猟師と熊

千葉しげる

熊に助けられた猟師の話。

昔、 ある山里に一人の猟師が暮らしていた。 その男は、 山で仕留めた獣を町へ持って行き、 お金に換えて生活していた。
ある日、 山向こうの知り合いに用事があって、 朝早くから山を登っていた。 すると、 3日前の山崩れのために、 道の大半がなくなっているところがあった。
かろうじて残っている左端の狭い幅を恐る恐る通っていると、 一匹の小熊が崖を懸命によじ登ろうとしているのを見かけた。
その時、 男は咄嗟に母熊の存在を予感した。 まずい、 近くに母熊がいる。 逃げねば。 そう思った男は、 慌てて引き返そうとした。
だが、 周囲を見渡しても母グマはいない。 そこで、 ほっ、として さてこの小熊を見捨てて良いものかどうか思案した。
えい、 母グマもおらんことだし、 助けてやるか。 そう思った男は、 腕を伸ばしてこぐまの襟髪を捕まえて引き上げてやった。
おとなしくしていた小熊は、 地面に着くと一目散に逃げ出していった。 その可愛らしい様子を目で追っていた男に衝撃が走った。
なんと、 こぐまの走って行く先に、 いつのまにか母グマがおるではないか。 しまった。 銃を持って来なかった。 これまでか。 男は狭い道幅からずり落ちそうになりながら、 ほとんど観念した。
見れば額に大きな赤い傷跡のある大きな熊であった。 後ずさりしながら男は母グマの動きをじっと見ていた。 当然あちらもじっと見ている。 だが、 どういうわけか母グマは、 こぐまを連れてさっさと行ってしまった。 それで男は命拾いした。
実は男の気がつかないことではあったが、 あの額に傷のある母グマも以前に助けたことがあったのだ。
ちょうど5年ほど前、 山の畑にあった他の猟師の仕掛けに挟まっていた当時まだこぐまだったあの母グマを助けてやったのだ。
当然男は憶えていない。 というより、 分からない。 だが助けられた方は、 顔も臭いも鮮明に憶えていた。
だから襲ってこなかったのだ。 それを知らない男は、 ただ運が良かったと思い、 慌てて逃げ出した。 途中まで引き返し、 別の道を選んで知り合いの家まで行った。
そんな頃、 この国の殿様は暇を持て余し、家老にこんなことを言った。 わしは、 まだ屏風絵でしか虎を見たことがない。 本物の虎を見たい。 なんとかせい。と。 すると家老は恐る恐る殿様に尋ねた。
それでは、 シナの国より虎を連れてまいりますが、 その後はお飼いになるので?。 すると、 殿様は、 当たり前じゃ、 さすれば、 わしの自慢話も一つ増えるというもの。 余計なことは考えずともよい。 すぐに長崎へ使いを出せ。と、 言った。
本当は、 あきっぽい性格の殿様の悪い癖を家老は心配していたのだった。 物が物だけに連れて来た後、 何か問題でも起こさぬか、家老はそこを不安に思っていた。
8ヶ月後、 虎はお城に連れてこられた。家臣が長崎まで出向き、 オランダの商人を通じてシナの国から取り寄せたものだった。
殿様は大層喜び、 初めのうちは夢中になって餌やりなどをしていたが、 すぐに飽きてしまい、 虎の檻などに足を運ぶことなどなくなってしまった。
主人がそうなので、 当然家臣たちの虎に対する監視の目も弛くなり、 とうとう怠慢な家臣の餌やりの隙を突いて虎は逃げ出してしまった。
知らせを聞いた殿様はさすがに慌てた。 もし、 幕府にこのことが知られたら大変なことになる。 殿様は急ぎ100名ほどの家臣に虎の射殺を命じた。 家臣達は、 それこそ血眼になって虎を捜し始めた。
虎は夜陰に乗じて城下町を通り抜けると、 山の中へ逃げ込んでしまったようだった。 すぐに大規模な山狩りが始まった。
近隣の猟師たちも駆り出され、 当然あの猟師もその中に入っていた。 事は急を要するため、 個人の仕事はそっちのけで、 男も仲間5人と組まされて山へ入っていった。
捜索が始まってから二日目、 冬の嵐がやってきていた。 男は仲間5人と懸命に捜したが、虎と出会うことはなかった。風雨がだんだんと強くなってきたので、 近くの炭焼き小屋にでも避難しようかと、 仲間と相談しながら歩いていたら、 知らないうちに仲間とはぐれてしまっていた。
さらに風雨は激しくなり、 叩きつけるような豪雨に周囲までもがぼんやり白く霞んで見える。 夕暮れは近づきつつあるというのに、 避難場所さえ見つからない。
激しい風雨にさらされて、 大事な種火までもが消えかねない状況である。 だが、 男になすすべもなかった。
そんな時、 白くかすむ激しい雨の中、 道の向こう側に捜していたトラが突如現れた。 飢えと寒さによってさらに凶暴さは増している様子であった。
虎は低い唸り声を上げて、 少しずつ男に近づいてくる。 男の全身は凍りついた。 もちろん寒さのせいではない。
男は咄嗟に銃を持っていることを思い出し、虎を射ち放つ準備を始めたが、 寒さで手がかじかんで思うように動かない。 さらに、 激しい風雨によって大切な種火までもが消えかかっている。 慌てる男。 もう虎は目の前まで来ている。
虎は首を垂らし、 白い息を口と鼻から出しながら男との間合いを詰めてきている。 もはや男は観念するしかなかった。 俺もこれまでか。と、 思った時、 突然山の斜面から素早い足音を立てて転がるような勢いで降りてきたものがあった。
その物体は、 そのまま虎に体当たりした。 不意をつかれた虎は、 子猫のような甲高い唸り声をあげてそのままどこかへ行ってしまった。
あっという間の出来事であったが、白く煙るような雨の中でも、 男の目にははっきりとその黒い物体が以前見かけた額に大きな赤い傷跡のあるクマであることがわかった。
しかし、 命拾いした男ではあったが、 男の方としては、 今度は熊か。 今日はついてない。と、 思わざるを得なかった。
襲われるのが、 トラでもくまでも同じことだと男は思い、とうとう 尻餅をついて、 天を仰いだ。 すると、 熊は男をちらりと見たかと思うと、 どういうわけか以前同様ぷいっと行ってしまった。 2度命拾いをした男は、 激しい風雨の中でただただ呆然と熊を見送るばかりであった。
その後、 虎は飢えと寒さで弱り果てていたところを、 殿様の家臣100名に取り囲まれて、 捕らえられ、 生かされたままシナの国へ送り返されたということです。
男はと言うと、 どういうわけか猟師をやめてしまい、 さらに村を離れて、 どこかへ行ってしまったそうで、 今はどこで何をしているのか誰も知らないそうです。

猟師と熊

猟師と熊

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-03-17

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