Liebe
プロローグ
亜麻色の髪に蜂蜜色の瞳。
輝く笑顔に輝く指輪。
荒れ果てた天候に揺れる海。
叫び声に崩壊する音。
必死に伸ばす手。
その手は
――届かなかった。
第一話「はじまり」
涼しい風を頬に感じ、重たい瞼を上げる。ぼやけた視界で見つめた先にあったのは白い縁の窓。薄い水色のカーテンがほのかになびいていた。ゆったりと起き上がり、蜂蜜色の瞳で周りを見渡す。意識がだんだんはっきりしてくる。しかしそんな意識とは裏腹に、現状は全く把握できていなかった。
ここは一体どこなのだろう。大きな本棚に、シンプルな机。そして今寝ていたであろうベッド。
――見覚えのない部屋だ。
「あら、起きたのね」
突然聞こえた声にびくっとしてしまう。扉はよく見える位置にあるというのに、扉の開く音に気が付けなかったようだ。部屋に入って来たのは群青色の髪と瞳が綺麗な女性だった。短く切られたその髪はその女性の明るさを象徴しているようで、実際に明るい笑顔をしていた。この部屋の主だろうか。
「気分はどう?」
「あ……えと、悪くないです……」
久々に声を出した気がする。そのせいか少し掠れてしまった。なんだか気恥ずかしくなり、俯く。髪がかすかに顔にかかり、ふわりと潮の香りがした。無意識にその亜麻色の髪に触れる。感じる違和感に、本当に自分の髪なのかと疑問を抱いた。
「どうしたの?」
女性が不思議そうにその様子を見つめる。
「髪が、ちょっと、ごわごわします」
まるで覚えたての言葉を発するかのように、ぎこちなく声を出した。その様子が面白かったのか、それとも発した言葉が意外だったのか。女性は豪快に笑った。
「そりゃあそうよ。あなた海辺に倒れていたんだもの。とりあえず着替えはさせたけど、きちんとお風呂に入った方がいいわね」
視線を合わせるようにして女性は身をかがめる。そして群青色の瞳が優しく微笑んだ。
「私はアンナ。もしよかったら、あなたの名前を教えてくれる?」
そんなアンナの微笑にほっと安心感を抱き、口を開く。しかしその瞬間、心臓の高鳴りと共に一瞬呼吸が止まったような感覚がした。
――わからない。
身体が震えるような感覚がして、思わず手を抑える。そんな様子を見て、アンナは落ち着かせるようにその手に両手を添えた。
「……まだ混乱しているのかも知れないわ。とりあえずお風呂に入って。話は後にしましょう」
アンナはそう言って明るい笑顔を見せた。ゆっくりと息を吐いて、少女はこくりと頷いた。
温まった身体を拭き、無心でアンナの用意してくれた服を着る。先程まで寝ていた部屋のカーテンと似た、薄い水色のワンピース。サイズは不思議とぴったりだ。新しい服というわけではなさそうだが、アンナの服とも思えない。ふっと息を吐いて、髪の水分を拭き取った。
「あ、あの、お風呂ありがとうございました」
先程までいた部屋ではなく、アンナに言われた部屋におそるおそる入っていく。お風呂で温めたことで喉が潤ったのか、声はもう掠れていなかった。部屋はどうやらリビングのようだが、誰もいない。そのリビングから繋がっている部屋から水の音がした。キッチンと繋がっているのだろうか。ゆっくりと足を進める。
しかしそこには見知らぬ男がいた。烏羽色の髪に、吸い込まれそうなくらい深い闇のような瞳。
「っ!」
目が合い、思わず立ち止まってしまう。男はテーブルで珈琲を飲んでいた。その目力に圧倒され、後ずさろうとしたところで、明るい声が響いた。
「おかえりー」
奥からやってきたアンナは、二人分のカップをのせた白いトレーを持っていた。その明るい笑顔があまりに男と対照的で、呆然としてしまう。その様子を見てアンナは笑う。
「カフェオレ淹れたの。よかったら飲んで」
「は、はい」
男の隣に腰掛けるアンナを見て、ぎこちない動きでその向かい側に腰掛ける。カフェオレを一口飲むと、その温かさに心が落ち着いていくのを感じた。そしてちらりとアンナの隣に座る男に目をやる。一体誰なのだろう。二人はどのような関係なのだろう。
「さっきもちょっと言ったと思うけど、あなたは海辺に倒れていたの。そこであなたを拾ったのが、このウィリアムっていうツリ目で柄の悪い男なのよ。なんか怖がらせちゃったみたいで、ごめんね」
「い、いえ、そんな……」
咄嗟にそう答えて、ウィリアムと言われた男を見る。最初に目が合って以来、全くこちらを見ていない。やはり怖がったような態度がよくなかったのだ。思わずぎゅっとカップを握る。
「あんた何か言うことないの?」
アンナが呆れたようにウィリアムに言う。彼はアンナを一瞥して、珈琲の入ったカップを撫でる。
「……柄は悪くない」
「そこじゃないわよ」
「あ、あの」
鼓動が早い。かなり落ち着いたつもりでいたが、まだ緊張しているようだ。集まる二人の視線に、瞳を揺らす。すぅっと息を吸い込んだ。
「そ、その……助けていただいて、ありがとうございます」
ぺこっと頭を下げる。しかし何の反応もない。不安そうに顔を上げると、二人は驚いたように少女を見ていた。
「ふふ、いいのよ。倒れてる女の子を放っておくなんてできないもんね、ウィル」
「……あぁ」
そしてアンナはかすかに微笑んだままカップを置いた。
「こちらとしては、あなたが海辺に倒れていたことくらいしか説明できないんだけど……何か覚えてることはある?」
その言葉に、頭を巡らせた。言葉や物の名称はわかる。しかし、今まで歩んできた筈の人生が全てなくなってしまったかのように、何も思い出せない。出身も、家族も、何もかもがわからなかった。
「……ごめんなさい」
そう言って俯く。言いようのない不安が胸に広がり、下唇を噛んだ。前方からアンナの唸る声が聞こえる。
「うーん……まぁそういうこともあるわよね。何か思い出すまでここにいればいいわ」
いいでしょ?とアンナはウィリアムに問いかける。ウィリアムはあぁと話を聞いていたかどうか怪しいくらいの生返事を返す。着々と進む話についていけず、ぼーっと二人の会話を聞く。
「あの、ここにいればいいって……」
「ここはウィルの家なの。本当なら私が泊めてあげるべきなんだけど……家の状況的にそういうわけにもいかなくて、ごめんね」
申し訳なさそうなアンナに勢いよく首を横に振る。こんな記憶のない見ず知らずの人間を泊めてくれること自体、ありがたい話だ。
「よ、よろしくおねがいします」
おずおずと頭を下げる。アンナは明るい笑顔を浮かべた。
「困ったことがあったら言ってね。私でも、ウィルでもいいから」
その言葉でウィリアムに視線を移す。しかし彼は黙って珈琲を堪能している。もう目が合う気配はなかった。
「名前も思い出せないとなると、かなり不便よね」
アンナが考え込むように腕を組む。名前。確かにかなり不便だ。
「何か呼び名でも考える?」
「え、えっと、お任せできますか……?」
今の自分に人名なんて思い浮かべることはできないだろう。心の喪失感に気付かないふりをして、曖昧に笑う。アンナは愉快そうに笑った。
「あら、私のネーミングセンスに賭けようっていうの」
「……やめた方がいい」
「ちょっと、どういう意味よ」
やっと言葉を発したウィリアムの言葉にアンナはわざとらしく頬を膨らませて抗議する。そしてまたにっこりと笑って少女を見る。
「エリーっていうのはどう?」
ウィリアムは黙ってアンナに視線を移した。少女はこくりと頷く。名前を考えてくれたことで、少女は少し自分自身が安定したような気がした。
「ありがとうございます。……とても、いい名前だと思います」
じゃあ決まりね、と笑うアンナに、エリーもまた嬉しそうに笑った。
こうしてエリーと名付けられた記憶喪失の少女と、無愛想で柄の悪い男の同居生活が始まったのだった。
第二話「雨のち」
雨が降っている。
カーテンを開くまでもなく、音と空気でそう感じる。雨というのは気分が暗くなってしまうような、そんなじめじめさがある。しかしそんな雨の日独特の雰囲気は嫌いではない。
軽く朝食をとり、着替えたエリーはカーテンを開き、深呼吸をして自分に気合いを入れる。これから家の掃除をするつもりだ。家に置いてもらう代わりに家事をさせてもらうことにしたのだ。
居候の身になってから数日が経った。最初の二日間はアンナも共に泊まってくれていた。エリーのために気を遣ってくれたのだろう。その間にエリーは部屋や日用品の場所や、アンナとウィリアムのことを覚えた。それら全てを教えてくれたのはアンナだ。いてくれてよかった、とエリーは心から思う。
ウィリアムは部屋にこもっている。家の主であるウィリアムは作家だ。執筆中はいつもこうやって部屋にこもって食事もまともにとらない。朝食も一応用意をしたが、後で食べると言われたまま放置されている。最初は食事がまずかったのか、自分は嫌われているのか、と色々心配していたが、どうやらそうではないことがわかってきた。単純に集中して執筆をしているだけのようだ。数日ですっかり家事が身に付いたエリーは、今日も今日とてウィリアムが集中して部屋にこもっているうちに家の掃除を済ませてしまおうと思っていた。
そうしていると、そろそろ昼食の準備にとりかかる時間となっていた。冷蔵庫に入っている食材は全てアンナが用意してくれたものだ。日頃からウィリアムの食生活が心配なのだろう。それもそうだとエリーは思った。ウィリアムは放っておくと何日も食事をとらない可能性がある。そのうち倒れても不思議ではない。そしてそんな彼は今も部屋にこもって集中している。昼食も食べてくれるかどうか、という心配はあったが、とりあえず用意を始めることにした。冷めても平気なものやすぐに温められるものを考えながら作っていく。どんなに集中していてもお腹は空くだろう。そしてお腹が空いたらさすがに何か食べ物を求めてキッチンへやってくるだろう。食べてくれないかも知れないという考えは頭の隅に追いやって、エリーは食事を作り始めた。
ドアをノックして、声が届くように少し開ける。
「……なんだ」
いつもより低い声。まだ慣れないな、と思いながら声をかける。
「あの、昼食を作ったので、時間のある時に召し上がってください」
ああ、という返事を聞いて、ドアを閉める。やはり一緒に食べる気はないようだ。思わずため息をついて、雨音を聞きながら昼食を食べる。雨は嫌いじゃないが、どんよりとした空の色を見ているとなんだか自分の心もどんよりしてきそうだ。ウィリアムの分の昼食をわかりやすい場所に置いておき、部屋に戻る。家事は大体済ませてしまった。暗い窓の外を見ながら、晴れたら外へ出てみようと考える。ウィリアムのように仕事があるわけでもないのに家にずっと引きこもっているのは気分が悪くなってしまいそうだ。ここへやってきたばかりの時と違い、不安よりも好奇心が勝っていた。窓から見る景色だけでも、この街は美しいことが分かる。探検してみたい。数日の間にその思いは大きくなっていた。それほど不安を抱いていないのは、きっとアンナが自分にエリーという名前を付けたからだ。存在する意味が、理由が、できたような気がしたのだ。しかしウィリアムとはどう関わっていったらいいかわからない。仲良く出来たら嬉しいが、どうすれば仲良くなれるのかが全くもってわからないのだ。
「まぁ、いっか」
小さく呟く。
迷惑をかけないようにしてこれからも一緒に暮らしていったら、きっと仲良くなれるチャンスはたくさんあるだろう。こんな雨の降る日に悩むことはない。そう自己完結し、夕食に何を作るかということを考え始める。しかし先ほどから雨音しかしない。ウィリアムの書斎からダイニングやキッチンへ行くには、エリーの部屋の前を通る必要がある。部屋に入ってから何の音も聞いていないということは、まだ部屋にこもっているのだろう。このままだときっと彼は何も食べずに今日という日を終える。食べたとしても、夜の遅い時間にエリーの作った昼食を食べることになるだろう。そう考えると、エリーは夕食を作らなくてもよいのではないかと思ってしまう。自分一人のためだけに作る料理ほど味気ないものはない。
「じゃあ、いっか」
再び呟く。
雨はいつまで待っても止む気配がしない。明日にでも外へ出てみたいと思っていたが、もしかしたらまた延期になるかも知れない。そんなことを考えてまた少し憂鬱になる。雨は先ほどよりも激しさが増している気がする。ぼーっと窓の外を眺め続けた。
ふと聞こえた足音にエリーはハッとする。ウィリアムだ。きっとお腹が空いて今から昼食を食べるのだろう。きっとそうだ。そう考えてわずかに頬がゆるむ。先程まで落ち込んでいた気持ちが浮上していく。我ながら単純だとエリーは思った。
雨が降っているからなんだというのだ。明日も雨が降っていたら、雨の降るこの街の景色を楽しみながら出かけたらいい。ウィリアムが夕食を食べてくれる可能性が少しでもあるなら、用意するだけしてみればいい。そんなことを考えていたら、窓の外が明るくなってきた。雨が止んできたのだ。まるで空に応援されているように感じて、エリーはダイニングへ向かった。そこには、珈琲を飲んでいるウィリアムがいた。用意していた昼食はもう既に片付けられているようだ。
――食べてくれたんだ。
そう考えたら嬉しくなって、思わず笑いかける。
「ウィリアムさん、雨が止みました」
「……そうか」
いつものようにそっけない返事が返ってくる。しかしそんなことは気にならなかった。窓の外に目をやると、テーブルに珈琲を置くカタッという音が聞こえた。
「明日の夜は一緒に外へ食べに行くか」
初めてこれほど長く声を聞いたのではないか。そう思うより先に、
「はいっ」
と元気よく返事をした。にこにこしているエリーを見て、今度はウィリアムが窓の外に目をやる。
「……ここはお前の家だ。何も遠慮しなくていい」
予想外の言葉にエリーはウィリアムを凝視する。少し居心地の悪そうな表情をしているのは、気のせいだろうか。
「ありがとうございます」
エリーはより一層頬が緩むのを感じた。
第三話「探検」
「この街を探検したいです」
意気揚々とウィリアムに告げる。ここ数日ずっと考えていたことだ。雨も降っていない、絶好の探検日和だ。
今日は珍しく朝食を共にとっていた。それだけでなんだかエリーはウィリアムと絆が深まったような気持ちになる。
ウィリアムは無言でエリーに視線を移した。彼の返事には一呼吸待つ必要があることをこの数日で覚えていた。返事をする前にじっと目を見る癖がある。そのため期待の眼差しでウィリアムの返事を待つ。
「一人で大丈夫か」
わずかに首を傾げる。声のトーンはいつだって棒読み気味だが、その仕草で疑問形であることを察する。エリーは柔らかく笑ってみせた。
「大丈夫です」
その返事に満足したように珈琲の入ったカップを口に運びかけたが、ふと呟くように付け足した。
「……夕食」
たった一言の単語。エリーはその言葉に一瞬ぽかんとする。そしてすぐにハッとしたように「あっ」と声を出した。
「大丈夫です。夕食の時間までには必ず帰ります」
今日は二人で外へ夕食を食べることになっている。忘れるはずがない。エリーの言葉にウィリアムはかすかに頷き、立ち上がった。この後はおそらくまた部屋にこもるのだろう。
出かける準備をして、エリーは家の外に出た。この家にお世話になることになって、まだ一度も外へ出ていない。楽しみだ。
外へ出ると、そこには彩り鮮やかな景色が広がっていた。煉瓦で出来た家や、桃色黄色緑色などの壁の家、大きな屋根やどこまでも続いていそうな石造りの道。歩いている人は少なかったが、その豊かな色合いはエリーの心も豊かにしていくようだ。
とりあえず深呼吸をして、エリーはゆっくりと歩き出す。さて、まずはどこへ行こうか。道を歩いていると、民家の間にぽつぽつと店があることに気が付いた。人形専門店やオルゴール専門店、小さな雑貨屋や隠れ家のようなレストラン。お腹は空いていないのでさすがにレストランは入れないが、気になる店には端から入っていく。どれもこれも素敵なものばかりで、全て買いたくなってしまう。しかし今エリーの持っているお金はウィリアムからもらったものだ。そう簡単に使うことなんてできない。
「お嬢ちゃんどこの子だい」
時計だらけの雰囲気の良い店に入って時計を眺めていると、店主に声を掛けられた。髭の似合う熊のような男だ。
「もしかして、噂のウィリアムの拾った子かい」
どう答えていいかわからず迷っていると、店主が閃いたように言い出した。噂になっていたのか。エリーは驚いたように目を瞬かせた。
「はい、そうです、たぶん」
曖昧な笑顔で返事をする。今のエリーに自己紹介ほど難しいことはない。しかしアンナにもらった大切な名だ、と思い直す。
「エリーです。ウィリアムさんのお家でお世話になっています」
その言葉に店主は人の良さそうな笑顔を浮かべた。ウィリアムとは親しい間柄なのだろうか。
「エリー……そうかそうか。時計しかない店だけど、よかったらゆっくりしていっておくれ」
その言葉のとおり、エリーはゆっくりじっくり時計を見て回った。どれも素敵なものばかりだ。そしてにかっと笑って店主はエリーを見送った。
一度きりだと思われたそのやり取りは、その後何度も行われることになった。菓子を売っている店の女性も、おもちゃ屋のおじいさんも、レコードを売っているお兄さんも。皆ウィリアムの噂というものを聞いたのか、声を掛けてきた。まるで街の人皆が家族のような、そんな雰囲気を感じた。エリーは声を掛けられる度嬉しい気持ちが湧いていた。羽織っていた薄手のカーディガンのポケットには、先程お菓子屋でもらったクッキーの小さな袋が入っている。
次はどこに行こうか。そう考えながら街を歩いていたが、もう日が暮れる時間だ。そろそろ帰るべきだろうか。その時だった。
「ん?」
思わず声が出た。何か光るモノが見えるのだ。その光るモノは人ひとり入るのが限界であろう建物の間に入っていく。見たことのある記憶はないが、あれはもしかしたら蛍かも知れない。そう思い、追いかけた。
それはエリーとの距離を一定に保っているかのように、スピードを上げたり落としたりしている。からかわれているのだろうかと思ってしまうくらい、追いつくことができない。エリーは意地になる。ここまで来たら、その姿を拝まずに帰るわけにはいかない。日が暮れていくことはもう頭になかった。
追いつかれないように一定の距離を保たれているのなら、それを逆手に取ればいい。そう思い、エリーはスピードを緩めた。光るそれもエリーに合わせるかのように動きが遅くなる。やはり気のせいではないようだ。じりじりと距離を詰めていく。そしてエリーは突然スピードを上げた。手の届く距離にまで到達する。エリーは思い切りそれを掴んだ。しかし潰してしまっては本末転倒だと、慌ててすぐに手を緩めた。エリーは手をゆっくりと開く。
――少年だ。
エリーの手のひらに乗っていたのは、小さな少年だった。思い切り掴んでしまったことで目を回しているようだった。エリーはじっとそれを見つめる。これは一体何なのだろう。身体から光を放っているだけでなく、少し見づらいが透明な羽根も生えている。それを除けば普通の少年の姿をしていた。
「妖精……?」
小さく呟く。その声に反応したように、少年はエリーを見上げた。そして怒ったように頬を膨らませて睨みつける。掴んでしまったことで痛みを与えてしまったのかも知れない。
「ご、ごめんなさい。痛かったよね」
エリーが申し訳なさそうにそう言うと、少年はツンとした反応を見せてから満足そうに笑った。なんと感情表現のわかりやすいことか。
「君は妖精なの?」
エリーの言葉に少年は大きく頷いて、羽根をエリーに見せて飛んでみせる。その無邪気な笑顔に心が洗われるような気持ちになる。
「あ、そうだ。これ食べる?」
お菓子屋からもらったクッキーがあることを思い出し、それを取り出して少年に見せる。少年は嬉しそうに顔を輝かせる。その様子にエリーは微笑んでクッキーを小さく分けて差し出した。
そうして妖精の少年と遊んでいて、エリーは突然ハッとしたように大きな声を出した。
「妖精くん、今何時!?」
突然のことに少年は驚くが、すぐに空を見上げる。日が暮れるどころか、もう暗くなってしまっている。非常にまずい。夕食までには必ず帰るとウィリアムには言ってあるのだ。約束を破ってしまったら、せっかく近付いた距離も離れてしまうことだろう。
「ど、どうしよう」
辺りを見回してみても、自分のいる場所がさっぱりわからない。何も考えずに妖精の少年を追いかけただけでなく、外は暗くなってしまっている。ただでさえ慣れない街なのに何をしているのだろう。目に涙を浮かべるエリーを見て、妖精の少年はあわあわと困ったようにエリーの周りを飛び回る。
唯一出来た居場所にも、もう戻れないかも知れない。戻ることが出来ても、見捨てられてしまうかも知れない。エリーは涙を堪えて立ち上がる。
「謝らなきゃ」
まずはウィリアムに謝らないといけない。たとえ居場所を無くすことになったとしても、今まで受けた恩を仇で返すようなことをしてはいけない。エリーは手が震えるのを感じながら歩き出した。
妖精の少年もエリーについていく。光輝くその姿は、エリーの心を癒していくようだ。ただひたすらに歩く。せめて見覚えのある道に出ることができれば……。
「きゃっ」
突然ぐいっと腕を引っ張られて、思わず声を上げる。引っ張られた勢いで何かにぶつかる。そして身体全体が温かさに包まれた。エリーが顔を上げようとすると、それをさせないかのように強く抱きしめられる。顔を埋めたエリーは、この温かさの主の匂いを知っていた。
――ウィリアムだ。
「あ、あの、ウィリアムさ……」
「よかった」
ウィリアムの声がわずかに震えていることに気が付く。聞いたことのない声色に、エリーは申し訳なさで胸がいっぱいになる。おそるおそる腕をウィリアムの背中に回す。
「……ごめんなさい」
ウィリアムは息を切らしていた。腕の中の心地よい温かさも、走って来てくれたことで体温が上がっているのだろう。先程までの孤独感が一気に解消されたような感覚。堪えていた涙は、頬を伝ってウィリアムの服に滲んでいった。
妖精の少年は、どこか安心したような、気まずいような表情をして後ろで二人を見守っていた。
第四話「姉妹」
妖精の少年はエリーの部屋で寛いでいた。どうやらウィリアムには少年の姿が見えないらしく、エリーについてきていても何も言われなかった。たまに姿が見えないこともあるが、基本的にずっとエリーの部屋に住みついている。そしてそれをエリーは普通に受け入れていた。
「そういえば、妖精くんのお名前は?」
少年からしたらそれはすごく今更な質問だ。呆れたようにため息をついて見せた後、首を大きく横に振った。
「名前がないってこと?」
それに対し大きく首を縦に振る。どうやら正解のようだ。似たような境遇にエリーは少年に親近感を覚えた。しかし名前がないといつまでも妖精くんと呼ぶことになる。それはなんだか寂しいと思った。
「じゃあ、何か呼び名を考えてみてもいい?」
そのエリーの問いに少年は嬉しそうに目を輝かせた。しばらく考え込んで、エリーは嬉しそうに顔を上げた。
「じゃあ、リヒトっていうのはどう?」
光り輝く少年にぴったりだと、エリーはそう提案した。少年は嬉しそうに笑って頷く。二人で笑い合う。なんだか絆が深まった気がした。
「それでは改めまして、よろしくね。リヒト」
リヒトはエリーの周りをぐるぐると回る。喜びを表現しているのだろうか。
そうしていると、インターホンの鳴る音が聞こえた。エリーはハッとして玄関へ向かう。「ここはお前の家だ」とウィリアムに言われていなかったら、きっと来客の対応をするのも躊躇していたことだろう。
「やっほー」
扉を開けると、そこには群青色の似合う女性が立っていた。アンナだ。エリーは嬉しそうに破顔する。
「アンナさん、こんにちは」
隣で飛んでいるリヒトにはやはり気付いていないようだ。後ろの方で階段を下りる音が聞こえる。
「ウィル」
「……何の用だ」
威圧感のあるウィリアムの雰囲気にも、アンナは一切動じない。目に見えるほどの強い信頼関係があるように思えて、少し胸の奥がちくっとしたような気がした。
「エリー借りていきたいんだけど」
「は?」
眉間に皺を寄せるウィリアムを見て、怒っている訳でないと知りながらもエリーはなんだかドキッとしてしまう。しかし今の一言は他人事ではない。エリーもアンナに視線を移した。
「女の子同士でお買い物に行きたいの。いいでしょ?」
アンナが有無を言わせないかのような笑顔をする。ウィリアムは諦めたようにふっと息を吐いた。
「好きにしろ」
その言葉にアンナは嬉しそうに笑い、エリーに準備をするよう促した。エリーは急いで部屋に戻り準備をする。リヒトは扉の近くでふわふわと浮いていた。寛いでいないということは、買い物にも同行するつもりなのだろう。
家を出て、歩くアンナについていく。リヒトはふわふわと周りを飛び回っている。何も言われないということは本当に見えていないのだろう。むしろ見える基準は一体何なのだろう、とエリーはふと思った。
「街を探検したんだって?」
アンナに声を掛けられ、慌てて答える。
「は、はい」
群青色の瞳でエリーをちらっと見たアンナは柔らかく微笑んだ。その反応に首を傾げるエリーの頭の上に、同じように首を傾げるリヒトが乗っかる。
「そんなに緊張しないで。ウィルとだってあんなに打ち解けてたじゃない」
「えっ」
思わず声が出る。打ち解けているように見えているのだろうか。打ち解けたいとは思っていたが、エリーは打ち解けているとは思っていなかった。……と思うのは少し失礼だろうか。
「完全に保護者の目になってたわよ、さっき。気付いてなかった?」
アンナは面白そうにエリーを見つめながら問う。保護者の目と言われ、エリーは街を探検した際のウィリアムの震える声を思い出した。少しは家族のように思ってくれているということだろうか。なんだか嬉しくなり、エリーはふわりと笑った。
「息切らしながらエリーのこと聞いてきてびっくりした、って時計屋さんのおじちゃんが言ってたわよ。それを聞いた私もびっくり」
「そうだったんですか……」
本当に申し訳なかったと眉を下げるエリーに対しアンナは楽しそうに笑う。そしてエリーの手を握り、道の途中にあった洋服屋に入っていく。
そのお店はアンナが着るようなシンプルな服でなく、女の子らしいワンピースやスカートの置いてある店だった。
「こういうのって見てる分には楽しいんだけど、私が着ると似合わなくて」
アンナが楽しそうに言いながら次々と服をエリーに当てていく。その勢いに押されながら、エリーもわくわくした表情で店内を見回す。リヒトはアンナや他の女性客の勢いが恐かったのか、必死にエリーの髪にしがみついている。少し痛い。
「これとか似合うわよ。あぁ可愛いもうほんと可愛い」
先程からアンナが勧めてくる服はどれもワンピースのようだ。エリーも楽しくなってきて試着を始める。試着室から慌てて出てきたリヒトは顔を赤くしてお店の外の看板に腰掛けた。そして盛大にため息をついて、空を見上げた。店を出る頃には、空は暗くなっていることだろう。
「はぁー楽しかった。ありがとね、エリー」
「いえ、こちらこそ! お洋服を選んでいただいただけでなく、買っていただいて……本当にありがとうございます」
ぺこっと小さくお辞儀をするエリー。アンナは笑ってエリーの頭を撫でた。リヒトはその撫でられた頭に体重を預ける。思っていた以上に時間がかかったことで、リヒトは完全にぐったりしていた。その姿を見て、エリーは帰ったらクッキーでも作ろうと心に決めた。
「じゃあ次は私のオススメのカフェを紹介するわね」
ごはんもそこで食べましょう、とアンナは嬉しそうに話す。エリーも嬉しそうに頷く。傍から見たら姉妹のように見えることだろう。
「あったあった」
アンナが小走りで向かっていく。店の前に立つアンナは、なんだかとても綺麗に見えた。夕暮れが群青色の髪と瞳を照らし、神秘的な雰囲気を醸し出している。エリーは見とれかけたが、急いでアンナの元へ向かう。
アンナのオススメだというパスタを注文し、二人はカフェオレを飲みながらゆったりと話を始めた。リヒトはテーブルの上でリラックスしている。
「この街は綺麗でしょ」
「はい! とっても綺麗です!」
勢いよく答えるエリーにアンナは笑った。まるで本当に妹が出来たような、そんな感覚だ。
「でも一度探検したくらいじゃ分からないわよね」
意味深な笑みを浮かべるアンナ。エリーはそれを不思議に思いつつもゆっくり頷く。
「そうなんですが……前回は迷子になってしまって、ウィリアムさんに迷惑を掛けてしまって」
しゅん、と小さくなるエリーの頭をリヒトが体全体を使って撫でる。慰めているつもりなのだろう。
「一人で見知らぬ街を探検したらそりゃあそうなるわよ。だからね、エリーに案内人を紹介しようかな、と」
「案内人、ですか」
「そう! 本当は私が案内してあげたいんだけど、しばらく時間取れそうになくてね。だから私もウィリアムもすごく信頼してる人を紹介するわ」
ウィリアムがすごく信頼している人と言われ、エリーは純粋に興味を抱いた。すごく失礼な想像だが、ウィリアムにはアンナしか友人がいないと思っていたのだ。心の中でそっとエリーはウィリアムに謝った。
「どうする?」
「是非お願いしたいです」
街の探検はしたかったが、前回のこともあり再び探検したいとは言えなかった。誰かと一緒で、それもウィリアムがすごく信頼している人ならば、心置きなく探検ができるだろう。というのもあったが、エリーは純粋にその案内人に会ってみたいと思ったのだ。
「ふふ、りょーかい。じゃあ急で悪いけど、明後日午前十時に駅で待ち合わせでもいい?」
「は、はい! もちろんです」
エリーが瞳を輝かせる。家にいる時は家事をするかリヒトと戯れるかだけだ。急の方が嬉しい、と思ったエリーは元々活発な性分なのかも知れない。
「じゃあその人の特徴と名前だけ教えておくわね。その時間なら駅にはそんなに人はいないと思うからすぐ分かると思うわ」
「はい! お願いします!」
エリーはまたふわりと笑い、家に帰ったら早速ウィリアムに許可をもらおうと決めた。リヒトに作ってあげようと思っていたクッキーの存在は、とっくに頭の中から抜け落ちていた。
第五話「優しい瞳」
エリーは駅に来ていた。これから、街を案内してくれるという人と会う予定なのだ。
アンナと別れ、家に帰った後、エリーはウィリアムに案内人のことを話した。いつにも増して険しい顔をしていたような気がするが、ウィリアムは好きにしろと言ってくれた。エリーの輝く瞳の力には勝てなかったのだろう。そして今日、家を出る時にも珍しくウィリアムの方からエリーに声を掛けた。
“……その格好で行くのか”
“はい! どこか変でしょうか……?”
“……いや、変じゃない。気を付けて行って来い”
アンナとの買い物で購入した白と水色のワンピースだったのだが、ウィリアムは気に入らなかったのだろうか。しかしアンナとリヒトには好評だった、とエリーは自分に言い聞かせる。内容はともかく、徐々にウィリアムとの会話が自然になっていっていることは嬉しい。エリーはなんとなく空を眺めた。いつもなら視界でちらちら見える光る少年、リヒトは今日はお留守番だ。
「こんにちは」
ちょうど視界に一人の青年が映り込む。当然、リヒトではない。エリーは一瞬驚きで固まった。
「こ、こんにちは」
千草色の髪に、眼鏡の奥に見えるたれ目に優しそうな印象を受ける。全体的に柔らかい雰囲気だ。きっとこの青年がアンナの言っていた案内人なのだろう。
「びっくりさせちゃったかな。ごめんね」
申し訳なさそうに柔らかく笑う青年。エリーは慌てて首を振る。
「僕の名前はダニエル。ダニエル・インカローズ」
丁寧にお辞儀をして挨拶をするダニエル。エリーもつられて丁寧にお辞儀をした。
「私はエリーです。ウィリアムさんのお家でお世話になっています」
「エリーちゃん、ね」
そう言って眉を下げて微笑み、エリーの頭を優しく撫でる。
「よろしくね、エリーちゃん」
優しそうな人であることは十分伝わった。あのアンナとウィリアムが信頼している人だと聞いていたが、なんだか納得するような人柄が感じられる。
「じゃあ行こうか。ウィルの家が面してる中央通りの方はもう大体見てると思うから、今日は違う所に案内するね」
「はい! よろしくお願いします!」
ダニエルの優しい瞳に期待が高まる。歩き出すダニエルについていく。ウィリアムの家とは正反対の方向だ。
「あの、ダニエルさん」
「なに?」
「アンナさんとウィリアムさんとはどういった仲なんですか?」
彩り鮮やかな街並みをゆったり歩きながら、疑問に思っていたことを聞いてみる。アンナは詳しく話さず、楽しみにするよう言われていたのだ。
「はは、やっぱり聞いてないんだ」
「やっぱり、ですか?」
「アンナはあえて言わないだろうし、ウィルは何も言わないだろうしね」
相変わらずだなぁ、と言ってダニエルは笑った。なんだかすごく仲が良さそうだ。エリーは歩きながら隣で共に歩くダニエルの方に顔を向ける。
「僕とアンナとウィルはね、幼なじみなんだよ」
「幼なじみですか!」
幼なじみということは、幼い頃から仲良くしているのだろうか。それはとても素敵なことだ、とエリーは楽しそうにダニエルを見上げる。そんなエリーを見てダニエルも楽しそうに笑う。
「本当はもう一人幼なじみがいるんだけどね、その子は今フランメにいるんだ」
「フランメ?」
「うん。火炎の都とも呼ばれてるね」
その言葉にエリーは首を傾げる。聞き覚えがあるような気もするが、今のエリーに記憶というものは期待できない。
「あぁ、そっか」
事情を知っているのか、ダニエルは眉を下げて微笑んだ。そしてぽんっとエリーの頭に手を乗せる。
「まずはこの街のことから紹介していこうかな」
記憶のことに触れず、ダニエルはにこにこと笑顔を絶やさずに歩いている。エリーもその笑顔に癒されながら共に歩いていく。
「ここは風の都、ヴィルベル。文字通り風がよく吹く街だよ。比較的他の都より快適な気候なんだ」
「そうなんですね」
それを聞いて、エリーはそっと目を閉じてみた。確かに爽やかな風がワンピースの間を通っている感覚がする。気持ちいい。隣でダニエルがくすっと笑う気配がした。
「さっき話した幼なじみの一人がいるのが、火炎の都、フランメ。鍛冶や工芸品が有名かなぁ。特にガラス工芸は絶対に一度は見てみるべきだね」
そう言ってダニエルはきょろきょろと周りを見渡す。急にどうしたのだろうか。
「確かこの辺に雑貨屋さんがあったはずなんだけど……あっ」
見つけたのか、嬉しそうにエリーを振り返る。そしてその雑貨屋に歩み寄っていく。
「フランメと比べたら少ないけど、この辺りのガラス製品とかはフランメのものだよ」
「……綺麗ですね」
思わず息を呑む。雑貨屋に置いてあるのは主に食器類とアクセサリーのようだ。角度によって変わる色が、光を受けて輝いている。見入るエリーを見て、ダニエルがそっと微笑んだ。
しばらく見とれて、エリーはハッとして隣を見る。ダニエルの姿がない。あれ、と思うのと同時に、首に冷たい感触がした。
「じっとしてて」
後ろからダニエルの声がする。エリーは言われた通り直立不動で待機した。
「はい、いいよ」
そう言われて振り返ると、そこには嬉しそうに微笑むダニエルの姿があった。冷たい感触の元に触れる。エリーの首には、ガラスで出来たネックレスがぶら下がっていた。深い青色のとても綺麗なガラスだ。
「あの、これ……」
「君の蜂蜜色の瞳によく似合うよ」
そう言ってダニエルは顔にかかっていたエリーの髪を左耳にかけた。エリーは照れたように顔を赤らめる。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
優しく微笑み、行こうかとダニエルは歩き出す。歩きながらいくつかお店を覗いていく。しかしヴィルベルは一日で全て見られるような広さではなかった。次はまたリヒトを連れて迷子にならない程度に探検でもしようかな、とちらっと見ただけのお店たちを見てエリーは思う。
「次はどうしようかな……あ、空でも飛んでみる?」
「はい?」
訳のわからないことを言われきょとんとした。空を飛ぶでなんとなくリヒトを思い出す。今頃は家で退屈しているだろう。しかし出かける時間になっても起きない方が悪い。家に帰ったらきっと拗ねているだろうから、今度こそクッキーを作ってあげよう。
「風の都の名物の一つだよ。きっと気に入ると思う」
ダニエルが柔らかく微笑む。身体から癒しのオーラが出ているかのような錯覚に陥る。それにしても、空を飛ぶというのはどういうことなのだろう。
「ここだよ。ちょっと待っててね」
そう言ってダニエルが入っていったのは薄暗いお店だった。看板もなく、何か売られているような商品の姿もない。しかし待っているように言われたため、奥に入っていくダニエルを見送り、入口で店内の様子を伺う。
「お待たせ」
そう言って出てきたダニエルの手には、地味な紙袋があった。何を購入したのだろうか。しかしエリーが何か言う前にダニエルは行こうか、と歩き出す。
「あの、ダニエルさん」
「なに?」
「何を買ったんですか?」
「ふふ、秘密」
「……秘密ですか」
エリーが困ったようにダニエルを見上げる。ダニエルは楽しそうににこにこしていた。
「この街にはね、風の都の象徴とも言える場所があるんだ」
「風の都の象徴?」
「うん。ほら、見えてきた」
そう言ってダニエルが指をさす。その方向に目をやると、そこには大きな風車がたくさん建っている草原があった。
「わぁ……」
思わず口を閉じるのを忘れてしまうくらい、澄んだ空気に流されるがままに回り続ける風車はエリーの心を掴んだ。
「すごい、すごいです、ダニエルさん」
「ふふ、そうだね……でも」
ダニエルは意味深な笑みを浮かべた。
「これからもっとすごいものを見せてあげるよ」
「もっと、ですか?」
風車からダニエルに視線を移す。一体何が待ち受けているのだろう。エリーは胸の高鳴りが抑えられない。
「とりあえずあの一番高い風車に登ろう」
「はい!」
ダニエルに導かれるがままに風車の中に入り、上へと階段を上り続けた。
「すごい!」
最上階に到着し、外に出た。風車の一番上は、外へ出られるようになっているようだ。回る羽根の端が心地の良いリズムで見え隠れする。
「あそこから空を飛べるようになってるんだ」
そう言って指さした場所には、人が一人入れる大きさの透明な箱がいくつか並んでいた。ガラス張りになっているのだろうか。
「あそこに、これを履いて入ると、外へ出られるんだ」
そう言って先程購入したお店の紙袋を見せる。エリーは何が何だかわからずぽかんとそれを見る。ダニエルは苦笑した。
「とりあえずやってみようか」
そう言って紙袋から何かを取り出す。
「これを履いて」
それは、リヒトと似たような羽根が左右についている靴だった。これを履いただけで空が飛べるのか。エリーはダニエルから靴を受け取り、言われるがままに履いた。そしてダニエルに言われ先程の箱の中に入る。ダニエルも隣の箱に入った。
「わわっ」
すると、靴についている羽根が光を放った。リヒトが飛んでいる時に見える光と似ている、とエリーは思った。この羽根はもしかして妖精の羽なのだろうか。そうしていると、光が止み、ガラスのような箱の壁がすーっと消えていくのがわかった。
「エリーちゃん」
名を呼ばれて顔を上げると、正面にダニエルが立っていた。しかし、ダニエルの足元には何もない。空を飛んでいるのだ。微笑みと共に手を差し出され、エリーはダニエルの手に自分の手を添えた。そしてゆっくりと歩き出す。少し怖い気持ちもあったが、安心感の方が大きい。ダニエルの手があるからだろうか。それとも、リヒトと似た羽根があるからだろうか。
「……ダニエルさん」
「ん?」
「私、空を飛んでます」
「はは、そうだね」
ダニエルの手を掴みながら、エリーは空中を歩いていた。気持ちの良い風に包まれながらヴィルベルの街の匂いを感じる。
「ここは素敵な街ですね」
空の散歩を楽しみながら、エリーがぼーっとしたような感覚で小さく呟く。聞こえているのか聞こえていないのか、ダニエルはそんなエリーを見て優しく微笑んだ。
「今日は本当にありがとうございました」
大きくお辞儀をして、顔を上げる。ダニエルは終始にこにこと笑っていた。空はすっかり暗くなっている。
「僕も楽しかったよ。ありがとう」
そう言ってエリーの頭を優しく撫でる。そしてエリーを覗きこむようにして首を傾げる。
「僕はこれからちょっと別の約束があるから送ってあげられないけど、大丈夫?」
「はい! 大丈夫です!」
今日はたくさんヴィルベルを見て回ったのだ。もう迷子になる気がしない。エリーは自信に満ち溢れていた。
「……大丈夫だ」
後ろから低い声がする。聞き覚えのある声だ。
「はは、保護者登場?」
「……うるさい」
ダニエルが楽しそうに笑い、隣に誰かが立つ気配がする。
「……ウィリアムさん」
「あぁ」
エリーが嬉しそうに見上げると、ウィリアムはちらっとエリーに視線をやり、無表情のままダニエルに視線を移した。
「……悪かったな」
「いいよいいよ。僕も楽しませてもらったし。また散歩しようね、エリーちゃん」
「はい! 是非!」
「……行くぞ」
そう言ってウィリアムは後ろを向き歩き出した。エリーは慌ててダニエルに挨拶をして、ウィリアムを追いかける。ダニエルはにこにこ笑いながら二人に小さく手を振っていた。
「ウィリアムさん、今日はお家とは反対方向のいろんなお店に行きました」
「……そうか」
「フランメっていう街のことも聞いて、雑貨屋さんでフランメのガラス製品を見てきました」
「……それ、買ってもらったのか」
「え? ……あ、そうです!」
一瞬何を聞かれているのかわからなかったが、すぐにエリーは首元のガラスのネックレスに手を添える。見ていないようでよく見ているんだな、と、さすが作家だ、とエリーは感心した。
「あとは、風車も見ましたし、空も飛んだんですよ!」
楽しそうに話すエリーを一瞥するウィリアム。やはり無表情のままだ。
「……その格好でか」
その言葉にきょとんとして、エリーはウィリアムを見上げる。そして自分の着ているものが新品のワンピースであることを思い出し、エリーは顔を赤らめた。
「……風車の草原は街より風が強い」
「へ? は、はい」
「……ひらひら以外のものも買っておけ」
ウィリアムの言うひらひらとは、おそらくワンピースのことだろう。エリーはまだ少し顔を赤らめながら、照れたように微笑んだ。
「……そうします」
家に到着して、先に階段を上り始めたウィリアムが振り返ってエリーの目を見つめる。こうしてちゃんと目を合わせるのは珍しい。エリーはきょとんと見つめ返す。
「……今日は、楽しかったか」
思いがけない質問にエリーはまたしても目を丸くしたが、ぎゅっと拳を握り笑顔で答えた。
「はい! とっても楽しかったです」
「……そうか」
そう言うウィリアムの表情が少し柔らかくなったように感じて、エリーはウィリアムの顔を凝視する。よかったな、と言われているような気がして、エリーは嬉しくなった。ウィリアムはそのまま部屋へと向かい、エリーもにこやかに部屋へと向かった。
「ふふ」
ご機嫌で部屋の扉を開けると、そこには予想していた通り、拗ねて膨れてしまっているリヒトの姿があった。
第六話「妖精の泉」
エリーは食材の買い出しをしていた。昼食を食べ、部屋にこもっているウィリアムの分をわかりやすい場所に置いておき、リヒトと共に出かけた。
「今日の夕飯は何がいいかな」
エリーの言葉に前を飛んでいたリヒトが目を輝かせて振り向く。
「クッキーはもう作ってあるよ」
苦笑しながら言う。リヒトは満足そうに頷き、前を向いた。エリーの家に居座るようになってから、リヒトはクッキーしか口にしていない。他のものも食べさせようとしたが、リヒトは首を横に振るだけだ。食事をしなくても平気な様子も見られる。妖精はそういうものなのだろうか。
食材を買い終え、エリーとリヒトはのんびりと街を歩いていた。もうダニエルに案内してもらっているし、今日は慎重に歩いている。迷子になることはないだろう。
「あ、あそこって、リヒトと初めて会った時の」
そう言って指さしたのは人が一人入るくらいの建物のちょっとした隙間だ。その言葉を聞いて、リヒトは意地悪そうな笑顔をエリーに見せて隙間に入っていく。予想外の行動だったが、姿を見失わないように慌てて追いかけた。
「ちょ、ちょっと、待ってよ」
今日はまだ暗くないから大丈夫そうだが、感じる既視感に不安を煽られる。困ったような表情でついていくエリーだったが、リヒトはちゃんと待ってくれているようで、少しずつ進んでくれている。
「ねぇ、どこに行くの?」
道にぶつかりそうになる荷物を気にしつつエリーが尋ねる。リヒトは人差し指を口元に持っていき、ニッといい笑顔をする。教える気はなさそうだ。エリーは仕方なさそうに笑い、ついていく。
しばらく進むと、森のような林のような、木々に囲まれた場所に出た。先程まで街中にいたエリーは意外そうにその光景を眺めながら、まだ止まる気配のないリヒトの後をついていく。
定期的に吹く静かな風に髪をなびかせながら、エリーは自然の香りを楽しんでいた。花の咲いている姿はないが、脳裏に鮮やかな花の姿が過ったような気がした。
「リヒト、どこまで……」
行くの、と尋ねかけたところで、空気が変わった。
得意気にエリーを見つめるリヒトの姿は目に映っていない。エリーの目は、前にある泉に全て奪われてしまっていた。木々に囲まれた空間にある泉。そこには先日初めて見たはずの、リヒトのような美しく輝く羽根の生えた多くの妖精たちが、水浴びをしている姿があったのだ。
「綺麗……」
ため息が零れた。洗脳されているかのように泉に近付き、妖精たちから少し距離を取った場所に腰掛けた。こうして見ると、様々な大きさの妖精がいることがわかった。リヒトのように小さな妖精もいれば、エリーよりも背の高い妖精もいた。皆楽しそうに笑顔を浮かべながら泉で遊んでいる。リヒトもそこに加わり、妖精たちに視線を向け、エリーを紹介するかのように振り向いた。多くの視線が集まり、少し緊張してしまう。エリーの姿に今気が付いたように妖精たちは愛想よく笑顔を浮かべた。上品に微笑む妖精もいれば、無邪気に笑って手を振ってくれている妖精もいる。エリーもそれにつられたように笑顔で軽く手を振った。
その後は水浴びを続けるリヒトたちをエリーは眺め続けた。最近毎日リヒトがそばにいたため慣れてきてはいたが、改めて妖精の美しさを実感した。ぼーっとその光景を見つめ続ける。本当は一緒に水浴びをしたいのだが、妖精たちの空間に立ち入ってしまったら、妖精たちが帰ってしまうような気がした。
「あっ」
ふとリヒトの羽根に映る橙色を見つけ、エリーは空を見上げた。日が暮れ始めている。夕飯の準備もあるし、暗い道だとまた迷ってしまう。エリーはそう思い立ち上がって泉を見た。
――リヒトはこのまま妖精たちと行ってしまうのだろうか。
寂しい気持ちはあったが、そうした方がリヒトにとって良いのではないかとエリーは思った。別れはいつだって悲しいものだ。エリーは胸の中にじんわり広がっていく不安感に気付かないふりをした。ただ少し寂しいだけだ。ここに来れば、きっとまた会える。エリーは少し俯き、そのまま泉に背を向けて歩き出した。
ぽすっと背中に何か当たったような衝撃を感じた。驚いて振り返ると、そこには怒ったように頬を膨らませるリヒトの姿があった。
「……帰らなくていいの?」
エリーの質問にリヒトはきょとんとして、大きく頷いた。やっぱり帰ってしまうんだ、と俯きかけたが、リヒトはそのままエリーの前に出てくるくると回りながら来た道を戻り始める。
「え、ちょっと」
慌てて追いかける。そういう意味で帰ると言ったわけではなかったのだが、リヒトにとって帰る場所はエリーと同じ家なのだろうか。頬が緩むのを感じながらエリーは飛んでいるリヒトの隣に並んだ。リヒトは不思議そうにエリーを見るが、つられたように笑顔になりふわふわと飛び続けた。
「……また来ようね」
エリーの言葉にリヒトは嬉しそうに頷いた。
第七話「茜色とオルゴール」
最近エリーはよく泉に行っている。もちろんリヒトも一緒だ。何度も泉へ行っているうちに道も覚えたし、妖精たちが毎日泉で水浴びをしているわけではないこともわかった。多くの妖精で溢れている時もあれば、リヒトが水浴びを始めてやっと何人かやってくる時もあった。今日も小さい妖精たちだけで水浴びをしているようだ。小さい光が飛び回っている姿を見ているだけで、神秘的な空間に迷い込んだような気分になる。
そうしていつものようにぼーっと泉を見つめていると、突然視界が真っ暗になった。
「え、え、なんですか?」
エリーがあたふたしていると、後ろから「くくっ…」と笑い声が聞こえた。誰かいるのだとわかると、エリーの視界は解放された。
「よっ」
声の主はそのままエリーの隣に腰掛けた。手で目隠しをされていたのだ、とエリーはそこで初めて気が付いた。
「こ、こんにちは……」
そこにいたのは、茜色の髪をした猫のような目の青年だった。困惑するエリーを見て楽しそうに口元に笑みを浮かべている。一体誰なのだろう。
「見ねぇ顔だな。お前、誰?」
自分の膝で頬杖をつき、エリーの顔を覗き込むようにして首を傾げる。なんだか身のこなしも猫のようだ。
「え、えっと、エリーです」
「エーエットエリー?」
「エリーです!」
声を張り上げるエリーを見て青年はまたしても「くくっ」と意地悪そうに笑う。なんだかとても楽しそうだ。
「おっけー。エリーな。よろしく!」
ニッと笑う茜色の髪の青年。口元から覗く八重歯がより一層動物感を出している。
「オレはシェル」
「シェルさん…ですか」
「あぁ。でもさん付けは気持ち悪いからやめてくれ」
「は、はい」
そう返事をするとシェルは満足気に頷いた。その仕草にエリーはリヒトのことを思い出し、泉に視線を移した。妖精の姿は見当たらない。本能で逃げてしまったのだろうか。
「エリーは何見てたんだ?」
「……泉を見てました」
妖精を見てました、と言うわけにもいかず、エリーはそう答えた。シェルは「ふーん」と興味なさそうな返事をした。
「ここ綺麗だもんなぁ」
「よく来るんですか?」
「こっち来た時はちょっと寄るよ。オレだけの穴場だと思ってたんだけど」
違ったみたいだな、と笑い、シェルはエリーの目を見つめた。吸い込まれそうな瞳にエリーはドキッとしてしまう。
「よくここに来るんでしたら、また会えるかも知れませんね」
そう言って微笑むエリー。シェルもにっこり笑って「そうだな」と頷く。
「ここ妖精がいるらしいんだけどさ、オレ会ったことねぇんだよ」
「そ、そうなんですか」
ついさっきまで水浴びしてました、なんて言えず、エリーは苦笑する。シェルは悔しそうに顔を歪めている。
「やっぱ妖精は祭りの時にしか見れねぇのかなぁ」
「祭り?」
「そうそう。知らねぇの?」
シェルの言葉にエリーがこくっと頷く。
「珍しいやつもいるもんだなぁ。ここ風の都と火炎の都、水の都と大地の都はな、季節ごとに祭りがあるんだよ」
「へぇー…そうなんですか」
「おー。それで風の都の祭りの時限定で、妖精が街に出てくるんだよ」
「そうなんですか……!」
それは是非見てみたいと思うエリー。いつも見ている泉の妖精たちが皆集うのだろうか。エリーは期待を込めてシェルに尋ねる。
「そのお祭りって、いつなんですか?」
「ついこないだ終わったぞ?」
「えっ」
エリーが絶望したような顔をして、それを見てシェルが豪快に笑った。
「来年もあるから安心しろって。あ、そうだ」
思い出したように声を出し、シェルは背負っていた鞄の中を漁り始めた。そして何か小さな四角いものを取り出してエリーに見せた。
「ほら、やるよ」
「……? これはなんですか?」
首を傾げながらそれに触れる。どうやらガラスで出来たもののようだ。シェルに渡されて、エリーはそれを眺める。橙色に光るそれはとても綺麗な箱だった。それが開くことに気が付き、エリーはそっと開いた。すると、とても美しいオルゴールの音色が泉に響いた。
「オルゴール……」
「そ。オレの店のもんなんだぜ、それ」
得意気に言うシェル。ガラスの店、と繋がったエリーはダニエルに聞いた話を思い出した。
「もしかして、フランメの」
「お、知ってんのか」
シェルが少し意外そうに眉を上げ、またにかっと笑った。
「それはフランメからの招待状。もうすぐ火炎の陣があるからな」
「火炎の陣?」
「そう。オレの住む火炎の都の祭り」
「強そうなお名前ですね……」
「あはは、そうだろ?」
シェルが嬉しそうに笑う。故郷がとても好きなのが伝わってくる。
「特に必要はねぇんだけどよ、毎回どこの都も招待状を出すんだ。他のとこは普通に手紙だったりするけど、フランメはガラスのものを送るようにしてんだぁ」
そう言ってシェルはエリーに鞄の中を見せる。そこには、色とりどりのガラスで出来たエリーの手にあるオルゴールと同じものがたくさん入っていた。
「そんで今回はオレんちの店で出すことになったんだ。オレは今日これの配達で来てんだよ」
「そうだったんですね」
「おう。だからお前にもやるよ、その招待状。絶対来いよ?」
そう言って意地悪そうににやりと笑う。エリーは笑顔でそれに応えた。ウィリアムに言ってみよう。そして可能ならば一緒に祭りを楽しもう。エリーは胸が高鳴るのを感じた。
「じゃあ、これはシェルが作ったんですか?」
「ぐっ……いや、オレはまだ手伝いだけ」
そう言って不満そうに唇を尖らせる。その仕草がまるでリヒトのようだ、とエリーは思わず微笑んでしまう。
「でもいつかぜってぇ最高の招待状を作ってやる」
「ふふ、その時は私にもくださいね」
「当たり前だろー? 祭り絶対来いよな」
そう言って楽しそうに笑う。
「つーか祭りのことも知らねぇなんてお前変な奴だな」
「へ、変ですか……」
直球で言われ、なんとなくショックを受けてしまう。
「じ、実は、私記憶がなくて」
言い訳のように言ってしまって思わず苦笑する。自分の境遇をどう伝えたらいいかわからない。
「ほー、記憶喪失ってやつ? なんかかっけー」
ははは、とシェルは豪快に笑う。気を遣うようなそぶりは一切見られない。もしかして冗談だと思われたのだろうか。もしくは、理解できていないのだろうか。ほのかに失礼なことを考えながら、エリーはシェルと一緒に笑った。
「それでウィリアムさんに拾われて、今一緒に住んでいるんです」
「ウィリアムって、アンナやダニーのとこの?」
「はい、ご存知ですか?」
「そりゃあな」
ふむふむ、と頷くシェル。そういえば、ウィリアムたちにはフランメに住む幼なじみがいると聞いたことを思い出した。
「あの、シェルはウィリアムさんたちの幼なじみという方はご存知ですか?」
「へ?」
「フランメに住んでいるらしいのですが」
「え、あ、そ、そうだな……どうだろうな……はは」
明らかに動揺するそぶりを見せるシェル。そんな態度がなんだか気になり、エリーは更に質問を重ねた。
「どんな方なんですか?」
「え、えっと、そうだな」
先程まで考えることを一切していなかったが、一瞬黙り込んでシェルは考えていた。顔がほのかに赤くなっている気がする。どうしたのだろう。
「いい奴、かな」
「……それだけですか?」
シェルが何かに耐えるような表情でぽつぽつと喋りだす。先程までの勢いはどこへ行ってしまったのか。
「んん、と、すげぇ、優しい。あと、すげぇ真面目なんだけど、なんか抜けてて、放っておけなくて、あと普段からすげぇキレーなんだけど、笑うとすげぇ可愛くて、へへ、いつもは全然しゃべんねぇんだけど、たまにドキドキするようなこと言ってくるから、いつもなんか振り回されてばっかりでさ」
「……シェル」
「な、なんだよ」
顔を赤くして眉間にしわを寄せるシェルを見て、エリーが笑った。
「その方のこと、大好きなんですね」
「なっ、ちがっ……な、何言ってんだよ!」
わかりやすく取り乱すのを見てエリーが更に笑う。
「その方のお名前はなんですか?」
「……」
エリーが首を傾げると、シェルは目を逸らして言いづらそうに口を開いた。
「……サラ」
「サラさんですか……素敵な名前ですね」
「おー」
シェルがパシッと自らの頬を叩いて、気を取り直したようにエリーを見た。
「と、とにかく、祭り、絶対来いよ。約束だからな」
「そうですね。サラさんにもお会いしたいですし」
「だ、だからそれはもういいだろ!」
「ふふ、ウィリアムさんに言ってみますね」
「おう!」
そう言ってシェルは鞄を背負って立ち上がった。そしてエリーに笑顔を向ける。
「じゃあオレそろそろ配達の続き行ってくるわ。暗くなる前に帰れよー」
「了解です。配達頑張ってくださいね」
「おう、任せろ!」
じゃあな、と言ってシェルは去っていく。するとおそるおそるといったようにリヒトが木の陰から出てくる。
「あ、そんなところにいたの、リヒト」
そんなリヒトに続いて、次々と妖精が木の陰から出てくる。そして気を取り直すように泉で遊び始めた。エリーは祭りのことを考えながら、その光景をぼんやりと見つめていた。
第八話「誘い」
爽やかな朝が来た。エリーはぱちっと目を開け、枕元に眠るリヒトの姿を確認する。光を放つリヒトは夜暗い中でも光り輝いている。最初は眩しさで眠れなかったが、今となってはもう慣れてしまった。そんなことを考えながら起き上がって服に手を掛ける。普段着のワンピースに着替え、顔を洗いに洗面所へと向かう。身だしなみを整えたら、次は朝食を作らなければ。食べるのはエリーだけだが。
普段は引きこもってるウィリアムも今日はゆっくりできる日だ。昨日最新作の原稿を仕上げたところなのだ。そんなことを考えていたらエリーは重要がことに気が付いた。
――ウィリアムさんの本を読んだことがない。
同居人失格なのではないか。エリーは朝食を作りながら青ざめていた。ウィリアムに聞いてみたら読ませてもらえるだろうか。正直その可能性は低い気がする。そうしたら今度ダニエルに聞いてみよう。そして読んでみよう。ウィリアムの書いた本を。そう心に決めて、エリーは朝食作りを続けた。
そうしているとリヒトがぼんやりとしながらふらふらとエリーの元へやってきて頭に乗った。
「リヒト、おはよう」
反応はなかった。きっと頭の上で二度寝しているのだろう。そんなことを考えつつエリーは朝食を堪能した。ウィリアムの分を取って置き、自室へ戻る。リヒトはもう目が覚めたのか、エリーの周りをぐるぐると飛んでいる。眩しい。
今日は天気もいい。泉へ行ったり、買い物をしたり、アンナやダニエルに会いに行ったり。絶好のお出かけ日和、なのだが、エリーはあることを決めていた。それは、ウィリアムを祭りへ誘うことだ。幸い、今日のウィリアムはたっぷりと時間がある。いつでもゆっくり話ができるだろう。シェルに会ったことを話し、オルゴールを見せ、火炎の陣という物騒な名前の祭りへ行こうと誘おう。リヒトが周りを飛び回ってエリーに何かをアピールしている。きっといつものように泉に行きたいのだろう。しかしそれをエリーは完全に無視する。意外と頑固なのだ。
「来た」
ガタッと音がして、廊下を誰かが歩く音がする。もちろん、ウィリアムで間違いはないだろう。今すぐ扉を開けて駆け出したい衝動を抑え、エリーはしばらく部屋で待機した。きっとウィリアムはまだ寝起きでぼんやりとしている。今すぐ行って話をするのは得策でない。エリーはそわそわしながら時計を見つめた。せめて朝食を食べ始めるくらいの時間にひょっこりと顔を出していこう。そう決めてエリーは扉の前でその瞬間を待っていた。耳を扉に当てる。何も聞こえない。
「もういいかな」
リヒトに聞いてみると、リヒトは呆れた顔で深く頷いた。どうでもいいのだろう。エリーはハッと息を吐いて気合いを入れる。そしていつものように扉を開けた。階段を下りる。そしてダイニングへ顔を出した。もう朝食を食べたのか、ウィリアムはぼんやりと珈琲を飲んでいた。早い。
「ウィリアムさん、おはようございます」
「……あぁ」
大丈夫だ。少しぼんやりしているが、ちゃんと起きている。何を基準にしてそう思ったのかは不明だが、エリーは絶対的な確信を持っていた。
「あの、ウィリアムさん」
「……何だ」
「実は昨日、泉である方に会ったんです」
エリーの言葉にウィリアムがぼんやりとした視線をエリーに絡ませる。エリーは今にもスキップでもしそうなくらい楽しそうに話を続けた。
「シェルっていう方です。ご存知ですか?」
「……あぁ」
それほど興味がないのか、ウィリアムが珈琲を飲み続ける。
「そしてこれをいただいたんです!」
後ろ手に持っていたオルゴールをじゃじゃーんとウィリアムに差し出す。ウィリアムはそれを見つめ、エリーを見た。そしてふっと笑った。
――笑った。
エリーは思わずぽかんとしそうになったが、そのリアクションはあまりに失礼だ。差し出していたオルゴールを持ち上げ、笑いかける。
「招待状です」
「……もう、そんな時期か」
「そうなんです!」
力いっぱい肯定する。このまま押していけばきっとウィリアムも祭りへ一緒に行ってくれるだろう。
「行きたかったら行けばいい」
「へ?」
「アンナやダニエルは間違いなく行くだろう」
連れて行ってもらえ、とでも言うような言い方をする。違う、そうじゃない。エリーはもどかしげに首を横に振った。
「違います、ウィリアムさん」
「……何がだ?」
「ウィリアムさんと行きたいんです! お祭り!」
「は?」
ウィリアムが固まる。そんなに予想外だったのだろうか。エリーは心配そうにウィリアムを見つめる。
「……そうか」
「そうです」
「……」
ふと考えるかのように視線を落とす。そしてゆっくりとエリーを見た。
「じゃあ、一緒に行こう」
「いいんですか!?」
「……あぁ」
エリーが嬉しそうに小さく飛び跳ねる。その様子がおかしかったのか、ウィリアムは再び口元を緩ませ珈琲を口に運んだ。
「ありがとうございます。嬉しいです」
本当に嬉しそうにエリーは笑う。お祭りに行ける。ウィリアムと行ける。もっと仲良くなれる。エリーは本当に嬉しそうだ。
部屋に戻ると、エリーはひたすらリヒトに祭りのことを話していた。
「火炎の陣ってどんなお祭りなのかな。やっぱりちょっと戦ったりするのかな。でもお祭りって言ってるから皆で踊ったり美味しいもの食べたり知らない人と話せたりするのかな。ねぇ、リヒト、どう思う?」
傍から見たらただの独り言だ。しかしベッドで座っているリヒトはちゃんとうんうんと相槌を打っている。話を聞いているかはともかく。エリーは本当に楽しそうだ。街にも慣れ、知り合いも増え、同居しているウィリアムとの絆も深まっている。と、思っている。最初の心細さはもう感じていない。リヒトといつも一緒にいるからというのもあるだろう。エリーはリヒトに笑いかける。リヒトはきょとんとして首を傾げる。エリーはにこにこしながら、祭りのことを考えた。
第九話「炎の街」
エリーは列車に乗っていた。これから火炎の都、フランメへ向かうのだ。
「ダニー、あれはタヌキよ」
「アライグマだよ、アン」
「……どっちでもいい」
幼なじみ三人組が楽しそうに話をしている。それをエリーは微笑みながら見ていた。リヒトは窓枠に座っている。
風の都、ヴィルベルから出ただけで気温が上がったような感じがする。ヴィルベルが比較的涼しいというのを実感した。しかしそんな暑さも心地よく感じるくらい、エリーはフランメに行くのを楽しみにしていた。
「エリー、お菓子食べる?」
唐突にアンナが鞄からお菓子の詰め合わせを出し、開けた箱をエリーに差し出す。リヒトの目が輝く。しかし今は食べさせることはできない。彼には諦めてもらうしか道はない。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
控えめに口にするエリーを見てアンナが優しく微笑む。本当に姉のような人だ。リヒトは物欲しそうにエリーを見て、悲しそうな表情でゆっくりと再び窓の外に視線を移した。
見慣れない景色が過ぎていく。ウィリアムのところで暮らすようになってから、列車に乗るのは初めてなのだ。エリーは興味津々に外をじっと見る。リヒトとシンクロしているかのように表情が同じだ。
「エリー、ヴィルベルを出るのは初めてだもんね」
「火炎の陣以外にも祭りはあるし、これからはきっと見飽きるほどこの景色を見ることになるよ」
アンナとダニエルがエリーに言う。ウィリアムはいつもの無表情で外を眺めている。エリーは嬉しそうに頷いて、再び窓の外へ顔を向けた。
「おーい!」
駅に着くと、そこには茜色の髪がはねる青年、シェルが大きく手を振っている姿があった。隣には見慣れない緋色の長い髪をした美しい女の人もいる。エリーは確信した。噂のサラだ。
「待ってたぜ、エリー!」
「あら、私たちはお呼びでないってこと?」
「別にそういうわけじゃねーよ!」
アンナが意地悪そうな顔をしてシェルを見る。シェルは小柄なため、アンナを見上げる形になっている。なんだか可哀想だ。
「……」
すっとシェルの隣に緋色の女の人が立つ。こうして見ると、シェルの方がやや小さいように見える。彼女の履いている靴の影響もあるだろうが、きっと気にしているんだろうなと思うとやっぱりなんだか可哀想だ。
「サラぁ!」
アンナが突然その人に抱き着く。やはり、この緋色の髪と瞳をした人がサラなのだ。
「……アン」
「会いに来れなくてごめんね? サラ」
「ううん、大丈夫」
目を閉じて首を横に振る。何をするにも美しさが纏っている。エリーはぼーっと二人を見つめる。
「あ、そうだ。サラ。聞いた?」
「……?」
「この子、今ウィリアムと一緒に暮らしてるの。エリーよ」
「え、あ、どうも、エリーです」
突然言われ、エリーはあたふたしながら挨拶をした。ぺこっとお辞儀をして、顔を上げる。サラはふっと優しく微笑んだ。
「サラ・ホークアイ。よろしく」
「よ、よろしくお願いします」
思わずおどおどしてしまう。美しさの前には誰もがこうなることだろう。エリーはそんなことを思いながら、リヒトに共感を求めようと宙を見る。
しかしリヒトは思っていた場所にいなかった。きょろきょろと探すと、サラの周りをぐるぐると回っているのを見つける。見えないからといって、失礼だ。エリーは呆れた視線を送る。その時、サラが一瞬リヒトの姿を目で追った。
「え」
思わず声が出る。サラとエリーの目が合う。サラは悪戯っぽく微笑み、髪を靡かせながら後ろを向いた。周りを見ると、他の皆も先を進んでいた。
「おーい、行くぞ。エリー」
シェルに呼ばれ、エリーは慌てて皆の背中を追いかけた。
フランメの街はヴィルベルとはまた雰囲気が違っていた。祭りの前日だからか、とても賑わっている。屋台の準備をしている姿も見られる。忙しなく動いている人々を見て、エリーは目を大きくさせてきょろきょろとしていた。どういう仕組みなのか、街のいたるところが燃えている。そんな炎もあって、暑さが倍増している。ヴィルベルから出たばかりのエリーは暑さに顔を赤くさせながら歩いていく。アンナとダニエルはサラと楽しく話をしていて、その一歩後ろをウィリアムが歩いている。これがこの幼なじみ四人の雰囲気なのだと思うと、エリーは心の中も温かく感じた。シェルは無表情でエリーの少し先を歩いている。
ぼーっと皆の後ろ姿を見ていると、エリーは人混みに押されてしまった。よろけるエリー。皆との距離がどんどん開いていく。リヒトの姿を探すが、見当たらない。なんだか息が苦しい。人が多いからだろうか。それとも暑さのせいだろうか。
「大丈夫か」
またしても人に押されてよろけるエリーを支えたのは、ウィリアムだ。
「ウィリ、アム……さん……」
「ぼーっとするな」
エリーを覗きこむ。エリーはぼーっとその無表情を見つめ返した。
「……行くぞ」
ウィリアムはそう言ってエリーの手を取り、歩き出した。息苦しさはもう感じていない。リヒトが心配そうにぐるぐるとエリーの前を回っている。エリーはそんなリヒトに微笑みかけて、ウィリアムの横顔を見た。いつもと変わらない無愛想な表情。エリーは安心して、前を向いた。
「ねぇエリー、聞いて。こいつサラを私たちに取られて拗ねてたのよ」
「拗ねてねぇって!」
「嘘よ。ねぇ、サラ」
「……?」
「そこでサラに振るなっつの!」
「シェルは相変わらず不憫だね」
「う、うるせぇよ」
アンナとダニエル、シェルとサラが盛り上がっているようだ。エリーは思わず笑ってしまう。
「エリーまで笑うなよ」
「ふふ、ごめんなさい」
シェルが拗ねたように唇を尖らせ、顔は少し赤らんでいる。そんなシェルを見て、エリーはまた笑った。
着いた先は宿屋だった。ここで一泊をして、明日は一日中祭りを満喫するという計画だ。そしてエリーはアンナと同じ部屋。
「明日はいよいよ火炎の陣ね」
「そうですね! 楽しみです」
エリーはにこにこと答え、窓の外を眺める。街の様子がよく見える宿だ。もう外は暗いはずなのに、まるで昼間のような賑やかさだ。
「明日がお祭りだからってのもあるけど、フランメはヴィルベルよりもずっと賑やかな街なのよ」
「そうなんですか?」
「ええ。エリーもきっと気に入るわ」
「はい!」
窓の外を眺めながら、エリーはにこにこと笑う。街で揺らめく炎を見つめるエリーの瞳も赤く染まっている。そんなエリーを見てアンナは微笑んでいた。
「あっ」
「ん?」
「鬼がいます!」
エリーがそう言って驚いたような表情でアンナを振り向く。アンナは笑って窓際に近寄る。
「ヴィルベルには妖精がいるって聞いたことある? それと同じように、フランメには鬼がいるのよ。妖精と違って、かなり積極的に街に出てくる種族だけどね」
「そうなんですか……」
「えぇ。人と同様に暮らしているわよ」
「へぇ……」
エリーは身を乗り出しながら街を歩く鬼たちを見つめる。見すぎるのは失礼かも知れない。でもリヒトや他の妖精たちと同じように、少しでも仲良くできたら嬉しいなぁとエリーは考えていた。
「明日のお祭り、楽しみです」
しみじみと言うエリー。そんなエリーに後ろから抱きつきながら、アンナはいつものように豪快に笑った。
第十話「火炎の陣」
太鼓を叩く低い音が鳴り響く。そんな音と窓から入る日の光で、エリーは目を覚ました。
起き上がって部屋を見回してみるも、同じ部屋に泊まっているはずのアンナの姿はない。枕元にはリヒトがすやすやと気持ちよさそうに眠っている。
ゆっくりベッドから降り、窓を開ける。それと同時に、たくさんの大きな音が部屋の中に入ってきた。
「わっ」
一瞬びっくりして窓を閉めかけるが、思い直して窓の外に身を乗り出す。
「すごい……!」
街並みが昨日よりもずっときらきらしている。楽しそうに笑い合うたくさんの人の姿。音楽に合わせて踊る人の姿。見たこともないような食べ物を口に含む人の姿。昨日初めて見た鬼の姿も見られる。エリーは胸の高鳴りを感じていた。
「あ、エリー。おはよう」
扉の音に気付かず、エリーは背後からの声に驚き振り向いた。
「アンナさん」
「おはよう」
「おはようございます」
興奮して頬を赤らめるエリーの姿を見てアンナが笑う。
「既に楽しそうね?」
「はい!」
そう答えると、アンナは窓を閉めた。
「ここから見てないで、さっさと街へ行くわよ」
「はい」
「あ、でもその前に」
アンナがそう言ってにっこりと微笑む。エリーはきょとんとその微笑みを見かえす。
「着替え持ってきたから、着替えましょう」
楽しそうに笑うアンナに、エリーは大きく頷いた。
アンナがエリーに着せたのは、白藤色の浴衣だ。花柄が綺麗に並んでいる。エリーの亜麻色の髪はアンナの手によって上げられた。いつもは下ろしているため、新鮮に感じる。
「これは……」
「気に入った? 火炎の陣ではね、浴衣を着るのが一般的なのよ」
そう言ってアンナがにっこり笑う。
確かに先程窓の外から見ていた限り、浴衣姿の人が多かったように思えた。エリーはなんだか嬉しくなって、ぐるぐると回ってみる。やっと起き上がったリヒトが、そんなエリーをぼんやりと見つめる。
「ふふ、じゃあ準備出来たってウィル達に言ってくるわね。すぐに出るから、用意を済ませておいてね」
「わかりました」
部屋を出ていくアンナ。エリーは荷物を持って、リヒトに向かってもう一度回って見せた。
「リヒト、どう?」
楽しそうに聞くエリー。リヒトもまた楽しそうに頷いて笑った。もう寝ぼけてはいないようだ。
「そろそろ行くみたいだから、リヒトも準備してね」
そんなエリーの言葉にも大きく頷く。準備も何も、起き上がってエリーの頭の上に乗るくらいしかすることはないが。
「エリー、もう行ける?」
「はーい」
「じゃあ行くわよ」
アンナに声を掛けられ、エリーはリヒトを連れて部屋を出た。外から聞こえてくる賑やかな音に、エリーは楽しみを隠しきれない。
玄関へ行くと、そこにはエリー同様浴衣を着たウィリアムとダニエルの姿があった。
「お、お待たせしました」
慌てて駆け寄る。そんなエリーを見てダニエルがにっこりと笑った。
「急がなくても大丈夫だよ」
「はい……」
「浴衣、可愛いね。よく似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
ダニエルの言葉に顔が熱くなる。ストレートに褒められると、どうしても照れてしまうのだ。
「ウィルも何か言うことないの?」
アンナが煽るようににやりと笑いながらウィリアムを見つめる。ウィリアムはエリーを一瞥した。
「あぁ……いいんじゃないか」
そう言ってさっさと宿を出ようとする。
「相変わらず愛想のない男ね」
しかしエリーはその愛想のない言葉だけで、十分心が満たされた。ウィリアムにしては、かなり褒めてくれた方なのではないだろうか。
外に出ると、先程窓を開けて聞いていた時とは比べ物にならないくらい、たくさんの音がエリーたちを包み込んだ。太鼓を叩く音、人々の笑い声や話し声、どこかで演奏しているらしい音楽。
――これが、火炎の陣。
エリーの瞳は街の炎よりも輝いていた。
「さて、どこから見ていきましょうか」
「まずは何か食べる?」
「いいわね。エリー、どう?」
アンナとダニエルが話を進めていく。エリーはそれについていくので精一杯だ。
「い、いいと思います!」
「ふふ、緊張してる?」
「あ、いえ、あの、はい……」
にこにこ笑うアンナに、エリーは苦笑しながら返す。
「どっちだよ」
急に聞こえた声は、当然聞き覚えがあった。振り返った先には、茜色の髪と瞳。
「シェル」
「よっ」
「あんたここで何してんの? サボり?」
「ちっげぇよ! 店は他の奴らと交代してやってんの」
早速アンナと言い合いを始めるシェル。仲が良いなぁとエリーはぼんやり思う。そんなエリーとシェルの目が合った。
「……浴衣、いいじゃん」
そう言ってにひっと笑う。エリーもつられてにひっと笑った。
「ありがとうございます」
「それで、愛しのサラはどこにいるの?」
「い、いとしのって何だよ」
アンナの言葉にシェルが顔を赤くする。そんなシェルにアンナは意地悪そうに笑った。
「何赤くなってんの? 私の愛しのサラの話よ?」
「なっ……そ、そうかよ」
シェルが悔しそうにアンナを睨み、がーっと頭を掻く。
「……あいつのとこまで、案内する」
「どちらにいらっしゃるんですか?」
「来ればわかる」
エリーの問いかけにシェルがむすっとしたように返す。アンナにからかわれて、すっかり拗ねてしまっているようだ。リヒトと似てるね、と目だけでリヒトに伝えてみる。リヒトはまるで心外だ、とでも言うように腕を組んで顔を横に振った。
街並みは昨日よりも赤くなっているように見える。街全体が燃えているかのように、あちこちで熱く燃えている炎が反射しているようだ。
「……大丈夫か」
ふと隣で声がして、エリーは見上げる。ウィリアムが無表情でエリーを見下ろしている。
「大丈夫です」
心配してくれているのだ。エリーは微笑んでそう返した。
「そうか」
「はい」
ウィリアムはそれだけ言って隣で歩き続ける。エリーの頬は緩む一方だ。
賑やかな街を歩いていく。たくさんの音や色、匂いで溢れたその街を歩いているだけで心が弾む。しばらく歩いていると、目的地にたどり着いたようだった。
「あそこ」
シェルがそう言って目線で示す。そこには、たくさんの女の人が猩猩緋色の衣装を纏って輪になって踊っていた。踊り子のための衣装なのだろう、腹部が大きく開いていて、動く度に腰や腕の布がひらひらと舞っている。
そしてその中に、サラの姿があった。
サラの踊る姿はとても美しかった。他の踊り子と違って笑顔を見せていないところは、サラの美しさをより引き立てているように思える。エリーはぼーっとして見とれてしまった。
「相変わらず綺麗に踊るわね」
「うん。とても綺麗だ」
アンナとダニエルが率直に感想を言う。ウィリアムは無言で踊る女の人たちの方を見ている。シェルは何かに操られているかのように、どこかに意識を飛ばしたような表情でサラをじっと見つめていた。
「あっ」
エリーが思わず小さく声を上げる。リヒトがサラの元へ飛んで行ったのだ。そして元々そこで踊っていたかのように、サラの周りをぐるぐると回っている。そんなリヒトの姿が見えているのかいないのか、サラは小さく微笑んで、リヒトの動きに合わせて踊り出した……ように見えた。
見えているのだろうか。
そんなことを思っていると、サラがリヒトを連れてこちらへやってくる。すると、エリーの手を取り、サラは美しく微笑んだ。
「エリー、行ってきな」
アンナの言葉にきょとんとする。
「えっと……?」
「一緒に踊っておいで」
ダニエルの捕捉に、エリーは慌てた。
「え、いえ、でも、そんな」
困ってウィリアムの方を見る。ウィリアムは無言で頷いた。行けということだろうか。そんなことを考えていると、手を少しずつ引っ張られていく。輪の中心まで引っ張られると、エリーはサラに誘導されながら、動きづらそうにしながら共に踊り始める。サラが動きを合わせてくれている。リヒトも周りでぐるぐると回っている。なんだか楽しくなって、エリーはサラとリヒトと共に踊り続けた。
「つ、疲れました……」
「ふふ、お疲れ」
アンナが楽しそうに笑う。ぽんっと頭にウィリアムの手が乗せられる。反射的に見上げ、エリーは笑顔を見せた。
「サラもお疲れ!」
アンナがそう言ってエリーの後ろを見る。そこにはサラの姿があった。
「……りんご飴」
突然、真顔でそんなことを言う。
「買って来てやろうか?」
「……ううん。皆で行きたい」
シェルの言葉にサラが首を横に振る。そんな姿を見てダニエルがシェルを見下ろした。
「振られちゃったね」
「別に振られた訳じゃねぇし!」
そんなやり取りをする横でアンナがエリーを覗きこむ。
「エリー、りんご飴食べたことある?」
「りんご飴、ですか?」
きょとんとするエリーに、アンナは微笑む。
「ここのりんご飴はすごいわよ」
「……うん。すごい」
そんなアンナとサラの言葉にエリーは胸が波打つのを感じた。
「す、すごいんですか……!」
何がすごいのかはエリーもわかっていないが、そのすごいという言葉だけで期待を抱く。
「じゃあ食べに行くかぁ」
「混んでないといいんだけど」
シェルが歩き出すと、皆がそれに着いていく。人混みの中を六人で歩いていき、一人は飛んでいく。すると、目的地であろう場所に辿り着いた。りんご飴の屋台。アンナやサラの言っていたように、確かに、すごかった。
――すごい列だ。
「ここがりんご飴の屋台ですか……」
「ここでしか食べられねぇりんご飴だからなぁ」
シェルが呑気な声を出す。驚くエリーを面白がっているようだ。
「仕方ないわね。並ぶわよ」
「……うん」
こうして、エリー達はりんご飴の屋台の列に加わった。
そわそわしながら、順番を待つエリー。すごいりんご飴というのは、一体どんなりんご飴なのだろう。期待に胸を膨らませるエリーの頭の上に乗るリヒトもまた、エリーと同じ表情をしている。
屋台に近付くにつれて、なんだか気温が高くなっていく気がした。エリーはぱたぱたと手で顔をあおぐ。リヒトもぐったりしている。アンナやダニエルも時々ハンカチで汗を拭いている。シェルやサラが平気そうなのは火炎の都の住人だからだろう。しかしウィリアムもなんだか平気そうだ。
「あ、暑い……」
思わず声に出すエリー。そんなエリーにシェルはにやりと笑みを向ける。
「こんなんでへばるなよ」
「シェルはどうしてそんなに平気そうなんですか……」
「まぁ、オレは強いからな」
得意気に胸を張るシェルの頭をアンナが小突く。
「暑さに慣れてるだけよ。ここに住んでるんだから」
「けっ」
拗ねたように唇を尖らせるシェルだったが、何かを思いついたようにエリーを見る。
「しょうがねぇから気を紛らわせてやるよ」
「なんですか……?」
シェルは左手の甲をエリーに見せるようにして上げた。
「よーく、見てろよ」
そう言って、しばらくエリーの目を引きつけ、シェルは右手の指をぱちんと鳴らした。
「わっ」
指を鳴らしたのと同時に、左手の人差し指の先から炎が発生したのだ。エリーはぽかんとその指先を見つめる。
「へへっ」
シェルは満足そうに笑い、再び指を鳴らす。すると、中指の先からまたしても炎が現れる。それを指の数だけ繰り返す。
「へへー、炎の爪ぇ」
どうだ、とでもいうようにシェルは得意気な顔でエリーの反応を伺う。エリーはぱちぱちと拍手をした。
「すごい! すごいです!」
リヒトもエリーの頭上で同じように拍手をしている。
「そうそう。オレはすごいんだよ」
嬉しそうに笑うシェル。エリー程素直な反応をする者は、今まであまりいなかったのだろう。
「はいはい。そんなことより、りんご飴見えて来たわよ」
「そんなことって……」
「わぁ、あれがりんご飴ですか?」
アンナの言葉にエリーは屋台に目を向けた。アンナの言う通り、りんご飴が見えてきていた。そしてそれは、エリーの思い描いていたりんご飴の姿をしていなかった。
「りんご飴というか……火の、玉?」
たくさんのりんご飴が、屋台に並べられていた。しかし全てのりんご飴から炎が出ていた。どこからどう見ても、屋台が燃えているようにしか見えない。エリーは唖然としている。
「あれ、美味しいの」
サラが無表情のまま伝える。エリーは唖然とした表情のまま、サラを見て、再びりんご飴に視線を移した。
「た、食べられるんですか……?」
「やっぱりそう思うわよね」
「僕も小さい時は不思議だったなぁ」
アンナやダニエルが楽しそうに言う。
「あれ、うちの名物。食べられる炎なんだ」
シェルがそう説明をするが、エリーの目は燃えているりんご飴の姿を捉えたままだ。よほど衝撃を受けたのだろう。
「お前んとこだって、空飛べんだろ?」
「は、はい! 飛びました!」
「それと似たようなもん。形が違うだけで」
「それぞれの都には、それぞれの特徴を活かした物や技術があるんだよ」
シェルとダニエルの言葉にエリーは頷いた。
「なるほど……」
食べられる炎。挑戦するのは少し怖いが、是非食べてみたいとエリーは思った。
そうこうしているうちに、順番がやってきた。心臓の鼓動を抑えるように、エリーは胸に手を当てる。やっぱり屋台は思い切り燃えている。熱くて、暑い。リヒトは顔を歪ませている。
屋台の赤髪のおじさんに向けて、アンナが口を開いた。
「六つください」
「あいよ」
そう言って前方で燃えている中に手を突っ込むおじさん。エリーが心配そうにそれを見つめる。しかしおじさんは平気そうにりんご飴を掴んでは皆に渡していく。そして最後におじさんはエリーにりんご飴を渡した。
「あ、ありがとうございます」
屋台の近くはすごく暑いが、手に持ったりんご飴はそれ程熱さが感じられない。エリーは不思議そうにしながら、列を抜けた皆の後に続く。
「これ、どのようにして食べたら……」
不安げに聞くエリー。それに返事をするかのように、ウィリアムがりんご飴に噛り付いた。
「あっ」
思わずエリーが声を出す。ウィリアムの顔が燃えてしまう。しかしウィリアムは平気そうにもぐもぐしている。エリーは自分の持っているりんご飴に視線を移す。燃えている。綺麗に燃えている。
「大丈夫だって」
シェルの言葉に、エリーは頷く。すると、リヒトがエリーの持っているりんご飴の傍にふわりとやってくる。一緒に食べるつもりなのだろう。そんなリヒトと目を合わせる。そして、同時にりんご飴に噛り付いた。
――甘い。
温かい甘さが口の中に広がる。不思議な感覚だ。飴の部分を食べていくと、中はとろとろの焼きりんご。
「……美味しいです」
エリーが頬を緩めて言う。その幸せそうな表情に、サラが珍しく満足そうに微笑む。よほどお気に入りの一品なのだろう。
そんなりんご飴を食べながら、皆で街を歩いて行った。
りんご飴ほど特殊な食べ物はなかったが、屋台の食べ物はどれもすごく美味しいものだった。金魚すくいや射的もやった。しかしエリーは下手だった。
「もうそろそろ広場行くか?」
空が暗くなってきた頃、シェルがそんなことを言い出す。不思議そうに首を傾げるエリー。アンナは空を見上げた。
「そうね。そろそろ行きますか」
まるで広場に何かがあるかのように、それを皆が知っているかのように。当たり前のように、広場に向かって歩き出した。エリーはリヒトと顔を見合わせる。やっぱり二人は同じように不思議そうな表情だ。
「……行けばわかる」
そんなエリーの疑問をわかっているような口調で、ウィリアムが隣で口を開く。反射的にウィリアムを見上げると、頭に手が、再び乗せられた。
「大丈夫だ」
「……はい」
へへ、と笑うエリー。今日のウィリアムはなんだか機嫌が良さそうだ。そんなことを思い、エリーはまたへへ、と笑った。
広場に着くと、そこには大量の人間。……と、鬼。
「やっぱり混んでるわねぇ」
アンナが少し声を張って言う。
エリーは皆とはぐれないように、人の波に流されないように一生懸命足に力を入れる。そんなエリーの手を、ウィリアムがそっと握った。
「……?」
思わずウィリアムの顔をじっと見る。しかしウィリアムは一切エリーを見ておらず、暗くなった空を見つめている。それにつられ、エリーも空を見上げた。
すると、大きな音を立てて、空に大きな花が咲いた。
「あっ」
何も知らされていなかったエリーの驚いた声が、広場に響く歓声の中に消えた。
手を伸ばせば届きそうなその大きな花は、咲いてはすぐに消えてしまう。残されるのはわずかな火薬の匂いだけ。しかしすぐにまた新たな花火が空に浮かぶ。広場にいる全員が、空を見上げ嬉しそうに笑っていた。
……これが、火炎の陣なんだ。
胸がいっぱいになったエリーは、ぎゅっとウィリアムの手を握った。
第十一話「緋色の鬼」
コツン、と音が鳴った。
エリーは目を開けて、起き上がった。隣のベッドを見てみるが、アンナはぐっすり眠っている。今は何時だろう。枕元にはリヒトが気持ちよさそうに眠っている姿。
もう一度コツン、と音がした。窓からだ。エリーは立ち上がって、音を立てないようにゆっくりと窓を開けた。
「よっ」
聞こえた声に窓の外を見下ろす。そこには笑顔のシェルがいた。エリーは不思議そうに目を瞬かせてシェルに声を掛ける。アンナを起こしてしまう可能性があるため、小声気味だ。
「どうしたんですか?」
「あぁ? 聞こえねぇよ」
シェルが声を張り上げる。その声の大きさに焦り、エリーはしーっと口元に指を運んだ。
「ったく、しょうがねぇなぁ」
シェルは呟き、周りを見渡す。そして、宿の入り口の小屋根に飛び乗った。驚くエリーを気にせず、シェルはまるで猫のように容易く登ってくる。
「よっ」
二度目の挨拶は、エリーのすぐ傍で聞こえた。エリーの部屋の窓にしゃがむように身を低くしている。
「お、おはようございます……」
驚くエリーは小声で挨拶をして、思わず苦笑する。
「どうかされたんですか?」
「いーや、ちょっと散歩に付き合ってもらおうと思って」
シェルもエリーにつられて小声で話してくれる。
「散歩?」
「おう」
そう言ってシェルはにかっと八重歯を見せて笑う。
「案内してやるよ。火炎の都」
「わぁ、本当ですか?」
「あぁ。玄関で待ってるから、早く来いよ」
そう言ってまた笑い、そのまま窓から跳ぶように降りていった。エリーが心配そうにその姿を目で追いかける。どうやら無事地面に着地したようだ。
エリーはアンナを起こさないようにして着替える。リヒトは眠っているし、連れて行くか悩んだが、後で拗ねてしまうと思いワンピースの胸ポケットに入れた。そのうち起きるだろう。
お散歩に行ってきますと書き置きをテーブルに残し、エリーは部屋を去る。宿の玄関の扉を開けると、眩しい光がエリーの姿を照らした。
「よっ」
本日三度目だ。
「お待たせしました」
「おう。じゃあ、行くか」
「はい!」
街を歩き始めると、昨日とは随分雰囲気が違うとエリーは感じた。それがわかっているかのように、シェルは笑った。
「祭りが終わった直後だから、皆いつもより気が抜けてんだよ」
「そうなんですね」
「そのうち皆起き出して片付け始めるぜ」
「シェルはいいんですか?」
「お、オレはいいんだよ」
少し動揺したようにどもるシェル。エリーは察したようにふふっと笑った。間違いなくすっぽかすつもりだ。
「今日は片付けで入れない店多いんだよなぁ、どこ行くかぁ」
シェルがきょろきょろしながら歩いていく。その斜め後ろをエリーがついていく。
「お、シェル坊じゃねぇか」
「おっちゃん」
目の前でちょうど開かれた扉からいかつい赤い髪のおじさんが出てきて、シェルに声を掛ける。……また赤い髪。この街の赤髪の多さにエリーは感心していた。
「どうしたどうした。彼女かぁ?」
エリーの姿を見て、驚いたようにおじさんが目を見開く。シェルはむっとしたように唇を尖らせた。
「彼女じゃねぇよ」
「はっはっは! そうだよなぁ、お前がサラちゃんを諦める訳ねぇよなぁ」
「当たり前だろ! ってサラはそんなんじゃねぇって!」
そんなやり取りに思わず笑ってしまうと、シェルが素早くエリーを振り向く。
「お前も笑ってんじゃねぇっての!」
「ふふ、ごめんなさい」
「あーもう!」
シェルがむすっとしたままおじさんに視線を戻す。
「じゃあオレたちもう行くから!」
「まぁ待てよ」
そう言っておじさんが笑う。シェルは「何?」と首を傾げる。
「昨日の余ったジュースがあるんだ。持ってけよ」
「くれんのか?」
「おうよ」
そう言っておじさんが「ちょっと待ってろ」と言って扉を開けっ放しにして中に戻って行く。
「ほらよ」
再び出てきたおじさんがジュースの缶をシェルに投げる。それをシェルが受け取り、にかっと笑う。
「ありがとう、おっちゃん」
「おう。嬢ちゃんもほら」
「あ、ありがとうございます」
おじさんに手渡されたジュースも、やっぱり赤かった。
再び歩き出すと、エリーは手に持ったジュースを眺めながらシェルに尋ねる。
「これ、何のジュースなんですか?」
「え? あぁ、確か林檎」
「林檎ですかぁ」
「なんで?」
「缶が赤いのが気になって……」
「火炎の陣の時は中身が何であろうと缶は赤いぞ?」
「そ、そうなんですか」
そういえば、とエリーは思い出す。暗い時に飲んだからよく見ていなかったが、昨日祭りの時に飲んだカフェオレの缶も赤かった気がする。変な祭りだ。
「見づらいと思うけど、中身はちゃんと書いてあるぜ? ほら、ここ」
そう言ってシェルがエリーの持っていた缶を一緒に覗きこむ。身長が大体同じなため、シェルのさらっとした髪がエリーの前髪に当たる。シェルが指さした所には、確かにジュースの中身が書いてあった。全く気が付くことができなかった。そんなことを思い、エリーは胸ポケットがごそごそと動いているのに気付いた。リヒトが起きたのだろうか。
ふと視線を感じ、顔を上げるとエリーはシェルと見つめ合う形になった。近い。茜色の瞳にエリーの姿が映っている。
「エリー」
「はい」
「お前を連れていきたい所があるんだ」
そう言ってシェルはジュースごとぎゅっとエリーの両手を握る。エリーは驚いたように目を瞬かせて、首を傾げた。
「はい……?」
「行くぞ」
そう言ってシェルは嬉しそうに歩き出す。それについていっていると、リヒトがポケットから顔を出し、少しふらつきながらエリーの頭の上に乗り直す。ポケットの中は狭かったのだろう。
辿り着いた場所は、赤いレンガと緑色の屋根が印象的な大きな建物だ。玄関の辺りにはたくさんの植物が置いてあり、ガラスの扉から中を見る限り、どうやら雑貨屋のようだ。
「ここは……?」
「雑貨屋だよ」
「いえ、それは見ればわかるんですが」
「お前意外とはっきり物言うよな」
笑いながらシェルが中に入ろうとする。扉を開けたところで、エリーは閃いた。
「あ、もしかして、サラさんへの贈り物を探すんですか?」
「はぁ?」
シェルが予想外の言葉を言われたかのように驚き、扉の横の壁にガンッと頭をぶつける。
「ってぇ……」
頭に手をやりながら、涙目でエリーを見る。
「ほ、本人の店で、んなことできるわけねぇだろ」
「本人の店?」
エリーがそう聞いたところで、聞き覚えのある声がした。
「……いらっしゃい」
開いた扉から中を見ると、そこには近付いてくるサラの姿があった。サラはすぐそばまでやってきて、シェルに視線を移した。
「何してるの」
「……ちょっと頭ぶつけただけだ」
シェルが頭をがしがしとさすりながら、笑ってみせる。
「……そう」
サラはエリーに視線を移し、わずかに微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
「ど、どうも」
何て言っていいかわからず、店の中に入りながら曖昧に挨拶を交わす。サラは茶色いエプロンをして、髪を一つに束ねていた。そんな姿も美しいと思い、エリーは見とれる。
「お店の片付けは?」
サラが首を傾げてシェルに聞く。やはり片付け作業があるのだ。
「きょ、今日はエリーに街を案内しようって思って」
へへ、と笑いながらエリーの肩を抱く。サラは「そう」と言って中を見せるようにして手をわずかに上げる。
「どうぞ、見ていって」
「ありがとうございます」
そう言ってエリーは改めて店内を見回す。外装もレンガで可愛い雰囲気だったが、中も同様に可愛い雰囲気だ。食器や時計、帽子やアロマキャンドル。様々なもののたくさんの種類が並べられている。エリーは興奮したように少し頬を赤らめながら店内をゆっくり歩いて回る。それについていきながら、シェルも店内を見る。
「素敵なものがたくさんありますね……」
「だろ?」
何故かシェルが得意気に笑う。そんなシェルに笑みを返しながら、エリーは少しだけ雰囲気の違う場所を見つける。
「ここだけ、なんだか雰囲気が違いますね」
そこは床も壁もガラスで囲まれた空間だった。中に入ると、風の都の雑貨屋で見かけた時とは比べ物にならない数のガラス製品が置いてあった。食器やアクセサリーはもちろん、置物や家具、楽器なども置いてあった。全てガラスで出来たものだ。ガラスだけで出来た、美術館のような空間だ。
「そうなんだよ。いいだろ、ここ」
シェルが興奮気味に言う。エリーは頷いて、ゆっくりとしゃがんで一つ一つの商品を見る。なんだか触れてはいけない気がするのだ。
「ここの商品はな、大体オレんちの店で作られたもんなんだ」
「そうなんですか」
「そうそう。かっけぇだろ。綺麗だろ。いいだろ」
「はいっ」
シェルが隣で一緒にしゃがむ。まるで初めて見るかのように、エリーと同じくらい純粋な目をして並べられたガラスを見つめている。
――本当に、好きなんだ。
そうして二人でガラスの空間に居座っていると、突然大きな声が店内に響いた。
「シェル坊!」
「うおっ」
シェルが驚いたようにびくっとする。エリーもその大きな声に驚き、声のした方を見た。そこには、真っ赤な肌をした大きな鬼がいた。その緋色の瞳にはどこか見覚えがあるような気がして、エリーはほのかに首を傾げる。リヒトは怯えたようにエリーの後ろに隠れた。
「おじさん、シェル坊って呼ぶのやめてくれよ」
シェルが不服そうに唇を尖らせる。鬼は豪快に笑い、ガラスでできた壁に手を添えた。その瞬間、ぱりんと音を立てて壁が壊される。
「あっ」
「あぁーっ!」
しまったというような顔をする鬼に、それを咎めるような顔をするシェル。
「おじさんいい加減にしてよ! 直すのオレなんだからさ!」
「すまんすまん。いやぁ、割れやすいなガラスってのは」
「おじさんが力入れ過ぎなんだよ」
「そんなことよりシェル坊」
「そんなことって!」
怒るシェルに大きな鬼は反省してなさそうに言葉を続ける。
「お前の親父が怒ってたぞ。片付けサボりやがってって」
「げっ」
シェルが心底嫌そうな顔をする。鬼は手に刺さったガラスの破片を抜きながらまた豪快に笑う。
「そろそろ帰った方がいいんじゃないか?」
「うっ……そうするよ」
はぁ、と深くため息をつく。そしてエリーを振り返った。
「ごめん、エリー。オレ帰んなきゃ」
「そうみたいですね」
「明日には帰っちまうんだよな。また今度案内するから、ごめん」
「いえそんな、今日は十分楽しかったです」
「そうか?」
「できた嬢ちゃんだなぁ」
鬼がまた豪快に笑う。シェルは今気付いたように鬼に視線を戻す。
「こいつ、エリー。ウィルと一緒に暮らしてるんだってさ」
「ほう。そうなのか」
「で、こっちはサラの父親」
「えぇっ」
予想外の言葉にエリーは思わず声を上げる。改めて赤鬼の姿を見る。そんな、馬鹿な。
「サラは鬼と人間のハーフなんだよ」
「うん」
いつの間にやってきたのか、鬼の後ろから出てきたサラが頷く。鬼の身長は、サラの二倍はあるように見える。
「はっはっは、面白い嬢ちゃんだ」
鬼が豪快に笑っている間、サラはガラスの破片を片付け始める。
「じゃあ、オレたちそろそろ帰るな」
「シェル坊はともかく、嬢ちゃんは中でお茶でも飲んでいきな。サラも休憩にすればいい」
「あ、いえ、私も宿に戻ろうかと……」
「そうか」
「はい」
鬼が残念そうに眉を下げる。サラは相変わらずの無表情でエリーを見つめる。
「また来て」
「はい! もちろんです!」
サラとその父に別れを告げ、二人は再び街を歩き出した。
「本当はもっと色々案内するつもりだったんだけどなぁ」
「大丈夫ですよ。またこちらに来た時にでもお願いします」
「おう、任せろ」
そう言ってシェルはにかっと笑う。エリーの泊まっている宿が見えてきた。
「明日帰っちまうんだもんなぁ。寂しいなぁ」
呟くように言うシェルに、エリーは頷いた。
「私も寂しいです。昨日も今日もとても楽しかったので、余計に」
そう言って少し困ったように笑う。そんなエリーを見て、シェルは微笑んだ。
「エリー」
「はい?」
「手、出せ」
「はい……?」
不思議そうにしながら、エリーは素直に言われた通りにした。
すると、シェルはエリーの手の上に何かを乗せる。
それは、ガラスで出来た妖精の置物だった。
「わぁ……」
エリーが感嘆の声をあげた。水色のような、橙色のような、心が浄化されるような綺麗なガラスの妖精だ。
「気に入ったか?」
「はいっ!」
「へへ、よかった」
「これ、シェルが?」
「おう」
得意気に胸を張るシェルにエリーは笑みを零す。
「ありがとうございます」
「火炎の陣の思い出と、今日のお礼に」
「……今日のお礼は、こちらこそですよ」
そう言って笑うエリー。
「次にお会いできた時に、お礼をさせてください」
「お礼なんかいいんだけどよ。まぁ楽しみにしとくわ」
へへ、と笑うシェル。エリーもまた嬉しそうに笑った。
「じゃあオレは帰るな。明日は見送り行けねぇけど、気を付けて帰れよ」
「はい。ありがとうございます」
「じゃあまたな」
「はい、また」
そう言って立ち去るシェルの姿を見送る。ガラスで出来た妖精を胸に抱いて、エリーは宿に入った。
「あら、おかえり」
「アンナさん」
「……おかえり」
「おかえりー」
部屋に戻るとそこにはウィリアムとアンナとダニエルが集合していた。
「どこ行ってたの?」
「シェルに街を案内してもらっていました」
「あら、やるわねあいつ」
アンナが楽しそうに笑って言う。
「もらったのか?」
ウィリアムの隣に座ると、手元を見て尋ねられる。
「はい」
「……よかったな」
「はい!」
嬉しそうに笑い、エリーは妖精に優しく触れた。なんだかリヒトに似ている気がする。興味津々でガラスの妖精の周りを飛び回るリヒトを見て、エリーはそう思った。
第十二話「帰り道」
駅に辿り着くと、エリーとウィリアムはアンナとダニエルと向き合った。
「じゃあ、私達はここまでね」
「どうもありがとうございました」
「いえいえ。楽しかった?」
「はい!」
アンナとダニエルはどこかへ行く用事があるらしく、ここでお別れだ。笑顔で手を振るアンナと微笑むダニエルに見送られながら、エリーとウィリアムは列車に乗り込んだ。
ウィリアムが大きく欠伸をすると、エリーは首を傾げて見上げる。
「お疲れですか?」
「あぁ」
「風の都に着いたら起こしますよ」
「いい。起きてる」
再び大きな欠伸をしながら言うウィリアム。寝るな、これは。
席に向かい合って座り、列車が動き出す。楽しく過ごした火炎の都が遠ざかっていく景色を見て、エリーの胸に寂しさが募る。
行く時はアンナとダニエルのやり取りで賑やかだったが、帰りは静かだった。エリーもウィリアムも黙って窓の外を見つめている。リヒトも疲れているのか、ぼーっと窓枠に座っている。
すると突然、がこんという音と共に列車が止まった。リヒトが前方に転がり、エリーは不思議そうに列車内を見回す。
鐘の音が列車内に鳴り響き、列車の不具合を知らせる声が聞こえた。
「不具合ですか」
「……そうみたいだな」
ウィリアムが眉間にしわを寄せて頭をおさえる。火炎の陣に間に合うようにウィリアムは小説を書いていたようで、疲れも限界なのだろう。エリーは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ウィリアムさん、眠ってください」
「……大丈夫だ」
「ダメです。眠ってください」
譲らないエリーの口調にウィリアムは意外そうにエリーを見た。そして諦めたようにふっと笑った。
「……わかった」
エリーは安心したように口元に笑みを浮かべ、膝元をぽんぽんと叩いた。
「よろしければ、どうぞ」
「……」
「ウィリアムさん?」
黙り込むウィリアムにエリーは不思議そうに首を傾げる。リヒトはエリーに呆れた視線を送っている。
「……正気か」
「座ったままだと疲れが取れないかと思ったんですが……」
「……」
しばらく二人は無言で見つめ合う。そしてウィリアムは深くため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。エリーの隣に座ると、ウィリアムは再びため息をつく。
「……大丈夫ですか?」
「あぁ」
困ったように頭を掻き、ウィリアムはエリーに視線を送る。
「じゃあ、頼む」
「はいっ」
ウィリアムがエリーの膝に頭を乗せる。すると、数分も経たないうちに寝息が聞こえだす。よほど疲れていたのだろう。
エリーは微笑んで起こさないようにウィリアムの頭をゆっくりと撫でる。リヒトはその光景を羨ましそうに見ていたが、何事もなかったかのように窓の外に目をやる。
がこんと音がして、列車は再び動き出した。
そして風の都に着くまでの間、エリーはぼんやりと窓の外を眺めていた。
第十三話「本」
最近、エリーは思い続けていることがある。それは、この家にやってきてからまだ一度もウィリアムの本を読んだことがないということだ。書斎に勝手に入るわけにもいかないし、やっぱり本人の直接頼むしかないだろうか。しかしウィリアムが素直に本を読ませてくれるはずがない。
「あの、ウィリアムさん」
「……なんだ」
夕飯を一緒に食べている時、エリーは意を決してウィリアムに頼んでみることにした。
「私、ウィリアムさんの書かれた本を読んでみたいです」
エリーの一言にウィリアムは黙り込んだ。食事をする手も止まってしまっている。エリーは期待を込めた目でウィリアムを見つめている。
「……必要ない」
そう言って食事を続けるウィリアム。エリーは予想通りの展開に苦笑して、同じように食事を続ける。時々「本当にダメですか?」「ちょっとだけでも……」と頼んでみるが、ウィリアムが首を縦に振ることはなかった。
エリーはリヒトと共に街に出ていた。いつもならぶらぶらと街を歩いたり泉に行ってリヒトを遊ばせたりしているが、今日のエリーには目的が一つあった。それは、ダニエルの図書館へ行くこと。そして、ウィリアムの本を手に入れることだ。そんな強い想いを胸に、エリーは街の中をずいずい歩いていた。
「あ、エリーちゃん」
「こんにちは、ダニエルさん」
「こんにちは」
にこにこしているダニエルさん。今の時間は図書館の利用者はあまりいないようだ。
「あの、実は、少しお願いしたいことがありまして」
「お願いしたいこと?」
ダニエルがかすかに首を傾げる。エリーはおずおずと言い出した。
「ウィリアムさんの本を、読みたいんです」
「あぁー」
その一言で全てを察したように、ダニエルは反応した。そしておかしそうに笑った。
「まだ読んでいなかったんだね。ウィルに反対された?」
「反対というか……必要ないと言われました」
エリーの言葉にダニエルは再び笑う。
「ウィルらしいねぇ」
しかしダニエルは少し困ったように眉を下げた。
「でも、ごめんね。エリーちゃん」
「えっと、何がでしょう?」
「この図書館には置いてないんだよ。ウィルの本」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。どうしても知人や友人に本を読んで欲しくないみたいでね」
「そんなに嫌なんですか……」
少ししょげたように言い、あからさまに落ち込むエリーの姿にダニエルはふっと笑う。
「でも偶然、僕は彼の本を持っているんだ」
「え……偶然、ですか」
「偶然、です」
ダニエルが楽しそうに笑う。
「でも、友人としては本人が嫌がっているのに本を渡すわけにはいかないなぁ」
「そ、そうですよね……」
またしても落ち込むエリーの姿に、ダニエルは引きとめるように言葉を続けた。
「実はこの後、買い物に出かける用事があるんだよね」
「そうなんですか?」
突然話が変わったことに目を白黒させながらエリーは聞く。ダニエルは相変わらずの笑顔だ。
「うん。エリーちゃん、よかったらお留守番してもらえる?」
「えっと、私で大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。この時間はほとんど人は来ないし、本の貸し借りはわかるよね? カードの内容をここに記すだけ」
「は、はい。頑張ります」
エリーの言葉にダニエルはふっと笑い、ゆっくりと言葉を続けた。
「じゃあよろしくね。買い物に行って、泉の傍にある大きな石の横にウィルの本を偶然落としてしまってから、すぐに帰ってくるよ」
そう言ってダニエルは手を振って去って行った。図書館に残されたエリーとリヒトはぽかんとしてその後ろ姿を見送る。今、泉に本を偶然落とすと言っていた。
「落ちている本なら……中身を確認する必要があるよね。リヒト」
エリーの言葉にリヒトはうんうんと力強く頷く。ダニエルの粋な計らいだ。お言葉に甘えようとエリーは決めて、留守番に徹することにした。
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
「留守番させちゃってごめんね」
ダニエルは本当にすぐ帰ってきた。袋も持っていることから、買い物をする用事があるというのは嘘ではなかったのだろう。
「はい、これお礼」
そう言ってエリーに渡したのはお菓子屋さんのクッキー。リヒトの瞳が強く輝いた。そしてダニエルはわざとらしく焦った声を出した。
「あちゃー、どうやら大切なウィルの本を泉に落としてきてしまったみたいだ」
あまりにわざとらしい言葉に、エリーは思わず笑ってしまう。そして悪戯を思い付いたような顔で提案した。
「私が探して持ってきましょうか」
「それは助かるよ。またエリーちゃんに留守番をさせるわけにはいかないからね」
そう言ってダニエルはウィンクをする。
「じゃあ、行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
全てをわかっているような笑顔でダニエルはエリーを見送った。
エリーはリヒトを連れて泉に向かって歩いていく。泉に着くと、確かに石の傍に見知らぬ本が落ちていた。
その本を拾い、エリーはタイトルを読み上げた。
「『空の散歩』……」
リヒトも本を覗きこんでいる。文字は読めるのだろうか。エリーは興奮に頬を赤らめながら、石の上に腰を下ろした。リヒトもエリーの肩の上に乗っている。しかしエリーは本を開こうとして、動きを止めた。
――本当にこれでいいのだろうか。
普通に売られている本なのだから、こうして偶然読む機会があっても怒ることはないだろう。しかしウィリアムは知人や友人に本を見せようとしないとのことだった。エリーに言われた時も即座に断っていた。それなのに、こうして偶然を装って無理に本を読んで、エリーは楽しめるだろうか。何の罪悪感もなくウィリアムに感想を伝えることはできるだろうか。動きを止めたまま動こうとしないエリーを見て、リヒトは首を傾げる。早く読もうよ、とでも言っているようだ。しかしエリーはページを捲らず、本の表紙を撫でた。
「こんなの、よくないよね」
エリーはウィリアムにちゃんと許可を取ってから読もうと決めた。その思いと共に立ち上がり、エリーは図書館へと戻って行く。
「ダニエルさん」
「あ、エリーちゃん。おかえり」
「あの、ダニエルさん」
「ん?」
ダニエルが優しい表情でエリーを見る。エリーは申し訳なさそうな顔で本を差し出した。
「本、落ちていました」
「おぉ、ありがとう」
そう言って受け取るダニエル。そんなダニエルは、やはり全てを見透かしているような顔だ。
「やっぱり私、ウィリアムさんにお願いしてみようと思います」
エリーの言葉にダニエルは更に目を細めた。
「エリーちゃんなら、そう言うと思ってた」
「え?」
「ちょっと待っててね」
そう言ってダニエルはカウンターから離れ、しばらくしてカップを手に持ちながら帰ってくる。
「カフェオレでも飲んで、少し作戦会議でもしようか」
「あ、ありがとうございます」
そう言ってエリーは椅子に座り、カフェオレを一口飲む。温かくて甘いカフェオレだ。
「普通にお願いしてもウィルは読ませてくれないだろうからね。何か作戦を考えないと」
「作戦、ですか……」
「そう。まずはそうだな……必死にお願いするとか」
ダニエルの言葉にエリーは首を傾げる。頼み方を変えれば、読ませてくれるということだろうか。
「どうしても読みたいって気持ちを伝えれば、エリーちゃんに甘いウィルのことだし、読ませてくれると思うよ」
「そ、そうでしょうか」
「うん。後はそうだな……読ませてくれなきゃもうごはん作らないって言うとか」
「脅しですか!」
「はは、それか逆にウィルに好物を食べさせて機嫌をよくしてから頼むとか」
「あ、それはいいかも知れません」
ダニエルの案にエリーは顔を輝かせる。自分だけ本を読んで満足するのではなく、ウィリアムのことも喜ばせたいと思っているのだ。
「でも、ウィリアムさんの好物って何ですか?」
今まで色々な料理を作ってきたが、ウィリアムは何も言わずに淡々と食べてしまう。表情を見ていても気に入ったものや苦手なものはなさそうに思えた。
「ウィルの好物はね……辛いものだよ」
「辛い、もの」
初耳だ。しかしダニエルがそう言うのならそうなのだろう。なにせ、二人は信頼し合っている幼なじみなのだ。
「その作戦でいこうと思います」
そう言ってエリーはぎゅっと拳を握る。ダニエルも真似して笑顔で対応する。
「うん。頑張ってね」
「じゃあ、私買い物をしてから帰るのでそろそろ行きますね。お話を聞いてくれただけでなく、美味しいカフェオレもいただいて、どうもありがとうございました」
「いえいえ。また来てね」
「もちろんです!」
「……ウィルが本読ませてくれなかったら、ごめんね」
意味深な言い方をするダニエルにエリーは首を傾げる。
「読ませてくれなくてもダニエルさんのせいじゃないですよ」
「はは、そうだといいな」
そう言ってダニエルはいつも通りの笑顔でエリーを見送った。
買い物を済ませ、エリーは家で辛い料理を作っていた。本日の夕食は辛い物パラダイスだ。エリー自身は辛いものが苦手なため、ウィリアムの分だけ辛くしていく。味見をしてみようとしても、辛いため美味しいのかわからない。きっと大丈夫、と自分に言い聞かせてエリーは料理を作っていく。ウィリアムの分だけ、どの料理も赤く染まっていった。
階段を下りる音が聞こえ、エリーは振り返った。ウィリアムだ。今まで部屋に引きこもっていたのだろう。その姿を見つけると、エリーは輝くような笑顔でウィリアムを出迎えた。ウィリアムはどことなくエリーの勢いに圧倒されているようだ。
「……帰っていたのか」
「はい!」
料理の並んでいる前にウィリアムを座らせ、エリーも席についた。
「今日はウィリアムさんの好きなものをたくさん作ってみたんです」
「好きなもの?」
「はい!」
得意気に言うエリーにウィリアムはわずかに眉を顰める。
「……好きなものって、なんだ」
「辛いもの、です!」
その瞬間、ウィリアムの動きは止まった。エリーは不思議そうにその様子を見つめる。
「あれ……違いました?」
「誰から、聞いたんだ」
「ダニエルさんですけど……」
不安そうに眉を下げるエリー。ウィリアムは一度咳払いをして、フォークを手に取った。
「……嫌いでは、ない」
そう言って次々と料理を食べていく。その光景にエリーは嬉しくなって、共に夕食を堪能した。
一日中引きこもっていた疲れからか、それとも別の理由があるのか、ウィリアムは少し頭を押さえて水を飲んでいた。
「あの、ウィリアムさん」
そんなウィリアムにエリーはおずおずと切り出す。しかし言葉の続きを待たずに、ウィリアムは無言で部屋を出て行った。何か怒らせるようなことをしてしまっただろうか、とエリーの顔が青ざめる。しかしウィリアムはすぐに帰ってきた。そうしてテーブルの上に置かれたのは、一冊の本だ。
「……あ、あの、これって」
「俺の書いた本だ」
「え、でも、必要ないって」
「どうせあの手この手で読もうとするだろう、お前は」
全てをわかっているような言い方をして、ウィリアムはため息をつく。エリーは胸の高鳴りを感じて、その本を手に取った。
「『妖精と少女』……」
「……変、か」
「え、何がですか?」
エリーの言葉にウィリアムはわずかに微笑みながら首を横に振った。それにしても顔色があまりよくないのは、気のせいだろうか。
「……いつも家事を任せているから、その礼だ」
「……はい! ありがとうございます」
ウィリアムの言葉にエリーが笑顔で返答する。その勢いにウィリアムは再び眉を顰めると、今一度水を飲みにキッチンへ向かった。
タイトルからしてきっとファンタジー物なのだろう。エリーはリヒトと共に読もうと決めて、大切そうに本を胸に抱いた。
第十四話「猫と不思議」
エリーはいつものように街を歩いていた。夕食や次の日の昼食の買い出しだ。ちなみにリヒトは連れていない。最近は街へ出てもリヒトは泉に直行することが度々あり、エリーはリヒトが遊んでいる間に買い物を済ませることが多かった。リヒトが一緒にいないのは確かに少し寂しかったが、エリーは風の都ヴィルベルの街を歩くのは嫌いではない。むしろたくさんの人と話をしたり、見たことのない風景を発見するのは好きなのだ。そうしてエリーはいつものように、いつもの店へと向かって行った。
鈴の音がしたのは、その時だった。小さな音のようだったが、その音ははっきりとエリーの耳に響いていた。思わず足を止めて辺りを見回す。今の鈴の音は一体何なのだろう。音の出どころを探していると、エリーの瞳が一ヵ所で止まった。そこには、真っ白な毛並みの猫がいた。首に鈴がついている。間違いない、あの猫の音だ。エリーは思わずその猫を追いかけた。同じように立ち止まっていた猫はそんなエリーに見向きもせず歩いていく。少しくらい寄り道しても大丈夫だ、とエリーはその猫を追いかけることにした。
猫の速さはそれほど早くない。完全に追いつくこともできないが、姿を見失うこともない。何となくリヒトと出会った時のことを思い出しながら、エリーは足を止めずについていく。
どことなく楽しい気持ちで猫についていっていたが、ふとエリーは足を止めてしまった。
――静か過ぎる。
エリーは周りを見渡す。見知った街であることに間違いはないが、人の気配が全くないのだ。人気がなくなるような時間帯ではないはず。エリーは少し不安に思いながら、再び足を動かした。猫の姿が遠くなってしまっていたからだ。わずかに早足になりながら、エリーは猫の姿を追う。しかしやはり街に人の姿はない。完全に音がなくなっているわけではない。鳥の鳴き声もするし、自分の足音も聞こえる。ただ、人がいなくなってしまっているのだ。
「あれ」
猫の姿がない。街の様子に気を取られている間にどこかへ行ってしまったのだろう。なんだか不安になりながらエリーは帰ろうと振り返った。しかしそこに広がる街は、エリーの知っている街ではなかった。
「……どこ?」
リヒトの時と同様に迷子になってしまったのだろうか。しかし先程までは確かに知っている街を歩いていた。人の気配はなくなってしまっていたが、確かにエリーの知っている街だったのだ。猫の姿も見失ってしまい、リヒトも今は傍にいない。エリーは心に不安が募っていくのを感じながら、歩き出した。歩いていれば知った道に出るだろう。もう何度もエリーはこの街を歩いている。今や知らない道なんてないと思っていたほどだ。しかし今は全く知らない道を歩いている。不思議に思いながら、エリーは歩き続けた。
どれほどの時間が経っているのだろう。エリーはただただ歩いていた。そもそもどうしてこんな所にいるのだろう。エリーは何をしにここまで来たのだろう。ぼーっと知らない街を歩きながら、そんなことを考えていく。
「……あれ」
力のない声を出す。エリーは先程よりも不思議そうに辺りを見ながら街を歩いていた。ここは一体どこなのだろう。そして。
――自分は一体、誰なのだろう。
亜麻色の髪をした少女はまるで今初めて自分の存在に気が付いたように、自分の手を見つめる。服を見つめる。街を見つめる。まるで夢の中にいるような感覚。足はしっかり地面についているのに、どこかふわふわと浮いているような感覚。不思議そうに何度か足を止めるが、それでも少女は街を歩き続ける。歩かずにはいられないような気さえした。
そうして街を歩いていると、少女はだんだん眠くなるのを感じた。瞼が重い。しかし今いる場所は街で、周りには座れそうな所も寝れそうな所もない。少女は眠気と戦いながら歩き続ける。
しばらく歩いていると、ようやく少女は一つの変化に辿り着いた。まだ少し遠いが、前方に人影が見える。もやもやしていて姿はよく認識できないが、人であることに間違いはないだろう。真っ黒な姿をしているのはどこか気になるが、少女はそんなことを気にする余裕がなくなっていた。今にも寝そうなのだ。だんだんとその人影に近付いていく。どうやらこちらに気付いていないようで、後ろ姿しか見えない。しかしやはりその人影は真っ黒な服を着ていて、美しい街並みに合っていないような気がする。その人に話しかけたら、全ては終わる気がした。少女は眠そうな蜂蜜色の瞳で、その人影をじっと見ながら歩いていく。あと少し。近くまでやってくると、その人影はゆっくりとこちらを向いた。
鈴の音がしたのは、その時だった。エリーはハッとしたように音のした方向を見た。音がしたのは、自分の真後ろだったのだ。そこには追いかけてきた真っ白な綺麗な猫の姿があった。こちらをじっと見ていたその猫は、何事もなかったかのようにエリーに背を向けて歩き出す。エリーはつられるようにしてその猫の姿を追いかけた。
歩いていくうちに、音が蘇ってくる。人の声がするのだ。思わず猫から目を離して顔を上げる。エリーの見知った街や人々の姿が見えた。いつの間に帰ってきたのだろう。エリーはそんなことを思いながら、再び猫の姿に視線を移す。しかしもうそこに猫の姿はなかった。エリーは少し残念に思いながら、近くにあった目的の店で買い物をした。何か色々忘れていた気がするが、何を買おうとしていたのかはしっかりと覚えているようだ。
買い物を済ませ、リヒトを迎えに行き、エリーは家へと帰って行く。もうあの白い猫の姿を見ることはなかった。なんだか不思議な経験をしたな、と思いながら、エリーは玄関の扉を開ける。
鈴の音が聞こえた気がした。
第十五話「恋心」
朝の早い時間に、突然呼び鈴が鳴った。薄い水色のワンピースに、胸元に伸びる亜麻色の髪を高い位置に結ぶ。そんな身支度を済ませ、朝食を用意していたエリーは不思議そうに玄関を見る。扉を開けると、勢いよく肩を掴まれた。
「エリー! 助けてくれ!」
あまりの勢いにエリーは驚き、その声の主を唖然と見た。エリーの肩を掴んで涙目になっているのは、シェルだ。一体何があったのだろう。エリーはとりあえず冷静にシェルを家に上げることにした。
「あ、悪い」
コトン、とシェルの前にカフェオレの入ったカップを置く。向き合うようにして座り、エリーはカフェオレを一口飲んだ。
「……それで、どうなさったんですか?」
エリーが切りだすと、眉間にしわを寄せてカフェオレを睨んでいたシェルがびくっとした。そして顔を赤くしたり青くしたりと、突然百面相を始める。エリーは不思議そうにその光景を眺めた。
「あの、実は、だな」
言いづらそうにシェルが口を開く。なんだかそわそわしているその様子に、エリーは促すようにして問いかけた。
「サラさんのことですよね?」
「なっ」
驚いた様子のシェル。シェルの様子がおかしくなるとしたら間違いなくサラ関係のことだろうと、エリーは確信していた。そしてその確信は当たっていたようで、シェルはしばらく視線を泳がすと、観念したようにうなだれた。
「……おう」
やっぱり、とエリーは苦笑し、カフェオレを再び口に運んだ。
「……実はな、あのな、オレな、デ、デートを、だな」
「デート?」
「い、いや、デートっていうか、で、出かけるだけなんだけどさ、あの」
シェルが頭部を掻きむしり、辛そうに顔を歪める。
「明日……出かけるんだよ。二人で」
「デートですね」
「で、デート……ですかね」
顔を赤くして呟くように繰り返すシェル。エリーはにんまりと笑顔を浮かべた。
「でも、今までもお二人で出かけることくらい、あるものだと思っていました」
「二人だけっつーのはなかったんだ。サラの用事にオレが勝手についていくことはあったけどよ」
そう言ってシェルはぐいっとカフェオレを一気に飲み干す。カフェオレを一気飲みする人を見るのは初めてだ。
「それで、私は何をすればよいのでしょう?」
「協力、して欲しいんだ」
「協力?」
「そ、その、行く場所とか、服装とか、そういうの」
シェルが言いづらそうに視線を逸らして言う。なんだか楽しくなってきた。エリーはにこにこしている。
「女ってあるだろ、多分、その、希望っつーか、理想っつーか」
「アンナさんの方が詳しそうな気がしますが」
「あいつに言ったら一生言われ続けるだろ!」
シェルが慌てたように言う。確かに、からかわれる要素を自ら提供するようなものだ。
「ふふ、わかりました。できる限りのことはさせていただきます!」
「お、お前、意外とすっげぇ乗り気だな……」
エリーの勢いに今度はシェルがたじろぐ。しかしエリーも女の子だ。恋バナというものには興味がある。それに、こうして頼られたからには絶対に成功させたいとエリーは思ったのだ。
「それでは、まずはプランを練らなくてはなりませんね」
「お、おう」
「でもここにいてはウィリアムさんのお仕事の邪魔をしてしまうかも知れないので、外でもよろしいですか?」
「あぁ、オレは別にどこでもいいぜ」
「それでは、準備を済ませるので少し待っていてくださいね」
そう言ってエリーは昼食の用意もしておくことにした。自分たちは外で食べるとして、ウィリアムの分はきちんと用意をしなくてはならない。シェルを待たせてしまうことになったが、昼食の用意を済まし、次にエリーは部屋に戻ってリヒトを迎えに行く。一応クッキーを手渡し、出かける準備をした。
「お待たせしました」
「おう」
「あ、私をサラさんだと思ってデートの練習でもしておきますか?」
「い、いらねぇよそんなの」
エリーの提案にシェルはむすっとして答える。
「やっぱり私では力不足でしょうか」
「そうじゃねぇよ。お前は、エリーだろ」
シェルの言葉にエリーはきょとんとする。そして嬉しそうに笑って、「そうですね」と納得した。
外に出た三人は、あまり人の来ない味のある喫茶店に入る。秘密の話をする時は重宝するのだ。とりあえず珈琲を注文して、二人は作戦会議を開始した。
「それでは、まずは行く場所でしょうか……。時間や待ち合わせ場所は決まっていますか?」
「い、いや、まだ」
心なしか生き生きしている様子のエリーに戸惑うシェルとリヒト。そんな彼らの心情を気にせず、エリーは真剣に思案する。
「そうですね……。サラさんは雑貨店をやっているので、お買い物とかは避けた方がいいかも知れません。せっかくのデートなのですから、お仕事のことよりシェルのことを考えて欲しいですもんね」
「え、いや、えっと」
エリーの言葉にシェルは顔を赤くする。
「サラさんのことはまだあまりよく知りませんが、綺麗なものとかは好きなのでしょうか」
「あー……す、好き、なんじゃねぇの。店に仕入れるものとか、配置とか、全部あいつがやってるし」
少し言いづらそうにしながら答える。その答えに、「うーん」とエリーは考えるようにカップを指でなぞった。
「それでは、水族館とか美術館とかいいかも知れませんね。シェルには向いてなさそうな気もしますが」
「ひでぇな! オレだってそういう場所くらい行くし! むしろガラス作りに置いて、そういう感性は大事なんだからな!」
むきになって言うシェルに、エリーは微笑んだ。
「ふふ、場所は決定でいいですか?」
「おう、任せろ」
「でもそれだけだと物足りないですよね。その後はこういった喫茶店でお茶をするのがいいと思いますよ。いっぱいお話できますし」
「お、おう……そうだな」
少しむず痒いような思いをしながらエリーの話を聞く。
「後はそうですね……サラさんを連れていきたい場所とか、ないですか?」
「うぁっ……あー、おう」
「あるんですね?」
「そりゃ、ま、あな」
歯切れの悪いシェルに、エリーは首を傾げた。
「そんなに言いにくい場所なんですか?」
「いあ、そんなことねーよ。明日、実は、その、夜、流星群があるらしいんだ」
「わぁ……! 流星群!」
「おう。お前んとこからも見えると思うぞ」
「ふふ、見てみます」
夜になったらリヒトと空を眺めていようと思うエリー。
「だから、その、それを見て、オレの新作を、その、贈ろうかな、って」
「新作、ですか?」
「星をモチーフにした、ガラスのペンダントを、作ったんだ」
「準備万全ですね」
「ぐ、偶然だからな。別に、前々から明日のために用意したとか、そのために、頑張って誘ったとか、そんなんじゃねぇからな」
「前々からサラさんと一緒に流星群を見るために頑張っていたんですね」
「……ちげぇって」
簡潔にまとめるエリーの言葉にシェルは顔を赤くして否定する。
「後は、服装ですか?」
「あ、あぁ」
「いつも通りだと特別感ないですもんね。あ、今から買いに行きますか?」
「え、あ、あぁ……かまわねぇけど」
「じゃあそうしましょう!」
そう言ってエリーは勢いよく立ち上がる。その時、頭にピリッと痛みが走った。思わず目を閉じたエリーの頭に浮かんだのは、見知らぬ美術館。楽しそうに絵を見る自分と、隣に誰か。顔はぼやけていてよく見えない。その誰かが、温かい手で自分の頭を撫でた。
「お、おい。エリー?」
「え?」
「大丈夫か?」
目を開けると、そこには心配そうにエリーを見るシェルとリヒトの姿があった。今の情景はなんだったのだろうか。エリーはにっこりと微笑んだ。
「少し眩暈がしただけです。ごめんなさい」
「いや……無事ならいいんだけどよ」
「……行きましょうか」
「おう」
喫茶店を出ると、リヒトがエリーの頭の上に乗る。まだ少し心配そうな表情だが、エリーの笑顔にリヒトも笑みを零す。シェルは翌日のことに緊張しているのか、どこか本調子じゃないようだ。
「以前アンナさんと行ったお店に、男性用の洋服もあったはずです」
「へ、へぇー」
少し挙動不審になりながら歩いていくシェル。今隣を歩いているのは、サラではなくエリーなのだから、今から緊張しなくてもいいはずなのに。なんだか微笑ましく思いながら、エリーは楽しそうに歩いた。
店に着くと、エリーはシェルを案内しながら次から次へと服の提案をしていた。最初はエリーの頭の上でそれを見守っていたリヒトだったが、しばらく経つとうんざりしたように店の外へ出て、店の看板に腰を下ろした。
「ふふ、明日が楽しみですね」
「あ、あぁ」
楽しそうな表情のエリーと、少し疲れたような表情のシェル。手に袋を持ちながら、二人は店を出てきた。リヒトはふわふわとエリーの頭の上に再び身を預ける。空を見上げると、茜色が目に反射した。
「そろそろ帰りますか」
「そうだな」
「あ、一応練習だと思って手でも繋いでおきますか?」
「繋がねぇよ! つーか明日も繋ぐ予定ねぇよ!」
エリーの言葉に顔を赤くして反論するシェル。エリーはくすくすと笑って、歩みを進めた。
次の日の夜。エリーはリヒトを肩に乗せて窓を開け、空を見上げていた。シェルの話によると、今日は流星群。一群の流星が、夜空に輝く日だ。ぼんやりと空を見上げるエリー。シェルのデートのクライマックスでもあるのだ。星が流れないと困るなぁとエリーは思っていた。リヒトも少し心配そうに空を見上げている。リヒトもまた、シェルの味方なのだ。
「あっ」
エリーの声にリヒトは更に顔を上げる。確かに、流れる星が見えた。エリーとリヒトは顔を見合わせ、嬉しそうに笑った。
次から次へと空に流れていく星々。その光景を見ながら、エリーは再び頬を緩ませた。
朝の早い時間に、突然呼び鈴が鳴った。薄い水色のワンピースに、胸元に伸びる亜麻色の髪を高い位置に結ぶ。そんな身支度を済ませ、朝食を用意していたエリーは不思議そうに玄関を見る。扉を開けると、勢いよく肩を掴まれた。
「エリー! 聞いてくれ!」
あまりの勢いにエリーは驚き、そして楽しそうに笑った。
第十六話「絆」
最近、家によくアンナとダニエルが来る。それも、夜にお酒を持ってやってくることが多い。今日もエリーは、アンナとダニエル、そしてウィリアムのためにおつまみを作っていた。中でも人気なものがだし巻き卵とアスパラをベーコンで巻いた物だ。巻き物が好きなのだろう。
ウィリアムがリビングにやってくるのと同時に、呼び鈴が鳴った。エリーは慌てて玄関へ向かう。扉を開けると、そこには予想通りアンナとダニエルの姿があった。
「やっほ、エリー」
「エリーちゃん、こんばんは」
「アンナさん、ダニエルさん。こんばんは」
にっこりと笑って出迎える。二人は両手に袋を持っていた。中はもちろん酒だろう。アンナとダニエルは扉を閉め、家に上がる。
「もう少しで出来るので座っていてください」
そう言って、エリーは急いでおつまみを仕上げる。三人の挨拶を交わす声がリビングから聞こえてくる。ちなみに、リヒトは部屋でお留守番だ。
「お待たせしました」
「おぉー」
エリーがテーブルにお皿を置くと、アンナが嬉しそうに歓声を上げた。ダニエルもにこにこしていて、ウィリアムは……すごくわかりにくいが、機嫌はいいだろう。おそらく。
「何かリクエストがありましたらおっしゃってくださいね」
「さっすがエリー」
アンナがエリーをぎゅっと抱きしめる。エリーは少し照れたように笑った。
「エリーもお酒飲もうよ」
「い、いえ。遠慮しておきます」
酒に弱いというわけではないが、エリーは酒の味があまり好きではなかった。「そう?」と残念そうに言うアンナ。エリーはテーブルの端の方にひっそりと腰掛けた。
「ウィル、締切間に合ったの?」
「……」
アンナの問いに嫌そうな顔をするウィリアム。ちょうど今、行き詰っているところなのだ。
「今回もメルヘンな話書いてるの?」
「あぁ」
「だったら泉に行くのはどう? 妖精がいるって聞いたことあるわよ」
「でも妖精って純粋な人にしか見えないって聞いたよ?」
「あら、じゃあウィルには見えないわね」
「おい」
ウィリアムは話を終わらせようにぐいっと酒を口に運ぶ。友人や知人に作品のことを言われるのはやはり苦手らしい。ダニエルは苦笑して、酒に手を伸ばした。
「まぁまぁ、仕事の話はなしにしよう」
「それもそうね」
「あぁ」
美味しそうにおつまみを食べながら、アンナはどんどん酒を飲んでいく。しかしアンナだけではない。ダニエルとウィリアムも、酒はかなり飲む方なのだ。最近になってそれを知ったエリーだが、その量には毎回驚かされている。
「サラがこの場にいたらなぁ」
「仕方ないよ。サラはもう火炎の都の住人なんだから」
「ずっとこっちで暮らしてくれればいいのに」
「……そういうわけにはいかない」
「むぅ」
「サラがまた引っ越してきたら、きっとシェルが悲しむよ」
「そうなっちゃえばいいのよ。意気地なしなんだもの」
「まぁまぁ、彼も頑張ってるよ。多分ね」
三人の話をにこにこと聞いているエリー。話している内容が分からないわけではないのに、ほのかに虚しさを感じてしまう。それほど三人の空気感は完成されているような気がする。
しばらく会話を聞いていたエリーは静かに席を立ち、追加のおつまみをキッチンに用意しておき、部屋へと戻った。ベッドでくつろぐリヒトの姿を見つけ、エリーは微かに微笑んだ。エリーに気が付いたリヒトは顔を上げて、首を傾げる。
「ただいま」
エリーがそう言うと、リヒトはふわふわとエリーの傍へ飛んで行く。エリーの周りを何周か飛び回り、やがて少し心配そうな表情でエリーの頬に手を当てた。
「大丈夫だよ」
にっこり微笑んで言うと、リヒトも眉を下げて微笑む。エリーはそのままベッドへ向かい、ごろんと寝転がった。
「……わかってたけど」
エリーは誰に言うでもなく呟く。
「勝手に家族のようなつもりでいたみたい」
リヒトが心配そうにエリーの顔を覗く。そんなリヒトに向かって、エリーは微笑んでみせた。
「過ごした時間の長さには、敵わないよ」
その言葉にリヒトは一生懸命首を横に振る。エリーは笑って、ベッドから起き上がった。
「ふふ、リヒトは私の家族になってくれる?」
エリーの問いに、リヒトはキリッとした表情で首を今度は縦に振った。いつもリヒトは、エリーの心を癒してくれる。
「暗くなってたらいけないよね。明日は街に出てお菓子屋さんにでも行こうか」
その言葉にぱっと瞳を輝かせるリヒト。エリーは楽しそうに笑って、リヒトの頭を指先で撫でた。
――でも所詮、私は記憶も名前もない赤の他人だ。
心の奥のもやもやに気付かないふりをして、エリーは明日着ていく服をリヒトと共に決め始めた。
第十七話「迷子の人形」
エリーはお菓子屋へと向かっていた。当然頭の上にはリヒトを乗せている。最近よく見る、風の都ヴィルベルでの光景だ。
「エリーちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
街でもよく声を掛けられるようになった。街の一員として認められたようで、なんだか嬉しい。エリーはにやにやしながら街を歩いていく。リヒトもまた、嬉しそうににやにやしている。リヒトの場合、お菓子屋に行くのが嬉しいだけかも知れないが。
「エリーちゃん、いらっしゃい」
「こんにちは」
「いつもありがとうね」
「いえ、こちらこそ。いつも美味しいお菓子をありがとうございます!」
お菓子屋に着くと、いつもの女性の店員がにこやかに出迎えてくれた。挨拶を済ませ、エリーはこじんまりとした店内をふらふら歩く。リヒトは先程から興奮を隠せないようで、今にもよだれが出そうだ。妖精は皆、菓子を好むのだろうか。エリーは今度泉にも持って行ってみようと決めた。
「どれがいい?」
小声でリヒトに聞くと、リヒトはいくつかのお菓子の上でふわふわと飛び回る。まだ悩んでいるようだ。そして懇願するような切ない表情でエリーを見つめる。しかしエリーは首を振った。
「全部はダメだよ」
リヒトは悲しそうな顔をして、お菓子の厳選作業に入った。これはしばらくかかりそうだ。エリーは店内をぐるぐる回って、リヒトの決断を待つことにした。
「ありがとうございました」
店員に見送られ、エリーはお菓子屋を後にする。リヒトは嬉しそうに飛んでいる。エリーの持つ袋には三種類のクッキーにカップケーキ、そしてドーナツが入っている。これでも厳選した方だと言わんばかりのリヒトの表情には納得がいかない。
まぁいいかとエリーはぶらぶらと街を歩く。このまま真っ直ぐ帰るのもなんだかもったいないため、泉にでも寄ろうか。そんなことを考えている。
「リヒト、泉行きたい?」
エリーの言葉にリヒトは機嫌よく頷く。わかりやすい奴だ。
泉に辿り着いたエリーとリヒトは、見慣れない人影を見つけた。少女だ。白菫色のふわふわの長い髪に、黒いリボン。黒地に白いフリルとリボンのドレスを着ていて、スカート部分が大きく広がっている。儚げに整った顔立ち。身長は子供のようだが、顔はどことなく大人びて見える。
声を掛けることもできず、エリーはその少女の姿に見とれていた。泉をじっと見つめていたその少女は、ゆっくりとエリーの方を向く。表情の読み取れない顔で、じっとエリーを見つめた。
「あ、あの……?」
エリーはハッとして声を掛けた。泉で誰かに出会うのは、シェルに初めて会った時以来だ。リヒトも不思議そうに少女を見ている。
「貴様は誰だ」
その小さな口から綺麗な凛とした声が発せられた。しかし予想外の言葉遣いに、エリーの返答は遅れてしまう。
「……あ、えっと、エリー……です」
「エリーというのだな。美しい名だ」
「ありがとうございます……?」
エリーは困ったようにお礼を言う。正体不明の少女の登場に完全に動揺していた。
「私はリートだ。よろしく頼む」
「は、はい! よろしくお願いします!」
わけの分からないまま自己紹介をし合う。戸惑っていると、リートは立ち上がって、エリーの傍までやってきた。
「時にエリー」
「は、はい」
「ここで会ったのも何かの縁だろう。頼みを聞いてくれないか」
「頼み……ですか?」
エリーは不思議そうに首を傾げてリートを見下ろす。本当に子供のように小柄だ。リヒトと顔を見合わせると、リヒトもまた首を傾げていた。
「あぁ」
「私にできることでしたら……」
「実は行きたい所があるのだが、この森を抜け出せなくてな。案内を頼みたい」
「案内、ですか。もちろんいいですよ」
「助かる」
「ふふ、こちらへどうぞ」
リートを連れて、エリーは来たばかりの泉を去る。最初は驚いて戸惑ってしまったが、可愛らしい少女の案内ができるのはエリーも嬉しい。
森を抜けると、リートはお礼を言って立ち去った。その後ろ姿を名残惜し気に見つめ、エリーは気を取り直して再び泉に向かった。
「えぇっ」
思わず声が出た。泉に辿り着くと、そこにはリートの姿があったのだ。泉の傍でぼーっと立ちすくんでいる。
「また会ったな。先程は助かった。感謝する」
「い、いえ……それはいいんですが、何故またここに?」
「森を抜け出せなくなってな」
「さっき街に出たばかりですよね……?」
「私も困っているのだ」
表情を変えないリートは全く困ってなさそうだ。エリーは苦笑して、帰り道を指した。
「よろしければ、目的地まで案内しましょうか」
「本当か。助かる」
そうしてエリーは再びリートと泉を去ることになった。生粋の方向音痴とはこのことかとエリーは実感した。
再び街へ出向くと、エリーは改めてリートに向き直る。リヒトはエリーの頭の上で様子を伺っている。
「どこのお店へ行きたいんですか?」
「菓子屋だ」
リートの言葉にリヒトの瞳が輝く。それがわかったのか、エリーは苦笑した。
「ちょうどさっき行ってきたばかりなんですよ。こちらです」
リートを先程まで買い物をしていた店へと案内する。歩幅が違うようで、エリーはリートに合わせるようにゆっくり歩いた。
「こちらのお店です」
「そうか」
そう言ってリートは「少し待っていてくれ」と言って店内へと入っていった。中に入りたそうにエリーを見つめるリヒト。しかしエリーは無慈悲に首を横に振った。絶望したような顔をするリヒトを見て、エリーはくすっと笑った。
「待たせたな」
「あ、いえ……お買い物終わったんですか?」
「買い物をしに来たわけではない。店主に話があったんだ」
「そうだったんですか」
「ああ。本当に助かった。礼を言う」
「ふふ、お力になれたようでよかったです」
エリーがふわりと笑うと、リートはじっと無表情でその顔を見つめた。エリーは不思議そうに首を傾げる。
「どうかされました?」
「ああ……非常に言いにくいのだが」
「なんでしょう」
「実は他にも用事のある店がたくさんあるんだ」
リートの言葉にエリーはきょとんとして、弾けるように笑った。非常に言いにくいと言うから、何事かと思ったのだ。
「私にわかる限りでしたら、いくらでも案内しますよ」
「すまんな。また改めて礼をさせてもらう」
「いえいえ、お気になさらないでください」
そう言って再びエリーはリートと共に歩き出す。人に頼られるのは嬉しいことだな、とエリーはご機嫌で街の案内を始めた。
夕暮れ時、空が徐々に紫のような、桃色のような色に変わっていく時刻。用事を済ませたリートをエリーは最後に駅まで案内した。一日一緒にいたからか、何だか名残惜しい。
「今日はありがとうございました」
「それはこちらの台詞だろう? 本当に助かった。どうもありがとう」
ふわふわの髪を揺らしながら、リートはぺこりと頭を下げた。エリーはその仕草に笑みを返し、ふと思いついたように「あっ」と声を出した。
「リートさん、これ。よかったらもらってください」
そう言ってエリーが差し出したのは、リヒトと共に購入したクッキーの小さな袋。そんなエリーに、リヒトは絶望を隠しきれない表情をした。
「……いいのか」
「もちろんです」
エリーの笑顔に、リートはふっと笑った。その笑みにエリーが感動する間もなく、リートは表情を戻した。
「今日の礼というわけではないが……これをもらってくれないか」
「お手紙、ですか?」
リートが差し出したのは、真っ白な封筒だった。受け取ると、ふわりと花のような匂いがした。
「招待状だ」
「招待状……?」
「ああ。もうすぐ大地の都、レームで祭りが開催されるんだ。是非来て欲しい」
祭り、という言葉にエリーはハッとした。それぞれの都では、毎年祭りが開催されるということを思い出したのだ。
「わぁ……! ありがとうございます!」
リートが街のあちこちを回っていたのは、招待状を送るためだったらしい。エリーはふふっと笑って手紙を大切そうに抱いた。
「また会える日を楽しみにしている」
「私も楽しみです!」
二人の間に和やかな空気が流れる。リヒトは呆然としていた。まだ立ち直っていないようだ。
「姉さま!」
透き通った声が聞こえ、エリーはリートの後ろに目を向けた。そこには、リートと似たような背格好の少女が立っていた。月白のふわふわの髪と、リートとは逆の配色の白地に黒のドレス。こちらもまた愛らしい少女だ。
「姉さま、お迎えに参りました」
「シャールか。ご苦労だったな」
口を半開きにさせながら二人のやりとりを見守るエリー。似た雰囲気の二人の少女は、人とは思えないくらい可愛らしい。
「えっと、あなたは……?」
「あ、わ、私、エリーといいます!」
交わす言葉に既視感を覚える。ふわりと笑う少女は、リートとは違って表情が豊かなようだ。
「エリーさんですね。私はシャールといいます」
丁寧にお辞儀をしながら、どこかのんびりした口調で言うシャール。お辞儀を返しながら、エリーは改めてその愛らしさに目を奪われる。
「私の妹だ」
相変わらずの無表情でそう言うリート。二人は並んでいるが、確かによく似ている。しかしどちらかというとシャールの方が少し背が高いような印象だ。瞳もリートはしっかりしていて、シャールは穏やかそうだ。
「エリーは今日、私を手伝ってくれたんだ」
「そうなんですね。ありがとうございます」
「いえ、そんな、たいしたことはしてません」
「たいしたことですよ。姉さまは気が遠くなる程の方向音痴ですから」
「そこまでじゃないだろう」
「そこまでですよ、姉さま」
二人のやりとりに思わず笑みが零れる。それに気付いて、二人は照れたように顔を見合わせた。
「それでは、そろそろ失礼します」
「世話になったな」
二人の言葉にエリーはにっこりと笑った。ちなみにリヒトはまだ意識をどこかへ飛ばしている。
「またいらしてくださいね」
「ああ、もちろんだ。祭りもよかったら来てくれ」
「はい、もちろんです!」
挨拶を交わし、エリーは二人の姿を見送る。後ろ姿に見とれていると、「あっ」とエリーは声を出した。不思議と全く気付いていなかったが、二人の関節部分は球体になっていたのだ。
第十八話「海の記憶」
カーテンの隙間から朝陽が覗く。エリーは眠そうに目を擦りながら、身体を起こす。枕にはリヒトが気持ちよさそうに眠っている姿。そんなリヒトを起こさないようにして、エリーは窓を開けた。
爽やかな風がエリーの髪をなびかせる。まだ街には人の気配がしない。きっとまだ早い時間なのだろう。しかしエリーは再び寝ようとせず、どこか上の空で着替えた。着たのは、クリーム色のワンピース。後ろの腰のあたりにリボンが付いている。そのワンピースは、エリーが海辺で倒れていた時に着ていたもの、らしい。アンナが言っていた。風の都にやってきてからはまだ一度も着ていなかった。エリーは亜麻色の髪を梳かし、部屋を出た。リヒトは穏やかな表情で眠っている。
ウィリアムもまだ眠っているかも知れない。エリーはなるべく音を立てずに階段を下りる。そして玄関の扉を開け、外へ出た。
暖かい日差しと共に、少し冷たい風が当たる。エリーは玄関を閉め、まだ誰も歩いていない街を進んでいく。
そして辿り着いたのは、海だ。
エリーは静かに海辺に近付いていく。そして足が濡れない程度の所で腰を下ろす。遠くを見つめるように、海の方へ視線を向けている。わずかに顔を歪ませ、エリーは深くため息をついた。
「……少しくらい、思い出せると思ったんだけど」
エリーは記憶が一向に戻らないことを気にしていた。毎日は楽しく充実しているが、いつまでもウィリアムの世話になるわけにはいかない。彼には彼の生活があり、彼には彼の仲間がいる。少しでも記憶が戻れば、自分の家に帰ることができれば。自分自身を取り戻すことが出来れば。その時はまた改めて自分自身としてウィリアムに会いに行きたい。それに、何より。
「私は、エリーじゃない」
とにかく不安だった。自分が何者なのかもわからず、何故海辺に倒れていたのかもわからず、どうしてこの街に来たのかもわからない。街の人はとてもよくしてくれるし、ウィリアムやアンナ達もすごく優しい。しかしエリーはたまに、もやもやとした不安に押しつぶされそうになる時がある。少しだけでも記憶が戻ってくれたら、どんなにいいか。エリーは再び深くため息をついた。
「……おい」
後ろから聞き覚えのある低い声が聞こえた。振り返ると、そこには機嫌の悪そうな顔をしたウィリアムが立っていた。機嫌が悪そうな顔をしているのはいつものことだが。
「ウィリアムさん」
「何をしてるんだ」
「ちょっと海が見たくなって……あ、おはようございます」
「……ああ」
ウィリアムはやる気のなさそうな挨拶を返し、そのままエリーの隣に座る。エリーは不思議そうにウィリアムを見た。
「ウィリアムさんはどうしてこちらに?」
「……海が見たくなってな」
その返答にエリーはくすっと笑った。
「おそろいですね?」
「そうだな」
そして二人の間に静寂が訪れる。二人はぼーっと海を眺めていた。不思議と不安に思っていた気持ちは軽くなった気がする。一人でいるから、悩んでしまうのかも知れない。
「本当は、ちょっと期待してたんです」
話しはじめると、ウィリアムは無言でエリーを一瞥した。
「私の倒れていたという海へ来れば、少しでも記憶が戻るんじゃないかって」
「……そうか」
「でも、ダメでした」
そう言ってエリーはふふっと笑った。どこか儚げな笑みだ。そしてまた沈黙が続く。
「……この海は、綺麗だ」
次に口を開いたのは、ウィリアムだ。エリーは意外そうにウィリアムの顔を見つめる。
「筆が進まない時はいつもここに来る」
「そうなんですか」
「ああ。お前を見つけた時も、そんな時だった」
そして喉が詰まったように、ごほんと咳払いをする。
「……妖精に会えたのかと、思った」
「え?」
「いや、ちょうど、妖精の、妖精の話を書いていたんだ。その時」
驚いたような顔をするエリーと一瞬目が合う。しかしウィリアムがすぐにまた海へ視線を移した。
「……すまない。今のは忘れてくれ」
その言葉にエリーはふふっと笑った。先程とは違い、嬉しそうな笑みだ。頬もかすかに桃色に染まっている。
「無理はするな。記憶がないのは不安かも知れないが……今はここでの生活を楽しめばいい」
そしてウィリアムはエリーに目を向けた。ずっとウィリアムを見ていたエリーと、目が合う。
「……それじゃあ、ダメか」
どこか不安そうに揺れるウィリアムの瞳に、エリーは首を振った。
「ダメじゃないです」
そう言って笑顔を見せると、ウィリアムはほっとしたように頬を緩ませた。最初はウィリアムの表情を読むことができなかったエリーだったが、最近はわかるようになってきた。と、エリーは思っている。
「……お前は、笑顔が一番似合う」
そう言ってウィリアムは優しく微笑んだ。見つめられたエリーは徐々に顔が熱くなる。それを振り払うように、エリーは立ち上がった。
「そろそろ帰りましょう!」
ウィリアムは少し驚いたようにエリーを見上げ、同じように立ち上がった。二人で海を横目に家へと帰っていく。エリーは深く息を吸った。
「……よろしければ、朝ごはん一緒に食べませんか?」
様子を伺うように聞いてみると、ウィリアムは頷いた。夕食は一緒に食べることが多くなってきたが、朝と昼は基本的に別々だ。エリーは嬉しくなって、楽しそうに微笑んだ。
第十九話「人形の街」
大地の都に到着すると、自然の香りで胸がいっぱいになった。見渡す限りの木々。大地の都レームは、森の中だった。森に囲まれた都は、風や火炎の都と比べると小さいような気がした。しかしその優しい雰囲気に、エリーは興奮したように目を輝かせる。その頭上に乗るリヒトもまた、同じ表情をしている。そんなエリーを見たアンナが豪快に笑った。
「エリー、嬉しそうね」
「まったく、ガキだなぁ」
そんなことを言うのはシェルだ。それに対してにっこりと口を開くダニエル。
「そういうシェルも、いつも大地に都に着くとそわそわするよね」
「そ、そんなことねぇし!」
むきになるシェル。その光景を無言で眺めているのはサラ。そして、ウィリアムもまた、一緒に来ている。大集合だ。
「ウィリアムさん、楽しみですね」
「ああ。そうだな」
いつもよりテンポよく返ってくる言葉。エリーは不思議そうにウィリアムを見つめた。そんなエリーに気が付き、ウィリアムは目を細める。
「どうした?」
「い、いえ。なんでもないです」
ウィリアムの様子がどこかおかしい。しかしきっと気のせいだと思い、エリーは皆と共に森の中を歩き出した。
明日は大地の都の祭りである森のお茶会が開催される。エリー達はそのために集合してやって来ていた。前回同様、宿に泊まる予定だ。今日はサラとシェルも一緒に来ている。宿も当然一緒だ。森の中を少し歩くと、様々な建物が見えてきた。どうやらそこが街のようだ。一番手前にある大きな木造の建物。その玄関前に、見知った顔が見えた。
「よく来たな」
宿の前、凛とした声でそう言ったのはリートだ。隣には穏やかな笑みを浮かべたシャールもいる。相変わらずの美しさに、エリーは嬉しそうに駆け寄った。
「リートさん、お誘いいただきありがとうございました」
「ああ。待っていたぞ」
「エリーさん、お久しぶりです」
「こんにちは、シャールさん」
和やかに挨拶を交わす。アンナ達もそれぞれリート達と交流があったりなかったりしているようで、各々で挨拶をしている。
「準備できたぞー」
扉が開き、声が掛かる。扉から出てきたのは、涅色の髪をした小柄な男の子だった。幼い顔をしていて、身長はシェルよりも低い。しかしどこか頼りになるような雰囲気のある、不思議な男の子だ。
「カイ兄!」
「おー、シェル」
シェルが嬉しそうに近寄り、カイと呼ばれた少年が優しくシェルの頭を撫でる。見た目はカイの方が幼く見えるため、どこか違和感のある光景だ。不思議そうにしているエリーに気が付いたのか、アンナがこっそりと耳打ちする。
「カイくんはね、私達の中で最年長なのよ」
「え、そうなんですか?」
「彼は小人族だからね。見た目は幼いけど、立派なこの宿の経営者なんだ」
聞こえていたのか、隣でダニエルがそう補足する。エリーは目を丸くしてカイを見つめる。一通り皆との挨拶を終えたのか、カイはエリーに優しく微笑んだ。
「こんにちは。君がエリー?」
「は、はい。そうです」
「自己紹介が遅くなってごめんな。俺はカイ。君たちが泊まるこの宿のオーナーをしてるんだ」
幼い顔立ちなのにどこか貫録が感じられる。エリーは慌てたように返事をした。
「エリーです。よろしくお願い致します!」
「よろしく。この間は、リートが世話になったみたいだな」
「いえ、そんな」
「俺からも礼を言うよ。どうもありがとう」
爽やかな笑みを向けられ、エリーも笑顔を返した。
「こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました」
「……カイ、何故貴様が礼を言うんだ」
「当然だろ?」
リートが口を挟むと、カイは呆れたようにリートに目を向ける。リートは表情を変えず、しかしどこか不服そうに腕を組んでいる。
「カイ様、そろそろお部屋へ……」
今度はシャールが穏やかな口調で口を挟む。カイはシャールを見て、苦笑した。
「すまんすまん。じゃあ部屋に案内するよ」
改めて扉を開けるカイ。その様子を見て、リートが再び口を挟んだ。
「私はもう行く。お前たちはゆっくりしていくといい」
「お前も中でお茶でも飲んでいけばいいだろ」
「明日は祭りだ。のんびりしている程の暇はないだろう」
二人のやり取りに、エリーはこっそりアンナの裾を引っ張る。
「んー? どうしたの」
「カイさんとリートさんって、もしかして恋人同士ですか?」
「やっぱりそう見える?」
「そう見えるってことは、違うんですか?」
「そうね。残念ながら」
肩をすくめて、アンナはエリーの耳元で小さく「カイくんの片思いよ」と言った。その言葉にエリーは嬉しそうに目を輝かせる。そういう類の話は好きだ。リヒトはエリーの様子を見て呆れた表情をしている。
「じゃあ、私はそろそろ行く。あとは頼んだぞ、シャール」
「ええ、姉さま。お任せください」
その言葉にエリーは再び不思議そうな表情をする。近くにいたサラがそんなエリーに目を向けた。
「……シャールは、この宿で働いているの」
「あぁ、そういうことだったんですね」
教えてくれたサラにお礼を言うと、美しい笑みを向けられた。
挨拶を交わし、リートが去っていく。その後ろ姿をエリーが見送っていると、ダニエルに荷物を預けるウィリアムの姿が目に入った。
「俺も行く」
「はいはい。荷物は部屋に置いておくよ」
その光景を見て、エリーは思わず声を掛ける。
「どちらへ行かれるんですか?」
「ちょっと街の方にな」
「……あの」
すぐにでも行ってしまいそうな雰囲気のウィリアムにエリーは不安そうな目をして引きとめる。リヒトは不思議そうにそんなエリーを見下ろしている。一緒に行きたい。しかしわざわざ別行動をしようとしているウィリアムは一人で行動をしたいのかも知れない。エリーは言葉を続けることができなかった。
「……一緒に来るか」
その言葉に顔を上げる。ウィリアムがどこか柔らかい表情でエリーを見つめている。エリーは笑顔で頷いた。
「行きたいです!」
「あら、フローライト家は協調性がないわね」
アンナが呆れたようにそう言い、エリーに手を差し出す。
「あんたの荷物も預かっておくわ」
「ありがとうございます、アンナさん」
荷物を預け、一足早く宿を去るウィリアムの背中を急いで追いかける。いつもと違う場所で、いつもと違う様子のウィリアムと、いつものように並んで歩く。エリーは頬を緩ませながら、隣のウィリアムを見上げる。ウィリアムもどこか楽しそうに目を細めている。
「まずはどこへ参りますか?」
「そうだな……まずは街を一周したい。祭りの準備中とはいえ、神秘的な雰囲気は変わらないはずだ。店も品揃えが他の街と違って、自然で溢れた風情だ。しかしやはり祭りの準備中だからな。入ることができるかどうかはわからないが、雰囲気だけ感じられたら十分だろう。その後は街を囲む森の奥の方へ行ってみようと思っている。様々な動物がそこに住んでいてな……」
饒舌なウィリアムを見て、エリーは目を白黒させる。そしてハッと気が付いた。
「ウィリアムさんは、この都の雰囲気がお好きなんですね」
その言葉に一瞬固まり、ウィリアムはごほん、と咳をする。そして気を取り直すかのように口を開いた。
「……いや、小説の資料にと、思って、な」
「ふふ」
「……笑うな」
エリーの指摘に顔をほのかに赤くさせるウィリアムを見て、エリーは更にくすくすと笑った。
そしてそのまま、夜まで大地の都を見て回った。祭りの準備中だったため立ち入れない場所もあったが、いつもより喋るウィリアムとの散歩はエリーの心を温かくさせた。
第二十話「森のお茶会」
温かい日差しでエリーは目を覚ました。ゆっくり起き上がり、枕元で眠るリヒトの姿を確認する。横を見ると、まだ眠っているアンナと、エリー同様にベッド上で起き上がっているサラの姿。目が合うと、サラは優しく微笑んだ。
「……おはよう」
「おはようございます」
火炎の都の祭りの時は太鼓の音で目を覚ましていたが、今日はそれがない。ベッドから下り、窓を開けてみる。ふわりと森の香りがした。外を見ると、そこには丸い木のテーブルがたくさん。そしてその周りに座る人々に、自由に歩き回っている動物。テーブルの上には、ティーカップやお菓子がたくさん置かれている。
「んー」
アンナの声がして、エリーは窓の外から視線を外した。
「おはよう」
「あ、サラ。おはよう」
「おはようございます」
「エリー、おはよう」
軽く伸びをしながらアンナは起き上がった。そして寝起きとは思えないくらい元気そうに笑った。
「今日は森のお茶会ね。早く着替えて行きましょうか」
「はい!」
すると、サラがクローゼットから三着のワンピースを取り出した。緑を基調としたものと、茶色を基調としたもの。エリーが渡されたのは、白を基調としたワンピースだ。素朴な色合いだが、花が散りばめられていて華やかなデザイン。
「わぁ、素敵ですね」
「そうでしょ? 森の植物を使って作られたんですって」
アンナが楽しそうに笑う。エリーは感心したようにワンピースをじっと見つめる。
「見てないで着替えて。私お腹空いちゃった」
「はい」
着替え終わると、エリーは起きたばかりのリヒトに見せつけるようにくるくる回った。リヒトはぼんやりとそれを見ている。
「エリー、これも」
「はい?」
そう言ってアンナはエリーの頭に何かを乗せる。鏡を見てみると、花の冠を頭に乗せていた。
「似合うわよ」
「わぁ、ありがとうございます!」
にこにこするエリーに、嬉しそうなアンナ。サラも穏やかな表情をしている。
「お祭りっていつもこうしてお洋服が用意されているんですか?」
「まぁね。着たい人だけ予約しておくって感じだけど」
そう言ってアンナは笑う。そんな彼女は耳の上に花を挿していて、緑メインのワンピースを着ている。姿勢よくこちらを見ているサラは、茶色のワンピースに、髪を花の紐で結わえている。皆とても似合っている。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
「はい」
「……うん」
三人が揃って玄関へ向かうと、そこにはウィリアムたちが既に待機していた。エリー達ほどの華やかさはなかったが、やはり素朴な色合いの服を着ている。ウィリアムと目が合い、エリーはふわりと微笑んだ。
「お待たせしました!」
外に出ると、先程窓から見た光景があった。祭りというより、お茶会だ。
「森のお茶会、ですか」
「ああ」
やはりいつもより返事の早いウィリアム。エリーはくすっと笑って、周りをきょろきょろと見回している。
「おはよう」
ふと聞こえた声に、皆は振り返る。そこにはカイとリート、そしてシャールがいた。リートとシャールはエリー達よりも草花が多く施されたドレスを着ていて、とても華やかだ。よく似合っている。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
エリーが声を掛けると、リートがエリーを見上げて挨拶を返す。
「あの、とても、素敵です」
「エリーも似合っているぞ」
淡々とリートがエリーに返す。表情の変化はウィリアムよりも乏しいようだ。
「午後からは音楽の時間がございますので、お相手を見つけておいてくださいね」
「音楽の時間……?」
シャールの言葉にエリーは首を傾げる。近くにいたリートが、口を開く。
「舞踏会のようなものだ。男女ペアになって、踊る」
「そうそう。午前中はたっぷり食べて、午後はたっぷり踊るのよ」
アンナがエリーに抱き着きながら楽しそうにそう言って、続ける。
「もちろん、午後もケーキを食べたり紅茶を飲んだりしてもいいわよ」
「森の動物と戯れてもいいし、踊ってもいい。自由を楽しむのが、森のお茶会だ」
アンナとリートの言葉にエリーは頷いて笑う。聞いただけでなんだか素敵な祭りだとエリーは感じた。ちなみにリヒトは既にテーブルの上でお菓子を食べている。
リート達が去ると、アンナはにかっと笑ってウィリアムの肩を叩いた。
「ウィル。エリーは任せたわよ」
「ああ」
迷わず頷くウィリアムに、エリーはきょとんとする。何を任せるのだろう。
「何を不思議そうにしてんのよ。ダンスのペアのことよ」
「えっと、あの、よろしいんですか……?」
「……俺はお前と踊りたい。嫌だったら断ってもいい」
「いえ、嫌だなんて、そんな」
エリーはあたふたしながら一生懸命言葉を続ける。
「あの、よろしくお願いします」
ほのかに頬を桃色に染めながらエリーはウィリアムを笑顔で見る。表情の乏しいウィリアムの口角もかすかに上がっている。
「決まったんならもういいわね。エリー、サラ、食べるわよ」
楽しそうにそう言ってエリーはアンナに引っ張られる。サラもそれに続く。向かう先はリヒトが既にお菓子をたくさん食べている小さな丸いテーブルだ。お菓子が終わってしまう心配はなさそうだが、それにしてもリヒトは食べ過ぎている。エリーは少し呆れたような視線を送った。
「いきなりお菓子でもいいけど、まずは朝食にしないとね」
アンナはそう言ってサンドイッチに手を伸ばす。エリーも手に取り、口に運んだ。
「美味しいです」
「でしょ? ここの食べ物は絶品なのよ」
得意気に笑うアンナに、エリーは尋ねる。
「あの、アンナさんとサラさんのパートナーは……」
「あぁ、ダンスの? 私はダニーよ」
「……シェル」
当然のように言う二人。しかし二人がダンスに誘ったり誘われたりしている様子は見られなかった。
「もしかして、毎年そうなんですか?」
「まぁね。たまーに変わったりするけど、基本的にはいつも同じよ」
アンナの言葉にエリーは感心して頷く。本当に仲が良いのだ、とエリーは温かい気持ちになる。しかしどこか引っかかる。
「あ、来た来た」
明るいアンナの声にハッとする。エリーはぼーっとサンドイッチを手にしていた。アンナの方へ視線を移すと、そこには大きな鹿がいた。先程までいなかったが、テーブルにも何匹かのリスが現れている。
「森のお茶会の日はね、森の動物たちが街にやってくるのよ」
「そうなんですか!」
エリーは笑顔でそっと近くのリスに手を伸ばす。鼻をひくひくさせながら、リスは近付いてくる。エリーはふと思い立ち、サンドイッチの一部をリスに差し出す。サッと素早く奪われ、テーブルの端でそれを食べ始めた。
「可愛い」
エリーの言葉にアンナとサラが頷く。リヒトがどこか不機嫌そうなのは、小動物に敵対心を抱いているからだろうか。次々と集まってくる動物たちに、エリーは笑顔で戯れる。森の愉快な仲間たちと共に、エリー達は食事をとることになった。
午後になると、動物たちがそわそわしだした。それを不思議そうに見ていると、今度はお茶会を楽しんでいた人間たちも立ち上がり始める。程なくして、街に聞き覚えのある声が響き渡った。
『まもなく、音楽の時間です。パートナーと共に街の中央にお集まりください』
この穏やかな声は、シャールのものだ。それを聞きながらぼーっとしていると、別のテーブルで食事をしていたはずのダニエルがやってきた。いつもと変わらない笑顔だ。
「アンナ」
「あら、ダニー。遅いわよ」
「それはそれは、失礼致しました。……僕と踊っていただけますか?」
「ふふ、どうしようかしら」
「……アンナ」
「冗談よ。踊りましょう」
そう言ってアンナとダニエルはテーブルの傍を離れていく。それを見つめていると、今度はシェルが現れた。全身から発熱しているかのように顔から首まで、そして手も赤くなっている。
「……サ、サラ」
「……シェル」
「あー、っと、その、オレと、踊ってくだ、さい」
「……」
「……」
「……はい」
「……っ! っしゃ!」
二人もまた、テーブルの傍を離れていく。エリーはなんだか嬉しそうな表情だ。ふとテーブルの上に視線を移すと、リヒトが身だしなみを整えている。それを眺めていると、リヒトはエリーを真っ直ぐに見つめた。そして優雅な仕草でお辞儀をしたかと思えば、今度は小さな手をエリーに差し出した。エリーはにっこり笑って、テーブルの上に手を伸ばそうとした。
「……食事は済んだか」
ふと上から降ってきた低い声に、エリーは顔を上げた。ウィリアムだ。伸ばしかけていた手は、リヒトに届いていない。リヒトは少しむっとしたように腕を組み、そして何事もなかったかのようにエリーの頭に腰を下ろした。ついていくつもりなのだろう。エリーが立ち上がると、ウィリアムはそっと手を差し出した。
「……踊っていただけますか」
「……はい」
エリーが笑顔で手を預けると、ウィリアムはわずかに微笑んでその手に口づけをした。エリーは少し驚いたように小さく声を出す。リヒトはまたしてもむっと唇を尖らせた。
街の中央へ向かうと、既に優雅な音楽と共にたくさんの人が踊っていた。お互い笑顔で手慣れたように踊るダニエルとアンナ。少し緊張した様子のシェルに、そっと微笑んで相手の踊りやすいように動くサラ。カイは小柄さを感じさせないくらい堂々と踊っていて、その相手のシャールはかすかに頬を染めて嬉しそうにしている。リートは優雅に紅茶を飲みながらそれを眺めている。森の動物たちは、まるで祭りの雰囲気を楽しむように街中を歩き回っていた。
雰囲気を壊したくないと思いつつも、エリーはウィリアムに声を掛けた。
「……あの、私、ダンスはよくわからないのですが……」
しかしウィリアムは気にした様子もなく、エリーの手を取り、支えるようにして背中に手を滑らせる。
「大丈夫だ」
根拠のない言葉に、エリーは不安げに眉を下げる。しかしウィリアムはいつも通りの表情だ。
「……お前は、大丈夫だ」
いまだかつて聞いたことのない程に、その言葉は自信に満ちているようだった。その言葉にエリーは力を抜き、手をそっとウィリアムの腕に置いた。わずかに微笑み、そして二人は踊り始める。エリーは全く踊れる気がしていなかったが、音楽に合わせてスムーズに踊ることができている。リヒトもリラックスしたようにエリーの頭の上に居座っていた。
「……大丈夫だろう」
「ふふ、はい」
ウィリアムの言葉にエリーは微笑んだ。きっとウィリアムの動きが良いのだ。エリーは完全にウィリアムに身を任せ、踊っていた。今までのパートナーはきっとすごく幸せだったのだろうな、とエリーはしみじみと思う。
いつもと違う皆の雰囲気。その雰囲気に新たな一面を見つけ、そして更に絆が深められたようだった。
第二十一話「降り注ぐ光」
丸くて温かいパンに、ハムや卵に新鮮なサラダ。傍に置かれたカフェオレは、熱いためまだ飲めない。エリー達は宿の一階で朝食を前に話をしていた。
「エリー、お祭りはどうだった?」
「とっても楽しかったです!」
隣に座るアンナの問いに笑顔で答える。リヒトはエリーの皿の上に置かれたパンをこっそり頬張っている。
「それはよかった。また来るといい」
リートが相変わらずの無表情で言いながら、優雅な仕草でサラダを食べている。その隣のシャールはリートの皿にパンを追加しており、シェルは眠そうな目をしながらも手と口だけが忙しなく動いている。
「これ追加ねー」
カイが楽しそうに食べ物を次々と追加していく。サラはゆっくりと無言で朝食を味わっていて、ダニエルは微笑みながら皆の様子を見守っている。アンナと反対の隣に視線を移す。視線に気が付いたウィリアムが、かすかに目を細めてエリーを見つめた。
「……美味いか」
「はい、すごく美味しいです」
少しはにかみながらエリーが答える。昨日の森のお茶会で、エリーはウィリアムと踊っている。そのため、顔を合わせるのがどこか照れくさい。
朝食を済ませ、エリーはリヒトと共に街をぶらぶらと歩いていた。もう少ししたら、この緑豊かな街を出発しなくてはならない。ウィリアムが朝から名残惜しそうにしていたのを思い出して、思わずくすっと笑ってしまう。
森のお茶会の時にはたくさんいた動物たちの姿が見えない。祭りの時だけだと聞いていたが、どうやら本当のようだ。レームには人形と小人がたくさん住んでいる。祭りの終わった今となると、その姿を多く目にしていた。リートやシャールのような美しい人形たちが街をのんびりと歩いていて、カイのような小人は小さな見た目にそぐわず、やはりどこか貫録のある雰囲気で祭りの片づけをしている。その風景を心に刻みながら歩いていると、後ろから誰かに呼ばれた声がした。
「エリー」
その凛とした美しい声はエリーの好きな声だ。エリーとリヒトが同時に振り返る。
「リートさん」
「先程ぶりだな」
「そうですね」
「確かもうすぐ出発だったな」
「はい……少し寂しいですが」
少し眉を下げながら笑うと、リートもまた少し肩を落としたような気がした。
「祭りの後はいつも寂しくなるな」
「本当ですね」
「お前と出会えて本当によかった」
「そんな、こちらこそですよ」
リートの言葉にエリーは頬を緩める。そう言ってもらえるのはすごく嬉しい。
「親愛の印……という訳ではないが、これを受け取ってくれないか」
そう言ってリートはそっとエリーに贈り物を渡した。それは、草花が綺麗に施された栞だった。エリーとリヒトの目がキラキラと輝く。
「栞……」
「ああ。ウィリアムは確か作家だったろう。ダニエルも確か図書館にいたな」
「おっしゃる通りです」
「だから、本を読む機会も多いと思ってな」
その美しい栞を見つめながら、エリーはリートに尋ねる。
「もしかして、作ってくださったんですか?」
「ああ。気に入らなかったら申し訳ないが」
「気に入らないなんてことありません! とっても素敵です」
そう言ってエリーは栞を大切そうに胸に抱いた。
「……ありがとうございます。大切にさせていただきますね」
その言葉にリートはふっと口角を上げた。
二人で宿に戻ると、既にそこには全員が集合していた。
「お待たせしてしまって申し訳ありません」
「いいのよ、気にしないで」
アンナが楽しそうに笑って、エリーに荷物を渡す。その荷物を抱えて、エリーは改めてリートに向き直る。ここでお別れだ。
「リートさん、ありがとうございました」
「こちらこそ。気が向いたらまた来てくれ」
「はい、ぜひ!」
全員がお互いに挨拶を交わす。シャールとカイもまた、エリーの傍にやってきた。
「エリーさん、レームはいかがでしたか?」
「とても素敵な街でした!」
「はは、即答だな」
「お祭りも楽しかったです。どうもありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ」
「ありがとな」
全員の挨拶が一段落つくと、ウィリアムはエリーに近付く。少し残念そうにしているのは、やはりこの大地の都が好きだからだろうか。
「そろそろ出発ですか?」
「……ああ」
そうして全員で木々の間の道を歩き始める。後ろを振り返ると、リートとシャール、そしてカイが見送ってくれている。手を振ると、三人もまた手を振り返してくれる。ウィリアムは相当都の雰囲気が好きなようで、帰り道の風景も熱心な表情で見回している。
「……楽しかったな」
ぼそっと呟くと、前を飛ぶリヒトが大きく頷きながらエリーを向く。
「エリー」
突然肩を組まれ、まるで歌のように名前を呼ばれる。シェルだ。
「帰り道もお前の好きそうな景色だらけだからな、見逃すなよ」
「はいっ」
そう言って前を向くと、楽しそうな皆の笑顔。そして木々の隙間から差し込む光が、エリー達の進む道を照らしてくれていた。
第二十二話「帝都のお嬢様」
その日のヴィルベルは、いつもより騒がしく感じられた。エリーは朝食を用意してリヒトと共に食べ、ウィリアムに声を掛けてから掃除や洗濯を始めていた。いつも通りの行動だ。午後になると夕飯の買い出しをするため、街に出る。これもいつも通りだ。
しかしいつもと違うのは、街が賑やかだという一点。街を歩く人の数も、いつもより多く感じる。エリーは思わずリヒトと顔を見合わせる。好奇心を抑えられず、エリーは誰かに聞いてみることにした。
「あの、今日、なにかあるのでしょうか」
そう尋ねた相手は、いつも挨拶を交わすお店の夫人。良いタイミングでお店の傍らに立っていたのだ。
「あら、エリーちゃんじゃない」
「こんにちは」
「こんにちは。今日はねぇ、帝都からお嬢様が来てるんだってさ」
「帝都からお嬢様……ですか?」
「そうそう。なんでもこのヴィルベルに新しく店を出すとか出さないとか」
「そうだったんですね」
「ま、気になるなら見に行ってみな。駅の近くだったはずだよ」
「……そうですね、行ってみようと思います。ありがとうございました」
「あいよ。ウィルによろしくね」
「はい!」
エリーはリヒトと一緒に駅の方へ向かうことにした。時間ならまだ大丈夫。買い物は後回しだ。
駅に近付くに連れて、人の数もどんどん多くなっていく。圧倒されながらも、エリーは好奇心を抑えることをしない。帝都のお嬢様。何が何だかよくわからないが、会いに行かなくてはならない気がしていた。といっても、やはりただのエリーの好奇心だろう。
「人多いね」
その言葉にリヒトがこくこくと頷く。必死にエリーの髪にしがみついているため、少し痛い。
「新しい店出すんだって」
「わざわざヴィルベルに?」
「そうみたい」
通り過ぎていく人々の会話を耳に入れながら、エリーは駅へと進んでいく。駅のどこへ行けば会えるのかはわからなかったが、とにかく近くへ行けばわかるだろうとエリーは突き進み続ける。
駅の前に辿り着くと、すぐ傍に初めて見る店が確かに建っていた。白い壁に、茶色い縁の扉。扉の横には大きなガラス窓があり、内装がよく見えるようになっている。たくさんの植物が店の前に置かれていて、先日の森のお茶会を思い出す。どうやら喫茶店のようだ。まだ営業はしていないようだが、道行く人々が視線を向けたり、足を止めたりしている。帝都のお嬢様という人が出すという店を、誰もが気にしているようだ。
「可愛いお店」
少し古めかしい雰囲気を出しながらも上品な外観。大きなガラスから見える内装もまた、ヴィルベルの雰囲気と合っていて寛ぎやすそうな雰囲気だ。
「あら、それは嬉しいわね」
幼い声が傍から聞こえ、エリーは周りをきょろきょろと見回す。
「ここよ」
少しむっとしたような声に、ワンピースをぐっと引っ張られる。どうやらすぐ傍にいたようだ。淡黄の長い髪を二つに結んでいる少女。猫を思わせる大きな目が真っ直ぐにエリーを見つめている。
「……あなたは?」
思わず尋ねると、少女は眉間に皺を寄せて不服そうに腕を組んだ。
「人に名前を尋ねる時は自分から名乗るものではなくって?」
「そ、そうですよね。私はエリーです」
「私はリザよ。あなたの見ていたこの店のオーナなの」
「……あなたが?」
「何よ、文句でもあるっていうの?」
「い、いえ……」
少女、リザの言葉にエリーは狼狽える。帝都のお嬢様というのはこのリザという少女で間違いはなさそうだが、思っていたよりもずっと幼く見える。カイと同じパターンだろうかと考えてみるが、それは考えにくい。
「……あなたの想像している通りの年齢よ。私はまだ学生なの」
少しイラついたようにリザが言う。気分を害してしまったのは明らかだ。エリーは慌てたように謝る。
「ごめんなさい。驚いてしまって」
「いいわよ。いい加減慣れたわ」
そう言って大きくため息をつく。
「大体、お父様もお父様よ。学生のうちから店をやらせるなんて」
突然の愚痴にエリーは困ったように眉を下げる。それに気が付いたのか、リザが気を取り直すように改めて腕を組む。
「ねぇ、あなた。どこかでお会いしたことはないかしら?」
リザが睨むような視線でエリーを見上げる。エリーは更に困ったような顔をしている。リヒトはべーっと舌を出して威嚇した。
「……ない、と思います」
自信無さそうに答えるエリー。それもそうだろう。エリーには記憶がないのだ。まぁいいわ、とリザは気にしてなさそうに髪を揺らした。
「営業は明日からよ。あなたもぜひ来てちょうだい」
「よろしいんですか?」
「当たり前じゃない。私の初めての店がオープンするのよ。街中の人に来てもらわないと困るわ」
楽しそうに言うリザは、年齢相応の笑顔を見せている。エリーも笑顔で答えた。
「それでは、伺わせていただきますね」
「ええ。楽しみにしていて」
そう言ってリザが余裕そうな笑みを浮かべた。
リザと別れ、エリーは夕飯の買い出しをしていた。姿の見えないリヒトはきっとお菓子のある所にでも行っているのだろう。エリーは明日のことを考えながら、にんまりと笑いながら買い物をしていた。
ウィリアムも誘ってみたい。興味はあるだろうか。喫茶店だからお菓子は期待できるはず。リヒトは間違いなく一緒に行くだろう。
そんなことを考えながら、エリーはご機嫌で買い物を続けた。
第二十三話「紅茶の繋がり」
エリーは朝からそわそわしていた。今日から営業開始のリザの店に行く予定なのだ。リヒトもやはりどこかそわそわしている。お菓子に期待しているに違いない。ウィリアムの分だけ朝食を用意し、エリーはいつものように書斎へ声を掛けに行く。
ノックをして、扉をゆっくり開ける。ウィリアムは机の傍に立っていた。今気が付いたようにエリーにゆっくり視線を向け、開けていた引き出しを閉める。
「あの……朝ごはん、用意できました」
「……ああ」
少し残念そうな顔をして、エリーは言葉を続ける。
「それでは、行ってきますね」
「……ああ」
返事を聞いて、エリーは扉を閉める。喫茶店へは昨日の夕飯の時に誘ったのだが、ウィリアムは行けないようなのだ。ウィリアムの仕事が忙しいのはいつものことだったが、よほど追い詰められない限りはエリーに付き合うようになっていた。今回はよほど追い詰められているのだろう。無意識にため息をついて、エリーは出かける準備をする。昨日の時点であれ程注目されていた店だ。きっと朝から並ぶに違いない。そう思い、エリーは早めに行くようにしようと思っていた。
丈の長いワンピースを着て、エリーは髪を横に結ぶ。玄関の扉を開けると、少し肌寒い空気を感じる。森のお茶会の後は、どんどん寒くなっていく。上着をそろそろ買わなくてはならないだろう。アンナを誘ってみようか、とエリーは考える。ヴィルベルにやってきてから、エリーはどんどん積極的になっているような気がした。
駅に近付いていくと、当然のように人が多くなっていく。新たな店に皆興味深々なのだろう。リヒトはすでに涎を垂らしそうな様子でエリーの前をふわふわ飛んでいる。店の前に着くと、そこには既に何人もの人が並んでいた。店は既に営業を開始しているようで、店の中からも外からも賑やかな声が聞こえる。わくわくしながら、エリーも列に加わった。ぼんやりと中の様子の見えるガラスを見る。リザはいるだろうか。そんなことを考えていると、リザの淡黄の髪を見つけた。
店内、カウンターの中でスタッフと話をしている。昨日の笑みとは反対に、深刻そうな顔をしている。そしてふとどこか泣きそうな表情になった。思わず列を抜けてガラスに近付く。
「あいつ、何やってんだよ」
隣から声が聞こえ、エリーは視線を移す。そこには、エリーと同じようにガラス窓から中を覗く少年の姿。もどかしそうな表情をしている。再び店内に視線をやると、リザがこちらを向いた。エリーと目が合い、そして少年の姿を視界に捉える。リザはどこか悲しそうに顔を歪ませ、そして店の奥に入って行ってしまった。
中を見ていた紫苑色の短い髪の少年は、今エリーの姿に気が付いたようにエリーを見る。
「あー、えっと、列はあっちですよ」
そう言って列を指す。エリーは苦笑しながら頷く。
「はい……先程まで並んでいたのですが、リザさんが心配で」
「姉ちゃん、あいつの知り合い?」
きょとんとした様子でエリーに尋ねる。エリーは曖昧に頷く。
「昨日お会いしたばかりですが……」
「そっか。なぁ、あいつ絶対何かあったよな」
一声目の敬語はどこへやら。少年は腕を組みながらうーん、と唸る。
「そうですね。リザさん、なんだか悲しそうでした」
「そう。そうなんだよ」
「ちょっと」
少年と会話をしていると、お店の入り口と反対方向から声が聞こえた。リザの声だ。
「……何してんのよ。早く並びなさいよ」
「リザさん」
「お前、そんなこと言ってる場合かよ」
「何よ」
「何かあったんだろ」
「……だから、何よ」
「おれ達は心配してんだぞ」
その言葉にリザは眉を顰める。
「……心配されたところで、状況が良くなるわけじゃないわ」
少年はリザの言葉に何も言えなくなる。二人の間に険悪な空気が流れる。エリーはリヒトと顔を見合わせ、そしてリザの方を向いた。
「……リザさん」
エリーの声に、リザはバツの悪そうな顔をする。
「……悪かったわね。今日はちょっと……バタバタしていて」
歯切れの悪い物言いをするリザ。エリーは心配そうな表情で首を傾げる。
「どうかなさったんですか?」
少し言いにくそうに目を泳がせ、そしてリザは大きくため息をついた。
「……スタッフの数が圧倒的に足りないのよ。多めに手配していたはずなのに、いないの」
その言葉にエリーと少年は店内を見る。確かにどのスタッフも忙しなく動き回っている。お客さんもまだ営業開始したばかりだというのに、どこか不満げな表情が多いようだ。再びリザに視線を移すと、リザは涙目になって眉間に皺を寄せている。
「……どうせこうなるのよ。私の店なんて、失敗するに決まってるんだわ」
小さな声でそう言うリザ。少年は辛そうな顔をする。エリーはそんなリザを見つめ、そして拳を握る。
「……私にお手伝いをさせてください」
「え?」
「スタッフが増えれば、少しは楽になると思います」
「でも、いくらなんでも客にそんなことさせる訳には」
「お客さんじゃなかったらいいんですね?」
エリーはそう言ってリザの手をぎゅっと握る。
「……私とお友達になってください、リザさん」
「……本気?」
「もちろんです」
真っ直ぐにリザを見つめるエリー。その頭上には少し呆れた顔をしているリヒト。
「おい」
少年も思わず声を掛けた。
「……何?」
「おれも、手伝うから」
「なんであんたが……」
リザが困ったような顔をする。少年はスッと息を吸って、緊張したように口を開いた。
「お、おれとお前の仲だろ」
そう言ってほのかに顔を赤くする。リザは驚いたように目を丸くした。そして眉を下げて、ふっと笑う。
「……じゃあ、お願いできるかしら」
「はい、任せてください!」
「おう!」
リザに案内され、三人で店の中に入っていく。更衣室に案内されながら、基本的な内容を教えられる。エリーの仕事は、メニューをメモして、それをキッチンに伝える。出来上がったメニューをお客さんの元へ届ける。単純な内容ではあったが、スタッフの数が足りていない状況ではどうなるのかはわからない。ちなみに、少年はキッチンに立つらしい。
渡された制服に着替えるエリー。膝丈のワンピースに、白いエプロン。胸の辺りのリボンをぎゅっと結ぶ。着替え終えたことをリザに伝えようとすると、そこには同じ制服を着たリザの姿があった。
「……リザさんも、やられるんですか?」
少し驚いたように目を丸くするエリー。リザは少しむっとしたように腕を組んだ。
「指示や対応はメニューを取りながらでも出来るわ。……諦めかけていたけど、あなたのおかげで失敗を失敗のまま終えずに済みそうよ」
どうもありがとう、と小声で付け足すリザ。そんなリザに笑顔を返し、二人で店内へと足を進めた。
同じように準備を済ませた少年と、店内で遭遇する。目が合うと、少年はにかっと笑った。
「そういえばまだ自己紹介してなかったよな。おれ、テオ。よろしくな」
「本当ですね。私はエリーです。よろしくお願いします、テオさん」
にっこり笑って返すと、テオは少し照れたように笑った。
「さぁ、気合い入れていくわよ」
リザの言葉に二人で頷く。こんな所でのんびりしている場合ではないのだ。どこか余裕を取り戻したようなリザの笑顔に、エリーは安心したように微笑んだ。
「いらっしゃいませ!」
エリーが笑顔で対応する。最初こそわたわたとしていたエリーだったが、午後になると慣れた様子で接客をしていた。
「カフェオレがお一つですね。かしこまりました」
リヒトもどうにか手伝おうと店内を飛び回っている。行くべきテーブルにエリーを一生懸命導いているようだ。
街でよく見かけて挨拶を交わす人たちが来店する。そのたびに頑張って、とエリーを応援してくれる。応援されたらされるほど、なんだか頑張れるような気がした。
「姉ちゃん。はい、モンブラン」
「あ、はい。ありがとうございます」
テオも手際よくスイーツや飲み物を作っている。その慣れた様子は、頼もしく感じる。リザとの息もよく合っている。エリーはそう感じていた。
「おすすめはありますか?」
「甘いのがお好きでしたらこちらのケーキがおすすめですが、メニューのこの辺りの紅茶を召し上がるようでしたらチョコレートのスイーツがベストですわ」
リザも上手くお客さんに対応している。忙しなく動いていたスタッフもどこか余裕ができているようで、休憩時間もちゃんと確保している。エリーは楽しみながら働いていた。ウィリアムと一緒に来れなかったのは残念だったが、来ていたらこうして働くことはできなかっただろう。来れなくてむしろよかったのかも知れない。そんなことを思いつつも、また今度一緒に来ようとエリーは心に決める。先程から運んでいるケーキや紅茶がすごく美味しそうだというのも、その理由の一つだ。
「……お疲れ様」
「お疲れ様でした」
営業時間が終わり、エリーとリザ、そしてテオを残してスタッフが帰って行った。店内に三人でテーブルに座る。リヒトはテーブルの上で寝ころんでいる。行儀が悪いのは、この際仕方ないだろう。リヒトも随分と手伝ってくれていた。
「……これ、食べていいわよ」
そう言ってリザがエリーの前に置いたのは、ふわふわのシフォンケーキと紅茶。驚くエリーに、すぐさま目を輝かせるリヒト。
「ありがとうございます」
「おれが作ったんだからな」
「ふふ、ありがとうございます」
得意気に言うテオの頬は微かに赤く染まっている。エリーの笑顔に、テオははにかむ。リザは二人に改めて真剣な顔を向ける。
「……今日手伝ってもらえて、助かったわ。どうもありがとう」
「たいしたことはしてませんよ。とても楽しかったですし」
「そうだよ。だから、そんな真面目な顔すんな。らしくねぇ」
にっこり言うエリーに、相変わらずのテオ。リザも頬を緩ませた。
「でも助けてもらったのは事実よ。ぜひ、召し上がって」
「ふふ、ありがとうございます。……リザさんもテオさんも、一緒に食べましょう?」
「……そうね。食べるわ」
「おれも」
立ち上がろうとするテオを制し、リザはは自分の分とテオの分のケーキを用意する。幼い見た目だが、手慣れたようにキッチンに立っている。さすがオーナーだと、エリーはしみじみ思う。
「リザさん」
「何?」
「リザさんさえよければ、しばらくお手伝いさせてもらえませんか?」
「え……?」
驚いた顔をするリザに、真剣な顔のエリー。テオも驚いた顔をしている。そしてリヒトは、早くケーキが食べたくてうずうずしている様子。
「……スタッフの方が足りていないのは今日だけの話じゃないんですよね?」
「……まぁ、そうだけど」
気まずそうな顔をするリザ。エリーは表情を緩めて微笑みかける。
「でしたら、ぜひお手伝いさせてください」
「……いいの?」
「もちろんです。困っているお友達は放っておけません」
にっこり笑うエリー。そんな姿にテオも慌てたように言う。
「おれも、手伝う!」
そんな二人の言葉に、リザは昨日エリーが見たような余裕の笑みを浮かべた。
「仕方ないわね。手伝わせてもよくってよ」
第二十四話「二人の色」
期間限定でリザのお店で働いていたエリー。リザやテオと共に働く日々はとても楽しかった。ちなみにリザとテオは、幼馴染だということだった。
そんなお店で初めてもらった報酬。その報酬で、エリーはウィリアムに日頃の感謝を伝えようと決めていた。共に出かける約束は、既に取り付けている。エリーはタイツを履きワンピースを着て、上着を羽織った。外は寒くなってきたため、首元の防寒も兼ねて髪は上半分だけを結わえる。一緒に行きたそうな表情をするリヒトは、今日はお留守番。後ほどクッキーを焼くという約束で手を打ってもらったのだ。
玄関へ向かうと、そこには既にウィリアムの姿があった。少しは楽しみにしてくれていただろうか。エリーは笑顔で駆け寄った。
「お待たせしました」
「……ああ」
外に出ると、馴染みの風景が前方に広がった。街を少し歩くと、改めてエリーはウィリアムに尋ねる。
「ウィリアムさん、どこか行きたいところはありますか? どこへでもお付き合いしますよ」
目をキラキラさせてウィリアムを見つめるエリー。今日はウィリアムに尽くすための日だ。なにより、ウィリアムと一緒ならどこへ行っても楽しいとエリーは思っていた。
「……そうだな」
少し考えるように目を伏せ、ウィリアムはわずかに口角を上げる。
「……お前の行きたいところに、俺は行きたい」
「ウィリアムさん……」
ウィリアムの言葉にエリーは感動したように瞳を潤ませる。そして、苦笑した。
「……考えるのが面倒なんですね?」
「……さあな」
エリーと目を合わせることなく答えるウィリアム。図星なのだろう。エリーは風の都を思い浮かべながら考える。どこへ行けば、ウィリアムに楽しんでもらえるのか。どこへ行けば、ウィリアムともっと仲良くなれるのか。考えていたエリーは、ふと笑顔になり、ウィリアムに提案した。
「ウィリアムさんの書かれた本の舞台を見てみたいです!」
「……は?」
驚いたようなウィリアムに、エリーはにっこりと笑みを向けた。
最初に向かったのは、街の中央にある噴水。駅の次に人通りの多い場所と言っても過言ではない。噴水を中心として様々な方面に道が伸びていて、あらゆる店が建っている場所だ。
「やっぱり、ここが舞台となっていたんですね」
「身近な場所の方が書きやすいからな」
「この街、とっても綺麗ですもんね」
「……そうだな」
エリーの勢いに圧倒されながらもついていくウィリアム。並んでいる店をなんとなく眺めながら歩き、そしてエリーは雑貨屋の前で立ち止まった。
「少し入ってもよろしいですか?」
「ああ」
「ありがとうございます」
今日の目的はウィリアムを楽しませるだけではない。何か贈り物を贈ろうと思っているのだ。エリーは店内をぐるぐると回りながら、何を贈るかを考える。ウィリアムはぼんやりとゆっくり店内を眺めていた。
「お待たせしました」
手に小さな袋を持ち、エリーはウィリアムに声を掛けた。ウィリアムはゆっくりとエリーに視線を移し、そして店の外へ向かった。
「……図書館は、行かなくてもいいか」
真剣な面持ちでそんなことを言い出すウィリアム。確かに、図書館が舞台となっている本を書いていた。エリーはくすっと笑って頷いた。
「ダニエルさんがいますもんね」
「……まあ」
そして次の目的地は、決まった人しか利用していない街の奥の寂れた映画館に決定した。
噴水に映画館、風車に時計屋。食事は小さい頃によく行っていたという小さなレストラン。たくさんの場所を見て回った。全てウィリアムの書いた本の舞台となっている場所だ。行ったことのある場所もあったが、エリーはその全ての場所を目に焼き付ける。ウィリアムの見ている世界を共有することができたような気がした。
「暗くなってきましたね……」
寒い季節は、空が早く暗くなってしまう。名残惜しそうに言いながら、エリーは空を見上げる。
「……そろそろ、帰るか」
「あの、最後に少しだけ、いいですか?」
「……なんだ」
「……海に、行きたいです」
エリーの言葉にウィリアムはわずかに微笑む。そして二人で海へと歩き出した。
海に到着すると、既に空は夜を告げていた。海から街へ向かうところにある街灯だけが海を照らしている。
「ここで、私はウィリアムさんに助けられたんですよね」
ぼーっと海を眺めるウィリアムに身体を向け、エリーは持っていた小さな袋を差し出した。
「ウィリアムさん」
「……なんだ」
「いつもありがとうございます。ここでの生活が始まった時から、私はずっとウィリアムさんに助けられてきました。本当に感謝しているんです」
そう言ってにっこり笑う。別れを告げている訳ではないのに、どこか寂しさが込み上げる。それはウィリアムも同じなのか、贈り物を受け取ることを躊躇しているようだ。
「私の、感謝の気持ちです」
「……ありがとう」
ウィリアムは袋を受け取り、そしてエリーを見つめる。
「開けてもいいか」
「もちろんです」
ウィリアムは袋から箱を取り出し、そして中を開ける。そこには、エリーが雑貨屋で買った万年筆が入っていた。ウィリアムの髪の色と同じ、烏羽色の万年筆だ。ウィリアムの少し驚いたような顔をして、そしてウィリアムは微笑んだ。
「……ありがとう」
「喜んでいただけたなら嬉しいです」
エリーが嬉しそうに笑う。
改めて万年筆を大切そうに箱にしまったウィリアムは、上着のポケットから小さな箱を取り出した。
「……受け取ってくれ」
「え?」
戸惑うエリーに、ウィリアムは箱を開けて中のものを取り出す。そしてエリーに一歩近づいた。手にあるのは、指輪だ。繊細そうな鎖でネックレスのようにしている。
「感謝しているのは俺の方だ」
戸惑うエリーに、ウィリアムは悲しげに微笑む。
「……俺はお前の思っているような、立派な人間じゃない」
「ウィリアムさん……?」
ウィリアムはネックレスをエリーに付けるため、後ろに回った。
「……お前の眠った記憶の中の思い出を、上書きできたらいいって、いつも考えるんだ。そうすれば、お前がいなくなることも……」
ない、とウィリアムは小さな声で続ける。首元につけられた指輪には、エリーの瞳と同じ蜂蜜色の宝石がついていた。考えることは同じだと思い、エリーは頬を緩ませる。その指輪を見ていると、なんだか涙が出てきそうだった。嬉しいはずなのに、何故か少しだけ。受け取りたくないと思ってしまった。
「……そろそろ、帰るか」
「そうですね」
二人は海辺から家の方へと歩き出す。砂浜には、二人の足跡が続いていた。
第二十五話「思い出」
エリーはアンナとお茶をしていた。先程まで、二人で買い物をしていたのだ。目の前にはケーキとカフェオレ。リヒトはエリーのケーキをご機嫌で頬張っている。ちなみに、リザのお店ではない。
「あら、それでこの指輪をもらったの?」
「はい」
「やるわねぇ、お兄ちゃん」
アンナは豪快に笑って、そして指輪を手に持ちじっくりと眺める。ウィリアムにもらった指輪を、アンナに見せているのだ。
「これ……」
「宝石、ですか? 私の瞳の色と、同じみたいなんです」
嬉しそうに微笑んで言うエリー。アンナは驚いたように蜂蜜色の宝石を凝視する。
「ウィルも気の利く男になったのねぇ」
楽しそうに言って、アンナは微笑む。
「エリーは水色が好きなのにね」
「はい?」
「ううん。これって、なんでネックレスにしてるの? 指輪じゃダメなの?」
「私にもよくわからないんですが……」
エリーは不安そうに瞳を揺らしながら、アンナの手にある指輪を見つめる。
「……指輪じゃなくてよかったような気がするんです」
「へぇー……?」
よくわかっていないような顔でアンナが返す。エリーが目を伏せると、リヒトはアンナの持っている指輪に向かって突進した。
「あっ」
アンナが思わず声を上げる。指輪がぽろっとテーブルの上に転がり落ちたのだ。
「ごめん。落としちゃって」
「い、いいですよ。大丈夫です」
リヒトの仕業だと分かっているエリーは慌てたように答え、曖昧に笑った。
「ウィルとのデート、どこ行ったの?」
「えっと、街の噴水や、風車に行きました」
「そんないつでも行けるような所行ったの?」
「私がお願いしたんです。本の舞台になっている場所に行きたいって」
「なるほどねぇ。それは確かに魅力的かも」
そう言ってアンナが豪快に笑う。
「……なんだか妬けちゃうわね」
「……どうしてですか?」
しみじみ言うアンナに、エリーは尋ねる。アンナは優しい目をして柔らかく微笑んだ。
「実はね、私、昔ウィルと付き合ってたのよ」
「え、そうなんですか?」
「そうそう。学生時代にね」
エリーはおそるおそるといった様子で聞く。
「今もお付き合いされてるんですか?」
「いいえ。お付き合いされてないわよ」
そう言ってアンナはふふっと笑う。
「あの……どうして……」
言いづらそうにしているエリーを見て、アンナが悪戯っぽく笑う。
「どうして別れたのか、ってこと?」
「……はい」
アンナは悩むようにして目を伏せ、そして困ったような顔をした。
「うーん……実はね、ウィルと付き合ってる時、ダニーに告白されたのよ」
「ダニエルさんにですか?」
「そう。ダニーはウィルにとって大事な友人だし、二人は私にとって大事な幼馴染だしって考えたら、まずいって思っちゃってね」
「そうなんですか……」
「だから全てなかったことにしたの。ダニーにもちゃんと話して、ウィルとは別れて、全部元通り、幼なじみの関係」
「元通り……ですか」
「……そうね。全部元通りになんて、なるわけないのにね。若かったわ、私」
そう言ってアンナは切なそうに笑う。
「ウィルのことは、子供の頃から好きでね。告白も私からだったし、愛されてる実感が全くなかったっていうのも別れた理由の一つだったかも知れないわ」
「そう、ですか……」
「でも別れ話をした時、初めてウィルの辛そうな顔が見れたの。正直、予想外過ぎてどうしていいかわからなかった」
「別れてしまって、よかったんですか……?」
エリーが真剣な顔で聞く。アンナは、嬉しそうに口角を上げた。
「そうね。こんな気の利くいい男になるって知ってたら、別れない方がよかったかも」
困ったような顔をするエリーに、アンナは「冗談よ」と言って笑う。
「……今でも、ウィリアムさんのことは好きですか?」
エリーの質問に、アンナはふわりと微笑む。エリーの瞳が、再び不安げに揺れた。
「……なーんてね。気付いてなかったとは思ってたけど、そんなことを聞かれるとは思ってなかったわ」
そう言ってアンナは左手をエリーに見せる。不思議そうにその手を見ると、薬指に光る指輪の姿を見つけた。
「あっ」
「ふふ、結婚してるのよ、私。こう見えて結構幸せなの」
そう言ってアンナはまた悪戯っぽく笑った。
第二十六話「人魚姫」
海辺を歩いている。もう随分と寒くなってきて、しっかりと防寒をしないと風邪を引いてしまう。しかし、とエリーは傍を飛び回るリヒトに目をやる。リヒトはかなり薄着だ。羽根と同化しているかのような不思議な色の服。しかしそれはエリーの用意したものではない。泉に行くと、たまに着替えて帰ってくるのだ。本人も平気そうにしている。寒さは感じないのかも知れない。
「リヒト、寒くない?」
エリーの問いにリヒトは笑顔で答える。寒くないらしい。よかった。
「今日はアンナさんが夕食作ってくれるんだって」
その言葉に、リヒトは興味なさそうな表情をして頷く。食べなくても平気そうなリヒトは、好んでクッキー等のお菓子を食べることはあっても、食事はしないのだ。そんなリヒトに苦笑を返して、エリーは海辺を歩き続ける。
ただの散歩だ。エリーは最近、よく海の傍を歩くようにしている。何かのきっかけで、記憶が戻るかも知れない。焦っているわけではないが、なんとなく、エリーはそうしたいと思った。
「こんにちは」
すぐ近くで声がして、エリーはビクッと身体を揺らした。きょろきょろと周りを見回すが、誰の姿もない。エリーとリヒトは困ったような顔をした。
「こっちよ、こっち」
また声がした。エリーは声がした方を向く。海の方だ。
「やっと気付いた」
そう言って美しく微笑むのは、黒紅色の長い髪を海に浮かべる女性だ。海から上半身を出しながらエリーを見上げている。身体にぴったりと沿っているような、透明なドレスのようなものを着ている。
「こんにちは」
少し間を開けて、エリーは挨拶を返した。しかし表情はまだ不思議そうだ。
「ふふ、人魚は初めて?」
女性の言葉に、エリーは更に目を丸くする。
「人魚、なんですか?」
「ええ、そうよ」
そう言って女性はにっこりと笑う。そして、身体を少し動かし、海の中から尾びれを出して見せた。髪の色と少し似ているが、透明感のある黒紅だ。
「あたし、あんたのこと知ってる。エリー、でしょ」
「は、はい。そうです」
「ふふ、あんたの話、水の都まで届いているわ。海で拾われた女の子がいるってね」
「そうなんですか……」
「ええ、あたし達の間では、仲間なんじゃないかって話だったけど」
そう言って女性は肩を竦めた。
「違うみたいね。あんたは人魚じゃなさそうだわ」
「そうですね」
そう言ってエリーはクスッと笑う。女性はそんなエリーを嬉しそうに見上げている。
「あたしはビアンカ。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします!」
ビアンカと視線を合わせるようにして海辺に座り、エリーは元気よく答える。
「今日はね、別にあんたが人魚かどうか知りたくて来たわけじゃないの」
「は、はい」
そう言ってビアンカは、海の中から水晶玉を出し、それをエリーに渡した。
「はい」
「はい?」
水晶玉をじっと見ていると、中から文字が浮かんで見えた。
「フランメに協力してもらって作ったらしいわ。うちの招待状よ。もう十分寒くなってきたから、泡沫祭を開催するの」
「わぁ……もしかして、水の都のお祭り、ですか?」
「ええ、トレーネの祭りは、かなり美しいわよ」
そう言ってビアンカは口角を上げる。
「それは楽しみですね」
「あんたも気に入るわ。絶対よ」
嬉しそうに笑って、尾びれを一振り。
「じゃあそろそろ行くわ。海からの配達ってなかなか大変なのよ」
「お手伝いしましょうか?」
「気持ちは嬉しいけど、遠慮しておくわ。招待状の配達は結構好きなの」
ビアンカはそう言って、身体を動かす。海に沈んでいき、そして再び海から顔を出した。
「じゃあね。泡沫祭で会いましょう」
「はい!」
ビアンカの笑顔を見送り、エリーはリヒトと一緒に水晶玉を眺めた。
「綺麗だね」
リヒトは一生懸命大きく頷く。リヒトも気に入ったのだろう。
「そろそろ帰ろっか」
その言葉にも大きく頷いたリヒト。エリーはにっこり笑って、家へと帰って行った。
家へ帰ると、玄関にアンナの靴が置いてあった。まだ夕飯時ではないが、アンナがもう来ているのだ。挨拶をしよう、とエリーはリビングへ向かう。
「いい加減にしてくれ」
鋭いウィリアムの声が聞こえ、エリーはリビングの手前で動きを止める。そしてリヒトと二人、心配そうな顔をして目を合わせた。
「いい加減にするのはあなたよ、ウィル」
またしても鋭い声。こちらはアンナの声だ。喧嘩をしているのだろうか。エリーはリビングに入ることもできず、その場を去ることもできずに立ち尽くす。
「どういうつもり? エリーにあんなもの渡して」
「俺の勝手だろう」
「妹に指輪をプレゼントする兄なんている?」
「あいつは妹じゃない」
「あの子はエリーよ」
「お前の言うエリーはエリカのことだろう」
「当然でしょ」
「いつまであいつをエリカの代わりにするつもりだ」
「何言ってるのよ。誰よりも代わりが必要だったのはウィルでしょ」
「エリカはエリカだ。他の誰かが代わりになるようなことはない」
「エリーはあんたの妹よ」
「……やっぱり、そういうつもりで名前を」
「当たり前じゃない! あの子はそのために来たの! 絶対そう!」
「アンナ」
「そういう運命なのよ。だから海で倒れていたの。彼女は、あなたの妹の代わりになるためにここにやってきたのよ」
聞いていられない。静かにその場を去り、部屋へ戻る。リヒトは心配そうに見つめている。電気も付けずに、ベッドに腰掛ける。
手の震えが、止まらなかった。
第二十七話「エリカ」
ドアをノックする音で、エリーはハッとした。帰ってからどれほどの時間が経っていたのか、わからない。
「……いるか」
「は、はい」
声が掠れる。この部屋で目を覚ましたことを思い出してしまう。エリーは、扉をじっと見つめる。
「……すまない。アンナは帰った」
「え?」
「食事は出来ている。……一緒に、食べないか」
「……はい」
エリーは息を吐くようにして返事をした。扉の前から人の気配が消える。階段を下りる音がして、ウィリアムが去ったことを認識する。
暗い部屋の中、リヒトの輝きだけがエリーを照らしていた。相変わらず、心配そうな顔をしている。エリーはにっこりと微笑んで、部屋を出て行った。
「アンナさんはどうされたんですか?」
エリーは何事もなかったかのように尋ねる。
「……用事を思い出したらしい」
ウィリアムもまた、何事もなかったかのように答えた。食事の準備をして、アンナの作ったであろう夕食を二人で食べる。いつもより会話は少ない。
「おい」
「はい」
「すまないが、それを取ってくれないか」
「あ、これですか? どうぞ」
「ありがとう」
なんてことのない会話。
「あの、ウィリアムさん」
「なんだ」
「……」
黙り込むエリーに、ウィリアムは不思議そうな顔をする。しかしエリーはずっと気になっていたことがある。それは、ウィリアムが一度もエリーの名を呼んだことがないということだ。
「……いえ、あの、私、少し気分が悪いみたいで」
「大丈夫か」
「……ごめんなさい。部屋に戻りますね」
そう言ってエリーは早足で部屋に戻る。いつもより早い帰還に、リヒトは驚いたような顔でエリーを見る。
「……どうしよう」
エリーの手が震えている。リヒトはエリーを慰めるように、周りを飛び回る。エリーはおもむろに窓を開けた。
「……ちょっと、泉に行こうかな。どう? リヒト」
外はもうすっかり暗くなっている。普段なら、このような時間に外へ出ることはない。だから窓を開けたというのもあるだろう。玄関から出ていけば、ウィリアムに知られてしまう。リヒトは困ったような顔でエリーを見ている。
窓の縁に足を掛ける。リヒトは焦ったような顔をして、そして窓の外へ出た。エリーは息を吸って、そして窓から飛び降りる。同時にリヒトも力を入れるようにしてぎゅっとエリーに掴まる。すると、リヒトの光がエリーの身体を包み込むように広がった。エリーは、ふわりと地面に着地した。
「……リヒト、こんなこともできるの?」
驚いたように言うエリーに、リヒトは疲れたような笑みで頷いた。そしてもう飛んでいられないとでもいうように、エリーの頭に身を預けた。
「……ごめんね」
エリーは泉へと向かった。
泉に着くと、そこに妖精の姿はなく、静まり返っていた。思っていたよりも、ずっと暗い。泉に月が反射している程度の灯りだ。
気分を変えたくて泉にやってきたが、気分は沈む一方だ。落ち込んでいるエリーを、リヒトは頑張って慰めようとしている。その気持ちは十分に伝わっているが、エリーは今笑える自信がなかった。
ぼーっと泉を見つめる。ウィリアムはエリーが部屋にいないことに気が付いているだろうか。アンナとは何故あのような話をしていたのだろうか。ウィリアムには妹がいたのだろうか。そしてエリーは、その妹の代わりにされているのだろうか。
すると、突然視界が真っ暗になった。
「だーれだっ」
聞き覚えのある声がして、視界が復活する。隣に座って来たのは、シェルだ。
「……シェル」
「誰だ、はこっちの台詞だけどな。こんな時間にこんな場所で何やってんだよ」
シェルと目が合うと、エリーは顔を歪ませた。目に涙が溜まる。そんなエリーを見て、シェルは慌てたように目を白黒させる。
「お、おい。どうしたんだよ」
「……誰、なんでしょう。私」
「は?」
「本当に、誰なんでしょうね。私は」
「エリーだろ?」
「エリーって、誰ですか」
エリーの言葉に、シェルは困惑したように首を傾げた。
「何言ってんだよ。エリーはお前だろ」
「……シェル」
「なんだ?」
エリーは抱えていた想いを吐き出すように、少しずつ、声を出した。
「……ウィリアムさんには、妹がいるんですか?」
「妹?」
シェルは少し考えるようにして、そして思い出したように頷いた。
「そういえばいたな。オレ、あんま話したことねぇけど」
「私に似てますか?」
「んー、似てるかなぁ。顔は若干似てるかもな」
そしてシェルはハッとしたように言う。
「あ、名前は似てるな。確か、エリカだったっけ。ウィルの妹」
「……そうなんですか」
「親しい人はエリーって呼んでたみたいだな」
「……やっぱり。やっぱり、私」
エリーは震える手を抑えるようにして握る。
「妹の、代わり、なんでしょうか」
「ウィリアムがそう言ってたのか?」
「いえ……あの、アンナさんとウィリアムさんが言い合っているのを聞いてしまって……」
「あぁー」
シェルが唸って、笑った。
「そういえばアンナ、すげぇウィルの妹気に入ってたかも」
不安そうにシェルを見るエリー。シェルは笑って、エリーの頭をガシガシと撫でまわした。
「まぁそんな気にすんな。気になるようなら、アンナやウィルに直接聞いてみたらいいよ」
シェルはそう言って、エリーを真っ直ぐに見つめる。
「オレは、お前のこと誰かの代わりだなんて思ったことねぇ」
「……シェル」
「ウィリアムもそうだと思うぞ。代わりだとか、そんな器用なことできるタイプじゃねぇだろ」
そう言ってにかっと笑う。
「大事なんだろ? 信じてやれよ」
シェルの言葉に、エリーはふっと息を吐く。少しだけ、気持ちが楽になったような気がした。
「そう……ですね」
そう言って小さく微笑む。
「あの、シェル」
「なんだよ」
「……私、実は、ウィリアムさんにまだ一度も名前呼んでもらったことないんです」
「はぁ? そんなのオレだってねぇよ」
「え?」
「あいつそもそもそんな喋る方じゃねぇし、人の名前呼ぶこと自体がレアだろ。確率高いのはアンナとダニエルくらいじゃねぇか?」
そう言ってシェルは楽しそうに笑った。
「そんなことで不安に思ってんなら、呼んでもらえばいいだろ」
「そう、ですね」
そう言ってエリーも楽しそうに笑った。
「私、ちゃんとウィリアムさんとお話してみます」
「おー、そうしろ」
そう言ってシェルは立ち上がる。そしてエリーに向かって、手を伸ばした。
「送ってってやる。こんな時間だしな」
「いいんですか?」
「おー」
二人で泉を出て、静かな街を歩いていく。
「そういえば、どうしてこちらに?」
「親父のお使い。時間の概念とかねぇんだよ、親父」
「……大変ですね」
「まぁな」
街灯に照らされる道を、二人は楽しそうに話しながら進んでいった。
第二十八話「エリー」
玄関の扉を開け、家の中へ入る。リヒトはすっかり眠り込んでしまったため、頭の上ではなくワンピースのポケットに投入した。音に反応したのか、奥からウィリアムが出てくる。そして少し驚いたような顔をする。エリーの脱出に気が付いていなかったようだ。
「……どこへ行っていたんだ」
「泉に、少しだけ」
「どうした」
困ったような問いに、エリーは曖昧に笑う。
「あの、少しお話しませんか?」
テーブルを挟んで向かい合って座る。手元にはカフェオレを用意したが、どちらも手をつけようとしない。
「……今日はどうしたんだ」
エリーの様子がおかしいことにはなんとなく気付いていたのだろう。ウィリアムは困ったように再びそう質問した。
「散歩してきたんです、今日。そうしたら、人魚のビアンカさんに出会って」
「……ああ」
「水晶玉をいただきました。泡沫祭の招待状だそうです」
「……そうか」
「はい」
「……また、皆で行こう」
ウィリアムの言葉に、エリーは嬉しそうに頷く。
「あの、それで」
「ああ」
「散歩から帰ってきたら、その、ウィリアムさんとアンナさんが言い合いをしていて」
「……聞いたのか」
「はい……ごめんなさい」
「いや、謝るのはこちらの方だ。すまない」
そう言ってウィリアムは真っ直ぐにエリーを見つめる。
「何か聞きたいことがあったら、遠慮なく聞いて欲しい」
「……はい」
そう言ってエリーは少し考えるように目を泳がす。
「あの、妹さんがいらっしゃるんですか」
質問のような、確認のような言い方をする。ウィリアムは頷いた。
「……そうだな。まずは一通り説明するべきか」
そう言ってウィリアムは少し黙る。
「俺にはエリカという妹がいる。身体が弱くて、たまにしか外に出ることができなかった。祭りに連れだすと、すごく、はしゃいで……明るい子なんだ」
「……はい」
「周りの人間はエリーと呼ぶことが多かった。アンナがお前にその名を付けたのも、妹のことを想ってのことだろう」
「……あの、どうして」
エリーの声に、ウィリアムは少し震えたような声で続ける。
「エリカは二年前に海で溺れた。……生きていたら、お前と同じ年齢のはずだ」
「そう、なんですか」
「本当にすまない。アンナが名前を考えたところで、止めるべきだった。……アンナはまだ、エリカのことを受け止められていない」
「……はい」
何を話すのか考えるように、ウィリアムは黙る。
「あの、私は、エリカさんに、似ているんですか?」
エリーの質問に、ウィリアムはかすかに笑った。
「全く似ていない」
「え?」
「アンナは似てると言っているが、それも自分に言い聞かせてのことだろう」
そう言って、ウィリアムは少し身を乗り出し、エリーの頭を優しく撫でる。
「大丈夫。お前はエリカの代わりじゃない。お前は、お前だ」
その言葉に、エリーは安心したように微笑んだ。
「あの、エリカさんの話、もっと聞かせていただけますか?」
「……辛くないか?」
「私は大丈夫です……ウィリアムさんが辛くなければ、お願いしたいです」
「……ああ」
そう言ってウィリアムは微笑む。
「エリカは海が好きでな、その影響もあって、色も水色や青が好きだった」
「そうなんですね」
「ああ。身体は弱いが、性格は好奇心旺盛で活発な方だった。よく誰にも言わずに家を脱出していた」
先程同じようなことをしてしまっているエリーは、気まずそうに苦笑する。
「人より外に出る機会が少なかったせいか、本を読むのも好きだった。特にファンタジーを好んで読んでいた」
そう言ってウィリアムは目を伏せる。ウィリアムが物語を書いているのは、妹のエリカのことを考えてのことなのだろうか。
「この街のことをすごく愛していた。他の都ももちろん気に入っているみたいだったが、あまり外に出ないのに街の人々とすごく仲が良くてな。祭りはなるべく連れていくようにしていた。何度参加しても、エリカはいつも初めて見たかのように感動するんだ。森のお茶会でも、無理をしない程度だったが、楽しそうにしながら一緒に踊った。でも、エリカが一番楽しそうにしていたのは風の都の祭りの時だったな」
断片的に、しかし思い出が全く途切れていないかのように、ウィリアムは話し続ける。エリーは相槌を打ちながら、エリカのことを知っていく。自分と似ている部分もあるが、ウィリアムの言っていた通り、全く似ていないというのも頷ける。リヒトが聞いていたらどう思うだろう。エリーはそんなことを考えながら、ウィリアムの声に耳を傾けていた。
「ありがとう」
「はい?」
突然礼を言われ、エリーは戸惑う。
「話ができてよかった。……俺も、エリカのことを受け止められていなかったのかも知れない」
そう言ってウィリアムは眉を下げて笑った。エリーは思わずウィリアムの手に、自身の手を重ねる。
「……ウィリアムさん」
「なんだ」
エリーとウィリアムの目が合う。エリーは少し言いづらそうに、口をゆっくりと開く。
「……私の名前、呼んでくれませんか」
エリーの言葉に、ウィリアムは驚いたような顔をする。そしてむず痒そうな顔をして、エリーを真っ直ぐに見つめる。
「エリー」
その低い声が、エリーの心に響いた。首から下げた指輪に手を添え、エリーは嬉しそうに微笑んだ。
「はいっ」
第二十九話「氷の街」
エリーとウィリアムは、水の都トレーネに向かっていた。列車か船で行けるのだが、行く時は列車にして帰る時に船にしようという話になった。エリーとウィリアムが向かい合い、窓際にリヒト。サラとシェルとは駅で合流することになっている。ダニエルは別の用事があり、祭り当日に行くとのこと。そして、アンナは――。
「……すまない」
突然ウィリアムが声を発し、エリーはきょとんとして窓の外から視線を移した。
「アンナさんのことですか?」
「ああ」
「……謝らないでください」
そう言ってエリーは切なそうに微笑む。アンナは、今回の祭りには参加しない。そう言っていたらしい。言い合いをしたウィリアムと会うのが嫌なのか、それとも。リヒトがエリーの髪を引っ張る。ぼーっとしていたエリーはそれに反応して窓の外へ視線を戻した。
外にはガラスで出来たような、透明感のある大きな街。エリーは驚いたように窓に張り付いた。
「これが……トレーネ」
ガラスで出来ている、という認識はあながち間違いではないようだった。駅に着き、列車から降りる。足元を見ると、海が広がっていた。地面が全てガラス張りのように、下が見えるようになっているのだ。
「エリー」
「あ、シェル」
「……こんにちは」
「サラさん! こんにちは」
挨拶を交わし、そして改めて駅を出て街に入る。そこには、白く、青い、幻想的な街が広がっていた。
「わぁ……」
思わず感嘆のため息を漏らす。リヒトも口を半開きにして街を見ている。
「すげぇだろ。氷で出来てるんだぜ」
「これ、全部……ですか?」
「おー」
エリーは傍に建っていた建物に触れてみた。氷だと言われて身構えていたが、冷たさはないようだ。
「冷たかったら生活していけねぇからな。特殊な氷らしいぜ」
「そうなんですね」
エリーは物珍しそうに街をきょろきょろと見回す。今までに見てきた街とはまた違った景色だ。
水の都というだけあって、あっちこっちで水が流れている。水路が所々に引いてあり、風の都よりも立派な噴水もある。街の中も地面が全て透けて見えていて、海の中で泳ぐ魚たちの姿を見ることが出来た。
「あっちに、港」
そう言ってサラが街の奥を指さす。近付いていくと、確かにそこには港があり、いくつもの船が泊まっていた。水と氷で溢れている。そんな街だ。
「素敵な街ですね」
そう言ってエリーは街から、顔を上げる。サラが優しく微笑んでくれる。エリーはそれに笑みを返した。いつもなら、美しいサラの微笑と共に、楽しそうな笑顔のアンナがいた。かすかに沈んだ気持ちに気付かないふりをして、エリーは街の景色を楽しむことに集中した。
宿に着くと、そこには見覚えのある顔がいた。リートとシャール、そしてカイだ。
「こんにちは」
「こんにちは」
カイの挨拶に、エリーも元気よく返す。
「もしかして、こちらの宿もカイさんが……」
「違う違う。俺がやってるのは大地の都だけ。今日は客だよ」
「皆さんと一緒に泊まらせていただくんですよ」
「よろしく」
「よろしくお願いします」
カイに続いて、シャールとリートも言葉を繋げる。エリーは嬉しそうに笑った。
「貴様、泉には行ったか」
「泉、ですか?」
「ああ。街の西側に大きな泉の公園があるんだ」
「そうなんですか」
「行ってみるといい。飯の時間にはまだ早いだろう」
「そうですね」
そう言って目をキラキラさせるエリー。その大きな泉の公園を見てみたいのだろう。
「行くか?」
シェルの言葉に大きく頷く。リヒトも同様に何度も頷いている。その泉にも妖精がいるのだろうか。
「……俺は宿にいる。楽しんでこい」
「あ……はい」
ウィリアムは荷物と共に宿へ入っていく。エリーは少し寂しげな顔でそれを見送った。サラもどうやら宿に残るようだ。シェルもまた寂しそうな顔をする。
「……じゃあ、行こう」
「はい」
街の西側へ行くと、そこには確かに街の数倍は水の流れる大きな公園があった。あちこちが階段のようになっており、水が絶え間なく流れている。人の通る道には水は流れていないようだが、ぼーっとしていたらすぐに足を濡らしてしまいそうだ。
「素敵ですね」
「すげぇよな」
そうして公園を回ろうとすると、すぐそばの泉からひょこっと顔が出てきた。エリーは驚いたようにビクッとする。しかしよく見ると、それはビアンカだった。
「ハイ、エリー」
「ビアンカさん、こんにちは」
「来てくれたのね」
「もちろんです」
「あら、シェル坊もいるのね」
「……気付いてただろ」
「ごめんね。見えてなかったわ」
「そこまで身長低くねぇよ!」
シェルの言葉にビアンカがふふっと不敵に笑う。
「この街はいいでしょう?」
「はい! とっても素敵です」
「エリーならそう言うと思った。楽しんでいって」
「もちろんです!」
そして尾びれを揺らしながら、エリーに手を振った。
「じゃあそろそろ行くわね。明日の準備をしなくっちゃ」
「はい。明日、楽しみにしてますね」
「えぇ。素晴らしい祭りにするわね」
そう言ってビアンカは泉に奥へ潜っていった。どうやらこの公園の泉は、海に繋がっているようだ。明日の祭りを楽しみにしながら、エリーはシェルと街を散策した。
第三十話「泡沫祭」
潮の香りで目を覚ます。起き上がると、目の前に大きな水槽。エリーの泊まっている部屋もまた、青色に染まった幻想的な部屋なのだ。枕元で眠るリヒトの姿を確認する。こうして確認するのは、エリーのいつもの癖だ。
コンコン、と扉をノックする音が聞こえる。エリーは少し慌てたようにベッドから下り、そして扉を開けた。
「……おはよう」
そこには、サラの姿があった。今回は一人一部屋で泊まっているのだ。
「おはようございます、サラさん」
「……朝ごはん食べたら、準備する」
「準備、ですか?」
「そう」
「もしかしてまた専用の衣装があるんですか?」
エリーの言葉に、サラは頷く。今回はどのような衣装なのだろう。エリーは胸を高鳴らせながら、朝食を食べに向かった。
サラに連れられて、エリーは泊まっていた宿の別の部屋へ向かう。そこで準備をするのだろうか。そんなことを考えていると、サラの足がある部屋の前で止まった。他の部屋とはどこか雰囲気が違う。泊まる部屋ではないのだろうか。
サラが扉を開けて、中に入っていく。エリーもおそるおそるついていくと、そこには四人の人魚がいた。部屋の中にいくつも穴が開いており、そこに水が流れている。エリーは驚いたように動かなくなる。すると、一人の人魚がエリーの手を取った。
「ビアンカさん」
「おはよう、エリー。さぁ、準備するわよ」
「は、はい」
言われるがままに動く。服を着替え、そして顔や髪を触られる。エリーは落ち着かない気持ちで身を委ねた。
丈の長い白いドレス。触り心地の良い素材が、身体のラインを強調している。髪はぐるぐると巻かれ、全て上げている。メイクも施され、エリーは大人っぽい印象になった。
「いいじゃない」
「そう、でしょうか」
「ええ。とっても素敵よ」
そう言って微笑むビアンカ。エリーは恥ずかしそうに笑った。隣で準備をしていたサラも終わったようで、エリーの傍に来る。真っ赤なドレスが白い肌を引き立たせている。何をしても美しいサラは、今回も美しい。
「サラさん……素敵です」
「……ありがとう。エリーも、素敵」
そう言って微笑む。エリーははにかみ、そして二人で部屋を出て行った。まるでこれから大きなパーティへ行くようだ。
宿の前で皆と合流する。リートやシャールもまた美しく着飾っており、男性陣はスーツを着ている。
「あ、ダニエルさん」
「おはよう、エリーちゃん」
「おはようございます」
「とっても綺麗だね」
「あ、ありがとうございます」
ダニエルの言葉にエリーは頬を染める。やはり直球で褒められるのは、どこか恥ずかしい。
「エリー」
そう名を呼ぶのは、ウィリアムだ。
「ウィリアムさん」
「……」
「ど、どうかされました?」
黙るウィリアムに、エリーは不安そうに首を傾げる。
「……すまない。見とれていた」
その言葉にエリーは熱を出したかのように顔が熱くなるのを感じる。
「そ、そんな……。ウィリアムさんも、素敵です。とっても」
そう言って両手で頬を押さえる。そんな姿を見て、ウィリアムは微笑んだ。
「……行こう」
「はい!」
皆で歩き出し、祭りを楽しむ人々の中へ紛れて行った。
食べ物は海産物メイン。飲み食いをしながら、エリー達は屋台を堪能した。しかし、泡沫祭は夜になってからが本番とのこと。エリーは楽しみにしながら、祭りを楽しんでいた。リヒトもまた飲み食いを堪能している。
そして夜。空が暗くなり、澄んだ空気が冷たくなってくる頃。少しずつ、水の流れる場所が淡い灯りに照らされ始めた。光に反射する水面が美しく輝く。エリーは見とれるようにぼーっとその光景を目に焼き付けていた。エリーの白いドレスも、青く反射して見え、まるで別のドレスに着替えたようだ。
「エリー」
「ウィリアムさん」
「……綺麗だ」
「……綺麗ですね」
エリーの返答に、ウィリアムはクスッと笑う。そしてエリーの手を引き、ウィリアムは泉で溢れた公園へと向かった。
公園に着くと、そこには人々が座っていたり立っていたりしていた。何かを待っているようだ。エリーは不思議そうにその光景を見ている。カイを筆頭に、ウィリアム達は傍にあった階段に腰掛けていく。何も分かっていないエリーもその隣に腰掛けた。
「何か始まるんですか?」
「……ああ」
エリーはリヒトと顔を見合わせる。一体、何が始まるというのだろう。そうして待っていると、辺りは突然、真っ暗になった。
エリーは目を丸くする。周りで聞こえていた会話もぴたりと止んだ。すると、音楽が鳴り始める。それと同時に、公園の泉に再び灯りがついた。
「わぁ……」
感嘆の声を漏らす。そこには、人魚たちがそれぞれの泉で泳ぐ姿があった。音楽に合わせ、人魚たちは泉を行き来しながら踊っている。まるで人魚が空を飛んでいるような光景だ。エリーはぼーっとその光景に見とれる。リヒトもまた、目を輝かせて見ている。まるで妖精のようだ。風の都の妖精たちが風の妖精ならば、こちらは水の妖精と言ったところだろう。公園の前で待っていた人々が全員黙ってその美しい景色に見とれている。これが水の都トレーネの祭り、泡沫祭なのだ。
「ウィリアムさん」
少し涙ぐみながら、エリーが声を掛ける。
「……?」
「……綺麗、です」
「……ああ」
ふっと笑うウィリアム。繋いでいる手が、温かかった。
第三十一話「水遊び」
せっかく水の都に来たのだから、とエリー達は温水プールを楽しむことにした。発案者はリートだ。
「水の都まで来てプールに入らずに帰るのは愚か者のすることだ!」
珍しく強い口調で言っていた。エリー達はそうしてプールへと向かった。
着替え終わり、エリーとリート、そしてシャールとサラは待ち合わせ場所へと向かった。そこにウィリアム達が待っているのだ。リートとシャールは色違いの水着を着ている。リートは黒でシャールは白だ。よく似合っている。人形だから、というのもあるが、二人とも肌が白く美しいので、水着が映えている。下の部分がスカートになっている水着だ。
サラは白地に赤い花柄模様の水着だ。スタイルが良いので何を着ても似合いそうなものだが、その水着はサラによく似合っている。エリーはビアンカの助言をもらい、桃色でフリルのついた水着だ。胸元にリボンがついている可愛らしいデザインだ。四人とも髪が長いので、高い位置で一つに結っている。
待ち合わせ場所へ向かうと、ウィリアムとダニエル、シェルとカイが待っていた。リヒトもシェルの頭上にいた。エリー達に気が付くと、爽やかに笑うのがダニエルとカイ。表情に変化のないウィリアムに、意地でも視線を向けようとしないシェル。リヒトは嬉しそうにエリーの元へ飛んできた。リヒトもいつの間に着替えたのか、水着を着ている。一体どこで手に入れたのだろう。
「待たせたな」
リートがそう言うと、カイがニッと笑う。
「お前らの水着姿が見られたんだ。待つのなんて苦じゃねぇよ」
「おっさんかお前は」
「そう言うなよ。似合ってるぞ」
「あ、あの……カイ様」
「シャール。お前もよく似ってる。可愛い」
「自慢の妹だからな」
「はいはい。それじゃ、行くぞー」
カイがそう言って、プールへ進んでいく。それに対抗するように並ぶリートに、頬を赤くさせながら後ろからついていくシャール。三人は早速プールへと行ってしまった。
「エリーちゃん」
ダニエルの言葉に、エリーは顔を上げる。
「可愛い」
「え、あ……ありがとうございます」
エリーははにかむようにお礼を言い、そしてもじもじする。露出の多い格好は慣れていないのだ。
「……お前はあっちの世話だ」
そう言ってダニエルの背中を押したのはウィリアム。あっち、というのは、シェルとサラのことだろう。
「……シェル」
「お、おう」
「……大丈夫?」
「お、おお、おう」
シェルが全くサラの方を向かない。それどころか、会話もままならないようだ。ダニエルは大きくため息をつく。
「仕方ないな。行ってくるよ」
「ああ」
そう言ってダニエルはシェルとサラの元へ行く。地面に穴が開きそうなくらい視線を逸らさないシェルの肩を叩く。
「サラの水着姿はよく似合ってるな、シェル」
「お、おう」
「……見てないのに、わかるの?」
「あ、ああ、おう」
サラの言葉にも上手く反応できていない。そんなシェルの姿を見て、リヒトは大袈裟に肩を竦めた。
「……大丈夫か」
エリーに声を掛けるのは、ウィリアム。
「何が、ですか?」
「落ち着いていないように見える」
「……水着を着るのは、慣れていないものですから」
「そうか」
そう言って二人で黙る。少しして、ウィリアムは小さくため息をついた。
「……落ち着いていないのは俺の方かもな」
「はい?」
「プール、入るか?」
「……あの、足元だけでもいいですか?」
「構わないが、いいのか?」
「はい。私、泳ぐの苦手なんです」
そう言ってエリーは照れたように笑う。その言葉を聞いて、ウィリアムは驚いたようにエリーを見つめる。
「どうかされました?」
「いや……泳ぐのが苦手というのは、わかるんだな」
「え……あ、本当ですね」
エリーもまた改めて驚く。二人して驚いたようにお互いを見つめる。ウィリアムはふっと表情を緩めた。
「……じゃあ、何か食べながら話でもするか」
「はい!」
表情を明るくさせてエリーは返事をする。何かを食べながらというところに反応したのか、リヒトも何度も大きく頷いている。
「……もう少し、待ってくれないか」
「何をですか?」
「アンナのことだ」
「アンナさんのこと……?」
「今お前と顔を合わせたら……お互いを傷つけることになるかも知れない」
「そう、なんですか?」
「……命日なんだ。もうすぐ」
ウィリアムがエリーと視線を合わせずに言う。エリーは切なそうな表情でウィリアムを見ている。
「……エリカさん、ですか?」
「ああ」
返事をして、ウィリアムはため息をつく。
「この時期、アンナは人と距離を取るんだ。もう少し、待ってやってくれ」
「……はい」
エリーはそう言って、持っていたアイスクリームを口に運ぶ。その反対側を、リヒトが遠慮なく舐め続けている。
「エリー?」
そんな声にエリーは顔を上げる。驚いた顔でエリーを見るテオの姿があった。
「テオさん」
「こっち来てたのか!」
「はい。お祭りに招待していただいて」
「そっか。おれもな、祭りにいたんだけど……なんだ、会いたかった」
心底残念そうな顔をするテオ。エリーはクスッと笑う。すると、テオは少し顔を赤くした。
「……あ、あのさ」
「はい?」
「……め、珍しいよな。その、そんな、格好、というか」
「……? 水着ですからね」
街中では着ませんよ、と言ってエリーは笑う。
「そりゃあそうだけど! あの、その! に、似合ってる、なって」
語尾を弱めながらテオは言う。エリーは嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます」
「あ、ああ」
そんな話をしていると、エリーは不意に腕を引っ張られた。驚いたように隣を見る。ウィリアムだ。
「……そろそろ、プール行くか」
「は、はい」
「浅いところなら大丈夫だろう」
「そうですね」
「……お前も、来るか」
そう言って立ち上がったウィリアムはテオに視線を向ける。身長差があいまって、テオは見下ろすウィリアムに威圧感を感じる。
「い、いえ……おれは、いいっす。じゃ、じゃあね、エリー」
そう言って慌てたように去っていく。エリーはその後ろ姿を見送り、そしてウィリアムを見上げる。
「ウィリアムさん?」
「なんだ」
心なしか無表情に戻っているような感じをエリーは覚えた。最近は随分と表情が読めるようになってきたが、まだまだだ。
「いえ……なんでもないです」
エリーは少し残念に思いながら、ウィリアムと共にプールへ向かった。
第三十二話「船」
水の都、トレーネから風の都へ帰ることに。行く時は列車だったが、帰りは船でも乗ろうという話になった。
「列車でも船でも、水の都の外観の美しさは変わらないからね」
そう言ってダニエルは微笑む。エリーもまた、船からの景色を見てみたいと思った。
「私たちは列車でしか帰れませんので」
「船を泊める場所がないからな」
「またな!」
そう言ってリートとシャール、そしてカイも去っていく。
「また来てね。エリー」
「はい。ありがとうございました、ビアンカさん」
「ええ。あんたは人魚じゃなかったけど、もうあたし達の仲間みたいなもんだから」
そう言ってビアンカが艶やかに微笑む。エリーは嬉しそうな笑みを返した。
「ありがとうございます。また来ます!」
そう言って、エリーは荷物を持って船に乗り込む。ウィリアム達も船に乗る。船から見える景色は、一体どのようなものなのだろう。まだ出発までに時間がある。エリーは胸を高鳴らせながら、甲板から海の奥を見た。
すると、突然。
頭痛が走り、エリーは頭を押さえる。じわじわと吐き気も催してきた。立っていられなくなり、エリーは崩れ落ちるように座り込む。リヒトが驚いたようにエリーの傍を飛んでいる。
「おい、エリー!」
エリーの様子に気が付いたシェルが駆け寄る。ウィリアム達もまた駆け寄ってきた。そんな姿を見ながら、エリーは意識を手放した。全員が困惑したような表情で顔を見合わせた。
「ん……」
目を覚ますと、そこは列車の中だった。
「起きたか」
「……ウィリアム、さん」
寝ているエリーの前の席にウィリアムは座っていた。ダニエルやサラ、シェルの姿は見当たらない。
「……あいつらは別の席だ」
エリーの視線に気づいたように、ウィリアムは補足する。
「あの、私……」
「倒れたんだ。船の上で」
「そう、なんですね。ごめんなさい」
「お前は悪くない」
「でも、皆さん船で帰るの楽しみにしていたんじゃ」
「それは違う」
「……?」
「皆、お前の喜ぶ顔が見たくて船を選んだんだ。だから、何も問題はない」
そう言ってウィリアムは心配そうに眉を顰める。
「……具合は、どうだ」
「……大丈夫です。ご心配をお掛けしました」
そう言ってエリーはゆっくり起き上がる。窓際でリヒトが心配そうにエリーを見つめている。
「私、どうしたんでしょう」
不安そうにエリーが眉を下げる。ウィリアムは真剣な顔でエリーを見つめる。
「……記憶が、関係あるのかも知れないな」
「記憶……」
「海辺に倒れていたんだ。船に関係があってもおかしくはない」
「でも私、何も思い出してないです」
そう言って俯く。そんなエリーの頭を、ウィリアムが優しく撫でた。
「大丈夫だ」
エリーは首元の指輪に手を添える。
「でも、もし、船に乗ることで何か思い出せるなら」
「ダメだ」
エリーの言葉を遮るウィリアム。エリーは不安そうにウィリアムを見つめる。
「どうしてですか……?」
「気を失うまでして思い出す記憶に何の価値があるんだ」
「そんな……」
エリーの顔が歪み、ウィリアムはエリーから視線を逸らした。
「……すまない。とにかく、無理はするな」
寝てろ、と言ってウィリアムは窓の外に視線を移した。エリーもまた窓の外に視線を移す。流れる景色を見守る空は、曇っていた。
第三十三話「図書館」
エリーはダニエルの図書館に来ていた。カウンターを挟み、二人で椅子に座っている。もちろん、リヒトも一緒だ。
濡羽色の髪をした少女が、コトン、とカップを二人の前に出す。カフェオレだ。
「どうぞ」
少女に向かって、エリーはにっこりと笑う。
「ありがとうございます」
「ありがとう、ミサトちゃん」
同じように礼を言うダニエルに、少女はわずかに微笑みながら会釈をした。
「いえ。私、配架してきますね」
「うん。お願いします」
ダニエルの言葉に、少女は図書館の奥へ向かう。その後ろ姿を見送り、エリーはカフェオレを一口飲んだ。
「図書館って、こうしてカフェオレ飲んだりお話したりしても大丈夫なんですか?」
「よくはないよね」
にっこりと言うダニエルに、エリーは苦笑する。他に利用者がいないのが幸いだ。
「あの、先日は」
「そんなに責任感じないで、エリーちゃん」
エリーの言葉を遮り、ダニエルは真剣な顔をする。
「そもそも君に新しい景色を見せたくて僕たちは船を選んだんだ。その君が船に乗れなかったことで、罪悪感は感じなくていいんだよ。僕たちは何度も船に乗ったことがあるしね」
エリーを安心させるようにダニエルは穏やかな声で言う。エリーは切なそうに笑い、そしてカフェオレをもう一口。
「……でも、船が苦手とか、そういう感じではなかったよね」
「はい……。記憶が、関係しているんだと思うんですが」
そう言ってエリーは首を左右に振る。
「何一つ思い出せていません」
「そっか」
ダニエルはカップを指でなぞる。カフェオレの良い香りが漂っている。
「まぁ、いいんじゃないかな」
「はい?」
「考えたって仕方ないよ。記憶の手がかりになるとしても、誰も無理にまた君を船に乗せようなんて思わないし、君自身が乗ろうとしたら止めると思う」
「……はい」
エリーは柔らかく微笑む。その頭上で、リヒトが大きく何度も頷いている。
「違う話をしよう。何か聞きたいこととか、ある?」
「えっと……そうですね」
ダニエルの言葉に、エリーは考えるように視線を巡らせる。
「あっ」
「ん?」
「……ダニエルさんって、まだアンナさんのこと好きなんですか?」
ん?と返した時の笑顔のまま、ダニエルは固まった。質問をしたエリーは心なしか瞳を輝かせている。リヒトは興味がなさそうな顔だ。
「……それは、どこからの情報なのかな?」
「え……あ……」
ダニエルの返答に、エリーは聞いてはならないことを聞いてしまったと思った。目を泳がすエリーを見て、ダニエルはため息をついた。
「……アンナでしょ。話したの」
「……はい」
「やっぱり」
そう言って大きくため息をつく。そしてにっこり笑ってエリーを見た。
「それはアンナが既婚者だと知っての質問でいいのかな?」
ダニエルの言葉に、エリーは顔を青くする。きっと気を悪くさせてしまった。エリーはしゅん、と小さくなる。
「ごめんなさい」
「別に責めてるわけじゃないよ。女の子だもんね。そういうの興味あるよね」
ダニエルがそう言いながら、カフェオレを飲む。そして柔らかく微笑んで、エリーを見つめた。
「好きだよ」
そのはっきりとした言葉に、エリーは一瞬呼吸を止める。リヒトも驚いたような顔だ。
「……あ、あの、それは」
「大丈夫だよ。奪おうなんて思ってない。僕は彼女が幸せならそれでいいんだ」
そして切なそうに微笑む。
「昔もそう思っていたはずなんだけどね」
心配そうにエリーはダニエルを見ている。
「だけど、想いを伝えたことは後悔してないよ。言葉にしないと伝わらないってこと、僕たち三人はその時やっと気付けたんじゃないかな」
「そう、ですか」
ダニエルの表情に、エリーも切ない表情をする。
「いまだに言葉足らずな幼馴染だけど、よろしくね」
「はい……?」
「ウィルのこと」
「あ、はい! もちろんです!」
エリーが焦ったように言い、ダニエルは笑った。
「アンナのことも、よろしくね」
「はい……」
「明日、きっとアンナとちゃんと話ができると思うから。もう少し待っていて」
「明日何かあるんですか?」
エリーの質問に、ダニエルは頷いて悲しそうに笑った。
少しずつ飲んでいたカフェオレの湯気は、随分と薄くなってしまっていた。
第三十四話「白い花」
「エリー」
朝食を食べ終え、食器をエリーが片付けていた時。ウィリアムがエリーの名を呼んだ。
「はい」
自分から言ったことだが、エリーはまだウィリアムに名を呼ばれることに慣れていない。少しドキドキしながら、エリーはウィリアムの言葉を待つ。
「準備してくれ」
「……準備?」
「これから、エリカの墓参りに行く」
「えっ」
その言葉に、エリーは驚いた顔をする。何も聞いていなかった。
「わ、わかりました」
そう言って、エリー片付けた後準備をするため部屋へと戻って行った。リヒトはまだエリーの枕の上で寝ていた。
準備を終え、リヒトもポケットの中に突っ込んだ。ウィリアムと共に玄関を出る。すると、そこにはアンナとダニエルの姿があった。アンナの手には花がある。水色の花と、薄い桜色の花。アンナはエリーと目を合わせようとしない。黙って俯いている。
「エリーちゃんも何か花買ってく?」
「あ、はい……お願いします」
ダニエルは優しく微笑む。花屋に寄り、エリーは花を買った。白い花だ。何色にするか迷ったが、彼女の好きな色や彼女らしい色はアンナの用意したもので間違いはないだろう。エリーはエリカのイメージを抱いていた白色の花を選んだ。
「……行くか」
ウィリアムの言葉に、三人は頷く。アンナは何も喋らない。いつもと雰囲気の違う皆の姿に、エリーは胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
大きな草原のような爽やかな場所に、エリカの墓はあった。墓石にエリカ・フローライトと書いてある。花を供え、四人は墓に向き合った。ウィリアムは表情が読めず、ダニエルは悲しげに微笑んでいる。アンナは静かに涙を流している。エリーは、エリカに話しかけることにした。
――はじめまして、エリカさん。私はエリーといいます。今、ウィリアムさんのお家でお世話になっています。このエリーという名は、あなたの名前からアンナさんが付けてくれました。私には記憶がないんです。でもこのエリーという名をいただいたおかげで、心細さはなくなりました。本当に感謝しています。これからもお名前、借りさせてください。お願いします。
しばらく話をしていると、胸の奥に温かい光が灯ったような感覚がした。顔を上げると、墓石の傍に一人の少女がしゃがんでいる姿があった。桜色の髪をした、目の大きな可愛い少女。どこか見覚えのあるような、水色のワンピースを着ている。エリーは驚いたように少女を見る。少女は楽しそうに笑って、そしてエリーの供えた白い花を手に取り、髪に付ける。その嬉しそうな笑みにつられ、エリーも嬉しそうに笑った。少女は立ち上がり、そしてワンピースの裾を持ってお辞儀をした。瞬きをすると、少女はいなくなっていた。
墓参りを終え、四人は帰り道を歩いていた。
「……ねぇ」
アンナが今日初めて声を発する。まだ俯いていた。見たことのないアンナの様子に、エリーはまた胸が苦しくなる。悲しそうなアンナの顔は、あまり見たくない。
「エリーと話がしたいの。先に帰ってくれる?」
そう言ってエリーを真っ直ぐに見つめる。エリーは眉を下げて、そして頷いた。
「ああ」
「……わかったよ」
ウィリアムとダニエルは二人で帰っていく。アンナは悲しそうな表情のまま、エリーに笑いかけた。
「近くに大きな木があるの。そこの木陰でちょっと話さない?」
「……はい」
アンナに案内され、エリーは大きな木の下に座る。アンナも隣に座り、そしてしばらく無言が続いた。
「……ごめんね」
「はい?」
「あの日、聞いてたんでしょ。私とウィルの話」
「……はい」
「私はね、エリーが……エリカが、大好きだったのよ。いつも私の後ろについてきて、一緒にお買い物したり、お菓子を作ったり……本当の妹みたいに思ってた」
アンナの言葉に、エリーは無言で頷く。
「二年前、エリカが海で溺れてしまった時。その時からずっと、胸に大きな穴が開いたみたいだった。何をしても楽しくなくて、いつも街を歩くとエリカの姿を探してた」
アンナは辛そうに顔を歪めている。
「だから、あなたが海で倒れているのをウィルが見つけて、連絡をくれた時。本気で思ったの。エリカが帰ってきてくれたんだって」
「私……」
「わかってるわよ。あなたはエリカじゃない。エリーって名前を付けたのは、完全に私の自己満足。本当にごめんなさい」
「……アンナさん」
「何?」
「私、アンナさんには感謝してるんです。名前をつけてくださったおかげで、記憶がなくても心細さを感じることはなくなりました。ここに存在してもいいんだなって思いました。だから、エリカさんの代わりだと思われていたとしても、私はとても感謝してるんです」
そう言って微笑む。
「……あなたのそういうところ、エリカに似てるわ」
「そうなんですか?」
「ええ。でも、似てない」
「……?」
アンナの言葉に、エリーは不思議そうに首を傾げる。
「一緒に過ごせば過ごすほど、エリーはエリカじゃなくて、エリーという人間なんだって思い知らされる。当たり前だけどね。そんな時、私はいつも思ってたの。違う。あなたはこうあるべきなのよって」
アンナはそう言って笑う。
「でもそんなこと思ったって無駄なのよ。あなたはエリカじゃないんだもの」
「はい……」
「だから今日、エリカに謝ってきた。勝手にエリーをエリカの代わりにしてごめんなさいって。それで、エリーにもちゃんと謝りたいの」
アンナはエリーを真っ直ぐに見つめる。
「エリカの代わりにしてごめんなさい」
「……はい」
「これからも、私と仲良くしてくれる……?」
悲しそうな瞳で言われ、エリーもまた瞳を潤ませた。
「そんな、もちろんです。私、もっとアンナさんと仲良くしたいです」
「ありがとう。……ありがとう、エリー」
そう言ってアンナはぎゅっとエリーを抱きしめる。そしてアンナは優しく微笑む。
「ねぇ、エリーは何色が好き?」
「……私は」
エリーはアンナを真っ直ぐに見つめ、そしてふわりと笑った。
「海の色が好きです」
第三十五話「赤い頬」
鏡の中の自分に向かって頷き、エリーは立ち上がる。そして窓の外を確認して、エリーは楽しそうにベッドに座った。リヒトはそんなエリーの姿を頬杖をつきながら見ている。今日エリーは、デートだ。
数日前。エリーが街を歩いていると、共に働いたことのあるテオと偶然会った。驚いた後に嬉しそうな顔をするテオ。少し話をしていたら、テオは何か言いたげにエリーを見た。少し落ち着かないような挙動をして、そして真っ直ぐにエリーを見つめた。
「あのさ、今度、デートしない?」
驚いた表情をしつつ、エリーは了承した。前までずっと姉ちゃん姉ちゃんと懐いていたテオも、そんな言葉を言うようになったのだ。エリーはどこか弟の成長を見守るような気分で、楽しみにしている。しかしデートはデートだ。エリーは少し緊張したように、ベッドに座って来客を待った。
呼び鈴が鳴り、エリーはスッと立ち上がる。リヒトも置いて行かれないように、と慌ててエリーのワンピースのポケットに身を預けた。相変わらず部屋に閉じこもるウィリアムに声を掛け、エリーは玄関へ向かった。
「こんにちは、テオさん」
「ど、ども」
目の前にいるテオは、いつもより少し大人びた服装をしていた。しかし緊張しているように赤らんだ頬は、いつも通りのテオだ。エリーは微笑んで、テオを見つめる。
「今日はよろしくお願いします」
「こ、こちらこそ! よろしく」
そう言って外に出る。そして街に向かって二人で歩き始める。
「あ、あのさ、おれ、デートとかよくわかんなくてさ」
「はい」
「だ、だから、一緒に楽しめるとことか、色々考えたんだけど」
「はい」
一生懸命話すテオに、エリーは相槌を打つ。
「でも、つまんなかったら、途中でもいいから正直に言ってくれ」
不安そうな表情をするテオに、エリーは微笑む。
「大丈夫ですよ。テオさんと一緒でしたら、どこでも楽しいです」
「……そういうこと言うんだもんな、お前は」
「そういうこと?」
「なんでもねぇよ。じゃあ行くか!」
少しむず痒そうな顔をして、テオは緊張が少しほぐれたように笑った。エリーもまた、どこへ連れていってもらえるのか楽しみにしながら、テオについていく。
そうして連れていかれた場所は、大きくて賑やかな建物。様々な設備のある、遊技場だ。
「……私、ここ初めてです」
「本当か?」
少し驚いたような顔をして、テオは楽しそうに笑った。
「じゃあいっぱい楽しまねぇとな!」
「ふふ、そうですね」
二人は中に入る。まず最初に目に入ったのは、ぬいぐるみや菓子を取ることのできる機械。お菓子に反応したのか、リヒトがエリーのポケットからひょこっと顔を出す。目を輝かせて機械を見ている。
「何か欲しいもんあるか?」
「えっと、じゃあ、お菓子を」
苦笑しながら、エリーは菓子の入っている機械を指さす。その言葉に、リヒトは嬉しそうにエリーを見上げる。テオは頷いて、そして機械の前に立つ。
「よし、じゃあおれが……」
そう言って言葉を止める。エリーは不思議そうに言葉を止めたテオを見つめる。そんなエリーの方を向き、テオは笑った。
「教えるから、やってみろよ」
「わ、わかりました」
少し緊張したようにエリーは機械の前に立つ。そしてテオの説明を受けながら、機械を動かしてみる。しかし菓子は取れない。残念そうなエリーとリヒト。
「機械を止める場所言うから、その通りにやってみ」
テオがエリーにアドバイスをする。エリーは真剣な顔で頷き、再び機械に向き直った。そうして、テオの言葉通りに動かしていく。すると。
「わぁ、取れました!」
「簡単だろ?」
テオの言葉に、エリーは嬉しそうに頷いた。
その後、二人は色々な場所へ行った。主に身体を動かすような、二人で楽しめるような場所ばかり。一度も行ったことのない場所が多かったため、エリーは新鮮な気持ちで楽しんでいた。そんなエリーの手にはうさぎのぬいるぐみ。エリーに似ているから、とテオが取ったものだ。そのぬいぐるみを胸に抱きながら、エリーはテオと共に最後の場所へと向かって行く。外はもうとっくに暗くなってしまっていた。
「テオさん、次はどこに行くんですか?」
「秘密」
悪戯っぽく笑って、テオは歩いていく。先程から階段を上るばかりで、エリーは不思議そうに辺りを見回している。
「着いた」
テオのその言葉に、エリーは顔を上げる。すると、目の前にはキラキラとした景色。たくさんの光で溢れた風の都が一望でき、そして空にはたくさんの星。エリーの瞳もまた、つられたように輝いていく。
「わぁ……」
感嘆の声を漏らすエリーに、テオは照れくさそうに笑う。そして少し不安そうな表情でエリーを見つめる。
「なぁ、今日、どうだった?」
「……とっても楽しかったです。本当にありがとうございました」
エリーの言葉に、テオは安心したように息を吐いた。そして緊張したように、エリーの方を見ずに言葉を続ける。
「ま、また、行こうな」
「はい!」
二人で夜景を見つめながら、穏やかな時間を過ごしながら。エリーはぎゅっとうさぎのぬいぐるみを抱きしめた。
第三十六話「風光る」
寒さが和らぎ、温かい日差しが顔を出すようになった頃。エリーはアンナとお茶の約束をしていた。水色のワンピースを着て、エリーはキッチンへ向かう。コーヒーを飲むウィリアムに声を掛け、そして玄関を出ていった。ポケットには当然、リヒトが潜んでいる。最近は飛び回るよりポケットでじっとしている方が好きなようだ。お菓子もたくさん食べていることもあり、このままではリヒトはぶくぶくと太ってしまうのではないかとエリーは心配している。そんな心配も知らず、リヒトは大きくあくびをしながら、エリーのポケットでくつろいでいる。
いつもの喫茶店へ向かうと、そこには既にアンナの姿があった。テーブルの上には手紙のようなものがいくつか広げられている。少し不思議そうにしながら、エリーはアンナの前に座った。
「待ってたわよ、エリー」
「すみません。お待たせしました」
「もうすぐカフェオレが来るはずよ」
「ありがとうございます」
その時ちょうどカフェオレが運ばれ、二人でひと息つく。そして本題に入るかのように、アンナは身を乗り出した。
「実はね、エリーにお願いしたいことがあるの」
「お願い、ですか?」
「そう」
アンナはにんまりと笑う。エリーはそんなアンナを不思議そうに見つめる。
「もうすぐ、空の散歩があります」
「空の、散歩?」
「風の都の祭りのことよ」
「あぁ!」
驚いたような表情のエリーに、アンナは楽しそうに笑う。
「それで、今年の実行委員長は私なの」
「そうなんですか?」
「そうなの」
得意気に言うアンナに、エリーは小さくぱちぱちと拍手をする。
「それで、当然、今年の空の散歩にはエリーにも参加してもらいたくて」
「はい!」
「あなたには、招待状係をやって欲しいの」
「招待状係、ですか?」
「そう。招待状の準備と配達をお願いしたいの」
「わぁ……! 私でよろしいんですか?」
「もちろんよ。あなたしかいないと思ったからお願いしているの」
「あ、ありがとうございます!」
アンナの言葉に、エリーは顔を赤らめる。そのような重要なことを任せてもらえるなんて、思ってもみなかった。
「まだ時間があるからのんびりでいいけど、招待状をどうするか考えておいてね」
「わ、わかりました」
「一応例を出しておくと、今までエリーがもらってきたもののように、火炎の陣や泡沫祭みたいに物を贈る招待状もあれば、森のお茶会のように香りのついた手紙なんかもあるわ」
「はい。覚えています」
「基本的に招待状は何でもありだから、エリーの好きにしていいと思うけど。よかったら今日、街中をぶらぶらしてみる? 何か良い案が出てくるかも」
「は、はい! よろしくお願いします!」
「ふふ、じゃあ今日の予定は決定ね」
その後二人で街中を歩き、いつものように楽しく過ごした。
アンナと別れ、エリーは家へと向かっていく。しかしその途中でリヒトがポケットから離れ、泉の方を指さす。
「行く?」
エリーの言葉に、リヒトは一生懸命頷く。招待状のことを考えながら、エリーはリヒトと共に泉へと向かった。
泉に着くと、そこにはたくさんの妖精が遊んでいた。これほどたくさんの妖精と会ったのは久々なのではないだろうか。エリーは目を輝かせてその光景を見つめる。風の都には妖精がいる。そのことを、招待状に映すことはできないだろうか。ぼんやりと考えるエリーに、リヒトがウィンクをする。不思議そうにしていると、リヒトを筆頭に、妖精たちは突然上に飛び、そしてまるで踊っているかのようにふわふわと飛び回った。妖精の光がキラキラと辺りを照らす。その光景をエリーは嬉しそうに見つめ、そして気が付く。まるで蝶の鱗粉のように、辺りにキラキラとした粉が舞っている。エリーはそれを見つめ、そして嬉しそうにリヒトを見上げた。リヒトは親指を立ててエリーに再びウィンクをした。
第三十七話「風の使い」
空の散歩まであともう少し。その日エリーは、招待状を配達することになっていた。数日かけて、火炎の都、大地の都、そして水の都を巡っていく。招待状の準備も万全だ。これが招待状なのかと聞かれると少し疑問もあるが、エリーは大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。リヒトと共に作った招待状。それはとても素敵なものに仕上がっている。大丈夫だ。
そう思いながら、エリーは髪を高い位置で一つに結う。薄い桜色のワンピースを着て、そして荷物を手にした。
「ウィリアムさん、そろそろ行きますね」
「……一人で、大丈夫か」
「大丈夫です」
心配そうな顔をするウィリアム。なかなか珍しい表情だ。エリーは嬉しそうに笑って、もう一度「大丈夫です」と伝える。ウィリアムは納得していないような顔だが、ゆっくりと頷く。
「……気を付けて」
「はいっ」
ウィリアムの言葉に頷き、そしてエリーはリヒトと共に出ていく。まず最初にエリーが目指す場所。それは、火炎の都だ。
「よぉ、エリー」
列車から降りて、聞きなれた声に顔を上げる。そこにはシェルがいた。
「悪いな。サラは店番で来られねぇって」
「大丈夫ですよ。来ていただいてありがとうございます」
「お前の保護者らに頼まれてっからな」
肩を竦めて言うシェルに、エリーは首を傾げる。
「じゃあ行くか。どこから配るんだ? 案内するけど」
「あ、それでは、街の中央まで連れていっていただけますか」
「街の中央?」
「はい!」
怪訝そうな顔をするシェルに、エリーは楽しそうに笑った。
街の中央にたどりつくと、エリーはバッグから道具を取り出し、準備を始めた。シェルはそれを興味深そうに見ている。
「風船?」
「はい」
エリーが取りだしたのは、たくさんの赤い風船。そして風の都で買った、簡単に空気を入れることのできる小さな棒のような道具。それを風船に入れると、すぐさま空気が入り、風船は大きくなった。
「うお、すげえ」
初めて見たのか、シェルが驚いたようにそれを見ている。赤い風船に全て空気を入れ終えると、エリーはその風船を全て離した。
空高くへとゆっくり浮かんでいく赤い風船。街の人々は皆空を見上げて始める。すると、風船は大きな音を立てて、まるで花火のように破裂した。そして空に浮かび上がる招待状の文章。それと共に、空から降り注ぐのは、キラキラとした妖精の粉。街の人々は皆感嘆の声を上げている。シェルもまた、驚いたように空を見上げていた。
「あれが、招待状か?」
「はいっ」
はにかむエリー。シェルは嬉しそうにしながら、エリーの頭を乱暴に撫でまわした。
大地の都、水の都。数日かけてエリーは全ての都を回っていく。大地の都ではリートやシャール、そしてカイ。水の都ではビアンカ。それぞれ協力してもらいながら、エリーは招待状を空へ運んでいった。大地の都では緑色の風船。水の都はもちろん水色の風船。街の人々の嬉しそうな表情を見て、エリーは招待状係を任せてもらえたことを本当に嬉しく感じた。後で改めてアンナにお礼を言おうと心に決め、エリーは風の都へと帰っていく。
帰ったら、今度は本格的に空の散歩の準備が待っている。エリーは胸を高鳴らせながら、列車に乗り込んだ。
第三十八話「準備」
招待状係を務めたエリーは、祭りの準備はやらなくてもいいことになっている。しかしそれでは落ち着かない。いつもより賑やかになっている街並みを見て、エリーはそわそわしていた。リヒトもわくわくしているかのように窓の外を眺めている。昼食の準備を済ませ、そして部屋にいるウィリアムに声を掛ける。ウィリアムは最近ずっと部屋に閉じこもっているが、大丈夫だろうか。そんなことを思いつつ、エリーは昼食をリヒトと食べ、そして街へと出ていった。
街の飾り付けをしている人もいれば、屋台の準備をしている人もいる。エリーは目についたところからどんどん手伝いをしていく。お礼と言ってくれるものは大半が食べ物のため、リヒトも積極的に手伝おうとしている。
駅の近くへたどり着くと、そこにはリザとテオの姿があった。
「こんにちは」
エリーが声を掛けると、二人は全く同じような仕草で驚いたように振り向いた。
「こんにちは、エリー」
「おっす」
にこやかな二人に、エリーも笑いかける。
「お二人もお祭りの準備ですか?」
「ええ。もちろん。私も店を出すのよ」
「そうなんですね」
腕を組み、胸を張るようにしてふふん、と笑う。
「当たり前でしょう。この街で最も優れた喫茶店をやっているのよ」
「最も優れてるかどうかは別として、食いもんと飲みもんを提供するつもりなんだ」
テオがリザの態度に呆れたように苦笑する。
「何を出されるんですか?」
「ベビーカステラと、うちのブレンドの紅茶メインで色々な飲み物を出すつもりよ」
得意気に言うたけあって、確かに美味しそうだ。エリーとリヒトは目を輝かせる。
「わぁ、いいですね」
「屋台の見た目にもこだわるつもりよ。他の都からもたくさんの人が来るもの。お粗末なものは出せないわ」
「意識高ぇよな」
「うるさいわね」
「そうなんですね……もしかして、リザさんのご家族の方も来られるんですか?」
エリーの問いに、リザが視線を落とす。
「それは……どうかしらね。忙しそうだからわからないわ。でも帝都の人もたくさん来るんじゃないかしら」
「帝都の……」
「ええ。帝都にはそういうお祭りのようなものはないから、結構来るんじゃない?」
エリーは今までの祭りのことを思い出しながら、続ける。
「そうなんですか。今までも知らないうちに帝都の方とすれ違ったりしていたのでしょうか」
「してたかもな。どうせ祭りの日は大体の奴が着飾るし、見分けなんてつかねぇよ」
「ふふ、それもそうですね」
談笑をして、一段落ついたところでリザが切りだした。
「じゃあ私たちはそろそろ準備をしなくちゃ」
「あ、それなんですが」
「ん?」
不思議そうな顔をするリザとテオに向かって、エリーが握りこぶしを作ってキリッとする。リヒトもまた同じ表情と仕草をして二人を見つめる。
「私もお手伝いします!」
その言葉に、二人は顔を見合わせる。
「あら、本当?」
「ははっ、一緒に働いてた頃を思い出すな!」
二人の返答に、エリーは楽しそうに笑った。
「ふふ、よろしくお願いします」
「仕方ないわね。行くわよ」
「はいっ」
「おう」
三人は祭りの準備をするべく、歩き出した。
第三十九話「時と筆」
明日はいよいよ祭りの日。楽しみにしながら、エリーは目を覚まし、身支度を済ませ、朝食を用意する。毎朝の流れだ。そしていつものようにウィリアムの部屋に声を掛けに行く。
しかし、部屋にウィリアムの姿はなかった。不思議に思いながら家の中を探すが、ウィリアムはどこにもいない。彼が朝からどこかへ行くことは滅多にない。エリーは心配に思い、迷いがないような様子で家を出ていった。
向かった先は海。ウィリアムがどこかへ行ってしまっているとしたら、間違いなく海だとエリーは確信していた。そしてその考えは当たっていた。ウィリアムは海辺に座り、海を眺めていた。
「……ウィリアムさん」
後ろから声を掛ける。ウィリアムは振り向かずに「ああ」と返事をした。
「どうかなさったんですか?」
「……筆が、進まなくてな」
「そう、ですか」
二人で海辺に座り、黙って海を眺める。潮の香りが届いてくる。柔らかい風が時折二人を包んでいた。
「あの、ウィリアムさん」
「なんだ」
「明日、お祭りですね」
「そうだな」
返事の様子だと、特にいつもと変わったところはないようだ。エリーは話を続けた。
「私、とっても楽しみにしているんです。自分の住んでいる街がどんなふうに変わるのか、皆さんがどんな表情で楽しんでくれるのか。妖精も来てくださるんですよね。リザさんとテオさんもお店を出すそうですよ。時計屋のおじさんやお菓子屋さんも屋台をされるようです。明日はお腹を空かせて臨まないといけませんね」
楽しそうに話していたエリーは、ふと不安そうな顔をする。筆が進まないとは言っていたが、ウィリアムが突然朝から海へ行くということは。頭の中に浮かんだ考えを、そのまま口にする。
「あ、もしかしてウィリアムさん締切とか迫っていますか? 明日はお祭りに参加できないとか……」
「いや、行くつもりだ」
「本当ですか? よかった」
心の底から嬉しそうに笑うエリー。そんなエリーを、ウィリアムはじっと眺めた。そのことに気が付き、エリーは困ったように眉を下げる。
「え、あ、ど、どうされました? 私、喋り過ぎてしまいましたか……?」
そんなエリーの言葉に、ウィリアムは首を横に振る。そして、柔らかい表情でふっと息を吐いた。
「……お前を見ていたら、なんだって書けそうな気がしてくるな」
「え?」
「そろそろ帰るか。朝食、作ってくれたんだろう」
「は、はい……」
「今日は一緒に食べるか」
「はいっ!」
嬉しそうに笑みを浮かべるエリー。ウィリアムもまた、穏やかな顔つきで共に歩き出した。
第四十話「空の散歩」
爽やかな朝がやってきた。窓を開けて、澄んだ空気を思い切り吸い込む。賑やかな街の音が、エリーの鼓動に伝ってくる。風の都の祭りの日。空の散歩が、始まった。
「リヒト、楽しみだね」
にっこり笑って、ベッドで眠そうに寝ころぶリヒトに声を掛ける。リヒトは目を閉じながらも頷いた。もうすぐフローライト家には、たくさんの人がやってくる予定だ。アンナやダニエル、サラとシェル、リートとシャール。アンナがまた専用の洋服を持ってくることになっている。エリーはそれも楽しみにしながら、皆をもてなすため紅茶の用意を始めた。好みの紅茶はあるだろうか。
「エリー、来たわよ」
アンナが楽しそうに言う後ろに、皆の姿があった。エリーもまた嬉しそうな表情で「上がってください」と微笑む。
「お邪魔しまーす」
「失礼する」
それぞれで挨拶をしながら、リビングへと向かっていく。リビングに荷物を置いたところで、アンナがエリーを振り返った。
「ウィルは?」
「あ、えっと、お部屋にいると思います」
「まーた書いてんのね?」
アンナの呆れた表情に、エリーは苦笑した。海へ行ったことがよかったのか、ウィルは今日調子が良いようなのだ。祭りへは行くと言っていたが、書けるところまで書いてしまいたいのかも知れない。
「まぁいいわ。準備しましょう」
そう言ってアンナが悪戯っぽく微笑む。エリーは皆に紅茶を振る舞い、女性五人はエリーの部屋に集まった。
「今年も専用の衣装を用意させていただきましたー」
じゃじゃーん、とアンナがバッグを開けて洋服を見せる。エリーは目を輝かせて中を覗き込む。
用意された洋服は、透明のような繊細な素材で出来た色とりどりのワンピース。そしてエリーに差し出されたのは桜色のワンピース。足元まで丈はあるが、脚が少し透けて見える。まるで妖精の服のようだ。
「今まで水色ばっかり着せちゃってたけど、あんたは白っぽいワンピースがよく似合うわ」
そんなことを言ってアンナは笑った。エリーがワンピースを着ると、まるで本当に妖精になったような気分になった。先程まで寝ぼけていたリヒトも、絶賛するように拍手をしている。エリーは少し頬を赤らめながらリヒトに礼を言った。同様にワンピースを着る皆の姿を見ると、まるでどこか違う世界へやってきたような感覚がした。
リビングへ再び向かうと、残された男性陣が紅茶を飲みながら待機していた。そこにはウィリアムの姿もある。エリーは安心した。
「お待たせー」
アンナが歌を歌うように言う。皆でリビングへ行くと、シェル以外の二人が頬を緩ませる。シェルは完全にサラに見惚れている。
「妖精が舞い降りたね、ウィル」
「……ああ」
顔色一つ変えずにさらっと言う二人。シェルはサラに見惚れている。
「……大丈夫?」
さすがに視線を感じたのか、サラが小首を傾げてシェルを見る。シェルはハッとしたようにサラの視線を受け止め、全力で首を横に振る。
「だ、大丈夫。大丈夫」
「言葉と行動が矛盾してるわよ」
アンナの言葉に、一同が笑う。しかしリートはどこかきょとんとしている。
「……体調でも悪いのか?」
「いつものことですよ、姉さま」
シャールの穏やかな言葉に、リートは「そうか」と気にしていないように頷いた。
玄関の扉を開けると、そこにはたくさんの妖精の飛ぶ姿があった。一同は黙りこくり、しばらくその光景を眺める。
「……珍しいわね、いつもはもっと遅い時間に来るはずなのに」
「エリーちゃんを迎えに来たみたいだね」
呆然とするアンナに、ダニエルが優しく目を細める。
「エリーちゃんは妖精だもんね、ウィル」
「いちいち俺に振るな」
そんな言葉を交わす二人の前をエリーが通っていく。妖精たちの下までやってきて、そして上を見る。リヒトも嬉しそうに妖精の輪に入っていった。
「おーい」
遠くから走ってくる一人の姿があった。カイだ。仕事の関係で、朝から来ることができなかったのだ。
「悪いな、遅くなって」
「いいんですよ、カイ様」
「詫びはクレープでいいぞ」
「はいはい。なんでも奢りますよ」
爽やかに笑って、カイは改めてエリー達にも小さく謝罪をした。
「屋台の方へ行こう」
うずうずと言うリートに、皆が頷く。エリーがリヒトを見ると、リヒトは満足そうにエリーの頭に乗った。
「あら、エリーってば懐かれたみたいね」
「え?」
アンナの言葉にエリーは驚いたような顔で振り向く。そんなエリーに、アンナが不思議そうな顔をした。
「どうしたの?」
「あ、いえ……」
そう言ってリヒトと顔を見合わせる。そして二人同時にくすっと笑った。
風の都の祭りのため当然だろうが、屋台をやっている人のほとんどがいつも顔を合わせている人だった。エリーは律儀に全て回ろうとして、ウィリアムに止められる。
「全部食べるつもりか」
「……へへ」
照れたように笑うエリーの手には、既に大量の食べ物。見かねたように、リートとシェルがエリーに近付く。まるで待っていたかのような対応だ。
「しょうがねぇなぁ。おれが食ってやるよ」
「私も食べよう」
「ふふ、ありがとうございます」
お礼を言うエリーの頭上には、既に菓子類を食べ続けているリヒトの姿。最初は珍しそうに皆に見られていたリヒトも、もう既に仲間の一人として受け入れられている。
街を歩いていると、またしても声を掛けられる。
「エリー」
声のした方を向くと、そこにはリザとテオの姿があった。エリーは破顔する。二人もまた嬉しそうな笑顔だ。
「食べていきなさい。ベビーカステラよ」
「紅茶も一緒に飲んでけよ」
二人のやや強引な誘い文句に、エリーは楽しそうに頷く。一緒に喫茶店で働いた頃を思い出し、一緒に屋台ができたら楽しいだろうと想像してしまう。
「紅茶しかねぇのか?」
「おすすめが紅茶ってだけ。他にもあるぜ」
どこか似た雰囲気のシェルとテオ。
「ベビーカステラ美味しそうね」
「もちろん美味しいですわ。ぜひ召し上がってください」
態度はいつも通り堂々としているが、やはりリザはきちんと接客をしている。懐かしさに、エリーの頬を緩んだ。楽しげに屋台をやる二人に別れを告げ、エリーは再び皆と移動を始めた。
移動を続けている間も、ずっと妖精たちは空で踊っている。かなり神秘的な光景だ。しかしどうやら妖精の舞台はそれだけでないようだ。
「そろそろかしら」
アンナの言葉に、エリーは首を傾げる。一体何がそろそろなのだろう。そんなことを考えていると、暗くなってきた空と共に、屋台や建物の光が次々と消えていった。
皆の姿が見えにくくなり不安に思うエリー。そんなエリーの手を、ウィリアムが握った。少し驚いた顔で、エリーは握りかえす。皆は空を見上げているようだ。エリーも同様に上を見る。頭に乗っていたリヒトが、エリーの頭から離れていく気配が感じられた。
「あっ」
思わず声を出す。突然空が美しく輝き始めたのだ。空で妖精たちが光を放ちながら踊っている。まるで空に浮かぶ星のように、妖精たちは光り輝いていた。それに見惚れるエリーたち。その光景は、空の散歩の最後の大舞台。少し切ないような気持ちと共に、エリーはただただ空を見上げていた。
妖精たちの舞台が終わり、祭りもまた終わりへと向かっていく。帰る準備をしている者たちの賑やかな話し声が聞こえてくる。エリーたちもまた、フローライト家に向かうべく屋台の集まる広場を抜けていく。
「今日は楽しかったわね、エリー」
「はい! とっても楽しかったです」
「どこの祭りが一番気に入ったんだ?」
「難しいですね……でもやっぱり、風の都でしょうか」
「ちぇっ……やっぱ住んでるとこ贔屓するよな」
「ふふ、火炎の陣もとても楽しかったですよ」
まだちらほらと人々が楽しんでいる中で、賑やかに足を進めていく。そうしていると、ふと懐かしい香りがしたような感覚を覚えた。そして、その時は唐突にやってくる。
「レイラ様……?」
何故か耳に届いた一つの声に、エリーは振り向く。共に歩いていたアンナやシェル、ウィルが不思議そうにエリーを見て、少し先を歩いていた皆も足を止める。知らない女性が真っ直ぐエリーを見つめていた。聞こえた名前にも、どこか聞き覚えがあるような気がする。街中はまだ賑やかに話し声や笑い声が響いているはずなのに、まるで時が止まってしまったかのように、音が止んだような感覚がエリーを包む。知らない女性の目に涙が溜まる。そんな姿に、胸にざわめきを感じ、エリーは首元の指輪に手を添えた。
第四十一話「少女の正体」
「レイラ様っ!」
叫ぶように声を上げて、知らない女性は勢いよくエリーに近寄り、抱きしめた。皆が驚いたように、そして困惑したようにそれを見ている。
声を出すこともできず、放心状態になってしまっているエリー。女性の温もりに、何故か涙が出そうになる。誰も声を出さず、時だけが過ぎていく。
ウィリアムがそっとエリーと女性の間に入り、二人を離した。
「……すみませんが、あなたは」
「……あ、し、失礼しました。私、帝都でレイラ・ロードナイト様の家の使用人をしております。ティーナといいます。ロードナイト家の家事や世話はもちろん、家の管理なども担当させていただいております」
そう言ってお辞儀をする。顔を上げたティーナの目には今にも零れそうに涙が溜まっている。皆が余計に困惑したように顔を見合わせる。そんな反応に、ティーナもまた困惑したように視線を巡らせた。
「……私たち、宿なので先に帰らせていただきますね。本日はありがとうございました」
シャールが微笑んで言うと、カイもそれに合わせて頷いた。リートも共に立ち去っていく。気を遣ってくれたのだろう。
「お、オレらもちょっと時間潰してこよっか、な」
シェルがたどたどしくそう言い、サラも頷く。二人が立ち去り、残されたのはアンナとダニエル。ウィリアムとエリー。そしてティーナだけとなった。
「……ねぇ、レイラってもしかして、この子のこと?」
「え?」
アンナが言うと、ティーナは驚いたような顔をする。
「もちろんです。私が、私がレイラ様を見間違うはずありませんっ」
そう言って縋るようにエリーを見る。エリーはいまだ放心状態から抜け出せていない。その様子を見て、ウィリアムが一歩前へ出る。
「……日を改めて話をしませんか」
ウィリアムの言葉に、ティーナが困ったような顔をする。
「貴方も興奮していらっしゃるようですし、彼女も、少し落ち着く時間が必要です」
そう言ってウィリアムはアンナとダニエルの方を向く。
「……エリーを連れて先に帰っていてくれ」
頷くアンナとダニエル。その場を離れようとすると、エリーは我に返ったようにウィリアムの服を掴んだ。無意識の行動なのか、混乱している上での行動なのか。ウィリアムはエリーを落ち着かせるように視線を合わせる。
「……大丈夫だ」
そして、柔らかい表情でエリーの頭を撫でた。エリーは泣きそうな顔から少し安心したような顔をして。――意識を手放した。
突然倒れたエリーをウィリアムが抱きとめる。
「エリー!」
アンナが驚いたように駆け寄り、エリーを心配そうに見つめる。ティーナが困惑したような表情で、アンナとエリーの顔を交互に見つめた。
「エリー……?」
「あ、いえ……」
アンナが困った顔で珍しく言葉に詰まる。ダニエルがいつものように微笑み、そして提案をした。
「よろしければ、一緒に来ていただけませんか? お互い、色々とお話をする必要があるようですし」
そう言ってウィリアムを見る。
「いいよね、ウィル」
「……ああ」
ウィリアムやダニエルの視線に、ティーナはゆっくり頷いた。リヒトはおろおろとエリーの周りを飛び回っていた。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
アンナがテーブルにカフェオレを置き、そして自分も椅子に座る。座っているのは、アンナとウィリアム、ダニエル。そしてティーナだ。エリーは部屋で眠っている。
「……まず、こちらから話をさせていただきます」
ウィリアムが話を始める。いつもならアンナやダニエルに任せるような場面なため、二人は意外そうな顔をしてウィリアムを見ている。ティーナは真っ直ぐに話を聞こうと真剣な顔をしている。
「彼女が家に来てから、もうすぐ一年になろうとしています。私が海辺で倒れている彼女の姿を見つけ、保護しました」
「……そうだったんですか」
ティーナが涙ぐみ、深くお辞儀をする。
「ありがとうございます……」
その続きのように、今度はアンナが口を開いた。
「ウィルが女の子を保護したって連絡してきたから、私がここに来て彼女を着替えさせたり最初に話をしたの。いきなりこんな無愛想な男が出てきても怖がらせちゃうと思ったし、本人も多分そう思ったから連絡してきたと思う」
「……無愛想で悪かったな」
「実際そうじゃない」
「……」
「まぁまぁ二人とも」
ダニエルが穏やかな笑顔で二人を宥める。そして真剣な顔になって、二人を見る。
「ここからが、大事なところでしょ?」
「……ああ」
「……そうね」
「……? なんですか?」
ティーナが怯えたような顔で三人を見る。ウィリアムが少し考えるように間を置き、再び口を開いた。
「……彼女には、記憶がありません」
「そんな……!」
ティーナがアンナやダニエルにも視線を向ける。しかし二人は俯いてしまっていて、ウィリアムだけが真っ直ぐにティーナを見ていた。
「最初にアンナが名前を聞きました。しかし彼女は答えることができなかった」
「海辺に倒れていた理由も覚えていなかったみたいで、私たちも知らないわ。だから何か思い出すまでここに住めばいいって言ったの」
「……レイラ様……」
ティーナが堪えきれないかのように涙を零した。
「あの子、レイラっていうのね」
アンナが切なそうに笑う。ティーナは涙を流しながら、頷いた。
「こちらでは、エリーと呼ばれていたんですね……」
「ごめんなさい。勝手に名前を付けてしまって」
「いえ……記憶がないのでしたら、仕方ないことです」
自分を落ち着けるように、ティーナはカフェオレを飲む。喉に上手く流れていかない気がして、ティーナは辛そうに顔を歪める。
「……わかりました。次は、私から話をさせていただきますね」
涼しい風を頬に感じ、重たい瞼を上げる。ぼやけた視界で見つめた先にあったのは白い縁の窓。薄い水色のカーテンがほのかになびいていた。ゆったりと起き上がり、蜂蜜色の瞳で周りを見渡す。意識がだんだんはっきりしてくる。大きな本棚に、シンプルな机。そして、今横になっているベッド。
目を覚ましたエリーは冷静に部屋を見ていた。まるで初めて来た時のように、知らない部屋にいるような感覚だ。ティーナと名乗った彼女はきっと自分の事を知っているのだろう。しかし自分は全く彼女の事を思い出していない。そんなことをぼんやりと考え、周りを見渡す。リヒトはどこに行ったのだろう。姿が見えない。エリーはまるで自分が空っぽになってしまった気がした。
一筋の涙が頬を伝った。
第四十二話「指輪」
エリーはぼーっとしていた。何も考えることができない。ただ、自分の上に掛かっている毛布の端を見つめるだけだ。リヒトの姿も見当たらない。皆はもう帰ってしまったのだろうか。今はあまり一人になりたくない。けれど、しばらくは一人にして欲しい。複雑な想いがエリーの胸に宿る。
扉をノックする音がして、エリーはハッと顔を上げる。
「……俺だ」
「ウィリ、アム……さん……」
どこか掠れた自分の声に、既視感。聞こえてきたウィリアムの声に、エリーは今すぐ駆け出して縋りつきたい気持ちになる。しかし、今はウィリアムの顔を見るのが辛かった。
「入るぞ」
「あ……」
扉が開けられ、ウィリアムがいつも通りの無表情で入ってくる。エリーは酷く情けない顔をしているような気がして、ウィリアムから顔を背けた。
「エリー」
名前を呼ばれ、再び顔を上げる。違う。エリーじゃない。
――私は、エリーじゃない。
目の前が真っ暗になるような感覚。エリーは泣きそうな顔をして俯いた。
「……大丈夫か」
頭に乗せられたウィリアムの手が、温かかった。エリーはどうしたらいいのかわからなくなる。何も話すことができない。あのティーナという女性とは何か話をしたのだろうか。自分が何者なのか、思い出す前に伝えられてしまったのだろうか。
「……私は」
掠れていて、震えた声。エリーは深く呼吸をしながら、ウィリアムから顔を背けながら、声を出す。
「……私は、誰だったんですか」
そんなエリーを、ウィリアムが優しい眼差しで見つめている。そんな視線を受け止めることができなくて、エリーは顔を背けたままだ。
「……知りたいか」
やっぱり、聞いたんだ。胸がぎゅっと苦しくなる。できることなら、自分で思い出したかった。自分の言葉で伝えたかった。思い出す気配もなかったくせに、そんなことを思ってしまう。せめて、ウィリアムにだけは。
「……わからないです」
ティーナのことを思い出す。「レイラ様」と言って、彼女は涙を浮かべていた。そんな彼女のことも思い出すことができない。あまりに無力な自分に、エリーは消えてしまいたいと思ってしまう。
「……渡したいものがあるんだ」
ウィリアムが真剣な顔で言う。エリーは顔を上げて、その顔を見る。
「……下で、待ってる」
そう言って、ウィリアムは部屋を去ってしまう。渡したいもの。一体、何なのだろう。エリーは深呼吸をして、立ち上がる。なんだかすごく、嫌な感覚だ。
「……ウィリアムさん」
階段を下り、ウィリアムのもとへ向かう。テーブルの上には、カフェオレが用意されていた。エリーはゆっくり座り、カフェオレを一口飲む。ウィリアムは黙ったままだ。
「……エリー」
「……はい」
ウィリアムは、ゆっくりと手をテーブルの上に伸ばした。その仕草を、エリーが不思議そうに見る。テーブルに置かれたのは、指輪だった。
「指輪……」
「俺の用意したものじゃない」
ウィリアムはそう言って、そして息を吐く。
「……お前が海で倒れていた時に、大切そうに握りしめていたものだ」
その言葉に、エリーは胸が苦しくなる。指輪。海。大切。ふと吐き気を覚え、エリーは口を手で押さえる。
「エリー……」
「……大丈夫、です」
エリーは何度も深呼吸をする。そして指輪にゆっくりと手を伸ばした。冷たいはずのその金属が、どこか温かく感じる。エリーは指輪を見つめる。何も思い出せないが、確かに懐かしい感覚がする。自分にとって、本当に大切なものだったのだろう。
「お前の事、俺の口から話す事はしない」
ウィリアムの言葉に、エリーは眉を下げる。
「……知りたかったら、ティーナという女性に話を聞くといい」
「……彼女は、どちらに」
「帝都だ」
「帝都」
リザの街だ、とぼんやり思う。再び指輪に目を移す。エリーは今、何も考えていない。
「……いつでもいい、行きたくなったら言って欲しい」
「……はい」
「その時は、俺も一緒に行こう」
「……はい」
ウィリアムの言葉に、エリーは切なそうに微笑んだ。
第四十三話「別れ」
その日もエリーはどこかぼーっとしていた。自分が誰なのかは知りたいと思うが、知るのが恐い。何が恐いのかという明確な理由はないが、ティーナの話を聞いて自分のことを知った時、全てが変わってしまう気がするのだ。幸い、ウィリアムはいつでもいいと言ってくれている。エリーはその言葉に甘え、淡々と家事をこなしながら考えをまとめることにした。
家事を一通りこなし、エリーはふとリヒトがいないことに気が付いた。いつもこれでもかというくらいエリーと共にいるリヒト。何故かその姿をまだ見ていなかった。まだ眠っているだろうか。エリーは部屋に戻り、リヒトを探すことにした。部屋に戻り、エリーはまずベッドの上を見る。いつもなら、枕元で寝ころんでいるはずだ。しかしそこにリヒトの姿はなかった。なんとなく嫌な感じだ。
エリーは心配になり、部屋の隅から隅まで探すことにした。リヒトは小さいため、ちょっとした隙間でも入り込むことができる。そんな場所に入る理由はわからないが、エリーはとりあえずリヒトの捜索をする。部屋の中にはいなかった。エリーはどこか緊張したような、強張った顔で部屋を出る。部屋にいないのなら、他の場所を探すほかない。キッチンやリビング、そしてダイニング。さすがにウィリアムの書斎には入ることができないが、エリーは必死で家の中を探した。
リヒトはいなかった。
エリーは再び部屋に戻る。もしかしたら、戻っているかも知れない。そんなことを思いながら部屋の扉を開けるが、リヒトの姿はなかった。そもそも、小さいとはいえ、妖精の習性なのか、リヒトは常にキラキラと輝いている。探すのがこんなに難しいはずはないのだ。
そんなことを思いながら、エリーは窓の傍に寄る。もしかしたら、街の方へ出たかも知れない。泉へ行ったのかも知れない。そう思ったら、外から何か、パサッと音がした。何かが草の上に落ちたような、そんな音だ。エリーは不思議に思い、窓を開け、外を覗き込む。すると、窓のすぐ下にリヒトがいた。間違いない。あの輝きはリヒトだ。エリーは慌てて外へ出た。窓の下へ向かうと、そこにはリヒトの倒れている姿。
「リヒト!」
声を荒げ、エリーはリヒトに駆け寄る。リヒトは苦しそうに顔を歪ませ、汗をかいていた。エリーは困惑したようにその様子を見る。妖精も具合が悪くなることがあるなんて、思ってもいなかったのだ。リヒトの輝きが、苦しそうな呼吸と共に強くなったり弱くなったりする。リヒト自身の姿も、消えてしまいそうなくらいに透明感が増している。エリーは不安に駆られ、リヒトを慎重に抱え、街の方へ駈け出した。泉だ。泉へ行けば、きっと。
自分の事ばかり考え、リヒトのことを全く気にしていなかった。いつから様子がおかしかったのか。そういえば、最近は姿をあまり見ていなかった気がする。今のエリーの胸の中には、後悔という想いしかなかった。どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう。どうして自分のことばかり考えていたのだろう。
泉に辿り着くと、そこにはいつものように妖精たちが集っていた。走ってきたエリーの姿に、どこか驚いたような表情を見せている。そしてエリーの手の中で苦しそうにしているリヒトの姿を見つけ、すぐさま飛んできた。
「お願い……リヒトを助けて」
震えた声を出す。いつもなら少し距離を置いて見守るだけだったため、リヒト以外の妖精とこうして話をするのは初めてだ。エリーは必死だった。妖精たちはリヒトをエリーから受け取り、そしてお互いの顔を見合わせる。その様子をエリーは縋るように見つめる。エリーは妖精を助ける方法なんで知らない。他に手段がないのだ。妖精たちは深刻そうに、そしてどこか辛そうに顔を歪め、エリーから目を逸らす。
「助けられるよね……?」
少し掠れた声は、妖精たちに届いただろうか。妖精たちはエリーを見て、そして首を横に振った。その様子に、エリーは絶望したように目を見開く。リヒトは変わらず苦しそうに、妖精の手の中でうずくまっている。妖精たちはそのまま木々の奥の方へ向かう。
「待って……お願い……」
エリーはふらふらと追いかける。しかし妖精たちの姿は、だんだんと透明になっていく。
「……リヒトを……助けてよ……」
妖精たちの姿が見えなくなる。エリーは力が抜けたように座り込み、そして苦しそうに胸を押さえる。鼻の奥が痛み、目頭が熱くなる。そして想いを全て外に出すかのように、エリーの目から大粒の涙が流れ出した。
「っ……やだ……行か……ないで……」
涙がぽたぽたと服に染みていく。呼吸が乱れる。エリーは弱々しく呟いた。
「置いてかないで……」
そんなエリーの様子を見守るかのように、木々の間に風が通り抜けた音がした。
第四十四話「軌跡」
エリーはウィリアムに具合が悪いと告げ、部屋に閉じこもっていた。リヒトがいなくなってからもう数日が経とうとしていた。
エリーにとって、リヒトは大切だった。知らない土地にやってきて、道に迷って、それからずっと傍にいてくれていた。部屋に閉じこもりながら、エリーは度々堪えきれないかのように涙を流した。そんなエリーの様子が、ウィリアムやアンナたちに心配を掛けてしまっていることはわかっていた。しかしどうしようもなかった。――もう自分には、何もない。
コツン、と音がした。エリーは顔を上げ、窓の方へ寄る。もしかして――希望を抱きながら、エリーは窓を開けた。
「よっ」
窓を開けた瞬間、飛び乗ってきたのはシェルだった。身を固くしたエリーに、シェルは苦笑した。
「そんな絶望した顔されると傷付くんだけど」
「……ごめんなさい」
目を逸らして言う。シェルは窓枠に座り込み、そしてエリーの手を取った。
「エリー」
「……はい」
シェルは真剣な顔でエリーを見ている。
「お前が何をそんなに落ち込んでるのか知らねぇけど、それは落ち込んで解決できることなのか?」
「……」
エリーは目を伏せる。もう何をしたって、リヒトは帰って来ない。
「ここに来て見てきた景色に、お前を救う力はないのか?」
「……」
エリーは眉を下げてシェルを見る。シェルは真っ直ぐにエリーを見つめていた。
「大丈夫だ」
シェルは力強く言った。きっと何の根拠もないのだろう。しかし、その言葉はエリーの胸にじんわりとした温かさをもたらしてくれる。シェルはにかっと笑って、そしてエリーの手を強く握った。
「行くぞ」
「え?」
そのまま窓の外へ飛び出してしまいそうな勢いに、エリーは慌てて止める。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「あ? なんだよ」
「外へ出るなら、玄関から出ます」
「そうか?」
そう言ってシェルはエリーの手を離す。
「じゃ、外で待ってる」
楽しそうに笑い、そしてシェルは窓の外へ飛んでしまった。羨ましい身軽さだ。エリーは深呼吸をして、部屋を出た。外へ出るのは何日ぶりになるだろう。靴を履き、玄関の扉を開く。街の香りがふわりとした。なんだか懐かしく思ってしまう。
「じゃ、行くか」
シェルについていくように、エリーも歩き出した。
「どこへ行かれるんですか……?」
「最高の場所だ」
得意気に言うシェル。エリーは不安そうな顔でシェルについていった。
到着した場所は、火炎の都、フランメだった。
「最高の場所だろ?」
「そう、ですね」
エリーは苦笑しながら答える。シェルにとってフランメが最高の場所であることは認識しているが、どうして連れてこられたのだろう。エリーは不思議に思いながら、街を歩いていく。相変わらず、街のあちこちに炎が力強く燃えている。なんだか少し熱い。エリーは前回フランメに来た時のことを思い出していた。すれ違う人の中に、時々鬼の姿が見える。そういえば、サラの父も鬼だった。そんなことを思っていると、ちょうど思い浮かべていた緋色の長い髪が目に映った。
「よ、サラ」
シェルが挨拶をすると、サラは頷いた。そしてエリーに目を移し、少し目を泳がせる。まるで何かを探しているようだ。どこか不思議そうな表情をして、そして真っ直ぐにエリーを見つめた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
美しい緋色の瞳に見つめられるのは、相変わらず慣れない。サラは悲しげに微笑み、そしてエリーの頭を撫でた。エリーは困惑したようにサラを見る。
「……大丈夫」
シェルと同じ言葉だ。エリーは小さく頷く。
「きっと、戻ってくる」
その言葉に、エリーは目を見開く。まるで、リヒトのことを知っているかのような口ぶりだ。目に涙を溜め、エリーは少し微笑んだ。
「……はい」
そんなエリーとサラの様子に、シェルが困ったように頭を掻く。
三人は火炎の陣のやっていない街の中を、ゆっくりと歩いて見ていくことにした。炎の熱さが、エリーの冷たくなった心を温めてくれた。
第四十五話「希望」
エリーは家事を再開することにした。いつまでも部屋に閉じこもっていても、ウィリアムに迷惑が掛かるだけだ。自分にできることはやる。エリーはそう決めていたはずだ、と自身に言い聞かせる。きっと戻ってくるというサラの言葉を、エリーは信じることにした。
しばらくしたら、もう一度泉へ行こう。そして、リヒトを迎えに行こう。そう決めることで、エリーは落ち込まないようにしていた。まずは、自分の記憶のことだ。そう考え、エリーの胸の奥がずしりと重くなる。思わず大きくため息をついてしまう。
呼び鈴が鳴った。エリーは顔を上げ、そして玄関へ向かう。ウィリアムへの来客だろうか。しかし今日ウィリアムは朝から出かけていた。新作の打ち合わせだとエリーは聞いている。そんなことを思いながら、扉を開けた。
「久しいな、エリー」
凛とした声でそう言うのは、リートだ。相変わらず可愛らしい姿だ。エリーは微笑んだ。
「こんにちは、リートさん」
「……ここに辿り着くのに、二日掛かってしまった」
嘆くような口ぶりに、エリーは驚く。口ぶりからして、きっとこの街に来てから二日間探してくれたのだろう。エリーは苦笑した。
「お疲れ様でした……」
「シャールには止められたのだがな、私が来なくてならないと思ったんだ」
「え、っと、何の御用でしょう?」
「一緒に来てもらいたい」
真剣な顔に、エリーは頷く。準備を済ませ、エリーはリートと共に歩き出すが……二人の足はどう考えても海の方へ向かっていた。
「どちらへ行かれるんですか?」
「それは言えん。だが、とりあえず駅へ向かっている」
「駅は逆方向です。リートさん」
「……そうだったな」
トーンの下がった声に、エリーは笑って先導することにした。
到着した場所は、大地の都、レームだった。
「やっと、着いた」
しみじみと言うリートに、エリーは笑う。確かに、前回より時間が掛かったような気がする。
「お待ちしておりました、エリーさん」
にっこり笑って穏やかな声でそう言うのは、シャールだ。
「お久しぶりです、シャールさん」
雰囲気に和みながら、歩き出す二人にエリーもついていく。森に囲まれた街は自然の香りで溢れていた。森のお茶会の時は、たくさんのお菓子でリヒトが目を輝かせていた。その光景が目に見えるようで、エリーは切なそうな顔をする。
「お、来たか」
爽やかに笑うカイ。後ろには自身の経営している宿が見える。
「いい部屋が余ってんだ。今日は泊まっていくだろ?」
その言葉に、エリーは困ったようにリートを見る。リートは力強く頷く。それを見て、エリーもおそるおそる頷いた。
「私たちも一緒だ。案ずるな」
「……はい」
カイに部屋を見せてもらい、そして再びリートとシャールの三人で街中を回っていく。街中にはリートやシャール以外の人形や、カイ以外の小人がたくさん歩いている。
「エリー」
「はい」
「栞は、使ってくれているか」
「もちろんです。よくダニエルさんの図書館に行くんですよ」
微笑むエリーを、リートが真剣に見つめる。
「エリー」
「はい」
「……貴様は一人じゃない」
力強い言葉に、エリーは頷く。シャールもエリーの手を取って優しく微笑んだ。エリーもつられたように、微笑む。
森の香りが、エリーの気持ちを癒してくれた。
第四十六話「帰心」
エリーは海を見ていた。気分転換をするウィリアムを追いかけてきたわけではない。今日は一人だ。エリーは、自身の記憶と向き合おうとしていた。海で倒れていたエリー。船に乗ると意識を失い、大切そうに握っていたと言われる指輪には懐かしさを感じる。ふと頭の中に浮かんだ美術館。頭を撫でる優しい手。レイラ様と呼ぶティーナの声。その全てを思い浮かべてみるも、記憶は戻らない。ティーナに直接聞くしかないのだろうか。そんなことを思いながら、エリーは海を見つめる。
すると、エリーの前に見慣れた尾ひれが現れる。ビアンカだ。
「ハイ、エリー」
海から顔を出し、美しく微笑むビアンカ。
「こんにちは、ビアンカさん」
ビアンカ悪戯っぽく微笑み、エリーを見上げる。
「今日はね、あんたをいい所に連れてってあげようと思ってるの」
「……水の都ですね?」
エリーの言葉に、ビアンカは肩を落とす。
「なんだ、バレてんの。まぁいいわ。ちょっと待ってね」
そう言ってビアンカは小瓶を出し、そして飲み干す。エリーは不思議そうにそれを見ている。すると、ビアンカが海から上がって歩き出してきた。足が、ある。
「ビアンカさん、それ……」
「水の都には、こういう薬もあんのよ。高級だし、長期間は効かないんだけどね」
「そう、なんですか」
「そうよ。人魚たち皆でエリーのために薬を使おうって決めたの」
そう言ってウインクをする。エリーは眉を下げて笑った。
「ありがとうございます。私のために」
「じゃあ今日は私があんたを連れてってあげるわね。といっても、列車なんて使ったことないから、頼りにしてるわよエリー」
「ふふ、わかりました」
そうしてエリーはビアンカと共に駅へ向かった。列車に乗って、水の都へ向かうのだ。
到着した場所は、水の都、トレーネだった。
「この街って、こんな風に見えているのね」
ビアンカの言葉にエリーは首を傾げた。
「ビアンカさんは、こうして見たことがなかったんですか?」
「そりゃあそうよ。この薬使ったことなかったもの」
「そうなんですか」
「そうよ。だけど今日は特別。一日中、あんたとこの街を歩き回るつもりよ」
覚悟してね、とビアンカはまたエリーに向けてウインクをする。エリーは楽しそうに笑い、頷いた。
全てがガラスでできているような、透明感溢れる街。相変わらずの美しさだ、とエリーは思う。
「泉に行きましょう」
「はい!」
泡沫祭では、人魚たちが空を飛んでいるように泉で踊っていた。その光景を思い出しながら、泉へ向かう。
「エリー」
「こんにちは」
「久しぶりね」
たくさんの声に出迎えられる。人魚たちだ。
「ビアンカ、いい足ね」
「でしょう?」
「私の尾ひれには敵わないけどね」
「もう」
ふふ、と笑ってビアンカたちが言葉を交わす。人魚たちと話したり、泉を見る。
「エリー」
「はい」
ビアンカに呼ばれ、エリーは顔を上げた。
「楽しいでしょ?」
「はい」
自信たっぷりの表情に、エリーは笑って頷いた。
水の美しさが、エリーの瞳を輝かせてくれた。
第四十七話「決心」
エリーは街を歩いていた。風の都、ヴィルベル。爽やかな風に吹かれながら、のんびりと歩いていく。初めは不安だらけだったが、もう随分と見慣れた街となっていた。リヒトのためによく行っていたお菓子屋さん。優しいおじいさんのいるおもちゃ屋さん。よく気にかけてくれていた時計屋さんのおじさん。フランメのガラス製品のある雑貨屋さん。広場に堂々と佇む噴水。いつも賑やかな駅前。風の気持ちいい風車の建つ草原。
いつも見ている景色を、ひとつひとつ、確認していくように見ていく。
「あれ、エリー」
聞き覚えのある声。前を向くと、テオがいた。
「テオさん」
「久しぶりだな」
「そうですね」
嬉しそうな表情のテオ。エリーはにっこり笑って答える。
「なぁ、もし時間があったら店来いよ」
「ふふ、そうします」
「おれ今買い出し中だから、すぐには戻れないんだけどさ」
テオの言葉に、エリーは笑って頷く。そして、テオの言葉通り、リザの店へ行くことにした。
「あら、エリー」
「リザさん、こんにちは」
「来てくれたのね。久しぶりじゃない?」
「そうですね」
テオと似たようなことを言うリザに、思わずクスッと笑ってしまう。
「新作のケーキがあるのよ。カフェオレも淹れるわ。だから、ゆっくりしていきなさい」
柔らかい表情でそう言うリザ。エリーは頷き、ケーキとカフェオレを堪能することにした。もしここにリヒトがいたら、きっとすごく喜ぶに違いない。そんなことを考え、エリーは目を伏せた。
泉にも行こうと足を進めたが、エリーは直前で立ち止まった。もしリヒトに会えなかったら、もしリヒトがまだ苦しんでいたら。そんな光景を直視することなんてできない。震える手を押さえる。エリーは引き返し、海へと向かった。
海にはいつものように誰の姿もなかった。ウィリアムも今は家で筆を進めている。エリーとしての生活が始まった場所。今の自分にとっての全てが始まった場所。その景色を目に焼き付け、エリーは目を閉じた。潮の香りが鼻をくすぐる。自身の髪が風になびくのを感じる。エリーは目を開け、海の向こうを見つめた。今まで逃げてしまっていたが、そろそろエリーは記憶と向き合わなくてはならないと感じていた。風の音が、エリーを包み込んでくれた。
ウィリアムと共に、ティーナと話そう。そして――真実を知ろう。
第四十八話「真実と記憶」
暖かい日差しがテーブルに映り、カフェオレの湯気がほのかに光って見える。ソファに腰を下ろしながら、エリーはぼんやりとその景色を見ていた。
「本日は、その、お越しいただいて……」
ティーナが震える声で言葉を伝える。エリーの方を向かず、不安そうに目を泳がせている。それもそうだろう。エリーはティーナのことを覚えていない。小さい頃から知っていたと言う彼女が不安になるのも理解できることだ。隣にウィリアムの気配を感じながら、エリーはぎゅっと膝の上で拳を握る。そして真っ直ぐに、ティーナを見つめた。
「大丈夫です」
エリーははっきりと口にする。そして申し訳なさそうに眉を下げた。
「……私のこと、教えてください」
「……わかりました」
ティーナがそんなエリーの目を見て、そしてゆっくりと深呼吸をする。
「レイラ様は、小さい頃から明るく前向きな方でした」
目を潤ませながら話しはじめるティーナ。エリーは拍子抜けしたような顔をして、そして苦笑した。
「あの、できれば、私の小さい頃ではなく、海辺に倒れていた前後をお話しいただけると」
「あ、そ、そうですよね。失礼いたしました」
ティーナが焦ったようにカフェオレを一口飲む。
「あの日は、カミラ様――貴方のお母様の提案で、旅行に出かけることになっていました」
ティーナが話し始め、エリーの頭の中にその情景が浮かんでくる。きっとこんな感じ、というような、想像でしかないが。
「旅行に出掛けられたのはレイラ様と、レイラ様のご両親、そして婚約者のロイ様。私もカミラ様にお誘いいただいたのですが、留守を預からせていただきました」
クリーム色のワンピースを着る自分。その隣に、榛色の瞳をした男性の姿。後ろには優しく微笑む夫婦。空も海も真っ青で、まるで妖精がいるかのようにキラキラと輝いていた。澄んだ空気に包まれた、素敵な船旅。ティーナは言いにくそうに唇を噛む。
「その旅行に私はいなかったので、詳しくは存じませんが……」
楽しそうに笑う男性に、甲板に出て遠くを眺める自分。初めての船旅に瞳を輝かせ、一時も見逃すまいと眺め続ける。髪を撫でる手が、温かい。
「事故に遭われたそうです。船が沈み、皆様は海に投げ出された」
手を伸ばした自分の手には、最近見たばかりの指輪。その向こうには必死な顔で同様に手を伸ばす男性。暗い曇り空に響くたくさんの叫び声。呼吸が苦しい。そうだった。皆でプールへ行った時のことを思い出す。――私、泳ぐの苦手なんです。
「ご両親も、ロイ様も、その……見つかったのですが、レイラ様だけが見つからなくて」
言葉を濁すように言うティーナ。目を伏せて、その続きを聞く。
「一生懸命探したんです。そうしたら、レイラ様の背格好と同じ人を都の祭りで見たことがあると言っている方がいて……行ってみたんです。空の散歩に」
そこまで言って、ティーナは嗚咽を漏らす。
頭の中に、風が吹く。ティーナの言葉を聞きながら想像していた情景。それらは全て、現実だった。どうして忘れていたのだろう。母の優しい瞳、父の頼りになる背中、そして。首元の指輪を取り出す。ウィリアムにもらった指輪の隣に、婚約者のロイにもらった指輪が並んでいる。照れたような頬に、困ったような目。少し癖のある声に、落ち着く柔らかい香り。優しく頭を撫でる大きな手が、レイラは好きだった。
「エリー」
その低い声に、ワンピースに染みが出来ていることに気が付いた。ぽたぽたと丸く濡らすその染みは、自分の目から出ている涙だ。
顔を上げて、ティーナを見る。ティーナは同じように目を濡らしていた。
「……ティーナ」
ティーナの目が大きく開かれる。気付いたのだろう。
「ごめんね。私、忘れて、しまって」
困ったように眉を下げると、ティーナは大きな声で泣き出した。
「レイラ様……っ」
テーブルを避けて、ティーナはレイラに抱き着く。強く抱きしめ返しながら、もう一度謝った。
ウィリアムがゆっくりと外に出ていくのが見える。ティーナを抱きしめながら、懐かしい香りに目を細めた。
第四十九話「風に乗せる想い」
ティーナに海の場所を確認し、エリーは帝都の街の中を歩いていた。どこを見ても大きな家に広い敷地が見える。品揃えの豊富そうな店もあっちこっちに見える。来た時には好奇心できょろきょろと見回すばかりのエリーだったが、今はただ懐かしさを感じる。どうして思い出せなかったのだろう。
海辺が見えてくると、予想していた通りそこにはウィリアムの姿があった。ウィリアムもエリーが来ることをわかっていたのか、振り返っても驚いたような様子ではない。無言で見つめ合う二人。エリーは微笑む。
「ウィリアムさん……全部、思い出しました」
「ああ。そうみたいだな」
そう言って視線を海へ移す。エリーもまた、ウィリアムの隣に並び、海を眺める。静かな時間が二人の間に流れる。エリーは、何か思い出すまでウィリアムの家で世話になることになっていた。つまり。
「ウィリアムさん」
「何だ」
「何か思い出すまで、ウィリアムさんのお家でお世話になるというお話でした、よね」
エリーの言葉に、ウィリアムが黙り込む。そしていつもより低い声で答えた。
「……そうだったな」
「はい」
またしても無言になる。エリーはどこか穏やかな気持ちでいる。
「だが……」
ウィリアムがそこで止める。何か言いたげに口を開くが、すぐにまた閉じてしまう。エリーは苦笑した。
「ウィリアムさん」
「何だ」
「少し、ずるいこと言ってもいいですか」
「……ああ」
「……私、ウィリアムさんの気持ちが聞きたいです」
そう言ってウィリアムの横顔を見上げる。エリーにも考えていることはあったが、ウィリアムの言葉も聞きたいと思ったのだ。ウィリアムは少し言いにくそうに息を吐き、そしてエリーの目を見ずに話す。
「俺には妹がいた」
「はい」
「その妹の代わりというわけではないが……お前も、俺にとって」
そこで一旦言葉を止める。何を言おうか考えているのか。それとも、単純に言いにくいだけなのか。
「……家族同然の、かげがえのない存在になっていた」
だから、と言葉を続け、ウィリアムはエリーの目を見た。深い闇のような瞳に、吸い込まれそうになってしまう。
「できることなら、ずっと傍にいて欲しい」
そしてどこか切なそうに、不器用な笑みを浮かべる。
「どこにも、行って欲しくない」
その言葉に、エリーの心臓がドクドクと大きく鳴りだす。どこかぎゅっと苦しくなるような、でも不快じゃないような。ウィリアムの本心が聞けて、本当によかった。脳裏のどこかで、キラキラな笑顔を浮かべるリヒトの姿が見える。エリーもまた、切なそうに微笑んだ。
「……私、出ていきます」
ウィリアムが目を見開く。そして目を伏せ、再び海を見た。
「そうか」
「はい」
「……お前の決めたことなら、誰も止めはしない」
「……はい」
二人の間に、温かい風が吹く。
「いつまでもウィリアムさんのお家でお世話になるわけにはいきません。それに、ティーナをもう一度一人にすることなんて、できません」
エリーの言葉に、ウィリアムがふっと笑う。
「お前らしいな」
「そう、でしょうか」
「ああ」
二人の想いが、風に乗って海へと伝っていった。
第五十話「はじまり」
ティーナに気持ちを伝えると、再び彼女は涙した。
「ありがとうございます……レイラ様」
何度も涙を流させてしまって、エリーはどこか申し訳なく思う。
そしてその日は帝都の屋敷に泊まっていくことになった。ウィリアムも一緒だ。懐かしさを感じながら、エリーは自分の部屋で眠る。なんだか不思議な感覚。
朝になって、目を覚ました。温かい日差しが部屋を満たしている。気持ちよく眠れたエリーは、ダイニングへと向かう。そこには、座るウィリアムの姿と、朝食の用意をするティーナがいた。ウィリアムは気持ちよく眠れただろうか。そんなことを思いながら、三人で朝食をとる。
「あの、ウィリアムさん」
「……何だ」
「帰りは、船でもよろしいでしょうか」
エリーの言葉に、ウィリアムは心配そうな顔をする。
「大丈夫なのか」
「ご無理はなさらない方がいいですよ」
ティーナもまた、心底心配そうな表情でエリーを見つめている。そんな二人に、エリーは笑いかけた。
「大丈夫です。記憶も戻っているので、体調を崩すことはないと思うんです。……それに」
エリーは首に掛けた指輪をぎゅっと握る。
「両親とロイの見た最期の景色を、もう一度、見てみたいんです」
切なそうに言うエリーに、ウィリアムは「わかった」と頷いた。ティーナはまだ心配そうな顔だが、仕方なさそうに頷いた。
港に到着し、エリーとウィリアムは船を待つ。潮の香りがふわりと漂う。事故の時のことを思い出し、エリーはぎゅっと首元の指輪を握りしめる。船がやってくると、エリーはその景色に驚いた顔をした。皆が、船に乗っているのだ。
「エリー!」
「迎えに来たぞー」
アンナとシェルが身を乗り出しながら叫ぶ。船が泊まり、ぞろぞろと港に下りてくる。エリーはぽかんとそれを見ている。ウィリアムはどこか呆れたような顔だ。
「よっ、エリー」
にかっと笑うのは、茜色の髪をした猫のような目のシェル。
「……おかえり」
美しく微笑むのは、緋色の長い髪のサラ。
「遅かったじゃない」
腕を組んで言うのは、淡黄の長い髪を二つに結ぶリザ。
「こいつ、すげえ心配してたんだぜ?」
苦笑するのは、紫苑色の短い髪をしたテオ。
「待っていたぞ、エリー」
無表情で言うのは、白菫色のふわふわの髪をしたリート。
「お待たせしました、エリーさん」
穏やかに笑うのは、月白のふわふわの髪をしたシャール。
「ここが君の故郷なんだな」
爽やかに言うのは、涅色の髪をした小柄なカイ。
「今日は私達がついてるわよ」
海からウインクするのは、黒紅色の髪のビアンカ。その後ろには、人魚たち。
「帰ろうか、エリーちゃん」
たれ目を細めて言うのは、千草色の髪の優しいダニエル。
「……エリー」
ぎゅっと抱きしめてきたのは、群青色の瞳をした、短い髪のアンナ。
「大丈夫?」
「はい! ……全部、思い出しました」
微笑んで言うと、アンナはどこか切なそうな表情で微笑みを返す。
「そっか。よかったわね」
その言葉に頷く。そして全員で船に乗り込んだ。
甲板に出て、エリーは海を眺めていた。キラキラと輝く海は、なんだか眩しく感じる。船の上では、賑やかな声が響いている。エリーはその声の心地良さに目を細めた。
「エリー」
綺麗な声で呼ばれ、エリーは振り返る。サラだ。その手には、ガラスでできた小物入れのような箱。しかしあちこちに不自然に穴が開いている。不思議そうにしていると、それに気が付いたのか、サラはその箱を優しく撫でた。
「……呼吸ができないと、困ると思って」
「呼吸?」
謎は深まるばかり。エリーが首をかしげると、サラはその箱をエリーに差し出してきた。それを受け取り、エリーは箱を見つめる。どこか、光っているような気がする。エリーは箱を開けてみることにした。
「わっ」
箱を開けると、そこから勢いよく何かが飛び出してきた。驚くエリー。しかしその姿を捉えると、エリーの目には驚きと涙が浮かんだ。
――リヒトだ。
「リ……リヒト……」
震える声で呼ぶエリー。リヒトはぐるぐると回り、そして腰に手を当てて胸を張る。こんなに心配させておいて、非常に偉そうだ。
「リヒト……!」
そんなリヒトをぎゅっと抱きしめる。その勢いに、リヒトは目を回す。サラは美しく微笑んで、二人を見ていた。
「あら、エリー」
アンナが声を掛けてきて、エリーとリヒトは同時に振り向く。
「その子、お祭りの時にあんたに懐いてた子じゃない」
「……見えるんですか?」
驚いたような顔のエリー。アンナは不思議そうに頷く。エリーとリヒトは顔を見合わせ、そして笑い合った。
エピローグ
澄んだ空気を窓から感じながら、エリーは首に指輪が二つ下がっているネックレスを掛ける。髪を整え、鏡で姿を確認する。準備は万全だ。エリーとリヒトが顔を見合わせ、二人同時に頷く。
「レイラ様、忘れ物です!」
「え? あ、ごめんなさい。ティーナ」
外に出ようとして、ティーナに呼び止められる。エリーは苦笑して、荷物を受け取った。ティーナはどこか呆れたような、楽しそうな笑みを浮かべている。
風の都の街外れの、小さい家。そこに、エリーはティーナと暮らし始めた。まだ解いていない荷物もあるが、引っ越しは大体済んでいる。
「ウィリアム様を待たせてしまいますよ」
「はーい。ティーナ、本当に一緒に来なくていいの?」
「はい。私はまだ都の探検がございますので」
「ふふ、わかった。行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
エリーはリヒトを頭の上に乗せ、風の都を走っていく。涼しい風が、エリーを包み込む。大好きな美しい街並みに瞳を輝かせながら、エリーはウィリアムの待つ家へと向かっていった。
「ウィリアムさん、お待たせしました」
相変わらずの無表情のウィリアムがエリーを迎える。
「あぁ……おかえり」
その言葉に、エリーは嬉しそうに笑った。
Liebe