やさしくなりたいね
先生が腐ると想うと悲しいので腐らないでほしいと祈りながらコーヒーを飲む。先生はなまものでわたしもなまもので夜はたいせつな約束をやさしくつつみこんでくれるゆりかごみたいでわたしは好きなのだけれど、先生はきらいだといった。何億光年と離れたところにあるかもしれない星のことを想うと気が遠くなりそうだったが、なまものである先生がいずれ何らかの原因で腐蝕する可能性については割とまじめに考えているわたしである。
(やさしくなりたいね)
時々きこえる声の正体はわからない。膜を通してきこえてくるような声をしている。ぼやんとしていて、水のなかできいているような感じで、それは一種の不安感をあおる。やさしくなりたいねというのは、わたしにやさしくなれということなのだろうか。だとすれば、声の正体はわたしのなかのもうひとりのわたしだろう。わたしの意識のないときに現れるわたしで、わたしよりも少しだけ性格が良いと教えてくれたのはもうひとりのわたしを知っている幼馴染だった。先生がもしかしたらいずれ腐ってしまうかもしれない、悲しいから腐らないでほしいけれど、もし腐ってしまったときにわたしは先生のことを愛してると言えるだろうかと考えてしまうわたしに対して、もうひとりのわたしは先生が腐ったらわたしも腐って死ぬまで先生と一緒にいると迷わず言えるひとだ。少しだけ性格が良いというところがそういうところなのかはわからないけれど、わたしのなかのわたし、つまりもうひとりのわたしだなんてきっと、わたしが欲しくても持っていないものを持ち合わせているに決まっている。わたしは先生のことを愛しているはずなのに、先生が死ぬなら一緒に死のうという結論を出せない。愛しているひとが死ぬときに一緒に死ぬことはやさしさではない。自然の摂理で、寿命で、病気で死を迎えるのと、自らの意思で命を落とすことは、違う。別物だ。
果物が木から腐り落ちるところを想像する。にんげんは、そのようにはならないとは言い切れないという考えに行きつくところが、わたしというにんげんがやや世間からはずれている要因ではないかと思う。先生はそんなわたしでも「かわいいよ」と言ってくれるから、身内がどんな顔をしようがわたしはわたしを変えようとしない。やさしくなるってどういうことだ。わたしはやさしくなるよう努力しなくてはいけないほど、酷いにんげんではない。先生のうでが、あしが、腐敗して捥げる瞬間を想い描いて、ひとり泣いてる。
やさしくなりたいね