秘密の居場所
毎日、夕焼けが灰色のアスファルトをオレンジ色に照らす時間。人気のない寂れた商店街を通り抜けて、昔は子供たちでにぎわっていたであろう、今や訪れる者はほとんどいなくなってしまった公園の、滑り台の下。
そこが彼と私の、秘密の居場所。
「こんばんは。今日はまた一段と冷えるね。」
何年も着古しているであろう薄手のコートの上から自分の身体をさすりながら、今日も彼は現れた。私はその言葉に応じることなく、視線を彼の腕に向ける。身体をさする彼の手にはいつもと同じように駅前のコンビニ袋が握られていて、それを視認してやっと私は重い腰を上げ、彼のそばにすり寄った。すり寄りながら、なんて自分はがめつい奴なんだと思う。でも、それを見た彼の目が愛おしそうに細まるのを見ると、そんなどんよりした気持ちは一瞬で融け去って、次はもっとふてぶてしい態度をとって彼を困らせてやろうと思ってしまう。
「うん。ごはん、一緒に食べよう。」
彼はそう言ってビニール袋からおにぎりを取り出し、滑り台の端に腰掛けた。私もそれに続いて彼の真正面に座り、上目遣いで彼におねだりをする。早く。早く。もう昼間からずっとお腹と背中がくっつきそうなのだ。
「わかってるよ。はい。これは君の分。」
急かす私を見て意地悪そうな笑みを浮かべ、彼は私の分の食事を袋から取り出し、私に差し出した。私はわき目も振らず、その食事に食らいつく。しばらく夢中になって食べていると、彼の手の感触が、そっと私の頭を撫でた。きっとまたあの愛おしそうな目で私を見つめているのだろう。くすぐったさが胸を撫でるが、敢えて彼のほうを見ず、食べるのに夢中なふりをする。しばらくすると、頭上の手の速度は穏やかになり、いつものように彼はぽつぽつと今日あった出来事を話し始めた。
「今日はさ、まぁた書類のミスで怒鳴られたんだ。何回言ったらわかるんだって。僕も、なんで何回言われても失敗するんだろうって思うよ。」
たいていの彼の話は、「目覚ましをかけ忘れて寝坊しかけた」だとか、「年下の部下への指導で上司に呼び出された」なんて、一日にした失敗談から始まる。毎日毎日、よくもまあこんなに失敗できるなと感心するくらい、彼の話は長い。滑り台を照らしていた夕焼けが遠く沈み、ほんのりと暗闇が彼の横顔を包む頃まで彼の話は続く。飽き性な私がそれでも彼の話をおとなしく聞いているのは、彼が一通り今日あった出来事を話し終わった後にする、明日の物語を聞くのが好きだからだ。
「明日はさ、きっと朝、途中のバス停で足の悪いお婆さんが乗ってくるんだ。満員バスで、座っている人はそのお婆さんを見えないふりをするんだけど、僕だけは気づく。勇気を出して、席を譲る。周りの人たちは、『存在しなかったお婆さんに気付いたふり』とか、『席を譲る若者に感心するふり』を一瞬する。」
私の脳裏に、勇気を振り絞り老婆に声をかける彼と、周囲の浅ましい大人たちの姿が浮かぶ。浅ましい、大人たち。でもきっと大半の人間はそんな浅ましさと、ちょっぴりの良心で構成されていて、ヒーローになれるかなんて、その良心を外に現す勇気があるかで決まるのだ。目の前の彼は、勇気ある人間だろうか?なんて、頼りない横顔をそっと観察する私に気付かないまま彼は話を続ける。
「僕はそんな乗客たちを見下しながら、バスを降りて会社に向かう。部屋の扉を開けたら、いつもは僕をいないかのように扱う上司たちが、全員一斉に僕に注目するんだ。さぁ、なんでだと思う?」
彼はそこで初めて話を止め、わくわくした目でこちらを見つめた。その視線があまりに少年のような無邪気さで満ちているので、私も思わず難題に首を傾げる振りをする。すると彼は満足げににやりと笑って、答え合わせを始めた。
「実はバスで席を譲ったお婆さんは取引先の社長の母親で、お礼を言いに僕を訪ねてきていたんだ。そんで僕は次の日には社長に呼ばれて、直々に礼を言われる。そっからは僕の人柄を買われて出世コースさ。…どうかな。」
そういうと彼は照れくさげにこちらの反応を窺ったが、どうもこうも、お婆さんはどうやって職場の場所知ったんだとか、なんでお婆さんのほうが早く職場着いてるんだとか、突っ込みどころ満載のご都合主義超展開に、私は内心大きくずっこけた。毎度思うが、彼はきっと物語を作るのが下手なのだと思う。もう少しリアリティのある話にすればいいのに、いつも投げやりなハッピーエンドに持っていってしまうのだ。いや、でも冴えない彼がハッピーエンドになるにはこれぐらい超展開じゃないと駄目なのか…悶々と頭を抱えていると、突然身体がふっと宙を浮き、気付いたら彼の膝の上に抱き上げられていた。
「わかってるさ。こんな話あり得ないってこと。でも、万が一、億が一でも本当になったら、って思ったら、明日も頑張ろうって思えるだろう?」
私の頭を柔らかく撫でながら彼は言う。少し寂しそうな、でも世界で一番優しい声音で。私はこの瞬間があまりに心地よく、彼に身を任せてそっと目を閉じる。…きっと彼は明日、満員バスで席を譲るだろう。なけなしの勇気を振り絞って。例えその行動によって彼の日常が1mmも変わらなかったとしても、ほんの少し、誰も気づかないくらいちょっぴりでも、世界が優しくなってくれるといいと思う。そんな私の想いが、少しでも彼に届いたらいいのにと、心から思う。
「さて、今日はもう帰ろうかな」
しばらくすると、そう言って彼は膝の上の私を再び抱きかかえ、そっと地面に下した。いつの間にかあたりは完全に暗闇に包まれ、頼りない街灯のみがほのかに私たちを照らしている。
「また明日も来るから。」
惜しむように彼は鞄を手に取ると、私の頭を最後に一撫でする。一日の中の特別な時間が終わりを迎える。私は彼の名前を知らない。住所も知らない。彼がこれからどこに帰るのかも、帰る場所があるのかも。そしてもちろん彼も私のことを何も知らない。私に家族はいるのか、私が昼間どこで何をしているのか、私が明日もここに来るのかさえも。…だって、私たちは言葉を交わす術を持たないのだから。
小さくなっていく彼の背中を見送りながら、堪らなく寂しくなって、私は「にゃあ。」と小さく鳴いた。
秘密の居場所