lost

プロローグ

深呼吸を、ひとつ落とす。

それは、溜め息にも似た後悔。

目をつぶり、3つ数える。


スライド式のドアを開けた。


まぶしいほど真っ白い部屋。
窓が開いていたらしく、風が通りカーテンが揺れた。

穏やかな時間。痛いほどの静寂。


白いベッドに身体を起こして座る“カレ”は、自分の知っている“彼”のようで、実はそうじゃない。

「…ショーゴ」

向こう側、窓の外を見ていたカレは、こちらを見て嬉しそうに笑った。



祈りは、いつも届かない。





真ん中で分けた漆黒の髪は肩まで伸び、風に吹かれるたびにさらさらとなびく。

華奢で小さな身体、整った綺麗な顔。
子どものように笑う。


「調子良さそうだな」

祥吾は言いながらドアを閉める。

「うん。昨日はごめんね、心配かけちゃったみたいで」
「いや、それはいーんだけど」

見た目は確実に20代、なのに喋り方や口調は幼い子どものようだ。

「…なんか思い出した?」

少し言いづらそうに祥吾が聞くと

「……」

楸は目を伏せ、首を横に振った。



「昨日の診断結果が出た」

楸の担当医師、神崎が紙を見ながら祥吾に言う。

「…が、相変わらず大したもんは得られてない。お前も本人に聞いたんだろ」

楸は現在、点滴中。症状が酷すぎて食事もろくに採れなかった次の日なんかによく行われる。
そして楸は面接時間だろうがなんだろうが、点滴中はいつも一人になりたがる。

だから今、祥吾は神崎と応接室にいた。

「まぁ、一応。なにも思い出してないみたいですね」
「あぁ。…ただ、今までに無かったことが一つだけあった」

神崎は祥吾を見る。息をつくと

「…意識が失くなる直前、“ユキ”と」

祥吾はその言葉に目を見開く。思わずイスから立ち上がった。

「それ…ヒサはなんて…」
「覚えてなかったよ。何を見てたのかも、どうしてあんなになったのかも。…ただ」

座れ、と手で合図をする。神崎は回転イスを反転させると

「…相変わらずのボロ泣きだ」

ふぅ、と息をついた。



“全生活史健忘”という記憶障害。

それが、現在楸が患っている病名に値する。

記憶を失った時点はおろか、出生からそれに至るまでの一切の記憶が失くなり、自らの正体すら分からない。

今の彼には、目覚めてからの3年ほどの記憶しかないのだ。


「こんなに…戻らないもんですか」

祥吾は落胆するように溜め息をつく。神崎と目が合うと

「3年待って、何ひとつ記憶が戻ってないんですよ。…これから先、何年経ってもこうなんじゃないかって」

唇を噛みしめ、膝の上に置いた拳を握りしめる。そのまま俯いた。

神崎はそれを見て

「…何度も言うが、これは楸自身の問題だ。俺たち医者が何をやってもどんな手を尽くしても、本人に思い出す気がなければ記憶が戻ることはない。…アイツの場合、原因が原因だからな。無意識に拒否したとしても仕方ないだろ」

溜め息混じりに言うと、イスを回転させて立ち上がり窓の外を見た。

神崎を見ていた祥吾はまた俯く。そして

「……一時退院は、それを分かった上でですか」

絞り出すように聞いた。

神崎は

「…あぁ」

覚悟を決めたように頷いた。




楸と祥吾。

現在、共に26歳。

少年

18年前。
月の綺麗な夜。

8歳の祥吾は、家で2歳上の兄と遊びながら父の帰りを待っていた。

母の作る夕飯の匂いが鼻をくすぐる。
腹が勢いよく鳴る。
それを母に笑われ兄にからかわれ、おもちゃの剣で兄に仕返しをしようとした、

そんな時だった。



「母さん!!救急車呼んでくれ!!」

突然玄関が開く音がしたと思ったら、父の危機迫る声。
祥吾も兄も驚いて固まる。

廊下に繋がるドアを開けて、急いで母が玄関に向かった。
兄弟も恐る恐る玄関の方を覗く。


そこには

「……」

父の腕の中でぐったりする、ボロボロになった少年の姿があった。



今でも、この時のことはよく覚えている。


父は見たことのないくらい必死な顔をしていて

母は泣きそうな顔をしながら電話をかけていて

兄は横で小刻みに震えていて

少年は弱々しいほど小さく


その場は騒然としていた。




数日後。

何のためらいもなく、ガラガラと引き戸を開ける。

「おーっ!元気になったな!」

病院の個室。ベッドに駆け寄り、そこに座る少年を見上げた。

「もう平気か?」

祥吾が聞くと、彼は無表情のまま頷く。

「お母さんちょっと先生と話してくるから、ヒサギくんと話しててね」

母は祥吾に言うと、着替えやお見舞い品を置いて病室を出て行った。
祥吾はその言葉で

「ヒサギ?お前ヒサギってゆーの?」

初めて少年の名前を知る。
少年―楸はまた無言の無表情で頷いた。

「へぇー。変な名前」

祥吾が正直に言うと、楸はあからさまにムッとする。


あ、怒るんだ


祥吾は至極当然のそれを、少し意外そうに見る。
感情のあるのが嬉しかった。

「おれね、祥吾ってゆーの。よろしくな!」

笑顔で言うと、楸は少し驚いたような顔をして

「…」

やはりこくんと、頷くだけだったが

「?」

ひきつったような緊張したような、少しだけ口角を上げて、でも笑顔とは言えない顔をした。


まるで、笑い方を知らないような


変なヤツだな、なんて思った。




「虐待…」
「えぇ、恐らく」

医者の言葉に、母は驚いて目を見開いた。

「傷跡や彼の様子から、楸くんは虐待を受けていた可能性が非常に高いです。それも、恐らく父親から」

医者はカルテを開きながら説明する。

「ひどい栄養失調と重なる打撲痕から、かなり長い間虐待を受けていたのではないかと思われますが、まだ推測でしかありません。…と、言うのも…」

少し言いにくそうな顔をする医者。母は

「何ですか?」
「…警察への捜索願いも、病院や学校、児童相談所への相談も何も出ていないので…はっきりしたことが、まだ」

医者は悲痛そうな顔をする。
母は

「…父親、というのはなぜ…」
「楸くんの家は5年ほど前に母親が病気で亡くなっており、現在は父子家庭です。児童相談所の調査からも、家に出入りするような女性はいないようですから、恐らく、父親によると」

医者の説明に頷く母。

「今、その父親は…?」
「それが…その…行方が分からないようで」
「…はい?」

母は驚く。

「楸くんの家にもいませんでしたし、働いていたはずの会社も随分前に辞めていたようです。縁故もなく、情報もありません」

そこで、母はようやく理解する。


楸は、本当に独りだ。


「…分かりました。楸くんはしばらくうちで預かります」

その言葉に医者は驚いたが

「あの子を、もう独りにはさせません」

母親の決意は固かった。

楸の様子も楸の傷も、彼女はすべて見た。
放っとけるはずがなかった。




その日から、祥吾と楸は毎日一緒にいるようになった。
実際二人は学校も学年も一緒で、地区も隣だった。

祥吾の兄は他人の入り込んだ生活に慣れるまで少し時間がかかったが、祥吾は性格もあってか自ら進んで楸と一緒にいた。
一緒にいることを好んだ。

楸は、最初こそ笑い方も知らないような感情の乏しい子どもだったが、祥吾や祥吾の兄、父や母に囲まれ、賑やかで幸せな家庭に身を置くことで、徐々に普通の子どものように表情豊かになった。


いつしか、当たり前のように5人は家族で、3人は兄弟だった。

楸は籍こそ変えなかったものの、高槻家の一員として、「父さん」と「母さん」と「兄貴」と「祥吾」のいる家が、まぎれもなく楸の居場所になっていた。

そして楸の本当の父親は、それから何年経っても見つからなかった。

lost

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  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-17

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  1. プロローグ
  2. 少年