獅子隠し
いつもは、子どもと表記するのですが、この作品では、あえて子供としています。大したことではないけれど、私なりのこだわりです。
黄昏時。西の空が、赤く色づき始めるころ。
いそいそと夕餉の支度をしていた私の耳に、遠くから祭囃子が聞こえてきた。笛に太鼓に鈴の音が、ピーヒャララ、トントン、シャンシャンと、賑やかに、楽しげに鳴り響いている。
今日は、年に一度執り行われる、村の氏神奉納祭だ。
支度の手を休めると、私は、笛の音に、暫し耳を傾けた。その音色は懐かしい響きで、疲れた私の心を癒してくれるように聞こえた。
私が生まれ育ったこの港町は、とても小さな村だったが、根強い氏神信仰はいまだ廃れることなく、毎年ささやかながらも奉納祭が盛大に行われていた。それが、この小さな村が、昔からずっと変わらずに豊かで潤っている理由なのかもしれない。そういえば、村民の半分が農業を営み、そのほとんどの家が山の斜面で蜜柑を栽培しているのだが、その蜜柑が不作だったという話を私は聞いたことがなかったし、残り半分ほどの漁業に従事している家でも不漁だったとかいった類の景気の悪い話を、終ぞ耳にしたこともなかった。少なくとも、私が生まれて物心ついてからの三十数年は、確実にだ。母や父に聞いても、そんなことは考えたこともないし、聞いたこともないと言っていた。これが真実であるとすれば、とても信じられる話ではないが、この村は『不』という言葉とは無縁なのかもしれないな、とも思う。ただ、一度だけ、村の人間ではない旦那にその話をしたことがあるが、「そんなことありえないよ」、と一笑に付されてしまったけれど。
そして、今、徐々に近づきつつある祭囃子は、天神様を権現様へとお連れしている囃子だった。私も大人になってから初めて知ったことなのだが、この村の氏神信仰は少し変わっているらしい。普通、一つの土地に一神なのだが、この村では、一つの土地に二神で一神なのだという。だから、祭りは山の下を守っている天神様と、山の上を守っている権現様と、それぞれを祀っている社で行われる。まず、天神様の社で獅子舞神楽を奉納した後、天神様を権現様の社へとお連れし、翌朝、夜が明けきらぬうちに天神様を権現様の社から自社へとお送りする。これを三日三晩くり返し、最後に、権現様の社で獅子舞神楽を再度奉納し、祭りは終了する。その間、両の社で無数の燎火びが絶やされることはない。
囃子の音が、さっきよりも近づいた。まだ、獅子や天狗の姿は遠かったが、窓の向こうから赤や青や黄色で彩られた衣装が私の目の端にも映った。と、
「瑶子」
不意に背後から声をかけられ、驚いて振り返る。そこには、乾いた洗濯物の入ったカゴを抱えた母が、私よりも驚いた顔をして立っていた。
「お母さん、急に声かけんといてや、びっくりするわ」
安堵の溜息をつきながらも、抗議の声をあげる私に、母はカゴを押しつけながら、憮然とした面持ちでこう言った。
「何言よんの、何回も呼んだわ。あんたも早く外に出んと、お獅子が行きよんで」
そういう母は、すでに右手にお賽銭のための財布を握り、準備万端の様子だった。だが、私は、その母の台詞にあまり乗り気にはなれない。
「お獅子、ねぇ」
意図せず、眉根が寄る。それほどまでに、私は獅子が好きではなかった。いつからだったのか忘れたが、どうも獅子が纏う、あの独特の雰囲気が大人になった今でも怖くて仕方がないのだ。実は、奉納祭の祭囃子を聞くのも、獅子舞神楽を見るのも、最後に見聞きしたのはいつなのか忘れてしまったほどに久しぶりのことである。
「あんまり好きやないねんけど」
「瑤子、いい大人がだらしないけん。それに、今日は充のお神楽デビューやで。母親のあんたが、その晴れ舞台を見んで、どうすんの?」
そう、母の言うとおり、今日は私の息子である充のお神楽デビューの日だった。充は小さいころから笛や太鼓のような和楽器が大好きで、いつも私の父に「おじいちゃん、僕も太鼓叩きたい!」と、おねだりしていた。父も小さい頃に、あの神楽太鼓を叩いたことがあると言っていたから、充はその血を色濃く受け継いだのかもしれない。そして、その充の必死のおねだりと父の尽力の甲斐もあってか、小学校四年生に進級した今年、晴れて氏子として太鼓を叩かせてもらえることになった。もちろん、充は念願叶い、ご機嫌である。
だが、実際のところ、この奉納神楽への参加というのは土地の氏子でないと難しく、他県に嫁いだ私の息子が参加するというのは、極めて異例中の異例のことだった。だが、最近の少子化に伴い、子供(しかも、神楽太鼓は神事なので男子でなければ参加できない)の数が少ないということもあってか、それほど大きな反対意見もなく、どちらかと言えばすんなりと充が参加することは認められたらしかった。
まあ、当人の充に、そんなことは関係ない。今日も朝早くから、一緒に神楽太鼓を叩く男の子たちと天神様の社へと出かけている。今日から神事の三日間、充は社で寝泊りをするのだから、私も少しは楽ができるのだけれど。
「ほら、早く出て行かんと」
「はいはい」
濡れた手を布巾で拭くと、私は渋々と母の後について勝手口から外へと出た。すでに太陽は姿を隠している。その残り火であるかのような夕焼けが、目に痛いくらいに赤い。
冷たい風が権現山の上から吹いてきた。身体をぶるっと震わせる。
「今年も権現颪が吹いとるねえ」
その冷たい風、権現颪に肩を窄ませながら、母が呟いた。そう、奉納祭のときには、必ずといっていいほどに、この権現颪が山上から吹き下ろし、この日を境にして村は一気に冬へと向かうのだ。
権現颪を背に受けながら、瑶子はなぜかそれとは違う寒さを感じていた。
何か、嫌な、そんな予感がする。誰かに見られている。恐る恐る、周囲を見回す。当然、母以外には誰かいるはずもない。
「瑶子、充、がんばってんで」
母の嬉しそうな声で、我に返った。
何を考えてんねやろ、私。たかが「獅子が怖い」なんて、馬鹿げた理由で。子供時代のトラウマを引きずって、ちょっとおかしくなっているのかもしれない。
母が、充に大きく手を振っていた。私も母の視線の先へと目を走らせる。
賑やかな祭囃子の行列の中に、息子の姿が見えた。青と赤の鮮やかな半被、白い短パンに白い足袋を履き、胸を張り、誇らしげに力強く太鼓を叩いている。
「充っ」
さらに激しく手を振り、孫の名前を呼ぶ母。充は、母と私に気付いたのか、恥ずかしそうに小さく手を振り返した。
母と私は、そのまま祭囃子の行列の後ろに続いて、山を登っていった。山と言っても、小学生の通学路になっているほどの小さな山である。道はきれいに舗装されていて、上り坂になっていなければ山だとは思えないくらいだった。その道の先に階段がある。それを上りきると、権現様の社がぽつんとあった。普段はあまり人の近づかない薄暗い場所だが、さすがに奉納祭のときだけは違う。榊や橘で飾り付けられ、社の周囲にはたくさんの松明が赤々と灯されていた。
その社の前の狭い境内で、次第に激しくなる囃子に合わせ、天狗と獅子が神楽を舞う。砂利を踏み締める音が、鈍く響いた。
舞いの構成は、三番からなる。
まずは、百獣の王である獅子を神の前に連れ出そうとする天狗と、それに抵抗する獅子のしぐさを表現した道中舞。
次に、天狗に操られ疲れた獅子は寝てしまうが、それを天狗が突っつき起こすので、怒り狂い猛烈に天狗に襲いかかる獅子、それに負けじと戦う天狗の乱舞。
最後に、怒り狂った獅子も天狗の神業の前になす術もなく、天狗に従う。そして、天狗が神前で奉納舞を表現する宮巡り舞の形の三番構成だ。
私の目の前で、獅子と天狗が舞い踊っている。舞は、すでに二番が演じられていた。暗闇の中、無数の松明に獅子と天狗が煌々と照らされ、長くゆらゆらと揺蕩う黒い影を地面に生み出す。
天狗は片手に剣、もう片手には軍配を掲げ、荒れ狂う獅子と戦っている。獅子は頭に付けた五色の飾りを振り乱し、今にも天狗を喰わんとするかのように天狗に襲いかかった。それを軽い身のこなしで小馬鹿にするかのようにゆらりとかわす天狗。それを、さらに追う獅子。神楽は終盤を迎え、追い詰められた天狗が獅子の頭部へ剣を振り下ろす。
と、突然、囃子の調子が変化した。三番である。荒々しかった先ほどまでとは違い、穏やかで静かな、まるで魂を沈めるかのような曲調へ。天狗の剣が、獅子の頭を砕いたのである。そして、天狗により成敗された獅子は、天狗の足下に踏みつけにされていた。そこに先ほどまでの荒々しさはみじんも感じられない。弱々しく、ぐったりと項垂れている。
天狗が勝鬨の咆哮を挙げ、それに合わせて、周囲の人々から、わぁっ、と言う喚声と拍手が沸き起こった。私もその波につられて拍手をする。充を見ると、よほど必死で叩いていたのか、額に大粒の汗をかき、肩で大きく息をしていた。でも、その顔はとても満足げだ。
「充っ」
その様子に、思わず息子の名前を叫ぶと、充は振り返り、もうすでに散らばりかけている観衆の中に私の姿を見つけ、とびきりの笑顔で駆けて来た。それから私の腕に掴まり、
「かあちゃん、なぁ、見てた?見てた?」
と、嬉しそうに、何度も問いかける。
「見てたで、めっちゃ上手になってんなあ」
「うん、でも、やっぱり五年生やから、こうちゃんが一番上手やねん。だけどな、ゆうまくんやたけしくんよりは、僕の方が上手やって、じいじが言うてたで」
得意そうに、鼻の穴をぷうっと膨らませて、胸を張る。父も充たちと一緒に、お囃子衆の一員として笛を吹いていて、自分の稽古の合間に子供たちに太鼓を教えているのだ。父を見ると、充の大きな声が耳に届いたのだろうか、しまったなぁ、というような面持ちで、頭を掻きつつ、苦笑いをしていた。
「さあさあ、瑶子も充も天狗さんに邪を払ってもらって、お獅子に頭噛んでもらわないかんよ、今年も健康でいられますようにって」
「うん!」
大好きなばあばに手を引かれ、充が天狗と獅子へと近づいていく。私も、慌ててその後を追った。
「お母さん、今年は誰がお獅子やってはんの?」
二人に追いつくと、私は、母に聞いてみた。今年の獅子の中には、誰が入っているのか。それをどうしても知りたい。
「さあ、誰やったかな」
母は、そんなこと大した問題でもないと言いたげに、言葉を濁す。というよりも、むしろ、それにはまったく興味がないようだった。
「誰やったかって」
さらに、答えを求める娘に対し、母は無視を決め込んだのか、聞く耳持たず、歩を早める。質問の答えを一切貰えぬまま、そうこうしているうちに、私たちは天狗と獅子の前に辿り着いた。天狗は、毎年村の男性の中でも小柄な人が演じている。今年は、
「久しぶりやな、瑶子」
どうやら、私の知り合いのようだった。
「その声は、もしかして、力くん?」
肯定の返事の代わりに、頭の上で軍配と剣を強く叩き合わされる。これで、邪を払うのだ。何も頭には触れないので、もちろん痛くはないのだが、ガキ大将であった力くんがそれをやっているということと、頭の上で大きな音がするということが、私の中の恐怖心をいっそう煽った。
充はといえば、お囃子の仲間だということもあってか、天狗の隣にいる獅子にまったく怖気づくこともなく、天狗、力くんに絡んでいる。力くんは、やりにくそうに、それでも何とか母と充の頭の上でも、剣と軍配を振った。
「さあ、次はお獅子」
獅子は頭の上で、二、三度、歯で空をガチガチと噛み、邪を食べる。充は目をキラキラさせながら、母にされるがまま、まるで操り人形のように、獅子の前に頭を持っていった。その様子は、あまりにも無防備で、無邪気で。
背中がゾクリとした。何かイヤな予感。
既視感、デジャブ、見たことある、こんな風景。
そのとき、私の脳裏に、一人の少年の顔と名前が浮かんだ。
「崇」
その名前を、口にする。
獅子が、大きく口を開いた。そして、そのまま大きな口は、少年の、崇の頭を飲み込む。
私が、あっ、と叫んだ時には、時既に遅く、崇の頭はすでに獅子の口の中だった。
獅子は、首の骨を砕き、頭を食いちぎる。
がり。
ごりり。
がりごりり。
骨を砕く音、肉を咀嚼する音、が響く。獅子の口の端から、赤黒い液体が滲み出し、唐獅子模様をどす黒く染めていった。支えるものがなくなった身体は、頭を獅子の口の中に残したまま、どさり、力なく地面に落ちる。
「いやぁぁぁぁあっ!」
私は、獅子から崇を奪いとった。あの時は、恐怖心に全身を囚われ、何もできなかったけれど。大人になった今だったら、きっと、きっと崇を助けることができる。そう、今だったら。
「崇、崇っ」
私は、腕の中の小さな大切なものを、強く抱きしめた。ああ、あたたかい。大丈夫、大丈夫だからね。
「かあちゃん?」
そう呼ばれ、腕の中を覗く。そこには、崇(誰、その子は?)ではなく、愛しい息子、充がいた。不思議そうな顔をして、じっと私を見つめている。
「かあちゃん、僕、充や。崇、ちゃうで。どないしたん?」
響くのは、当然、充の声。
「どうしたん、瑶子」
驚いたような母の声。
「何してんの、瑶子」
からかうような声。これは、力くんだろうか。
「ひどいなぁ、瑶子ちゃん、いくら昔から獅子が嫌いだからって」
笑いながら、獅子の頭の下から、見知った近所のおじさんが顔を出した。
私の周りで皆が笑っている。瑶子ちゃん、瑶子ちゃん、私の名前を口にする。誰も彼も知っている顔。
充の首元に手をやった。首に触られることが嫌いな充が、身を捩って笑う。もちろん、首と胴はくっついている。噛み切られた傷なんて、あろうはずもない。
じゃあ、さっき私が見たのは何?そして、誰、崇って?
自分で口にしたはずの名前に、私は覚えがなかった。
「瑶子、疲れてるんやないの?今日はもう帰ろうかね」
母に促されて、ゆっくりと立ち上がる。くらり、眩暈がした。帰る、そう家に帰らなきゃ。
「じゃあ、また、明日な、かあちゃん」
充が手を振りながら、社の中へと消えていく。
「じゃあね、また明日ね、おねえちゃん」
崇が手を振りながら、社の中へと消えていく。
充、崇、ふたりの姿が重なった。
崇!そう、私の弟だ!
私の脳裏に、さっきの少年の顔が浮かぶ。
おねえちゃん、おねえちゃん。
私を呼ぶ声が、何度も頭の中でこだました。
どうして、忘れていたのだろう。たった一人の大切な弟だったのに。
もう二十年以上も昔のことだ。
私には、崇という名の弟がいた。充と同じように、神楽太鼓が大好きだった。だが、奉納祭の夜、突然、いなくなってしまった。いわゆる、行方不明というやつだ。だが、どうして、どうやっていなくなってしまったのか、誰にも分からない。まるで、神隠しにでもあったかのように。まさに、消えてしまったという表現がぴったりだった。何の手がかりもないままに、崇は見つからず、無駄に年月だけが経った。
神隠しにあったんだよ。
可愛いらしい子だったから、神様が連れて行ったんだよ。
母も父も、誰もが諦めるしかなかった。
そのはずだ。
でも。
違う。あれは神隠しなんかじゃない。さっき見た、不気味で信じられないような光景、あれが真実だ。祭の夜、寂しがりやの崇が、母や私と離れ、泣かないで眠っているか気になった私は、こっそり家を抜け出した。そこで見た恐ろしい光景。真っ暗な社の中、窓からぼんやりと入り込む松明の灯りの中で、獅子が崇を頭から食らっていた。そう、あれは、夢なんかじゃない。
私はどうしてそれを忘れていたのだろう。
いや、そうではない。よくよく考えてみれば、おかしなことばかりだ。崇が存在していたという事実がまったく残っていない。
ああ、頭の中がぐちゃぐちゃだ。混乱する。私に弟はいたのか。いなかったのか。夢なのか、現実なのか。
何がなんだかわからない。
でも、私の今の記憶の中に、弟、崇は存在している。
それは、紛(まぎ)れもなく、事実だ。
「お母さん」
私は、真実を確認すべく、横に佇む母の肩を抱き、激しく揺さぶった。
「崇なんだってば!私の弟の!崇、あのとき獅子に食べられちゃったのよ!」
だが、呼びかけにもまったく反応はなく、私のなすがまま、母は力なく、その場に崩れ落ちる。まるで、眠っているかのように。
「母さんっ、起きてっ!今度は、充が」
ガチン。
視界が何か大きなもので遮られ、私は口に出しかけた言葉を飲み込んだ。私の頭の上で獅子が歯をガチガチと鳴らしている。
おじさん、じゃない。誰だ、こいつは。
「そんなことをしても、無駄だ」
「お母さん!お父さん!」
私は、母と父の名を叫んだ。でも、返事はない。いつの間にか、私の周りは真っ暗な闇に包まれていた。叫ぶ声も、その闇の中に消えてしまう。何も見えない。聞こえない。見えるのは、目の前にいる緑と赤の獅子だけ。聞こえるのは、獅子から漏れる、しゅうひゅう、という奇妙な息遣いと、その声だけ。
「だから、無駄だと言っているだろう」
ガチン。
獅子は、もう一度、大きな音で歯をかみ合わせた。歯の奥には、あるべきはずの人の顔はなく、いやらしいまでにピンク色の舌と口腔が見える。
バケモノ。
その表現がぴったりだった。私も、食べられてしまうのだろうか。この獅子に、人を喰らう、このバケモノに。
「ぬしひとりが騒ぎたてたところで、どうにかなるものでもない。こうやって、この村は繁栄してきたのだから」
「繁栄?」
私は、オウム返しに、その言葉を呟いた。
「こんなちっぽけな村が何の災害も不況の煽りを受けることもなく栄えている。おかしな話だとは思わぬか」
獅子は、そういうと、下品な声を出して一笑した。
そういうことか。恐怖で消え入りそうになる意識の中で、獅子の台詞を私は妙に冷静に納得していた。
年に一度の氏神奉納祭、神楽太鼓を叩く子供たちは獅子の贄となり、血、骨、肉を捧げるために存在するのだ。そう、三日三晩。そして、その代償として、この村は永遠なる繁栄を約束される。
「崇を食べたの?」
声が掠れた。
「ああ、お前はあれの姉か。そういえば、まれにぬしのように、われの存在に気付きやるものがおるのう」
獅子は、感心したように呟き、
「喰ろうたも、喰ろうてないも、あれの存在をぬししか覚えておらぬ。それが事実だ」
再び、下卑た声で笑った。生臭い息が鼻につく。
それから、私は、恐ろしい事実を確認するために(本当は聞きたくなどない)、獅子に問うた。
「充も食べるの?」
「弟の次は、息子か。せっかく、村を出たというのに、わざわざわれに喰われに戻るとは」
恐怖に震える手を押さえつけ、背筋を伸ばし、ともすれば倒れそうになる中、私は、獅子を睨みつけた。
「充じゃなく、私を食べればいい」
やっとの思いで、その言葉を吐き出す。
「ぬしを喰らえと」
獅子が、今度は馬鹿にしたように笑った。
「代わりに、私を」
「子供は、神に供えられるから、子供なのだ。それから、われは『おのこ』しか喰らわぬ。『おのこ』は、『男(お)の幸(こ)』、『おなご』は『女(お)な業(ご)』じゃ。業が深うて、臭うてかなわん」
いやいやというように、獅子が首を激しく揺らした。五色の飾りが、暗闇の中、美しく舞う。
「それでも、私を」
獅子が首を横に振る。
「充、充、充、充、充」
私は暗闇へと、息子の名を力の限りに叫び続けた。咽喉が裂けるまで、まだ、息子がどこかに存在していることを祈りながら。
充。
ごめんね。
崇。
ごめんね。
咽喉(のど)の奥が熱くなる。鉄の味がした。それでも、私は、狂ったように、息子の名前を叫ぶ。
「充、充、充、充、充」
無駄だと分かっていても、叫ばずにはいられない。愛しい息子の名前を。何度も、何度でも。
「安心しろ、村にも、もちろんぬしにも変わらぬ富を与えてやろう。ぬしも、この村の、私の子なのだから」
獅子は、優しい声で、そう言った。それが、最後だった。
そして、私の意識は、完全に途絶えてしまった。ただ、遠くで獅子の咆哮が聞こえた気がした。
キチキチとバッタが鳴くのを聞きながら、私はバスを待っていた。一時間に一本しかないバス。それを待っている時間を一人で持て余していた。こういうときに一人というのはつくづくつまらない。
「あれ、瑶子、もう帰るんか?」
バスを待っていた私は、幼馴染の力に声をかけられた。
「うん、奉納祭も終わったしね。あ、昨日は天狗、お疲れ様」
「どういたしまして」
「そういえば、力くんのとこ、奥さんおめでたやて聞いてんけど」
「ああ、うん、いいんだか悪いんだか」
頭を掻きながら、力が恥ずかしそうに呟く。
「ええに決まってるやんか。子は鎹って言うし、めっちゃええもんやで」
私は笑いながら、力に言葉を返した。そう、子供はいいものだ。そうに決まっている。
「そう言うけどさ、お前、子供いたっけ?」
「あ、そういえばおれへんかったわ」
何で、子供がいるようなこと言ったんだろう、私。
「でも、俺のとこよりも、お前のとこ、何でも、旦那さん、異例の大出世だって?」
自分の話ばかりでは、分が悪いと思ったのか、急に力が私の話題に話を転換させる。
「誰に聞いてん?」
「おばさん、自慢げに近所に話してるで」
「うん、まあ、せやねんけど」
そう、それは突然のことだった。旦那の直属の上司が急死して、急にそのポストが旦那に回ってきたのだ。来週には、アメリカ支社へ引っ越すことも決まっている。こういうとき、子供もおらず、夫婦二人だと便利だ。身軽に、考えることもなく動ける。そう、二人だと。
ブロロロロ。
時間より五分遅れて、やっとバスの姿が見えた。土煙を上げながら走ってきたバスは、私の前でピタリと止まると、軋むような機械音をたてながらドアを開ける。小さなカバンを二つ抱えると、私はバスに乗り込んだ。そして窓辺の席、力が見える席に腰を下ろす。
「瑶子、またな」
窓の向こうで、力が手を振っていた。
私も力へと手を振る。アメリカに行ってしまえば、当分、帰省することも、ましてや奉納祭に参加することもないだろう。
荷物を足元に置きながら、ふと思うことがあった。そういえば、私は、何のためにここに帰ってきたのだろう。アメリカ栄転は、昨日、突然に決まった話だ。感傷に浸るために、田舎に帰ってきたわけではなかった。そんな疑問が頭を一瞬掠めたけれど、それもすぐに消えてしまう。
壊れかけたスピーカーから、発車のアナウンスが流れる。ほどなくして、バスは出発した。生まれ育った故郷を後にして。私は、後ろを振り向き、懐かしくなるであろう、愛すべき故郷を目に焼き付けようと、じっと見つめた。目の前がぼんやりとかすむ。
かあちゃん。
どこからともなく、子供の声がした。
おねえちゃん。
耳元で、囁くように聞こえる。それは、優しい響きだった。誰の声かは、分からない。知らない。でも、その声は、確かに私へと呼びかけられている声に違いなかった。
気付かないうちに、涙が溢れていた。
遠くなっていく故郷が、涙で滲む。その涙は、いくら拭っても、決して止むことはなかった。
獅子隠し
読後感が、良くないですね(笑)
でも、こうしか書けない。