすと、床に寝かせ、旦那に、「いそぎ薬を飲ませてやってください」というと、小次郎の顔を見ずに屋敷を去った。「小次郎、つよく生き延びろよ」

 小屋に帰ったら、小次郎の思い出とともに、小屋と畑を焼き払った。
 下山すると、山上のきえゆく煙を見、小次郎を想うと、心にさびしさが蘇ったから、振り払うように駈けさる。
 なにかを得ては、なにかを失い。またなにかを得ては、なにかを失う。
 人生の虚しさをわらい、そらを見あげ、つばを吐く。吐いた、つばは、そらに舞いあがると顔に帰ってきて、じんわり頬を濡らす。
 その場にしゃがむ。わらいに耐えられなくなり、声が歯の隙間を抜けて漏れ出、山道にひびき渡った。わらい声で、眼から涙がこぼれおちても、天にむかって、わらい続けた。
 
 流浪していた小太郎は、(かん)(とう)(かん)(れい)(やま)(のうち)(うえ)(すぎ)(のり)(まさ)にひろわれ、名を太田犬之助と改めた。
 残りの人生、野良犬の助けにでもなれば、これ幸いかなと、敵方の上杉家に仕える道を選んだ。愛しい松と、可愛い小次郎に想いをはせ、死んでゆく、おのれの人生をわらった。
 
 
十一、誰がために、君がために
茜(15)

 武州の(ちゆう)(げん)に座した天然の要害、難攻不落の土の城、堅城松山城は、湾曲した(いち)()川に削られた(きゆう)(りよう)に築かれてある。山頂から大手門にかけて、本丸、二ノ丸、春日丸、三ノ丸の(くるわ)が連なり、郭のあいだは空堀で、敵の侵攻に備えてあった。
 山道をのぼって、()(ぐち)を通り、(あかね)らは山頂を目指していた。
「お駄賃ぐれえは、出るかな」
「殿はやさしいお方、なにかしらの褒美はあるよ」
「そうなのか?」
「そうなの」
「茜。茶屋で(まん)(じゆう)ぐれえなら、おごってやるから」犬之助は(はな)(うた)まじりで歩き、木橋をわたる足取りは軽かった。
 
 受け取った書状をひらいた(のり)(かつ)の顔色が暗い。持っていた書状が小刻みにゆれたら、破りすてられ、散れぢれになった紙切れが宙をさまよう。「さがってよい」憲勝はいうと、奥の座敷に下がろうとした。
「駄賃は、駄賃は」犬之助が空気を読まずに無礼をしたから、憲勝が不機嫌な顔をしながら犬之助のもとに来たら、「下がれ」と一喝した。
「へえい」と犬之助はいったら、退出した。肩をおとし、うつむいた犬之助は、餌にありつけなかった犬のようだ。いまはそっとしておくか。
 憲勝の後を追う。
「どうされたんですか?」奥の座敷に座している憲勝にたずねる。
「ああ。取り乱し、すまぬ。あやつが、わるいわけではないが、つい己が見えなくなった」
「して?」
「美濃守の書状だがな。間者が城内にいるやもしれんから、気をつけよ、と書いてあった」
「それはそれは。警戒しませんと。で、なにか気にさわりましたか」
「うむ。書状のおわりにな、おまえが伊勢方に通じてなければよいがなぞ、俺を()(ろう)したのだ」
「ありえません。太田どのは(そう)(めい)なお方でそのような狂言は、冗談でもおっしゃりません。これはなにかの間違いです」
「良いよい。いまに始まったのではない。俺も好きでな、城主についているわけではないのだよ。しょせんは太田家の飾りにすぎん。気にするな」憲勝は軽く笑い、ふるえる拳を床に叩きつけると、床が割れて、暗い穴があいた。
「これは、なにかの」
「茜。すこし独りにしてくれぬかな」憲勝はうずく右脚をさすり、茜に出てゆけと、手で指示した。

 歩いていると、犬之助がいた。声をかける。「犬之助」
「茜か」
「気にしないで」
「茜のうそつき。どこがおやさしい人だよ」
「うんごめん」
「駄賃をもらえなかったじゃねえかよ」犬之助は、頬をもぐもぐする仕草を、茜にみせつけてきた。
「わかった。おごるから」
「ええ。本当にいいのかよ。おまえやっぱり、良い奴だな」
「調子にのらないで。私の気が変わらないうちに行くよ」
「おう」
 急に元気になった犬之助を連れて、茶屋にむかう。茶屋に入ると、幔頭のいい匂いがして、腹が鳴った。できたての幔頭をほおぼる仕草をし、犬之助が犬みたいに鼻であたりを()いでいる。
 幔頭を二個頼んだら、すぐに店の奥から幔頭が出てきた。受け取ると、犬之助が幔頭をかすめとり、逃げるように出ていった。慌てて外に出る。
 幔頭は、すでに犬之助の口のなかで噛み砕かれ、てらてらの唇の犬之助が、満足そうに眼をつぶり、舌で味を愉しんでいる。横目で見、茜も幔頭をひと欠けかじり、口に広がる良き味を(たの)しんだ。
 すっかり上機嫌に戻った犬之助は、ふやけた指さきをしゃぶり、幔頭を名残おしそうにしていたが、しばらく歩くと気にしなくなり、茜に()いてきた。「茜、俺は明日の早朝出発するが、おまえはどうするんだ?」
「私は指示を待つよ。殿の脚だから、必要なときに、おそばに居なくちゃならないの」
「ふん。そうなんだ。茜も大変なんだな」
「これが私の生きる道」
「あいかわらず、おかたいねえ。もっと気楽にしたらいい、と思うけどね」
「こういう性分なの。ただ、犬之助みたいにはなりたくないな」
「ひどいな。俺をなんだと思っているんだよ」
「いぬ。いぬじゃないの」
「ばかにするなや」
 犬之助と延えんとばかな話をしていたが、なんだが不快ではなくて、むしろ心地よかった。犬之助になら、なんでも話せる気がしたし、いままでこんなとりとめのない話をした経験がなかった。ゆえに新鮮だった。
「茜。じゃあな。また逢えるといいな」
「うん犬之助。ばいばい」
「ああ。おまえもな、あばよ」犬之助が手をふりながら去る。
 犬之助の後ろ姿を見送った。犬之助の肩から、幼い日の茜が顔をみせると、たずねてきた。(ダレガ、ダレ)
 誰がために、わが身を(ささ)げるのか、と。
 
 
十二、なないろの轡
太田美濃守資正(39)

 (すけ)(まさ)は、茜から受け取った書状を、床に広げ、(くち)(ひげ)をさわりながら思案にふけっていた。書状には一文字、「(くつわ)」と書かれてあったのだ。
「はて? 符牒か、なにかか」と、しばらく考えてはみたが、煮詰まり、一向に答えが出なかったから、書状を燃やして処分した。「逢ったついでに訊くとするか」伸びをすると、急に睡魔におそわれた。横になると、そのまま眠りこんだ。
 
 馬の上に、またがっている。
 腹をけると馬は跳躍し、駈けだした。轡を噛んだ馬は、()(づな)の指示にしたがって行きたい方へと走り、涼しい風を肌に感じながら疾走する馬の飛翔に揺られていた。
 馬が、首をひねった、とおもったら馬の顔が、(のり)(かつ)の顔に変わったもんだから、驚き、手綱をはなしてしまうと、視線が大地に低くなった。若草のにおいが鼻をつくと、資正は、轡を噛んだ馬になった。
 手綱を引かれ、馬上のお方の指示にしたがい、荒地を駈けている。ふと、背の上のお方の顔を(のぞ)いたら、逆光だったが、お顔が(ぼう)(ぜん)と浮かんだ。
 (やま)(のうち)(うえ)(すぎ)(だん)(じよう)(しよう)(ひつ)(まさ)(とら)、その人だった。
 
 眼をあけた。
 陽は暮れ、あたりは薄暗い。汗で体じゅう()れており、呼吸が荒くなると、眩暈がした。
「やな夢、であった」水を飲んで呼吸する。しだいに心が静まったら、寒気がした。(かた)(ぎぬ)を着て、ぼうっと、まどろんだ。「まさかな」
 
 
十三、間者
()()(30)

 夜空の月をながめ、ふけっていたら月のなかに、父の影が浮かんだ。
 父は、冷徹だった。
 幼きころから、愛情を受けた思い出は一度もなく、代わりに(あん)()の使い方や、闇のなかの歩き方などの暗殺術を、徹底的に教えこまれただけでぬくもりはなかった。
 母の名は、(たけ)という。
 父と母とのあいだには愛情関係はなかったが、なぜだか()()はうまれた。父はうまれて間もない千代を、母から奪いさると谷の里に戻り、ふたりで暮らしはじめたという。
 父は里の者から()(すけ)と呼ばれ、仕事はよくできたから(した)われていた。
 父を好きではない。だが、かわいそうで、不器用な男だと千代はおもっていた。
 娘に対する接し方が、わからないのだ。どう話しかけ、なにを語らい、なにを聞いてやり、なにをしてやるのか。そういった、庶民ならできる父の役が、闇に生きる父にはできなかったのだ。
 胸もとをさぐると書状をつかみ、宙に(かざ)す。
 風が吹いたら、書状がきえた。
 足もとに音がしたからむくと、綺麗な(かんざし)が落ちていた。拾い、髪にさして父の影を眼で追うと、「ほんと下手なんだから」とささやき、夜の風に吹かれていた。
 
 
十四、戦仕度
(ひろ)(さわ)()(わりの)(かみ)(のぶ)(ひで)(26)

 (のぶ)(ひで)は、(すけ)(まさ)に呼び戻され、岩付城の詰め所にいた。風間衆の監視は、残った(うち)()(まご)()(ろう)に任せた。
(いくさ)が近いと聞き申したが、確かか?」信秀は、資正の家臣、()()(ぐん)中山領主の比企|()(まの)(すけ)(まさ)(のり)と、比企郡|八林郷(やつばやしごう)および()()(たに)(ごう)()(ごう)()()()()(しよ)(のすけ)(なお)(かね)に尋ねた。
 政員が答える。「尾張守どの、確かです。伊勢が(かつ)(ぬま)(から)(かい)(やま)城をおとし、その進軍の勢いは、いまだ衰えておりませぬ」
()()(だん)(じよう)(しよう)(ひつ)どのは、どうなった」
「自害された、と伝え聞いております」
「それはご無念を」信秀は額を抑えると、肩で息をした。
 直兼が、信秀と政員の顔をうかがうと話す。「私はこれより地元に帰り、いそぎ()(へい)し、兵を束ねますが、お二人はどうされますか」
 政員が軽くうなずき、直兼の顔を見、口をそえた。「俺も図書助どのと心はおなじだ。地元中山に戻ったら、(ごう)(そん)から農民どもを集めて、兵の訓練をしたく存ずる。伊勢勢がいつきても闘えるように準備をする予定だ。比企郡の地を守り通す覚悟だ」
 ふたりの顔を見、肩をかるくたたいた。「うむ。わかった。俺は美濃守どのより、岩付千騎の副将としての指揮を命じられておるから、これより馬に乗り、兵の調練場に行く」
「おお。あの(いわ)(つき)(せん)()を指揮なさるのか」と政員がいう。
「おまえらもぬかりなくな」
 深ぶかと礼をした政員と直兼は、それぞれの馬に乗ると、地元にむけて駈けさった。
()」と呼ばれる岩付千騎は、歴戦の兵らから構成された騎馬集団で、資正と激しい戦場を闘い抜けてきた勇士たちだ。その武勇の名声は、武州各地に(とどろ)いていた。
 (きゆう)(しや)におもむくと、馬番に愛馬の栗毛を連れてくるように命じ、栗毛に乗ると、放牧地にむけて駈けていった。馬上の風は肌を刺すほどに乾き冷えていたが、駈ける馬に揺られ、あたたまってくると、ここちよい涼しさにかわってゆく。
 放牧地では馬に乗った鎧武者たちが、弓矢をひいて野生の鹿を追い、狩っていたり、互いの馬で並走し、馬上で組み打ちの稽古をしていたり、馬を降りて、組み手の練習をしていたりと、戦場と見まちがえるほどの調練の光景が(ひろ)がっていた。
 兵達の組み手に混じり、頭がひとつ抜けた堅強な男がみえた。騎馬隊の大将の太田|(しもつけ)()(かみ)(よし)(むね)と見うけ、馬をおり、肩衣をぬぎすて、上半身の小袖を垂らし、走り駈ける。堅強な男の腰を後ろよりつかみ投げ飛ばそうとしたが、軽くつまみ返され、逆に投げ飛ばされた。
 腰を打ちつけ、地面に倒れていたら、ごつい手が伸びてきて引きおこされる。「よお信秀さんよ。あいかわず女人みてえに軽いね。鍛えなおしてやろうか」
「結構でございます。下野守どのが化け物なんですよ」
「はっはは。調子にのんなよ。絞め殺すぜ」義宗が背を叩き、むせると満足したのか、組み手に戻ろうとした。
「下野守どの。()()駿(する)(がの)(かみ)どのと、太田|(ちか)(ろく)(にゆう)(どう)どのは、どちらにおいででございますか?」と信秀が背にたずねる。
 首を回した義宗が、「あん、ああ。()()(にい)は遊び女を買って、四六時中愉しんで、いまごろ(とう)(そう)になってるんじゃねえか。(じじい)は、寺で瞑想にふけって、知らぬ間に仏になっていてな」といって大笑いした。訓練していた兵らが、地に響きわたる声に恐怖し、動きを止めて静まり返った。
 義宗は、とにかく口がわるい。が、憎めない愛嬌もあり、腕も相当立つから、やっかいなのだ。
「おまえら、勝手にやすむな。氏康の生首を槍の尖端に突き刺して、大合唱しながら行軍しようぜ」
 加えてとてつもない、ばかだ。岩付千騎がなぜに武名が轟き、伊勢方にも怖れられているのか。
 義宗の大将として器は、むろん申し分ないが、義宗を支える三戸駿河守|景道(かげみち)と太田親六入道|()(あん)がいてこそ成り立っているのだ。
 景道は、兵らを己の子のように愛し、兵らからも愛され、義宗に厳しく鍛えあげられた兵の心の()り所となっていた。
 無安は、その()()をもって(はかりごと)を用いる才知に秀でており、騎馬隊の戦術の指示系統を網羅し、軍師として裏方に徹し、義宗を補佐している。
 岩付千騎を岩付千騎といわしめる根源には、かれら三名の猛将、仁将、知将が三|(すく)みとなり、互いの才覚を発揮し、互いが補い、それらが上手く混じりあって(ちゆう)(よう)を保っているところに所以(ゆえん)があるのだろう。
「凡才の俺にもできる働きをする。これが、殿への忠義なのだ」義宗に、空に放りなげられる兵らを見、つくづくそうおもった。
 武州の大地につよい風が吹き、牧草地帯の枯れ草が、さわぎだす。とてつもない大戦が、さし迫っている。信秀は、胸騒ぎが抑え切れなかった。
 
 
十五、夜の霧
茜(15)

 真夜中の霧に包まれる。
 (あかね)は、古戦場にいた。あたりは月が照らす、わずかな光しかない。ほとんどが、闇だ。深みの増した濃霧に包まれると、おぼろげな明かりすらなくなる。視界は、この世からきえた。
 自分が存在しているのか、あやふやになった。
 空に浮いているのか、奈落におちているのか、立っているのか、座っているのかさえわからなくなった。不思議な浮遊感があった。
 背後から、殺気を感じた。
 (よし)(みつ)を鞘から抜くと、斬る。微かだが、見えた。太刀をかまえた足軽が、おそってきたのだ。だが、斬った感触が、ない。両腕を斬られた足軽は、闇にきえた。
 殺気が増える。
 (ひづめ)の音がきこえる。弓矢をこちらにむけ、射ろうと狙い定めている射手の姿がある。
 空に舞いあがった。敵の馬上に乗ると、背後から、射手の首をはねとばした。
 矢が前方より、飛んで来た。
 跳ねあがると、矢を斬りおとす。殺気を放つ射手にむけて、駈けだす。刃で突き、射手の胴を貫いた。
 斃れた射手の後ろから、禍まがしい邪気をまとった、首なし鎧武者が現れた。(ほね)(ぐい)の大太刀を、振ってきた。
 短刀で衝撃を殺し、流し受けるが、反動は残ったか。後方に飛ばされる。
 地面を、踏みこむ。脚に力を蓄え、姿勢を反転した。跳ぶように駈け、鎧武者の腕をねらって斬りかかる。だが、大太刀で防がれ、柔らかくなった大太刀が曲がり、短刀の刃うえを転がり、手の付け根を狙ってきた。
 とっさに短刀の柄をひっくり返す。小太刀の回転の(びん)(しよう)さで、大太刀がはねあがった。ここ、という隙を見つけ、鎧武者の胴を、横に払った。
 鎧武者が吹き飛ばされる。重装が地につくまえに、()(くう)に飲みこまれた。
 周囲を、十数人の足軽たちが、取り囲んでいる。
 息を整える。乱舞しながら、吉光を振りまわす。周囲の足軽たちは、斬りつけられた順に、姿をなくした。
 前より、四五人の槍持ち兵らが、槍を突き出し、駈けてくる。むかい出る。跳躍し、槍を左右に蹴飛ばす。勢いで、兵の顔を蹴りあげ、のどをかっ斬った。
 吹き出した血しぶきは、無色の粒の影になる。
 横より、騎馬が三騎むかってきた。馬走のかわしざまに、吉光を喰らわせ、馬上に乗った騎馬武士の腕、首、胴が、風のなかに吹き飛ばされた。あるじをうしなった馬は、闇に走りさる。
 襲い来る雑兵たちの首を()ね、手首、腕を斬りとばし、胴を払い、脚を斬りおとした。
 どれだけの兵たちを、斬ったのだろう。殺される死の恐怖を、どれだけ味わい、不安と怯えのなかを、どれだけ、駈け抜けてきたのだろう。
 死線上を生きていたから、わからない。
 背の悪寒、手、脚のふるえ、心臓の鼓動、のどの渇き、激しい発汗。
 死に近い状況下で、生きるために、必死に吉光を振り続け、駈けて、跳んで、転んで、おきあがった。
 走ってきた野武士の一撃をかわし、首を刎ねとばす。野武士の顔が半分、霧の闇に吸いこまれる。
 と、同時に、霧が晴れるのがわかった。
 古戦場の野原に、立っている。
 夜空には、月が浮き、燃ゆる茜を照らしていた。
 肌の汗が、(たま)のように落ちる。腰をおろし、(くずお)れた。
 おぼろ月が、刀身の鏡面に映える。吉光を投げおくと、野原をみやる。
 息が荒い。
 深く呼吸したら、むせた。身体は汗で濡れていて、小袖は汗の重みで垂れている。理想、と現実を笑う。
 節に痛みがある。首の筋は緊張し、手首は痺れ、腕は硬く張り、肩の関節が擦れて熱を帯び、胸の骨は(きし)み、背骨は音をたて、腰には痛みが走り、(もも)と脚には力が入らない。足裏は赤く()れ、足指の爪からは血がにじんでいた。
 霧の去った古戦場が、眼に入ったときに確かに見た。
 鼻と上唇がそがれ、人相をうしなった武将の無表情に見ひらかれた眼球のつよい輝きをおびた無念の光を。
 ひどく疲れていた。いま生きている現実をおもえば、喜ぶのと同時にただ()(ぜん)とするだけしかない。
 偶然生き残った。斬られ死ぬ瞬間は、いくらでもあった。
 ただ、いまこうして生きている。
 立ちあがる。合掌し、呟いた。「殿のために、生き抜かねばな」
 足もとにいた幼き茜が、ぷいと外をむくと古戦場に駈けだしていった。
 
 
十六、奴隷になった日
()()(ろう)(15)

 ()()(ろう)は、おなじく売れのこった乳母の(いずみ)と、奴隷部屋にいた。泉の太腿のうえに頭をおき、だらしなく寝そべっている。
「泉。俺らは、いつになったら、買い手が決まるんだろうな」
「知らねえよ。あんたはまだいいが、こんな(とし)()の女を誰が買うてくれるっていうんだい」
 泉は、四十をゆうに超えていたが、遊女だった面影は残っており、熟成した女の色気が、全身から漂っていた。
「あたしゃやだよ。このままここでくたばって死んじまうなんて。考えただけでもおぞましいわ」
「諦めるなよ」
「諦めるよ。あたしの人生にゃ、なんにもなかったわ」
「いままで好きになった人はいなかったのかい?」
「いいや、いた。ふたりいた」
「どんな人?」
「ひとりは店の常連だった酒屋のやさ男さ。でも上手くゆかなんだな」
「どうして?」
「店をやめるから遠くに連れてっておくれ、と頼んだら、怖くなったかしらんが、逃げてしまってな。それ以来店には顔をみせなくなってしまった。その責任をとらされて、このざまさ」泉がうつむき、もの思いにふける。
「もうひとりは?」
「ああ忘れるとこだった。あたいに()れた男さ」
「惚れた?」
「ああ。こそこそいつも店のあたりでうろついて、あたいを遠くからこっそり見てたのさ」
「その男正気か、大丈夫なのかい?」
「おまえもそう思うだろ。変だろう。でもそんなとこが可愛かったからある日、男に近づいて、いったのさ」
「なんて?」
「そんなにあたいに興味があるんなら今度店に来いってな。抱いてやっからって」
「で、来たの?」
「来たさ。その日に」
「ほお」
「そわそわしてたから、あたいからやってやると後は、男の好きにされたな」泉のほおが色づき、ため息をつく。
 恥じらう泉の表情を見、「どうなったの?」とたずねた。
「子ができた」「え」「一夜で」「ええ」「で、産んだ」「えええ」「でも、育てなかった」「ええええ」と小次郎が四度おどろいた。
「そのころは、遊女のしごとが愉しくなってきた時分でな。毎夜が充実していたんだよ。店からも頼りにされていたし、誰かの妻になって子を育てるなんざ頭に一欠けらもなかったのさ」
「子はどうしたの?」
「男にくれてやったよ。あたいが商人に売ろうとしたら男が育てさせてくれって、いい寄ってきたから、お好きに、とだけいったわ。本当変わってるんだよ、あの男」
「いまごろどうしてるんだろうね」
「さあね。子と一緒に愉しく暮らしているんじゃねえかな」泉が遠くを眺め、ぼうっと微笑んだ。「あとな、初夜の晩にその男に訊いたのさ」
「なにを?」
「あたいのどこに惚れたんだいってな」
「で、なんていったの?」
「あたいがさ、その男にむかって一度微笑んだそうなんだ。全然おぼえてねえんだがよ」
「それって」
「ああ。ずいぶんと、早とちりな男だったよ」
 泉の愚痴をきいてやると、豊満な、からだに抱かれ、眠りに落ちる。泉がそばにいてくれると、心が落ちつき、眠気が来るのだ。幼子からの、この癖は十五になっても直らなかった。
 泉もそんな赤子のような小次郎を受けいれている。頭をかるく撫で、やさしく包みこみ、おなじ夢のなかに旅立つのだ。

 眼を()ますと、頬は床についていた。
 泉の姿がなかった。飛びおきてあたりを見回した。泉がいない。
 うろたえた。見かねた奴隷仲間の男が、泉は一刻ほどまえに、旦那に連れてゆかれた、と教えてくれた。
 助走すると壁を蹴りあげ、梁をつかみ、身体を横に振った反動で梁のうえに跳びあがる。旦那のいる居間の天井裏までゆくために入りくんだ(はり)の暗がりを這って進む。
 真上に着くと、足下の灯りのなかを覗きこんだ。
 旦那が、泉の両手首と身体の節を、縄で亀甲に縛りあげ、爪さき立ちの恰好で、柱につるしあげていた。鞭をしならせ、泉の肌に、音を刻み、打っている。泉は打たれるたびに拳をにぎりしめ、(あえ)ぎ、乾いた声を響かせていた。「旦那。許してくだせえ」
「うるせい。盗みは鞭打ちだ」
 なおも旦那は、泉を(しつ)(よう)に鞭で打ちつけた。固く縛られた縄がねじれ、(みだ)らに小袖がはだける。腕や脚、胸など、いたるところに鞭の跡形がのこり、赤く腫れた皮膚がやぶれ、うすら血がにじんでいる。
 顔は、なぐられたのだろうか。頬はうっ血し、口角からは唾液の混じった不純な血がしたたっていた。
 泉の息は弱く、このまま打たれ続けるとどうなるのか。頭に血がのぼり、手の震えを抑え切れなくなっていた。
 天井から飛びおりると、旦那におそいかかっていた。
 旦那の首に腕をかけ、おもいっきり()める。体勢をくずし、斃れた旦那の腹を、何度も蹴り続け、腹に湿り気が増すと、床が、赤黒い血で染まっていった。
「コ」無心に腹を、蹴る。「ジ」腹の内部に足さきがめりこんでも、気にせずに蹴る。「ロ」腹に弾力がなくなっても、蹴りを止めない。「ウ」血を、蹴る。
「小次郎」泉のかすれた大声で、正気をとり戻すと、血の床に(たお)れている、旦那の面影を残した肉の(しかばね)を見る。歯のあいだから泡が、もれ出ている。腹は破裂し、腸が露出し、それは、動かないでいた。
「あんたは、わるくねえよ」と、泉がしゃがれた声でいう。
 泉のやさしい眼をちらと見、視線をおとす。ぼうっとし、泉に近づくと、縛っていた縄をほどいてやる。ふらふらと泉が、抱きついてきて、背中を軽くなでてきた。
「なんでさ。なんで盗みなんか」
「小次郎。これさね」泉が拳をひらくと、甘い匂いが(ひろ)がり、手のひらに、粘ついた粒の塊があった。
「幔頭か、それ。なんで?」
「今日はさ、あんたのうまれた日だ。ていっても、ここにあんたが来た日だから、本当のうまれた日か、は知らんがな」泉が、口を袖で隠し、くくと笑いだした。
「なんて日だよ。まったく」


十七、岩付千騎を預かりし者たち
広沢尾張守信秀(26)

 (かげ)(みち)()(あん)は、仲がわるい。
 (のぶ)(ひで)が、(きゆう)(しや)で愛馬の栗毛に、水でふやかした大豆を喰わせていると、馬に乗った景道と無安が並走し、なにやら(けん)()し合って来た。
「戦場に女を連れて来るとは、なんたるか」
「なんかわるいのかよ」
「ああ、わるい。女がいると兵の統制が乱れる」
 馬上の景道の背に女が抱きついていた。無安は眼を細め、景道と女を交互に(にら)んでいる。
 景道が馬からおりると女もおりてきて、女は景道の胴にへばりつき、景道と女はこちらに来た。後ろからは(あき)れた顔の無安が歩いてくる。
「これは駿河守どのと親六入道どのではありませんか」
 景道が女の首にはめられた(かな)()をなでて、女を胴から引きはがすと顔をゆるめ、手を振ってきた。「尾張守どの久しいな。元気であったか?」
「はい、心身とも丈夫でございます」
 無安が景道のちかくで法衣の(ほこり)をはたき、頭に積もったふけを払いとばし、糞臭い息を吐きかけ、屁を()きちらしおわると、ようやく心が落ちついたようで、おだやかな表情になる。「尾張守どの、早速で申し訳ないのだが、情勢を聞かせてほしい」
「わかり申した」
「で?」
「伊勢軍ですが、唐貝山城をおとした勢いをうしなわず、進軍を続けております。兵力はざっと見積もって三万人で、行軍の速度は遅いですが、われら領地に侵攻するのも時間の問題かと考えます」
「どのくらいか、わかるか?」
「鉄心の言伝によると、早くて三日、遅くても五日ほどしか、ときがない、と」
「うむ。思ったよりも時間がないの。して、雑兵の訓練と配備は済んでおろうな」
「はは。雑兵らはすでに適地に配備しており、夜襲がおころうとも防ぐ手はずは整っております」
「わかった。ご苦労。では軍評定に参ろうか」
「はい、(いわ)(つき)城にご案内いたします。(しもつけ)()(かみ)どのはすでに岩付城においでです」
 無安の尻を蹴りあげた半笑いの景道が口をひらく。「下野守どのにしては珍しいな。俺らよりも早く()せ参じるとはな」
「ええ。大戦になると張り切られておりますし」
「し、なんだ?」
「鉄心いわく昨日の夜より美濃守どのと城内家臣らを巻きこんでのどんちゃん騒ぎだったらしいです」
 景道と無安は顔を見合わせると肚の底から笑いだし、互いの肩をたたき、しまいには抱擁して笑い声で息が尽きるまで笑い続けた。
 仲がわるいのか、いいのか、どっちなんだよ。


十八、風の刃
(いぬ)()(すけ)(37)

 北門で、父が殺された。
 犬之助は、そう叫んで逃げる商人の男をつかまえると、なにがあったのか聞いていた。
「父さんが殺されたんだ」
「なにが、あったんだ?」
「なにがって、父さんが殺されたんだ」
 正気をうしなった男を置き去りにし()(ぐち)に駈けていった。着くとすでに群集であふれかえっていてなにやら騒いでいる。
「あぶねえぞ。門から出るな」「出たら死ぬぞ。出てはならん」「おっかねえ。どうなってんだ」
 群集の腰したを小柄な身体で這って抜けると石門のまえに身をだした。
 いたるところを斬られた男が、無残にも仰向けに斃れている。商人の男がさっきいっていた、男の父親なのだろう。
 斃れている屍体に近づき、手を出そうとしたら、風にのって、青い鎌の影がみえた。とっさに手を、ひっこめる。
 手のひらを見れば、うすらと、傷が線を引いており、線から血がにじんでいた。
「あんた、あぶねえぞ。ひっこんどけ」体格のいい男がそういってきたから、「こりゃいったい、どうなっているんだ?」とたずねた。
「俺は見たんだよ。あの男が斬り殺されるのをな」
「なにを見たんだ?」
「男が門を出ようとしたら、次つぎと傷口が現れた。傷口から血がほとばしり、口から血を吹いて、男が絶命したところをな」
「だれが、そんな非道を?」
「見えなかった。俺には見えなかった。ただ傷口だけが、増えていった」
「姿が見えないか。姿が見えない」腕を組んで考える。
「それにしてもあんた、よく避けられたな」
「ああ。俺は昔から、眼だけはいいんだよ」
「あんたにも念のためにいっとくが、いまは外に出られないよ。出ようとした奴は、みんな斬り殺されたんだからな。ちなみに正門の大手口は、ここよりもさらにひどい状況になっとるからな」男がそう忠告すると、群集のなかに去った。
 ひらの傷を見、おもった。
「風間衆に、囲まれたな」


十九、(ぐん)(ひよう)(てい)
広沢尾張守信秀(26)

 顔を真赤にした()(あん)が、(ゆう)(くん)(ゆう)(じよ)らを広間から追いだすと、奥に座している(すけ)(まさ)のまえの床に軍略図をひろげ、腰をおろした。
 資正はこめかみを押さえ、軍略図に眼を通す。資正の横には(よし)(むね)が立っていて、(のぶ)(ひで)らを見おろしていた。
「美濃守どの、大戦は目下ですのに、この有様はいかようか」と無安が説教する。
「すまぬ。下野守と昔の武勇伝を語らっていたら、つい話が弾んでしもうてな」
「一刻いっこく、伊勢方の軍は近づいております。今後はこのような失態がないように、注意いただきたく存じます」
「うむ、わかった。誓うよ。戦がおわるまでは、酒を飲まん」
「よろしい。では軍評定にうつります。尾張守どの、わが軍の状況を皆に説明していただけるか?」
 内政担当の()(えだ)()(ずも)(のかみ)(のぶ)(むね)から受けとった書物類を見ながら、答える。「わが軍の兵力は、亥を含め一万人弱。(ぞう)(ひよう)には、適材適地にあわせ、戦準備がすんでおります。(やり)(ぶすま)、遠射、柔術の軍事調練。堀、壕、柵の土木建築。弓足軽隊、(なが)()(やり)隊、()()()隊の組織編成」
(ひよう)(ろう)は、いかほどか?」
「雑兵らに一日一升の配分でゆきますと、約三月はもつだけの量は、城内に確保しております。仮に、籠城戦に持ちこまれても、飢餓の心配は、当面ありません」
(ばく)()、小盗、(けん)()に対する罰則については、どうか?」
 信秀に代わり、景道が口をはさむ。「雑兵たちの士気の低下につながるから、黙認でよいのではないか。(ちか)(ろく)どの」
「だまれ。軍律が乱れれば、軍内に悪行がはびこるのだぞ。すればそれこそ戦意の喪失となり、()(ごう)(しゆう)と化す」
 無安と景道が、肩をつかみ、いがみあっている、と資正が(さと)してきた。「まあまあ、待て。どちらの言い分もわかるが、今回の戦の目的は、なにか、心得ておるか」
「もちろん。伊勢方の軍を迎撃し、城を守り通すが、目的だろう」
「親六どの。それもあるが、ちとちがう。俺らの目的は、氏康の首だ。氏康を討たねば今回死守したとしても、またいつぞ攻め入るかわからんのではないか」
「はは、確かに。おっしゃる通りではございますが」
「そなたの言い分はわかる。軍律違反は罰則だ。だがの、死を怖れず兵らには果敢に敵陣に進攻してほしい。だから、俺としては兵たちの気晴らしになるならそれも、配慮と考える」
 景道が色気づいて言葉を重ねてきた。「殿のおっしゃるとおりだ。明日死ぬかもしれない兵達を想うと致しかたない。そう兵たちのためなのだよ」
 無安は、納得いってなかったが、資正と景道から説得され、厭いや首を縦に振る。
 話を静かに聞いていた義宗が平然という。「要は、氏康の首をぶった斬ってくればいいんだろ。首をとるためなら、なにやってもいいんだよ。それが(いくさ)ってもんなんだぜ。なあ、尾張守どの」
 ふるな、とおもったが即座に答えた。「下野守どののいわれる通り氏康さえ討てば、われわれの勝利でございます。その大義のために、どのような謀略、蛮行を働いても許されるのです。大事なのは、首のために、最善を尽くす」
「ほう。色白の貧弱な男にしては、たまには良い意見をいうじゃねえかよ。その通り、俺らは大義のため、どうやれば氏康を討てるのかだけを考えていればいいんだよ」
 資正が頭を縦に深く振った。「見事だ。よくいった。伊勢と()(ぼく)なんぞなし。逆賊の氏康を討ちとり、北条家、いや伊勢家を()()やしにする。これが俺らの大義名分で、管領どのに対する忠義だ」資正が右手を天に高く挙げると、広間に歓声がわき、義宗は雄たけびをあげ、景道は口を鳴らし、無安は深くため息をついた。
 資正に気にかかる懸念を確かめる。「松山の方は、いかがいたしますか?」
「おお、そうだったな。むこうの状況については、書状を持ってゆかせた戌に訊くつもりだ。それに、()(きゆう)(しら)せがあれば、(ひる)の茜が(かく)(りき)で参るだろう。念のため、俺の戌もおるから、事態の対応は可能となっておる。いっさいがっさい城の守備は、新蔵人どのに一任しておるから、心配するのではない」
「はは。かしこまりました」
 資正は、あご髭を触り、なにやら思案にふけり、遠く松山城をおもっているようだ。
 無安が足の痺れをとり、立ちあがると、「よし行くか」といいのこし、広間を出た。景道と義宗、十数人の家臣らが順に広間を出ていって広間には信秀と資正だけになった。
「なにか気になりますか?」
「うむ。これは内密だが」
「はい、口は堅いですから、どうぞ」
「新蔵人どのだ。あやつもしやすると、伊勢に通じておるやもしれぬ」
「なんですと。それは、誠ですか」
「いや、わからん。わからんのだが、あやつ気が弱いでな。氏康になにかそそのかされて、俺らを裏切ったのではないかと、長年の直感がいっておるのだ」
「直感、ですか?」
「うむ。ただそこまで愚かではない、と信じてやりたい気持ちもある」
「どうされますか?」
「さっき、いったとおり、松山城には俺の息のかかった者たちがおるから、即時の対処はできる。もし万が一、なにかがおこれば、自ら(おもむ)き、新蔵人どのと酒でも酌み交わし、話をつけてやるつもりだ」
「それはまた、お気楽な」
「頭領としての器がなきにせよ、俺にとっては大事なお方にちがいない。上杉家のため、全力を尽くすが、俺の使命でもあるのだよ」
「いたく感銘いたします」志を決めた男の顔を見、この大戦、この男のためにかならず勝たなければならないと、心に深く刻みこむ。


二十、小次郎の娘、小白
小次郎(18)

 川辺の朽ちた掘っ立て小屋で、小次郎と泉が住みだして数年後、泉の腹のなかに新しい命が宿った。
 日にひに泉の腹は大きく膨らんでゆき、腹に耳をあてると子の動く音が響いてくる。
 ある深夜、膨らんだ腹に耳を張りつけたら、泉が苦しみ、床を見れば、濡れていた。
 愈いよか。息の荒くなった泉を藁の束にもたれさせてやると、股をあけた。から桶に川の水を()んできて、あるだけの布きれを用意し、(あか)()をとる準備を整え、ときを待つ。
 股ぐらを覗きこむと赤子の頭の先がみえてきた。泉に力むようにいうと、泉は腹に力を加え、おもいきり力んだ。
 赤子の顔がおちてきた。泉がさらに力むと、手のつぎに胴もみえてきた。赤子の胴をかかえるとひっぱる。逆さの赤子がひねり出てきて、床に這い出た。赤子を抱きよせる。
 赤子の顔を泉にみせてやると疲れきった汗だくの泉が微笑み、安堵したのか呼吸が静かにしずんでゆく。赤子の(へそ)の緒を切って、赤子を布にくるむと、布で揉んで血を()きとってやった。
「いずみ、女児だぞ」すっぽんぽんの赤子を掲げ、顔の綻んだ小次郎が泉にみせてやろうとしたら既に泉の顔には血の気がなく、息の音も聴こえてこなかった。
 笑みが硬直する。
 ぐったり開きっぱなしの股からは湯気をおびた血が垂れ流れ、屋内には血なまぐさい匂いと、芳醇な女の汗の香りが混じりあった臭気が満ちていた。吐き気を催し、嗚咽する。
「いずみ?」なにがおこったのか、わからないでいたら手に抱えていた赤子が突如泣きだす。骨に響く甲高い泣き声のなか、小次郎は泉の真白な顔を静観している。赤子はただ泣き続け、その夜、泣き止まなかった。
 
 赤子には()(はく)という名をつけてやり、小次郎は小白とふたりで暮らしはじめる。小白はよく食べた。採ってきた川魚や山菜だけでは足らないようで、次第に機嫌がわるくなり、ついには泣きだしてしまった。泣きだすと一日中泣き続け、どうやってあやそうとも、小白は泣き続ける。
 なにか栄養のつくもんを探しにゆこう。不機嫌な小白を背負うと()(づま)(かがみ)の話なんぞを聞かせてやり、陽の高い初夏の街道をゆく。
 腕で汗を拭い、湯気をあげた道を歩いていたら、まえから馬に乗った端正な顔立ちの若侍と、その従者が来たから、頭をさげて、横を通りすぎようとした。
 馬が止まった、とおもうと若侍が(じゆう)(しや)に馬を任せ、後ろより近づいてきた。「そち乞食か?」若侍が(ふところ)をまさぐりだした。
「いや乞食じゃねえよ。畑と銭はもっとる」
「すまぬ。てっきり乞食かと」
 若侍が首を傾げ、背の小白を見る。「どうした。孤児か?」
「否いや。俺の子だよ。女房に先だたれ、俺がこの子を育ててゆくんだよ」
「おまえがか。それは」
「用がねえなら行くぜ。俺は急いでいるんだよ。この子に、なにか栄養のあるものを食わせにゃならんのでな」
 動きを手で制すると、若侍は瞳を覗きこんできて、顎に手をおくとしばらく考え、提案してきた。「おまえが良ければだが、俺に仕えんか?」
「仕えるって。俺を雇うっていうのかい。それはまたなんで?」
「面はひどく(みにく)いが、いい眼をしておる」
「はあ。なんだよそれ。けなしているのか、ほめているのか、どっちなんだよ」
「まあまあ冗談だ。それよりな」
「それより、なんだ?」
「俺も今年息子がうまれてな。父の気持ちはよくわかるのだよ。子のためなら命は惜しくないだろう」
「まあそうだが。なんでもやるが」
「で、どうだろうか?」
 後ろの小白の顔をのぞくと笑いかえしてきた。小次郎の口もとが(ほころ)ぶ。「ああ、いいぜ。この子を死なすわけにはゆかんからな」
「よし決まりだ。ゆこう。ええっと」
「名か。名は捨てた」
「なぜ?」
「この子のためにな」


二十一、さらば
茜(15)

 城が包囲された、という噂は、茜の耳にもすぐに入ってきた。調べに北の門にむかった。
 虎口のすぐ近くに犬之助がたっていた。「犬之助、どうなってんの?」
「ああ、きっと風間衆の仕業だよ」
「風間衆?」
「風間衆が城をとり囲み、城から誰も外に、出られなくしているんだよ」
「なぜ風間衆が、どんな意図が?」
「おそらく、松山城を孤立させたいのだろうな」
「孤立?」
「ああ、孤立だ」
 黙って考えていると犬之助がこう付けくわえた。「栄俊からの伝聞だと、伊勢方の軍がここ武州にむけて進軍しているらしいから、本陣が来るまでに松山城と支城との連絡を絶ち、俺らの戦力をそぎたいのだろう」
「えらく()えてるね」
「だてに二十年足軽やって、死戦をくぐってきてねえよ。それくらいの策略くらい匂うよ。なめるな」
「だとするとまずいな。急ぎ岩付に報せないと」
「ああ、そうだな。だが、出ようとすれば、風に身を裂かれるぞ。まちがっても、出ようとは思うな」犬之助が石門の外を指さした。血にまみれた死骸がざっと十数体転がっている。「走り逃げようと試したようだが、だめだったみたいだな」
「でも」
「まあまあ。俺にはひとつ考えがあるんだよ」
「考え。なに?」
「一点突破だ。みんなで突破さ。みんなで突破したら怖くないってやつさ」
「一点突破っていっても誰がそんな危険なまねをするの?」
「いるじゃねえかよ」
「いる?」
「ああ、美濃守どののためなら、命は惜しくない連中がよ」
「もしかして」
「うん。俺ら戌がな」
「大丈夫なの。犬死にするかも」
「犬死にけっこうよ。俺ら戌はもとより命なんざないに等しい輩達さ。殿に拾われてたまたま食いつないできただけさ。拾われていなければ大事なもんを失い、飢餓に苦しんでいた奴ばかりさ」
「いぬのすけ」
「心配するな。誰か生き残り岩付に着けば、俺らの勝ちさ。殿に状況を伝え援軍を送ってもらうから茜はまっとけ」
「いや私も行く」
 犬之助が首を横に振る。「茜。気概は買うがだめだ。おまえは新蔵人どのを守らなければならん。こんなとこで死ぬわけにはゆかんだろう」
「でも私なら」
「だめだ。おまえを失うわけにはゆかん」
「なぜ。なぜ、そこまで私を心配するの?」
「なぜか。ああそうだな」
「なに?」
「きのう幔頭を食っているときに気づいたんだがな」
「なにに?」
「おまえの食べている姿を見ているとな、娘の小白を思いだす。似ているんだよ、娘の食い方にな」
「食い方が似てるって」
「そう、似ている。だからだめだ。危険な目には遭わせられん。おまえは新蔵人どののおそばでお守りするんだろう」
「そうだけど」
「こんな理由でいいだろ、わかってくれ」
「確認だけどほんとうに良いの?」
「ああ、良いの。あまりいうなよ。娘に説教しているみたいで悲しくなってくる。俺は、娘の小白に逢うまでは死なんよ。岩付になんとしてもたどり着くよ」
「そう、わかった。気持ちを鈍らせてごめん。私は殿を守りぬく。犬之助の決意に誓って約束するよ」
「ああ、頼んだぜ」
「任せて」
「では、俺はこれより足軽たちをまとめに兵舎にいってくるよ」
「無事を祈ってる」
 犬之助が背をむけると、兵舎に駈けだした。風にのってかすかに声がきこえた。「さらばな、茜」


二十二、抑圧からの解放
茜(15)
                     
 松山城本丸の城内には、家臣らが寝泊まりする宿舎があり、家臣らは、殿から用命があるまでは、自室で英気を養い、急務に備えていた。
 茜は、自室の六畳の間に戻ってくると、髪の結びをほどいた。髪が垂れると、ひざから崩れ、畳にそって横になる。眼のまえに(くし)がおちてあったが、手を伸ばしてとるのも(おつ)(くう)になり、髪をとかずに櫛の輪郭だけを、何度も目で描いていた。
 駈けおわった後は、いつもこうだ。
 駈けているときは気が張っていて、なにも感じないが、一度気がぬけてしまうと、どっと疲れがやって来て、なにもしたくない。
 太ももを触ってみると、内に熱を帯びていた。「駈けよ」と指示されれば、無理にでもすぐ、駈ける。
 だが、憲勝は資正からの書状を受けとって以来、奥の座にこもり続け、当面は指示が出せる状況ではなかった。駈ける必要はなかったのだ。
 ゆったりと身をおこし、髪を掻きあげると、三味線を手にとった。この地に越してきた法師が、上納金の代わりに納めた楽器で、殿から褒美として(たまわ)った宝だ。琴とはまたちがった、いい音色がするのだという。
 三味線の棹をななめに構えると、(ばち)で弦を弾いた。きんきん、と音が響いてきて、耳ざわりのいい音の感覚を試し、弦を弾き続ける。
 弾いていたら、(りつ)(どう)が琴線にふれ、内より熱くなり、気分がよくなってきたから、音と音との響きにのせて、(じよう)()()なんかを即興で語り、物語の世界を夢想した。
 女の情念と、男の悲哀の景色がひろがると、撥は勝手に弦を刻み、音が踊り、吐きだされた声が詩にのってゆく。気がつくと、三味線を片手に抱いたまま立ちあがり、足を小刻みに踏んでいた。うみだされた生音に、自身の言葉で想いを(たく)し、日び、心を抑圧していた内なる負の感情を、発散させていった。
 額から汗が垂れ、流れだしても構わず、荒い息で、凝縮した心の底の(よど)みを、しぼりだしきる。
 三味線を捨ておくと、腰をおろし、肩をゆらす。汗を布でふくと、いままで味わない、清すがしい開放感をおぼえた。
 誰にもいわない自分の本性を、堂どうと偽りなく、語りつくしきった。
 肩の荷はかるくなり、顔をしたにむけると、深く息をはき、身がふるえ、喜んでいるのが感じえた。
 生気で満ち足りると、伸びをして、胸に新鮮な空気を送りこむと、愉快な気持ちになり、自然と顔がゆるみ、笑みがこぼれているのが後からわかり、なんだか妙に幸せを感じた。
 陽は暮れていなく、まだ陽暮れまでは、たっぷり時間がある。
 なにをしようか、なにができるだろうか、なにをしたいのだろうか、そんな自分のための自由な余暇を考えるだけで、胸がいっぱいになって、茜は、主君に仕える忠臣から、十五のあどけない少女にかえっていった。


二十三、開戦
(えい)(しゆん)(44)

 小坊主に命じて千代を城まで送りとどけさせると、(えい)(しゆん)は上半身着崩した法衣のままで軒下に出、腰をおろすと夜のつめたい風にあたり、火照った肌を冷やし、手に残った千代の湿ったぬくもりを感じていた。
 手のひらを匂うと、甘ったるい香りが漂って来て、眼をとじたら、千代のかよわな声が、きこえた。
 栄俊は、おびえる千代を抱いていると、助けてやらねばと心に深い慈悲の念が沸きたってきて、傷ついた手をさすり、涙をぬぐってやると助力を誓ったのだ。
 そらに浮いている満月を見て、心を静めていたら、弟子の(しゆん)()が慌てて来て、門戸に漆黒の甲冑を身につけた高貴な御仁がお見えです、といってきたから法衣を着なおし、俊誉に部屋の片づけを指示すると、門戸にむかった。
「どちら様でございますかな」門戸をひらくと、眼のまえに身の丈が六尺三寸ほどある、威風凜りんとした顔立ちの老練な男がたっていた。「夜分おそくに申し訳ござらん。相州の(ほう)(じよう)()(きよう)(だい)()と申す者だ」
 ひええ。腰をぬかし、顔を見あげていると氏康が中腰になり、おだやかな口調で命じてきた。「いまより、この寺の領地を、わが北条軍の本陣といたす。早急に明け渡していただけるかな?」
「か、かしこまりました」地面に手をつき、走りだすと、寺の僧たちを鐘でたたきおこし、急ぎ荷をまとめるように僧一人ひとりに説明しまわる。
 荷物をまとめおわると、栄俊は、僧たちと武州松山城にむけて歩きだしていった。
 
 (えい)(ろく)四(一五六一)年の十一月初めごろ、北条左京大夫氏康は岩殿山正法寺に本陣を敷いた。
 (たか)(さか)周辺に家臣らの先陣、中陣、後陣を配し、要害の武州松山城を三万の大軍でどうやって攻略せんかと深謀をめぐらせ、床几に腰掛け、軍配団扇を握っていた。


   第二章 一世一代の大勝負


一、小白日和
()(はく)(19)

 うすく氷の張った()(しよう)に、野鴨の親子が泳いでいる。陽にてらされた水面は、白く霞をのぼらせ、珠をこぼして輝いていた。
 小白は頭から猪の毛皮を深くかぶり、枯れ草の蔭に伏し隠れている。つがえた短弓の矢さきを親鳥の首に定め、ひと呼吸おくと、矢を放った。
 放った矢は、親鳥の首を貫通し、後ろを泳いでいた子鳥は羽をひろげ、天に飛びたとうとする。
 子鳥にねらいを定めると、矢をはなつ。矢はおなじく、首を(つらぬ)いた。
 投げ縄で親鳥と子鳥を回収すると、首から矢を抜き、首を折る。肛門を小刀で裂くと腸を引きぬき、腹を裂き、内臓を取りだした。内臓を塩でつまむと、湖沼の水で鴨の腹のなかに残った血を洗い流し、腹内に塩をまぶした氷をつめ、裂いた腹を縄でしばる。毛をむしりとったら木に逆さに吊し、おえると地面にしゃがみ、短弓を構え、湖沼の野鴨を待つ。
 木に野鴨を十羽ほど(つる)すと、氷を敷きつめた竹籠に鴨を放りこみ、籠を背負うと家路についた。
 川辺にある平屋に入ると籠をおろし、毛皮をぬぐと暖をとり、冷えきった指さきをあたため、こわばった表情を溶かしてゆく。
 籠から鴨肉をとると、竹串に突きさし、塩をまぶし、火の熱で肉の表面をかるく()がしていった。
 焼けた匂いで腹が鳴ると、たまらず肉身にかぶりつく。
 口角より肉の汁と脂、唾液の混じった光沢のある液が滴り、暖の火で沸されると、煙が立ちこめた。かみこんだ赤身で腹が満たされてゆくと、えもゆえぬ幸福を感じ、安らかになった。
「父さん、いつ帰って来るのかな」籠のなかにある、首のない鴨肉を()っと見ながら、指についた脂をしゃぶって考えた。「あと一羽だけ。うん、あと一羽だけ」
 父が帰って来るころには鴨の肉、いや匂いすら残っていないのは、小白が一番よくわかっていた。


二、大脱走
犬之助(37)

 屋根のうえにあがると、眼下の兵舎の外に屯していた足軽数人にむかって、大声で叫んだ。「きいてくれ」
 足軽らが、屋根のうえの犬之助にきづくと、指をさし、いぶしげな顔で、なにやら話しだした。異変にきづいた残りの足軽らが、兵舎からぞろりと出てくる。
 足軽のひとり、(まご)(ぞう)と呼ばれる()(らい)の年長男が叫びかえした。「いったいなんだ。おめえ確か岩付の(なにがし)だよな」
「ああそうだ」
「で、なんだよ?」
「みんなで岩付に駈けないか」
「はあ。なにいってんだ。城の外に、出られないんだぞ」
「だから、皆で、出るんだよ」
 足軽らはざわざわと騒ぎだし、しまいには小石が飛んできて暴動の様相となってきた。見かねた孫蔵は軽く跳躍すると、犬之助のよこに立ち、聞いてきた。「みんなで、出るって? だが、勝算はあるのか?」
「勝算はわからねえ。賭けだよ」
 孫蔵が鼻をならし、短く笑う。「勝算もわからないのにやるのか。俺らを無駄死にさせるつもりか」
「まあきいてくれ。このままじゃどのみち、俺らは死ぬんだよ」
「どういう意味だ?」
 身振り手振りで、孫蔵に話しはじめた。「松山城が孤立している隙に伊勢方の大軍が城外をとり囲んだら(ろう)(じよう)戦になるだろ」
「ああそうだな。なるな」
「籠城戦になると持久戦になるが物資や食料、兵力に限りがあるからこちらは徐じょに疲弊する」
「まあな」
「疲弊したらまともに闘えるのか。闘えないよな。伊勢軍におされたらしまいには落城になり、降伏だ。俺ら足軽がどうなるか想像できるよな?」
「打ち首だ」
「だろ、だからまだ体力のある内に手を打たにゃならんのだ」
「そりゃそうだが」
「だから、皆で岩付に駈けて殿に援軍をお願いするんだ。援軍がこれば、伊勢軍の戦力も分断できる。なれば、勝機は来るだろ」
「うむ」
「俺に賭けてみないか?」
「だが」
「松山城が落とされると戦力の連携がとれなくなるから、岩付城の防衛も危うくなる。つまり美濃守どのに害が及ぶんだ。この作戦は俺らの忠義心があるからできるんだ」
 孫蔵がほおの髭をさわり、頭を上下させ、考えを整理する。「わかった。俺も殿に拾われた身で、殿に対する恩義は、誰にも負けない」
「なら」
「ちと待て。皆に意見を訊く。俺は松山城の足軽たちをまとめる大将の役を命じられているから独断で無責任な判断をするわけにはゆかん」孫蔵は屋根から飛びおりると、群れに戻り、皆を集めて話をはじめた。
 犬之助は腰をおろす。もし説得に失敗しても独りで駈けるつもりだったから、孫蔵の説得を冷静にみられた。こんな賭けに巻きこんでしまって、と、遠くから足軽たちの当惑の表情をうかがい、慈愛を抱く。
 皆に説明し終えた孫蔵が戻ってきた。「わかった。おまえに従うよ」
「ええ。いってあれなんだが、本当に良いのか?」
「ああ、皆の総意だ。殿から受けた恩をかえそう、という莫迦な連中ばかりなんだよ、うちは」
「そうか、それは」
 孫蔵は、あかるい口調でいう。「俺らは、おまえに賭けるから、絶対に成功させような」
「ああ、俺もそのつもりだよ」孫蔵と握手し、抱擁すると、群れから歓声がわいた。
 虎口付近に五十数人の足軽たちが集まり、誰もが脚をほぐし、駈ける準備をしている。駈けるため、当世具足や陣笠、太刀などの余計な装備は身につけておらず、臑布(はばき)と草履だけの軽装だった。眼は輝き、死を怖れている者は誰ひとりいない。
 号令すると一列にならび、(ちよう)()の陣立となる。犬之助は先頭で、孫蔵はすぐ後ろにいた。「みんな、かならず岩付に生きつくぞ」そういうと孫蔵が言葉をかぶす。「殿への忠義、いま見せようではないか」石門の柱をふるわす大声がやって来る。
 右拳をそらに突きあげ、「曳えい」というと後方から、「応」と叫び声があがる。胸を熱くすると鼻から息をすいこみ、口から吐くと脚をたたき、何度か跳びはねると決心し、門の外に駈けだしていった。
 門をぬけると、横から鎌が飛んで来た。跳んで避ける。
 地に手をつくと、ななめ後ろから小刀が飛んで来た。前転し、小走りで逃げた。
 背に叫び声と、肉を裂く音がきこえた。が、前をむき、こけそうになっても、ひたすら疾走する。
 胸が鼓動し、息があがり、脚がからまってつまずきそうになっても走り続け、山肌の傾斜を滑走する。
 堀底の落ち葉のぬかるみに足をとられる。派手にこけて、全身が泥まみれになっても迷いなく跳ねおきると、泥の水気をのこしたまま坂をひたのぼる。
 木の葉がゆれた、とおもった。頭上から石つぶてが降ってきたから手の甲で防ぎ、低姿勢になり、石の雨のしたを走りぬける。
 山道の斜面をくだり、小白を想っていた。いま、なにをしているのか、腹は減っていないか、息災であるか、心配ごとが、頭のなかを駈けめぐる。
 身体には知らぬ間に、無数の刃傷ができている。血があふれだしていた。考えも茫然とし、虚ろになってきた。もはや無心で走っていた。後には戻れない。
 息がやたら大きくきこえ、鼻の奥が痺れ、こめかみが脈をたてて頭が痛んだら、肌に開いた傷の痛みも曖昧になり、()()(ごと)のようになっていた。ここまでか、と半ばあきらめかけていた。
 だが、脚はあいかわらずだ。前に動き続け、使()(えき)を果たそうとしていた。
 現実は、はるか遠い。あたりの景色は不確かな望郷に変わり果て、夢との境がなくなる。心と、身体は(はく)()し、事実と虚構を錯乱し、幻のなかに生きていた。
 意識が、淡い。軽くなると愈いよか、とおもったが、背の衝撃で叩きおこされた。
 気づくと肩をかかえられていた。腹には白いたすきがかけられている。肩さきには血色のわるい孫蔵がいて、歯をくいしばり、並んで駈けていた。「しっかりしろ。岩付にたどりつくんだろ」
「おう」と弱よわしく呟くと、孫蔵の肩をつかみかえし、ふたりで丘陵の坂を滑りおちる。
 あかるい。
 まばゆい光がみえてきて、その明るさに包まれる。山林をぬけると、荒あらしい市野川の水音がきこえた。
 犬之助と孫蔵は失速し、歩きだし、川辺で屈むと激流の水をすくい一口飲む。
 後ろを見た。二十数名の足軽たちが来ていただけで、残り半数の者たちは、やられてしまったのだろうか。「よし、もうひとふんばりだ」と、孫蔵らにいって、駈けだそうとしたら、足もとに棒手裏剣が刺さった。飛んで来た方を見たら、白髪頭の男がいた。
 唇をかんだ孫蔵が、「御免」といって、胴体を押しとばしてきた。
 荒れる川に吸いこまれ、川の底に沈んだ。
 水中で上下左右わからずに、もがき暴れ、唇の奥から泡が漏れ出ると手で口を(ふさ)ぎ、(かす)んだ眼で、あかるい方を見、泳ぎ、ようやく川面に浮き出た。すでに遠くに流され、松山城は四方見当たらない。
 川辺に流れ着き、木蔭に隠れ、竹筒のなかに小便すると溜めた尿を赤黒くうっ血した傷口にかける。手拭いを広げて細かく破くと、刀傷部に固く巻きつけ、出血を止めた。
 枯れ木にもたれ、あぐらをかくと寝てはなるまいと、孫蔵らを想い、必死に堪えていたが、陽が照らし、穏やかに暖めると、肩から力がぬけてしまい、保持していた意識がとんだら、(まぶた)が暗く閉じ、つい眠りにおちる。
 肌はつめたい乾いた風になでられ、陶器のように無表情な白になっていた。


三、単騎夜行
太田美濃守資正(39)

 陽は地平に沈み、夜は深まっていたが静寂のなかに微かに蹄の音がきこえる。
 資正は(あし)()色の愛馬に跳びのると、夜の草原を疾走し、弓をつがえると矢を放った。矢はおなじく弓を構えた敵将の兜を貫き、馬上の武将が首を垂らすと、あばれる馬に振られ、体勢をくずし、乱れた胴体が、地面に転げおちる。
 資正についていた(やり)(かつぎ)(うま)(とり)(はさみ)(ばこ)持らの十人ほどの雑兵らが、一斉に落馬した武将の屍体に(むら)がると、兜、鎧、帯刀、衣服、食料の身包みを剥がしとり、最後に協力して、首を太刀で切断し、髪をつまみ、首を持ってきた。「大将、名のある方ですかねえ」
「うむ。見ぬ顔だな」
「どうしましょうか?」
「鼻と上唇をそいで、首は捨ておいてゆけ」
「へえ、かしこまりました」雑兵らが首から、鼻と上唇をそぐと巾着袋に入れ、挟箱にしまう。
 (いわ)殿(どの)(さん)(しよう)(ぼう)()に本陣を敷いた総大将の氏康と、じかに対決するため、岩殿山に延びる草原を、単騎駈けていた。
 身なりを下級武士に模していた。軽率な行動をした無頼者を装い、敵を(あざむ)き、慢心からの油断をさそう。機会を得、本陣にいる氏康の生首をねらう、という決死の奇襲作戦だった。
 手綱をひき、馬の腹を小突く。疾走させ、闇夜にうつる氏康の青白い影にむかい合う。速射する所作を、馬上で反すうし、決戦のときを、いまかと待つのだった。「父が氏康を討つ」


四、親子喧嘩
(おお)()(げん)()(ろう)(すけ)(ふさ)(19)
                  
「なんだ?」
 資正の息子|(すけ)(ふさ)は、父の居間で資正と顔をつきあわせていた。「父上、考え直してはいただけないでしょうか?」
「なにを、だ」
(ほう)(じよう)どのとの戦についてです」
 資正は口髭をさわり、眼を覗きこんできた。「源五郎、血迷ったか」
「けっして血迷ってなんかおりません。真剣でございます」
「ほう真剣と申したな。では聞くが、なぜ氏康との戦を考え直さんとならんのだ?」
「はい、申し上げますが、妻の(ちよう)(りん)(いん)からの話ですと、父の左京大夫どのは大層立派な御方でございます。領地には善政を敷き、領民からの信望は厚く、戦にでれば勇猛果敢に進撃するから、家臣らにも慕われております」
「ふむ。だから?」
「まさに稀代の名君なのです」
 資正は笑う。「父は凡将だから尻尾を巻いて逃げろ、というのか?」
「いえ、ちがいます。北条どのは父上が思っているほど、わるい御方ではございません」
「源五郎よ、なぜ父が氏康を討たんとするか、わかるか?」
「わかりません。長年仕えられてきたのに、なぜですか?」
「十二年か」資正が遠くを眺める。「屈辱に耐え、機会を待っていた」
「機会ですか?」
「そう機会だ。俺は、山内上杉弾正少弼どのの小田原城攻めを待っていたのだ」
「どういう意味ですか?」
「小田原城といえば、逆賊伊勢氏康の居城。上杉家が、伊勢家の本丸を攻めたのだぞ」
「はあ、それで?」
「愚か者。わが太田家は、曾祖父道(どう)(かん)公から続く由緒正しい名門。(そう)(ずい)と道灌公の因縁を、知らぬと申すか」
「知っておりますとも。道灌公は上杉家の忠臣で、才能あふれる御方でございました。才能にも溺れず、生涯に渡って、上杉家を支えたのです」
「その通り」
「ですが、宗瑞が用いた謀略で、道灌公は殺され、上杉家では、山内と扇谷の対立が深まり、両家は衰退してゆく宿命となったのです」
「うむ」
「この上杉家の混乱に乗じ、(きよう)(ゆう)の宗瑞は小田原城を奪い、相州の地を支配したのです。宗瑞こそが、世を乱した張本人なのです」
「よく、いった。わかっているではないか」
「はい、このくらいは太田家の人間なら、誰でも存じております」
「つまりな、伊勢家は太田家の代だいの敵なるぞ。おまえは、道灌公に顔むけできるのか?」
「父上、しかし」
「あの長林院に、なにを吹きこまれたのか知らんが、父は上杉家のため、道灌公の遺志を継ぎ、かならずや伊勢家を討ち滅ぼし、先祖の無念を晴らすつもりだ」資正は拳を握りしめ、遠くさきを眺めた。
「父上、私は父を否定したくはございませんが、時代は移りゆきます。過去にとらわれていては、なにも成せないのではありませんか?」
「たわけ。源五郎、おまえには父の想いが通じぬのか」
「失礼ながら私は、時代をみます。時代の風は、北条どのに吹いておいでです。時代の流れにのって、なにがわるいのですか?」
「父を()(ろう)するのか。そなたは、なにもわかっておらん」
「なにが、ですか?」
 資正がにらんできた。「おまえの名をいうてみよ」
「資房でございます」
「資房とはな、道灌公の祖父の名ぞ」
「はい、存じております」
「うむ。わかってて当然」
「で、なんですか?」
「おまえにはな、太田家の長男として先祖の無念を忘れてはならん、という想いをこめて、名を資房としたのだぞ」
 ため息をつき、答える。「私には重かったようです。父上のような武勇も智恵もなく時代に逆らって生き残るだけの()(りよう)もございません。ただ時代に逆らわず、つよき方に従うのが、私の天分です」
「情けないのう。おまえがそこまでいうのなら好きにせよ。ただ太田家の家督は継がせん。源太も戻ってきたし、次男に家督を譲るからな。よいな?」
「父上お待ちを。家督は長男に譲るがならわし。次男に譲るとは」
「よく聞け。長男が死ねば家督は次男に移るのだぞ。この意味よく考えるのだな」
「そんな」資正が手で下がれと指示したから、礼をし、退室した。「源太に家督を譲るとな。まさか本気では、いや」もの思いにふける。ときに立ちどまって深く考えこんでみては悩み、ときに早足となったりと、迷いながら自室に続く床を歩いてゆく。
 部屋には長林院がいて、床に座ると肩をもんできた。「あなたどうでした?」
「いや、わかっていただけんかった」
「それはそれは」
「このままでは戦になるよ」
「そうですか、誠に残念でございます」
「私もだよ。父上も頑固なお人で困るよ」
 長林院が背に抱きついてきて、肩の後ろから顔をのぞき込んできた。「まあ、ほかに、なにかありましたか? 顔色がずいぶんわるいようですが」
「おう、わかるか」
「わかりますとも、政略結婚とはいえ、あなたの妻ですよ」
「そうだな。実はな、家督を次男に譲るそうなんだ」
「それは確かで、ございますか? そんな。そんな勝手が許されるのですか?」
「ああ、許されるみたいだ。どうせ、私を亡きものにしようとしているのだろうよ」
「あなた、どうするんですか?」
「なるように、なるのではないか。おまえは心配するな」長林院が、ふるえた、とおもったら泣いていて、涙が首づたいに垂れてきた。「どうしたのだ?」
「私、いやです。あなたと別れたくない。あなたとは一生共に暮らしたいのです」
「わかれ、こういう時代なのだ。家族とはいえ()(しゆう)争いで謀殺される世の中なのだぞ」
「わが北条家はちがいます。家の絆を重んじ、世襲争いで血が流れたとはききません」
「ほう、立派な家系だな。私も血が流れるのは、正直好きではない」
 長林院が鼻をすすり、なにやら考えこみ、提案してきた。「あなた」
「なんだ?」
「やられる前に、やるというのは、どうでしょうか?」


五、鉄斎の息子、鉄心
(てつ)(さい)(25)

 資正がうまれた年の春の初め、太田家臣下の鉄斎は資正の父、(すけ)(より)より、ある女を暗殺せよ、との密命をうけた。
 遊女屋の密集地を歩いていると、一軒の遊女屋のまえで足を止める。
 殺める者の名は泉といって、ながい髪は黒ぐろしく艶やかで、肌は雪のように白く、鼻のすぐ下にひとつ、黒子がある、おなじ年ごろの遊女だという。
 店の近くに生えた大木の蔭で、出入りする遊女らの顔をひとりずつ確かめていると、道のむこうより、ひときわ色気をまとった女が来た。ながい髪を風にたなびかせ、肌は陽の光を散りぢりに反射させ、上唇のすぐ上には真黒な粒がある。
「あの女だ」手に毒針を忍ばせると、木蔭から出て、泉に近づこうとしたが、泉の後ろから長身のやさ男が歩いてきて、泉の腕をとり、店に入ってしまった。
 毒針を装束の裾に戻すと、息をつき、「あせる必要はない」と独り言をいうと、殺気をまとった心を静める。
 陽が沈むまで木蔭で、泉が出てくるのを待っていたが、泉が店から出てこなかった。あの男と一夜を過ごすのだろう、とおもうと頭が熱くなる。なぜだか熱くなっている自身に驚くのと同時に、その熱さを認めようとする自分もいて当惑した。
 次の日も、次のつぎの日も、木蔭に隠れて泉を待っていたが、毎回ちがう客と合流し、暗殺は失敗におわった。泉が、客と示し合わせて暗殺を阻止し、暗殺者を嘲笑っている妄想が浮かんできて、現実を鈍らせる。
 だが、失敗をくり返す鉄斎には不思議な感情もうまれ、その矛盾した感情は、益ます鉄斎を苦しめ混乱させていった。
 ある日、いつもどおり、泉を待っていた。日課のようになった待ち伏せのなか、泉の顔を見る日びが、愉しくなっている自分に気づく。
 泉の顔を見ていると、耐えられない胸の熱さと息苦しさをおぼえ、身体が燃えるように焦げつくと、なぜか心は静まり、愉快になるのだ。
 この心地よさを味わうため、ずっと失敗し続けていたいとさえおもうようになっていた。
 あの女に惚れたのか、まさかな。そんなはずあるわけがない。
 が、いいきれるのか、惚れていない、と。もしも万が一惚れていたのなら、まずい。命令だからといって惚れた女を殺めるというのか、できるのか、俺に。ほんとうに殺していいのか。
 とめどない思考が、あふれ出してきて、正義とはなにか、悪とはなにか、という極めて根本の考えに至り、あやうさを感じたら一旦思考に(ふた)をして、あえてなにも考えないように自戒した。
 今日もかわらず、泉がいつものように歩き来る。全身からは妖艶な色香が、濃厚にただよっていて、あたりに芳醇な色気を撒き散らし、通りすぎる男は皆、振り返った。。
 泉の影がおおきくなるにつれ、胸の鼓動がいつも以上に速くなるのに気づく。今日は客を連れていない。とまどいながらも木蔭から出ると、意を決し、手に毒針を忍ばせ、一歩近づこうとしたら、逆に泉がこちらに、すたすた歩いてきた。
「あんた、なんなの?」
「あ、いや。あの」
「いつもそこから、あたいを盗み見てるよね」
「いや、それは」
「そんなに、あたいが気になるんだったら、店にきな。いつでも相手してやるよ」泉はそういうと満足したのか、にやにやし、店に歩き去った。
「なにもできなかった」己の未熟さを笑う。ただ、挽回の好機でもあった。これで堂どうと、怪しまれずに、泉に近づき、殺せる機会を得たのだ。
 にぎる。雪辱を果たすため、今晩早そうに決行すると決めた。
 木蔭にすわる。泉の会話をくり返し、思いだす。悦にひたり、ぼうっとしていたら、すぐにときは去って気がつくと、夜がふけてきた。立ちあがると、にぎやかな灯に飾られた店にむかった。
 店の番頭の女郎に、泉の名をだして話をすると、すでに交渉はできていたようで、奥から童女が来ると、階段うえに案内され、客間に通された。
 客間のなかは、薄暗く(とう)(ろう)の灯りだけが中央にある。
 高座敷にあがり、腰をおろすと、笑みを浮かべた童女から、「ご緩りどうぞ」とだけいわれ、戸を閉められた。
 盆には、酒と(さかな)がのせてあった。泉はまだ来ていない。あての炒り豆、するめ、味噌をつまみ、腹を満たし、他客と遊女の情事の掛け合いを盗み聞きながら暇なときをつぶす。泉の到来を待った。
 戸がひらき、すきま風がやって来た、とおもうと外から華やかな衣装をまとった泉が入ってきた。顔と首筋は真白で、唇には紅、頬は赤く色をさし、白粉化粧は済んでいる。
 高座敷にあがってきた。
 盆をはさみ、泉がゆったりと座ると、頭を深ぶかと下げてきて、なまめかしい香りが匂い、鼻をついた。
 頭をあげると、ぬるい酒をついできた。酒をつがれているときに、灯りに照らされた泉のうつむいた横顔が眼にうつったが、口もとにすこし笑みが含まれているのに気がついた
 泉が、奥座敷の敷居にさがる。透けた布から、泉が上着の衣装をぬいで白装束だけになる姿がみえ、愈いよか、とおもいながらも、丸みをおびた女体に見とれた。
 手のひらには毒針を隠していたから、肌に手を触れて刺せば、すぐにおわるだろう。
 しこんだ毒は、神経を()()させる類だった。行為中の突然死にみせかけられ、商売女らも不幸な事故と考えるだろうし、誰も一介の遊女の死に疑いの念を抱かないだろう、と目論んでいた。
 そろりと歩みよると、薄手の布を(まく)りあげ、畳に敷いた厚手の絹布のうえで正座している泉の姿を、ちらと見る。泉の視界を(さえぎ)るようにあぐらをかき、泉の瞳をのぞき込んだ。
 しばらく見つめあっていると、痺れをきらしたのか、雌獣になった泉が、急に押し倒してきて、まとわりついてきた。
 あまりの獰猛さに圧倒され、硬直してしまって動かない。泉に服をぬがされてゆくと、さらに鈍重化し、泉の手技に好いようにやられるままになってしまった。
 泉に抱きつかれ、体臭を嗅がれ、肌をなめられ、余りの恥ずかしさで、内面が暴露されてゆく。乱れた髪の甘い匂いと、汗で湿った肌のぬくもりに包まれていたら、唐突に発してしまい、しだいに()(かん)し、ほぐれると、心も落ち着いてきた。右手を、首の後ろのうなじに回し、ようやくやれる、とおもったら泉が、「あたいのどこに惚れたのさ?」と訊いてきたものだから、手指が固まる。
 とっさに、(ちよう)(しよう)する泉の顔が浮かんできたから、「こっちにむかって一度、微笑んできただろう」と、答えたが、泉の的を得ず、「あったっけ」とだけいい、接吻してきた。こぶしの内の指間には毒針が挟まれていて、刺そうとおもえば、いくらでも刺せた。が、刺せない。ちく、と刺せばおわるのに、刺せなかった。快楽に犯されてゆくなかで、殺しと愛しさの渦の狭間で、鉄斎は沈黙した。
 口から体液を吸い尽くされると、使役から解放された気分になり、どうでもよくなってしまう。
 鉄斎が、泉を雄獣のように押し倒す。純白の衣をひっぺがすと、ひらかれた女体に吸いつき、豚のように貪り喰い、濡れてきた泉の性を支配する。
 揉みしだき、乳をすう。恥じらう股を剥ぎとれば、潮の香りがやって来た。赤く肥えた茎を陰に挿す。挿した茎から伝わる肉の快楽が、獣の本能を呼びおこし、しなやかな女体を突きあげ、あえぎ声をきき、理性が壊されてゆく。
 泉の顔面をおおっていた死の霧はきえ、生気に満ちた煌びやかな面が、そこにあった。眼球は水気で潤み、ただ、性を欲していたのだ。
 なんどか絶頂に達した。
 荒い息を静め、仰むけでいる。腕には、突かれた泉が、眼をとじて微かな寝息をたてていた。天井を眺めると、木目の線の数だけをぼうっと数え、まぶたが重くなると、眠りにおちた。

 早朝、眼醒めると、泉は、いなかった。寝ぼけ(まなこ)で伸びをし、装束を着ると、街の景色を見るため、窓をあけた。
 櫻の花びらが、風にのって舞い散っており、一枚の花びらが部屋に運ばれたら、おだやかな春の陽の光が畳を刺した。風にむかって、深く呼吸をすると、胸は朗らかな空気で満たされた。束の間、平穏な時間を生きた。
「泉を始末したのだ」懐には、泉からこっそり剥ぎ盗った髪の束がある。髪からはまだ泉の匂いが沸き、ふと泉の存在を感じると、大切に髪をなでるのだった。
 
 あの甘い春の日以来、泉には逢っていなかったが、秋のある木枯らしの日に街を歩いていたら、腹の大きくなった泉が、木蔭で休んでいた。無意識に声をかけていた。「やあ」
「ああ、あんたか」
 泉のふくらんだ腹を見ながら、軽くほほえんだ。「子ができたのかい?」
「見てのとおりさ」
「客の子か?」
 泉は腹をさすり、少し考える。ゆっくり答えた。「あなたの子さ」
「俺の子。確かか」
「間違いない。誰の子かぐれえはわかるよ」
「そうか。それでどうする?」
「子は売ろうと思っとる」
「売る?」
「ああ商人に買い取ってもらう」
「なぜだ?」
「仕事がいちばんなのさ。子育てなんかに興味はねえよ」
 だまっていたが、うつむき考えると提案した。「なあ、その子を俺に譲ってくれんか?」
「ええ。あんたが育てるってゆうのかい?」
「そうだ。俺が育てる」
「あんたが、なぜ。遊女の子なんざにどんな価値があるってゆうんだい?」
「子に罪はないからな」
 鉄斎の真面目な表情に、泉は口を押さえ、苦笑する。「ずいぶんお人よしな方だね。まあそこまでいうんならいいよ。あんたのお好きにどうぞ」
「かたじけない。大切に育てさせてもらうよ」
「ほんとうに変わってるよ、あんた」
「ああそうだ。俺は変わってる」
「おもしろい人」
「それと子がうまれたら、山にむかって指笛を吹いてくれるか?」
「うん、なぜだい?」
「音をたよりに子を迎えに来る」
「ああわかったよ。指笛だね」
 淡たんと話していたが、口を尖らして息を吹く泉を見ていたら、愛らしくおもい、胸の躍動を抑えきれない。気がつくと泉の唇を奪い、抱擁していた。


六、陣中八策
広沢尾張守信秀(26)

 岩付千騎はやはり、豪勇の強者らであった。
 先駈けする(よし)(むね)の後に、二百騎の精鋭騎馬が続き、八百ほどの伊勢方の(そなえ)を三方より、取り囲んだ。機動力を生かして疾駈し、備を中心に右回りにとぐろを巻き、粉塵をあげると、馬影の円を徐じょに縮め、(きゆう)()を締めあげてゆく。一斉に馬上より槍を突き刺す。侍大将の首が槍さきに掲げられると敵陣が崩れ、混乱した敵兵たちが草原に敗走する。
 (のぶ)(ひで)が旗を高く挙げると指示にしたがい、後方の長弓兵らが草原にむかって斉射する。放たれた千の矢は風をきり、空に吸いこまれ、蒼天より大地に還される。
 矢の突き刺さった武者らが、わらわら陣にむかって駈けてきた。旗を振り、長柄槍隊を横陣のまま前進させると槍を叩かせた。逃げだす者がいれば、軽装の足軽に追いかけさせ、止めをささす。
 屍体から身ぐるみを剥がしおえると、雑兵たちは各自、次の攻撃にそなえ、岩付千騎の闘いぶりを遠くから眺めては、口ぐちに武勇を語り、ときを待つ。
 なんどか攻防をくり返していると、陽が暮れてきた。
 敵方の陣が引いたから本日の戦はここまでとして岩付城の先陣で指揮をとっていた信秀は本陣にむかって馬を走らせる。さきざきの兵らを労い、励まし、勝利を祝った。
 本陣につくと()(あん)のいる宿舎にむかう。「(ちか)(ろく)どの、本日も勝利でございました」
 無安は寝ぼけ眼で首をかたかた揺らしているだけで声は届いていないようだ。無安の耳もとで、「無事勝利いたしました」と大声でいうと無安が床机から転がり落ち、ぼうっとした表情で、「おおそうか」というだけだ。まだ寝むたそうで欠伸(あくび)をしている。
「よいのですか。本陣の大将が、そのようで」
 無安が面倒くさそうに咳払いし、答える。「よい」
 頭に血がのぼりそうになったが、肩で息をして落ち着き、尋ねた。「なにが、よいのでしょうか?」
「よいもなにも、本陣の大将は象徴にすぎん。座しているしかないのよ」
「と、いいましても、いまは戦時中でございますよ」
「ああ、そう戦時中。伊勢勢との大戦の真最中だな」
「でしたら、大将としてやる使命がない、とは思えませんが」
「そういっても、なにもないんだから、しょうがないだろ」
「下野守どのは、今日も奮戦しておりましたよ」
「あいつは戦が好きだからな。あいつらしくてよい」
「親六どの、あなたは、なにをされていたのですか?」
「なにをしたって?」
「はい、なにを?」
「聞きたいのか?」
「聞きたいです」
「寝てた」
「寝るとは、いかようですか」苛だちを抑えきれなかったが、妙な自信を無安の顔に見たから、なにかある、とおもって質問する。「なにか、ございますな。お教えいただけますか?」
「ほう、利口だな。では教える。俺の闘いは、戦がはじまるまえにおわっておる」
「どういう意味ですか?」
「戦とはな、闘う前に大方、勝ち負けは決まっているのだよ」
「といいますと?」
「戦は、下ごしらえが、重要なのだ。戦は、一度はじまると最後、勝敗が決まるまで、人の殺生がくり返される。どちらかが諦めたら、戦はおわる」
「はい、それが?」
 無安は頭を()くと、爪のすきまに入りこんだ皮膚を指ではじき、困惑した信秀の眼を見、答える。「開戦まえに、殿に、八の策を授けた」
「ま、誠ですか?」
「あとは、策の結果を確かめるだけで、寝ておっても、自然と成果があがって来るだろう」
「されど、八策とは」
 無安は、ふふと笑うと床机に座りなおし、細長い白髭を束ねて流しさわる。「おまえは誰と話しておるのか。猿知恵くらい、いくらでも持ちあわせておるわい」
「はは、ご無礼いたし、申し訳ござらん」
「わかればよい」無安は高笑いをあげ、背をそらし、急にももに(ひじ)をついたら信秀の肩を軽くたたき、さと腰をあげると夜の風にあたりに宿舎を出た。
「八の策、ほんとうにあるのだろうか?」


七、調略
()()駿(する)()(のかみ)(かげ)(みち)(33)

 松山城から南西一里さき、(いわ)殿(どの)(さん)にのびる(ずい)(どう)を、(かげ)(みち)は女と手をつないで歩いていた。
 隧道は、雇い入れた(かね)()(にん)()たちに、赤土の地質を掘りおこさせ、(よし)()(ひやく)(けつ)より、土を外に運び出させて岩殿山まで貫通させた、地下道だ。
 道は濡れていて、(あか)りはない。ふたりでやっとの狭い穴道を、女と腰を屈めながら進む。女は、水気の含まれた土壁に手をそわせると、手のうちに泥団子をつくり、景道の背にぶつけては、かたかた笑い、ぬかるみに足をとられても懸命についてくる。
 道が、のぼり坂になる。女をしたで待たせ、坂に腹をつけてよじのぼって地上を目指した。
 行き止まりのやわらかい土を除いたら、泥に汚れた顔に陽がさし、あまりの眩しさに眼をまばたくと、新鮮な空気が顔を冷やす。いろに慣れると、肩幅ほどの土の穴から顔を出す。
 あたりを見まわしても、人の気配がなかったから、穴から跳び出た。穴に縄を垂らし、時どきひっぱり、重みを感じたら、縄をたぐりよせた。
 蛇のように、縄がとぐろを巻くころには、暗い穴の底から、女の顔が浮かんでいて、こちらを薄目で(うかが)っていた。
 腕を掴む。女をひっぱりあげると、小袖についた土埃を払ってやり、どろまみれの顔を()(ぬぐ)いで綺麗にしてやると、女は嬉しそうに微笑み、手を合わせて拝んできた。
「あやめ、ここにいたら敵に見つかるから、そこの茂みに身を隠そう」
 (あやめ)は、首の(かな)()を指さきで二回はじくと、同意の意思を示した。穴を足裏で埋めると、枯れ草の茂みに隠れ、息をひそめる。
 遠くから(あし)(おと)がきこえた。身をさらに低くし、音のほうを覗く。
 足軽の男が、手足の縛られた女を引きつれ、歩いていた。
 菖の眼が泳いでいる。
 合わせた両手を唇に当て、凝っと女を見ている。顔はおびえ、肩が小刻みにふるえていたから、抱きよせて、髪をなでてやると、「大丈夫、だいじょうぶ」と心を落ちつかせてやる。菖の虚ろな眼を見ながら、唇をかみしめる。ふたたび足軽を見れば、脚は動いていた。
 草かげに隠れ、足軽の後をつける。木ぎが(まば)らになり、陽の光が増したとおもうと、そらが抜けた見通しのいい平地に出た。
 平地の端にそまつな木の檻がある。
 なかに二十数人の女や童子が押しこまれている。立っているだけでやっとの広さだ。
 菖を近くの蔭にしのばせると、足軽の男に後ろから早足で近づく。耳を両手のひらで挟んで首をねじきると、ゆるんだ顔をむけ、不安定な首が折れちぎれた。
 足軽の逆さの頭部が、奴隷の女の肩を叩いたら、女は腰をおとし、ひらいた股のなかに首が転がった。短く悲鳴をあげた女は、首の髪を掴むと、遠くに放りなげた。
 首の根に下げていた鍵束を奪う。適当に鍵を試し、檻の(じよう)を何度目かにあけた。
 ぽかんとした奴隷たちを急かす。「耕地に帰してやるから静かについてこい」と小声でささやくと奴隷たちが団結し、無言でついてくる。菖もあせって追いかけてきた。
 土の盛った穴のうえに着くと、奴隷たちを暗い穴に押しこんでいって、最後の女がおちたら、乾いた土で穴を塞いだ。
 菖が鉄輪を三回指でつついて感謝を示した。互いに軽く笑う。菖の手首を掴んで、中腰の姿勢で警戒し、あたりを探索する。
「あれだ」
 真青な垂れ幕がかかった陣小屋がある。背をのばす。菖を抱きよせ、堂どうとねり歩く。数人の足軽たちが物欲しげに、菖の胸、尻を、眼で追いかけていたが、にらみつけてやると、眼をそらした。
 陣小屋のまえには下人の若者がいたから、「遊女を連れて参ったから開けよ」というと、菖が下人に妖艶にほほえんで、耳に息を吹きかけ、首筋に口付けしたものだから、真赤な顔になった下人は指示されたとおりに、道をあけ、通した。
 音をけし、奥に()ける。暗がりで横になっている陣羽織をきた男がいた。気配をなくし近づいて、男の顔に手をのばすと、口と髭を手のひらで塞いだ。「お取引が」
 男が鋭い眼でにらみつけ、豪快にあばれ出した。鳩尾を打ち、男をおとなしくさせると、「命を奪いにきたわけじゃない」といって、ひとまず安心させようとした。なにかを悟り観念したのか。男は急に静かになる。息を整え、塞いだ手の内から声を響かせた。「おまえは?」
「三戸駿河守と申す」
 塞いでいた手の甲を叩いてきた。手をのけると、男が姿勢をおこして、顔を突きたててきた。
 伊勢家筆頭の重臣、(まつ)()()()(のすけ)(のり)(ひで)だ。憲秀は艶のある髭を世話しなく触り、顔をいぶしげに見つめてきた。
「左馬助どの、率直に申しますがよいですか?」
「なんだ?」
(ない)(おう)してくださらんか?」
 憲秀の眼が一瞬おどろく。
 憲秀はせせら笑って、険しい表情に軽く笑みを浮かべる。が、眼の奥底には赤い怒気が含まれていた。笑みがふと消え、()(ぎし)りがすると怒声をあびせてきた。
「無礼者。出てゆけ。出てゆかなければ下人どもを呼ぶぞ」
 血の気が盛んになった憲秀を静かな言葉で刺す。「待たれよ」
「なにを待つのだ? 申してみよ」
「内応してくださらんと、不幸をまねきますぞ」
「どういう意味だ?」
 怒れる憲秀にたいして確かめるように答える。「左馬助どのには幼き子がおられますね?」
「ああ、いかにも」
「いまどちらにおりますか?」
「小田原だが」
 懐から拳くらいの大きさの青い()(まり)をとりだすと、憲秀の脚さきに転がした。憲秀が、転がってきた蹴鞠を手に取る。
「きさま」蹴鞠を掴んだ憲秀の手がふるえている。「この卑怯者が」
「大切なご子息ですな?」
「万が一だ。(しん)(ろく)(ろう)の身になにかあれば、おまえの家系を末代まで呪い殺すぞ」
 憲秀が眼を充血させ、口角からあぶくをとばし罵ってきた。景道は鋭い言葉で静止する。「落ち着かれよ。取引しようではありませんか」
「取引だと」
「そうです。なにもいわず内応してくだされば、五体満足で新六郎君をお返しする」
「かりに内応せねば?」
「首だけをお返しする」
 憲秀が逆上し、立ちあがると刀を抜き、斬りかからんとしたから、「俺が死ぬと新六郎君は死ぬぞ」と忠告し、冷ややかな視線で憲秀を見あげていた。
 歯のうちから熱をおびた、細かい煙を吹きあげている憲秀から、まっすぐに見つめられる。急に口をふくらましたか、とおもうと顔面に唾を吐きかけてきて、憲秀は鼻で荒く息をすると、乱暴にあぐらをついた。「憶えとけ」
「結構。ではお頼み申す」そういうと、菖の手を引き、外に出る。後ろでは憲秀が蹴鞠を大事そうに抱き、すすり泣き、うずくまっていた。
 菖の顔いろばかりをうかがう下人に、「どうだった」ときかれたから、「左馬助どのは女人ではなく、男児がお好みのようだった」と、うすら笑いで答え、要領を得ない若い下人を置き去りにして、菖を腕によせながら、小走りで去ると、湿った暗い穴のなかにきえていった。


八、耐えよ
広沢尾張守信秀(26)

 開戦からちょうど三十日経ち、伊勢方の陣より、漆黒の甲冑を着た騎馬軍団が二千騎進攻してきてから、戦況はおおきく変わった。
 量で勝る二千騎の()(とう)の波状攻撃により、さすがの(いわ)(つき)(せん)()の精鋭二百騎も進撃の勢いがなくなり、散開したら、(のぶ)(ひで)が専守防衛を指揮する先陣は徐じょに後退せざるおえなくなった。漆黒の騎馬兵の追撃によって、岩付城を守る総兵力は削りとられ、中陣に合流するころには、開戦時の半分となっていた。
 漆黒に包まれた騎馬兵らは、挑発するように岩付城の眼前にひろがる平野地帯を縦横無尽に()け、隊列を整え、一斉に猛攻して来る。二間半ほどの槍を豪快に振り回し、信秀の配下の兵らを突き殺し続け、戦意をうしなった兵らの脱走による陣内の混乱で陣立てが崩壊しても、一向に敵騎馬兵の追撃は止まず、ただ本陣にむかって敗走するしかなかった。
 矢傷を負った信秀は、駿(しゆん)()で駈けた。本陣にむかうと、無安の宿舎に駈けこんだ。「(ちか)(ろく)どの、大事でございます」
 無安は、まったり茶をすすっていた。
「茶なぞ飲んどるばあいではござらん」
「なにを、焦っておる?」
「敵方より二千の騎馬軍団が進撃してきて、前線のわが兵らは皆殺しにされました。わが陣営の被害は、甚大でございます」
「ほほう。伊勢の騎馬軍団か。名実ともに(とう)(ごく)()(そう)ときくの」
「関心しているばあいでもござらん」
「まあ、(あせ)るな」
「焦りますとも」
「いまは耐えよ」
「耐えよ、とな」
「ああ、耐えよ」
 鬼面の信秀は顔を赤らめて、息を乱し、馬に跳びのったら、本陣ちかくの陣営地に燃えるように駈け、むこう風でさらに速度を増す。
 次の日、少数の兵で陣地を守っていると、本陣からの()()()隊が敵騎馬隊に襲われた。人馬や(ひよう)(ろう)、武具などがすべて奪われてしまったから急ぎ、無安に状況を報告すると、「耐えよ」と一言だけいわれ、頭が沸騰した信秀は陣地にかえる。「親六どのは、なにをお考えなのだ。耐えよとはどういう意味なのだ」煮詰まった頭で自問し、陣営で、「東国の無双」やらと呼ばれる漆黒の騎馬軍団の度重なる突撃を、残りの兵らで必死にくい止める。
 さらに次の日、兵糧庫に火矢をはなたれて、兵糧のほとんどが燃やされてしまう。雑兵らへの一日一升の配分を一日五合にへらし、当面を凌ぐほかなかった。無安に報告しても、「耐えよ」とだけなので、もはや無言で陣地に帰ったら、飢えはじめた兵らに死守せよ、といって()()するだけだ。
 さらに次の日、勢いづいた敵方は夜襲をしかけてきた。襲いくる敵兵らを返り討ちにし、懸命に交戦し、数名の将兵らと活路をひらくと陣地をすて、生き残った負傷兵らを引き連れ、本陣を目指して命からがらたどり着くと、精魂がつきかけながらも、無安の宿舎になだれこんだ。
 無安は寝ていたから、たたきおこすとむりやり、床机のうえに座らせた。
 姿勢がおぼつかない無安に采配をもたせ、机に軍略図をひろげると信秀は戦況について語気を強め、大声で伝える。「親六どの。ここ数日指示どおり耐えてきましたが、情勢はよくなるどころかわるくなる一方です。兵も数えるほどのわずかな者たちしか残っておりませぬ」
「うるさいの。そうかそうか。ではここ本陣で敵をくい止めなくてはな」
 怒りをこらえていた信秀が、無安をにらみつけ、ふるえる唇で質問する。「失礼ですが、このままでは」そういいかけ無安が耐えよといいかけようとしたとき、宿舎の外から大地をゆらす馬の(ひづめ)の音がひびいてきた。
 急ぎ出、櫓に上ると驚嘆する。目下にざっと一万騎を超える黄金いろの騎馬兵団が押しよせ、背には黄色い旗印がたなびいている。
 朽ち葉いろに染まった四半の練り絹に(はち)(まん)の墨かきの大馬印、()(しよく)(ぞな)えの黄備えで、その武名を轟かせる()()()()(もん)(だい)()(つな)(なり)の本陣主力部隊が岩付城の手前の本陣を覆いつくしていた。
 後ろから無安が来た。無安は、資正から譲りうけた鉄いろにくすんだ武者甲冑を全身にまとっている。腰には名刀の(せん)()(むら)(まさ)を帯刀し、(めん)(ぽう)のすき間から見える口もとには笑みをこぼしており、眼つきは鷹のようにぎらついている。「やっと、おいでなすったか」
 信秀は、無安が浮かべる歪んだ笑みと、眼光の鋭さに禍まがしい不気味さを感じた。
 腕の鳥肌をさすり、手のひらに白い息をもらすと、凍える大地にひしめく、黄金に光り輝く騎馬武者の大軍を、淡い湯気のなかで眺めていた。
 
 
九、炎将
扇谷上杉新蔵人憲勝(35)

 松山城本丸の居室で寝床に入っていた(のり)(かつ)は、(あかね)の三味線の音色に耳をかたむけていた。家臣らの部屋の壁は非常にうすい。眼をとじている憲勝にも、その心地よい音と語りは届いていた。
 茜を想っていた。
 茜のうぶな顔が浮かんできて笑いかえすと、おのの脚として献身に駈ける情景が見え、まこと弱音を吐かず使役を果たし忠義をつくす家臣だな、とおもうと自身がどれほど恵まれているのか自覚する。
 目頭が熱い。胸が痛くなると呼吸が激しくなった。息がきれ、(どう)()がする。
 上身をおこす。外に控えている小姓を呼んだ。
 秀麗な容姿の小姓に杖をもってこさせると立ちあがり、羽織をきて外に出る。肌寒い新鮮な空気にあたり、気分をおちつかせると無性にひとが恋しくなった。
 部屋に戻ると、小姓が床に座していた。杖を投げすてると、小姓の背をおおう。
 ふりかえった小姓は、幼き娘に似た笑みで受けいれたらこちらにむきなおった。手のひらや腕を()み解し、懐に近づくと、従順な子猫のように身を丸めて憲勝の(あい)()に身をまかせるのだ。
 三味線と語りはすでになくなっている。茜の気配がきえた自室で小姓を抱き、小姓の潤んだ瞳のなかに懸命に茜の影を見つけようとした。が、上手くゆかず、苛いらする。
 綺麗に生えそろった白い歯を一本ずつ抜いてゆければ、どれほど心が爽快になるのか。死の寸前まで痛い目にあわせてやって、その作られた笑顔を壊してやりたい。顔を苦悶にゆがませ、()いて許しをこう敗者の表情を見たい、という邪な衝動に駈られる。破壊を含む危険な妄想を抑制し、笑みを絶やさない小姓とただやさしく(たわむ)れるのだ。
 小姓が首にまとわりついた。戯れごとだ、とおもった。笑いかえそうとしたら、巻きつきがつよくなり、満足に息ができないから、意識がうすくなってきた。
 声を出そうにも息がなくなり、言葉が出てこない。小姓のうでをつかみはがそうとするだけで、あとは脚をばたつかるのでやっとだ。
 小姓の光をうしなった真黒な眼には明らかに邪気を含んでいる。無表情のなかに殺意を感じた。右手を床にそわせると、杖を掴む。
 遠のく意識のなかで、杖のさきの空洞を小姓のこめかみにあてると、引き金をひいた。
 火柱がたつ。
 城内に一発の銃声が響きわたると、首のしめつけがゆるんだ。白眼になった小姓が左にかたむき、穴から血しぶきをあげ、斃れる。
 (てつ)(ぽう)を突きたて、立ちあがると、小姓の屍体を見おろした。愛らしい面影はない。そこにはひどく(みにく)い、餓鬼がいた。
 血相をかえた茜が、装束を乱して来た。「ご無事ですか」
「ああ大丈夫だ。この者おそらく敵方の間者。俺を殺そうとしてきたのだ」
「さいきん雇った小姓ですね。まさか間者だとは」
「美濃守どのがいっていた通り、間者が城内にいたようだな」
「そのようで。なんともあれ、ご無事で、なによりでございます」
「のう?」
「はい」
「そなた三味線が上手くなったようだが、俺に一曲弾いてはくれんか?」
「きこえておいででしたか。お恥ずかしい」
「うむ。なかなかの心地よい音色であった。なあ頼む」
「はい、ご用命ならば喜んで弾かせていただきます」
「よろしゅうな」
 憲勝は、侍女に小姓の屍体を片づけさせる。おわると、茜が三味線を持ってきたから、すぐまえの高座に座らせる。
 はじめよ、と命じたら、茜が弾きだした。
 茜の三味線さばきと魂のこもった語りの声いろに、うっとりし、聞き惚れ、茜が想像する世界を共有し、記憶の彼方に運ばれる。
 茜に逢ったのは、陽ざしのつよい、蒸し暑い夏の日であったな。
 古寺の陰で休んでいたら、裏から水のしたたる音がきこえた。若い女が小袖をひらいて、井戸の水をすくい、手のひらで肌を拭いていた。
 あまりの清すがしい光景に陽の暑さも忘れ、女に見惚れてしまう。心が激しく鼓動をうち、燃えるように熱い。
 隠れてのぞいていると、背の高い僧が来て、女を強引に連れ去ろうとしたもんだから、どうしようかと迷った。腰に刀は差していたが、道場で手習いを受けたくらいの実力で、実戦なんぞは皆無で、僧の威圧感にしどろもどろし、なかなかどうしたものか怖じ気づいた。
 そうこうするうちに、愈いよ女が僧に引きずられる。女の危機を感じ、炎天下で気が動転し、やけくそになったのか。一か八か()(かく)で石を投げたら、僧のこめかみに見事に当たった。
 後にひけず、出てしまえと陰から身をだした。最初に舐められたら不利になる、とおもったから、背と脇に大量の汗をかきながらも、威勢よく大声で言葉を発した。僧の顔が一瞬おびえたから、これはゆけると。堂どうと武人を演じれば勝てる、とおもったのだ。
 茜にはじめてあった日の感情は、いまだに残っていて、あのころの僧と対峙した想いは、心の底にずっとある。
 そう、ただ惚れた女に恰好つけたかったのだ。
 
 
十、狐狸談義
太田源五郎資房(19)

 (すけ)(ふさ)(ちよう)(りん)(いん)を馬にのせると岩付城の城門を出る。(まる)(やま)城を目指して、妻の乗った馬をひき、(かい)(どう)をゆく。丸山城にいる賢臣に密かに逢うために、護衛もつけず、ふたりで城を出発した。
 城に着くと居室に通される。
 座り待っていると奥から、(かす)()(せつ)()(のかみ)(さだ)(ゆき)(つね)(おか)(えち)()(のかみ)(すけ)(むね)が来た。狐に似た切れ目の定行と、狸をおもわす体つきの資宗がまえに並んで座る。
「これはこれは、若君。どうされましたか?」定行が瞳をのぞき込んできた。
「春日どの、じつは内ないに相談したい事案があるのだ」
「ほう。拙者らでよければ、なんなりと申してくだされ」
「太田家の家督についてです。父は、次男の源太にゆずらんとお考えのようなのだ」
「なんとそれは、誠ですか? 家督は長男に譲るが習わし。なぜ若君をとばして、次男の源太どのに」
「私が、父に北条どのにつくべきだと進言したのだが、ききいれてもらえなかった。それが父はゆるせなかったのだ」
「それは美濃守どのも、なかなか非情ですな」
 話をきいていた資宗が、口をはさむ。「小田原城攻め以降、武州の戦況は、(ほう)(じよう)方が優勢。時流にのれば、北条につくが得策だと考えるが、なぜに美濃守どのは、強情なのでございますかな」
「父上は、太田家にとっての因縁の相手、北条家に屈したくないのだ。曽祖父の道灌公の志を貫き通したいとの心づもりだ、恒岡どの」
「されど、意志をつらぬき、太田家が仮にでも滅亡してしまうと、それこそ道灌公の顔に泥を塗る悪行になるのではござらんか?」
 静かにしていた長林院が話す。「皆さんに知っていただきたいのですが、わが父は、美濃守どのが考えられておられるような悪人ではございません。たいへん心の優しい方で、領民にも臣下にも、もちろん家族にも愛されております。自分よりも、他者の多くのしあわせを、誰よりも望んでおいでです。この世の乱れを沈静し、平安の世を築くために、必要な方なのです」
「うむ」うなずきながら、定行が答える。「奥方のおっしゃるとおりだと私も考えます。北条どのこそが、後世に名を残し、語り継がれる大業をなされる神君なのです」
「ほう」資宗も言葉をかぶせる。「春日どのがいわれる通りでございますな。北条に従い、尽力するのが、のちの平成の世をつくるための(いしずえ)となりましょう。平和な世つくりのため、その要のお方に力を貸すのが、われらの勤めではござらんかな」
 狐と狸の意見を、資房は黙ってきき、思案すると、「おふたりの言う通り、私の意思もおなじだ。北条につき、支え、争いのない世をつくりたい。長林院と平穏に暮らせる世にしたい」と、しずかに話り、長林院を懐に抱きよせると髪をとかして撫でる。
 眼をほそめた定行が言葉をたす。「若君のご意思はよくわかりました。北条に()(じゆん)するが、われわれの生きる道です。北条方に帰順した(うえ)(はら)()()(のかみ)どのも、重用されているとききますし、わるいようには成されますまい」
「そうだ。北条どのは家臣の意見をひろく聞きいれるときく、太田の人間とはいえど、邪険にはあつかわれないだろう」
 (くま)をこすりながら資宗が、定行にたずねる。「して、どうやって北条に帰順しようか?」
「うむ。たしかにな。いまは時期がわるい。まさに、太田と北条が闘っている最中で、北条から反感をかえば、打ち首になる。時期をまちがわないようにせんとな」と定行が答える。
「では、しばらく様子見といくか。時期を見、北条に帰順するとな」
「ああ、そうだ。できれば北条に服従した、という証拠に、手土産があれば、なお良いが」
 狐と狸が、相談していると、長林院が話に割りこんで提案した。「あのう、では。美濃守どのと、源太どのの首を差しだせば、いかがですか?」
「いや」あわてて諭す。「待てまて。父上と弟を殺せとな。おだやかではないな、それは」
「あなた、お忘れで。美濃守どのは、あなたを殺すつもりなのですよ」
「しかしこれは少し賛同できん。実の父と弟を殺すなんか。私にはできんよ」
「あなた、ほんとうに、おやさしいのですね。まあ、私もそんなところに惚れているわけですが」
 定行が微笑む。「一計あります。美濃守どのと、源太どのを殺さず、北条に怪しまれず、帰順できる方法が」
 定行の顔を見ながら、「して、どういう策か?」と質問した。
「美濃守らを、岩付城から追放いたします。城を奪われた殿らに、もはや北条と争う力なぞないに等しいでしょう。たとえ、北条を討つ野望を持ち続けても、それは負け犬の遠吠えではありませんか」
 腹をさする資宗が、にこやかになる。「さすが、春日どの。知恵がまわるな。たしかにそうすれば、美濃守らを殺さず、北条の信用を得られますな。これぞ一石二鳥の策だな」
 手をうつと、いい音が鳴った。「きめた、その策にのる。機会を見、実行する。そのときは、両名も力を貸してくれ。共に北条に帰順しようではないか」
「はは」定行と資宗が、頭を垂れ、資房に服従した。
「では、私は岩付城に帰る。呉ぐれもこの件は内密にな。機会が来るまで、誰にも()らすのではないぞ」
「はい、承知しております」
 丸山城を後にする。心は激しく鼓動し、決行の日が来るのをいつかと待ち、その日にむけて、心の打音は加速してゆく。


十一、くちなしの花
(あやめ)(22)

 夕がたから雨が降り続いている。
 汗で肌はねっとりまとわりつき、あまりの不快さで、眼は完全に()めていた。心地よい眠気が来るはずもなく、雨戸にうちつける雨音をきき、(あやめ)はじっとりと蒸し湿った寝ぐるしい夜のなかで戸のすきまから見える水たまりの大小様ざまな波紋がひろがっているさまを眺めていた。
 水のはじける土の音がきこえた、とおもったら乱れた音は次第に近づいてくる。弾ける雨の匂いと、土をたたく騒ぞうしい振動が、ひどく不安にさせた。
 玄関の古木がやぶられた。いくつもの跫音が、床をひびかせ、家屋をゆらす。異変を感じて身をおこすと、羽織をきて、雨戸をそっとあけ、ぐっしゃり()れた藁草履をはいた。不快に耐え、姿勢を屈めながら床したに潜りこみ、しばし様子をみる。
 うずくまっていると、一匹の(ねずみ)が足さきにいて、背のやわらかい毛質を指さきに感じた。鼠の毛並みに手をのばしたら、ぴくと鼠が首を外にむけると、雨の降るなかを駈けていった。
 頭のうえでは足裏のきしむ音が遠くからも近くからも耳にとどき、「物盗りか」とおもい、震え、どこか遠くにやつらが過ぎ去るのを待っていた。
 甲高い悲鳴と恐喝する怒声が同時にきこえた、とおもったら叫び声とともに、なにかが派手に転がる衝撃があった。涙目になり、両手を重ね合わせ、()()(よろず)の神がみに祈っていた。「おっかあ、おっとう」
 跫音が止んだ。
 喧騒は雨のなかにきえ、泥のはねる音と雨のはじけるなかに、気配は去っていった。
 ゆかしたから脚をすらし、出ると軒下にあがり、雨戸を開けた。
 声をうしなう。
 眼のまえには背を斬られた母と、腹を裂かれた父が身を寄りそい、互いの手が重なり合うようにして斃れている。さっきまで寝てた場所は血溜まりになって床板を赤く湿らせていた。
 声が、出ない。
 父の名を母の名を叫ぼうとしたが無音になって雨音だけがうるさく鳴っているだけで、膝をつくと静かに()(えつ)をし声にならない泣き声を心にひびかせる。
 闇から気配がした。
 ()(しよう)(ひげ)を口のまわりに蓄えた、熊に似た巨漢の男がぬっと出てきて、こちらを見、ほくそえんでいた。
「やはり居たか。若い娘のこの匂い。匂いはごまかせねえぜ、お嬢ちゃん」巨漢の男がそういったら、瞬時に腹に腕が巻きつき、持ちあげられる。肩にかつがれ、脚をばたつかせて必死にあばれたが、尻を(みだ)らに触られるだけで、抵抗は意味をなさなかった。男は雨が降り続けるなか、泥道に足跡をしっかり残しながら進んでゆく。
 雨の水は身体を冷やし、濡れた長い髪は重く垂れさがり、小袖は濡れきっていて肌にまとわりつくと、からだの線をはっきりと浮きあがらせていた。
 濡れ苔の踏まれる音が細く鳴いている。巨漢の男に担がれてから一刻ほど経つとあたりは深い山林の景色になりかわり、草の生い茂った(けもの)(みち)を突き進む。
 さびれた平屋立ての屋敷がみえてきた。
 巨漢の男が、門戸を豪快に開くと、あたたかい風と、男たちの体臭の匂いがやって来た。
(おに)(まる)のかしら、どこをほっつき歩いていたんでえ」と、やせぎすの男が声をかけてきたから、「よさく、やっぱりいたじゃねえかよ」と鬼丸が怒鳴りつける。乱暴に()(さく)のまえに投げられた。
 夜作がおどろいた表情で()く。「かしら、こいつどこにいたんでえ。俺らが家中さがしてもいねえかったんだけどな」
「ゆかした。隠れていたんだ。よく探せよ」
 なるほど、と、夜作が合点すると、「この女も、かしらが?」とうかがい、「もちろん」と鬼丸がいうと、夜作がため息をつき、ひょいと持ちあげられると、奥の部屋につれてゆかれた。
 夜作に濡れた服を脱がされる。素っぱだかにされると、ぼろ布できれいに身体を拭かれ、くしで髪をとかれると艶やかな羽織を着せられ(のど)に鉄の輪をはめられた。
「あんた、ぜっていにこの輪をはずすなよ。はずすと死ぬからな」
 夜作はそう忠告すると、菖の背を押し、ひたひた廊下を進み、大きな戸のまえで止まる。「最初は痛てえらしいが、慣れるとなんともねえときく。要は慣れだ。いってこい」夜作は戸のなかに通すと外に出ていった。
 まえには、ふんどし姿の鬼丸が広間中央の畳のうえに寝そべっている。部屋の隅には年の様ざまな女たちがおなじ鉄輪と羽織をきて、けだるそうな表情で、煙草をふかし、怠惰な姿勢で横になっていた。
 鬼丸が手招きしてきたから(おそ)るおそる近づく。
 太い腕がのびてきたら、身体を絡みとられ、鬼丸の()えた腹におさまった。「おまえで七人目だ」
 きょとんとする。
「俺は飽き性でな。()()は毎晩ちがう女じゃねえと、満足できねえんだよ」
 つまりこれから、この男の夜の(とぎ)に付き会うのか。抵抗のひとつでもしてやりたかった。
 が、ひどく疲れていて、そんな気力なんか遠にない。鬼丸に鉄輪をつかまれる。
「そうこれだ。俺は興奮すると女の首を掴む悪癖があってな。これがないと女の首は簡単に砕けちまう。そうこれだ。これが大事なんだ」鬼丸は鉄輪の触感を何度もたしかめ、頷き、満足げに笑みをこぼしていた。
 体臭だろうか。
 異様な匂いがあたりを包みこんでいる。鼻の奥が痺れ、舌が麻痺すると意識が(もう)(ろう)としてくる。
「まあ安心しろ。最初だけだよ痛いのは。あとはもうなにもかも感じなくなるよ」鬼丸が膝頭を掴んでくると、密着させていた脚を強引にひきはがし、広げられると、股の暗がりの奥底をおおきな眼でのぞき込んできた。口からは髭をつたい、たっぷりの(よだれ)が垂れている。父と母の顔が、ふと浮かんだら、声にならない声を、天に叫んだ。
 戸がやぶられた。
 鬼丸と女たちが視線をむけると、見知らぬ男が三人立っていた。男が、「(すけ)(ろく)は左。(かく)(ぞう)は右」と早口で発すると、ほっそりとした助六が鬼丸の左に回りこみ、がっしりとした角蔵が鬼丸の右に回りこんだ。
 鬼丸はとっさに跳ぶと、左右から突かれた槍の刃さきを避け、槍の柄を掴むと助六角蔵ごと放りなげた。咆哮をあげる。
「きさまら、なにもんだ。俺を誰だか知ってんのか」
 正面より男が歩き近づいてきて、笑みを浮かべ、(しやべ)ってきた。「武州本郷の山麗にはびこる山賊がしらの鬼丸さんだろ」
 ふん、というと鬼丸が男におそいかかる。右拳をまえに突く。
 男は豪奢な鞘から刀を抜くと、伸びきった腕の側面を斬りつける。
 かまわず、鬼丸は左拳で男を突く、が、打ち抜いた残像はきえ、胴を横に払われる。
「てめえ、なめやがって、ゆるじゃ、じゃ、え?」と鬼丸がいいかけると、鬼丸の上唇と下唇は、真横にずれ、顔がゆがむ。舌と(した)(あご)を残して頭部は、勢いよく落ち、床にでかい穴をあけた。残った胴体は揺れながら、前に斃れた。
 刀を天にかかげた。
 血しぶきを顔面に浴びた男は、空を斬って血を飛ばすと、太刀を鞘におさめる。
 足元にいた菖に気づき、手をさしのべる。「立てるか?」
 のびてきた手を掴むと立ちあがる。
 助六が男に近づく。「ここの女たち正気をうしなっていますな。誰も悲鳴もあげないし逃げようともしない。かんぜんに精神をうしなっとります」
 角蔵がゆったりとした口調でいう。「駿河守どの、残党はどうしますんでえ。やりますかい?」
 駿河守がふたりにいう。「いや捕らえて味方にする。やつらを味方にできれば、ここいらの山一帯を抑えられるし、やつら山人のちからは、(いくさ)に役に立つから、無闇に殺生してはならんよ」
「はは」助六と角蔵は、縄を手にして部屋を出た。
 駿河守がたずねてきた。「おまえはどうする? ここの女どもとおなじようにここで朽ちてゆくか」
 やさしい眼を見た。口もとは軽くほほえみ、柔和な表情をしている。鼓動がやすまり、おちついた。
 口をうごかすが、言葉が出てこない。
 なにかに気づくと抱きしめてきた。頭をなでられた。
「よしよし辛い思いをしたのだな。こわかったな」
 眼尻から涙があふれだし、潤んだ眼で、なにもみえなくなり、あたたかい胸にやさしく包まれ、静かな心の鼓動に耳をかたむけていた。
「俺がおまえの面倒を一生見てやるから安心しろ。約束だ」抱きかかえられると屋敷の外に出る。
 外には捕縛した山賊たちの人数を数えている助六がいて、角蔵は山賊たち一人ひとりに活をいれていた。
「よし、てめえら行くぞ」馬の背にのせられ、まえに跳び乗ってきた。
 広い背に頬をつけ、馬にゆられる。
 雨は止んでいた。菖は想う。
「いまはただ、このひとのそばにいたい」


十二、白だとか黒だとか
犬之助(37)

 夕闇のなかに(かがり)()がある。
 あたりはしんとして、静かな風に吹かれて木ぎの葉がこすれる音がするだけの、静穏な気配に包まれている。(いぬ)()(すけ)は、(わら)の床に横になっていた。
 傷口には白い布が巻きなおされ、すっかり血は止まっている。節ぶしに痛みはあったが、上体をおこす。篝火をはさんで、むこう側に、男が座っている。こちらをじっと見つめていた。「無理はするな。刀傷がひらくぞ」
 火の灯で照らされた男の顔をのぞく。見覚えがある。顔には無数の深い(しわ)が刻まれ、眉間に古い傷がある。頭髪は白銀に光り輝き、眼つきは冷たいが、口もとは(ほの)かにゆるんでいた。
 ()(すけ)だ。
 あわてて身がまえると、猪助は手で制してきた。
「落ちつけ、殺しはせん。殺すなら、遠にやっておろうが」
 とはいえ、疑いぶかく、眼を細めるとたずねた。「てめえが、助けたのか?」
「ふん、てめえか。ああ、いかにも」
「なぜだ? 敵だろ、それも極悪非道の(かざ)()(しゆう)だろ。なぜ、助けるんだ?」
 猪助が軽く笑い、薪をたすと、ぱち、と火が燃えあがる。「ああ、敵だが、殿の指示で動いている、(こま)にすぎん。べつに好きで暴れているわけじゃない」
「では、俺を殺すように命じられていないのか?」
「そうだ。生かせ、との指示だ」猪助が顔をのぞき、感心してきた。「それにしても、よく似とる。まじかで見れば、一層面影がつよい。とくに眼がな。なぜあのときに気づかんかったのか、これも老いか」
「面影。なんの話だ?」と犬之助は疑問を口にした。
「あんたの親父だ」
「おやじ?」
 猪助は腕を組み、真上に浮いた月を見、なにやら考えこむ。
「親父って。親父を知ってんのか?」と、尋ねた。
「ああ、よく知っとる。里の頭領で、俺の師匠でもあった」
「頭領とな? 師匠とな?」
「風間衆の頭領、(かさ)()()()(ろう)が、あんたの親父の名だ。逢ったときは、太田犬之助と改名しておったがな。おまえは、赤子だったから、なにも知らねえとは思うがね」
「ふん、犬之助だと、笑えねえ。親父が悪党の親玉か。しゃれにもならねえよ。ああ、なにも知らねえ。親父に売られた記憶しかない」怒気を浮かべながらも、興味がわき、猪助に訊いた。
「なあ、親父はどんな奴だ? 見つけだして、殺してやる」
「ああ、別に語るのはいいが、殺すのは無理だ」
「なぜだ?」
「この世に、いねえからな。もう死んだよ」
「そうか、死んだか。いたぶってやりたかったんだがな」
 猪助が篝火を見、感慨ぶかげに話しだした。「いまからちょうど十五年前だ。(かわ)(ごえ)城での戦のときに死んだよ。俺との決闘に負けて、追われ逃げている道中で精根つき、野たれ死んだ」
「おお。てめえが親父を負かしたのか。弟子に負かされる気分は、どんなもんだろうな。ただ結局は、野たれ死にか。親父らしい。きっと、罰があたったんだよ」
「なあ」猪助がにらんできた。「なぜ、あんたの親父さんは最後、逃げたと思うかね?」
「さあな。ただ死ぬのが怖かったんじゃねえか」
「いやちがうと思うな。死を怖れている男の顔ではなかった。むしろ希望にみちた顔つきだった。小太郎さんはな、あんたの顔を最後に見たかったんだよ」
 突拍子がない、きょとんとする。「否いや。だって親父は、俺を捨てたんだぜ。なぜ、捨てた奴の顔を、最後に見たいんだよ。冗談もいいかげんにしろ」
「捨てざるをえなくなった。きっと、なにかしら理由があったのではないか?」
「なぜそこまで、いえるんだよ?」
「なぜかって。そりゃあ、小太郎さんを里に連れ戻そうした張本人だし、小太郎さんの性格もよく知っている。それにあんたの母親からも、親父さんが、どれほどあんたを愛していたのか、いやというほど聞かされたからな」
「愛していた、だと。ばかをいうな。親父に捨てられたんだ。親父は、俺を嫌っていたんだ。くそが」顔を伏せ、手のひらで頭を押さえ、必死に考えを整理しようとした。
「まあ、そう易やすと理解できんだろう。長年そう思いこんできたんだからな。気持ちはわかるが、事実は、じじつだ」
「てめえが嘘ついているかもしれんからな、俺は信じないよ。一生親父を憎む」
「結構、けっこう。いまさらだから、あんたの勝手だ。好きに考えればいい」
「ふん」確かに、いまさらとおもったが、気になったから尋ねた。「さっき、母親っていったが、知っているのか?」
「ああ、知っとるよ」
「どんな奴だ。どうせしょうもない女だろ」
「しょうもないか、笑えるな。親父さんとおなじか、またそれ以上にあんたを想っていて、心の底から愛していたよ」
「また、嘘か。てめえ嘘つきかよ。そんなに愛しているんなら、必死に探しまわったんじゃねえか。ずっと待っていた俺を、なぜ迎えにこなかったんだ。矛盾しているんだよ、てめえの話はよ」
「まあこれも信じなくていい。すぐに信じられるとは思わんからな」猪助が瞳をのぞいてきた。「ただこれも事実だから、しょうがないがな」
 ()せぬ。
 無性に苛いらし、どこに怒りをぶつければいいのか、ただやるせない気持ちを抑えていた。
「親父と母親は、どうでもいい。愛されていたのか、いなかったのかなんか、いまの俺にとっちゃ、遠い昔話なんだから」
「ふむ、そうだな」
「で、なぜ俺は、いま生かされているんだ。頭領の息子だからか?」
「ああ。あんたは、風間衆頭領の正統な後継者だ」猪助が、前のめりになった。「里に戻ってくれ。風間衆の新たな頭領となり、風間衆を束ねて欲しいというのが、殿の意向だ。血筋を大切にされる方でな。あんたが頭領になれば、風間衆も(えい)(ごう)繁栄するだろうとな」
 鼻で笑う。「ありえない。殿には多くの恩もある。いまさら敵になぜ、仕えんとならんのだ。命を助けてくれたから、礼はいうが、あきらめろ」
 猪助が忠告する。「小次郎よ、考えなおせ。君命なのだ。従ってくれねば力ずくで連れかえらんとならん。できれば穏便にすませたい。力加減を間違えると、いまのあんたじゃ殺してしまいかねん」
「ばか。小次郎じゃねえよ、犬之助だ。過去は捨てたんだよ。二度と口にするな、その忌いましい名をな」犬之助の眼が紅くなる。「力ずくか、面白い。なら来いよ。相手してやるよ。さあ、来いよ」
 猪助が、背追った刀の柄に手をかけたが、なかなか動けず、どうしたものか考えている。あっと思いだしたように口を開いた。「のう、犬之助。言い忘れていたが」
「なんだ?」
「あんたの母親は、ある男に殺されたんだ」
「ん、そうかい。親父と一緒で、罰が当たったんだよ。で、誰に殺されたんだ?」
「誰かとな、いってもいいのか?」
「いえよ」
 猪助の口元がゆるむ。「おまえの殿、(すけ)(まさ)だ」
 なにを、いっているんだ、こいつ。殿が、殺しただと。
 女子供には常にやさしく、多めに(ほどこ)してしまう失敗はあっても、殺すなんて、間違ってもあるはずがない。殺めるのは、敵の将兵らで、領地と領民を守るための、正当な防衛としての殺しだ。また嘘だ、こいつは根っからの虚言癖がある嘘つきだ。そうだ、ちがいない。
「なんて冗談だ、笑わせるな。美濃守どのが殺した、だと。嘘にもほどがある。殿を知らぬから、そんな嘘を堂どうといえるんだ。もういいよ、里に帰れ。俺は帰らないと伝えてくれ」
「まあ、待て。これをみろ」
 足もとに、なにかが転がってきて、爪先にぶつかった。その金属質の、なにかを拾いあげる。「(ふところ)(がたな)。なんか、(すす)で焦げてるな」
(つか)の部分を擦ってみろ」
 柄を擦ると、金に光る、「丸に()(きよう)」太田家の家紋が眼に入ってきた。手を滑らせると、落とした。
「三姉妹らの遺体のそばに落ちてあった。遺骸は燃やされ、誰がどのようにして殺されたかまではわからなかった。だが、首を折られていたり、(あご)の骨を砕かれていたり、眉間を鋭利な、なにかで突きさされていたりして殺された三体の屍が、燃えつきず白く朽ちて、そこに残っていた」と、猪助が遠い眼をし、ぼうっと話した。
「三姉妹とは?」
「ああ、すまん。あんたの母親は三姉妹の長女で、名は松という」
「ふん、そうか。松ね、聞いた憶えもねえな。親父と一緒で、実感は全く沸かない。なにもかもが、ずいぶんと遅すぎたようだ」ぼうっとする。ゆれる火の影だけを見つめ、心の乱れを静めようとした。
「まあ、元気を出せ。おまえは認められないかもしれんが、嘘だと何度いわれても、これが事実だからな。行くゆくは認めろ。たっぷり時間をかけて、じっくり消化してゆけばいい。あせらなくていいんだよ」
「嘘つき野郎」
「まあ、好きにしろ。で、どうするんだ?」
「急かすなよ。少しぐらい待ってくれても、いいだろうが。どのみち、いまのままじゃ暫くは動けない、時間はあるだろう。落ちつかせて考えさせてくれよ」
「まあ、そうだ。時間はある。ただ待つよ、決心がつくのを。いいというまで、付きまとうから。覚悟しろよ」
「ふん、勝手にしろ。俺も信念を曲げねえから、てめえこそ覚悟しろ」といったら犬之助は軽くにやつき、眼をとじると口笛をふきながら横になった。静かな夜のなかで、猪助の視線を感じながら、深く思考をひろげ、思案にふけっていった。


十三、岩付防衛戦
(おお)()(ちか)(ろく)(にゆう)(どう)()(あん)(66)
             
 (いわ)(つき)城は、荒川の激流で浸食された台地に築かれてある。川が外堀になり、その内の沼地には、本丸、二ノ丸、三ノ丸、の郭が、浮いており、(まつ)(やま)城につぎ、武州北方の守りの要となっていた。
 松山城に至る北西の道には(まる)(やま)城と(いし)()城の支城があり、松山と岩付の連携を結んでいた。
 本戦では、(えつ)(しゆう)(うえ)(すぎ)は、(こう)(しゆう)(たけ)()と、(かわ)(なか)(じま)で大戦を決したばかりで、軍馬を整えるだけでも一年はかかり、越山の()()めは望めない。それは()()もおなじで、同盟国である武田の後詰めは(かな)わない。
 死守せねば。せねば、太田の家は滅ぶだろう。
 その使命が胸にあったから、開戦した後、眼をとじても深い眠りは得られず、浅い夢のなかで(うじ)(やす)を追いつめるたびに、眼が醒めた。
 氏康を討つ。
 されど、その道は険しく、遠い。
 だが(すけ)(まさ)は、険路と知りつつも、この大義を選んだ。一族の名にかけて。
 ふと、回想した。
 (はや)(うま)使(つかい)(ばん)より、(いし)()城は(かん)(らく)し、守将らは(はい)(そう)した、と。また丸山城は固く(ろう)(じよう)し、動く気配がない、と。わるい(しら)せを受けていたから、背後からの(きよう)(げき)の策をあきらめていた。
 暗夜の眼下に、一万二千騎の大軍が寄せている。
 正面衝突の戦である。
 (じゆ)()を唱えながら(いん)をむすび、()()をきった。「(りん)(ぴよう)(とう)(しや)(かい)(じん)(れつ)(ざい)(ぜん)
 (のぶ)(ひで)をその場に残し、櫓の(はし)()をおりる。村正を鞘からぬき、刀身を紅い月に突きたてる。(あや)しくしたたりおちる(きらめ)きが、白刃を走る。その(つや)やかな輝きは、血の滴りを誘起させ、死をおもわせた。
 門戸に立つと、門兵に戸をひらかせる。門の外に出、大軍にむかって大声で名乗りをあげた。「太田美濃守。ここ一歩も踏みこません」
 大軍が刹那、静かになった、とおもったら、笑い声や罵声に変わり、馬の蹄がだいちをゆらし、いまにも突撃して来る気配があった。
 刀を振りおとし、風音をきる。
 悲鳴が、した。
 大軍の後陣より、叫び声があがる。将らの悲鳴が(でん)()すると、黄金の(じん)()てが内より崩れ、馬の蹄が乱れだした。
 漆黒の騎馬軍団の陣内で、修羅の斬りあいがはじまったのだ。
 甲冑が血に染まる。武者たちが馬上から落される。残された馬が、四方に逃げた。
 黒騎馬隊が半分になったのを確かめたら、早足で駈け、門戸の柵につないでいた白馬に跳びのった。城下にむかって、大声をあげる。大声に呼応し、城下の陰から、伏していた八百騎の岩付騎兵らが門より駈け出、黄備えの騎馬にむかって、一斉に突進する。
 猛進する騎馬の群れに駈けよると、疾走の列に混じった。
 混乱した敵の陣に侵攻する。困惑の表情を浮かべる騎兵の手首を斬りつけたら、槍をにぎった手首は重い音をたて、地面におちる。出血で動転し、体勢をうしなった武者が馬から転がりおちた。
 前より、敵武者が二騎並走し、駈けてきた。
 左右より、二本の槍が伸びる。
 馬上で跳びあがり、鞍の淵に立つと、円をえがくように村正を振りまわす。ふたつの首が()ねとんだら足裏をすべらし、腰が沈んで鞍におさまる。
 (だいだい)武者の密集を強引に割き、黒い甲冑に包まれた騎兵が一騎、駈けてきた。騎馬武者らの胴体を持ちあげ、天に投げとばしている。ひときわ背の高い、頑強な男である。
 一目で、(よし)(むね)だとわかった。
「うまくいったな。これほど、とは」義宗がほくそ笑む。「あんたやっぱ、ただのじじいじゃねえ」
「ふん、おまえにしては、えらく褒めるな。どうした?」
「痛快なんだ。知っているとは思うが、こいつら、あの東国無双と呼ばれる武士団だぜ。それが、あっという間に、このありさま。混乱したら総崩れだ。面白くて仕方がないよ」義宗が、けらけら笑い、腹を叩いている。
「まあ、挟撃されれば、こうなる。おまえも上出来だ、ご苦労」
「否いや。敵に(まぎ)れていただけだ。そりゃね、やつらが雑兵らを殺す姿は見るに()えなかったが。でも、これが()(りやく)なんだろ?」
「まさに。嘘をついて(だま)すが、武略の(しん)(ずい)。こちらに有利な状況に誘導できれば、負けにくい。労少なくして、功の多い勝利を得やすくなる」
「要は、簡単に勝てるように、事前に準備するんだろ。爺は、単純な話を説法でいうのが欠点だ。もっとね、情をこめて語らないと退屈だ、正直な」
「わるかったな。おまえみたいに情で行動したり、好き勝手に喋ったりするのも、どうかと思うが」
 ()(あん)の顔は、ゆるんでいたが、引きしめるしかなかった。
 前から、敵方大将の(つな)(なり)が、来たのだ。
 体格は、義宗よりも、ひとまわり大きい。(どう)(もう)な眼つきだが、瞳の奥には(こう)(かつ)さが、にじみ出ている。顔面は、剛毛な(ひげ)におおわれ、手には通常の槍の倍はあろうかという長い鉄槍を持ち、全身が黄金獅子の武者鎧に包まれていた。
 その容姿は神ごうしく、敵ながらも敬服する、まさに英傑だ。
「太田美濃守、下野守だな。見事な策略だと感心いたす」
 綱成の冷静な表情に恐怖をいだき、ひとつ提案する。「左衛門大夫どの、勝負は決した。ただちに退却なされよ。退却なされるのなら、追撃いたさん」
「ない、な。俺は引かん。勝つために来たのだ。この身が動くかぎり、兄者のために死力を尽くす。これが、忠孝ではないか」
「あっぱれ。さすがは武州に名が(とどろ)く左衛門大夫どの。名将の模範だな」
「忠孝は当然、武士の務め。名将でもなんでもない。俺は兄者のため、きさまの首を斬るだけだ」と綱成がいったら、槍をひと振りする。あたりに風が舞いおきると、喉を狙って突いてきた。
 速い、とおもったら、横から槍がとんできて軌道がずれ、耳もとに強風の音だけを残し、穂尖がさがる。
 義宗が、綱成にむかって叫んだ。「てめえとおなじ、俺も殿のために、そっちの総大将氏康の首を討つだけだ。お互い、たいへんだな」
「別にたいへんではない。ただその横暴を阻止するだけ、だからな」
「なめやがって」義宗が馬で駈けよると、槍で綱成の胴を突く。が、はじかれる。逆に胴を突いてきたが、正拳で槍の柄をつきはじき、かわす。
 なんどか、槍の突きあいがやられたが、互いの実力は互角で、ふたつの槍尖が互いを突きはせず、攻防のかわしあいが続く。
 武術の達人同士の闘いにおいて、互いの技量が(きつ)(こう)すると、勝ち負けがつかず、永遠に武闘がくり返される。千手万手の果てに最後は静止するというが、まさに、いまがそれだ。
 半刻ほど一騎打ちが続いていたが、綱成と義宗は、同時に手を止めると、馬上で動きを静止する。勝負がつかない、と悟ったのだ。
 周囲で敵味方の騎馬兵がやられても全く動じず、冷静に突きあいのせめぎ合いをくりひろげていた綱成は、やはり只者ではない。
 一方、その歴戦の名将との、槍の打ち合いの勝負に引けをとらずに闘った義宗もまた、一介の武将ではなかった。
 綱成と義宗は、荒い呼吸を整える。無表情で、互いの瞳を見つめる情景は、健闘を称えているようだ。言葉をかわさずとも両雄、腕の競い合いのなかで会話はすでにおわっているようで、二将はおなじ結論に達したのだ。
 義宗が、こちらに来ると、綱成はむこうに駈けさった。
「爺、俺は自分に情けなくなっちまった」と義宗がため息をつく。
「どうした?」
「自分が一番強(つえ)えと思っていたんだが、この世には上がいるんだな」
「そりゃ、そうだ」
「今日わかったよ。俺は最強じゃねえ。未熟もんだ」
「おいおい、おまえらしくないな」
「あいつが教えてくれたんだよ。俺の力量を、な。ぶつかり合っているなかで、語りあったのさ」
「そうか、そうか」
「おりゃあ、くやしいよ」義宗が顔をゆがめる。泣きそうな表情で強張らせ、泣くまいと必死に我慢していた。が、ついには一筋の粒が(ほお)をつたい、(あご)さきからおちた。腕で乱暴に涙をぬぐうと、笑ってみせた。「爺。さあ、ゆこう。もう終わりだよ。あいつは引く。あっちの兵の士気も落ち、これ以上やっても無駄だ。あとは残り少なくなっちまった兵を、いかに温存するか。それが、将の務めだろう?」
 無安は笑いかえす。「まさにな。それこそ将の務め。逃げるは、恥ではない。逃げるも作戦だからな」
「そうだ」といって義宗が、馬に跳びのる。
 二頭の馬が轡をそろえ、帰路を進む。義宗の横顔を、うとうと眺めていると、旧友の面影が(よみがえ)った。「なあ、親父は元気にしておってか? おぬしの槍さばきを見ていたら、(しも)(ふさ)(のかみ)どのを思いだした」
「親父か。ああ、元気もなにも、隠居してもかわらず毎朝、槍の稽古をかかしてない。今朝も、老えば老うほどに、槍突きがするどくなるとか、自慢していたよ」
「そうかそうか、ご健在か。それは良かった。親父さんとはまた、昔話にふけりながら一晩酒を酌み交わしたいわ」
「そうか。じゃあ、親父にいっとくよ。まあ、かつての戦友同士、仲良くしっぽり酒を愉しめや」
「ふん、ありがとうよ。ただし、おまえは誘わんからな」
「ああ、いいぜ。あんたらの説教なんか聞きたくないからな。それに俺は、しっぽり飲むより、酒は大杯片手でくらうにかぎる」
 義宗と門に入ると、義宗は手を急に振りあげ、「あばよ」と、ぶっきらぼうに別れを告げ、闇のなかに駈けだし、姿をけした。どうせ、酒を早く飲みたいんだろう。あいつらしいよ、ったく。
 櫓から信秀が駈けてきた。
 信秀は息をきらし、「(ちか)(ろく)どの、申し訳ござらん。策でしたか」とあやまってきた。
「ああ、そうよ。敵を騙すには、まず味方から。おまえが必死に闘わんと、敵に異変を気づかれたかもしれんからな」
「そうとは知らず。ご無礼、失礼いたしました。誠の恥でございます。()びても、足りませぬ」
「気にはするな。尾張守どのは、よく耐えた。手柄だ」
「面目ありません」信秀は落ちつくと、遠くを眺める。「されど、被害は結構、出ましたな」
「ああ、仕方がない。これが、戦だ。被害なく勝つは、最良だが、敵が敵だけに、荷が勝つ。必要な犠牲と考えよ。それだけ、綱成をおびきよせる(わな)には、意味があった」
「それほど、ですか?」
「それほど、だ。あの綱成は、伊勢の名将中の名将。あの方が軍の士気を担っているといっても過言ではない。それが負けたとなるとどうなるか?」
「士気はさがりますな」
「さよう。敵の士気はさがり、もしやすると、脱走する兵らも増えるかもしれん。また、将の戦略に不審をいだく者も出るやもせん」
「そうですな」
「勢いがなくなった軍勢は、烏合の衆とおなじ。われら岩付千騎だけでも、十分に対応できよう」
「まさに」
「ふむ。この防衛戦の意味は大きい。戦況を大きく変えるほどにな」
「ええ、われらの勝利も近いのでしょう」
 深くうなずき言葉を足す。「あとは氏康の首だ。それさえ()れば戦はおわる」
 信秀が険しい表情になり、「もしですが、もしも氏康を討ち損じたら、どうなりますか?」とたずねてきた。
 髭をさわり少し考えると答える。「最悪だ。もう機会は来ん。ここで盗らなければ、今後機会が来ない。それほどに今回の大戦は条件があい、われら太田にとって好機なのだ」
「そうですか」
「ああ、わが殿にとって、一世一代の大勝負になろうよ」
 門外にひろがる大地には、おびただしいほどの眩い黄金と、(よど)んだ漆黒が地に伏している。防衛戦の戦果が眼前にあり、内心では大勝利を喜んでいた。
 ただ、現実では不安に(おちい)っていた。
 太田にとって、最初で最後の大戦になろうから、仕損じは許されず、もし仕損じれば、太田家は滅亡するだろう、と。無安は恐怖に憑かれていた。


十四、平安の女
小白(19)

 ひどい重傷を負った男が、岩付城の詰め所にいると風の便りできいた。父ではないか、と()(はく)は鴨の(しお)()けを持ち、早足でむかった。
 男は陽のあたらない奥の角に身を屈め、警戒して座っている。厚い布を頭からかぶり、全身を隠し、布のすきまから見える丸い眼だけを、ぎょろと動かし、こちらを見てくる。
「あのう」というと、男はちらと瞳をのぞいてきたが、すぐに頭を両手でかかえると、静かにうつむいて黙りこんだ。
 肩をかるく触っても、そのままで、息の音すら聞こえてこない。
 後ろから、父の親友の(ひこ)(はち)が来て、声をかけてきた。「小白、そいつは親父さんじゃねえぜ」
「ええ、そうですね。父はもっと小柄ですものね」
「そうだそうだ」
「このひとは誰なのですか。お知り合い?」
「いやちがうが、松山城にいた()(すけ)という者らしい。俺らの同胞だ」
「そうなのですね。でもどうしたのかしら、この傷。なにかあったの?」
「うん。松山城が大事となっているそうなんだ」
「それはいったい。どういう?」
「松山城の周辺を、風間衆に取り囲まれているらしい」
「取り囲まれているって?」
「ええっと、そうだ。城への出入りが封鎖され、松山城が外部から孤立しているという」
「まあ、それは大変」
「で、その状況を(しら)せに、そいつは来たわけだ」
「あのう、父は。父の生死は、なにか?」
「ああ。()けだしてすぐに見失ったらしい。まわりの仲間たちは斬り殺され、もうなにがなんだかの始末だったらしい。相当に混乱して駈けていたようで、ここまで、どうやって来たのかさえ、なにも憶えていないとな」
「そうですか。そんな」
「まあ、まだ死んだとは決まってねえから。俺たちに任せろや。親父さんを見つけてくるよ」
「彦八さん、私も連れていって下さりませんか?」
「え? だめだ、あぶねえよ。さすがに、それは困る。勘弁してくれ」
「あの。足手まといになりませんから、お願いします」
「否いや、だめ。だめだめ。遊びじゃねえんだ。諦めて家で静かにしてろ」
「ごめんなさい。行きたいの。邪魔しませんから」
「ええ、困ったな。だめなもんは、だめなんだが」
「そこをなんとかと頼んでるんです。しつこいようですが、なんとかなりませんか?」
「と、いわれましても。できない」
「いやです。いや、いや。家でふるえて待っている、なんて」
「でもね、危険なんだよ。俺も死ぬかもしれん。死んだら誰が、小白を守るっていうんだい?」
「自分の身くらい自分で守れますよ。心配ありません。問題ありません」
「お願いだ、頼むよ。おとなしくしててくれ」
「やだ。やだよ。やだ、やだ。こっから動かない。私、岩なんだ」
「もう。だだこねるなよ。あんたは親友の大事な娘さんなんだ。もしもがあれば、俺は首をつらにゃならん」
「大丈夫。私が許すから。お願い」
「くそ。どうしたらいい。俺はどうしたら、いい?」
「私を連れてゆけば、いい」
「俺は」
「私を連れていけば、なにもかもそれで、いい」
「そうそう。俺は小白を連れて行くって、ならねえよ」
「残念」
「で、どうして行きたいのさ?」
「どうして。どうしてって。知りたいの?」
「ああ、知りたい」
「じゃあ、教えるけど理由は、簡単」
「簡単?」
「だってね、最後までとっていた、この塩漬け。食べちゃうんだもん。わかるの。お腹が空いたら、なにをしでかすか、わかっているんだから」
「はあ? ふん、まけたよ。小白の食い意地のわるさは、親父さんから聞いている以上だよ。負けた、まけた」
「じゃあ」
「ああ。食わせてやれよ、塩漬け」
 名残惜しく、塩漬けを懐にしまうと彦八に礼をした。頭をあげる途中、重傷の男が視界に入った。
 さっきとちがい、眼はやさしくゆるんでいる。口もとは布で覆われて見えなかったが、静かに笑っているようだった。「そんな顔したって無駄よ。塩漬けあげないんだから」
 
 
十五、逆襲
()(さく)(24)
                   
 (よし)()(ひやく)(けつ)の入り口のまえで、(かげ)(みち)らの帰りを待っていたが、()(さく)は景道らの無事な生還よりも、丘陵にたたずむ(まつ)(やま)城のほうが気になっていた。
 穴のちかくで、心配そうにうろついている景道の家来、(すけ)(ろく)(かく)(ぞう)に声をかける。「兄さんら、すんません。ちょいっといいですかい?」
「あん」助六が歩みを止めると夜作に視線をむけてきた。「なんだどうした、糞か。おまえの糞はくせえから川でしろ」
「ちがいますよ。じつはですね松山城を囲む山の気配がおかしいですわ」
 助六がうすら眼で山を見、耳をすませる。「俺には、なにも感じないが」
「いえいえ、これは山人の(かん)とでもいいますでしょうか。わかるんですわ。それはそれは山が悲しんでいるようなんです」
「ふうんそうかい。で、どうしたいんだい?」
「ちょいっとだけでいいんで、様子を見にいってきてもよろしいでしょうか? ほんのちょいっと見てくれば、気が済むんです」
「まあいいが、道草じゃねえだろうな?」
「めっそうもありゃしません。俺を信じてくだせえ」
「そうかい、まあいいや。いっといで。まだ帰ってきそうにねえから」
「恩にきりますわ。殿らが戻られるまでには、帰ってきますから」
 夜作は、手下三人を連れると、松山城の丘をめざして歩きはじめた。山は静かだ。静かすぎるほどに、静かだ。小鳥のさえずりすら聞こえてこない。
 山道に入る。道の脇に、なにか転がっていた。腰をかがめ、注意深く観たら、全身が刃物で裂かれて絶命した男の、白い()(たい)があったのだ。
「なんだ、どうしたんでえい、こりゃあ。なにがあったんだ」と手下のひとりが口をふるわせ、喋った。
 背筋が凍る。
 これからのぼろうとしている道の先を、眼を細めて(うかが)うと、おなじく屍体が無造作に、それも五体も地面に斃れていて、一様に体じゅうが斬られている。黒い血で固まり、白い死相をこちらにむけていた。
 手下の三人が後ずさりしたが構いなく、夜作は手斧をにぎりしめて山の道をあがる。
 止まる。
 手下の歩みを、両手で制止した。足元に、糸張りがあったのだ。夜作は試しに斧で切る。と、空気がしなる。斜め右方向より、鎌の(ざん)(げき)がやって来た。身をかわす。「糸張りのしかけか。こっとるな」
 木に足をかけ、駈けのぼって頂に立つと、肌を冷やす風に吹かれ、遠くを凝視した。張られた糸が陽で輝き、山風でなびいている。「そこいらじゅうに仕掛けがありゃあ。こりゃあ相当のてなれだね」
 頂から降りると、したで待っていた手下に警戒をうながし、眼を()らして進む。
 かさ、という音がした。
 悲鳴がした、とおもうと最後尾の手下のひとりが、やられた。周囲をみやったが、異常はない。
 背を刺され、殺された屍体があるだけで、残りふたりの手下は顔を見あわせ、おびえている。
「夜作の兄貴、戻ろうぜ。なんか、おかしいですよ、ここ」
「そうだそうだ。戻りましょうよ。俺らまだ死にたくねえ」
 手下のふたりが弱音を吐いてきたから、つきはなす。
「帰りたけりゃ、帰れ。弱虫にかまう(ひま)はねえよ。ただし、もう二度と顔をみせるな。手下に、いくじなしはいらん。じゃあな」
 ふたりは萎縮していたが、互いが互いの顔をはたき、鼓舞すると斧を手にかまえ、黙って夜作の後ろについてきた。
 道中の屍体を横目で見、坂をのぼる。じわと殺気を感じたから木の枝に飛びついた。ぶらさがり、下をみやる。
「あ」
 手下らの後ろにあった枯れ葉の束が、わずかに動いたのだ。枯れ葉にむかって、斧を投げると、その枯れ葉が、かたちを崩した。勢いよく飛び降りたら、斧の刺さった茂みに近よった。
 斧を抜くと、血が噴出したもんだから、とっさに腰をひいた。観たら、枯れ葉の衣をまとった男、頭の割けた男が絶命していた。枯れ葉にまぎれて、ひとの姿をけし、俺らの後についていたのだ。攻撃をしかける機会を狙っていたのだろう。
 夜作は、手下らに掛け声をかけると、一斉に駈けだした。
 子供のころより、山で育って、山に育てられていたから、山道の早駈けは、自然と身体が憶えており、眼をとじても、山の(いき)(づか)いを感じて、走りまわれた。
 夜作らは、山風になる。
 平地とおなじように木ぎのすき間をさけ、山道ののぼり坂を駈けあがると、ようやく門がみえてきた。舞いあがった枯れ葉のなかを走り、もうすぐだとおもったら、足首に鎖がのび、跳んで地面を転がった。
 鎖を振りまわしながら、風間の男が立っている。
 鎖は音をたて、風を切り、速度をあげていた。
 豪速の鎖が腹にむけて飛んで来たから、(とつ)()に斧ではじきとばす。とびかかると斧で肩を斬りかかったが、横に姿がきえて背にまわりこまれた。とっさに腰をおとし、姿勢を低くすると、頭のうえを鎖が風をきって流れる。安堵と同時に去った鎖が、急降下してきた。
 あわてて前方に跳び、地面を突き破った鎖の一撃を回避した。
 手もとに戻した鎖を、豪快に振りまわし、男が近づいて来る。息をのみ、腰がすくんだ。
 (せつ)()だ。
 男の顔から、生気がなくなったとおもったら、こめかみを貫通した矢がみえた。男が揺れると、地面に(たお)れた。
 矢が飛んで来たほうを見れば、弓矢を構えた娘がいた。後方には男がひとり、いやぞろぞろと四五十人の男たちが現れた。
「だいじょうぶ?」と娘が声をかけてきた。手をのばしてきたから掴まると、柔らかい手のひらの感触とともに、青い電撃がぱちと走った。頭がぼうっとし、頬に熱をおびる。娘の手をにぎるなんざ、いつぶりか忘れてしまっていた。「すまねえな。助かったぜ」
「ふふ、どういたしまして」
 娘がほほえむと、夜作の胸の奥が激しく躍動し、背と脇が汗ばむのがわかった。おいおい娘になに動揺してんだ。これでも元山賊の副長だぜ。なさけねえ。と、それにしても。
 娘は、平安の貴人をおもわせる豊かな笑みをこぼし、気品の高さがうかがえた。そこいらの路上で物乞いをする女ども、皮と骨だけの痩身になりはてた、貧相で卑しい女人らとは、位がちがう。色白の艶かな肌に黒ぐろしい照りのある長い髪、慈悲ぶかい瞳と瑞みずしく潤った口唇、そよ風に乗って芳しい香りがただよってきたら、その上品な色香に鼻がやられる。
 夜作は(もう)(ろう)となりながらも、娘のすがたを追う。しなやかな腰つきと豊かな胸もと、されど慎ましく幼き手のひらで裾を隠すという、こじゃれた雅な女をおもわす所作に深く心をうばわれた。
 そうさ、かんぜんに惚れちまったのさ。
 娘らが、門に入っていった。手下のふたりと後をつける。
 まるで勝ち戦の凱旋のようだ。ひとびとが寄ってきてはお礼をいって、握手なんやらしてきて歓声のなかを歩く。
 城の本丸がみえてくる。ふたり立っていた。右脚をさすり杖にもたれている高貴な御方と、すぐ後ろに若い娘がひかえている。
 男どものなかから利発な男が出てきて、「新蔵人どの、おひさしぶりでございますな」と挨拶した。
「おお、彦八。久しいのう。元気そうでなによりだ」
「元気がとりえでございます。周囲の敵は、われらが取り除きましたうえご安心ください」
「まことか。それはそれは、ご苦労であった。感謝いたす」
「いえ、俺らの務めでございます」彦八が胸をはる。「これより城周辺はわれらが警戒します、どうぞご心配なく」
「うむ、頼む。それと、美濃守どのはなんと?」
「はは。直接は指示をうけておりませんが、本陣の使番から命令の伝言があり、急ぎわれらが援軍に参りました。美濃守どのは本陣にこもっておいでで、手が離せないと」
 憲勝の顔いろが少し青くなったが、すぐにほほえむと、「そうだな、もう戦ははじまっておるから、しかたがない」といった。
 憲勝が、彦八の肩を軽くたたくと、手で礼をいい、彦八は男どもの群れのなかにきえていった。
 ()(はく)と呼ばれた娘が、憲勝のそばに寄って、頭をさげた。小白というのか、なんと愛らしい名か。
「来ておったか。見ぬうちにまた、でかくなったな」
「食べ盛りでございまして、ついつい」
「まあ、健康で、なにより」
「ひとつ質問がございますがよいですか?」
「なんだ、もうせ」
「父さんを知りませんか?」
(いわ)(つき)(なにがし)か。帰っていないのか?」
「ええ帰ってきておりません。存じませんか?」
「うむ。決死の行進だったときくが。すまぬ、俺は生死をしらぬ」
「そうでございますか」
 茜といわれ、控えていた娘が(しやべ)る。「小白、お父さんは立派だったと思います。足軽たちを率いて、先陣をきったときくから。それに」
「それに?」
「あなたを大事に想っていた。あなたに逢うまでは死なない、と話していた。あなたに逢うために、岩付城に駈けていったんです」
「そうですか。それは。最後まで父さんらしかったんですね」小白が瞳に涙を浮かべ、指さきで眼尻をぬぐう。
 夜作は、なぐさめてやりたい気持ちを抑え、憲勝に謁見する。「俺は、駿河守どのに、お仕えする夜作と申します。山に異変を感じて、やってまいりましたが、ここ松山城を守る兵は、足りておいででございますか?」
「おう、駿河守どのの家来衆か。夜作とやらご苦労。足軽をうしない、兵は不足しているが、どうしてだ?」
「いえ、駿河守どのは任務を受けて、近くにおりますが、できれば宿をお借りしとう思いまして。城に滞在してよいのなら、微力ながらお力をお貸しいたしたく思っています」
「そうか。それは、かたじけない。まさに人が不足してあったから、大いに助かる。こちらから頼む。どうか力を貸していただけんかな?」
「むろんでございます。ではそのように駿河守どのにお伝えし、尽力いたします」
「よろしく頼む」
 夜作が手下らと去る。小白はまだ泣いていたが、また逢うと直感したから抱きしめたい慾求を抑えて、平然と歩んだ。
 山を下ると助六と角蔵が待っていた。
 角蔵が眠たそうな顔で訊く。「どうだった。なんかあったか?」
「ええ。ありましたわ」
「なにが?」
 事の成りを耳うちし、助六と角蔵に話していると、穴のなかから景道と(あやめ)が出てきて、外の空気をおもいっきり吸いこんでいる。
 助六が、景道らに説明すると景道らは納得し、満面の笑みをこぼしてきた。「でかした夜作、野宿がすぎたよ。やっとまともな飯と寝床にありつける。まったく無安のやつめ、はめやがって、なにが楽な任務だよ」
 景道の愚痴をききおわると、菖は鉄輪を三回つつき、安堵の表情をうかべ微笑んだ。助六と角蔵もひと息ついている。
 おだやかになった山を眺め、夜作は、手のひらを閉じては開いたりして、小白のもち肌の感触を思いだし、小白との再会に胸を(はず)ませるのだった。


十六、赤頭巾
太田美濃守資正(39)

 策が(かん)()された。
 (すけ)(まさ)の視線のさきには、()()()()(のしよう)(ゆう)(つな)(たか)(りゆう)(うん)(さい)の赤巾がみえる。(あか)(ぞな)えの百騎の弓騎兵らに囲まれ、龍雲斉と対峙したときに正体がばれてしまった。決死の作戦は()(たん)したのだ。
 お供の(ぞう)(ひよう)らの首がすべてはねられると、龍雲斉の指示によって両手首を後ろに回され、縄で固く拘束される。(まげ)を斬られて、束ねた髪が乱れ、耳に垂れてきた。脚をけられ、地面に両膝をつかされたら、()いつくばる姿勢になった。
「美濃守、無念か?」と龍雲斉が半笑いで()いてくる。
「ふん老いぼれが。まだ生きておったか、氏綱の小姓めが」
「おまえがいる限り隠居できんのでな。(もう)(ろう)()()に牙をむき、なんとするか?」
「逆賊が獅子か、笑わせるな。領地を守るために逆賊を()つ。このほかに理由が必要か?」と資正が問う。
「あいかわらずだな。おまえの()(こつ)なとこは買っていたが、ここまでくると、もはや只の狂人だな」
「好きに呼べ。賊にいわれても腹もたたんわ」
「残念だ。おまえとはまた共に戦場を駈けたかったんだがな。もうどうしようもないようだ」龍雲斉が深いため息をつくと、哀れな眼で見おろしてくる。「さきにあの世にいって後悔しとれ」
 龍雲斉が手を挙げると、大太刀をもった白装束すがたの処刑人が来て、横ぎると後ろに立った。
 首を斬ろうと一心に駈けていた男が、逆に首を斬られる、というのか。これも因果、当然の道理といえよう。
 だが悔しい。冷笑をうかべる氏康のかおが脳裏に焼きついて胸が鼓動を打ち、静かな怒りで両手首にちからをこめるが縄に(はば)まれて、やり場のない感情を言葉にだす。「ちくしょうめが」
 大太刀のすれる音がした。愈いよか、とおもい、死期をさとる。
 眼をとじると母上や父上、妻や子供たち家臣らの笑う顔がつぎつぎと浮かんできて、これほど多くの知友たちに支えられてきたのかと感嘆をあげた。
 期待にそえずにあの世にゆくのか。
 これが(てん)(けい)なのだろう。死をむかえた資正はおのれの情けなさに口を(ほころ)ばせると誠すまんと一言心から(つぐな)った。
 馬の蹄の音がひびいてきて、天よりご先祖が迎えに来てくださったのか、とおもうと涙があふれる。眼のすきまより粒がこぼれおち、肌をつたい線をかく。うなだれ、恥を詫びた。
 ずさと重たい音がすると耳に気がいって、周囲が騒がしい、とおもった。視界の不明瞭な眼をひらくと、顔をあげて、辺りをみやった。すぐ腰さきには、眼をかっと開いた処刑人の死に顔があって、鼻さきに矢がささっている。龍雲斉と百騎の騎馬は、いない。
 まえから声がきこえた。「殿」と。
 この声質は()()(ろう)か。
 黒い馬にまたがった(せき)(わん)(はま)()(しゆう)()(のすけ)弥太郎が、右手に器用に握った弓をかざし、こちらに駈けよってくる。まえまでくると馬をおり、背後に回ると縄ひもを切られた。弥太郎が眼前で伏す。「逃げた龍雲斉らですが()()()(もん)(また)()(ろう)が追っております」
「そうか」資正は弱よわしく立ちあがると弥太郎の肩をたたき、「よくやった」と声をかける。
「龍雲斉が参戦していたとは不覚でございました。あの歳でまさか」
「ふむそうだ。予想しとらんかった。しとったらこの作戦を有効と判断せんかった」
「そうでしょうな。この作戦は、殿の顔を知る奴が、道中にいないのが前提。()(さん)の武将がいてはすぐに正体がばれてしまい意表をつけませんからな」
「さよう。うかつだった」資正ははつらつと話す弥太郎にたずねる。「して、おまえはなぜここがわかった? あまりに都合が良すぎやせんか?」
「はは。これも策です。(ちか)(ろく)どのより殿を護衛しろと、それも隠れて危急のときまで現れるなと命じられておりました」
「なるほど。念には念か」資正は天をむくと笑う。「これも天命か。それとも天の意向がそれたか。どちらにせよ、まだ死ぬには早いか」


   第三章 第三の勢力


一、渇き
(うち)()(まご)()(ろう)(23)

 のどの渇きからくる焼けた痛みで、息をするのも(おつ)(くう)になっていた。(たん)(から)み、唐突にむせ、まだ生きていたのかと厭いやになる気持ちを抑え、舌をかみきり、安楽する衝動を直前で()えていた。
 孫四郎は十字に(はりつけ)にされていて、拷問による打撲で腰からしたはすでに感覚をうしなっており、人の支えなしでは歩くのはおろか、立つのもかなわない。
 指さきに小鳥がとまった。
 小鳥は首をひねり、つぶらな黒目で見てきて、しばらく静止していたから、赤い脚をつまんで捕らえ、ころ合いを見、喰らってやろうとしたら案の定、異変に気づいた小鳥は間一髪で、晴天に飛び去っていった。
 ひとけのない荒野に置き去りにされて、幾日経っただろうか。
 陽を三十以上は拝んだ気がするが定かではない。
 頬にわずかに感じていた乾いた冷たさが、激しい痺れをおびた凍傷の類に変容していたから、季節も深まって十二月のなかごろだろうか。
 わき腹の骨は皮膚の表面から浮き出、腹の(くぼ)みは暗く沈み、下半身はもはや別の生き物のように腫れており、左右の腕は枯れた枝のように頼りなく、肩にぶらさがっていた。
 望みもなく、ただただ腐り果てるのを待ち、虚ろにひらいた瞳で最後の景色を脳裏に焼きつける。確かに生きていた証拠とし、そのときが来るのを、静かな愉しみとした。
 渇ききっていた。
 ()(だね)があればまたたくまに引火し、全身に燃えひろがる。(すす)けたわが身を地上に残し、業火から発せられた暗黒をおびた煙は、わが魂をのせて、そらの深みに運び、ついには魂が八方に解放されて、瑞みずしい宮へと還ってゆくのだろう。
 死生観なんぞ坊主の戯言だ、とおもっていたが、死が間近になると考えざるを得なくなり、概念は無限に膨らんでいって、あながち退屈ではなかった。
 最後のさいごになって、はっきりとわかった。
 俺は生きていなかった、と。


二、奇策
茜(15)

 間者と風間衆のひとまずの脅威は去ったから、(のり)(かつ)の護衛を(かげ)(みち)らに任せて、(あかね)(いわ)(つき)城にむかった。
 岩付城には家臣らが集まり、今後の戦のありかたについて軍評定が、連日おこなわれていた。茜は憲勝の代理として(さん)(かく)した。
 広間に入ると、武者鎧すがたのままの家臣らが居座っている。誰もが緊張の面持ちで意見を交換している。だが、一言二言話すと黙りこんでしまい、結論がでずにいた。
 末席に座る。
 奥の座敷には、(すけ)(まさ)が座っていた。白い装束を着て、頭の毛は乱れており、口を閉ざして静かに遠くを眺めていた。その眼差しはどこか弱よわしく、覇気はない。落ちぶれた武者のようだ。
 ()(あん)が、(よし)(むね)と顔をつきあわせて話していた。
「正面突破はどうだろうか。岩付千騎なら可能ではないか?」
「だめだ」無安が頭をかく。「強襲は、相手が準備していない(きよ)をつくから有効だ。殿の奇襲が(ろう)(えい)してしまった以上使えない。敵方は奇襲を警戒して、守備を固めておるからな」
「じゃあ、どこから攻めんだよ。地下道も(こえ)()めで埋められたんだろうがよ」
「うむ、そうだ。だがしかし、(のり)(ひで)の調略には成功したから、内から混乱させられる」
「だから」義宗は腕を組み、舌打ちする。「俺らが攻めこまんと意味がねえだろうが」
「ちと待て。なにか策があるはずだ」
 茜は、無安と義宗の話をきき、頭には三味線を弾く(いぬ)()(すけ)が浮かんでいて、ぼうっとしていると、ひらめきの風がおこった。
(ちか)(ろく)どの、(しもつけ)()(かみ)どの。少しよろしいでしょうか?」考える前に、声がさきに出ていた。
「おう、茜ではないか」腕ぐみをし、「えらく育ったな。俺が見こんだとおりだわ」と、無安が口をゆるませ、青黒い舌さきで下唇をなめると、瞳の奥を輝かせる。
「こんな(すけ)(べえ)じじいなんかほっとけ」義宗がたずねる。「茜よ、どうした?」
「あのう、策を思いついたのですが、聞いていただけますか?」
「策か。いいぞいいぞ。きかせてくれ」
「旅芸人の旅団に化けて、正面から堂どうと入る、というのはどうですか?」
「旅芸人に化けるとな。おもしろい発想だが、正面はだめなんだよ。敵は警戒しているから、弓で射られておわりだろうな」
「だからです。警戒しているからこそ、盲点なのです」
「どういう意味だ?」
「まさか、旅芸人が奇襲するとは敵も考えないのでは。警戒心は弱まるのではないでしょうか。敵が警戒しているのは、我われの軍団なのです」
「ふむ、されどな。そんなに上手くゆくか」
「旅芸人の旅団が戦勝祈願に来たとなれば、気をよくした敵はきっと慢心するはず。さすれば油断もうまれるでしょう」
「そういうものか。無安はどう思う?」
「ふむ」無安が考え、言葉を選ぶ。「茜の言い分には筋が通っていて、良い策だとは思う。が、危険がともなうな。ばれたら全滅は(まぬが)れず、失敗すれば今度こそ再起はできんだろう」
「それでもやる価値はあると考えます」茜が凜とした顔で無安を見つめる。「犬之助は失敗を覚悟で()けたのです。犬死にではありません。希望はつながり、松山城は危機を脱したのです」
「うむ、まあそうだが。だがな」と、無安がいいかけると、静かに聞いていた資正が小声で呟いた。「氏康に泡を吹かせてやれ」資正の口もとがほころぶと、眼に闘志が戻ってきた。「面白いではないか。旅芸人に扮して敵地に(おもむ)くとはな。やろうやろう」
「殿。しかし非常に危険です。失敗すれば最後」と無安がすかさず口を(はさ)み、勇みを制する。
「好いではないか。危険は覚悟の上だ。多少の危険を冒さねば我らに望みはない」資正が立ちあがると、こちらに歩いてきて、手を(つか)む。「茜よ。俺はのるぞ、おまえの策にな」
「よろしいのでございますか。私のような者の策をとりあげていただいて」
「よいよい。敵との兵力差を埋めるには奇策が必要。奇策で起死回生の一手を打つのだ」
 家臣らが資正の言動に注視し、場が静かになっている。資正の声だけが、広間にひびいた。
「茜、この奇策のため、なにか必要な備えはあるか?」
「ええ、あります」
「なにかな?」
「殿、舞はお好きですか?」


三、相棒
()()()()(しよ)(のすけ)(なお)(かね)(24)

 (いし)()城から撤退してから、(なお)(かね)の率いる(ぞう)(ひよう)軍は日びの飢えで苦しんでいた。敵軍の夜襲による混乱で、わずかばかりの(ひよう)(ろう)しか持ちだせなかった。
 虚弱で死にゆく兵らを()()り、直兼は己の将才のなさを(なげ)いていた。
 幼きころより、古今東西の書に親しみ、万書を読み尽くすと年長の友人らに暗唱し読みきかせるものだから、地元では()()(しん)(どう)と呼ばれていた。が、神童にもわからない感覚があった。()()だ。
 じっくりと読み解き、頭のなかで整理し、順序だてて租借し、理路の解釈を与える、という思考ゆえか、臨機応変の対応を苦手とした。同僚からも、おまえは考え過ぎだ、と散ざんいわれてきたから、自身の弱点だとの自覚はあったが、なにぶんうまれもった性分、治らなかった。
 いつも失敗してからの後の祭りで、後のち冷静になって考えると、なぜあのときに正しく判断できなかったのかと反省しかなかった。
 今回の大敗もそうだ。
 深夜に寝ついていると、「()()ちだ」という城内にひびき渡る叫び声がきこえた。おどろき、眼を()ますと、()()のままで櫓まで駈け、梯子をのぼると眼前にひろがる光景に息をのんだ。千をくだらない松明の赤い灯が群をなして、こちらにむかってくるではないか。梯子を滑りおりると、副将が声をかけてきた。「図書助どの、どういたしますか」
「左馬助どのはどちらか?」
「はい。左馬助どのは急務が入ったかで、三日前より留守にしております」
「左様か」といい、胸の鼓動が速くなるのがわかった。兵の統率に関しては主に政員が役割を担い、直兼は参謀として助言を与えるのが主であったのだ。政員は勇猛な武将だったが、慎重さに欠けるきらいがあったから、誰かが補佐として勇みを諌める必要があったのだ。どちらが欠けても成りたたず、両者が並びたってこそ大義をなせる、という理念は、直兼の戒めでもあった。
 副将に、しばし待て、というと、とりあえず頭で考えてみたが、なにも思い浮かばない。政員ならすぐさま、こうしようとか、ああしようとか意見をいってきて、その意見に口を挟み、二者共通の答えを導くのが常であったが、いまはとっかかりがない。
 副将に訊いてみる。「おまえは、どうしたらいいと思う?」
「私ですか。いやあ、どうすればとな。難しい質問でございますね」
 私とおなじ思考をもつ人間だ。
 はて、どうすればいい。こんなとき左馬助どのなら、なにを考え、なにを発言するのか。考えれば考えるほど、なにが、なんだか訳がわからなくなって、しまいには思考が、かんぜん、に停止した。「よし。左馬助どのが、戻られるまで待つとしよう。皆に伝えよ。門を固く閉ざし籠城だ」
「はは、かしこまりました」
 直兼が落ちつこうとしたら、門のほうから激しい音がひびいてきた。間隔をあけて、門の(きし)む音がきこえる。
「敵が門を突き破ろうとしております。いかがいたしますか?」
 またか。
 だから、わからないんだ。どうすればいいのか、なにも思いつかん。なにを指示すれば最良なのか。誰か教えてくれよ。俺はどうしたらいいんだ。
 門が破れると、敵軍が城内に押しよせてきた。
 焦った直兼は、「ひとまずの兵糧をもって逃げよ」とだけ副将に言い残すと、逃げるように去る。
 敵軍の(とつ)(じよ)の登場によって城内は乱れて混戦になると、闇のなかで一方的な(さつ)(りく)がおこった。
 床の間に逃げ戻ると、代だい伝わる家宝の御剣をとり、馬小屋にむかい、馬に跳び乗ったら、斬りあいが行われている修羅のなかに突撃した。無謀だと後から思考が沸いたが、もう手遅れだと無理やり納得したら構わず突っこむ。
 金属音が鳴り響く剣の舞のなかを突き進み、殺意をおびた一撃を払いのけ、ただただ門の外へと強引に抜け出たい一念だけがあった。
 血路がひらかれる。
 金属の密集から抜けたら纏っていた死の圧迫から解放され、孤立すると、平野に一騎放りだされていた。背には戦火にまみれた石戸城があって、味方敵方いりみだれての戦闘が続いている。
 しまった、とおもうには遅かった。将が配下を置き去りにして、なぜ一目散に逃げてきたのだ。なにをしているんだ、俺は。()()だ、それも救いがたい莫迦だ。
 城内に戻ろうとしたら手がふるえ、剣尖がかたかた宙に舞い、円をえがく。
 恐怖があった。
 自分が死ぬ、という恐怖ではない。味方から軽蔑されるのではないか、という恐怖だ。一度逃げた将が戻ってきて、果たして許されるのだろうか、許されるどころか、即座に斬り殺されるのではないか。皆を裏切ったのだぞ。それも新兵ではなくて、軍を指揮する将がだ。どう考えても許されざるを得ない。
 だが、このまま仲間を見殺しにするのか。いいのか、それで。理由はどうであれ、無残に殺される仲間たちを無視するのか、無視していいのか。人間としてどうだ。俺は人間だろう。
 考えすぎだ。
 直兼は笑う。わるい癖だ、とおもうと頭を小突き、城門にむかって駈けだした。
 ある日に、政員にいわれた言葉が浮かんでいた。「迷ったらどうすればいい、と思う? 簡単さ。ああだこうだ考えずに、とりあえず行動してしまったらいいんだよ。成功するや、失敗するやら、どうなるかなんざ、誰も知らねえんだから。まず動くのが大事だよ」
 そう、動くのが大切だ。
 考えているうちに時間は過ぎ、気がつくと、どうしようもなくなっている。そう行動だ。結果は後で考える。
 無心に敵兵に斬りかかる。首の根をはねる。血まみれになろうとも構わず、斬り殺す。血に包まれた夜着の男に()()を抱いたのだろうか。敵方が徐じょに引く。好機と見、直兼は、「皆の者、俺に続け」と大声でいうと、逃げまどう敵兵らの背後を追って襲う。一刻ほど駈け、味方の兵らが失速すると敵影を見失ってしまい、諦めて追撃をやめた。疲れきって、城への帰路につく。石戸城がみえてくると、異変に気づいた。敵方の旗が櫓に立ち、門は閉ざされていたのだ。
 ふか追いだ。
 追撃している最中の隙をつかれ、迂回した敵兵に城を乗っとられたのだ。呆然としていたら、矢が飛んで来た。(きびす)をかえすと、平野に逃げる。
 失態だった。それも、大失態だ。
 奇襲で敵に城をとられた。兵らは疲労の顔を浮かべ、弱った脚で歩みを進めている。きっと、俺を憎んでいるのだろう。凡将だと。
「図書助どの」と副将が近づいてきた。「城が奪われましたね」
「すまぬ。俺の失態だ」
「いえいえ、そんな。俺らは嬉しかったんですよ」
「嬉しかった?」
「はい。図書助どのが奮戦してくださった御陰で、被害も最少となったんです」
 まさか、とおもい、兵らの顔をよく見ると、疲れた表情を浮かべていたものの、皆が口もとに笑みをたたえていたのだ。
「だから、俺たちは感謝しています。命があればこそ再起もありますよ」
「すまない、本当にすまない」というと視界がぼやける。
「図書助どの、皆も今日は歩き疲れましたから、あそこの平地で休みましょう」
「ああ、そうだな」と頭をかく。
 直兼ら一行は、草木が枯れた土と岩しかない平地に腰をおろす。どっと疲れが来たのか、兵らは眠るように身をかがめ、虚ろに眼をとじていった。
 ()(しよう)(ふう)にかかった兵らが多い。
 遠方への行軍が困難だったから、皆で数日間留まっていたが、わずかに持ってきた兵糧も底をつきはじめ、衰弱で死ぬ者も、ではじめた。食い物が必要だとは理解していたが、どうやって食料を確保したらよいのだ。配下の死に顔を見、気が滅入っていって、そんな計画すら考える余裕がなくなっていった。知識なんかいくらあっても役に立たない。
 直兼は、陽がのぼる地平をながめ、己の非力さを考えていた。俺は、なにを成し遂げられる、というのだ。なんのために俺はうまれてきた。ひとに迷惑をかけるのが、天分なのか。そんなにつまらない人間なのか、俺は。なにか役割があるのではないのか。俺にしかできない、役割が。
 また、考えこんでいる。ほくそ笑むと、眼に小さな()()()が映った。荒地に案山子か、田畑もないのに案山子か。おまえの役割はなんなのだ。田畑から外敵を払うのが、おまえの役割ではないのか。田畑がないのに、おまえに、なんの役割がある、というのだ。俺とおなじでおまえも用なしなのか。なにもせず、たたずんでいて、自身の役割をおもい、朽ち滅ぶ。
 直兼は、案山子に同情した。
 おまえも悲しいんだよな。なにもできなくて、なんの役にもたたなくて。俺には、おまえの気持ちがよくわかる。同類だからな。そんな思慮を悪癖で徒然していると、案山子が少し傾いた。
 そよ風で案山子が動いたのか、とおもって近づいた。「人だ」と(つぶや)く。「おどろいた、人だ」
 直兼は、案山子を横に(ねか)せると、頬をたたき、口に水をふくませた。案山子の眼は虚ろで、こちらが見えているのか、見えていないのか、わからなかったが、きっと息はあるだろうと理由なき確信はなぜかあった。
 異臭が鼻をつき、臭いの方を見れば、脚は腐りはじめていた。腐敗臭がひどい。胸や腕などは皮と骨だけになっていて、害虫に所どころ喰われていた。
 これはまずいな。
 水をふくませ、頭には幼少に読んだ医学書のある項の言葉が蘇っていた。腐った部位は健康な部位を侵し、全身へと移ってゆくから、腐った部位を迅速に取り除かなければならない。
 考えるまえに動いていた。
 手には剣の柄を握っていて気づくと、両脚を切断していた。どす黒い血溜まりが切断した脚から噴出し、異臭を放つ。脚の接合していた股下の淵からは、鮮やかな血が滲み出てきていた。急ぎ、紐で股下をきつく結ぶと、止血し、装束の布をやぶくと傷口をおおって感染を防いだ。
 血を大量にだして、血色がわるくなった案山子に(ひよう)(ろう)(がん)を口移しで何度か与えてやると、顔色に血の色が、徐じょに戻るのがわかった。
 唇が動くのが見えて、なにか伝えようとしていた。耳を口元にやる。「たすかった」
 そのかすかに聴こえた言葉は、心を揺さぶった。
 ひとから感心されるのは、いままで度たびあったが、助かった、という言葉、人を助けたという経験はあったか。
 いや、ないな。助けられるのは幾千にもあったと記憶するが、助けたのは皆無であったはず。ゆえに新鮮で、意外でもあったのだ。
 むろん、数日前に副将にいわれた言葉が遅れてやって来て、「あ」とおもったのは、いうまでもない。
「安心しろ。じきに良くなるから、いまは寝ていろ」そういってやると、案山子は眼を静かにとじて、意識をおとす。
 案山子を急ごしらえの()(どこ)に運び、安置すると、やるべき行動がはっきりと見えた。
 そう、食料だ。ここに来る途中に細い川があった、と思いだす。川がある、となれば、辿ると、きっと山林があるはずだ。この時期でも山のなかなら、なにか食えるもんがあるだろう。
 思いつくと、まだ動ける配下を三人連れて、道を戻った。
 安の定だ。細い川のむこうに、丘がみえた。
 なぜ、気がつかない。こんな単純な答えに。直兼は自身に(あき)れるのを後にして、川をくだる。
 枯れた山に入ると、喰えそうな食料を散策する。配下らと喰えるものと喰えないものを分別し、持ち帰った。
 案山子が目を醒ましていたから、水と一緒に食料を口に運んでやった。
 三日後、案山子がぼそり喋った。「(うち)()(まご)()(ろう)
 こいつの名だろう。孫四郎は弱よわしい声で語る。
 太田家の家臣であり、風間衆に潜伏していた。内通が漏洩し、磔にされ、置き去りにされた。死をただ待っていた。
 と、途切れとぎれ伝えてきた。
 眠るまえに一言、大義のために生きたい、と強くいってきたから、大義とは、なにかと訊くと、失態を挽回するため、戦果をあげるのだといって、気をうしなった。
 この身でか。目の奥底に熱い想いが伝わった。
 七日後、元気になってきた孫四郎にたずねる。「孫四郎どのは石戸城攻略に関してどうお考えか」
「考え? 考えもなにも奇襲だ。それしかない」
 あぶなっかしい。俺とはちがう。ただ(まさ)(のり)と似ている。
 孫四郎と協力すれば、石戸城を奪還できるかもしれない。孫四郎の屈託な笑顔を見ながら、ふと戦場を共に駈けたいな、とおもった。


四、情事
(おお)()(しもつけ)()(かみ)(よし)(むね)(55)

 敵方から(さら)ってきた()(れい)らを品定めし、体つきの豊かな女を五人選んだ。自室に運ぶように下人に指示すると背に汗をかく。(よし)(むね)は戦がはじまって以来禁慾していたから、身体が慾望にたいして敏感になっていた。闘いのなかでは満たせない生理の慾求を発散すべく発禁したのだ。
 大戦中は敵を討つだけを考え、女を抱かないと決めていた。が、茜のたおやかな所作を見ていたら、己の慾を抑えきれなくなり、無性に女が欲しくなってしまったのだ。
 一度奮い立った衝動は、決して抑えきれる熱情ではない。暴れ狂う猛獣のように全身を駈けめぐり、蓄えられていた渇望を沈静化するには、女が必要だったのだ。男の本能ゆえ抗えず、()()めた発情を女以外に発散する(すべ)を持ち合わせていなかったから、当然だ。
 自室に戻るとすでに、五人の女が薄い純白の衣をまとって座っている。その白い肌は透けて、ゆるやかな起伏が布にそって、はっきりと女体のかたちを浮きあがらせていた。
 義宗を誘う五人の女の妖艶なすがたに内から絶叫し、身体が燃えあがるように沸きたつと熱をおび、発火する。情にとろけると指さきまで歓喜が走り、全身に伝達する。内に秘めた獣性を解き放ちたい、という慾望に自我が支配された。
 義宗は女たちに近づき、話す。「我慢しろ。俺は悪意ではなく好意をもって接するが、おまえらには乱暴とうつるかもしれん。が、決してそうじゃない。信じてくれ」
 女たちはおびえ、顔にぎこちない笑みを浮かべている。
 おびえる三人の女を腕でかかえて、押し倒すと、無闇に衣を破り捨て、獣のように女体にかぶりつく。
 肌にはかぶりつかれた歯型が、はっきりと刻まれる。
 女らは次つぎと悲鳴をあげ、乱暴に耐えきれず()(わめ)き、義宗の好きなように身を破壊されていった。
 ある者は唇を()()()られ、ある者は首をえぐりとられ、ある者は胸をかじりとられ、あたりは女の甘美な匂いとともに鮮血の鉄くさい異臭が立ちこめ、その美醜のなかで、義宗は女らを襲い続けた。
 もはや三人の女には意識がない。
 何度もこすった茂みの唇からは、(せい)が泉のようにあふれ、磯くさい湯気をあげている。ゆるんだ股をおっぴろげて、視線を彼方にうしなった女らの表情は、快楽をこえた死相にあった。
 壊れた女らを放置し、部屋の隅にいた二人の女に声をかける。「すまない。悪気はないんだ。まだ満たされないから付き合ってくれ。すぐにおわる」というと、女のひとりが壁にむかって、逃げてゆく。
 後ろから抱きかかえると、胸元で躍動する女の背骨を、腕を回してへし折った。静かになった女に無心で何度も発したら、あかく()れた尻の穴はひろがりきって、役に立たなくなった。
 最後の女が正座して、遠くを眺めていた。四人の女らとはどこかちがう。なにか(たつ)(かん)しているようだった。興味がわき、女にたずねる。「おまえは怖くないのか?」
「いえ正直怖いです。死を覚悟しております」
「ではなぜ、どこか落ち着いているのだ?」
「あきらめているのです。ただのあきらめではありません。死を受け入れたのです」
「ほう、死を受け入れたとは」
「あがいても無駄と理解したのです。どうせ殺されるのですから」
「いい度胸だ。気にいったその心構え。すぐにおわらすから心配するな」というと女を包みこんだ。
 違和感をいだいた。
 四人の女らに感じた胸の高鳴りはなく、慈しみを憶えたのだ。やさしく背をさすると、口づけし、髪をなでると、身体を大事に愛撫する。壊れないように、痛みを与えないように、といたわり、肌の濡れたあたたかみを感じながら、女を愛する。
 気がつくと、一方的だった自己中心の行為が逆転していた。
 女が、背に手を回してきて、繊細な手技で全身に触れてきたのだ。やわらかな女体に包まれ、深いため息をつき、肩の力がぬけて安心すると、攻撃を伴う性慾の発散は変異し、受け身による性慾の発散へと変化していった。
 何度かの絶頂をむかえるころには意識が薄らぎ、このままずっと女のなかに抱かれ続けていたいとさえおもったのだ。
 この女をうしないたくない、この女を守らないといけない。やさしい感情に支配され、虚ろに思案していると、眠気がやって来た。欠伸をすると、女の身体のなかに溶ける。

 気がつくと朝がきていて、女のふとももの上に頭を横にして倒れていた。女は頭をなで、首を傾けてやさしくほほえみ、顔をのぞき込んでいる。
「なあ」義宗は女の顔をみあげ、言葉を発した。「あんたとはずっと一緒にいたい。妻になってくれんか?」
 女は驚きもせず、返答した。「ええ」と、一言だけ。
 義宗は幸福な気持ちに包まれた。女は性慾を処理する道具だと考えていたから、この菩薩のようにたたずむ女に出逢えて、歪んだ価値観は変わった。
 いうなれば救われた。自身の思考の未熟さに気づき、いかに愚かな存在だったのかを自覚したのだ。つまりは莫迦だとはじめて気づいたのだ。
 正気に戻ると、侍女らに屍体を処理させ、わずかばかりの()(ちん)を手渡した。義宗は、信秀に命じて簡素な(しゆう)(げん)をあげさせると、女を正室とした。
 女は名を(ともえ)という。
 武芸の(たしな)みがあるらしく、義宗と共に戦場におもむく機会が多たあった。似た者同士は惹かれあう、というが、まさにこの夫婦をいうと、軍内でも噂になったが、義宗は特に気にせずに巴を連れて戦場を駈けめぐると、互いの武術を磨き、濃い関係となる。


五、悪党
犬之助~小次郎(37)

 静養していた。身体の痛みは緩和し、歩行に支障が出ないまでになっていた。(いぬ)()(すけ)は、()(すけ)に常に監視されていて、自由はなかったが、猪助は影のようだったから干渉されず、存外気ままに暮らしていた。あれよりずっと、殿と()(はく)の顔が頭をめぐっていた。今後、どうしようかと思案していた。
 猪助が嘘をついていないのは、表情と語り方から、認めたくはないが、ぼうっとだが理解はできた。事実を認めると、親父や母親にたいする恨みも薄らいだ。殿が、女らを虐殺したのは事実で、なぜ虐殺したのかという理由が重要だ。
 そう、(ざん)(さつ)には、なにかしらの事情があったのだ。そう考えるようになってからは、落ちつきが戻ってきた。
 冷静さをとり戻した犬之助は、小白を想った。
 父が悪党の頭領の息子だと知ったら、どう思うだろうか。がっかりするだろうか、軽蔑するだろうか。
 娘にとって父親は、男の理想像だ。
 父親が悪党の子孫だと知って一生悩みながら生きるよりかは、父親は勇敢に闘って死んだと思って生きてゆくほうが、よいのではないか。娘の将来に、父親は本当に必要なのか。娘も十九で、もう大人の女性だ。最愛の夫を見つけ、子を育て、自立して生きるべきときではないのか。さきの、あかるい娘に、悪党の血を引く父、つまり悪党の血が、自身にも流れている事実を受け入れさせるべきか。残酷な運命を教えるべきだろうか。
 否。娘が、悪党の子だという真実を知る必要はない。穢れを負わせない。ただ、幸せに生きてほしい、父の願いは、それだけなのだ。だから、父は娘の良い記憶とし、いい思い出を残したまま、父は一旦、死ぬべきなのだ。
 そう、いい父は死んだ。仲間と駈けて散った。忠義のために、死んだのだ。それこそが、娘に輝かしい未来を約束させる。
 犬之助は、泣いていた。もう娘に逢えない。逢いたいが、逢えない。くやしいが、父は死んだのだから、逢えないのだ。手にとどく場所にいても、肌に触るのも叶わない。そう、父は死んだ。
「猪助よ。俺は決めたぞ」
「やっとか。で、どうするんだ?」
「里にゆこう。俺は、この地で死んだ」
「そうか、やっと、決心がついたか」
「犬之助の名は、この地に捨てるよ。死んだんだから」
「なんと呼べばいい?」
「小次郎、と呼んでくれ」
「ああ、そうだな。小次郎か。わかった。そう呼ぶよ、小次郎」
 天を見、小白に、さよならをいった。
「なあ、里に帰るまえに、あんたにお願いをしないとならん」
「なんだ、お願いとは?」
「風間衆の仲間になった証拠が、必要なのだ」
「証拠?」
「ああ、証拠だ。この証拠があれば、無事あんたは、風間衆の頭領になれるんだ」
「で、証拠とはなんだ?」
「証拠とは」
「証拠とは?」
「松山城主新蔵人|(のり)(かつ)の首だ」
「新蔵人どのの、首?」
「そうだ。これがなくては、あんたが味方とは信用できんからな。殿も納得せんだろうよ」
「首か」
「怖じ気づいたか。怖くなったのか?」
「いや」きっぱりと小次郎は否定した。「わかった。憲勝の首だな。だが、少し待ってくれ。まだ動けんからな」
「ああ、わかっている。時間はあるから、じっくり治せ。万全にしてから決行するんだ」
 小次郎は、腰に差した太刀、(げつ)()()(ろう)の装飾が(つば)に施された(げつ)(こう)をまっすぐ抜き、眼前に差し出した。刀のさきが、ふらふらと地面におちて、地を(けず)る。
 まだ、早い。振る以前に、構えることすらできない。
 握力が戻るには、(いく)ばくか。
 それまでは、ときに身を任せるほかなかった。


六、坂東武士
(かじ)(わら)(げん)()(まさ)(かげ)(13)

 なが旅であった。
 土を蹴る馬の蹄を腰に感じながら、三十里ほど離れた(じよう)(しゆう)(まい)(づる)城をめざして()(づな)()()けている。後ろから鉄心が遅れず馬の尻を追っかけ走りついてきていた。
 陽暮れごろ、眼前に舞鶴城がみえてきた。手綱を緩めると馬は首をかるく振り、鼻先より白い(もや)が吹きだされ、蹄の音が間隔がながくなり、ついには馬の歩みが止まる。
 鉄心が馬のたてがみをやさしく触り、馬の呼吸をおちつかせ(くつわ)に手綱を垂らし、手に取ると城の方にみちびく。
 城門のまえで馬から降りて鉄心と馬の後についた。鉄心が門兵になにやら話して、城の門を通されると、近くに馬小屋があったから(うま)(ばん)に愛馬を渡し、預ける。
 座に通され、鉄心と伏していると、奥座より、足裏を床にする音がふたつ大小きこえたから、きっと城主の()(たけ)()(きよう)(だい)()(よし)(あき)とその子の()(たけ)()(ろう)(よし)(しげ)にちがいない、とおもい、背に汗がにじむのがわかった。
「お目にかかれ、至極光栄でございます」と鉄心が床にむかって叫ぶ。
「まあ、面をあげよ」と枯れた声が聴こえたから、息をのむと顔をあげた。
 正面に頬のひどくこけた顔色のわるい御仁義(よし)(あき)がいて、すぐ左横には色白の(そう)(めい)な容姿の子義(よし)(しげ)がしずかに座っていた。
「遠い地までよくぞ参られたな。本日は旅の疲れを()やすがよかろう」
「はは。かたじけのうございます」と鉄心が義昭に礼をのべる。
「して、今日は何用でわざわざ参られましたかな?」
「はい」と鉄心がいうと、(ふところ)より書状をとり出し、義昭に差し出した。義昭は渡された書状を受けとると開き、一度かるく()きこむと眼をおとした。左から右端まで首がうごき、瞳が泳ぐと、眼をつむり、(あご)(ひげ)をさすると、なんどかうなずき、整理がついたのか、急に目を開いて答える。「しばらく待っていただきたいと、()()(のかみ)どのにお伝えいただけるか?」
「は。かしこまりました」
「名こそ惜しけれ。いまは常州の(へい)(てい)が目下の優先でな、すまぬ。平定がおわれば、必ずやお力添えいたしますから、そのときまでお待ち願いたい」
「そう、殿に伝えます」
 話しおわると、義昭の咳が止まらなくなり、ふるえる手の平を見、狼狽(うろた)えると、戸より(きん)(じゆ)らしき男が来て、義昭のかたを抱えて出ていった。残された義重が、しずかに口をひらく。「父は長らく(やまい)を患っておりまして、大変お見苦しいところをお見せいたし、申し訳ございません」
「いえいえ。お構いなく。右京大夫どのにお身体にお気をつけをとお伝えくださいませ」
「お心遣いに感謝いたします」
 (まさ)(かげ)が、義重の眼を凝視し、たずねた。「若殿は、(そう)(しゆう)()()についてどうお考えですか?」
「うむ」義重は、おだやかな口調で、「常州を平定した後、対決は避けられないと考えております」と答えた。
「勝てますか?」
「勝てるとな。まだ闘ってもいないから、なんともいえませんが、勝つ気でやるのは確かです」
「失礼いたしました。いささか無礼でございましたな」と政景は顔をゆがませ、謝った。
「否いや、気になされますな。由緒ただしい名門同士、たかが五十数年の叛逆の家門なぞ共に討ち滅ぼしましょうぞ」
「そうですな。共に乱を治め、平安の世を迎えましょう」といって政景が笑うと、義重もあどけなく笑った。戯れ言だと義重は、顔をほころばせて幼く笑っていたが、その眼にはつよい光が宿っていて、時代を外から静観し、堂どうとおちつきはらっていたから、この男となら、ほんとうに戦国の末をみるやもしれぬ、と政景はふとおもったのだ。


七、狼の牙
太田源五郎資房(19)

 まただ。
 (かわや)で用を足していると、背後に気配を感じた。すと振りかえると、さびしい戸が風に震えているだけで誰もいない。かれこれおなじ経験が三度あった。
 用をおえると怖るおそる戸をあけて左右を確かめ廊下に出ると、霜でひんやりと冷やされた床板のうえを、(あし)(おと)をなるべく殺し、北の離れにむかった。
 北の間の扉を引くと手をもみ、中に入って机の台でうたた寝をしている母の背に厚手の布をやさしくかける。母が気づくと、「(げん)()(ろう)、ほんとうにやさしい子だわね」と声をかけてきた。
「母上、そのようなお恰好では風邪をひかれますぞ。あたたかくしてお過ごしくださいませ」
 母が手を、両手で(つか)んでくると、なんども大切そうに摩ってきて、凍りついた手を温めてきた。
「私の身体はいいんですよ。あなたさえ健康なら母は幸せなのです」
 (すけ)(ふさ)はあたたかくなった手のひらで、母の硬く冷たい肩をもんでやって、少しでも柔らかくなるように念じながら、ほぐしていった。母は頭をうつむき、息をはき、「極楽、ごくらく」としゃがれた声をしぼり、身を任せてきた。じんわりと血のあたたかみが戻ってきた肩をもみながら、ふと呟いた。
「どうやら命をねらわれているようなのです」
「まあ」母が緊張すると、「それは誠なのですか?」と()いてきた。
「誠でございます。つい先ほども」
「心当たりはあるのですか?」
「ええまあ」といい、母に迷惑をかけまいと、それ以上は、いわなかったが、心が見通された。
「殿の反感をかったのですね。あの方は自身の兄にも容赦なかったとききますから、本気ですよ」
「それはどうも。私がいけないのです。父上に反抗した上の仕打ちでございます」
「それはちがいますよ。実父とはいえ忠言するのは、孝行な息子の証拠です。源五郎は正しい行いをしたのですから、恥じるべきではありません」
「母上にそういっていただけるだけで心強くあります」
 母の小さな背を抱擁し、母のぬくもりをただ感じていた。弱よわしい鼓動の音をきき、鼻さきで懐かしい髪の匂いを愉しんだ。荒い呼吸はしだいにおちついてきて、死を背負っていた重圧が張った肩から徐じょに溶けてゆくのが感じられ、肩が沈むと(つか)()抑圧から解放された。
「源五郎、母に任せていただけないでしょうか?」とたずねてきた。
「父上と、もめるのはお止めください。母上に万が一があれば私は生きてゆけません」
「ちがいますよ。そうではありません」
「ではどう、お考えで?」
「母にも暗殺を阻止するくらいの力はあるのですよ」
「といいますと?」
 母は唇をすぼめ、指をくわえたら、高い音を鳴らした。廊下の戸のまえに影が座っていた。
(てつ)(さい)。これは命令です。あなたの命に代えてでも息子を守りなさい。わかりましたか?」
「かしこまりました。この命にかけて若君をお守りいたします」
「けっこう、では頼みます。呉ぐれも内密にお願いしますね」
「心得ております」と鉄斎がいうと、闇に姿を消した。
 資房は母の顔を見、「鉄斎。あの鉄斎ですか? 祖父に仕えていたという忠臣の。遠に隠居された、と聞いておりましたが」と驚きつつも疑問を口にする。
「ええ。殿が私の護衛にといって再び召し抱えたのです。まあ、あの方も、まさか息子の暗殺阻止に使われるとは、思ってもいないでしょうね」
「母上、なんといえばいいのか。申し訳ございません」
「いいのです。母というものは息子のためなら、どのような非道でも遠慮なしにやる性なのですよ。血のつながっていない殿よりも、腹を痛めて産んだ貴方のほうが大事に決まっているではありませんか」と母はいうと、眼尻に笑みをたたえ、はにかんだ口元には所どころ抜けた歯があったが、気丈にみせる姿に、若きころに見た力づよい母親の面影があった。
 母は、母なのだ。
 いつまでも母と子の距離は縮まらない、と実感したら、なんだか愉快になって、母と一緒に昔にかえっていった。


八、赫い棘
(てつ)(しん)(29)

 両手のひらに二三重に巻かれた縄ひもをにぎりしめ、腰をおとし、背後から近づくと、さっと首に縄をかける。後ろに反って、巻きつけた首を締めつける。
 首にくいこんだ縄を、必死に爪でかきむしろうとする資正の兄、(すけ)(あき)の抵抗もむなしく、首筋の太い血管は圧迫され、激しく脈をうって肥大し、倍に膨れあがり赤あかと熟れても、縄は切れなかった。
 しだいに掻く動きが、とろくなる。爪痕から血がたれる。
 甲をやさしく叩いてきたら、資顕の張った肩から力が抜け、だらんと腕がおちて、生気をなくした。首が曲がり、こと切れた。縄をほどくと、むくろが体勢をくずし、床にひれ伏した。
 ひらに巻きつけた縄ひもを回収し、束ねて装束の懐になおそうとしたら、違和感をおぼえた。ひらに血で染まった無数の(とげ)(てのひら)を上下二分して刺さっている。両手をこすりあわせて(ぬぐ)うと、床に乾いた赫い棘が、ぱらとひら落ちた。
 手をあわせ深く拝み、さて去ろうとしたら、戸の隙間からのぞく丸い眼球と視線があった。一瞬の沈黙のあと、眼球が闇にきえたから不味い、とおもい、戸に駈け、戸を開くと廊下を走りさる幼き娘の後ろ姿があった。
 資顕の娘だ。子に見られてしまったのだ。娘の父が殺される光景を。
 鉄心は迷った。
 娘を殺すべきか、殺さないべきか。主君の資正からは実兄の抹殺しか命じられておらず、娘の処分はなにも指示されていなかったのだ。幼き娘とはいえ、はっきりと顔を見られてしまっては殺さぬ理由はない。
 いやちがう。
 どのみち、資顕の死は、周知となって、じきに何者かに絞殺された、と城内に知れ渡るだろう。娘が父を殺した奴を見たとて、このような全身黒ずくめの男が、父を殺した、とわかっても世の常、遅かれ早かれ、弱き者は強き者に(とう)()される。娘にとっては過酷ではあるが、行くゆくは世の不条理をまなび、その復讐心はうすれ、流されてゆくのだ。
 鉄心はつい最近うまれた愛しい娘をおもい、わが娘とて同様、あの娘とおなじく父が仮に何者かに殺されても、一時の怒りは世の乱れに埋没し、方向をうしなうと、道理として理解し、生きてゆかねばならない。
 そう、生きるのは非情なのだ。生きるのは決して楽ではない。苦痛を耐え忍び、闇のなかにわずかな悦びを見いだし、己の生を実感するのが人の歩みなのだ。
 鉄心は父の鉄斎から、(いく)()にも聞かされた教訓を思いおこし、自身が進む道を決めた。
 あの娘を生かす。娘を殺す意味はない。
 資顕を殺した時点で使役はおわっており、これ以上の殺生は必要ではない。いまは抹殺が完了した旨を主君に伝え、従者として主の指示に従うだけだ。
 ふと肩をなでおろすと息をつき、静穏な闇のなかを(うかが)う。足裏をふんばると跳躍し、駈けだすと、資正のいる松山城まで夜の暗がりをひた進むのであった。


九、春の夜の夢
(ふじ)(ひめ)(20~25) 

 ()()もっていた。
 つわりがひどい。歩くので、やっとだ。
 息をきらしながら、家来衆らと武州の地をめざしていた。
 まこと軽率であった。(ほう)(じよう)()(きよう)(だい)()氏綱(うじつな)の側室として嫁いだのに、まさか氏綱の子|氏康とのあいだに子ができるとは。
 藤姫は腹をさする。家臣らに囲まれ、道を進む。
 契りなんぞ交わすべきではなかった。戦に勝利したら抱いてもよいなんか戯れ言であった。真にうける(うじ)(やす)も、どうかしている。殿にばれたら打ち首だというのに、あの堂どうたる態度はなんなのだ。()(ざわ)城での夜襲でみせた武勇は色慾のためか。
 いそぎ足で舞い戻った若君の生気にみちた顔。はじめての戦に勝った、という満足からではない。おのれの性慾を満たせる、という悦びが表情にみちていたのだ。
 戯れを、と言葉を発っしようとしたときの、あの手際の良さ。ろくに女を抱いた経験がない十五の若者の所作なのか。あれは見事、遊び人の類いの手慣れだ。
 抵抗は無意味で言葉は耳を抜ける。白い肌をさらされると後は、若君のおもむくままに可愛がられる。もう手遅れだ。若き男の熱情にあらがうなんて女の力ではどうしようもないのだ。
 ひとしきりやられると、氏康は寝床で大の字になって、いびきをたてると意識をうしなった。避妊できないほどに愛され、かれの慾求を()やしてやった。とり返しがつかないのは、身体がよくわかっている。
 腹に宿った子をどうするべきか。氏康の寝顔を見、ただそれしか頭にはなかった。
「姫、あの村はいかがですか?」と家来筆頭の叔父上が声をかけてきて、はっとすると意識が現実にひき戻された。
 遠くの平地に集落がみえる。家来らも夜通しの移動で疲れ、叔父上の表情にもひどく疲労のいろがみえた。
「ええ、あの村にやっかいとなりましょう」というと家来らが息をつき、村の方に歩む先をかえた。
 村には乳を飲ます母とその子らしかおらず、若い男たちは戦に出ているという。空き家が一軒、休むのにちょうどよい広さであったから好きにどうぞと快く母子らがいうたから礼をのべて家を借りた。
 家来らには田畑を耕させる。
 日にひに大きくなる腹を母子らと見守る。年増の母らは出産の作法を心得ていた。
 初産もあってか。しばらく、なにを食せばいいのか。できるだけ安静にして、もしもなにかあれば、家来らにやらせ、出産時の体位や力みの仕方、うまれた子の抱き方など細かい注意を受けて、出産に望んだ。
 親切な母らの助力もあって安産となった。
 喜ばしいことに、三つ子であった。めでたかったから、娘らには松、竹、梅の名をつけてやり、わが子の誕生を皆で祝った。娘らとの静穏な暮らしがはじまった。
 幸せであった。
 娘らの笑う顔に気づけば家来らに、ほらいま笑ったとはしゃぎ、寝返ったらほら寝返った、泣くと泣いた、などいちいち娘らの成長を確かめ、生きる喜びを感じていた。
 ただ幸せは、(なが)くは続かない。
 氏康がやっきになって逃げた我われを探していると、ここ武州の地まで報せが来たのだ。家来らは急ぎ逃げましょう、といってきたが、幼き娘らを連れてどこに逃げようというのか。逃げてもいつかは捕まる。捕まれば娘らはどうなる。死罪ではないか。死罪でなくとも人質として他国との交渉に使われる人生を歩むだけだ。なら逃げる意味があるのか、娘らのうまれたここを故郷として平穏に暮らすのが、幸せではないのか。娘らに不幸を負わせたくない。などを徒然おもうと、家来らに娘らと一生ここで暮らすようにと命じた。
 姫は、と聞かれ、沈黙していたが、叔父上が無言で肩をたたくと別れの挨拶をした。
 娘らが寝ている早朝、おこさずにゆこうとしたら一番下の梅が、「ははうえ」といって小袖の袖を引っ張ってきたから、眼尻からあふれ出ようとする涙を、必死に流すまいとして、「(かわや)はじいじと行ってね」というと、「はあふい」と梅は欠伸(あくび)をこらえ、叔父上の寝床にとぼとぼ歩いてゆく。
 袖で流れる涙をふきとると、(あさ)(もや)に包まれ、娘らを懸命に忘れようと、歩みを進める。ひとり朝の涼しい風を胸にすいこみ、忘れようと努めたが、忘れようとすればするほど、娘の面影は強くなり、胸が苦しく締めつけられた。
 一歩いっぽ、前へまえへと進むにつれて、想いは一層つよくなっていって、間違いだった、とおもって後ろを振りむくと、そこには霧に包まれた平原があるだけで、村のかたちは、なくなっていた。後には戻れず、前を進むしかない。
 あれよあれよ、と湧き出てくる過ぎ去りし記憶は、ついに時間の概念をなくし、長くも短い人生が一点に凝縮した、とおもったら火花が散り、ひとたび()ぜると、意識が彼方に運ばれ、過去が曖昧の産物となった。うすれた過去を捨ててしまい、新たな道を進まなければならない。足裏のまめが割れ、脚は赤く膨れあがり、すでに下半身に感覚がない。
 意志だけが歩いていると、眼前に街がみえてきた。
 華やかな街だ。
 ここで暮らすのだろうと、直感したら、ふらふらと、艶やかな装いの家屋のなかに入ってゆく。
「すみません。働きたいのですが」と枯れた声でいうと、番頭らしき女郎が、「おやまあ、おんな乞食か。そんなくたびれた恰好でどうしたんだい?」と()いてきた。
「事情は聞かないでくだせい。もうとっくになにもかも捨ててしまって、思いだそうにも思いだせやせんのです」
「まあいいさ。ここは、てめえみたいな女が集まるところでさ。器量さえよけりゃあ、なんでもええよう」
「ありがたく存じます」
「で、あんた。なんと呼べばいいのさ?」
 過去はなくなっていた。もう名前すら忘れ、ほんとうに誰だかわからなくなっていた。ただ、ぼうっと村の名前が浮かんできたから答えていた。「(はく)(すい)
「白水か。坊さんみてえな名だな。それじゃあ客はつかんよ。もうちょい色気のある名にしねえとな」
「はあ」
 女郎が考えこむと、ぱっと眼があかるくなって、「わかった」と呟くと、「あんたの名は今日から、泉。いずみだ」と、いった。
「いずみ?」
「ああ、泉だ」女郎が瞳をのぞき込んできて、鼻さきを近づけ、なんどか()いできた。「泉、さっそくだが」
「はい、なんでしょう?」
「あんた、くせえから()()にいってきな。きれいになったら、手ほどきしてやるからよ」と女郎はいい、童女を呼んだ。童女に手をひかれ、戸から湯気がもれている奥の間に連れてゆかれるのであった。


十、幼なじみ
鉄心(28)

 里の春はおだやかで、清流の水の匂いを嗅ぐのが好きだ。
 (てつ)(しん)は春の陽に包まれ、川の(ほとり)を歩いていると、滝で行水する幼なじみの()()を認めた。幼なじみといっても、歳は十五ほど離れている。家が近く、幼いころよりいつも一緒に遊んでいたから、幼なじみと勝手におもっていた。いまではむしろ、実の妹のように感じている。
 岩肌に小袖が無造作に脱ぎ捨てられていた。整えると滝のしたで行水している千代のすがたに見とれた。千代の乳白色の肌は、瑞みずしく水気をはじき、黒ぐろとした長い髪は垂れて、髪さきは豊かな(ふさ)を隠している。()れた顔は天女のようで、神ごうしさに心はひどく揺れた。
 千代が眼を緩りと開くと、ほほえんできた。滝から出ると陽の光で清められた身が輝き、まぶしくおもったら千代は小袖を着て、横に座っていた。
「兄上さま、なんなの? ぼうっとして」
「いや。あんまりに」
「あんまりに?」
 続きをいいかけた鉄心は、口をつぐみ、「ゆこう」と手をのばしたら、千代が手を握ってきた。手は冷たい。顔を見れば、血のいろはなく、唇は青く寒い。背をさすってやると、千代が腹に抱きついてきた。ひどく震えていたから、鉄心の熱はすぐさま冷やされた。
 坂道を歩き、千代にたずねた。「千代、いつまで里におる気だ。主は見つからんのか?」
「私、いまのままでいいの」
「いいとな?」
「いまが幸せ。いまがずっと続いてほしいの」
「されど、我われは殿のために働かんとならんのだ。いずれお前も」
「父に、なにをいわれたか知らないけど、私厭なの」
「厭といっても我らが務め。北条家のために使()(えき)を尽くすが役目なのだぞ」
 千代がすねた。(ほお)が膨れたからすぐわかる。
「私」千代がぼそりという。「兄さまに仕えたい。だったら、ずっと一緒でしょ」
「ふん。冗談を」
「だめなの?」
「だめだ。我らは北条家の(こま)だ。駒が駒に仕えてなんとする」
「北条家のためならいいのよね?」千代が真剣な顔になって考える。
「ああ、殿のためならいい。俺に仕えて、殿のためになるか、じっくり考えるんだな」
「私たちの子を。私たちの子を敵方に忍ばせる、というのは、どう?」
「子って。俺たちは夫婦じゃないんだぜ」
「だから夫婦になって、子を作って、子を。だったらいいでしょう?」
「ふむ、されどな」
「されどなによ、殿のための策略よ。文句あるの?」
「子を策に用いるか。おおがかりな策略となるな」
「ええ、そうよ。兄上となら実現できると思う」
 大胆な策だ。ただ有効ではないか。()()な我が子を敵方に潜伏させれば一族ともども信用されない理由があるだろうか。子を持って敵方の太田家を(はか)るのだ。
「千代よ。わかった。ただ条件がある」
「条件?」
「やはり、千代は敵方に潜入しなければ殿も納得はせんと思う。だから」
「だから?」
「女中として敵城に潜伏し内偵するのだ」
「間者ね」
「ああ、そうだ。間者として情報を収集し流せ」
 千代は少し考えるとうなずき、「わかった。やるわ」といって同意した。
「じゃあ、兄上」
「ああ」
 そういうと鉄心と千代は、顔をつきあわせ、互いに笑うと、(せつ)(ぷん)し、指をからめ、茜の陽をまとって原を転がり、飽かず愛し、愛された。


十一、河越夜戦
太田源五郎資正(24)

 天文十五(一五四六)年の春、(かわ)(ごえ)城にたて籠もった()()()()(もん)(たい)()(つな)(なり)と、宗哲(そうてつ)らの、三千の伊勢軍が補給路をたたれ、敵陣に囲まれ、孤立していた。
 ひがしの()()(ぬま)には、()()()(ぼう)(あし)(かが)()(ひよう)()(のかみ)(はる)(うじ)
 なんせいの(かしわ)(ばら)(すな)(くぼ)には、(かん)(とう)(かん)(れい)(やま)(のうち)(うえ)(すぎ)(のり)(まさ)
 きたの()(ぐさ)(とう)(みよう)()には、(まつ)(やま)(じよう)(しゆ)(おうぎ)(がやつ)(うえ)(すぎ)(しゆう)()(だい)()(とも)(さだ)
 東国の御三家を中心とした連合軍が、城の周囲に布陣していた。兵力は三万を有する。
 (はる)(うじ)(のり)(まさ)の両名の号令で、逆賊を討伐するために東国各地から(こく)(にん)(めい)()()(ざむらい)などの有力な地方豪族らが集い、河越城を奪還する、という大義名分が掲げられていた。が、(ろう)(じよう)は半年をこえ、連合軍の士気は、下がりはじめていた。
 東明寺に陣を敷いた(すけ)(まさ)は、従者|(てつ)(しん)より報告をうけていた。
「殿、管領どのはあいかわらず連日連夜、京の都より連れてきた(しら)(びよう)()ら一行と戯れ、遊興に浸りきっております」
「うむ。いつ攻めるとお考えなのだ。半年ずっとこうではないか」
「ききますところ、山内どのは大軍で包囲していれば、いずれ開城するとお考えのようです」
「されど、いずれとはいつなのだ。われら連合軍の戦意も日にひに下がる一方というのに」
「ご心配なく。きくところ、(うじ)(やす)より()(ぼく)の書簡が届いたようで、氏康も決戦を望んでいないようなのです」
「和睦か。和睦交渉する奴が()()(わら)城で精兵を集める必要があるのか。確か先日いっておったよな?」
「はは。確かに、小田原城で氏康は、軍勢を整えておりました。観たところ、一万数千騎はいたでしょうか」
「鉄心よ。考えてもみろ。それほどの兵力なら三拠点に布陣した軍勢と対等に闘える。それに」
「それに?」
「お上の大将三名は仲がわるい。各軍の連携なんぞろくにとれないだろう。おまけに長期間の布陣で、兵の士気も下がっておるから、(すき)を突かれたら壊滅する」
「それは、そこまでわかっておいでなら、管領どのにお(しら)せを」
「待て。無駄だ。若造の意見と聞き入れんだろう」
「なぜ、そう思われるのですか。いってみれば、存外」
「いや。なぜなら、むこうには、あの(みの)()(しゆう)(しな)(のの)(かみ)どのがおられるのだぞ。(いさ)めなぞ(さい)(げん)なくやっておろうよ。あのお方で無理なのに俺にできるのか?」というと、背後より近づく気配がしたから、振り返った。
 (なん)()()(だん)(じよう)(しよう)(ひつ)(のり)(しげ)が、凜とたっている。
 憲重は、にこやかに笑みをこぼし、声をかけてきた。「源五郎、おちこむな。我らの意見が通らなくとも臣下として殿に忠義を果たし、ただただ闘うのみよ。これだけが我われの唯一の役割なのだよ」
()()(うえ)、誠それこそが忠臣。わがご先祖の(どう)(かん)公も義父のその言葉に喜んでおいででしょう」
「ただ、おぬしの子は若いから無理はするな。これは義父の言葉だ」
「はい。ちょうど四つとなりました。そういえば鉄心も子がうまれたんだな?」
「はは。娘がうまれました。妻もたいそう喜んでおりました」
 鉄心の顔がすこし赤らんだ。
 憲重が、資正と鉄心の顔を交互に見、「おぬしらは、まだまだ若いし、子も幼い。義のためだからといって、決して命を無駄にしてはならんぞ。忠義のために死ねるのは、俺みたいな老兵。最後の栄誉なのだ。忘れるな。人の死ぬ場所は、天運によって、すでに定められている。だから名誉だ、とかいって死をあせるな」といって、両者の肩をやさしくたたき、武運を祈ると中央の講堂のほうに去っていった。
「まさしく、武士の(かがみ)ですな」
「うむ。義父こそが武士だ。大義を忘れ、自身の小利に走って仕える殿を平気で裏切る武士らを、俺は世の中で一番許せない。武士の(ほん)(かい)を忘れた愚者らほど醜い輩はない」
「おっしゃるとおりでございますな」
 むこうより、(うえ)()()()(のかみ)(とも)(なお)が早足でやって来た。「()()(うえ)はどちらかな?」
「これは、能登守どのではござらんか。どういたしましたか? お急ぎのご様子で」と礼をし、たずねた。
「ああ、火急の報せでな」
「はは。義父は、若君のおられる講堂に入ってゆかれました」
「さようか。では参るが、そちらも知っていた方がいいから、俺と一緒に来られるとよい」と(とも)(なお)がいったら、「はい」と、短くいって、資正らは朝直の後についた。
 講堂に入ると、奥の寝床に、(とも)(さだ)が弱りきった痩身で横になっていた。隣には(のり)(しげ)が座し、朝定を看ていた。
「能登守、源五郎。どうした?」
「伯父上、いそぎの報せがございます。外で話しますか?」と、朝直が言葉を発すると、横になっていた朝定が、言葉を挟んできた。「気にするな。ここで話すといい。俺は大将だから、聞く必要があろう」
「殿、ご無理をなさいますな。いまは静養を」と心配そうに憲重がいう。
「かまわない。もうよくならんのは、俺が一番わかっておるわ」と笑う朝定は、身をゆっくりおこし、寝床のうえにあぐらをかいた。「もうせ」
「はは。本日早朝に、山内どのの陣内を横切るように、河越城に敵の騎馬が一騎駈()けて行きました。目撃した物見からの報告では、女人のような若侍だったそうでございます」
「ほう。女人のような若侍か。なら、綱成の弟の(ふく)(しま)()()(のかみ)(かつ)(ひろ)だろう。氏康の小姓をしているときいたが」と、あごを()でる朝定が答えた。
「あまりの大胆さに呆気にとられ、誰も討てなかったと」
「情けない。そやつら本当に、(ばん)(どう)()()なのか? なにもせずに陣中を横断されるのを、呆然として見ていたとは」
「はは。面目ございません」
「で、それだけではないだろう?」
「は。勝広が城内に入ったのと同時に砂窪に氏康の軍が現れたのです」
「ほう氏康か。ついに着たか。で、攻めてきたのか?」
「いえ。山内どのの軍が攻めかかるとすぐに逃げだし、戦意がなく陣を後退したのです。やはり氏康は綱成と城兵の命を引き換えに和睦を望んでいるのでしょうか」
「うむ。氏綱のような才知がなくとも氏康にも、なにか考えがあってもいいものだが」と朝定が悩んだら、「源五郎、どう考える?」と訊いてきた。
「はは。私は和睦そのものが偽りと考えます。われらの士気を低下させるのが狙いなのでしょう。おそらくは隙を見て、攻め入るつもりでしょう」
 朝直が口をはさむ。「源五郎、それはないと思うが。氏康は駿河の(よし)(もと)とすぐに和睦したではないか。戦意があれば(いま)(がわ)と和睦なんか結ばんだろうよ」
「能登守どの、その油断も氏康の狙い。おそらく今川家との和議は挟撃を怖れてやむをえなく結んだもので、(こう)()の憂いを取り去るための(しん)(ぼう)だと考えます。本戦では兵力で負けている分、氏康は我われの油断を誘いだし大軍を弱体化させ、虎視眈たんと攻める機会を狙っているのです」
「しかしな、亡くなった父の氏綱ならわかるが、家督を継いで戦経験も少ない若造に、なにができようか。たかが第三の勢力ではないか」と、朝直が鼻で笑ったら朝定が、「それも氏康の狙いだろう、源五郎?」と訊いてきた。
「左様。氏康という男は、我われが考えているより、相当に優れた人物なのかもしれません。兵法にもあるとおり、実を避けて、虚を撃つの原理に基づけば、納得が行きます」
「さすがだな。曾祖父の道灌公のごとき洞察だな。それが誠なら勝広が入城したのは無謀な単騎駈けではなくて、なにかしらの謀略の(たぐ)いなのか?」
「はい。氏康が慎重な人物なら、無謀をするとは、到底おもえません。なにかの策だと考えるのが、妥当でしょう」
 朝直が不機嫌そうな表情で、「源五郎よ、おまえの言い分は憶測ではないのか。不安にかられ、わるいほうに考えすぎなのではないのか。殿をあんまり悩ますな。お身体にさわると一大事だ」と、苦言を呈してきた。
「能登守どののおっしゃるとおり、考えすぎなのかもしれません。氏康はそのような優れた人物ではなく、家を潰す三代目の暗愚な人物なのかもしれません。されど万が一、氏康が己を偽った名君ならば我らは壊滅するのです。それだけは避けなければなりませぬ」
「うむ。では勝広を城内に入れた狙いは、なんだと考える? 狙いがあるのだろう」
 資正は、眼をつむると、しばらく考え、ふとなにか思いつくと、身をふるわせ、声が出た。「()(しゆう)
「夜襲とな?」
「ええ夜襲です。氏康の軍は南に引きましたが、城内と呼応して夜襲をかけたら、管領どのの軍は挟撃され、混戦となります。そうなるともはや、勝機はなくなり、(かい)(そう)でやっとでしょう」
「ほう。そうなると戦況はどうなる?」
「はい。総大将が潰走したとなると氏康の軍勢と城内の軍勢は東に布陣した()()()(ぼう)どのの陣を攻めます。勢いがついていますから足利どのとて(しの)ぎきれるか」
「凌ぎきれず(はい)(そう)したら?」
「最後は我が陣地を狙うでしょう。我らの選択はふたつ。ひとつは松山城に敗走する。もうひとつは」
「なんだ?」
「死力を尽くし、敵と闘う」
「勝てるのか? 闘って」
「それは、わかりません。ここを死地として守り、兵の士気をあげて闘いますが、それで氏康の軍と互角に闘えるのか。闘ってみなければ、わかりません」
「無責任を」と朝直がいいかけたら、朝定が、「後者だ。闘おう。俺は、河越城を奪還するために、ここにいる。それが闘わずに、松山城に帰るだ、と。ありえない、絶対にな」といった。
「殿、しかし勝ち目は」朝直が弱よわしく息をはき(なげ)く。
「武士が命を惜しんで、なんとする。仮に生きながらえても、一生の(はじ)ではないか。代だいに汚名を残せ、というのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが。源五郎の意見が、仮にすべて正しいとしたら、我らが闘うのに意味は」
「ああ意味はないかもしれん。だがな俺は名家の当主だ。先祖の名を背負っているのだ。逃げれば歴代の当主の名を汚し、後世の笑いものとされよう。それだけの重責を俺は担っているのだ。(おご)るために名があるのではなく、名は守るためにあるのだよ。だから尊いのだ、名門はな」
「はは。殿のご意向、返す言葉もございません」
 ゆるやかな表情になった憲重が朝直に静かに語る。「能登守、この世には理屈だけでは判断できない、(ほこ)りという概念があるのだよ。人間が本来もつ誇りは、理屈では推し量れん。ただ誇りは人が人だからゆえ、人の心を大いに動かす」
「伯父上、俺にもわかりますよ。殿の誇りは痛いほど伝わっていますから」といい、朝直は胸をなでた。その手のうえに憲重が手をかさねる。「うむ、利口者だな。伯父とともに氏康の軍勢が来たら、勇猛に闘おうぞ。だが」
「はい、なんでしょう?」
「源五郎と鉄心は、まだ若いから、どうしようもなくなったら、逃がすのだ。若者に未来を託すのも、老将の務めだからな」
「はは。肝に銘じます」
 話を聞き終え、血色のわるくなった朝定がふらふらと横になると静かに寝入った。そばには憲重が鎮座し、かるく手をあげて指示すると、資正らは外に出る。
「能登守どの、あくまで最悪の推測でございます、あまりお気になさらずに」
「うむ。わかっておる。そうならんように願うよ」朝直がいうと立ち去っていった。
「殿、どうなりましょうな?」鉄心が心配そうに声をかける。
「わからん。ただな」言葉を発すると陽が暮れかけている夕空をみあげた。
「ただ?」
「ぼんやりだが、厭な予感がする」
 資正の眺めている茜いろの空には大きな満月が浮かんでいる。その色は空の赤みにも負けない(しん)()のいろに()られ、あざやかな血を帯びた不気味な雰囲気を(ただよ)わせていた。


十二、師弟対決
(おお)()(いぬ)()(すけ)(59)

 (のり)(まさ)の本陣では今宵宴が盛大におこなわれていて、陣中に招き入れた遊女らと戯れる者や酒に(おぼ)れる者、神楽(かぐら)に興じる者など闘いを忘れた将兵たちで、あふれかえっていた。
 氏康から送られた和睦の書簡と氏康の戦意のなさで気をよくした憲政は、戦勝の前祝いとして地侍らにたいして長丁場にわたる心労の疲れを()やしてやるべく、陣中見舞いの大規模な宴会を催したのだ。
 春の夜風にあたり、犬之助はあぜ道をひとり歩いていた。だらけきった家臣らを一瞥すると暗がりを進む。
 騒ぞうしさが落ちつく。静かな荒れ地に腰をおろし、小田原のほうを眺めた。
 昼間に攻めてきて、すぐに引いていった(うじ)(やす)の本陣がある方角だ。里を抜けたのはちょうど()()()()(まる)がうまれた年で氏康といっても赤子の顔しか浮かばぬ。が、殿が大層喜んでいたのは憶えていた。
 俺にも妻と子がいた。もうとっくに昔だ、とおもったが、はっきりと顔は浮かんでいた。その微笑みに胸を締めつけられる。胸をおさえると、脈が不整に鼓動するのが感じられ、(どう)()もひどい。
 ふと顔をおとすと水たまりに満月の影と己の老いた顔が映る。顔の下半分は白い(ひげ)で覆われていて、眼はくぼみ、頬はたるみ、毛髪は色をなくしていた。憲政の腹心として仕えて早二十余り、数かずの戦功をあげてきたが、いつもどこかに後悔の念があって、満たされない想いが残り続けている。それが、妻と子を捨てた過去だ、とは重じゅう承知していたから、なお一層やるせなかった。
 一日たりとも忘れられない。
 毎夜まいよ、妻と子が脳裏に映り、背が汗ばんだら震えて朝を迎えるのだ。心労は底をつき、年ねん強まっている、「逢いたい」という想いを制御するのは、もはや無理だった。いつも思うのだ。いまにでも逢いにゆきたい。ひとめで良いから顔を見たい、願わくばいつまでも抱擁していたい。
 あぶら汗で濡れた顔を、手で乱暴にぬぐうと、無意識に眼前を見た。一瞬だったが、見逃さなかった。枯れ草が揺れたのだ。風によるのではない。あれは(はや)()けによるものだ。それもただの駈けではない。そう風間の駈けだ。
 犬之助はたつと闇の風に包まれる。歳をとり腰をわるくしたが脚はまだ健在で、駈ける術は若者には負けなかった。草の踏み加減で行く先は容易に判断できたから、追う。風をきってむかうと、影がみえたから棒手裏剣を投げる。投げた棒手裏剣が、影の背に刺さり、影が地面におちた。
 そろりと近よる。
 うつ伏せに倒れている。わが軍の足軽の恰好をしていたが、あの駈け方だ。ただの足軽ではない。
 棒手裏剣を抜き、足先でひっくり返すと、虚ろに顔を見た。月の光で照らされた顔に見覚えがあった。こいつは()(すけ)か。あの(はな)()れの猪助だ。ひどく老いている。されど弟子の顔を忘れてはいなかったようだ。「猪助。おまえ猪助だな?」
 猪助は眼をゆっくりひらき、「小太郎さん。生きていたのですか?」と乾いた声をしぼる。
「俺がそう易やす死ぬもんかよ。おまえ陣地を嗅ぎ回っていたのか?」
「風間ですから。小太郎さんはどうして敵方の装いなんかしておいでで? まさか」
「ああ、上杉家のために働いている。無様だろう」というと笑い声が止まらない。
「俺は貴方をずっと探していたのですよ。里に戻ってきてください。頭領の血脈が途絶え、風間小太郎の名はついえようとしているのですよ」
「け、知るか。血を絶やして、なにが悪い」
「無頼たちが集う風間衆をまとめるには、名が必要なのです。代だいの名が」
「ふん。どうでもいい。それに俺は、いまは太田犬之助っていうんだ。小太郎の名は捨てた」
 猪助が息を整え、身をおこす。土をはらうと顔をこわばらせ、「小太郎さん、俺は」と呟いた。
「ああ、来いよ。敵同士仲良く、昔話なんざ、なんかの(きよう)かね」
「できればやりたくないのですが、これもなにかの」
「ああ、そうよ。気にするな」
 両者の影が揺れる。互いの棒手裏剣が宙ではじかれると揉み合いになった。互いが互いの顔を殴り合い、荒れ地を転がる。もはやどちらかの顔がつぶれて、最後に意識がとぶまでの喧嘩だ。まぶたは赤黒く()れ、鼻は折れ曲がり、口からは血が噴きだし、顔がかたちをなくす。
 一刻ほど果てしない殴り合いが続くと両者が殴りつきて地に倒れた。一方が揺ゆら立ちあがり、脇差しを抜くともう一方の(のど)元に刀さきを突きたてる。
「やれよ」というと猪助の刃さきがとまった。「おまえの勝ちだ」
「小太郎さん、俺は」猪助がいうと、「あんたとの決闘には勝ったが負けた気分だ」と弱よわしく息をはく。
「ああん、なにいってんだ、てめえはよ。殴られすぎておかしくなったのか?」
「いやちがう。俺はあんたに憧れていた。だから、なにかであんたに勝って認めてほしかったんだ」
「だから勝っただろう。殴りかったんだよ、てめえは。現にとどめを刺そうとしているだろうが」
「だからちがうんだ。老いた小太郎さんに殴り勝っても、俺が少し若かっただけでおなじ年なら負けていた」
「なにいってんだ。決闘に勝ったからいいだろう。つべこべいわず、はやくやれよ」
「いや待ってくれ。こんなのは勝ちではない。不本意だ」
 おだやかな表情になった犬之助が、「ふ」と笑うと諦めた表情になって立ちあがった。
 なにも、いわない。
 おまえ、わかるよな。瞳の奥がぼやけた。いまからなにをするか、俺がなにをしたいのか、わかるよな、猪助。猪助が不思議そうな顔で瞳をのぞき込んできて、はっとした。「小太郎さん、あんた」と猪助がいうのと同時に、小太郎は駈けだした。意表を突かれた猪助が慌てて追ってくる。
 脚はまだまだ若かった。むしろ洗練され、若い時分よりも、よく駈けられた。若い猪助に、まず負けないだろう。負ければ、それこそが本当の敗北だ。猪助は気づくだろうか。まあ気づいても気づかなくてもどうでもいい。
 いまはただ駈けたい。死ぬ前に駈けたいのだ。それでいいではないか。脚はもはや意志とは別に駈けているのだ。
 どこに、むかっているのか。そりゃあ無意識だ。意識を伝えるまえに脚は駈けている。俺もわかりっこない。考えるのも莫迦らしいよ。
 駈ける理由を求めるのにどれほどの意味があるというのだ。駈けたいから駈ける。ただひたすら駈ける。遠に身体は風に溶けこみ、もうこの世に戻れないのは感覚としてある。己の肉体も景色の一部となり、光のなかに吸いこまれていた。
 おどろいた。猪助はまだ離れずについてきている。
 互角か、あのできそこないの弟子が俺と対等か。あいつも努力したのだな。何千何万と駈け続け自分らしい駈け方を見つけたのだろう。
 あたたかい光に包まれる。
 もはやこれまでか。俺の役目もここまでだ。最後に、さいごに逢いたかった。松よ小次郎よ。まばゆい光が闇にかわり意識が深層に沈む。駈けてもおわらない永遠の闇の道がどこまでも続いている。 


十三、東明寺口合戦
太田源五郎資正(24)
 
 ほら貝の音だ。
 南方より火の手があがる。大地をゆらす蹄の騒音が響いてきた。夜はふけり、空気は透明に澄んでいたから音に雑音がなく、じかに耳に届いてきたのだ。慌ただしく陣営より、外に出た(すけ)(まさ)は、(のり)(まさ)の本陣の方角を眺める。(てつ)(しん)が戻ってきた。「殿、(うじ)(やす)です。氏康が管領どのの本陣に夜襲をかけました」
「まさか本当に夜襲をかけるとは。氏康とはそれほどに軍才に長けた男なのか」
「どういたしますか?」
「どうするもなにも応戦だ。殿に伝えるぞ」というと、後ろより、白装束すがたの(とも)(さだ)が、太刀を引きずりやって来た。
「殿、そのようなお恰好で」資正がいうと、「かまうな。甲冑は重くて着れぬ」と朝定がにやりとほほえんできた。「源五郎、おまえのいう通りになったな。まさか本当に夜襲をかけてくるとは」
「はは、私とて推測でございましたから驚いております」
(けん)(そん)するでない。おぬしの(けい)(がん)、みごとだ」
「滅相もございません」
 (のり)(しげ)(とも)(なお)が、早足で来た。朝定が言葉を手で制すると伝える。「皆に伝えよ。武器をとり、攻めてくる氏康の軍勢をむかい撃てと」
「はは」憲重と朝直が顔色をかえて走り去った。猶予はなかった。憲政の本陣も直に落ちるだろう。氏康の軍勢に(じゆう)(りん)され、跡形もなくなるのは、容易に想像ができた。(なが)()(しな)()(のかみ)(なり)(まさ)も憲政を陣中から逃がすだけで、ほかには手が回らんだろう。
 東にかまえる(はる)(うじ)の陣も(やな)()(かわ)()(のかみ)(たか)(すけ)、その子の(なか)(つかさ)(たい)()(はる)(すけ)ら忠臣がいてもおなじく敗走の支度でやっとだろうな。
 ここに敵が来るのもしばらくか。資正は甲冑に身をつつむと足軽の(なにがし)を呼んだ。呼ばれた某が来た。
「某よ。直に敵兵が押しよせてくる。ここは激しい戦地とかわるだろう」
「おう。で大将、俺はなにをしたらいいんで?」
「おまえは小柄ゆえ脚も速いから、戦地を駈け回り、敵の侵攻をかき乱せ」
「わかった。駈け回って、手当たりしだいに敵兵を斬ってゆけばいいんだな」
「まあ、そうだ。できるだけ敵の勢いをなくせば、活路も見いだせるだろう」
「おう任せておけ」と某が威勢良くいうと闇にきえた。
 しずかだ。ただ地面に手のひらを当てるとその伝わってくる振動はしだいに大きく、はっきりとしてきていた。かなたより殺気が光った、とおもうと、おくれて蹄の音がやって来た。ふと眼を細め、遠くを眺めると、血気盛んな騎馬が、こちらに駈けてくるのがみえた。
「鉄心、もう来たようだ。この神速。さすがとしかいいようがないな」
「はい、敵にして天晴れですな」鉄心が空に散って、跳躍した残像は篝火のなかに溶け、夜空に姿をなくした。
 資正は手に槍をもつと馬にまたがり敵騎にむかって突進する。槍を振り回すと馬上の敵兵の首が闇にとび、首から下をのせた馬は意志がない?《むくろ》のように影が走りさった。
 乱戦だ。
 だが敵味方の区別はついた。大篝火に照らされた敵兵の頭部には白い布が巻かれていて、敵と判断ができたのだ。(ちゆう)(ちよ)なく、敵兵につっこむと、槍で胸を突き刺し、殺す。
 ただ勢いがある。
 敵方の兵らの顔には、必死さがにじんでいて、闘志に満ちていたのだ。かたやこちらは、突然の夜襲で気持ちがついていないのか。顔にはどこか悲哀が満ちていて、互角に闘えるほどの戦意が感じえなかった。
 孤軍奮闘だ。
 槍を際限なく振り続けていても、徐じょにおされはじめていた。槍で敵兵を突き殺しても次から次から精兵が沸いてきて殺意をふくみ襲って来る。槍さばきには、かねてから自信があり個としては負ける気配はなかったが、群としてはどうか。冷静に分析し、槍を振り回す。あたりを気にしている余裕なんかなかったが考えずにはいられない。資正がくり返し熟考する結論はおなじだったからだ。
 当軍の敗北。それも大敗北だ。
 どう考えてみても、状況から勝機が見えない。勝ち目がないのだ。血しぶきをあび、槍で敵を突き、戦の暗い結末に絶望する。
 なぜこうなった。大軍がなぜ小軍にやられる。当初より勝てた戦ではなかったのか。なぜ負けないといけない。
 そんな理由なんぞ、頭では重じゅうにわかっていた。だからこそ、やるせない。敵の首をどれだけ幾千に、はねようとも気持ちが晴れるどころか淀みに包まれる。
 前方より二騎やって来る。
 頭部に白い布は巻かれていない。味方だ。みれば(なり)(まさ)(のり)(まさ)だ。笑みをたたえた業正が近づいて来る。「おお、これは太田どのか。いちどお逢いしたく思っておりましたぞ。道灌さまのご高名、上州の地でも語り草になっておりますよ」
「いやはや、滅相もございません。こちらこそお逢いしたかった。あなたほどの名将といつか、昔話なんぞ語らいたい、と夢見ておりました」
「これはこれは。私もぜひ機会があればと常づね考えておったのですよ。互いに気があいますな」
「誠そうでございますな。光栄に至ります」
 憲政が言葉をはさむ。「いまは会話をしているばあいではない。敵は私の命を狙っているのだ。信濃守、(ひら)()城へ急ぐぞ」
「はは。かしこまりました。命に代えて道中、お守りいたします」
「ふむ当然。では行くぞ」憲政が去ろうとしたら、こちらを(いち)(べつ)し、「太田とやら、敵が追ってこぬようにここで固く守り通せよ」と念をおしてきた。
「はは。命じられるままに」と深ぶかお辞儀をし一行を見送る。
 振り返った業正が軽く一礼をして、急かす憲政と駈けだしていった。
 なおも敵兵は勢いをうしなわず襲いかかって来る。味方敵方の死骸が転がり続け、あたりの斬り合いが収束する気配はなかった。もうどれほどのときが経ったのか。そらには月がまだ出ていたから、夜はあけてはいない。血の匂いが充満し、嗚咽をし、敵の騎馬隊を突きおす。足場がないほどに埋め尽くされた陣地は、おぞましい光景だ。念仏を唱える間もなく殺気を帯びた敵兵が斬りかかって来る。ひたすら刃をかわし、槍を突き刺し、しずかな屍体が足場をなくす。
 背に悪寒がしたから、前を見た。「あれは」といいかけ、高い声をなくす。
 氏康だ。
 間違いない。あの不敵な笑みをたたえた顔を一生忘れない。逆賊、氏康だ。
 となりには、赤い頭巾を被った重臣の()()()()(のしよう)(ゆう)(つな)(たか)がいた。馬を併走させ、こちらに来る。拳には自然に力が入った。ここで奴らを討てば、この戦に勝てるぞ。この勝機、逃がすはずがない。そうおもったら脚が駈けていた。
 不安定な足場を進み、駈けだすと槍を突きだし、がむしゃらに突撃する。こちらの進撃に気づいた綱高が氏康のまえに出ると(なぎ)(なた)で応戦してきた。槍尖が薙刀ではじかれると、綱高が薙刀を振りあげ頭頂を狙ってきたから、すぐさま後ろにひらよける。
 落とされた薙刀は地面をえぐりとり、ふたたび薙刀が天高くかかげられると、高揚した綱高がこちらに、むかって突進してきた。槍は地面におちていたから、後ずさりし、足先に引っかかった弓と矢を跳ね拾うと、即座に構え一矢放つ。放った矢はまっすぐ、綱高の額に飛んでいったが、綱高が姿勢を崩して馬から落ちると、矢は遠く闇にきえた。
 地面におちた綱高が(せき)(ばら)いをし、泥をぬぐい、薙刀の柄を右手でにぎりしめた、とおもったら、馬上の氏康が降りてきて肩をたたき動きを制すると声をあげた。「なかなかの腕前。おぬし名をなんと申すか」
(おお)()(げん)()(ろう)
「太田。あの名門の太田家の人間か」氏康が声をあげ、笑いだした。「道灌の子孫。わが一族の因縁の相手というか?」
「そうだ。太田家と伊勢家は因縁同士。逆賊を討つのが、俺の使命なのだ、氏康」と叫ぶと顔を真赤にした綱高が薙刀の柄に左手をのばしたが氏康が言葉をかぶす。
「面白い。源五郎とやら、その決意まこと気にいったぞ。まさに忠臣ではないか。でな」
「なんだ?」
「敵としては誠惜しい」氏康がやさしく問う。「俺に仕えないか? そなたのような忠臣、わが北条家には必要なのだ。どうだろうか?」
「愚問」(とつ)()に弓を構え残りの矢を放つ。矢が速度をあげて氏康の額にむかって飛ぶ。
 氏康の額に、矢が刺さった。確かにそう、おもったのだ。
 だが氏康は、生きている。
 綱高に脚を蹴られ、体勢を崩した氏康が、腰から地に伏して倒れていた。
 綱高が氏康をおこすと、かつぎ、馬のうえに上体を乗せた。馬の尻を蹴り飛ばすと、うなり声をあげた馬が駈けだしていった。綱高がこちらをにらむ。「若君は、こんなところで死ぬお方ではないわ。まだやらねばならないのだ。おぬしの武芸、誠にもったいないが、ここで討ち取らせていただく」と息をおくと、綱高が薙刀を頭上で振り回し、近づいてきた。
 弦が切れた弓を捨てると(わき)()しを抜き構える。薙刀は風を切って速度をあげ、刃尖がみえなくなったら、こちらに風が来た。前に構えた脇差しの刃がはじかれる。手から太刀が吹きとばされた。素手になった資正は拳を握りしめる。
 足裏に力を入れると駈けだす。
 胴につかみかかり綱高の踵に足先をかける。姿勢を崩した綱高は薙刀を手から滑らせ、そらに旋回し舞いあがる薙刀を見ながら地に倒れた。
 隙を見逃さず、(のど)もとに拳を突くと、綱高は()(えつ)し、口から唾液を吐きだし、息が苦しんだ。
 拳にさらに力をこめて、脇腹を渾身の勢いで殴り砕く。骨の折れた音が、拳に響いてきた。
 拳を空にかかげ、顔を殴ろうとしたら綱高の表情がおびえきった童のようにゆがみ、武将ではなくそこには、恐怖にふるえる一人の男がいた。
 (ちゆう)(ちよ)する。
 拳を耳のすぐ横におとすと、綱高は口からあぶくを吹き、白眼になる。意識をうしなった下半身のゆるんだ股間から、湿り気をふくんだ湯気がたち、濡れた臭みが鼻をついた。
 さっと立ちあがる。
 あたりの乱れた戦場は、激化し、敵味方関係のない殺し合いに発展していた。無慈悲な殺戮が、淡たんと繰りひろげられていた。
 風が吹いた。
 ふと眼をおとすと、綱高がいない。風間か、とおもうと、冷静になった。
 殿は。「殿はどちらに?」修羅の喧騒のなかを駈けぬける。中央の講堂にむかうと、入り口の石段に腰をかけている朝定を見つけた。太刀を地に刺して、もたれている。
 殿と声をかけようとしたら口をつぐむ。朝定の顔は白い。血のいろはすでにない。やすらかに眼をとじて、口もとはやさしくほほえんでいる。
 致命となった外傷はなかった。
 最後まで闘い抜き、病に没したのだろう。なにせ、その死顔は満足げであったのだ。
 誇りを守り通した男の顔だった。
 両手を合わせると、眼を閉じて深く拝み、沈黙した。
 ここに、「(とう)(ほう)(めつ)(ぼう)」となった。道灌が予言した光景を、その子孫の資正が見とどけた。
 残すは、「(せん)(ぽう)(めつ)(ぼう)」だ、と。逃げた氏康をおもった。
 朝定の首をはね、布に大事に包み、懐にしまう。もはや本戦に大義はない。撤退のときであった。指笛を吹き、鉄心を呼ぶと、「全軍に撤退の指示を」といい、(こと)(づて)を陣内に走らせた。
 間もなくして陣地に陣太鼓が鳴り響き、入間川を渡ったさきの街道に続く堅城松(まつ)(やま)城をめざし、軍勢の後退がはじまる。
 だが、敵の追撃は止まず、味方の兵らは、()()による進軍の渋滞を狙われ、街道にのび、細長く(たお)れる。戦意をうしない、逃げおくれる兵らの悲壮な顔を見、歩みを進めるしかない。
 戦友らを拝み、不思議に感じた。(いわ)(つき)(しゆう)のなじみの顔がなかったのだ。岩付衆はどこにいった。資正は歩み、兄の顔が浮かんでいた。兄はどこにいる。兄は戦に参加したのか。兄はどこだ。
 まさか、とおもうと資正の動きが止まった。
 兄はひそかに氏康に内通していたのではないのか。逆賊に力を貸したのでは。なれば不忠。一族の恥だ。
 そこまで考えると意をきめて、鉄心の耳元に近づき、小声でささやいた。「鉄心、兄についてだが」
「はい。どうしましたか?」鉄心も小声で返事する。
「氏康に内応した懸念がある」
「まさか。ほんとうですか?」
「ああ、そうとしか考えられん。だからな」
「はい。なんでしょう?」
「兄上」資正の表情が厳しくなった。「いや(すけ)(あき)を殺せ」


   第四章 新たなる希望


一、常夏のかりそめに咲く君
(うめ)(16)

 (そう)(はつ)には所どころに白が混じり、笑った眼尻には、深い(しわ)があったから初老の男の雰囲気をおもわせた。が、くぼみの奥にある眼光は静かにつよく輝いており、(きや)(しや)な身も引きしまり剛直で、開かれた手のひらは女人のようにやさしく、手技は未熟であったから、少年の青臭い面影もあった。
 とくに語り口には親しみがあり、同年代の若者と話しているのに近かった。自然と会話は余所よそしいものから砕けたものになっていった。梅は男に抱かれ、恋人のように会話を(たの)しんだ。
「あなた、旅のかた?」
「まあそんなとこかな。主人に付いてこの地に来たが、好きに物見でもしてこい、といわれたから街をぶらぶらしてた。脚が疲れたから、川を見、腰を落として休んでいた」
「ふうん、じゃあ、流れてきた(なでし)()の花を拾ってくれたのは、暇だったから?」
「暇というか、ご主人は花が好きだから、思い立ったのさ」
「まあ、でもありがとう。あなたが拾ってくれなかったら瓶が寂しいままだった」
「それはどうも。あとすまないね。川の中まで来てもらってさ。なさけないよ」
「お互い様よ。あなたは私が摘んだ花を拾ってくれた。だから川底の沼に足を取られたあなたを助けるのは道理じゃない」
「すまない。君もこけてひどく()らしてしまった」
「いいの。()(おけ)で私とあなたの小袖を乾かしているから、今晩中には乾くよ。それに」
「それに?」
「お互いが濡れたからこうして、私たちはひとつの寝床で愛しあっているんでしょ」
「それもそうだが」そういうと男と梅は唇を合わせ激しく交じり合い、朝まで吐息を交わし続けた。男を愛していたが、この恋は一夜かぎりのかりそめだと互いに薄うす気づいていた。だがお互いが気づかぬふりをし、いまは情慾のままに深い愛に染まっていって無垢な布を濡らした。

 早朝に眼を醒ますと、男はすでにいなかった。干していた私の小袖がきれいに畳まれて、火桶のちかくに置かれている。
 ぼうっとした。
 足下の撫子があてがわれた瓶を見れば、悲しくうつむきしなびてしまった撫子が枯れてあった。なぜと思い、瓶を持ちあげると笑みがこぼれ、声が漏れた。「なにやってんだか」瓶から干からびた撫子を抜きとる。瓶の暗い底をのぞき込む。「水」
 熱い額を右手で押さえ、腰に左手をあてると、男の壮健な顔が浮かんで哀愁を感じたら悶え、立つ力をなくして寝床に横になる。そのわずかな温もりを感じようと、いつまでも柔らかい布に頬をこすりつけ、手に握った花の香りと汗の臭いの混じった芳醇な匂いをかぎわけ、昨夜の夢のようなときを潤んだ瞳で思いだしていた。


二、山風の子  
夜作(15)

 やまのかぜが吹くたびに心が満ちてきて、腹で深く呼吸すると、静かな気持ちになる。山脈の草原に寝転ぶのが、昔から好きだった。昔とは、いつぞやか。
 物心がついたときから山のなかにいた。父や母の顔は憶えておらず、(おに)(まる)()いても、どこかで拾ってきた、というだけの曖昧な返事で、しつこくせがむと、ぶたれるのがお約束だった。
 ただ、寂しい、とおもったのは一度もない。
 賊徒の兄さんらが一番下の子として可愛がってくれ、いつも甘えると頭をなでられ、これもしつこくやると、ぶたれるのがお約束だった。賊徒の一員として兄さんらに付いて、盗みや殺しの腕を磨いていたが、なぜだか知らないが、気づくと兄らを抜き去り、腕前は鬼丸に次いでいた。
 鬼丸をほんとうの父親のように尊敬していた。
 ほんとうの父親を知らないから、これがほんとうの父親を尊敬するような類いなのかはわからないが、たぶんそれだけの尊敬はしていた。
 鬼丸を怖れない人間は、この世にはいない。
 鬼丸が(ほう)(こう)をあげれば、対面した男は身動きできず、放たれた拳を一撃うけて、あの世だ。
 盗みも抜け目がない。部下が見逃したお宝を見つけ、()()するのは常だ。女も好きに抱き、部下らには役に立たなくなった壊れた女を与えるだけで、自身は常に新しい女を欲し、村里を襲っては夜なよな奪った女の味を愉しみ、飽きず朝まで抱き尽くすのだ。
 そんな鬼丸にあこがれていた。いつかは鬼丸のようになりたい、とおもっていた。己の力だけで全てを手に入れる。誰にも文句のいわれない権力を欲した。
 されど、わかっていた。
 鬼丸のようになれないとわかっていた。なにかしらの()(じゆん)のようだったが、なりたい理想だったが、なれないとあきらめていた。
 自分らしくない。
 素養のある若き力を内に感じていたが、父のような(ごう)の力というよりかは、誰かを守るために発揮する(じゆう)の力なのだ。
 だから鬼丸がほんとうの父親ではないとわかっていたし、鬼丸のようになれないのはわかりきっていた。だからといって、鬼丸を軽蔑していない。
 ただただあこがれの対象で、尊敬しているのが真実だ。
 ()(さく)は寝転び、眼をつむると風の匂いをかぎ、風につられて、おもむろに立ちあがる。
 闇のなかで、むかって来る風を感じると、風にたいして拳を突きあげた。拳は音をたて風をきる。風を追い、逃げた風を脚で蹴りあげ、また風をきる。風と(おど)っている。
 風が赤く、さわぎだす。
 あたりのやまの風がざわめき、山が大きく躍動し、おびえるのを感じた。風たちが共鳴しあっている。
 ただならぬ風を肌に感じとると、闇を凝視し、猛だけしく勢いをあげて迫って来る暴風にむかい一点、(こん)(しん)(いつ)(てつ)の右突を繰りだした。瞬間に拳に激しい衝撃が伝わってきたから、眼をひらくと、闇から現実にひき戻される。足下に黒い巨体が斃れているのを認めた。
 熊だ。
 足さきで、ひっくり返す。
 (あご)が砕け、ゆるんだ大きな口と歯のあいだから(よだれ)を垂れ流した、だらしない熊の顔があった。
 赤紫いろに拳が()れあがっている。激痛は過ぎ去り、感覚は遠になくなっている。熊の死顔を見、現実を理解すると、へなへな腰から崩れおちた。
 俺がやったのか、ほんとうに。
 熊を拳で殺すなんか、知らない。斧一本で熊と闘った勇士のうわさはあるが、拳で殺したなんかありえるのか。
 ただ実際に熊が死んでいたから、そうおもうしかなさそうだ。俺が熊を、拳一発で仕留めたのか。
 鬼丸じゃあるまいし。
 夜作は、熊の屍体のそばに視線をおとした。すぐそばに、(つぶ)されずに生えていた花があった。
 手で()むと、匂いをかぐ。やさしい香りがした。
 おまえが俺に助けを求めたのか、と莫迦を考えていたら(あん)()し、いきなり腹がなった。死んだ熊が、新鮮な肉の塊にしか見えなくなっていた。


三、炎舞
茜(15)

 夜空のした、(かがり)()のまえに立たされている。
 背に感じる火の熱さで、内より汗ばみ、周囲の光景に息を飲みながら、心臓は鼓動を速めていた。(あかね)は、伊勢方本陣の広場にいた。篝火を中心に百を超える弓武者らに囲まれ、矢尖をむけられ、眼のさきにいた氏康の子氏(うじ)(まさ)に、真贋の見極めの問いを受けていた。
「はるか西国から来た芸人の旅団と物見に聞いたが、誠か?」
「はい、その通りでございます。戦地を渡り歩き、戦勝祈願をし、その(ほどこ)しで皆を養っております」
「ふむ大層な。山のしたで野営している四五十名ほどいたか、あの女ら皆が芸人なのだな?」
「ええ。私と共に神楽を舞う(まい)()です。もとは(いくさ)()()で夫を亡くした妻らで、行く当てをなくし、飢えていた女らですが、私が養い育てあげ、いっぱしの芸人としたのです」
「ほう、おぬし若いのに苦労をしてきたのだな」
「いえいえ、乱れた世の中とはいえ、これしき人の道理でございましょう」
 氏政が頭を大いに縦に振ると、手をあげて、囲んでいた武者らの緊張をとき、その場に座らせた。「わかった。では、ちと舞ってもらえるかな?」といった氏政が、あたりを見回し、両手をひろげた。「戦が長引いて皆、ごらんのとおり殺気立っておる。疑り深くなっていてすまんが、皆みなを納得させてもらえぬか?」
「お気になさらずに、しごく当然でございます」深呼吸し、背筋をのばして両手をひろげた。「では皆さま、わが舞、とくとご覧あれい」と茜はいうと、着ていた羽衣を肩から足下に、さっと脱いだ。
 一糸まとわない妖艶なすがたになる。
 髪を結っていた(くし)を右手でひっこ抜き、ひろがった長い髪が背中半分を隠す。
 指さきで櫛のすきまをはじいたら、半円形の扇にひろがった。扇のさきには、七つの小さな鈴がついている。
 扇を天にかかげ、軽くなんどか振ると凜とした鈴の音が響いた。
 白い頬のうぶげが火にあぶられ、毛にまとった汗が薄らにじむと水滴になった。瑞みずしく輝きながら首筋を流れ、ふたつの青い(ふさ)に伝わる。甘い汗の影が細くのびて、陰から一粒滴(したた)った。
 冷たい(しずく)が、乾いた地面を点てんと濡らしてゆく。
 弓武者らは眼前に現れた神聖なる女体に覇気をなくし、腰を震わせ耐えていた。
 鈴が、ひとつ鳴る。
 ゆったりと胸が右に回り、赤く燃えた肌のかたちが(うごめ)いた。また鈴が鳴れば左に回り、赤く火照った胸が静かに弾んで揺れた。
 百の将らの心は夢想に包まれる。
 瞳は潤み、表情が澄む。故郷の百姓に、帰っていった。
 徐じょに右へ左への旋舞の速度を増してゆく。
 なんどか短く跳躍し、首を左右に激しく振る。鈴の音にあわせ、髪は乱れ狂い、地に足裏がつくたびに腰が上下に弾む。
 肌は淡く熱を帯び、吐く息は荒い。声は艶を含み、しっとり濡れてきた。
 身体が燃える。
 ねじれて、(みだ)らに(もだ)えた。もはや、(こう)(こつ)に満たされ、眼球が(まぶた)の裏を仰ぎ見、意識が高く遠い。あやうく自我がきえさりそうになった。
 体内から()れ出る慾情に身が(むしば)まれ、桃色に(じゆく)した肉体が湯気をあげる。
 生ぬるい湿り気を感じ、絶頂に達した。歯と舌のすきまから漏らした吐息が、あえぎ声にかわる。
 快感に支配された。腰が(しび)れ、背が()る。
 股が大いに広がり、膝が折れて体勢を崩した。後ろに肩から地面に倒れる。
 開脚したまま(しお)をふき、胸を突きあげて天を仰ぐと、動きが固まった。
 眼を見ひらいた氏政がさっと立ちあがると、「見事」と大声で叫びながら近づいてきた。腰をおとし、肩を抱きおこされ、「疑ってすまぬ、すばらしい舞だった。さあ、ほかの者を連れて参れ。()(よい)は久しい(うたげ)にしよう」とやさしく声をかけてきた。
 (のぞ)いている氏政の顔を見て、慈愛の表情に気づけば、急に恥ずかしくなる。から、さっとおきあがった。「ありがたき幸せでございます。一夜奉仕させていただく上、なにとぞよろしくを」と、そそくさと応じた。
 砂埃で汚れた羽衣をすくいあげ、軽く(たた)いて羽織り、乱れた髪をまとめると櫛で結う。
 後から立ちあがった氏政に一礼し、いまだ夢|(うつつ)な甲冑を着た百姓らを残し、来た山道を下る。
 冷気に包まれ、熱が奪われる。肩のちからが一気に抜けた。右手が小刻みに震えるのを感じたから左手で右手首を押さえ、どうにか心を静めようとした。息を深く吐いては止め、息を深く吸っては止めを、くり返した。
 己の役目を無事に果たした。計画どおりだった。
 (みこ)らと馬十頭を、正面より堂どうと、運び入れられた。だが、これからだ。まだ先は長い。
 きっと今夜は、長い夜になるのだろう。そうおもうと、茜は自然と坂を駈けおち、かけ足になっていた。


四、忘却の郷 
茜(10~13)
    
 (きつ)(おん)がひどい。
 頭に浮かんだ言葉を発するのに、しばらくの時間がかかった。おなじ寺に通っていた(やから)は、不気味に感じては遠巻きに仲間たちと悪口をいい、笑いの種にした。頭にきた茜は、なにか言い返そうと、反論の言葉を考える。
 ようやく、発する言葉が浮かび、発しようとしたら、輩はすでに、立ち去っていた。(アカンネ、ナイ。アカネアカネ)
 ひとりでいつも、己のとろい口さきを恨み、行き場をうしなった言葉を、心の底にしまう。やりばのない感情を、頬を平手で打っては緩和するのだ。
 (あかね)は、いつもひとりだった。
 ひとりでいるのは嫌いじゃなかったから、気にしてはいなかった。だが、同輩らの輪を見ていると、自分も自由に喋り、皆と笑い合いたい、というひそかな思いもありはした。
 ただいつも鈍い口がじゃまをして、もはや自由に語らうなんて夢の話だと(あきら)め、水たまりにできた輪の紋様が消え去る様を静かに眺め、夕空の時間をつぶすしかなかった。

 そんなある日、めずらしく同輩のひとり、武家の跡継ぎの(もも)(すけ)が声をかけてきた。
「茜、知っているかい?」
 いつもとちがう態度の百助に、茜はとまどいながらも、適切な返事を探し、静かに考えた。
「知らないようだから教えてあげるけど、言葉が出にくいのって(やまい)なんだぜ。そうだ、治せるらしいよ」
 えっと、身体が硬直した。病なの治るの。ほんとうなの。
「ふむ、治し方を教えてほしい、とな。じゃあ耳を貸して」
 茜は、百助のあかるい笑顔に疑う余地はない、とおもい、百助の口もとにそっと耳を近づけ、息をのんだ。
「僧の精を飲めば、言葉が流れ出るらしい。考えてもみな、僧って(りゆう)(ちよう)に説法したり、経を読めたりできるけど、あれって僧らが夜なよな互いの()()を吸ってるからなんだぜ」
 そうだ。確かにそうだ。僧たちは皆、口達者だ。それに僧らが夜になると抱きあって夜を越すと、噂があった。
「どうだ納得いっただろう? 一度試してみたらいい。茜、(しやべ)れるようになったら、皆で語らおうぜ。待ってるよ」と笑みをたたえて手を振ると百助は走り去っていった。
 百助の親切さに、眼の奥がじんわり熱くなった。
 こんな方法があったのか。いままで知らなかったなんて莫迦みたい。
 治そう。治してみんなと自由に喋りあいたい、とおもうと意を決した。
 陽が落ちかかった道さきを見て清すがしい気持ちになると、寺を目指し歩き始めた。
 寺に着いて薄暗い講堂に忍びこむと、さらさら廊下を歩き、僧らが寝る部屋を探す。灯がもれた一室より僧らの低い声が漏れていたから、ゆっくりと戸をひらいた。戸の隙間より中をのぞくと三人の僧らが乱れるように交じり合い、貪慾な獣のようにうごめき、肉体にしゃぶりついていた。
 よく見ようと戸の隙間に更に顔を近づけると鼻さきに腐敗した異臭を感じ、意識せずに吸ってしまうと口内でむせて乾いた咳をした。茜に気づいたのか。手前にいた痩身の僧がこちらを見た。ほかの僧らも動きを止め、見てきた。
「なんだてめえは?」と痩身の僧がいってきたが、なにひとつ返す言葉が浮かびもしない。「なんかいえよ」
 必死に考えた。僧らの瞳は微動だにしない。しばらくの沈黙のあと、ようやく言葉が現れ、唇のあいだから言葉をひねりだした。
《マラ、ホシイ)
 僧らは互いの顔を見合わせ、首をかしげると沈黙し固まった。僧のひとり、ひときわ巨体の僧が、はたとなにかに気づき、面長の顔に笑みを浮かべるとほかの僧らに耳打ちをした。ふたりの僧らは合点がゆき、口元に暗い笑みをうかべるとこちらに眼をむけてきた。
「さあ、おいで」巨体の僧が手招きをしたから歩みよる。腕がのびてきて身がからめとられると、僧らの中心におろされ、とり囲まれた。
 麻羅、愛撫、発精。麻羅、愛撫、発精。麻羅、愛撫、発精。
 麻羅、麻羅、麻羅。愛撫、愛撫、愛撫。発精、発精、発精。
 発精、発精、発精。発精、発精、発精。発精、発精、発精。
 ごくり。唇の(しずく)をぬぐった。
 無邪気に笑う。疲れきった僧らに頭をさげた。巨体の僧から駄賃をもらった。なんだか得した気分になると、嬉きと家路についた。
 翌朝、一向に言葉が出てくる気配がなかったから、その夜もその次の夜もと、あししげく、僧らの寝室を訪ねては、やさしくむかい入れられた。
 苦みに耐え、時間をかけて飲みこんだ。なんだか幸せな気持ちになった。

 半年が経ったある夜、終えて帰ろうとしたら、廊下の薄がりで話し声がきこえたから、耳を澄まし、柱の陰にかくれた。薄目で窺うと、巨体の僧と、百助がいた。
「旦那、どうですかい?」と百助がたずねる。
「いやはや、ありがとうな。弟子二人も大変満足しておるよ。これほどの快楽は(しゆ)(どう)では決して得られんからな」
「それはそれは、よかったです。で、勘づいていませんかい?」
「ああ、ないよ。今日もたっぷり飲んでもらった。疑うどころか、なんどもなんども感謝されたよ」
「ほうほう、それはそれは。よかったです、ほんとう。すっとしますよ。むしゃくしゃした心が晴れるようです」
「ふむ、おまえもわるい奴だ。親父さんに似てな」
「そんな褒めないでくださいよ。まだまだ親父ほどじゃないですよ。まあなんだかんだありますから今後もごひいき、よろしくお願いしますね」
「ああ任せておけ。おまえらとは長い付き合いになりそうだから、こちらからもよろしく願うよ」
「滅相も」と、百助は静かに笑う。
「それにしても良い嘘を思いついたな。まさか僧の精が発声にきくとは。信じるほうもだが、いうほうもだよ」
「はは。これは私の(てん)(ぴん)ですわ」
「ふふ、言葉遅れなぞ、時間が経てば多少は良くなろうにな」
「おっしゃるとおり。それまでじっくりと娘が発育するさま、夜の(きよう)(たの)しんでください」といい終えると、互いの肩が震えだし、ついには耐えきれず大笑いし、声を響き渡らした。
 (うそ)(だま)されていた。ずっと騙されていたの。
 嘘よ。頭のなかが真白になる。(さい)(あく)
 手に握りしめていた銭袋を落とすと、駈けだしていた。床に落とされた銭袋から漏れた銭は、一夜の遊女に払う対価にはほど遠く、道端の物乞いに渡すには、最低限だった。
 暗闇のなかを駈ける。
 莫迦みたい。ただの莫迦じゃない。なにしていたの。いままで、なにしていたの。なにをしていたの、答えて。
 そうおもうと力が抜けて、その場にしゃがみこみ、背を丸めてうずくまり考えた。哀れな自身を(なぐさ)める余裕がないほどに瞳は乾いていた。
 口元に手を当て、(かす)かに息を吐く。汚らしい男の臭いが、口内に立ちこめると、眼がかすみ、こめかみに痛みが走る。眩暈(めまい)がして、中腰の姿勢が軽くよろけ、耐えられない吐き気を催した。足先にさんざ(おう)()した。のどの奥に指をつっこみ、ひっ掻きまわし、嗚咽するべき穢れた異物がなくなるまで、ひたすらに吐き続けた。汚物はどろとした生き物ように濡れひろがった。
 赤い血が一滴混じると、うろたえて肩張りがなくなり、腕で脚を抱いては座ったままだった。
 夜の風をおもいっきり、吸いこんだ。なんども、なんども。あたりの風を吸いつくすと、胸が冷たく静かになり、鼓動が落ちついた。
 こんなとき、なにをいえばいいのか。なにが、いいたいの。
 一向に言葉が出てこない。なぜ、言葉が出てこない。真先に言葉が、出てこないと。頭は白く透きとおり、言葉は、姿さえみせない。
 なにを考えているの。なにを黙っているの。
 さあ、いってみて。こわくないから、いってごらんなさい。
 (おび)えずにいうのよ。勇気を出して、言葉を口から出すの。
 おもいっきり、いってみなさい。ほら早く、いいなさいよ。ほら、ほら。
 情けない。涙が垂れてきた。なにも、出てこやしない。なぜ。
 なぜよ、とおもえば、おもうほどに眼から涙があふれ出し、ほんと厭になった。

 あの夜以来、もう寺には通わなかった。
 父の(てつ)(しん)は、寺通いを辞めた理由をきかず、ただ、()ける様子を見守るだけで、なにもいってはこなかった。いうべき言葉をうしなっているのだろう。
 早駈けの修練に没頭し、考えるのを忘れ、細かった脚は日にひに太く、強靱に育っていった。が、頭では過去を忘れようとも、心は過去を憶えており、心の奥底は深く淀みきり、もはや、(ひど)く歪みきった心は、いつ崩壊してもおかしくない状態だった。
 生きてゆくのが、不明瞭だ。
 いらだちは限りなく続き、みえない(げん)(えい)に拳をうって高ぶった気を発散しても、いらだちが消えるなんかありもしない。余計にいらだちが募り、身を苦しめる。なにをしても味がない。晴れる兆しのない濃い霧に包まれ、息をするのも辛い。
 毎夜まいよ、床の間で感じる奥歯のあの苦にがしい感触がよみがえると、抗うのは無意味で、空っぽの嘔吐をくり返し、生きるのを耐えるのみだ。

 二年が経ったある日、ただならぬ吐き気を催した。大股で脚をふんばり、口を大きく広げて、首をおとして下をむき、為すがままに、なにかを吐きだした。吐きだされた、なにかと眼があった。
 粘膜に包まれた、黄白色の私だった。
 ひと回り背丈は小さいだろうか。口唇を一文字にして、虚ろな眼で、こちらをにらんでいる。背をかがめ、脚を折りたたみ、地に尻をつけ、座っている。脚をかかえる腕は小刻みに震え、肌は透けて白い。
 口が少し開き、(ナミダハ、カザリナイ)と唇のかたちだけが動き、ぱっとあどけなく笑ったか、とおもうと、またたき消えた。
 (まぼろし)か。幻を視ていた、とおもった。
 ふと、唇が動くと、言葉が出ていた。「もう、泣きは、しない、だろう」
 眼をとじると、暗がりのなかに、きえた白面が、おぼろに映りこんできて、なにもいわず、ただ静かに(わら)っているのだ。
 
 
五、和平交渉
三戸駿河守景道(33)
 
 (うえ)()()()(のかみ)(とも)(なお)(あん)(どく)(さい)という男が、上杉新蔵人|(のり)(かつ)の居室に通された。武州全土を巻きこんだ大戦の発起人で、このたびは和平交渉の使者として、ここ松山城に来たと、使番から伝え聞いた。
 安独斎は床に額を擦りつけて、憲勝が来るのを待っている。高座より、安独斎の低頭を見、おなじく憲勝が来るのを待つ。
 しばらくの後、奥座より()(じよ)に手を引かれた憲勝が杖をついて来て、横に置かれた床几に腰をおろし、言葉を発した。「おもてをあげよ」
 安独斎が、静かに顔をあげると、憲勝の顔を仰ぎ見て、口をひらく。「本日はお逢いできまして、大変うれしゅうございます。日ごろの」
「うむ。前置きはそのくらいにして、さあ、要件を申してみよ」
「はは。申し上げます。本戦もかれこれ百日が経とうとしております。両軍とも疲弊しきっており、じりじりと、ときが過ぎるばかりでございます」
「して、なにがいいたい?」
「はい、これ以上の戦は互いのためになりませぬ。領民を苦しめるしかないのでございます」
「仕掛けたのはそちらだろうが、なにをいまさら」
「私はわが城を取り戻すために、(ほう)(じよう)どのにご助力いただき、戦をはじめました。これも武州平定のため」
「ふん、莫迦者め。逆賊にくみした小物が、なんと申すか。武州平定だと、笑わせるな。世を乱した輩が、なにを戯れ言を。帰れ、とっとと帰れ。一人で来た(たん)(りよく)に免じ、殺しはせんから、消え失せろ」憲勝が青筋をたて、眼光鋭く叫びたてた。「目障りだ、下僕の分際で偉そうに、虫唾が走るわ」と吐き捨て、杖先でなんども、床をたたきつけた。
 安独斎は真青になり、ひれ伏している。
「お待ちを」(かげ)(みち)が、怒声を、静かな口調で(さえぎ)る。「(しん)(くろ)(うど)どの、これは、好機ではござらんか?」
「好機だ、と。客将の(ぶん)(ざい)で、意義を申すか。こやつ、()(ろう)してきたのだぞ」
「確かにこやつは、不忠の臣です。が、このたび、民を思うがゆえに和平の交渉に参ったのです。これは血を流さずに戦を終わらせる機会なのでございます」
「だがな、俺はまがりになりにも、扇谷上杉家の当主だ。先代たちの名を受け継ぎ、守ってゆかねばならない宿命なのだ。降伏は当家の滅亡を意味するのだよ」
「お立場をお察しいたします。名家ゆえのご苦労を痛みいります。されど、いまは飢えに苦しむ民らを救うが、(じん)(せい)ではござらんか?」
「もうよい、疲れた」憲勝は杖に寄りそって立つと、侍女の肩をつかみ、奥に下がった。
 景道は、ふるえている安独斎の背をやさしく摩る。「安独斎どの、殿のお立場お察しください。戦なんぞ誰も望んでおらぬのは一緒でございます」
 安独斎がゆっくりと顔をあげると、眼をしばたたかせ、「肩入れいただき、誠すまぬ。私とて新蔵人どののお気持ちは十分に理解しております。ただ、民のために、なにが最善かを考え、いまなにをすべきかを自問するしかないのでございます。それを不忠と笑われるのならば、どうぞ好きなだけ笑ってくだされ」といってきた。
「ほう、見事な大義でございますな。このような乱れた世、時代は御仁のような英雄が現れるのを、待っていたのかもしれませんな」
「いえいえ、私のような愚直な人間なんか、時代の下僕に過ぎませぬ。真の英雄は」といいかけ、安独斎は口をつぐんだ。
「いわれますな。人の立場なぞ様ざまですから」
 景道は腰をかがめ、安独斎の手をにぎり、伏した身を引きあげ、「敵同士とはいえ、あなたの民への慈しみ、たいへん心に染みました」と、やさしく語りかけた。
「おお、なんと」安独斎の顔に、光が差した。「駿河守どの、民らが戦で血を流すなぞ、おかしい世だと思いませぬか? 矛盾はしますが、この戦、民の(たね)を守る大乱なのでございます。民の血で、民の世を切りひらく。そう、民の幸せこそが」
「誠で、ございますな」そういうのでやっとだった。去りゆく安独斎を見送り、寒空の陽のひかりのなかに消えてゆく壮士のすがたを、いつまでも眺め続けていた。
 奥の座より、憲勝の()きこむ声がした。もう一月も終わろうとしている。寒さは厳しくなるばかりで、地に張った霜は、陽のひかりをうけて、きらきらと輝いている。乾いた風が肌を冷やすと、肩がふるえ、()(かた)で苦しみあえぐ民らをおもった。
 民らにとって、この時期は秋のわずかな収穫で食いつなぎ、飢えと寒さを耐え忍んで生きながらえる暗黒だ。春は、まだ遠い。春を待ち、死にゆく乞食らが道端にあふれ、欠けた(わん)の底にある、霜のふった麦一粒をのこし、背をまるめ、凍えて死んでゆくのだ。
 景道は、安独斎の輝くような瞳を思いだした。苦しみに耐える民らは、安独斎のような領主を待ち焦がれているのかもしれない。ふと、そのような思いが頭をよぎって、まさか、と苦笑いし、去った安独斎の残像が、陽炎(かげろう)にゆらぎ、天に祈願する民らの哀れな姿が、残り火と重なると、世の(うれ)いに想いをはせた。


六、氷の城
道祖土図書助直兼(24)

 (いし)()城に居座っている武将が、()()()(おう)(のかみ)(もと)(ただ)だと伝令からきくと、(なお)(かね)はうろたえた。元忠といえば、伊勢家家老のひとりで、(うじ)(やす)と戦地を巡り、軍師としての名声は、武州の地にとどろいていた。
 かたやこちらは、名もなき土豪集団だ。田畑の耕作を得意とする、百姓部隊なのだ。
 直兼が黙って考えていると、寝床に伏した(まご)()(ろう)が話しかけてきた。「()(しよ)(のすけ)どの、なにを考えているんだ?」
「というと?」
「いくら敵が名将であれど、戦とは勝ち気にのった方が勝つと、古来よりいわれているじゃないか」
「ふむ。そうではあるが、敵将の(うつわ)の深さをはかるのも、おなじく大切なのだよ」
「なにを怯えているんだか。俺らが奇襲をかければ、城を落とせるだろうに」
「根拠は?」
「ないとはいわんが、勢いだ。俺らには後がない。だから、兵の発揮する勇猛さは勢いをうむだろう?」
「ふむ、しかしな。孫四郎どのが考えるほど、戦の勝敗を決する()(うん)は単純ではあるまいよ」
「機運かい?」
「そうだ、機運だ。わが軍が有利になり、敵が不利になる状況下で戦をしかければ、おのずと勝利が得られる。だから、よく考えねばな」
「されど、機運は待っていてどうにかなるのかい? 具体的になにを?」
「だからそれを」直兼はいいかけると、思案にふけり、無口になった。
 孫四郎が荒れ地を眺め、「それにしても、冷えこむねえ。芯から凍るわ」という。
「そりゃそうだ。もう一月もおわる。寒さはさらに厳しくなるだろう」
「いやあ、(いや)だね。寒いのは嫌いだ。ほら、水筒の水も凍っちゃっているよ」孫四郎が水筒の底をみせてきた。
 なにか、気にかかった。なんだ。水筒がどうした。そらね、一夜水筒に水をいれて放置していたら、中の水は凍るよ。当たり前だ。それがどうしたというのだ。なにも不思議ではない。
「底に固まってしまって、とれねえわ。あとで火桶であぶらねえとな」
「そうだ。溶かしたらいい。いちど凍ってしまうと、簡単にはとれんよ」というと、頭に案がうかび、孫四郎の手から水筒を奪うと、陽にてらし、底の氷の輝きに見入った。
「これだ、孫四郎。勝てるぞ、この戦」
「ええ、どうしたんだ? たかが氷で、なにをするつもりだ?」

 深夜、月の光をたよりにして石戸城のすぐちかくまで、(くさ)(かげ)に身を隠し、数十人の配下を引き連れていった。集合した配下らに合図する。配下らは背負っていた(わら)を地面におき、中心にいた直兼を大きく取り囲うように藁をたてる。
 藁を立て終わると配下らは川にむかって長く一列にのびて、背負っていた桶を手にもつ。
 川のほうから来る水の()まれた(みず)(おけ)を、空桶と入れ替え、さきほど立てた藁の囲みまで水桶を運び、水をかける。藁は濡れ、ひとしきり濡らしおえると直兼は配下らをまとめ、陣地に引きかえす。
 陣地に戻ると、孫四郎に声をかけた。「明日早朝、奇襲をかける。まあ見ておれ」
「そうか、やっと出番か」
「待てまて。孫四郎どのは留守だ」
「否いや、俺も闘うよ。待ってくれよ。こちとら」
「なにをいう。脚がないのに、どうやって闘うのだ? 考えろ」
 孫四郎は、うしなった脚を見た。そう脚がない。歩けないのだ。戦場にゆくことすら叶わない。まして闘うなんぞ。
 孫四郎は少し考えると、「じゃあ、俺を担いでくれ。腕があれば剣は握れるよ」と、気丈に話しかけてきた。
「おいおい正気か。聞いたことないぞ。担がれた武将が戦場に行くなんか」
「いま、きいただろうに。もう忘れたのか?」
「ちょっと待ってくれ。冗談だろう。わるい冗談だろう、な?」
「本気。いたって本気だ。なあ頼む。俺を戦地に連れて行ってくれ。これでも剣の扱いは慣れているから迷惑はかけないからよ」
「うむ」直兼は沈黙する。本気だ。孫四郎が冗談をいわないのは、短い付き合いでも、よくわかっていた。嘘なんぞ器用ができる人間ではないのだ。それだけ、まっすぐものをみる正直な人間なのだ。はて、どうしたものか。孫四郎を説得する自信はなかった。もはやこれも天命なのかもしれない。この男と生を全うせよ、という告げなのかもしれない。出かけたきり(まさ)(のり)は戻ってこず、もう死んでいるのかもしれない。そうだ。俺にとってこいつは相棒。相棒なのだ。不出来な俺を支える、天が与えた相棒なのだ。そうおもうと気が楽になり、孫四郎にいった。「わかった。俺が背負ってやる。ほんとうにいいのだな?」
「ああ良い。頼む、俺に戦功をたてる機会を」孫四郎が涙目になって泣きそうになったから、「祝宴まで涙はとっておけ」といって励ました。

 早朝、直兼は丈夫な布で(かご)を作り、籠のなかに半身の孫四郎を入れて、背におんぶする恰好で担いだ。
「思っていたよりも、軽いな」後ろの孫四郎に、声をかけた。
「ああ、良かったな、軽くて」孫四郎が不機嫌そうに答えた。
 直兼の軍は中腰の姿勢で、昨夜立てた藁の柵をめざして静かに行軍する。着くと、まぶしく輝いた(じよう)(さい)がみえてきた。一夜の極寒により藁にまいた水は凍って、一面硬い石の壁のようにそびえたっていた。
 背の孫四郎が(たん)(そく)する。「ほう見事な城塞。なるほど氷の城をつくったか。さすがだな」
「昔なにかでか忘れたが、書物で読んだ記憶があったのだよ。それを真似てみた。先人は偉大だよ、全く」
 氷の城に梯子をかけて配下らが布陣し、直兼らは選りすぐりの精鋭十名を引き連れて、石戸城にむかって茂みのなかを歩む。石戸城城壁の櫓には弓兵がいたが、寝ぼけていて気づく気配はなかった。
 門戸にすりよって、棒きれを戸の隙間に差しこみ、おもいっきり手前に引くと戸が軋み。ゆるんだ、とおもうたら静かに開いた。城内の庭に忍びこむと、背をかがめ、建屋に侵入する。布をしいた草履で(あし)(おと)を消し、息を殺して上階をめざし、階の段を駈けあがる。
 上階には俺が居た広間の室があり、元忠はおそらくそこだろう。
 唇をかんで進み、角を曲がると広間の戸がみえたから音をころし、戸をひらく。奥の寝床に誰か横たわっている。配下を待たせ、直兼らは近づく。
「孫四郎どの、一撃で頼むぞ」
「任せておけ、一刀で殺るよ」
 寝床の横に来たら腰をかがめた。孫四郎が手に持っていた剣の柄を力づよく握る。言葉を発せず、勢いよくかかげて、ふくらみに振りおろした。
 孫四郎が、おびえた声で叫んだ。「罠だ」
 刃尖に、細かい藁がついている。厚手の布をめくると、藁人形が横たわっていた。
「かかれ」周囲から、叫び声がした。真黒の鎧武者らに、囲まれた。なかから、聡明な顔つきの男が現れた。元忠だろう。「謀られた」おもうには遅かった。敵のほうが、一枚上手か。
 元忠が、涼やかな顔で、声を発した。「氷の城ですか、なんともそのような古来の策を用いようとは。(ほう)を受けたときには信じていなかったが、ほんとうだったとは驚きです」
「報を受けた」孫四郎が後ろから、疑問を口にした。
「そう、あなたがたは気づいていないとは思いますが、内通者がいるのですよ、あなたの配下らのなかにね。ほら」
 背筋が(こお)り、振り返る。配下らが半分縄で(しば)られ、残り半分は笑みを浮かべて立っていた。
「おまえら、くそう」直兼は、にらみつける。「やはり、副将の()(すけ)は食中毒で死んだんじゃなかったんだ。おまえらだな、ちくしょう」
 元忠は、哀れみをたたえた眼で見てくると、「もはやあなたがたに勝ち目はない。降参しなさい。捕虜として命は助けますから」と、言葉をはいた。
 背が小突かれ、孫四郎が小声で話してきた。「俺に考えがあるから、よく聞け」耳を澄まし、かすれ声を聞く。なるほど、と思うと元忠にいった。「わかった、剣をおさめよう。ただ条件がある」
「条件ですか?」
「ああ、条件は」といいかけると、背負っていた籠を床におろし、おもむろに結び目をつくると指をかけ、元忠にむけて、放り投げた。「おまえの首だ」
 放たれた孫四郎が、剣を構えると一刀、元忠の首をはねた。
 首が地面を転がる。
 首をうしなった胴体は、よろめき、鮮やかな血を噴きつつ数歩迫って来たが、力尽きて(たお)れた。
 後ろの間者らがうろたえ、腰をぬかしていたから、小走りで駈けて、跳んで剣を振るうと、五名の間者らは叫び声をあげ、斬られてゆく。
 縄をとき、配下らに狼煙(のろし)をあげさす。討ち取った首を抱えた孫四郎が、「やった、やった」と喜んでいたが、「(ざん)(とう)()りだ」と一言、孫四郎にいうと、うかれた孫四郎を背負って、建屋を出た。
 城内にいた敵の残党との斬り合いがはじまる。混乱に乗じて、敵兵を孫四郎と()ってゆく。
 門戸より荒れ地に逃げる敵兵らを追うと、氷の城から無数の矢に射られ、敵兵の死骸が無残に転がる。
 もはや、勝利だ。氷の城内でも、敵の間者と闘いがあったようだが、(しゆう)(そく)していた。
 石戸城の奪還に成功したのだ。
 ただ、孫四郎には残念だが、孫四郎が討ち取った元忠は、影武者だった。元忠と同郷の配下のひとりが、左眼のしたに泣きぼくろがない、と気づいたのだ。
 だが、戦功は、戦功だ。
 孫四郎の機知がなければ、敗軍となっていた。孫四郎がいなければ、負けていたのだ。

 その夜、石戸城で祝宴が催された。場に、孫四郎が見当たらない。脚もないのに、どこをほっつき歩いているのか、とおもい、夜風に当たりに中庭にでもいるのかと考え、酒をもってふらふらと庭に出た。案の定、半身が泥に汚れた孫四郎が(あお)()けになって、月を見ていた。忍び足でゆくと、そっと横に寝そべって仰向けになった。
「俺は、やったんだな」
「ああ、手柄だ。おまえがいなけりゃ負けていた」
「俺、やったんだ」というと涙声になって、すすり泣く声がきこえた。
「まあ、酒でも飲めよ。結構な酒だぞ」直兼は、孫四郎をおこすと、(さか)(つぼ)をわたす。壺をひったくった孫四郎は、壺の口を頬張ると、一気に酒を流しこんだ。おいおい、と心配すると、赤い顔になった孫四郎が、(つぶや)いた。「うめえ酒だ。ほんとうに良い酒だな。荒れ果てた庭が至福の楽園にみえてきたぞ。なんだか感覚が曖昧になってきやがった。魂がゆさぶられるよ。こりゃあ、最高だなあ。まさに(ちよう)(ぜん)な気分だよう。ありがとうよ。この酒がなけりゃあ、これほどの幸福は味わえなかった。ご覧のとおり脚はないが、ほら、庭を走り回っているぜ。おまえにみえるかい? なあ図書助どの。なあ親友よ」
「おのれに酔いすぎのようだな。まあ、ゆっくり休め」直兼は、満面の笑みをたたえて気絶した相棒、いびきをかき、夢におちた無二の親友、孫四郎をおんぶすると、喧騒な宴会場をあとにする。
 (せい)(ひつ)な廊下を、ぎしぎし歩いていると、(まぶた)が急に熱くなってきた。酒も飲んでいないのに、物悲しくなってきたのだ。
 うれしいのか。俺はこいつに出逢えて、うれしいのかな。そうだ、うれしい。こいつは俺を必要としているし、俺はこいつを必要としている。
 いうなれば、互いが、たがいを欲している片割れ同士なのだろう。こいつが死ぬときは、俺も死ぬ。俺が死ぬときは、こいつも死ぬんだ。そう、うまれはちがえども、死ぬときは一緒なのだろう。昔なにかの書物で読んだ言葉だが、思いだせない。
 先人は立派だ。まさに、という言葉を、すでに生みだしているのだから。時代を越える言葉を生みだした先達の偉大さに、平伏する敬意の念しかない。
 直兼は鼻をすすり、濡れた咳をする。熱い寝息をたてる孫四郎を背に感じ、頬に一滴の涙が流れた。
「やればできるが、やらなければできない。どんなこともおなじだろう」この言葉はきいた憶えがないし、書物で読んだ記憶もない。俺からうまれた言葉なのだろう、とおもうと、ふと、笑みがこぼれた。


七、落日
太田美濃守資正(39)

 あかあかと(たてがみ)を燃やした馬が九頭、(くつわ)を並べて枯れ草を食んでいる。群れより孤立した茂みのなかで、()()の生皮をぬいだ。(のぶ)(ひで)の肩を(つか)んで汗ばんだ手を腰でぬぐい、深い息を吸っている信秀に声をかけた。「上手くいったな、(ひよう)()(のすけ)
「はい、(あかね)の奴が(うじ)(まさ)めを見事に騙せおおしたのでしょうな。大した者ですよ、あいつは」
 額の汗をぬぐい、呼吸を整え、「三鱗の(のぼり)、それも(すす)にまみれた古き(はた)を探せ」というと、眼の奥に力が入った。拳に音が鳴った。「そこに(うじ)(やす)がいる」
 跫音を消して山路を登り、篝火で照らされた陣屋の旗を確かめる。人はおらず、茜ら一行の遊興に浸りにいったのだろう。なにせ戦が開戦して百日、兵らの(しよう)(すい)も遠に限界を超え、一夜の戯れへの渇望は至極当然なのだ。四五十名の巫らによる余興の神楽に魅せられ、酒に(おぼ)れ、女に溺れる兵らの醜態が、容易に想像できた。一夜の油断が大敗を喫する。おのれたちが、河越攻略に用いた謀略を、今宵返上いたそう。再起ができないほどに、骨の髄まで快楽に(むしば)まれてしまえ。甘い夢に包まれて、その身、腐って朽ち果てよ。
 霞がきえると、本堂がみえてきた。戸の隙間から光がもれ、ちかくで古びた旗がなびいている。
 待て、と信秀に命じたら、ゆっくり戸をひろげ、まばゆき光に身を包まれ、静かに胴を忍ばせる。
 奥に安置された木彫りの(せん)(じゆ)(かん)(のん)像のまえに()(ぜん)し、隆りゅうとした背をむけた男がいた。
 まぎれもない。氏康だ。
 一歩いっぽ、忍び足で床をすり、気配を殺し、はやる息をのむ。腰の鞘から脇差しを静かに抜き、右肩に構え、寄ってゆく。氏康の背が徐じょに大きくなるにつれ、おのれが小さくなる幻覚にとらわれたが、眼尻に力を入れると現実に戻された。
 静かに叫ぶ。「(せい)(ばい)」柄に力がみなぎった。
 うなじがみえ、きれいな首がそこにある。右肩より脇差しを天高くあげ、静止すると、首の根にむけて刃を振りおろした。が、首の皮一枚で刃の動きを止める。
「すけまさ、か?」氏康がそう呟いたのだ。
 刃を止めたまま、「もはやそなたの天運は尽きた。潔く死なれよ」と言葉をかける。
「天運か。そうやもしれぬな」
「では覚悟なされよ。逆賊宗瑞の孫が首、討ち取らせていただく」息を荒くして叫んだ。
「なあ?」氏康が声をはく。
「なんだ?」
「少しばかりか、昔話をしてかまわんか?」
 (すけ)(まさ)が鼻を鳴らす。「武士ともあろうて、よもや命乞いではなかろうな?」あご髭をさわり思案した。「まあよかろう。もと家臣のよしみ、きかせてもらおう」
 氏康は座をくずし、あごをこちらにむかせると、突き立てた刃を指でつまみ、おのれの(のど)(ぼとけ)にそっと移した。「まあ、座れ」
 刃を残したまま、腰をおろすと、あぐらをかいた。
「名家とは、なんなのだと常に思う。名家が代だい、土地を支配し続け、富と権力を保持し、(おご)りきった君主らは百姓らを奴隷がごとく扱い、領地を我がものと専横する」
「なにを。それが名家の役目だ。領民らを働かせ、領地を運営する。なにがおかしい?」
 氏康が冷笑する。「(ひやく)(しよう)らの幸せは、どこにある? 一人ひとりの幸せは、どこにある?」
「領主につかえるのが、領民の義務で、領主への奉公が、領民らの幸せだ。それ以外になにがある?」氏康の喉から一筋の血が垂れたが、氏康は語気をつよめて反論する。「百姓らの意志は、どこにある? 百姓らに意志はないのか? 百姓にうまれたら一生、意志をもたない百姓として生きてゆくのか?」
 あごの髭を触り、「ふむ。領主にうまれるのも、領民にうまれるのも、全て天意だ」と答える。
「資正よ。俺はその思想が、間違いだと考えておる。うまれながらにして、人の運命が決まろうとは、あまりにも無慈悲だ。天意ではないよ。これはな」氏康の瞳が輝きを増した。
「これは、なんだという?」疑問を口にした。
「名家たちの屁理屈だ。おのれたちの存在意義を示すための、歪められた考え方だ。代だいにわたって支配慾を満たし続けるためのな。だから、天意では決してない」氏康の口角が妖しくあがる。
 たかが、逆賊の言い分、取るに足らない。逆賊が、天意を語ろうとは、それこそ天意に反する横暴ではないのか。氏康の冷ややかな瞳を見つめ、死に(ひん)する賊徒を軽蔑した。「では、聞くが、天意とは?」
 氏康は少し考えると、言葉をおいてゆく。「天意とは、百姓らがおのれの力で、その人生をきりひらくこと。領主は、百姓らの意志を(はば)まず、むしろ民意をききいれ、すべての百姓らを幸せに導く立場だ。いわゆる、先導なのだよ」
「甘いな。甘すぎるわ、氏康。それでは国がまとまらんではないか。領主を軽んじた領民らが、好き勝手にやると、田畑は枯れ、賊徒が横行し、世は乱れる。現に氏康、いや逆賊宗瑞に感化されてしまった大名と、(くに)(しゆう)らによって、世が乱れておるではないか」言葉に出し、怒気がこみあげてきたが、氏康は静かに言葉を足してきた。「それこそが、名家の(おご)りなのだ。古来より、百姓らの自由は抑圧されてきた。権威の力がなくなれば、解放感から世は乱れるだろう。が、一時だ。乱れきると、じきに落ち着くのが、世の常。そこからが、北条一族が目指してきた百姓を中心とした時代となるのだ。いうなれば、脈みゃくと続いてきた名家支配の毒抜きを、いましているわけだな」
「莫迦らしい。百姓を中心とした時代だと、笑わせるな。おまえら逆賊の屁理屈だろう。ちがうか、氏康?」
「好きに申すがよい。意の反する者同士は交わらん」氏康は、肩をおろすと、ため息をつく。もうよいのだな、と尋ねると無言だったので、資正は立ちあがる。汗ばんだ手で柄をにぎると、腰に力を入れて、脚でふんばった。「おわる。戦乱の時代がな。(あん)(ねい)の時代がはじまるのだ」自然と笑みがこぼれた。
 本堂の灯がゆれる。
 背筋に殺気を感じた。門戸が割れた音がしたから振り返ると、豪勇の武者が立っていた。足もとの暗がりに、信秀が倒れている。本堂に踏みこんできた(せい)(かん)な顔が、灯で浮かんだ。
 氏政の弟|(うじ)(てる)だ。氏照は文芸に長けた兄とはちがい、武芸に秀でた武将だという。一騎当千の武将として戦地を渡り歩き、内政に従事する兄の氏政を軍事面で支えている。氏政は氏康より文芸を、氏照は氏康より武芸を受け継いだという。
 とっさの応戦で、たじろぎ動揺すると、資正は、手の汗で脇差しを床にすべらせてしまった。
「父上」氏照が、太刀を片手に駈けてくる。
 拳を構える。歯をくいしばると駈けだした。氏照が振った太刀の軌道と、資正が放った拳の軌道が交差すると、互いが遠ざかる。氏照は氏康のもとに駈けよって、泣き声をかけている。
 信秀のそばによると肩を抱き、身体をおこす。「おい、立てるか?」信秀の腹からは、血があふれており、鼻先にかかる吐息は弱く、青い唇をふるわせながら言葉を発してきた。「面目なし」信秀が潤んだ泪眼で見つめてくる。喋るな、と口に手を当てた。
 ちらと背後を見れば、氏照が氏康をいたわり、その背をさすっている。が、こちらの視線に気づくと、怒りに満ちた瞳で、にらみつけてきた。下唇をかむ。
 口惜しいや。
 信秀の肩をやさしく叩き、うずくまった胴を担いで、おぶる。来た道のほうを見やって、淀んだ闇のなかに駈け去る。背に、信秀の微かな鼓動を感じ、ひたすら走る。
 馬小屋がみえたから、柵を蹴り飛ばし、何頭かの馬と顔を合わせ、なかでもとりわけ威勢のよい駿馬が眼についたから、この出逢いも定めとおもい、駿馬一頭を盗む。
 もはや、息がうすい。声をうしなった信秀を、馬の首根にまたがせると、不安定な身体を包んでやるように手綱をにぎった。馬のわき腹をひと蹴りし、山道の小路を落ちるように下る。
 追っ手は、来ぬようだ。
 おそらく、氏照ひとりが異変に気づき、見回りに来たのだろう。
 だが、じきに騒ぎとなる。もはや長居は無用だ。
 兵庫介よ、おぬしの父上と約束した、そなたを無駄に死なせん、とな。だから死ぬな。生きよ、兵庫介。
 信秀の首が、かすかに縦にうなずいたようにみえた。
 (にび)(いろ)の冬空のした、わずかな月の光に照らされ、馬影が一頭、闇夜の草原を駈けている。
 後方の(いわ)殿(どの)(さん)が、徐じょに小さくなると、胸の鼓動が大きくなった。
 はげしい鼓動で眩暈がし、気分がわるくなると、馬上で嘔吐し、胸につっかえていた思いも吐きだされた。
 百姓を中心とした時代が、来る、だと。
 馬にゆられ、(もう)(ろう)とした意識のなかで、はっきりと言葉が浮かんできた。ありえない、絶対にな。


八、家風
(はま)()(しゆう)()(のすけ)()()(ろう)(31)

 真夜中の寒風に冷やされたら、亡くした左腕がうずき出し、あまりの不快感で喉の奥が痺れると、残された右手の指さきで左肩を器用にもんで古傷の痛みをごまかす。足もとがふらつき、枯れ木にもたれかかりながら、かろうじて立っている。こけた頬にふれる樹皮が、あたたかい。
 ひと息吸うと、土の香りがやって来て、故郷にいる泥かすまみれの母の顔が浮かんだ。照れくさそうに、にんまりと微笑んで堀りたての芋を渡してくる。いらんよ、そんないっぺえい。母ちゃんが食ってくれよう。
 本堂のなかに殿がきえて、幾ばくか。
 外で待っている信秀が暇をもてあまし、下手くそな口笛なぞ吹いているではないか。
 背筋に悪寒が走った。
 もしや殿の身に、なにかが、と、ふとおもったら闇のなかに腕がみえ、口笛を吹く(のぶ)(ひで)の口元が隠されたら、その音を奪われた。
 刃尖が光る。容赦なく信秀の腹は裂かれ、腹からは暗い血が噴きだし、信秀の身は弧をえがくと反った。闇から姿を現した鎧武者の足もとに、信秀がうずくまり、そのまま動かなくなった。太刀を握った鎧武者が、門戸をたたき割って、本堂のなかに駈けていった。
 とっさに木蔭から跳びだそうとしたら、入れ違いで本堂から殿が駈け出、出血のひどい信秀に声をかけると、信秀の肩に手を回し、担いだら早足で逃げ去っていた。
 遅れて血相をかえた武者が出、夜道に輝く血の跡を認めると、後を追いかけ走る。
 いかん、とおもうと()()(ろう)は背後に引き、月の光をたよりに丈の高い草むらを駈ける。追いかける武者の先回りをするべく、土を踏む跫音に耳を澄まし、武者の位置を把握する。枯れた草むらを斜めに走り抜き、ついには追い越し、夜道に(おど)り出た。
 おどろいた顔をむけた鎧武者が、動きを止める。「おぬし、なんだ?」
 身体についた枯れ葉をおとすと、相手の眼をにらみつけ、答えた。「家風、浜野修理亮弥太郎」鎧武者の童顔が月に照らされ、青白く浮かんでいる。おぼっこいな、とんだ若造ではないか。
 静まりきった夜の山道、低い声を響かせ、若武者の顔に刃尖を突き立てた。「(あお)()(さい)ごときに、殿をやらせん」


九、眩暈
茜(15)
 
 あれは、(もも)(すけ)だ。
 (だい)(かがり)()のあたりには、巫らと夜の戯れを愉しむ百姓らがいたが、少し離れた座敷にすわる(うじ)(まさ)の隣に、女人のような柔らかい表情をした誠に艶やかな装いの若者、まごうことなき百助が、だらしなく座っていた。百助は、氏政の肩に寄りそって甘えており、首筋に(せつ)(ぷん)をして、なにやら、氏政に言葉巧みに語りかけている。氏政の小姓なのだろうか。
 ふらついた。
 こびりついた記憶が(よみがえ)る。手の震えと、口の渇きがひどくなる。忘れたはずの過去が、もはやなかった過去が、まだ在りありと心の奥底にあったのだ。百助の顔がぼやけ、気分がわるくなると()(えつ)が止まらなくなり、やさしく微笑んでいる百助の表情に胸がしめつけられた。唇をなめ、湿らせると、考えるまでもなく、脚は動いていた。
 腰につるしていた白狐の面を顔に被る。羽衣を乱し、なで肩を出し、ふわりふわりと歩きながら、百助に近づく。
 近づいたらば百助の腕をつかみ、あっちへと引っぱる。
 気づいた氏政が百助に、「良い、よい。いっといで」と声をかけたから、百助は申し訳なさそうに、「では、すぐに戻りますゆえ」と名残惜しそうに氏政から肌身を離し、引っぱられた腕につられておきあがった。
 しずかな陣営の宿舎まで引っぱると、茂みのちかくで倒された。
「よいだろう? さあ」
「ええ」面を上方に少し傾け、口もとをさらすと、面の隙間から百助の唇を確かめ、(ちゆう)(ちよ)なく接吻した。口内に舌さきをいれ、あいての舌を吸いだし、舌と舌を合わせてゆく。百助の肩から力が抜け、脚と脚をからめて抱きあい、互いを慈しむ。
 たまらず、百助が狐面をはぎとれば、眼と眼があって、とっさに唇が遠ざかった。「茜?」百助の顔が青白くなり、下半身が小刻みにゆれているのを感じた。瞳がおよいでいる。口はだらしなく開いている。「俺は、おれは」
 ききたくなかった。
 すぐさま接吻しなおし、唇を奪う。引き離そうと厭がる百助を無視し、強引に舌を吸いだす。おびえた百助の瞳に映った、昔の私が微笑んだ。から、迷いはしなかった。
 はみ出た舌を、()みちぎった。
 口の中に血の味がひろがる。生気をうしなった百助の眼が車輪のように回り、百助が耐えきれずに唇をはがすと、鮮血を夜空に噴きだした。言葉にならない言葉をまき散らし、哭きわめいている。
 (ののし)っているのだろうか、(なげ)いているのだろうか、それとも謝っているのだろうか。されど聞けど、わかりやしない。
 血を噴きだす百助が、天を仰ぎ、背筋をのばしたまま固まった。
 ちぎった舌を、吐きだした。
 あるじをうしなった舌は、力なく地にへばりついた。口角から垂れる血を、百助の艶やかな衣装の袖口でぬぐうと、立ちあがる。
 なにもない。ただやっただけだ。なにも変わりやしない。
 だが後悔はなかった。やるべくしてやったからだ。
 茜は羽衣を着直すと、来た道を進む。
 艶やかな衣を着た幼きころの私が、無邪気にはしゃぎ、前を駈けていて、()()な表情を振りまいて旋回し、乾いた声をあげ、笑っている。《アハハハハハ)
 愉しそうな顔を見ていると心が温もった。頬が震え、歯が音を立て、瞳の奥から潤んだ涙が漏れでる。両頬を濡らし、広がる。乾いた風が当たると、ひんやりと心地よい。
 なんだか、自由になれた気がしたのだ。


十、千の風になりて
太田親六入道無安(66)
 
 巫に化けた(あかね)から戦況の報せを聞くやいなや、(いわ)殿(どの)(さん)ちかくの()(はん)に騎馬隊を隠して待機していた、大将の(よし)(むね)と副将の(かげ)(みち)を呼び、夜戦の戦術を伝えると()(あん)は三隊にわけた岩付千騎の一軍を率い、山頂に布陣した伊勢本陣にむけて馬を急かし駈けだした。
 正面口をめざして駈けていると背後より()(すけ)が声をかけてきた。「お師匠、このまま突っこんでいって、本当に大丈夫なのですか」
「ああ心配するな、弥助。巫らが大半の敵兵らを()(らく)させたから見張りもわずからしい。もはや強襲を防ぎようがないだろう」
「なるほど」
 元は松山城の足軽だった弥助だが、利発さに素質を感じ、従者として召し抱えたのだ。よき弟子であった。
 正門がみえてきた。櫓のうえに弓兵はいない。いるはずの門兵もいない。(のり)(ひで)の内応で門も開いている。
 門戸になだれこむ。三百の騎馬が山道を駈けあがる。道中で酔い潰れていた敵兵が、点てんと(はい)(かい)していたから、首をはね、ただひたすら山頂をめざす。
 中腹のころ、篝火がみえてきた。
 馬から飛びおりると、灯りの方に走る。眠りこけた敵兵を残して、半裸の巫らが逃げ去る。夢に現を抜かした百姓らの首を静かに斬ってやり、かれらの夢は醒めて現実に返された。
 (うじ)(まさ)がいない。
 氏政は、どこにいったのか。氏政がいたとおもわれる、豪奢な座敷だけが残されていた。
 無安は配下らに、ここに陣を敷くように命じると弥助に語った。「ここに陣を敷く意味は、なんと考えるか?」
「はて。退(たい)()を断つのですか?」
「惜しいが、ちとちがう。退路を断つのではなく、退路をつくる」
「退路をつくる、ですか?」
「ああ、そうだ。つくる。ここに陣があれば、士気をうしなった敗走兵らは迂回するだろう」
「はい、そうでしょうね。まさか正面きって、むかっては来ませんでしょう」
「ここは山の本道だから、敵兵らは、山林の脇道に逃げこむだろう」
「それはそうです」
「脇道になにが、あると思うか?」
「なにか、と申しますと?」
 にやりと笑ったら、「(ふく)(へい)の将をおいとるのよ。(ざん)(ぺい)()りのな」と弥助の肩を(たた)き、いった。
「それは」弥助は(かん)(たん)し、声をあげた。「して、誰をおいているのですか?」
「ああ」(ひげ)を触り、(つぶや)いた。「()()()()(のすけ)
「武州一の豪将と名高い、あの比企どのですか」
「いかにもな。しかも」
「なんですか?」
鉄炮二百挺(てい)を持たせた兵らも忍ばせておってな」
「なんと」弥助が言葉を詰まらせたが、なんとか言葉を吐きだした。「それでは伊勢軍に逃げ場が。非情ですが確実に(せん)(めつ)となりましょう」
「無論そのつもりだ。この夜戦、なんとしても氏康の首を討たねばならん。どんな手を使っても、なんとしてもな。だから、おぬしに鬼畜と罵られようと一向にかまわん」
「いえいえ、それは。まこと見事な戦術でございます。おそろしいほどに」
 無安は、弥助の頭を軽く()でてやると、(しよう)()に腰をおろした。
 篝火を囲うように張られた(まん)(まく)と、乾いた夜風になびく(はた)(じるし)を見、頬に手の甲をつき、あくびをする。
 配下に()(ばん)をもってこさし、正座する弥助と碁盤をはさみ対面すると、盤上に碁石を打ち、弥助の顔色をうかがい、「さあ、お前ならどうする?」と眼の色をかえずに尋ねるのだった。


十一、初陣
太田源五郎資正(15)
 
 天文六(一五三七)年の五月下旬のころ、(うえ)(すぎ)(しゆう)()(たい)()(とも)(おき)が、患った(やまい)の末、家臣らに(ゆい)(ごん)をのこし、居城の(かわ)(ごえ)城で没した。かたわらには幼き跡取りの()(ろう)(とも)(さだ)がいて、父の遺言をなんども胸に刻みつけ、涙を枯らしている。賊徒|(うじ)(つな)を討ち取り、その子|(うじ)(やす)の首とともに城下にさらし、当家が()()を根絶やしにせしめたと世に示せ、と。
 朝興の舎弟、()(こん)(たい)()(とも)(なり)が来て、朝定の背を軽くたたき、抱擁したら、おなじく後事を託された()()(たん)()(のかみ)を呼んで、いかに氏綱を討つのかを語らうのだ。
 そんな談義に耳を傾けていたら、(なん)()()(はや)()(のかみ)(ひろ)(よし)が声をかけてきた。「(げん)()(ろう)、行くぞ。機に乗じて氏綱らが攻めて参るやもせん。早そうに戦支度をおわらせんとな」
「はい、()(けい)どの。幼きころより磨いてきた武芸で、お役に立つように」
 言い淀んだが、はっきりといった。「将を討ちます」
「おお、それは頼もしいな」
「いえいえ、このていどの気概がなくては」手が震えていた。父と実兄に、武士とはなんたるかを教えこまれてきたが、実戦ははじめてで、未知の不安があったのだ。
 (うい)(じん)だ。
 後見として義兄の広儀がつけられ、義兄のまえでは強がってはいたが、怖いもんは怖い。殺気をはなった武者らが斬り殺しにかかってくるのだぞ。考えただけでも誠に怖ろしい。
 背筋に、はりつめた冷気を感じると鳥肌がたち、額に汗がにじむと、尿意を感じた。身じろぐと、おおきく(うなず)いて笑う義兄に別れをつげ、股間をおさえながら早足で(かわや)にむかう。
 用を足し、口から言葉がもれていた。
 慣れはしないだろうな。生きるか死ぬか、斬るか斬られるか。誰とも知らない武士らと槍を交え、槍をかわし、槍を()()き、急所をついて絶命させ、幾千もの名も知らぬ人生を奪う。
 残酷だが、主君が忠義のため、己の死を(ささ)げ、(あだ)なす輩を(ほふ)る。
 これぞ武士の(ほま)れ。名誉ある死こそが、武士道のきわみなのだ。
 尿は遠に枯れていたが、気が高ぶり、胸が鼓動をうって息苦しくなると腹が鳴った。
 便意がきたから飾り気なく、豪快に放つと快楽を感じ、深くため息をついた。ひどく落ち着くころには恐怖がきえ、静寂だけがあった。
 広間に戻ると、広儀がいない。
 残っている家臣らに訊いたら口をそろえ、女を抱きにいったのだろう、といってきた。合戦前は、夜なよな大半の武士はそうやって高ぶった気持ちを静める、というのが常だという。いわれて納得した。きっと男の本能なのだろう。なんら不思議に感じえない。
 静かな風に吹かれ、柱によりそうとあぐらをかいた。高まる心の鼓動を抑えようと、鼻から息を吸って口の奥からゆっくり息を吐いた。酸っぱい唾液が口内に満ち、舌が()()する。ふかい胃痛に耐え、朝を迎えるのであった。

 翌朝、広儀にたたきおこされ、眼も()めぬうちに兵舎に引かれる。広儀は慌てて早口で急かした。「氏綱が率いる()()(わら)勢が三ツ木原に陣を敷いたらしい。じきに出陣となるから、はよせい」
(じん)(だい)()は落ちたのですか?」
「いや。落ちていない。(さき)()けだ、先駈け」
「先駈けですか。そんな先駈けだなんて」
「だまれ源五郎、詮索すな。考えるまえに動け。いまは支度だ。戦支度」
「はあ、そうです。支度です」
 広儀はため息をつくと、源五郎の(ほお)をぶち、視線も合わせず甲冑を着ながら、呟いた。「ほおっておくぞ。戦場ではな、とろい奴が真先に死ぬぞ」鞘から太刀を抜くと、首にむかって刃尖を立ててきた。「ほら死んだ」
 丸腰だった。顔が熱い。「しばし」というと急ぎ甲冑を着て、脇差しを腰に差し、広儀のまえに平伏する。「申し開きなし。ただ恥でございます」
 広儀は鼻で笑うと太刀を振って、首筋に寸止めし、「また死んだ。戦場で平伏なぞ自刃のときだ。源五郎、憶えておけ。戦場で(ひざ)をつけば、死だ。死にたくないなら、天も地もみずに、前だけをみよ。さすれば、道が開ける。わかったか」と苦言を口にした。
「肝に銘じます」といったら、広儀の瞳が(あや)しく光った。
 広儀は口もとをゆるませると、後頭部を何度も叩いてきて、「文字どおりな」と呟き、背中に指を使って、「前」と一文字おおきく書いて大笑いし、励ました。
 
 源五郎らは、城から出ると、前だけをみすえる。
 遠く坂のうえに、砂埃が揺ゆらと湯気をあげ、立ちのぼっている。馬の駈けてくる音が地を揺らし、汗ばんだ甲冑のなかに響いてきた。
 はげしい陽のした、広儀が駈けていったから、後を追う。周囲を警戒して進むと、広儀が止まったから、肩越しからのぞき込んだ。
 数十騎はいようか。
 黒漆の鎧に包まれた騎馬武者らが隊をなして、こちらに(こう)(ぐん)している。広儀に手首をつかまれると、道ばたの茂みに腰を低くし、広儀が小声で話しかけてきた。「よく聞け。やつらがここを通過するときに、俺らで(きよう)(げき)をしかける」
「挟撃ですか?」
「ああ、側面から奇襲をかける。おまえは道のむこうに隠れろ。俺はここで待機する」
「私らだけで数十騎を相手にするのですか? 味方を待っては」
「いや、だめだ。待っていれば、奇襲の機会をうしなうし、易やすと見過ごせば、仲間に被害が出るぞ。俺が合図したら、斬りかかれ」
「はい、ただ」
「大丈夫だ。見たところ若武者しかおらんから、手練れではない。(せつ)(こう)か、なにかだ」
「しかし」
 広儀は手で去れという。仕方がなく、道の反対側の茂みに隠れると、ときを待つ。遠くにいた騎馬武者らが、徐じょに大きくなってきた。ころ合いをはかり、広儀は敵を凝視している。
 すぐそこに来たら、広儀が大声をあげ、騎馬兵らに斬りかかった。(あい)()だ、とおもい、腰をあげようとしたが、脚に力が入らない。
 なんと、立てない。広儀が敵兵と交戦している。早く立たなくては、とおもうほどに立てない。なぜ、立てない。脚が根を張っている。
 広儀が、騎馬武士らを斬り(たお)(さま)を見るしかない。いや、だめだ。さすがに立って、共に闘わなくては。
 広儀の胴が、血に塗られる。息が荒く、表情が強ばっている。くそう、と腰を浮かしたが、すぐに地に尻をつく。
 待てまて、本当なのか、俺は、こんなにも(おく)(びよう)だったのか。
 とんだ冗談だろう。
 なんとか、腰を浮かしたら中腰になる。広儀は騎馬隊に囲まれて、太刀をがむしゃらに振り回していた。両眼から血が垂れ、視界をうしなっていたのだ。
 やっとこさ立ちあがると、脇差しを抜き、重い脚を一歩進めたら、鈍重な槍のすれる音がした。
 広儀の(のど)もとが、槍の()(さき)で貫かれた。
 下顎(あご)がだらりと垂れ、胴が宙に浮いた、とおもったら四方からつぎつぎに槍が飛んで来る。さんざ突き刺され、口から大量の血を吹くと、絶命した。
 茂みの草の輪に足さきを奪われ、よろめく。腰を中途半端に浮かしたまま前に倒れ、四つん()いになる。死んだ広儀の暗い視線を感じた。眼のまえを騎馬隊が去ってゆく。
 最後尾にいた騎馬武者が、こちらに気づいた。近づいて来る。
 斬られる。
 俺は死ぬ、一度も闘わずに斬り殺されるのだ。恥ずかしすぎて、もはや死すら現実味がなくなっていた。
 近づいて来た武者が、太刀を振りあげたら表情を暗くし、太刀を鞘になおす。なぜか、とおもい、顔をのぞむと武者は口もとに冷笑を浮かべていた。後ろを振りむくと、そのまま隊に帰っていった。
 遠ざかる隊を見送ると、腰から力がぬけて崩れ落ちた。
 俺は武士、いや男とみられなかったのだ。
 哀れな若造として軽蔑された。
 俺はおれは、なにがしたいんだ。真白な手のひらを見、沈黙する。なにもいわない広儀の口もとが、動いた気がした。
 そう、俺は三度死んだのだ。


十二、険路
太田源五郎資正(15)
 
 大地が熱をあげている。
 進む道がななめに傾き、何度かこけながらも、帰路を進んでいた。
 なにもできなかった。なにも。腰が抜けて立つことすらできなかったのだ。恥をわびて自刃をする勇気は、到底持ちあわせていなかった。武士失格だ。
 城内は、静かだ。おそらく、雑兵を連れだち、武士らは三ツ木原に出陣したのだろう。()(がい)を感じる。
 俺だけ、こんなところで、なにをしているのだ。皆は戦場にむかったというのに、なにをしている。どれだけ孤立した己に問いかけようとも、虚無しか返ってこない。
 兵舎の暗い角に身をよせると、ただ縮こまり、肩をふるわせ、自問する。怖くて怖くて、なにもできなかったのは、なぜ。なぜ、義兄を見殺しにした。義兄と共に、敵兵を挟撃するんじゃ、挟撃して、殲滅するのではなかったのか。
 おかしかった。おかしすぎて笑い声がもれる。ただの腰抜けじゃないか。ひどく疲れてきたから眼をとじると、すぐに闇が来た。

 眼をあける。浅黒い老将が、大声で叫んでいた。「うごける者はおるか」
 足さきの床には、血にまみれた武士らが何十人と横たわり、痛みに苦しんでいた。
 跫音がなくなると、頭上に視線を感じた。「おい、お前。動けるな? ついてこい」老将にそういわれたら、腕をひっぱられ、強引に立たされた。老将に腕をにぎられ、後をついてゆく。
 広間に着くと疲れ切った武士らが数名、円陣をくんで座っていた。はなれた奥座には若き君主の(とも)(さだ)が正座していた。(せき)(がん)の武士の横に座らされると、老将が円陣の中心に立ち、皆を見わたし、失望を語る。「明け方の戦で多くの友をうしなってしまった。もはやまともに闘えるのは我らだけ」しゃがれた声が潤む。「先代の遺志をかなえる望みは幻ときえるのか」
 奥で聞いていた朝定が静かな口調で尋ねる。「皆で父のもとに()くか」
 あわてた老将は、朝定の足もとに駈け参じ、床に平伏しながら叫んだ。「いえ、ありえません。若君は(なん)()()(だん)(しよう)どのが守る松山城にお逃げください。弾正どのなら必ずや守ってくださる。我らは若君が無事出立できるよう(ろう)(じよう)し、先代の()(ほとけ)を死守いたします」
 (しよう)(すい)しきった武士らは、己を鼓舞し、叫びあいだした。「(ともら)い合戦だ」左手首をうしなった武士が、言葉をはさむ。「して、若君の護衛は誰がいたしますかな?」
 となりの隻眼の武士が、「ああ、こいつはどうか?」と答えて、肩を叩いてきた。
「私ですか?」隻眼を見つめる。
「うむ、お前だ」つぶれた眼も笑んだ気がした。「まともに動けるのはお前しかおらん」
 確かにそうだ。松山城までの道中は足場がわるいため、馬なぞ使えない。かつ酷暑のなかを、若い君主を連れて徒歩で半日ばかり四里のあぜ道をゆく。ほかに誰がいるのか。
 皆から痛いほどに視線を感じたから、「(はい)(めい)つかまつる」と返答し、頭をさげた。あんどしたか、傷ついた武士らは深くため息をつき、張った胸をなでおろすと静かに(まぶた)を閉じて、痛みに耐え、うしなった一部をさすり、忍ぶのだ。
 老将が近づいてきて、「若いの頼んだぞ。殿を守れるのはお主だけだ。我らが最後の希望、確かに引き継いだぞ」といって手を握ってきた。
(ぎよ)()」そういったら、口を一文字にした老将が、熱く抱擁してきた。「忘れるな。時代は若い代が、つくるのだ」
 言を伝えた老将の顔が、(ひろ)(よし)の暗い顔に変わる。広儀が赤い視線をむけ、罵ってきた。
 だが、こわくない。かれこれ三度も死んだのだ。死人にこわいもんなんか、ない。兄にしごかれ、完全に皮がむけていた。
「義兄どの。背に前の字なぞ書かれましたら、後ずさりするだけで、前に進めぬではありませんか」と(すけ)(まさ)は呟き、額に、「前」と指で一字、はっきりと書いた。
 険しかった広儀の顔がゆるみ、穏やかな表情になった。「ははは」と、誇らしげな笑い声がきこえたら、義兄の顔は、老将の顔に戻っていた。


十三、もしくは獣か
三戸駿河守景道(33)
 
 跳躍した馬が(いなな)き、風をきって疾走する。群青のそらのしたを月のひかりをしるべに駈けてゆく。ひときわ大きな武将の背が見えてきたから、馬の腹を蹴って速度をあげると、腰に差した愛刀、(わざ)(もの)(くに)(つな)の柄に手をのばす。後ろに寄りそっていた(あやめ)(しつ)(よう)に背に絡みついてきて、かたかたと(かな)()を震わせている。「案ずるな」一言呟くと太刀を抜き、眼前の背に斬りかかった。
 が、避けられ、振りむいた武将が一喝する。「かげみち」(よし)(むね)の罵声が大地に響きわたった。「血迷ったか」
 義宗が槍を突いてきたから手綱を引き、馬首をかえる。放たれた槍は胴のすぐ脇を通りぬけ、ひき戻された。
 すぐさま体位を戻し、太刀を振るって斬りつけるが、剛直な甲冑に刃がはじかれる。義宗は鼻を鳴らすと、槍を振りまわし、乱れ撃ってきた。手綱をさばき、かろうじて避けるが、当たれば即死だろう。それほどの破壊を、穂尖に含んでいる。
 だが、引けない。引くわけにはゆかぬ。
 許せるか。女を泣かすなんざ、人でなしさ。
 俺は大抵の悪党を許せるが、愛する女らを傷つける輩だけは、決して許せない。
 男は、女を守るために、いくらでも傷ついてもいい。だが、女は白磁のように、一点の傷もあってはならん。俺の信念はゆらがん。
 義宗のような輩を知ると、感情が煮えたぎり、(はら)の底に怒りがこみあがる。
 ()(はん)にうち捨てられた母の唇から這い出た()が、暗いそらに飛びさった。
 はるか昔の幼年期の経験から形成された思考ゆえ、抑制が効かずとも、自我だから仕方がない。自身では、どうしようもない感情なのだから、誰からとやかく、いわれるゆえんはない。
 ざっと、(かげ)(みち)(かつ)(とう)の結論は、いつもこうだった。だから、知人とはいえど、一切の慈悲をかけず、堂どうと正義をつらぬき、己の信に従い、迷わずに(てん)(ちゆう)を下すのだ。
 ふるえる心は、過度な正義感に支配されていた。あまりにも大きすぎる良心の()(しやく)は反面、内なる悪心の(うみ)のはけ口だけなのかもしれない。悩みすぎだ。
 幻聴は、幻聴だ。知った口をきくな。
 俺は、俺だ。俺は、ここにいる。
 景道は、かち割れそうな頭を抑えると、こめかみを()みほぐし、痛みを緩和させたら、意識を眼前の悪に集中させた。()(りよ)の女らを犯した畜生めが。いいや、もしくは獣か。
 きえた捕虜がいると聞き、不審に思い、黙した侍女らを問いただしたら、白状したぞ。おまえが女らを(ごう)(かん)し、しまいには無残に殺したとな。女を殺すなんざ、地獄行きさ。女をあやめた罪、死をもって償えや。覇気を発し、義宗の動きを見切る。
 槍尖が甘く飛んで来た。脇に制した柄をはさむと、肘でへし折る。愛器をうしない、義宗は(ろう)(ばい)し、背を反った。隙を見逃さず、首を狙う。が、刃を拳ではじかれ、反動で馬が直立する。
 天高く見おろすと、遠ざかった義宗は口角をあげ、笑っている。死闘を(たの)しんでいるのだ。莫迦にしやがって。
 馬の体勢を戻し、すぐさま斬り駈けようと手綱をにぎったら、菖が鉄輪を慌ただしく鳴らしてきた。なにを怖がっている。かまわず太刀を振りあげ、駈けようとしたら、背に湿った声を感じた。
「やだ」かぼそい女の声だ。なにが、「()だ」だ。
 菖、おまえ。「声」出るようになったのか。
 急に背を押された。(たてがみ)に顔が押しつけられ、鬣をかんだ。なにをするとおもい、振り返った。
 頭を矢で打ち抜かれた無表情の菖がみえ、馬足の加速で、菖の胴が浮き、横にゆらいだら馬から落ちた。矢が飛んで来た方を見た。奴の女が、弓矢を構えている。「矢か」
 矢が飛んで来るが、当たらない。
 当たるはずがない、当たるわけにはゆかない。
 死ぬもんか、死んでたまるか。
 小袖が土埃にまみれ、瞬きもせずに乾いた眼で月だけを眺める哀れな菖の死に姿を、静観した。肚の底から熱い想いがこみあがると、()(ばく)に勝てよ、と。一世一代の覚悟を決めた。
 俺は、勝つよ。
 なぜだって。だって、この命を賭けるからよ。負けるはずがねえよ。負けたら、あまりにも非情だろう、なあ。
 青白い視線をおくる義宗にむかって、()(たけ)びをあげた。「下郎が。これでも、くらいやがれ」渾身の力で、太刀を投げた。
 一閃。義宗はうつむき、股間をさする。眼を見ひらき、首をかしげる。太刀を抜き、投げ返してきたが、ひら避けた。
 義宗が、雄叫びをあげる。凍える大地が、震えるのを感じた。乾いた空には無数の鳥が飛びたち、暗い雲は乱れ、おぼろ月は、微かにゆらいだ。
 声は枯れはて、威勢がきえ、ひと回り小さくなった義宗が、「なぜだ、俺がなにを?」と声をしぼり、()いてきた。
「あの世で自問しろ」と答える。(いん)(じゆう)に答える義理はない。  
「このやろう」声を張るが、凄みはない。馬が歩くごとに、鞍でこすれ、たびに悶絶する義宗が痛みをこらえている。こちらを凝視し、歯を食いしばる。
 義宗が、腰に携えていた大太刀を抜いた。(ひん)()だったが、汗ばんだ瞳には、殺気が宿っていた。
 ひと振りであった。
 大太刀の斬撃を受けた。国綱の刃は、眼前で砕け散る。ゆっくりと右肩より、大太刀の白刃が、ななめに食いこむ。するどい刃の、いやな冷たさを、肉に感じ、刃がいま、どこにあるのかわかった。
 鉄のさびた血生臭い匂いが、鼻さきをつく。
 身を裂く異質な刃が、心臓に達し、「あ、死んだ」と冷静におもった。あざやかな血しぶきとともに、死の味が広がる。
 刃が、左腰を抜けた。胴が、不安定になると暗転し、よどんだ闇に包まれた。

 すまんな、ひとりで待っててくれたのか。暗くて怖かったろうに。
 ええ、寂しくなかったって。つよくなったな、よしよし。
 それに、こんなお(しやべ)りだったとはな。
 わかった、わかった。好きなだけ聞いてやるよ、時間はたっぷりあるんだからな。
 じゃあ、そろそろゆくか。あっちのほうが少しばかりあかるい。ここよりかは幾らかましだろう。
 泣くな泣くな。うれしいって。
 ああ。俺もうれしい。
 もちろん約束だ。
 ずっと一緒だよ、あやめ。


十四、(さん)(とう)()
太田親六入道無安(66)

 誤算だった。
 なんと大勢の(うま)(まわり)衆を引き連れて(うじ)(まさ)が突撃してきたのだ。氏政は白装束すがたで、血塗れの屍体を抱き、なにやら騒いでいた。あまりの異様さに、岩付千騎の兵らも当惑し、対応が遅れた。氏政の叫び声がきこえた。嘆きとでもいえようか。
「誰だ。俺のおれの(もも)(すけ)を殺したのは。お前か、それともおまえか。いやちがう。あいつだ、きっとちがいない。あの巫だ。あいつが百助を殺したんだ」錯乱した氏政が()きながら、むかってくる。さがろうと必死にいう馬廻衆らの、(かん)(げん)をきかない。
「巫らはどこいった。あいつら、どこいった」氏政が喚き、そこらじゅうをひっくり返しまくる。「わかった。あいつらも俺をはめたのだな。俺をこけにして、(わら)っているんだ。よしわかった。そっちがそうなら、こっちにも考えがあるぞ」不敵に笑い、馬廻衆の(やま)(かく)()(ろう)()()(もん)(やす)(さだ)を呼んだ。「四郎左衛門、そなたに命じるから、よく聞け」
「若君、なんなりと」(いん)(ぎん)なしせいで、康定が地に伏している。
「ここいらの神社仏閣を、すべて燃やせ。燃やし尽くすのだ」
「我が君しかし、そんな非道をすれば、百姓の叛感を買いましょう。さすれば、統治が」
「黙れ、禿(はげ)。おまえは俺の命じたことだけを聞いておればよい。さては、おのれも余を愚弄するのか、ああ」氏政が扇で、康定の薄い頭頂をたたく。
「いえいえ滅相もありません。命令ならば」
「うむ、よろしい。やれ」氏政が扇を天に(かざ)すと馬廻衆らが弓矢をとり、篝火の炎で矢尖に火を点けると、山林に放ちはじめた。山ごと燃やす気だ。
 床几をこかし、腰を抜かすと()(すけ)に命じた。「逃げるぞ。もはや策は無用だ」弥助が見おろし、黙って立っている。「どうした、弥助?」
 弥助が笑いだし、顔つきがかわった。
「なにが、おかしい。ふざけていないで早く」
()(あん)よ。まだわからんのか。この死にぞこないが」
「なにを無礼だぞ、どうした?」
「だから老いぼれは。俺は」
「なんだ?」
()()()(おう)(のかみ)
「はあ、ふざけるな。お前が(もと)(ただ)だと」
「ふん、もうろくしたくないな」元忠はそういうと、左眼の下をこすった。指から白い粉がおちると、泣きぼくろ。左眼のしたに泣きぼくろが現れた。
「そんな莫迦な」無安は元忠の笑んだ瞳を凝視し、固まった。「もとただ」
 元忠は立て掛けていた村正を抜いた。村正の妖しい光にみとれ、素振りすると刃尖をむけてきた。「じいさん。時代は移ろいでいる。いつまでも古い価値観にとらわれていると破滅するぞ。新しい時代がもう来ようとしているのだ。お主たちの時代は終わったのだよ」
「愚弄しやがって」
「焼け果てよ」元忠が呟くと去ってゆく。その後ろ姿は堂どうとして稀代の軍師の風格が漂ってあった。
 陣営に火が移ったらしい。
 あたりから幟が焼ける臭いが広がっており、朦もうと煙に包まれる。布で口を塞いでいたが意識が遠のき、ぼうっとしてきた。立つ気力さえない。
 上方の燃える柱が傾き、こちらに落ちてきたら腹が挟まれ、皮膚が(ただ)れる、と感じたら気がとんだ。


十五、初恋
太田源五郎資正(15)
 
 (しやく)(ねつ)の行路であった。
 あぜ道だったが、(わだち)があって足をとられ、思うように進むのは困難だった。若君も歩き旅は初めてだ、ということで、木蔭を見つけては足裏をもんでやり、こまめに水を飲ませた。大地は燃えあがり、道に含まれた水分はすべて蒸され、()(れつ)が走っている。あまりの暑さで(せみ)も鳴かず、しんと静かだ。
 若君の顔は汗に濡れ、木蔭に座って休む時間は休憩をとるたびに延びていった。
 早朝に出発したが、そうこうするうちに陽が沈みだしている。まだ半分も進んでいないだろう。暗がりのなかを進むのは()(とう)に襲われる危険があったから安全を見、野宿をすると若君に伝えたら、ほっとあどけなく笑ったから(あん)()した。
 陽が沈み、暗くなってきたから、たき火をおこし、若君と囲うように座る。
「若君、足は大丈夫でございますか?」
「ああ、少し張っているがな。いままでこんなに歩いたことなんてないよ」(とも)(さだ)は軽く笑った。
「心配なさいますな。じきになれます。殿の足裏は女子のように柔らかい。歩けばあるくほどに硬くなり、皮が厚くなれば痛みはなくなりましょう」
「そうだな」朝定は暗い表情をして視線を落とした。「鍛えねばな」
「左様、当主として武芸に励み、勉学に努めくだされ。先代もきっと、それを願いましょう」
「うむ、あまり歳もかわらないのに立派だな、お主は」
「いえいえ。私とて世間知らずの若造です。父と兄から武士の生き方を学んできただけです」
「ほう、そうか。将来が愉しみだな」
「精進いたします」
 朝定が腹をおさえ、「用を足してくる」といってきたから、「一緒に行きましょうか?」といったら、「莫迦、ついてくるな」と怒鳴られたから、闇にきえる後ろ姿を見送った。
 たき火の炎を見、朝定が戻るのを待っていると、林のなかから悲鳴がきこえた。
 松明(たいまつ)を持ち、駈ける。
 叫び声のほうにむかうと、朝定が腰を抜かしていた。眼が泳いでいる。視線の先を見ると、蛇だ。蛇が牙をむきだし、首を振っている。
 飛んだ。
 蛇の首を掴むと、林の奥に投げた。噛まれていないか、と朝定を観る。用を足している最中だったのか、股を広げて、腰を地につけていた。一見、噛まれていないようだった。が、木の幹のしょんべんは、赤く血で染まっていた。
 股をのぞけば、血が出ている。「若君、蛇に噛まれたか。はやく毒抜きを」慌てて叫んだ。
「いや待て。噛まれていない。安心せよ」
「ええ? しかし、血が」松明を当てて、股の中をよく観る。「いや、これは?」
 恥じらう朝定が股を閉じ、「源五郎、今日見たことを黙っておいてはくれぬか? 頼む。しれれば一大事」と願ってきた。
「むろん、殿の命令なれば、黙しましょう。今日見たことは忘れます」
「すまぬな、ありがとう」
 たき火の近くに寝床をつくり、朝定を寝かしつけた。朝定の顔が、炎でゆらいでいる。端正な顔たちだ。
 いわれれば、そうか。この年ごろは区別がつきにくい。着ている小袖や仕草、言葉使い、髪型などで判断していた。
 それにしても、整った顔たちだ。顔だけみれば、いうまでもなく女子だ。どこの大名に輿(こし)()れしても恥じない、姫君だ。
 朝定の顔を見ていると、まぶたが重くなり、すこし眼をとじた。
 まぶたの裏に、股の奥がうつった。松明に照らされ、はっきりと見えたのだ。

 早朝、眼を()ましたら、朝定がいなかった。山林をゆくと、湖で泳いでいる影があった。
 朝定が、泳いでいた。こちらに気づき、「源五郎、気持ちがいいぞ。そちも来い」と叫んできたから、小袖を脱ぐと、湖に飛びこんだ。
 確かに気持ちがいい。
 汗ばんだ肌が、冷やされる。朝定に近づき、「いい気持ちですな、清すがしい」と、声をかけた。
「そうだろう、俺もだよ。胸のつっかえがとれてな」
「つっかえですか?」
「ああ、昨日とれたんだ。だから、ぐっすり寝られたよ」
「それは?」
「うむ、俺は幼いころより、誰にも知られてはなるまい、と父上にいわれ育ってきた。だから、家臣の誰も知らぬ」
「はあ、そうでございましたか」
「だから、おぬしに知られたから、もういいや、となったよ。ありがとう」
「いえいえ、こちらこそすみません」
「あやまるな」朝定の瞳が潤み、こちらを見つめてきた。「源五郎、さきに謝る」
 朝定が、(せつ)(ぷん)してきた。あまい蜜の味がした。
「ゆこうか」朝定が泳ぎ、陸にあがる。身体は白く光っていて、女人の膨らみは、すでにあった。遅れて、陸にあがると、小袖を着て、朝定を追いかける。
 さっきとはちがい、凜とした朝定が立っていた。
 自然と平伏する。
 夢か幻か。「今日の陽暮れにはつきましょう」
「ああ、急ぐか」
「ご無理はなさいますな」
「大丈夫だ。昨日より足の裏は硬くなっているからな」朝定がはにかむと、つられて笑った。「それに妙に心が軽い。なんでだろうな?」
「はて」少し考えるふりをしたら、「わかりません」とうそぶいた。
 ふたりの笑い声が重なり、澄んだ青空に、男女の声が響きわたる。
 おおぞらに、冷たい風がやって来る。
 呼応し、静まっていた蝉たちが一斉に鳴きはじめ、今日がすずしい日だ、と告げるのであった。


   第五章 夜明けの鐘


一、岩殿山|(せん)(めつ)
()()()()(のすけ)(まさ)(のり)(34)

 山が燃えている。
 敵が火矢を放ったのだろう。鉄炮二百挺の部隊を率い、やま肌に隠れ、ただ走って来る敵兵を待っている。
 痺れはきれない。これも戦。いまは待つのが、戦なのだ。
 草音がしたから、気が引きしまった。
 誰か、来る。茂みから眼を出し、音のした方を眺める。
 あれは。手を挙げて、鉄炮の打ち掛けを止めさした。
 全身が焼けただれた、当軍の武将が歩いていた。近づくと、顔を確かめる。顔がひどく崩れ、人相がはっきりとしない。歳は、いかごろか。見るところ、かなりの老年だろう。
 老いた将が、口を開いた「左馬助どの、失敗だ」
 この声は。
 まさか、そんな。「(ちか)(ろく)どの、どうされました?」
「すまぬ。失策だ。いまは逃げるのだ」
 弱よわしい声質であった。いっきに老けこんだようだ。「しかし敵はまだ、おりますでしょう?」
「ああ、そうだが。もはや勝てぬ」
「なにを気をなくしておいでで。こちらには二百挺の鉄炮部隊がおります」
「いや漏洩した。伊勢の兵らは本道を進み、下山するだろう」
「待ってください。諦めないでくださいよ、それじゃあ武州の地は伊勢が治めるんで?」
「うむ、残念だが」
「それだけは。地元の民らに、申し訳が立ちませぬ。闘いとうございます」
「闘いたいか。勝つ(すべ)があるというのか、左馬助どの?」
 左馬助は考えた。ひとつ考えがある、そうあるのだ。「あります。これならゆけますよ」
「なんだ、申せ」
「鉄炮部隊を二人一組とし、弾を撃つ者と、込める者とに分けます」
「弾を込める時間を省くわけか。で?」
「横陣を組んで敵が来るのを静かに待つのではなく、こちらから駈け、敵の背後につき鉄炮を放ちます。地の利はこちらが上をとり有利、かつ近づけば弾を当てやすい」
「ほう、なんと。敵を待たずに敵に()けより、こちらから打って出るか」()(あん)(ただ)れた口角をあげたようにみえた。「敵はさぞ驚くだろうな、見事な戦術だ」
「では、よいですか?」
「よいが、ひとつ付け加えると、なおよい」
「なんですか?」
「二組四人で行動する。一方の組が、主に闘い、もう一方の組が、従として、主の闘いを補うのだ。戦術の幅が広がるから敵の脅威となりえような」
「それは、そうですな。さすがは軍師どの。()(しよ)(のすけ)どのがおってもおなじ助言をしていたように思います。思慮が浅くすみませぬ」
「よいよい、ひとにはそれぞれ長所と短所があるから、互いが補えば事足りるのよ」
「それでは早速行きます。(ちか)(ろく)どの、どうかご無事で。私の従者に、下山を補助させますので、使ってやって下さい」
「気づかい、ありがたい。おぬしの武運を祈る」
 片手を挙げる。
 縦に振るうと伏兵が正体を現した。皆に作戦を伝達すると、無安と従者を残し、山道を駈ける。
 負けるわけにはいかない。
 武州の地、いや比企の地を荒らされるわけにはいかん。昔から顔の知った奴らばかりがいる。家族同然の奴らなのだ。そうおもうと拳に力が(みなぎ)ってきた。
 飢饉に苦しみ、田畑を荒らしに来た、伊勢方の百姓、雑兵らに同情の気持ちはなくはない。が、地元の民らを養うが、第一の役目だ。刈った稲の穂は一粒もやらん。
 おれらが生き残るために、力なき者たちを殺す。いつの時代も変わらんだろう。生き残るとは、そういうものだ。
 この世はひどく残酷にできている。だから生きるのは、これほどまでに苦しい。
 だが、ひどく苦しいからこそ、生きている尊さを感じられるのだ。
 鉄炮部隊を指揮する政員は、殺した敵兵の最後の顔を心に刻みこむ。
 俺にできるのは、あんたらが居たのを憶えておくだけだ。幾千もの死顔から逃げずにむき合い、あの世で楽になれよと、静かに念仏を唱えて哀悼する。
 山上で鐘が鳴った。


二、火炎草
太田美濃守資正(39)
 
 (いし)()城の宿舎に(のぶ)(ひで)をかつぎこむと、従者に(なお)(かね)を呼ぶよう、命じた。間もなく、直兼が慌ただしく走って来た。寝台に横たわった信秀をちらと見、「これは、重傷でございますな」と冷静に呟いた。
「治せるか、図書助?」
「はっ。治せます。診たところ、傷口は広いですが、内臓には達しておりませぬ。糸で縫合し、止血すれば、数日で安静となりましょう」
「そうか、任せた」
「はは。お任せください」直兼が軽く微笑み、信秀を荷台に乗せると奥に連れていった。
 櫓にのぼった。
 岩殿山の方角を眺める。山から火の手があがり月に黒煙をあげていた。嗅ぐと、ここまで焦げた煙の匂いがした。逆上した伊勢軍が放火したのだろう。武州の兵は焼き討ちなんぞ野蛮な工作はせん。
 この大戦、われらが大義は、(うじ)(やす)の首だった。
 一族が悲願の逆賊討伐だったのだ。どんな犠牲が出ようとも、氏康さえ討てればよかった。
 脳裏にこびりついた氏康の冷笑する表情が、歴まざと蘇る。血がのぼり、歯ぎしりすると、急に力が抜けた。眩暈がし、櫓の柱にもたれかかる。
 乱れた心を静めようと、深く呼吸をくり返す。眼前の景色のなかに、きらめく幻の鎌を認めた。しばらく鎌の輝きを視ていたら、気分がわるくなり、つい嗚咽し、足元に吐いた。
 氏康の笑い声で、激しい鈍痛が頭に響いた。あまりの痛みで、うずくまり、頭を抑えて頭痛に耐え忍ぶ。夜の暗闇に包まれ、眼をつむり、激痛がひくのを待つ。
 そらが黄に映えている。
 夜明けか。口角から垂れた涎を拭き、重い腰をあげた。幾分か痛みは緩和している。
 東の空より陽が、昇りはじめていた。荒れ果てた大地を照らす。
 たくさんの友をうしなった。うしなっただけで、なにも得ていない。
 虚無感に包まれた。百日にもおよぶ戦火は、なにもかも燃やしてしまった。後には、なにも残らない。
 鼻の奥が痺れ、眼尻が潤むと、咳きこんだ。火は灰しか、残さない。
 おおぞらのなかを、(がん)(こう)のかたちをなした野鳥の群れが、黒く飛んでいる。遠く山奥で、夜明けを告げる鐘の音が、響いていた。


三、眠らない夜
(ともえ)(44)

 やまの頂にそびえる(しよう)(ぼう)()まで(よし)(むね)と登ってきた。義宗の股から止めどなく血が垂れながれており、来た道に線を()いている。
 本陣の広場に張られていた(まん)(まく)は泥に汚れまみれ、踏み荒らされた地面に静かに崩れおちてあった。人の気配はない。篝の火だけが佇んでいる。
 蒼白の義宗を(ぼん)(しよう)の石段に座らせると山上より眼下を望んだ。地平に光はない。闇が大地を覆っている。澄んだ空気を吸うと胸に新鮮な気持ちが宿った。
「ともえ。俺は、じきに死ぬだろう」弱い声が聴こえた。
「お前さん、なぜにそんな弱気なんですか? あんたらしくないよう」
「いいさ元気づけるなや」
「まあ」義宗の眼には、もはや生気はなく、死にゆく老人のようだ。「ふんばってください」そういって胸が苦しくなった。
「だからな、巴。もういってくれ」
「そんな水くせいじゃありませんか。あたしら夫婦なんですから一緒にいさせてくだせいよ」
「気丈だね。俺はおめえと出逢えてよかった。少しはまともな人間になれたよな、俺」やさしい笑みをむけてきた。
「そんな、なぜそんなことを」さびしくなって気がつくと抱きついていた。「まるでもう死んでいるみたいじゃねえかよ、おまえさん」
 義宗が大きく欠伸をした。「なんだか疲れたからもう寝るよ」
「待っとくれ。まだ」眼が閉じられると、あどけない表情をのこして白くおだやかになる。「待って。私を置いてゆかないでおくれよ」
 ゆっくりおきあがった。
 あたりはすっかり明るくなっている。気づけば山火事だろうか、地より白い煙が立ちこめていた。まだ、あんたは死んじゃだめだ。生きるんだよ、莫迦。
 石段を駈けあがり、梵鐘を見あげる。地平線に陽が見え、大地を黄に染めていた。
 天井に吊られた(しゆ)(もく)の紐をにぎると振りかぶり、おもいっきり鐘を打ちつける。梵鐘から深みのある良き音色が響き、山やまを()(だま)のように()け巡り、生き物に夜明けを告げるのだ。
「あんた、眼を()ましておくれ。さあ、眼を醒ましてよ」何度も鐘を打ち鳴らす。眼醒める奇蹟を信じていた。
 咳きこむ声が聴こえた。
 振り返ると黒い煙を(てのひら)で払う、あなたがいた。
 鐘が鳴り止み、石段を滑り降りると唇を奪う。
 瞳をつよくのぞき込んだ。「逃げるよ、あんた」
「ああ。無理におこされ、ひどく眠いがな」眼の下の隈が深い。互い様か。城に着いたらゆっくり添い寝たい。ともに飽くまで夢をみましょう。
 焦げ臭い煙のなかを駈けぬける。火の手のあがる道をさけ、林道を突きぬけ、下山の道をさがす。脚がもつれ、こける義宗の頬を打ちつけ、奮い立たせると転がり落ちて、山をくだる。
 この人は私が守ってやらねばならない。そうおもうと握っている手にも自然と力が入った。かゆみを帯びた瞼をこする。喉は渇き、声は枯れていた。追って来る火煙から逃げる。
 山は深かった。
 汗がしたたり、小袖は水気をふくみ濡れている。はく息は荒くなり、脚は重い。駈けるのが辛くなってきた。
 眠気に襲われる。義宗の歩みを止め、木の幹に腰をおろした。
「あんた、これまでかい?」精魂が尽きようとしていた。
「ふん。諦めるな。諦めればそこまでだ」義宗の顔が妙にあかるい。なにか策でもあるというのか。いや、ないだろう。あんたにその頭はない。「でもお前さん、いっこうに道がみえない。さすがに疲れたよ、もう」
 義宗が不敵にわらう。「道がみえないなら」
「なら?」と訊いた。なんていうんだい、あんた。なんかあるのかい、とはいえない。
「つくればいいのさ」といった義宗が、地面を掘りだした。がむしゃらに地を、掘りおこしている。
 ついに気がおかしくなっちまったのか。おしまいだ。じぶんの()(けつ)を掘るようじゃねえ、ともいわなかった。
 湿気た匂いが鼻をつく。義宗の身体が地上にない。地中の穴のなかにあった。いったいどうした。それにこの匂い、けっこう臭い。糞の発酵した臭いだ。
 土の崩れる音がした。
 穴をのぞくと歓喜する義宗が泥をなげ、はしゃいでいる。「やったぞ、巴。どうだ」
「この(ずい)(どう)は、なに? すごく臭いんだけど」
「地面から臭気が漏れていたから、まさか、と思ったら、まさかだ」
「だからこれは、なに?」ひどくむせて、いった。
「きくな。寝床に続く道だよ。おまえも来い」
 穴に降りた。
 臭気が満ちている。鼻を(ふさ)いでいないと気をうしないそうだ。「あっちだ」義宗が指をさした。
 暗い隧道の最果てに光がみえる。身をかがめ、道を進む。光が徐じょに大きくなるに従い、生きている実感が沸き、胸の鼓動が速くなってきた。隧道の壁に生の音が鳴り響き、あたたかな陽光に包まれる。
 逆光で顔は、はっきりとしないが、主人を待ち焦がれた家来の驚きで、武人ふたりが駈けよって来、「殿、無事でございましたか」と勢いよく声をかけながら腕を伸ばしてきた。掴むと引きだされる。地上に降り立ち、朝の風を胸いっぱいに吸いこんだ。
「これは下野守どのでしたか。てっきり駿(する)()(のかみ)どのかと」家来のひとりが嘆息したら、もうひとりの家来が、「駿河守どのはいずこにおられますか?」と尋ねてきた。
 義宗は家来らに、「やつは罪人を罰し、その(ざん)()に殺された」と、だけ伝えたら脚をおってその場に伏した。頭をさげ、目頭に手を当て、さんざ()きだした。
 そんな夫を眺めるしかできなかった。


四、若武者
浜野修理亮弥太郎(31)
 
 眼が醒めると両脇腹を抱えられ、歩かされていた。
 俺は一体どうなったのだ。
 ぼうっとおもっていると、右から声がきこえた。「浜野どの、見事なやられっぷりでしたよ」この声、()()()(もん)か。左からも声がきこえた。「大の字でぶったおれていましたよ」あ、この声は、(また)()(ろう)かな。「おまえらか。俺としたことが、あんな若造にやられるとはな」ため息をついて笑った。「だがおまえら、なぜここに。ああ、(ちか)(ろく)の策か」
 又次郎が答える。「いえいえ、ちがいますよ。迎えに来たのです」
「どういう意味だ。なぜ迎えに?」
 権右衛門が答える。「だって、あの山火事じゃあ見つかりませんよ。すべてが灰になったんだから」
「なんのことだ。おまえら、なにをいっている?」()()(ろう)は首を振り、ふたりの若武者の顔を見た。「どうなっている?」いままで話していた若武者の顔はそこにはない。あるのは、老練な男らの顔であった。「は。誰だ、おまえら。離せ、はなせ」
「なにを、いっているんですか? 俺らですよ俺ら。権右衛門と又次郎ですよ、()(てい)をお忘れで?」
「ふざけるな。俺をどこに連れてゆく気だ。離しやがれ」
「そんなに怒鳴らないでください。俺らと行きましょう。ほら、あっちは、あかるいでしょう」
「なんだ、なんだ。いったい、どうなっている? 誰か、こいつらを。誰か、だれか、助けてくれえ」
 弥太郎は、左右に抱えられ、あかるい光のほうにきえていった。
 なんだかやけに騒がしいな。
 
 
五、氏康の首
茜(15)

 ()()(わら)城に続く(かい)(どう)を落ちぶれた(うじ)(やす)が歩いていた。氏康の身体は全身煤まみれで、息をきらしている。後ろからゆっくり近づき、「殿、具足の紐がゆるんでおりますよ」と、声をかけた。
「おう、すまない。ありがとう」そういうと氏康は膝をつき、(かが)むと具足の紐をしめなおす。
 首を垂れた氏康のまえに回りこむ。(ふところ)から短刀を抜き、高くかかげると、首の根を狙って、振りおろした。
 致死から七度目の斬りつけ後、血だまりの道に、氏康の首がころがり、落ちた。

 岩付城の広間にて、家臣ら一同の先頭で平伏している。
 (すけ)(まさ)が来て、(おもて)をあげた。
 あぐらをかく資正のまえに桐箱を差しだす。差しだされた桐箱を怖るおそる資正が開くと、「間違いはない。まさしく氏康だ」と、力なく呟いた。
 資正が駈けよって来る。「茜よ、まこと大義であったな。褒美をつかわす。遠慮せずに申せ」と、やさしい声をかけてきた。
 言葉が出ていた。「旅に行きたいのです。国を見て回りたい」と、願いを伝えた。
「あいわかった。路銭を用意させよう。家来もつけような」
「はは。ご配慮ありがたく存じます」床に平伏し、言葉を待つ。
「皆の者きけ、氏康は討たれた」資正が叫ぶと場内の家臣らから歓声があがった。
 歓声で広間の壁や床やらが響く。
「みよ」桐箱を持ちあげ、家臣らに氏康の首をみせ、「われらが先代と亡き若君の無念、ここに晴らしたのだ」と、大声をひびかせる。
 背後よりすすり泣く声がきこえた。
 資正は、哀愁の眼で家来らを見おろし、言葉を足す。「戦没者の供養のため今宵は盛大な宴を催す。存分に騒ぎ暴れてくれ」
 潤んだ瞳で笑み、さらにひと言つけ加えた。「死んでいった者らに伝わるぐらい喧騒にな」


六、大志
梶原源太政景(13)

 本丸の大宴会場では百日にもおよんだ大戦の疲れを忘れるがごとく家臣らによる大層賑やかな夜宴が催されていた。
 (まさ)(かげ)は、離れの客間で、父資正と対面し、杯を酌み交わして戦勝を祝う。「父上、おめでとうございます。一族が念願の(うじ)(やす)の首を肴に、酒を飲める日が来ようとは」
「ふむ。これも皆が戦功のお陰だ。まあ今宵は飲み明かし共に大勝祝おうぞ」父が大杯を傾け、豪快に酒を喉に流しこんだ。
「氏康なき今、虚勢を張る伊勢なんか眼中ではありませんな、父上」
「そうだな。(そう)(しゆう)の大国、(うじ)(まさ)の器では荷が重いだろうよ」
「して、どういたしますか?」
「どうするとな?」
「ははっ。今回の勝利で武州全土に太田の武名は(とどろ)きましょう。さすれば国衆に甘んじている必要はないと思いますが、どうですか?」
「ほほう、さすがは我が息子。父の(こころざし)を見抜いたか」
「志ですと?」
「ああそうだ。父にはな、若きころより胸に秘めた志があるのだ」
「それはなんでしょうか?」
「まあ当ててみよ」父が薄く笑い、酒を飲む。
「ではやはり、大名ですか? 機に乗じ、覇を唱えれば()(しゆう)(ぜん)(ぐん)の諸将もきっと従いましょう」
 父が眼をとじ、口角をあげると、首を横に軽く振った。
「ではでは、武州平定後、伊勢を滅ぼし相州を得る。否いや、それだけでは飽き足らず、さらには武田も滅ぼして甲州も得る。武州、相州、甲州の三国の主となる(たい)(ぼう)を抱いておいでですか。これでどうですか?」
 天を仰ぐ父が息を吸うと肩をおとし、首を横に振る。
「なんと。大国の覇者になりたいわけではない。さて困りましたな。三国統治が志でないのなら、単純な国土の数重ねともちがう気がしますし。このままゆくと盗る国がなくなりますぞ」
 瞳を少年のように輝かせ、口元に笑みを浮かべた父が髭を触り、()っとこちらを見つめている。
「ああ。まさか、そんな。大業ですぞ」活力が漲る父の顔を見、あまりのまぶしさで、眼をそらすと床に平伏し、「愚息ではございますが一生お供いたします」といっていた。


七、出家
太田源五郎資房~道也(19)
 
 地蔵堂の講堂で座禅を組み、和尚より(てい)(はつ)をうけ、(どう)()の法名を授かった。
 出家せよとは(てつ)(さい)の進言だ。出家すればもはや太田家とは縁がなくなるから暗殺される心配もない。機を見て(げん)(ぞく)し、城を奪えば良いだけなのだ、と。
 道也は経を唱え、思案を深めた。俗世から離れ、悟ったことがある。すべてを捨てたら、すべてを得た。
 おだやかな安息の日びが、そこに広がっていたのだ。
 背後から(ほう)(りん)(みよう)(しゆん)()と号した母が来て、肩を静かに揉まれた。眼をとじ、「母上、肩は凝っておりませんゆえ、お止めください」と呟いた。
「まあ気にしませんな。母が好きでやっとるだけです」
「しかし」
「源五郎、あなたもずいぶん母に甘えてきたのだから、良いではないか。いまは母も甘えさせておくれ」
「母上」そういうと母の冷たい手の甲をさすってやり、「すまぬ」
 というのでやっとだった。


八、訣別
茜(15)

 夕暮れのころ、松山城主の質素な居室で、(のり)(かつ)とふたりきりで、たわいもなく語らっていた。
「見事であったな。(うじ)(やす)を討つとはな」高座の憲勝が機嫌よくわらった。
「はは」平伏する。「お役に立てて光栄でございます」
「うむ」憲勝の声が低くなると問うてきた。「(あかね)よ、話しがあるんだが聞いてくれぬか?」
「はい、なんなりと」床板の木目を凝視し、息をのむ。
「じつはな」声に張りが出た。「城主を辞めたいと考えている」
「なんと誠ですか?」おもわず顔をあげていた。
「よいよい、ああ戯れ言ではないよ。このまえ(あん)(どく)(さい)という男が和議の申し入れにきたのだが、これがなかなか見こみのある男でな」憲勝の口もとが笑んだ。「俺がいなくなったとしても民らは苦労せんだろうよ」
「よろしいのですか?」
「ああ」憲勝が肩のちからをぬき、息をおおきく吐いたら軽く言葉をなげてきた。「俺は庶民に帰るが、おぬしもどうだ?」
「といいますと?」声がわずかに上ずった。
「よければだが、俺と一緒に来てくれぬか?」
「それは」瞳の奥が潤んだ。くちびるが震えていたが、はっきりと答えた。「もちろん。共に行きます」
「そうかそうか、ありがとう」憲勝の顔が明るくなった。「そうだ、茜。旅をしよう。おまえ旅なんかしたことないだろう? 色いろな知らぬ場所を見てまわり、住みよい地を探そうか」
 もはや夢のようだ。夢なら醒めるな。もう少しだけ視させて欲しい。「そうですね、愉しみです。きっと良き旅になりますよ」心の鼓動が早くなる。「あなたとなら」 
 戸の割れる音がした。
 黒装束すがたの覆面の(くせ)(もの)が四五名、忍び足で近づいてきて殺気を放ち、こちらを見ている。「風間」
 一斉に飛びかかって来た。
 短刀を抜く。八の字に振り回し、憲勝を守るように前に立ち、腰をかがめる。ここでは分がわるい。「殿、背にお乗りください。城外に逃げます」
「ああ、すまん」憲勝が背に乗ってきた。足裏が床に沈み、板が軋む。左手で憲勝の尻を支えると、おぶって駈ける。廊下に出ると窓枠から外に躍り出た。
 そらは赤く染まっている。屋根は紅いろに夕陽をてり返し、あかあかと燃えていた。屋根のうえを走りぬき、櫓台に飛びうつり、梯子をすべり落ちる。屋根のうえから風間らが殺気の眼をむけている。後ずさりすると山林のなかに駈けだし、山道を下る。
 山を下り、広大な平地に出た。が、後ろから追っ手がまだついて来る。
 駈ける歩幅を縮め、加速した。脚から蒸気があがる。土埃を巻きあげ、茜の風に溶け、ついには馬になった。
 風が流れる。霜で枯れた草原を吹きぬけ、()ける。主人を乗せて疾走し、追っ手の殺気が引き離されていった。
 百年の巨大な老木の幹に抱かれるころには、もはや追っ手の気配はなくなっていた。
「お()()はないですか?」
「大丈夫だ」
 ひと息つき、腰をおろす。憲勝を樹木に寄りそうように座らせた。はるか遠くに松山城の山岳がみえる。ずいぶん遠くまで来たもんだ。
 汗をぬぐう。風が心地よい。いい風が吹いていた。
 濡れた髪が流される。つよい風が吹いたのだ。いやな悪寒がしたから、そのほうを振りむく。誰か、ふたり立っている。眼を()らす。しだいに姿がはっきりとなる。とたん悲鳴をあげていた。「(いぬ)()(すけ)、それと」顔が強ばった。「え、おまえは()(すけ)か」
 きょとんとした犬之助の後ろに、不敵な笑みを浮かべた猪助が腕を組んで立っている。「茜」犬之助の顔が動揺したが、すぐに真剣な顔にかわった。
「生きていたの? よかった」猪助をにらみつけ、駈けよろうとしたら、犬之助がゆっくりと腰に佩いた月光を抜き、青く走る刀身を差し出し、こちらの動きを制してきた。「すまん、茜」
「なにしてるの? 太刀なんか抜いてどうしたの?」
「小白のためだ。ごめん。ほんとうにごめんよ」太刀をもつ手が震えている。眼には涙があれていた。見かねた猪助が犬之助の背を覆い、犬之助の拳のうえに手を重ねた。「ほら手伝ってやる。娘のつぎは憲勝だ」
 同時だった。
 太刀が()ぎ、火花が散った。
 猪助の眉間に穴が空く。血を噴きだし、ゆっくりと姿勢を崩して後方に斃れる。横目で見れば憲勝が杖を構えており、杖先から煙が立っている。
 おかしい。脚が動かない。
 犬之助が蒼白となっている。視線は下だ。なにをそんなに怯えているの。膝下が動かない、なぜ動かない。
 上半身を振ったら体勢が崩れ、地に倒れる。
 え、なに。なぜ倒れた。もうなぜ。
 眼のさきに斜めに立った脚が二本みえた。履き慣れた藁草履。泥で汚れた見慣れた指さきと血で固まった欠けた爪。
 私の脚だ。え、どういうこと。なぜそこに私の脚がある。なにかおかしい。私いまこうやって倒れているんでしょ。なぜそこに脚がある。おかしいじゃない。
 あぶら汗を感じ、とっさに膝さきを見た。
 膝さきにあるべき脚がない。脚がなくなっている。私の脚がない。眼の前にある脚は私の脚。
 顔から血の気が引き、意識が不明瞭になると半身が血溜まりのなかに沈む。
 遠くで、憲勝の声がした。耳が遠くなっている。顔を泣き崩した憲勝が、なにやら叫んでいるが、もう聞こえない。口のかたちだけ三度くり返し、おなじ言葉を叫び続けている。
 なにを叫んでいるの。なにも聞こえない。
 意識が、虚ろになる。一緒に色んな国をまわってみたかった。愉しみだったのに。
 されど、もう叶わない。脚がないから、どこにも、ゆけやしない。
 ひと言だった。
 乾いた唇を動かすと、心から命がもれ、赤い空にとける。

 額に雨つぶを感じたら、村さめに茜は襲われた。はげしい雨に打たれながら、雲たちぬ坂を駈けおちる。
 みずいろの吐息は発散され、檜皮(ひわだ)色の小袖から淡い(きり)がふかされると、(かすみ)になる。あおき穂の(つゆ)に、色香を残し、駿(しゆん)()の脚は、風にさらわれた。

 (たい)()がある。
 砂利石の河原を歩いてゆくと、川辺に古びた(ころも)をいくえにも着重ねた老婆が平岩の上に座っていて、にんまり笑った、とおもったら、ひょろ長い手を伸ばしてきて、金銭を要求する仕草をしてきた。
 老婆の後ろには舟がとまっており、きっと、渡し舟の運賃を払え、ということなのだろう。あいにく手持ちの銭をもっていなかったから、右手になぜか握っていた三味線を老婆にわたすと、ものめずらしそうに三味線を眺める老婆のよこを通りすぎて、岸より舟に乗りこんだ。
 舟の(ふち)に腰をかけたら、うつむいた白髭面の船頭が、勢いよく漕ぎだし、舟はむこう岸へと進む。
 舟は、激しい川の流れに逆らい、河川を横ぎる。
 舟に揺られ、耐えていると、いつしか岸辺に辿り着いていた。
 岸におりたつ。振り返って船頭に礼をして、面をあげたら、川面の輝きに照らされた船頭の顔がはっきりと瞳に映った。ずいぶん年をとった憲勝の顔が、そこにあったのだ。


九、嗤って赦して
扇谷上杉新蔵人憲勝(35)
 
 あかね、しっかりせい。
 瞳は遠く彼方を眺めていた。遠に眼のいろはきえている。血に汚れた(あかね)を抱き、何度も名を叫んだが、茜は応じない。
 顔があどけなく笑んだら、口もとが静かに動き、かすかに声が聴こえた気がした。
 茜、おまえ。まだそんなことを引きずっていたのか。それはあまりにも重すぎる。
 ほら、このとおり。そんな心配するな。
 軽くなった茜を両腕で抱きかかえると、右脚の痛みをこらえて片脚の力だけで立ちあがった。(のり)(かつ)は茜の顔をのぞき込むと微笑んだ。
 さあ帰ろう。ここだと寒かろうよ。寝てたら風邪ひくぞ。
 帰ったら、やるべきことが山積みだ。だから、そばにいて手伝ってくれ。やってほしいことがまだまだあるんだ。
 くれないの空にはえる帰路を踏みしめ、一歩、またいっぽと歩む。頬に赤い涙が伝った。唇が塩辛くなる。
 返事のない茜の白面を見、もう来ない明日をおもったのだ。おまえのいない明日を想像できると思うかい、茜。なあ答えてくれよ。
(わら)って(ゆる)してやるからよう」


十、未来を紡ぐ橋
鉄心(45)

 北条軍が撤退した年の春、(のり)(かつ)の使いの者より、うまれたばかりの(あか)()を渡された。この子を安全な場所にかくまってくれ、との命令だ。
 ()()(わら)城にいた。咲き(うれい)の木のうえより中庭を見ている。(うじ)(まさ)の正室、(おう)(ばい)(いん)の出産が北の間で行われていたが、赤子の泣き声はきこえてこない。死産だ。男児だったらしい。
 発狂した黄梅院は気をうしない、寝床に倒れた。狼狽した(さん)()が肩を落とし、さらさら廊下を歩いている。白い布にくるんだ遺骸を大切に手で包み、奥の部屋にきえていった。
 木から飛びおり、庭に立つと廊下にあがる。気をうしなった汗だくの黄梅院のそばに腰をおろすと、懐より預かった赤子を取りだし、黄梅院の寝床の横に寝かしつけた。
 意識を戻し、夢でも視ていたような黄梅院が、「可愛い我が子。私の可愛い赤子よ」そういい、喜びの声をあげている。戻ってきた産婆がその光景に絶句していると、抱かれた赤子が()(ぶさ)をまさぐり、乳首に吸いついた。すやすや甘えるのだ。黄梅院がおだやかな表情になり、やさしく赤子の顔をのぞき込んでいる。
 産婆が安堵の表情を浮かべ、「黄梅院さま、喜ばしいことです。元気な男児ですぞ。いやはやおめでたいですな」と、盛大に祝いの言葉を述べた。
 赤子は(こく)(おう)(まる)と名づけられた。氏政の息子、北条家の跡取りとして家臣らからも大切に育てられる運命に導かれた。

 早駈けで岩付城に帰ると、資正に敵地の状況を伝える。「(うじ)(やす)を見てきましたが、殿が察したとおり、あれは(つな)(なり)の弟、(かつ)(ひろ)でした」
「そうか、どうせ(そう)(てつ)の入れ知恵だろうよ。あの老いぼれが」
「善政も(うじ)(つな)の残した五箇条に則っただけの空虚なしだいで、敵国内では氏康未だ健在とばかりに大量の書状が発行されておりました」
「ふむ(こつ)(けい)だな。氏政の力だけでは国を統治できぬか」
「は、誠そうでございますな」かるく微笑み、鼻を鳴らした。「では失礼を」
「まて、それだけか、ほかになにか、ないか?」
「なにか、といいますと?」頭を回し、口にだす。「敵情ではございませんが、妹君の輿入れの日取りが決まったくらいしか思い当たりませんが」
「とぼけるな」(すけ)(まさ)の眼光がするどくなった。「お主な、よもや伊勢に通じているとかあるまいよな?」
 わきの汗がたれた。「いえいえ。ご冗談を。なにをいいますやら」
「ほんとうか。小田原城内でお主を見たと、ある者から聞いたのだが」資正がまっすぐ見つめてきた。
「え、それはですね。ええと」
「どういうことだ? 答えよ」
 駈けた。資正が弓矢を構えると矢を放ってきた。矢は、背を()()く。正確に心臓を貫いていた。殿、あっぱれですな。なぜ私が北条家の間者だとわかりましたか。誰も知らぬはず。なぜですか、北条方に内情を流していたことが、なぜ、わかったのですか。
「早とちりめが」

          
十一、百一日目の真実
扇谷上杉新蔵人憲勝(35)
 
 密告の功により(おん)(しや)を与える。そういうと侍女らに、縄で両手首を括られた(えい)(しゆん)を退出させよ、と命じた。
 城内に風間を引き入れたものがいた。そう、内通者がまだ城内にいたのだ。その者の名を、栄俊が吐いた。栄俊もその者と共謀し、俺の命を狙ったとのことだが、共犯者を裏切ったのだ。
 乱世、昨日の敵は今日の友ともいう。主犯格のその者を教えてくれたのだから、栄俊の命まではとらなかった。だが、栄俊の陰謀は主君殺しの大罪だ。
 城主として罪人に罰を与えた。()(けい)だ。唐人から伝え聞いた話だと本土では打ち首よりも残酷な刑らしい。
 (ひこ)(はち)を呼んだ。呼ばれた彦八が平伏する。「彦八よ、お主に命じる」
「はい、なんなりと」
「わが妻千()()をひっとらえよ」
「千代さまをですか?」
「ああ、そうだ。千代だ」
「なにをされましたか?」
「きくな、ただ捕らえよ。まあ念のために伝えておくが奴は伊勢の間者だ、ぬかるなよ」
「伊勢の方の、それは。かしこまりました。(そう)()で捕らえます」
「よし、頼んだ」
「殿、捕らえましたら、どういたしましょうか? いったん牢にいれますか?」
「いや、ならん。捕らえたら」
「はい」
「捕らえたら門の上にな、生きたままでよい。縄で手首を縛って(つる)せ。吊して群衆らの見世物とせよ。汚らしい売国奴にはお似合いの最後だろう」
 彦八を下がらせると(のり)(かつ)は内に沸き立つ衝動を抑え、立ちあがった。壁に立てていた太刀をとると鞘から刀身を抜き、煮えたぎる情念とむき合う。
 部屋の角隅から闇に包まれた己が姿を現した。顔に不気味な笑みをたたえている。眼には殺気があり、こちらをにらんでいた。
 刀を構える。汗が頬をつたう。刹那の緊張の末、影がむかってきた。おぞましい気を放ち、こちらに斬りかかってきた。
 ()()い斬った。
 かけ声とともに太刀を縦に振りおろし、影を対称に等分した。(がん)(こう)を広げ、強ばった顔が(またた)き、口角をあげ笑う影が闇に溶けた。
 刀身を鞘にしまう。床板のうえに太刀を投げだすと背をかがめ、あぐらをかく。もはや憎しみなんぞ消えてしまい、心にあるのは燃えあがった(ざん)()だけであった。


十二、暗黒の血
()()(ろう)(37)
 
 後には戻れない。
 ()(すけ)の鼻と上唇を()ぎ盗り、二羽の(きん)(じやく)が掘られた懐刀をしまう。
 小太郎の名を継ぐ。風間の谷にゆき、小太郎となってやる。敵方の北条家のために働こう。まこと哀れ、とおもうと笑みがこぼれた。
 血に塗れた過去は、どれほど(つぐな)っても浄化されない。汚れきった手は大切な女を二度も奪ったのだ。震える両手を眺め、(いずみ)(あかね)の顔が重なる。()(はく)だけは、小白だけは絶対にやらせない。この(けが)れた手に殺させはしない。
 あのとき出逢いさえしなければ、これほど悲しまずに済んだのにな。もう誰も。誰も慈しむことができぬだろう。俺がこわい。
 呪われた血だ。
 体内に流れた血は暗く、冷たい。代だい継いできた血は意志とは無関係の衝動をかりたてる。
 いのちを奪った快楽が忘れられない。なぜ、ひとを殺してこれほどまでに(たま)らない(えつ)に浸っているのだ。血が沸き、肉身が躍動し、肚の底から絶叫している。悲しいほどまでに、清すがしい気分なのだ。この血が、この血が、そうさせているのか。
 風間の谷にゆけば、生きる答えが見つかるのだろうか。俺に生きる意味はあるのだろうか。まあ意味がなくともよい。みえざる鎖につながれ、死に絶えれば本望だ。だって誰とも交わらない人生に生きる価値なんかないのだから。孤狼の遠吠えか。
 いんや、あったかい幔頭をうばわれ、夢から醒めた乞食か。
 そうおもうと、堪えきれない感情がわき、気づけば、歯と舌のすきまから、わらい声がもれていた。おかしくて、おかしくて仕方がない。わらいが止まらない。腹がけいれんし、喉が枯れ、頬が引きつっても、わらい声がこみあがる。両眼からは、涙があふれ、頬に止めどなく、涙が伝わる。口からはよだれが、垂れ流れる。
 茜の空には、小次郎のわらい声が、けたたましく鳴り響き、まるで天が、小次郎をわらっているようであった。


十三、そのとき歴史は()(てん)する
(おお)()(げん)(ろく)(すけ)(なが)(15)

 (けん)(ちよう)()の梵鐘が鳴っている。
 足利学校の(のう)()(かい)(げん)が説く(えき)(がく)の講釈を徒然きき、心は講堂の窓際に映える新緑の景色にとらわれていた。
 (ぶん)(あん)四(一四四七)年の初夏のころ、一昨年に(げん)(ぷく)した(すけ)(なが)は鎌倉五山で学問を修めた後、父の勧めでここ足利学校に入学し実学に近い諸氏兵法を学ぶ機会を得た。
 眼のまえで論じられる埃の被った(せん)(ぼく)の類いよりも実践に重きを置いた軍学に興味があったから退屈に退屈していた。若草が生い茂った草原のなかに馴染みの農作の民らが十人、見えてからは書の写しにも関心がなくなり、早く奴らと駈けたい想いがこみ上げてきて、ついには辛抱の限界を超えた。
 となりに座っていた京から遊学に来た、という()()(しん)()(ろう)(もり)(とき)のほうをむくと、小声で話しかけていた。「新九郎、おい新九郎」
「なんですか、(げん)(ろく)どの?」と、眼でこちらをにらみ、小声で呟いてきた。盛時は背筋をのばして正座し、達筆な書を紙に写していた。
「くだらん講釈なんぞ写さずに、ともに参らんか?」
「またですか。ついこのまえ説教をうけたばかりでしょうに」
「僧らの説教なぞ馬耳東風よ。頭では和歌をつくるので必死だったわ」息が笑った。
「もう、だらしない。私は五常に誓い改心しました。源六どの、そんなでは立派な人物にはなれませんよ」
「ふん、だったらいいよ。俺一人でぬけるから、せいぜいお前はくだらん書でも写していろ」足をくずし、身をかがめ、講堂から出てゆこうとしたら、袖をひっぱられた。
「待って」盛時が背を丸めて、身を近づけてきた。「実は私も飽きあきしていたのです。息抜き、ご一緒いたします」
「そうこなくっちゃ」互いに声をださずに笑い合った。

 清すがしい夏の風が吹いている。よこ風で草が波立ち、生きいきした緑の草が躍動し、風の子を運ぶ。歩いていると宿で世話になっている()()()(もん)と顔なじみの百姓が九人、嬉きとした顔をし、駈けてきた。「源六さま、お帰りですかい?」
「ああ、そんなとこだ」
「それに、新九郎さまもご一緒で」
「うむ、今日は早くに講義が終わってな」新九郎は、ぎこちない作り笑いを浮かべている。陽はまだ高い。
「そうなんですか」吉右衛門が、あっ、と呟いた。「ああそうだ、源六どの。用意できていますよ。もちろん新九郎さまの分もね」
「おうそうかい。手配がよいな。では皆で行くかな」盛時に顔をむける。「無論、おまえも行くよな。慣れだ慣れだ。要は慣れ。慣れればどうってこったない」不敵に笑い、半ば強制に問う。
「ああ無論。これでも武門よ。怖かないですよ、まったく」盛時はやはり、ぎこちない笑みを浮かべていた。

 草原に十二頭の馬が走っている。
 ()(ぐん)の先頭を駈け、馬上で風を感じていた。手綱をひくと、なおも加速し馬と一体となり、若い葉の匂いをかぎ、疾走する。ちらと後ろを見ると吉右衛門と九人の百姓が追いかけてきたが、盛時のすがたがみえない。眼を細めると、はるか後方に失速した馬がいて、不器用な手綱さばきで馬に遊ばれていた。
 ため息をつくと馬首を急旋回する。ななめに胴体を倒し、緩やかに曲がると反転し、馬に好き勝手にもてあそばれる盛時のもとに駈ける。
「主人はどっちだ?」馬上から汗だくの盛時にむかって言葉を吐く。
「どうどう」それどころではない様子で必死に馬の動きを(しず)めようとしている。
「ちがう、ちがうだろ。なにを偉そうに馬を(あやつ)ろうとしているんだい。馬はな、いや友だ。そんなに乱暴に扱ったら誰でも(いや)がるだろうに」
「見てないで、助けてくれい」
「仕方がねえな、それでも京の名家の子か。坂東の田舎侍が馬の手ほどきを進ぜてやるか」怒り狂っている(らん)()をみすえる。「よくきけ。手綱を放し、馬の首につかまって身を任せよ」
「そんなことしたら、振り落とされ、このあいだみたいに落馬するよ。厭だ、絶対に」だみ声で叫んでくる。
「黙れ、俺を信じろ。そのまんまじゃあ、ほんとうに落馬するぞ。下手したら骨折するだろう」
「わかったよ。信じる、信じてやる。でも落馬したら許さないからな」
「ああ、お好きに」
 盛時が手綱を放した。轡に手綱がぶら下がると身をかがめ、馬の首にしがみついた。馬は振り落とそうと必死に躍動し、盛時の胴が上下に何度も浮く。「もうだめだ、俺は死ぬんだ」情けない叫び声が聴こえた、とおもうたら(いか)れる馬の躍動はしだいに沈静し、ついには動きがとまった。盛時の顔が(たてがみ)のなかに埋まっている。
 馬を下りると盛時に近づく。「だろ、落ち着いただろう」そういうと手の平につばを吐きつけ、馬の鼻を豪快に()でてやった。眼がとろんとなると、手の平を舌で、なめてきたから、くすぐったい。
 盛時が身をおこした。「はあ、見苦しいところを見せてしまって、すまない。助太刀いただき感謝いたします」
 資長は笑いがこみ上げてきて、堪えきれずに吹きだした。「その顔」
「はあ、なんだ?」
「どこの山賊のかしらだよ」盛時の顔に無数の抜けた鬣が張り付いていて、その顔は()(とぎ)(ぞう)()に出てくる鬼づらの山賊大将のようであった。
「笑うなよ、ぺっ。必死だったんだから、ぺっぺっ。見てくれなんかどうでもいいだろう、ぺっぺっぺっ」必死に顔をぬぐう盛時の姿が本当に滑稽に映った。

 馬を二頭、仲良く木の幹にくくりつけると、資長は盛時と一緒に大の字で草原に寝転んだ。心地の良い風で、さきの喧騒の疲れも和らいだ。
「新九郎、俺には夢があるんだ」
「夢とな?」
「ああ夢だ。俺はな」
「なんですか?」
「天下を盗りたい」
「天下を盗るですと? それは不忠でございますよ」
「不忠か。まあ僧らに、いわせれば不忠だろうな」
「否いや、大逆です。臣が天下を盗るなんぞあってはならない。天下は名主が分かち、臣を動かし治めるものですぞ。それが盗るとな」
「なあ、お前の夢はなんだ? ひとさまに文句いえんなら大層な夢をもっているのだろう?」
「夢ですか? 夢といえるかは曖昧ですが、私は名家の子、主君を支える忠実な臣下の血脈を受け継いでおります。なので、わが主君に従い、命が尽きるまで主のために忠孝を働くが務めでございます」
「ほうご立派だな。まさに忠臣の鑑だな。されどな本当にそれでよいのか? 主が己より劣っていても、それでも仕え続けるのかい? 忠孝に従い、功臣であり続けるべきなのか」
「はい、私はそれこそが私の生きる道と考えます。それが名家の役目です」
「ふむ、そうかい。俺はな、ちがうと思っている。力なき主君は天下に害をもたらす。多くの民は飢え、臣は腐敗するだろう。だから」
「だから?」
()(こく)(じよう)だ。有能な者が天下を治めた方が世は良くなる。民らも幸せになるんだ。そう思わんか、新九郎?」
「いいや、思わん。下克上なんて正気ですか。臣が主にとって代わろうなんか、絶対にあってはなりません」
「ふんそうかい。理念はちがうか。お前とは気が合うと感じていたのだがな。残念だ」
「源六どの、私たちは若い。この世の仕組みを知っているようで知らない。将来、天下を盗る、という甘い言葉が幻想だと気づくだろう。だから間違っても私以外に、口に出すな」盛時が真剣な顔で見つめてきた。「友に無駄に死んでほしくありませんから」
「友か、そうだな。俺らは友だ。本音を語り合った友だ。わかったよ、この想いは胸にしまう。決して口にしない、誓うよ」
「はい、そうあってください。私たちはまだまだ若い。死ぬにはあまりにも早すぎる」
 資長と盛時は仰向けになり、おなじ青天の空を眺めていた。すいこまれるような青さだ。資長らのそれぞれの心に抱いた大志のいろのようであった。若さはとても純粋だ。よどみきった世の中のなかで無垢な輝きを放っている。永遠の輝きはないからこそ、これほどまでに美しい。

 眼をとじて、風の音を聴いていたら、吉右衛門がやって来た。誰か、連れている。汚らしい小男だ。俺らとおなじ、年ごろか。「そいつは?」
「はい、村はずれの渓谷に一軒、小屋があったでしょう?」
「ああ、あったな。無口な奴らで、挨拶しても、うんともすんとも、いわない変わった連中だったな」
「ええ、それでね、今朝方ですが放火にあったらしいんですよ。誰のいたずらかは知りえませんが、小屋が焦げ落ちていました」
「ほうそれは可愛そうに。じゃあ、あれか。そいつはそこの孤児かい?」
「はいおそらく。衣服も所どころ、焦げていまして顔も煤で汚れていますよ」
「うむ。行く当てはあるのかい? おまえさんの家も大変だろうに」
「はい。うちも、せがれがうまれたばかりで、八人兄弟の大世帯でして正直、(ねん)()を納めるのがきつい有様ですよ」吉右衛門が自虐し、せせら笑っている。
「そうかい、それはな。どうしたものか」
 盛時が口を開いた。「私が譲り受けてもよいか?」
「あん、お前がか」
「そうです。おい、なにがおかしい。孤児を養って、なにがわるい」
「否いや意外だったもんで、ついな。お前がいいなら、それでいいよ」
「そうか、では」盛時が孤児に手招きをした。怖おどした孤児がゆっくりと近づいて来る。「お主、名はなんというのかな?」
 孤児は黙っている。言葉を理解していないようだ。「うむ、名がないと呼びにくいのだが」盛時が困っていたから、口をはさんだ。「新九郎、俺が名付けてやるよ」
 孤児の瞳を凝っと覗きこむ。透き通るような、きれいな眼だ。が、人相は甚だわるい。誰もが下人というだろう。
 うむ、適当ないい名が浮かばん。とりあえず呼び名があればいいだろうと妥協した。「()()(ろう)、背の低い男児だから小太郎、今日からお前は小太郎だ」
 小太郎が見つめてきた。口が動く。「コウタロ?」
「ちがう、小太郎。小太郎だ」
「コタロ」
「そうだ、小太郎だ」
 小太郎は何度も自身の名を呼び、小太郎の名の響きを確かめていた。
 盛時が小太郎を呼ぶ。「小太郎、今日から私の従者となれ。片時も私から離れるな。養う分しっかりと精進いたせよ」盛時はやさしくほほえみ、言葉を発した。
 だが小太郎は無表情で立っている。心配した盛時は近づき、小太郎の顔を布で()いてやった。
 煤で汚れていて気づかなかったが、小太郎の口元は少しだけ笑んでおり、人相も多少は良くみえ、不細工だが、誠かわゆい表情になりかわっていた。最初からずっと笑っていたのだろう。辛いことがあったのに笑っていた。
 涙ぐんだ盛時が愛らしくおもうと、小太郎の身体を抱擁し、「安心なさい。面倒をみてやるから」と、頭を撫でて元気づける。
 資長は盛時らと別れると夕陽が沈むあぜ道をひとり歩いていた。盛時の言葉が心のなかで反芻し、思案にふけっていた。新九郎は将来、立派な忠臣となりえような。あの孤児も幸福だ。大人物と巡りあえたんだからな。きっと穏やかな人生を歩むだろうよ。
 前を見ると学童の駈ける姿が、眼に映り、燃えおちる陽にむかって走っていた。

 鎌倉五山で学業に励んでいた立春のころ、紅梅の木の下で(かん)()()を読みふけっていたら、すっかり辺りは暗くなり、手持ちの灯もなかったから山林の(ふもと)にある下宿さきを目指し、鼻緒のちぎれかかった草履を手にかかえ、はだしで駈けていた。
 西の山嶺に陽が隠れ、朱に染まった夕空に(ぼう)宿(しゆく)の星が、むつらぼしが青白い光をつつんで静かに輝いている。
 宿(しゆく)(よう)に深い感心はなかったが、瞳に映る星群を眺めていたら心が満たされ、澄んだ冷気を吸うと四肢五体に新鮮な血が巡り活力が肚の底から(みなぎ)ったのだ。むずがゆい震えが手足の指先まで伝わり、たまらず(すばる)(ほう)(こう)をあげたら陽に照らされた山路の坂を転がりおちていった。

 陽にきえる少年の姿に(どう)()だった己の面影が重なり、過ぎ去りし幼き日びの思い出がよみがえってくると、全身から若き力があふれだす。夢に満ちていた幼年の俺に叫んでいた。
 天下を盗ってしまえ。諦めるな。諦めるなんか逃げだ。逃げずにひた進め。時代を駈けまくれ。
 駈けよ、俺。


「武州大乱」 完


参考文献
「論集戦国大名と国衆12岩付太田氏」黒田基樹著 岩田書院
「戦国関東の覇権戦争 北条氏vs関東管領・上杉氏55年の戦い《歴史新書y)」黒田基樹著 洋泉社
「甲陽軍艦」佐藤正英著 ちくま学芸文庫
「関八州古戦録 上《原本現代訳28)」槙島昭武著 ニュートンプレス
「関東争奪戦史松山城合戦 戦国合戦記の虚と実を探る《比企双書002)」梅沢太久夫著 まつやま書房
「新版雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り《朝日選書777)」藤木久志著 朝日新聞出版
「歴史・時代小説ファン必携 絵解き 雑兵足軽たちの戦い」東郷隆著 講談社文庫
「新版雑兵物語」かもよしひさ訳 パロル舎

 

武州大乱

武州大乱

関東の戦国武将として有名な知将「太田資正」と覇王「北条氏康」の因縁に関して、同時代を生きた武将らの視点を交え、その背景を描きます。 なぜ知将は覇王を裏切ったのか?北条家に12年間仕えた忠臣が、突如として上杉家に呼応し、資正が生涯に渡って反北条をつらぬくきっかけとなった争乱、「武州大乱」を本物語では取り上げました。 かれは何を思い、行動を起こしたのか?読みおわり、すべてがわかった後、あなたはきっと「太田資正」のことが好きになっていることでしょう。 かれと共に、戦国の時代を生きてみてはいかがでしょうか?そのなかで、なにが見え、なにを感じましたか。 あなたの答えが、みつかりましたでしょうか。

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 青年向け
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