短編

くまさんと出会う

彼女に、フラれた。

雨の日の夕方だった。


遠距離だって関係ないくらい好きでしょうがなかったのに、彼女にとっては耐えきれなかったらしく

好きな人が出来たと、そんなありきたりな理由でサヨナラされた。



最後になってしまった電話を切る。

机には、少し不格好なテディベア。

(…やっと出来たのに)

来週に控えた彼女の誕生日。自分の代わりにと渡すつもりだった。
3ヶ月以上かけて、裁縫なんか滅多にしない自分が頑張って頑張ってようやく出来た茶色い熊は、寂しそうにこちらを見上げているようで。

「…ごめんな」

俺が大事にするからさ、と頭を撫でた。

途端、あふれだす涙。

膝から崩れ落ち、机にもたれる。

「っ…く…」



大切だった恋を失った

大好きだった人を、もう好きではいられない

思い出がめぐる

もう、すべて過去のこと


どこにも戻れない

あの幸せだった日々は、もう帰ってこない



そのまま、眠りに落ちた。


「…アキ、起きてください」

心地良い声。でも、身体は異常に怠い。


そうか、昨日そのまま寝たから…

まったく、泣き寝入りなんて情けない


「アキ、起きて私に名前を」

…名前?何の話だろうか

………ん?ってゆーか…



誰の声?



ゆっくり目を開ける。目の前には

「……あれ?」

テディベアがいた。

(これ俺が作ったやつ…。…昨日抱いて寝たっけか?)

ますます情けないな、なんて思った途端

「おはようございます」


また、声が聞こえた。


「…………っ?!?!おまっ……っ!!」

口は動いてなかった。でも分かった。



…テディベアが喋ってる。


しかも驚いて叫ぼうとした俺の口を、小さな両手で押さえてきた。


…俺が作った、熊のぬいぐるみが…

「う、動いてる……」

霊とかそういう類のものは信じる以前に縁の無いものだったから何とも思ってなかったが、今ばかりはそれらを連想する。

しかしテディベアは一切の無表情のまま

「アキ、私に名前を」

腹の上で命令してくる。

「…な、名前って…」

テディベアに名前を付けるというのは、どこかで聞いたことがある。
しかしあわよくば自分の名前を付けてもらおうと思っていたぬいぐるみに、一体何と名付ければ良いのか。

じっと見つめてくる。

(名前…どんなんが…見た目とか…?)

焦る俺。待つのはテディベア。俺はとっさに

「……くまさん!」

指を差して言った。


訪れる沈黙。

(さ、さすがにセンス無さすぎた…!)

「いや、えっと……」
「ありがとうございます」

考え直そうとしたら、礼を言われた。

「え…いいの?」
「アキが付けた名前ですから」

頷いて言う。

そんなことを言われると、なんだか嬉しいものだ。

ただ

「あの、俺の名前“明”だからね」

アキと呼ばれたことなど無いため妙にくすぐったい。

しかしテディベア改めくまさんは

「よろしくお願いします、アキ」

聞いちゃいなかった。

deceased

放課後の音楽室に、ピアノの音が流れる。

旋律は優雅、なのにどこか物悲しく、夕焼けに染まる演奏者はそれでも無表情に近い。
まるで、当たり前のように奏でる音。


不意に彼は演奏をやめる。
同時に、小さくため息。
そして

「…お前、いつまでここにいんの」

そちらに目を向けずに言葉を発した。

授業に使うイスの1つに、彼と同じ制服を着た、もう一人。

「あれ、邪魔だった?」
「結構」
「あはは、ひどいなー」

明るく笑う表情は、無愛想である彼とはおよそ正反対で

「気が散らないって言ったら嘘だろ」
「まぁ、そうだね」

気品すら感じる仕草はむしろ、彼よりもピアノが似合ってるような、そんな雰囲気で。

「相変わらず上手だね、ピアノ」

凛と響く、涼やかな声。
窓なんか開けてないのに、まるで風が吹いたようなさわやかさ。

「…幼稚園からやらされてるからな」

何度言ったか知れない経歴を、彼は初めて愚痴るように言う。



たまに襲う、苦痛

重すぎる期待、プレッシャー

黒いバケモノは時に自分を飲み込み、
それが無いときの自分を見失わせる。


鉛のように重くなる指も
鈍器のように響かない感性も

八つ当たりでしか、ないのに



「……でもさ」

また、響く。
リンと、鈴の音のように。

「オレは、直哉の弾くピアノが好きだよ」

ためらいのない言葉は彼に真っすぐ刺さり、そして

「だからたぶん、オレはここにいるんだし」

景色が少し歪んで、その時相手がどんな顔をしてるのかを確かめることも出来なかった。



ピアノを、彼はまた弾き始める。

「…何で…ここにいんの」

最初の質問とは違う。
もう、ピアノを弾くのもやめない。

「…さぁ」

どうしてだろうね、と呟くような答え。

「音楽が好きとか」
「うーん…そうでもなかったかも。苦手だったし」

ふわりと笑う。
まるで幻のように儚い。

「音楽苦手なのに…音楽室?」
「うん。自分でも不思議」

顔を向けると、窓の向こうを見ていた。
窓の向こうには、青い空が広がっていた。

「……何か、俺に…」

出来ることは、そう聞こうとして、でも

「弾いてて」

遮られた。

「…、え…?」
「その曲好きなんだ。最後まで弾いて」


そう言う、笑顔は

どこまでもどこまでも綺麗で、まぶしくて


彼は弾き続ける。

楽譜など無くても弾けるお気に入りの、
弾けるようになるまで唯一嫌いにならなかったこの曲を、

いつも以上に、

速度記号に
表現記号に
音譜に
休符に
リズムに

感情を、思いを、のせて。




「……」

残響。
達成感と疲労感。

窓もドアも開かなかった音楽室。

彼以外、もう誰もいなかった。

信じることは、罪か

裏路地の、さらに地下。

ただでさえ夜しか開いてないから、真っ暗な中見つけられる人はまずいない。
むしろ見つからないように営まれているのだから仕方ない。

訳ありの人しか訪れない。
そんな、バーがあった。


「あれ、いらっしゃい刑事さん」

カウンターの向こう側に立つ若い男。
この店のオーナー。影山と呼ばれる男。

「また来たんだ。いいのかな?刑事さんがこんなところに来て」

酒を作りながら楽しげに聞く。
影山の前に座った俺は

「こうでもしないと今回の事件は解決しそうにない」

言い訳じみた答えを返し、荷物を隣の席に置く。

影山は、裏では名の知れた情報屋。
“カゲロウ”という名で呼ばれているのも聞いたことがある。

実際、“影山”という名前だって本物かどうかは分からない。

「今回のってあれだよね?“無差別連続殺人事件”。男も女も殺されてて、共通点が一切見つからないって言われてる」

影山はグラスを出し、酒を注ぐ。
仕事に関連して来たとは言え、客である以上飲まないわけにはいかないだろう。

「被害者は6人だっけ。女3人に男3人」
「あぁ。そして分からないのが、女の被害者の恋人たちが皆一様に何かを隠してるということだ。愛する人を失った悲しみは確かに偽りなく大きいのに、確実に何かを隠している。これはうちのプロファイラーの見解だからまだオフレコだけどな」

目の前に出された酒を口に含む。
強めの酒だ。なるべく記憶に残さないようにしようとしているのだろう。
幸い、俺は酒に弱くはない。

「なるほど?さすがの警察も遺族を強くは尋問できないから、僕に泣きついてきたってわけだ」

可愛いね、なんてクスリと笑う。


バカにされているのは分かった。
ただ何の反論も出来ない。
さらに、ここで躍起になって貴重な情報を手放しては意味がない。

刑事としてのプライドや意地など、ここに来た時に捨ててきた。


グラスの酒を一気に流し込む。そして

「…何か知ってるなら教えてくれ。頼む」

頭を下げた。
驚いたような空気を感じた。

「…なにか、あるのかな?」

顔を上げる。
影山は新しく酒を注いでいた。

「この事件に」

そう言いながら、決して目を合わせない。

俺が見ない時もある。
影山が見る時もある。

決して、視線は交わらない。

「……一人、高校の後輩だった」

誰にも言わないつもりだった。
言ったら捜査から外されるだろうから。

「知り合いが殺された。…なりふり構ってられない」

睨みつけるように、肴を用意する影山の横顔を見る。

影山は軽いため息をつくと

「カルシウムが足りてないなぁ。小魚出しますね」

としかし、そんなことを言った。
さすがにここまでされると

「っ、おい!」
「竹山さんもこれ、好きだったんだよね」

キレかけて、でも削がれた。
“竹山”、は

「……竹山勇治か…!」

被害者の一人。
自宅で、何の抵抗した跡もなくナイフでめった刺しにされていた。

「2回くらいだけどね、来てくれたよ。ここに」

影山は目の前の小魚をつまみ、口に入れる。
俺はその重大な情報に、急いで上着のポケットにあるメモ帳に手を伸ばす。

しかしそれは

「ダメだよ」

影山の手に阻まれた。
カウンターに身を乗り出してきたことによって顔が近くにある。

目が、合った。

「書くなら、刑事さんが来たこと周りに言うけど」


冷静な、冷たい瞳

ここがいかに特殊な場所かが分かる。

真っ当じゃない
普通じゃない
まるで犯罪者の巣窟

怒りでなく、焦りもなく
身の危険を予感させる脅し



「……わかっ…た」

上着に伸ばした手を引っ込める。
影山は一変して笑うと、いい子だね、なんて言いながら手を離して体勢を戻した。

「ここはこんな店だからね、いろんな人がお客さんとしてやってくるんだけど」

突然言い出す。
本当、こいつのペースは読めない。

「諏訪さんって男の人が常連さんでね、うちにしょっちゅう来るんだよ。昨日も来たかな?」

酒を飲む俺など見ずに、新しいグラスを拭きながら話す。
すっかり影山のペースだ。

「諏訪さんは斡旋人でね、ここをいつも取り引きの場所として使うんだよ」

参っちゃうよねー、なんて、もう本心か嘘か口先だけの話か。
どれが本当かなんて何も分からない。

「…その諏訪さんが、1ヶ月前、竹山さんとここに来たんだ」
「?!」

顔を上げる。

竹山勇治は、聞き込みによると独身の真面目なサラリーマンだった。
目に見える怨恨もなく、だからこそ怨みのこもった殺され方が不自然極まりなかった。

そいつが1ヶ月前、この店で斡旋人と取り引きをしていた。
影山の言うように、ここで交わされる取り引きなど真っ当なものではない。むしろ法に触れることしかないだろう。

「…諏訪は、何を斡旋している」

心臓が高鳴る。
これによっては、捜査が大きく進展するかもしれない。
新たな被害者を出さずに済むかもしれない。

しかし影山は笑って

「いいの?そんなに信用しちゃって」

面白そうに言う。

「こんな情報、他の刑事さんたちにどうやって伝えるのかな」

この店を言わずに教えられるの?、とバカにした笑い。嘲笑。

確かに、この男の言うことが本当だとは限らない。
むしろこんな得体の知れない奴、信用する方がどうかと思う。警察としては連行して取り調べたいくらいだ。
それだけこの店は犯罪がはびこっている。

でも

「…構わない。教えろ」

どんな情報でもいいと思ったのもある。
でもそれより、影山のことをいつの間にか信用している自分がいた。

この空気に、笑顔に、ペースに

確実に翻弄されている。


影山は笑った。
カウンターから身を乗り出して、顔を近付けて

「売春だよ」

耳元で囁いた。

独りよがり

駅前のロータリーを見渡せる、すみっこ。
そこにいつもいた。


「『        』、」


上手くはない歌。ありきたりな歌詞。
ギターも声も、なにもかも特化するものなんて無くて、

だから誰も立ち止まらない。
耳にも入れない、ごみ箱に捨てたような。

存在すら忘れられたような。


「…」

でもね、私だけは聴いてるよ。
あなたの歌を聴いてるの。

捨てられたら拾ってあげる。
きっと私だけが出来ることだから。


のどを潰して
声を枯らして
それでも歌い続けるあなたを

決してカッコいいとは思わないのに
変ね、とても愛おしい


誰も止まらないのに
誰も聴いてないのに
あなたは誰のために歌うのかしら

女を亡くした想いを言うなら、
私のために歌ってくれる?


あなたは孤独ね、ただひとりきりでいつも

だけど平気。

忘れさられた世界を見つけた私もきっと
世界から忘れられてるの



ねぇ、だって

存在意義なんて、そんなもの


(あなたにも私にも無いのよ)

くつずれ

校舎の外壁沿いにある、用途の分からない石造りの段差に腰を下ろした。
目の前に広がる校庭ではサッカー部と野球部が活動していて、大きな声が放課後の学校に響き渡る。

それを聞きながら靴を脱いで確かめると

(ぁー…やっぱり)

案の定、かかとに傷。
靴擦れしていた。


新しい服に、新しい靴。
髪型も少し変えてみたりして。

恋する乙女は忙しい。

(…なんて、慣れない靴で傷作ってちゃどうしようもないな)

漏れる苦笑。


ようやく新しい恋に踏み出せると思ったのに、新しい靴は歩くたびに牙を剥く。

進むたびに痛む
歩くたびに疼く

忘れられない苦しみのような
忘れることを許されていないような


小さい傷は、歩くたびに広がって

段々進めなくなる
歩きたくなくなる

歩くことを恐れて
近づくことが嫌になって


ねぇ、だって

「あんたには無理だよ」って

昔の傷ついた私が警告する



あぁ、ほら、
靴擦れはトラウマに似てる


「ほい」

変な掛け声とともに、目の前に絆創膏。

「ぅわっ?!」

反射的に身を引いて出所を見ると、頭上から差し出された腕。
さらにその出所は1階の窓。

保健室だった。

「靴擦れでしょー?貼っときなさい」

窓から顔が出てくる。養護教諭だ。

「あ…、ありがとうございます」

とりあえず受け取る。

「私服校なのは良いけど、オシャレで怪我してちゃね。自分の身体をまず気遣いなさい」

この学校の保健室の先生は、サバサバした大人の女の人で生徒にも人気がある。

自分は、保健室の世話になることが今まで無かったから、こんな風に話すのは初めてだけど。

「…何で気付いたんですか?」

絆創膏を貼りながら聞く。
この位置にいたら、保健室の窓からでも覗き込まなければ見えないはずだ。
覗き込まれたら自分も気付く。

先生は笑って

「ここに座りに来る時に見えたからね。歩いてるの見たら気付くでしょ」

養護教諭ナメんなよー?なんて言うから、笑える。

すごいな、この人


「なに、恋でもしちゃった感じ?」

顔を上げると、先生は窓の縁に頬杖をついて楽しそうにこちらを見ている。

「…え?」
「随分気合い入ったカッコしてんじゃん。靴擦れしたってことは、慣れない靴履いてんでしょ?」

新しい靴みたいだしさ、と何もかも核心を突いてくる。

探偵みたいだ。

「あー…いや、まだちょっと…分かんないというか」

苦笑する。


そう、まだ分からない。
もしかしたら、明日にはもう諦めているかもしれない。


慣れない靴履いて、
慣れない恋なんて。

もうやめてしまえと靴擦れが
トラウマが叫ぶ。


でも

「学生なんだからさ、そんな風に最初っから諦めちゃダメよ」

先生は笑う。

「あなた大人ねー。大人みたいに弱虫。若いんだからガツンと当たってきなさいよ」

もう一枚差し出された、絆創膏。

「何度でも貼ればいいじゃない。若いうちはすぐ治るわよ、そんな傷」

受け取ると、先生は

「新しい靴も新しい恋も、怖がってちゃ進めないでしょ」

真っ直ぐこちらを見ると、綺麗に笑った。



新しい靴を履いて
新しい恋をする


それはとても、素敵なことだから



「傷つくもまた青春」

そう笑う先生はどこまでも大人で、

いつかこうなれるのであれば、恋愛で傷つくのも悪くない

そんな風に思えた。




くつずれはトラウマに似て。

なんてね

最近、俺のそばに“何か”がいる。


「うっわ、さっきの女美人~」

見た目は、22、3歳の男。
漆黒の髪は長くも短くもなく、顔は世に言うイケメンなのかもしれない。

「ほらしんちゃん声かけなよ。大丈夫!新太ならいけるって」

性格はチャラいし軽い。まだ15の俺だけど、こんな大人にはなりたくないと思う。

「あーでも新くんの好みとはちょっと違うかなー。お前清楚系好きだもんね、この高望みっ」

服はいつも細身すぎるほどの黒いスーツを着て、そして常に、俺の周りを浮遊している。


…嘘じゃない。浮いてるんだ。


「しーんーたっ!新ってばームシ?無視はよくないと思うなー」

声に一切応えず、人のいない公園へ。
そこでようやく振り返り

「うるせぇなっ!あんな人だらけの場所で声かけんじゃねーよ!」

それでもかなり小声にして怒鳴った。
“コイツ”は浮いてるから顔を少し上げなきゃいけない。

ムカつく。
見下されてるみたいだ。

「冷たいなぁー新太は。あんまり冷たいとモテないよー?」
「モテなくてけっこー!」

ふん、と踵を返して歩き出す。
後方上空から“ヤツ”はついてくる。

“コイツ”は、どうやら他の人には見えないらしい。
そのせいで最近いろいろ、本当にいろいろ大変だった。

朝目を覚ましたら目の前に浮いた人間がいたから大声で叫ぶと、驚いた親が駆け付けて目の前にいる“コイツ”を無視して俺を怒鳴りつけた。

学校にもついてきた“コイツ”のせいで、気になってる女子にも変な目で見られた。

歩きながらついてくる“コイツ”にぶつぶつ文句を言えば周りには怪訝そうな顔をされて避けられるし、
授業中に先生のカツラを取ろうとした“コイツ”を止めようと大声を出して職員室で怒られたこともある。


これだけじゃない。この数日間で、口に出しては言えないようなことも含め数えきれないほどたくさんの迷惑をかけられた。
おかげで俺は相当な損をしている。

だから、腹が立つ。


「分かってないね、モテておけば好きなコにだって好きになってもらえるかもしんないだろー?ほら、ミキちゃんとかさ」
「どっかの誰かさんのせいでそのミキちゃんにも変な目で見られるようになったんだろが…!」
「あれ、それって俺のせぇー?」

ほらな、本当にムカつく。


人のこと完全にバカにして
見下して

怒りとか悲しみとか負の感情は一切見せないのに
笑顔すら嘘くせーし


「なんでもそーやって人のせいにするの、良くないよー。全部新太が行動した結果なんだからさぁ」


結局いつもそう、
こうやって正論じみたことを言って俺を黙らせる。

腹立つ腹立つ


「そんなんだから、勉強も部活も恋愛も上手くいかないんじゃない?イライラしてんの親にあたったりしてさー、ホント、ガキだよね」
「うるせぇよ!!」

思わず大声が出た。

風が公園の樹木を揺らす。
お喋りすぎる“ヤツ”は黙る。

静かになった。

「さっきから何なんだよ!!お前さえいなければこんなことにはなんなかったんだろが!分かったような口利くんじゃねぇ!消えろよ!」

目も合わせない抗議。反発。
口をついて出る苛立ち。

思ってもない言いたいことだけを叫んで、
ぶつけやすい怒りを、意味のない八つ当たりを、
まるでそれが正当だとでも言うように。



そう、したら。


ざあぁぁ……

「っ!」

突風が吹き大きな音がして、葉がそこら中を大量に舞った。
思わず目をつぶり、一瞬だけ世界を無くす。


次に目を開けると


「……おい…?」

鬱陶しいほど放っていた存在感が跡形も無くなっていた。


“ヤツ”が消えた。

まるでそれが日常だったかのように。
まるで最初からそこには何も無かったかのように。


耳障りだった声も、エコーすら無く
ただ空気の動く音を耳に届けるだけで



…なんだよ

マジで消えたのかよ


まだ、なにも
文句だって言い終わってねぇのに


ぴたりと風がやむ。
それに合わせて

「なーんてねっ!」

くるりと宙返りをし、再登場。

「アハハハッ、びっくりした?!新ちゃん寂しくなっちゃったりしてー!」

逆さまのまま新太の顔を覗く。

ぎょっとした。

「ちょっ…新太?!」

新太は大きく目を見開いたまま、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。

さすがにびっくり。慌てて身体を戻す。
新太は

「…っ、マジでお前…っ、ムカつくっ…!」

乱暴に涙をぬぐい悪態をつくと

「もう二度とっ…あんなことすんな…っ!」

睨みつけてきた。

キレイな瞳。
汚れを知らない、純粋で、まっすぐな。

「あんなことって…新太が言ったんじゃん、“消えろ”って」
「うるせぇ!いいからすんな!」

ふんっとそっぽを向き、新太はスタスタと歩き出す。


自分勝手で臆病で
自己中心的で強がる


若い、若い魂


「今度消える時はちゃんと言え!」
「……」
「いいな!」
「…はいはい」

軽くため息をついて、新太の後方、斜め上空をついていく。


「…なんてね」


思わずこぼれた本音。
風に掻き消されて届かない。


くるん、
後ろに一回転。



何も、無くなった。
すべて消え失せた。

6と7

「6と7はね、仲良しなんだよ。隣同士だからね」

小さい頃から聞いてきた言葉。

僕の、大切なご主人さま。


「ロクー!おいで!」

全身を精一杯動かして追いかける。
ナナちゃんは僕の少し前を、僕を振り返りながら走る。

僕が必死に走ってナナちゃんを追い越し前に回り込むと、ナナちゃんは僕を踏んでしまわないように慌てて止まった。

「ぁわわっ、ロクはやいよ!」

ころころと笑うナナちゃん。
それを見てると僕も嬉しくなる。


いつも一緒。
僕が生まれた時からナナちゃんは僕のそばにいて、
おかあさんから離れてさみしい時も、ナナちゃんはずっといてくれた。



ナナちゃんは、僕のだいすきなひと。




「じゃあロク、行ってくるね」

ナナちゃんはあっという間に大きくなる。
僕はあっという間にオトナになる。

だけど僕は、ずっとナナちゃんをだいすきなままだ。

制服を着たナナちゃんを玄関で見送る。
ナナちゃんは一度僕に振り向いて笑うと

「行ってきます」

と僕の頭を一回なでる。


本当は、もっとなでてほしいけど

ワガママ言わないよ、だって僕、立派なオトナだからね


ドアを開けて外に行くナナちゃんを、それでもやっぱり、少しだけさみしく思いながら、僕は玄関で見送った。




ナナちゃんは、だんだん家にいる時間が少なくなった。
僕の散歩も、もうずいぶん前からお母さんがしてくれる。

朝早く出て行って夜遅く帰ってくるナナちゃんを、僕は見送ることも迎えることもしなくなった。


どうして?

体はまだ動くのに
面倒だから
起きたくないから

オトナになるって、そういうこと?




ナナちゃんは、家からいなくなるらしい。
僕はもう、歩くのもやっとだった。
体は重たくて動かないし、目も鼻も耳もあまり機能しない。

確かに、たくさん生きた。


「…ロク、散歩しようか」

綺麗な大人になったナナちゃんは、何年ぶりかに僕に笑いかける。

その言葉はリードを見るまで理解できなかったけれど
嬉しかったのは本当だった。


川沿いのお散歩コース。

ナナちゃんと僕は、並んで歩く。
ゆっくり、ゆっくり。

古くなったリードを引っ張る元気は、僕にはもう無い。
ただ、一歩一歩、ナナちゃんと歩く最後の道を踏みしめるだけ。


「…ロク」

ナナちゃんは不意に止まる。
僕も止まる。

ナナちゃんはしゃがんで、僕の頭に手を載せた。
やさしくなでて

「ロクとナナはね、仲良しなんだよ。ずーっと隣にいるからね」

笑った。

僕も重たい顔を持ち上げて、ナナちゃんの手をなめた。



やさしい気持ちは伝わってるよ

遠くに離れても、
一緒にいたことは忘れないよ


「大好きだよ、ロク」


ねぇ、ナナちゃん

僕もだいすきだよ

夏、ダイヤモンドで。

2アウト、満塁。
9回表、2点差。

ピッチャー、俺。


身体中がどっくんどっくん脈打つ。
汗なんか滝のように流れる。
バカみたいに太陽は元気で、下手したら陽炎まで見えそうだ。

全国大会の3回戦という舞台は、もう意味わかんないくらいデカくて、眩しくて、
つーか…

(…気持ちわりぃ……)

緊張で吐きそうだ。


相手は優勝経験もある超強豪校。
2点差で勝ってはいるけれど、まったくもって油断は出来ない。

なんせ、背中には3人のランナー。


目の前のバッターさえ押さえれば勝ち。
試合が終わる。4回戦に進める。

良いことばかり考えようとしても、バッターからの重圧は凄まじい。
必ず打ってやるという気迫。
押し潰されそうになる。


(…っ、こえーっつーの…)


一度、深呼吸。
投げた。

(やべっ…!!)

ほんの少し、イメージとズレた。
コースが甘くなる。

案の定、手を出された。
良い音がした。


一瞬で汗が引く感覚。
一気に背筋が寒くなり、違う汗が出た。

2人が、五角形のベースを踏んだ。


(やべぇ…やべぇやべぇやべぇ…!!)

点差が並ぶ。試合はふりだしに戻る。
むしろ、打たれて追いつかれたという事実でこちらの方がダメージが大きい。

そして、ランナーはまだ2人いる。


違うバッターが打席に入る。
さっきの奴よりよっぽど清々しい顔。自信に満ちあふれた顔。

余裕の、表情。


(…くっそームカつく…)

じりじりと照り付ける太陽はさっきより重く、周りの声援はさっきより息苦しい。
仲間の視線は刺さるように痛いし、監督からは今にも怒鳴り声が聞こえてきそうだ。


なんで、俺が
どうして、俺だけが
こんな風に責められて
孤独で

俺が
俺だから
俺のせいで


(…負け、る…?)


「こぉーら」

陽気な声と共に、ぺし、と肩を軽くはたかれた。

「?!」
「なんつー顔してんだよ。まだ同点だろが」

俺しかいなかったマウンドに、キャッチャーの中浜がいた。
いつの間にか来ていたらしい。

「まだ裏もあんだから、いくら打たれても取り返しゃいいだろ。諦めるなんかありえねーぞ」

相変わらず軽い言い方。これでよく誤解されたりしてたっけ。
ホントは誰より熱い奴なのに。


なんて、考えてたら

少し気分が楽になった。


「…ハマ」
「おぅ」

目が合う。

「意地でも捕ってくれ」

少し、驚いた顔。俺は

「ちょっともう、俺だけじゃ無理だ」


押し潰されそうなプレッシャー。
俺ひとりじゃ耐えられそうもない。

お前、俺の女房役だろ
一緒に背負ってくれよ


「打たれたら折半な」

ぽかんとしていた顔は、その言葉で途端に破顔する。
くくっ、と笑いながら、中浜は

「おっ前マジで性格悪ぃ」

言って、キャッチャーミットで容赦なく俺の頭を叩き

「ぃたっ!!」
「独りで戦ってると思うなよ」

後ろ見ろ、とその手で促し、マスクを戻しながら守備位置に戻っていった。


促されて、振り向く。
7人がこちらを見ていた。

全員が笑顔だった。


「…!」

バッターボックスに目を戻す。
そこには中浜がいた。
ミットを構え、自信にあふれた顔で、まるで練習みたいな気楽さで

「…マジかよ」

まさかのサインを出してくる。

「知らねーぞ…!」



呼吸を整える。

投げる先には、捕手。
例え打たれても、後ろには野手がいる。

声援は聞こえなくなった。
風が吹き抜けて涼しい。
監督の親父ギャグさえ思い出す。

仲間が後ろにも前にもいる安心感。
投手ってこんな恵まれてんだな、なんて。


見据えた。
なんだか笑えた。



振りかぶって、投げる。

声援が聞こえた。

カタコイモノガタリ

「……」
「?え、なに?」
「…べつにー」
「うっわ何それ、すげー気になる」


こちらを向いて、明るく破顔する。

なんだかな、それがどうにも前よりやさしげな気がして。

少し腹が立つ。
それがあんたの方の変化で、本当にやさしく笑ってくれてるならいいけど
経験上、どうせそんなことはない。

こちら側だけが変わった。
あんたは何も変わらないのに、やさしげに見えるだけ。

それが、ムカつく。
癪だ。


「あ、それうまそう」
「食べる?」
「いいの?」
「いーよ」
「じゃあ代わりにこれあげる」
「やったーゴチになりまーす」
「ちょ、全部とは言ってないから」
「えー?ケチー」
「ケチじゃねーだろ」


なんてことない会話。

楽しいのは確かで、癪だけど笑顔になる。
ときめきなんかしないのに、いないと寂しい。いると嬉しい。
今までしてきた恋愛みたいな感覚とか感情とか態度とかはひとつもないのに、


…なのに。



「あー…」
「なに、どしたん」
「……なんだろねー」
「いや知らないよ」
「……ばーか」
「はっ?!ちょ、なんだよいきなり!」



結構すきだと思う、自分がいる。


(…それを認めることすら、ムカつく)


だから、絶対に言わない。
自分も相手もごまかして、絶対に認めない。

こんなの、雰囲気に流されて勘違いしてるだけだ。
恋じゃ、ない。



「…どうしたん、さっきから」


すげー関係あるけどさ、
関係ないじゃん、あんたには

なんで気にすんの
ほんとはどーでもいいんだろ?

期待すんじゃん
なんで聞いてくれるんだろって思うじゃん
なんで気付くんだろって思うじゃん

そうやってやさしいとさ、


「……」


…勘違い、すんじゃん。


「…なんもないよ」

ふ、と笑った。
泣くのを我慢したら、笑いしか出なかった。


「…そ?」

ならいいけど、と言うように、あんたは別の場所へ行く。



そう、それで、いいんだよ

離れればいい
離れていけばいい

ここになんか、いなくていい
近づいてこなくていい

離れたくなくなる前に
近づきたくなる前に



(きらいに、なればいい)



シカトでもしようか
冷たくあしらってみようか
暴言を心から吐いてみたりして

あんたに嫌われてみようか


そうでもしないと
今にも流されそうだから



「…なんだかなぁ…」


空を仰いで、大きく息を吸った。

吐き出すと同時に

「……、」

泣きそうになった。

フワッとかるく

大概のことは頭で考えるのに
心の場所はと聞かれたらとっさに胸のあたりを指す

きみを思うとココが苦しくなるからだろうか

心臓という物質とは別になにかがあるような
ぎゅーっとしめつけられるところ

ここを、心と言うのだろうか



「かおちゃんがいなくなった」


本番前日。
準備も全部終わって、確認を含めた練習も終わって、さぁ明日頑張ろうって解散して。

みんなが帰り仕度してる時、確かに姿は見えなかったけど何か確認でもしてるんだろうと思って気にしてなかったら、ものすごい泣きそうな顔でなっちゃんに言われた。

「…は?」
「さっきから呼んでも返事なくて」
「ケータイは?」
「あそこに置いてあんの」

指した先を見ると、そこには見慣れた荷物。整理されて、今にも帰れそうな様子でまとまっている。
そして確かに、鞄の上に掛けられたコートのさらに上に、やはり見慣れたケータイが置かれていた。なっちゃんが鳴らしたからだろうか、規則正しくライトが点滅している。

「あ、ホントだ…」
「探してもいないし呼んでも来ないし…。荷物あるから帰ってくると思うんだけど」
「どっか行くとか聞いてないの?」
「聞いてない」

なっちゃんは大きく首を振った。

この人と彼女は確かに仲が良い。それに、彼女は普段から本当にしっかりしていて、余裕もあって、自分より数段大人だ。誰にも何も言わず、こんな風に周りに心配されるようなことをする人じゃない。

“こうすればこう見られて、こうすればこうなる。”

そういうのが大体分かる、とこの前言っていた。少し寂しそうに苦笑しながら。

だからこそ、今の状況は特異だった。若干の恐怖だった。
何かあったのかもしれないと不安になるくらいには、普段では起こり得ないことが起こっていた。

「…じゃあ探してくるよ。みんなには帰ってもらって」
「あたしは?」
「ここで待ってた方がいいっしょ。戻ってくるかもしんないし、荷物見てて」
「そっか、分かった」
「戻ってきたら連絡ちょうだい」
「うん、よろしくね」

いつも強気で元気ななっちゃんも、この事態に戸惑ってるみたいで不安な顔を隠しきれてなかった。

俺は薄暗い舞台袖から階段を上る。


(さて、どこへ行ったか)


迷子探しが始まった。


彼女は普段から大人だった。

と言っても、ものすごい落ち着いて静かで、というわけでも、常に冷静沈着でノリが悪くて、というわけでもない。

ただ精神的にしっかりしていて、自立していて、どこまでも空気が読める。
楽しい時は楽しむし、弾ける時は弾ける。
そういう意味の“大人”。

自分よりも、周りを優先させられるひと。

だからと言って遠く高い存在でもなくて、
不安そうな顔も泣いた顔も照れた顔も、大笑いして止まらなくなったのだって何度も見たことある。



どこか、大人で、だけどちゃんと、同い年。
同い年で、ふと、やっぱり大人。


だからとても魅力的なひとだと、少し前からひそかに思っていて。

心惹かれていたり、する。


そのひとが、いなくなった。

不安は大きかった。
いつも“ハッキリした”ひとだったから。

言葉も、態度も、感情も、どちらかと言えば分かりやすくハッキリして、考えもしっかりしたひとだという印象があったから。

だから、こんな曖昧に
消えたようにいなくなったことが、あまりに“らしくない”ように思えて。



(…なにが、あったんだろう)


事故や事件の可能性をも視野に入れて探す。それくらい不安だった。


舞台裏、控え室、物置。
女子トイレはさすがに入口から声をかけるだけにした。オートライトなので、電気が点いてなければ人がいないのは見てとれた。


音響室にもいない時点で、ようやく思い出す。

「あ、照明…?」

思わず声に出た。

上の階にある照明室で舞台全体の照明を操作していたため、帰る前に確認しに行ったのかもしれない。


いる、ような気がした。

彼女はそこにいる気がした。


向かう足と気持ちがはやる。
急いだ。


ドアを開けて中に入る。
照明を操作する機械に囲まれるように、彼女はそこにいた。


小さい。


うずくまり、顔を膝に埋め、両手で耳を塞いでいる。
そのまま動かない。声もない。


壊れた、
というよりは、
機能が停止した、みたいな。



すべてを拒絶したようなその体勢に、思わず足がすくむ。

こんな彼女は見たことない。
近付けない。


「…、」

言葉を探す。
でも、俺が何かをする前に


彼女が、動いた。

「…」

ぴく、と指が動く。おもむろに頭が上がる。
ゆっくりこちらを向いた。

目が、合った。

まるで、
今初めてここに降り立ったみたいな
妙に驚いた顔で。


それから

「…にっきー」

ふにゃらと笑って、俺を呼んだ。



いつも、そう

動くのは俺じゃない
手を差し出すのは俺じゃない

いつも、きみの方



「…、…なにしてんの?」

情けなく少し震えた声。
彼女は困ったような笑顔で

「…ちょっとね」

すとん、と床に腰をおろす。

「……」
「明日じゃん、本番。大丈夫かなってさ」

膝を抱えて寄せる。また小さくなった。

「…にっきー」

笑顔が消える。
こちらを、向いて。

「…ほんと、大丈夫かなぁ…」

泣きそうな顔で、力の無い声で
言葉が生まれて消えた。



そう、か

彼女は“ハッキリした”ひとだったわけじゃなくて
ただ、“ハッキリ見せてくれていた”だけ。

分かりやすいんじゃなくて、
見せない部分が完全に隠れていただけ。

すべて、抱え込んでいただけ。



ここから見える景色は
誰もいない舞台と客席だけど

彼女には聞こえたんだろう。
彼女には見えたんだろう。

明日のステージが
本番の景色が

ありありと
プレッシャーという、実体を持った重力とともに。



その重さに耐えられなかった。
その期待を聞きたくなかった。

だから、耳を塞いだ。
しゃがみこんだ。


それまで張っていた緊張感が、
気丈に振る舞えていた精神力が、

ひとり、ゆるんで、弱った。


「…」

隣に座る。目線が合った。
少し驚いた顔をする彼女。

「…かおちゃんは、頑張ってるよ」

あんまり見つめても見られても恥ずかしくなったけど

「頑張ってきたから、大丈夫」

言葉と一緒に頷いたら、なんか泣きそうになった。


驚いたように目を開いて見られる。
それから

「……ははっ」

はにかんだような、いつもの笑顔。

「そっか、頑張ったかな」

ふふ、と嬉しそうに笑って膝に突っ伏す。
見える横顔は、どうやら少し本気で照れていて

「…ありがと」

そのままこちらを向いて言うから
恥ずかしさが伝染して
笑顔がまた、角度的にも、あまりに可愛くて

「…あ、うん…」

つい目を逸らす。逸らしてから後悔した。
一緒にいるのに見ないなんて、目を合わせないなんてもったいない。

ふたりきりで、今、こんなに可愛いのに



「……あ」

思い出した。

「ん?」
「なっちゃん待たせてんだった」

立ち上がる。
窓から見える舞台は遠くて、小さくて

なんてことない
彼女にぴったりだと思った。


「…うん、心配ないっしょ」

思わずこぼれる。
しゃがんだままの彼女に顔を向けて

「みんな、かおちゃんのこと信じてるもん」

俺を見上げてるから、手を差し出した。


一瞬、戸惑いの色。
でもすぐにそれを隠して

「みんなって、にっきーも?」

いたずらっぽく笑った。
俺は

「…さぁどうかなー」

ふざけてみる。

「えー?それはひどいなぁ」
「気になる?」

差し延べた手に、遠慮がちに手がのせられる。
ひやり、冷たかった。
その冷たさが妙にこわくて、
あたためるように、存在を確かめるように握る。

引っ張った。
体が持ち上がる。
びっくりするぐらい軽かった。

「ぁわっ」
「おっ、と」

勢い余って彼女はふらつく。
それを反射的に支える。

思いのほか近い。緊張する。
それが伝わったのか

「き、になる。…気になる」

彼女もなんだかたどたどしい。

俺は

「…教えなーい」

彼女の手を取り、引っ張って歩き出した。

「えっ…えー?」
「明日の本番直前に教えてあげるよ」
「うわっ、なにその上から目線」

話しながら、手を繋いだまま、ふたりで照明室を出る。
恥ずかしいから並べない。彼女を引っ張りながら進む。
冷たかった手が少しずつあたたかくなった。



歩きながら、ふと、振り向く。

目が合った。
そこに、いた。


「…ふふ」
「……なに」
「なんでも」




目が合って
笑いあって
苦しくなって
泣きたくなるけど

笑顔こぼれて
やさしくなって

あぁ、きみがすきなんだと
全身で感じる


フワッとかるく


まるで羽根が生えてるように
浮かれたようなコイゴコロ




(手は、なっちゃんに会う前に離せばいい)

一日話。(うさぎから竜へ)

「ぼくの役目は、今日でおわり」

うさぎはさみしそうに、ふわりと笑った。

「次はきみの番だよ」

手を伸ばす。竜はその手をとって

「…大変だった、な」

傷だらけの手を、やさしく包み込んだ。
うさぎは少し驚いたが

「…それでも、みんなは諦めなかった。だから僕はここまで来れた。…きみに会えた」

竜を見つめて、笑う。

「確かにぼくの旅は大変だったけど、それでも、良いことだってたくさんあったよ」


みんなが強いこと
みんながやさしいこと
みんながやさしくなれること

みんなが力を合わせれば、
みんなの世界は変わるってことを

ぼくは、この旅で知ったんだよ


「…だけど」

うさぎは苦い顔をする。

「きみの旅は、どうか、明るくあってほしいな」


うさぎは願う。

ぼくと同じ悲しみは、
痛みは、

きみにはいらない。

無駄にはならないけれど、
ならなかったけれど、

ぼくの旅が無駄にならないためには、
同じ悲しみは繰り返しちゃいけない。


ねぇ、だって
やさしすぎるきみはきっと、
みんながいなくなるのを見ていられないだろうから



「……んわっ、と」

不意に握られていた手を引かれた。
抱きしめられた。

「…よく、頑張ったな」
「!」

低くて、あったかくて、やさしい声。

「次は任せろ」

ぽんぽん、と背中を叩かれて、うさぎは思わず泣きそうになった。


「じゃあまた、12年後に」
「あぁ、12年後」

渡す、眼に見えないバトン。
竜はうさぎを見て笑う。

「なんだ、泣いてるのか?」

うさぎは笑って首を振った。

「赤い眼は生まれつきさ」

つきあかり

合間から光が差し込んで、思わずカーテンを開けた。

(うわ、すげ…)

まぶしいほど明るく輝く月はそれでも少し欠けていて、さらに小さく、遠く、

(……)

惚ける。
すると

「なにしてんの?」

先輩が戻ってきた。

「あ、いや…」
「うわ、すっごいね」

隣に座りながら先輩もすぐに気付いて、窓の外を見上げる。
煌々と輝く月は、先輩の嬉しそうな横顔を照らしていた。

「……先輩」
「ん?」
「…俺、月ってもっと優しいと思ってました」
「……え?」

当たり前に、怪訝な顔で聞き返される。
俺はそれに

「月って、優しく光って、包んでくれて、太陽なんかより全然…あったかくて」


そう、思ってたのだけれど。


「…でもこの月は…すごく眩しいです」


すぐそばで、あたたかく優しく包んでくれてると思ってたのに
びっくりするくらい、眩しくて、遠くて

遠い、存在で。


「…届かないんだなーって」

結局、近づいたと思っても
魅力を知るたびに遠く、遠く離れていく。


あなたが笑いかけるのは俺だけじゃなくて

あなたが一番素敵に笑うのは、あの人の前だけ



「…それは月の話?」

先輩は微笑む。

俺を見て、やさしく
月明かりに照らされて、微笑んで聞く。

「……なんで、ですか?」

動揺。
なんとか隠しながら聞き返すと、先輩は

「好きな人の話でもしてんのかと思った」

軽く笑いながらそう言うと

「眩しいくらい好きなら、諦めないでいいんじゃないの?」

そんなことを、まるで他人事のように。



「……そうですね」

なんとも言えない気持ちで頷くと、先輩は ふふ、と笑った。

このひと、実は全部分かってんじゃないかな、とか、思って

「…なんですか」
「いや。気張れよ後輩」

睨んでみたけど、効果なく頭をがしがしされた。



あぁもう、

人の気も知らないで

片想い≒ためいき

なんてことないように、触れて。

なんてことないように、離れて。

なんてことないように、笑って。

なんてことないように、傷付けてくる。


嫌われてるわけじゃないって、結構安心。
どっちかっていうと好かれてるって、思える奇跡。

だけど寂しい。ひどく寂しい。

それってたぶん、
ぼくにとってきみは特別なのに、
きみにとってのぼくはそうじゃないから。

きみにとってのぼくはたぶん、
何人もいる好きなひとの1人だから。



それってつまり、

ただのトモダチ。


「……」


気にしたら負けなんだ、きっと。
嫌われてないって、それだけで十分じゃないか。

多くを望めば、そのうちすべてを失ってしまうんだから。


…で、も。


欲しいと思う。
振り向いてほしいと思う。
見てほしいと思う。

ぜんぶ、ぜんぶ、
ぼくだけ、が、いい。



(……そんなの、)

無理だけどさ。


呆れた。ため息が出た。


ぼくにとって、特別。
きみにとっては、トモダチ。

それが普通。それが当然。

いつかきみにとっての特別ができるだろう。
もしかしたらもういるのかもしれない。
だけどそれは決してぼくではないし、ぼくではなりえない。



(…なりたいのは山々だけどね)

寂しくなった。ため息が出た。

建前のまえ、本音のうしろ。

さて、どうしたものだろう。



犬は人になつき、猫は場所になつく、というのが通説である。

自分はどちらかというと猫のタイプで、しかし一定の“場所”というよりは、人がつくりだす“居場所”になつく。
誰がいい、というわけではない。
この人がつくる空気がいい、そういう感じだ。

だから、特定の人になつくというよりはむしろ、複数の人間がいて、その中に自分の居場所を見付けて居座るといった方が収まりがいい。
そもそも個人に対しては、“この部分は好きだけどこの部分は嫌い”というのがはっきりしている。分けて考える。だからこそ、人になつくことはない。全面的に信頼を寄せられる人間が、未だかつていないのだから仕方ない。

大体、全面的に信頼を寄せること自体、自分にとっては空恐ろしい。人はみな打算的で、功利主義で、自分勝手だ。保身のためになら他人を裏切ることもいとわない。
そのような人間に、なぜ、全面の信頼など寄せられよう。単体になつくことができよう。


しかし、空気は違う。居場所は違う。
自分を含め、そこにいる人やもの、環境がつくりだすそれらは、そこを人々が保とうとする限り変わらない。そこが気持ちよければよいほど、またそれを構成するものたちがそこを望めば望むほど、悪いものは排除し、そこを保とうとする。よりよい環境をつくろうと励む。
それが、いい。

しかも、人ではなく場所になつくからこそ、離れやすくもある。他にもつくれる。
同じ人間は二度とないし、同じような人間もあまりいないが、同じような居場所はつくりやすい。見つければいいだけだ。
これは、依存度の低さを物語っている。


だから、猫は気楽だと言われる。
だから、犬は忠誠心があると言われる。

犬は駅で人を待つ。
猫は家で餌を待つ。


どうせ打算的なら、自分もそうなればいいだけのこと。


そう。
自分は、間違ってない。
その考えは今でも揺るがないし、これからもそうしていくつもりだ。

他人に押し付ける気は毛頭ないが、それでも、説得せよと言われたら喜んで口説き落とすことができるほどには固まった持論である。



その、はず


…なのに。




「……おーい。滝田さーん?聞いてるー?」

ひらひらと目の前で手を振ってくる。心配しているというよりは、少し小バカにしているような感じで。

「……なんだよ」

ハエを払うときのようにうっとうしく手を払うと、そいつはひどいなぁと言うように苦笑して

「どこ行くかって話なんだから、参加しようよ」

ね、と。
断りもなく距離を縮めてくるこいつは、別に自分の何ってわけじゃない。強いて言うなら友達。

そう。
ただの友達。

「やっぱ俺としては、ちょっと遠くまで行きたいなぁと思うんだよね。電車乗ってさ」
「遠くって?どこらへんまで?」

ようやく反応したことに満足したのか、こいつは少し口を緩ませる。
抑えたつもりだろうが抑えきれてない。バレバレだ。

バカなヤツ。

「んー、そうだなぁ…県外とか」
「…県外」
「そう。隣の県くらいは」

どう?と。
気を遣うわけでも機嫌をうかがうわけでもなく、ただ楽しそうな様子で。
そんな風に言われると

「…別にいいけど」

断る方が難しいだろう。
相当素っ気なく無愛想に答えたのに、こいつは嬉しそうに笑って

「じゃあどこ行こっか。何したい?どっか行きたいとこある?」

手元のスマートフォンで調べだす。
別に、そっちが誘ってきたんだからそっちが行きたいとこに行けばいいのに。こっちとしては何だっていい。どこだっていい。

大体、いつもなら大勢の中でしか関わりなかったこいつに二人で出掛けようって言われて、それを了解した時点で


(…あんたがいれば、別にそれで)


「…?!」

思ってから驚く。
まさかそんな、
そんなはずはない。

自分がなつくのは居場所で、だから、
誰か単体になつくことはなくて。

むしろその犬は、

「あ、観光とかいいなぁ。どうせならおいしいもの食べたいし。…あ、ねぇ、これとかどう?」


こいつの方で。


「…いーんじゃないの」

動揺を抑えながらどうでもいいように答えたら、こいつは

「よし、じゃあ決まりね!楽しみだなぁ」

鼻唄なんか歌いながら、そこへの行き方を調べ出す。
バカで助かった。妙な勘繰りを受けないで済む。


大体、なんで自分なんだ。
そりゃまぁ、たまたま連絡とって、たまたま日にちが合って、たまたま遊びに行くってだけなんだけど。


…そんなの、どうすりゃいい。



「…あー、まずいなぁ」

横から聞こえた言葉に目を向ける。何か都合の悪いことでもあったのかと、ささやかな心配を向けたら、そいつは締まりのない笑顔で

「楽しみすぎる」

へへ、と
照れたように。



…なんだ、こいつ


「…そ、だね」



かわいすぎるだろ

おかえり

不満が、あるわけじゃない。


「おいー!おまえそんな飲んでいいのかー!?」
「いいんだよ!たまには飲ませろっ!」


本当に大好きだし、本当にやさしいし


「でっ?どーなのよぉ、新婚生活は!」
「いやぁー楽しいっすよーもう。結婚ていいね!」
「うぜえ!こいつうぜぇぞ!」


大事にしたくて仕方ない
それは心からの思いだ。


「お前がこんなに早く結婚するとはなー」
「へっへーいいだろー」
「まじうぜぇだまれ」
「痛い痛い痛いギブギブギブ!!」

首にガッチリとホールド。
ぱ、と放されたら

「つーかさ、実際どうなの?結婚て。いいもん?」
「おー?いいもんよーそりゃあ」
「料理とか?」
「料理はねぇ、半々。俺がやったり、向こうがやったり」
「え、マジ?」
「でも掃除とかはやってくれるよ」
「あぁ、きれい好きそう」
「そうそう。てゆーか、片づけないと怒られる」
「はは、もう尻に敷かれてんの?」
「そんなんじゃねーよ!」
「ムキになんなって」
「なってねーよ!」
「なってんじゃん」

全員に笑われる。
まったく、失礼な奴らだ!

「まぁまぁ落ち着けって。じゃあ具体的に何が楽しいのよ?」
「はぁ?」
「お、いいね!」
「具体的にね」
「なにがだよなんでだよ」
「いやだってね?そんな尻に敷かれた生活聞かされてもさ、独身の俺らには楽しさ分からないわけよ。何が楽しいのか、具体的にね?」
「例えばね?」
「夜とかね?」

全員がにやにやしだす。
酒も入って夜も更けて、男だらけで集まったらする話題。

「……はぁ?!」
「はい真っ赤ー」
「もっと飲ませようぜ」
「おいふざけ…」
「たまには飲むんだろー?奥さんも見てないしさ!」
「あの頃はあんなに飲むの好きだったじゃないか!俺は寂しいぞ!」
「そうだ!今日は飲もう!結婚祝いだ!」
「ちょ、まじか…」
「はい、持って!カンパーイ!」
『カンパーイ!!』


あーあ
もう、どーでもいいや





ふらふら、

夢の中みたいに、うまく歩けない。
視界は回る。ふわふわしてる。

気持ち悪さはない。
昔より強くなったかもなー、なんてへらへらした。

千鳥足で、でも足が道を覚えている。


我が家に着いた。


「たーだいまー」

玄関で靴を脱ぎ散らかし、狭い廊下からすぐに居間へ入る。
そこは電気とテレビが点いていて、ちゃぶ台の手前には小さな背中があって、
あったかそうな格好をして、友人からプレゼントされた大きなクッションを抱えた彼女は、首だけで振り向くと

「おかえり」


ふんわり、
笑って



「…え、なになに」

たまらず抱きしめた。
彼女は驚いたけれど。

「どしたのータバコくさいぞー」

笑いながら、とんとんと背中を軽く叩いてくれる。



ごめん
ごめんね


一瞬でもきみを

忘れた
ネタにした
疎んだ
恥ずかしいと思った


ぞんざいにした



「…ごめん…」

感情がぐちゃぐちゃして、出てきたのはその言葉だけだった。
彼女は案の定、からっと笑って

「はは、なんで謝ったの。浮気でもした?」

そんなことを聞くから、すぐに首を振った。
ありえない。


きみ以外を好きになるなんて
ありえない


「ならいいよ。お風呂入っておいで?」

耳元で聞こえる声。
やさしい、あたたかい声。

これがしあわせじゃなくてなんだろうか

「…ねぇ」
「ん?」
「…すきだよ」
「ふふ、うん」

タバコ臭いだろうに
酒臭いだろうに
彼女は、しっかと抱きしめた俺にすり寄ると

「だいじょーぶ、ここにいるよ」

ずっといる、と
心まで撫でてくれた。

例えるなら。

どうにも、犬には好かれる性質らしく。

(まーたいっぱい来たなぁ)

オスメス問わず、やたらと犬には寄られてきた。

『かまってかまって!』
「はいはい、今ちょっと忙しいから後でなー」

後ろにはここ3年ほど常にくっついているメスが3匹、そのうち1匹はたまに離れてついてを繰り返している。自分はそんなに気にしていなかったけれど、どうやら捨てられることを恐れているらしい。飼った覚えもないが捨てる気もないので、そんなに恐がらなくてもいつも通りにすればいいのに、と軽くなでた。すると、びっくりしたように一度離れ、怒ったようにこちらを睨んでは、また複雑な様子ですごすごと戻ってくる。まったく何がしたいんだか。

横には、たまにオスが入れ替わり立ち代わり構ってほしそうに遊び道具をくわえてくる。
私はいつもそれを受け取り、なるべく遠くに投げてやる。そうすると、たいていの犬は嬉しそうにそれを追いかけ、戻ってくるまでの過程で、好みのメスや他の遊び場所にふらふらと行ってしまう。
これでいいんだ。私なんかに飼われることはない。飼われたところできっとすぐに、他のところが楽しくなってしまう。他の相手と遊びたくなってしまう。それなら、ここにとどまることなんかない。
犬は好きだけれど、離れていくのはツラいから、それならはじめから飼わない方がいいと思って、ずっとそうしてきた。

きっとこれからもそう。
相手にとっての自分がいつか、特別じゃなくなるくらいなら
それを目の当たりにするくらいなら

(最初から、いない方がいい)

寂しいのは、もううんざりだから。


ある日、1匹のオスがやる気なさそうにやってきた。
そのコは今までも、気まぐれにやってきては少しとどまって、少しだけ構ってやると満足したようにすぐ他の場所へ行き、それを繰り返していた。またこちらに来る頻度もまちまちで、むしろほとんどいないときの方が多かった。私のことを気に入ってはくれているようだが、それでもここにずっととどまる気はないと分かりやすく示してくれていた。

そのコがまた、あまり気配なくふらりと近づいてきた。

「なにー、どしたー?」

両手を差し出すと、においをかいで、確かめて、ちょっと構えよと高飛車に寄ってくる。
まったくかわいいなぁと少し笑って、首元をなでてやった。気持ちよさそうな顔をする。
しばらくそうしていると、ふとそのコがこちらを見て

「…?」

くるり、私の周りを一周し、誰もいないのを確認すると

「…お?」

ぽん、と片手を私の膝に置き

『キープ』

と言わんばかりの態度でこちらを見上げてきた。

「…え、え?」

戸惑いはしても、笑いがこみ上げる。
実はそんなに気に入ってくれていたのか、となんだか楽しくなる。

それでも

「ん、ありがと。うれしいよ」

もう一度両手でくしゃっと首をなでてそう言うと、そのコは安心したのか、またふらりとどこかへ行ってしまった。その後ろ姿を見送る。
もしあのコがまた戻ってきて、ここにいることを本当に望んだならば、あのコを選ぶのもいいかもしれない。

(20年後だけどね)

その途方もない年月と妙な現実味に、彼らしさを感じて思わず笑った。


それは、あまりにも突然だった。

「…ん?」

たたたたっとまっすぐこちらに向かって走ってくる姿が見えた。
オスの小型犬。子どもかと思ったが、一応成犬のようだ。遠くの方で遊んでいるのは何度か見たことがある。その程度のコ。
そのコはなにかをくわえたまま、必死に走って、目の前に来ると止まって

『はいこれ!』

と言うような様子で、くわえていたものを私の膝に置いた。
それは

「…え…?」

彼の首輪で。

「え…いや、でも…」

あまりに急で、まったく関わったことがないわけではないが、それでもあまりにも知らないことが多すぎて、なんというか、
やっぱりかなり突然で。

それでも彼は

『つけてつけて!』

と声が聞こえそうなほどしっぽを振りながら、首を伸ばして頭を下げる。
その様子が、あまりにも

「…かわいいなぁ」

思わず声に出て、拒否する意味も見出せなくて、それならいいかと

「…はい、つけたよ」

首輪を着けてやった。

『やった!やった!ありがと!!』

そのコはひどく嬉しそうにその場を駆け回ると、一度私の膝に乗って立ち、頬をなめる。
それから

『行ってきます!』

時折、私がここにちゃんといるかどうかを確認しながら、また遠くの方へ駆けて行った。
その、後ろ姿を見送りながら

「…まぁ、いいか」

幸せだし、と
軽く笑った。



(…て、感じかなぁ)

横に立つ彼を見て、そんなことをぼんやり考える。彼はすぐにこちらを向くと

「ん?」

プレゼントしたネックウォーマーの向こうから、楽しそうに聞いてきた。
まぁ、言えるわけないので

「んーん、なんもない」

含んで、笑っておく。

「なんもないの?」
「うん、なんもない」
「そっか」

そっかぁ、ともう一度言って、つないだ手をぎゅ、と握られる。
なんだろ、と思いつつも

「なんもないよ」

笑って、握り返した。

#ヨーグルトのある食卓

ヨーグルトのある食卓は、なんだか優しい気がする。

「…なんでだろ…?」

つぶやいた声はさほど大きくなかったが、相手に届いたらしく。

「なにが?」

焼きたてのハムエッグをお互いのスペースに載せながら聞いてきた。

トーストにハムエッグ、グリーンサラダと野菜スープ。
休日、わが家では定番の洋朝食だ。

そして極めつけに、プレーンのヨーグルト。ジャムは別添え。

「いや、…豪華だなぁと」

どう表現したらいいか分からなくて、とりあえず頭に浮かんだ言葉を届けてみた。
すると

「育ち盛りだからね」

シンプルな答え。
それで、ピンと

(……あぁ、なるほど)

つながった。


「さ、食べますか」
「うん。……あ」

食卓についた相手と、目が合う。
疑問符を浮かべたその顔に

「いつもありがとう」

ぺこ、と頭を下げた。
もう一度見ると、今度はえらく驚いた顔になっていて

「……なに、どうしたの」

それから今度は、照れたように破顔した。


体を
心を
ちゃんと考えて出されたものだから


「うまいっす」
「それはなによりです」


ヨーグルトのある食卓は、優しい。

生と死と


質問は1つだけ、と言われたから

「死ぬってどういうこと?」

聞いたのに、君はえらく

「……なんで?」

めんどくさそうな顔をした。




「友だちが死んだの」

今どき珍しい縁側で、今どき珍しいくらい手入れされた庭を見ながら、
ぼさぼさの髪とよれよれのシャツをまとった君は、
ふぅー、とタバコの煙を吐き出した。

白いもやもや。
音もなく、ゆっくりと形を変えて
空に消えていく。

「……それで?」

もう一度くわえると、こちらも見ないで重ねる。
でも、さっきみたいなめんどくさい顔じゃない。

「お前が聞きたいのは理由?末路?定義?」

まだ子どもの僕に、難しい言葉を並べるのはいつものこと。
子どもの僕を、一切子ども扱いしないのも、いつものこと。

だから僕も

「死ぬこと。死ぬってどういうことか聞きたい」

いつも通り、
真正面から

「君なら答えられるでしょ」

ともすれば逃げそうな君を
しっかりとつかまえた。


「……はぁ~…」

大きな、わざとらしいため息。
頭をがしがしとかいて

「……めんどくさいやつだね、おまえは」

言葉とは裏腹に、少しだけ楽しそうな笑みを浮かべて吐いた。

これも、いつものこと。

「死ぬってどういうこと、か」

また、ふーっ、と煙を吐き出す。
さっきより長く、強く、たくさん。

「…変わんないよ、そんなに」

庭の花を眺めながら、やけにやさしく、穏やかな声で

「生きててもさ、苦しいこととかつらいこと、あるだろ?そんな感じだよ」

短くなったタバコを、ピンと弾いた。地面に落ちる前に、僕からは見えなくなった。

「……生きてたら、うれしいことも楽しいことも、あるけど」

喉が細くなったようにきゅっと痛くなって、声が出にくい。
顔の奥が熱くなった。

その、震える声を笑うように、
君は初めて僕を見る。

「……あるの?……うれしいこと」

絞り出すように聞くと、君はニヤリと笑って

「ひみつ」

悪いことを考える子どもみたいに

「おまえも死んだら分かるさ」

冗談めいて言った。


「なんで、……なんで、君は……」

我慢していたものが、じわりと溢れる。
君はそれを見ると、困ったように笑って

「質問は1つだけって言ったろ」

縁側から庭に立ち上がる。
音もしない。

「死ぬとはどういうことか。それは、生きることによく似ている。これが質問の答え」

振り返って、笑うと

「おまえはおまえの答えを見つけたらいいよ」

じゃあな、と
まるで、いつものように。


そこから、音もなく
ゆっくりと形を変えて、
白いもやもやになって

空に消えていった。

短編

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  • 小説
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  • 青春
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更新日
登録日
2019-03-17

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