ある男の場合

ある男の場合

1

不可解な頬への感触で私は飛び起きた。触ってみると、どうやら朝露が垂れてきたらしい。
私はどのくらい、眠っていたのだろう。一度もたれ掛かっていた木の根から身体を起こして、大きく伸びをする。
少女は?一体どこへ行った?ハッとして辺りを素早く見回す。そして安堵のため息を漏らす。いた。近くの別の木の下で少女も休んでいるようだった。しばらくは、寝かせておいてあげよう。少女も疲れているだろうから。
私は懐から手帳とペンを取り出すと、せり出した巨大な木の根がちょうどテーブルのようになっているところに腰かけ、手帳を開いた。

2

私がこれを書いているという事は、幸いにも私はまだ生きているという事らしい。いや、正確にいうと″意識はある″ということだけしか、断定は出来ないが。
三日前、偶然遭遇した行き倒れた男性のポシェットから、この手帳とペンを拝借した。そして、私が巻き込まれたこの奇怪で、それでいて残酷な世界での体験を後世に残すために、いま私は筆をとっている。この行為が無駄ではなく、いつか誰かの役に立つと信じたい。
時間の感覚を失ってから久しいので確かではないが、私はこの不気味な森の中を、かれこれ二十日以上は彷徨っていると思われる。
この森での一番最初の記憶……すなわち覚醒時、私は奇妙な繭のようなものに捕らわれていた。目を覚ました私は妙な恐怖感と虚無感に苛まれ始めた。一刻も早くそこから出なければならないと素手で繭を引きちぎると、この見慣れた森の中に落下した。そこそこの高さがあったために、私は左腕を大きく地面に打ち付けてしまった。痛みでしばらくは動かせないほどだったが、ずっとそこに座っているわけにもいかないので、痛みをこらえながら歩き出したことを覚えている。
初めは酷く混乱していた。どうしてこんなところにいるのか、何故私がこんな目に遭わなければならないのか、皆目見当がつかなかったからだ。そうして森の中を3時間以上、彷徨ったであろうか。そうして異変に気付いた。いくら歩いても、一向に森を抜ける気配がないのだ。私は知っている。山などで遭難したときは、闇雲に歩くのは得策ではないという事を。
人間、吹雪の中や深い森、樹海などでは、必然的に同じような景色が続くため、真っ直ぐ歩いているつもりでも知らず知らずのうちに左右のどちらかに進行方向が逸れていくものなのだ。そのせいで、何時間歩いても、何度も何度も同じ所をグルグルと回っているだけだった……というのは、よく聞く話だ。
だから、森の中を真っ直ぐ進むためにはコツがある。それは木を利用する事だ。一つの木をスタート地点としてある方向に真っ直ぐ進みたいとする。そうするとまずは、進行方向に真っ直ぐ進んで突き当たる別の木を確認する。次に、そこまで歩いていき、その木のスタート地点の木からちょうど向かいの位置に印をつける。そして
木の周りを半周し、対称の位置にも印をつけ、再び次の木を目指し、先程と同じことを繰り返す……
この方法で真っ直ぐ進めば、日本で最も深い森と俗に言う富士の樹海でさえも、1〜2時間で何処かしらの公道に突き当たることができる、と言われている。
というわけで私は、繭の近くの木をスタート地点にして真っ直ぐ進み続けたわけだ。だが、一向に公道は見えない。何かおかしい。途中何度か訝しんで、元来た道を戻ってみたが、左右に逸れている気配はない。ひたすら真っ直ぐ進んでいる筈なのだ。まるで狐に化かされているような気分だった。そのうち、私は足に痛みを覚え、近くの木に腰掛けて休憩することにした。先程打った左腕の調子もあまり良くない。しばらくは森は静けさに包まれていたが、私は何かの音が近づいてきていることに気づいた。

3

少女と出会ったのは、それからさらに五日程過ぎた頃であっただろうか。

ある男の場合

ある男の場合

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-03-17

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